第13話 ざわめく心

 積み重なった雲が浮かぶ空は、すっきりと青く晴れ渡っていて、もうすっかり春から夏の様相だ。西から順番に陰気な梅雨が終わった日本列島は、本格的な夏の季節を迎えようとしていた。


 洗濯日和の青空が広がる松島基地を、実桜は鼻歌を歌いながら歩いていた。今日の実桜の機嫌はとても良かった。なぜなら今日の午前の訓練で、「操縦がうまくなったな!」と、師匠の江波1尉に褒められたからである。ORパイロットになるための道を、実桜はまた一歩進むことができたのだ。


 サンバを踊りたいくらい気分は最高だ。なので今日は苦手な事務仕事がはかどりそうである。実桜が飛行班の部屋に入ると、そこには琉青だけがいた。実桜に背中を向けている琉青は、自分のデスクに座っていて、なにかの雑誌を読んでいるようだった。


 部屋に入って来た実桜に琉青は気づいていない。だとすると琉青は、夢中になって雑誌を読んでいるのだ。

 男子が夢中になる雑誌といったら、「あれ」しか思い当たらない。琉青に気づかれないように、時代劇の盗賊さながらに足音を忍ばせて、実桜は彼の背後に近づくと、大きく息を吸いこんだ。


「なーにーを読んでるんですか神矢さんっ! まさかエッチな本じゃないですよねっ!?」


「うわっ!?」


 実桜の不意打ちを食らった琉青が、驚きの声を上げて持っていた雑誌を床に落とした。実桜は琉青が落とした雑誌を拾い上げる。水着姿のグラビアアイドルが、雑誌の表紙を飾っていると、実桜は思っていたのだが――。


(あれっ……? これって――イーグル?)


 表紙を見た実桜は面食らった。雑誌の表紙に載っていたのは、悩ましげなポーズをしたグラビアアイドルではなく、実桜がよく知る航空自衛隊の戦闘機――F‐15イーグルだったのだ。

 【GUARDIAN WING】という名前の雑誌は知っていた。航空自衛隊や世界各国の空軍、そして防衛に焦点を当てた、初心者から上級者が楽しめるミリタリーマガジンである。予想が大きく外れて、呆気にとられる実桜から、琉青が雑誌を取り返した。


「江波さんや飯島さんならともかく、この俺がエロ本なんて読むわけないだろ。だいたい仕事中に、エロ本を読む馬鹿がどこにいるんだよ。いたら見てみたいぜまったく。おまえの目は節穴か」


「……すみません。夢中になって読んでいたから、てっきりエッチな本だと思ったんです」


 実桜は憮然とする琉青に謝った。男子が夢中になる本=エッチな本だ! という固定観念が、実桜の頭の中に刻まれていたのだ。今後は固定観念にあまり縛られないようにしよう。嘆息した琉青はページをめくると、「見ろ」と言って実桜に雑誌を渡した。


「すごい――」


 実桜の口から感嘆の声が漏れた。琉青が見せたページには、水蒸気の帯を曳きながら、青空に上昇していくイーグルの写真が、ページいっぱいに載っていたのだ。

 本物を間近で見ているような迫力が、写真から伝わってくる。それに雷鳴のようなアフターバーナーの音が、いまにも耳に聞こえてきそうだった。


「……すごいですね、この写真。距離も角度もバッチリで、イーグルの迫力とか格好良さが、まるで基地で本物を見てるみたいに伝わってきますよ。どの距離から、どの角度から撮れば、迫力あるイーグルを写せるのか――カメラマンさんはそれを分かっているような気がします。どんな人なのか会ってみたいですね。神矢さんもそう思いませんか?」


 実桜はページの左下を見やった。そこにはカメラマンの名前が書かれている。カメラマンは【吉野拓海】という男性らしい。

 簡単なプロフィールによると、彼は主に飛行機の写真を撮影しているようだ。こんなふうに、迫力満点の写真を撮れるのだから、きっと彼は飛行機をこよなく愛しているのだろう。


「ふん。俺は別に興味ないね」


 素っ気なく言った琉青は、再び雑誌を読みはじめた。相変わらず協調性のない琉青に、呆れた実桜は嘆息する。実桜が事務作業に取りかかろうとしたときだ。ノックのあとにドアが開いて、武知2佐が部屋に入って来た。


「藤咲。大事な話があるから、ちょっと来てくれないか」


 呼ばれた実桜は武知2佐のあとに続き、いまは無人のブリーフィングルームに入った。座るように言われた実桜は椅子に腰かける。武知2佐の大事な話とはなんなのだろう。武知2佐はいつもより厳しい顔をしているので、上級生に体育館の裏に呼び出されたような気分に実桜はなった。


「昨日、市ヶ谷の広報室から電話があってな、雑誌の特集記事の取材協力をしてほしいそうなんだ。それでだな……藤咲にぜひインタビューさせてくれと、記者が言っているんだが――」


「それは嬉しい話ですけれど――どうしてわたしなんですか? 日鷹さんとか飯島さんとか、優秀なみなさんが、他にいるじゃないですか」


 実桜は武知2佐に疑問を投げかけた。

 実桜はまだ見習いのTRパイロットだ。巣立ちできていない雛のような未熟者の自分が、部隊の先輩たちを差し置いて、雑誌のインタビューを受けるだなんて――。そう思ったから実桜は、素直に喜べなかったのである。少し間を置いてから、武知2佐は理由を話しはじめた。


「空自で初めての女性ドルフィンライダーだから、ぜひとも取材したいそうだ。親父さんもドルフィンライダーだったからな。これなら読者の興味を惹く記事が書けると思ったんだろう。それでどうする? いまは練成訓練で忙しいから、嫌ならそれを理由に断っても構わないぞ。おまえが無理なら、他の誰かに代わってもらうからな」


 武知2佐が出した代替案に実桜は首を振った。


「――いえ、わたし、取材を受けます。少しでも多くの人たちに、航空自衛隊を知ってもらう。それがブルーインパルスの任務ですから」

「……そうか、無理を言ってすまんな。それじゃあよろしく頼むんだぞ。記者が来るのは来週あたりになると思う。詳しい日時が決まったら伝えるよ」

「はい。失礼します」


 武知2佐に一礼した実桜は、ブリーフィングルームをあとにした。廊下を少し歩いて実桜は足を止める。なぜだか分からないけれど、気持ちが落ち着かなかったからだ。


 取材対象に選ばれて浮ついているからではない。気持ちが落ち着かないのは不安のせいだ。晴れていた空が急速に雲に覆われていくように、実桜の胸には不安が広がっていたのである。そして胸を覆う不安は、目に見える形となって、実桜の前に姿を現すのだった。

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