Fate/AnotherStory -錬鉄の魔術使い-


 

Episode 0 -約束の地へ-

 
前書き
この小説には作者の自己解釈などが多くあります。
主人公最強モノではありませんが、ある種のチートかもしれません。
拙い文章ですが、少しでも楽しんでいただければと思います。 

 


 ――おまえはどちらを守るのだ?

 暗く果てのない微睡みの中で彼――衛宮士郎(えみやしろう)が思い返したのはその一言からだった。
 どうして、なによりも先にそんな言葉を思い出したのか――それすらもわからない。
 何故――そんな疑問をゆっくりと反芻しながら、意識の奥へと深く、深く潜っていく。

 ――自身の理想、その信念を守るために自分を殺すかどうかを決断しておけ。
 
 それは、まるで十字架を背負わされたような重みを感じさせる真言だった。
 正義の味方になると、固く誓って生きてきたこれまでの年月――。
 多くの人を救うためにあろうとしてきた男が、たった一人を守りたいと願う事に惑うのは当然の事だ。

 ――わかっているな。おまえが戦うもの。おまえが殺すべきものが、誰であるかという事を。

 分かっていた――そんなことは、誰に言われなくてもわかっていたのだ。
 戦いを止める為に、無関係な人間を巻き込むマスターを止める為に聖杯戦争に参加した。
 そして、その為にセイバーの力を借りて戦いに身を投じたのだから――。
 セイバーがいなくなってしまっても、その事実は変わらず、覆す事はできない。
 だからこそ、彼女は誰よりも早く優先して止めなければならないマスターなのだと理解していた。

 ――もし違う道を選ぶというのなら、衛宮士郎に未来などない。
 
 それは、道に迷う者に対して道を歩き通した男からの言葉だった。
 これまで人々を生かす為に在り続けてきた者が、その誓いを曲げて一人を生かす為に人々を切り捨てる事など出来るはずがない。
 今までの自身を否定し、それでもたった一人を生かすというのなら――その罪は必ず自身を裁くだろう……と。
 予言めいた言葉を向けられるが、それを疑う余地など微塵もない。
 彼女が災厄をまき散らす存在であるというのなら、多くを救う正義の味方は迷うことなくそれを討たなければならない。
 衛宮士郎はその為に……理不尽な災厄から人々を救うからと誓うことで、これまでを生きていられたのだから――。

 ――だから、シロウが何したってシロウの味方をしてあげる。

 決断を迷う士郎に対して、白い少女は軽やかな笑みを浮かべる。
 誰かの味方をするということ――その動機を、彼女はあっさりと簡単に告げてみせた。

 ――好きな子のことを守るのは当たり前でしょ。そんなの、わたしだって知ってるんだから。
 
 事も無げに告げる彼女を前にして、もう自身に嘘を吐いて前に進むことはできないと悟った。
 責任の所在や善悪の有無――それらに追われるよりも、たった一人の彼女を失う事のほうが重いと感じたからだ。
 ――だから、それはきっと決意を固めるなんて大それたものではなかったのだろう。
 だれに問われるまでもなく、衛宮士郎は彼女を――間桐桜(まとうさくら)を守りたいと願っただけなのだから――。
 
 ――帰れません。いまさら、どこに帰れっていうんですか。
 
 知られまいとしていた真実を知られて逃げ出した桜を追いかけていく。
 追いついたその背に向けて家に戻ろうと告げて拒絶される。それは彼女の精一杯の強がりだったのだろう。
 何も出来なかった事を……嘘をついていたことを恐れて、決断することも逃避することすらもできなかった桜――。
 拠り所としていた場所すら失ってしまったと絶望するその姿を――彼女の泣き顔を見て、彼女が泣いている姿を初めて目にした事実に後悔した。
 これまで決して短いとは言えない時間を共に過ごしてきた彼女が、自分を責めるコトでしか泣けない意味に、どうしてもっと早く気づけなかったのか……と――。
 
 ――だから、俺が守る。どんな事になっても、桜自身が桜を殺そうとしても――俺が、桜を守るよ。
 
 それが誓い――衛宮士郎には救うことの出来ない少女に対して、ただ傍にいると告げた。
 報われることはないとわかっていた。自身のこれまでを裏切っているのだから、報われる事がないというのは道理だろう。
 
 ――この先に、何があったとしても。貴方はサクラの味方ですか、士郎。

 桜に仕える人からの言葉に、士郎は即答することができなかった。
 それは、その言葉が何を指しているのかを心のどこかで気づいていたからだろう。
 あらゆる願いを叶える願望機。そんなモノでさえ、彼女を幸福にするという願いは叶えることのできない幻想なのだということを――。





・――・――・――・――・――・――・





 薄暗いどこかで微睡んでいた男――衛宮士郎は、目を開けて先程まで思い出していた何かを反芻する。
 それがどんなものなのか、どのような感情を抱いたのか、はっきりとした形で思い出す事が出来ずに首を捻る。
 けれど体は動かず、そもそも自分自身というものすら曖昧にしか感じられなかった。
 はっきりとわかるのは自身の名前と自身がどこにいるのか……という事。そして、すぐ目の前に自分以外の誰かがいるのだという事だけだった。

「――それで、貴方はここで一体何を望むの?」

 問いかけるような声が静かに響いた。
 どこか冷めたようなその声音は、聞き慣れない女性のものだった。
 同時に、闇色しかなかった世界……曖昧でしか無かった自身が形を取り戻す。
 自身を取り戻した士郎は意識の全てを集中し、目の前に立つ見知らぬ女性に視線を合わせた。

「……望み?」
「そう。全てを記録するこの聖杯の中で、貴方は一体何を望むの?」

 問いかけはもう一度――闇の中にあって輪郭すら定かではないというのに、声の主は堂々とした姿のままで問いかけてくる。

「……思い出したい」

 その問いかけに間を置かずに応える。それは、いまだ全てを失ったままの男に残された小さくも確かな火種だった。
 忘れてしまった大切な出来事や忘れてしまった大切な人たち――忘れてしまった約束を思い出したいのだ……と、士郎は心の底からの願いを口にする。

「なら、聖杯に身を委ねればいい。貴方なら、もう一度しっかりと思い出すことがきっと出来るはずだから」
「……どうして、君は俺のことを知って――いや、俺はどうして君の事を知っているんだ?」

 疑問の声が柔らかな響きを持っていたのは、単に彼女のことを知っていたからだろう。
 多くを忘れ、何もかもを無くしたはずだというのに――それでも、彼女と過ごした短くも長い夢の中の出来事は微かに覚えていた。

「私と貴方は仮初だけど契約で繋がっていたからなのかもしれない。例え全てが夢となって"無かった"ことになっても、その事実はここに残っていたから」

 そうして――彼女は静かに語った。
 かつてこの聖杯――月に実在する本物の聖杯の内部で、その所有権を巡る争いがあった。
 その争いに勝利し、聖杯を得て元の世界へと戻る事ができるのはたった一人――そのたった一人こそが目の前に立つ女性の正体だ。
 ただ、彼女は元々身体を持たない魂だけの存在――帰る場所のない身だった。
 聖杯戦争を終わらせた後、彼女は聖杯の内部で自身が消えるのを待っていたのだという。
 いつまで経っても消えることなく存在していたことを不思議に思った彼女は、そうして聖杯の奥の奥まで潜った末に此処を訪れたらしい。

「私が月の裏側での事――貴方と共に戦っていた事を思い出したのは聖杯に触れて暫くしてからよ。だからってわけじゃないけど、少なくとも私は貴方がこの聖杯の中に留まっていた理由までは知らない」
「……そうか」
「だけど、それは貴方が聖杯の深奥に触れればわかるはず。何であれ、コレは確かに本物の聖杯だから」

 人類史が始まる以前から地球を観測し続けてきた巨大な観測機――。
 過去と現在と未来の全てを識る演算器。それが月の聖杯と呼ばれる本物の聖杯で、ここはその内部なのだと彼女は語る。

「なら、君は全てを知っているんだろう? この聖杯戦争を勝ち抜いたのは、君なんだから」
「確かにその通りね。だけど、聖杯で知る事ができるのは知ろうとすることだけ。私が貴方の事を知っているのは、そういう縁があったからだから」

 どこか清々しく答える姿には迷いも後悔もない。彼女は心からの答えを口にしながら鮮やかに微笑んだ。

「私は先へ進むわね。行き先も帰り道も見えないけど、それでもこの場所から先へと進む。立ち止まることだけは出来ないし、したくないから」

 後悔も誓いも、何もかもを抱えたまま前へと進む――堂々とそう告げる彼女を前にして、士郎は尻込みしそうになっていた自身の心を叱咤した。

「そうだな。俺も、先に進まないと……」
「貴方はいつでもそうしてきたんでしょう?」

 確信に満ちた声――それに頷いてから一歩を踏み出す。
 目の前にいたはずの彼女は、いつの間にかその姿を消してしまっていた。

『――それじゃ、元気でね』

 小さく、けれどはっきりとした声が耳に届く。
 まるで気負いのないその言葉に頷きながら、士郎は声の聞こえた方角へと意識を向ける。

「――ああ。そっちも、元気で」

 未だ名も思い出せぬ彼女に小さな感謝を口にして、闇が広がるその先にある小さな小さな輝きへと足を進ませていく。
 やがて辿り着いたのは、闇の中に浮かんでいた唯一つの光点だ。
 その中に足を踏み入れた瞬間、士郎は意識の全てが広がっていくような感覚と共に目を閉じた。

 
 -Interlude-


 目覚めは清々しく、快適そのものだった。
 手足に染み付いた鎖が外れたような軽さに目眩を覚えながら彼女――間桐桜(まとうさくら)は身を起こした。
 まるで全てが夢であったような心持ちで視線を彷徨わせる。けれど、目的の人物はどこにも見当たらなかった。
 最初は朝食を作りに台所に行っているのだと思っていた。けれど、すぐにそれが間違っていることに気づいて頭を振る。

 ――悪夢を見ていた。

 身体はどこまでも軽く、これまでとは世界が変わったように楽になっていた。
 吸い込む空気はどこまでも清々しくて美味しく、身体を震わせる鼓動はどこまでも温かだった。
 幼い頃から体に染み込んでいた毒が全て抜けたような解放感に身を委ねながら、不安と予感を胸に秘めて人を探し歩く。
 けれど、どこにもいない。悪い夢が夢ではないのだと突きつけられる度に、彼女はそれを否定しようとして何度も家中を歩き回った。

「……せん…ぱい」

 けれど、どこにもその姿を見つけることは出来なかった。
 隠れているにしてはあまりにも気配がなく、白昼夢のように悪夢の内容を思い出した。
 夢の中で最後に見たあの人の姿は、体中が壊れきっていて、もう、二度と会えないと確信させるもので――。

「……うそ、うそですよね…先輩?」

 それでも、悪夢が悪夢ではなかったと確信するのに時間は掛からなかった。
 起きた時から判っていた事実が現実のものだと突きつけられて、そのあまりにも重たい事実に涙する。
 それが、長かった冬の終わり――絶望の十一年から解放された彼女が唯一の道標を失ってしまった忘れられない日の出来事だった。

 ――そうして迎えた最初の春。

 この世でたった一人の肉親である姉からの誘いを断り、彼女は一人で生きていく事を決める。
 強い姉のようにはいかなくても、それでも一人前になれたと胸を張るために、これからを生きていく覚悟を胸に秘めて――。

 ――春がやってきた。

 彼女は間桐の家を処分し、手にした膨大なお金で衛宮の家を維持していく事を決める。
 土地の権利も譲渡してもらい、この先何があっても、ずっとこのままにしておけるように――。

「……本当に、いいの桜ちゃん? 桜ちゃんが管理人になってくれるのは助かるのよ。そこまで想ってくれるのも本当に……でも、桜ちゃん。士郎はもう帰って――」

 衛宮士郎の姉代わりで、彼女にとってもそうであろうとしてくれた女性――藤村大河の心配そうな言葉に彼女はただ首を振った。
 そんな彼女の決意を汲んでくれたのか、大河は小さく仕方ないといった様子で肩をすくめて、まるで母親のような慈愛に満ちた笑顔を浮かべた。

「わかったわ。この家は、貴女に任せる」

 そうして、彼女は本当に一人になって過ごしていく事になった。
 静かになった家の中、ふと最初に思い返したのは少しだけ辛い記憶だった。

『――桜。このゴタゴタが終わったらさ、どこか遠くに行こう。ほら、今までどこかに遊びに行くとかなかったからさ。たまには遠出して騒ぐのもいいだろう?』

 本気になれば行けないところなんてない、と。あまりにも純真に信じて告げられたその言葉が嬉しくて、彼女はただただ笑った。

『よし、じゃあ約束だ。桜の体が治って、このゴタゴタが終わったら、そしたら――』

 小さな約束を交わす。それは何でもない小さな――けれど、とても大切でありふれた願いだった。


 -Interlude out-


 あれからどれだけの時間が過ぎたのか…あるいは一瞬の微睡みだったのか――目覚めは唐突に訪れた。
 士郎が目を開けたのは、眩くも心地よい海の底――。
 余りにも濃い密度の情報が貯蔵された電子の海――あらゆる情報を貯蔵する光の只中だった。
 最初に理解したのは全ての大原則――いま、意識を取り戻した衛宮士郎という自我が存在している場所そのものに関する事だった。
 人類史が始まる以前から地球を観測し続けてきた巨大な観測機――過去と現在と未来の全てを識る演算器。

 ――月の聖杯(ムーンセル・オートマトン)
 
 それこそが、この場所の正体――。
 月の内部に実在した本物の聖杯――その中枢であり、この光の海の正体だった。
 ここには人類が誕生する以前――月の聖杯がここに存在するようになってからの全ての歴史と年月が、光の粒子となって記録されている。
 その一粒一粒に込められた膨大な情報に目眩を覚えながら、その深奥へと意識を沈めていく。
 光の海――そんな幻想的で神秘的な光景を視覚情報として認識した士郎は、その中から自身に関わる全てを再生/記録していった。
 最初に再生されたのは聖杯戦争と呼ばれる争いの発端と目的、そして終幕に至る過程そのものだった。
 冬木の地にて数百年前から行われてきた根源へ至るための試みの全ては正確に記録されており、その全てが直接意識に流れ込んでくる。
 あまりにも膨大な争いの記録が記憶野に刻み込まれていく。
 全てを識った後、息継ぎのつもりで情報を遮断した士郎は落ち着いた状態で改めて情報を整理していった。
 外界への道を作るための装置として作り上げられた大聖杯――。
 その副産物である願望機を巡る魔術師と英霊たちの争いは最初から最後に至るまで成功することなく失敗を重ねていく。
 第一回はあっという間に、第二回は見境のない殺戮の果てに、第三回は器が壊れて、第四回は争いと決断の果てに――。
 そして第五回――聖杯戦争の根源に迫ったその争いは、結果的に初めての成功を迎えたと言えるかもしれない。
 どんな過程であれ、外界へと繋がる穴を開くことに成功したのはそれが最初で最後だったからだ。
 衛宮士郎は故郷の町で起きた第五次聖杯戦争を最後まで闘い抜いた結果、全てを失ったけれど、残してもらった希望もあった。
 血の繋がりのない姉/妹に繋いでもらった細く、けれど確かな未来へと繋がる糸――。
 例えその果てに約束された結末が待っていようと、小さな約束を叶えるためならと望んだ奇跡の果て――。
 人の身を失い、魂だけの存在となってさえ消える事なく、個を保つ異端の存在――それこそが、衛宮士郎という男の正体だった。

「――ああ、思い出した」

 呟きはただ自身にのみ届いた。衛宮士郎という男の生涯――忘れていた大切な全て。
 誓いも約束も、歩んできた道程も下した決断も、裏切った想いも訪れた結末も、その全てを思い出した。
 同時に知ったのは、自身が知ることのなかった多くの事柄――。
 戦いに身を投じた者たちの想いと願い、そして結末の全てを士郎は聖杯を介して知っていく。
 その最中――戦いの果てに完全に"終わった"衛宮士郎が、こうして意思を持って存在しているその理由に至る。
 ――第三法と呼ばれる魔法と、自身の身体に埋め込まれていた聖剣の鞘の存在――。
 騎士王が失ってしまった至高の宝具は衛宮士郎の身体へと埋め込まれており、それは既に魂にまで影響を与えていた。
 本来であれば"それだけ"で済んだ事だったのだろう。だが、一度でも騎士王と契約を結び、彼女と共に戦ったことで宝具は完全に起動していた。
 膨大な魔力を注がれた事によって完全に起動した宝具は、その使い手の魂と共に衛宮士郎の魂に溶け込んでいる。
 それこそが彼を"こちら側"へ留め、数多ある世界の一つに存在した月の聖杯に招かれた要因であると記録されていた。
 かつて衛宮士郎という男を生み出した過去の戦いの顛末――。
 微睡みの中で見ていた夢での出来事や細部に違いのある道筋と結末、訪れる可能性のあった多くの欠片たち。
 
 ――衛宮士郎という男が歩まなかった数多の道の全てが此処にはあった。
 
 どれほど異なる結末だろうと、それは可能性に過ぎない。
 けれど、一つだけ――決して無関係とは言い切れない記録に士郎は意識を向ける。
 それは理想を追い続けた"衛宮士郎"が辿り着いた一つの結末。正義の味方という、存在するはずのない存在へと至った英雄の物語――。
 決して報われていたとは思えないが、それでも理想を守り通したその姿に士郎は目を奪われた。
 理想を裏切り、たった一人を救うために戦った衛宮士郎とは真逆の道を歩んだその姿はしかし――痛々しくも眩しく、雄々しかった。
 死後、理想に裏切られて自己を否定するしかできなかった男――。
 答えを得ることはできなかったが、異なる可能性を目にした男の背に後悔はなく、ただ全てを背負ったまま去っていった。
 だからこそ、衛宮士郎はその姿を越えていかなければならないのだと、強い決意と想いを抱いたまま目を閉じる。
 かろうじて保っていた意識が閉じていく中、彼は全てを記録する海の底で暖かな光を抱いた。
 空に浮かぶような浮遊感を感じながら、ただひとつ――果たせないままの約束を想う。
 容赦なく消えていく自意識――元々が異なる世界の存在である以上、条件を満たせば聖杯から排出されて本体へと戻るのは必然だ。
 どれだけの時間と代償を必要とするのかもわからないが、それでも奇跡の上塗りで手に入れたこの輝きを失わずに還ることが出来れば――と。
 そんな事を祈りながら、士郎は最後に残っていた僅かな意識を閉じて、心地よい光の海に沈んでいくのだった。


 -Interlude-


 ――また春がやってくる。

 随分と人に会わない時間を過ごしてきた気がして、それが気のせいではないという事を月日の流れが無情に知らせてくれる。
 一人でいるのは辛く、思い出だけが繰り返されていく日々が続いた。
 人恋しくはなかったので、それだけは良かったけれど、それなら自分は何の為に生きているのかと彼女は自問する。

『――当然だろう。奪ったからには責任を果たせ、桜――』

 ……何かをしなくてはならないと思った。
 一人でいるのも、誰かといるのも辛いけれど、生きている内は自分に出来るコトをしなければ……と。
 ただ、償いが分からなかった。今更、誰かの為に出来ることなんて彼女には想像することすらできなかった。
 だから彼女は自分の為に……と決意する。いつか必ず果たされる約束の日の為に、年に一つずつ花を育てる事を決めた。

 ――そうして季節は巡り、再び春がやってきた。

 この頃は一人でいることにも慣れてきて、ようやく誰かといることも少しだけ楽しくなってきた。
 怖いと感じるのは相変わらずで、誰かと話しているだけで、世界中から『償え』と責められているような気がした。

『――けど守る。これから桜に問われる全てのコトから桜を守るよ。たとえそれが偽善でも、好きな相手を守り通す事を理想に生きてきたんだから』

 勝手な人だと彼女は思った。言うだけ言って、守ってくれないのだからタチが悪い。
 けれど、その言葉だけで穏やかな気持ちになれたから、許してあげようと笑みを刻む。
 無責任だけど、そう言ってくれた人を愛して、愛されているのだから――。

 ――それから、どれだけの春を過ごしただろうか。

 訪れる人はない。悲しくはなかったけれど、自身が正気なのかどうかを疑うほど穏やかな時間が過ぎていく。
 悲しくないのは確信していたからだろう。苦しいと感じている分だけ、絶対に果たされると信じていられるからだ。
 ただ一つだけ彼女が心配したのは、あまりに時間が過ぎてしまって自身がおばあさんになってしまうだろうということだけだった。
 せめて多くは望まないから自分が自分だと分かってもらえるようにしておこうと努力する。
 どうか約束が果たされるその日まで、健やかでいられますようにと願いながら――。

 季節は再び春――体は思うように動かないが、それでもいつもの通り、彼女は庭に出て水を撒いていく。

 この頃に訪れるようになった小さな教え子との会話を楽しみながら光を撒く。
 新しい遠坂の跡継ぎの元気な姿を眺めながら、定位置になっていた揺り椅子に座って庭を一望した。
 温かな陽射しの中で穏やかに過ぎていく責め苦のような時間の中で、言葉だけが思い出せる昔話に興じる。
 断片的な言葉と思い出は口にするだけで物語になり、もう遠く懐かしい日々を思い出させてくれた。
 約束の日を迎える為に、永く種を撒き続けてきた。贖いの花で彩られた衛宮の家の庭を眺めながら、自身の罪が赦されるまで、彼女はここで春を待ち続ける。

 ―――そうして、最後の春がやってきた。

 瞬きほどの年月を過ごし、一面に咲き誇る櫻を縁側から眺めながら人を待つ。
 果たされる約束と贖いの日々の終わり――穏やかな時間の終焉は、もうすぐそこにやってきていた。


 -Interlude out-


 士郎が目を覚ましたのは満月が輝く夜空の下――人気のない公園の中だった。
 どこかで見たような、けれど決定的に何かが違うその風景――見慣れているはずなのに記憶と違う景色に視線を彷徨わせる。

「――ここは……冬木なのか?」

 景色が異なっていても、少し歩けばここがどこなのかはすぐにわかった。
 冬木市――それも、かつて新都と呼んでいた場所にいることを確認した士郎は周囲を散策して情報を集めていく。
 幾許も経たない内にわかったのは、ここがかつて過ごしていた冬木から数十年の年月を重ねた場所であるという事実だった。

「帰って……これたんだな」

 月の聖杯の中で消え去り、あの世界から消え去る瞬間までひたすらに願い続けてきた奇跡――それが成せた事を確認して、士郎は大きな息を吐いた。
 故郷の街に確かに戻ってきた事を確信して足を進める。路銀もなにも持っていない状態なのは明白だったため、歩くしか移動方法はない。
 幸い街を歩くのに違和感のない衣服を身に着けていたし、身体の調子も悪くはない。町中を横目に見渡しながら、急かされたように歩みを進めた。
 懐かしいはずなのに見知らぬ風景――あれから何十年もこの街を離れていたという現実を確かに実感しながら目的地へ向かう。

「……花びら――櫻の花だな」

 風に乗って夜空を舞う櫻の花びらを眺めながら、士郎はかつて交わした小さな約束を思い出していた。
 ――春になったら、花を見に行こう。
 たったそれだけの小さな約束。けれど、必ず果たさなければならない約束を胸に歩を速めた。
 そうして坂道を登って辿り着いたのは一軒の武家屋敷だ。あれから数十年が過ぎたとは思えないほど綺麗なまま建っている門を潜る。
 記憶のまま何も変わっていないその玄関には衛宮の表札が掛けられたままだった。
 呼び鈴を押すべきかどうかを少しだけ悩み、伸ばしかけた手を戻した士郎は庭へと足を向ける。
 ――確信があった。
 理屈もなにもない。ただ、風に乗って届けられた櫻の花びらに誘われるように歩いていく。
 そうして――かつては広々としていた庭には、大きく立派な櫻の木々が春の訪れを歓迎するように咲き誇っていた。

「――様変わりしたでしょう?」

 背後から掛けられた優しい声に肩を揺らした。
 記憶にあるよりもずっと穏やかで優しい声音――けれど、変わらないその声を聞き届けた士郎は振り向かずに答えた。

「……そうだな。前は殺風景だったけど、これだけ花が咲いてるならちょっとした花見もできそうだ」
「そうですね。けど、その約束をしていた人がずっと遅刻していたから、中々その機会がありませんでした」

 言葉とは裏腹に嬉しそうな声が耳に届く。
 振り向いた士郎の視線の先――庭に面した縁側には、かつてと同じ姿をした間桐桜が穏やかな表情を浮かべて座っていた。

「……ごめん。遅れたけど、帰ってきたよ。――ただいま、桜」
「特別に許してあげます。お帰りなさい……先輩」

 再会の挨拶は軽やかに――かつてのままの姿で、かつてとは大きく様変わりした庭先で視線を交わす。
 静かに佇む彼女の姿から予感は確信へ――それを証明するように、桜はゆっくりとした動作で立ち上がり、庭先に立つ士郎の元へと歩み寄ってくる。

「――ずっと花を植えて育ててきました。あれから、どうやって過ごしたらいいのか悩んで悩んで…」

 語る桜の視線は真っ直ぐに――。
 優しさに満ちた瞳から目を逸らすことのないようにしっかりと視線を合わせた士郎は、ただ静かに彼女の言葉へと耳を傾ける。

「でも、いつか先輩と交わした約束があったから、こうして私は今日まで健やかに過ごせたんです」

 そうして彼女は立ち止まる。互いの距離が僅かに一歩分だけ離れたまま視線を交わした。

「あれからずっと……先輩がいつ帰ってきてもいいように、花を植え続けてきました。一年にひとつずつ、新しい種を撒き続けて……」
「……そうか」

 はにかむような笑みを浮かべる彼女に、士郎は万感の想いを込めて頷いた。
 彼女が浮かべていた笑顔はかつて夢に見た明るいもので、彼女が今日まで辿ってきた人生を感じさせるものだったから――。

「ちゃんと、先輩が気づいてくれるようにおめかしもしてたんです。変じゃないですよね?」
「ああ。桜はちゃんと綺麗になってる」

 それはお世辞でもなんでもない、ただの事実だった。
 よく見れば、彼女の容姿は以前よりも僅かに年を重ねた二十代中頃といった状態だ。
 何かしらの魔術を使ったのか――彼女の見た目はとても数十年以上を生きてきた人のものではなかった。

「先輩も、見た目はあまり変わっていませんよ。背が高くなったくらいでしょうか?」
「そうか? これでも結構変わったと思うんだけどな」

 かつてよりもがっしりとした体躯に、僅かに高くなった視点。何より、その身が"生身ではない"という事実――。
 それらの示す意味を知っているからこそ驚きはなく、士郎はもう会う事のできなくなった人たちに改めて感謝を抱いた。

「でも、先輩は先輩です。私が知っている……私が知っていた先輩です」

 柔らかな笑みを浮かべながら彼女はゆっくりと歩み寄ってくる。そうして士郎は、すぐ目の前に立つ桜の肩をそっと抱き締めた。

「――最後に、夢が叶いました」

 それは、士郎がこの世界で目を覚ました時から抱いていた朧気な予感を確信に変える言葉だった。

「あっという間でしたけど、それでも私にとっては永遠のように長い時間。その最後の最後にこんな幸せが待っていてくれたなんて、贅沢ですよね」
「……そうか」

 慰めも同情もない。後悔も未練もない。この結果は互いに互いの道を歩いた末に訪れた必然だからだ。
 寄り添って歩んでこれなかった事は事実だが、それでも互いの道が交わり続けていた事だけは間違いないから――と、抱擁している腕に力を込める。

「俺も、桜に負けないように頑張らないといけないな」
「――そう、言ってもらえると……嬉しいです」

 互いにもう言葉は必要なかった。ただ静かに目を閉じて顔を寄せ、互いの想いを伝えるように口づけを交わす。
 ――再会と別れ。
 彼女が過ごしてきたこれまでの長い人生と、これから自身に訪れるであろう果ての見えない時間――。
 それら全てを胸の裡に秘めた士郎は、自身の腕の中で徐々に力を失っていく桜の身体をただ優しく抱き締めた。

「………最後に、これだけは伝えておかないと――」

 暖かな感触が薄れていき、背中に回されていた彼女の手が離れたと同時にか細く震えた声が士郎の耳に届いた。

「――ありがとう、ござい…ました、先輩」
「――桜、俺は……おまえを………」
「いいえ、私は……幸せだったんです」

 被せるような言葉には確かな力強さが秘められていた。
 それが強がりなのか、本当の気持ちなのかは士郎にはわからない。
 けれど、言葉を紡ぐ彼女の声音は優しく、柔らかな笑みを浮かべたまま悔いも後悔もないのだと告げていた。

「姉さんがいて、藤村先生がいて、私を慕ってくれる人がいて……そしていま、先輩がいる」
「桜……っ」
「………だから、先輩も……どうか―――」

 そうして――彼女は静かに、ただ静かに目覚めることのない深い眠りについた。
 まだ微かに暖かみを残しながら、それでも先程までは感じられた身体の力を失った桜を縁側まで運び、その身体を揺り椅子の上へとゆっくり降ろす。

「――おやすみ、桜。よく……頑張ったな」

 覗きこんだその顔には安らかな笑みが残されていた。
 そこに僅かばかり雫が落ちて弾ける。滲んだ視界の中で、士郎は確かに見た。
 彼女は笑っていた――苦しみも、悲しみも、何もかもを乗り越えてきた温かな笑みを浮かべていた。
 それは彼女があれから過ごしてきた長い年月――その果てに得たこの結末が、きっと桜にとって間違いなく幸福だったのだと信じさせてくれる。

「……ああ、俺も頑張るよ。これから先に何があっても、桜に負けないように頑張るから――」

 庭に咲き乱れる櫻の花々を一頻り眺める。
 恐らくは二度と戻ってくることの出来ない景色の只中で、目を閉じることなく全てを魂に刻み込んでいく。
 ――桜が生涯を賭して作り上げた光景。
 彼女と同じ名前の花が咲き乱れる衛宮邸の庭を網膜に焼き付けながら、安らかに眠りについた彼女へと誓いを立てる。
 そうして士郎は見たことのない誰かと視線を交わし、互いに声を掛けずに会釈して通り過ぎていった。
 振り返ることなく歩き出し、通り過ぎていく景色の全てを背にして故郷の街を後にする。
 士郎は首から下げたペンダント――眩く輝く光を中心に閉じ込めた紅い宝石を握りしめながら歩みを進めた。

「――例え誰からも忘れられていくとしても、俺は俺の道を歩き続ける。だから、ゆっくり休んでくれ……桜」

 奇跡の果てに存在する現状とこれからの未来――歩んでいく道の先に待つ結末までの全てを識った上で、それでも生きていこうと決意を新たにする。
 例え定められた終わりが待っていても、歩んでいく過程にはきっと意味がある。
 そんな強がりにも似た想いを抱きながら見上げた夜空には、綺麗な満月が輝いていた。

 

 

Episode 1 -異世界へ-

 
 I am the bone of my sword.(体は剣で出来ている)


 Steel is my body, and fire is my blood.(血潮は鉄で 心は硝子)


 I have created over a thousand blades.(幾たびの戦場を越えて不敗)


 Unknown to Death.(ただ一度の敗走がなくとも)


 Nor without hope.(ただ一度も叶うことなし)


 Have withstood pain to create many weapons.(彼の者は常に折れず、剣を抱いて丘に立つ)


 Yet, those hands will never hold anything.(故に、生涯に意味はなくとも)


 So as I pray, unlimited blade works.(その体は、無限の剣で出来ていた)





・――・――・――・――・――・





 ふいに思い返したのは、もう遠く霞む過去のこと――。
 ――目指すべき理想があり、共に歩んでくれる仲間がいて、なによりも守りたいと願った大切な人がいた。
 共に歩む者がいなくなり、一人で歩み続けてきた道程――その始まりに思いを馳せる。
 もう二度とは戻ってこない光景。けれど、守りたいと願った大切な人を守るために理想を捨て、自身を裏切った事に対して彼――衛宮士郎は後悔を抱いていなかった。
 霞む目で見渡す先に広がるのは戦場の跡――終末の赤い丘に一人立つ姿は満身創痍に違いない。
 通常であれば事切れていても不思議ではないほどに傷つき、それでも意識を残しているのは特異な体質のおかげなのだろう。
 それを承知した上で、もう一度周囲に広がる焦土を見渡す。それがまるで、自身の心の内に広がる風景と同じようだと笑ったまま地面に倒れた。
 仰向けのまま見上げた空にはどこまでも奇麗な夕焼けが広がっており、周囲には戦場独特の匂いが充満している。
 そんな最中にあって未だ生きているのが自分だけというのは、まるでいつかの出来事――遠い過去を思い返すには十分すぎる舞台だった。

「――ああ、だけど……これならきっと胸を張れるよな」

 呟きが漏れる。後悔はなく、胸の裡にあったのは駆け抜けたことによる達成感だけだった。
 失いたくない人を失い、守りたいと願った大切な人を長い時間置き去りにしたまま守れなかった遠い過去――。
 あの旅立ちの日から、全てを思い返す事さえ困難なほど長い年月を重ねながら世界を旅してきた。
 それは決して無味乾燥な時間では無かった。死と隣り合わせの鍛錬と実戦を繰り返してきたその中でも多くの出会いがあったし、多くの別れがあったからだ。
 報われることのない旅路に挫ける事なく、ただひたすらに歩んできた。その果てに訪れた結末がこうなるのは定められた終わりでしかない。
 過去の記憶も想い出も殆どが摩耗し、もう思い出すことすら容易ではなくなってしまったが、それでも――いや、だからこそ歩み続けることの出来た自身を初めて褒めてやりたかった。
 見上げる空は次第に暗くなっていき、倒れた身体からは感覚が失せていく。その最中――まるで空に向かって浮いていくような錯覚を覚えながら目を閉じる。

「――だから、ちょっとだけお節介を焼きにきたわよ」

 ふと――どこか懐かしい声が聞こえた気がして、士郎は微睡みに堕ちていこうとしていた意識を引き留める。
 それが誰の声なのか等と考える必要はなかった。
 こうして百年近く聞いていなくとも忘れることのない声が確かに聞こえたのだから――。

「――これまでずっと頑張ってきたんだから、これからは少しでもそれが報われなきゃ嘘でしょう。だから、今度は自分を救ってあげなさい」

 そんな物言いが記憶の中に今も残る彼女らしいと、士郎は閉じた瞼はそのままに笑みを浮かべた。
 もう百数十年以上も前に行方知れずになっていたはずの彼女が、これから死に逝く衛宮士郎の前に現れるのは偶然か必然か――。
 別にどちらでも構わない。けれど、せめて最後にもう一度だけでもその姿を――そんな一念から薄らと瞼を開いた士郎は、もう殆ど見えなくなった目を声の聞こえた方向へと向ける。
 ――そこには、虹色に輝く宝石を持った赤い女性がいた。
 どこか大人びた様子の彼女は記憶の中にいる彼女とは違う姿だったが、それでも彼女である事は間違いないという確信があった。
 霞む視界にもはっきりと映る虹色の宝石――宝石剣を持つのなら、おそらくは彼女にとって此所は訪ねただけの場所に違いないのだろう。
 そんな確信に迫ることを考えながら、士郎は今度こそ心残りはないと笑みを零しながら静かに瞼を閉じた。
 ――意識が暗く沈んでいく。
 最後の最後……本当に意識を失う直前に自身の頬へ触れる冷たい手の感触に口元を緩めながら、永い年月を戦い続けた衛宮士郎は二度と戻る事のない世界へと別れを告げた――。


 -Interlude-


 数年振りに外の景色を眺めたことに気付いた彼女――メルルリンス・レーデ・アールズは小さく溜息を零した。
 室内から窓を通して見渡す風景にかつての面影は殆ど残ってはいない。山は消え、川は平原となり、街は森に、城は荒涼とした丘へと変貌している。
 あの日からどれだけの時を過ごしてきたのか――それは既に生きる目的を見失い、ただの惰性で生きてきたメルル本人にも簡単には思い出せない事だった。

「――ホムくんたちがいなくなってから二十年くらい経ったぐらいまでは覚えてたんだけどなぁ」

 すっかり年季物となってしまった練金釜を眺めながら呟きを零す。けれど、それに反応を返してくれる者は誰もいない。
 ――不意に視線が背後に向けられるのは仕方がない事だったのだろう。
 独りで過ごしている事実に酷く寂しさを感じた当時の自身が生み出した成果――意思無きホムンクルスの出来損ないが其処にはあった。

「やっぱり、一番重要な材料を変えるっていうのが無理だったってことだよね」

 ホムンクルスを造る上で必要な材料をどうしても調達できなかったため、代用品を用意して造ったのだが、見事に失敗してしまったのだ。
 ――人の形はしているし、恐らく中身も完全に人としての機能を持つだろう。
 性能は間違いなく一級品のはず――なのだが、肝心の人格――魂が宿らなかった。
 中身が無ければそれは人形と変わりなく、かといって処分するような気にもなれずに放置しているのだ。
 コレを見る度に昔を思い出せるという言い訳めいた理由と共に――。

「――アストリッドさんやトトリさん、ロロナさんとも連絡が取れなくなっちゃったし……」

 かつてアールズという国の姫として過ごし、錬金術士となり、師と共に悠久の時を過ごし始めた頃のことを思い出す。
 思い出せる限り、あの頃は様々な研究を行いながらみんなで楽しくやっていた筈だ。
 そうすることで様々な成果を得ることができたし、できないことも殆ど無くなってしまった。
 だが、その成果を得たことで手に入れたのは悠久の孤独だけだった。
 知人も、かつての故郷も既にない。知人は時の流れの中で生を満喫し、次々と先立っていった。
 故郷であった街もまた、発展と衰退を繰り返し、その果てに自然へと飲み込まれていった。
 自身がこうして過ごしているアトリエとて、外部から見れば魔境に聳え立つ立派な魔窟に見えることだろう。

「これが最後の実験になるかな……。見た目は只の宝石みたいだけど、ちょっと不思議なエネルギーが込められているみたいだし」

 つい先日――と言っても実際には数年程前――に付近に落ちてきた流星によって生み出されたクレーター。
 そこで発見して持ち帰ってきていた虹色の宝石を眺めつつ、特に感情を乗せずにぼんやりと力無く呟いた。
 これまで生きてきた永い時間の中で見た事のない素材を錬金術で加工するというだけの単純な実験――。
 けれど、素材からして未知のものであるのだから成否の予測がつかない事に変わりはなく、ただその結果だけに意識を向ける。

「久しぶりかな……こんな風に、何が起こるのかわからないっていうの……」

 遥かな過去に置き去りにしてきた"人間らしい感情"を思い出しながら宝石を釜に放り投げてかき混ぜていく。
 もはや呼吸をする事と同じように自然と出来るようになった錬金術――多くの人を幸せにするための力は今も決して色褪せてはいない。
 ただ、手段に傾倒しすぎている内に目的を失ってしまっただけのこと――。
 そしてそれは、きっと真っ当な人間ならば悲しむべきことなのだろうと他人事のように感じていた。

「――さて、と。もう一回しっと……」

 ぐるりと杖の先端を釜の中で動かしていく。
 直後――確かな手応えと共に閃光がアトリエの中を染め上げる。
 続いて響き渡る轟音が決して広くはない室内を揺らす。咄嗟に目を閉じ、耳を庇いながら床に伏せる事が出来たのは単に反射的なものだった。

「……やっぱり、失敗かなぁ。これもまた、随分と久しぶりかも……」

 閃光と爆音が収まったことを確信し、そっと目を開けてみた。
 惨状を思い浮かべながら眺めたそこには、なにやら奇妙な"穴"が開いている。
 "穴"の奥は殆ど見渡せず、ただ黒い穴が宙に浮いているだけだった。
 その異常に、僅かな怖れと全身を震わせるだけの好奇心が湧いてきた事を自覚する。
 感情に後押しされるまま近くで見て検証しようと立ち上がる……が、一歩を踏み出したと同時に"穴"に変化が起きた。
 何もないはずの"そこ"から、何かが出てこようとしているのがはっきりと見えたのだ。

「……えっと、人…だよね?」

 何故か身体が透けて見える男の人――それが"穴"から出てきたモノの正体だった。

「……幽霊? それより、さっきの"穴"って、ゲートみたいなものなのかな…?」

 疑問は疑問として考えながら、もう消えてしまった穴から出てきた幽霊らしきモノを目で追いかける。
 それはまるで、初めから其処を目指していたのではないかと思わせるほど一分の狂いも寄り道もなく、放置していたホムンクルスへと向かっていく。
 ――そうして、幽霊はホムンクルスの身体の中へと消えていった。
 途端に、ホムンクルスの身体が淡い光に包まれる。一瞬の出来事に思わず反射的に目を閉じる。
 次に目を開けた時には其処にホムンクルスの姿はなく、つい先程まで存在していた穴から出てきた幽霊らしき人と同じ姿をした"人間"が横たわっていた。

「――よくわからないけど、とりあえず手当てをしないとね」

 久方ぶり――それこそ数百年振りに込み上げてきた動揺を抑えながら呟く。
 横たわる男はボロボロの衣装を身に纏ってはいるが、肌の見える部分はどこも傷だらけ――。
 それなりに深い傷を全身に刻んでいる男の傍へと歩み寄り、傷の状態を確認していく。
 ――同時に、先程の穴の事を含めた一連の現象について思考を働かせる。
 仮に先程の"穴"が空間と空間を繋げるゲートだとしても、男が正体不明の存在であることに変わりはない。
 このような時に不謹慎だという事は理解していたが、自身の裡に湧き上がる好奇心を止めることはできそうになかった。


 -Interlude out-


 ――ふいに全身の感覚が蘇る。
 そうして――耐え難い鈍痛を全身に感じたまま目を覚ました士郎の目の前には、見知らぬ天井があった。
 
「――ここは……俺は、生きているのか?」

 ゆっくりと身体を起こし、全身に走る痛みを堪えながら生きている事を実感する。
 酷く身体が気だるく、意識もぼんやりとしていたが、それでもまだ生きている事だけは確かだった。
 ――あの時、あの荒野での消滅を確信していた。
 意識が白く塗り潰されながら感じた優しい感触――痛みはなかったが、自分自身がバラバラに消えていくような感触は忘れようもない。

「――あ、もう起きたんだ? 結構怪我してたみたいだし、勝手に治療とかしちゃったんだけど、気分が悪いとかあるかな?」

 ふと聞こえてきたのは明るく、軽やかな声だった。
 見れば少女といっても差し支えのない女性が薬のような物を手にしたまま、部屋の入口から顔を覗かせている。

「いや、特には問題ない。そうか……君が手当てをしてくれたのか。……ありがとう、お陰で助かったみたいだ」

 傷を負っていた――という少女の言葉に、自身の最後に見た光景が夢や幻の類ではなかった事を確信する。
 なにより――全身を包む鈍痛と倦怠感は確かに生きている事を知らせてくれていた。
 心地良さなど微塵も感じない代わりに、安堵にも似た想いが胸を満たしているのは生きているからこそ得られるモノに違いない。
 もっとも、それが喜ばしい事なのかどうかは別の話ではあるのだが――。

「大したことはしてないから気にしなくていいよ。命に関わるような酷い怪我もなかったしね」

 その言葉に僅かなりと疑問を抱きつつ、横になっていたベッドから起き上がる。
 痛みを堪えて地に立ち、少女が勧めてくれた椅子へと腰掛けた。
 少女は特に何を言うでもなく飲み物を用意し、机の上に置いて自身も椅子へと腰掛ける。
 ちょうど対面するような形で少女と向かい合う形になった事を確認し、少女の言葉を静かに待った。

「さて、とりあえずは色々と話が聞きたいかな……。どうして貴方が"穴"の中から出てきたのか、とか。どうして怪我をしていたのか、とか」

 少女の口から出たのは疑問の言葉だった。
 その言葉に耳を傾けながら、覚えの無い事象に僅かばかり頭を横に振る。

「"穴"というのが何なのかは知らないが……そもそも、ここはどこなんだ?」
「ここは私のアトリエだよ。メルルリンス・レーデ・アールズって知らない? これでも、色んな国で有名な錬金術士なんだけどな」

 少しだけ意外そうな表情で告げる少女の言葉に首を捻る。
 長く世界中を旅してきたが、メルルという名の錬金術士の名を聞いたことはなかった。

「いや、済まないが聞いたことはないな」
「そっか。一応伝説になってるらしいから有名だと思ったんだけどな~」

 それは一体どういう事かと首を傾げる。
 そんな自身の戸惑いが伝わったのか、彼女は丁寧に自身の事情について説明を開始した。
 曰く――見た目十代前半の少女のような姿をしているが、彼女は既に数百年を生きてきた魔女なのだという。
 本人にそんなつもりはなかったとの事だが、周囲から見れば数百年も生きている時点で魔女だという人々の評価は揺らがなかったらしい。
 錬金術を極めんと研鑽を積み、年齢を操作する薬を飲んだ事で悠久の時を過ごしてきた彼女だが、実際にどれくらいの時を生きてきたのかはわからないのだとか――。

「――三、四百年くらいまでは覚えてたんだけどね。まあ、千年には届いてないと思うから……九百年くらいかな?」

 あっけらかんと告げるメルルの姿に思わず苦笑いを零しそうになる。
 どうにかそれを堪えて、淡々とそうした事情を口にできる彼女を観察していく。

「……それはまた、随分と長く生きてきたんだな。正直、人の身でそれほどの時を生きるというのがどのような感覚なのかは想像しかできないが、その間はずっと一人で過ごしてきたのか?」
「途中からはね。何百年か前までは私に錬金術を教えてくれた先生と、その先生……そのまた先生と過ごしてたから」

 少しだけ寂しそうに告げる彼女はとても悠久の時を超えてきたような魔女には見えない。
 いまこうして目の前に座っているメルルは、どこか空虚な素振りを見せながらも年相応の表情を覗かせている少女にしか見えなかった。
 聞けば、彼女が飲んでいたという薬は肉体年齢と同時に精神年齢も下げる効果があるらしい。
 年齢相応に見えているのは、恐らくその効果――ただの副産物のようなものだと自嘲するように彼女は告げた。

「まあ、それで最後の暇潰しに空から降ってきた隕石の中から出てきた虹色の鉱石を実験に使ったら、変な"穴"ができちゃってね」

 その暇潰しとやらを実行するに至った切っ掛け――。
 鉱石を回収したのも恐らく数年前のことなのだという。
 時間の感覚がすっかり狂ってしまっていることを、彼女は自覚していた。

「――そこから俺が出てきたと……そういうことか?」
「うん、そういうこと。それにしても、あまり驚かないんだ? 普通、何百年も生きてきたなんて言ったら頭がおかしいと思うか、気味悪がると思ってたんだけど」
「生憎と不思議な事には慣れていてな。それなりには驚いているつもりだ」

 ――長く旅をすれば様々な出会いがある。
 事実、世界を巡る旅路の中では千年に届くほどの長い年月を生きていた吸血鬼などとも知り合っており、自身とて百年以上を生きている。
 いま、こうして目の前に数百年を生きた人間がいたからといって、納得する事はあっても驚き慌てるようなことはなかった。

「そっか。ねえ、もしよかったら少し君の話を聞かせてもらえないかな。何だか面白そうだし」
「そうだな。詰まらない話だが、聞いてもらえるか? 俺の名は衛宮士郎――これでも、魔術を扱う魔術使いなんだ」

 少しだけ冗談めいた口調で告げてからゆっくりと過去を振り返り、それを言の葉に乗せていく。
 どうしてそんな気になったのかは自身にもわからなかったが、不思議と現実感のない空気がそうさせたのだろうと結論する。
 あるいは、予感めいたものがあったのかもしれない。"ここ"でなら、過去を語ることは然したる問題にはならないのでは――と。
 だから、遙か昔の出来事――あの始まりの物語からその終末までを出来るだけ鮮明に思い出しながら、もうどうあっても戻れない遠く過ぎ去った想い出を静かに語る。
 故郷の町である冬木での聖杯戦争の事から月の聖杯に触れた際の経験――。
 その後の目覚めと約束の成就――長い旅の果てに訪れた自身の死という結末までの道程を淡々と語った。
 そうして気がついた時にはこの世界にいた――と、簡潔に語り終えると同時に苦笑が零れる。
 見れば、静かに話を聞いていたメルルの視線からは、どこか感心したような色が見え隠れしていた。

「そう……随分と波乱万丈な人生を送ってきたんだね」
「改めて振り返るとそうだな……否定する言葉が思い浮かばない」

 思い返せば確かに濃密な人生だったと自認するしかない。
 だが、今という結果に後悔がないというのは誇れることだとも思っている。
 かつて理想を裏切り、守りたいと誓った人とも死別して目的すら失ってしまった一人の男――それでも人のために戦い続け、前へと歩み続けることができたのは紛れの無い事実なのだから。

「でもまあ……おかげで少しだけわかったかな。君――シロウはこの世界の人間じゃないってことだよね?」
「……そうだな。並行世界――いや、君に聞かされたこの世界での事を考えれば、ここは俺にとっては異世界と言ってもいいんだろうな」

 限りなく遠い並行世界――そんなイメージを脳裏に描いていた。
 それはまるで、初めから知っていた事に気付いたようにストンと胸の奥に落ちて沈んでいく。

「――どうやら、おせっかいな人間が助けてくれたらしい。それに、君が行ったという実験のおかげだ。それについては感謝しておく――ありがとう」

 メルルが作り出したという"穴"は恐らく世界と世界を繋ぐモノなのだろうと推測していた。
 魔法と錬金術の違いはあれど、彼女はそんな奇跡を実現させたのだ――と。

「……偶然だよ。まあ、なんにしても君が別の世界から来たってことは事実で、私が実験して出来た"穴"は別の世界との扉みたいなものだったってことだよね?」
「そうだな。錬金術によってそのような境地に辿りついているというのは正直、驚くに値する」

 素直にそう告げると彼女は笑みを浮かべた。
 それは先程までとは比べ物にならないほど生気に満ちた満面の笑顔だった。

「異なる世界――異世界への扉か……うん、いいかも!! ちょうど退屈してたし、真剣に研究してみよっと!」

 嬉しそうに宣言するメルルの姿には先程までの静かな雰囲気は微塵も残っていない。
 下手をしなくとも魔法に届く奇跡を退屈しのぎに行うというのだから、呆れを通り越して感心する他になかった。

「シロウは特に行きたい場所とかないんでしょ? ここらもすっかり人がいなくなってるし、気が向くまでここに居てもいいからね」
「……そうだな。正直、行く当てなどないから助かるよ。しかし、人がいないのなら食料などはどうしていたんだ?」
「そういうのは裏に畑があるから適当に素材を集めて錬金術でポンっと作ってたよ」

