第10話 自衛官の任務とは 1

 松島基地を飛び立った実桜たちが向かったのは、開催地の静浜基地ではなく、静浜基地の西側に位置する、ブルーインパルス生誕の地といわれる浜松基地である。パイロットを目指す航空学生たちは、ウイングマークを得るための最終訓練を、浜松基地で行っているのだ。


 静浜基地は飛行場が狭く、また滑走路が短い。なので実桜たちは浜松基地から離陸して、時間になったら静浜基地上空で、アクロバット飛行をする。そして今回のように、航空祭の会場以外から離陸して展示飛行することを、リモート展示というのだ。


「翔太! 待ちなさいっ!」


「うっせぇ! 俺の親父じゃないくせに、気安く名前を呼ぶな――うわっ!?」

「きゃっ!?」


 事前訓練は午後からなので、実桜は晴真と一緒に、浜松基地の隊員食堂に向かっていた。その道すがら、言い争う声が聞こえてきたかと思うと、いきなり誰かが後ろからぶつかってきた。ぶつかられた衝撃で、バランスを崩した実桜は後ろによろけると、地面に尻餅をついてしまった。


 後ろから実桜にぶつかってきたのは、小学生くらいの男の子だ。倒れた実桜を見た少年は、しまったというような表情になったけれど、追いかけて来た男性に気づくと、慌てて走り去っていった。


「大丈夫か?」

「はっ、はい、なんとか……」


 差し伸べられた晴真の手を握り実桜は起き上がる。硬い地面に打ちつけたお尻が痛いものの、幸いどこも怪我していないようだ。起き上がった実桜は、側の地面になにかが落ちているのに気づいた。


(これは――写真?)


 実桜が見つけて拾ったのは、どこかの遊園地で撮影した写真で、一組の男女と男の子が写っている。恐らくさっきの少年が落とした物だろう。ややあって少年を追いかけていた男性がやって来る。男性は申し訳ないといった面持ちで、実桜に頭を下げた。


「うちの息子がすみません! 怪我はありませんか?」

「あれ? もしかして……進藤3佐じゃないですか?」


 実桜に名前を呼ばれた男性は、しばらく彼女を見つめると、街中で偶然知人と再会したときのように、表情をぱっと明るくした。


「おおー! なんだなんだ藤咲じゃないか! 久しぶりだな!」


 男性が実桜の肩を叩いた。彼は進藤康文3等空佐。実桜が第21飛行隊にいたとき、彼女を指導していた教官である。実桜が晴真を簡単に紹介すると、進藤3佐は彼と握手を交わした。


「それにしても驚きましたよ。どうして浜松にいるんですか?」

「辞令を受けて31飛行隊の教官になったんだ。こんなところで立ち話もなんだから、飯でも食いながら話そうじゃないか。食事代はもちろん俺が奢るからさ」


 ちょうど食堂に行くところだったので、実桜と晴真は進藤3佐の誘いを受けて、浜松基地の隊員食堂に向かった。

 実桜と晴真はカレーライス、進藤3佐はうどん定食を注文する。配膳カウンターで料理を受け取った3人は、いちばん奥の角席に腰かけた。


「さっきの男の子、確か翔太くんでしたよね。息子だって言ってましたけれど、進藤3佐は独身だったはずじゃ――」


 実桜が尋ねてみると、箸を置いた進藤3佐は、2人に左手を掲げて見せた。左手の薬指には銀色の指輪がはめられている。あれは結婚指輪に間違いない。興味津々の実桜と晴真に、質問攻めにされた進藤3佐は、照れ笑いしながら奥さんとの馴れ初めを話し始めた。


 それは1年前のことだ。駅の階段で足を滑らせた女性――美幸を助けたのが、2人の出会いの始まりだった。

 そのとき美幸にひと目惚れした進藤3佐は、彼氏がいないことを先に訊いてから、思いきって電話番号かメールアドレスを交換してほしいと頼んだ。

 だけれど美幸は彼の頼みを断った。なぜなら美幸は離婚したシングルマザーで、今年で9歳になる息子の翔太がいたからである。


 美幸に子供がいることを聞いても、進藤3佐の気持ちは揺らがなかった。

 メールアドレスを交換した2人は、そのあと交際を始めて、初めはぎこちなかった美幸も、進藤3佐の誠実な人柄に惹かれていき、彼の情熱的なプロポーズを、涙を流しながら受け入れた。そして2人は結婚式を挙げて、晴れて夫婦になったというわけだ。


「翔太は生意気盛りなのか、なかなか俺に懐いてくれなくてなー。ほら、男の子って、電車や飛行機を好きな子が多いだろ? それで翔太と仲良くなりたくて、美幸と一緒に浜松に連れて来たんだが、やっぱりうまくいかなかったというわけさ」


 首の後ろを掻いた進藤3佐は寂しそうに苦笑した。なるほど――だからあのとき翔太は、「俺の親父じゃないくせに!」と、進藤3佐に反発していたのだ。


「俺のことよりおまえはどうなんだよ。日鷹1尉はおまえの彼氏なんだろ?」

「えっ!? 違いますよ! 日鷹さんは部隊の先輩で、そんな関係じゃないです!」


 にやにや笑う進藤3佐に、実桜は必死になって否定した。晴真に恋する彩香が、この話を耳にしたら、実桜は間違いなく――いや、確実に恐ろしい目に遭うだろう。助けを求めるように、実桜は晴真に視線を向けたのだが。


