第16話 あなたが好きです
その日の夜。実桜は拓海と一緒に官舎に向かっていた。
雑誌の取材はまだ終わっていない。午後に到着予定だった拓海の先輩記者は、思ったよりも仕事が長引いてしまい、予定を変更して明日来ることになったのだ。なので実桜のインタビューは明日に延期になり、拓海は基地官舎に1泊することになったのである。
「今日はありがとうございました。おまけに飲み会まで開いてくださって、すごく嬉しかったです。会社の飲み会よりも楽しかったですよ。自衛官の人は近寄りがたいって思っていましたけれど、皆さんみたいに気さくな人たちもいるんですね」
拓海が実桜にお礼を言った。拓海が言った飲み会とは、江波1尉主催の【拓海くんを接待するぞ!の会】のことである。言わずもがな飲み会は大盛り上がりで、拓海もみんなと一緒に歌を歌ったり、お皿を持って踊ったりしていた。
「わたしも最初は驚きましたよ。吉野さんもすっかりみんなと仲良くなっていましたね」
「そうですよね。いっそ東京に帰るのをやめて、このままブルーインパルスの隊員になっちゃおうかな……。あっ! もちろん冗談ですよ! 特に神矢さんには言わないでくださいね!」
静寂のなかに実桜と拓海の笑い声が響き渡った。ややあって前方に官舎が見えてくる。官舎の門の前で立ち止まり、実桜は拓海のほうを振り向いた。
「A棟の3階の308号室が吉野さんの部屋です。神矢さんと日鷹さんが同じ階にいますから、なにか困ったことがあったら、おふたりに訊いてください。わたしはここで失礼します。明日までゆっくり休んでくださいね」
「待ってください、藤咲さん」
立ち去ろうとした実桜は拓海に呼びとめられた。実桜に訊きたいことがあるといった表情だ。
だけれど拓海はなかなか話そうとしない。よっぽど訊きにくい内容なのだろう。けれど聞かずに立ち去ることはできない。しばらく待っていると、決心した拓海が口を開いた。
「藤咲さんは――誰か好きな人がいるんですか?」
「えっ……?」
拓海は真っ直ぐに実桜を見つめている。ほのかな月明かりに照らされた拓海の、実桜を見つめる眼差しは、少年のように純粋で真っ直ぐで、嘘や冗談を言っているようには見えない。
――つまり拓海は、本気で実桜に好意を抱いているのだ。秘められていた、拓海の想いを知った瞬間、実桜の頭は戸惑いでいっぱいになった。
「好きな人なんていませんよ。だってわたし、化粧なんて全然しないし、スタイルだってよくないし、筋トレばっかりしているから、か弱くないし、それにご飯もいっぱい食べます。女の子らしくないわたしを好きになる人なんて、絶対にいない――」
実桜の言葉は最後まで続かなかった。素早く動いた拓海に腕を掴まれて、引き寄せられた実桜は、彼の腕に抱かれていたのだ。抑圧の殻を突き破った、実桜への恋慕の思いが、拓海の瞳を燃え上がらせていた。
「そんなことはありません。藤咲さん――実桜さんは素敵な人だ。基地で初めて会ったとき、僕はあなたにひと目惚れしました。屋上であの言葉をかけられたとき、あなたが運命の人だって確信したんです。いまここで返事をくれなんて言いません。これ――僕の電話番号とアドレスです。気持ちが落ち着いてからで構いません。あなたの返事を待っています」
胸に抱いていた実桜を放した拓海は、彼女にメモを渡して一礼すると、官舎の中に入っていった。いま実桜の心臓は騒がしく高鳴っている。出会って間もない拓海に告白されるなんて、夢にも思っていなかったからだ。
「――告白されてよかったな」
「きゃっ!?」
いきなり声をかけられた実桜は驚いた。後ろを振り向いてみると、そこには琉青が立っていた。半袖のTシャツとカーゴパンツを穿き、首にはスポーツタオルを巻いている。とすると琉青は、ランニングが終わって官舎に帰ってきたのだろう。
「もしかして……いまの話、聞いていたんですか?」
「――ああ」
「盗み聞きなんて趣味が悪いじゃないですか。いたならいたって声をかけてくださいよ」
「……好きで盗み聞きしたんじゃねぇよ。お熱い告白の真っ最中だったから、声をかけられなかったんだ。だいたい官舎の前でイチャイチャされていたら、誰も中に入れないだろうが。まったくいい迷惑だぜ」
「うっ……すみません……」
重くて気まずい空気が2人の間に流れる。会話を再開したいけれど、なかなか話題が見つからない。それに琉青の様子はなにか変だった。いつもよりおとなしいというか、元気がないように見えるのだ。実桜よりも先に琉青が口を開いた。
「告白されてよかったじゃないか。あいつ――吉野だったか? おまえとお似合いだと思うぜ」
「そっ――そうですか? 吉野さんは真面目で仕事熱心で優しくて、神矢さんとは大違いですよね。それに吉野さんは努力して夢を叶えたんですよ。すごいと思いませんか? 吉野さんみたいに素敵な人は他にいないし、神矢さんもそう言うのなら、お付き合いしますって言っちゃおうかな」
実桜は冗談のつもりで言った。琉青を引き合いに出したのは、いつもの彼に戻って、痛烈な毒舌を言ってほしかったから。
だけれど琉青は静かに黙ったまま、実桜を見つめている。今夜の琉青は本当に様子が変だ。実桜から視線を外した琉青は、彼女に背中を向けると歩き出した。
「神矢さん? どこに行くんですか?」
「――もう1回走って来る。おまえは明日取材があるんだから、早く寝たほうがいいぞ」
走っていった琉青の足音は、遠く向こうに消えていき、静寂が周囲を包みこんだ。
拓海の愛の告白を、琉青だけには聞かれたくなかったと、思ってしまうのはなぜだろう――。大荒れの海に放り出されたように、実桜の心は激しく揺れていた。