第5話 俺は誰も信じない
ファーストフライトの訓練を終えた実桜たちは、救命装備室で装具を外すと、飛行隊隊舎2階のブリーフィングルームに戻った。ピリオドごとの飛行訓練を終えたパイロットは、飛行隊隊舎のブリーフィングルームに集合して、フライト後の振り返りと、評価・反省をする、デブリーフィングを行うからだ。
まだ肌寒いというのに、武知2佐たちは全員汗びっしょりだ。その汗の量が訓練の過酷さを物語っている。だけれど武知2佐たちは爽快な表情である。その表情を見た実桜は、たとえどんなに訓練が過酷であっても、それを楽しめるほど、みんな空を飛ぶことが、心から大好きなのだと思った。
「藤咲、初めてのアクロバットはどうだった?」
「……とても圧倒されました。デルタループやデルタロールのとき、機体同士の距離がすごく近くて、いつ衝突するかビクビクしていましたよ。それに身体にかかるGもすごかったです。地上から見るのと実際に体験するのって、こんなにも違うんですね」
武知2佐に訊かれた実桜は、訓練で感じたことを素直に答えた。
訓練はまさに圧巻の一言に尽きた。武知2佐たちが操縦するT‐4は、覆いかぶさるように動いてきたり、翼が触れてしまいそうな距離まで、凄まじい勢いで接近してきたのだ。普通の部隊はあのような飛び方はしない。常識をはるかに凌駕する飛行だと言っても、おかしくないだろう。
しかもパイロットの全員が――そしてあの江波1尉さえも、課目の開始高度と終了高度を、ぴたりと一致させるという、超絶技巧を思わせる操縦である。ブルーインパルスという飛行部隊は、まさに神業のような飛行を、呼吸をするように簡単にやるのだと、実桜は改めて知ったのだった。
「ブルーインパルスの6つのポジションのなかで、最も過酷な条件で飛行するのが、5番機と6番機なんだ。どっちも激しい機動が多いからな。特に5番機は背面飛行や急上昇、それと連続横転が多いんだよ」
江波1尉の説明を聞きながら、実桜は琉青のほうを見やった。腕を組んだ琉青は、武知2佐が話す反省点を静かに聞いている。
そういえば――訓練を終えたあとの琉青は、息ひとつ乱しておらず、足取りもしっかりしていた。ブルーインパルスのエースの名は伊達じゃないということか。
離陸前に江波1尉に言われたとおり、実桜は5番機の飛行をしっかりと見ていた。景色がめまぐるしく変わる、激しいアクロバット飛行のなか、広い空の中に5番機を捜して見つけるのは、さすがに苦労したけれど。
――だけれど見る価値はあった。5番機が飛ぶ軌跡は、ときには天に閃く稲妻のように鋭く、ときには野原を飛び交う蝶のように、柔らかくて美しかった。そんな5番機の飛行は、いまでも強く目に焼きついていて、実桜は思い出すだけで鳥肌が立ってしまいそうだ。
琉青もすごかったけれど、師匠の江波1尉もすごいと実桜は思う。神業としか思えないアクロバットを行う琉青と、呼吸を合わせてデュアルソロを飛ぶのだから、並みの操縦技術では務まらないだろう。なので実桜は江波1尉を、少しばかり見直したのだった。
「いよっしゃあ! みんなで昼飯を食べに行こうぜ! 藤咲も行くだろ?」
江波1尉の誘いに、もちろん実桜は「はい!」と頷いた。ブルーインパルスは協調性を重視する部隊。隊員同士の連帯感を高めるために、こうやって行動を一緒にすることが多いのだ。
「――すみません。ランニングをしたいので俺は遠慮します」
きっぱりと断った琉青は、席を立つと出て行った。協調性なんてまるでない琉青の態度に、きっと武知2佐たちは呆れているだろうと思ったけれど、意外にも彼らはまったく気にしていない様子だった。とすると琉青は、日頃からあんな態度をしているということか。
「すみません! わたしも神矢さんと一緒に走ってきます!」