 目の前で材料らしきものを投げて釜をかき混ぜる様子を見せる彼女に今度こそ呆れ顔を向ける。
 内心では、あまりにも応用力の高い彼女の錬金術に驚いていたのだが、"できる"という事実に変わりはない。
 いい加減その辺りの感覚がマヒしてきた事もあって、そういうものなのだろうと割り切ることに決めるのだった。

「……差し当たり、ここで生活していくのに問題はないということか」
「そうだね。あ、でもでもその前にちゃんとこの薬は飲んでね。まだ本調子じゃないんだろうし、しっかり休んだほうがいいと思うよ」

 そう告げて彼女が差し出したのは小さな小瓶だった。
 彼女が部屋に入ってきたときに持ってきていたもので、どこか年季を感じさせる旧びた小瓶だ。
 意識を失っている間に治療をしてくれていたというメルルの言葉を思い出し、素直にその好意を受けようと薬を受け取った。
 そのまま硝子の瓶の中に注がれていた液体を一気に飲み干す。
 苦くもなく、甘くもない液体だったが、その耐え難い触感に思わず顔を顰めた。

「……変わった飲み心地の薬だな」
「随分昔に作った薬だからかな? まあ、効果は確かなはずだから――って、もう効果出てきたみたいだね」

 抗いがたい睡魔に瞼が落ちそうになった士郎は同時に自身の体に起きた変調を自覚する。
 意識を取り戻してから鈍痛のように残っていた身体の痛みが嘘みたいに感じられなくなってきたのだ。

「しばらくベッドで安静にしてるといいよ。起きたらまた、色々手伝ってもらいたいこともあるし」

 その言葉に素直に頷いてから力を抜いてベッドの上に横になる。
 その一部始終を眺め見ていた彼女は、見た目の年齢には似つかわしくないほど優しい表情を浮かべていた。

「――眠りなさい。ここには、貴方を脅かすようなモノはなにもないのだから」

 優しく、暖かな言葉を最後に耳へ届けながらゆっくりと瞼を閉じた。
 ――眠りはすぐに訪れる。
 そうして意識を失う直前に額と頬に冷たい感触を覚えたが、それが何であったのか――急速に眠りに堕ちていった士郎には確認することができなかった。
 
 
 

 

Episode 2 -魔女のアトリエ-

 
 彼女――メルルリンス・レーデ・アールズはベッドの上で横になった男を眺めながら小さく溜息を零した。
 穏やかな寝息を耳にしながら綺麗に赤みを残した髪を撫でる。眠りは深いらしく、男は身じろぎひとつしなかった。

「――うん、随分綺麗な顔になったかな」

 髪を撫でていた手をずらして頬を撫でる。
 先程まで目立っていた数多の傷跡はそこには全く残っておらず、ただ綺麗で"幼い"寝顔がそこにはあった。

「顔だけじゃなくて、全身が傷跡だらけ……か」

 溜めこんでいた息を吐き出す。そうして彼女が思い返していたのは、数時間前に聞かされた男の過去だった。
 淡々とした口調で語ってはいたが、男の辿ってきた道筋は百年程度しか生きていない若者のモノとしては余りにも過酷だ。
 ――なぜ、そんな道を辿るに至ったのか。
 なにより、どういった動機があってそんな戦いの道を歩み始めたのか――けれど、彼がそんな自身の心境を語ることはなかった。
 ただ、どこまでも報われない筈の道を歩いてきた男の顔には確かな満足感が浮かんでいて、それがどうしようもなく――。

「――う…ん……」

 思考に耽りそうになったその時、彼女の耳に小さな声が届いた。
 漏れ出ただけの呻き声だったが、どうやら男の意識が覚醒したらしい。

「――目が覚めたみたいだね。気分はどう?」

 声を掛けると男はゆっくりと瞼を開き、その双眸を向けてくる。
 その瞳に浮かんでいるのは僅かな疑問――けれど、それすらも瞬きの内に消えていった。

「……メルル? ああ……そうだったな。いや、随分と回復したらしい。少なくとも痛みや気だるさのようなものは全く感じない」

 そう告げた男は今度こそ本当に調子が良さそうで、メルルの目から見ても明らかに顔色が良くなっていた。

「身体に違和感はないかな? 大丈夫だと思うけど、それでも慣れるまでは少し大変かもしれないし……」
「……違和感?」

 そっと零して彼は自分の身体へと視線を落とす。その視線の先には、完全に傷の癒えた"少年の身体"が――。

「………………これは、一体どういう?」
「えっと、落ち着いて聞いてほしいんだけど……」

 どこから見ても動揺して硬直していた男に対し、できる限り丁寧に説明をしていく。
 ――何故、彼の身体が"少年の身体"になっているのか。
 そして、どうしてそんな手段を使用するに至ったのかを――。

「――つまり、だ。もうどうやっても手がつけられないほど身体が傷だらけだったから、それを"無くす"ために身体を子供の状態まで戻したと?」

 説明を聞き終えた男は特に感情を籠めることなく呟いた。
 疑問というよりも確認――そんな男の言葉に、メルルははっきりと頷いてみせた。

「うん、そう。私、一応錬金術でそれなりの薬も創れるんだけど、シロウの傷はそれでも治せないくらい酷かったから」
「だからといって、若返れば傷が消えるというのは……」
「細かい理屈を説明してもいいけど、長くなるよ? 簡単に、若返る段階で傷痕とかも"ついで"に消えたってだけ分かってくれれば大丈夫!」

 若返りの薬だけではなく、最高級品質のエリクシル――回復薬も飲んでもらっている事も丁寧に説明する。
 最後に――後は栄養を取って充分な休息を取れば完全に回復するだろうと告げると、男はそれまでの思案顔を消して柔らかな笑みを浮かべた。

「……まあ、君が見るに見かねてこの手段を取ったことはわかった。文句などあるわけがない。感謝する――ありがとう」
「ありがと。でも、おかしいな……あの薬、肉体年齢だけじゃなくて精神年齢も下げるはずなんだけど……」

 どうしてか、男の言葉遣いや態度に変化は見られなかった。
 薬の作用が消えることはないはず――そんな疑問に頭を悩ませていると、彼は苦笑しながらその理由を口にしてくれた。

「……元々この喋り方は素ではないし、癖のようなものだからな。確かにいつもより気を使っているような気がするが、それでも日頃の癖というのは馬鹿にならないらしい」

 常態からしてそのように振舞っていたからだろうと――。
 今の状態となって、いつもよりもそれが困難になっていると男は告げる。
 どうやら薬の効果そのものがなくなっているわけではないと悟り、小さく安堵の息を零した。

「そっか……まあ、これはこれでいいかな。それと、その薬は随分昔に作ったもので試作品みたいなものだから、年齢を固定する効力はないの。後は普通に成長していくと思うから、それは承知しておいてね」

 不老不死に成れるわけではなく、ただ若返っただけだと告げると、彼は"それでも充分に凄い効力だ"と笑った。

「あ、そうそう。シロウがここに来た時に一緒に落ちてたんだけど、この紅い宝石はシロウのもの?」

 取り出したのは紅い宝石をペンダントにした装飾品だ。
 微かに何かの力を感じてはいたが、特に目立った装飾はされていないシンプルなアクセサリーなのだが――。

「ああ、間違いない。思い出の品でな……もうずっと身につけているものなんだ」

 憂いを帯びた表情を浮かべてペンダントを受け取った男の横顔は永い年月を生きてきたメルルにも大人びて見えた。
 柔らかで深みのある笑みを浮かべた男の姿は間違いなく"人間"のものだ。元がホムンクルスの身体だったとは思えないほどその姿は生気に満ちている。
 じっと横顔を見ていた事に気づいた彼が少しばかり怪訝そうな視線を向けてきたため、先程までの推察を含めて彼がこの世界に現われた時の経緯を説明していく。
 話を聞き終えた彼は少しだけ思案するような素振りを見せていたが、僅かな沈黙の後に真剣な表情を浮かべ、何かを受け入れるように"そうか……"とだけ静かに呟いていた。


 -Interlude out-


「……それにしても、一体此処はどうなっているんだ?」

 周囲を見渡して見れば、そこかしこに群れる魔獣たちの姿が士郎の視界に入ってくる。
 辺りに群生している植物も見た事が無いものばかりで、まるで意志を持ったかのように襲い掛かってくる植物たちがアトリエと外界を阻むように立ち塞がっていた。

「――――I am the bone of my sword.(体は剣で出来ている)

 それら全てを見据えながら、いつものように自己へ埋没するための言葉を口にした。
 同時に体内の魔術回路全てに魔力が通っていくのを確認し、工程を完了させる。
 剣の丘から引き上げたのは絶世の名剣(デュランダル)――決して折れないという逸話を持つ不滅の聖剣にして、所有者の魔力が尽きても切れ味を落とさない輝煌の剣だ。
 自身の体力や筋力が落ちている事を踏まえ、取り出した剣を両手で構えて振り上げる。
 付き纏う違和感は決して小さくはなく、これまでとは感じる重みが違う事に戸惑いながらも構わずに振り下ろした。

「投影の負担はむしろ軽い――だが、やはり若返ったことで身体能力は落ちているか……」

 魔獣や植物を切り裂きながら普段の感覚との違和感を埋めていく。
 たったそれだけ――これまで難なく行えていた動作を行っただけで、随分と体力を消耗してしまった事を実感する。
 メルルの説明によれば、肉体年齢は十四歳――彼女の師の師の師に当たる人のこだわりによる年齢設定だという。
 子供と大人の中間に位置する年頃であるが故に肉体面の未熟はどうしても出てくるのだろう。
 元の肉体よりも小柄になった体格は、自身の肉体と感覚を限界まで鍛え抜いていた者としては決して軽い違和感ではなかった。

「……これは、少し拙いかもしれないな」

 周囲の外敵を排除し終えた事を確認してから踵を返し、アトリエへと再び足を向ける。
 ――或いは年齢だけではなく、この新しい身体に適応できていないのかもしれない。
 その可能性も低くはないと考えていたが、魔力の通り具合や反応速度、耐久力などは以前よりも優れている実感があった。
 曰く――幽体のような状態でこの世界へやってきたという"衛宮士郎"は、メルルが過去に作り上げたホムンクルスと同化して今の状態になったらしい。
 ――その説明を受けた士郎が最初に思い当たったのは、かつて月の聖杯に触れた際に知った"魔法"だ。
 自身の養父である衛宮切嗣の実の娘であり、衛宮士郎にとって妹であり姉でもあったイリヤスフィール・フォン・アインツベルン――。
 "完全に終わっていた"衛宮士郎を救ってくれた彼女の魔法が予想外に完璧だったのか、あるいはその逆か――どちらにせよ、魔法の影響という可能性は非常に高い。
 細かな疑問は挙げていけばキリが無く、深く考えても答えの出しようもない現象なのだと無理やり納得することにした。
 ――そうして、改めて自身の現状に意識を向ける。
 戦闘を終えてみた実感からくる自己分析の結果は芳しくはなく、単純な身体能力は元の状態を考えれば落ちていると認めざるを得ない。
 もう一つ――決して無視することのできない大きな変化が保有する魔力量の激減だった。
 この世界に辿り着く以前には魔術使い――魔術師として破格の魔力を持ち合わせていたが、それが見る影もないほどに減少している。
 魔術回路の数が変わったわけではないが、生成できる魔力総量は確実に少なくなっており、投影の負担が減っている事と合わせて考えても歓迎できる事柄ではなかった。
 魔力量の減少や身体能力の低下、筋力の低下など――それらが肉体を得た事による事象である以上、決して無視できるものではない。
 差し当たり問題な事柄は明白なため、幾ら考えても明確な答えの見当たらない事例は頭の片隅に置いておく事を決める。

「おかえり、シロウ」
「ああ、ただいま。メルル、少し相談があるのだが――」

 戻ってきたアトリエの扉を開けて中へと入り、そこでのんびりと席に座って本を読んでいたメルルの言葉に返答を返す。
 同時に、つい先程まで思考しながら出てきた懸念を伝えていく。
 真剣な話だとわかったのか、メルルは読んでいた本を閉じて真剣な表情を向けてきた。

「――要するに、子供の姿になって落ちた体力を鍛えたいから何か用意してくれないかってこと?」

 メルルからの確認にはっきりと頷きを返す。
 彼女は少しだけ意外そうな表情を浮かべた後、僅かに笑みを零した。

「どうかしたのか?」
「ううん……そういえば、随分と昔にも似たような事を言ってきた人がいたなって思ってね」

 少しだけ嬉しそうにそう告げる。
 遠い過去を懐かしむように穏やかな笑みを浮かべて見せたメルルは、少しの沈黙の後に大きくはっきりと頷いた。

「とりあえず、どんなものが欲しいのかを聞いてからになるけど、用意する分には問題無いよ」
「助かる。とりあえずは……そうだな。単純に体力や筋力を効果的に鍛えられるようなものがいい」
「そういうのなら直ぐに準備できると思うよ。少しだけ付与する特性や効果を強めにしておくから効果は期待してくれてもいいからね」

 簡単そうにそう告げて、メルルは年季の入ったコンテナのようなモノを物色し始める。
 そんな彼女を背にしてから、つい先程手に入れてきた幾つかの素材を机の上に広げて整理していく。
 どこからどう見ても見覚えのない未知の材料ばかりだが、その内の幾つかは食料として扱っても問題ないモノであることはメルルのお墨付きである。
 それら未知の食材に大凡の見切りをつけ、少しばかり気合を入れ直してから調理を開始していく。
 そのすぐ横に並んで立っていたメルルは幾つかの材料を練金釜の中へと放り投げ、かき混ぜ始めるのだった。

「――それで、できたのがこれなのか?」

 食後――片づけを済ませた台の上に置かれたリストバンドのようなものが二つと首飾りが一つ。
 それぞれに細かな紋様が刻まれているが、見た目は普通の布とアクセサリーにしか見えなかった。

「うん。とりあえず、そのバンドを両腕につけてもらえるかな? 最後に首飾りね」

 彼女の指示に従ってリストバンドを両腕に装備し、続けて首飾りを身に付ける。
 その一部始終を見守っていたメルルは準備が整ったとばかりに笑みを浮かべながら手を伸ばし、首からぶら下がっていた首飾り中央の装飾を回転させた。
 途端に全身が重たくなった事を実感し、咄嗟に力を篭めて身体を動かす。
 戦闘どころか動くのにも苦労しそうな重量感――主観で四十キロ程度――が全身に満遍なく負荷として加えられていた。
 意識的に力を込めていれば辛うじて戦闘に耐え得る程度の動きは出来るだろうが、それは筋力だけではなく魔術による強化が前提になるだろう。

「簡単に説明すると、二つのバンドと首飾りがセットで、スイッチ代わりになっている首飾りの装飾を回転させることで初めて効力を発揮するタイプの拘束具なんだよ」
「拘束具?」
「うん、一応分類上は拘束具になるかな。装備者に過負荷を加えながら成長を促進させる効果が付与されているから鍛えるなら丁度いいでしょ? 最初は全身に軽度の負荷を加えるんだけど、バンド表面の紋様を一つ外す度に負荷が増えていくんだよ」

 重量を軽減する特性を反転させた糸を素材にしたもので出来ているらしく、紋様はそれぞれ重量を軽減する力を備えているらしい。
 それぞれ一つのリストバンドに十二個の紋様――つまり、この拘束具の紋様を全て排除すれば、全身に掛かる負担は主観で一トン近くにもなる。
 成長を促進させる効果というものがどのように発揮されるのか――。
 門外漢である身ではわからなかったが、メルルの錬金術によって作り出されるものに常識など通用しないのだからと納得する事に決めた。

「アトリエの外に出るなら色々と道具も用意するし、お守りみたいなものなら用意できるから上手く使ってね。服とかも何か希望があるならちゃんと教えてくれたら用意するからね」

 むしろ、どんどん頼んでくれと――。
 どこまでも嬉しそうにしているメルルからは、遠慮などしてくれるなという明確な意思が伝わってきた。

「……至れり尽くせりとはこの事だな。とりあえず、君が用意してくれるモノに関しては信用しているから任せることにしよう」
「そう? それじゃ、さっそく用意してあげるから待っててね。あ……ご飯美味しかったよ。ごちそうさま、シロウ」

 それだけ告げると、彼女は再び自身の研究へと戻っていった。
 その後姿を見送りながら、彼女の扱う錬金術を元の世界の基準で考えるのは止めようと堅く心に誓うのだった。


 -Interlude-


 襲い掛かってくる魔物を手にした剣で切り伏せる士郎――。
 その背後から自作のアイテムを放り投げたメルルはアイテムに秘められた力を解放させる。
 力を開放した踊る魔剣は巨大な竜の周囲に飛び交う敵を切り刻み、巨竜へと突き刺さると同時に電撃を浴びせ、翼を凍らせ、全てを爆発させて吹き飛ばした。

「――それも錬金術で作ったアイテムなのか?」

 窺うような視線と感心したような彼の声に笑顔で応えて、もう一度同じモノを鞄から取り出して見せた。

「そういえば、シロウは見た事のある刀剣を作る魔術が使えるんだったよね? コレも作れるのかな?」
「ああ」

 目を閉じて集中した様子を見せる彼の周囲に剣が幾つも浮かび上がる。
 それは自身が錬金術で作り上げた剣と寸分違わず、士郎の周囲を踊るように飛び回っていた。

「凄い……もしかして、シロウって凄い魔術師さんだったの?」
「いや、魔術師としては半人前で落ちこぼれだよ。俺に出来る魔術は基本的にはひとつだけだしな」

 恐らく、それが剣を造る事なのだろうと納得しながら肩を並べて歩みを再開する。
 そうして共に訪れたのはかつて火山の奥深くへ続いていた洞穴だ。試作品を作成するための素材を探し求めてやってきたのだが――。

「――これはまた……随分と様変わりしてるなぁ」

 大地の化身が眠っていた場所――。
 かつて溶岩が満ち、熱を生み出し続けていた過去の姿はそこにはなく、ただ寒々しく岩肌を晒した光景がそこにあった。

「以前はここに火山の主がいたんだけど、何百年か前に倒しちゃったから……」
「なるほど。主を無くして活動を休止したということか……」

 火口の中心地へと向かうに従って増してくる熱気――。
 未だ全てが絶えていない事を肌に感じながら、辛うじて生命の流れを感じさせる場所へと足を踏み入れた。
 死火山と化しているように見えていたが、その最奥には未だ大地の息吹が残されている。
 その中心で池のように溜まっていた溶岩のすぐ脇――岩が盛り上がったその場所に今回の目的である素材は存在していた。

「うん、あった。これで素材は集まったよ」
「なら戻るとしよう。此処に来るまでに半月近く掛かった事を考えると――」

 既に火山からアトリエへの帰り道について考えを巡らせていた士郎の姿はどこか頼もしい。
 ふと、遠く霞む過去――錬金術士として歩み始めた頃に傍にいてくれたなら……と、有り得ない光景を夢想する。
 元より異世界の住人である彼が何かの要因で過去の自身の前に現れていても不思議ではないと理解している。
 だからこその夢想ではあったが、今という時に出会ったからこそ彼とこうして肩を並べられるのだろうという実感はあった。

「――帰りはコレを使うから大丈夫だよ。これならすぐにアトリエに戻れるから」

 告げて取り出したのはトラベルゲート――指定された座標に瞬間的に移動する瞬間転移装置だ。
 すっかり埃を被っていた物だが、その機能は作ってから何百年という時間を経た今も決して損なわれてはいない。

「……大丈夫なのか?」
「大丈夫、大丈夫! それじゃ、行くよ~」

 心配そうにしている士郎を横目にゲートを使用する。
 同時に視界は暗転し、次の瞬間には見慣れた密林とアトリエが目の前に現れていた。

「いや、もう驚かないぞ。ああ、驚かないさ……」

 投げやりな士郎の呟きを置いてアトリエの中へと入っていく。
 数週間前に旅立った時から変わらないアトリエを眺めてホッと一息をついた。
 半月ほどの旅路は思っていた以上に新鮮で、かつての冒険を思い出すには充分な刺激に満ちていた。
 楽しいという感情を完全に思い出せた事もそうだが、長い年月の中でアレほど退屈だと思っていた日常もまた大切だったのだと実感できた事が一番の収穫だった。

「これで暫くは実験に打ち込めるのか?」
「そうだね。しばらく――まあ三、四ヶ月位は大丈夫かな」

 続いて入ってきた士郎の言葉に頷きながら、卓上に置かれている素材に視線を向けた。
 これから必要になるであろう素材は大量に確保しており、必要になる可能性が高いと判断した貴重な素材も入手している。
 後は実際に素材を使用した実験を行いながら設計図を完成させるだけだ。

「さて、それじゃあ……まずはレシピを検討しないといけないから――」

 さっそく研究に取り掛かろうとすると、すぐ横にやってきた士郎が手早く素材の整理を開始する。
 そんな当たり前になってしまった光景に、メルルは思わず笑みを浮かべるのだった。
 ――それからの日々はまるで宝石の輝きにも等しく、惰性で生きてきた数百年の時間よりも貴重で濃密な日々だったと断言できる。
 精力的に錬金術を行い、日々を研究に没頭する――失敗が多くて楽しいというのも変な話だ。
 けれど、生きることに飽いていた以前を思えば、かつての日常とは比べるべくもない充実した時間だった事に違いない。
 そんな生活を補助するように、と――その他一切を任せた士郎が、魔境と化していたアトリエの外を探索して素材を集めてくるのも既に日課となっていた。
 修行用に作成した道具もすっかり気に入ったらしく、今ではそれらを装備したまま外の魔獣たちを相手に剣を振るい、素材集めと訓練を同時にこなしている。
 かつて冒険をしていた際に使用していた様々な道具――。
 それらを改良した物を用意して渡す度に向けられる男からの感謝の言葉は、メルルにとって懐かしい記憶と想いを蘇らせてくれたのだった。

「――それにしても、シロウは本当に料理が上手だね。今日の料理も凄く美味しかったよ」
「そう言ってもらえると作り手としては安心する。昔から料理をする機会は多かったし、旅をしている時も行く先々で料理を作っていたからそれなりの腕前だと自負しているが、ここでは殆ど創作料理ばかりだしな」

 その日の夕方――彼が外で集めてきた素材を調理した料理を食べ終えたメルルは改めて感想を告げ、男はそれを受けて少し照れた様子で返答を口にする。
 旅の最中には味わえなかった彼の手料理――それを毎日毎食食べる事が楽しみとなってからすでに数ヶ月の時が過ぎていた。
 食材さえあるのなら創作料理も可能である……と豪語していた彼はその言葉に違うこと無く多彩な料理を創作し、食事を美味しく食べるという楽しみを思い出させてくれた。

「大体、君の錬金術なら態々調理しなくとも直接料理を練成することができるだろう? 実際、旅の間はそうしていたじゃないか」
「そうだけど、他人の手料理っていうのはいいものだよ。食事が待ち遠しく思うようになったのも随分と久しぶりだしね」

 僅かばかり抱いた照れを誤魔化すように明るく告げる。
 士郎が小さな苦笑を浮かべていたのは、"久しぶり"という言葉が余りにも長い時間を示しているからだろう。

「研究の方も少しは進んできたけど、まだまだかな。ようやく試作品が完成したんだけど起動もしないし……暫くはこんな調子でのんびりやっていかないとね」
「なんだ、試作品が出来ていたのか?」
「うん。ほら、こんなのなんだけど……」

 告げて備え付けの机の上に置いたのは、置き物としては少し大きめの宝石のような筐体だ。
 作成者として置き物以上の価値は無いと判断していたモノを見て、彼は途端に表情を固まらせてしまった。

「――宝石剣に似ている……」
「えっ……?」

 呟きながら筐体に触れる士郎に視線を固定する。
 同時に、それまでは置き物でしかなかった宝石が虹色に輝き始めた。

「……まさか、起動したの? でも、どうして……」

 自身の口から零れた驚きの声が室内に響き渡る。
 光は収まることを知らぬと言うように際限なく膨れ上がり、まるで纏わりつくように士郎の身体を覆っていた。

「――これは……一体――」

 驚いた様子で自身を眺めていた士郎の姿が光の膜の向こうに消えていく。
 ふと――その光景に嫌な予感を覚えたメルルは咄嗟に手を伸ばして士郎の手を掴んだ。
 けれど、認識できたのはそこまで――二人は抵抗することもできないまま、光を覆い尽くすように周囲へ広がった"穴"に飲み込まれてしまうのだった。


 

 

Episode 3 -出会いと別れ 前編-


 見上げた空に浮かんでいるのは見慣れない星々――。
 視線を下ろした周囲には鬱蒼とした木々が広がっている。
 見たこともない植物が群生する深い森の中で彼――衛宮士郎は、聞き慣れない獣の雄叫びを間近に聞きながら溜息を零した。

「……まあ、ある意味ではいつも通りの光景と言えるかもしれないな」
「そうだね。でも、見覚えのない植物とかばかりだし、ひょっとしたら上手くいったんじゃないかな?」

 不測の事態が起きたというのに余裕すら見せるメルル――。
 その大物ぶりに、もう一度だけ溜息を零しながら神経を研ぎ澄ませる。
 目前には攻撃的な見た目をしている巨大な獣の姿。警戒はそのままに、二人は互いに示し合わせるまでもなく戦闘準備を完了させた。

「とりあえず、元の世界かそうでないかは後回しだな」
「前と後ろで一匹ずつ――挟まれちゃったね」

 如何に子供の姿に戻っているとはいえ、士郎とて伊達に数ヶ月の間をアトリエの周辺で魔獣相手に戦ってきたわけではない。
 成人男性の二倍以上の体躯を誇り、頭部に人を串刺しに出来そうなほど巨大なツノを生やした虎のような生物が目の前で殺気立っていたところで、今更驚きなど湧いてさえこなかった。

「援護を頼む。恐らく周囲に同じような獣が二体――こちらに近づいてきている。正面は俺が引き受けよう」
「私は背後だね。終わり次第、こっちに向かってきてるもう二匹を片付けよう。この殺気……向こうは本気みたいだしね」

 魔力を回して臨戦態勢を取った士郎の横で、メルルは鞄に手を入れて巨大な大剣らしきものを取り出して構えた。

「……振るえるのか?」
「こう見えても力持ちなんだよ、私。凄く久しぶりに使うんだけどね」

 告げながら片手で大剣を振り回すメルルを眺めながら、士郎は努めて冷静に思考を落ち着かせて自己に埋没した。
 同時に、雷を全身に帯びた巨獣が咆哮する。高い魔力を感じることから、恐らく魔法生物の類なのだろうと当たりをつけながら空の手を握り締めて構えた。

「――――投影開始(トレースオン)

 投影するは無名の剣。神秘もなく、込められた魔力もない巨大な剣だが、もちろんただの剣ではない。
 メルルの協力を経て作成した各種属性と効果を秘めたソレは宝具ではないが故に投影の負担も少なく、大量に展開するには最適な"弾丸"だ。
 互いに戦闘準備を終えて背中合わせになり、それぞれの目の前に迫ってくる敵へ向けて同時に行動を開始した。

「――――全投影連続層写(ソードバレル・フルオープン)

 高速で打ち出した剣群は魔獣の展開した障壁らしきモノを貫通し、容赦なくその身体を穿って肉塊へと変えていく。
 横目に見たメルルは軽やかな動きで魔獣の攻撃を避けながら肉薄し、障壁で止められた大剣を強引に振り下ろしたまま反転する。
 そのまま身体を捻った勢いを利用し、大剣をまるで重みを感じさせないほどの速度で横薙ぎにして魔獣を両断していた。
 士郎は獣の肉体を穿ち、勢いを減じることなく飛び出していく剣群を空中に待機させたまま、新たに向かってくる魔獣へと視線を投げる。

「――右側の魔獣はこっちで引き受ける」
「うん、頼むね。私は左側を片付けちゃうから――」

 メルルは大剣を鞄に仕舞い、鋭い動きで魔獣の懐へと飛び込み、障壁の内側から直接体へ巨大な爆弾のようなアイテムを叩きつけた。
 確かにあれなら障壁の強度は関係ないだろう。魔獣の肉体に付着した謎のアイテムは次第に色を変え、やがて巨大な爆発を引き起こしていた。
 それを横目に宙へ浮かべたままにしていた剣群を目前の魔獣へと撃ち出す。
 障壁を正面に集中しているのか今度は容易に突破出来なかったが、弾かれた剣弾を全方位に展開させて防御の薄い面を打ち抜いていく。

「……よし、とりあえずこんなものだろう」
「こっちも終わったよ。予想していたよりは手強くはなかったね」

 周囲の敵を掃討した事を確認しながら呟くメルルの言葉通り、巨獣は大した脅威ではなかった。
 確かに魔獣の攻撃は鋭く、動きも素早かった。以前であればそれなりに手間取った相手だっただろう。
 だが、修行を重ねて実戦を繰り返してきた新しい身体は既に完全に馴染んでおり、違和感が無いどころか最高のコンディションと言っても過言ではない。
 メルルのアイテムによる効果なのか、元になった素体が優秀だったからなのかはわからないが、戦闘を終えた士郎にとって今の身体は以前の身体よりも動いてくれている実感が確かにあった。

「さて、まずは付近の探索だね。ここがどんな世界なのかを把握しないと……」
「少なくとも、魔力を運用する技術が一般的な世界なんだろう。あの魔獣たちは極自然に魔力を運用した攻撃を繰り出してきた」

 メルルの言葉に返事を返しながら士郎は歩き出した。
 二人肩を並べて歩きながら、互いの目で見た情報を口に乗せながら整理していく。
 濃密なマナと極めて高レベルの魔法生物。群生する森の険しさと森から漂う殺気にも似た気配は人里の存在を否定していた。

「――そうだな……あの岩山辺りから探ってみるか?」

 慎重に気配を消しながら岩山の頂上付近へと移動した士郎は周囲を見渡しながら、岩山の並ぶ山地へと視線を集中させる。
 二人の立つ山の周辺は一面の森に覆われており、視力を強化した士郎の目を以てしてようやく果てが微かに見えるほどに広大な森林が広がっていた。

「そうだね。ベースを作るにしても、森の中よりは岩山のほうが簡単だし……まずは森を出て、それからだね」
「作るつもりなのか?」
「うん。いきなりここにきたから最低限の物しか持ってないし、仮宿を作ってアイテムを作成するには悪くない場所だと思うけどな」
「……そうだな。確かに、準備をした方が良さそうだ」

 告げながら士郎は空を見上げた。
 遠いので鳥のようにも見えるが、全長3~6メートルほどの怪鳥が空を飛び回っている姿を確認して舌打ちする。
 この森を出た後にもどんな魔境が広がっているのかわからない以上、しっかりと準備をするに越したことはないだろう。

「急いで走ればあの辺りまで三時間くらいかな……。――シロウ、大丈夫?」
「ああ。メルルこそ、途中で疲れたら遠慮せずに言うんだぞ」
「わかってる。無理なんてしないよ」

 そうして、士郎はメルルの腰に手を添えて地を蹴った。
 山を歩いて下る――などという悠長な事はしていられない。
 先程から周辺に集まってきていた魔獣の気配を振り払うように、急勾配の山を駆け下りていく。

「……森を抜けた先の岩山まで一気にいけるといいんだが……」
「こういうの、ワクワクして楽しいよね」
「……まあ、楽しめているならいいんだけどな」

 下山後、メルルを地面に下ろした士郎はそのまま彼女と肩を並べて走り出した。
 魔獣の気配を極力避けて走りながら気楽そうな言葉を投げかけてくるメルルへ視線を向けることなく苦笑を零す。
 鬱蒼とした森林に遮られてはいるが、木々を登ればすぐに巨大な岩山たちが目に入る。こまめに方向を確認しながら、二人は目的地へと向かうのだった。


 -Interlude-


 人里を離れ、果てなく広がる森林地帯に足を踏み入れて既に数日――。
 少年――ナギ・スプリングフィールドは先頭を歩きながらようやく抜けた森の先にある岩山へと視線を向けていた。

「――つか、ようやく森を抜けられたな」

 背後を歩く巨漢の男――ジャック・ラカンの愚痴に賛同するように頷く。
 つい先日までは大都会で休暇を満喫していただけに、その落差の激しさは文句のひとつくらい零しても余りあるだろう。

「しょうがねえだろ。いまはとにかく、姫さんたちを助けにいかなくちゃならねえんだしよ」
「そうですね。それに、こうして皆が無事に合流できただけでも良しとするべきでしょうし」

 ナギの返答に合わせて黒髪の優男――アルビレオ・イマが同意するように言葉を紡いだ。
 一連の会話を聞いていた仲間たち――青山詠春とガトウ・カグラ・ヴァンデンバーグ、タカミチ、ゼクトの四人は揃って小さな溜息を零していた。

「お、なんか美味そうな匂いがするぜ!」

 いつの間にか先頭を歩いていたジャックが勇み足で岩と岩の合間を縫っていく。
 そんな彼の視線の先を見てみれば、洞窟のようになっている空間があるのが確かに確認できる。
 どうやらそこから匂いが漏れてきている――ジャックぐらいにしか判別はできないが――らしく、ジャックは視線を固定したまま様子を窺うように身を潜めていた。

「なんか、変わった建物があるんだが……」
「あん? どこにだよ?」
「ほれ、あそこだ。洞窟のようになってる岩山の麓だよ。岩肌を削って作ったのか? こんな辺鄙なところに家があるってだけでもおかしいが、見た事のない様式だしな」

 言われて目を凝らせば確かに建造物と思わしきモノがある。
 岩山の一部を削りとって作ったような住居だが、正面には確かに扉のようなものも見えていた。

「……少々変わった結界が張られているようじゃの」

 ぽつりと漏らしたゼクトの言葉にアルが頷いて小さく前に手を差し出す。

「これは…感知系の結界…でしょうか? 見た事のない術式ですが、害意のあるものではなさそうです」
「こんなところに結界を張ってまで住んでいるってことですか?」

 タカミチが驚いた様子で隣に立つガトウへ視線を投げると、さっきまで銜えていたタバコを処分しながら神妙な様子で頷いて見せていた。

「メガロメセンブリアでも見た事がないタイプの建物だな。その上結界まで張られているとなると怪しくはあるが……」

 訝しむガトウの目前で、ナギは痺れを切らせたジャックと共に隠していた身を露わにして建物へと歩いていく。もちろん結界はそのまま素通りして、だ。

「そういう細かいことは尋ねてから考えりゃいいんだよ。上手くいきゃ飯にありつけるかもしれねえじゃねえか」
「お前のそういうところはオレでも感心するぜ、ナギ。ま、行き当たりばったりのオレたちにはぴったりの方策だがな」

 ジャックと肩を並べて歩いていくナギのすぐ後ろから呆れた様子を隠そうともせずについてくる仲間たち。警戒を解くことはしていないが、果たして鬼が出るのか蛇が出るのか――。

「――頼もー!!」

 家のすぐ手前で立ち止まり、声を上げた。中に人がいることは気配でわかっている。
 その気配がゆっくりと扉へ近づいてくると同時に、岩山には似つかわしくない木製の扉がゆっくりと開かれた。

「……こんな辺鄙なところに堂々と来客がくるとは思いもしなかったが、何か用か?」

 現れたのは赤銅色の短髪に黒で統一された服に身を包んだ少年だった。
 年の頃は14、5歳と思われる少年から向けられる窺うような視線は鋭く、身に纏う気配に隙はない。間違いなく相応の使い手である。
 少年が可愛らしい柄のエプロンを装備していなければ、もう少し空気が重たくなったことは間違いなかった。


 -Interlude out-


 岩山へ到着して直ぐにメルルが、見た目の数倍の容量を持つ鞄から取り出した幾つものアイテムを使用してアトリエ建造に取り掛かった。
 そんな彼女を護衛するため、士郎は周辺の警戒をしながら情報収集を開始していた。
 周囲の気配を探りながら山頂付近まで登って見渡してみたが、この岩山からは人里らしい場所を見つけることはできない。
 時間にして僅かに二時間――周囲に魔獣がいないことを確認しながら、術式が刻まれた短剣を投影して周辺に刺して回る。
 術式の編み込まれた短剣は魔力を込めて念じるだけで簡易型の結界を周囲に展開することの出来る魔術礼装だ。
 それは士郎が旅の途中で出会った封印指定の魔術師が所持していたもので、彼女の研究に協力した見返りとして譲り受けたものだった。
 彼女は"この短剣では感知型の簡易結界程度しか展開できない"などぼやいていたが、そうした魔術を使えない士郎としては非常に重宝する短剣だったため、投影品の中でも使用頻度は高い。
 実際、多くの人間や人外の者たちに追われる身となってからは非常に役に立っていた礼装で、効果の程は折り紙つきである。
 準備を終えてから起点となる短剣に魔力を通して結界を作動させる。
 効果を確認してから山頂を後にすると、すでに麓ではメルルが作業の手を止めてのんびりと寛いでいた。

「もう終わったのか?」
「うん。本当に簡単な様式にしたし、急拵えの臨時作業所としては上出来かな」

 言われて視線を岩肌へと向ける。岩山の一部を切り取るようにして作られた"アトリエ"は確かにシンプルな作りをしていた。
 元のアトリエの外観を模したのか、まるで一軒家のような装飾が施されてはいたが、特に凝った作りをしているわけではない。
 士郎の"解析"で見てみた限り、内装にはそれなりに気を使っているらしく、最低限の生活を送るには充分すぎる規模の空間が用意されている事が確認できた。

「――それにしても、これだけの建物をこの短時間で用意するとはな」
「暫くの間はここで生活していくことも考えているんだよ。人里――見当たらなかったんでしょ?」
「ああ。少なくとも、ここから百キロ圏内には見当たらなかった。とりあえず感知型の結界を用意してきたから、なにかあればすぐにわかるようにはしておいた」

 地理的に見渡しはいいし、近くには水が湧いている小さな水場もある。
 食料は周囲に広がる森を散策すれば手に入れる事が出来ると考えれば、最低限生活していくには困らないだろう。

「なんとか体裁は整えられたかな……。ねえ、シロウ……まずは食事にしない? 流石にお腹が空いたよ」
「そうだな。食べられそうなものを探してくるから、メルルは調理場の用意をしておいてくれるか?」
「うん、わかった。まだ何が出るか全部を把握していないんだから気をつけてね」
「了解だ」

 互いに役割分担を確認した士郎はそのまま森へと向かい、周囲の散策を開始した。
 見れば食用にできそうな野草や果物は豊富にある。
 途中で襲いかかってきた野獣を仕留め、食用に使えそうな箇所だけを持ち帰るように加工してから丁重に葬った。
 食べるために命を奪う――生きていく上では仕方がないことだ。
 だからこそ、士郎は世界中を旅していた頃からせめて感謝の念だけは忘れないようにしてきたつもりだった。
 水を汲んでアトリエの外に用意してあった水瓶に流し込んだ後、収穫した果物と野草、食用に捌いた肉を抱えてアトリエへと戻る。
 すべての片付けを終えた士郎が中に入って見てみれば、出発前には存在していなかった炊事場がしっかりと用意されていた。

「おかえり。大量だね」
「ああ、数日分は確保してきた。野草と果物については毒性がなさそうなモノを選んできたし、肉は上手く干しておけば日持ちするからな」
「落ち着いたら私も森に行ってみないとな~。素材を手に入れるにしても、自分の目で見て判断しないといけないし」

 元いた場所との違いが嬉しいのか、周辺の散策をしたいと語るメルルはどこか楽しそうだ。
 実際士郎と出会うまでは退屈だったとぼやいていたメルルにとって、新鮮な刺激は大歓迎なのだろう。

「とりあえず、食事の支度をしよう。下拵えを手伝ってくれるか?」
「もちろんだよ。せっかくだし、美味しい料理を作らないとね」

 以前よりも少しだけ活発になったメルルの姿を流し見ながら、士郎は作業を開始した。
 しっかりとした調理器具が揃っている上、調味料の類も充分以上に用意されている。恐らくは以前の旅で使用していた物だろう。
 以前のアトリエ並に整えられた調理環境に笑みを零した士郎は、メルルの期待に応えるべく調理を進めていった。
 そうして気合いをいれて食事を用意していた士郎だったが、警戒のために張っていた結界を越えたモノがいることを感じ、そちらへと意識を集中させた。
 どうやら獣ではなく、人と思われる七つの気配がアトリエに向けてゆっくりと近づいて来る。そうして、気配の一つは家の目前で立ち止まり――。

「――頼もー!!」

 ――などと、大きな声で来訪を告げてきた。
 あまりに能天気なその声に、士郎は思わずメルルと視線を合わせて共に苦笑を零した。
 外から感じるのは探るような気配だけで、害意や敵意といったものは感じられない。それでも士郎は警戒だけは怠る事なく外へと繋がる扉を開いた。

「……こんな辺鄙なところに堂々と来客が来るとは思いもしなかったが、何か用か?」

 見れば正面には赤毛の少年が立っていた。
 その直ぐ背後には大きな男から小さな少年まで六人ほどの男が揃って立っている。
 一見しただけで只者ではない集団だとわかったが、士郎が感じていたように害意や敵意を持ち合わせていないようだった。
 その証拠に、士郎の目前に立つ赤毛の少年と巨漢の男は腹を鳴らしながら、調理場から流れてくる香ばしい空気を美味しそうに吸い込んでいた。

「……もしかして、腹が減っているのか?」
「おう!!」

 途端に元気よく答える赤毛の少年の姿に溜息を零しながら、士郎は思わず苦笑した。
 元気よく自然体のまま返事を返してきた少年の受け応えに、かつての日常を思い出しながら――。

「――敵意はないようだよ。折角尋ねてきたんだから御馳走してあげたら? シロウだって、満更じゃないんでしょう?」

 ふいに背後からメルルの声が耳に届き、士郎は僅かに思い耽っていた自身に気づいて内心慌てながら静かに振り返った。
 どうやら先程まで一応の警戒をしていたらしいメルルだが、彼らから感じられる気配と尋ねてきた様子を見て害意はないと結論したらしい。

「……そうだな。よければ上がっていくか? ちょうど料理を作っていたところだ。飯ぐらいなら食べさせてやるぞ」
「ま、まじかよ!! サンキューな!!」

 少年が満面の笑みを浮かべて家の中へと入ってくる。
 それに付き合う形で背後の男たちも頭を下げながら入ってきた。

「少し待っていてくれ。直ぐに用意してやるから」

 それだけ告げて、士郎は男たちに背を向ける。同時に、部屋の隅に立っていたメルルへと視線を送った。

『済まないが彼らの相手をお願いしていいか? できれば色々と話を聞いてもらえると助かる』
『うん、わかってるよ。折角の情報源だしね』

 メルルと視線だけで会話をして頷き合った士郎は、はしゃいでいる男たちを背にしたままキッチンへと向かうのだった。


 -Interlude-


 簡単な自己紹介を終えた後、人数分の席を即席で作り上げたメルルは改めて男たちを見渡した。
 少しだけ驚いたような気配が感じられたが、すぐに平静な様子を取り戻したらしい彼らはメルルが用意した席へと腰掛ける。

「――それにしても、この建物もそうだが……見たことのないものばかりだな」

 疑問を口にしたのは長身の男――ガトウ・カグラ・ヴァンデンバーグだ。
 少しだけ遠慮した様子は単にメルルの反応を伺っているのだろう。
 そんな彼の視線の先には錬金術を行う上で最低限必要な道具たちがあった。
 先程まで調理場を用意していたため、道具がそのままにしてあったのが目に止まったようだ。

「まあ、珍しいのはお互い様ってことで。私たちもここに来たばかりで、まだ一日も経ってないから周りのことはあまりわからないし」
「来たばかり? しかし、この建物は貴女方のものなのでしょう?」

 黒髪の男――アルビレオ・イマが首を傾げながら尋ねてくる。その当たり前の反応に彼女は頷いて応えた。

「そうだけど、ここはさっき作ったばかりの急拵えなんだ。ようやく落ち着いたのもついさっきだから、訪ねてきたタイミングはバッチリだったね」
「え…えっと、じゃあこの建物を一日で作ったんですか!?」

 驚きの声を上げたのは集団で一番年少だと思われる少年――タカミチだ。見た目通り、非常に少年らしい反応を見せてくれる。
 流石のメルルも見た目だけは少年となってしまった士郎を基準に考えるのは間違っているとわかってはいるが、タカミチの子供らしい反応を見ていると少しだけ微笑ましく思えた。

「ところで、ひとつ尋ねたいのだが――何故このような場所で過ごそうと?」

 もっともな質問を口にしたのは青山詠春――。
 名前の響きが"衛宮士郎"と似通っており、彼と同郷か近しい地域性を持った場所の出身なのだろうと当たりをつけた。

「森の中よりは安全かなって思って」

 男たちからの質問を受けたメルルは細かな説明を省いた簡単な答えを口にする。
 それをどう受け取ったのか、これまで一言も喋っていなかった少年――ゼクトが小さな溜息を零しながら仲間たちを流し見ていた。

「迂遠な質問ばかりじゃな。わざわざこちらに悟らせようとしてくれておるというのに……」

 その言葉にメルルは笑みを浮かべるだけで、肯定も否定もしなかった。
 事実として、メルルは自分から全ての情報を明かすつもりはなかったが、尋ねられれば嘘偽りなく答える心算だったからだ。

「……さっきまでの話からすると、お前らがここに来たのは偶然で、とりあえず落ち着ける場所を用意するためにこの建物を作ったってことだろ?」
「見た目はゴツイのに洞察力あるんだ……ちょっとびっくり。でも、そうだね……ジャックの推察は間違っていないよ」

 そいつはどうも、と苦笑いを浮かべて応えたのは筋骨逞しい男――ジャック・ラカンだ。
 見た目とは裏腹に思慮深い性質らしく、受け答えをするメルルの様子をじっと伺っていた。

「もしかして旧世界から来たのか?」

 思いついたように言葉を口にしたのは赤毛の少年、ナギ・スプリングフィールドだ。
 見た目は士郎よりも少しだけ年下の少年といった様子だが、彼がこのグループのリーダー格なのだという。
 メルルはそんな彼の口にした言葉に聞き慣れない単語が混ざっていた事に僅かな疑問を抱きながら首を傾げた。

「旧世界?」
「なんだ、違うのか?」
「初めて聞いた単語だよ。その言い方だと、ここは新世界っていうのかな?」
「ああ。向こうだと魔法世界って呼ばれてる……って、そんなことも知らねえのかよ?」

 彼の疑問に満ちた言葉に彼女は頷きを返した。
 実際、彼の口にした言葉はどれも聞き覚えのない情報ばかりだったからだ。

「少なくとも私は知らないかな。ひょっとしたら外の世界では知られていたのかもしれないけど、もう随分と長い間引き篭もってたから」
「長い間って……何ヶ月とか何年とかって話か?」
「正確には覚えてないけど、多分千年は経ってないと思うんだよね……九百年くらいかな? あ、この説明はシロウにもしたことあったな……」

 何の気なしに告げたメルルだが、目の前では今度こそ驚いたような気配が広まってしまった。
 話を聞いて驚かなかった士郎が例外だったのだということを、メルルは改めて理解するのだった。

「――こう見えて、メルルは元いた場所だと知らない者はいないほど有名な"魔女"らしいからな」

 唐突に聞こえてきた声に視線を向ければ、そこには大きな鍋を両手に抱えた士郎の姿があった。
 その彼の言葉に同意するようにメルルは頷いて見せる。

「メルルリンス・レーデ・アールズ…か。少なくとも、俺は聞いたことないけどな」

 ナギの言葉に士郎とメルルを除いた全員が同意するように頷いた。

「恐らく、この世界では誰も知らなくて不思議じゃないんだ。推測に過ぎないことだが、俺たちがいた世界はここと異なる世界のようだからな」

 推察だと断りながら、確信を込めて断言した士郎が鍋を台の上において小さな皿を並べていく。
 元々、彼が世界を渡ってきたことが全ての始まりだ。彼にとっては二度目の世界移動なのだから驚きも少ないのかもしれない。

「異界出身…ということですか。確かに、未だ存在が明らかになっていない幾つかの異界があるという話は聞いたことがあります」
「けどよ、アル。そういうのって確認できてないから推測の域を出てないって言う話だろ?」
「そうです。ですが、いまこうして目の前にこの世界の人間ではないと名乗る人たちがいるのですから――」

 アルビレオ――アルとジャックの二人が思案顔でメルルたちを眺めてくるが、嘘を吐いているわけでもないので笑顔を向ける。

「話を聞いた限りじゃ、狙ってここにきたわけじゃないみたいだな」
「一応、世界を移動するためのアイテムを作ろうとはしてたんだけど…試作段階で暴発しちゃってね。気がついた時には…って感じかな」

 ガトウに返答を返したメルルは作業を終えた士郎へ視線を投げた。後は任せると目線で告げると、彼は小さな溜息を零して頷いた。

「……そうだな。特に急いで元の場所へ戻ろうとは思っていないが、長々とここに留まるつもりもないしな。ナギ…よければ、近隣の街にでも案内してくれないか?」
「あ~その…だな。案内してやりたいのは山々なんだけどよ――」

 珍しく言い淀むナギの姿にメルルは士郎と二人、顔を見合わせて首を傾げるのだった。

 

 

Episode 4 -出会いと別れ 後編-


 新たな世界で過ごし始めて早一週間――士郎はアトリエから僅かに離れた広場で精神を集中させていた。 

「――投影開始(トレースオン)

 具現化するのはおよそ通常の太刀よりも長い退魔の剣――"夕凪"だ。
 剣士である青山詠春が得手とするもので、彼が長く扱い続けてきた愛刀である。

「…凄いな。本当に、こうして目の前で見ていてもどちらが本物かわからない」

 投影した剣を受け取った詠春は驚いた様子で"夕凪"を眺めている。担い手である彼の感想は士郎には最高の賛辞に等しかった。
 あらゆる工程を経て複製された剣に込められた使い手の想い。蓄積された経験と年月の全てを再現し尽くした剣製に、士郎は満足気な笑みを浮かべた。

「……いや、感心するのはこちらのほうだ。この剣から伝わる君の技量――正直、剣の競い合いをして勝てる気がしないな」
「剣技の競い合いなら……だろう? 何度か見せてもらったが、士郎くんの剣は実戦で培われたものだ。正直、どれだけの戦いを潜り抜ければ"その域"に達するのか――退魔を生業とする神鳴流剣士としては、非常に気になるところだ」
「俺は凡人だからな。出来るだけ全ての事に手を付けざるを得なかっただけだよ」
「才能に依らない、鍛錬と実戦によって鍛え上げられた剣……か。ところで、そうやって複製した武器はちゃんと扱えるのかい?」

