第9話 浜松基地に展開せよ!
暗い夜から明けたばかりの空が、これからの五月晴れを予感させる、澄んだ青色にゆっくりと変わっていく。翡翠のような緑色に染まった草木の上を、軽やかに駆け抜ける風は、瑞々しい緑の匂いをたっぷりと含んでいて、呼吸をすると身体中が綺麗に洗われるような爽やかさだった。
こういう気持ちのいい晴れた日は、大きく伸びをして、太陽の日差しを身体いっぱいに、浴びたいところだけれど、あいにく今日はそういかなかった。
なぜなら実桜たちブルーインパルスの隊員は、早朝から静浜基地航空祭の準備に追われており、猫の手も借りたいほどの、忙しさが続いていたからだ。
(ううっ……おっ……重いっ……!)
実桜は心の中で唸った。いま実桜が押しているのは、パイロットたちの荷物が積まれたカートだ。このカートを、格納庫まで押していくのが実桜の役目だ。だけれどカートには、荷物が大量に積まれているので、実桜が全力で押しても、少しの距離しか進まないのである。
おまけに実桜は、積みきれなかった荷物を肩に提げている。なので実桜の身体にかかる負担はかなり大きく、まるで象に踏まれているようだ。
それでも実桜はあきらめずに孤軍奮闘していた。だけれど格納庫まで、あともう少しというところで、気力・体力を使い果たした実桜は、完全に燃え尽きてしまったのだった。
「藤咲! 大丈夫か!?」
名前を呼ばれた実桜は顔を上げた。格納庫のほうから走ってきたのは、2番機パイロットの日鷹晴真1等空尉だ。フルマラソンを完走したランナーのように、荒い呼吸をしながら、実桜は「大丈夫です」と晴真に返事をした。
「無理はしないほうがいい。カートは俺が押すよ」
「あっ……ありがとうございます……」
実桜は晴真のあとに続いて格納庫に入った。武知2佐たちと整備員たちが、分担して荷物の集積と梱包をしている。忙しく駆け回る彼らの中になぜか琉青はいない。確か晴真は琉青と同じ官舎に住んでいて、部屋も隣同士だったはず。実桜は晴真に尋ねてみることにした。
「日鷹さん。神矢さんがまだ来ていないようですけれど――」
「そういえば姿が見えないな。もしかしたら……まだ寝てるんじゃないか?」
「まだ寝てる――!? まったくもう! 隊長から何度も言われていたのにサボるなんて! いい加減な人なんだから!」
実桜はアヒルのように唇を尖らせると、琉青への不満を爆発させた。本当なら実桜は、琉青と一緒に荷物を運ぶはずだった。だけれどいつまで待っても琉青が来なかったので、実桜は独りで大量の荷物を運ぶはめになってしまったのだ。
「――いい加減な男で悪かったな」
涼やかな低音の声がすぐ後ろで聞こえた。振り向いてみると、仏頂面の琉青が実桜の後ろに立っている。
琉青が来たら文句を浴びせてやると実桜は思っていた。だけれど琉青の姿を見たその瞬間、実桜は言葉が出なくなってしまったのだ。ぽかんと口を開けたまま、自分を凝視する実桜を見下ろした琉青は、不快だと言わんばかりに眉をしかめた。
「……なんだよその顔は」
「いっ……いえ……その……今度からはちゃんと来てくださいね?」
「……ああ、遅れて悪かった。俺が運んでやるから、さっさと荷物を貸せ」
実桜から荷物を受け取った琉青は、それを軽々と肩に担ぐと、晴真と一緒に武知2佐たちのところに向かい、荷物の集積と梱包作業を始めた。
(思わずドキドキしちゃった……。それにしても破壊力がありすぎよ! 心臓が止まるかと思ったじゃない!)
