第25話 もう一度、大空へ

 松島基地を発った実桜と琉青は、まずは電車で仙台市に行き、そこから静岡行きの高速バスに乗った。T‐4に恐怖心を抱いている実桜は、もしかしたら普通の飛行機にも乗れないかもしれない。なので2人は飛行機ではなく、バスに乗って行くことにしたのだ。静岡県の浜松市に着いた2人は、市内のホテルで1泊してから、タクシーで浜松基地に向かった。


「おーい! 藤咲、神矢! こっちだこっち!」


 浜松基地の正門前でタクシーを降りると、待っていた男性自衛官が手を振って2人を出迎えた。闊達な笑顔で走ってきたのは、第31飛行隊の教官、進藤康文3等空佐である。


「武知2佐から話は聞いているよ。できることがあったらなんでも協力するし、困ったことがあったら、遠慮しないで俺に言うんだぞ」

「無理なことを言ってすみません……」

「謝らなくていいぞ。藤咲のお陰で陽太と仲良くなれたんだ。だからこれは恩返しだよ」


 進藤3佐に案内されて、実桜と琉青は基地を歩く。フライトシミュレーターがある部屋の前には、航空学生たちがたむろしていた。ドルフィンライダーの、実桜と琉青が来ると聞きつけて、ひと目見ようと集まったのだろう。やって来た実桜と琉青に気づくと、一斉に歓喜の声が上がった。


「あの人が5番機の神矢さん? いやーん! パンフレットで見るよりも、超イケメンじゃない!」

「マジでヤバイ! 藤咲さん、超可愛いんですけど!」


 興奮した学生たちが2人の周りに集まって来る。入れ替わり立ち替わり、彼らは握手を求めてくるので、さながら航空祭のサイン会のようだった。


「おまえらなにやってるんだ! 2人は遊びに来たんじゃないんだぞ! 握手してもらってる暇があるなら勉強しろー! さっさと帰らないと、全員にピンクカードを食らわすぞ!」


 見るに見かねた進藤3佐が一喝すると、騒いでいた学生たちは、蜘蛛の子を散らすように逃げて行った。進藤3佐が言ったピンクカードとは、最低評価を意味するカードで、絶対にもらいたくない物である。だから学生たちは急いで逃げて行ったのだ。


「騒がしくして悪かったな。あいつらはドルフィンライダーに会えて嬉しかったんだよ。だから大目に見てやってくれ」


 実桜たちに謝った進藤3佐がドアを開けた。広い部屋の中には、2台のフライトシミュレーターが置かれている。

 1台のシミュレーターは1人乗りの単座型で、もう1台は2人乗りの複座型だ。進藤3佐に操作方法を教えてもらい、実桜は単座型のシミュレーターの座席に座った。


「俺は教官室にいるから。なにかあったら遠慮せずに呼ぶんだぞ」

「はい。ありがとうございます」


 「頑張ってな」と実桜に言った進藤3佐は、見守るように控える琉青にも声をかけて立ち去った。座り直した実桜は画面に視線を向ける。場所は基地の滑走路で、3DのT‐4が画面の中で待機していた。


「それじゃあ始めるぞ。まずは離陸して着陸する、タッチアンドゴーを何回かやろう」


 横に来た琉青に頷いた実桜は、左手のスロットルレバーを押し上げた。T‐4が動き出すと、シミュレーターの座席も連動して揺れ動く。だけれどその揺れがいけなかった。座席が揺れたとき、事故の記憶が蘇り、動揺した実桜の手元は狂ってしまったのだ。


(だめっ――!! ぶつかっちゃう!!)


 前方に建物が見える。実桜は咄嗟に操縦桿を倒して、ラダーペダルを思いきり踏んだ。カースタントのドリフトさながらに、大きく曲がったT‐4は、草地の所で停止する。――危なかった。咄嗟に舵を切っていなかったら、今頃T‐4は建物に突っこんでいただろう。


「おい! 大丈夫か!?」

「はっ……はい……」


 実桜の心臓は狂ったように脈打っている。シミュレーターだからよかったものの、ここが本物の基地だったなら、大惨事になっていたかもしれない。そう思うと身体が自然に震えた。


「少し休憩しよう。無理しないほうが――」

「いいえ、大丈夫です! もう1回やらせてください!」


 今度こそ飛んでみせる。気合いを入れて、実桜はもう一度T‐4を発進させた。だけれど次もだめだった。座席が揺れるとフラッシュバックが起こり、手が動かなくなってしまうのだ。何回やっても結果は同じで、実桜は一度もT‐4を飛ばすことができなかった。


(シミュレーターでもわたしは飛べないの? 絶対に飛べるようになって松島に戻るって、みんなに約束したのに――!)