 最もな疑問を口にした詠春に対して、士郎は戸惑うことなく頷きを返した。
 それが"剣"であるのならどんなものでも複製し、貯蔵し、再現する。
 それは"衛宮士郎"であることの証――正義の味方を貫いた男と真逆の道を歩んだ者としての存在証明に他ならない。

「しかし、この剣を本当の意味で扱おうとするなら今のままでは無理だろうな。退魔の技――"気"を使用した技は、俺には使えないからな」
「……ふむ、神鳴流の技を教えるわけにはいかないが、"気"の扱い方なら初歩でよければ教えられるよ」
「それは……ありがたいな。君やジャックの扱う"気"とやらが俺にも使えるのなら、是非教授してもらいたい」
「こんな事でよければ。君と彼女には感謝しているんだ。我々の事情を知りながら、それを手助けしてくれるというのだからな」

 一週間前――街を案内できないと告げたナギから聞かされた話は、ある意味でどこでも聞くような話だった。
 罠に嵌められ、反逆者として追われる身――士郎としては、メルルが興味を持って彼らに同行すると口にしなかったことが意外と言えば意外だった。

「――これも何かの縁だろうさ。俺や彼女が君たちの旅の一助になれてよかった」
「メルルリンス殿には旅に役立つ小道具一式、士郎くんには街での情報収集と必需品の購入。数日間の滞在を補って余りある収穫だ。本当に、感謝している」

 告げて改まった様子で頭を下げる詠春を眺めながら士郎は苦笑する。
 古風といえば古風だが、嫌味のないその姿に士郎は好感を抱くのだった。
 そうして、詠春に気を使用するための手ほどきを受け始めてから二時間――。
 丁度休憩に入っていた士郎の視界にアトリエの方から走ってきている人影が映った。

「――おーい、詠春。メルルが呼んでるぜ!! 次はお前のを用意するから来いってよ!」
「了解した、ナギ。……済まない、そういうわけなので失礼するよ」
「ああ、後は自分なりに訓練してみるから気にしないでくれ。ありがとう、詠春」

 一礼を残して去っていった詠春と入れ違うようにやってきたのはナギだ。
 先程までメルルに呼び出されていたナギも、既に旅支度を終えていつでも出発できるような出で立ちをしていた。

「なんだよ、士郎。"気"の扱い方なんて教わってたのか?」
「ああ。生憎、俺にはお前のような魔法は使えないしな。詠春やジャックが言うには、俺から微弱な気を感じるらしい。それを上手く扱えるなら、もう少しマシに身体を動かせるだろう?」

 実際彼らの戦いを初めて見た士郎が聞いてみたところ、詠春やジャック、ガトウは魔法使いではないのだという。
 彼らは魔力ではなく、気を纏う事で常人とはかけ離れた身体能力を手に入れ、それらを活用した技法を駆使して戦闘を行う。
 剣技と"気"を併用した詠春の神鳴流や、相反する性質を持つという魔力と気を融合して扱うことで爆発的な力を得るガトウの"咸卦法"。極限の気によって鍛えあげられたジャックの鋼の肉体などだ。
 世界の違いか肉体の違い故か…彼らの言葉を信じるのなら、"衛宮士郎"にもそうした素養があるのだという。
 未知であるが故に大きな可能性を秘めた様々な技法の階が開けるというのだ。それら新しい力は自身にとって、いつか必ず必要になるはずだという確信が士郎にはあった。

「普通は魔法も気も使わずに魔獣だの何だのを相手にはしないもんだけどな。傍から見たら自殺行為にしか見えないぜ」

 気楽そうな調子のまま歯に衣着せぬ発言をするナギだが、その口調は決して馬鹿にしたものではなく、純粋な心配の色が見え隠れしていた。
 この世界では魔力を運用する技術を総称して魔法と大別している。
 その魔法の扱い方は、これまで魔術使いとして生きてきた士郎には馴染みのないものだった。
 その半面、体内で練り上げる"気"という概念は体内で魔力を生成して扱う魔術使いの士郎には実感しやすく、素養があると太鼓判を押してもらっていた。

「みんなが心配してくれているのはよくわかっているつもりだ。詠春やジャックやガトウも、だから親身になって色々と教えてくれたんだろうしな」
「気が扱えるようになったら思いっきり戦ってみたい気もするけど、またの機会にしないとな。俺らも急ぐ旅だし、お前らもいつ移動するかわからないんだろ?」
「ああ……メルルが言うには、兆候は出ているらしいから、近々世界を移動することになると思う」

 ナギたちと初めて出会った日から二日後――沈黙したままだったメルルのアイテムが再び稼動状態になった。
 以前に移動した際よりも落ち着いた反応だったが、どのような状態になったら世界を移動するのかは作成者であるメルルでさえ推測の域を出ないのだ。

「……ホントは、お前にも一緒に来てもらえたらって思ってんだぜ?」
「……奇遇だな。本音を言えば、俺もお前の手伝いくらいはしてやれたらと思っている」

 互いにそんな言葉を口にして目を合わせ、士郎とナギは同時に笑い声を零した。
 ナギ・スプリングフィールドという男は士郎とは正反対の気質を持つ男だが、不思議と話していて不快にはならなかった。
 ナギも似たような感想を抱いていたらしく、二人の相性がいいとは傍目に二人を観察していたアルとメルルの言葉だった。

「まあ、巡り合わせってやつだな。まだ会って一ヶ月も経ってないけどよ、お前もメルルもダチだと思ってるんだ」
「こう見えて、男の友人は奇跡的なまでに少なかったんだ。意図せずにやってきた世界で友人が出来たなど、幸運以外の何者でもないな」

 互いに言葉を交わしてから揃って笑みを浮かべて笑い声を零す。
 そうして語り合うのは互いの事――些細な事から自身の戦う理由など胸に秘めた想いを互いに語り合った。
 士郎は自身の年齢が見た目よりも高い事を彼ら全員に伝えている。それでも普通に友人として接してくれる彼らには素直に感謝していた。

「――そういや、お前とメルルってどういう関係なんだ? 端から見てる分には兄妹か、付き合ってるようにしか見えないけどよ」
「彼女は命の恩人で同居人だ。大切な友人であることは間違いないがな」
「へぇ……それじゃ、元の世界へ戻ったらまた同居生活に戻るってわけだ」
「……どうだろうな。いつまで一緒にいられるかもわからないし、共に過ごせる内は一緒に行動すると思うが……先の事はわからないな」

 今も彼女と行動を共にしているのは偶然によるものだ。
 生涯の殆どを一人で過ごしてきた士郎は、それがどれだけ幸福なのかを考えない日はなかった。
 かつて聖杯の力と自身の特性を最大限に活用することで元の世界に戻り、桜と再会する事が出来たが、その代償は決して小さなものではなかった。
 外界へと繋がる穴から虚数空間に堕ちていった"衛宮士郎"が紆余曲折の末に聖杯へと辿り着き、その力を利用して元の世界へ戻るために支払った代償は世界からの追放に他ならない。
 魂そのものとして生きている本体は世界の外にあり、聖杯へと辿り着いたのは其処から分離された分身に過ぎない。
 サーヴァントの殻を被ることで辛うじて世界へと残った士郎は聖杯の演算能力と機能を使って約束の地へと戻ることができた。
 本来であれば既に存在しないはずの存在だが、矛盾を許さない月の聖杯――ムーンセルは分解する事のできない"衛宮士郎"という異物に対する処置として、その機能を余すことなく使い切ることで奇跡を為した。
 それが世界からの事実上の消滅――元より世界から弾かれた存在である"衛宮士郎"という異物を矛盾なく処理する事が出来ると判断したのだろう。
 ムーンセルは気前よく自身の性能を完全に使い切って、"衛宮士郎"を元の世界へと送り返してくれた。
 誰からも認識されないのなら、それは世界から消滅したと言っても間違いはなく――元の世界では数十秒前まで信頼を寄せて、寄せられていた人が次の瞬間には赤の他人へ変わっていった。
 行った結果として得た事実は残っても、"衛宮士郎"という人間の記録と記憶は残らない。それが日常となってから、士郎は百年以上も旅を続けてきた。
 魂そのものとして現実の世界に在った士郎は年を重ねるという概念を持たないが故に長い時間を孤独に生きてきたのだ。
 最後を迎える前には再び他者に認識されるようになっていたとはいえ、今も――こうして友人として過ごしているナギたちが、明日にも自身を忘れてしまうのではないかという考えは士郎の中で根強く渦巻いていた。
 それでも――と、士郎は頭を振る。
 どんな理由があっても他人を遠ざけるつもりはなく、人との交流を断つ事も考えない。
 ――他人の記憶に残らずとも、"人"として精一杯生き抜く。
 それは長い年月を苦しみながらも生き抜いた桜への誓いに他ならないのだから――。

「――また世界を移動してくることがあったら尋ねてこいよな。そんときはちゃんと歓迎するからさ」
「了解だ、ナギ――」

 また会える保証などありはしない。それでも――。

「――いつか、必ずまた会おう。その時までには、お前と腕を競い合えるようになっておく」
「おう、楽しみにしてるぜ」

 ――きっと、この出会いにも意味があるはずだから。


 -Interlude-


 ――ナギたちを見送ってから更に一週間が過ぎた。
 あれからも変わらずアトリエで過ごしていたメルルたちは、彼らから得た情報と手に入れた様々な技術と素材を元に日常を送っていた。

「そういえば、シロウがずっと持ってるその宝石――なにか大切なものなの?」

 彼女の視線の先にあるのは、以前に彼がアトリエにやってきた時に同じように世界を渡ってやってきた宝石だ。
 素材としては優秀な宝石だが、彼の所持品を勝手に素材にするわけにもいかず、そのまま彼の手に戻したモノである。

「ああ。これは随分と昔に俺の命を救ってくれた人が落としていったものなんだ。それ以来、肌身離さず持っている」

 告げて、懐かしそうに首飾りにしている宝石に触れる士郎の姿を眺めながら、彼女はふと湧いていた考えを破棄して曖昧に笑った。
 流石にそんな大切なものを実験の素材にするわけにはいかない――と。
 なんとなく考えていた事を察していたのか、彼は苦笑いを浮かべていた。

「ところで、いま作っているソレは何なんだ?」
「ん、試作アイテムの改良品。ほら、あっちだと突発的に意図していない世界へ移動しちゃいそうだし、色々と試行錯誤して改良型を作ってみたんだよ」

 実験の成果は芳しくないが、元のアイテムを作成する際に決定的な役割を果たしてくれた素材が手に入らないのだから仕方がない。

「元のアイテムの成分は把握してるから、似たような成分と構成で作ってるけどね。でも、やっぱり世界を移動しそうな兆候はないみたい……」
「こっちのアイテムから発せられている光は随分と濃くなってきている。続きは次の世界へ移動した後だな」

 そんな会話を交わしながら彼と共にアトリエ内の荷物を片づけていく。
 いつの間にか増えていた私物を全て整理し、必要なものだけを手元に残した。

「さて…と、忘れ物はない? 荷物はちゃんと持ってる?」
「こっちは最低限だからな。片付けも済んだし、もう大丈夫だろう。それより、今度も本当に大丈夫なのか?」

 少しだけ訝しげな視線を向けられた彼女は曖昧に笑みを浮かべた。
 もとより偶然に偶然が重なった結果として世界を移動したのだから答えようもない。

「わからないけど、偶然にしても何にしても"出来た"んだから、錬金術士の私としては、完全にモノにしたい。そのためなら、多少のリスクは問わないつもりだよ」
「それもそうか……。いや、あまりにも門外漢なものだからな。そもそも、俺にとっては"どの世界"だろうと関係はなかった」

 告げながら納得した様子を見せる男の言葉に彼女は苦笑いを零した。
 確かに彼にとっては今更どの世界にいようと関係はないのだろう。
 元の世界での生涯を閉じてアトリエへとやってきた衛宮士郎にとっては、その後をどこで過ごそうと異世界であるという事実は決して変わらないのだから――。

「――そろそろだね」
「――ああ」

 彼が持つアイテムが虹色に輝き始める。それは以前に世界を移動した時と同じ現象だった。
 虹色の光が周囲に広がり、膨れ上がっていく。
 やがてそれは彼だけではなく、彼女自身の身体に纏わりつくように覆っていった。

「――いける。今度も、きっと……」

 以前よりは幾分落ち着いた様子でこちらを眺めている男の姿を眺めながら光に飲み込まれていく。
 ふと、形容しがたい嫌な予感がした彼女は咄嗟に視線を手元に移す。
 視線の先では、未だ起動する気配すらなかった改良型のアイテムが発光していた。
 それがどういう意味を持っていたのか。思考することも対処することも出来ずに、メルルたちは周囲へ広がった"穴"に飲み込まれた。
 その後の変化は劇的で唐突に。以前には感じられなかった強い抵抗をすぐ隣に感じた瞬間――見慣れない光景が彼女の眼前に広がった。

「――ここは……どこかの家の敷地に見えるけど……」

 周囲を見渡すと、壁に覆われた庭のような場所に自身が立っていることがわかった。
 庭の隅には土蔵のようなものがあり、大きな建物と住居と思われる建物が並んで建っている。

「ねえ、シロウ――」

 ふいに隣へと視線を投げる。けれど、そこに見慣れた男の姿は見当たらなかった。
 数秒ほど呆然として、すぐに状況を理解したメルルは思っていた以上の喪失感に眉根を寄せた。

「――そこの人。ここに何の用事があるのか知らないけど、勝手に入ってくると危ないわよ」

 唐突に聞こえてきた女の声に反応して振り向く。
 視線の先には赤い服がよく似合う黒髪の女性が訝しげな視線を隠そうともせずに佇んでいた。

「ごめんなさい。ちょっとした実験に失敗したみたい。意図して侵入したわけじゃないけど、勝手に敷地内に入ったことについては謝罪します」

 素直に頭を下げて謝罪の言葉を口にする彼女の姿をどう受け取ったのか――。
 黒髪の女性は一瞬だけ何かを思案する様子を見せた後、小さく頭を振って鋭い視線を僅かに緩めた。

「そう素直に謝罪されると調子狂うわね……。まあいいわ。ところで、私の目にはいきなり貴女が"そこ"に現われたように見えたけど、どういうことなのかしら?」

 虚偽は認めない、と。柔らかな口調のまま暗にそう告げてくる女性にメルルは嘘偽りのない説明をする。
 世界を移動してきた――などという突拍子もない事実が受け入れられるかどうかもわからなかったが、女性は存外普通に状況を受け入れた。

「ふーん。世界を移動…ね。話を聞く限りだと、並行世界ってわけでもなさそうだし、純然たる異世界移動……ってことになるのかしら」
「一応そういう風に考えてる。元々ちょっとした切っ掛けがあって始めた実験だったんだけど、今回は成功半分失敗半分かな…」
「世界を移動したのは事実なんでしょ? なにか失敗したことでもあるの?」
「同行者とはぐれちゃったみたい。向こうは向こうで元々私とは違う世界からきた人で、すごくしっかりしてるから一人になってもちゃんとやっていけるとは思うんだけど……」

 寂しくないと言えば嘘になるだろう。
 実際、彼と共に過ごすようになってからの日々はあっという間に過ぎていったからだ。
 あれだけ退屈で苦痛だった日々が楽しくて仕方のないものへと変わった。
 久しぶりに他者を頼るという感覚を味わわせてくれた彼と離れてしまったことを寂しく思うのも当然だろう。

「じゃあなに、元々世界を移動したりしてたのはそのはぐれた同行者ってわけ?」
「向こうは向こうで誰かに世界を移動させられたみたいな事を言ってたけどね。シロウ――ああ、ごめん。その同行してた人……シロウっていうんだけど、その人も――」

 彼女が発しようとしていた言葉は最後まで口にする事が出来ずに肩を掴まれた。
 予想外に強い力で肩を掴まれたが、そんな事に驚くことも出来ないほど、目の前の女性の表情の変化は劇的だった。

「――いま、シロウって言ったわね。もしかしてソイツ、衛宮士郎っていう名前だったりしない?」
「うん、そうだけど……どうして、シロウの名前を知ってるの?」

 素朴な疑問を口にすると、女性は一瞬だけ嬉しそうな笑みを浮かべた後、肩を掴んでいた手から力を抜いた。

「まだ名乗ってなかったわね。私は遠坂凛よ。貴女は?」
「メルルリンス・レーデ・アールズだよ。リン――その名前、確かシロウが話してくれた昔話の中で聞いたよ。サクラのお姉さんでシロウのお友達…だよね?」
「う…まあ、そうね。どこまで聞いているのか――そもそも、私の知っているアイツと貴女の知っている"シロウ"が同一の存在なのかもわからないし……ねえ、よかったら私の家にこない? ここじゃ、ちょっと話し辛いのよね」

 告げて家の中へと視線を向ける凛だが、どこか憂いを帯びた表情を一瞬だけ浮かべてから頭を振った。

「いいけど、ここはリンの家じゃないの?」
「ここは違うわ。ここは元々アイツの――士郎の家よ。今はちょっとね……迂闊にアイツの話なんてしてたら桜が不安定になるかもしれないし」

 事情は完全には飲み込めなかったが、いつか聞いたシロウの昔話と今の状況――リンの言葉と年格好から大凡の事情を推察したメルルは、彼女に背を向けて敷地の外へと繋がる入り口へと足を向けた。

「それじゃ、行こっか」
「……ええ、行きましょう。案内するわ」

 そうして彼女と共に向かった洋館の中で互いの持つ情報を交換する。
 わかったことは二つ――ここは元々彼がいた世界の過去で、まだ彼が姿を消してから一年しか経っていない時期だということ。
 そして彼女――リンこそがシロウをアトリエに送った張本人だろうということだ。

「流石に未来の自分がやった事にまで責任は持てないけど――そうしなければならない事情があったんでしょうね」
「わからないけど、シロウは感謝してたよ。お節介な人に助けられたって言ってたし」

 その言葉をどう受け取ったのか、彼女は少しだけ寂しそうに笑った。

「とりあえず、アイツがいつか桜と会えるっていうのなら私が口を出すことじゃないわ。後は当人同士の問題だしね」
「そうだね。ところで、私と共同で研究がしたいって言ってたけど――いいの?」
「もちろんよ。貴女は世界を移動するための道具を作るための環境と素材が欲しいんでしょ? 私にもメリットのある話だし……私の目指しているモノ――説明したでしょ?」

 魔法使い――とリンは言っていた。
 並行世界を運営するという魔法にいつか到達するために、異世界からやってきた錬金術士の力を借りたいのだと彼女は頭を下げたのだ。

「えっと、等価交換っていうんだっけ? 私にもリンにもメリットのあるお話だし、こっちとしては断る理由はないよ。だからリンさえよければ是非協力して貰いたいな」
「交渉成立ってことね。詳しいことはまたこれから詰めていこうと思ってるけど、疲れてない?」
「大丈夫だよ。こうみえてもリンよりは随分と長く生きてるし、見た目よりも体力はあるほうだから」

 そう告げると彼女は驚いた様子で事情を聞いてきたが、その説明をして納得した様子を見せたリンの姿に、いつかのシロウの姿を思い出した。
 彼とは離れてしまったけど、彼との繋がりは生きている。
 いつかまた、きっと彼と会える日が来るだろう。その日を楽しみにしながら、いまはもう遠い彼を想う。
 いつか必ず完成品を作り、未だ見ぬ異世界を旅する――。
 その想いは生きていく事に飽きていたメルルにとって、本当に気が遠くなるほど遠い過去に懐いていた感情を思い出させてくれた。

「――世界を渡っていけば、きっとまたシロウに会えるよね」

 彼が元々一人でも心配の要らないぐらいにはしっかりしているということは、共に過ごした数ヶ月でわかっている。
 きっと驚きはしただろうけど、彼ならばどこにいても無事でやっていけるだろう。
 短くも濃い彼との時間はあっさりと、何の余韻すら残さず終わってしまったけれど、彼が生きている内にもう一度再会することができたなら、その時には今日という日の出来事を謝ろうと決意する。
 きっと彼は呆れるか、苦笑するだろう。
 それを楽しみにしながら、ゆっくりでも確かに未来へ向けて歩いていくことを自身に誓った――。

 
 

 
後書き
四話目です。
第一章はここまでとなっていて、以降の話から第二章となります。
 

 

Episode 5 -新天地-

 目を覚ました時、士郎の目の前には深い森と木々の隙間から見える満月だけがあった。
 大気に満ちるマナは濃密だが決定的に"普通の森"で、ここが再び訪れた見知らぬ場所だという現実はどう足掻いても変える事はできない。
 周囲にメルルの姿はなく、傍に落ちていたメルル作の試作品は二度の世界移動に耐え切れなかったのか、無残に砕けていた。

「――まったく、いつか会えたら文句の一つも言ってやらないとな」

 恐らく会う事すら容易ではなくなった魔女への愚痴は葉擦れの音にかき消された。
 想像していたよりも寂寥感を覚えている自身を自覚しながら、彼女と過ごした数ヶ月余りの日々を思い返す。

「……なんにしても、短かったメルルとの生活も終わりという事か。互いに不用意な干渉が無かった分だけ居心地はよかったんだけどな」

 気が抜けたのか、呟くように零れた言葉はどこか歳相応のものだった。
 もちろん傍から見れば何一つおかしな事はないだろうが、段々と肉体年齢に精神が引き摺られている事を否が応でも実感してしまう。

「さて、いつまでも惜しんでいた所で現実は変わらない…か。まずは、ここがどんな土地なのかを調べないと……」

 地面の上で仰向けに倒れていた身体を起こした士郎は、手慣れた様子で自己へと埋没して全身の魔術回路に魔力を通していく。

「――――投影、開始(トレース、オン)

 確認のために魔術によって創り上げたのは白と黒の双剣――干将莫邪(かんしょうばくや)
 剣製によって作り上げた極限の幻想。そして、宝具の中でも最も投影の負担が少ない武器だ。
 陰陽の夫婦剣は無事に両手に収まり、魔力の消費も普段の半分以下――アトリエで使用した時と大差はなかった。
 先の魔法世界で使用していた時と同じく最高と言える精度の投影だ。これならば相手が聖剣だろうと魔剣だろうと打ち合うに不足することはないだろう。
 ここがどのような世界なのかはっきりとは分からないが、確認のために体に使用してみた"普通の強化魔術"の効果を見る限りでは魔術基盤そのものが未使用である可能性は高い。

「少なくとも、元の世界のような魔術師はいないのかもしれないな……」

 もっと性質の悪い存在がいるかもしれないが、それは出会った時に考えるべき事柄で、前提として捉えるべきものではない。
 とはいえ、ここが異世界である可能性が高い以上、油断してはいけないということはメルルと過ごしてきた日々で骨身に染みている。
 事実、これまでを平穏に過ごすことが出来ていたのは多分にメルルのおかげだ。
 そんな彼女とはぐれてしまった以上、これまでよりも慎重に行動しなければならないと気を引き締めるのは当然の事である。

「まずは状況の確認と、最低限生活をすることのできる場所の確保だな」

 投影で作り上げた干将莫邪を消した士郎はそっと空を見上げる。そこにはいつかの日と変わらぬ満月が浮かんでいた。

「今度は自分を救ってあげなさい…か。俺にそんな贅沢が許されるのかな……」

 アトリエに辿り着く以前――元の世界で最後に耳へと届いた言葉を振り返りながら苦笑を零した。
 自嘲するような呟きは森の闇に消えていく。少しばかりの弱音を吐き出してしまった事を反省した士郎は、もう一度小さな溜息を零すのだった。
 そうして最低限の警戒を行いながら周辺を散策して一時間――。
 ある程度地形の確認を済ませた士郎は拠点に出来そうな場所に目星をつけて夜明けを待つ事を決める。
 それから数時間ほどして日が昇った頃を見計らい、日常の気配が満ちてきた近隣の街へと足を運んだのだが――。

「――日本…だな。海鳴という地名に聞き覚えはないが、並行世界だと考えればあり得る…か」

 街を眺めて分かったのは、ここが日本だという事と、元の世界の文化と大差がないという事だった。
 行き着いた世界によっては言葉が通じない可能性もある。
 先の世界のように根本から環境が異なる場合もある事を考えれば僥倖とも言える結果だった。

「すみません。この近くで一番大きな図書館はどこでしょうか?」
「図書館? ああ、それならこの先の交差点を左に曲がって道なりに真っ直ぐ行けば左手に大きな図書館が見えてくるよ」
「ありがとうございます」

 道を尋ねたのは巡回中の警察官で、丁寧な対応をしてくれた事に礼を返してから歩き出した。

「海鳴市立図書館……ここだな」

 辿りついたのはそれなりに規模の大きな市営の図書館だった。
 図書館ならば資料にも事欠かない上、お金を使用せずに本を読める。調べ物をするにはうってつけの場所だ。
 数時間ほど館内を歩き回りながら様々な資料に目を通していく。歴史、社会構造、地理、世界経済、海鳴という地域について――。
 あらゆる分野の本に目を通して見たが、やはり記憶にある筈の地名の幾つかは存在しておらず、代わりに聞き慣れない地名が幾つか存在していた。
 その事実から、ここが確実に元いた世界とは異なる世界――並行世界の日本である事を士郎は確信した。

「冬木は存在していない――か」

 年代こそ士郎が冬木で過ごしていた頃に近いが、肝心の冬木が存在していない以上、聖杯戦争が起こるなどという想定外は無いだろう。

「……まあ、この街のような霊地を放置している時点で可能性は殆どないか」

 魔術基盤や一級の霊地が放置されている事実と合わせて推察は確信へ近づいていく。
 もっとも、仮にこの世界に魔術師がいたとしても、士郎にとってはどうでもいいことではあったのだが――。

「後の問題は通貨を所持していないことだけど……まあ、とりあえず生きていくだけなら問題はないな」

 法治国家の中にいることを考えれば住居などの問題があるが、幸い昨晩の内に拠点に出来そうな廃屋は発見している。
 そうして昼過ぎ――日が沈むまで街の様子を確認するために散策を続けていた士郎は、ある程度の土地勘を手に入れた事を実感し、住居にしようと見込んだ廃屋へと向かった。

「――まずは生活ができるようにしなければならないか」

 家の中は長く人が住んでいなかったせいか荒れ放題になっている。窓や屋根、壁にも破損が目立っていた。
 ライフラインの途絶えた台所を使用できるように片付け、窓や屋根、壁にも最低限の補修を施していく。見栄えは悪いが、風雨を凌げるだけでも十分だった。
 寝床の環境は今が春ということもあって暖かなことから急務ではないが、その内に揃えていかなければならないだろう。
 何か行動するにしても地盤を安定させ、行動の幅が広がってからでも遅くはないだろうと結論付けた士郎は、片付いた床に腰を落としてから溜息を零した。

「……当分は生活基盤をちゃんと整えないとな…。まあ、急ぐ用事があるわけでもないが…」

 何をするにしても、見た目が子供というだけで苦労することもある。
 当面は水面下で情報網の整備や足元を固めることに専念し、本格的な情報収集を開始するか、不確定の接触者が現れるのを気長に待つべきだろう。
 今後の方針を確認した士郎は埃を拭いて透明感を取り戻した窓から月を見上げた。
 視線の先でいつかと変わらず浮かんでいる満月を眺めながら、士郎は静かに思索に耽るのだった。


 -Interlude-


 昼休み――解放されている屋上には人が集まり、昼食を食べる人たちでいっぱいになる。
 彼女――高町(たかまち)なのはもその内の一人であり、今日もまた友人二人と一緒に屋上で昼食を食べていた。

「――そういえば、今度のお休みなんだけどウチに遊びにこない? まだ新しい学年になってから三人で集まったことなかったし」

 ご飯を食べ終えた後に提案するように告げたのは友人の月村(つきむら)すずか。その言葉にもう一人の友人――アリサ・バニングスが笑みを深めて頷きを返した。

「賛成、賛成! ちょうど予定もなかったし、いいじゃん。なのはもオッケーだよね?」
「うん。久しぶりに忍さんにも会えるし、ノエルさんやファリンさんにも会えるしね」
「よかった。その日、恭也さんが来るって聞いてたから、ちょうどいいかなって思ってたんだ」

 すずかの言葉にやっぱり…と笑みを浮かべる。
 すずかの姉――月村忍(つきむらしのぶ)は、なのはの兄――高町恭也(たかまちきょうや)と恋人同士だ。
 この二人は妹であるなのはの目から見ても非常に仲睦まじく、休日にはよく二人で出かけたりして一緒に過ごしているらしい。

「そっか。じゃあ、お兄ちゃんと一緒にお邪魔するね」
「うん」
「ほんと、アンタたちのお姉ちゃんとお兄ちゃんは仲がいいわよね」

 そんな会話を交わしながら昼食の時間は終了し、その後は特に何事もなく授業を終えて放課後を迎えた。

「――じゃあ、なのは」
「また明日ね――」

 アリサとすずかの二人は習い事があるため、迎えの車で帰宅する事が多く、今日もそうすることになっていた。
 自然、なのはが一人彼女たちを見送る事になるため、そうした日には色々と一人の時間を活用する事を心がけていた。

「うん、またね」

 友人二人を見送り、小さく一度息を吐いてから歩き出す。
 一人きりの帰り道はいつもの通り――真っ直ぐ帰宅するでもなく、目的地へ向かって歩いていく。
 そうして歩いた先に辿り着いたのは、いつもの通り人気のない波止場だ。
 海を見渡せる場所で鞄を下ろし、海と空の境界線を眺める――そんな時、なのはの胸中を占めるのはいつもと同じ、胸を締め付けるような寂しさだった。
 ――優しい家族がいて、大好きな友人がいる。暮らしの心配もなく、学校での生活も充実している。
 寂しさを感じるような理由はきっと、どこにも存在しない。それでも例えようのない気持ちが胸を締め付けて満たしていく。

「………ぅぁぁああああああああああああ―――――――ッ!!」

 涙を零しながら空に向かって叫ぶ。
 行き場を失った気持ちを吐き出すように息が切れるまで、気持ちが落ち着くまで叫び続けた。
 しばらくして声が尽きたなのはは乱れた呼吸を整えるように大きく息を吸い込んだ。
 変わらず静かに波打つ音を耳に届けながら涙を拭い、やるせない気持ちを抱えたまま身体を動かそうとしたその刹那――。

「――せっかく魚が寄ってきていたのに、逃げられてしまったな」

 言葉とは裏腹に、とても優しくて暖かな声音が耳に届いた。

「だ、誰ッ!? って…え、えっと、どうしてそんなところに?」

 唐突に聞こえてきた声に動揺して声を上げながら振り返る。
 見れば幾つか年上に見える少年が少しだけ水面に近い位置まで降りた場所で、さして大きくもない釣竿を両手に持ったまま海を眺めるように座っていた。

「今日の夕食と明日の朝食の材料を釣り上げるためだ。俺としては、君のような女の子が一人でここにいることのほうが不思議で仕方ないんだけどな」
「わ…私は…その、ちょっと寄り道をしてて……」

 誰かに聞かれているとは考えもしていなかったため、思わず言葉に詰まってしまう。
 そんな姿に思うところがあったのか、少年は少しだけ息を吐き出し、笑みを浮かべたまま視線を合わせてきた。

「心配しなくても、ここでの事は誰にも言わないさ。誰にだって、叫び声を上げたい瞬間があるだろうからな」

 盗み聞くつもりはなかった、と。少しだけバツが悪そうに呟いた少年の声音はひたすらに優しくなのはの耳に届いた。

「……貴方にも、あるんですか?」
「そうだな……あるよ。胸を掻き毟りたくなる位……いや、声を絞り尽くしてしまいたいほど叫びたくなるときが、確かに――」

 そう告げる少年の表情は先程までとは違って、複雑で様々な感情が入り混じった大人びたものだった。

「……そんなときは、どうするんですか?」
「別にどうもしないさ。そうだな――俺のソレと、君のソレは確かに同じ種類のものかもしれない。けど、だからこそ君は君だけの答えを探し続けないとな」

 見透かされているのか、それとも――。
 ただ、まるでずっと年上の――それこそ大人のような雰囲気を持つ少年の言葉は、なのはの胸にしっかりと届いた。

「……そう…ですね。ありがとうございます――えっと……」
「――士郎。衛宮士郎だ。別に礼を言われるような事を言ったつもりはないけどな。それに、別に敬語なんて使わなくていい」

 何でもない事のように答えた少年――士郎は再び釣竿に視線を戻し、釣りを再開していた。
 なのははそんな彼に対してもう一度――今度は言葉を口にせず、小さく頭を下げて感謝を伝える。
 誰にも……家族にも友人にも伝えておらず、自身の心の奥に仕舞い込んでいる感情を他人に認めてもらえた――。
 ――たったそれだけの事で、長らく胸を満たしていた寂しさが和らいだような気がしていた。

「私、高町なのは。衛宮さんはこの辺りに住んでるの?」
「ああ。君もこの辺りなのか?」
「私は駅の方。少し遠回りだけど、学校の帰り道に寄ったんだ」

 不思議と会話が弾むのは、士郎が持つ独特な雰囲気が安心感を感じさせてくれるからだろう。
 目上の人間のはずだが、どこか親しみやすいような感情を抱かせてくれる彼に対して、なのはは友人たちとは異なる信頼を感じていた。

「そうか。だが、学校に通っているのならあまり寄り道はしないほうがいい。家族が心配するだろう?」

 正論を突きつけられ、苦笑いを零しながら閉口する。だが、彼が彼なりに心配してくれている事は、なのはにもハッキリと感じられた。

「大丈夫だよ。うちの家、喫茶店をやってるから家族はみんな忙しいし、ちゃんと門限までには帰ってるから」
「……そうか。それで、どうするんだ?」

 強がりとも受け取れる返答に対し、士郎は少しだけ笑みを浮かべたまま尋ねてくる。意図の分らない問いかけになのはは首を傾げた。

「いや、まだ叫び足りないのなら場所を譲ろうかと思ったんだけど…大丈夫そうだな」
「あ……うん、もう大丈夫。ごめんなさい、お邪魔しちゃって」
「気にしなくていい。公共の場だしな」

 本当に気にしていないのか、釣竿の先に視線を向けたまま告げる士郎の声は軽やかだった。

「それじゃあ…もういくね」
「ああ、気をつけて帰るといい。またな、高町」
「うん! またね、衛宮さん」

 互いに名前を呼び合い、別れの挨拶を口にする。
 不思議と軽くなった身体を動かしながら手を振り、放り投げていた鞄を手にしてゆっくりと駆け出した。
 海を眺めていた時に感じていた寂しさは既に薄れている。代わりに少しだけホッとするような優しい感触を胸に抱いたまま、なのははその場を立ち去るのだった。


 -Interlude out-


 小さな出会いを果たしたその日の夕暮れ――士郎は不穏な気配を感じて咄嗟に小屋を飛び出した。
 途端に響く銃撃音――補修したばかりの窓や壁が砕けていく様を眺めながら即座に神経を尖らせた。

「――そこのキミっ!! 大丈夫か!?」
「くっ!? 人気の無い所にきた途端に銃を使ってくるなんて……」

 破壊されていく小屋から少し離れた場所で声を上げたのは一組の男女だった。
 見れば二人に対して銃が放たれているのは明白で、よく無事に逃げているものだと感心しながら士郎は身体を走らせる。

「――荒事には慣れているつもりだったが…一昼夜も平穏が保てないとは予想外だったな」

 男女と肩を並べて並走しながら呟く。実際、これまで生きてきた中で平穏無事に過ごせたのは随分と前になる程度には荒事に慣れていたはずだった。
 ――だというのに、こうして平穏な暮らしをしようとすればするほど厄介事に巻き込まれるのはどうしてなのだろうか…と、士郎は存外本気で頭を悩ませるのだった。

「――ごめんなさい。厄介事に巻き込んでしまって……」
「――すまん。まさか、こんな騒ぎに巻き込んでしまうとは…」

 人気のない森の中、銃撃音を背景にして走りながら耳に届いた言葉はどこか焦っていた。
 岩場を盾にしながら肩を並べる二人へ視線を向ける。黒髪の男と長髪の女性――共に成人か、少し若いぐらいだろう。二人からは心の底から申し訳なさそうな様子が見て取れた。

「いや、厄介事には慣れているからいいが……それより、状況の説明を頼む」

 努めて冷静に尋ねた士郎に対し、二人は一度だけ顔を見合わせてから再び視線を向けてきた。
 状況を観察しながら冷静にしていることから、士郎が一般人ではないと気づいているのだろう。二人の目にはただ誠実な光だけが宿っていた。

「相手は恐らくどこかの犯罪組織の構成員よ。先日から私の家の周辺を探っていた奴らで、小学生の妹を狙おうとしていたのよ」

 聞けば、女性はそれなりに名が知れている家の当主であり、日頃から犯罪紛いの行為に巻き込まれる事が多々あるのだという。

「後手になれば彼女の妹やその近辺に危険が及ぶ。だからこちらから隙を晒して誘い出したんだ。この森には人が住んでいないと下調べをしていたからな」

 男は彼女の恋人で護衛も兼ねているらしく、今回の一件を計画した張本人だという。
 確かに男の下調べは間違ってはいない。なにしろ二日前までこの周辺に人が住んでいなかったのは士郎も確認済みだったからだ。

「そうか。俺は昨日からここで暮らし始めたからな。君の調査の結果は決して間違っていないよ」

 事情と状況が掴めたため士郎は安堵の息を吐く。彼らや襲撃者の目的が自身ではないという確信が持てたからだ。

「それで、君等には連中を制圧する術はあるのか?」
「この状況だと少し厳しいな。もう少し持ち堪えられれば援護がくるが、それまで持つかどうか…」

 応えたのは男だった。彼の視線や行動から女性と士郎を守る対象として立ち回るつもりでいる事は容易に想像できる。
 銃撃音や気配から相手が五人程度である事を承知の上での計算だろう。守る対象が彼女だけなら相手をするつもりだったことを考えれば、男はそれなりの使い手のはずだ。

「それなら打って出るべきだな。協力するから、二手に別れて連中を制圧するとしよう」

 簡単にそれだけを告げて、士郎は岩陰から飛び出した。
 見知らぬ男――それも、巻き込んでしまったと二人が認識している者が協力すると申し出て、二人がそれを素直に受け取るような性格をしていないことは容易に想像できたからだ。
 案の定、背後から声が上がる。だが、それに耳を傾ける余裕は今の士郎にはない。
 物陰に隠れ、即座に地面を蹴って一足飛びに木の上へと飛び移る。銃撃音から相手の位置を特定しながら速やかに自己へと埋没した。

「――――投影、開始(トレースオン)

 投影したのは身の丈と同じほどに大きい黒塗りの弓と、細長い形状を持つ長剣だ。
 弓に剣を番えて構え、目標へと放つ。それを五回――瞬きほどの時間の内に放った"矢"は、障害物を貫通し、襲撃者たちの構えている銃へと殺到する。
 その光景をしっかりと見ていたのか、男は即座に行動を開始――およそ一般の常識では考えられないほどの速度で襲撃者へと肉薄し、あっという間に制圧してみせたのだった。

「――お前は……」
「流石にただの子供――というわけにはいかないかな」

 襲撃者たちを捕獲した男の疑問に満ちた視線を前にした士郎は、誤魔化すことは出来ないだろうと嘆息した。
 これも何かの縁だと思い定め、彼ら――高町恭也(たかまちきょうや)月村忍(つきむらしのぶ)の二人を自宅へ招くのだった。


 -Interlude-


 森で出会った少年――衛宮士郎と名乗った男に連れられてやってきたのは、先の襲撃の際に半壊した小さな小屋だった。
 互いに名前を名乗り、簡潔な自己紹介を終えて家の中に入った恭也たちは、その破損した室内の惨状を眺めながら男の背を眺めていた。

「――まったく、せっかく補修した窓と屋根が完全に壊れてしまったな」

 ため息混じりに告げながら破損具合を確認した少年は、少しだけ気配を緩めてから振り返った。

「さて、お茶も出せなくて申し訳ないが適当に腰掛けてくれ」

 告げて、誰よりも早く腰掛けてみせる少年に続くように忍がその対面に腰掛ける。
 恭也はその背後に立って警戒を続けていたが、一切の邪気や殺気を感じない事から本当に話をするだけなのだろうと確信していた。

「まずはそちらの疑問に答えておこう。聞きたいことがあるのなら聞いてくれ。答えられる範囲で答えよう」
「そう。なら――昨日からここに住んでいると言ってたけど、それはどうしてなの?」

 少年の言葉に忍は待っていたとばかりに問いかける。
 人気のない森の中、廃屋にも見紛うような小屋に一人で暮らす少年を怪しむのは当然のことだろう。

「14、5歳の不審な子供が町中で一人暮らしをするのは中々難しくてな。人の手が長く入っていないこの小屋を住めるようにしたんだ」
「……色々と言いたいことはあるけど、まあ確かにわからなくはないわね。なら次の質問――貴方、厄介事には慣れているって言ってたけど、ここに来る前は何をしていたの?」

 確信をついた質問を口にした忍の気配は少しだけ鋭くなっている。
 少年の答え次第では、手荒な手段を使うことも辞さないという覚悟なのだろう。

「別に特別な事をしていたわけじゃない。争い事に身を投じることが多かったから、戦うための術が必須だっただけだ」

 少年の口調はどこか平坦だが、決して嘘をついているようには見えない。
 落ち着いた様子の少年が恭也たちを見る目には一点の曇りもなかったからだ。

「事故で元いた場所に戻れなくなってしまってな。生きていくにはこういう手段を取らなければならなかったというわけだ」

 非合法的な手段で住み着いていた事をあっさりと認めた少年は、尋ねたい事はそれだけかと視線で訴えかけてくる。
 忍は彼の言葉を正しく判断するために思考を割いている。
 だからこそ、恭也は先程目にした光景が夢か幻の類ではないかと確認する事にした。

「――あの男たちの銃を撃ち抜いた弓矢……一体どこに隠し持っていたんだ? 俺の目には、突然お前の手に現われたように見えたが?」

 薄暗く、距離も離れていたため、はっきりと見えたわけではない。
 だが少年が自身の身長と同じ位に大きな弓を唐突に構え、それが空中から出現して見えたのは決して見間違いではなかった。

「さて、その疑問に答えるには少しばかり覚悟がいるが――」

 自嘲するような声音で呟いた少年は少しだけ思案するような素振りを見せた後、ゆっくりとした動作で姿勢を正した。

「――俺は魔術師……正確には魔術使いだが、魔術という神秘を行使する者だ。君らが見たのは俺が魔術を使った瞬間だな。簡単に説明すると、魔術で弓と矢を用意して放ったわけだ」

 あくまでも武装を用意したのが魔術であり、襲撃者たちの銃を狙撃してみせたのは純粋な弓術なのだと少年は告げる。

「魔術……魔術師…か」

 一般的に想像しやすい魔術師のイメージと先の戦闘時に少年が見せた姿の相違に、恭也は戸惑いの声を零す。
 魔術という不可思議な能力に驚くべきなのか、あの凄まじい狙撃術に驚くべきなのか――そんな恭也の疑問を知ってか知らずか、少年は更に続けた。

「実際、相当に閉鎖的な人種でな。俺の他に魔術を使う者がいるのかどうかもわからない始末なんだ」

 つまり衛宮士郎という少年は魔術師であり、一般の常識では考えられない力を持つが故に世間から身を隠して過ごしているという事だろう。

「――よかったのか? そんな秘密を口外してしまって」

 あっさりと説明してくれたことに関する疑問を口にすると、目前に座る少年――士郎は小さな苦笑を零した。

「秘密にするべきかどうかを判断するために口外した――といったら変に聞こえるだろうが、問題はなかったようだ」

 秘匿すべき情報であることには間違いないらしいが、口外したとしても問題はないのだと言う。
 どういうことなのかと疑問に思わなくもないが、恭也の目には士郎が嘘をついているようには見えなかった。
 そして、本来は口外することのないはずの事を教えてくれた事は事実であり、それが彼なりの誠意の証である事も間違いない。

「ところで、今度はこちらからも質問したい――君たち二人も一般人とは違うようだが、どうなんだ?」
「俺は護衛の仕事をしているんだ。だからというわけじゃないが、こういう荒事に慣れているのは確かだな」
「なるほど。道理で落ち着いた様子で対処していたわけだ。それで、そちらの彼女はどうなんだ? 先程、こちらに対して"何か"をしようとしていたみたいだが?」

 ――ひやり、と空気が冷たくなった気がした。 
 士郎の言葉に空気が重くなる。確かに忍は彼の回答次第で"力"を使用しようとしていたが――。

「――気づいて…いたの?」
「生憎、そういった外部からの干渉には敏感になってしまってな。術なのか能力なのかはわからないが、暗示のようなものだろう?」

 確信に迫る追求は決して厳しくはないが、虚偽は認めないと視線が語っていた。
 それをどう受け止めたのか、忍は少しだけ覚悟を決めた視線を恭也へ一度向けてから士郎へと視線を戻した。

「無礼を働こうとしたせめてものお詫び――といったらおかしいけど、こちらも一つ秘密を明かします。私、月村忍は吸血鬼――夜の一族と呼ばれる存在なの」

 忍は静かにその言葉を紡いだ。
 本来、他人には決して告げることのない忍の秘密――それを口にした瞬間、士郎は微かに気配を尖らせた。

「なるほど…吸血鬼か。しかし、吸血鬼というのなら血を吸うのだろう? 吸われた人はやはり同じように吸血鬼になるのか?」
「確かに血は飲むけど、人から直接吸ったとしても少し貧血になる程度だし、血を吸った人が全員吸血鬼になるような事はないわ」

 かつては遺産相続に関するトラブルから常に狙われる立場にあり、いまも散発的にこうしたトラブルが起こることも説明する。
 その説明で納得したのか、士郎は僅かに笑みを浮かべていた。

「なるほど。それで俺の事を連中と同じような背景を持つ者かもしれないと疑った……ということか。まあ、無理もないな」
「本当にごめんなさい。お詫びといってはなんだけど、なにか力になれることがあれば遠慮なく言ってね」

 忍の申し出が予想外だったのか、士郎は初めて驚いた様子をみせた。
 その姿はこれまでの年齢不相応なものとは異なり、恭也の目には高校生になった妹より少し幼い年頃の少年そのものに見えた。

「……そうだな。出来れば君たちと協力関係を結びたい。この地で暮らす以上、互いに反目していたら日常生活を送ることもできなくなるだろうからな」
「それだけでいいの?」
「ああ。今回の件は互いの事情が生み出した必然の結果だ。今後のためにも良好な友好関係を築ければと思っている」

 それだけだ、と告げる士郎と視線を交わしていた忍はその提案を快諾した。もちろん、恭也としても異論はなかった。

「わかったわ。ところで、これからどうするつもりなの? 聞いた限りだと、今は戸籍とかもないんでしょう?」
「特に不便さは感じていないが、良ければ働き口か何かを紹介してもらえると助かる。どうも、真っ当な働き口に心当たりがなくてな」

 社会生活を送る上での真っ当な悩みを口にする士郎に忍は少しだけ考えるような素振りを見せ、にやりと笑みを浮かべた。

「そうね。ちょっと私の一存じゃ決められないけど、いいところがあるわよ」

 その言葉でどこを紹介するつもりなのかを悟り、恭也はその言葉に同意するように大きく頷いていた。
 

 

Episode 6 -車椅子の少女-


 
 忍たちに連れられて向かった先でアルバイトの面接を終えた士郎は小さく安堵の息を零した。
 恭也の実家が運営している喫茶店だが、雰囲気もよく、平日休日問わず多くの人で賑わう人気の店らしい。
 アルバイトが一人、遠方の大学へ進学するために辞めてしまったため、欠員補充の形で雇われる事が正式に決まったのだ。
 そうして忍たちと別れた士郎は、半壊したままの自宅を目指して独り夜空を見上げながら帰路についていた。

「――随分と遅くなってしまったな。明日は――む、あれは……っ!?」

 ふと視界に入った光景に声を上げる。独り薄暗い夜道を歩いていた士郎の視線の先――薄暗い道路の上に女の子が倒れていた。
 横断歩道と歩道の間にある段差で引っ掛かったのか、彼女が乗っていたであろう車椅子が横転し、路上に身を投げてしまっている。
 人通りの少ない道路だが車の通りがないわけではない。事実、彼女が倒れている場所に向かって大型のトラックが減速することなく迫ってきていた。
 居眠りでもしているのか、路上に倒れた少女に気付いた様子はない。士郎は周囲へ意識を割きながら全力で女の子の元へと駆けた。
 幸か不幸か周囲に人目はなく、士郎はトラックが到達する数秒前に女の子と車椅子を路上から歩道へと移動させることに成功するのだった。

「――大丈夫か?」

 問い掛けに少女は唖然とした様子でゆっくりと視線を向けてきた。
 年齢は朝に出会った少女――高町なのはと同じくらいだ。女の子はようやく状況が理解できたのか、強張らせていた表情を緩めた。

「だ、大丈夫です。あ、あの……ありがとう…ございます」

 震える声は先程までの恐怖を引き摺っている証拠だ。それでも気丈に礼を告げる少女に対して、士郎は少なからず好感を抱くのだった。

「気にすることはない。無事だったならなによりだ」

 告げて士郎は車椅子を片手で近くに置き、少女の身体を持ち上げる。体格的にそれなりの差があることもあって、彼女を持ち上げることに苦労はなかった。

「わ、わわ……ち、力持ちやなぁ」
「大したことじゃない。ところで、こんな時間に一人で出かけていたのか? この辺りは人通りも少ないみたいだし危ないぞ」

 路上に落ちている鎖で閉じられた本を手にとって埃を払い、そのまま少女へ手渡しながら忠告を口にする。微かに窘めるような響きがあったせいか、少女は顔を俯かせて小さく頷いていた。

「晩御飯の材料を買いにいこうとしてたんです。スーパーならまだやっとるし、家も近いから大丈夫やと思っとったんやけど……」

 その言葉を耳に届けて僅かに思案するが、車椅子に座った少女が晩御飯の材料をこんな時間に買いに出なければならない理由などそう多くはない。

「……買い物ぐらいは手伝ってやるから、無茶はするな」

 少女を車椅子に乗せた士郎はそのまま車椅子の背後へ回る。取っ手を持って歩き出すと、少女は驚いたように顔だけを振り返らせた。

「そ、それはいくらなんでも迷惑じゃ……見ず知らずの相手にそこまでしてくれんでも……」
「――俺は衛宮士郎だ。君の名前は?」

 問い掛けには答えずに自身の名前を告げてから少女に問いかける。
 その問いかけが唐突だったからか、少女は呆けたような表情を浮かべていた。
 それでも名乗られた以上は名乗り返すのが礼儀と思ったのか、少女は頭を振ってから小さく咳払いをして真っ直ぐに視線を向けてきた。

