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山手学院25年の歩み
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建学前史 姉弟の戦後史(昭和20年~35年)
山手学院の歴史は、横浜で生まれ育ち、悲惨な第2次世界大戦を体験した姉弟の戦後史から幕を開ける。
姉、江守節子先生 ( 以下節子と略 ) が疎開先から空襲で焼け野原と化した横浜に戻り、保土ケ谷区のアパートの1室で個人塾を開いたのは、終戦後わずか1か月の昭和20年9月のことであった。若くして単身アメリカに留学、英語教師の道を歩んだ節子にとって、英語が敵性語として禁じられた戦時中は失意の時代であった。日本の降伏により一転して英語が必須の情勢になったのを見て、持ち前の行動力を発揮したのが個人塾開設であった。この小さなアパートの6畳一間の1室が、実にわが山手学院の草創だったのである。

昭和20年代の節子先生 愛娘光子さんと
昭和20年代の節子先生
愛娘光子さんと
生徒数十数人、空き部屋を探して転々とする私塾も、昭和22年5月、横浜山手町の元街小学校の放課後の教室を借り、 「 山手英語会 」 として発足した。節子校長以下教師 3名、幹男事務長 ( 東大在学中 ) 以下事務スタッフ 3名、開講当日の生徒数は約150名であった。
昭和23年には 「 山手英学院 」 と改称、各種学校として認可を受ける。 24年には日ノ出町に土地を買収、初めて専用校舎を所有した。昭和25年には 「 学校法人山手英学院 」 を設立。初代理事長には姉弟の父、松信大助有隣堂社長が就任した。
東大卒業後就職していた幹男も会社を退職、学校経営に専念することになった。幹男の経営の才腕はとどまるところを知らず、わずか10年余にして山手英学院は、県下一の各種学校・予備校として名声を誇ることになる。各種学校の全国組織をつくりあげ、その地位の向上を成し遂げたのも、また幹男であった。彼の先見性、行動力、そして人間的魅力を讃える声は、いまだに多い。
昭和28年には、父大助理事長が死去、幹男が理事長に就任している。
幹男理事長がいつ 「 山手学院中・高等学校 」 の構想を持ったかは正確にはわからない。しかし、理事長への就任と前後して、すでに 「 21世紀の世界に対応し、21世紀をリードするために、新たに中学・高校6年制の学校を建設し、教育の改革進歩の実践の道を歩みたい 」 と親友に語ったという。
昭和30年代に入ると山手学院構想は具体化に入り、全寮制の中高一貫教育という当時としては途方もないスケールの大きな新校建設に向かって動きはじめる。日ノ出町の各種学校を建設したとき、 「 美しい環境がなければ教育は行えない 」 として、資金の多くをトイレづくりに注ぎ込んだという幹男理事長の信念を反映して、広大な敷地のなかに、校舎・寮はもちろん、美しい庭園までもその計画に含めたのである。それは、現代のキャンパスづくりの、まさに先駆であった。
昭和34年12月には中・高等学校開設計画が承認され、翌35年には用地買収が開始された。
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