第18話 笑顔と心悸
雑誌の取材が終わった数日後。午後の訓練を終えた実桜は、基地の正門前に向かっていた。実桜を呼び出した人物が、そこで待っているからだ。
松島基地の正門を入ってすぐの所には、使われなくなった飛行機が置かれている。実桜を呼び出した人物は、ブルーインパルスが最初に使っていた、F‐86Fを眺めていた。
「お待たせしてすみません」
実桜が声をかけると彼は振り向いた。
「こちらこそ呼び出したりしてすみません。いきなりで驚きましたよね」
振り向いた青年はカメラマンの吉野拓海だ。仕事を終えた拓海は東京には帰らず、仙台市内のホテルに泊まり、いろんな所を観光していたらしい。そして基地を訪ねてきた拓海が、実桜を呼び出したのである。実桜と向き合った拓海は、表情を引き締めて姿勢を正した。
「坂木先輩が失礼な真似をして、すみませんでした。先輩が来るのを待たずに、僕がインタビューをすればよかったですね。ブルーインパルスのみなさんにも、不快な思いをさせてしまって――本当に申し訳ないです。僕からも謝らせてください」
拓海は実桜に頭を下げた。武知2佐に謝られたときと同じように、実桜は首を振った。
「今回のインタビューはいい勉強になりました。自衛隊が好きな人もいれば嫌いな人もいる。そんな当たり前のことを、わたしは忘れていたのかもしれません。実を言うと……ちょっと落ちこみましたけれど、神矢さんが励ましてくれたから、元気になれました。だから気に病まないでください」
実桜が琉青に励まされたと知った拓海は、寂しそうな表情を浮かべた。拓海の表情が変わったのは、ほんの一瞬だったので、実桜は彼の変化には気づかなかった。
「吉野さんはこのあと東京に帰られるんですよね? それで……その……あのときの返事なんですけれど……」
実桜は言葉に詰まった。「あのとき」とは、拓海に告白された夜のことである。実桜が言葉に詰まったのは、拓海に言おうとしている返事が、望んでいるものではないからだ。なかなか言い出せない実桜に、拓海は優しく笑いかけた。
「返事は分かっていますから、無理に言わなくてもいいですよ。きっとあなたのすぐ近くに、素敵な人がいると僕は思うんです。だから彼と出会って幸せになってください。これからも頑張ってください。僕はこれからもずっとブルーインパルスを追いかけます」
実桜に一礼した拓海は、爽やかに微笑んでみせると、正門のほうに歩いて行った。夢をあきらめない強い心を持つ拓海なら、これからも素晴らしい写真を撮り続けるだろう。拓海を見送って、隊舎に戻ろうと振り向いた実桜は、琉青がこちらに歩いて来るのに気づいた。
「神矢さん? どうしたんですか?」
「別にどうもしねぇよ。ちょっと一服したくなっただけだ」
「煙草を吸うのはいいですけど、吸い過ぎは身体によくないですよ。……あれ? でも喫煙場所って向こうですよね。どうしてこっちに来たんですか?」
疑問に思った実桜が尋ねると、なぜか琉青はびくっと動揺した。
「……そこらへんを散歩をしてから一服するんだよ。おまえを呼び出したのって――カメラマンの吉野拓海だよな。東京に帰るまえに、わざわざ吉野はおまえに会いに来たんだろ? 優しい彼氏ができてよかったじゃないか」
「わたしは吉野さんとはお付き合いしてませんよ。確かに吉野さんのことは好きですけれど、友達として好きなんです。わたしだって恋人は欲しいですよ。でもわたしには、6番機のORパイロットになる目標があります。だから6番機のORパイロットになるまでは、恋愛より仕事を優先したいんです」
実桜だって運命の恋というものに憧れはある。だけれどいま実桜は、恋よりも訓練に全力を尽くしたいのだ。さて琉青はなんと言うのだろうか。琉青のことだから、嫌味たっぷりに言ってくるに違いないと実桜は思っていた。
「そうか――。それなら早く恋ができるように、頑張って6番機のORパイロットになれよ」
(ひえっ!? 神矢さんが笑ってる――!?)
実桜はびっくり仰天した。なんと琉青が実桜に笑っていたのである。無理に作った笑顔ではない、自然に浮かべた笑顔だ。信じられないかもしれないけれど、琉青の笑顔は爽やかで魅力的で、実桜の鼓動はロケットのように一気に跳ね上がった。
「ああ――そうだ。言うのを忘れていたけれど、早く隊舎に戻ったほうがいいぜ。江波さんと飯島さんと森村が、今頃抱き合ってるだのキスしてるだの、いろいろと噂してるぞ」
「ええっ!? またあの3人ですか!? 神矢さんも呑気に散歩なんかしてないで、みんなをとめてくださいよ! もうっ! それならもっと早く教えてくれたらいいのに! 神矢さんの意地悪!」
「……人が親切に教えてやったのに、意地悪呼ばわりかよ。まあ、別にいいけどな。俺に文句を言ってる暇があるのなら、早く隊舎に戻れよ。偽の噂が基地中に広まっちまうぜ」
実桜に言った琉青は、口笛を吹きながら歩いて行った。笑顔の次は口笛を吹くだなんて、まさに二重の驚きである。
笑顔と口笛のダブルパンチを食らった実桜は、しばらく面食らっていたけれど、噂話に花を咲かせている、江波1尉たちのことを思い出して慌てて隊舎に走った。
――それにしても分からない。ただ単に琉青の笑顔を見ただけなのに、どうして胸の中を嵐が吹き荒れて、心臓が激しく高鳴ってしまうのだろうか。自分の知らない感情が、心の中を流れていくのを、実桜は微かに感じ取ったのだった。