「はやて……八神(やがみ)はやてです」
「なら、はやて…と。うん、いい名前だな」
「あ、ありがとう……って、あ、あの……どうしていきなり?」
「互いに名乗り合った以上、見ず知らずの相手じゃなくなっただろう? これなら俺が同行することを認めてもらえるかな?」

 少しだけわざとらしい口調で告げると、はやてはようやく小さな笑みを浮かべるのだった。

「……じゃあ、お願いしてもええですか? 一人で買うよりも早いやろうし、正直言うと助かります」
「了解。そうと決まれば早速向かうとしようか」

 はやての背後へ回って車椅子を押していく。立ち寄ったスーパーはそれなりに大きな二十四時間営業の店だった。
 店内へ入った士郎は入り口に置いてあった買い物カゴをはやての膝の上に置き、彼女の指示に従いながら食材を手にとってカゴに入れていく。

「けど、衛宮さんはこないに遅い時間に出かけて大丈夫なんですか?」
「……いや、少し仕事の面接が長引いてな。本当はもっと早くに戻るつもりだったんだ」
「そ…そうなんや。けど、こんな遅くに帰ったら親とかうるさいことありませんか?」
「両親はもう随分と前に他界しているからな。一人暮らしをしているし、身内は誰もいない。だから遅くなって心配されることはない」

 かつて故郷の街で行われた魔術師たちの戦争に巻き込まれ、望んで参加し、戦い抜いた果てに大切な人たちを失った。
 それでも生きてきたのは、彼女たちにもらった大切なモノ――そして、生涯を贖罪に捧げた桜への想いを貫き通すためだった。
 長い旅の中で多くの出会いと別れがあった。短い間だったが親しくなった者も大勢いたし、紆余曲折の末に人外の者たちと共に過ごしたこともある。
 そんな道筋を歩いてさえ結末は変わることはなく、あの錆びついた荒野で終焉を迎えようとして再び救われたから――。

「……あ、その……無遠慮なこと言うてしもうてごめんなさい」
「お互い様だし……そこまで気にしなくていいさ。君も似たようなものなんだろう?」

 驚いた様子で振り向いたはやての双眸は真っ直ぐに士郎へと向けられている。互いに交わらせる視線には、確かな言葉以上の何かがあった。

「確かにわたしも両親はおらんけど……どうして――」
「足の不自由な子供がこんな遅くに晩御飯の材料を買いに出かけてくる……一人で暮らしていると推測するには十分な材料だったし、それに――」

 一度言い淀み、今更取り繕うのはむしろ失礼だろうと続けた。

「――そんな寂しそうな声で親のことを口にすれば、気付かないほうがどうかしている」
「あ………」

 それが彼女にとってどれだけの意味を持ったのかは士郎にはわからない。
 見れば少女の目には少し……ほんの少しだけ光る何かが溢れていたが、それが零れることはなかった。

「……衛宮士郎…さん。いや、士郎さんでええかな? 士郎さんはもう晩御飯は食べたん?」
「いや、生憎とまだ食べていない。これから帰って何か作ろうかと思っていたところだ」
「なら、ウチで一緒に食べません? 一人で食べるよりは二人で食べたほうが美味しいと思うし…」

 それが少女なりの気の使い方であることに気付き、士郎は小さく笑みを浮かべた。
 ――あまり深入りをしないほうがいい…と。
 過去の自身が脳裏で囁いていたが、目の前で不安げに尋ねてくる少女を見てしまってはもうどうにもならなかった。

「俺なんかでよければ付き合おう。そうときまれば、少し買い足さなくてはいけないな」

 告げて色々と材料を手にとって買い物カゴへと入れていく。
 ふと横目に見えたはやての表情はどこか嬉しそうに笑みを刻んでいた。


 -Interlude-


「――なかなか使い勝手のいい台所だな」

 危ないところを助けてくれて、そのまま買い物にも付き合ってくれた少年――衛宮士郎。
 彼と共に買い物を終えたはやては、そのまま士郎に車椅子を押してもらって自身の家へと戻った。
 道中も話は弾み、すっかり意気投合した士郎と兄妹のように親しみを込めた会話を交わしながら台所へと移動した。

「使いやすいように改修してもらったし、自分用に色々と配置も工夫してるんよ」
「なるほどな。それじゃ、そろそろ作るとするか?」
「うん!」

 二人並んで台所へ食材を並べていく。
 協力して料理を作り始めてすぐに、はやては何よりも士郎の手際の良さに驚かされた。
 これまでずっと家事をこなしてきたため、はやて自身それなりに料理を作れるという自覚があった。
 だが、いま肩を並べて共に調理を行っている士郎の手際は感心を通り越して衝撃を受ける程に熟達していた。

「はやての手際がよかったから随分と早く出来てしまったな。さて、出来上がったものは食卓に運んでおくから、はやては飲み物を用意しておいてくれるか?」
「了解や」

 二人で協力して作ったのは特に変わったものでも豪勢なものでもないシンプルな家庭料理だ。
 けれど、二人で協力して作った料理はいつもとは比べ物にならないほどに美味しそうに仕上がっていた。
 ――他人のために料理を作り、作ってもらう。
 たったそれだけの事が嬉しくて、いつもの味気なく空虚な時間が嘘のように感じられた。

「――そういえば、士郎さんはどこか学校とか通っとるん?」

 食事が終わりに近づいた頃を見計らい、ちょっとした疑問を口にする。
 士郎が通う学校に興味があったためだが、返ってきた返答は想像していたものとは少し違うものだった。

「生憎と学校には通っていないんだ。知り合いのツテで働き口を紹介してもらってな。何とか雇ってもらえてホッとしていたところだ」
「……話だけ聞いてると、随分と大変そうやね…」
「あまり自覚はないけどな。そういえば、はやてはどこの学校に通っているんだ?」
「……一応学年は三年生相当いうことになってるけど、療養って名目でずっと休学中なんよ」

 調子のいい時に車椅子で出歩く位はできるが、しばらくは治療と療養に専念したほうがいいと医者には言われていた。
 はやてが抱えている症状は原因不明の両下肢麻痺が主ではあったが、その麻痺が酷くなると意識の混濁など諸症状が顔を覗かせるためだ。

「……あまり状態は良くないのか?」
「普段は気をつけてると大体平気なんやけど、油断してるとちょっと……」

 自宅療養をしている間はこまめに病院に通っているし、担当の先生もよく連絡をしてくれる。
 治療に前向きに取り組んでいるとは言えないが、それなりに安心して毎日を過ごすことが出来ていた。

「まあ…せめて原因が分かって治る見込みが見えるまでは自宅療養かなって……」
「そうか……なら、ここに来れば大体は会えるということだな」

 ふいに告げられた言葉にはやては思わず手を止めて視線を向ける。
 視線の先――机を挟んで座る士郎は優しげな笑みを浮かべたまま続けた。

「その…なんだ。はやてさえよければだが、こうしてまた二人で料理を作ったり出来ればと思ってな」
「……もちろん大歓迎や。今日もな…久しぶりに誰かと一緒に料理して、一緒に食べて……楽しかったから。士郎さんさえよければ、また――」
「そうだな…俺も楽しかった。なら、また今度一緒に買物へ行って一緒に料理を作って、一緒に食べようか」
「うん!!」

 士郎の言葉が嬉しくて、本当に嬉しくて――。
 はやては、ここしばらく出したこともないような大きくて弾んだ声で返事を返した。

「それなら――」

 次はいつ会おうか……そんな言葉を口にしようとして、はやては自身の身体の変調に気がついた。

「……ぁ…う…」
「はやて、どうし――っ!? はやてッ!? しっかりしろ!?」
「……し…ろ…さん…ごめ……」

 呼吸をすることさえ辛く、身体は思うように動かない。
 それがここ最近は滅多になかった発作だと悟るのに時間はかからなかった。
 折角の楽しい日もこれで終わり――。
 そんなことを確信したはやては無性に悲しくなり、体中の力が抜けていくような錯覚を覚えるのだった。


 -Interlude out-


「――とりあえず、状態は安定しています。今日はこのまま病院で状態を観察して、そのまま検査入院をしてもらうことにしましょう」

 海鳴大学病院の医師で、はやての主治医を務めている女性医師の石田(いしだ)がベッドで寝ているはやてを眺めながら、落ち着いた声でそう告げた。
 あの後――士郎は朦朧とした様子のはやてから主治医である石田への連絡を頼まれたため、彼女の家から石田の連絡先へと電話を掛けたのだが、はやて本人ではなかったために怪しまれてしまった。
 事情を把握してやってきた石田の指示に従ってはやてを運び出した士郎は、はやてが発作を起こした時の状況などを伝えながら、付き添いとして病院に同行させてもらったのである。

「そうですか……大事でないのならよかったです。入院はどれくらいの期間になりそうですか?」
「そうね……状態にもよるけど、問題なければ明後日の昼過ぎ……夕方頃には退院できるかしら」
「わかりました」

 倒れてからしばらく意識のあったはやては、そのまま入院することになるかもしれないと予測していた。
 そんな彼女の指示を受けて着替えや最低限の日用品を用意していたのだから、はやての予測は正しかったのだろう。

「それにしても、貴方がいてくれて助かったわ。ありがとう、衛宮くん」
「いえ…。それにしても、こういうことは今までにも頻繁にあったんですか?」
「それほど多くはないわね。周期が短くなってきているとは思うけど、意識が混濁するほどの発作となると数えるほどかしら」

 石田が僅かに戸惑いながらも丁寧に説明をしてくれたのは、はやての友人として信用してくれたからだろう。

「何にしても、こんな遅くまでごめんなさいね。ご両親には私から事情を説明してから家まで送ってあげるから、今日は――」
「――あの、できれば彼女が目を覚ますまで付き添ってあげたいのですが…ダメでしょうか?」

 言葉を遮るように告げると、彼女は表情を曇らせながらゆっくりと首を横に振った。

「貴方のご両親が心配されるでしょう?」

 それは大人が子供に対して抱く当然の心配だった。
 士郎はその気遣いが自身に向けられた事に僅かに戸惑いながらもハッキリと答えた。

「俺には両親や家族はいません。後見人をしてくれている人にはちゃんと連絡をしますし…先生にご迷惑をお掛けするとわかってもいます。けど、それでも俺は彼女が目を覚ました時に側にいてあげたいんです」

 恐らく、はやては調子を崩した自身を悔いるだろう。
 明るく振舞ってはいたが、彼女はまだ子供だ。どうやっても寂しさを誤魔化しきれない時があるはずだから――。

「……ごめんなさい、不用意な言葉だったわね」
「いえ、先生のお気遣いはとても嬉しく思います」
「……そういうことなら、まずはその後見人の方とお話をしないといけないわね」
「はい、お手数をお掛けします」

 少しだけ柔らかな笑みを浮かべたままの石田と共に部屋を後にする。
 そのまま公衆電話のある場所まで案内してもらった士郎は、予め聞いておいた忍の連絡先に電話をかけるのだった。

『――はい、月村です』

 受話器から聞こえてきた声は忍のものではなく、どこか落ち着いた印象を受ける女性の声だった。

「衛宮士郎というものです。月村忍さんはご在宅でしょうか?」
『衛宮――ああ、貴方が衛宮士郎様ですか。忍お嬢様からお話は伺っております。只今お取り次ぎ致しますのでお待ちいただけますでしょうか?』
「はい、よろしくお願いします」

 石田の見守る中、目的の人物が電話に出るまで待機する。
 待ち時間は僅かに十数秒――保留中の音が途絶えたと同時に、受話器から人の気配が伝わってきた。

『――もしもし、士郎くん? 忍です』
「夜分遅くにすまない。実は――」

 用件を手短に伝える。丁寧な説明を口にする士郎の様子から状況を察してくれた忍は、電話の向こうで納得したように頷いた。

『もちろん、それくらいお安い御用よ。貸し借りが気になるなら、今度ウチのメイドにお菓子作りを仕込んでくれるだけでいいから』

 意外としっかりしている忍の言葉に苦笑しながら了承の返事を返す。
 忍に石田と代わってほしいと告げられたため、士郎は石田を手招きして受話器を渡した。
 受け取った石田は一言二言挨拶を交わしてから相槌を返していく。
 一分ほどの会話を終えた石田は受話器を置き、先程まで浮かべていた和やかな笑顔を少しだけ崩していた。

「……じゃあ、はやてちゃんの傍についていてもらえるかしら? 私もこのまま病院で待機するから、もし状態が悪化したり急変したらすぐに呼んでね」
「はい、わかりました。ありがとうございます、石田先生」

 簡単に挨拶を交わしてから病室へと戻った士郎は薄暗い部屋の中で小さな寝息を耳にした。
 どうやらすっかり落ち着いたらしいはやての静かで規則正しい寝息を聞きながら、そっと彼女の側へと歩み寄る。

「――おやすみ、はやて」

 穏やかな表情を浮かべて眠るはやての手を握りながら、届くはずのない言葉を口にする。
 あどけない表情で眠る彼女はどこから見ても年相応の少女のもので、そんなはやての寝顔を眺めながら、士郎はただ笑みを浮かべるのだった。


 -Interlude-


 ――或いは予感めいたものがあったのかもしれない。
 これまで生きてきた時間の大半を一人で過ごしてきたはやては、恵まれてはいないけれど平穏な日々を過ごしてきた。
 寂しくないわけではなかったし、悲しくならないわけでもなかった。
 それでも、それが自身の直面する現実であるという事は嫌というほど自覚していたから――。

 ――買い物ぐらいは手伝ってやるから、無茶はするな。

 柔らかな笑みを浮かべて語りかけてくる年上の少年――その寂しそうな瞳には見覚えがあった。
 どこで――などと考えるまでもない。
 その目は殆ど毎日毎朝、洗面所の鏡越しに見る自分自身のそれと同種のモノだったからだ。
 
 ――両親はもう随分と前に他界しているからな。一人暮らしをしているし、身内は誰もいない。だから遅くなって心配されることはない。

 淡々とそんな風に告げる彼の言葉には寂しさや悲しみの感情は一切感じられなかった。
 ――それが、はやてには堪らなく悲しかったのだ。
 天涯孤独の身の上となっている人など、世界を見渡せば珍しいものではない。
 けれど、少年はそんな身の上を語りながらどこまでも自然体で、そこに特別な感情を抱いている様子が見られなかったのだ。

 ――お互い様だし……そこまで気にしなくていいさ。君も似たようなものなんだろう?

 そんなことはない…と――声に出して告げたかった。
 少なくとも、はやて自身は一人で過ごす現状を"普通"だとは思っていない。
 ――けれど彼は違う。
 彼は孤独である事が普通なのだと――自身が一人でいることは当然なのだと受け入れてしまっている。
 それが――そんな少年の在り方がどうしようもなく悲しかった。
 だからだろう――出会って間もないというのに、気がついた時には自宅に招待して食事を一緒にしようと声を掛けていた。
 はやてが想像していた以上に少年と過ごす時間はどこまでも楽しくて仕方がなかった。だから、そんな時間がいつまでも続けばいいと…そう願っていたのに――。

「――う…ん、ここ…は……?」

 微睡みから浮上し、目を覚ましたはやての目の前には薄暗い天井があった。
 見覚えが殆ど無いのに見慣れたその光景――それだけで自身がいま病院にいるという事を理解できてしまった。
 ぼんやりとした思考が急速に働き始める。
 自身の現状を自覚するに従って、あんなにも楽しかった時間が嘘のように過ぎ去ってしまった事に少なからず落胆してしまう。
 けれど、それは彼女にとっては慣れた事であり、もう何年も当然としてきた日常だった。
 そう強く思い込む事で気を取り直したはやてだったが、恐らくは迷惑をかけてしまったであろう士郎の事を脳裏に浮かべて、彼に申し訳ない事をしたと溜息を零した。

「――ああ、起きたか。おはよう、はやて」
「………へ?」

 唐突に聞こえた声に、はやては間抜けな声を零してしまった。
 暗がりの中――声の聞こえてきた方へと視線を向ければ、そこには優しげな笑みを浮かべた士郎の姿があった。

「……え…な、なんで? ここ、病院……なのに」
「石田先生に頼んで付き添わせてもらってたんだ。その様子なら、特に心配はいらないようだな」

 告げてそっと手を伸ばしてきた士郎が頭を撫でてくる。
 その感触が心地よくて、はやては気持ちよさから思わず目を細めた。
 しばらくそうして頭を撫でてくれていた士郎がゆっくりと手を離していく。
 ゆっくりと立ち上がった士郎は、はやてが起きたことを知らせてくると告げて部屋を後にした。
 どこまでも自然で、そうしているのが当然のように振る舞う士郎の後ろ姿を見送ったはやては、一人きりになった病室で大きな溜息を零した。

「……ずっと、一緒にいてくれたんやな」

 言葉にしてしまえばその事実を強く意識してしまうしかない。
 もうずっと幼い頃――まだ両親が健在であった頃には当然のように甘受していた行為――。
 誰かに心配してもらう――そんな懐かしい感覚を思い出し、申し訳なさよりも嬉しさが胸を満たしていった。

「なんや……まるで"お兄ちゃん"みたいやな、士郎さん」

 見た目よりもずっと頼りがいがあり、どこか安心感を感じさせてくれる立ち振る舞いは年の離れた兄のようでもある。
 ふと見れば、枕元にはいつも――生まれた時からずっと大事にしてきた本があった。
 朦朧とした意識の中で、入院になる可能性を考えて着替えや最低限必要になりそうなものを用意してもらっていたが、本については何も口にしてはいない。
 けれど、本は確かにココに――はやての側に置かれている。
 出会って一日と経っていないのに、これが大事なモノだということを士郎は理解してくれていたのだ。

「ありがとな、士郎――」

 誰もいない室内でひとり、届くはずのない感謝の言葉を口にする。
 気恥ずかしくなったのか、何となく視線を反らして窓の外を眺めてみたはやての視線の先では、夜明けの光が薄らと広がり始めていた。

 

 

Episode 7 -決意-




「――いらっしゃいませ」

 頭を下げて来客を迎えた士郎は店の扉を潜ってきた三人の主婦たちを席へと誘導する。
 丁寧かつ速やかにメニューを用意し、今日のおすすめメニューや季節限定メニューなどの注文を受けた士郎は、最後にもう一度注文を受けたメニューの確認を済ませた。

「承りました。すぐにお持ち致しますので、少々お待ちを」

 営業スマイルを心がけ、精一杯の笑みを浮かべてから席を後にする。
 キッチンに戻って注文を伝えると、すぐに注文通りのメニューが用意された。
 それを持って先ほどの客へと届けた士郎は一度時計を流し見て、静かにフロアを後にした。

「……ふぅ。ウェイターというのは意外と大変なものなんだな」
「――いや、十分だよ衛宮くん。さっきのお客様も、凄く喜んでいたしね」

 スタッフルームに戻って一休みしていると、店のエプロンをカッターシャツの上に着込んだ店長――高町士郎(たかまちしろう)がドリンクを差し出しながら声を掛けてくる。
 この店――喫茶『翠屋』は駅前商店街の一角にある喫茶店だ。
 つい先日に知り合った高町恭也と月村忍の両名から紹介され、その日の内に面接を受けて採用された職場である。

「そうでしたか?」
「ああ。十五歳の男の子がまるで執事のような出で立ちでウェイターをしているって評判になってるみたいだよ」

 この翠屋でウェイター兼調理担当として雇われた士郎が研修を兼ねてウェイターの仕事を始めてから三十分――。
 訓練された執事の如く的確かつ丁寧に接客する士郎の姿に、いつの間にか来ていた忍が服装を変えてみようと提案してきたのだ。
 カッターシャツの上にウエストコートを羽織り、ネクタイを締めたその姿はジャケットまで揃えれば見事なまでに燕尾服である。
 いつの間にかサイズを把握されていた事は置いておいて、それなりに上質なそれらの服をどこから用意してきたのかと忍に尋ねてみれば、似合いそうだという理由で予め購入していたのだという。
 こうして、簡素ではあるが礼服を着た士郎が服装に見劣りしない執事のような振る舞いを以って働き始めて五時間――。
 すでに周囲で噂になっていると聞かされ、自身が相当に目立っていることを自覚した士郎は、少しだけ戸惑いながらも店に貢献できている事実に笑みを浮かべた。

「まあ…その、お役に立てているなら良かったですが……」
「大助かりだよ。色々と忙しい時分で人手が急遽足りなくなっていたしね」

 そんな会話を交わしながらドリンクを飲み干した士郎は、もう一度フロアに出ようとしたところで再び呼び止められた。

「今日はもう上がっていいよ。初日なのに凄く働いてくれて助かったよ」
「いえ…それで明日と明後日は昼から夕方までということで良かったでしょうか?」
「ああ、よろしく頼むよ」

 礼を済ませて再びフロアへと戻っていく店長を見送った士郎は着替えを済ませ、昼間に作った試作品のアップルパイを持って翠屋を後にした。
 自宅へと戻り、荷物を置いた士郎はそのまま家を後にし、街中へと足を運んで散策を開始する。
 少し周囲に目を向けてみれば多くの人たちがそれぞれの日常を送っている姿が見える。
 変わり映えなく繰り返されていく穏やかな時間――それがどれだけ貴重なモノなのかを改めて実感する。
 願わくば、今度こそ平穏に過ごせれば――と。そんな不相応な願いを抱いてしまいそうになるほどに穏やかな時間が流れていく。
 そうして日が暮れ始めた頃――少しだけ街中から外れた新緑溢れる区域へと向かう一人の少女の姿を見つけた士郎は、その異常と遭遇した。

「――そんなに都合良く平穏が手に入るわけがない…か」

 ポツリと零れた本音はいつものように構えた口調にはならず、歳相応の愚痴は士郎自身の耳にのみ届いた。
 街から少し離れた森林区域の最中にある丘の上から見える遠雷。その発生源はどれほど必死に目を凝らして見ても"人"にしか見えない。
 そして、そのすぐ近くに感じる巨大な魔力の源へと突撃していく彗星。それが昨日知り合った少女――埠頭で出会った高町なのはだという事実に士郎は予感めいたモノを抱きながら足を進めた。
 数瞬前に感じた巨大な魔力の波――昨晩にも一度感じたそれに反応するように駆け出した彼女は辿りついた先で巨大な魔力を放ち、姿を変えて空へと飛び去っていった。
 今も彼女は空を飛び、遠雷を放っていた"人"――なのはと背格好の似通った金髪の少女と対峙しているのだが――。

「魔術師……というには余りにも非常識だな。ナギたちのような魔法使いとも違うようだが……」

 空を自在に飛び回りながら戦うなのはの姿を視界に入れた士郎はそのまま、自身の身体を縛り付けている負荷を解除して全力で駆け出した。
 傍から見ていれば戦闘に慣れている様子の少女となのはの実力の差は歴然だ。このままでは交戦状態を維持することすらできずにやられてしまうだろう。
 頭のどこかで冷静にそんな戦力分析を行いながら、出会った時に見たなのはの笑顔を思い出して駆ける足に更なる力を込めた。

「――――I am the bone of my sword.(体は剣で出来ている)

 自身の内面――丘から引き上げるのは七つの花弁。その一枚一枚が古代の城壁にも勝る堅牢さを誇る花弁を七つ備えた鉄壁の盾だ。
 少女の攻撃で弾き飛ばされ、地面へと吹き飛ばされてくるなのはに向けて放たれようとしている追撃――それに合わせて士郎は右手をかざした。

「――熾天覆う七つの円環(ロー・アイアス)!」

 真名を開放し、展開された七つの花弁はなのはへと打ち出されていた雷弾を受け止め、宙に霧散させる。
 花弁はただの一枚も傷つくことはなかったが、発生した衝撃が着弾点のすぐ側に浮かんでいたなのはを吹き飛ばした。

「高町っ!!」

 追撃を食い止めた事を確認しながら全速力でなのはの元へと走った士郎は、勢いを減じることなく地面へと落下してくる彼女が墜落する直前に落下点へと到着する。
 落下してきたその身体を受け止めると同時に足が地面に埋もれてしまったが、想像していたよりも衝撃は少なく感じられた。
 触れた感触から身体に何かしらの障壁のようなものを展開していると確信する。
 だが、あのまま追撃を受けて地面に叩きつけられれば恐らく無事では済まなかっただろう。

「……ぅ…えみ…や…さん…? どうして、ここに……」
「質問は後だ、高町。少し離れていろ――」

 そっと彼女の身体を地面に下ろした士郎は警戒をそのままに宙を睨む。
 追撃を止めてなのはを助けた士郎を外敵と判断したのか、宙に浮かぶ少女は手に持つ斧のようなモノを振りかざしながら滑空してきていた。
 そんな少女を迎撃するように、士郎は"丘"から干将莫邪を引き上げて構える。少女は既に士郎たちから数メートルという所まで迫ってきていた。


 -Interlude-


 彼女――高町なのはは私立聖祥大学付属小学校に通う、ごく普通の小学三年生――だったが、昨日から人に教えられない秘密を抱えていた。
 ふとしたきっかけで出会った喋るフェレット――ユーノ・スクライアから譲り受けたデバイス“レイジングハート”と共に闘う魔導師としての姿である。
 次元世界と呼ばれる異世界で発掘された超古代遺跡の遺産であるロストロギア“ジュエルシード”。
 その発掘者の一人であるユーノは、ジュエルシード輸送中の事故によってこの海鳴市に散らばってしまったそれを回収にきたのだという。
 ユーノはそのジュエルシードの回収中に暴走したジュエルシードの思念体との戦闘で負傷して倒れていたのだ。
 そんなユーノと出会ったなのはが自身に秘められていた魔導師としての素質を発揮し、彼に代わってジェルシードを回収した――というのが昨晩の話になる。
 昨晩は上手く出来たから今日も大丈夫だろう…と――。
 制止するユーノの到着を待たずに独りでジュエルシードの回収にやってきたなのはだったが、昨夜のようにはいかなかった。
 ユーノと同じようにジュエルシードを回収しようとしている少女と遭遇して交戦状態へ突入したが――少女の攻撃を防ぐ事もできず、手も足も出ない内に少女の魔法で吹き飛ばされてしまう。

 ――ごめんね。
 
 少女の小さな声と共に撃ち出された追撃の魔力弾を防ごうとして、それが無理だと悟って身構えた瞬間――なのはの目前に大きな花弁が現われた。
 それは地面に落下しているなのはに向かってきていた魔力弾を完璧に弾き飛ばした後、まるで初めから存在していなかったように虚空へ消えていった。
 どこか幻想的なその光景を呆然と眺めていたが、数瞬後に訪れる地面との激突に身構えて歯を食いしばる。
 微かな衝撃と共に背後で誰かに抱き止められた感触にゆっくりと振り向くと、そこには先日知り合った年上の少年、衛宮士郎の姿があった。

「……ぅ…えみ…や…さん…? どうして、ここに……」
「質問は後だ、高町。少し離れていろ――」

 先日とは違い、鋭く細められた視線が空へと向けられる。その視線の先からは既に少女が迫ってきていた。
 何とかしてそれを防がなければ…と。必死に身体を動かそうとして、思わず動きを止めてしまう。
 目前に立つ少年――士郎の両手には、いつの間にか白と黒の綺麗な剣が握られている。その後ろ姿に――剣を構えて立つ士郎の姿に、なのはは思わず目を奪われてしまった。
 その刹那の間に迫ってきた少女と士郎が接触する。
 直後――少女がその手に持っていた戦斧のようなデバイスは、士郎が振るった双剣によって弾き飛ばされていた。
 空中に弾き飛ばされたデバイスを慌てて掴み取った少女は驚いた表情で士郎へと視線を固定する。なのははそれを呆然と眺めている事しかできなかった。

「――あなたは、何者ですか?」
「見ての通り、通りすがりの一般人だ」

 警戒を含んだ少女の言葉にも動じた様子はなく、彼はそんな言葉を返した。

「……私の魔力弾を防いだ見たことのない防御魔法――貴方は、魔導師ですか?」
「悪いが、その質問について答える気はない。もっとも、そちらが武装を解除して話し合いをする気がある…というのなら話は別だが?」
「ジュエルシードの回収を邪魔するというなら、遠慮はしません。フォトンランサー……ファイア!」

 少女の周囲に出現した光球は全部で四つ。その全てを視認した士郎の両手にはそれぞれ二本の細長い剣が構えられていた。

「ふっ!」

 先程まで手にしていたはずの双剣はいつのまにか消えており、代わりに構えた四本の剣を少女が撃ち出した魔弾へ向けて一斉に投擲する。
 見た目からは想像もつかないほどの勢いで中空に投げつけられた剣。弾丸と化したそれは狙いを外すことなく全ての魔力弾を貫通し、かき消していった。
 再び士郎へ視線を戻すと、先程まで持っていなかったはずの双剣が再び握られていた。
 意識の合間に次々と消えては現れる武器――手品のようにも見えるソレを眺めていた少女の表情は険しくなる一方だ。

「――バルディッシュ!」
『――Scythe Form(サイズフォーム)

 少女の手にするデバイスの先端から発生した金色の魔力が刃を形成して鎌へと変形する。
 なのはを護った不思議な花弁と先程の投擲で魔力弾を打ち消されたからか、射撃戦は得策ではないと判断したのだろう。
 デバイスを振り被り、高速突撃を開始する少女を前にして、士郎は少しだけなのはから距離を離してから構えた。

「高町、もう少しだけ下がっていたほうがいい」

 そんな士郎の言葉に従って、なのはは僅かに後退して距離を空ける。同時に少女は士郎へと肉薄していた。
 少女は圧倒的な速さで接近して攻撃を繰り出すが、その全てを士郎は捌いて見せる。
 刃を交える度に高速で空中に離脱し、再び接近しては縦横無尽に攻撃を加える少女に対して士郎は地に根を張ったように殆ど動いていなかった。
 相手の動きに反応できないわけではなく、冷静に攻撃の瞬間を見極め、最小限の動きで受け流しているのだろう。
 少女は受け流される度に速度を上げて突撃を繰り返す。それが幾度か続いた時、一際大きな音と共に体ごと大きく空中に弾き返されていた。

「――アーク!」
『――Saber(セイバー)

 弾き返されながらも上空で体勢を整えてから鎌を振り被り、デバイスに展開していた魔力刃を投げつけてくる。
 揺れながら高速で回転する刃が確実に迫る中――回避は容易くないと判断したのか、士郎は双剣を魔力刃に向けて投擲して迫り来る刃を迎撃した。
 そうして防がれることは想定通り――あるいは初めから牽制のつもりで放ったのだろう。少女は動じることなく士郎の死角へと回り込んだが――。

「――速い……が、単純だな。それでは動きを読んでくれと言っているようなものだぞ」
「――っ!?」

 高速機動を駆使して士郎の背後から振るわれた少女の斬撃は紙一重で回避される。
 交差した一瞬――離脱しようとするよりも早く、少女は士郎によって地面へと投げ落とされてしまった。

「……う、く……ッ」
「――大丈夫か? 怪我をしないように気をつけたつもりだが……」

 体勢を立て直そうとする隙さえ与えずに封殺してみせた士郎の手際をなのはは呆然と眺めていた。
 そうして僅かに弛緩した空気を動かすように何か言葉を口にしようとして――強烈な気配と共に魔法陣が地面に突然現われた事に気づいた。
 そこから何かが飛び出してきたということを理解した瞬間、先程まで少女を捕まえていた士郎は赤い何かと接触し、僅かばかり少女との距離を離される。
 少女はそのまま空へと逃れ、浮かんだままになっていたジュエルシードの封印を済ませてしまった。

「……獣にしては的確すぎるな。使い魔の類か?」
「ぐるるる……」

 答える声はなく、聞こえてきたのは威嚇するような唸り声だけだ。
 少女と士郎の間に割って入ってきたのは、見たこともない風貌をした赤い狼だった。


 -Interlude out-


 士郎が対峙していた少女は赤い狼を見た瞬間に安堵の溜息を零していた。
 その様子と現状から、狼が少女の使い魔か何かなのだろうと推察する。
 故に、その矛先が背後に立つなのはへと向かう事を警戒した士郎は、使い魔と思われる獣に対して剣を展開して放とうと身構えた。
 その気配を察知したのだろう。剣を展開させると同時に彼女たちの足元にはそれぞれ魔法陣が展開し、一瞬の後にその姿を消してしまった。

「……逃したか」

 先程の獣が突然現れた事から考えて、恐らく認識阻害か空間転移に類する術だと推察して追撃を諦める。
 少女が使用していたモノや先の転移術が魔術とは異なる魔力運用であることを確信しながら、士郎は臨戦態勢を静かに解いた。

「……追いかけないの?」

 気配が変わった事を察してか、背後から聞こえてきた声はどこか伺うような声音だった。

「いや、無理をして追う必要はないだろう。そもそも、どこに逃げたのかもわからないしな」

 彼女たちがあの魔力源――ジュエルシードとやらを狙っている事は理解できたが、素性も何も知れない上に大きな疑問がもう一つ――。

「――ところで、ひとつ質問があるんだが……その格好はアレか? いわゆる魔法少女というやつか?」

 目の前に立つ少女――高町なのはは現在、白を基調としたドレスのような服に身を包んでいる。
 各所に金属製のパーツが目立つドレス調の服に身を包み、杖を持って空を飛び、魔力弾を放つ――どこから見ても立派な魔法少女である。

「えっと…うん、まあそうなんだけど…」

 渾身の冗談を肯定で返されてしまい、そうか…とだけ口にして互いに視線を交わした。

「その……ありがとう、衛宮さん。助けてくれて……」

 見た目はともかく、中身まで変わってしまったわけではないのだろう。
 彼女は以前に出会った時のように、どこかはにかむような笑顔を浮かべてそんな言葉を口にした。

「間に合ってよかった。それにしても、あの少女は一体何だったんだ?」
「わからない……けど、あの子もジュエルシードを集めてるみたいだった。でも、あれは――」
「――なのはっ!! 大丈夫かい!」

 なのはの言葉に被さるように聞こえてきたのは男の声――それも、どこか幼い印象のものだった。
 声のした方へと視線を向けても、そこには人らしき姿はどこにも見当たらない。いるとすれば、見たことのない種類のイタチのような動物がいるだけだ。

「うん。大丈夫だよ、ユーノ君」
「よかった……強い魔力を感じたから、心配したよ」
「にゃはは…ごめんね。ユーノ君の言うとおり、一人だったら危ないところだったよ」

 当たり前のようにイタチと話をするなのはを眺めながら、士郎は何となく事情を察した。
 ふいにイタチのユーノとなのはの視線が向けられた事に気づいた士郎は地面に向けて視線を落とした。

「……えっと、初めまして。僕はユーノ・スクライアといいます」
「衛宮士郎だ。こうして戦闘に介入しておいてなんだが、できれば事情を説明してもらえると助かる」

 そんな提案を口にすると、ユーノと名乗るイタチとなのはが互いに頷き合って了承の返事を返してくる。
 少し落ち着ける場所がいいというので、士郎は人気のない自身の自宅へと招く事を提案した。
 幸い、忍からの援助を受けて朝の内に最低限の補修を受けていたため人を招き入れるのに問題はなかった。

「――少し待っていてくれ」

 到着した自宅の中になのはとユーノを招き入れる。
 どこか物珍しいものを見るような気配を纏った一人と一匹を置いて、士郎はキッチンへと向かった。
 翠屋のパティシエである高町桃子(たかまちももこ)と一緒に作った試作品のアップルパイを小皿に用意し、紅茶を準備してなのはたちの元へと戻る。

「――なんていうか、何も置いていないね」
「うん、そうだね……」

 戻ってみれば、ユーノとなのはが部屋を眺めながらそんな感想を零していた。

「何もない部屋が珍しいか?」

 そう声を掛けるとなのはたちは慌てた様子で振り返った。
 驚かすつもりは全くなかったのだが、なのはとユーノは共に身体を震わせて驚きを露わにしていた。

「なにはともあれ、せっかく来たんだ。紅茶を用意したから飲んでやってくれ」

 ポットからカップに紅茶を淹れてなのはの前に置き、小皿に切り分けたアップルパイをなのはとユーノにそれぞれ差し出した。

「う、うん、いただきます」
「……いただきます」

 イタチのユーノには身体の大きさを考慮し、紅茶はお猪口。アップルパイは切れ端だけを小皿に乗せて差し出した。
 少しだけ驚いた様子を見せていたユーノだが、パイを口に含んだ後はそのまま大人しく食べ続けていた。
 なのはも気に入ってくれたようで、夢中になってパイを食べている。士郎もまた、なのはたちに続くようにアップルパイを口に含む。
 林檎の甘みと酸味のバランスは絶妙で、それでいて香り高い。
 パイ生地の甘みとバターが絡み合い、それら全てが一つの味として纏められている絶品のアップルパイ――それが翠屋特製アップルパイである。
 流石に本職である桃子には及ばないと自覚していた士郎だが、初めての試作品にしては上出来だろう…と、出来映えにはそれなりに満足していた。
 アップルパイに合わせて用意した紅茶はアップルパイに使用したモノと同じ種類の林檎の皮を使用して淹れた特製のアップルティーである。

「今回のアップルパイとアップルティ―は我ながら上出来だと思う。ゆっくり味わってやってくれ」

 久しく忘れていた幸福感に浸りながら、笑みを浮かべてそう告げる。
 何故か慌てた様子を見せたなのはが紅茶を少しだけ零してしまったが、服や身体には触れなかったため火傷や染みにはならずに済んでいた。

「――ご馳走様でした」
「ご馳走様。凄く美味しかったです」

 少し遅目のティータイムを終えた士郎たちは、それでは…と改めて情報交換を開始する。
 士郎が使用する魔術と、少女やなのはが使っていた魔法の違いの確認を含め、魔導師と魔術師の違いなど様々な相違点を確認していく。
 また、なのはが士郎の勤める事になった翠屋を経営する高町夫妻の子供であることを確認し、その数奇な巡り合わせに内心で驚くのだった。

「――次元世界…純然たる異世界と魔法を使う魔導師…か。ここまで俺が使う魔術とは違う"魔法"を目の当たりにした以上、納得するしかないな」

 改めてユーノとなのはに見せてもらった"魔法"に対して、士郎は素直な感想を口にする。
 神秘とはおよそ関わりのない科学的な魔力運用――それは慣れ親しんでしまった魔術とは正反対のものだったからだ。

「僕も驚きました。まさか、昔から先祖代々受け継がれてきた魔法がこの世界にあったなんて知りませんでしたから」

 ぼやくような呟きにユーノはパイを口に運ぼうとしていた手を止め、その小さな手を振り回して驚きを表現していた。

「なにぶん閉鎖的なものだからな。この世界に魔術を使える者が俺以外にいるかどうかは知らないが、少なくともこの国には俺以外に魔術を扱う者はいないだろうな」
「それは……何か根拠のようなモノがあるんですね」
「ああ。魔術師であるなら見逃すはずのないモノが放置されたままだったからな」

 魔術基盤が未使用のまま存在している事から考えれば、あるいは過去には魔術師がいたのかもしれない。
 それでも、元の世界では考えられないほど潤沢な大源(マナ)や放置された霊脈などを鑑みれば、現代の――少なくとも日本には魔術師は存在しないと推測できる。
 忍に協力してもらって補強した戸籍情報――とある事情で両親や慣れ親しんだ者たちと死別し、後見人の月村忍を頼って海鳴に来たのだと告げると、なのはとユーノは揃って口を噤んでしまった。

「高町――紛らわしいから下の名前で呼ぶぞ。なのは――今更綺麗事を言おうとは思わないが、家族にはあまり心配掛けないようにな」

 言い含めるように告げた言葉に、なのはの表情が真剣味を帯びていく。
 どうやら家族のことは気にしていたらしく、彼女は少しだけ表情を引き締めて頷いた。

「――うん」

 持ち得る精一杯の覚悟と決意を込めて返事をしたなのはに士郎は頷きを返した。
 例えそれが現実の酷さを知らない子供の覚悟だったとしても、それを笑う事など……ましてや否定することなど出来ない。
 なのはの決意は自身に根付いた小さくも本物の気持ちに由来するもので、それを否定していいのは彼女――なのは自身だけだからだ。
 かつての衛宮士郎はその目指すべき理想すら借りもので、自身から零れた想いなど一つとしてない欠陥だらけの人間だった。
 それでも過去に憧れて目指していた理想が間違っていたとは今でも思っていないし、その理想を捨てたことや、紆余曲折の果てにこの世界で生きていることに士郎は何一つ後悔を懐いていない。
 だから士郎は彼女の決意を否定しなかった。例え、彼女が平和な日常から足を踏み外そうとしているとわかっていたとしても――。

「――なら、いい。回収が済めば平穏が戻るというのなら俺も協力しよう」
「ありがとう、衛宮さん」

 改まった様子で感謝を口にするなのはの姿に、士郎は僅かばかり苦笑を浮かべた。

「士郎でいい。こっちも勝手に下の名前で呼ばせてもらっているし、年上だからといって必要以上に気にする必要はない」
「うん、じゃあ……士郎くんって呼ぶね」
「ああ」

 少しばかり遠慮した様子を見せていたなのはだが、肯定の返事を返すと花が咲いたような笑顔を浮かべた。
 その笑顔に遠い過去の記憶を垣間見た士郎は、僅かばかり頭を振った。ふと見れば、なのはは先ほどの笑みを消して真剣な表情をしていた。

「――士郎くん、ユーノくん。お願いがあるんだ。私に戦い方と魔法を教えてもらえない…かな」

 ふいに告げられた唐突な言葉に表情を引き締める。
 驚きを露わにするユーノを横目に佇まいを正した士郎の視線の先には、決意の表情を浮かべたなのはの姿があった

「あの娘……私が戦わないといけないの。だって、あの娘は……」

 言葉はそこで途切れてしまい、その続きをなのはが口にすることはなかった。

「……ううん、なんでもない。でも、今日みたいなことはきっとまた起こる。だから、士郎くんだけに戦わせたくないんだ」

 向けられる視線は真剣そのものだ。それはつい先程までと比べても明らかに強くなっている。
 彼女の直感があの少女の何かに反応し、それを自らの力で解決したいと思っているのだろう。それを手伝うこと自体に士郎としては異論はない。
 ――だが、これは一つの分岐路になる。
 ここで彼女の意志を確認しておくのは、かつて似たような経験をしてきた先達としての勤めだろう…と士郎は表情を引き締めた。

「なのは……ひとつだけ確認させてくれ」
「うん……」
「戦うということは、何であれ相手を傷つける行為に他ならない。俺は今日の戦いであの少女をなるべく傷つけないように立ち回ったが、それでも彼女を傷つけた」

 無傷で取り押さえるなどというのは余程の実力差があって初めて為し得ることだ。
 だからこそ、どんな理由があっても戦うと決意したのなら、敵を討つ覚悟は必要になる。

「自分も傷つかず、相手も傷つけずに戦いを収める…なんていうのは理想に過ぎない。それがわかっていて、それでもお前はあの少女と戦うのか?」
「……うん、戦うよ。確かに傷つけられるかもしれないし、傷つけるかもしれない。だけどあの娘…悲しい目をしてたの。そんな娘を放っておけないから……」

 なのはが告げるように、あの少女が悲しそうな目をしていた事に士郎は気付いていた。
 戦闘の最中にそれを感じ取ったなのはが覚悟を決めて戦いたいと――少女と関わりたいのだと決意している。その意思と決意を信じて、士郎はゆっくりと頷いて見せた。

「……わかった。俺でよければ訓練に付き合おう」
「僕も手伝うよ。元々、僕の頼みを聞いてくれたなのはには出来る限りの協力をするつもりだったから」

 ユーノと共になのはの決意に応える。彼女は今度こそ本当に嬉しそうに表情を綻ばせた。

「うん、ありがとう! 士郎くん、ユーノ君!」

 曇りのない笑顔を浮かべる彼女を見て、士郎は素直に彼女を守りたいと思った。
 ――この世界に来て間もなく知り合った少女が危険に身を投じている。
 綺麗事だと…偽善だと蔑まされようと、せめて手の届くところで見守りたいと――。
 一を捨て、九を救う正義の味方になれない事は当の昔に理解している。
 それでも守りたいと願う存在がいるのなら、せめてその人たちだけでも――正義も悪も呑み込んで、自身が守りたいと思う人の命と心を守りたい。
 かつての衛宮士郎はそんな夢を抱いたまま死の丘に辿りついてしまったが、救われた命をそんな夢のために使うのも悪くはないと静かに決意を固めた。

「(――ああ、守ってみせるさ)」

 笑みを浮かべたなのはを眺めながら、士郎は覚悟を胸に刻む。彼女を守る――そのために自身の力を使おう…と。
 あの日――初めて出会った時、自身と同じような想いを吐き出しながら泣いていた彼女を守る為に戦うことを士郎は自身に誓うのだった。
 

 

Episode 8 -境界線-


 春先の朝日を浴びながら道を歩いていく。
 肌を照らす暖かな陽射しとは裏腹に頬を撫でていく風はまだ冷たかった。
 春の季節を肌に感じながらのんびりと歩を進めた士郎は、目的地が遠くに見えてきたことを確認してから小さな溜息を零した。

「――あそこか。確かに、これなら迷うことはなさそうだが…」

 ぼやくような言葉は誰に届くこともない。もう一度だけ小さく溜息を漏らした士郎は気持ち僅かに足を早めて目的地へと向かった。
 休日の朝に足を向けたのは月村の屋敷――初めての訪問だったが、忍が言うように遠くからでも目立つ屋敷だったので迷う事はなかった。

「――ようこそ。いらっしゃいませ、衛宮様」

 門前で迎えてくれたのはメイド服に身を包んだ女性だった。
 以前にどこかで聞いたような声で出迎えてくれた女性は涼やかな笑みを浮かべたまま小さく礼をする。

「忍お嬢様が御待ちになられています。どうぞお上がり下さい」

 二度声を聞いて、ようやく以前に病院から電話をしたときに応対してくれた女性だと思い至る。
 彼女の名前を知らない事を思い出して言葉を詰まらせている士郎に対して、メイドの女性は小さな頬笑みを浮かべて応えた。

「ノエルと申します。どうぞ、よろしくお願い致します」
「衛宮士郎です。よろしく、ノエルさん」
「はい。それと士郎様――私は忍お嬢様に仕える身です。士郎様は忍お嬢様のご友人――どうぞお呼び捨ていただけますようお願いします」

 頭を下げながら敬語も不要だと彼女は告げる。
 彼女のメイドとしてのプライドを感じた士郎は、特に食い下がることなく彼女の言葉に対して首肯した。

「了解した、ノエル」
「ありがとうございます。それではどうぞ――」

 告げて屋敷へと歩き始めたノエルに続いて屋敷の中へと足を踏み入れた。
 やけに目につく"モノ"があったが、どうにかそれらを無視して歩き続ける。案内されたのは落ちついた色調の応接室だった。

「ようこそ。歓迎するわ、士郎くん」
「お言葉に甘えてお邪魔させてもらった。随分と立派な屋敷だな……少し物騒だが――」

 屋敷の門から忍の待つ部屋に案内されるまでの間にどれだけの罠が仕掛けられていたか――それを思い返して溜息を零した。
 上手く偽装され、一般人には全くわからないように設置されている各所の罠だが、建物の構造を解析できる士郎にとって罠を看破することは造作もない。
 ――ないのだが、そのあまりにも趣味的に設置された数多の罠を知ってしまったが故に、要らぬ警戒と緊張感を抱いてしまったのはどうしようもないことだった。

「流石に士郎くんの目は誤魔化せなかったか…。でも、結構な出来栄えでしょう?」

 ノエルに勧められるまま忍と対面する形で椅子に腰かける。
 何故か誇らしげにしている彼女に、士郎はもう一度小さな溜息を零すのだった。
 そうして勧められるまま席に腰掛けた士郎の正面には忍ともう一人――見慣れない少女が腰掛けていた。

「紹介するわね。私の妹の月村すずか――恭也の妹のなのはちゃんは知ってる? 彼女の同級生でクラスメイトの友人なのよ」
「なるほど……。衛宮士郎だ。よろしく、すずか」
「は、はい……よろしくお願いします。お名前は忍お姉ちゃんから聞いていました。お会いできて嬉しいです」

 丁寧で礼儀の正しいすずかの様子を眺めながら、どこか妙な緊張感が室内を満たしている事に気づいた。

「――とりあえず、話を聞かせてもらいたい。昨日の今日で急遽俺を呼んだのはその子のためなんだろう?」
「まあ、私の用事は大したことじゃないしね。私が士郎くんの事を話したら、すずかが一度貴方とちゃんと話がしてみたいって」

 忍の言葉に頷きながらすずかへと視線を向ける。
 真っ直ぐに士郎へ視線を向けてきていたすずかは緊張と不安を綯い交ぜにしたような表情を浮かべていた。

「……あの、士郎さんはお姉ちゃんから聞いていると思うんですけど――」

 おずおずといった様子で語り始めたすずかの声に耳を傾ける。
 そこで語られたのはすずか自身の事――ひいては月村家の秘密についてだった。
 すずかは夜の一族としての血を受け継いでおり、身体能力などは常人よりも相当に高く、忍と同じで長く生きるためには血を――特に異性の血を吸う事が必要なのだという。
 人から直接吸った経験はなく、輸血用の血液などを融通してもらって血を摂取する事で体調的には安定しているらしいが、そうした秘密を親しい友人にも話していない事などを静々と語った。
 ――余談だが、夜の一族である彼女たちの正体がバレるような事態が起きた場合、通常であれば対象の記憶を消すか、生涯を連れ添うという決まり事のようなモノがあるらしい。
 本人ではなく、姉である忍の正体を知るが故にすずかの素性に心当たりを持つ衛宮士郎という男はその意味で例外的な立ち位置にいる。
 端的に言えば身内扱い――本来であれば考えられないことだが、"相談"という手段を行える数少ない貴重な他人なのだと説明された。

「――なるほど。それで俺を招いてくれたわけだ」

 決して長くはない話が終わり、これまでのすずかの態度に納得がいった士郎は特に感情を乗せずに呟いた。
 一息ついて目の前に置いてあるティーカップを手に取る。
 用意されていた紅茶はすっかり冷めてしまっていたが、士郎は構わずに口をつけた。

