第8話 新しい第一歩
東のほうからうっすらと、明るくなりはじめた淡い紺色の空には、まだ少しだけ夜の残滓が残っている。早朝の駐機場に並んでいるのは6機のT‐4だ。作業をする整備員の中に混じった実桜は、作業服の袖を二の腕までまくり上げて、5番機の翼の上に乗り、機体磨きをしていた。
主翼・胴体・垂直尾翼と水平尾翼、「平常心!」のステッカーが貼られたキャノピーなど、5番機の隅々を徹底的かつ丹念に、実桜は自分の顔が映るくらいまで、まさに鏡のごとく綺麗に磨きあげていく。5番機の隣にある6番機も、担当の整備員が同じように機体を磨いていた。
「……なにをやっているんだ」
呆れたような声が聞こえたので、実桜は首を捻って後ろを振り向いた。後ろに立っているのは、パイロットスーツを着た琉青だ。機体磨きに熱中していたから、琉青が来ていたことに、実桜は全然気づかなかった。5番機から降りた実桜はすぐに背筋を伸ばした。
「おはようございます! 神矢さん!」
「おはようございます! じゃねぇよ。……おまえ、こんな朝早くから――しかも俺の5番機に、いったいなにをやっているんだ」
「昨日、神矢さんに迷惑をかけてしまったので、5番機の機体磨きをしています!」
琉青に訊かれて実桜は素直に答えた。5番機の座席を汚してしまい、琉青に迷惑をかけてしまった実桜は、自分になにができるかを必死に考えた。
考えに考えぬいた実桜は、5番機の整備担当の整備員に無理を言って、早朝から機体磨きをさせてもらっているのだ。大きく嘆息した琉青は、クレバスのような深い縦皺を眉間に刻んだ。どうやら自分は余計なことをしてしまったらしい。
「機体を整備点検して、綺麗にするのは整備員の仕事で、俺たちパイロットの仕事じゃない。名誉挽回したいのなら、機体磨きをするんじゃなくて、飛行訓練に励んで1日でも早く、6番機のORパイロットに昇格しろ」
「……はい。すみませんでした」
実桜は肩を落として落ちこんだ。琉青に正論を叩きつけられて、ぐうの音も出なかった。
確かに琉青の言うとおりである。機体の整備点検は整備員の仕事であって、パイロットの仕事ではない。自分には6番機のORパイロットになるという、なによりも大事な使命があるではないか。
もしも時間を遡れるのなら、過去の自分に物事の優先順位を間違えるなと、きつく忠告してやりたい思いだ。実桜はさらに峻烈な言葉を浴びせられるのを覚悟した。
「……悪かったな」
「えっ!? 悪かったって――どうして神矢さんがわたしに謝るんですか!?」
いやいや謝りたいのはこちらのほうですけど!? 目を丸くする実桜の前で琉青は続けた。
「昨日はいろいろきつく言って悪かった。……その、なんだ、藤咲2佐の娘がブルーにくるって聞いて戸惑って、どう接したらいいのか、全然分からなかったんだ。だからあれは、おまえが嫌いだから言ったわけじゃない、無理をさせたくなかったんだよ。無理をするな、心配しているんだって、素直に言えばいいのに――これじゃあ嫌われても仕方がないな」
「嫌いじゃありません!」
早朝の駐機場に実桜の声が響き渡る。いきなり大声をぶつけられた琉青は驚いていた。
「神矢さんのことは嫌いじゃありません! だって昨日のことはわたしの落ち度じゃないですか! それに神矢さんは、わたしの憧れの人なんですから、嫌いになるわけありません! あっ! でも憧れているだけで、べつに神矢さんに、恋をしているわけじゃないですよ!? 好きと憧れは全然違いますから!」
――いったい自分はなにを言っているのだ。まるで女子中学生の愛の告白みたいではないか。
「なんだよそれ、支離滅裂じゃねぇか。……つまりおまえは、俺を怒っていないんだな?」
「はい。神矢さんが、わたしを思って言ってくれたのは、分かっていますから」
「そうか」と呟いた琉青は、安堵で胸を撫で下ろしたように、大きく息を吐いた。硬くなっていた表情も和らいでいて、胸につかえていたものが綺麗に取れたような、すっきりとした表情になっている。
――もしかしたら琉青は、実桜に冷たく当たってしまったことを、いままでずっと気に病んでいたのかもしれない。陽子が言っていたとおり、思っていることをなかなか素直に伝えられない、不器用な青年なのだ。実桜は自分と琉青との関係が、少しだけ前進したような気がした。
「あの……神矢さんは父となにかあったんですか? わたしが来るって聞いて戸惑ったのは、父となにかあったから――ですよね? 神矢さんを傷つけるようなことをしたのなら、わたしが父の代わりに謝ります」
実桜が言うと琉青は首を振った。
「違う。藤咲2佐は俺を傷つけるようなことはなにひとつしていない。藤咲2佐は俺の――」
琉青は最後まで言わずに口をつぐんだ。
「……悪い、まだ気持ちの整理ができていないんだ。だからなにがあったのかは――まだ言えそうにない。でも俺は藤咲2佐を尊敬している。それだけは知っておいてくれ」
琉青の表情はとても辛そうだった。言えば苦しみが心を裂くと分かっているのに、琉青がそれを実桜に伝えたのは、勇輝のことで誤解してほしくなかったからなのだと思う。琉青を追求する気はない。勇輝を尊敬していると聞けて実桜は満足だった。
「そういえばわたしたち、ちゃんとした自己紹介をまだしていませんよね。お互い誤解も解けたみたいですし、ここでもう一度やり直しませんか? 先輩後輩としての関係を、ちゃんと築いておきたいですし、それにわたし――神矢さんともっと仲良くなりたいんです」
実桜は琉青を見上げた。腕を組んだ琉青は眉ひとつ動かさず、まるで不動明王のような佇まいで、実桜をじっと見つめている。余計なことを言ってしまったと、実桜が戦々恐々しながら後悔したときだ。実桜の目の前に大きな手が差し出された。
「タックネームはジン、5番機パイロットの神矢琉青1等空尉だ。言っておくが、おまえが女だからって、俺は特別扱いしないからな。覚悟しておけよ」
「はい――! タックネームはチェリーの藤咲実桜2等空尉です! これからよろしくお願いします!」
実桜は琉青の右手と握手すると、彼の指のひとつひとつまで力強く握り締めた。実桜と握手を交わした琉青は、彼女の手を放すと先に隊舎の中に入っていった。琉青と握手できた喜びを抑えられなくて、実桜は満面の笑顔を浮かべて空を見上げた。
やがて東の空は黄金色に輝きはじめて、朝陽が放った巨大な黄金の矢が、暗かった空を明るく照らしていく。きっと今日は快晴になって、絶好の飛行日和になるだろう。そして実桜はいまこの瞬間に、本当の意味での新しい第一歩を、大きく踏み出したのだった。