第6話 ブルーの空は甘くない
昼間の日射しや空気と、そして空の青に初夏の訪れが感じられるようになった季節。光陰矢の如しという諺のとおり、時間が過ぎるのはとても早く、実桜が第11飛行隊に着隊してから、もうすぐ2ヶ月が経とうとしていた。
実桜は師匠の江波1尉から、6番機の基本的な曲技飛行の操縦操作と、細かなテクニックを教わりつつ、ときには1番機から4番機の後席に乗って、各機と自機が担う役割を、熱心に勉強していた。
練成訓練は順調に進んでいるはずだった。――だけれど実桜は、ある日とんでもない失態をしてしまう。
それは5番機の後席に初めて乗ったときのことだ。予想以上に激しかった5番機の機動に、実桜は気持ち悪くなってしまい、あろうことかコクピットの中で、盛大に吐いてしまったのである。
『なっ――!? おまえ、なにやってるんだよ!』
『ごめんなさい……気分が悪くなって……』
実桜の意識は次第に混濁していき、それからのことは、断片的にしか覚えていなかった。気づけば浮揚感が消えていて、実桜の身体は重くなっていた。さっきまで飛んでいた空が遠く離れて見える。実桜は空から地上に連れ戻されたのだ。
琉青に呼ばれて急いで走ってきた整備員が、機体に梯子を固定した。実桜は震える身体を無理やり動かし、心配そうに見守る整備員の手を借りて、なんとか機体から降りることができた。だけれど地面に立ったその瞬間、ひどい目眩と吐き気が、同時に実桜に襲いかかった。
景色がぐるぐると回り始めた。冷や汗が出て、身体の震えもひどくなっていく。実桜は目眩と吐き気と戦っていたけれど、身体を支えていた両脚が折れてしまい、身体はぐらりと傾いた。
だけれど実桜は地面に倒れなかった。素早く駆け寄ってきた誰かが、地面に倒れる寸前だった、実桜の身体を腕に抱き留めたのだ。
実桜はそのまま横抱きに抱き上げられた。ややあって実桜を抱き上げた人が早足で歩き出す。いったい誰が自分を運んでいるのだろうか。実桜は無理をして上を見やる。ぐるぐると回り続ける、不安定な視界に映ったのは、なんと琉青の端正な横顔だった。まさか琉青に運ばれているなんて――! 焦った実桜は身を起こそうと動いた。
「神矢さん……わたしは大丈夫です……早く座席の掃除をしないと……。それに神矢さんの服が汚れちゃいます……」
「真っ白な顔をしてどこが大丈夫なんだよ。汚れた服はあとで洗えばいい。いいから黙っておとなしくしてろ、馬鹿」
実桜を黙らせた琉青は、迷わず飛行隊隊舎の中に入った。隊舎に入った琉青は、2階には上がらずに廊下を進み、ドアを開けて部屋に入る。テレビとマガジンラックにソファー、流し台と食器棚が置かれた部屋だ。おそらくこの部屋は、隊員たちがくつろぐ場所なのだろう。
琉青は腕に抱いていた実桜をソファーに横たえた。次に琉青は流し台でタオルを水で濡らすと、嘔吐物で汚れている実桜の口元と衣服を、丁寧に拭いてくれた。さらにはコップに水を入れて、噎せないように、ゆっくり飲ませてくれた。
いまの実桜は生まれたばかりの赤ん坊のようだ。実桜は恥ずかしさで頭がいっぱいになり、穴があったら入りたいと思った。
「武知2佐には俺が話しておく。今日の訓練はやめて、宿舎に戻って休んでろ」
突然の戦力外通知に実桜は愕然とした。だけれど琉青が下した判断は正しい。航空機の操縦には、強靭な体力と精神力が必要となる。
パイロットは2000メートル以上の高空を飛び、激しい機動で生じる重力に、耐えなければならないので、体力の維持は絶対条件なのだ。だから少しでも体調を崩せば、すぐさま飛行機から降ろされてしまうのである。
「待ってください! わたしは大丈夫です! だから訓練させてください!」
ソファーから立ち上がったときだ。実桜は強烈な目眩に襲われてしまい、前方によろめいてしまった。よろめいた実桜を支えたのは、素早く踏み出した琉青の手だった。
「そんな身体のまま訓練に参加したって、俺たちの足を引っ張るだけだし、迷惑をかけるだけだ。それにおまえの代わりなんて、探せばいくらでもいる。ドルフィンライダーになりたいパイロットは、たくさんいるからな。熱意や憧れだけで飛べるほど、ブルーの空は甘くないんだよ」
なんとか食い下がろうとした実桜を突き放すように、峻烈な言葉を言い放った琉青は、ドアを開けて部屋から出て行った。金縛りに遭ったように固まった実桜は、琉青が閉めたドアを呆然と見つめていた。
――ナイフで胸を貫かれたように苦しい。あふれた涙が頬を滑って落ちていく。琉青に夢と存在を否定された実桜は、胸がえぐられるほどの、激しい自責にかられたのだった。