「――普通の人はきっと怖がりますよね。わたしのこと…人の血を吸う吸血鬼なんて、化け物って思われても仕方ないし…」

 すずかはとても寂しそうに、自己嫌悪すら感じさせる声音で呟く。
 見れば、すずかの膝の上で握り締められている手はわずかに震えていた。

「――すずか。君が隠し事をしていて、それを後ろめたく感じていることはわかった。だが、なのは…きみの親友はきっとそんなことで君を嫌ったりしないと思うがな」
「……どうして、そんなことがわかるんですか? 士郎さんだって、私のこと――」
「すずかはすずかだ。俺にとってはそれだけだし、別に吸血鬼だからといって君や忍の事を化け物のように思ったりはしない」

 すずかの言葉を遮ってそんな言葉を口にする。
 それは間違いなく本心であったし、自身に比べれば十分に全うだという確信から来る言葉だった。

「誰だって隠し事ぐらいはしているものだ…と言ってみても君は納得しないだろうな。だが、公にできない隠し事をしているのは君だけじゃない。俺だって周囲の人たちに隠していることは幾らでもあるしな」
「士郎さんも……?」
「ああ――投影、開始(トレース、オン)

 自己に埋没し、作り上げたのは幾つかの刀剣だ。
 突如として目の前に現れたそれらを見て、すずかは驚きを隠せずに目を見開いていた。

「これは魔術――ずっと昔から伝えられてきた力で、俺が扱える普通とは違う力。俺が他者に対して隠している事の一つだ」
「魔術……」
「ああ。人の世の裏側で、数多の血と犠牲を積み重ねながら伝えられた神秘――こんな力を扱うなんて、普通の人からみれば十分に化け物染みていると思わないか?」

 士郎はすずかへ問いかけるように告げる。
 彼女はその言葉を否定するように強く頭を横に振った。

「そ、そんなことないです! 士郎さんは化け物なんかじゃ――」

 ない――と。はっきりとした声でそう告げる彼女には、先ほどまでの弱々しさは微塵も感じられなかった。

「そう言ってくれるのは素直に嬉しい。だが、事実として俺は多くの人に化け物のように認識されていた。まあ、それはまた色々と事情があるんだが――」

 かつて生きていた世界で衛宮士郎という個人は時間の経過と共に忘れられる存在となっていた。
 それでも為した事やその結果は残ったため、多くの人たちは意味も理由もわからないまま争いに介入してくる"現象"に脅威を感じ、次第に恐れるようになっていった。
 実際、そんな在り方を良しとして過ごしていた士郎に興味を抱いて接触してきた死徒の祖の一角であった吸血鬼――アルトルージュ・ブリュンスタッドから面と向かって断言されている。

『――貴方の在り方はあまりにも人間離れしているわ。あるいは、私たちよりも化け物染みているわね』

 爽やかな笑みを浮かべたまま告げられた彼女の言葉を、士郎は今でもはっきりと覚えていた。
 年を重ねることもなく、他人に個人として記憶されない"外れた存在"――それを当然としながら人助けを繰り返す衛宮士郎を、彼女は自分以上の化け物だと評した。
 争いの渦中にあった彼女の元で士郎が過ごした時間は生きてきた時間からすれば短い期間だった。
 だが、それでも正しく衛宮士郎という人間を認識してくれた彼女には感謝の念しか抱いておらず、それは今も決して変わる事はなかった。

「――俺が普通とは違う……人とは違う力を隠し持っている事に違いはない。それでも、俺は人として生きてきたつもりだし、これからもそうしていくつもりだ」

 例えすぐに忘れ去られるとしても、人との交流を絶とうと思った事はなかった。
 誰の記憶に残らずとも、こうして自身が覚えているのなら、きっとそれは無意味ではない――と。士郎は今でも心の底からそう信じている。

「すずかや忍が人の血を吸う吸血鬼だという事実はどうやっても変わらない。だが、それをどんな風に受け止めてどう過ごしていくかは選ぶ事が出来るはずだ」

 血を吸うから化け物なのではない。化け物を化け物として成立させる要因はもっと別のところにある。
 それは身体的なものではなく、どこまでも人という枠組みから逸脱した精神を持つ存在――人とは決して相容れることのない存在を示す言葉なのだから。

「血を欲してしまうことも友人を大切だと思う心のどちらも真実なら、それを否定する権利は君以外の誰にもない。大事なのは他者の認識ではなく、君の心の在り方――どうしたいのかということだ」

 すずかもきっとわかっているのだという確信が士郎にはあった。
 それでも、彼女はまだ幼く純粋で――弱い。
 だから、きっといつかは乗り越えられるとわかっていながら、彼女の背をそっと押そうと言葉を続けた。

「すずかの悩みはきっとこの先もずっと続いていくだろう。それでも誰かの事を大切だと思う心があるのなら君は皆と同じ人間だ」

 彼女や忍が抱えている悩みを全て理解できる他人などいないだろう。
 それでも、忍の傍にいる恭也は彼女の事を少しでも理解していこうとしている。
 そして、すずかの側にいるなのはもきっと同じだろうという確信があった。

「ああ――例え世界の全てが君を否定しても、俺は認めよう。その心がある限り、すずかは間違いなくみんなと同じ…普通の女の子だ」

 士郎が初対面のすずかに対して言えることはそこまでだったが、伝えたかったことは確かに伝わったはずだ。
 彼女は先程までの暗く沈んだ表情が嘘のように、とても穏やかな表情を浮かべている。
 その目から零れる涙は、今まで心に溜め込んできたあらゆる感情を押し流しているようにも見えた。

「――だから自分の事を化け物だなんて、そんな悲しい事は言わなくていいんだ」

 最後に飾り気のない本心からの言葉を口にすると、すずかは声を上げて泣き出してしまった。
 彼女の事情は重く、生きている限り付き合わなければならない問題だ。
 それを他者に話す事は直ぐにはできないかもしれないし、あるいは一生涯話せないかもしれない。
 だが、どんな選択をしようと彼女が後悔しないことだけは確信できた。
 泣き終わったすずかの顔は、泣く直前の穏やかなものとも違う…憑き物の落ちた晴れやかな顔をしていたから――。


 -Interlude-


 休日の朝、兄である恭也と共に友人であるすずかの家を尋ねたなのはを出迎えたのはメイドのノエルともう一人――。

「――えっと、どうして士郎くんがすずかちゃんのお家で執事さんの格好をしてるの?」

 昨日とは全く違う服装……所謂執事服に身を包んだ年上の少年――衛宮士郎がそこにいた。

「本日はこちらで執事の仕事をさせていただいております。それではお二人とも、どうぞこちらへ。なのはお嬢様のご友人も既にいらっしゃっていますよ」

 丁寧に、それでいて一部の淀みもない士郎の執事振りに絶句する。
 思わず赤面してしまうなのはだったが、彼女の目から見た士郎のソレは天職と断言出来るほどの似合いぶりだった。

「……あ~その…だな。何かの罰ゲームか何かか?」
「忍お嬢様からのご依頼でして。先日お世話になった返礼――と言えばお分かりでしょうか?」

 恭也の言葉に即答する士郎の表情は一切変化していない。代わりに恭也の表情は苦々しく引き攣っていた。

「……というのはまあ、ただの建前だ。今日は単純に忍の妹であるすずかの執事を体験させてもらっているだけだ」

 ようやくいつもの調子で答えてくれた士郎の言葉に安堵の息を吐く。
 似合っているのは間違いないが、執事然とした士郎を前にすると緊張しすぎていけない。なのはは深呼吸をして自身の暴れる心拍を整えるのだった。

「さて、それでは案内しよう。ついてきてくれ」

 普段通りの対応をしてくれるようになった士郎について屋敷へと入っていく。
 なのはたちを先導するように背筋を伸ばして歩いていく士郎の後ろ姿はどこから見ても立派な執事だった。

「――いらっしゃい、恭也」
「――ああ」

 部屋に入ると同時に屋敷の当主――月村忍が出迎えてくれる。
 兄の恋人でもある忍の視線は一度だけなのはへと向けられ、会釈を済ませて直ぐに恭也へと向けられた。

「お茶をご用意いたしましょう。何がよろしいですか?」
「任せるよ、ノエル」

 慣れた様子で返答する恭也に対して、忍付きのメイドであるノエルは小さく頭を下げた。

「なのはお嬢様には、士郎様お手製の紅茶とバニラクッキーがございますので、そちらを」
「はい、ありがとうございます」

 少しだけ笑みを深めたノエルの言葉に返事を返す。見れば、彼女の隣に立つ士郎が小さく頷いていた。

「ファリン、士郎様の指導を受けた成果を見せる時が来ましたよ」
「はい、了解ですお姉様。では、士郎様――行ってきますね」
「ああ、頑張ってな」

 士郎の言葉に笑みを浮かべ、もう一人のメイドであるファリンが歩き出す。
 落ち着いた所作が特徴的なノエルに比べると、その妹であるファリンのソレは快活な動きだった。

「じゃあ、私と恭也は部屋にいるから」
「はい、そちらにお持ちします」

 忍の言葉に答えるノエルの隣にファリンが並ぶと、二人は揃って礼をしてから部屋を去っていった。

「士郎くんも、ありがとうね。お陰でファリンにはいい勉強になったと思うわ」
「結論を出すのは早い気もするが……まあいいさ。折角の逢瀬なんだ。ゆっくり過ごすといい」
「わかってる。士郎くんには悪いけど、お昼まではお願いするわね」

 まるで普通の友人に告げるような気安い士郎の言葉を耳に入れながら、なのはは忍が士郎の後見人である事を思い出していた。
 用意されている席へ向かって歩を進めたなのはの視線の先――目的の席の上には猫が伏せている。
 この月村の屋敷では珍しくない光景の一つで、部屋を見渡してみれば何匹もの猫が思い思いに寛いでいた。

「おはよう、なのは」
「おはよう、なのはちゃん」
「うん。おはよう、アリサちゃん、すずかちゃん」

 先に席の上に腰掛けていたアリサとすずかの二人と挨拶を交わして席に着く。
 こうして休日に集まるのは久しぶりで、気心知れた友人との時間はなのはにとっても心安まるものだった。
 そういえば――と。なのはが自身の肩へ視線を向けると、そこに乗っていたユーノがいつの間にか床に降りていた事に気づいた。
 どうやら周囲の猫たちに気に入られたらしく、ユーノはどこか落ち着かない様子で部屋の片隅に座ったまま猫たちに頬ずりされていた。

「相変わらず、すずかのお姉ちゃんとなのはのお兄ちゃんはラブラブよね」
「お姉ちゃん、恭也さんと知り合ってからずっと幸せそうだよ」
「うちのお兄ちゃんは…どうかな。でも、前よりもなんだか優しくなったような気がするかな。よく笑うようになったかも」

 三人で眺める先には手を繋ぎ、仲睦まじく部屋を後にする二人の年長者の姿があった。
 そんな二人が出ていった後、扉を閉めた士郎は少しだけ溜息を零しながらゆっくりとなのはたちの元へ歩いてきた。

「まったく、ああも二人の世界に入り込まれては皮肉を言う気にもなれないな」
「もう、そんなこと言って……士郎さんだって、あの二人はお似合いだって思うでしょ?」

 そんな士郎に対して苦笑いを浮かべながら話しかけたのはアリサだった。
 彼女にしては珍しいことだが、年長者である士郎に対して気安い印象の声音だった。
 疑問に首を傾げるなのはだったが、隣に座るすずか曰く――出会って一分と経たない内に意気投合したとのことだった。

「ふむ、それもそうだな。確かにあの二人は傍目にも仲睦まじい。互いが互いを思いやり、信頼している様子は見ていて微笑ましいからな」
「なんか老け込んだ感想だけど……士郎さんはああいうの見て、羨ましいとか思わないの?」
「特にそういった感情は抱いていないが……なるほど――アリサは随分とそういった事に興味があるんだな」
「べべ、別に……そんなこと――あ、あるわけないじゃないッ!」

 顔を真っ赤に染めて叫ぶアリサだが、その様子はどうみても長年の付き合いがある親しい友人のソレである。
 親しい友人以外に対しては態度も言葉遣いも丁寧なアリサの砕けた態度を見ていれば、彼女が士郎に対して強い信頼感を抱いている事は明白だった。

「別に恥ずかしがるようなことではないと思うが…まあいいか。それより、なのはもこれを食べてみてくれるか? 感想が聞きたいんだ」

 そうしてなのはの目前に差し出されたのは、まだほんのりと温かいクッキーと美味しそうなラスクだった。
 それを受け取ったなのはは一つだけ指先で摘まんで口に運んだ。
 どこか優しい香りと主張しすぎない程度のほどよい甘み。そしてサクサクとした食感――絶品のクッキーとラスクだった。

「わぁ……これ、士郎くんが作ったの? このクッキーとラスク、凄く美味しいよ!」
「むぅ、確かに文句のつけようがないわね」
「わざわざ美味しいお菓子を作ってくれてありがとうございます、士郎さん」

 なのは、アリサ、すずかの三者三様の言葉に満足したのだろう。士郎は嬉しそうに表情を緩めてから静かに部屋の外へ視線を向けた。
 聞けば、どうやらファリンの事が気になっているらしい。
 新しい紅茶を淹れるついでに様子を見てくるとすずかに告げた士郎はそのまま扉へと向かい、静かに扉を開閉させて部屋を後にした。

「……それにしても、本当に凄いわね。本職の執事さんて言われても信じられるわよ」
「……うん、そうだね」
「今日は特別にって事なんだけど……………どうせなら、このまま――」

 どこか不穏な言葉がすずかの口から零れた事を、なのはとアリサの二人は聞き逃さなかった。
 すかさず反応した二人に気付いて口籠らせたすずかだが、その途絶えた言葉の先がどんなものだったのかは想像に難くない。
 僅かに緊張した雰囲気を振り払うためか、全員が意味もなく笑い声を零しながら世間話が始まった。
 学校でのことや、町に出かけた時のこと、下校中での事を雑談を交えて言の葉に乗せていく。心地よく、それでいて少しだけ暖かな時間がゆったりと過ぎていった。

「そういえば、あのフェレット――ユーノだっけ? 結局なのはの家で飼うことにしたんだ?」

 話が一段落した時、ふと思い出したようなアリサの言葉になのはは少しだけ戸惑いながら頷いた。
 表向きの事ではあったが、父である高町士郎や母の桃子…兄の恭也と姉の美由紀の許可はもらっているため、ユーノは正式に高町家の一員となっている。 

「ふーん。あ…そうだ。明日はなのはのお家でお泊まり会しない? ユーノとも遊びたいし、久しぶりに…ね?」
「いいね。でも、なのはちゃんのお家の事情もあるし、急だとお家の人にご迷惑じゃ……」
「後でお父さんとお母さんに聞いてみるよ。たぶん大丈夫だと思うけど――」

 そんな他愛のない会話を友人二人と交わしていて、ふと――先日矛を交えた少女の事を思い出した。
 どこか孤独な気配を纏い、強い決意と想いを秘めた目をした魔導師の少女――その姿が脳裏から離れなかった。

「どうかしたの、なのは?」
「なんだか表情が暗かったけど、なにかあったの?」

 すぐ目の前から二人の心配そうな声が届き、なのはは直ぐに思考の一つを中断した。

「えっと、二人ともどうかしたの?」
「どうかしたのはアンタでしょ? なんだかボーっとしてたけど、考え事でもしてたの?」

 アリサの言葉になのはは頭を横に振る。
 もちろん並列思考(マルチタスク)が身についていないせいで考えが表情に出てしまった事には気づいている。
 なのはは昨夜から自身のデバイスであるレイジングハートの協力の元、仮想空間を利用した戦闘訓練を始めていた。
 だが、その一環として訓練を始めた並列思考が未だ完璧に身に付いていないため、油断すると思考が上手く分割できなくなってしまうのだ。

「――昨日は夜更かししてたからそのせいかも…。今朝、お兄ちゃんにも怒られちゃったし……」

 意外とスパルタな事が判明した士郎からは、日常生活を送りながらこなせる幾つかの訓練メニューを言い渡されている。
 魔力運用技術の向上のための魔力制御や並列思考、身体運用技術向上のための呼吸法や姿勢、歩法など――ユーノやレイジングハートと相談して決めたらしい。
 武術にも通じる訓練をこなしながら過ごしていたなのはだが、まだまだ一夜漬けにしては身に付いているという程度だ。

「…まあ、いいけどね。でも、なにかあったらちゃんと言いなさいよね。相談くらいは乗れるんだから」

 少しだけ困ったような笑みを浮かべて告げるアリサに同意するように、隣に並んで座るすずかも頷いていた。
 本当の事を言っていない事はわかっているのだろう。
 それでも無理に聞き出そうとはしないアリサとすずかの二人に対し、なのははありったけの感謝を込めて頷いた。

「うん。ありがとう、アリサちゃん、すずかちゃん」

 ふと、いつの間にか部屋に戻ってきていた士郎の姿が視界に入った。
 彼は執事らしく部屋の隅で待機していたが、目を閉じて集中しているその様子は真剣そのものだ。
 考え事をしている――というわけではないらしい。彼は彼で、今この時にも自分の訓練に励んでいるのだろう。
 ――曰く、士郎には魔導の才能がない。
 なのはには信じ難いことだったが、それはユーノやレイジングハートから聞かされた事実で、士郎自身も認めている事だった。
 魔導師が魔力を操るために必要な核――リンカーコアを持たない士郎は、魔導師のように周囲から魔力を集めるというような事が出来ない。
 そんな彼が魔力を扱えているのには理由があるらしく、その辺りの事情についてはユーノと共になのはも他言無用という事で教えてもらっていた。
 魔術回路――士郎が扱う魔術を使用するために必要な擬似神経の名称で、生命力を魔力に変換するための路。
 ユーノ曰く、魔導師の持つリンカーコアとは根本的に異なるモノらしく、昨晩も士郎とユーノが二人で難しい話をしていた事を思い出した。
 そうして彼が始めたのは、魔導師の使用する魔法――主に念話などを使用する事ができないかどうかを試すというものだった。
 結果は芳しくなかったが、士郎曰く――そもそも自分には魔術の才能もない――とのことなので、結果が出るにはどうしても時間が掛かるらしい。
 それでも士郎は昨日――なのはでは全く敵わなかった魔導師と思われる少女に対してあっさりと勝利して見せたのだ。
 あれほどの強さを持つ者に才能が無い…というのは冗談のように感じられたが、いつか機会があればその辺りの事情を聞いてみたい――そんな想いを胸に、なのはは友人との会話に集中するのだった。
 

 

Episode Ex01 -メルルのアトリエ?-

 
前書き
※この外伝シリーズは本編の裏側――あるいは側面的なストーリーです。



外伝シリーズ第一話です。

時期的には本編で士郎と離れてから三、四ヶ月後のお話です。 

 

「――ん……明るい……もう、朝なの……」

 暖かな日差しを受けて目を覚ました彼女――メルルリンス・レーデ・アールズは、いつものようにのんびりと身体を起こした。
 まだ起きたばかりのせいでぼんやりとしていた思考も、ベッドから降りて立ち上がる頃には働き始めてくれる。
 特に意図した時間に起きているわけではないが、規則正しい生活をしているとは同居している遠坂凛の言葉だった。

「――あら、起きてたのねメルル。おはよう」

 不意に開け放たれた扉の向こうから聞き慣れた声が耳に届く。
 振り向いたメルルの視線の先で佇むのは遠坂凛――この家の家主にして協力者の少女だった。

「おはよう、リン。その様子だと、また徹夜明け?」
「まあね。事後処理も大分落ち着いたところだけど、まだまだやらないといけないことは残ってるしね」

 告げて苦笑する凛を眺めながら、メルルはベッドを降りて着替えを済ませる。
 凛が忙しいのはいつもの事で、この土地――魔術師にとって大切な霊地の管理者を努めている彼女にはやらなければならない雑務が無数にあるのだという。

「お勤めご苦労様――だね。このまま起きてる? それなら朝ご飯を用意するけど?」
「今日はまだやることが沢山あるし、お願いしていいかしら?」
「了解。すぐに用意するから、適当なところで上がってきてね」
「はいはい、それじゃよろしくね」

 告げて凛は部屋を後にして階下へと降りていく。メルルも続くように部屋を後にした。
 メルルの個室は遠坂邸の二階に用意されており、凛が魔術に関わる案件で引き籠もるのは地下の魔術工房の中である。
 本来そこは魔術師当人か、その系列に属する弟子しか立ち入ることのない魔窟なのだが、協力者であるメルルのアトリエもそこに設置されている。
 そのため一日の間に二人が一番長く過ごす場所となっており、メルルにとっても一番落ち着ける場所となっていた。

「――今日は何を作ろうかな~」

 すっかり見慣れてしまったこの世界の食材を並べながら脳裏に料理の完成図を思い浮かべる。
 そんなとき、いつもメルルが思い返しているのは彼の手料理――数ヶ月前まで共に過ごしていた衛宮士郎の事だった。
 彼と過ごしていた数ヶ月の日々で毎日毎食食べていた創作料理――それらを思い返しながら、メルルは本日の朝食作りを開始する。
 凛に教わった通りに紅茶を用意し、切り分けたトーストをカリカリに焼き上げる。ベーコンや卵を添えて皿に盛りつけ、テーブルの上に配膳していく。

「あら、随分と美味しそうな朝食じゃない」
「見よう見まねだけどね」

 材料は違うが、似たようなメニューを士郎が用意してくれた時があった。
 それを思い返しながら作った簡素な朝食だったが、思っていたよりも上手く出来たらしい。

「士郎とはよく一緒に料理してたの?」
「そうだね……アトリエにいた頃はシロウに任せることが多かったよ。たまに一緒に作ったりはしてたけど…」
「なるほどね。ところで話は変わるんだけど、今日は外回りが多いから下は自由に使って良いわよ。あ、だけど迂闊に私のモノを弄ると危ないから気をつけなさい」

 凛からの提言にメルルは素直に頷いた。
 元より秘密主義の魔術師である凛の工房を好き勝手に扱おう等とは微塵も考えていない。
 彼女と協力関係となり、工房の一部を借り受ける形で使わせてもらっているが、凛の領分を無意味に侵すつもりはなかった。

「わかったよ。じゃあ、帰りは遅いの?」
「日暮れまでには戻るつもりだけどね。こっち関係の人間と会ったりするからアンタを連れて行くわけにもいかないしね」
「大変だね。なら今日は私の実験に使わせてもらうね」
「ええ。もし素材が足りなくなったら、私の部屋に幾つかストックしてるのがあるから、それを使って頂戴」

 そうして、一日の予定を確認しながら朝食を終える。
 夕暮れまでには戻ると告げた凛は食後、身だしなみを整えてからすぐに家を後にした。

「――さて、今日はどうしようかな……」

 独り呟きながら地下へと降りていき、どこか暗い雰囲気を纏った地下への入り口――その中へと足を踏み入れる。
 すっかり馴染んでしまった空間で、メルルは自分専用に用意している机の前から椅子を引き出して腰掛けた。

「素材は随分と揃ったけど――決定的な材料が用意できないと……」

 前回の世界移動で、試作段階として作成したアイテムは粉々になってしまった。
 元々単体では起動すらしなかった失敗作だったはずのモノ――。
 アレは士郎が手にしていた最初の試作品に呼応する形で起動したのだろうとメルルは推測していた。

 ――宝石剣に似ている。

 最初の試作品を見て、士郎はそう告げていた。
 あの試作品の形は、最初に隕石が落ちた場所から掘り当てた虹色の宝石と同じような形状だった。
 それを見た士郎が咄嗟に呟いた言葉――宝石剣。その出自は意外なほどあっさりと判明する事となった。
 この世界にやってきて、最初に出会った少女――遠坂凛が作ろうとしている魔法使いの遺産の名前こそ宝石剣だったのだから――。

「まずはリンに宝石剣を作って貰わないと――そのためには、材料になる素材を用意しないといけないんだから……」

 やらなければならない事は明確で、はっきりとしている。
 凛が並行世界を運用するという魔法に至る手伝いをする――そのための前段階として、凛は魔法使いの遺産として遠坂の家に残された宝石剣を作成する予定だ。
 かつて一度、士郎の協力で用意された宝石剣を使用した経験があるため、凛は既に宝石剣の構造などを把握しているのだという。
 後はそれを作成するための素材を確保するだけ――とはいえ、凛から聞かされた必要素材は容易に準備できるような数ではなかった。
 凛が協力体制を申し出てきたのは、彼女が必要とする素材である純度の高い宝石を錬金術で用意させるためだ。
 それはメルルにとっても利のない話ではない。彼女が作成する宝石剣こそがメルルの求める素材の最有力候補なのだから――。
 そのためには二つの宝石剣を用意する必要があり、凛とメルルは二人揃って寝る間も惜しみながら実験と研究を繰り返している――のだが……。

「資金不足だけはどうしようもないよね……」

 メルルが素材となる宝石を作るために必要な材料はそれなりに高価な宝石や貴金属が殆どだ。
 それを用意するためには資金を貯めて購入するか、未開の土地や埋蔵された財宝などを確保するか素材を集めて作る以外に選択肢はない。

「――っ、あ……と、ちょっとぼんやりしすぎたかな?」

 錬金釜に投入する素材の一部で掌を軽く切ってしまい、微かに感じた痛みに小さな声を上げた。
 実際たいした傷ではなかったため、適当に傷跡を嘗めて済ませる。
 材料が尽きてしまったことに気づいたメルルは小さな溜息を零し、中身をかき混ぜるために使っていた杖を釜から引き抜いた。

「確かリンの部屋に予備が置いてあるとか言ってたけど……」

 朝食時の会話を思い出しながら地下のアトリエを後にする。
 階段を上り、そのまま二階へと繋がる階段へと移動し、目的の部屋――リンの部屋の前に立って扉を開いた。
 室内は赤い色調を基本とした内装をしており、それがどこまでも凛のイメージと合っている。
 見れば天蓋付きベッドの側にある小さな置物の上に幾つかの宝石や貴金属の類が置いてあった。

「これだね……って、あれは――」

 窓際の壁に沿う形で置かれていたのは古めかしい宝箱のようなものだった。
 どことなく興味を引かれたメルルは一先ず材料の回収を後にして宝箱の元へと近づいていく。
 好奇心から宝箱を空けて中を覗いてみる。どこか不思議な感覚を覚え、これがただの箱ではない事を悟る。

「私の鞄と同じようなモノなのかな……空間の歪みだけじゃないみたいだけど」

 覗き込んで見た限り、箱の中には多くの小物が収納されているようだった。
 だが、それはあくまでも外から見たからこその光景だろう。
 実際は見た目とは異なり、箱の内部は広大な容量を有しているはずだ。空間を圧縮しているためか、手を入れてみると違和感は確信へと変わった。

「――なんだか、色々なモノが入ってるみたいだけど……」

 手探りで中身を探っていくメルルだったが、棒のようなものに手が触れた瞬間、幻聴のようなものが聞こえてきた。

『――おやおや~。どうやら珍しい方がいらっしゃっているみたいですね』
「…………声?」

 周囲を見渡すが誰の姿も見えない。
 もしやと思い、メルルは箱の中へと視線を固定して意識を集中する。

『これまで色々な世界で旅をして(遊んで)きましたが、近似世界とは程遠い異世界からの来訪者さんがいらっしゃるとは思いませんでした』
「――もしかして……コレ?」

 直接頭の中に響くような声を無視して手を箱から引き上げる。
 掌で握っていた杖のようなモノを一緒に取り出す。それを目の前に取り出して――メルルは少しばかり自身の目を疑った。

「ロロナさんに似合いそうな杖――なかなか良いセンスだけど……」

 羽の生えた円形の魔方陣――をコミカルに描いたような外観をした杖を手に、メルルは問いかけるように呟いた。

『あはは~お褒め頂きましてどうもありがとうございます』
「貴女は?」
『申し遅れました。私はカレイドステッキ――魔法使いである主人(糞爺)によって生み出された愉快型魔術礼装に宿る人工天然精霊。どうかルビーと呼んでください』

 杖本体をウネウネと蠢かせ、精一杯の猫なで声を口にしながら悦に入った様子の杖――ルビーを一瞥して溜息を吐いた。

「――とりあえず、元に戻すね」
『そんな無体な!? 早い――決断が早すぎですッ!!』

 メルルの勘が、これは良くないモノだと警鐘を鳴らしている。
 必死に抵抗するように叫ぶルビーに対してメルルは呆れた様子を隠そうとしなかった。

『見た目は少女なのに、そういう所は流石ですね~』
「……そういうのって見ただけでわかるの?」
『私は少し特別製ですので…まあ、重要なのは魂と見た目でしょう。貴女の魂と見た目は非常に良いモノです』

 コレはいいものだ……などと、よく分からない事を口走りながら――ちなみにルビーの声は頭の中に直接響いている――怪しげな気配を隠そうともしない。
 そんなルビーをじっと眺めていたメルルは深く長い溜息を零し、普段は意識すらしない自身のスイッチを切り替えた。

「――それで、あなたはどうしてこの中に?」

 声の響きが違ったからか、ルビーは動きを止めてメルルへと杖の正面を向けた。

『私は元々、凛さんの大師父に当たる魔法使いが作り上げた礼装――まあ、平たく言えば遠坂の家に残された魔法使いの遺産ともいうべき存在なのです』

 あの糞爺は生きてますけどね~……と、そんな補足を入れながら告げるルビーの言葉にメルルは小さく頷いた。

「魔法使いの遺産――それは、リンが作り上げようとしている宝石剣の設計図も同じモノよね」
『その通りです。私の片手間に設計されたものですが、あちらは正しく魔法使いからの宿題として残されたモノです』
「宿題――ああ、なるほど。そういえば名乗ってなかったけど、私はメルルリンス・レーデ・アールズ――この家の家主であるトオサカリンとは協力関係なのよ」

 気配を緩めて自己紹介を口にする。そんなメルルの様子がどう見えたのか、ルビーは全身を震わせていた。

『――見つけました。随分と長い時間が掛かりましたが………』

 呟くような声はそれまでとは異なり、静かに呟くような声音だった。
 まるで、生き別れになった家族や友人と晩年に再会したような――嬉しさと寂しさが同居した声に、メルルは思わずステッキをじっと眺めた。

『まあ、それはそれとして――私は早速凛さんに挨拶をしに(からかいに)行かなければなりません』
「唐突な上に色々と台無しな発言だね。まあいいけど、行かなければならないって……どうやって?」
『あはは~、そこはこの通り――自立行動可能な身として、空を飛んだり空間転移したりは当然の嗜みなのです!』

 告げてメルルの手から離れて宙に浮かび上がったルビーは、一瞬だけ強い光を発した直後――影も形も残さずに消えてしまった。

「……とりあえず、リンの所に向かったみたいだから問題はないよね」

 ――カレイドステッキに宿る天然精霊ルビー。
 よもやこの出会いがルビーとの腐れ縁の始まりになるとは夢にも思わず、メルルは静かに箱を閉じて凛の部屋を後にした。



 ――数時間後。
 
 
 
 戻ってきた凛が色々と奇抜な服装に身を包み、ステッキを片手に工房に怒鳴り込んできたのは余談である。

 

 

Episode 9 -遭遇-



「――はぁ………」
「リンはまだ落ち込んでるの? いいじゃない、別に見られて減るようなモノじゃないし」
「減るわよ!! 主に私の精神力とかッ!!」
「ちょっと魔法少女になって年甲斐もなくトランスしちゃっただけでしょ。似合ってたんだから、いいじゃない」
「あのね、メルル。似合ってるとか似合ってないとか、そんな問題じゃないのよ! アンタには恥辱心とか羞恥心ってもんがないわけ!!」
「う~ん、一応ある……と思う。流石にシロウの前で臆面もなく裸になるのは抵抗ある気がするし」
「…………アンタ、士郎以外の前でなら平気だっていうつもり?」
「別に露出狂の毛なんてないから。あくまでも例えだよ。それよりもリン――本当に、コレを利用するの?」
「もちろんよ。恥なんて最初のアレで吹っ切っちゃったし、こう見えて第二魔法の理論を使って作られた魔術礼装なんだし、利用しない手はないでしょ」
「魔法少女、カレイドルビー見参――だもんね。多元転身(プリズムトランス)だっけ? 並行世界の可能性を検索して投射する……確かにリンの目的にはいい近道なのかな?」
『あはは~。こう見えて、ルビーちゃんは超優秀ですから~。数多ある並行世界の中に存在するカレイドステッキの中でもダントツのトップガンとは正に私の事ですよ?』
「はいはい。それで、その凄いルビーは並行世界を渡ったりとか出来ちゃうわけ?」
『モチのロンですよ、凛さん! 近似世界を行き来するなんて朝めし前! こう見えて色々な世界を行ったり来たりして、分身ちゃんたちをばら撒いた事も――』
「――さらりと凄いことを言ってるけど、まあ確かにそれが本当なら凄い礼装なんだよね。それで、どうしてリンはカレイドステッキを使おうとしないの?」
「そんなのこっちが聞きたいわよ。ちょっとルビー! どういうつもりなのよ!!」
『え~~だって、羞恥心を無くした凛さんなんて面白くないじゃないですか』
「はぁ……面白みだけで変身させられたこっちは堪んないってのよ」
『ですから~どうしても私を使うのでしたら、どうぞマスター登録の変更をお願いします。差し当たり、そこのリアル魔女っ子メルルさんなど如何でしょうか?』
「メルルは魔術回路なんて全く保有してないのよ。それでどうやってアンタと契約するっていうのよ?」
『いえいえ。私ことカレイドステッキオリジンの契約にそのような無粋なものは必要ではないのです。必要なのは、そう――ラブパワー!!!』
「――――――――――はぁ?」
「……ラブ?」
『そうです、ラブです。ライクなどという綺麗で素敵な好意ではなく、打算と欲望渦巻く好意。即ちラブこそが私との契約には必要なのです』
「………おっけー。とりあえずそれはわかった。でも、それじゃどうして最初に私と契約なんて出来たのよ?」
『もちろん、恥ずかしがる凛さんの姿が見たかったからです』
「だ、だめだよリン!! そんなに曲げたらステッキが折れちゃうから!」
「止めないで、メルル!!! この馬鹿ステッキに一度痛い目見せないと気が済まないんだからッ!!!!」
『ともかく、です。私との契約には純正かつ正統派魔女っ子の素質を持つメルルさんが最適なのです! 血液によるマスター認証は既に終わっていますし、後はどうぞステッキを手に取ってください』
「……血液認証って…ああ、そういえば最初に起動した時に実験で怪我して出た血が付いた手で触っちゃったんだっけ。まあ、それは別にいいんだけどね。ところで、ラブってなに?」
『そうやって隠してもルビーちゃんにはお見通しなのですよ。知れば知るほど惹かれていく――ええ、実に正道かつ王道な展開! 様々な障害を知れば知るほど強かに育むその想い。それをどのような手段を用いても叶えようとする心こそラブ!!』
「………あ~なるほどね。確かに、そういうことなら納得だわ。ていうか、別に隠してなくない?」
『いえいえ。凛さんがそう思うのも無理はありませんが、こう見えて彼女は奥手で――』
「――はい、そこまで。ステッキを持ったよ、ルビー。これで一体――――」
『―――インターセプトな契約完了!!! 初めての正規マスターゲットです♪』
「身体は少女(ロリ)! 頭脳は魔女(オトナ)! 狙った獲物は異世界を越えても逃さない♪ マジカル魔女っ子プリンセス、プリズマ☆メルル降・臨!!」
「はぁ……なんていうか、もうどうにでもなれって感じだわ」
「さぁ、いくわよリン! 並行世界だろうが次元世界の彼方だろうが、必ずシロウを見つけ出すんだから!!」
「目的が随分と露骨な上に色々とアレな発言だけど――そうよね。私たちには、立ち止まっている暇なんて一アト秒も存在しないものね」
『――それでは、早速行ってみましょう~。レッツらゴー♪』





・――・――・――・――・――・





 昼を過ぎ、月村邸を後にして翠屋での勤務に入っていた士郎は今日も順調に仕事をこなし、規定の時間を働き終えた。
 勤務時間中にパティシエの桃子と共にケーキやパイなどを試作したため、それをおみやげにしようと箱に詰めて真っ直ぐに図書館へと向かう。
 以前はこの世界の歴史などを調べるためにやってきた図書館だが、今回はそういった個人的な要件ではない。
 歴史や神話、伝記などの本が置かれているコーナーへ歩いていくと、その先に見覚えのある車椅子が見えてきた。
 そこに座る少女が微かに手の届かない棚へと必死に手を伸ばしている姿は危なげで、士郎は小さく息を吐いてから少女の元へと急ぐのだった。

「――ほら、これでよかったか?」

 背後まで忍び足で近づいてから少女の手の先にある本を手に取り、ゆっくりとそれを差し出した。

「どうも、ありがとうございま――って、士郎やん! ありがとな、なかなか届かんで苦労しとったんよ」

 振り返って満面の笑みを浮かべたはやての元気そうな姿に士郎は自然と安堵の息を吐いた。

「それにしても、待ち合わせより早かったんやね?」
「待たせるのもどうかと思ってな、それにしても、西洋の騎士に興味があるのか?」

 差し出した本は聖杯に纏わる騎士王の物語を描いた書物だ。
 はやてはその本を膝の上に置いていたいつもの本と並べて笑みを深めた。

「うん。それにほら、アーサー王とか円卓の騎士とかって、如何にも騎士って感じしてカッコいいと思わん?」

 士郎としては素直に頷き難い問いかけではあったが、それでも"彼女"の事を思い出しながら頷いた。
 闇に染まり、敵となって剣を交えた姿や声、苛烈な剣戟の全ては、今でもハッキリと――。

 ――ありがとう、シロウ。

 彼女の最後の言葉を、今でも覚えていた。
 剣戟の果てに打倒し、契約破りの短剣によって全てから解放された彼女の言葉を覚えている。
 あらゆる苦悩と葛藤を抱えたまま零れた彼女の声。消え去る直前に零した彼女の心からの言葉を、今でも――。

「――士郎? どうかしたん?」

 はやての心配そうな声に士郎は思考を止めて頭を振る。
 過去を思い出しながら呆然としていた自身の姿に士郎は苦笑を零すのだった。

「――いや……なんでもない。折角だから、俺も何か読んでいくとするかな」

 探して直ぐに目に付いたのは北欧の神話を描いた本であり、アルスター伝説についても触れている本だ。
 日本ではマイナーだが、欧州では非常にポピュラーな話であるアルスター伝説。縁のある男を描いた物語でもあるため、士郎にとっては感慨深い物語だった。

「ケルト神話? ちゃんと読んだことないけど、どんな話なん?」
「色々とあるが、代表的なのはアルスター伝説に登場する英雄の話だな。クー・フーリンという名を聞いたことはないか?」
「あーえっと、あれや。槍の達人で、持っとった槍が必ず心臓を貫いたって伝説があるとかいう人や」
「ああ。日本ではあまり有名ではないんだが、本場ではアーサー王よりも有名な大英雄だ」

 事実、日本ではマイナーな部類に入っているのだろう。この図書館に置いてある蔵書の数を見れば一目瞭然である。

「興味あるし、そっちも後で読んでみようかな……」
「時間が幾らあっても足りなくなるぞ。今日はこのまま買い物へ行って夕食を一緒に作るんだろう?」
「そやったね。なら、両方共借りてこうかな…家でゆっくり読んでみよ」
「そういうことならもう幾つか探していくか?」
「うん!」

 そんな会話を交わしながら、士郎は車椅子を押してはやてと二人で館内を散策する。
 嬉しそうに笑うはやてと共に本の内容について語り合いながら、士郎は一時の日常を過ごすのだった。


 -Interlude-


 気分転換のためにとやってきた海に面した公園を歩きながら彼女――フェイト・テスタロッサは溜息を零した。
 本来なら今日という日も順調に街を探索していたはずだというのに、彼女の胸を占めていたのは昨日の醜態に対する自己嫌悪だった。

『――それにしても、なんだったんだろうね。あの男……フェイトを押さえながらこっちの動きを完璧に読んでたしさ』

 隣を歩く赤い狼の姿をした使い魔――アルフからの念話に首を振る。
 それはフェイトも昨日の敗北からずっと頭の中で考えていた事だからだ。
 あの時――アルフが助けにやってきてくれた瞬間にあの少年から感じた刺すような殺気を思い出して背筋が凍るような錯覚を覚えた。
 アルフ曰く、一歩でも動いていたら無事では済まなかっただろう…との事だが、それが正しいということはフェイト自身も肌で感じ取っていた。
 転送魔法を起動する直前に少年の周囲に現われた無数の剣群――あれを打ち出そうとしていたのなら、少年は遠距離にも対応できるということに――。

『――わからないけど…もしあの人がジュエルシードを集めているんだとしたら、凄く大変なことになるかもしれない』

 対峙した瞬間を思い出しながらフェイトは表情を歪めた。
 見たこともない魔力運用と魔法を扱う男だが、本人からは大した魔力を感じなかった。
 だが、それでも全速のフェイトをあっさりと捉えて投げ落とした凄腕――。
 彼の前に戦った少女はフェイトも扱っている系統の魔法を使う魔導師だったが、少年に関しては首を傾げなければならない。
 魔力に依らない独特の戦闘方法を取っていた彼の実力を推し量るには情報が足りず、自分たちとは格の違う相手だという事実だけが突き付けられている形だ。

『……けど、それでもやらないといけない。お母さんのために、ジュエルシードを集めるんだ』

 母であるプレシア・テスタロッサに頼まれ事をしたのはこれが初めてというわけではない。
 フェイトはこれまでも母に頼まれて色々なモノを集めてきた。
 それをしくじった事は一度もなく、もちろん今回も失敗するつもりはない。
 ずっと昔――まだ小さかった頃以来、母であるプレシアは笑顔を見せてくれる事が無くなった。
 だが、それでも頼まれた事をきちんとこなせば笑顔を見せてくれると――幼かった時のように優しい母の笑顔が見られると信じているから――。

『――アタシはフェイトの使い魔だからさ。フェイトがそう決めたなら全力でサポートするよ』
『うん。ありがとう、アルフ』 

 アルフの頭を撫でながら笑みを浮かべる。
 気持ち良さそうに目を細めるアルフを眺めながら、フェイトはそっと息を吐き出した。
 悩みを抱えたまま、迷いを抱え込んだまま戦い抜けるほど今回の状況は簡単ではない。
 だからこそ、あの敗北からずっと胸の奥に沈みこんでいた悩みを吐き出すように、ゆっくりと静かに深呼吸する。
 そうして気分を一新し、今日の夜から探索を再開しようと決意して目を開けた瞬間――アルフの気配が唐突に鋭くなった。

『……アルフ?』
『この匂い……間違いない、昨日のアイツだ!!』

 その言葉を聞いた瞬間、フェイトは全身に電気が走った気がした。
 本来であれば、すぐにでも離脱するべき状況だというのに身体は動かない。
 否、動く気がなかったといったほうがいいのだろう。理性は離脱しろと訴えていたが、本能はそれを拒んでいた。

 ――大丈夫か? 怪我をしないように気をつけたつもりだが……。

 僅かに年上の背格好をした少年――彼と話をしてみたい。そして、彼の事をもっと知りたい。
 あの時の優しい声と表情を思い出しながら、フェイトはそんな事を考えて彼との遭遇を心待ちにしている自身を自覚していた。


 -Interlude out-


 日が暮れる前に図書館を後にし、はやてと共に買い物を済ませた士郎は連れ立って夕暮れの街を散策していた。
 会社帰りの人や学校帰りの学生たちで賑わう街道。多くの人で賑わう商店。子どもたちの声が響く海沿いの公園を流し見ながら歩いていく。

「――こうして歩いてみると、以前は見つけられなかったものが目に入ってくるものだな……」

 以前に街を散策した時には心に余裕がなかったせいもあってか、必要最低限のことしか目に入らなかったのだろう。
 だが、いまようやくこうして日常をまがりなりにも送ることができるようになり、士郎は興味を持って街を眺めることができていた。

「士郎はこの街の出身と違うん?」
「ああ、ここに来る前は海外にいたから少し物珍しくてな」
「そうなんや。あ…せっかくやし、そこの公園に寄ってこ。大きくて綺麗やし、結構な人気スポットなんよ」

 そうして二人でやってきたのは海鳴公園――それなりに大きな敷地を有しており、自然が多くて傍には海も見える。
 見れば園内にはたいやき屋が開店しており、少し奥に行けば釣りスポットまであるという。
 はやての言うように、海鳴市でも特に人気のある場所だというのは士郎にも素直に頷ける……のだが――。

「――どうしてこんなところにいるんだ?」
「――それはこちらの台詞です」

 公園のど真ん中――多くの人が行き交う広場で遭遇した金髪の少女とにらみ合いの形になる。
 つい先程までとは異なり、殺伐とした雰囲気が周囲に広がっていく。見れば、はやても少しだけ戸惑った様子だった。
 理由は単純明白で不可避のものだ。険悪な気配を隠そうともしない赤い狼を引き連れた少女と対峙している限り、この雰囲気は消えはしないだろう。

「いや…こっちは買い物の帰りに寄っただけだが、君らは散歩か何かか?」

 少女は黒い洋服と白いスカートを履いており、傍目には普通の少女にしか見えない。
 連れ歩いている赤い狼もじっとしている分には大きな犬に見える。他人からは犬を散歩している少女としか見えないだろう。

「ええ、まあ…そんなところです。それにしても、アルフがあなたの匂いに気付いた時は本当に驚きました」

 告げながら隣の赤い狼の頭を撫でる。
 先日の戦闘の際に介入してきた獣が少女の使い魔だという勘は正しかったらしい。
 使い魔――アルフという名の狼は殺気こそ出してはいないが、隠しきれないほどの警戒心を視線に乗せて士郎を凝視してくる。

「……わからないな。それなら、どうしてここで待っていたんだ?」
「……それは、貴方に確認したいことがあったからです」

 非常に不本意そうな顔をしながら少女は告げる。
 相当に嫌われている事は基本的に鈍感な士郎にもわかる。邪魔をした上に投げ飛ばした張本人なのだから当然だろう。

「昨日も言った通り、話をするつもりなら応じるつもりだ。"今日"は、それでいいのか?」

 問答無用で戦闘を仕掛けた先日の件を思い出したのか、少女は少しだけバツが悪そうに頷いた。

「しょうがないな。はやて――俺はこの子と少し話があるんだ。少しだけ待っててもらえるか?」
「ええよ。なんや事情があるみたいやし、わたしはたい焼きでも買って食べとくから気にせんでええよ」

 空気が軽くなったせいか、落ちついた調子を取り戻したはやては笑みを浮かべて頷いてくれた。
 膝の上に置いていた買い物袋を士郎に手渡したはやては財布といつもの本だけを持って、たい焼きを売っていると思われる屋台へ向けて車椅子を進ませていった。

「……アルフ。あの子のお手伝いをしてあげて」

 はやてのそんな姿に何を感じたのか…少女はアルフに向けてそんな言葉を掛けた。
 主の言葉に何か思う所があったらしく、アルフは特に反抗的な態度を見せる事なくはやての側へと歩いていった。

「安心してください。無関係な人を巻き込むつもりはありませんから」

 抱いていた僅かな警戒心を感じ取ったのか、少女はそっと笑みを浮かべてそう告げた。
 その言葉に頷きを返した士郎は、はやてと合流して仲良く屋台へ向かうアルフを少女と共に見送った。

「信用させてもらうとしよう。さて、そこのベンチに座って話をするとしようか」
「……はい」

 二人並んでベンチへと腰掛ける。
 はやてとアルフのいる屋台から広間を挟んで丁度反対側に位置する木目調のベンチだ。

「先日の質問をもう一度します。あなたは何者ですか?」
「衛宮士郎――この街に住む一市民だよ。少し特殊な力が使えるだけの、な」
「……あなたの使っていた魔法は私やあの女の子が使っていた"ミッドチルダ式"魔法とは根本的に違うものでした。ですが、貴方が魔力運用を行なっていた事に変わりはありません」

 だから誤魔化すな、と――真っ直ぐな瞳で射抜いてくる少女に対して士郎はゆっくりと首を横に振った。

「俺の魔術は特殊で、あまり吹聴するような類のモノじゃないんだけどな。まあ、この世界でずっと昔からひっそりと伝わってきた独自の魔力運用だと思ってくれると助かる」
「この世界でずっと昔から伝わってきた独自の魔力運用…それが、貴方の言う"魔術"なんですか?」
「ああ」

 簡単な返答にありったけの真実を込める。
 それをどう受け止めたのか、少女は一度だけ目を閉じてから真っ直ぐに視線を向けてきた。

「……では、あなたがジュエルシードを集めている理由は?」
「別に俺が集めているわけじゃない。あの場にいたのは偶然に近いんだが…まあ強いて目的を挙げるなら、平穏な日常を守るためだ。あの魔力結晶体が騒ぎを起こす因子であるなら排除したほうがいいとは思っている」

 告げると少女は唖然とした表情を浮かべた。
 そこまで意外な理由ではないと士郎自身は思っていたのだが、どうやらそうでもないらしい。

「……それだけの理由で、あなたは危険に首を突っ込んでいるんですか?」
「君にとっては確かに『それだけ』の事かもしれないな。だが、戦う理由なんて人それぞれだろう? 俺にとっては十分な理由だよ」

 かつて望んでも手に入らなかった平穏な日常――それが、どれだけ貴重で尊いモノであるかは身を持って知っていた。
 人の闇を見て、人の業を知り、人の欲望が引き起こす争いに士郎はこれまで何度も身を投じてきた。
 繰り返されるそれらは、かつて理想に裏切られた果てに絶望した男の記憶を呼び起こすには十分過ぎるものだった。
 それでも――ソレは人が人としての営みを送っていくには不可欠なモノである事を、士郎は長い生の中で実感していた。
 故に――平穏な日常も決して無為なものではなく、貴重で尊いものだと素直に感じられるのだ。

「わかりません……あなたの行動理由はあまりにもリスクに見合っていないのに」

 納得できないのか…少女は視線を俯かせ、沈痛な表情を浮かべていた。

「まあ、気にする必要はないさ。ところで、俺からも質問があるんだが…いいか?」
「……なんでしょうか」

 再び視線を上げて身構える少女の姿を視界に収めたまま、士郎は無駄と断じられる可能性の高い質問を脳裏に浮かべた。

「こちらの目的を聞いてきた君に対して正直に答えたんだ。できればそちらの目的も答えてもらえないか?」
「あなたに言う必要はありません」

 にべもない返答が返ってくる。予想通りと言えばそれまでだが、余りにも余裕がない返答だった。

「なら、違う質問だ。俺たちは今…こうして対峙しているわけだが、本当に戦わなくて――いや、俺を排除しようとしなくてよかったのか?」

 この場になのはやユーノはおらず、人質としても使えるはやては少女の使い魔であるアルフと一緒にいる。
 目的を邪魔する者を倒す絶好の好機だと少女が考えていても不思議ではない……はずだが、少女はそれらを否定するように小さく頭を横に振った。

