鳥羽天皇 |
史料 |
年月日 |
記述 |
一代要記 年中行事秘抄 |
保安3年6月27日 |
【皇女禧子誕生】
『一代要記』
鳥羽天皇(皇女)
禧子内親王 <賀茂齊、保安三ー六月廿七日誕生、>(後略)
崇徳天皇(賀茂)
禧子内親王<上皇一女、保安三ー六月廿七日誕生、>(後略)
『年中行事秘抄』
(六月 内裏有穢之時尚被行之)
保安三年六月廿七日御産也。<皇女。>件穢雖及禁中。有大祓事。三木[参議]藤原宗輔朝臣參朱雀門庭行事。但中宮職無御祓事。
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十三代要略 一代要記 |
保安3年8月2日 |
【皇女禧子、内親王宣下】
『十三代要略』
(鳥羽院)
皇女禧子内親王<母中宮璋子>
保安三年八月二日。爲親王。
『一代要記』
鳥羽天皇(皇女)
禧子内親王 <賀茂齊、保安三ー六月廿七日誕生、同ー八月二日爲親王、>(後略)
崇徳天皇(賀茂)
禧子内親王<上皇一女、保安三ー六月廿七日誕生、同八月二日爲親王、>(後略)
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御産記 御遊抄 |
保安3年8月17日 |
【禧子内親王、御五十日儀】
(未入力)
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巻数集 |
保安3年10月9日 |
【中宮(璋子)、阿闍梨寛信に禧子の平安を祈らせる】
(未入力)
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崇徳天皇 |
史料 |
年月日 |
記述 |
中右記 |
保安4年2月16日 |
【崇徳天皇即位。除目、無品禧子内親王のこと】
(未入力)
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中右記目録
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大治元年11月3日 |
【禧子内親王着袴定】
(未入力)
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中右記目録 体源抄 |
大治元年12月27日 |
【禧子内親王着袴】
『中右記目録』
姫宮(禧子)御着袴、
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中右記
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大治2年2月27日 |
【姫宮(禧子)と若宮(恂子?)、三条殿へ還御】
(未入力)
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中右記
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大治2年10月29日 |
【女院(待賢門院)と姫宮(禧子)、鳥羽へ御幸】
(未入力)
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中右記
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大治2年11月16日 |
【女院(待賢門院)と姫宮(禧子)に人々参上】
(未入力)
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中右記目録 十三代要略 一代要記 |
大治3年4月13日 |
【禧子内親王、一品、准三宮】
『中右記目録』
新院(鳥羽上皇)一姫宮(禧子)敍一品、
『十三代要略』
(崇徳天皇/大治三年)
四月十三日。禧子内親王叙一品。
(鳥羽院/保安三年)
八月廿三日。无品禧子内親王准三后。
(鳥羽院/皇女)
禧子内親王<母中宮(藤原)璋子>(中略)
大治三年四月十三日。一品即准三后。
『一代要記』
(鳥羽院天皇/皇女)
禧子<賀茂齊、>(中略)
同(保安3年8月)廿四日蒙准后宣旨、
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中右記目録 |
大治3年4月21日 |
【内親王(禧子)に一品位記使】
(賀茂祭)解陣、一品位記遣内親王(禧子)第、
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中右記 |
大治4年1月6日 |
【叙位】
(前略)次參内、依有敍位儀也、(中略)
藤原忠尹、<待賢門院御給、>平直眞、<皇后宮、>
源行遠、<聰子、>同雅通、<禧子、>佐伯平宣<禧子、>
平盛清<齋院(恂子)、>(後略)
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長秋記 |
大治4年2月17日 |
【一品宮請文】
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中右記 |
大治4年7月9日 |
【女院(待賢門院)・一品宮(禧子)・四宮(雅仁)還御】
(未入力)
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中右記 |
大治4年7月14日 |
【一品宮(禧子)御領三条烏丸ほかのこと】
(未入力)
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中右記 |
大治4年8月2日 |
【一品宮(禧子)正親町東洞院御所へ渡御】
(未入力)
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中右記 |
