第11話 自衛官の任務とは 2

 明日の本番に備えた事前訓練は無事に終わり、実桜は宿舎に続く道を歩いていた。実桜の足取りは亀のように遅い。満身創痍とまではいかないものの、実桜の全身は鈍痛のせいで、思うように動かなかったのである。


 武知2佐たちは疲れ知らずといった様子で、なかでも師匠の江波1尉は、「もう1回訓練しましょうよ!」と言えるぐらい、元気が有り余っていた。

 それに対して実桜は、後席に乗っていただけなのに、歩くのも辛いという有様である。もっと身体を鍛えないと、みんなには到底ついていけないだろう。


「あの……すみません。10歳ぐらいの子供を見かけませんでしたか?」


 実桜に声をかけてきたのは、40歳ぐらいの女性だった。穏やかな印象の女性で、疲れたような表情をしているけれど、綺麗な顔立ちをしている。――それにしてもどこかで見たような顔だ。しばらく考えこんだあと、実桜は彼女の名前を思い出した。


「もしかしてあなたは――進藤3佐の奥さんの美幸さんですか?」

「えっ? ええ、そうですけれど……」


 美幸は戸惑いと警戒で表情を硬くした。初対面の相手にいきなり名前を呼ばれたら、誰もが警戒するのは当り前だ。実桜が進藤3佐の教え子だったことを話すと、警戒を解いた美幸は表情を柔らかくした。


 切羽詰まった様子なので、実桜は美幸に事情を訊いてみる。美幸の話によると、いつまで待っても翔太が帰ってこないので、いま進藤3佐と一緒に、基地を捜し回っているのだという。実桜に事情を話し終えた美幸は、抑えきれない心配と不安で、いまにも崩れ落ちて泣き出しそうだった。


 琉青の言葉が実桜の耳に蘇る。だけれど実桜は、悲しむ美幸を放っておくことはできなかった。もしも勇輝が実桜と同じ状況だったら、彼は迷わずに美幸を助けるだろう。


 人ひとり助けられないなんて、自分はいったいなんのために自衛官になったのだ。あとで琉青に責められたっていい、自分勝手な行動だと思われてもいい。いまは目の前の彼女を助けたかった。


「わたしも翔太くんを捜すのを手伝います」


 実桜が明瞭とした声で言うと、驚いた美幸は目を丸くした。


「えっ……? いいんですか……?」


「わたしたち自衛官は、国民のみなさんを助けるのが任務です。だから遠慮しないでください。それに進藤3佐が熱心に指導してくれたから、わたしは夢だったブルーインパルスのパイロットになれたんです。ずっと返せなかった恩を、ここで返させてください」


「ありがとうございますっ――」


 涙を浮かべた美幸が実桜に頭を下げた。美幸の疲労の色は濃く、立っているのも辛そうに見える。張り詰めていた気が緩んで、疲れが一気に押し寄せたのだろう。実桜は美幸を近くの隊舎に連れて行き、中にいた隊員に頼んで、しばらく彼女を休ませてもらうことにした。


「翔太くんはわたしが捜しに行きますから、美幸さんは休んでいてくださいね。これはわたしの電話番号です。なにか困ったことがあったら連絡してください」

「いろいろとありがとうございます。少し休んだら、私も翔太を捜しに行きます」


 美幸を残して隊舎を出た実桜は、基地をどこから捜すべきか悩んだ。

 浜松基地は北地区と南地区に分かれている。南地区にはコンビニと床屋に学生寮があるから、北地区よりも人の往来が多いはず。それなら翔太を見た人が何人かいるかもしれない。なので実桜はまず南地区に行ってみることにした。


「――おい」


 実桜が翔太を捜しに行こうとしたそのときだ。後ろから響いた低い声が、歩き出そうとした実桜を呼びとめた。

 この声は彼のものに間違いない。後ろを振り向くのが怖くて、実桜は前を向いたまま固まっていた。もう一度「おい」と呼ばれたので、実桜は恐る恐る振り向いた。


「聞こえてるのならさっさと振り向けよ。おまえ――どこに行くつもりだ?」


 実桜を呼びとめたのは、やっぱり琉青だった。その隣には晴真がいる。呼んだのに無視されたからなのか、琉青は露骨に不機嫌な顔をしていた。翔太を捜しに行くと言ったら、琉青に厳しく反対されるのは確実だ。なにか適当に言ってごまかそう。


「どこに行くつもりだって――宿舎に決まってるじゃないですか。汗びっしょりだから早くシャワーを浴びたいんですよー」


「宿舎はそっちじゃない。そっちに行ったら東門だぞ。わざわざ浜松に来て脱柵するつもりか?」

「脱柵なんてしませんよ! 道を間違えただけです!」


 脱柵とは世間一般で言う脱走のことである。夢見ていたドルフィンライダーになれて、毎日が楽しくて充実しているのに、どうして脱柵しなければいけないのだ。努力して掴んだ幸せを、自分から谷底に投げ捨てるようなものではないか。憤懣する実桜に晴真が話しかけた。


「藤咲。君はいまから翔太くんを捜しに行くんだろう? 俺たちも手伝うよ」

「えっ!? どうして分かったんですか!? それに『俺たち』って――」


 いま晴真は「俺たち」と言った。それはつまり琉青も、手伝ってくれるということなのだろうか。実桜は琉青を見やる。だけれど琉青はそっぽを向いていて、一言も喋ろうとしない。再び嘆息した晴真が、黙秘を続ける琉青の代わりに口を開いた。