「……先に言った通りです。無関係な人を巻き込むつもりはありません。それに、そんな事をすれば貴方は一切の遠慮無く私たちを排除するでしょうから」

 確信を込めて告げる少女の声は真摯なものだった。
 確かにそのような手を使ってくるのなら、士郎は少女たちに対して遠慮するつもりはなかった。
 戦闘などという迂遠な行為を行う必要など無い。
 魔導師がどれだけの防御を行えるのかは把握していないが、士郎の手札には確実に相手を仕留めるためのモノがあるのだから――。 

「本気になったあなたと戦うのは凄く危険だということもありますけど、わたしは無闇に人を傷つけたくないんです……もちろんジュエルシードの回収を邪魔するのなら話は別ですけど」

 まだ顔を合わせて殆ど時間など過ぎていないというのに、それでも士郎の気質をある程度把握しているらしい。
 ジュエルシードを封印して回収するのは絶対だが、その時以外は人を傷つけたくないと少女は告げる。
 それを甘いと断じることは簡単だったが、士郎はそうした考えが嫌いではなかった。

「不器用に動くものだな」
「……それでもです。ですが、ジュエルシードに関しては諦めませんから」
「ああ、わかった。だが、君のそういうところには好感が持てる。君はいい子なんだな」
「なッ!?」

 何故か顔を赤らめた少女は、どこか焦った様子で手をぱたぱたと振り回していた。
 その様子はこれまでの印象とは大きく異なり、なのはたちと同じ年頃の少女なのだと納得させるだけの可憐さを感じさせた。

「と、とにかく! こ、今度会ったときは負けませんから!」
「ああ。けど、今度は俺、手を出さないぞ。もし次があるなら、その時に君と戦うのは俺の前に君が戦っていたあの少女だ」

 その言葉に先日の戦闘を思い出したらしい少女は冷静な表情を取り戻し、伺うような視線と共に問いかけてくる。

「……あの娘では私には勝てませんよ?」
「今は…そうだろうな。だが、これは彼女が言い出した事で、次回から俺は基本的にサポートに回るつもりだ。君が彼女の命を奪おうとしたり、回復不能の重傷を負わせようとしない限り手を出すつもりはない」

 少女がジュエルシードを手にするためにはなのはを倒せばいい。
 それを知って、少女は明らかに安心した様子を見せた。

「そういえば最後にもうひとつ。君の名前を教えてくれないか? 折角こうして知り合ったんだ。名前ぐらい教えてくれてもいいだろう?」
「……フェイト。フェイト・テスタロッサです」
「フェイト、か。ああ……その響きはとても君らしくて似合っているな」

 座ったままの少女――フェイトを横目に立ち上がった士郎はそのまま、彼女の正面に立って頭を撫でる。
 撫でた手を払いのけられることも考えていたが、フェイトは顔を赤くしながら何かを懐かしむような表情を浮かべていた。

「つ、次に会うときは、戦いの場です。私は負けませんから」

 しばらく撫でられたままのフェイトが我に返ったようにそう告げる。
 そんな彼女に対して士郎は柔らかな笑みを浮かべたまま手を離し、少女に応えた。

「伝えておこう。またな、フェイト」

 互いに軽く頭を下げて別れの挨拶を交わす。
 そうして、タイミングを見計らったように戻ってきたアルフ、はやての二人と合流した。
 フェイトがアルフと共に背を向けて歩き去っていく姿を見送った士郎は、すぐ隣から感じる少しだけ窺うような視線を横っ面に張り付けたまま小さな息を零した。

「――随分仲良うなったみたいやね」

 どこか伺うような声に小さく頷く。
 士郎は声の主であるはやてへと視線を合わせて、できるだけ誠意を込めて口を開いた。

「互いの事が少しでも知れたから警戒を緩めてくれたんだろう。名前を聞くことも出来たしな」
「あ~なるほどな。互いの名前も知らん仲やったんか……。なあ、士郎。もしかして、あの子の名前を聞いて似合ってるとか…そんなこと言うた?」
「よくわかったな。もしかして聞こえていたのか?」

 尋ね返した士郎の言葉に返答はなく、はやてはそのまま黙り込んでしまった。

「……なるほど。士郎はあれやね……いわゆる"おんなたらしさん"なんやな」

 小さな声で呟かれたはやての言葉は風の音に遮られ、士郎の耳でもはっきりと判別することは出来なかった。
 ただその日――はやての家に戻るまでの間、彼女から向けられた伺うような視線が刺さるように鋭かったのは決して士郎の気のせいではなかった。


 

 

Episode 10 -高町家 前編-



 午後から出勤予定になっているその日の早朝に士郎は波止場で一人佇んでいた。
 もちろん海を眺めて感傷に浸っているわけではないし、波の音を聞きたくなったわけでもない。

「――フィッシュ。今日は調子がいいようだな」

 目的は魚釣り――もとい食料調達である。
 現在の釣果はクロダイが三匹……食べる分には申し分ない大きさだった。

「それにしても、我ながら無計画過ぎたか。はやては喜んでくれたし、最低限の生活費は確保しているから問題は――っと、フィッシュだ」

 アルバイト代が入るまでの最低限の生活費は忍に融通してもらっているし、昨日の体験執事に対しても給金として追加の生活費を渡されている。
 彼女から依頼される仕事を引き受ける事を前提とした前借りではあるが、無駄にそれを使う気にもなれず最低限の生活水準を保っているのだが――。
 昨日の夕食の材料をはやてと共に買った際に当面の食費を使ったため、士郎は趣味と実益を兼ねた魚釣りに出かけてきたのだった。

「フィッシュ――今日は大漁だな」
「――随分と釣れているみたいね」
「ええ、貴重な食料源ですから、気合を入れて釣るのはとうぜ………えっ?」

 思わず情けない声を上げて振り返る。
 見た目通りの少年口調で返答を返せたことは奇跡だったが、気配に気づかないほど熱中していた事に僅かながら恥じ入る。
 見上げながら向けた視線の先――士郎が振り返ったそこには見覚えのある人物が立っていた。

「なるほど、これが今日のご飯なのね」
「……桃子さん」

 なのはや恭也の母にして喫茶店翠屋のパティシエ兼経理担当を勤める女性――高町桃子。
 なのはの姉といっても通用する容姿をしている彼女は、休日の朝から釣りをしているバイト少年の後ろで楽しそうな笑みを浮かべていた。

「――どうして、ここに?」

 笑顔を浮かべたままの桃子を眺めながら尋ねるが、その表情から彼女の真意は掴めなかった。
 そもそも、彼女は今の時間帯には翠屋で働いているはずだ。
 娘の友人とはいえ、アルバイトとして雇っているだけの他人に過ぎない男を探して此所まで訪ねてくる理由が士郎にはわからなかった。

「ここに凄く釣りの上手な男の子がいるって聞いたの。どんな子なんだろうなって思ってね」

 少しだけイタズラめいた笑みを浮かべてそんな事を口にする。
 大方、なのはか恭也辺りが発信源だろうと理解した士郎は苦笑しながら視線を海へと戻した。

「ただの趣味ですよ。こうして海と向かい合っていると落ち着くので……」

 遠慮がちな言葉は珍しいという自覚が士郎にはあった。
 精神は肉体に引かれていく――とはいえ、これでは子供そのものだと苦笑する。

「寂しい気持ちになることもあるけど、やっぱり安心するものね。私も昔はよく海岸で海を眺めてたな」

 言葉とは裏腹に桃子は笑みを浮かべたままで告げる。
 まるで自身には、その理由がもうないのだというように――。
 そこで言葉は途切れ、二人並んで波の音を響かせる海を眺め続ける。
 互いに言葉を口にすることはなく、ただゆったりとした雰囲気だけが辺りを包みこんでいた。

「……それで、何か用件が?」

 その状況の中で先に根を上げた士郎は問いかけを口にした。
 このまま続けていたら何時まで経っても話が進まなかったという確信があったからだ。
 諦めの溜息を零しながら観念した様子で肩を竦める。
 そんな士郎の姿がどう映ったのか――桃子は待っていたとばかりに笑みを深めて一歩前へと歩み出た。

「少し…士郎くんとお話がしてみたくてね。恭也と忍ちゃんからは色々と聞いているんだけど、又聞きで済ませるのは少し違うかなって思って。ちゃんと、直接話してみようと思ったの」

 優しい眼差しはどこまでも真摯で、気まぐれでここへやってきたという可能性を完全に否定する。
 恭也と忍から話を聞いたと桃子は告げた。
 ならば彼女は、衛宮士郎という男が普通の子供ではないと知っているということだ。

「個人的に話がある…と?」

 繕っていた仮面を外して問いかける。
 そんな士郎の姿を見て、彼女は笑みを深めて頷いた。
 対して、士郎は僅かに気配を引き締める。
 そんな士郎の気配が伝わったのか、桃子は小さく息を吐いてから話を始めた。

「――もうずっと前なんだけどね。士郎さん――夫が大怪我をしてしまった時があったの」

 これまでとは違う沈んだ声が士郎の耳に届いた。
 見れば、桃子はそれまで浮かべていた笑みを消して悲しげな視線を海へと向けていた。

「みんな家を空けることが多くなってね。なのはだけを、ずっと一人で家に残していた時期があったの」

 語られたのは過去の高町家の姿だった。
 家族が家族として機能していなかった一時期の話――それは桃子にとって、決して忘れる事の出来ない過去の一幕。
 桃子の夫である高町士郎が生死の境を彷徨うほどの大怪我を負った時、桃子や恭也、美由希はそれぞれに出来る事をこなして家族という名の絆を支えていた。
 まだ幼く物心がついたばかりのなのはの存在は桃子たちの励みになっていたのだろう。だが、それを当のなのは本人が"どう思っていたのか"は別の話だ。
 幼い娘に寂しい思いをさせてしまったという過去の事実――。
 それでもなのはは桃子たちに対して寂しいとは決して口にはせず、傍目には聞き分けの良い娘として振舞っていたらしい。
 幼い子供がそんな環境で過ごしてどのような感情を抱いたのかは想像に難くない。
 その頃の影響からか、なのはは今でも家族の皆に対してどこか遠慮した様子を見せる事が少なくないのだというが――。

「でも、あの子はずっと笑ってくれていたの。寂しそうにしている時があるのに、それを必死に隠して……」

 それは普段の桃子であれば決して洩らさないだろう後悔の滲んだ言葉だった。

「でも、何日か前からあの子がよく笑うようになったの。本当に……とても嬉しそうに笑うのよ。貴方のことを話しながらね」

 確信に満ちた言葉が向けられる。
 ふと、士郎は以前に見たなのはの姿を思い出した。
 寂しさと悔しさを吐き出すように叫んでいた彼女の姿を――。

「アリサちゃんやすずかちゃんもだけど、なのはにとって貴方はとても大切な友達なのね。貴方のことを話す時はとても子供らしい笑顔を浮かべてくれるのよ」

 慈愛を感じさせる表情を浮かべたまま語る桃子から士郎は視線が離せなかった。
 子を想う親の真摯な姿――それを瞬きすら忘れたようにじっと眺めながら、ただ彼女の言葉に耳を傾ける。

「だからね、あの子の母親として、あの子に笑顔をくれた大切なお友達にお礼を言いたかったの。私には、それくらいのことしかできないから」
「……そんなことはない。貴女のおかげで今の翠屋が――高町家があるのは疑いようのない事実だろう」 
「……ありがとう。でも、子供たちに辛い思いをさせてしまったことは確かだから。子供たちにはその分だけ喜んで、笑ってもらいたいの」

 ――大切な人に笑っていてほしい。
 悲しみを宿した目を向けたまま優しく語る人を前にして、士郎はそっと目を閉じてから頭を振った。
 大切な人に心からの笑みを浮かべてもらいたい――それは士郎自身もいつか夢見たことだったからだ。
 そしてそれが――そのささやかで小さな想いが決して容易い願いではない事は身を持って知っているから――。

「――俺も、なのはたちには笑っていてほしいと思う……だから――」

 それ以上は口には出さずに視線に力を込める。
 それを桃子がどう受け取ったのかは士郎にはわからなかったが、彼女はただ優しく微笑んでいた。

「ありがとう、士郎くん」
「礼を言われるようなことではないが、一応受け取っておこう。興味深い話を聞かせてもらった礼はいつか必ず――」

 告げて軽く頭を下げると、彼女も同じように頭を下げた。
 見た目十四、五歳の男と大人の女性が互いに頭を下げているのだから、周囲から見れば不思議な光景に見えるだろう。
 ――それでも、何かが通じ合えた実感が確かにあった。
 久しく感じたことのなかったその感覚に、士郎は遠い過去を思い出して懐かしさに身を震わせる。
 胸を満たすその感情は遠い昔……摩耗した過去の記憶の中で感じた事のあった温かなモノだった。

「そういえば、その釣ったお魚はどうするの?」
「炭火焼きにして食べようかと。調味料を買い揃える余裕はないし、塩くらいなら……」

 そこまで口にして、士郎は咄嗟に口を噤んだ。
 すぐ目の前――自身の正面に立つ桃子から喩えようのない怒気を感じたからだ。

「――士郎くん」
「な、なんだ……ろうか?」

 思わず直立して答えた士郎だったが、笑みを浮かべながら怒気を発する女性を前に平静でいられるほど鈍感ではないつもりだった。

「士郎さんと混同するといけないからシロくん…でいいかしら。せっかくのお魚だし、よかったら今日のお仕事が終わった後、うちの家で一緒に料理してみる気はないかしら?」
「――了解した」

 脊髄反射だった。シークタイムゼロセコンドだった。
 その反応に桃子も満足した様子で、暗澹としていた雰囲気が和らぎを見せる。
 ――同時に士郎は、決して怒らせてはいけない人として桃子を正式に認定する事となった。


 -Interlude-


 休日の朝に彼女――アリサ・バニングスは一人で街をぶらついていた。
 午後にはすずかと合流してから用事を済ませ、日が暮れる前にはなのはの家に向かう予定だ。
 この後の予定を脳裏に浮かべながら、アリサは不意に見知った姿を見つけて思わず姿を隠してしまった。
 視線の先で釣竿やクーラーボックスを抱えて歩く男――衛宮士郎はアリサに気づいた様子もなく、そのまま歩いて街中から離れていった。

「……そういえば、結局連絡先も住所も何も聞けなかったのよね」

 本来であれば別に気にするようなことではないし、知り合いがどこで何をしていても関わりのないことだと思うだけだ。
 けれど、ひょんなことから知り合った年上の少年――色々と謎めいていて、大人びている彼に興味がないかと言われれば嘘になる。

「……まだ時間はあるし、大丈夫よね」

 そんな言い訳じみた言葉を口にしながら一定の距離を保って後をつける。
 段々と人気のない場所へと向かう彼の行き先には鬱蒼とした木々が生い茂る森林地帯があるだけだ。
 そうして、歩き続けてから三十分ほどして目的地に到着する。
 木々に囲まれた人気のない森の中にひっそりと佇む小屋――それが彼の入っていった建物だった。

「ここがあの人の家……って、これじゃどうみたって……」

 それは、どう贔屓目に見ても家というよりも小屋というのが相応しい木造の建築物だった。
 確かに見た目は綺麗にされているし、見た目以上にしっかりとした造りをしているのかもしれない。
 けれど、こんな住宅地や街中から離れた森の只中で一家族が暮らす家としては、あまりにも殺風景で頼りなかった。

「……でも、ここが家だって決まったわけじゃないし――」
「――いや、ここが俺の家だぞ」

 唐突に背後から聞こえてきた声にアリサは心臓が飛び出しそうになるほど驚いて――動きを停止した。
 一呼吸ほど時間を置いて、どうにか平静を装う事に成功したアリサが振り返ると、そこには仕方なさそうに笑う士郎の姿があった。

「声も掛けずについてくるからどうしたのかと思っていたが、もしかして俺の家が見たかったのか?」

 言葉を返すにはまだ落ち着きが足りないと判断してアリサは首を縦に振る。
 そんなアリサの様子をどう受け取ったのか、士郎は少しだけ考えるような素振りを見せた。

「特に見せるようなものはないと思うが…よかったら上がっていくか? 紅茶位ならご馳走してやれるぞ」
「……じゃあ、お邪魔させてもらいます」

 どうにか絞り出した声で同意を返し、それならと家の中に入っていく士郎の背に続いて中に入る。
 扉を潜った先には、外から見た印象そのままの古めかしい部屋があった。
 玄関正面の奥に裏口がある事を確認し、さっきはあそこから出てきて後ろに回り込んだのだろうと理解する。

「とりあえず、座って待っててくれ」

 告げて士郎は奥の部屋へと歩いていく。広い部屋ではないけど、客間と台所はちゃんとあるらしい。
 部屋の中央に置いてある丸テーブルの側に置いてある座布団へ腰を下ろしたアリサは室内を見渡した。
 ぱっと見た限りでは、私室への入り口らしきものは見当たらないが――。

「……客間に仕事着とか専門書みたいな本が置いてあるってことはないわよね」

 部屋の片隅に置いてある士郎の私物類などを見て、アリサが抱いていたある種の予感が確信へと近づいていく。

「別に物珍しいものなんて置いてないぞ」

 戻ってきた士郎はそんな言葉を口にしながら机の上にカップなどをセットしていく。

「すずかの家で貰ったアッサムを淹れてみたから、好みでミルクを入れてくれ」
「あ、ありがとうございます……っていうか、何も置いてない部屋の方が珍しいんですけど……」

 士郎の淹れてくれた紅茶にミルクを少しだけ淹れて口に含む。
 香りと味が濃い紅茶だったので、アリサはミルクをたっぷりと淹れて味わせてもらった。

「あの、もしかして一人暮らしをしてるんですか?」
「ああ、身内はいないからそういうことになるな」

 聞けば特に気負った様子もなく天涯孤独だと士郎は告げる。
 それを、アリサはそういうこともあるのだろうと自然に受け止めた。

「でも、なんでこんな辺鄙なところに……って、べ…別にここに文句があるとかそんなんじゃなくてですね、忍さんが後見人をしてるって言ってたから、ちょっと意外だっただけなんですけど…」
「少し事情があってな。まあ、意外と暮らしてみれば快適だぞ。ずっとここに暮らすつもりはないが、忍の援助のおかげで電気も水道も使えるようにしてあるしな」
「住んでる士郎さんが不便してないならいいんですけど……。ところで、ここって士郎さんの部屋ってわけじゃないですよね?」

 少しだけ希望を込めてそんな言葉を口にする。
 そんなアリサの微妙な心情を知ってか知らずか、士郎は苦笑いを零した。

「残念ながら、ここが俺の部屋だ。生憎、客間を用意できるほどの広さはなくてな。水回りと部屋を分けるだけで精一杯だったんだ」
「なんか、真面目に受け取ると色々疑問の浮かぶ答えですけど、まあいいです」

 告げてアリサはティーカップを置いて一息つく。
 ちらりと腕時計を見れば既に正午手前――すずかとの待ち合わせ時間まで二十分といったところだった。

「ごちそうさま。紅茶、とても美味しかったです」
「お気に召してくれてなによりだ。もういくのか?」
「ええ。この後、すずかと会う約束してますし、ここまで来たのはちょっとした好奇心でしたから」

 努めて丁寧にそんな言葉を口にしながら室内を改めて見渡した。
 この家の周辺は何故か携帯電話の電波が届かないらしく、通信が出来ない状態になっているため家の電話を借りようと思ったのだが――。

「ねえ、士郎さん。この家…電話機が見当たらないんですけど?」
「固定電話なら設置していないぞ。電気と水道が使えるようになったのもつい最近だし、そこまで必要に迫られていなかったから後回しにしてる」

 電話がどこの家にでもあるものだ…という思い込み――。
 それを見事に打ち砕いてくれた士郎の言葉にアリサは驚きを隠さずに振り返った。

「じゃ、じゃあタクシーとか呼べないってことですか? ここ、どういうわけか携帯電話も使えないし……」
「電波が悪いのは初耳だが……携帯電話も持っていないしな。とりあえず、歩いてきたんだから同じように歩いて戻ればいいんじゃないか?」
「そうなんですけど……それだと待ち合わせに間に合わないっていうか――あぁ…私の馬鹿。後先考えないにも限度ってものがあるでしょ……」

 携帯電話の電波が入っていた辺りまで歩いていくしかないのは考えるまでもない。
 アリサの足で急いで歩いて五、六分の距離だ。電波が入り次第タクシーを呼び、待機時間ですずかへと連絡――そんな段取りを瞬時に脳裏に浮かべる。

「ふむ…事情は分かった。要するに、アリサは急いでるんだな」
「まあ、そうですけど……。とりあえず歩いて電波の入るところまで行って、それから色々連絡することに――」
「――少しだけ我慢してくれれば、俺が送ってやるぞ」
「―――――――は?」

 それは一体どういうことなのか、と士郎へ問い正す。
 すると、至極シンプルな回答――提案がアリサの耳に届いた。
 提案は士郎がアリサを背負って全速力で走って帰るというモノで、とても代案になるようなものではないと声を上げたのだが――。

「……士郎さんって、昨日も思ったけど大概変な人ですよね」

 一分後――士郎の背中に負ぶさった状態のアリサは呆れた様子を隠そうともせずに告げた。

「自覚はしてる。それより、無理に敬語なんて使わなくてもいいんだぞ。昨日みたいに普通に話してくれると嬉しいんだけどな」
「き、昨日は調子に乗りすぎたっていうか……それで反省して今日はちゃんとしようって思って……たんだけど、やっぱり無理してるように見えた…かな?」
「まあ…そうだな。俺としては礼儀正しいアリサも似合っていていいと思うけど、自然体のアリサのほうが友人として接している感じがして好ましい」

 その気負いのない自然な言葉を耳にして、アリサは驚きを隠せなかった。
 士郎が自身を友人として見てくれているということに――ではない。
 士郎の言葉に対して疑問すら挟まずに内心で納得していた自身に――士郎を既に親しい友人として捉えていた事にアリサは我が事ながら驚いてしまった。

「………一歩間違えると危ない台詞だけど、そうね――確かに変に遠慮するなんて私の主義じゃないかな」
「そうだな。アリサはアリサらしくすればいいと思う…と、もう少し速度を上げるからしっかり掴まっててくれ」

 揺れる景色を眺めながら、アリサは返事を返す代わりにしっかりと士郎の背中にしがみ付いた。
 同級生や年上の知り合いとも違う不思議な印象を持っている士郎に対して、アリサは強い信頼感を抱いている自身に気づいていた。

「ねえ、士郎さん――」
「なんだ?」

 背中から声を掛けると、士郎は走りながら平常と同じ声で返事を返してきた。
 そんな彼を背中から眺めながら、アリサは自身の表情が笑みを刻んでいる事を自覚する。

「今度、家に招待して美味しいコーヒ―をご馳走してあげるから、楽しみにしてて」

 そうして口から出たのは素直な言葉――飾り気も何もない、純粋な感謝の言葉だった。

「それは……いいな。ああ、楽しみにしてるよ」

 ――色々と変な人だけど、悪い人じゃない。
 目上のはずなのに、そんな事実さえ遠ざけてしまう士郎の独特な人柄にアリサはそっと笑みを零した。
 面倒見が良くてしっかりしていて、まるで頼りになる兄のように感じられる彼の背中は、その見た目よりも大きく逞しく感じられた。


 -Interlude-


 すずかやアリサが家に訪れてから一時間が過ぎた頃――。
 自室でユーノを交えて遊んでいたなのはがリビングに降りると、そこには意外な人物の姿があった。

「あれって士郎さんじゃない?」
「うん、士郎さんだね」
『士郎だね』

 アリサとすずかの声がなのはの耳に届く中、ユーノの念話までが脳裏に響いた。
 リビングで寛いでいた父の士郎は料理の味見をして舌鼓を鳴らし、兄である恭也はお腹を鳴らし、姉の美由希は驚きに目を見開いている。
 アリサはどこか諦めたような目を、すずかは熱の籠った視線を向けていた。
 ユーノは素直に感心しているらしく、すずかと共にやってきていた忍も同じように感心した様子でソレを眺めていた。
 そして彼女――高町なのはは料理そのものよりも、台所で夕食を用意している母の桃子と一緒に調理を担当している見知った少年の姿がこの家の中にあること"そのもの"に驚いていた。

「ど、どうして士郎くんがウチにいるのっ!?」
「いや、桃子さんが晩御飯を一緒に作ろうと誘ってくれたからだが?」

 ようやく吐き出した言葉に対し、何を当たり前のことを…といった様子で士郎は答えた。
 そんな彼は私服の上からエプロンを装備した状態で、今も台所を所狭しと動き回っている。

「シロくん、お皿に添え野菜をお願いしていいかしら?」
「もう用意してあります。ソースは完成していますが、オーブンの余熱はどうでしょうか?」
「準備出来てるわ。こっちも充分火が通ったからバターを取ってもらえるかしら?」
「どうぞ」

 阿吽の呼吸というのはこういうものなのだと納得せざるを得ない見事なコンビネーションだった。
 長く高町家の台所を一手に引き受けてきた母と同じレベルで調理を行う十五歳の男の子というのは如何なモノだろうか――。

「……今度、お母さんに料理を教えてもらわなくちゃね」

 ふふふ…と、どこか不気味な笑い声を零しながら呟く美由希だが、その気持ちはなのはにも理解できた。
 昨日の月村邸で、アリサが彼のことを天然の自尊心破壊屋(プライドクラッシャー)だと零していた事を思い出す。
 確かに、彼ほど無自覚に女のプライドをへし折っては破壊する男はそうそういないだろう。なにより、意図してならともかく天然だというのだから殊更性質が悪い。

「――さて、それじゃいただこうか」

 完成した料理を前に高町家の大黒柱である父、士郎が席を一望してからそんな掛け声を口にした。
 いつものテーブルだけでは席が足りないため、急遽用意した小さなテーブルを並べることで食卓の面積を広げている。
 それでも足りないほど所狭しとテーブルを埋め尽くす様々な料理は、魚介中心でどれも美味しそうなものばかりだった。

「では――いただきます」
『――いただきます』

 掛け声に続けて全員が声を上げる。
 そうして、いつもとは少しだけ違う高町家主催の賑やかな夕食会が始まった。

「――それにしても、お前が母さんと料理をしているのを見つけた時は本当に驚いたぞ。菓子が作れるとは聞いていたが……」
「趣味のようなものだが、まあ料理が出来て困ることはないだろう? 結婚する前にその辺りをもう少し考えておいたほうがいいと思うぞ」

 恭也の言葉に淡々と答える士郎の言葉にはどこか言い含めるような響きがあった。
 そのせいか、恭也は士郎から返ってきたその返答に息を詰まらせていた。

「……別に俺は家事なんて出来なくても――」
「――忍さんは家事全般得意だから恭ちゃんは困らないよね」
「まあな――って、何を言わせるんだ美由希! か、からかうんじゃない!!」

 騒がしく言いあう恭也と美由希を眺めながらにやりと笑う士郎と忍。
 そんな一幕を正面に見据えながら、なのははアリサやすずかと同時に小さく溜息を零した。

「……士郎くん、お兄ちゃんと仲がいいんだ」
「……恭也さんって意外とテレ屋さんよね。だからいつも美由希さんにからかわれているのか…」
「……お姉ちゃん、なんだか士郎さんと凄く仲が良さそうに見えるのは気のせいじゃないよね?」

 三人の呟きが聞こえたのか、士郎は視線をなのはたちの方へ向け――少しだけ黙考してから首を傾げていた。

「そういえば、ユーノはどうしたんだ?」
「ユーノくんならお部屋で寝てるよ。昨日の夜からずっと起きてたみたいだし、さっきまでアリサちゃんやすずかちゃんと遊んでたから」

 素直に言うことを聞くことからすずかとアリサに気に入られ、代わる代わる可愛がられていたユーノ。
 相当気を使っていたはずだが、ユーノは大丈夫だと告げて二人とずっと遊んでくれたのだ。 

「相変わらずイタチらしくないやつだが…まあ、そういうことなら後で何か食べるものを用意してやらないとな」
「それは喜ぶと思うんだけど………ユーノくんは多分フェレットだと思うよ?」

 なのはが苦笑しながら告げるが、当の士郎は既にどんな食べ物を作ろうかと悩んでいる様子だった。
 そんな士郎を眺めながら、なのははいつもより美味しく感じられる食事に手をつけていく。

「なあ、桃子。あの話だけど……」
「ええ、忍ちゃんにも相談してみたんだけど……」
「特に問題はないと思います。後は当人が……」

 並んで座っていた両親と忍の三人が何やら主語のない会話をしながら、その視線を士郎へと向けている事に気付く。
 士郎に関しての何かを相談しているようだったが、それがどんな内容なのかはわからなかった。
 そうして視線を戻したなのはの目には、いつもよりも賑やかな団欒の中で士郎の表情が寂しそうに歪んでいるように見えた。
 彼にはこの団欒がどう見えているのか――そして、どんな事を考えているのか……。
 なのははアリサやすずかとの会話を続けながら、そんな事を考えつつ食事を続けるのだった。


 

 

Episode 11 -高町家 後編-

 食後――恭也に誘われて食後の鍛錬に付き合う事になった士郎は高町家の敷地内にある道場に足を運んだ。
 鍛錬は軽く身体を動かすだけだったが、久しぶりに道場で身体を動かすことが出来た事に士郎は満足していた。

「――それにしても、以前にお前の戦闘を見た時にも思ったが、随分と変わった体術を使うんだな」

 側に立っていた恭也からの問いかけは打ち出される拳と共に士郎へと向けられる。
 不意打ちというよりは、軽い組み手の開始を告げるような一撃――。
 攻撃の気配を廃した裏拳――それを士郎は片手の掌で受け止めてみせた。

「特に決まった流派を学んだ覚えはないからな。我流と言えば聞こえはいいだろうが…俺のソレは生存スキルの一つだぞ」

 受け止めた拳をそのままに空いた手で反撃の拳を繰り出すが、それは恭也の手によって阻まれる。
 互いの攻撃を受け止めた状態で膠着となったため、士郎と恭也は視線を交わしてから構えを解いた。

「……なるほどな。自己流を名乗るにしては防戦に長けている理由はそういう事か……」
「ああ――命を粗末にすることだけは出来なかったから…な」

 命の価値の是非ではなく、ただ誓った想いのために――。
 そのためにも簡単に道を降りる訳にはいかなかった。精一杯生き抜いた彼女に対して少しでも胸を張れるように――と。

「――大切な人のため……か?」
「……いや、そんな大層なモノじゃない。ただ……そうだな、意地を張り続けていたんだろうな」

 見て見ぬふりも出来ず、さりとて確固たる目的を果たすためでもなく、ただ犠牲となる無辜の人々のために力を振るった。
 そこに大義や理想はなく、誓いを胸に戦い続けたのは意地を張り通すためだった。
 その過程でどれだけの人を救い、どれだけの人の命を奪ったのかは士郎本人にも正確にはわからなかったが――。

「……不思議だな。お前は俺よりも年下のはずなのに、こうして話していると年長者と話しているような気になる」
「さて、或いは見た目よりも長く生きているかもしれないし、ただ生意気なだけの子供かもしれないぞ?」

 少しばかりからかうように告げる士郎だったが、恭也や忍に対して隠し事をするつもりはなかった。
 彼らなら士郎の事情を全て知ったとしても変わらずにいてくれるという確信があったからだ。

「まあ、そんな事もあるかもしれないな。世界は広い――想像も出来ないような事が幾らあっても不思議じゃない」
「良い心がけだと思う。ところで、そろそろ上がるか?」
「ああ。おかげでいい鍛錬になった」

 互いに言葉少なく頷き合い、二人肩を並べて道場を後にする。
 鍛錬で流した汗を落とすために風呂を借りる事になった士郎は恭也に先んじて高町家の湯を貰うことに――。
 遠慮せずに使ってくれという桃子の言葉に従い、士郎は感謝しながら汗を流した。
 だが、それこそが彼女たちの罠だと悟ったのは、風呂に入る前に着ていた服が寝間着と入れ替わっているのを確認した瞬間だった。

「――これは……?」
「シロくんの服、随分と汚れていたようだから洗濯させてもらったの。その服、サイズは大丈夫だった?」

 リビングで子供たち以外のメンバーとのんびりお茶を飲んでいた桃子へと質問を投げ掛ける。
 彼女は士郎が戸惑った反応を見せることを予測していたのだろう。笑みを浮かべたまま、当然のように軽く流されてしまった。

「乾燥機に入れて乾かしておくから安心して。ただ、もう遅い時間だし、特に用事がないなら家に泊まっていっても大丈夫なんだけど……」

 恐らく――朝に食事を共に作ろうと誘った時からこうするつもりだったのだろう。
 見れば部屋の隅のソファには申し訳なさそうに座る高町家の父子が揃って苦笑いを浮かべていた。

「……折角だ、厚意に甘えさせてもらっても?」
「ええ、もちろん大歓迎よ」

 特に用事があるわけでもなく、嘘をついてまで拒絶するような理由もないのだからと自分を納得させる。
 どこか諦めの入った士郎の言葉に男性陣は苦笑し、女性陣は嬉しそうな笑みを浮かべるのだった。
 そうして勧められた席に腰掛けて雑談に加わったが、出てくる話題は士郎本人に関わることが殆どだった。
 ――どこに住んでいるのか? 学校に通うつもりはないのか? 今までどんな国に行ったことがあるのか――など。
 それらの質問に対して差し当たりのない範囲で答えた士郎だったが、自身の身内に関する話題は最後まで挙げられる事はなかった。
 雑談を開始して暫くした頃――そろそろお開きにしようという流れになり、それぞれが寝室へと向かう。
 リビングを後にした士郎が一人、人気のない縁側に座って月を眺めていると、ユーノを肩に乗せたなのはが側へとやってきた。

「――士郎くん、もしかしてウチに泊まることになったの?」

 恐らくはそれを確認するために降りてきたのだろう。
 なのはと共に彼女の部屋に向かったはずのアリサとすずかの姿はなかった。

「ああ、まあな。とりあえず、そんな所に立ってないで座ったらどうだ?」
「……うん。それじゃ、お邪魔します」

 髪をまっすぐに下ろしたなのはが遠慮がちに隣に座ろうとする。
 そんな彼女の姿を座ったまま眺めていた士郎は、一呼吸置いてから会話を再開した。

「これだけお世話になって"それでは、さようなら"とはいかないだろう? それに、さっきも美味しい紅茶を戴いたばかりだしな」

 告げてリビングでの一幕を簡潔に説明する。
 桃子とのやりとりが意外だったのか、なのはの目はバッチリと見開かれていた。
 実際、桃子にしては強引な手段だったが、彼女に悪意がない事はわかっていたため、士郎は素直に甘えさせて貰う事を決めたのだ。

「ところで、さっきまで何をしてたんだ?」

 風呂場に入っていた時、士郎は僅かな時間だが高い魔力の放出を感じていた。
 友人が泊まりに来ている日だというのに、なのはは魔法に関する訓練を休まずに行なっているのだ。

「イメージトレーニングだよ。並列思考の訓練にも随分と慣れてきたし、色々とね」
「なるほど……」

 一刻もはやくあの少女に手を届かせたい――。
 そんな一念を以って日夜訓練に励んでいるのだろう。
 あるいはもっと根源的な感情に由来する行動なのかもしれないが――。

「――ねえ、士郎くん。私、あの子に勝てるかな?」

 なのはの問いかけはどこか他人事のようにも聞こえた。
 恐らく客観的な視点で鍛錬が足りているかどうかを聞きたいのだろうと理解した士郎は、以前に見たフェイトの戦闘を参考に脳裏でなのはと比較してみる。

「……そうだな。彼女に勝ちたいというのなら、相応の覚悟を決めるしかないだろう」

 ユーノやレイジングハートから聞いた限りでは、あの敗戦から数日も立たない内になのはの魔力運用技術は格段に上昇している。
 魔法を使い始めてから一週間も経っていない事を考えれば、なのはの上達ぶりは凄まじいの一言に尽きるだろう。
 魔導師として彼女が天才である――という事に疑いの余地はないが、それでもまだフェイトとの差はあるはずだ。
 士郎の私見ではあるが、彼女――フェイト・テスタロッサもなのはと同じく魔導の天才であり、年齢不相応の実力を持っているのだから――。

「それでも、勝つまでは諦めないんだろう?」
「……うん。そうだね…諦めない。勝つまで…勝ってちゃんとお話するまで諦めない!」

 真っ直ぐに目標を見据える彼女の言葉に士郎は淡い笑みを浮かべた。
 覚悟を持ち、信念に従って進んでいく少女――まだ迷う事も道を見失うこともあるだろうが、それでもその姿は貴いものだと心から思えた。

「お前一人に全てを任せるなんて薄情なことは言わないさ。手伝うと言っただろう? だから、そこまで気負わなくてもいい」
「え、えっと……あ、ありがとう……」

 どこか落ち着きを失った様子のなのはが手を振りながら慌てる――その姿はどこまでも年齢相応の少女に見えた。

 ――正直に告白すれば、士郎は今でも彼女を平和な日常へ戻してやりたいと思っていた。

 だが、それは同時に彼女の意志を捻じ曲げることになるだろう。
 それは……譲れない意志や信念を捻じ曲げ否定することだけは出来なかったから――。

「あ、あのね…士郎くん。聞きたい事があったんだけど、いいかな?」
「なんだ?」
「士郎くんは、どうしてそんなに強くなれたの?」

 彼女から向けられた視線はどこまでも真摯で真っ直ぐだった。
 魔法も使わずにフェイトを抑え込んでしまった一部始終を見ていたのだから、なのはの疑問は当然といえば当然だろう。

「……そうだな。最初はなりたいものがあったからで、そのために努力を重ねて戦って、守りたいものを守ろうとしていたらいつの間にか…だな」
「なりたいもの?」
「ああ。少し昔の話になるが――こんな綺麗な月の下にいるわけだし、口を滑らせるのも悪くはない…な」

 異なる世界であっても変わらず闇夜を照らす月を眺めていれば、かつての想いを思い出しながら語ることができる。
 遠い日に裏切ってしまった誓いと、愚直なまでに貫き通そうとしていた歪んだ理想――その始まりと終わりに想いを馳せながら空を見上げる。

「――さて、どこから話そうか……」

 遠い過去の記憶を呼び起こしながら感傷に浸りそうになる頭を軽く振る。
 士郎は周囲に感じられる無数の気配を知覚しながら、僅かに戸惑った様子のなのはを横目に遥かな過去へと想いを巡らせるのだった。


 -Interlude-


「――さて、どこから話そうか……」

 縁側に座って月を見上げる士郎の隣に座るなのはは、その横顔を眺めながら言葉を待った。
 いつも大人びていると思わせる士郎だが、今は一段と際立っている。下手をすればこの家にいる誰よりも大人に見えてしまうほどに――。

「俺には血の繋がりのない父親がいた。衛宮切嗣――俺にとっての、正義の味方だった人だ」

 訥々と語る士郎の言葉はどこか嬉しそうでもあり、寂しそうでもあった。
 血の繋がりのない父親――その人のことを想う彼の表情は、嬉しさと懐かしさと悲しさが入り混じった複雑なモノだった。

「出会ったのは本当に小さな頃なんだ。とある災害地での事で、俺はその災害に巻き込まれて生き残った数少ない一人だった。初めの内は他の人たちも何人か生きていたけど、みんな、もう助からないと子供心に理解していた」

 淡々とした声が縁側に物悲しく響いた。
 まるで何十年も前のことを思い返すように、ゆっくりと慎重に言葉が紡がれていく。

「とにかく酷い災害だったんだ。俺も生きていたけど、それだけだった。俺は自分の両親だったはずの誰かを置いて、周囲から聞こえてくる助けてと懇願する声も、この子だけでも連れて行ってと叫ぶ声も全部振り切って独り歩き続けた」

 それまでの記憶を失い、もう思い出すことも出来ない大切な人たち――。
 けれど、その顔も思い出せない誰かがそれまでの彼にとって最も大切な存在だったのは間違いない…と。
 夜空に向けて発せられた言葉に特別な感情は込められていない。
 傍から聞いていればひどく悲しい出来事のはずなのに、それでも士郎は淡々と語り続けた。

「どうせ自分も助からない。そう思って……それでも生きているからには少しでも長く生きなくてはならないと思って歩き続けた」

 事実だけを語る言葉が風に乗ってなのはの耳に届く。
 まるで、悲しむ事を忘れたような声音に胸が締め付けられるような気がしていた。

「そうして倒れた。多くの人の願いを踏み躙りながら歩いている内に心は死んでいたけど、身体も限界だったんだろうな」

 誰も彼もが死に絶えていく地獄で、彼は一人歩き続けた。
 無力な自分では誰を救うことも出来ないと理解していたからだろう。

「焼け爛れた地面に仰向けに倒れ込んで、雨が降り始めた空を見上げた。そのまま濁った空を眺めながら意味もなく手を伸ばしたら――その手を掴んでくれた人がいたんだ」

 その時、初めて彼の表情が嬉しそうに緩んだ。
 士郎は、それまでが嘘のように心から嬉しそうな笑みを浮かべて――。

「――ああ、覚えている。俺の手を握って、助かってくれて……生きていてくれてありがとうと泣きながら笑みを浮かべたその顔を…。嬉しそうに、まるで救われたのは自分だというような男の笑顔を……今でもちゃんと覚えている」

 その言葉にどれほどの感情が込められているのか…など、なのはには想像する事すら出来なかった。

「次に気がついた時には病院のベッドの上だった。同じ部屋の中には俺と同じように運ばれてきた子供達が沢山いたが――」

 一度言葉を切り、何かを思い出したように表情を少しだけ歪めて士郎は続ける。

「――医者が丁寧に教えてくれたよ。他の子は飛び火なんかで焼け出された子たちで、あの火災の中心地で生きていたのは君だけだ…と」

 それは恐らく、生き残った命を純粋に祝福しての言葉だったのかもしれない。
 けれど、多くを見捨てて生き延びた士郎にとって、それは祝福の言葉ではなく断罪の刃となって心に消えることのない傷を与えた。

「……そこへ俺を助けてくれた男の人が尋ねてきたんだ。それで、孤児院に引き取られるのとおじさんに引き取られるのと、どっちがいいかと尋ねられた」
「……それが、士郎くんの言ってたお父さん?」
「ああ。どうせ引き取られるならと思って頷いた。一緒に暮らしてみて最初にわかったのは生活能力もなにもないダメな大人だということだったがな」

 苦笑を浮かべて告げる彼と同じようになのはも苦笑を浮かべて応える。
 彼の家事能力が高いのはきっとそういうことなのだろうと納得しながら――。

「色々あって、一緒に過ごす時間は少なかったんだ。そうして何年経った頃だったかな……こうやって二人で並んで座って空を見上げて、一緒に月を眺めていた」

 月を見上げる士郎に倣って夜空を見上げる。
 星の輝きの中央に輝く黄金の光――柔らかなそれは、だからこそ人に幻想的な想いを懐かせるのかもしれない。

「――僕は昔、正義の味方に憧れていた」
「……えっ?」
「親父の言葉だけど、そんなふうに自分の夢を…まるで諦めたように告げられたことが悔しくてな。不満を隠そうともせずに噛み付いたよ」

 ヒーローは期間限定で、大人になると名乗るのが難しくなる――と。
 士郎の父親は、そんな現実を受け入れるのに時間を掛け過ぎてしまったと自白した。

「だったら仕方がない。だから、俺が代わりになってやると言ったんだ」

 どこか力の込められた言葉はそれでも淋しげで、士郎は一拍の間を空けて語る言葉を紡いだ。

「俺にとって、あの時助けてくれた親父こそが正義の味方だった。だから俺は、親父の夢をちゃんと形にしてやると宣言したんだ」

 そう語る彼の横顔は言葉とは裏腹に寂しそうで、どこか申し訳なさそうにも見えた。

「――ああ、安心した。そう言い残して親父はこの世を去った。現実もなにも見えていない子供が意地になって口にした言葉を聞いて、安心したと呟いて逝ったんだ」

 見上げていた視線を下ろし、真っ直ぐに見つめてくる。
 その視線の先に見える士郎はとても優しい笑みを浮かべながら、とても寂しそうで、とても申し訳なさそうに見えた。

「……なんであれ、俺はきっと親不孝者なんだろうな。あれからも色々とあったけど、結局俺は親父との約束を守ることができなかったから」
「……正義の味方には、なれなかったの?」
「そうだな……俺には無理だった。より多くの人たちを助ける正義の味方……けど、俺はその大勢の人たちよりも、身近にいる大切な人を守りたいと思ってしまったから」

 そこにどんな障害があったのか、なのはには想像ができなかった。
 きっとそれは、幼い人間には思い至る事も出来ないような事だったのだろう。
 それでも後悔の色を覗かせる事なく告げる彼の笑顔はとても綺麗で、申し訳なさそうな言葉とは裏腹に本当に後悔だけはしていないようにも感じられた。

「といっても、俺はその人を守る事もできなかったんだけどな。それでも後悔だけはしていないし、今もこうして悪あがきをしているというわけだ」

 どこか達観したような言葉になのはは目を伏せる。
 きっとその言葉には色々な意味が込められているのに、"ソレ"に思い至れない自身の無知と幼さが悔しかったから――。

「……私、士郎くんの事を何にも知らなかったんだね」
「俺が話さなかったら誰も知らないままだった事だ。それに養子になった頃の事を人に話したのは、なのはが――二人目…だからな」

 間を持たせて答えた士郎の言葉に、なのはは思わず項垂れてしまった。

「俺の事を気にしてくれた奇特な友人でな。俺に一つの道筋を示してくれた大切な友人だったんだ」

 けれど、その人はもういないのだと寂しそうに笑う。
 そんな彼を前にして、なのはは零れそうになる涙を必死で堪えるのだった。

「俺は結局、守りたいと思った人をこそ守れなかった。だから俺は今でも自分が強いだなんて思っていないし、きっとこれからも思えないだろうな」

 呟くその姿には、もう先程までの寂しさを感じさせる雰囲気はどこにもなかった。
 彼はいつものように、どこか大人びた雰囲気を纏ってなのはを見据えてくる。

「少し脱線したが、話はそれだけだ。悪かったな……こんな暗い話をされても嬉しくないだろう?」
「ううん、そんなことない……。士郎くんの事を知ることができたし、ちゃんと答えも貰ったから」

 強いということの意味を士郎は語る言葉の裏で示してくれていたのだとなのはは思う。
 その全てを汲み取る事は出来なくとも、それでも彼が他人には殆ど話したことのないという過去を口にしてまで教えてくれた事は――。

「――私、強くなる。力とか、それだけじゃなくて…本当の意味で強くなるから」
「ああ。だが、家族や友達に心配を掛け過ぎないようにな。みんな、お前のことを本当に大切に思っているんだから」

 告げると同時に士郎の掌が頭の上に乗せられる。
 ゆっくりと撫でるように動かされるその手は心地よく、なのはは暫くその感触を堪能するのだった。

「さて、そろそろ寝るとするか。俺も明日の朝食作りを手伝うつもりだし、なのはも明日は朝から学校だろう?」
「……うん、そうだね。あ……そういえば、士郎くんはどこで寝るの?」
「空いてる部屋がなさそうだったからリビングで休ませてもらうつもりだ。この家は暖かいし、どこでも寝るのに不便はなさそうだったしな」

 そんな言葉を聞かされて素直に頷けるほど、今のなのはは冷静ではない。
 頭の上に手を載せたままの士郎をそっと見上げて素早く手を伸ばしていく。

「だったら、私の部屋に来る? ベッドはアリサちゃんとすずかちゃんに使ってもらうつもりだったけど、お布団もあるからリビングよりは暖かいよ」

 告げると同時に彼の腕を掴んで引っ張っていく。
 返事が期待できないのは承知済みなのだ。多少は強引に連れて行ってもかまわないだろう――と力を込めて歩き出す。

「いや、それは流石にどうかと……って…な、なのはっ!?」

 文句は聞こえなかったし、聞きたくなかった。
 なのははただ、寂しそうに笑っていた士郎を一人にはしたくなかっただけなのだから――。
 だから、やけに顔が熱くて胸の奥が騒がしくても気にしないことに決めていた。
 強引に引っ張る手を無理に振り解くつもりはないらしく、士郎は文句を口にしながらも強く抵抗することはなかった。


 -Interlude-


「――ねえ、恭也。止めなくてよかったの?」

 問いかけはどこか普段よりも硬質な声音だった。
 恭也はそんな忍の問いかけに苦笑しながら頷いてみせる。

「今日ぐらいはいいさ。アイツなら――士郎なら、なのはたちに変な事もしないだろうしな」
「そっか……それもそうね」

 見れば忍の目元は微かに濡れていたが、先の士郎の語りに感じ入るものがあったのだろう。

「……士郎の事が気になっているのか?」
「それは恭也も一緒でしょ? 私たちは彼が想像できないような過酷な日々を過ごしてきたって知っているから――」

 どこか神妙な忍の言葉に恭也は静かに頷いて応える。
 彼の技量や精神的な完熟度――それらは彼の年齢で持つには余りにも不釣り合いなモノだ。
 詳しく過去を聞いたわけではないため、士郎の素性については恭也もある程度の推察しかできていない。
 だが、それでも――例えどのような事情を抱えているのだとしても、衛宮士郎という人物が信用に足る男だと恭也は確信していた。

「今は気にしても仕方ない…か。士郎くん本人の口から何かを聞いたわけじゃないんだものね」
「ああ、そうだな」

 忍の言葉に恭也は心の底から同意を示した。
 目で見て耳で聞き、語りあった末に友誼を結んだのが衛宮士郎という少年だ。
 彼には彼の事情があるのだろうし、話せる事なら話してくれるだろう。
 そして、話してくれない以上は何か相応の事情があるはずだ。なのはに対して語っていた過去のように――。

「――なるほど。確かに……いい月だな」
「そうね――」

 虚空に浮かぶ月――それは、どこか物悲しい雰囲気を持ちながら、夜空に浮かぶ星々と同じように輝いている。
 隣に断つ忍が自身と同じように視線を空へと向けた事を確認した恭也は、少しの間だけ忍と肩を並べて月を眺め続けるのだった。


 -Interlude-


 部屋の窓をそっと閉めて、すずかは視線を落とした。
 つい先程まで夜風に乗って聞こえてきた声は既になく、残ったのは僅かな納得だけだった。

「……やっぱり色々と事情があったのね。士郎さんが関わっているとは思わなかったけど……」

 呟くように零したアリサの声に力はなかった。
 落ち着いているわけでもないが、涙を零すほど感じ入っているわけでもない。
 それでもいつも通り――すずかも良く知る普段通りの彼女として感想を口にしていた。