全力でぶつかれば心を開いてくれる。江波1尉のアドバイスを思い出した実桜が言うと、みんなは揃って目を丸くした。驚いていないのは武知2佐と江波1尉だけだ。琉青と一緒に走って来ると言っただけなのに、どうして驚かれるのか分からなかった。
実桜はみんなに一礼すると隊舎の外に出た。琉青が部屋を出てから、実桜が彼を追いかけるまで、そんなに時間は経っていないはず。それなのに琉青の姿は見当たらない。近くで草むしりをしている隊員を見つけたので、実桜は彼に尋ねてみることにした。
「あの……11飛行隊の神矢さんを見かけませんでしたか?」
「神矢さん? ああ、ついさっき見ましたよ。たぶん正門のほうに行ったんじゃないかなぁ」
「正門のほうですね? ありがとうございます!」
隊員にお礼を言った実桜は、急いで正門のほうに走った。するとそこには隊員が言ったとおり、簡単なストレッチをしている琉青がいた。
「神矢さん! わたしもご一緒してよろしいですか?」
実桜が大きな声で話しかけると、ストレッチをしていた琉青の肩が、びくっと跳ね上がった。
話しかけられたというのに琉青は振り返らない。聞こえなかったふりをしてランニングを始めるか、それとも実桜の呼びかけに応じて振り返るか――。琉青はふたつの選択肢で迷っているのだろう。ややあって琉青がぎこちなく振り返る。実桜の呼びかけに応じるほうを選んだようだ。
「……好きにしろ」
それだけ言うと琉青は地面を蹴って走っていったので、実桜も慌ててあとを追いかけた。
――それにしても速い。実桜に配慮していないようなハイペースだ。けれど一緒に走りたいと言ったのは自分なのだから、ここは意地でも完走しなければ。
それに女性だからと手加減されるのも嫌だ。気合いを入れて実桜は速度を上げる。ようやく琉青の横に並んだときには、息も絶え絶えになっていたけれど、それでも実桜は根性で琉青に話しかけた。
「神矢琉青って、宝塚みたいに素敵な名前ですね!」
「生まれたときからよく言われる」
「今日の神矢さんのアクロバット、とてもすごかったです! 圧倒されました!」
「勘違いするな。俺はおまえを喜ばせるために飛んだわけじゃない」
言葉に詰まった実桜は立ち止まった。実桜が会話を求めようにも、すぐにばっさりと断ち切られてしまうのだ。朝のときもそうだったけれど、どうやら琉青はよほど実桜と話したくないらしい。
「おまえ――藤咲だったな。俺と仲良くなりたくて、くっついてきたのなら、さっさとあきらめて帰れ。おまえはなんのためにブルーインパルスに来たんだ? まさかドルフィンライダーと仲良くなって、あわよくば恋人になれるかもしれないから、ブルーインパルスに来たのか? ――それなら言ってやる。俺たちはアイドルじゃないんだ。一般人ならともかく、自衛官におまえみたいな頭が花畑の浮ついた馬鹿がいるから、俺たちブルーインパルスはな、国民の税金で遊んでいる部隊だって思われるんだよ」
「なっ――!? 誤解しないでください! わたしはそんな浮ついた気持ちで、ブルーインパルスに来たわけじゃありません! 飛ぶために来たんです! わたしたちは同じ部隊の仲間じゃないですか! それなのに――どうしてそんなことを言うんですか!?」
実桜に向けて放たれた琉青の言葉は、団結心と協調性を重んじる、部隊の一員だとは思えない、冷たくて痛烈なものだった。当然ながら怒りを覚えた実桜は反駁する。怒り心頭の実桜とは正反対に、琉青は冷気を感じるほど落ち着きはらっていた。
「――俺はもう誰も信じない。そう決めたんだ」
琉青は氷の双眸で実桜を一瞥すると、さながら駿馬のように走っていった。
――もう誰も信じない。それを言ったときの琉青の声は、彼の感情を表しているかのように、深い悲しみの響きが、こめられていたのだった。