伊藤 元重(東京大学大学院教授)

 景気が回復する中で、人材不足への懸念が強くなっている。住宅建設や公共事業では人材確保が困難で、建設コストアップや公共事業の延期につながっている。造船業界なども、建設分野に人材がとられて大変だという。安い労働力をふんだんに利用してきた外食産業では、人材確保が難しいということで、一部の店舗の閉鎖を決めた。少子高齢化の下で生産年齢人口は今後急速に縮小する見込みで、労働不足の問題はさらに深刻になりそうだ。労働不足が日本経済の足を引っ張るという見方をする人さえ出てきた。

 人材不足の問題は確かに深刻かもしれない。しかし、人材不足問題こそ、日本の雇用の構造的問題を解決する大きなチャンスかもしれない。長い景気低迷の中で、多くの企業が低廉な労働者を使い捨てにするような経営をしてきた。非正規雇用の仕事にしかつけない若者の数が増えてしまった。企業は従業員のスキルアップのための投資を大幅に減らしてきた。おかげで、日本の産業の労働生産性は、諸外国に比べて見劣りするような状況である。

 1980年代末のバブルの時期に自動車メーカー幹部から聞いた話が忘れられない。「労働者不足は深刻で1人の労働力を節約するためならロボットなどに4千万円まで投資しても惜しくない」と発言したのだ。それだけ労働者不足は深刻であったのだろう。深刻であるからこそ労働節約的な資本への投資を行うというのだ。当然、従業員のスキルを最大限に向上させるような教育訓練も重視しただろうし、現場の労働生産性を高めるための工程見直しなども徹底しておこなったはずだ。

 必要は発明の母とも言う。労働者不足が深刻になるほど貴重な労働力を有効に利用できるように企業も努力することになる。これは労働の使い捨てではなく、従業員のスキルアップを重視する経営であるはずだ。安い労働に依存した低い生産性の企業は淘汰(とうた)され、賃金コストは高くても労働生産性の高い企業が競争上も有利になる。労働力に代替する資本設備への投資が拡大することは投資需要を通じて経済拡大に寄与するはずだ。

 政府は労働市場改革に取り組んでいる。一部に強い反対がありながらも、労働時間規制を適用しないホワイトカラー・エグゼンプションの一部導入に踏み切ろうとしている。女性の活躍を支援する政策も、労働力を強化する上では有効であろう。一連の改革を通じて、日本の労働の生産性をいかに引き上げていくのかがポイントとなる。

 経済学者の間ではよく話題になるが、失われた20年の間に、日本の無形資産(intangible assets)への投資が低調であった。その典型が人材のスキルアップへの投資だ。経済学者が「人的資本」(ヒューマン・キャピタル)と呼ぶものだ。無形資産への投資を拡大することが日本の成長力を高めるためには必須であるという。労働不足の問題が、人的資本や資本設備への投資を拡大する動きにつながることを期待したい。

 伊藤 元重(東京大学大学院教授)
 昭和26年、静岡県生まれ。東京大学経済学部卒。米ロチェスター大学大学院経済学部博士課程修了。東京大学経済学部長、同大学院経済学研究科長を歴任。専門は国際経済学。著書に「危機を超えて すべてがわかる『世界大不況』講義」など。