「なのはちゃんも……やっぱり何か悩み事があったみたいだけど、士郎さんが一緒にいてくれてるなら大丈夫だよね」
「まあ、そうね。けど、友だちとしてはいつかちゃんと話してくれると嬉しいんだけどね」
「ふふ、そうだね」

 すずかはアリサと顔を見合わせて笑みを零した。
 最後に聞こえてきた士郎となのはの会話を信じるなら、もうすぐこの部屋に士郎を連れたなのはが戻ってくるのだが――。

「ねえ、すずか。さっきの話って…どう思った?」
「それは…士郎さんの事? それとも――なのはちゃんの事?」

 少しだけ、伺うような声音で尋ねてきたアリサの言葉に間を置かずに答える。

「士郎さんの事は…まあ、そういう事もあるんだろうなって位には納得してるのよ。最初から変わった人だって思ってたし、なんとなく…あの人ならそんな事もあったのかなって納得できるから」
「……そうだね」

 少しだけ声を揺らして告げられたアリサの言葉にはすずかも素直に納得できた。
 彼と出会った時から感じていた小さな違和感に微かな答えを得ただけだ。けれど、そんな彼が親身になって助けようとしているのは――。

「――じゃあ、やっぱりなのはちゃんのこと?」
「ええ。ここ最近なのはの様子が少しおかしかったのって、きっとさっきの話も関係している"何か"なんでしょうし……」

 事実その通りなのだろうとすずかは推察していた。
 話の流れから推察した限り、なのはが"何か"に関わっていて、そのために生じた悩みを士郎に相談していたように聞こえた。
 それが偶然によるものなのか、あるいは士郎がその原因に近しいのかはわからない。
 ただ、彼はなのはが関わっているであろう"何か"を知っている。会話の流れから察する限り、相応に危険な事に関わっているのだろう。

「――信じよう。なのはちゃんも士郎さんも大切なお友達だもん。二人だって、きっと私たちの事をそう思ってくれてる。だから、きっと――」

 いつか話してくれる時がきっとある――。
 その言葉は口にはしなかったすずかだが、アリサには伝わったらしく、小さく頷いていた。

「そうね。湿っぽいのはここまで。もうすぐ士郎さんを連れたなのはが戻ってくるだろうし、"色々"と決めなくちゃいけないこともあるしね」
「そうだね。抜け駆けは阻止しないとね」

 冗談半分本気半分でそんな軽口を交換する。
 気がつけば、二人分の足音はもうすぐそこまで近づいてきていた。

 

 

Episode 12 -ジュエルシード-



 目覚めた士郎が最初に感じたのは息苦しさ――そして全身に感じる温かみだった。

「――なんだかみんな、凄く気持ちよさそうに寝てるね」

 ふと、そんな声が士郎の耳に聞こえてくる。
 声の主は机の上から見下ろすように眺めているユーノだ。
 同じ部屋の中にアリサやすずかなど、魔法を知らない一般人の二人がいる事を考えれば不用意といえば不用意な行為だ。
 朝日が昇り始めた早朝の室内で目を覚ましているのは士郎とユーノだけ――恐らくは大きな声で騒がなければ大丈夫だと判断したのだろう。

「……ああ、そうだな」
「……ところでさ、士郎。その状態は少し苦しくない?」

 相槌を返すと同時にそんな質問が耳に届く。
 士郎は小さく溜息を零しながら、辛うじて動く頭と目を駆使して自身の現状を視界に収めた。

「……いい具合に首が締め付けられているし、両腕とも拘束されているし、足も腰も動かせず、胸と腹の上に重みが掛かっているから苦しいと言えば苦しい…な」

 思い返すのは昨晩の出来事――なのはに連れられて部屋にやってきた後に勃発したすずかとアリサとなのは三人の言い争いだ。
 誰がどこで、どうやって寝るのか…と。
 そんな事で一時間以上の論戦――口喧嘩とも言う――を繰り広げた三人が出した妥協案が、全員が床に敷いた布団で寝るというものだった。
 正直それもどうかと士郎は思っていたが、鬼気迫る気配を纏った彼女たちに対して意見をする等という自殺行為をする勇気もなく、彼女たちの意見に従って床についたのが夜中の零時過ぎだった。

「――睡眠が深いのも当然だな……」

 そうして士郎が眠りから覚めてみれば今の状態――これでは身動き一つ取ることが出来ないのも道理である。

「確か、朝早く起きて朝ご飯の支度を手伝うつもりだって言ってたよね?」
「その予定だ。だが、こうまで気持ちよさそうに寝ているなのはやアリサ、すずかを起こすのは少し戸惑うな…」

 聞こえてくる三つの寝息はどれも穏やかで、普段とはまた違うあどけない寝顔は彼女たちを歳相応の少女に見せてくれていた。

「確かに、気持ちよさそうに寝てるよね。傍目には三人がかりで君を絞め落とそうとしている風にしか見えないけど……」
「……さて、どうしたものかな」

 結局それから一時間弱――彼女たちが目覚めるまでの間、士郎は三人に拘束されたままだった。


 -Interlude-


 頬に触れる風は強く、身体を揺らす振動は強い。
 町外れの道を走り抜けていく士郎の肩に乗ったまま、ユーノは息一つ乱さない男へと声をかけた。

「――本当に、魔力も何も使ってないんだね」

 士郎が走る速度は魔導師――陸戦型の使い手と言われても信じられる程に速い。
 けれど、そんな彼が魔法どころか魔術さえも使用せずに走っているだけだというのは、実際にその光景を目にしているユーノにも冗談としか思えなかった。

「純粋な身体能力と身体運用法だ。魔導師はあまりこういった事は重要視していないのか?」
「戦闘能力に特化した魔導師とか、管理局の武装隊なんかでは体術も重要視されてると思うけど、魔法の併用が前提だしね」
「管理局?」

 新しい単語に疑問の声を上げた士郎に対してユーノは掻い摘んで説明する。
 管理局――時空管理局と呼ばれる次元世界の統治機構。比較的安全でクリーンなエネルギーである魔力を使用した管理機関の事を――。

「――なるほどな。確かに魔導と呼ばれる魔力運用が一般的だというのなら、それらを管理運営する組織があるのは道理だな」
「ここは管理外世界だから基本的に管理局の介入はないはずだけど、ジュエルシードが暴走したら管理局も介入してくるかもしれないよ」
「管理局については大凡理解したが…あのジュエルシードと呼ばれている魔力結晶体が暴走すると、どういう状況が起こり得るんだ?」

 士郎は鋭く真剣な声で尋ねてくる。
 起こり得る事態を想定していたいという士郎の考えは理解できる。
 だからこそ、ユーノは自身が知り得る知識を総動員して可能な限り最悪の事例を伝える事にした。

「――例えそれが一つでも小規模な次元震を引き起こす可能性が高い。それが複数個合わされば大規模な次元震断層を生み出して、最悪の場合は世界そのものを滅ぼしてしまうかもしれない」
「そういった状態になった場合、魔導師――そうだな……なのはや、あの少女で止める事はできるのか?」

 街中から森の中に入り、走る速度を緩めて歩き始めた士郎の言葉にユーノは迷いながらも頷いた。

「だけど、それは一つのジュエルシードの場合だよ。複数個のジュエルシードが同時に暴走することで手の付けられない状態になる可能性のほうが数段高い」
「それに、無傷で抑える事は難しい――か。確認するが、ジュエルシードが暴走状態に入ったら破壊しても構わないか?」

 努めて冷静な声で告げる士郎の言葉に驚きを顕にする。
 彼は、あのジュエルシードをその目で見ているはずだ。その上で、あれを破壊できるモノだと認識しているということは――。

「――方法が…あるの?」
「それを確認してもらうために、お前に着いて来てもらったんだ」

 寝起きのなのはたちを置いて部屋を後にした士郎は朝食を作る手伝いをした後、食事も食べずに家を後にした。
 その際にユーノも連れ出されたのだが、その理由は過去から連綿と受け継がれてきた魔術という力を扱う衛宮士郎が持つ力の一端にあった。

「――――I am the bone of my sword.(体は剣で出来ている)

 魔力の流れを感じさせない言霊――それが周囲に響いた瞬間、士郎の手には一振りの剣が握られていた。

「――絶世の名剣(デュランダル)

 剣を振りかざした士郎がそう告げると同時に剣そのものから吹き出すように溢れる強大な魔力――。
 どこか神秘的な輝きが周囲に満ちていくその光景にユーノは目を奪われた。

「……凄い。それが、士郎の魔術なの?」
「魔術を使ってこの剣を取り出したという方が正しいな。持ち主の魔力を問わず、折れることなく切れ味を保つ聖剣だ」

 魔を切り裂く力を持つ剣――確かにこの剣なら、ジュエルシードさえも切り裂くことが出来るだろう。
 士郎自身が内包している魔力とは比べるまでもないほど強力で膨大な魔力を秘めた剣――あるいは神話や物語に登場する伝説の剣とはこういったモノなのかもしれない。

「そうだね……この剣なら、恐らくジュエルシードも斬れると思う。だけど、危険であることには違いないよ。暴走状態のジュエルシードを斬り捨てるなんて――」
「もしもの時の保険だ。やらずに済むならそれに越したことはない。だが、いつでも最悪の事態は起こり得る――いや、起こるものだからな」

 いつもと声音の違うその言葉にユーノは思わず士郎を見上げる。
 どこか確信を帯びた言葉を口にした彼の表情は引き締められており、その目はどこまでも真剣な色を覗かせていた。


 -Interlude-


 その日の夜、彼女――フェイト・テスタロッサはビルの屋上から夜の街を見下ろしていた。

「確かに…この辺り――」

 隣に立つアルフの言葉に頷きを返し、眼下の街並みを見下ろす。
 薄暗さを感じさせない人工の光に照らされたそこには多くの人たちの姿があった。

「でも、細かい位置が特定できない。ちょっと乱暴だけど、魔力流を打ち込んで強制発動させるよ」
「大丈夫?」

 アルフの懸念はフェイトにも理解できた。
 ジュエルシードに魔力を打ち込んでの強制発動はその後の回収を困難にする。
 同じようにジュエルシードを探している者たちへもジュエルシードの位置を教えることになるため、その後の戦闘が避けられないからだ。

「平気だよ……私、強いんだから――」

 幸いにして彼――衛宮士郎は初手から戦闘には介入しないと約束してくれている。
 例えそれが確証のない口約束だったとしても、彼に限って自身の言葉を容易に覆すような事はしないだろう。
 そんなことを考えながら、すっかり彼の事を信用している自身に笑みを零したフェイトは魔力を解放して広域放出する。
 途端、周囲に結界が展開された事を確認して、相手も同じく街を探していたことを確信するのだった。

「――見つけた」
「あっちも気づいてる。フェイト――」

 狙い通りにジュエルシードは発動したが、同じくジュエルシードを探していたあの少女たちも位置を特定したのだろう。
 相手が動いた事を感知したアルフの声に頷きを返して空へと飛び出したフェイトは、ジュエルシードを挟んで正面からやってきた少女と同時に砲撃魔法を放つ。
 ジュエルシードを挟んでぶつかり合う魔力――大威力砲撃を左右から浴びせられたジュエルシードはそのまま、微かな光を纏ったまま沈黙した。

「……後は邪魔さえさせなければ確保できる」

 アルフは既に行動を別にしており、少女の使い魔と思われる小動物へと向かっていった。
 そうして――以前に戦った少女がジュエルシードを挟んだ反対側に降り立つ姿をじっと眺める。

「この間は、自己紹介できなかったけど…。私、なのは――高町なのは。私立聖祥大付属小学校三年生――」

 どこか戸惑いを感じさせる振る舞いを見せながら、はっきりとした声で告げる。
 そんな少女の言葉を遮るようにフェイトはバルディッシュを構えて戦闘態勢を取った。

「ジュエルシードは諦めてって……言ったはずだよ」
「それを言うなら、私の質問にも応えてくれてないよね。まだ、名前も聞いてない!」

 少女は真剣な瞳を向けながら気持ちの篭った言葉を向けてくる。
 どうしてそんな悲しそうな表情をしながら自身を見ているのか――。
 その姿に感じ入るモノが確かにフェイト自身の内にも存在していた。
 だが――と、頭を軽く横へ振ってそれを封殺し、自身のデバイスであるバルディッシュを振り上げる。
 その行動で完全に戦闘態勢に移行した事を確信したのか、少女はすぐに表情を引き締めて戦闘態勢に入った。

「――ファイア!」

 戦闘開始を告げるように行動を開始したフェイトは先手を取るため魔力弾を放つ。
 それを少女はつい先日とは比べ物にならないほど洗練された機動で空へと舞い上がり、フェイトの攻撃を回避してみせた。

「……速い!?」

 空を飛ぶ速度はフェイトの方が少女よりも上だろう。
 だが、追いついたその背に向けて放った攻撃魔法は全て回避されてしまった。

「――てぇ!!」

 少女から放たれた四つの魔力弾を回避する。
 射砲撃の体制に入った少女を視界に収めたフェイトは即座に防御体制に入った。
 強力で速い砲撃魔法――それをギリギリのタイミングで発動した防御魔法で受け止める。
 完全に受け止めるには強度が足りないと判断し、射線から退避したフェイトは改めて少女へと向き直った。
 効率的で、無駄の少ない空戦機動――加えて、精密に組まれた攻撃魔法とその威力は決して軽視できるレベルではなかった。

「目的があるなら、ぶつかりあったり、競い合うことになるのも仕方がないかもしれない。けど、なにもわからないままぶつかりあうのは嫌だ」

 デバイスを構えたまま訴えを口にする少女。
 それは真っ直ぐで純粋な言葉――だからこそ、その言葉に応えることはできなかった。

「――私も言うよ。だから教えて――どうして、ジュエルシードが必要なのか…」
「私は――」
「――フェイト! 答えなくていい!! ジュエルシードを持って帰るんだろう!!」

 見上げながら叫ぶアルフの言葉のお陰で、フェイトは弱音を吐きそうになっていた自身を留める。
 母であるプレシアの願い――それを果たして、いつかの笑顔を取り戻すために戦うと決めた。
 だからこそ……例えそこにどんな障害があろうとも、持てる力の限りを尽くして役割を果たそうと決めたのだ。

「なのはっ!!」
「大丈夫!!」

 使い魔からの声にはっきりと答える少女の視線は真っ直ぐにフェイトへと向けられている。
 退けることは容易ではないが、少女を倒す必要はそもそもない。戦闘でそれを確信したフェイトは反転し、ジュエルシードへ向けて加速した。
 なによりも優先するのはジュエルシードを手に入れる事で、少女を倒すことではない――。
 発光した状態のまま浮遊しているジュエルシードに向けてバルディッシュを突き出す。最短距離を飛んできた少女も殆ど同時にジュエルシードへとデバイスを突き出してきた。

「……えっ?」
「……くっ!?」

 ぶつかり合うデバイス同士から溢れる互いの魔力――。
 それに反応したジュエルシードから周囲を照らし尽くすほどの光が溢れた。
 衝撃がバルディッシュと少女のデバイスに亀裂を入れていく。
 そうして、直後に起きた巨大な爆発――次元震によって、フェイトは少女と共に弾き飛ばされてしまった。

「……っ、暴走……!?」 

 見れば少女はジュエルシードを挟んで反対側の道路に叩きつけられていた。
 フェイトは辛うじて態勢を保持できたが、衝撃を受け止めたバルディッシュの損傷は激しく、予想以上に強敵となっていた少女との戦闘で魔力も残り少ない。

「ごめん…戻ってバルディッシュ」

 バルディッシュを待機モードへ移行させ、残った魔力を振り絞って地面を蹴った。
 未だに次元震を発生させ続けている暴走したジュエルシードを止めて、少女よりも先に確保するために――。

「――フェイト!? 駄目だ! 危ないっ!!」

 アルフの声に応える余裕はフェイトにはなかった。
 暴走したままのジュエルシードへ辿り着き、その本体を両の手で掴んだフェイトは魔力を込めようとして――弾き飛ばされてしまった。
 思った以上に激しく暴走してしまったジュエルシードが引き起こしている次元震と魔力放出を止めるには、今のフェイトの魔力では足りない。
 このままではジュエルシードを手に入れるどころか、周辺地域――下手をすればこの世界そのものに多大な被害を及ぼしてしまうだろう。
 少女と協力すればあるいは――そんな考えが一瞬だけ脳裏を過ぎったが、同じく疲弊しているはずの少女とフェイトでは可能性は低い。

『――下がっていろ、フェイト』

 可能性に思考を割いていたフェイトの耳に、聞こえるはずのない声が届いた。
 その声は、つい先日に公園で会話を交わした少年のものだった。
 いつかの会話とは全く異なる鋭くて力強い声が彼のモノだと理解した瞬間、フェイトは自身の横を通り抜けていく人影を見送った。

「――士郎」

 通り抜けていく瞬間に見えた彼の表情はどこまでも真剣味を帯びた凛々しいものだった。
 恐らく少女との戦いを見守ってくれていたはずの彼はそうして、その手に輝く剣を手にしてジュエルシードへ突撃していった。


 -Interlude out-


 世界を震わせるような振動――。
 それがユーノの告げたジュエルシードの暴走だと確信し、士郎は手にした剣を振り上げた。

「切り裂け――絶世の名剣(デュランダル)!!」

 魔力発生源に向けて真名を開放した宝具を振り下ろす。
 抵抗は激しく、けれど一瞬の拮抗の後に刀身がジュエルシードへと到達した。
 余波が身体を傷つけていくが、士郎はそれに構う事なく剣を振り抜く。
 刀身がジュエルシードを分断する瞬間を確認し、構え直した剣を真っ直ぐに突き出した。

「――く…だけ、ろッ!!」

 剣先が宝石を打ち砕き、その際に発生した巨大な魔力に全身が飲み込まれていく。
 自身の身体が傷ついていくのを感じながら、士郎は自身の内から懐かしい感覚が蘇るのを自覚した。
 暖かな光――衛宮士郎の魂に溶け込んでいる"ソレ"は、まるで主を護るように全身を覆い、直後に残滓すら残さず消えてしまった。

「――士郎っ!」
「――士郎くんッ!!」

 フェイトとなのはが血相を変えて近づいてくる光景を視界に入れたまま士郎は膝をついた。
 致死は避けられたが、全身の損傷は決して軽いものではない。
 頭部からは血が流れているし、服の下は全身傷だらけになっているだろう。
 なにより――全身に取り込まれた巨大な魔力が魔術回路に異常を齎しており、全身の神経がバラバラになってしまったような感覚に苦笑いを零した。

「済まなかったな、フェイト。ジュエルシードを壊してしまって――」
「どうして、謝るの…? 私じゃもう、ジュエルシードを止められなかった…のに」

 すぐ側にやってきて、悲しげに視線を伏せてしまったフェイトの頭をそっと撫でる。
 彼女がどうしてジュエルシードを集めているのかは士郎にもわからなかったが、並々ならない決意を抱いている事はわかっていた。
 どんな理由であれ、彼女がそこまでの決意と覚悟を持って集めようとしているモノの一つを完全に破壊してしまったのだから謝るべきだと思ったのだ。

「――えっと、士郎くん……この子と知り合いなの?」

 ふいに聞こえてきたなのはの声はどこか伺うようだったが、すぐに頭を振って身体を支えてくれた。

「色々と聞きたいことあるけど、今は士郎くんの怪我のほうが大切だね」
「……うん。手当ならちゃんと一通り教わってるから、士郎の手当は私が――」
「私も出来るよ。だから、士郎くんの手当は私が――」

 そんな会話を交わしながら睨み合う二人の少女の顔を眺めていた士郎はそっと意識を手放した。
 音もなく、光すら見えない闇が意識を覆っていく。
 その最中――いつかどこかで耳にした懐かしい声が聞こえた気がした。
 そうして――それまで感じられていた様々な気配が消えていき、全身を包む暖かな気配が薄れたと感じた瞬間、一時の眠りを経た意識が再び浮上していった。

「――ここは……俺の家、か……」

 目を開けると、視界には見慣れた天井が映っていた。
 あれからどれだけ意識を失っていたのか――そんな事を思考しようとして、すぐ側に小さな気配を感じた士郎は自身の頭上へと意識を向けた。

「起きたんだね。よかった……」

 頭の上から聞こえてきたのはユーノの声だった。
 少しだけ痛む頭を押さえながら身体を起こす。意識を失う前に感じていた痛みが殆ど収まっている事に気づいた士郎は僅かに首を傾げた。

「ユーノ……なにか、治療の魔法でも使ってくれたのか?」
「ううん。僕はなにも……士郎が意識を失った後、凄い勢いで傷が塞がっていったから、士郎の魔術なんじゃないかって思ってたんだけど……」

 自己治癒が働いていたと告げるユーノだが、士郎には心当たりが一つしかなかった。

 ――全て遠き理想郷《アヴァロン》。

 かつて衛宮士郎の命を救い、今も共に在る至高の宝具。それが、どうして今になって再び起動したのか――。
 そんな疑問が脳裏を過ぎったが、どれだけ考えても答えが出ないということは間違いないため、ひとまず保留しておこうと息を吐いた。

「……ところで、なのはたちはどうしたんだ?」
「ちょっと前までなのはとあの女の子たちも一緒にいたよ。ただ、下手をすると日付が変わるまで起きないかもしれないからって、なのはには家に戻ってもらったんだ。あの子たちも、何か用事があるのか急いで戻っていったしね」

 奇跡的に争い事には発展しなかったらしいが、会話を重ねることは出来ず、なのはとフェイトは名前の交換すら出来ていないのだという。
 そもそも二人はジュエルシードを巡って争っている当事者同士だ。
 フェイトの性格を考えれば、自身の目的を妨害するなのはと必要以上に交流を深めようとは思わないだろう事は明白だった。

「――そうか。済まなかったな、ユーノ。色々と面倒を掛けた」
「ううん。ジュエルシードの暴走を止めてくれた士郎には本当に感謝してるんだ。これくらいならお安いご用だよ」

 責任感の強いユーノがそう言うのだからそれ以上は逆に失礼だろう。そう考えた士郎は素直に頭だけを下げることにした。

「あ、そういえば……あの女の子たちなんだけど、士郎にありがとうって伝えておいてって」
「そうか……ところで、なのはの様子はどうだった?」

 なのはの名前を出すと、ユーノは少しだけ困ったような素振りを見せる。それだけでなのはの様子が脳裏に浮かぶようだった。

「うん、まあ……あの女の子と先に友達になっているのを羨ましがっているっていうか、そんな感じかな」
「友達…ね。彼女とは友人と言うよりは知り合いというほうが正しいと思っていたんだが――まあいいか」

 ホッと一息を零した士郎はすぐに気を引き締めた。
 目の前に座るユーノの気配が少しだけ真剣味を帯びたものになっていた事に気づいたからだ。

「なにか、話があるのか?」
「……うん。士郎は、僕には色々と秘密を教えてくれてたよね。だから僕は魔術回路の事もそれなりに把握してるつもりだし、今の士郎の状態が普通じゃないってわかる」

 魔術回路を知覚できるわけではないが、士郎の体内を巡る魔力の流れが異常な状態になっていた事には気づいているのだとユーノは語る。
 今は持ち直しているが、意識を失ってからすぐに正常に戻ったわけではない。
 士郎が持つ魔術回路についてある程度の知識を持つユーノなら気づいても不思議ではないが――。

「…だとしても、他人の魔力の流れの異常に気づくとは……意外と目ざといな」
「これでも学者の家系だからね。それなりに観察能力はあるつもりなんだ。それで、どうなんだい? ちゃんと"意識して"扱えそうなの?」

 ユーノの言葉に合わせて目を閉じた士郎は自身の体内――魔術回路へと意識を集中する。
 ジュエルシードを破壊した直後の異常な状態はすっかり修復されており、以前と変わらず正常に稼働してくれる。
 問題は魔術回路の奥――全ての回路の起点となっている場所の先に異質な回路が出来ており、そこにこれまでとは異なる質の魔力が溜まっているということだ。

「……魔術回路とは異なる魔力生成機関――いや、変換機のようなモノが認識できるな。魔力も問題なく"集められそうだ"」
「リンカーコア――それが魔導師の魔力運用に必要な機関なんだけど、士郎の中には確かにリンカーコア…のようなモノが出来てるみたいだ」

 士郎の胸に手を当てたユーノは少しだけ自信無さげに、魔導師であれば知覚できるそれが確かに存在していると告げる。
 魔術回路と同じ擬似神経の延長に出来ているため、厳密にはリンカーコアとは異なる機関なのかも知れないと言うが、魔導師と同質の魔力を扱う事が出来るという事だけは間違いない。

「そうか……なら、訓練次第で俺にも魔法が使えるということか?」
「うん、それは間違いないと思うんだけど……ただ、士郎のリンカーコアから感じられる魔力量は凄く少ないっていうか……」
「そうだな。少なくとも、俺がこれまで扱えていた魔力量と比べても半分以下位しか感じられない。変換機のようなモノだと認識したのはあながち間違いじゃないのかもしれないな」
「切っ掛けがジュエルシードの次元振動を止めたことだと推測すると、性質が本来のリンカーコアと違う可能性も否定出来ないけど……」

 それだけ判れば十分だ…と、士郎はもう一度ユーノに礼をしてから立ち上がる。
 幸い身体の調子は悪くないらしく、僅かばかり感じる倦怠感も動くのに支障を与えるようなものではない。

「なのはの家まで送ろう。その間に念話のコツを教えてくれるか?」
「うん、いいよ。士郎が念話を使えるようになれば、なのはもきっと喜ぶと思うから」

 そう告げて自身の肩に乗ったユーノが体勢を整えたのを確認した士郎は家を後にする。
 時刻は既に夜中の零時を過ぎているが、まだ家で起きているというなのはが待つ高町家へと走り出すのだった。


 

 

Episode 13 -新たな介入者-

 
前書き
十三話目です。 

 
 ユーノと共に高町家まで赴いた士郎だが、夜中遅くという事もあって、なのはと直接会うことは出来なかった。
 念話で声をかけると心配そうな声を上げたなのはに対して、もう大丈夫だと――心配してくれてありがとうと告げて士郎はその場を後にした。
 そんな数時間前の出来事――日付が変わる直前に高町家へ向かった時の事を思い出しながら、士郎は桶に溜めた冷水に浸したタオルを絞った。

「――ほら、とりあえず頭にコレを乗せておくといい。少しは気分がよくなるはずだ」
「……おおきにな、士郎。ほんま、ええタイミングで来てくれて…助かったわ」

 ベッドに横になったまま、どこか辛そうな声を絞り出しているのは、この家の主である八神はやてだ。
 あれから寝ることなく過ごしていた士郎は、昼からの翠屋でのアルバイトの前に朝食でも作りにいこうと思い立ち、朝早くにはやての家を尋ねてきたのだが――。

「まだ辛いなら無理に喋らなくていい。熱はまだ三十八度を超えているし、しっかり休んで体力を温存しておかないと治るものも治らなくなるぞ」
「そやね……。けど、お仕事はまだ大丈夫やったん?」
「仕事は昼からだから大丈夫だ。昼食と夕食には消化に優しいものを作っておくから、まずはちゃんと寝ておけ」

 告げて士郎はそっと彼女――はやての頭を撫でる。
 まだ手のひらに感じる熱は高く、彼女が本調子には程遠い体調であることは明白だ。
 とはいえ、熱以外に目立った症状が見られないため、今のところは病院で診てもらう程ではないと判断していた。

「うん、ありがとな。でも…せっかく士郎が来てくれたのに、寝てるなんて勿体無いし……」
「なら、本を読んでやるからせめて大人しく横になっていろ。この間借りた本でいいか?」

 枕元に置いてある鎖付きのいつもの本――。
 その隣に置いてある図書館から借りてきた本を手に取ると、はやては笑みを浮かべて頷いた。
 本を読み始めてすぐにぼんやりとしてきたはやてを横目に眺めながら、かつて剣を交えた一人の王の物語を言の葉に乗せていく。
 その後、少しの間寝ていたはやてを起こしてから身体の汗を拭いて着替えを――手伝うと言ったら椅子で殴られた――済まさせる。
 昼と晩に食べる食事のリクエストを聞いた士郎は、また一眠りしておくと告げたはやてを寝かしつけてから八神家を後にするのだった。


 -Interlude-


 街がようやく活気づいてきた頃、彼女――フェイト・テスタロッサは独り街中を歩いていた。

「……どんなものがいいのかな」

 色々な店を見て回り、良さそうなものに目星をつけていく。
 何件かの店を見て回ったとき、ふいに見知った背格好の少年を見つけたフェイトは、僅かばかりの期待を胸にその背を追いかけた。

「――あの……」
「――ん?」

 追いついた背に声を掛ける。振り向いたその顔には僅かばかり驚きの色が浮かんでいた。

「おはようございます、士郎」
「ああ、おはようフェイト。もう手の怪我はいいのか?」
「――えっ? 気づいて……いたんですか?」

 唐突な問いかけにフェイトは思わず問い返す。士郎は苦笑しながら答えてくれた。

「ジュエルシードを掴んだ瞬間は見えていたからな」
「――えっと、もう大丈夫…です。それより、士郎の方は……?」
「俺も大丈夫だ。心配を掛けてすまなかった――ありがとう」

 一度申し訳なさそうに謝って、すぐに何か思い至ったのか――。
 士郎は小さく頷き、柔らかな笑みを顔に浮かべてから感謝の言葉を口にした。

「た、大したことじゃないです。それより、今日はどうかしたんですか?」

 疑問を乗せた問いかけに士郎は首を捻った。
 フェイトの見ている先――彼の左手にぶら下がっている買い物袋を一瞥した士郎は、問いかけの意味を察して頷いた。

「見ての通り買い物だ。知り合いが熱を出してしまってな。身体に良さそうなモノを作ろうと思って材料を買いに来たんだ」
「知り合い――あの魔導師の女の子ですか?」
「いや、この間俺と一緒にいた車椅子の女の子のほうだ」

 その言葉を聞いて思い出したのは、公園を士郎と仲良く散歩していた、自身と同じ年頃の女の子の姿だった。
 車椅子に座っていた彼女と士郎の二人が、とても仲の良い兄妹に見えた事をフェイトははっきりと覚えていた。

「――妹さんじゃ…なかったんですね」
「……ああ。それで、君は何か用事でもあったのか?」

 返事を返してくれた士郎の声音が僅かに落ち込んだ事に気づくが、何か事情があるのだろうと察して頭を切り換えた。
 フェイトがこうして朝の街にやってきたのはもちろん理由がある。あるのだが…それを相談するのは彼に悪い気がして口籠もる。
 ちらりと横目に見た士郎は優しく笑っていて、その表情を眺めていたフェイトは小さく深呼吸をして気持ちを落ち着けた。

「――お土産を探していたんです」
「土産? ということは、身内にか?」
「は、はい……あの、よかったら士郎の意見を聞かせてもらえませんか? 地球は初めてなので、どんなものがいいのか悩んでしまって……」

 問いかけに士郎は少しばかり悩む素振りを見せ、周囲の店を見渡してから頷いた。

「渡す相手は女性か?」
「……はい。母です」

 そう告げると、彼はもう一度頷いてから真っ直ぐに視線を向けてきた。

「母親への土産なら、かしこまったものじゃなくていいだろう。君が欲しいと思うモノ…一番興味を惹かれたモノを選べば良い」

 目星は付いているんだろう…と。まるで、街に出てからの行動を全て見ていたような問いかけに、フェイトは小さく頷いた。
 服や装飾品――ちょっとした小物にも目を向けたが、いつも研究で忙しそうな母に少しでも美味しい物を食べて貰いたいと思って見ていたモノが――。

「――ケーキ…です。とても美味しそうな、ケーキのセットが売っていて……」
「だったらそれを買って届けてあげるといい。君のような娘から渡されて喜ばない母親はいないだろうさ」

 告げて士郎はフェイトに背を向ける。まるで気負いのないその動作に、フェイトは一瞬だけ呆然として――。

「――届けてあげるといい。きっと、君のお母さんも喜んでくれるはずだ」

 そっと振り向かせた顔には暖かな笑みが刻まれていて、士郎の優しい気持ちが伝わってくるようだった。
 本音を言えば、期待半分怖さ半分――あの母が喜んでくれるのかどうかはフェイトにも自信を持って答えられなかった。
 それでも、こうして自身の事を親身に考えてくれる他人がいてくれたこと――士郎の存在が僅かばかりの勇気を与えてくれる。

「――ありがとうございました。このお礼はいつか必ずします」
「気にする必要は無い――と言いたいところだがな。折角君が申し出てくれたのだし、楽しみに待たせてもらおう」

 もう一度――今度は半身を振り向かせた士郎は笑みをそのままに告げて、今度こそ振り返らずに歩き去って行った。
 その背が見えなくなるまで見送り続けたフェイトは、少しばかり軽くなった気分のままに笑みを浮かべて目的の店へと歩き出すのだった。


 -Interlude out-


 八神家に戻った士郎は、まだ食欲が戻っていないだろうはやての昼食に鮭と卵の雑炊を用意する。
 もちろん自分用のモノも用意したのは、はやてが自分だけ食べる事を嫌っているからだ。
 食後、薬を飲んだはやての熱は朝に比べれば随分と下がっていた。
 今日はこのまま大人しく寝ているというはやてに見送られた士郎は、戸締まりを済ませてから家を後にする。

『――士郎』

 歩き始めて間もなく、脳裏に響くように聞こえてきたのはユーノの声だった。

『ユーノか。何か、進展があったのか?』
『うん。ジュエルシードの反応をレイジングハートが見つけたんだ。町外れの倉庫街方面だね』

 ユーノは朝からジュエルシードが放つ特殊な波動を追跡していたらしい。
 なのはのデバイスであるレイジングハートによる広域走査にそれが引っかかったらしく、大まかな位置は判明したらしい。

『なるほど。あの辺なら人気もないし、都合はいいな。それにしても、レイジングハートの損傷はもう直ったのか?』

 士郎の懸念はそこにあった。
 昨晩の戦闘の際、ジュエルシードの暴走から主を守るため、レイジングハートはその身を挺してなのはを護った。
 結果として、レイジングハートの本体には相応の損傷が認められたため、昨晩から自己修復モードに入っていたのだ。

『まだもう少し修復作業が残ってるけど、大丈夫だよ。僕は夕方になったら学校帰りのなのはに直接レイジングハートを届けて、そのままジュエルシードの回収に向かうよ』
『そうか。俺も翠屋での仕事が終わり次第現場に向かうから、出来るだけ時間は合わせて――ああ、心配するな。次は斬り捨てるなんて無茶はしない。もしもの時は、遠距離狙撃で"粉砕"するつもりだ』

 ジュエルシード暴走の際に直接本体を斬りつけた士郎はジュエルシードの耐久力を把握している。
 容易く破壊できる類のものではないが、それでも保有する幾つかの宝具の真名を開放すれば対処可能だという確信があった。

『ぶ、物騒だね……まあ、とりあえず昨日のような暴走状態にはさせないように気をつけるつもりだから』
『了解だ。では、また後で』
『うん、また後でね』

 問題なく使用する事が出来るようになった唯一の魔法――念話を終えて歩を早める。
 職場へと向かいながら、士郎は今日という日が長くなるだろうという確信めいた予感を覚えるのだった。


 -Interlude-


 地球での用事を済ませたアルフたちは拠点へと戻ってきていた。
 フェイトが大事そうに抱えていたお土産――中身はケーキセットらしい――は、街で偶然であった男――衛宮士郎の助言を受けて購入を決めたものらしい。
 味方ではないが、完全な敵というわけでもないあの男を、フェイトはすっかり信頼しているらしい。
 ――もちろん、結果的にフェイトを守ってくれた彼に対してはアルフ自身もそれなりに信頼を感じていた。
 笑うことも殆ど無く、ただ母親の願いを叶えるためにジュエルシードを集めていたフェイトに笑顔を浮かべさせてくれた事には感謝しても足りないほどだ。
 けれど――それでも、そんな全てを台無しにするかの如く、フェイトの笑顔は"ここ"で無残に打ち砕かれた。

『ジュエルシード……間違いないわ。よく頑張ったわって、褒めてあげたいところだけど――』
『――……ッ!?』
『私はあなたに何て伝えた? "二十一個"のジュエルシード……全部を集めてくるようにって、言ったわよね?』

 フェイトと共に戻ってきた"時の庭園"は彼女――フェイトの母親であるプレシア・テスタロッサの居城だ。
 フェイトは今、アルフのすぐ側にある扉の向こうでプレシアに回収してきたジュエルシードを引き渡していたのだが――。

『――それは?』
『あの……母さんに――』
『――っ!! そんな暇があったら、言われた事をちゃんとおやりなさい!!』

 だが、アルフの耳に届くのはプレシアのフェイトに対する叱責の言葉と怒鳴り声だけだった。
 音から察する限り、おみやげを地面へ叩き落されたフェイトは今――プレシアの鞭に身体を打ち据えられて悲鳴を零していた。

「――なんで……なんでだよ…。ちゃんと言われたものを、持ってきたじゃんか…ッ」

 フェイトの使い魔であるアルフには、フェイトの言葉を裏切って助けに入ることは出来ない。
 けれど、そうして苦悩して頭を抱えるアルフの脳裏にはあの光景が――危険を承知の上で、まるでフェイトを守るために現われた衛宮士郎の姿が鮮明に思い出されていた。

「…アタシはフェイトを守る。ちゃんと集めなきゃフェイトが酷い事をされるなら、ちゃんと集める。今度は…今度こそは――」

 部屋の中から聞こえてくる音が無くなった事を確認してアルフは立ち上がった。
 ――邪魔をするなら、例え相手が誰であろうと容赦はしない。
 零した涙も、浮かべていた苦悩も全て消して覚悟を決める。全ては自身よりもずっと悲しくて痛い思いをしていたフェイトのために――。


 -Interlude-


 放課後の帰り道――修復を終えたレイジングハートと一緒に迎えに来たユーノと合流したなのはが向かったのは町外れの倉庫街だ。
 ユーノとレイジングハートが見つけた次のジュエルシードがある場所……そこに彼女――フェイトもやって来る筈だという確信がなのはの足を進ませる。
 昨夜は士郎という共通の友人が怪我をしていた事を切っ掛けに僅かばかり会話が成立したが、それは彼女と向き合って話をしたことにはならないだろう。
 静かな覚悟を胸に一歩一歩進んでいく――。
 コンテナが積み重なって出来た道を歩いて行くと、ちょうど反対側から一人の少女が歩いてくる姿がなのはの視界に入った。
 ジュエルシードはすぐ横に――正面に立ち止まった彼女と対面する。
 即座にデバイスを手にして臨戦態勢に入ろうとするフェイトに合わせて、なのはもレイジングハートを構えた。

「あの、フェイト…ちゃん」

 恐る恐るその名前を口にする。
 直接彼女から聞いたわけではなく、彼女の使い魔であるアルフや士郎が口にしていた名前だ。
 それをフェイトがどう受け止めてくれたのかはわからなかった。
 ただ、彼女は一瞬だけ緩めた表情をすぐに引き締め、なのはへと真っ直ぐに視線を向けてくる。

「……フェイト・テスタロッサ」
「うん、私はフェイトちゃんと話をしたいだけなんだけど……」
「ジュエルシードは…譲れないから」

 告げてバリアジャケットを展開するフェイトに合わせてバリアジャケットを装着する。
 互いに戦闘の準備は整った――けれど、言葉を交わせる内は言葉を口にして話し合いたい。
 例え戦闘が避けられないものだとしても、なのはは彼女をただ打ち倒したいわけではないのだから――。 

「私も譲れない。理由を聞きたいから――フェイトちゃんが、なんでジュエルシードを集めてるのか……どうしてそんな、寂しそうな目をしてるのか? わたしが勝ったら、お話聞かせてくれる?」

 強い決意の込められた視線が返ってくる。
 それを返答として受け取り、なのはは杖を構えて足を踏み出した。
 互いに前進しながら視線は決して逸らさない。
 今日こそは――と、決意を込めて杖を振り上げようとした瞬間、眩い光がフェイトとの間に降り注いだ。

「――そこまでだ!」

 光が薄れていく。その中から現われたのは黒衣のジャケットに身を包んだ一人の少年だった。
 その姿を認めた瞬間、なのはとフェイトの両手両足に拘束魔法のバインドが展開される。
 素早く、それでいて頑丈な術式展開は、少年の魔導師としての高い力量を示していた。

「時空管理局――執務官、クロノ・ハラオウンだ」
「えっ?」
「――管理局!?」

 少年が空中に表示させた身分証明のような物を見た瞬間、後方で見守ってくれていたユーノと人型の姿をしているアルフが声を上げた。

「さて、事情を聞かせてもらおうか?」

 場を鎮めるような冷静な声が周囲に響く。
 その中で、誰よりも早く行動したのはフェイトの使い魔であるアルフだった。
 鋭く素早い射撃魔法が少年へと放たれるが、それは少年にとっては想定通りの行動だったのだろう。
 彼は慌てる素振りすら見せずに展開した防御魔法で、迫り来るアルフの攻撃を簡単に防いでしまったのだ。

「フェイト! 撤退するよ!!」

 コンテナの上に立ち、先の射撃魔法を空中に幾つも待機させた状態でアルフが声を上げる。
 少年はそれを阻止しようと杖の先端を向けて――僅かになのはへ視線を向けてから歯噛みしながら防御魔法を展開した。
 アルフの放なった高速射撃は威力こそ低いが、地面に着弾することで煙幕を発生させた上に少年を防御体勢のままにして足止めをしている。
 そんな状態を好機と捉えたのか、なのはのすぐ目の前にいたフェイトの気配が動く。
 だが、それと同時に放たれた魔力弾は同じく目前に立っていた少年から放たれたモノだった。

「あ…ぐ……ッ」

 鋭く高密度な射撃魔法の着弾音と共に苦痛に歪んだ声が耳に届く。
 ようやく晴れてきた土埃の先には、地面に倒れたフェイトの姿があった。

「フェイト!? フェイト……フェイト……ッ!!」

 アルフの必死な呼びかけに彼女は辛うじて反応していた。
 だが、どうやら肩に被弾したのは間違いないようで、フェイトの肩から腕に向けて血が流れていた。
 少年の放った魔力弾をまともに受けたせいか、地面に倒れたままのフェイトは朦朧としたまま動けない様子だった。
 それを見据えて少年は杖を構えながら魔力を収束させていく。このまま彼女たちを戦闘不能にするつもりなのだろう。けれど、それは――。

「ダメッ!? 撃っちゃ駄目…っ!!」

 ――それは駄目だ、と。なのはは咄嗟に叫んでいた。
 その声に少年が振り返ると同時――周囲に異様なまでに濃い気配が充満する。

「――何っ!?」

 驚きの声は少年から――彼が見上げた空には、凄まじい速度で飛来してくる無数の剣群が殺到していた。

「……くっ!?」

 障壁に阻まれて弾き飛ばされていく幾つもの剣――。
 けれど、それらは地面に突き刺さった瞬間に地面を凍らせ、少年の足元さえも氷結させていく。
 即座にそれを振り払おうと地面を蹴った少年へ迫る追撃の剣群――少年がその対応に追われている間に、フェイトとアルフの二人は素早く姿を眩ませた。

「ふん。突然乱入し、突然仕切り始め、あまつさえ二人の勝負を邪魔するとはな――」

 いつの間にか止んでいた剣群を振り払い、少年は再び近くの地面に立って構えた。
 少年と共に向けた視線の先から聞こえてきたのは、すっかり聞き慣れた士郎の声だった。

「――君は……彼女たちの仲間か?」
「それは誤解だ。俺はそこの少女と先の少女の戦いを見守っているだけだよ。手出しを控えていたというのに、いきなり割り込んできた君に二人の勝負を台無しにされては堪ったモノではないからな」

 皮肉めいたその言葉は、普段の士郎であれば口にすることがないと断言出来るほど辛辣な声音だった。
 張り詰めた空気と共に現われた彼は、その口元に笑みを刻みながら射殺すほどに鋭い目で少年を見据えていた。


 -Interlude-


 突如現われた男は見た目こそ少年と言って差支えのない風貌だったが、身に纏う気配がそれを否定していた。
 殺気とは違う――威圧感とでも言うべき圧力が少年から遠慮無く浴びせられる。
 器用にも彼――クロノ・ハラオウンの斜め後ろに立つ少女には届かないように指向性を持たせて――。

「僕は時空管理局の執務官、クロノ・ハラオウンだ。この管理外世界において小規模ながら次元震を感知したため、その原因に近しいと思われる魔導師二人の争いに介入した」
「なるほど、自分には正当な理由があるから調停にやってきた…と? わざわざご苦労なことだ」

 どこか試すような物言いに眉根を潜めそうになるが、クロノとて男の狙いに気づかないほど経験値が低いわけではない。

「その通りだ。君も魔導師なら知っているだろう。管理外世界に不用意な干渉をすることは禁止されている」
「何を勘違いしているのかは知らないが、俺は魔導師ではない。俺もそこの少女もこの星――地球出身の地球人だ。まあ、彼女が魔導師であることは否定出来ない事実だがね」

 魔導師ではない――と。さして重要ではない事柄のように少年はそんな言葉を口にした。
 だが、先ほどの剣群が飛来する直前に魔力を感じたのは間違いない。
 そもそも、あれだけの質量武器を持ち歩く事は困難だ。転送魔法を使用していたと考えるのが自然なのだが――。

「リンカーコア……だったか。俺は元々、君たち魔導師が魔力を運用するために必要な機関を持っていなかった。今は――まあ、不慮の事故で後天的に手に入れてしまった状態だがな」
「後天的に……だって? そんな事、一体どうやって――」

 そこまでを口にして、クロノは事件の報告書の一部を思い出していた。
 発生した小規模な次元震の大本であるロストロギアは直後に消滅――収束した魔力は当事者の一人に重傷を与えた、と。
 その魔力爆発を一身に受けた者が、生来備わっていた知覚できないほど小さなリンカーコアを刺激されて――などという可能性が絶対にないと言い切れなかった。

「……まさか、君なのか? 次元震を引き起こしたと思われるロストロギアを"破壊"したアンノウンは…!!」
「そんな事まで把握していたのか……なるほど。ユーノが言っていた通り、管理と調停を第一に考える組織として最低限の監視はしていたらしいな」

 男の言うように、クロノたち管理局はジュエルシードに関わる一連の事件に対して最低限の監視は行なっていた。
 基本的に管理局は管理外世界に対して大規模な捜査介入はできない決まりとなっている。
 それを例外的に曲げる場合とは、周辺の世界に影響を与えそうな事例が管理外世界で起きた時や管理世界の技術や魔導――またはロストロギアなどが管理外世界に強い影響を及ぼそうとしている場合に限られる。
 今回の事例はその例外措置を行う事が承認されたが故の介入だった。
 その原因こそがロストロギア――ジュエルシード。
 一つ一つの魔力結晶体ですら小規模な次元震を引き起こす危険なモノで、例外措置を行うには十分な理由となるのだが――。

「――どうやって"アレ"を破壊した? 純粋魔力を基本とする魔導師にはあの魔力結晶体を破壊することは不可能だし、物理攻撃を行える近代ベルカ式の魔導師だとしても、アレを砕く事は出来ないはずだ」
「だから、俺は魔導師ではないと言っただろう? その辺りの事情を話してもいいが…そもそも、どうするのかはそちら次第だろう?」

 どうするのか…と。選択肢を丸投げして笑みを浮かべる男の狙いをクロノはようやく悟った。
 彼は現場に出てきた管理局員であるクロノ自身ではなく、その背後にある管理局という組織に対して情報交換を持ちかけている――。

「……そちらには、こちらと敵対する意思はない…と?」
「それを正しく判断するためにも情報交換が必要なのではないか…と提案しているだけだ。ただ、俺個人としては必須ではないと思っている…ということだけは伝えておこう」

 管理局の手助けはいらない、と男は言う。
 確かに、個人であのロストロギアを処理できるのであれば男の言葉は最もだろう。
 本来は管理局によって管理するべき危険物だが、それを処理できる彼が、管理外世界の住人からしてみれば得体のしれない管理局の介入を必要と感じないというのは道理だ。

『――話は聞かせてもらいました。クロノ執務官…彼らをアースラへご案内してあげて』

 目の前に現われたスクリーンには一人の女性の姿が映し出されていた。
 クロノの母であり、今回の調査任務の責任者であるリンディ・ハラオウン提督だ。
 彼女が普段よりも僅かばかり真剣な表情を浮かべているのは、男の言葉に対して真剣に検討していたからだろう。
 様々なリスクを考慮した上で、母である彼女が提督としてそう判断したのなら口を挟むべき問題ではない――と、クロノは頷いてみせた。

「……わかりました」
『――それでは、お待ちしていますね』

 返事を返すとリンディは頷きだけを残し、同じようにその画面を眺めていた男へそう告げてからスクリーンを消した。

「――そういうわけだ。こちらには、君たちと話し合いの場を持つ意思がある。そちらはどうだろうか?」
「さて……どうなんだ、ユーノ? 彼らに付いて行っても大丈夫なのか?」

 男は先程まで纏っていた威圧感を廃し、クロノの背後に立っている少女の肩に乗っていた動物の姿をした男に問いかける。

「うん、それは大丈夫だよ。元々、ジュエルシードの捜索願を管理局に提出したのは僕なんだから」
「そうか。なのはも、そういう事でよかったか?」
「うん、大丈夫だよ」

 少女は笑みを浮かべてそう告げる。あの動物モドキと男の判断を信じているのだろう。

「――そういう事になった。剣を向けておいてなんだが、得体のしれない相手に対して必要な措置だったと理解してくれると助かる」
「わかっている。君が単純な敵対行為でこちらを威圧していたわけじゃないことぐらいはな。だからといって、納得したわけじゃないぞ」
「もちろんだ。では、案内をお願いしていいかなクロノ執務官。俺の名前は衛宮士郎――近所の喫茶店に勤めている者だ」

 それは皮肉でも何でもなく、本当に素直に告げられた言葉だった。
 彼は彼自身を偽っていないし、存外本気で自身の事をただの一市民だと告げているのだろう。

「……世も末だな。まあいい……それでは案内しよう。僕たちの船――アースラへ」

 転送陣を展開し、アースラへと座標指定して術式を起動させる。
 光に包まれて移動するまでの一瞬、クロノは少年――衛宮士郎へと視線を向けた。
 堂々と、それでいて油断も隙も見せない立ち振る舞い。
 隣に立つ少女とその肩に乗る動物モドキを守るように佇む彼の姿は、どこからどう見ても普通の少年の姿には見えなかった。



