第23話 悲しみの夜明け

 それからも実桜の身体の異変は続いた。T‐4に乗ろうとすると、実桜はパニックや過呼吸を起こすようになり、酷いときにはその場で吐いてしまったのである。さらには一睡もできない夜が続き、実桜は心身ともに衰弱していった。心配した琉青に強く言われて、実桜は病院に行くことにした。


 琉青に付き添われて、病院で医師の診察を受けた実桜は、心的外傷後ストレス障害――PTSDだと診断された。あのパニックや身体の震えは、すべてPTSDが引き起こしたものだったのだ。飛べなくなった実桜が、当然訓練などできるはずもなく、しばらくは事務仕事をするようにと、武知2佐に言われたのだった。


 ブルーインパルスは航空自衛隊の顔とも言える存在。事故を起こせば航空自衛隊全体が問題視されて、当然ブルーインパルスの存在も危険視される。だから事故を未然に防ぐことこそがなによりも重要だ。事故の原因を未然に防ぎ、そして国民とパイロットの命を守る。それが部隊を率いる飛行隊長の責任と使命なのだから。


 実桜がT‐4に乗れなくなった話は、いつしか基地中に広まって、鳴り物入りで来たくせにと、実桜の陰口を叩く者も出始めた。自分の陰口を耳にしても、実桜は一言も反論しなかった。乗れなくなった話は事実なのだから。


 そうだ――飛べない自分はなんの役にも立たない。部隊に必要ない存在なんだ――。そんな虚無感と絶望感が実桜の心を蝕んでいく。こうして絶望感と虚無感は、実桜の心を完全に蝕んで、彼女に悲愴な決断をさせたのである。


「部隊を辞めたい、だって――?」

「――はい」


 驚く武知2佐に頷いた実桜は、1枚の茶封筒を机の上に置いた。封筒には【離隊願い】と書いてある。封筒を手に取った武知2佐は、驚きをさらに深めた顔で実桜を見た。


「ドルフィンライダーになるのがおまえの夢だったんだろう? それなのに――いったいどうして部隊を辞めたいんだ? 理由を聞かせてくれないか」


 武知2佐に訊かれても、実桜はすぐに答えられなかった。だけれど辞めるときには、理由を言うのが世間一般の常識だ。心が痛むのを我慢して実桜は口を開いた。


「わたしは――飛行機に乗れなくなりました。このまま部隊にいても、みんなに迷惑をかけるだけです。ドルフィンライダーになりたい人は――わたしの代わりはたくさんいる。飛べないわたしは、部隊に必要ない人間なんです。お願いします、隊長。わたしはもう……ブルーインパルスにいたくない、いられないんです」


 両目に涙が滲むのを感じた実桜は、顔を伏せて拳を握り締めた。実桜の頬を伝う涙を見たのだろう。武知2佐は表情を硬くしている。数分間の重苦しい沈黙のあと、武知2佐が口を開いた。


「――分かった。離隊願いはもらっておこう。だがいますぐにというわけにはいかないぞ。いろいろと手続きが必要だからな」

「……はい。ありがとうございます」


 ここにいたら引き留められそうな気がして、実桜は足早に隊長室を出た。飛行隊隊舎の外に出て見上げた空は、とても青くて綺麗だ。なぜだろう――実桜は急に6番機を見たくなった。今日の仕事は終わったから、見に行っても文句は言われないだろう。


 午後の訓練が終わった駐機場はがらんどうで、実桜のほかは誰もいなかった。誰もいないほうが実桜には都合がいい。整備点検は終わったみたいで、T‐4は格納庫に入れられている。誰もいないのを確かめてから、実桜は格納庫の中に入った。


 7機のT‐4は静かに翼を休めていた。実桜は機体の間を歩いて6番機の前に立った。磨かれた機体には、変わり果てた実桜の顔が映っている。目の下に青黒い隈をつくり、頬がこけたその顔は、とても自分の顔とは思えない。まるで死神のようだった。


