第21話 笑顔で迎えてほしいんだ

 散り散りに消えていた意識が戻ったとき、実桜は白いベッドに寝かされていた。部屋の右側に小さな冷蔵庫、左側には長椅子とテーブルが置かれている。窓から差す暖かそうな木漏れ日が、リノリウムの床に模様を作っていた。


 装具とパイロットスーツは脱がされていて、実桜はバスローブのような服を着ていた。これは入院患者が着る服だ。

 ということは――ここは病院なのだろうか。身体を起こしてぼんやりしていると、静かに部屋のドアが開いて、花を生けた花瓶を持った男性が入って来た。


 部屋に入って来たのは、スタジャンとジーンズ姿の江波1尉だった。

 実桜の目覚めがよっぽど衝撃だったらしい。あんぐりと口を開けた江波1尉は、その場に棒立ちしている。ややあって我に返った江波1尉は、花瓶を持ったまま慌てて部屋を飛び出していった。


「ここは病院だぞ! 静かにしないか!」

「たっ、たっ、大変です! 藤咲が――目を覚ましました!」

「なんだって――!? 江波! おまえは医者を呼んでこい!」


 慌ただしい足音が廊下を走ってきて、5人の屈強な男性が部屋に入って来た。実桜は全員の顔を知っている。彼らは第11飛行隊のパイロットだ。そのなかの1人――武知2佐がベッドの側に来て、心から安堵した顔で実桜を見下ろした。


「よかった――目を覚ましてくれて安心したよ。江波がいま医者を呼びに行ったからな」


「ここはどこですか? わたしはどうなったんですか?」


「ここは仙台市内の病院だ。おまえはバードストライクを起こしたんだよ。エンジンの吸気口に鳥が吸いこまれて、エンジンが爆発したらしい」


 武知2佐が実桜の質問に答えたときだ。勢いよくドアが開けられて、1人の青年が部屋に飛びこんできた。

 パイロットスーツの上に、フライトジャンパーを着た青年は、宮崎にいるはずの琉青だ。琉青の端正な顔は青ざめていて、化石のように強張っていた。


「神矢さん……? 来週末に帰ってくるって聞いたのに、どうしてここに?」

「おまえが事故を起こしたって聞いて、訓練を中止して急いで戻って来たんだよ。怪我をしたのか? 詳しい検査は受けたのか? 事故の原因はなんなんだ?」


 実桜の肩を強く掴んだ琉青は、矢継ぎ早に質問してきた。実桜は事故を起こしたあと、すぐに意識を失ってしまったので、残念ながらなにひとつ覚えていない。だから琉青の質問には答えられなかった。


「落ち着けよ神矢。藤咲は目を覚ましたばかりなんだぞ。いきなり質問されて、答えられるわけないだろ」


 飯島1尉に注意されると、琉青は気持ちを落ち着けるように、大きく息を吐き出した。


「――そうですよね、騒がしくしてすみません。……外に行って頭を冷やしてきます」


 琉青は病室から出て行った。出て行った琉青と入れ替わるように、江波1尉が医師と看護師を連れて戻って来る。武知2佐たちを下がらせた医師と看護師は、簡単な診察と問診を実桜に始めた。


 医師の診断によると、実桜の怪我は軽い打撲と裂傷だけで、幸い命に別状はないそうだ。それに実桜は5日間も眠り続けていたらしい。だから武知2佐たちは、実桜が目を覚ましたとき、廊下で大騒ぎしたのだ。


「異常はないと思いますが……念のためにMRI検査をしてみましょう。彼女に付き添われる方はいますか?」


 実桜の問診を終えた医師が、武知2佐たちを見回して尋ねる。医師の質問に答えたのは武知2佐だった。


「私が付き添います。みんなは先に帰っていいぞ」


「付き添いなら僕がします。事故調査委員会の聴取、待ってもらっているんでしょう? これいじょう待たせると、上層部にうるさく言われますよ」


 朝倉3佐が代わりを申し出たけれど、武知2佐は首を振って断った。


「聴取よりも藤咲の身体のほうが大事だからな。それに最後まで付き添うのが上司の責任だ。だから待たせておけばいいさ。ああ、そうだ。すまんが神矢にも伝えておいてくれ。頼んだぞ」


「――分かりました。それじゃあ僕たちは先に戻ります。なにか訊かれたら、適当に言っておきますよ」


「面倒なことを言ってすまないな」

「いえ、いいんですよ。隊長をサポートするのが、飛行班長の役目ですから」


 朝倉3佐たちと別れた実桜は、看護師が押す車椅子に乗って、検査を受ける部屋に向かう。MRI検査の結果は異常なしで、退院するまでは安静にするようにと、実桜は医師に言われた。無事に検査が終わったので、実桜は武知2佐と病室に戻る。帰りは武知2佐が、病室まで車椅子を押してくれた。


「検査に付き添ってくれて、ありがとうございました。わたしはもう大丈夫ですから、早く事故調査委員会の聴取に行ってください。でないと武知2佐の立場が悪くなってしまいますよ」


