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22代斎院 篤子内親王


名前の読み(音) 名前の読み(訓) 品位
とくし あつこ 三品、准三宮
両親 生年月日 没年月日
父:後三条天皇(1034-1073)
母:東宮妃藤原茂子<贈皇太后>
  [滋野井御息所](1062没)
康平3年(1060) 永久2年(1114)10月1日
斎院在任時天皇 在任期間 退下理由
白河(1072~1086,同母兄) 卜定:延久5年(1073)3月11日
初斎院:なし
本院:なし
退下:延久5年(1073)5月7日
父上皇崩御
斎院在任時斎宮 斎宮在任期間 斎宮退下理由
淳子女王(再従姉妹)
 父:敦賢親王
 母:源親方女
卜定:延久5年(1073)2月16日
初斎院:不明
野宮:承保元年(1074)?
群行:承保2年(1075)9月20日
退下:承暦元年(1077)8月17日
父薨去

略歴:
 康平5年(1062)(3歳)6月22日、母茂子死去。
 治暦4年(1068)(9歳)4月19日、父後三条天皇践祚。


7月21日、後三条天皇即位。


8月14日、内親王宣下。
 延久元年(1069)(10歳)6月19日、三品に叙される。
 延久4年(1072)(13歳)12月8日、父後三条天皇譲位、兄白河天皇践祚。


12月29日、白河天皇即位。
 延久5年(1073)(14歳)3月11日、斎院に卜定。


5月7日、父後三条上皇崩御により退下。
 承暦3年(1079)(20歳)8月17日、准三宮。
 寛治5年(1091)(32歳)10月25日、甥堀河天皇の女御に宣旨。
 寛治7年(1093)(34歳)2月22日、中宮に冊立。
 嘉承2年(1107)(48歳)7月19日、堀河天皇崩御。


9月21日、出家。
 永久2年(1114)(55歳)10月1日、崩御。

同母兄弟:聡子内親王(1050-1131,一品)
     女二宮(1052.1-1052.6,諱不明)
     白河天皇(1053-1129)
     俊子内親王(1056-1132,斎宮,二品)
     佳子内親王(1057-1130,21代斎院,三品)
夫:堀河天皇(1079-1107,甥)
養母:陽明門院禎子内親王(祖母)
養父:関白藤原師実(祖父母の従弟)
猶子:藤原忠通(師実の曾孫、堀河天皇の従弟)

後三条天皇第四皇女(※夭折した女二宮を加えれば第五皇女)、堀河天皇中宮。
 母藤原茂子(滋野井御息所)は藤原能信(道長子、母は源明子)の養女で、実父は閑院流の中納言藤原公成(太政大臣藤原公季の孫)。
 夫堀河天皇は、同母兄白河天皇の子。

      藤原道長
       |
       ├────┬───────────┬─────────┬──┐
       |    |           |         |  |
一条天皇===彰子   妍子====三条天皇  尊子===源師房  頼通 頼宗
     |[上東門院]    |   |       |      |  |
     |         |   |     ┌─┴─┐    |  |
     |         |   |     |   |    |  |
   後朱雀天皇======禎子  小一条院   顕房  麗子===師実 俊家
           |[陽明門院]  |     |      |    |
           |       |     |      |    |
         後三条天皇    敦賢親王   |      師通===全子
           |       |     |         |
           |       |     |         |
           |      淳子女王   |         |
     ┌─────┤      (斎宮)   ┌┴────┐    |
     |     |            |     |    |
     |    白河天皇==========賢子    師子===忠実
     |            |              |
     |            |              |
    ◆篤子==========堀河天皇            忠通

 母の死後は祖母陽明門院の御所で養われたらしく(『栄花物語』38・松のしづえ)、斎院卜定もここで受けたが、わずか一ヶ月半という歴代斎院中最短の早さで、父後三条院の崩御により退下した。その後も再び陽明門院御所で過ごしていたとみられ、入内に際しては関白師実が養父となった。
 篤子内親王は夫堀河天皇より19歳年長で、叔母・甥婚の多かった平安時代でも異例とされた結婚であり、篤子の兄白河院の期待も空しく子女には恵まれなかった。自らの皇統の存続に執着した白河院の意向による政略結婚であろうとも言われるが、堀河天皇自身は幼少の頃から末の叔母である四の宮(篤子)をこの上なく思慕して自ら后に望んだといい、篤子も始めひどく躊躇い恥ずかしがったものの、夫婦仲は良好であったと伝えられる(『今鏡』)。また『讃岐典侍日記』には、臨終近い堀河天皇の病床を見舞う様子や、天皇没後に著者讃岐典侍(藤原長子)と共に故天皇を偲ぶ様子が記されている。
 没後は本人の遺言に従い、雲林院(Yahoo!地図)に土葬された。

詠歌:すみぞめのそでのなみだとちるはなといかでか人のしばしとむらん(万代集・雑五)

参考論文:
・所京子「篤子内親王の事績」
 (『聖徳学園女子短期大学紀要』14, p70-49)
 [機関リポジトリ全文あり]
※その他関連論文はこちらを参照のこと。

付記:
『栄花物語』(38・松のしづえ)によれば、最初に斎院に内定していたのは篤子内親王ではなく、後朱雀天皇三女祐子内親王(19代禖子内親王の同母姉。篤子には叔母に当たる)であったが、祐子はこれを厭って出家したため、後三条天皇は非常に立腹したという(『中右記』長治2年11月7日条には「延久年中為尼」とあり、時期的に一致する。また『今鏡』は「延久四年、御くしおろし給」とあり、21代佳子退下と同年のこととする)。ただし祐子は後朱雀皇女の中で唯一斎王未経験ながら、当時35歳と既に高齢であったので、現実に卜定される可能性は恐らく低かったとみられる(※記録で判る限り、30歳を越えてから卜定された斎宮・斎院は存在しない。ただし、斎宮喜子内親王を堀河皇女とするのが事実であれば、堀河天皇が1107年に崩御していることから、喜子は卜定当時(1151年)44歳以上であったことになる)。
 なお富樫美恵子氏は、摂関家を外戚に持つ皇女の場合、姉妹では姉の方が品位等で優遇され斎王に選ばれない傾向があったこと、また当時は斎王に選ばれるのは喜ばしいことではなかったことを指摘している。篤子内親王の外祖父は藤原能信で、摂関家嫡流ではないが、篤子と三人の同母姉の中で、長姉の一品宮聡子内親王だけが唯一斎宮・斎院になっていない。

関連論文:
・富樫美恵子「摂関期の斎宮・斎院の選定と斎王忌避の思想」『寧楽史苑』47, p26-42)
・栗山圭子「篤子内親王論」(『女と子どもの王朝史』森話社, 2007)

関連書籍:
・岩佐美代子『内親王ものがたり』(岩波書店, 2003)





後冷泉天皇
史料 年月日 記述
中右記
帝王編年記
百錬抄
康平3年 【東宮尊仁王女篤子誕生】
『中右記』(永久2年10月1日条)
(前略)中宮名篤子、後三条院第四女、(中略)
寛治五年十月廿五日入内、同七年二月二十二日為中宮、<三十四、>嘉承二年九月為尼、今日崩于堀河院、御年五十五、(後略)

『帝王編年記』
(鳥羽院後宮)
 中宮篤子内親王<永久二年十月一日崩于堀川院 五十五>

『百錬抄』
(鳥羽天皇)
 中宮篤子崩于堀川院。<五十五。>
後三条天皇
史料 年月日 記述
扶桑略記
本朝世紀
十三代要略
ほか
治暦4年8月14日 【皇女篤子、内親王宣下】
『扶桑略記』
(前略)同日。天皇男女皇子等爲親王。

『本朝世紀』
 内大臣(源顕房)於仗座被下女親王四人宣旨。<聡子。俊子。佳子。篤子。>

『十三代要略』
(後冷泉院)
 此日。男女皇子爲親王。
中右記
扶桑略記
延久元年6月19日 【篤子内親王、三品直叙】
『中右記』(永久2年10月1日条)
 中宮名篤子、後三条院第四女、与太上天皇(白河院)同母也、治暦四年為内親王、延久元年叙三品(後略)

『扶桑略記』
 第一内親王聡子叙一品。給千戸封邑并年官年爵。俊子内親王叙二品。佳子、篤子両内親王各叙三品。
白河天皇
史料 年月日 記述
中右記
十三代要略
延久5年3月11日 【篤子内親王、賀茂斎院卜定】
『中右記』(永久2年10月1日条)
 中宮名篤子、後三条院第四女、(中略)
同五年三月十一日卜定賀茂斎院(後略)