大治4年8月7日 |
【一品宮(禧子)御所大炊御門萬利小路亭のこと】
(未入力)
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中右記 |
大治4年8月11日 |
【姫宮(禧子?)に大炊殿献上のこと】
(未入力)
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中右記 |
大治4年8月23日 |
【五宮(本仁)と一品宮(禧子)御送物のこと】
(未入力)
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中右記 |
大治4年9月9日 |
【五宮(本仁)と一品宮(禧子)御送物のこと】
(未入力)
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中右記 |
大治4年9月16日 |
【五宮(本仁)御五十日】
(未入力)
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中右記 |
大治4年10月5日 |
【一品宮(禧子)御方にて、五宮(本仁)御百日定】
(未入力)
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中右記 |
大治4年10月9日 |
【除目入眼】
(前略)予着仗座、内大臣從本被着端座、去夕依奉行召仰歟、(中略)
右馬允源則遠、<一品禧子御給、>(後略)
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中右記 |
大治4年11月1日 |
【五宮(本仁)御百日】
(未入力)
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長秋記 |
大治5年1月1日 |
【一品宮(禧子)陪膳記事】
(未入力)
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中右記 |
大治5年1月6日 |
【叙位】
今日敍位儀初、於御前被行也(中略)
召左宰相中將宗輔、下給一品宮(禧子)未給申文、<可勘合否之由被書付云々、敍位申文不注付合否由也、今度被書也、定有其習歟、可尋知、>(中略)
又藤伊實、<一品宮未給、殿下仰云、敍位之時諸宮未給殊不被進事也、今度出來、不得心者、>
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中右記 |
大治5年7月10日 |
【鳥羽上皇御所大炊殿火災。一品宮(禧子)・若宮達、白河へ渡御】
(未入力)
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長秋記 |
大治5年7月20日 |
【禧子内親王渡御のこと】
(未入力)
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中右記 |
大治5年7月22日 |
【禧子内親王渡御のこと】
(未入力)
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長秋記 |
大治5年8月4日 |
【禧子内親王、角殿へ渡御のこと】
(未入力)
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中右記 長秋記 |
大治5年8月19日 |
【禧子内親王、三条東殿に渡御】
(未入力)
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中右記 |
大治5年11月15日 |
【鎮魂祭。公卿ら一品宮(禧子)に参上】
鎮魂祭、左大辨雅兼、左中辨師俊勤之云々、(中略)
事了雲客被參一品宮(禧子)御所白河殿、治部卿(源能年)、民部卿(藤原忠教)、別當(藤原実行)、右衛門督(源雅定)、左兵衛督(徳大寺実能)、修理大夫(藤原)基隆、皆是兩院(鳥羽院・待賢門院)々司人々也、殿上人頭辨顯頼以下參入、頭中將獨留禁中、是依御物忌爲候御前試也、淵酔遊興及秉燭、人々退出云々、(後略)
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中右記 |
大治5年12月26日 |
【最勝寺供養。一品宮(禧子)渡御】
(未入力)
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長秋記 |
天承元年3月24日 |
【一品宮(禧子)記事】
(未入力)
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長秋記 |
天承元年8月4日 |
【一品宮(禧子)侍記事】
(未入力)
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長秋記 |
天承元年8月8日 |
【一品宮(禧子)記事】
(未入力)
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中右記 |
天承2年1月8日 (長承元年) |
【一品宮(禧子)申文のこと】
(未入力)
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中右記 |
天承2年2月9日 (長承元年) |
【待賢門院と一品宮(禧子)、参内】
(未入力)
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中右記 |
長承元年10月7日 |
【白河阿弥陀供養。一品宮(禧子)・前斎院(恂子)渡御】