「進藤3佐もああ言ってることだし――本当に付き合ってみるか。意外に相性がいいかもしれないぞ」


「ちょっと日鷹さんまで! 冗談はやめてくださいよっ!」 


 ふと実桜は後ろに誰かがやって来た気配を肌で感じた。実桜が気配を感じると同時に、どことなく不機嫌な響きを帯びた涼やかな低音の声が、彼女の頭の上に降ってきた。


「――こいつと晴真が付き合ってるだなんて、馬鹿なことを言わないでくださいよ」


 実桜の後ろに立っていたのは、唐揚げ定食が乗ったトレイを持った仏頂面の琉青だった。おまえは某時代劇の将軍様に仕える御庭番か! とツッコミたくなるような現れ方だ。ちなみに展示飛行をする静浜基地では、唐揚げは「空上げ」と呼ばれていて、候補生たちに人気があるらしい。


 現れた琉青を見た進藤3佐は、実桜と再会したときのように相好を崩した。琉青も進藤3佐に軽く会釈する。どうやら進藤3佐は琉青とも顔見知りらしい。琉青は晴真に無理やり席を替わらせると、実桜の隣の席にどすんと腰かけた。


「なんだなんだ相変わらず無愛想だなー。おまえがブルーのパイロットになったって聞いたときは、びっくりしたよ。友達の輪の中に入れなくて、夜中にめそめそ泣いているんじゃないかって、みんな心配していたんだぞ!」


 琉青はいきなり殴られたように目を丸くした。暗い部屋の隅で体育座りになり、めそめそ泣いている琉青を想像して、実桜は思わず「ぶふっ!」と吹き出してしまった。


 実桜の向かいに座っている晴真も、肩を震わせながら懸命に笑いをこらえている。笑いのツボに入りすぎて、腹筋が崩壊してしまいそうだ。そんな2人を琉青が睨みつけた。


「げらげら笑うんじゃねぇよ! 進藤3佐も人の黒歴史を暴露しないでください!」

「黒歴史って――まさか本当なんですか!?」


 目を丸くした実桜が訊くと、琉青は「しまった!」というような顔になった。自分で自分の首を締める、墓穴を掘るとはまさにこのことだろう。

 実桜と晴真は我慢するのをやめて、進藤3佐と一緒に大爆笑する。どうやら知らぬ存ぜぬを決めこむことにしたらしい。琉青は黙々と唐揚げを食べていた。


「急ぎの用事を思い出したから、先に失礼させてもらうよ。ああ、そうだ。もし翔太を見かけたら、俺が捜してるって伝えておいてくれ」


 席から立ち上がった進藤3佐は、空になった食器を積んだトレイを、カウンター横の返却棚に置くと、急ぎ足で隊員食堂から出ていった。


「進藤3佐と翔太くん、仲良くなれたらいいのに……。なにかできることはないかしら――」


 実桜はぽつりと独りごちた。そんな実桜の独り言に反応したのは琉青である。実桜を睥睨する目は冷ややかだった。


「おまえ、余計なことに首を突っこもうとしてるだろ」


「余計なことじゃないですよ! せっかく家族になれたのに仲良くできないなんて、そんなの悲しいじゃないですか! いろいろと事情があるのかもしれませんけど、わたしはあの2人に仲良くなってほしいんです」


 琉青に反駁した実桜はうつむいた。いま自分が言ったことは、確かに琉青が言ったとおり、余計なことなのかもしれない。

 だけれど実桜は、過去に起きたある出来事で、家族の大切さを痛感している。だから実桜は、どうしてもあの親子の力になりたかったのだ。


「訓練までまだ時間がありますし、わたし、翔太くんを捜しに行ってきます」


 立ち上がろうとした実桜を制止したのは琉青だ。実桜を見つめる琉青は、とても厳粛な面持ちをしていて、いつもとは別人のように見えた。


「2人を仲良くさせたい気持ちは分かる。でも俺たちは、親子を仲直りさせに来たんじゃない、展示飛行のために来たんだ。それに俺たちの事前訓練を待っている人がたくさんいる。もしもおまえが遅れたらどうするんだ? 下手をしたら訓練が中止になるかもしれない。おまえの勝手な行動で、みんなに迷惑がかかるかもしれないんだぞ。見習いパイロットでも、おまえはブルーインパルスの一員なんだからな」


 実桜に言い放った琉青は、食器とトレイを返却棚に置くと、食堂を出て行った。返す言葉も出ない実桜は、その場に呆然と立ちつくしていた。


 琉青の言うことは道理にかなっていた。本番の展示飛行は明日だ。だけれど特別に招待された人たちや、観光ツアーで訪れた人たちが、エアーパークで事前訓練が始まるのを心待ちにしている。だからその人たちの期待を裏切ってはいけない。静浜基地航空祭での展示飛行を成功させる。それが実桜たちに与えられた任務なのだ。


 琉青が言ったことは正しいと分かっている。自衛官として当然の考えだと思っている。事前訓練と展示飛行のことだって、もちろん実桜は忘れていない。だけれど国民を助けるのも、自衛官の任務ではないか――。納得できない気持ちが大きくて、実桜は琉青の言葉を受け入れることができなかった。

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