『十三代要略』
(後三條院皇女)
 篤子内親王 母同(藤原茂子)
  延久元年六月十九日。三品。
  同五年三月十一日。卜定賀茂齋院。
(白河院)
 延久五年三月十一日。卜定賀茂齋院。<篤子内親王。>
中右記
扶桑略記
ほか
延久5年5月7日 【父後三条上皇崩御、篤子内親王斎院退下】
『中右記』(永久2年10月1日条)
 中宮名篤子、後三条院第四女、(中略)
同五年三月十一日卜定賀茂斎院、五月七日退斎院<伝後三条院崩也>(後略)

『扶桑略記』
 太上天皇(後三条院)春秋四十崩。
水左記 承暦元年12月18日 【法勝寺供養。白河天皇行幸】
(未入力)
中右記
兵範記
扶桑略記
承暦3年8月17日 【篤子内親王を准三宮とし、封千戸を賜る】
『中右記』(永久2年10月1日条)
 中宮名篤子、後三条院第四女、(中略)
承暦三年八月准后、是依為祖母陽明門院養子、女院申請也

『兵範記』(仁安2年5月23日条)
 承暦三年八月十五日庚戌、陽明門院被献割分封戸一千烟、譲與三品篤子内親王

『扶桑略記』
 勅以篤子内親王准三宮。賜封邑千戸。依祖母陽明門院之譲也。
二十巻本類聚歌合 承暦4年10月2日 【庚申篤子内親王侍所歌合】
(未入力)
水左記 承暦4年10月23日 【一品宮・二宮(善仁)・女御(道子)・前斎院(篤子?)、南殿へ渡御】
(未入力)
二十巻本類聚歌合 永保3年3月20日 【後三条院四宮(篤子)侍所歌合】
堀河天皇
史料 年月日 記述
中右記
一代要記
ほか
寛治4年10月9日 【白河院・中宮(媞子)清水寺に参詣、篤子内親王の病平癒祈願】
(未入力)
中右記 寛治5年10月6日 【篤子内親王の女御入内定】
(未入力)
後二条師通記
中右記
為房卿記
寛治5年10月9日 【篤子内親王の女御入内定】
(未入力)
中右記
為房卿記
寛治5年10月15日 【篤子内親王、唐崎にて御禊】
『中右記』
 今日後三条院四宮(篤子)御禊唐崎、是斎院退下之後、依未有此事也、源大納言(師忠)<本所別当云々、>殿上人・諸大夫十余人許前駈、<皆>布衣云々、但御禊之間、倍[陪]膳権左中弁(源)基綱朝臣・役供中務少輔(藤原)家隆許、於彼所衣冠者、陰陽師(賀茂)道言候之、出車二両云々、不下御則還御了、前駈料軽幄儲饗饌云々
為房卿記 寛治5年10月19日 【四宮(篤子)御所装束のこと】
(未入力)
後二条師通記
中右記
為房卿記
寛治5年10月25日 【篤子内親王女御宣下、七瀬祓】
(未入力)
為房卿記 寛治5年11月2日 【篤子内親王女御入内、三日夜餅の儀】
(未入力)
後二条師通記
中右記
寛治5年11月7日 【堀河天皇、女御(篤子)の御所に渡御、後朝使の儀】
(未入力)
中右記 寛治5年12月11日 【女御(篤子)昇給のこと】
(未入力)
中右記 寛治5年12月13日 【堀河天皇、女御(篤子)に渡御】
(未入力)
後二条師通記
中右記
寛治6年1月1日 【女御(篤子)に節句を供する】
(未入力)
中右記
為房卿記
寛治6年1月27日 【女御(篤子)、陽明門院御所に渡御】
(未入力)
後二条師通記
中右記
寛治6年1月29日 【堀河天皇より女御(篤子)に御書】
(未入力)
中右記 寛治6年2月3日 【女御(篤子)、輔仁親王と共に二条烏丸第に移徒】
(未入力)
中右記 寛治6年2月16日 【堀河天皇より女御(篤子)に御書】
(未入力)
後二条師通記
中右記
為房卿記
寛治6年2月17日 【女御(篤子)入内】
(未入力)
後二条師通記 寛治6年3月20日 【女御(篤子)方で蹴鞠】
(未入力)
中右記 寛治6年4月12日 【四宮(女御篤子)御所で和歌管弦の御遊】
(未入力)
後二条師通記
中右記
寛治6年5月12日 【最勝講始。女御(篤子)聴聞】
(未入力)
中右記 寛治6年7月29日 【相撲召合。女御(篤子)見物】
(未入力)
中右記 寛治6年9月9日 【女御(篤子)に節句を供する】
(未入力)
後二条師通記
中右記
寛治6年10月5日 【射場始。女御(篤子)より被物】
(未入力)
中右記 寛治6年11月23日 【殿上淵酔。藤原宗忠、宮(篤子)に参上】
(未入力)
中右記 寛治6年11月28日 【賀茂臨時祭】
(未入力)
後二条師通記
中右記
寛治7年1月1日 【女御(篤子)に節供】
(未入力)
中右記 寛治7年1月25日 【女御(篤子)立后の宣旨】
(未入力)
後二条師通記 寛治7年1月27日 【女御(篤子)、高陽院に移徒】
(未入力)
後二条師通記
中右記
寛治7年2月12日 【堀河天皇より女御(篤子)に御書】
(未入力)
後二条師通記
中右記
ほか
寛治7年2月22日 【女御(篤子)を中宮に冊立】
(未入力)
中右記 寛治7年2月23日 【中宮(篤子)饗饌】
(未入力)
後二条師通記 寛治7年3月2日 【中宮(篤子)記事】
(未入力)
後二条師通記
中右記
寛治7年3月11日 【中宮(篤子)に小弓等の御遊】
(未入力)
後二条師通記
中右記
寛治7年3月18日 【中宮(篤子)行啓定】
(未入力)
後二条師通記
中右記
寛治7年3月22日 【中宮(篤子)初めて入内】
(未入力)
後二条師通記
中右記
寛治7年3月24日 【中宮奉幣使定、堀河天皇、中宮(篤子)御所に渡御】
(未入力)
中右記 寛治7年3月28日 【中宮(篤子)諸社奉幣延引】
(未入力)
後二条師通記
中右記
寛治7年4月8日 【中宮(篤子)灌仏】
(未入力)
中右記 寛治7年7月30日 【相撲召合。中宮(篤子)見物】
(未入力)
中右記 寛治7年10月18日 【除目入眼。中宮(篤子)御給】
(未入力)
中右記 寛治7年11月9日 【春日祭奉幣】
(未入力)
中右記 寛治7年11月10日 【平野祭。中宮(篤子)奉幣】
(未入力)
後二条師通記 寛治7年11月20日 【臨時除目。新大将源雅実、中宮(篤子)に参上】
(未入力)
中右記 寛治7年12月11日 【大神祭。中宮(篤子)奉幣】
(未入力)
中右記 寛治8年1月2日
(嘉保元年)
【中宮(篤子)及び関白師実臨時客】
(未入力)
中右記 寛治8年2月5日
(嘉保元年)
【陽明門院葬送。中宮(篤子)御衰日】
(未入力)
中右記 寛治8年3月9日
(嘉保元年)
【后妃一覧】
(未入力)
中右記 寛治8年閏3月2日
(嘉保元年)
【中宮(篤子)、鴨院より還啓】
(未入力)
中右記 寛治8年4月8日
(嘉保元年)
【中宮(篤子)灌仏】
(未入力)
中右記 寛治8年5月1日
(嘉保元年)
【中宮(篤子)御遊】
(未入力)
中右記 寛治8年7月7日
