27代斎院 悰子内親王
※「そう(やす)」の字は、りっしん偏+宗。こちらを参照(字源)。
名前の読み(音) | 名前の読み(訓) | 品位 | ||||||||||||||||||||||||||||||
そうし | やすこ | 不明 | ||||||||||||||||||||||||||||||
両親 | 生年月日 | 没年月日 | ||||||||||||||||||||||||||||||
父:堀河天皇(1079-1107)
母:典侍源仁子 (1126没,康資王女) |
康和元年(1099) | 応保2年(1162)11月3日 | ||||||||||||||||||||||||||||||
斎院在任時天皇 | 在任期間 | 退下理由 | ||||||||||||||||||||||||||||||
崇徳(1123~1141,甥) | 卜定:保安4年(1123)8月28日
初斎院:天治元年(1124)10月25日 本院:天治2年(1125)4月19日 退下:大治元年(1126)7月25日 |
母死去 | ||||||||||||||||||||||||||||||
斎院在任時斎宮 | 斎宮在任期間 | 斎宮退下理由 | ||||||||||||||||||||||||||||||
守子(1111-1156,いとこおば) [伏見斎宮] 父:輔仁親王 母:源師忠女 |
卜定:保安4年(1123)6月9日 (六角堀川) 初斎院:天治元年(1124)4月23日 野宮:天治元年(1124)9月27日 群行:天治2年(1125)9月14日 退下:永治元年(1141)12月7日 |
天皇譲位 | ||||||||||||||||||||||||||||||
号:大宮斎院 堀河天皇第一皇女。 母源仁子は、始め24代令子内親王の女房か? ┌─────┐ | | 輔仁親王 白河天皇 | | | ├─────────────────┬───┐ 守子 | | | (斎宮) | ┌─────┐ | | | | | | | 源仁子===堀河天皇===藤原苡子 藤原公実 令子 禎子 | | | | | | ◆悰子 鳥羽天皇=====藤原璋子 | | [待賢門院] | | 妍子 崇徳天皇
斎院退下後の悰子についての消息は少ないが、『中右記』(大治4年(1129)2月22日条)では「二條前斎院性子(悰子)」の千日講結願についての記録があり、二条あたりの邸宅に住んでいたと見られる。その後、『本朝世紀』(仁平2年(1153)11月5日条)に二条北堀川東の「故大宮御所」が火災に遭い、ここに前斎宮妍子(鳥羽皇女、悰子の姪)と前斎院悰子が同居していたとの記述がある。 この「故大宮」は個人名がないが、これ以前で最も近い時期の大宮(=太皇太后)は24代斎院令子内親王で、「二条太皇太后」「二条大宮」と呼ばれ、二条堀河邸を里邸としていた。また『今鏡』によれば、悰子の母は元々「大宮(令子?)」の女房であったとされるので、その縁から天養元年(1144)令子崩御の後、令子の姪である悰子が令子の二条堀河邸に移り住んだものと思われる。あるいは令子の生前から既に二条堀河邸で同居しており、『中右記』の「二条前斎院」という呼称や「大宮斎院」の号もそれに拠ったかもしれない(ただし悰子の生年は令子の斎院退下と同年であり、また国史大系本『今鏡』は悰子の母が仕えた人物を「宮=四条宮寛子」としている等、悰子の生母については不確かな点も多い)。 なお妍子内親王は康治元年(1142)に母の五條堀川第で斎宮に卜定され、久安6年(1150)5月退下、7月帰京となっている。よって妍子が悰子と共に大宮御所で暮らすようになったのは、斎宮を降りて帰京した後であろう。 