2020年08月25日

◆【変見自在】日本語とラテン語

高山 正之 



「我々の支那語には吃驚するほど日本語がある」というテーマで王彬彬(オウヒンヒン)南京大教授が論文を書いている。


以下、掻い摘むと、今の支那語には70%もの日本製漢語、つまり日本語が入っている。

 日本語は嫌だと思ったところで、それなしでは「我々支那人は会話もできなければ文章も書くこともできない」のが実情だ。

 「それは日本人が西洋の相応する語句を漢字表記したもので、今では我々の言葉の中にしっかり根を下ろしている」からだ。

 「過去には我々製の言葉に置き換えようと努力したこともある。例えば電話を徳律風としたが分かり易さで電話には敵わずに消えていった」「唯一、日本製の言葉を支那語に置き換えられたのは虎列拉(コレラ)を霍乱としたくらいだった」

 病原菌では世界に冠たる国柄だ、こういうところにプライドが覗く。

 王彬彬によると支那に日本語が入ってきたのは戊戌の政変で日本に逃げた梁啓超(りょうけいちょう)が日本の小説『佳人之奇遇』を漢訳したことがきっかけだったという。

 小説の粗筋は薩長に敗れた会津藩士が米国に渡り、そこで支那人青年と会う。彼もまた祖国を列強に蚕食され、おまけに日本にも負けた傷心を引きずる。

 二人は「小国の悲哀」を語り、国家の在り方を論じ、それに弱い国アイルランド出身の美女が絡む。

 それは世界を知らない支那の民には新鮮な刺激で翻訳本は大当たりした。

 梁啓超は漢訳の際、日本製漢語の「民主主義」や「革命」「政治」などをそのまま使った。

 支那語は具象語だらけで思想とか心象とかの抽象語が少ない。だから日本語は彼らが全く新しい世界を開く鍵となり、日本語を通して彼らは西洋文化を吸収していった。

 彼は別の書で日本語を学ぶのが世界の知識を得る近道だと勧めている。

 魯迅も同じで、日本から持ち帰った教科書をそのまま翻訳して支那の師範学校の教科書にしている。

 因みに梁啓超も魯迅も支那を小国と思って拗(す)ねていた。見かねた日本人が「支那は世界四大文明の一つを持っている」「唐や清の絢爛の文化は世界に比類ない」とか慰めてやった。

 唐も清も実は鮮卑や満洲人の王朝で、花開いた文化も支那人とは無関係だったが、そういう史実は敢えて教えなかった。

 それで彼らは舞い上がり、ついに習近平の「偉大な漢民族」とかいう錯覚を招くが、それは措く。

 王彬彬は日本語が「支那人が英仏独など様々な外国語をマスターし原典を漢訳する手間を省き、相応しい漢語がねければぴったりくる新語を造る苦労も省いてくれた」ことを認める。

 遅れたゲルマンにとってのラテン語の役割を日本語は果たしたわけだ。

 それで支那語の70%を日本語が占める現在があるが、それでも「我々が西洋の概念を語り、考えるとき、支那と西洋の間には永遠に日本という存在が挟まっているのだ。ここまで思い至ると思わず鳥肌が立ってくる」と結ぶ。

 梁啓超本で支那人が日本語に触れたのは1898年だが、台湾にも同じ頃、日本語が入っている。

 こちらは日本人教師6人が赴任して芝山巌(しざんがん)で直に日本語を教えた。彼らが匪賊に惨殺されると45人が志願して遺志を継いだ。

 そうした努力があって30年後に台北帝大が開学している。

 先日、鬼籍に入った李登輝も日本語を通して世界を学んだ一人だった。

 それが問題だと先日の天声人語が司馬遼太郎に語らせていた。

 司馬は日本語を語る台湾の老人に会って「言いようのない寂しさ」に沈む。

 彼は明治以降の日本を意味もなく貶(けな)す。「日本語を強いられたアジア人」と韓国人風に考える。彼は産経新聞出身だが心根は昔から朝日新聞だった。

 天声人語も司馬に乗って李登輝の姿に「日本語をすり込まれた歳月の長さを思わせて寂しい」と腐す。

 王彬彬が読んだら呆れかえるだろうよ。


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松本市 久保田 康文さん採録 
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