(嘉保元年)
【遷宮の文書内覧。中宮(篤子)に奏上】
(未入力)
中右記 寛治8年8月13日
(嘉保元年)
【中宮(篤子)不予】
(未入力)
中右記 寛治8年10月24日
(嘉保元年)
【堀河院火災。堀河天皇・中宮(篤子)渡御】
(未入力)
中右記 寛治8年11月3日
(嘉保元年)
【堀河天皇・中宮(篤子)、密奏により渡御】
(未入力)
中右記 嘉保元年12月27日 【中宮(篤子)仏名】
(未入力)
中右記 嘉保2年1月30日 【遷宮の文書内覧。中宮(篤子)伊勢御庄のこと】
(未入力)
中右記 嘉保2年2月6日 【春日祭。中宮(篤子)使】
(未入力)
中右記 嘉保2年2月24日 【中宮(篤子)仁王講】
(未入力)
中右記 嘉保2年3月5日 【中宮(篤子)伊勢御庄のこと】
(未入力)
中右記 嘉保2年4月15日 【賀茂社行幸。中宮(篤子)御給】
(未入力)
中右記 嘉保2年6月18日 【前関白師実、京極殿御堂を供養。中宮(篤子)行啓】
(未入力)
中右記 嘉保2年7月7日 【堀河天皇、中宮(篤子)御曹司に渡御、管弦】
(未入力)
中右記部類 嘉保2年7月30日 【相撲。中宮(篤子)御見物】
(未入力)
中右記 嘉保2年8月2日 【遷宮沙汰】
(未入力)
中右記 嘉保2年9月19日 【堀河天皇御悩、中宮(篤子)参上】
(未入力)
中右記 嘉保2年11月2日 【中宮(篤子)行啓】
(未入力)
中右記 嘉保2年12月8日 【内侍所御神楽。中宮(篤子)女房見物】
(未入力)
中右記 嘉保2年12月27日 【中宮(篤子)御仏名】
(未入力)
中右記 嘉保3年1月1日
(永長元年)
【右中弁藤原宗忠、中宮(篤子)に拝謁】
(未入力)
中右記 嘉保3年1月27日
(永長元年)
【中宮(篤子)不予、大般若経読経、仁王講】
(未入力)
中右記 嘉保3年2月10日
(永長元年)
【春日祭。大殿(藤原師実)、中宮(篤子)に拝謁】
(未入力)
本朝続文粋
俊忠集
嘉保3年3月11日
(永長元年)
【和歌披講】
(未入力)
二十巻本類聚歌合 嘉保3年3月23日
(永長元年)
【中宮篤子内親王侍所歌合】
(未入力)
中右記 嘉保3年3月24日
(永長元年)
【殿上賭射御覧、中宮(篤子)参加】
(未入力)
中右記 嘉保3年4月8日
(永長元年)
【中宮(篤子)灌仏】
(未入力)
中右記 嘉保3年7月13日
(永長元年)
【田楽御覧。藤原宗忠、中宮(篤子)に参上】
(未入力)
中右記 嘉保3年10月22日
(永長元年)
【中宮(篤子)除服】
(未入力)
中右記 嘉保3年11月11日
(永長元年)
【中宮(篤子)梅宮祭奉幣】
(未入力)
中右記 嘉保3年11月16日
(永長元年)
【御前試、中宮(篤子)御覧】
(未入力)
中右記 嘉保3年12月10日
(永長元年)
【大神祭使立つ。中宮(篤子)使のこと】
(未入力)
中右記 永長元年12月26日 【中宮(篤子)御仏名、中宮職事を補す】
(未入力)
中右記 永長2年1月1日
(承徳元年)
【右中弁藤原宗忠、中宮(篤子)に拝謁】
(未入力)
中右記 永長2年2月11日
(承徳元年)
【春日祭。中宮(篤子)使】
(未入力)
中右記 永長2年3月16日
(承徳元年)
【中宮(篤子)不予】
(未入力)
中右記 永長2年4月11日
(承徳元年)
【斎院(令子)御禊、中宮(篤子)御覧】
(未入力)
中右記 永長2年8月16日
(承徳元年)
【皇子誕生祈願】
(未入力)
中右記
園太暦
永長2年9月23日
(承徳元年)
【堀河天皇と中宮(篤子)、閑院より関白師通二条第に行幸】
(未入力)
中右記 永長2年10月11日
(承徳元年)
【中宮(篤子)行啓なし】
(未入力)
中右記 永長2年10月14日
(承徳元年)
【中宮(篤子)、二条第より高陽院へ行啓】
(未入力)
中右記 承徳元年12月26日 【中宮(篤子)御仏名】
(未入力)
中右記 承徳2年2月5日 【春日祭。中宮(篤子)使】
(未入力)
長秋記目録 承徳2年3月2日 【中宮(篤子)花合延引】
 依召參内、明日中宮御方花合云々、望夜聞延引由、
長秋記目録 承徳2年3月3日 【中宮(篤子)歌合】
 御燈御拝後、中宮御方披獻落花、
元享三年具注暦裏書 承徳2年3月24日 【良意僧都の房で、中宮(篤子)御仏を供養】
(未入力)
殿暦 承徳2年4月8日 【中宮(篤子)灌仏会】
(未入力)
中右記 承徳2年8月23日 【仁王会沙汰。中宮(篤子)、春日社に参篭のこと】
(未入力)
中右記 承徳2年9月22日 【藤原賢子國忌、中宮(篤子)僧前を進めず】
(未入力)
中右記 承徳2年10月26日 【中宮(篤子)不予】
(未入力)
中右記 承徳2年10月29日 【藤原苡子、堀河天皇に入内】
(未入力)
中右記 承徳2年10月30日 【中宮(篤子)不予平復】
(未入力)
中右記 承徳2年11月2日 【中宮(篤子)不予のこと】
(未入力)
中右記 承徳2年11月22日 【中宮(篤子)の殿上淵酔を師実が指示】
(未入力)
殿暦 承徳2年11月23日 【五節童女御覧、中宮(篤子)昇御】
(未入力)
中右記 承徳2年12月22日 【除目。中宮(篤子)御給】
(未入力)
中右記 承徳2年12月26日 【中宮(篤子)御仏名】
(未入力)
中右記 承徳3年3月28日
(康和元年)
【中宮(篤子)小弓、蹴鞠、管絃、和歌】
(未入力)
後二条師通記 承徳3年4月8日
(康和元年)
【中宮(篤子)灌仏】
(未入力)
長秋記 康和元年閏9月21日 【中宮(篤子)不予】
(未入力)
中右記目録
長秋記
本朝世紀
康和元年10月2日 【中宮(篤子)不予により、八社奉幣使を発遣】
(未入力)
中右記目録
本朝世紀
康和元年10月24日 【中宮(篤子)不予により、獄囚四十余人を放免】
(未入力)
殿暦 康和2年2月1日 【中宮(篤子)御遊】
(未入力)
殿暦 康和2年2月22日 【中宮(篤子)御卜】
(未入力)
殿暦 康和2年7月17日 【藤原忠実、中宮(篤子)に慶賀を申す】
(未入力)
元享四年具注暦裏書 康和2年8月10日 【中宮(篤子)御仏供養】
(未入力)
殿暦 康和2年8月16日 【中宮(篤子)行啓なし】
(未入力)
中右記目録 康和2年9月4日 【中宮(篤子)不予、三条第に行啓】
(未入力)
元享四年具注暦裏書 康和2年10月4日 【中宮(篤子)、新写大般若経を供養】
(未入力)
長秋記目録
百錬抄
天台座主記
ほか
康和2年10月7日 【中宮(篤子)天台梶井西南院の供養】
『長秋記目録』
(未入力)