ところで『新古今和歌集』の禎子内親王(25代斎院)哀傷歌の詞書によれば、久寿3年(1156)に禎子が死去した後をうけて、姪にあたる悰子が禎子の御所に移り住んだらしい。歌の作者源雅定は禎子の従兄弟で、禎子の御所土御門高倉第(左京北辺四坊三町)を提供したとされる源雅実の息子だが、土御門高倉第は大治5年(1130)に火災で焼失した。また晩年の禎子は東山に居を構えていたらしく(『台記』『兵範記』)、悰子が移り住んだという邸宅がいずれを指すかは不明である(ただし詞書に「何事もかはらぬやうに侍りけるも、いとど昔思ひ出でられて」とあることや、悰子の没後永万元年(1165)に六条天皇が「土御門高倉第」で践祚している(『践祚部類抄』)ことから、雅定にも馴染み深い土御門高倉第が再建されていた可能性も考えられる)。 ともあれ禎子も白河皇女で令子の同母妹であり、この頃の皇女たちは代々オバから姪へと邸宅が引き継がれる例が多かったようである。 |
崇徳天皇 | ||
史料 | 年月日 | 記述 |
十三代要略 帝王編年記 殿記 |
保安4年8月28日 | 【悰子内親王、斎院に卜定】 『十三代要略』 鳥羽院 諱宗仁(中略) 保安四年 八月廿八日 卜定賀茂斎王。<琮子堀川院女> 『帝王編年記』 崇徳院 斎院悰子内親王<堀河院皇女保安四年八月廿日卜定 大治元年七月廿六日依母喪退出> |
中右記目録 | 保安5年3月27日 (天治元年) |
【斎院(悰子)御禊の前駈を定める】 御禊前駈定、 |
永昌記 | 天治元年4月7日 | 【斎院(悰子)のこと】 參院、申齋院事等付爲重、(後略) |
永昌記 中右記目録 |
天治元年4月14日 | 【賀茂祭】 『永昌記』 今日白雨間降、參院、<源中納言同車、>賀茂祭御見物御幸也、本院(白河院)新院(鳥羽院)有別車儀、美作守顯輔調新院御車、<立板堀透金銅唐草、下簾縫物、自餘彫鏤之美不能勞記、>臨期御同車、新院御烏帽、二藍二重織物御奴袴、御隨身右將曹季俊、左番長厚忠冠胡●、壺脛巾、下臈等如恒、<左將曹右番長權輩、>本院御車後御隨身公種祇候、<年來前關白家御隨身、今朝初被召、布衣、>御車副八人、<二藍上下、紅打衣縫物、牛綱糸村濃、有金物、牛童裝束又調縫物、左衛門尉(直衣)後騎有官無官武者所衛府濟々焉、攝政(藤原忠通)御車、右大臣(藤原家忠)渡御々棧敷之後退出、>内大臣(源有仁)、按察(藤原経実)、藤大納言(宗忠)、治部卿(源能俊)、民部卿(藤原忠教)、源納言(顕雅)、侍從(藤原実隆)、別當(藤原実行)、<着冠御見物強事歟、>藤中納言、<顯隆、近年云行幸云御幸不騎馬、今日別仰云々、>新源納言、左兵衛督(徳大寺実能)、宰相中將(藤原宗輔)、<束帶、>皇后宮權大夫(源師時)、左大辨、<爲隆、>右兵衛督(藤原伊通)、<已上直衣、>殿上人頭中將以下六位以上兩方昇殿輩<已上衣冠、或打衣、雜色裝束皆盡花美、>前駈、三條御所出御西門、令過宮御所門給之間有御見物、更立次第人馬拏攫塵合煙連、自洞院東大路至二條、自西洞院至一条、寄御車於假床、<殿下御領先年所被儲久不渡御、今有其仰、錦縁座、供唐錦茵、兩院御座如此、但二行鋪之、障子入鏡色紙形翠簾、押金文、引唐綾色々幔、其西立五間錦幄爲公卿座、立床敷高麗帖二行十枚、御所東西引二色幔、大路南柳樹纐纈幔、御車渡御之間公卿下居、兩大臣殿下參御之間公卿不動座、無禮節歟、>御棧敷前半物車一兩、雜色六人被渡之、<其裝束鏤綺羅金銀、雜仕乍[不?]着笠、渡懸伏籠入鏡、>先山城騎兵渡、<五人、>次看督長渡、次檢非違使爲先下臈、府生行友、經則、志有定、成國、明兼、<不入尻鞘、>尉頼兼、正弘、資遠、<二藍下襲雜色淺黄上下、>盛兼、「齋王不令渡給之時廷尉不參云々、」(右傍書)大夫尉光信、盛道、<巻纓、紺地平緒、渡懸地劔、>次山城介車、<先例可尋、>次皇后宮(令子内親王)使車、<已上八葉、>次馬寮使車、<網代、着金銅文錦文并蝶、>次近衞使車、<其風流甕頭竹葉階底簫薇詩也、>次山城介廣定、<馬副下尻、觀物解頤、>次所小使、<藏司近衞府馬寮等狼藉也、>次馬寮使權頭(平)忠盛、<馬副紺褐、手振?