「少し前に進藤3佐に会ってね。翔太くんが帰ってこなくて、奥さんと一緒に捜しているって聞いたんだ。それで琉青が言ったんだよ。『もしかしたら藤咲も話を聞いて、子供を捜しに行ってるかもしれない。ひとりじゃ大変だろうから俺たちも手伝うぞ』ってね。まったく……意地悪していないで言えばいいのにな。こいつは昔から素直じゃないんだよ」


「うっ――うるせぇ! 余計なことをベラベラ喋るんじゃねぇよ! いいからさっさと子供を捜しにいくぞ! 俺と藤咲は北地区に行くから、晴真は自転車チャリ借りて南地区に行ってこい!」


「俺を追い払って藤咲とふたりきりになるつもりか? ――いてっ! なにも蹴ることはないだろ! 分かった分かったよ! 南地区に行けばいいんだろ!? 行ってくるからもう蹴らないでくれ!」


 牧羊犬に追い立てられる羊のように、晴真は南地区のほうに走っていった。「行くぞ」と琉青に言われて、実桜は歩き出した彼のあとに続く。40分ほど歩き続けていると、北地区に建っている格納庫の屋根が遠目に見えてきた。


 北地区に着いた実桜と琉青は、飛行隊と気象観測隊に、救難隊や広報班などの隊舎を順番に回り、隊員たちに10歳ぐらいの男の子を見ていないかと尋ねる。だけれど誰も翔太の行方を知らなかった。これだけ捜し回っても見つからないなんて、まるで幽霊を捜しているようだ。


 残るは駐機場だけだ。周囲を注意深く見ながら歩いていると、実桜は格納庫の中に、誰かがいるのに気づいた。

 じっと目を凝らして見てみると、格納庫の中にいるのは、実桜たちが捜していた翔太だと分かった。翔太を見つけた実桜は、琉青の腕を引っ張って彼の足を止めた。


「いきなりなんだよ。トイレか?」

「違いますよ! あそこを見てください! 翔太くんがいるんです!」


 実桜は格納庫を指差す。翔太の姿を見つけた琉青が頷いた。


「あんな所に隠れていたのか。まったく手間をかけさせやがって――逃げられるまえに行くぞ」


 実桜と琉青は翔太のいる格納庫に入った。格納庫に入ってきた2人に気づいた様子もなく、翔太は静かに第1術科学校の、F‐2A戦闘機を見上げていた。


「こんな所にいたのか。ずいぶん捜したんだぞ」


 琉青が声をかけると、やっぱり翔太は驚いたようで、ぎょっとした表情でこちらを振り向いた。


「――なにか用かよ、おっさん」

「……おい。俺はまだ29歳だぞ」


 おっさん呼ばわりされた琉青が、ぎろりと睨んだけれど、翔太は気にせず再びF‐2Aを見上げた。

 翔太の声は相変わらず冷たく尖っていたけれど、彼の横顔はどことなく寂しそうに見える。その横顔を見た実桜は、彼の本当の気持ちが分かったような気がした。


「――ねえ、翔太くん。お姉ちゃんの話を聞いてくれる?」


 実桜は穏やかに声をかけた。拒否されると思ったけれど、意外にも翔太は素直に頷いた。


「優しくしてくれたおじさんが、いきなりお父さんになった。それがあまりにも突然だったから、君はどうしたらいいのか分からなくて、あんなふうに反抗してしまうんだって、わたしは思うの。たとえ血が繋がっていなくても、進藤3佐は心から翔太くんを大切に想ってる。そんな人に出会えるなんて、君は幸せ者だよ。君だって本当は、進藤3佐のことが好きなんだよね?」


 実桜は胸ポケットに入れていた、翔太の落とした写真を取り出した。微笑む進藤3佐と美幸に挟まれて、翔太が立っている写真だ。

 2人に挟まれた翔太は、いまとは違い嬉しそうに笑っている。顔を強張らせた翔太は、実桜からひったくるように写真を受け取った。


「お姉ちゃんはね、父さんに言いたいことが、まだいっぱいあるのに、それを言えなくなっちゃったんだ。いまでも悲しみや苦しみが胸に残ってる。もっと話しをしておけばよかったって、ずっと後悔してる。だからわたしは、自分と同じ悲しい思いと後悔を、翔太くんにさせたくないの」


 翔太からの返事はなかった。翔太は写真をじっと見つめている。実桜の思いは翔太に届かなかったのだろうか――。実桜があきらめかけたそのとき、翔太が固く結んでいた唇をほどいた。


「……結婚するって言われたとき、俺は喜べなかった。あの人に母さんを取られちゃう、俺は捨てられるんじゃないかって、すごく怖くなった。そうしたら、頭の中がグチャグチャになって、あの人にぶつかってたんだ。……お姉ちゃんの言うとおりだよ。俺はあの人が嫌いじゃない、本当は大好きだし尊敬してる。俺さ、あの人みたいに強くて優しくて、大切な家族を守れるパイロットになりたいんだっ――」


 嗚咽が翔太の言葉を断ち切った。写真を抱き締める翔太の瞳には、朝露のような涙が溜まっていて、それはいまにも外にあふれ出しそうだ。実桜は涙をこらえる翔太の前に行き、彼の手を両手で優しく握り締めた。


「それが翔太くんの本当の思いなんだね。それじゃあ、お姉ちゃんたちと一緒に、翔太くんの思いを伝えに行こう。進藤3佐も美幸さんも、翔太くんが帰って来るのを待ってるよ」


 頷いた翔太は実桜に抱きつくと、華奢な肩を震わせながら思いきり泣いた。真摯に翔太を思う実桜の言葉が、複雑に絡み合っていた彼の心の糸をほどいたのだ。

 ――きっとこれで親子の絆は強く固く結ばれて、二度と切れることはないだろう。実桜はそう思いながら、泣き続ける翔太の頭を優しく撫でた。

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