『百錬抄』
 中宮(篤子)御願天台梶井供養。

『天台座主記』
(未入力)
殿暦
中右記目録
長秋記目録
康和2年11月2日 【中宮(篤子)、藤原顕季の六条第に行啓】
(未入力)
中右記目録 康和2年12月14日 【中宮(篤子)入内】
(未入力)
殿暦 康和3年3月21日 【藤原師実法事。中宮(篤子)・前斎院(令子)より御誦経】
(未入力)
修法要抄 康和3年6月1日 【中宮(篤子)愛染王法等を修す】
(未入力)
殿暦 康和3年6月16日 【忠実、宮御方(篤子)に参向】
(未入力)
殿暦 康和3年7月22日 【忠実、宮御方(篤子)に参向】
(未入力)
殿暦 康和3年8月6日 【忠実、宮御方(篤子)に参向】
(未入力)
殿暦 康和3年8月22日 【中宮(篤子)不予】
(未入力)
殿暦
中右記目録
康和3年9月1日 【中宮(篤子)不予により、藤原国明第に行啓】
(未入力)
殿暦 康和3年9月7日 【中宮(篤子)不予】
(未入力)
殿暦
中右記目録
康和3年9月19日 【中宮(篤子)還啓】
(未入力)
殿暦 康和3年9月23日 【中宮(篤子)御悩】
(未入力)
朝野群載 康和3年9月25日 【平時範、中宮領荘園の雑務を執行】
(未入力)
殿暦 康和3年11月22日 【忠実、宮御方(篤子)に参向】
(未入力)
殿暦 康和3年12月14日 【忠実、宮御方(篤子)に参向】
(未入力)
殿暦 康和3年12月28日 【中宮(篤子)御仏名】
(未入力)
中右記 康和4年1月1日 【右大弁藤原宗忠、中宮(篤子)に参賀】
(未入力)
殿暦 康和4年1月9日 【忠実、宮御方(篤子)に参向】
(未入力)
殿暦
中右記
康和4年1月28日 【中宮(篤子)不予】
(未入力)
長秋記目録 康和4年1月29日 【中宮(篤子)不予のため、僧三十口に大般若経】
(未入力)
中右記 康和4年2月5日 【中宮(篤子)方で御賀の舞御覧】
(未入力)
中右記 康和4年2月13日 【藤原師実忌日法会。中宮(篤子)・前斎院(令子)御誦経】
(未入力)
殿暦
中右記
康和4年3月4日 【右大臣忠実参内。忠実と藤原宗忠、中宮(篤子)に参上】
(未入力)
殿暦 康和4年3月9日 【高陽院御賀試楽】
(未入力)
中右記 康和4年3月18日 【白河法皇五十算賀。中宮(篤子)行啓】
(未入力)
殿暦
中右記
康和4年4月8日 【中宮(篤子)御灌仏】
(未入力)
中右記 康和4年5月17日 【中宮(篤子)仁王会】
(未入力)
長秋記
俊忠集
康和4年閏5月10日 【中宮(篤子)御所に和歌会】
(未入力)
殿暦 康和4年閏5月19日 【忠実、宮御方(篤子)に参向】
(未入力)
殿暦 康和4年閏5月25日 【堀河天皇と中宮篤子、競馬御覧】
(未入力)
殿暦 康和4年閏5月28日 【中宮(篤子)不予】
(未入力)
殿暦 康和4年6月1日 【東三条第で競馬。中宮(篤子)女房ら見物】
(未入力)
殿暦
中右記
康和4年7月8日 【藤原忠実・忠通参内。中宮(篤子)より引き出物】
(未入力)
殿暦
中右記
康和4年7月20日 【堀河天皇と中宮(篤子)、法勝寺へ行幸】
(未入力)
殿暦
中右記
康和4年7月21日 【堀河天皇と中宮(篤子)、法勝寺より還幸】
(未入力)
殿暦 康和4年閏8月1日 【忠実、中宮(篤子)に参向】
(未入力)
殿暦 康和4年閏9月6日 【忠実、中宮(篤子)に参向】
(未入力)
殿暦
中右記
康和4年9月25日 【堀河天皇と中宮(篤子)、高陽院より還幸】
(未入力)
殿暦 康和4年10月2日 【中宮(篤子)女房、紅葉見物】
(未入力)
殿暦 康和4年10月6日 【忠実、中宮(篤子)に参向】
(未入力)
中右記 康和4年11月2日 【春日使のこと。中宮(篤子)使】
(未入力)
殿暦 康和4年11月22日 【堀河天皇と中宮篤子、五節童女御覧】
(未入力)
殿暦 康和4年12月12日 【忠実、鳥羽院に参上、宮御方(篤子)に参向】
(未入力)
中右記 康和4年12月17日 【藤原忠通・泰子着袴。中宮(篤子)、忠通に装束を贈る】
(未入力)
中右記 康和4年12月21日 【中宮(篤子)桂芳坊に方違行啓】
(未入力)
殿暦
中右記
康和4年12月27日 【中宮(篤子)御仏名】
(未入力)
殿暦
中右記
康和5年1月1日 【藤原忠実と藤原宗忠、中宮(篤子)・前斎院(令子)に拝賀】
(未入力)
殿暦
中右記
本朝世紀
康和5年1月3日 【中宮(篤子)大饗】
(未入力)
殿暦 康和5年1月4日 【忠実、中宮(篤子)に参向】
(未入力)
殿暦 康和5年1月15日 【中宮(篤子)、右大臣忠実の子威徳(忠通)に馬を下賜】
(未入力)
殿暦 康和5年2月1日 【中宮(篤子)入内】
(未入力)
殿暦 康和5年2月6日 【忠実、中宮(篤子)に参向】
(未入力)
中右記 康和5年2月7日 【中宮(篤子)桂芳坊に渡御】
(未入力)
殿暦 康和5年3月5日 【忠実、中宮(篤子)に参向】
(未入力)
本朝世紀 康和5年3月22日 【中宮(篤子)、前斎院(娟子)薨去(12日)により服喪】
(未入力)
重憲記
中右記
康和5年4月25日 【賀茂祭。前斎院(娟子)の喪により中宮不参】
(未入力)
中右記 康和5年6月18日 【中宮(篤子)証菩提院御堂のこと】
(未入力)
中右記 康和5年6月20日 【中宮(篤子)桂芳坊に方違行啓】
(未入力)
殿暦 康和5年6月30日 【忠実、中宮(篤子)に参向】
(未入力)
殿暦 康和5年7月1日 【忠実、中宮(篤子)に参向】
(未入力)
殿暦 康和5年7月6日 【中宮(篤子)御所堀河殿上棟日時を勘申】
(未入力)
殿暦 康和5年8月11日 【藤原俊忠、中宮殿上にて読経】
(未入力)
殿暦 康和5年9月6日 【中宮(篤子)御所造作のこと】
(未入力)
中右記 康和5年10月5日 【射場始。中宮(篤子)懸物を献じる】
(未入力)
殿暦 康和5年10月10日 【忠実、中宮(篤子)に参向】
(未入力)
殿暦 康和5年10月14日 【中宮(篤子)不予】
(未入力)
殿暦
中右記
康和5年10月28日 【中宮(篤子)御所にて不動念誦】
(未入力)
殿暦
中右記
本朝世紀
康和5年11月4日 【中宮(篤子)不予により、侍従厨に移徒】
(未入力)
殿暦
中右記
康和5年12月1日 【中宮(篤子)、侍従厨より還啓】
(未入力)
殿暦 康和5年12月5日 【忠実、中宮(篤子)に参向】
(未入力)
殿暦 康和5年12月9日 【中宮(篤子)大進仲実、忠実に中宮御所造作について示す】
(未入力)
中右記 康和5年12月15日 【中宮(篤子)、大極殿西廊に方違行啓】
(未入力)
殿暦 康和5年12月16日 【中宮(篤子)御所造作のこと】
(未入力)
殿暦 康和5年12月22日 【中宮(篤子)に慶申】
(未入力)
殿暦
中右記
康和5年12月25日 【中宮(篤子)御仏名】
(未入力)
中右記 康和5年12月28日 【中宮(篤子)、大極殿西廊に方違行啓】
(未入力)
中右記 康和6年1月1日
(長治元年)
【右大弁藤原宗忠、藤壺中宮(篤子)に参上】
(未入力)
殿暦 康和6年1月2日 【藤原忠実、中宮(篤子)に拝賀】
(未入力)
中右記 康和6年2月3日
(長治元年)
【春日祭奉幣。中宮(篤子)使】
(未入力)
殿暦
中右記
長治元年2月18日 【中宮(篤子)基隆宅へ方違行啓】
(未入力)
殿暦 康和6年3月2日 【中宮(篤子)、堀河殿渡御延引】
中右記 長治元年3月3日 【中宮(篤子)、藤原基隆第に方違行啓】
(未入力)
阿娑縛抄 長治元年3月29日 【中宮(篤子)御所堀河殿に安鎮法を修す】
(未入力)
中右記 長治元年4月2日 【中宮(篤子)、藤原基隆第に方違行啓】
(未入力)
中右記 長治元年4月6日 【中宮(篤子)還啓】
(未入力)
殿暦
中右記
長治元年4月11日 【中宮(篤子)、堀河殿に還御】
(未入力)
中右記 長治元年4月24日 【中宮(篤子)初和歌】
(未入力)
中右記 長治元年4月27日 【中宮(篤子)入内、小弓御興】
(未入力)
中右記 長治元年5月26日 【白河法皇、中宮(篤子)御願寺の建立を許可】
(未入力)
中右記 長治元年6月10日 【中宮(篤子)和歌会】
(未入力)
中右記 長治元年7月21日 【中宮(篤子)御物忌】
(未入力)
殿暦 長治元年7月21日 【法橋仁慧を法眼に叙す。中宮(篤子)御悩祈の賞による】