「――どういうつもりだよ」


 低い声が実桜の後ろから聞こえた。実桜が振り返るとそこには琉青が立っていた。目尻を険しく吊り上げた琉青は、一気に殺気立っており、業火のような激しい怒りを、全身にみなぎらせている。怒りをみなぎらせたまま、琉青が実桜に詰め寄ってきた。


「部隊を辞めたいって隊長に言ったそうだな。おまけにご丁寧に離隊願いも渡したって? 最終検定フライトまであと少しなのに、どうしてそんな馬鹿なことをしたんだよ」


 理由なら知っているくせに、どうして琉青は知らない振りをするのか。なんだか腹立たしくなって、実桜は黙ったままでいた。


「T‐4に乗れなくなったからか? それがなんだってんだよ。乗れなくなったなら、また乗れるように頑張ればいいじゃねぇか。乗れなくなっただけで落ちこんで、挙げ句の果てには部隊を辞めるなんて、おまえはとんだ弱虫だな。辞めるならさっさと辞めちまえ。みんなが泣いて引き留めても、俺は絶対に引き留めないからな」


 歯に衣着せない言葉を耳にしたときだ。限界まで張り詰めていた感情の糸が断ち切れた。糸が切れた場所から、怒りの感情が洪水のように押し寄せる。琉青よりも激しい怒りを、全身にまとった実桜は彼を睨みつけた。


「好き勝手なこと言わないで! わたしだって空を飛びたいわよ! でも――T‐4に乗ろうとすると、事故のときの恐怖が蘇って、なにもできなくなるの! ドルフィンライダーになりたいパイロットはたくさんいる、わたしの代わりなんて、探せばいくらでもいるって言ったのは神矢さんじゃない! 飛べないわたしは、ブルーインパルスに必要ないのよ!」


 悲痛な思いを叫んだ実桜は琉青に詰め寄ると、握り締めた拳で彼の胸を何度も叩いた。琉青は黙って実桜の拳を受けとめていたけれど、唐突に彼女の手首を掴んだ。


「――ああ、俺は確かにそう言ったよ。でもいまは違う。おまえの代わりなんて誰もいない。俺は他の誰でもないおまえと、デュアルソロを飛びたいんだ」


 驚く実桜を琉青が真っ直ぐに見つめる。


「俺たちが知っている藤咲実桜はな、馬鹿みたいに真っ直ぐで一生懸命で、壁にぶつかって悩むことがあっても、絶対に逃げ出さない強い女性だ。あのときおまえは、自分を信じて空を飛ぶって言ったじゃないか。おまえの夢も信念も、勇輝さんへの思いも、こんなところで終わらせたらだめだ」


 琉青の言葉が実桜の心を覆っていた硬い壁を打ち砕いた。砕かれた壁の向こう側から、希望の光が差しこんだように思えた。

 あふれた涙で瞼が膨らみ、視界が水浸しになる。あふれたのは涙だけじゃない。押しこめていた思いが、実桜の口から一気にあふれ出た。


「わたしは空を飛びたい! ブルーインパルスのみんなと空を飛びたい! 父さんに憧れて、夢だったドルフィンライダーになって、頑張って最終検定まできたの! だからこんなところであきらめたくない! 終わらせたくないんですっ――!」


 言いたいことはまだたくさんあるのに、出てくるのは嗚咽ばかりだ。琉青は思いは伝わったというふうに、実桜に頷いてみせた。


「おまえが飛べるようになるまで、俺たちが――俺が全力で支えてやる。だから一緒に頑張ろう。これからは全部1人で抱えこむんじゃないぞ。おまえは独りじゃないんだからな」


 温かな優しさを帯びた琉青の声が、傷ついた実桜の心を癒やすように慰撫していく。固く尖っていた実桜の心は、静かに溶けて穏やかになっていき、やがて悲しみの夜明けが訪れたのだった。

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