第17話 最大多数の幸福
次の日の朝。実桜は武知2佐と平山1尉と一緒に、第11飛行隊隊舎の前にいた。
規則違反の罰で立たされているわけではない。駅まで先輩記者を迎えにいった拓海が、来るのを待っているのだ。しばらく待っていると、拓海が男性を連れて隊舎にやって来た。拓海の隣を歩く男性が、昨日来られなかった先輩記者らしい。
「昨日は来られなくてすみません。帝日出版社の坂木祐司と申します」
「第11飛行隊飛行隊長の武知泰我2等空佐です。彼は広報班の平山1尉、彼女が藤咲実桜2等空尉です」
「藤咲実桜2等空尉です。今日はよろしくお願いします」
実桜は坂木祐司と握手を交わした。薄い茶色のサングラスをかけて、無精髭を生やした坂木は、いかにも敏腕記者といった風貌である。
拓海の話によれば、やっぱり坂木は優秀な記者で、社内で賞を貰ったこともあるらしい。簡単に挨拶を終えた実桜たちは、隊舎のブリーフィングルームに向かった。
実桜の取材は武知2佐と平山1尉に、拓海が同席することになっていて、他のみんなは飛行訓練で、いまは基地を留守にしている。1人で取材を受けると思っていたけれど、武知2佐がいてくれるから安心だ。実桜と坂木はお互いの正面の席に座った。
「それでは質問をさせていただきますね。藤咲さんは、どうして航空自衛隊のパイロットになろうと思ったんですか?」
「父の影響です。ブルーインパルスのパイロットだった父に憧れて、わたしも航空自衛隊のパイロットになりたいって思いました。パイロットになったあとは、ブルーインパルスのパイロットを目指していたんですよ。まだ見習いですけれど、父と同じ6番機のパイロットになれたので、とても嬉しいです」
「それはおめでとうございます。親子そろって航空自衛隊のパイロット、それも有名なドルフィンライダーだなんて、本当にすごいですよねー。これはぜひとも記事にしないといけませんよ」
坂木は実桜に笑ってみせた。そのあとも坂木は質問してきたけれど、趣味はなんなのか、休日はなにをしているかなど、ごくありふれた内容のものばかりだった。
「次が最後の質問になります。少々訊きづらい質問になりますが――よろしいですか?」
実桜は武知2佐に視線を向ける。視線を向けられた武知2佐が実桜に頷いた。
「はい。なんでも訊いてください」
実桜が了承したそのときだ。坂木の目が鋭く光ったように見えた。
「あなたのお父さん、藤咲勇輝2等空佐は――確か1年前の松島基地航空祭で、墜落事故を起こして殉職していますよね。怪我人は出なかったようですけれど、一歩間違えたら大惨事じゃないですか。そのことについて、あなたはどう思いますか?」
「えっ――?」
まさに不意打ちだった。坂木に問いかけられた瞬間、実桜は自分の心臓が止まったような気がした。
実桜を見つめる坂木の両目は、獲物を捕捉した肉食獣のようで、この男は危険だと本能が叫んでいる。不意に大きな音が鳴り響く。それは拓海が椅子から立ち上がった音だった。
「先輩! そのことは訊くなって広報室から言われたじゃないですか!」
「おまえは黙ってろ! 記事にしなきゃいいんだよ!」
立ち上がって反論した拓海を黙らせた坂木は、笑みを浮かべて再び実桜のほうを向いた。
「記事に書くつもりはありませんので、答えていただかなくてもいいんですよ。私が調べたところによると、ブルーインパルスは過去に何度も事故を起こしているそうじゃないですか。こんな話をするのも気が引けるんですけど、あなたたちが乗っている飛行機は、私たち国民の血税で購入されているんですよ。危険なアクロバット飛行をする部隊って、本当に必要なんでしょうかね?」
坂木の笑みも言葉も大きな悪意に満ちていた。このとき実桜は気づいた。坂木が取材対象に実桜を指名したのは、彼女に勇輝の事故の質問をするためだったのだ。
坂木は実桜の答えを待っている。坂木に負けたくないけれど、どう答えればいいのか分からない。答えられない実桜を見た坂木は、勝ち誇ったような顔になった。
「――答えなくていいぞ」
いままで沈黙していた武知2佐の声が響く。その声は落ち着いていたけれど、真冬の氷を思わせる冷気を帯びていた。
「そんな無礼な質問に答える必要はない。取材は終わりにしてもらう」