(未入力)
中右記 長治元年8月1日 【弘徽殿御八講。中宮(篤子)、前斎院(令子)参列】
(未入力)
殿暦 長治元年8月13日 【中宮(篤子)不例】
(未入力)
殿暦
中右記
長治元年8月25日 【中宮(篤子)御堂造立の宣旨】
(未入力)
殿暦 長治元年9月28日 【中宮(篤子)御堂のこと】
(未入力)
殿暦
朝野群載
長治元年9月29日 【中宮(篤子)物気悩】
(未入力)
殿暦
中右記
長治元年10月14日 【延暦寺僧網等僉議のこと。左大臣以下、中宮(篤子)に参上】
(未入力)
中右記 長治元年11月1日 【春日祭。中宮(篤子)使】
(未入力)
殿暦 長治元年11月23日 【中宮(篤子)女房、京極殿に参上】
(未入力)
殿暦
中右記
長治元年12月1日 【中宮(篤子)行啓定】
(未入力)
殿暦
中右記
百錬抄
長治元年12月5日 【堀河天皇と中宮(篤子)、内裏より堀河院に還御】
『百錬抄』
 遷幸中宮(篤子)御所堀川院。<去八月十一日中宮先移徒。元是関白領也。被譲進之。>
殿暦
中右記
長治元年12月23日 【行幸行啓定】
(未入力)
中右記
ほか
長治元年12月28日 【中宮(篤子)御仏名】
(未入力)
殿暦 長治2年1月1日 【藤原忠実、中宮(篤子)に拝賀】
(未入力)
長秋記 長治2年1月5日 【東宮行啓。中宮(篤子)女房出車】
(未入力)
永昌記 長治2年1月10日 【藤原為隆、中宮(篤子)に参上。卯杖行事】
(未入力)
殿暦
永昌記
長治2年1月15日 【兵部手番、中宮(篤子)御願寺敷地の事で、藤原為隆を右大臣忠実第に派遣】
(未入力)
中右記 長治2年1月16日 【藤原宗能慶申。中宮(篤子)に参上】
(未入力)
永昌記 長治2年1月28日 【中宮(篤子)御願寺造立日時を定める】
(未入力)
中右記 長治2年2月8日 【春日祭。中宮(篤子)使】
(未入力)
殿暦 長治2年2月29日 【中宮(篤子)不例】
(未入力)
殿暦 長治2年閏2月2日 【中宮(篤子)不例により三社に奉幣】
(未入力)
殿暦 長治2年閏2月11日 【内及び中宮(篤子)物忌】
(未入力)
中右記 長治2年閏2月13日 【中宮(篤子)女房但馬(宗忠妻)卒去】
(未入力)
殿暦
中右記部類
長治2年閏2月17日 【仁王会。白河院、中宮(篤子)、東宮へ参上】
(未入力)
殿暦
中右記
古今著聞集
長治2年閏2月24日 【中宮(篤子)花合】
(未入力)
殿暦 長治2年3月9日 【威徳(藤原忠通)、中宮(篤子)に参向】
(未入力)
殿暦 長治2年3月17日 【中宮(篤子)御立所のこと】
(未入力)
中右記 長治2年3月30日 【御祈始。中宮(篤子)、御経供養】
(未入力)
殿暦
中右記
長治2年4月8日 【中宮(篤子)灌仏】
(未入力)
殿暦
中右記
長治2年6月8日 【堀河天皇と中宮(篤子)、堀河院より内裏に行幸】
(未入力)
殿暦 長治2年6月20日 【藤原忠実、中宮(篤子)に参向】
(未入力)
中右記 長治2年6月26日 【中宮(篤子)御願寺御堂上棟】
(未入力)
殿暦 長治2年7月2日 【中宮(篤子)御願寺御堂上棟のこと】
(未入力)
中右記 長治2年7月7日 【中宮(篤子)内侍雲林院にて多宝塔供養】
(未入力)
殿暦 長治2年8月3日 【中宮(篤子)不例】
(未入力)
殿暦 長治2年9月3日 【中宮(篤子)不例】
(未入力)
殿暦 長治2年10月3日 【堀河天皇不例。中宮(篤子)参上】
(未入力)
中右記 長治2年10月7日 【中宮(篤子)仁王会】
(未入力)
中右記 長治2年11月1日 【春日祭。中宮(篤子)使】
(未入力)
殿暦 長治2年12月13日 【藤原忠実、宮御方(中宮篤子)に参向】
(未入力)
中右記 長治2年12月20日 【射場始。中宮(篤子)懸物を献じる】
(未入力)
殿暦
中右記
長治2年12月22日 【中宮(篤子)京極殿へ行啓】
(未入力)
中右記 長治2年12月24日 【中宮(篤子)還入内】
(未入力)
殿暦 長治3年1月1日
(嘉承元年)
【藤原忠実、中宮(篤子)に拝賀】
(未入力)
中右記 長治3年1月1日
(嘉承元年)
【右大弁藤原宗忠、中宮(篤子)に拝謁】
(未入力)
中右記 長治3年2月4日
(嘉承元年)
【大原野祭。中宮(篤子)使、軽服のため不立】
(未入力)
殿暦 長治3年2月6日
(嘉承元年)
【中宮(篤子)御方違】
(未入力)
殿暦
中右記
長治3年2月7日
(嘉承元年)
【中宮(篤子)方違行啓】
(未入力)
中右記 長治3年3月26日
(嘉承元年)
【右大弁藤原宗忠、中宮(篤子)に参上】
(未入力)
中右記 嘉承元年4月24日 【賀茂祭。中宮(篤子)使】
(未入力)
中右記 嘉承元年5月3日 【中宮(篤子)方違行啓】
(未入力)
中右記 嘉承元年5月13日 【最勝講。中宮(篤子)参列】
(未入力)
殿暦 嘉承元年5月23日 【中宮(篤子)御堂行事】
(未入力)
殿暦
中右記
嘉承元年5月23日 【阿波守中宮亮源高実卒去】
(未入力)
永昌記 嘉承元年6月7日 【堀河天皇御物忌】
(未入力)
中右記
永昌記
嘉承元年6月17日 【中宮(篤子)、侍従厨に方違行啓】
(未入力)
中右記
永昌記
嘉承元年7月13日 【中宮(篤子)、侍従厨に方違行啓。中宮御願寺の御門上棟】
(未入力)
殿暦
中右記
嘉承元年8月27日 【中宮(篤子)方違行啓】
(未入力)
永昌記
殿暦
嘉承元年9月3日 【中宮(篤子)御燈御禊。中宮不予】
(未入力)
永昌記
殿暦
嘉承元年9月4日 【中宮(篤子)日来不例、足を病む】
(未入力)
永昌記
殿暦
嘉承元年9月13日 【中宮(篤子)不例】
(未入力)
中右記 嘉承元年9月16日 【中宮(篤子)五社に奉幣】
(未入力)
永昌記 嘉承元年9月18日 【中宮(篤子)五壇法を修す】
(未入力)
中右記
永昌記
嘉承元年10月13日 【中宮(篤子)、侍従厨に方違行啓】
(未入力)
中右記 嘉承元年11月14日 【公卿ら、中宮(篤子)へ参上】
(未入力)
中右記
殿暦
嘉承元年11月7日 【春日祭。中宮(篤子)使】
(未入力)
殿暦
中右記
嘉承元年11月27日 【中宮(篤子)方違行啓】
(未入力)
殿暦 嘉承元年12月3日 【中宮(篤子)御方で雪山のこと】
(未入力)
中右記 嘉承元年12月17日 【藤原忠通、中宮(篤子)より装束を賜る】
(未入力)
中右記
永昌記
嘉承元年12月25日 【堀河天皇と中宮(篤子)、堀河院に行幸。中宮、仏像を法成寺に供養】
(未入力)
中右記
永昌記
嘉承元年12月25日 【中宮(篤子)御仏名】
(未入力)
中右記 嘉承2年2月28日 【関白(忠実)以下、中宮(篤子)に参上】
(未入力)
殿暦
中右記
嘉承2年3月12日 【中宮(篤子)の女房公卿殿上人等、観花和歌を詠む】
(未入力)
殿暦 嘉承2年4月8日 【中宮(篤子)灌仏】
(未入力)
中右記 嘉承2年4月26日 【藤原忠通元服。中宮(篤子)へ慶申】
(未入力)
殿暦 嘉承2年5月2日 【中宮(篤子)御堂のこと】
(未入力)
殿暦 嘉承2年7月17日 【七仏御薬師修法のこと】
(未入力)
殿暦
中右記
嘉承2年7月18日 【堀河天皇病状悪化、中宮(篤子)参内】
(未入力)
殿暦
中右記
為房卿記
ほか
嘉承2年7月19日 【堀河天皇崩御】
(未入力)
鳥羽天皇
史料 年月日 記述
中右記 嘉承2年7月24日 【故堀河天皇葬送。中宮(篤子)御衰日】
(未入力)
中右記 嘉承2年7月29日 【中宮(篤子)素服を著す】
(未入力)
殿暦
中右記
嘉承2年8月5日 【中宮(篤子)阿弥陀護摩を香隆寺に修める】
(未入力)
中右記 嘉承2年8月30日 【中宮(篤子)御方で御簾・御座改め】
(未入力)
殿暦
中右記
嘉承2年9月3日 【中宮(篤子)、堀河天皇御法会奉仕の諸僧に布施を賜る】
(未入力)
中右記 嘉承2年9月7日 【中宮(篤子)、御衰日により御誦経を修せず】
(未入力)
中右記 嘉承2年9月8日 【中宮(篤子)の尊勝寺阿弥陀法等の結願を停止】
(未入力)
殿暦
中右記
嘉承2年9月21日 【中宮(篤子)出家】
(未入力)
殿暦
中右記
嘉承2年9月23日 【中宮(篤子)御懺法を堀河院で行う】
(未入力)
殿暦 嘉承2年9月26日 【藤原忠実、中宮(篤子)に参向】
(未入力)