実桜の心臓は破裂しそうなほど高鳴っていた。心臓ドキドキの原因は琉青である。いま実桜たちが着ているのは、展示飛行やイベントのときなどに着る、「展示服」というダークブルーのパイロットスーツだ。
その展示服を着た琉青が、なんと超絶イケメン男子に変身していた。だから実桜はびっくり仰天してしまい、文句を言うのも忘れて、不覚にも見惚れてしまったというわけだ。
(超イケメンなのに、態度と口が超悪いだなんて、ほんともったいないなぁ……)
こっそりと琉青を見やった実桜は嘆息した。
完璧に整った端正な顔に、贅肉ひとつない均整のとれた八頭身は、間違いなく誰もが嫉妬して羨むだろう。航空祭のサイン会では女子の人気ナンバーワン、噂では自衛隊の広報誌に載ったこともあるらしい。態度と口が超悪いことを、みんなは知らないのだ。
「おい! なにボケッとしてるんだよ! みんな待ってるんだから早く来い!」
「はっ――はいっ!?」
いきなり琉青に呼ばれた実桜は周りを見やった。いつの間にか、格納庫にいるのは実桜だけになっていて、みんなは隊舎の前に整列しているではないか。午前7時になったら、隊舎の前に整列して、隊長の武知2佐に編成完結の報告をするのを忘れていた。実桜は慌てて琉青の隣に並ぶ。すると琉青に軽く頭を小突かれた。
隊舎でプリブリーフィングを終えた実桜たちは、装具一式を身に着けて駐機場に戻り、それぞれの機体に搭乗する。ほかの基地に展開するときは、整備員を後席に乗せるので、予備機を含めた7機のT‐4の座席はすべて満席となった。
「聞いたで聞いたで~実桜ちゃん。最近神矢1尉とずいぶん仲がええそうやね。うらやましいわぁ」
にやにや笑いながら話しかけてきたのは、列線整備員の宮田彩香2等空曹だ。松島基地に赴任するまえは、浜松基地の第31教育飛行隊で、T‐4の整備をしていたらしい。
食堂でたまたま相席になったとき、実桜は彩香から話しかけられた。それからT‐4の話題で盛り上がり、数少ない女性自衛官同士ということもあって、実桜は彼女と仲良くなったのである。
「わたしと神矢さんが……ですか?」
言われてみても思い当たることはないのだけれど。実桜は首を傾げて答えた。
「とぼけたって無駄やで! 2人で一緒にランニングしたり、仲良く筋トレしたりしてるのを、しっかり見た人が大勢いるんや! ……そ・れ・で、実桜ちゃんは神矢1尉と、どこまでいったんや? 手はつないだん? キスはしたん? ――もしかしてエッチも経験済みとか!?」
彩香に言われたそのとき、実桜の顔は耳まで真っ赤に爆発した。まさか琉青に聞かれてはいないだろうか。慌てた実桜は琉青のほうを見やった。琉青は5番機担当の整備員と会話している。話を聞かれた様子はなかったので、実桜は安堵で胸を撫で下ろした。
「ランニングとか筋トレは、たまたま一緒になっただけです! 手もつないでいないし、キスだってしてません! それに、エッ、エッチだなんて! 恋人同士じゃないんだから、そんなことするわけないじゃないですか! 勝手に変な噂をしないでくださいよ!」
実桜は目尻を吊り上げて彩香を睨んだ。だけれど彩香はまったく信じていない。梯子に足をかけた彩香は、相変わらずにやにや笑いながら、実桜のベルトとハーネスを締めている。そこにヘルメットバッグを提げた晴真がやって来た。
「宮田」
「ふっ――ふはひっ!?」
晴真に声をかけられた彩香が、奇妙な声を上げて振り返る。彩香の口から迸った声は、とても奇妙で、肝試しで顔に
「浜松まで君を乗せて飛ぶことになったよ。道中よろしくな」
白い歯を見せて爽やかに微笑んだ晴真は、自分が乗る2番機のほうに歩いて行った。晴真に笑顔を向けられた彩香は、梯子に足をかけたまま呆然としている。心配した実桜が声をかけても、彩香に反応はなかった。
彩香が忘我するのも無理はない。彩香は第11飛行隊に配属されたとき、晴真にひと目惚れして、それからずっと彼に恋心を抱いているのだ。だから晴真の2番機に乗せてもらえるのは、彩香にとって僥倖だといえよう。
「よかったですね、彩香さん――いたっ!」
腰に巻かれたベルトを、いきなりきつく締め上げられた実桜は、苦痛の声を上げた。いきなり強く締めるとは何事か。彩香のほうを見やると、彼女はぶつぶつと呟きながら作業をしていた。
「日鷹1尉の後ろに乗るってことは、浜松まで密室で2人きりってことやんな……。よっしゃ! 日鷹1尉を落とせる絶好のチャンスやないか! ――って、あんたら待たんかい! 日鷹1尉のハーネスとベルトはウチが締めるんやで!」
実桜のベルトとハーネスを締めた彩香は、梯子から飛び下りると、晴真が乗った2番機のほうに突進していった。
他の整備員を追い払った彩香がデレデレしながら、晴真のハーネスを締めているのが見えたので、実桜は思わず苦笑してしまう。夢中になれる男性のいる彩香が、実桜は少し羨ましく思えた。
搭乗準備を終えた実桜たちは、武知2佐からの無線を合図に、同時にキャノピーを閉める。1番機から順番にタキシングで滑走路に向かい、エンジンスタート。さながらファンファーレのように、高いエンジン音を響かせたT‐4は、東のほうから明るい青に染まっていく空に飛び立った。