「武知2佐、決めるのは私です。だから勝手に終わらせないでくれませんかね。それに訊かれたくない質問をされたからって、無礼だと言うのはよくないですよ。これが私の仕事なんです」
憮然とした顔で坂木が反論する。けれど武知2佐はまったく動じず、自分を睨みつける坂木と正面から向き合った。
「坂木さん、あなたが仰りたいことはよく分かります。事故を起こした我々を、快く思っていない人たちがいるのは当然です。ですがあの事故を痛ましく思っているのは、私たちも同じです。自衛官の誰もが、仲間を失って国民を傷つけてしまった、辛くて苦しい記憶を、いまも忘れずに抱えているんですよ。それでもブルーインパルスが飛び続けるのは、殉職した仲間たちの思いを背負っているからです。それを分かっていただけますか?」
「しかしですね――」
「――分かりました。取材はこれで終わりにしたいと思います。失礼な質問をして、申し訳ありませんでした」
腑に落ちない様子の坂木を遮ったのは拓海だ。勝手に答えられた坂木は、怒りに満ちた目で拓海を睨みつけた。
「おい! なんでおまえが決めるんだ! 決めるのは俺だぞ!」
「藤咲2佐の事故のことは訊かない。それを条件に僕たちは取材を許されたんですよ。それなのに先輩は事故のことを訊いた。これで出版社の評判と信頼は大きく下がったでしょうね。今日のことが原因で出禁になったらどうするんですか? そうなったら先輩の責任になりますよ。それが嫌なら、いますぐおふたりに謝ってください。謝る気がないというのなら、僕は編集長にすべて話します」
毅然とした態度で拓海は坂木に言い放った。坂木が逡巡しているのは、火を見るよりも明らかだ。記者としてのプライドを取るか、それとも己の保身に走るか、決めかねているのだろう。しばらくして決断した坂木が立ち上がった。
「――武知2佐、藤咲2尉。あなたたちを不快にさせるような質問をして、申し訳ありませんでした」
坂木が実桜と武知2佐に頭を下げた。プライドよりも保身に天秤が傾いたのだ。頭を上げた坂木は、最後の抵抗と言わんばかりに、思いきりドアを強く閉めて出て行った。そして拓海も頭を下げると、坂木を追いかけて部屋から出て行った。
「……やっぱり取材を断るべきだったな。俺の判断ミスで、おまえに辛い思いをさせてしまって、本当にすまなかった」
武知2佐が実桜に謝った。武知2佐の責任ではない。実桜は首を振った。
「いえ、武知2佐のせいじゃありませんよ。油断していたわたしが悪いんです。……あの、外の空気を吸ってきてもいいですか?」
「ああ、構わないぞ。ゆっくりしてこい」
武知2佐に一礼した実桜は隊舎を出る。どこか独りになれる場所はないだろうか。基地を歩き回っていると、実桜はちょうど誰もいない場所を見つけた。赤く塗られたアルミ缶が置かれているから、ここはどうやら喫煙場所のようだ。
そこで立ち止まった実桜は、疲れたように息を吐き出した。胸の動悸は収まったものの、心はまだ激しく動揺している。坂木が投げかけた質問は、いまだに心に動揺を残すほど、実桜に大きな衝撃を与えたということだ。
坂木が言ったとおり、勇輝はすでにこの世を去っている。勇輝が乗る6番機は、サンライズを終えたあと、なぜか海のほうに飛んでいくと、そのまま墜落してしまったのだ。エンジンの停止が墜落の原因で、救難隊に救出されたときの勇輝は、すでに息を引き取っていたらしい。
死者は勇輝だけで、怪我人はひとりも出なかった。墜落事故はメディアが一斉に報じて、新聞の一面や雑誌に掲載されると、非難や抗議の電話とメールが、市ヶ谷の幕僚監部や松島基地に寄せられた。なかには勇輝を誹謗中傷するものもあり、家族の実桜と陽子にも、非難の矛先が向けられたのである。
「――おまえがここにいるなんて意外だな」
ぼんやりと佇む実桜に、喫煙場所にやって来た誰かが声をかけてきた。実桜に声をかけたのは琉青だった。琉青が地上にいるということは、午前の訓練は終わったのだろう。琉青は実桜の隣に来ると、胸ポケットから煙草の箱を出して、口にくわえた1本にライターの火を点けた。
「――災難だったな」
「災難って……なんのことですか?」
「取材のことだよ。嫌なことを訊かれたって隊長から聞いた。断ることもできたのに、おまえが取材を引き受けたのは、航空自衛隊のことを知ってもらうのが、ブルーインパルスの任務だって思ったからなんだろ? 確かに任務は大事だ。けれど――自分のことを考えてもいいと思うぜ」