殿暦 嘉承2年10月10日 【忠実室、堀河院の中宮(篤子)御方に参向】
(未入力)
殿暦
中右記
嘉承2年閏10月12日 【中宮(篤子)仏像を堀河院に供養、法華八講を修め、堀河天皇の冥福を祈る】
(未入力)
中右記 嘉承2年閏10月16日 【中宮(篤子)御八講結願】
(未入力)
殿暦
中右記
嘉承2年11月7日 【中宮(篤子)不予】
(未入力)
中右記 嘉承2年12月20日 【中宮(篤子)御仏名】
(未入力)
中右記 嘉承3年1月2日
(天仁元年)
【藤原宗忠、中宮(篤子)に拝賀】
(未入力)
中右記 嘉承3年1月3日
(天仁元年)
【藤原宗忠、中宮(篤子)に参上】
(未入力)
殿暦
中右記
讃岐典侍日記
嘉承3年1月19日
(天仁元年)
【中宮(篤子)不予。御仏経供養を行う】
(未入力)
中右記 嘉承3年2月1日
(天仁元年)
【中宮(篤子)御邪気】
(未入力)
殿暦 嘉承3年2月17日
(天仁元年)
【藤原忠実、中宮(篤子)に参向】
(未入力)
殿暦
中右記
嘉承3年2月21日
(天仁元年)
【中宮(篤子)一品経を講する】
(未入力)
殿暦 嘉承3年3月4日
(天仁元年)
【藤原忠実、中宮(篤子)に参向】
(未入力)
中右記 嘉承3年3月7日
(天仁元年)
【藤原宗忠、中宮(篤子)に参上】
(未入力)
中右記 嘉承3年3月16日
(天仁元年)
【中宮(篤子)御悩】
(未入力)
中右記 嘉承3年3月27日
(天仁元年)
【中宮(篤子)御物忌】
(未入力)
中右記 嘉承3年3月30日
(天仁元年)
【中宮(篤子)行啓のこと】
(未入力)
殿暦 嘉承3年4月7日
(天仁元年)
【藤原忠実、中宮(篤子)に参向】
(未入力)
中右記 嘉承3年4月8日
(天仁元年)
【中宮(篤子)灌仏】
(未入力)
中右記 嘉承3年4月12日
(天仁元年)
【藤原宗忠、中宮(篤子)に参上】
(未入力)
殿暦
中右記
嘉承3年5月19日
(天仁元年)
【中宮(篤子)、御仏供養を行う】
(未入力)
殿暦 嘉承3年6月13日
(天仁元年)
【藤原忠実、中宮(篤子)に参向】
(未入力)
中右記 嘉承3年6月21日
(天仁元年)
【藤原宗忠、中宮(篤子)に参上】
(未入力)
中右記 嘉承3年6月23日
(天仁元年)
【中宮(篤子)、堀河天皇の為に三尺普賢像及び経一部を供養】
(未入力)
殿暦
中右記
嘉承3年6月24日
(天仁元年)
【源麗子、堀河天皇の為に仏事を中宮(篤子)御所に修める】
(未入力)
殿暦 嘉承3年7月1日
(天仁元年)
【藤原忠実、中宮(篤子)に参向】
(未入力)
殿暦
中右記
讃岐典侍日記
嘉承3年7月18日
(天仁元年)
【中宮(篤子)千部御経供養結願】
(未入力)
中右記 嘉承3年7月28日
(天仁元年)
【中宮(篤子)素服を除く】
(未入力)
中右記 天仁元年8月19日 【堀河院国忌。中宮(篤子)例講】
(未入力)
中右記 天仁元年9月13日 【中宮(篤子)不例】
(未入力)
殿暦 嘉承3年9月27日
(天仁元年)
【藤原忠実、中宮(篤子)に参向】
(未入力)
殿暦 天仁元年10月4日 【中宮(篤子)不例】
(未入力)
中右記 天仁元年11月7日 【藤原宗忠、中宮(篤子)に参上】
(未入力)
中右記 天仁元年12月24日 【中宮(篤子)御仏名】
(未入力)
殿暦 天仁2年1月3日 【藤原忠実、中宮(篤子)に拝賀】
(未入力)
殿暦 天仁2年4月8日 【中宮(篤子)灌仏停止】
(未入力)
殿暦 天仁2年6月23日 【中宮(篤子)御堂に仏像安置】
(未入力)
百錬抄 天仁2年6月29日  中宮職供養京極堂。
殿暦 天仁2年7月11日 【藤原忠実、中宮(篤子)に参向】
(未入力)
殿暦 天仁2年8月18日 【白河法皇、鳥羽殿で御塔供養】
(未入力)
殿暦 天仁2年10月10日 【藤原忠実、中宮(篤子)に参向】
(未入力)
殿暦 天仁3年1月2日
(天永元年)
【藤原忠実、中宮(篤子)に拝賀】
(未入力)
殿暦
永昌記
天仁3年3月2日
(天永元年)
【慶申。中宮(篤子)に拝賀】
(未入力)
殿暦 天仁3年4月8日
(天永元年)
【中宮(篤子)灌仏】
(未入力)
殿暦 天永2年1月3日 【藤原忠実、中宮(篤子)に拝賀】
(未入力)
殿暦
中右記
長秋記
ほか
天永2年1月10日 【中宮(篤子)初めて京極堂修正を行う】
(未入力)
中右記
殿暦
天永2年5月7日 【中宮(篤子)御経を法華堂に供養】
(未入力)
殿暦 天永2年6月29日 【中宮(篤子)京極御堂供養】
(未入力)
殿暦
中右記
天永2年12月27日 【中宮(篤子)御仏名】
(未入力)
殿暦 天永3年1月2日 【藤原忠実、中宮(篤子)に拝賀】
(未入力)
殿暦 天永3年3月18日 【藤原忠実、中宮(篤子)に慶申】
(未入力)
殿暦
中右記
天永3年4月8日 【中宮(篤子)灌仏を停止】
(未入力)
殿暦 天永3年5月8日 【藤原忠実、中宮(篤子)に参向】
(未入力)
殿暦
中右記
天永3年7月19日 【中宮(篤子)御仏経を堀河院に供養】
(未入力)
中右記 天永3年9月18日 【中宮(篤子)不予】
(未入力)
殿暦
中右記
天永3年9月28日 【中宮(篤子)御読経供養始】
(未入力)
殿暦 天永3年10月3日 【藤原忠実、中宮(篤子)に参向】
(未入力)
殿暦
中右記
天永3年12月26日 【中宮(篤子)御仏名】
(未入力)
殿暦 天永4年1月5日
(永久元年)
【藤原忠実、中宮(篤子)に拝賀】
(未入力)
長秋記 天永4年1月9日
(永久元年)
【中宮(篤子)行啓のこと】
(未入力)
殿暦
長秋記
天永4年2月15日
(永久元年)
【中宮(篤子)涅槃講】
(未入力)
殿暦
長秋記
天永4年3月14日
(永久元年)
【中宮(篤子)、童舞を観覧】
(未入力)
長秋記 天永4年閏3月11日
(永久元年)
【中宮(篤子)、御堂より堀河院に還啓】
(未入力)
殿暦 天永4年4月8日
(永久元年)
【中宮(篤子)灌仏を停止】
(未入力)
殿暦 永久元年7月17日 【中宮(篤子)堀河院御堂供養定】
(未入力)
殿暦
長秋記
ほか
永久元年7月24日 【中宮(篤子)、堀河院御堂を供養】
(未入力)
殿暦 永久2年1月3日 【藤原忠実、中宮(篤子)に拝賀】
(未入力)
中右記 永久2年4月1日 【藤原忠実、深長(ふこさ)相論田について沙汰】
(未入力)
中右記 永久2年5月16日 【師実・麗子夫妻の仏事に中宮(篤子)参加】
(未入力)
中右記 永久2年5月24日 【藤原忠実、深長(ふこさ)相論田について沙汰】
(未入力)
中右記 永久2年6月21日 【藤原忠実、深長(ふこさ)相論田について沙汰】
(未入力)
殿暦
中右記
永久2年7月19日 【中宮(篤子)、堀河天皇の国忌に、堀河院西対御堂で御経を供養】
(未入力)
中右記 永久2年8月20日 【中宮(篤子)御逆修結願、観音像供養】
(未入力)
殿暦 永久2年8月28日 【中宮(篤子)御悩】
(未入力)
中右記 永久2年9月11日 【中宮(篤子)不予】
(前略)午後退出之次參中宮(篤子)<堀川院、>御惱重御之由、所被談也、
殿暦
中右記
帝王編年記
百錬抄
ほか
永久2年10月1日 【中宮(篤子内親王)崩御】
『殿暦』
 雨甚降、早旦早馬、申剋許自中宮亮(藤原)仲實許告送云、日來御心地無術御坐云々、頃之中宮〃司家時、大夫(藤原能実)爲使來云、未剋許中宮(篤子)已萌[崩]給者、乍驚欲馳參之處、主上(鳥羽天皇)御服并明日行幸事極不便也、仍先參院、自本民部卿(源俊明)・別當(藤原宗忠)・大藏卿(藤原為房)候、有此行幸并主上御服沙汰也、仰云、無召先參入条感養[思食?]云々、有沙汰、平座并行幸停止、神殿御裝束事行幸[事?]并(藤原)爲隆許<ニ>遣史生云、神殿御裝束并御所蔀屋御裝束等<を>不可奉仕、有中宮御事、行幸已有延引者、戌剋許各退出、余依方違參四条宮(藤原寛子)<御所大符[内符(源雅実)]土御土[門?]亭也、>除服之後未參、仍惡日也、不參御前、中宮今夜彼宮内侍〃雲林院堂<に(※)>渡給、其儀如蜜[密?]〃行啓、是御遺言云々、件堂中自去春比被儲墓所、<土葬也、新立堂之中可御坐定被造置云々、>渡給之間、御車本宮、御車牛亮仲實進之、權大夫可進上、而依憚日不進也、三日内可渡之由有御遺[言脱?]上、自明日有冬節忌、仍入棺以前渡給也、御車後有女房二人、無先火云々、