 目を閉じた実桜は、手が白くなるまで操縦桿を握り締める。飛べない焦りと悔しさ、そして苛立ちが爆発しそうだ。

 心は飛びたいと渇望しているのに、身体がまったく言うことを聞いてくれない。まるで心と身体の歯車が、互い違いに動いているようだ。固く決意してきたのに――実桜の心はいまにも折れてしまいそうだった。


「――あきらめるな」


 琉青の涼やかな声が実桜の耳に響く。操縦桿を握り締める実桜の手に、大きくて温かい物がかぶさってくる。目を開けてみると、かぶさっていたのは琉青の手で、彼は真っ直ぐに実桜を見つめていた。


「大丈夫だ。藤咲なら絶対に飛べる。おまえの心は恐怖なんかに負けはしない。みんなが松島で待ってる、おまえが6番機で飛ぶ日を、俺もみんなも楽しみにしているんだ。だから飛べるようになって松島に帰ろう」


 まさに不思議だった。琉青の言葉が響いたとき、焦りや苛立ちは引き潮のように、遠く彼方に引いていったのだ。飛べるようになって松島に戻ると、実桜はみんなに約束した。そしてみんなが自分を信じて待ってくれている。胸に湧き上がった強い思いが、折れかけていた実桜の心を奮い立たせた。


 琉青と力強く頷きを交わして、画面に向き直った実桜は、再び機体を発進させた。座席の振動で身体が固まり、操縦を誤った機体が針路を大きく外れても、実桜は立ち止まらない。実桜の胸には琉青の言葉が刻まれている。胸に刻まれたその言葉が、実桜の背中を前に押してくれるのだ。


(わたしは絶対にあきらめない! わたしを信じて待ってくれているみんなのために、絶対に飛んでみせる! 大空を目指して――真っ直ぐに駆け上がるんだ!)


 思いと言葉を胸に実桜は挑み続ける。そして何度目かの挑戦のときだった。座席が揺れても実桜の身体は硬直しなかったのだ。

 実桜の右手は操縦桿を握り締め、T‐4は真っ直ぐに滑走路を走っている。いまなら飛べる――! 実桜が確信したその瞬間、琉青の声が響き渡った。


「いまだ! 操縦桿を引け! クリアード・フォー・テイクオフ!」

「はい! ブルーインパルス・ゼロシックス、クリアード・フォー・テイクオフ!」


 実桜は思いきり操縦桿を引いた。管制塔や隊舎など地上の建物が、矢のように視界の外へ流れていく。地上の景色は完全に消え去って、実桜が見ているシミュレーターの画面は、空の青でいっぱいに満たされた。それはまさに実桜が空を飛んだ瞬間だった。


(えっ……? わたし――空を飛んだ……?)


 大きく旋回して着陸したあと、実桜は茫然自失としていた。

 ――空を飛べたのが信じられない。きっと自分は夢を見ているのだ。そう疑った実桜は頬をつねってみる。頬が痛いのは現実だという証拠。つまりこれは夢ではない。夢じゃないと理解した瞬間、喜びが一気にあふれ出した。


「飛んだ――! 神矢さん! わたし、飛びました! 飛びましたよ! 勝ったんです! わたしは――自分の中の恐怖に勝ったんです!」

「――っ!? おっ、おい馬鹿! なにやってるんだよ! 危ないだろ!」


 身体を後ろに反らした琉青が慌てふためいた。座席から身を乗り出した実桜が、両手を伸ばして琉青に抱きついたからだ。

 喜びで頭がいっぱいになっていて、実桜は慌てふためく琉青に気づかない。嘆息した琉青は苦笑すると、無邪気に喜ぶ実桜に声をかけた。


「嬉しいのは分かるけど、そろそろ離れてくれないか?」

「えっ――?」


 ここでようやく実桜は我に返った。両目をぱちくりして上を見ると、苦笑する琉青と目が合った。

 いま実桜は琉青に抱きついていて、おまけに2人の距離はかなり近い。下手をすると唇が触れ合いそうである。慌てて離れた実桜の顔は、耳の先まで真っ赤に色づいていた。


「すっ……すみません……嬉しすぎてつい……」


 顔を真っ赤にした実桜が謝ると、琉青はふっと顔をほころばせた。


「嬉しいのは俺も同じだよ。でも喜ぶのはまだ早いぞ。おまえはまだ1回しか、成功していないんだからな」

「――はい! 練習あるのみですね! わたし、頑張ります!」


 琉青と一緒に活路を切り開いた実桜は、力強く操縦桿を握り締める。実桜の顔に暗い影はない。初めて松島基地にやって来た日のように、実桜の顔と瞳は明るく輝いていた。

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