振り向いた琉青の表情は穏やかで、なにがあったのか俺に話してみろと、実桜に言っているようだった。実桜は坂木に勇輝の事故を訊かれたことを話す。琉青は空に紫煙をくゆらせながら、実桜の話に黙って耳を傾けていた。
「……父さんの事故のことを訊かれたとき、わたしはすぐに答えられなかったんです。確かに父さんは事故を起こしましたし、父さんを悪く言う人たちもいました。けれどわたしは父さんを悪人だとは思っていません。それなのに、父さんは悪くないって答えられなかったのは――心のどこかで父さんが悪いんだって、思ってるからなんじゃないかって。そう思ったら、わたしはなんで空を飛んでいるんだろうって、分からなくなって――」
悲しみが湧き上がってきて実桜は顔を伏せた。勇輝に憧れて、彼と同じ空を飛びたくて、実桜はパイロットを目指した。その思いはいまも変わらないはずなのに――心は大きく揺らいでいる。吸っていた煙草を煙缶の中に放りこむと、琉青は俯く実桜のほうを向いた。
「あのとき藤咲2佐が、どうして海のほうに飛んでいったのか――その理由をおまえは知っているか?」
琉青が実桜に問いかける。理由を知らない実桜は首を振った。
「エンジンが停止したとき、田んぼとか空き地とか、どこか開けた場所に着陸すれば、藤咲2佐は助かったはずだ。でも、もしも着陸に失敗して地面に激突したら、機体の破片が飛び散って、周囲に甚大な被害を出してしまうかもしれない。藤咲2佐はそのことに気づいて、被害を最小限に抑えられる海に向かって、飛んでいったんだ」
いったん言葉をとめた琉青は、呼吸を継ぐと実桜に続きを話した。
「なにが起こってもあきらめずに、あらゆる手段を考えて、最大多数の幸福を目指すのが、航空自衛隊のパイロットだ。そのとおり藤咲2佐は、最期のときまで航空自衛隊のパイロットでありつづけた。もちろん彼を快く思っていない人もいると思う。でも――俺は藤咲2佐を心から尊敬して誇りに思ってる。それは俺だけじゃない。ブルーのみんなだって同じ気持ちだ」
そして琉青は実桜に向けて最後の言葉を紡いだ。
「おまえだって藤咲2佐が好きだから、いまでも憧れているから、航空自衛隊のパイロットになって、ドルフィンライダーを目指したんだろ? だったら自分を信じて、最後まで信念を貫けよ」
琉青の言葉を聞いた実桜は、勇輝の最期の瞬間が見えたような気がした。時間を越えた勇輝の思いが、実桜の心に伝わってくる。そのとき実桜は、揺らいでいた心が、落ち着いていくのを感じた。
「父さんが最期の瞬間に、なにを思っていたのか――分かったような気がします。父さんは、守りたい人たちのことだけを考えていた、きっと自分は助からないって、覚悟したんじゃないかって思うんです。神矢さんが言ったとおり、それでも父さんはあきらめなかった。死を覚悟しても、生きて帰ることをあきらめずに、操縦桿を離さなかったんだと思います」
琉青は実桜の言葉を待っている。琉青を真っ直ぐに見つめて実桜は続けた。
「誰がなんと言おうと、父さんはわたしの憧れの人です。だから――わたしのは心は、もう揺らがないし迷いません。自分を信じてみんなと一緒に空を飛びます」
琉青を見つめる実桜の瞳に迷いはなかった。琉青の言葉に力をもらって、勇輝の思いを感じ取れたから、実桜は迷いを断ち切れたのだ。実桜の決意を聞いた琉青は、満足そうな表情をしていた。
「――煙草も吸い終わったし、そろそろ隊舎に戻るとするか。午後の訓練は参加するんだろ? できなかった午前のぶんまで、厳しく指導するからな。昼飯食って体力つけておけよ」
喫煙場所から出た琉青は、隊舎のほうに歩いて行った。もしかしたら琉青は、煙草を吸いにきたのではなく、実桜が嫌な思いをしたと聞いて、彼女を捜していたのではないだろうか。確証はない。だけれど実桜はそうだと思った。
「神矢さん! ありがとうございました!」
実桜は去って行く琉青に頭を下げる。琉青は振り向かなかったけれど、実桜に向けて片手を挙げてくれた。
心を蝕んでいた暗い気持ちは、気づけばすべて剥がれ落ちていて、見上げた青空のように、実桜の心は清々しさでいっぱいになっていた。