『中右記』
 今日未剋中宮(篤子)已崩給了、(中略)
中宮名篤子、後三条院第四女、與太上天皇同母也、知暦四年為内親王、<九、>延久元年叙三品、同五年三月十一日卜定賀茂斎院、五月七日退斎院、<依後三条院崩也、>承暦三年八月准后、是依為祖母陽明門院養子、女院申請也、
寛治五年十月廿五日入内、同七年二月二十二日為中宮、<三十四、>嘉承二年九月為尼、今日崩于堀河院、御年五十五、依年来御悩也、後聞、今夜中宮渡御雲林院掌侍堂、只如御平生時、未入棺先用常御車、女房二人候御車後、(中宮)(藤原)仲実朝臣以下両三人祇候云々、依御遺言也、冬節以前被忿也、
(裏書云)
今夜中宮密々渡御雲林院邊小堂之間、人々騎馬云々、後日民部卿(源俊明)被談云、如此之時先例猶歩行也、賢子中宮崩三条院皇居之後、葬禮以前渡御給経成朝臣四条宅■[之?]時、人々歩行者、後冷泉院母尚侍(藤原嬉子)薨給之後、葬禮以前渡御法興院僧坊給時、人々歩行云々、先々如此、今度騎馬之條不得心者

『帝王編年記』
(鳥羽院後宮)
 中宮篤子内親王<永久二年十月一日崩于堀川院 五十五>

『百錬抄』
(鳥羽天皇)
 中宮篤子崩于堀川院。<五十五。>天皇(鳥羽)著錫紵。依繼母也。先令諸卿定申。上皇(白河)同著御錫紵。

※「に」はくずし字。字母は「尓」
殿暦
中右記
永久2年10月2日 【中宮(篤子)の遺骸を雲林院掌侍堂に葬送】
『中右記』
 或人云、今夜中宮(篤子)奉殯雲林院掌侍堂中地、本建立小堂、其中作壇、壇中乍御棺報収云々、今日御入棺者、

『殿暦』
(未入力)
殿暦 永久2年10月5日 【中宮(篤子)薨奏。天皇錫紵を一日著し、廃朝五日と為す。
法皇、同じく錫紵を著す】
(未入力)
中右記 永久2年10月7日 【中宮(篤子)崩御に際し、天皇の服喪期間他を検討】
 早旦依有召參院、雖御物忌候殿上、民部卿、<俊(源俊明)、>大蔵卿<爲(藤原為房)>、兼參入、頃而殿下令參給、<皆直衣、>頭辨、<實行、>覽諸道勘文、<外記明經、紀傳儒宗在良朝臣、明法、>是中宮(篤子)崩後雜事、主上御錫紵有無日數等事也、内々於院殿上被相定也、大藏卿讀申勘文、頗勘文趣不相定也、但法家勘文稱嫡母由、依一月服可有御錫紵三箇日之由勘申也、仍可定申博士二人、<信貞、明兼、>大外記師遠被召儲也、人々相議云、已構一月御服、依以日易月、可有一日也、而稱三箇日由如何、明法申云、先儒直本勘文勘件旨也、人々被申云、猶此事不可然、一日御錫紵可有也、仰云、一日錫紵不可服由、見延喜御記也、然又故匡房卿昔年郁芳門院(白河皇女)崩給時勘申云、雅明親王(醍醐養子)延喜七[年]十月薨、主上(鳥羽天皇)服錫紵一日中除御、天徳四年四月理子内親王(村上皇女)薨、主上服錫紵一日中除御、雖一日先例有御錫紵也、依彼卿申、永長元年八月上皇服錫紵一日中除御也、<温子中宮(宇多妃、醍醐養母)時依養帝、三箇日錫紵、>只今光平又申云、舊勘文中媄子内親王(一条皇女)寛弘五年五月廿五日薨、<九歳、>主上服錫紵一日中除御也、如此例雖一日着御者、非飛び地被申云、然者一日着御錫紵則除御、何事候哉、但延喜温子皇后依養母志、三日錫紵之由、見御記也、於此中宮者、奉於今上(鳥羽天皇)無所養儀、只任法嫡母繼母之儀也、仍可有一月服之故、一日御錫紵可然歟、仰云、然者今夜着御除御可宜者、又仰云、警固々闕廢朝日數如何、被問大外記、申云、不論親疎、皇后崩時皆五箇日也、仰云、可有五箇日、又仰云、今月賀茂八幡行幸并伊勢公卿敕使被遂如何、被問大外記、申云、皇后崩月内、件兩事殊所不見也、但皇后宮馨子(後三条后)寛治六年九月五日崩、十一日例幣延引、例事猶延引、況於臨時之使哉、仰云、然者御幸伊勢敕使可在来月歟、但承保元年十月三日上東門院(一条后、後一条・後朱雀母)崩給、彼月内有大嘗會御禊、依彼例者何此月内無大神事哉、彼時無御錫紵也、大嘗會例不似常事、猶行幸并伊勢敕使被延可宜者、(後略)
殿暦
中右記
永久2年10月9日 【廃朝五日を三日に改め、上皇錫紵を除く】
(未入力)
中右記 永久2年11月5日 【故中宮(篤子)五七日忌御法会】
(未入力)
兵範記 永久2年11月7日 【関白忠実等、法皇御所で故中宮(篤子)の御服を議する。
法皇、錫紵を著す】
(未入力)
殿暦
中右記
永久2年11月19日 【故中宮(篤子)七七日忌御法会を堀河院で行う】
『中右記』
 今日又故中宮(篤子)御四十九日正日也、仍於堀川院被行云々、

『殿暦』
(未入力)
殿暦
中右記
永久2年11月20日 【新嘗祭。故中宮(篤子)の御忌により、童御覧を停止】
『中右記』
 無童御覧、依故中宮(篤子)御事也、今夜新嘗祭、(後略)

『殿暦』
(未入力)
殿暦 永久2年12月13日 【皇后宮(令子内親王)御所見分】
(未入力)
殿暦
中右記
永久3年10月1日 【故中宮(篤子)の祥月により、前中宮大夫藤原能実、両部曼陀羅、妙法蓮華経等を図写し、法会を修める】
(未入力)
殿暦 永久4年1月18日 【故中宮(篤子)京極御堂修正のこと】
(未入力)
殿暦 永久5年1月8日 【京都火災。法成寺、中宮(篤子)御堂ほか焼失】
(未入力)
長秋記 元永2年10月27日 【故中宮篤子内親王家の女房、雲林院において十種供養を行う】
(未入力)
百錬抄 大治4年3月19日  證菩提院供養。件寺。故中宮篤子御願也。



史料 記述
十三代要略
後三條院
(皇女)
 篤子内親王 母同(贈從二位藤原茂子<權大納言能信女。>)。
  延久元年六月十九日。三品。
  同五年三月十一日。卜定賀茂齋院。

白河院
 延久五年 三月十一日。卜定賀茂斎院。<篤子内親王。>
      (五月)七日。太上皇終崩給。<年四十。>

堀川院
 寛治五年 (十月)廿五日。三品馬[篤]子内親王入内。<卅二。>
 寛治七年 (二月)廿三日。以馬[篤]子内親王。爲中宮。
      (三月)廿二日。中宮立后之後。初行啓于大内。
 康和二年 十月七日。供養中宮御願寺。
 長治元年 十二月五日。行幸中宮御所堀川院。
 長治二年 (正月)五日。行幸法皇大炊御門仙居。后宮行啓。
 嘉承元年 (十二月)廿五日。行幸中宮堀川院。
(後宮)
 中宮 篤子内親王<後三條院第四/女母同法皇(白河院)。>
  寛治五年十月廿五日。入内。<卅二。>
  同七年二月。爲中宮。
  嘉承二年九月廿一日。爲尼。<四十八。>

鳥羽院
 永久二年 十月一日。中宮崩于堀川院。<五十五。>
一代要記
後三條院天皇
(皇女)
 篤子内ヽヽ[親王]<治暦四ー八月十四日爲内親王、延久元ー六月十九日敍三品、同五ー三月十一日卜定賀茂齊、同五ー七月[日]退之、依天皇登霞也、>

白河院天皇
(賀茂)
 篤子内ヽヽ[親王]
 <延久五ー三月十一日賀茂齊、同七[五]月退之、太上天皇登霞、寛治五ー入内、>

堀河院天皇
(後宮)
 中宮 篤子内ヽヽ[親王]<後三條院第四女、寛治五ー十月廿五日入内、<卅二、>即爲女御、同七ー三[二]月廿二日冊爲中宮、嘉祥二ー [九]月廿一日落餝爲尼、>