「いいか、藤咲。俺がいま大事なのは、自分の立場じゃない。おまえのほうだ。おまえが退院して基地に戻ってくるまで、委員会の聴取は待ってもらう。俺のことはなにも気にするな。身体をゆっくり休めて、元気になることだけを考えるんだぞ」


「――はい」


 実桜の肩を叩くと武知2佐は病室を出て行った。廊下から聞こえる足音が早いのは、やっぱり聴取の件を、気にしているからなのだろうか。

 仮にそうだとしても、さっきの武知2佐の言葉は、本心から出たものだと分かっている。それなのに――実桜の気持ちは重く沈んでいった。


 武知2佐が立ち去ってから、少ししてドアが控えめにノックされた。

 実桜は「どうぞ」と返事をする。病室のドアが開けられて、頭を冷やしに外へ出ていた琉青が入って来た。だけれど琉青はそこから先に進もうとしない。きっと実桜に遠慮しているのだろう。


「そっちに行ってもいいか? 具合が悪いのなら、だめだって言ってくれ」

「いえ……大丈夫です。どうぞ入ってください」


 許可をもらった琉青が、実桜のところにやって来る。折り畳みの椅子を見つけた琉青は、それを持ってくると、開いて実桜の正面に腰かけた。

 なにを話していいのか分からなくて実桜は沈黙する。会話に困っているのは、どうやら琉青も同じようだ。琉青は膝の上に置いた手を、じっと見つめていた。


「検査は大丈夫だったって、いまさっき廊下で隊長から聞いた。これでなんの心配もなく飛べるな。よかったじゃないか」


「――全然よくありません」


 実桜の声を聞いて琉青が表情を硬くした。明るい声の琉青に苛立ちを覚えて、実桜の口調は強くなっていたのだ。


「事故を起こして、みんなに迷惑をかけたのに、よかったなんて思えませんよ。そんなことが分からない馬鹿な女だって、神矢さんは思ってるから、そう言ったんですよね。言わせてもらいますけれど、神矢さん本当は嬉しいんじゃないですか? わたしが目を覚ましたんだから、新田原に戻って訓練の続きができるんですから」


 実桜はベッドのシーツをきつく握り締めた。無神経な琉青への苛立ちと、不甲斐ない自分に対する怒りが、いまにも爆発しそうだ。鬼のような顔をしている気がして、実桜は琉青に見られないように顔を伏せた。


「おまえは――俺が嫌々ながら戻って来たって言いたいのか」


 顔を上げた実桜の目に琉青の顔が映る。琉青の顔も眼差しも激しい怒りに満ちていた。


「――訓練の続きができるから嬉しいだって? 俺は無愛想で冷たい男だから、そんなふうに思われても仕方がないよな。でも俺はそこまで人間のクズじゃねぇんだよ! 病院に運ばれたおまえが目を覚ますまで、俺がどんな気持ちでいたか知らないくせにっ――!」


 実桜に怒鳴った琉青が椅子から立ち上がる。憤懣やるかたない様子の琉青は、まだなにか言いたそうだったけれど、言葉を飲みこんでドアのほうへ歩いて行った。


「待ってください――きゃっ!」


 出て行こうとする琉青を引き留めたくて、実桜は急いでベッドから下りようとした。だけれど思うように身体が動かず、実桜は悲鳴を上げて転げ落ちてしまう。実桜の悲鳴を聞いた琉青が振り返り、慌てた様子で駆け寄ってきた。


「馬鹿! なにやってるんだよ!」


 琉青は実桜を助け起こして抱き上げると、慎重にベッドに運んで寝かせた。実桜の転落で怒りは消え去ったらしい。怒りが消えた琉青の顔には、心配と後悔の色が濃く浮かんでいた。


「大丈夫か? どこも怪我はないか? 5日間も眠っていて、目を覚ましたばかりなんだから無理をするなよ。ああ――でも俺のせいで落ちたんだよな。……怒鳴っちまって悪かった」


「……わたしのほうこそごめんなさい。神矢さんはわたしを心配して来てくれたのに、ひどいことを言ってしまいました。事故を起こしたのは自分のせいなのに、神矢さんに不安や苛立ちをぶつけるなんて、わたしは最低な人間ですね――」


 握り締めた実桜の手が温もりに包まれる。それは琉青の温もりで、彼の大きな手が実桜の手に重ねられていたのだ。


「いいや、おまえは最低な人間じゃない。それは俺もみんなもよく知ってる。なあ、藤咲。おまえは頑張りすぎるところがあるから、神様が少し休めって言っているんだと思う。……だからさ、おまえはなにも心配しないで身体を休めて、1日でも早く元気になってくれよ。俺は松島に戻ったとき、明るくて元気なおまえに、笑顔で出迎えてほしいんだ」


「神矢さん――」


 胸に熱い感情がこみ上げて、実桜はなにも言えなかった。言いたいことは分かっているというふうに、琉青が実桜の手を握り締めた。


「いいからもう休め。おまえが眠るまで側にいるから」

「……はい」


 伸びてきた琉青の手が、実桜の額を優しく撫でる。琉青の温もりで張り詰めていた神経がほどけると、睡魔が一気に押し寄せてきた。未来に待ち受けている、大きな試練を知らないまま、実桜は眠りに落ちていった。

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