塵、雜色取物、二藍襖、已上付金銀蝶丸、>馬副取口引馬、<内府隨身府生國重、番長重近取之、新院御馬、笠同付蝶丸、銀、以錦付菱形、>近衞中將成通、<院御馬、新院御隨身兼近、厚忠取口、腹帶着鈴、腹■是也、引馬口、番長季忠近衞公昌取之、馬副八人、縁◆雜色八人、此外加長二人着狩衣帶、院御所被留之、唐笠綺付竹葉、取物、已上濃蘇芳縫物、>次皇后宮使權亮實兼、馬副取口、不具引馬、<雜色取物二藍縫物、▲物唐笠、菅引物古錦頗以別樣、>次内藏寮助ヽヽ、<取物雜色蘇芳、>次女使、次内侍以下車、<典侍、師頼卿女、自中宮(藤原璋子)借給女房舊衣云々、如何、>申斜還御、 『中右記目録』 賀茂祭、<無還立、> ●=籙(竹冠に禄または録。こちらを参照(字源)) ※「胡籙(やなぐい)」=矢を入れて携帯する武具。武官や随身が身に着けた。 ◆=糸+參 ▲=窠(穴冠+果。こちらを参照(字源)) |
中右記目録 | 天治元年8月12日 | 【権大納言藤原宗忠、斎院(悰子)上卿に】 初斎院上卿奉行、大神寶作始日時勘申、 |
中右記目録 | 天治元年8月13日 | 【斎院(悰子)(御禊?)について沙汰】 斎院(悰子)事沙汰始、 |
中右記目録 | 天治元年8月15日 | 【斎院(悰子)御禊について沙汰】 斎院(悰子)御禊沙汰、 |
中右記目録 | 天治元年8月19日 | 【斎院(悰子)女房の装束について沙汰】 斎院(悰子)女房裝束沙汰、 |
中右記目録 | 天治元年8月26日 | 【斎院(悰子)女房の裝束について】 斎院(悰子)女房装束功事、 |
中右記目録 | 天治元年8月29日 | 【斎院(悰子)御禊を定める】 斎院(悰子)御禊定、 |
中右記目録 | 天治元年9月24日 | 【斎院(悰子)御禊定】 斎院(悰子)御禊定、同出車定、 |
中右記目録 | 天治元年9月29日 | 【斎院(悰子)奉幣】 斎院(悰子)奉幣有、 |
中右記目録 | 天治元年9月30日 | 【斎院諸司のこと】 斎院諸司、 |
中右記目録 | 天治元年10月2日 | 【斎院(悰子)女房の装束について沙汰】 斎院(悰子)女房裝束料、六位國沙汰、 |
中右記目録 | 天治元年10月4日 | 【斎院(悰子)御禊について沙汰】 斎院(悰子)御禊沙汰、 |
中右記目録 | 天治元年10月12日 | 【斎院(悰子)御禊の日について沙汰】 斎院(悰子)御禊日沙汰、 |
中右記目録 | 天治元年10月17日 | 【斎院(悰子)御禊の日時を占う】 斎院(悰子)御禊日時勘申、 |
中右記目録 | 天治元年10月18日 | 【斎院(悰子)御禊点地】 斎院(悰子)御禊点地、 |
中右記目録 | 天治元年10月25日 | 【斎院(悰子)御禊(初斎院入り)】 斎院(悰子)御禊、 |
中右記目録 | 天治元年11月6日 | 【斎院相嘗祭】 相嘗、<斎院(悰子)、> |
中右記目録 | 天治2年1月11日 | 【斎院行事始】 斎院(悰子)年首行事所始、 |
中右記目録 | 天治2年2月9日 | 【斎院(悰子)御禊の日について沙汰】 御禊日次沙汰、 |
中右記目録 | 天治2年3月23日 | 【斎院(悰子)御禊の前駈について沙汰】 御禊前駈内々沙汰、 |
中右記目録 | 天治2年4月5日 | 【斎院触穢のこと】 斎院史為頼犬死穢行事不替、 |
中右記目録 | 天治2年4月7日 | 【斎院(悰子)御禊前駆定ほか】 斎院(悰子)前駈定、斎院司除目、女官除目、 |
中右記目録 | 天治2年4月13日 | 【斎院(悰子)御禊点地ほか】 御禊點地、次第日時■(定?)、紫野院御装、 |