(未入力)
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兵範記 |
長承元年11月20日 |
【五節。待賢門院と一品宮(禧子)御幸】
(未入力)
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兵範記 |
長承元年11月22日 |
【鳥羽上皇、前斎院(恂子)第に御幸。一品宮(禧子)同席】
(未入力)
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中右記 一代要記 |
長承元年11月25日 |
【禧子内親王、賀茂斎院に卜定(同日着裳?)】
『中右記』
今日院(鳥羽上皇)第一姫宮(禧子)有斎院卜定事、早旦大殿(藤原忠実)関白殿(藤原忠通)、令参院御所二条烏丸亭給(中略)
渡御卜定所給、綾小路北東洞院西尾張守顕盛新宅也、(後略)
『一代要記』
長承元年十一月二十日卜定
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中右記 |
長承元年11月26日 |
【禧子斎院卜定のこと(父鳥羽上皇の言葉)】
「此一品宮(禧子)依幼少時、常置傍憐恋。令立斎院在他所、朝夕恋思也、而時々行向欲見、如何」
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中右記 |
長承元年11月27日 |
【斎院(禧子)卜定を賀茂社に奉幣】
『中右記』
今日齋院卜定由有奉幣賀茂社、上卿治部卿<(源)能俊>、右中辨(藤原)宗成行事、使宰相中將(藤原)宗能、先新源中納言雅兼行軒廊御卜、是伊勢事云々、其後奉幣、已及乗燭之由、史俊式所來談也、
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中右記 |
長承元年12月8日 |
【斎院(禧子)、初めて斎院神殿に入御】
(12月5日条)
(前略)臨深更頭辨書状云、可有御幸齋院准據之例、可量申者、■返事云、有御幸例不慥覺間、難申左右、但寛平八年閏正月有限御幸齋院之由、見舊記、齋院<ハ>君子内親王、今上(宇多天皇)第三女、■[母?]女御橘義子也、行幸已有、御幸何無哉、可准據例大略如此、毎[母?]后行啓例度々有也、太上天皇御幸例殊不見也、來十一日神今食可有行幸之儀出來也、此新院(鳥羽上皇)十六年、今上(崇徳天皇)御宇九ヶ年間、神今食新嘗會例幣、如此神■[事?]行幸■絶了、仍來十一日先入御于諸司、十一日神今食可有御幸也、而十二三日内重御物忌也、是伊勢恠■■曉膳及曉更、可有其憚歟、被問人々也、予申云、伊勢御物忌其[甚?]重之由■■頭家■■所申也、不可有■■■■■■■■■■(字数不明)可候由申了、今夜殿下(摂政忠通)被仰云、件御占官寮共重之由所卜申也、仍今延引了、尤可然也、
(12月8日条)
初齋院初入神殿給云々、上卿治部卿(源能俊)、行事右中辨(藤原)宗成、御後見美作守顯能沙汰也、今夕彼兩庄事明法勘文進官、此方有理之由勘申云々、(後略)
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中右記 |
長承元年12月25日 |
【秋除目。斎院(禧子)申文】
(前略)今日秋除目也、戌時許相具宰相中將(藤原宗能)、右中辨(藤原)宗成等、參内、着陣奥座、(中略)
次下給院宮御申文、進寄指笏給之、復本座抜笏、竝置硯筥右邊、院(鳥羽上皇)、待賢門院、皇后宮(藤原泰子)、中宮(藤原聖子)、齋院(禧子)、前〔齋院〕二所(禎子、恂子)、某■■女御、<准后四所有、留懸紙有禮紙、>依仰一々任京官、<禧子申文前齋院<ニ>書之、予難之、殿下(摂政忠通)示給天、前齋院事分貴所也、只可成者、仍任之了、>此中禎子申文、女御基子申文不被成、仍返上、(後略)
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中右記 |
長承元年12月26日 |
【中納言藤原頼長慶申】
(前略)秉燭之間、於東中門申慶於大殿(藤原忠実)關白殿(藤原忠通)拜給、前庭雪積之故也、令參所々給、八ヶ所、先院(鳥羽上皇)、内(崇徳天皇)、中宮(藤原聖子)、關白殿、女院(待賢門院)、皇后宮(藤原泰子)、齋院(禧子)、前齋院(禎子?)送物中宮琵琶、皇后宮笛、(中略)
今日院御幸女院御所二條烏丸亭、有女院御仏名者、(中略)
其次齋院(禧子)御給停右兵衛尉豊原章定、以中原行憲被成故[改?]右兵衛尉、是沙汰人顯能朝臣竊書入章定於御申文云々、此事不便歟、
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中右記 |
長承2年1月5日 |
【斎院(禧子)申文】
(未入力)
|
中右記 |
長承2年1月20日 |
【斎院(禧子)御給】
(未入力)
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中右記 |
長承2年3月29日 |
【斎院(禧子)御禊日時定】
(未入力)
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中右記 長秋記 |
長承2年4月3日 |
【鳥羽上皇、斎院(禧子)御所に御幸】
(未入力)
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中右記 長秋記 |
長承2年4月15日 |
【斎院(禧子)御禊点地】
(未入力)
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中右記 |
長承2年4月16日 |
【美作守藤原顕能、斎院(禧子)別当に任命】
(未入力)
