第7話 いまの自分にできること
冷たい空気に洗われた夜空は、山奥の湖のように澄みきっていて、流れていく雲の形や星の光が明瞭に見える。まるでプラネタリウムのように雄大な夜空だ。空気が汚れている都会では、絶対に見られない奇跡の星空だった。
長い1日を終えた実桜は幹部宿舎の屋上にいた。あのあと武知2佐たちは、わざわざ実桜の様子を見に来てくれて、「もう大丈夫なのか?」や「あまり無理はするなよ」などと、一様に優しい言葉をかけてくれた。
だけれどいまの実桜には、彼らの優しさがひどく辛かった。慰めの言葉をかけられるたびに、実桜は自分の不甲斐なさと、そして自分が女性であることを、強く思い知らされてしまうのだ。やっぱり実桜が女性だから、武知2佐たちは無意識とはいえ、彼女に気を遣ってしまうのかもしれない。
いっそ強い言葉で責めてくれたほうが、気持ちは楽になるのに――。
重く嘆息した実桜は、ポケットからスマートフォンを取り出して、相手の電話番号を打ちこんだ。実桜は星を見ながら、スマートフォンを耳に当てて、回線がつながるのを待つ。数回のコール音のあと回線がつながった。
『はい、藤咲です』
「もしもし、母さん? わたし、実桜よ」
実桜が電話をかけたのは母親の陽子である。実桜が航空自衛隊に入隊した現在は、遠く離れた東京で静かに暮らしているのだ。
『電話なんて久しぶりね。どうしたの?』
「うん……ちょっと母さんの声が聞きたくなって」
『それは嘘。なにか話したいことがあって、電話したんでしょう?』
実桜は言葉を失った。電話をかけた理由を、陽子に言い当てられたからである。
――確かにそのとおりだった。実桜は心に溜まった暗い気持ちを吐き出したかった、誰でもいいから話を聞いてほしかった。だけれど松島基地には友人も家族もいない。だから実桜は陽子に電話をかけたのだ。深呼吸をした実桜は、胸に溜まった重い悩みを陽子に話し始めた。
「部隊にね、ブルーインパルスのエースって呼ばれてる、神矢さんっていう人がいるんだけど、わたしね、神矢さんと一緒に5番機に乗っているとき、後ろで吐いちゃったんだ。わたしの代わりなんて、探せばいくらでもいる。熱意や憧れだけで飛べるほど、ブルーの空は甘くないんだって、そのあと神矢さんに言われたの。……神矢さんが言ったとおり、わたしみたいな未熟なパイロットは、ドルフィンライダーにはなれないんだわ」
電話の向こうの陽子は、ときどき相槌を打ちながら、静かに実桜の話を聞いている。果たして陽子はどういうふうに思っているのだろう。きっと情けなく思っているに違いない。言いたかったことを、全部話し終えた実桜は、陽子の言葉を待った。
『ねえ、実桜。はじめから上手に飛べる人なんていないわ。無理をしないで、いま自分にできることを、少しずつやっていけばいいの。神矢さんは実桜を心配して言ってくれたのよ。彼は不器用な人だから、思わず言葉がきつくなったんじゃないかしら。実桜は立派なドルフィンライダーになれるって、父さんも言っていたじゃない。もちろん私だってそう思っているわ。だからあきらめないで、自分を信じて頑張りなさい』
力強くて優しい陽子の言葉が、傷ついた実桜の心にゆっくりと沁みていく。陽子の言葉が溶けていったあと、朝の光をいっぱいに浴びたときのように、心が晴れやかになっていくのを実桜は感じた。
「……ありがとう、母さん」
『ふふっ。お礼なんていいのよ。久しぶりにあなたの声が聞けて嬉しかったわ。いつでも電話してちょうだいね。楽しみに待ってるから』
電話を切った実桜は夜空を見上げた。自分はまだ最初の一歩を踏み出したばかり。あきらめるには早すぎる。ブルーインパルスのドルフィンで、空を飛ぶのをずっと夢見ていた。そしてついに夢の翼を得ることができた。それに同じ空を飛ぶと勇輝に約束したのだ。だからこんなところで挫けてなんかいられない。
明日を頑張ろうという活力が、軽くなった実桜の心に湧いてくる。気持ちを切り替えた実桜を応援するかのように、見上げる夜空に瞬く星のひとつが、ひときわ強い輝きを放っていた。