鳥羽院天皇
(後宮)
 中宮 篤子内親王<嘉承三[二]ー 月 日出家、永久二ー十月一日崩、<五十五、>>
帝王編年記
後三條院
(皇女)
 「中宮」篤子〃〃〃[内親王]<堀川/院后>

堀河院
(後宮)
 中宮篤子内親王<後三條院第四皇女/寛治七年三月廿二日立后>

鳥羽院
(後宮)
 中宮篤子内親王<永久二年十月一日崩于堀川院/五十五>
本朝皇胤紹運録
(後三條院子)
篤子内親王[齋院准后。堀河院御時中宮。母同(能信卿女。實公成卿女。)]
賀茂斎院記
篤子内親王
後三条院第七皇女也。母同佳子。或曰女御基子。<源基平之女。>
延久五年卜定。其後堀河院納之為中宮。
栄花物語
(36・根合はせ)
【東宮御息所茂子と所生の皇子女】
 東宮大夫(能信)の滋野井の女御殿(茂子)、男御子一所(貞仁親王=白河天皇)、女宮三所四所(聡子内親王、俊子内親王、佳子内親王、篤子内親王)おはしまして、いと頼もしくめでたく見えさせたまふ。
栄花物語
(38・松のしづえ)
【篤子内親王の斎院卜定】
 今の斎院(佳子内親王)も、わづらはせたまひて、おりさせたまひぬれば、女院(陽明門院禎子内親王)におはしましつる四の宮(篤子内親王)ゐさせたまひぬ。高倉殿の宮(祐子内親王、後朱雀皇女)、斎院にゐさせたまふべしなどいふことありて、今さらにとや思しめしけん、尼にならせたまふとて、十二月の八日、戒受けさせたまふとののしれど、人は「ならせたまはぬ」とも申すめるは、いづれかまことならん。内(後三条天皇)にはいみじくむつからせたまひて、年官年爵(つかさかうぶり)とまるなど、世人は申すめり。
栄花物語
(40・紫野)
【大嘗会御禊】
 御禊十月二十一日なり。(中略) 摂政殿(師実)をはじめたてまつりて、残りたまふ人なく仕うまつりたまへり。殿の上(師実室麗子)、姫宮たち、院(白河院)、前斎宮(媞子内親王)などみな御桟敷にて御覧ず。陽明門院、四の宮(篤子内親王)なども御覧じけり。
讃岐典侍日記
(上)
【中宮篤子、病床の堀河天皇を見舞う】
 大殿(関白忠実)立たせたまひぬれば、引き被きたる単衣引き退けて、うちあふぎまゐらせなどするほどに、宮(中宮篤子)の御かたより、宣旨、おほせ書きにて、「三位(藤原兼子、作者の姉)などのさぶらはるるをりこそ、こまかに御有様も聞きまゐらすれ、おほかたの御返りのみ聞くなん、おぼつかなき。昔の御ゆかりには、そこをなんおなじう身におぼしめす。今の御有様、こまかに申させたまへ」とあり。「たが文ぞ」と問はせたまへば、「あの御かたより」と申せなば、「昼つかた、のぼらせたまへ」とおほせごとあれば、さ書きて。
 (中宮が)参らせたまへば、昼つかたになるほどに、道具など取り退けて、みな人々、うちやすめとておりぬ。(中略)
 しばしばかりありて、御扇打ち鳴らして召す、「それ取りて」とおほせらるべきことありければ、召して、「なほ障子立ててよ」とおほせらる。なほ(帝が中宮に)おほせらることありと見えたり。立ち退く。御障子立てて、(中宮が)「御扇ならさせたまへ」と申させたまひければ、御障子開くこと、無期になりぬ。
 夕つかた、帰らせたまひぬれば、たれもたれも参りあひぬ。(中略)

 例の御かたより(中宮から作者へ)人つかはしたり。「さる心などなき人と聞けば、せめて思ひやるかたのなければ、いふなり。こなたへただ今のぼり参りなんや。道などぞふたがりて、かたはらいたくおぼしめせ」とおほせられたれば、いかでかは参らじと申さん、「うけたまはりぬ」と申したれば、「さらば、今のほどに」とおほせられたれば、参りぬ。
 離れぬ人(縁のある人)なれば、宣旨をぞあはせさせたまひて、御心地の有様問はせたまふ。見まゐらするままに申さんも、おびただしく申しちらしけりなど、漏れ聞こえてあしきこともやなどおぼゆれば、さもえ申さず。また、わざと召して問はせたまふに、申さざらんもあしかりぬべければ、「ただ、のぼりて見まゐらせたまへ。さは、いみじう苦しげに見えさせたまふ」と申せば、「さは、もしや通りよからんひまに」と申して、とくかへしつかはしつ。(中略)
 かやうののちならば、夜も明けぬべければ、「宮の御かたより召しつれば、参りたりつれば、かうかうこそおほせられつれ」と申す。「道の所せきぞ」と弱げにおほせらるる、苦しげにおぼしめしたり。殿にも、「のぼりて見せまゐらせばや」と申させたまひければ、今のほど宮のぼらせまゐらせん、ものさわがしきからぬさきにと思ふに、「のぼらせたまひぬれば。『御かたはらに人のなきがあしきぞ』とさたせられて、そのよしを申されるなめり、帰り参らせたまひて、『ただ典侍ばかりはさぶらへ』とおほせらるる」とて、三位殿おはして、殿たち、みな障子の外に出でさせたまひぬ。(中略)
「宮のぼらせたまひたり」と案内申せば、「いづら、いづこ」などおほせらるるは、むげに御耳も聞かせたまはぬにやと思ふに、心憂くおぼゆ。「その御几帳のもとに」と申せば、「いづら」と、御几帳のつまを引き上げさせたまへば、(中宮が)「ここに」と申させたまふ。ものなど申させたまはんとぞおぼしめすらんと思へば、御あとのかたにすべりおりぬ。ちがひて、長押のうへに宮のぼらせたまひ、しばしばかり何ごとにか申させたまふ。殿の御声にて、「ひさしくこそなりぬれ。御かゆなどはや参らせんや」とおほせらるるに、宮、聞かせたまひて、「今は、さは、帰りなん。明日の夜も」とおほせられて、帰らせたまひぬ。
讃岐典侍日記
(下)
【讃岐典侍、中宮の三十講に参上、中宮と対面】
 宮(中宮)の御かたに、三十講をおこなはせたまふとて、法華経を日に一品づつ講ぜさせたまふ。それ聞きに三位殿(藤原兼子、作者の姉)の参らせたまふに具して参りて、講などはてて、御前近く三位殿を召せばさぶらはる。宰相とてさぶらはるる人、「三位殿はいますこし近く参らせたまへ。典侍どのは今ははづかし」といふを聞かせたまひて、「それしもこそこころざし見ゆれ。見だてなく思ひ出でもなげに見ゆるところを、忘れず見ゆる」とおほせられもはてず、むせかへらせたまへる音の聞こゆるに、われも堪へがたし。
今鏡
(2・玉章)
 さて、この(堀河天皇の)御時に御息所はこれから定められ給へりけれども、御叔母の前斎院(篤子)ぞ女御に参り給ひて、中宮に立ち給ひし。
 ことのほかの御齢(よわい)なれど、幼くよりたぐひなく見とりたてまつらせ給ひて、ただ四宮(篤子)をとかやおぼせりければにや侍りけむ。
 参らせ給ひける夜も、いとあはぬ事にて、御車にもたてまつらざりければ、暁近くなるまでぞ心もとなく侍りける。鳥羽の御門の御母の女御殿(苡子)もまゐり給ひて、院(白河院)もてなし聞えさせ給へば、はなやかにおはしまししかども、中宮は尽きせぬ御心ざしになむ聞えさせ給ひし。女御うせさせ給ひての頃、

  梓弓春の山べの霞こそ恋しき人のかたみなりけれ

と詠ませ給へりけるこそ、あはれに御なさけおほく聞え侍りしか。
今鏡
(6・ますみの影)
 白河院一つ御腹の御妹は、仁和寺の一品宮とて、近くまでおはしましき。聡子内親王と申すなるべし。(中略)
 その妹にて、篤子の内親王と申ししも、みな同じ御はらからなり。はじめ延久元年、賀茂の斎院(いつき)に立ち給ひて、同(おなじき)五年に院(父後三条院)うせさせ給ひしかば、前斎院(さきのさいいん)にておはしまししに、祖母(おば)の女院(陽明門院)の御譲りにて、准后御封など賜はらせ給へりし程に、堀川の帝の御時、后にたち給ひき。帝よりは、御としことのほかにおとなにおはしければ、世にうたふ歌なむ侍りけるとかや。


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