第20話 エマージェンシー

 空は今日も明るく青く晴れ渡っていて、眼下に広がる松島湾は、水晶を砕いて撒いたように、日光を反射して輝いている。

 松島湾のあちこちに浮かんでいるのは、仁王島や鐘島などの島嶼とうしょだ。単機飛行訓練を終えた実桜は、観光地としても名高い、松島湾の景色を楽しみながら、松島基地に向かって飛んでいた。


『藤咲さん、今日はご機嫌みたいですね。楽しそうに鼻歌なんか歌っちゃって、なにか嬉しいことでもあったんですか?』


 実桜に話しかけてきたのは、飛行指揮所にいる飛行管理員だ。通称「オペラ」の飛行指揮所とは、在空機に指示を出す場所である。どうやらいつの間にか、指揮所と無線が繋がっていたらしい。それがいつからだったのか、実桜はまったく分からなかった。


『訓練中に鼻歌なんて歌っていませんよ! 気のせいですよ気のせい!』

『そうですよね。変なことを訊いてすみません。今日は海風が強いみたいですから、気をつけて帰ってきてくださいね』


 飛行管理員との通信を終えた実桜は、ほっと安堵の息を吐いた。

 鼻歌なんて歌っていないと言ったけれど、実はそれは真っ赤な嘘である。飛行管理員が言ったとおり、嬉しいことがあったので、実桜は鼻歌を歌ってしまったのだ。よもや聞かれていたとは、夢にも思ってもみなかったけれど、うまく誤魔化せてよかった。


 実桜の嬉しいこととはなんなのか。それは琉青から実桜に届いたメールである。ドキドキしながらメールを開くと、もうすぐ訓練が終わるので、来週末に松島に帰ると書いてあった。

 琉青が松島に帰ってくる――それが実桜の嬉しいことだ。どうして嬉しいのかはよく分からない。だけれど実桜は指折り数えて、彼が帰ってくるのを楽しみに待っていた。


 しばらく飛び続けていると、雲の波が左右に割れて、松島基地の滑走路が見えてきた。海側から基地上空に進入した実桜は、機首を上げて減速しながら、6番機を滑走路に近づける。

 海風は強いけれど、機体の姿勢は安定しているから、無事に着陸できるだろう。実桜が着陸しようとしたそのときだ。なにかが爆ぜる音が鳴り響き、6番機は急激に傾いた。


(えっ――!? いったいなにが起こったの!?)


 実桜はコクピットの外を見やった。6番機は大きく右に傾いていて、エンジンから黒煙が噴き出している。

 どうやらなんらかの原因で、右側のエンジンが爆発したらしい。機体の姿勢を立て直そうにも、なぜだか操縦桿が利かなくて、6番機は傾いたまま、滑走路に向かっていった。


『ブルーインパルス・ゼロシックス、エマージェンシー! 右側のエンジンが爆発! 操縦も利きません! このまま着陸を試みます! 緊急車両の手配をお願いします!』


 自分は航空自衛隊のパイロットだ。だから最大多数の幸福を信じてあきらめない。実桜は最後まで機体を立て直そうとした。だけれど6番機の姿勢は水平に戻らなかった。6番機は姿勢を崩したまま滑走路に着陸すると、右翼を引きずるように走っていった。


 そしてついに6番機は限界を迎えた。無理な姿勢での滑走に、耐えられなくなった右翼が、根元から折れてしまったのだ。

 バランスを崩した6番機は、飛び魚のように跳ねると、横転しながら滑走路から逸れていく。滑走路から大きく外れた草地で、6番機はようやく動きを止めたのだった。


(無事に着陸できなかった……わたし、誰かを傷つけたのかな……? それに6番機を壊しちゃった……きっと……江波さんに怒られるな……)


 逆さまになった6番機のコクピットで、宙吊り状態になりながら実桜は思った。

 意識が朦朧としていく実桜の耳に、緊急事態を知らせるサイレンの音が響き渡る。やがてサイレンの音は、遠く小さくなっていき、実桜の意識は光のない暗闇に落ちていった。

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