中右記目録 | 天治2年4月14日 | 【斎院奉幣】 斎院(悰子)奉幣、 |
中右記目録 | 天治2年4月19日 | 【斎院(悰子)、紫野本院に入る】 斎院(悰子)初入本、 |
中右記目録 | 天治2年4月20日 | 【賀茂祭】 賀茂祭、雨下、 |
中右記目録 | 大治元年4月17日 | 【斎院(悰子)出車定】 斎院(悰子)出車定、<斎院御衰日不忌、> |
中右記目録 年中行事秘抄 |
大治元年4月22日 | 【斎院(悰子)御禊】 『中右記目録』 御禊、<三院(白河院、鳥羽院、待賢門院)御見物> 『年中行事秘抄』 四月朔當酉時禊祭用下午酉例 大治元四廿二禊 廿五祭 |
中右記目録 | 大治元年4月25日 | 【賀茂祭】 賀茂祭、<使左少將(藤原)季成、三院(白河院、鳥羽院、待賢門院)御見物、> |
中右記目録 山槐記 帝王編年記 歴代皇紀 |
大治元年7月26日 | 【斎院(悰子)、母の喪により退下】 『中右記目録』 斎院(悰子)遭母喪、俄退下 『山槐記』 賀茂斉内親王惇[悰]子、依喪退出 『帝王編年記』 崇徳院 斎院悰子内親王<堀河院皇女保安四年八月廿日卜定 大治元年七月廿六日依母喪退出> 『歴代皇紀』 崇徳天皇(斎院) 悰子内親王 堀川院皇女保安四年卜定大治元年退出 |
中右記 | 大治4年2月22日 | 【前斎院(悰子)、千日講結願】 (前略)今日二條前斎院性子[悰子]千日講結願、以少僧都忠尋爲講師、題名僧六人、 |
長秋記 | 長承2年5月27日 | 【前々斎院(悰子?)合爵】 (前略)資信下宣旨、前々齋院合爵請文也、可給位記云々、 |
長秋記 | 長承3年5月2日 | 【前々斎院(悰子?)所領のこと】 以資憲被仰別當云、昨日自北院宮有被訴事、爲仲能、房僧被陵礫事也、仍今致其沙汰之間、彼宮遣■■人等被損亡仲能之間、資財舎藏堂塔後園樹等一切不殘、其中所寄申前々齋院所領公驗等、皆被引失云々、件文書、齋院所尋給之由、所被示也、(後略) |
近衛天皇 | ||
史料 | 年月日 | 記述 |
山槐記 | 仁平2年11月1日 | 【前斎院(悰子)、日吉社に参詣】 『山槐記』 前斎院(悰子)令参詣日吉給云々、 |
本朝世紀 山槐記 |
仁平2年11月5日 | 【前斎院(悰子)故大宮御所、火災】 『本朝世紀』 有焼亡。火起自冷泉北堀川東小屋、故大宮御所遭其殃<二条北堀川東也>。件所前斎宮<妍子>、前斎院<悰子>、同居給也。 『山塊記』 大宇焼亡。<二條堀河> |
一代要記 | 応保2年11月3日 | 【前斎院(悰子)薨去】 堀河天皇 皇女 悰子内親王 斎院、応保二年十一月三日薨年六十四 |
史料 | 記述 |
十三代要略 | |
一代要記 |
堀河天皇 (皇女) 悰子<賀茂齊、/應保二ー十一月三日薨、<六十四>> 崇徳天皇 (賀茂) 悰子内ヽヽ[親王]<堀河第二女、号清和院齋院、康保二ー十一月三日薨、<六十四、>> |
帝王編年記 |
堀川院 (皇女) 悰子内親王<賀茂齋院/号大宮齋院> 崇徳院 (齋院) 悰子内親王<堀河院二皇女保安四年八月廿日卜定/大治元年七月廿六日依母喪退出> |
本朝皇胤紹運録 |
(堀河院子) (291)悰子内親王[齋院。號大宮齋院。保安四八卜定。母神祇伯康資王女] |
賀茂斎院記 |
悰子内親王 堀河院第三皇女也。母神祇伯康資王之女也。 保安四年卜定。 号大宮斎院。 |
今鏡 (8・腹々の御子) |
堀河の帝の宮達は、山に法印など聞え給ひし、(中略) 女宮は大宮の斎院(悰子)と聞え給ふおはしき。やがてかの大宮(令子内親王)の女房の生みたてまつれりけるとなむ。また前の斎宮(喜子)も、堀河の院の御娘と聞え給ふ。まだこの頃もおはするなるべし。 |
新古今和歌集 |
(827)ありす川おなじ流はかはらねど見しや昔のかげぞ忘れぬ |