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中右記 長秋記 |
長承2年4月18日 |
【斎院(禧子)御禊、一本御書所に入る】
『中右記』
(未入力)
『長秋記』
今日斎院(禧子)東河祓入諸司、<一本御書所、>■■御所綾小路洞院、<(藤原)長實卿家也、>
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中右記 |
長承2年4月24日 |
【賀茂祭。斎院(禧子)不参】
(未入力)
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中右記 |
長承2年5月1日 |
【斎院(禧子)御悩】
(未入力)
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中右記 |
長承2年5月28日 |
【初斎院のこと】
(未入力)
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中右記 |
長承2年5月29日 |
【上皇(鳥羽)、斎院(禧子)御所に御幸】
(未入力)
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長秋記 |
長承2年6月19日 |
【能実女婚姻。皇后(令子)・斎院(禧子)・前斎院(恂子)から使者】
(未入力)
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長秋記 |
長承2年7月7日 |
【斎院(禧子)記事】
(未入力)
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中右記 |
長承2年7月8日 |
【斎院に穢れのこと】
(未入力)
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中右記 |
長承2年8月10日 |
【上皇(鳥羽)、斎院(禧子)御所に御幸】
(未入力)
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長秋記 |
長承2年8月28日 |
【斎院(禧子)御悩】
斎院(禧子)日来不例御坐、是年来宿阿也。其上自去此発病未平癒給之間、件本御病更発、御腹ふくれ、御面足手なども腫て、凡飲食不通御坐云々。
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長秋記 |
長承2年8月29日 |
【斎院(禧子)の御悩を卜する】
(未入力)
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中右記 |
長承2年9月1日 |
【鳥羽上皇、斎院(禧子)御所に御幸】
(未入力)
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中右記 長秋記 |
長承2年9月2日 |
【斎院(禧子)、病により退下。鳥羽上皇と待賢門院、見舞に御幸】
(未入力)
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中右記 |
長承2年9月1日 |
【鳥羽上皇、斎院(禧子)に御幸】
(未入力)
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中右記 長秋記 |
長承2年9月4日 |
【鳥羽上皇、藤原盛重邸に御幸。女院・斎院(禧子)と共に三条京極第に還御】
(未入力)
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長秋記 |
長承2年9月5日 |
【斎院(禧子)退出のこと】
(未入力)
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長秋記 |
長承2年9月9日 |
【源師時、三条京極第で前斎院(恂子)と一品宮(禧子)を見る】
依女房召、参御簾内、先奉見前斎院(恂子)、端正美麗非所眼及。次奉見一品宮(禧子)、日來有御悩、無術御由、有其聞、御腹張、御足腫、身有温気、御目已暗御也、事躰雖其憑少、忽不可有其恐歟、是又容顔勝斎院給、有慮外事誠為世遺恨也
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長秋記 |
長承2年9月20日 |
【鳥羽上皇、斎院(禧子)に御幸】
(未入力)
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長秋記 |
長承2年9月25日 |
【斎院(禧子)重態】
(未入力)
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長秋記 |
長承2年9月29日 |
【斎院(禧子)重態】
(未入力)
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十三代要略 一代要記 今鏡 |
長承2年10月10日 |
【前斎院(禧子)薨去】
『十三代要略』
(崇徳院)
長承二年(中略)十月十日。一品禧子内親王薨。<十二。>
『一代要記』
(鳥羽天皇)
皇女 禧子内親王(中略)長承元年十一月二十日卜定、年十三、同二年十月十日薨
『今鏡』
(6・志賀のみそぎ)
女宮は、一品宮とておはしまししは、禧子の内親王とて、賀茂の斎院に立ち給へりし、御悩みにて、ほどなく出で給ひにき。長承二年十月十一日、御年十二にてかくれさせ給ひにき。(後略)
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