 

 

Episode 14 -決意と誓いの夜-



 見渡す限りに続くどこか近未来的な通路――その只中を士郎は歩いていた。
 解析して此所が巨大な艦船の中だという事がわかったが、使用されている技術は地球のモノとは比べ物にならない。
 魔術的な措置が施されていない事を確認しながら、士郎は先を歩く執務官――クロノ・ハラオウンやなのはたちと共に目的地へと向かう。

『――ユーノ君。ここって一体なんなのかな……』
『時空管理局の次元航行船の中だよ』

 ふいになのはとユーノの念話が耳に届いた。
 基本的に当事者同士にしか聞こえないものだが、二人の念話は士郎にも聞こえるように行われているらしい。

「――ああ、君。バリアジャケットは解除してもらえるか?」
「あ…はい」

 クロノは思い出したように振り返ってそう告げる。
 その言葉に返事を返したなのはは、すぐにバリアジャケットを解除して制服姿へと戻った。
 仮にも管理機構の施設内――部外者が臨戦態勢と同意のバリアジャケットを装着しているというのはご法度なのだろう。
 なのはが制服姿へ戻った事を確認したクロノの視線が地面に――正確には、なのはの足元を歩いていたユーノへと向けられる。

「君もだ。そっちが本来の姿じゃないんだろう?」
「ああ…そういえば――」

 指摘を受けたユーノが何かを思い出したように応える。
 その受け答えに疑問を覚えた士郎は、なのはと視線を合わせて首を傾げた。
 直後、ユーノの身体が発光すると同時に、その形状を変化させて人型を形成していく。
 これまでのユーノとの会話や先のアルフの人型形態から可能性としては考えていたため、そこまで驚く事は無かったが――。

「ふぅ…。なのはにこの姿を見せるのは久しぶり……だっけ?」

 声はそのままに、ユーノはイタチの姿からなのはと同じ年頃の少年の姿となって笑みを浮かべた。

「ユーノ君って……普通の男の子だったの!?」
「あ、あれ? 僕は最初にこの姿をしてたと思うんだけど――」

 驚くなのはにユーノが慌てた様子で弁解するが、少なくとも彼が人間の姿をしているところは士郎も見たことがなかった。

「……まあ驚くのも無理は無いだろうが、互いのコミュニケーション不足ということで今は納得しておけ、なのは」
「そうだな。とりあえず今はこちらを優先してもらえると助かる」

 言い含めるように告げた言葉にクロノが同意する。
 なのはとユーノが会話を中断した事を確認したクロノは今度こそ視線を前に戻して歩みを再開した。

「……君は驚かなかったみたいだが、気づいていたわけじゃないんだろう?」
「ああ。だがまあ、推測していた事でもあるし…許容範囲の出来事だ。そもそも、イタチが人語を解していたというより、人間がイタチの姿になっていた…という方が納得はしやすい」
「なるほど――だが、あれはイタチではなくフェレットだと思うぞ」

 横並びに歩くクロノとそんな会話を交わしながら歩いていく。背後からは、慌てて駆け寄ってくるなのはとユーノの足音が聞こえていた。

「――失礼します、艦長」

 案内を受けて辿り着いたその部屋を一目見て、士郎は関心を通り越して呆れてしまった。
 室内には清流の音が涼やかに流れ、竹筒が石を叩く音も聞こえてくる。室内に植えられた桜の木は満開で、微かに流れる風に乗って桜の花びらが舞っていた。
 部屋の中心には畳が敷かれ、その上に赤い毛氈が広げられている。茶器も最低限揃えられており、すぐ側には野点傘まで用意してあった。

「個人的趣味にしては悪くないが……」

 近未来的な内装の部屋に野点のセットが広げられている様には強い違和感を覚えさせられる。
 そんな違和感の中心で、一人の女性が座ったまま笑みを向けてくる。クロノと通信をしていた人物で、この艦の艦長を務めている女性だ。

「どうぞ」
「は、はい……」

 クロノの声に反応を返したなのはが歩き出す。士郎はその横に並んで勧められるまま席に着いた。

「まずは自己紹介を。私は時空管理局次元航行部所属、次元巡航船アースラ艦長を勤めているリンディ・ハラオウンです」
「アースラ所属の執務官、クロノ・ハラオウンだ」
「え、えっと…高町なのはです」
「ユーノ・スクライアです」

 女性――リンディの自己紹介に続いたクロノの言葉に釣られる形でなのはとユーノが名を名乗る。
 そこで一拍の間が空いた事から全員の視線が士郎へと集まった。
 左右正面から四つの視線を受け止めた士郎は小さくため息を零してから佇まいを正した。

「海鳴駅前商店街で営業中の喫茶翠屋でアルバイトをして生計を立てている衛宮士郎だ。ところで、名前から察するに君たちは親類なのか?」
「ええ。クロノは私の息子です。優秀なんだけど、頭が固いのが玉に瑕なのよ」

 困ったような笑みを浮かべて告げるリンディの言葉にクロノが溜息を零していた。
 そうして互いの自己紹介が終わったところで、事態を一番最初から把握しているユーノによって簡単な確認が行われた。
 ジュエルシードの発掘と管理局への管理委託――。
 輸送船の事故と管理外世界への渡航から地球での一連の出来事を彼は簡潔に告げていく。

「――なるほど……あのロストロギア、ジュエルシードを発掘したのはあなただったんですね」
「……はい」

 事の発端に関わっているせいか、ユーノの表情は申し訳なさそうだった。

「あの、ロストロギアって?」

 どことなく重たい空気を嫌ってか、なのはが至極真っ当な疑問を口にする。

「うーん、遺失世界の遺産…っていってもわからないわね。次元空間の中には、幾つもの世界がある…っていうのは知っているわね。その中には、良くない形で進化しすぎてしまう世界がある」
「進化しすぎた技術や科学が自分たちの世界を滅ぼしてしまい、その後に取り残されてしまった危険な遺産――それらを総称して、ロストロギアと呼ぶんだ」

 リンディの言葉を補足するようにクロノが告げる。
 以前に大凡の説明をユーノから聞いていたため、士郎は特に驚くこともなく話を聞いていた。

「そう。私たち管理局や保護組織が正しく管理していなければならない品物。貴方たちが探しているジュエルシード――」

 言葉をそこで切ったリンディが手元に置いていた茶碗を手にとって口をつける。
 表情を変えないまま僅かに固まった彼女は一度茶碗を置いて、すぐ側に置いていたガラス容器に手を伸ばした。

「あれは次元干渉型のエネルギー結晶体なの。流し込まれた魔力を媒体として次元震を引き起こす事もある危険物よ」

 説明を続けながらガラス容器の蓋を開けたリンディは、中に詰めてあった角砂糖を取り出して茶碗へと投入してしまった。

「君とあの子がぶつかった際の振動と爆発――あれが次元震だよ。たった一つのジュエルシードでもアレだけの威力があるんだ。複数個集まって動かした時の影響は計り知れない」
「大規模次元震や、その上の災害――次元断層が起これば世界の一つや二つ、簡単に消滅してしまうわ。そんな事態は防がなきゃ……」

 クロノの言葉を引き継ぐように告げるリンディだが、今度はガラス容器の側に置いてあったミルク入れに手を伸ばす。
 躊躇することなくそれを茶碗へと注ぎ、落ち着いた所作で茶碗を口元へと持ち上げて口をつける。
 まさかと思いながら、士郎は自身の目の前にある茶碗を取って口をつけたが、茶碗の中に入っていた抹茶はそれほど苦いものではなかった。
 ただ、この抹茶という飲み物に慣れていない人間には苦く感じられるのだろうということは、リンディの奇行を見ていれば容易に想像できる事であった。

「――だから、これよりジュエルシードの回収は私たちが担当します」
「えっ…」
「……っ…!」

 そんな奇行の合間に発したリンディの言葉になのはとユーノがそれぞれ反応する。
 想定通りの事とはいえ、士郎としては頷き難い提案でもあった。
 ――回収は管理局が行うから、一般人は日常へ戻れ。
 それは確かに士郎の脳裏を掠めていたモノと同じ種類の言葉だった。
 だが、そんな言葉で今更引けるほど、なのはの決意と想いは軽いものではない事を知っているから――。

「ひとつ――いいかな、リンディ・ハラオウン提督」
「はい、なんでしょうか」

 自然体で答えるリンディの姿を見た士郎は、自身がこのタイミングで声を上げることを彼女が予測していたのだろうと確信する。
 クロノは兎も角として、流石に組織内で艦長などという役職を担っているだけの事はあり、この手の駆け引きは心得ているのだろう。

「仮に――だが。ここで事件の解決をそちらへ委ねたとして、君らは事件に関わるもう一組の魔導師と使い魔にどのような対応をするつもりだ?」

 告げた言葉に反応したのは他の誰でもない――なのはだ。
 ジュエルシードよりもフェイトとの関わりを重んじるようになっているなのはが、彼女に対する管理局の対応に反応しないはずはない。

「――もちろん説得はします。ですが、止む得ない場合は交戦して捕縛することになるでしょう」

 はっきりとしたリンディの宣言に息を呑む音が耳に届く。
 なのはの表情が目に見えて険しくなったことを横目に確認した士郎は、そのまま小さく頭を振ってなのはへと視線を向けた。

「――迷うな、なのは」
「えっ……?」
「何かをするのに大義名分など必要ない。お前の想いは、それだけで十分戦う理由に値するはずだ」

 世界の危機を救うために戦う――そんな理由は、今の彼女には似合わない。
 今の彼女を突き動かすのは個人的な感情だ。
 どんな理由をつけようと、その行動の根底にはフェイトとの関わりを望むなのはの願いがある。

「正直に言えば、俺はリンディ提督の言葉に頷くべきだと思う。お前は少し前まで争いに関わるような生活をしていなかったんだ。その日常に戻ることを責める他人はここにはいないだろう」
「……わ…私は――」
「だが、それでも貫き通したい想いが――果たしたい願いがお前にはあるんだろう?」

 先程まで迷いを浮かべた表情をしていたなのはの気配が変わる。
 彼女は一度小さく頷いた後、リンディへ決意と想いを秘めた視線を真っ直ぐに向けて頭を下げた。

「お願いします――私たちも、手伝わせてください」

 はっきりとした声で静かに告げるなのはに対して、リンディはそれまで浮かべていた淡い笑みを消して真剣な表情を浮かべた。
 大人と子供――組織の長と外来の一般人。そんな交わりようもない関係性を持つ二人がそれぞれ互いに視線を反らすことなく見つめ合う。

「――僕からもお願いします。僕はともかく、なのはの魔力はそちらにとっても有効な戦力だと思います。ジュエルシードの回収、あの子たちへの牽制――そちらとしては便利に使えるはずです」

 援護はなのはのすぐ隣から――これまで口を噤んでいたユーノが、迷いのない目を向けてリンディへと提案する。
 これまで、なのはを巻き込んでしまったという自責の念があったのだろう。
 迷いをのないなのはの決意を目の当たりにして、ようやくユーノも色々と振り払ったらしい。

「いいでしょう。今回の事件、現地協力者として貴女たちに手伝ってもらいます。切り札は温存したいもの。ね、クロノ執務官」
「…………はい」

 僅かばかり真剣な口調で了承を告げたリンディの言葉を受け、クロノは不承不承といった様子で頷いていた。

「――貴方も、そういうことでよろしいでしょうか?」

 リンディから確認するように問いかけられる。
 士郎としては極力こういった管理組織の類には関わりたくはなかったが――。

「彼女が戦うと決めた以上、俺は彼女を護るだけだ。短い間になるだろうが、よろしく頼む」
「ありがとうございます。ところで、こうして話が纏まった所で提案ですが、事件解決までの間はアースラに移ってもらえませんか?」

 その提案はある意味では当然のものだろう。
 組織として事に当たる以上、足並みを揃える利点は大きい。
 ただ、それを素直に受け入れられるほど、今の士郎にとって日々繰り返される日常は決して無視できるものではなかった。

「ふむ…職場も人手が足りているわけではないし、休みが取れるかどうかはわからないが――」
「――君は……あの次元震の発生を目の当たりにしていて、危機感は抱かなかったのか?」

 ――なんとか休みを取るか、最悪職場を辞するつもりだと告げる前にクロノが噛み付いてくる。
 憤り――というよりは、どこか戸惑いを含んだ声音で尋ねてくるクロノの表情は固く、何よりもその目で問いかけてくる。
 世界を滅ぼしてしまうかもしれない危険物――ロストロギア。それを回収する事と日常を秤にかけるのか――と。

「リンディ提督の提案に反対するつもりはないし、なのはとユーノが君らと行動を共にする事には賛成だ。ただ、俺は世界の危機とやらそのものには基本的に興味がないしな」
「馬鹿な……それじゃあ、君は一体何のために戦っているんだ!」

 管理局員として、多くの人のために戦っているだろうクロノの憤りは理解できる。
 かつては士郎も、より多くの人たちを救うための正義の味方になろうとしていたのだから――。

「俺が剣を執るのは自分自身のためだ。俺はこれまで、俺が護りたいと思う人たちを護るために戦ってきたし、これからもそうしていくつもりだ。まあ、世界がどうでもいい…とまでは思っていないがな」
「だが、ジュエルシードを放置すれば君が護るといった彼女も危険に晒されるんだぞ」
「ああ、だから運良く休みが取れれば、なのはたちと一緒にこちらの厄介になろう。無理だった場合、有事の際にはユーノから連絡を頼むさ」

 なのはたちと行動を共にしないなどという選択肢を選ぶはずもないが、話はそれで終わりだと視線を外す。
 その答えをどう受け止めたのかは分からなかったが、クロノはリンディと頷き合って一歩後ろへと下がった。

「貴方の意思は理解しました。では、とりあえずなのはさんたちは確実にこちらへ移乗してもらえると考えても?」

 視線をなのはへと向けて伺うように告げる。
 リンディの視線を真っ直ぐに受け止めたなのはは、大きくはっきりと頷いた。

「はい、よろしくおねがいします。家族にはちゃんと話して許可をもらいますから」

 家族に明かせるだけの真実を告げて、自身の意思を貫く――。
 覚悟を決めたなのはの言葉に、リンディとクロノは小さく頷いていた。


 -Interlude-


 薄暗い部屋の中で彼女――アルフは自身の主であるフェイトがベッドの上で苦悶の声を零す姿を涙ながら眺めることしか出来なかった。
 治療系の魔法が扱えるわけではないし、できる事といえば通常の治療だけだ。
 それが気休めにしかならないことは、苦しそうに表情を歪めているフェイトを見れば一目瞭然だった。

「駄目だよ…管理局まで出てきたんじゃ、どうにもならないよ……」

 主人の弱った姿を眺めながら震える声で告げる。
 ただでさえ順調とは言い難かったジュエルシードの回収は、管理局の介入を以って更に困難なものとなった。
 どれだけ必死に頑張ろうと、プレシアがフェイトを評価することはないだろう。それでも結果を出さなければフェイトは――。

「――大丈夫…だよ」

 答えるフェイトの声はか細く震えていた。
 傷だらけの身体を震わせながら笑みを浮かべるその姿はアルフの目から見ても痛々しかった。

「大丈夫じゃないよ……ここだって、いつまでバレずに居られるか……。あの鬼ババア――あんたのお母さんだって、フェイトに酷い事ばっかりする! あんな奴のために、もうこれ以上――」
「……母さんのこと、悪く言わないで」

 ありったけの感情を込めた言葉はフェイト自身に止められる。
 そんなことは解っている――母のために戦うと決めているフェイトがその足を止めるはずはない。
 誰に言われずとも、そんなことは彼女に仕えているアルフが一番よく理解していた……けれど、それでも――。

「――言うよ…! だってアタシ……フェイトが心配だ…! フェイトは、アタシのご主人様で…アタシにとっては世界中の誰より大切な子なんだよ…!」

 けれど――それでもアルフは心の底からの言葉を振り絞る。
 それがフェイトにとって聞き入れられないものだとしても、自身を偽ってまで主である彼女を傷つける道を認めることは出来ないから――。

「……群れから捨てられたアタシを拾ってくれて、使い魔にしてくれて…ずっと優しくしてくれた。そんな優しいフェイトが泣くのも苦しむのも、アタシ…嫌なんだよ!」 
「ありがとう……だけど、ごめんね…アルフ。それでも――私は母さんの願いを…叶えてあげたい…から」

 そう呟いて、震える手をそっと頭の上に乗せてくれる。
 優しく頭を撫でてくれるフェイトの手からは確かな暖かさが伝わってきた。
 どこまでも優しく健気なフェイトの手に撫でられながら、アルフは静かに涙を流しながら小さな決意を固めるのだった。


 -Interlude out-


 アースラを後にして元の倉庫街へ戻ってきた士郎たちはその場で解散した。
 家族に説明するために高町家へ戻るなのはたちと別れた士郎は、自身もまた一番最初に説明しなければならない人の元へと向かった。
 日が落ちたとはいえ、まだ人が寝静まるには早すぎる時間帯だ。多くの人たちで賑わう夜の喧噪を背にして足を進めていく。
 次第に人気は無くなっていき、静かな住宅街へと辿り着く。
 目的の家――ぼんやりと明かりのついている八神家を道の先に認めた士郎は少しだけ歩を早めた。

「――あれ、士郎や。こんな遅くにどうしたん?」

 ふいに掛けられた声は家主であるはやてのものだ。
 道路に面した庭と居間を繋ぐ窓辺で一人空を見上げていたのか、塀の上を通してはやてと視線が合った。

「気になって顔を覗かせただけだ。もう起きても大丈夫なのか?」
「うん、熱も下がったしな。今から晩ご飯を温め直して食べようかと思ってたとこなんやけど……士郎もよかったらどうやろ?」
「そうだな。まだ何も食べていないし、はやてさえよければお邪魔させてもらおうか」

 満面の笑みを浮かべるはやてが頷いた事を確認した士郎は玄関口へと回り込む。
 そのまま庭へ入り、テラスと家を繋ぐ窓辺で待っていたはやてのいる場所から室内へと入った。

「今日は士郎が作ってくれてた野菜たっぷりのねぎ鍋や」
「温め直すだけですぐ食べられるようにしてある。朝ご飯にも食べられるように少し多めに作っていたから丁度よかったな」

 いつものように分担して食事の支度を済ませたが、はやてが病み上がりであることを考慮して量は少なめに盛りつけている。

「――それじゃあ、いただきます」
「いただきます」

 はやての声に続いて手を合わせる。
 二人きりの晩ご飯だが、一人で食べる事を考えれば格段の差があった。
 食事の合間にも会話は弾み、毎日の代わり映えしない日常の話題を口にしながら互いの言葉に相槌を返していく。
 時間は瞬く間に過ぎていき、やがて食事も八割ほど片付いた頃――はやては手にしている箸を止めて真っ直ぐに視線を向けてきた。

「――それで、なんや話があるんかな…?」

 端から気まぐれに訪れたとは思っていなかったのだろうか……。
 或いは、士郎が僅かばかり気を張っている事に気づいていたのかもしれない。
 はやては少しだけ表情を固くして、会話の合間を縫うようにそんな質問を投げかけてきた。

「……ああ。暫く、ここには顔を出せないかもしれないんだ」

 嘘や冗談ではない――と。
 ありったけの真実を込めて告げると、はやては特に表情を変える事無く手にしていた箸をテーブルの上に置いた。

「大切な用事があるんだ。海鳴を離れて――というより、しばらくは基本的に国外で過ごすことになる」
「……大事な用事…なんよね?」
「ああ。アルバイト先にも無理を頼んで休みを取らせてもらうつもりだ。もし休みが認められなければ辞めてから向かうつもりだ」

 なのはを護るために戦うと誓った以上は無責任に放り出す事など出来ないし、するつもりもない。
 そのために自身がこれまで短い間でも積み重ねてきた日常を対価にしなければならないことは士郎も理解している。
 これまでも他者と深く関わってこなかったわけではないが、今の日常は士郎にとっても居心地のよいものだったから――。

「それなら、わたしがあれこれ言うことは…ないよ。元々一人で過ごしてたんやし、少し寂しいけど……士郎には士郎の生活があるんやから…」

 はやては表情を歪めたまま声を震わせまいと平静を装って告げる。
 その姿に、士郎は以前から――高町家の団欒を眺めながら考えていた事を口にする覚悟を決めた。
 理由は幾らでも後付けできるだろうし、問題が多い事も認識している。
 それでも、あの遠い過去に抱いていた懐かしい感情を思い出してしまった以上、もう自分を誤魔化すことは出来ないのだから――。

「――それで本題なんだが……用事が終わって戻ってきたら、俺をこの家に居候させてくれないか?」
「――――えっ…?」
「もちろんはやてが嫌なら無理にとは言わないし、許可してもらえるなら家賃はちゃんと払う。図々しい頼みである事は承知しているし、非常識であることも理解しているが……どうだろうか?」

 いまさら彼女を只の他人として見ることは出来ないし、放っておく事も士郎には出来そうになかった。
 今日のようにはやてが独りで苦しんでいる姿を見てしまい、今もこうして互いの距離を空ける事を悲しんでいる彼女を放っておけないから――。

「士郎は……士郎はええの? わたしの家で暮らして、もっと迷惑とか掛けたりするかもしれんのに――」
「はやてと過ごしていて迷惑だと思った事など一度もない。はやてには迷惑かもしれないが、まるで妹が出来たように思っていたぐらいだ」
「――そんなん、わたしも同じや。頼りになって、優しくて……まるでお兄ちゃんのようやって――」

 告げて、目元を服の袖で拭ったはやては満面の笑みを浮かべた。

「うん、ええよ。士郎の用事が終わったら、ちゃんとここに"帰って"きてくれるんよね?」
「――ああ、ちゃんと帰ってくる。何かおみやげを持って帰ってくるから、楽しみにしててくれ」
「了解や。あ、もちろん家賃は安うしとくから安心してな」

 少しだけしっかりとした様子で告げるはやての言葉に、士郎は笑みを浮かべながら頷いた。
 きちんとした対価をやりとりする――それは互いの我が儘を正当化するために必要な事であり、同時にこれからを一緒に過ごそうという契約でもあった。
 
 

 
後書き
十四話目です。

 

 

Episode 15 -管理局-



「はぁ………」
「年寄り臭いよ、リン。どうしたの?」
「溜息くらい漏れるわよ。魔法少女よ、魔法少女。見た目も中身も文句なしの魔法少女なんて――」
『いや~皆さん本当に素晴らしい素材でしたからね~。凛さんとしては彼女たちに会えなくなるのが寂しいのでしょう』
「みんな可愛かったもんね。結構長居しちゃったけど、なんだかんだで色々と収穫もあったし、私たちとしては得るものばっかりで良かったじゃない」
「まあ…ね。世界が違えば"そういう"事もあるっていうのは理解していたつもりなんだけどね。聖杯戦争にも色々な形があるっていうのは興味深かったわ」
『少々頭の堅い方が多かったですが、彼女の友人の方たちは総じてレベル(少女力)が高くて良かったですね~』
「ルビーは節操無さすぎだよ。でもまあ鏡面世界を渡る術――私やリンが目指しているものとは少し違っていたけど、違う世界を行き来するための術が実践できたのは大きいかな」
「そうね。事件解決の報酬として凄く希少な宝石なんかを貰えたし、宝石剣を作成するには足りないけど十分過ぎる成果だったと思うわ」
「私も実験が随分と出来たし、新しい研究材料も手に入ったしね。また遊びにくるって約束もしちゃったから、いつか自由にこの世界にこれるように頑張らないと……」
『そうですね~。私としても、新しい仮マスター(おもちゃ)候補が見つかったのは嬉しい限りです。メルルさんが自由に世界を行き来できるようになったら、ここに戻ってくるのもいいかもしれませんね』
「……いいけど、程々にしてあげなさいよ、ルビー」
『あはは~もちろんですよ凛さん。ルビーちゃんのモットーは(私だけが)楽しく、面白くですからね』
「はぁ……まあいいか。それじゃあそろそろ行きましょう、メルル。次は元いた世界ともう少し離れた世界に飛べるといいんだけど……」
「うん…多分なんとかなると思う。ルビーのお陰で世界を移動するコツは掴めたしね。それじゃあ、いくよ――ルビー!!」
『了解です――次元境界最大展開! 目標座標大まか固定! 新たな世界へレッツゴーです♪』





・――・――・――・――・――・――・




「――ありがとうお母さん、お父さん。それじゃ、いってきます!」

 ありったけの決意を告げていった娘が家を後にして走っていく姿を見送る。
 彼女――高町桃子は先程、娘のなのはに聞かされた話を思い返しながら、星空輝く空を見上げた。

「血は争えない――ってことかな」
「ええ、本当に……そうね」

 隣から掛けられた夫――高町士郎の優しい声に頷きを返す。
 彼の若き頃と同じ、決意と想いを秘めた目をした娘に桃子は遠い過去を思い出すのだった。

「――どうしてもやりたい事がある…か。なのはがあんな風に自分の意見を主張したのは初めてだな」
「……そうだね。でも、なのはが危ない事になるかもしれないって思うと……心配だよ」

 背後から聞こえてくるのは息子の恭也と長女の美由希の声だ。二人は席を外していたのだが、どうやら会話を盗み聞きしていたらしい。
 なのはから聞かされたのは、ここ最近になってなのはが関わっている事の概要と、その状況に対する揺るぎのない覚悟と決意だった。
 心配をかけるかもしれないけれど、それでも貫きたい想いがあるのだと――。
 九歳の子供が抱くには不相応な"覚悟"を前にして、桃子に出来たのは背を押してあげる事だけだった。

「そうだな。確かになのは一人だと心配だけど、"彼"も一緒にいてくれるなら少しは安心できるんじゃないか?」

 告げる夫の言葉に全員が視線を同じ方向へと向ける。
 薄暗い道の先、なのはが走っていった方角とは反対に位置する道を彼――衛宮士郎がゆっくりと歩いてきていた。

「――いらっしゃい、シロくん。きっと訪ねてくるって思ってたわ」
「桃子さん……それに士郎さんや美由希に恭也まで――なのはの見送り…ですか?」

 どこか社交辞令のようにも聞こえる彼の言葉に確信を深める。
 具体的な内容を語ることなく出かけていったなのはだけど、彼はきっとその事情に深く関わっているはずだから――。

「ええ。それと、シロくんのお出迎えね。お仕事の件――かしら?」
「……はい。手前勝手な行いだとは思いますが、しばらくお暇を頂きたいと伝えに来ました」

 どこまでも丁寧に告げる彼の表情はどこまでも真剣だった。
 休みが取れなければ、彼は仕事を辞めてでもなのはに付いていてくれるつもりなのだろう。
 見た目の年齢相応な言葉遣いは彼の心情を伝えてくれるかのようだ。
 だから…というわけではないが――桃子は士郎の要望に対して静かに頭を縦に振った。

「いいわ。ただ、条件が一つ――ちゃんと、全てが終わったらなのはと一緒に戻ってきて。シロくんには、これからお菓子作りを手伝って貰わないといけないんだから」
「ウェイターとして人気急上昇中の士郎くんの席は空けておく。だから、用事が済んだらちゃんと戻ってきてくれよ」

 夫婦揃ってそう告げると、目の前の彼は静かに頭を下げた。
 そこから感じられたのは誠意と決意――そして静かな覚悟だった。

「妹の事をよろしくお願いね、シロ君」

 美由希の言葉にしっかりと頷く彼の視線が恭也へと向けられる。
 互いに伝えたい事がわかっているのか、二人は言葉を口にせず、ただ静かに頷き合っていた。

「誓おう。必ず彼女と共に戻ってくる、と――」

 最後に――いつかのように無骨なようで丁寧な言葉を残して彼は去っていった。
 向かっていく方角がなのはの歩き去っていった方向と一致するのは、恐らくどこかで合流する予定だからだろう。

「――お願いね、シロ君」

 先日、家に泊まってもらった際に聞いた彼の過去――。
 その全ては想像する事しかできないものではあったけれど、彼の想いと人柄は信頼に値すると確信している。
 だから桃子は、優しく肩を抱いてくれる夫と共に、闇夜に消えていった彼の後ろ姿をじっと眺め続けるのだった。


 -Interlude out-


 桃子たちと別れた後、士郎は高町家からそう遠くない近所の公園へと足を踏み入れた。
 公園灯にぼんやりと照らされた薄暗いベンチに腰掛けていたなのはとユーノを発見し、ゆっくりと二人の元へと歩いていく。

「――待たせたな、二人とも」
「早かったんだね、士郎。僕たちも少し前に来たばかりだよ」
「士郎くんは大丈夫だったの?」
「ああ、ちゃんと休みをもらえた。なのはも……ちゃんと話してきたのか?」

 桃子たちの様子から察するに、ちゃんと事情を告げてきたのだろう。
 不安そうにしていた高町家の皆を思い出しながら、士郎は真っ直ぐになのはへと問いかけた。

「うん、ちゃんとお話ししてきたよ。魔法の事は内緒だけど、それ以外の事は全部……ちゃんと、私の想いを伝えてきた」
「……そうか」

 決意の込められた声を耳にした士郎は、桃子たちが心配を露わにしていた理由を察した。
 年齢に似つかわしくない決意と覚悟――それが身近な人たちにどう映っていたのか…など、想像するまでもない。

「――なんだ。もう全員が揃っているのか?」

 不意に聞こえてきたのはクロノの声だ。
 薄暗い木陰から現れた彼は士郎たちを流し見て意外そうな表情を浮かべていた。

「出迎えは君だったか、クロノ」
「ああ。時間には少し早いけど、全員が揃っているなら行くとしよう。その様子だと、ちゃんと許可はもらえたようだしな」

 少しだけ不機嫌そうに告げるクロノに対して、士郎は苦笑しながら頷きを返す。
 そんなやりとりがどう映っていたのか、なのはとユーノは二人揃って溜息を零していた。

「世話になる」
「ああ」

 簡潔に言葉を交わして頷き合う。
 そうして、歩き始めたクロノに着いていった先には小さな結界が張ってあった。

「こちらクロノ――転送をお願いします」

 クロノの合図に従って地面に魔方陣が浮かび上がる。
 術式が作動した事を確認した士郎は、何度目かになる転送にすっかり慣れてしまった事を実感するのだった。


 -Interlude-


 本格的な行動の開始を宣言した翌日――。
 モニターの向こうで戦う高町なのはとユーノ・スクライアの二人を眺めながら、彼――クロノ・ハラオウンは眉根を寄せていた。 

『――Restrict lock!』

 相手はジュエルシードによって変貌した巨大な鳥だ。
 その鳥を捕らえるユーノの拘束魔法に続けてなのはが魔法を発動させる。

『そう! バインドを上手く使えば動きの速い相手も止められるし、大型魔法を当てる事も容易になるんだ!』
『うん!』

 現在、クロノが艦長であるリンディや同僚のエイミィ・リミエッタと共にいるのは、アースラ艦内での情報収集を主目的とした場所だ。
 薄暗い室内にあって主な光源となっているのは画面が発している光だけだが、その画面の周囲には様々な情報が矢継ぎ早に映し出されていた。

「あーやっぱりだめだ。見つからない」

 手を尽くして捜索を続けているエイミィが声を上げる。
 手がかりさえ掴ませてくれない相手の追跡は予想よりも遙かに困難だった。

「向こうもなかなか優秀だ。使い魔を連れているとはいえ、単身でロストロギアを追っているだけの事はある」
「そうだね。あれから一日しか経っていないのに、こっちが発見した二つのジュエルシードを奪われちゃってる。手強いな……」

 エイミィの声はどこか悔しさの滲んだものだったが、それも仕方がないだろう。
 管理局の次元航行部隊が単身で動いている相手の魔導師に少なからず出し抜かれているのは曲げる事の出来ない事実なのだから――。

「だけど、ジュエルシードの回収自体は順調だと言えるだろう。今もちょうどなのはが一つ封印し終えたところだ」
「本当だ…なのはちゃん、凄いね~。ユーノ君に聞いたんだけど、なのはちゃんは少し前まで魔法は当然として、武術の類もやっていない素人だったって言うんだから、驚きだよね」
「確かにな。もちろん才能があってのことだろうけど、努力も沢山したんだろう。良い指導者たちもいたみたいだしな」

 モニターにはジュエルシードの封印を成功させたなのはとユーノ――そして、二人を見守るように離れた場所に立つ士郎が映っていた。

「……ところで、エイミィ。君はあの男――衛宮士郎をどう思う?」

 僅かに声を落として告げる。
 クロノもそれなりに人間を見る目は養ってきたつもりだが、彼に関しては色々と思うところがあった。
 同僚で、ある意味自身よりも人を見る目を持っていると思われるエイミィの意見を聞いてみたのは、偏に衛宮士郎という男に対する好奇心だった。

「う-ん、どうだろうね。まだあまり話をしたわけじゃないし…でも、悪い人じゃないって思うよ」
「ああ、それは僕も同感だ。色々と不可解なところもあるが、根は善人なんだろう」

 色々と相容れない部分もあるが、少なくとも彼の主張は嫌悪を抱かせる類のものではない。
 確固たる信念――そう評しても過不足のない想いを以て彼は行動している。
 ただ、それが恐らく組織という枠組みには収まりきらないだろうというだけのこと――。

「交渉も手慣れていたし、最初にクロノ君と接触した時には魔法…なのかな? 剣を飛ばして攻撃してたみたいだけど、魔導師じゃないって言ってたよね」
「そうだな。ただ、彼があのロストロギア――ジュエルシードを"破壊した"という事は事実だ。正直、未知数すぎて判断に困ってる」

 告げて手元に映し出したのは士郎のパーソナルデータだ。
 身体能力などは正確に計測してはいないが、見た目からは想像も出来ないような鍛え方をしている事は分かっている。 
 正式に協力してもらうため、アースラへ移動してもらった際に三人の魔力量などは計測してあるが、士郎のソレはEランク――正直に言えば、素質のない子供のそれと同じ程度だ。
 ユーノはAランクと、それなりに優秀な魔力を保有しており、現在戦闘の矢面に立っているなのはの魔力量は非常に高く、ランクにすれば破格のAAAランクである。
 その資質だけで判断するなら、士郎は到底戦力に数えることのできない存在だ。
 ――だが、なのはやユーノから簡単に聞いた限りでは、士郎の戦闘能力はなのはや、あの相手の魔導師よりも高いという。
 事実、なのはが初めて相手の魔導師と接触した際に、彼女の窮地を救って見せたのは他ならぬ彼――衛宮士郎だというのだ。
 それが嘘偽りのない真実であるということは、僅かな間だけとはいえ、士郎と正面から対峙したことのあるクロノには理解できた。

「でも、それならジュエルシードを封印する時に手を出そうとしないのは、なのはちゃんに経験を積ませるためだけ――なのかな」
「どうかな。なのはに経験を積ませたいのは確かなんだろうけど、僕たちの監視があるからなのかもしれない。彼は管理局を信用しているわけではないようだしな」

 あるいは――本当に"これくらいの事態"と認識した上での行動なのかもしれない。
 これまで何度かジュエルシードと接触し、魔導師とも戦闘を行っておきながら、それも全て彼にとっては"日常"でしかない――と。

「――なんにしても…だ。注意して観察を続けておくべきだろう。…とりあえず、そんなところでどうでしょうか、艦長」
「ええ、対応はそれでお願いね。ただ、私個人の意見としては……そうね、士郎君は警戒すべき人物だと思うけど、同時に信頼も信用も出来る人だと思うのよね」

 矛盾してるけど――と、苦笑しながら呟いたリンディの言葉にクロノは内心で頷いていた。
 確かに得体は知れないが、彼と会話を交わして同じような感想を抱いていたクロノはリンディの意見に賛成だった。
 もう一度モニターへ視線を向けると、そこにはなのはに対して戦闘中の注意点を伝えながら指導を行っている士郎の姿が映っていた。


 -Interlude out-


 管理局の臨時局員という立場でジュエルシードの回収に奔走するようになって十日――。
 この期間になのはが集めたジュエルシードの数は四個。フェイトたちが集めた数は推定三個――。
 以前に集めていたジュエルシード三つと、フェイトたちが確保していたと思われる二つ、そして倉庫街で確保した一つと士郎が破壊した一つ。
 合計すれば、残り七個程度のジュエルシードが残されているはずだが、そろそろ反応そのものを見つける事さえ少なくなってきていた。

「――なかなか見つからないね」
「これまでは陸地に捜索範囲を絞って回収してきたからな。クロノたちは既に海上方面にも捜索の手を伸ばしているようだし、直に見つかるだろう」

 なのはの呟きに答えながら出来たばかりのクッキーと飲み頃になった紅茶を準備してテーブルの上に置いていく。
 アースラ艦内の食堂では他にも局員たちが各々に過ごしており、士郎はユーノとなのはと共に食後のティータイムを満喫していた。
 ユーノの隣――なのはの対面に腰掛けた士郎は自ら準備した茶菓子を摘まんでいく。
 クッキーと紅茶はティータイムのために厨房を借りて作り上げたもので、なのはとユーノからも合格点をもらっている自信作だった。

「それにしても、なのはの上達ぶりには脱帽だな。つくづく、自身の才能の無さを実感するよ」

 ここ数日で集中的に実践と訓練を繰り返したなのはの技量は以前に比べても更に上達を見せていた。
 対して、ようやく魔法を扱えるようになった士郎は初歩的な魔法で躓いており、未だ戦闘に耐え得る魔法は習得できていなかった。

「士郎の魔法資質は戦闘向きじゃないみたいだね。色々試してみて身に付いたのは探知魔法と解析魔法――それも、物の構造とかを読み取るタイプのモノに特化しているみたいだし」

 あまりに戦闘関係の魔法が身につかないため、士郎はユーノと相談して魔術で適性のあった分野の魔法を教わってきた。
 その結果は良好で、これまでよりも更に広範囲の探知を可能とする魔法と、より精密な解析を可能とする魔法を習得する事ができたのだが――。

「――でも、お部屋で本を凄い速度で読んでたのも魔法を使ってたんだよね?」
「ああ、ユーノに教わってな。考古学に手を染めていた時もあったし、本を読むのは趣味の一つだからな。覚えられた魔法の中では今のところ群を抜いて有用な魔法だ」

 なのはの問いかけから、過去に世界中を渡り歩いていた際に遺跡探索などを行なっていた頃の事を思い出しながら笑みを浮かべて答える。
 歴史や神話などの造詣を深めていくことが自身の魔術にとって必要な事だったということもあり、調べ物をすることが日課のようになってしまったのだ。

並列処理(マルチタスク)も随分と手慣れているみたいだし、慣れてきたら書庫全体を解析して見つけたい本を探査魔法で探して読む…なんていう事もできると思うよ」
「魔導師としては学者タイプ――ということか。まあ、俺の魔力量を考えれば的確な資質なのかもしれないな」

 考古学を専門とするユーノから学べる事は多い。
 なのはに対する魔法指導も的確である事を考えれば、ユーノが有能な魔導師であることは疑いようもない。

「そういえば、エイミィさんに何か本を借りてたみたいだけど、あれって何の本だったの?」
「あれはミッドチルダの言語を扱っている教本だ。ユーノから教わった魔法も基礎はミッド語で組まれた術式だし、知っておいて損はないだろう? エイミィには返却ついでにお礼として特製のケーキを渡しておいたよ」
「返却ついでって……もしかして、もう全部覚えちゃったの?」

 驚くなのはに頷きを返す。
 とはいえ、既に魔法構築に関連してミッド語をある程度扱っているなのはの方が凄いはずなのだが――。

「魔法で読む速度は上がったし、元々速読は得意でな。少し手間取ったが、余程古い文字でなければ問題はない」
「それなら、今度は古代文字にも挑戦してみない? ミッドチルダより以前に栄えていたベルカの時代に扱われていた文字なんだけど――」
「――失礼する。ちょうど三人揃っていてよかった。少しいいか?」

 ユーノの言葉に被るタイミングで声をかけてきたのはクロノだ。
 いつもの法衣姿ではなく、制服姿で現れたクロノは真っ直ぐに士郎たちの元へとやってきた。

「うん、大丈夫だよ」
「僕らに用事って事は、ジュエルシードに関することかい?」

 なのはとユーノの言葉を聞きながら歩いてきたクロノがユーノの対面――なのはの隣の席へ腰掛ける。
 士郎はそんなクロノに茶菓子を用意しながら、彼の纏っている空気の柔らかさから緊急性の高い話題を持ってきたわけではないのだろうと確信した。

「それなら態々訪ねてくるようなことはしないだろう。個人的――あるいは、執務官的に俺たちに用事があるんだろう」
「相変わらず察しが早くて助かる。用事というのは他でもない――君に関することだ、士郎」
「俺の? ふむ…そういう事ならちゃんと話を聞かせてもらおうか」

 佇まいを正してクロノと向き合う。
 幾分真面目な表情を向けてくるクロノに対して、士郎も同じように表情を引き締めた。

「これまでジュエルシードを回収する際には三人に出向いてもらったが、結局こちらでは士郎の戦闘能力を確認することは出来なかった」
「なるほど…それで、執務官としては俺を戦力として数えて良いのか――あるいは、どのような場面で投入するのが望ましい戦力なのかを把握しに来た…というわけか」

 基本的に戦闘はなのはとユーノが行なってきたが、士郎は手出しを控えてきた。
 士郎が純粋魔力攻撃を行うには宝具を炸裂させる"壊れた幻想(ブロークンファンタズム)"を使用するしかないという事情もあるが、なのはに戦闘経験を積ませる必要性があったためだ。
 だが、クロノたち管理局の側からすれば、戦闘魔法も使えず魔力値も低い士郎は戦力になるのかどうかも判断できない不確定要素でしかないだろう。

「別に根掘り葉掘り調べようなんて思っていない。ただ君たちから話を聞いて、衛宮士郎という男がどんな戦力として扱えるのかを考えるための材料を集めに来ただけだ」

 飾り言葉を捨てて率直に告げるクロノの言葉になのはとユーノは顔を見合わせる。
 対して士郎は、形式に拘らず実利を取るクロノの柔軟性に感心したように笑みを浮かべるのだった。

「えっと…いいのかな、士郎くん?」

 不安げに尋ねてくるなのはに対して、士郎は頷いてみせた。

「ああ、別に構わない。特に困ることはないし、都合の悪いことならこっちで勝手に口を閉じる。それでいいんだろう、クロノ」
「もちろんだ」
「えっと、じゃあ――」

 そうしてなのはが語ったのは最初の戦闘――フェイトとの戦いに介入した士郎の戦闘に関してだった。
 武器を使用しての戦闘と、体術でフェイトを完封してみせた一部始終。その後、アルフの介入を退けた事などを所感を交えて語っていく。
 そんななのはの言葉に続くように口を開いたのはユーノだ。彼が語ったのは、ジュエルシードが暴走した際の事だった。
 魔力を帯びた強力な剣を取り出し、それを使用してジュエルシードを破壊した事などを語る。
 その話を聞いたクロノは興味を覗かせながらも破壊した剣の詳細については追求してこなかった。

「――なるほど。つまり君は基本的に陸戦型で、攻撃魔法の類は習得していないが、物質転送によって武装を取り出し、それを射出――あるいは手持ちの武器として扱って戦うということだな」

 話を聞き終えたクロノは士郎へと確認の言葉を投げかけてくる。その言葉に士郎は静かに首肯を返した。

「ああ、その認識で間違いない。後は、そうだな……狙撃は得意な部類だ。状況にもよるが、数キロから十キロ程度なら精密狙撃が出来る」
「それは……凄いな。ところで、話を聞いていると君が扱うのは随分と剣に偏っているんだな。射出するなら、剣でなくても矢のようなモノを飛ばせばいいんじゃないのか?」

 クロノの疑問はもっともだろう。
 基本的に剣は投擲するのに適した形状をしているわけではないのだから――。

「それは魔術における属性が関わっているんだ。俺の属性は剣――魔術で取り出すもので剣が多い理由の一つだ」

 魔術に関して興味があるのか、クロノは興味深そうに耳を傾けていた。
 同じように話を聞いていたユーノとなのはだが、ふと気づいたようになのはが小さく手を挙げた。

「あの……士郎くん。さっき、ユーノ君と魔法の話をしてたよね? それと今のお話を聞いていて思ったんだけど、士郎君が覚えられた魔法って、魔術で得意な事だったりしない?」
「確かに、元々解析や構造把握は得意だ。本を読む魔法や探索魔法も――そうだな、心当たりはある」

 元々、士郎が扱う魔術は固有結界――"無限の剣製(アンリミテッドブレイドワークス)"から零れ落ちたものだ。
 剣であるなら、視認しただけで複製し貯蔵する極限の魔術――。
 解析や構造把握は剣を複製する際の過程の一つであり、情報を読み取る事や目的のモノを探すという過程も極論すれば同じ扱いになる。

「じゃあ、剣に関する魔法だったら、士郎くんも覚えられるんじゃないかな?」

 だからこそ、これまで剣であるならどんなものでも複製してきた自負のある士郎にとって、なのはの言葉は至極最もな意見だった。

「――そうだな。ユーノ、クロノ。そういった魔法はあるのか?」
「僕はあまり攻撃的な魔法は覚えていないんだ。結界とか、障壁、拘束魔法は得意だけど――」

 申し訳なさそうに告げるユーノの視線はそのままクロノへと向けられる。
 それを正面から受け止めたクロノは、僅かに笑みを浮かべながら頷いてみせた。

「魔力刃を形成するだけなら難しいことじゃないし、幸い僕の魔法の中には魔力で形成した剣を射出するものがある。それを試してみてもいいが…どうする?」
「クロノさえ良ければ頼めるか? 最悪、魔法として扱えなくても魔術で再現できる可能性はあるしな」

 士郎が貯蔵する数多の宝具は剣の形をした神秘――膨大な魔力を内包したものだ。
 だからこそ、例え魔法として再現できずとも"剣"であるなら複製する事は出来るという確信があった。

「了解した。それじゃあ、少し場所を変えるとしよう。流石に、食堂でそんな魔法を使用するわけにはいかないからな」
「すまないな。手間を取らせる」
「いいさ。それに、君は防護服も形成できないそうだし、その辺りも含めて身につけてもらいたいからな」

 少しだけ笑みを刻んで告げるクロノの言葉に士郎は頷きを返した。
 その後――艦内演習所で魔法の手ほどきを受けた士郎が剣に関わる魔法をあっさりと覚えた反面――それよりも随分と難度が落ちる防護服形成に苦戦してクロノに呆れられたのは言うまでも無い。




 
 

 
後書き
十五話目です。

 

 

Episode 16 -伝える想い-

 
 
 アースラ艦内に用意された一室で彼女――高町なのはは横になったまま天井を見上げる。
 そうして、ようやく見慣れてきた天井を眺めたまま遠い日の光景を思い出していた。
 まだ幼い頃――父の高町士郎が事故で重傷を負って入院し、生死の境を彷徨った末に昏睡状態となっていた頃の事だ。
 夫婦の夢だった駅前の喫茶店は開店したばかりで、母の桃子はまだ幼い子供たちに寂しい思いをさせまいと一生懸命だった。
 兄の恭也と姉の美由希は大好きな剣術の訓練を中止して、忙しい店や家の事を手伝っていた。
 その最中、最も幼かったなのはは一人家で過ごす事が多く、寂しさから自身が要らない子供なのではないか――と、そんなことを考えて日々を過ごしていた。
 ある時、夜遅くに目覚めた彼女は聞こえてくる小さな声に導かれるように薄暗いリビングへ足を運んだ。
 そこで見たのは、いつも笑顔を浮かべて忙しそうに頑張っていた母が、ひどく辛そうに肩を震わせている姿だった。
 声をかける事もできず、なのはは静かにその姿を眺めていた。
 そんな彼女を見つけた時に浮かべた母の表情を、なのはは今でもハッキリと覚えている。

 ――ごめんね。

 そんな言葉を口にしながら笑みを向けてくれた母――。
 その腕で優しく胸に抱かれ、すぐ側から聞こえてきた優しい声に耳を傾ける。

 ――いつも一人で寂しいよね。お父さんもすぐに元気になって帰ってくるから、そうしたらまた…家族みんなで遊びに行けるから。

 その言葉が嬉しくて、切なくて――ただ守られて何も出来ない無力な自身の小ささを知った。
 悲しみを――悲しんでいる人を前にして何も出来ない小さな自分が悔しかった。
 兄も姉も、なのはが笑ってくれているだけで頑張れるのだと――。
 心の底からそう告げてくれる優しい家族の言葉に励まされ、せめて家族を元気づけようと笑顔を浮かべるようになった。
 やがて父が目を覚まし、次第に家族が家族としての形を取り戻していく。
 ――それでも、胸の内に巣くう寂しさは消えなかった。
 幾許かの時が経った今、幸福の只中で実感するのは変わらず小さなままの自身の手――何も出来ない無力な自分自身だった。
 大好きな家族と一緒に過ごして、大切な友達と過ごす毎日に不満なんてない。
 それでも、時折感情が溢れそうになるのはどうしようもなくて――。
 だから、そんな時はいつも人気のない埠頭へと足を運び、吐き出すように声を上げて泣いた。
 ありったけの寂しさと、ありったけの悔しさを――胸に巣食うどうしようもない感情をただ吐き出すように叫んでいた。

 ――せっかく魚が寄ってきていたのに、逃げられてしまったな。

 一人きりのはずだった埠頭でそんな言葉を耳にしたのはつい最近の事――。
 小さな釣竿を手にして魚釣りをしていた年上の少年――彼を一目見た瞬間、喩えようのない気持ちが溢れた。
 寂しさと悲しさを秘めた目。けれど、それら全てを受け入れて笑みを浮かべる姿に目を奪われる。
 誰にでも叫びたい時はある…と、優しく呟いた彼の言葉を耳に届けて、なのはは少年へと問いかけた。貴方にもあるのか――と。

 ――そうだな……あるよ。胸を掻き毟りたくなる位……いや、声を絞り尽くしてしまいたいほど叫びたくなるときが、確かに――。

 自分と同じような想いを抱えている人――そんな確信を抱いた。
 けれど、そんな考えが透けて見えたのか……彼は優しく笑って首を横に振った。

 ――俺のソレと、君のソレは確かに同じ種類のものかもしれない。けど、だからこそ君は君だけの答えを探し続けないとな。

 優しく突き放す言葉――けれど、それは考えてみれば当然の事だった。
 悲しみも寂しさも共感する事はできるだろう。
 けれど、その寂しさと悲しさに対してどうするのかを決断するのは、それらの感情を抱えている自分自身なのだから――。





・――・――・――・――・――・――・――・――・――・





 -Interlude-


 天候の荒れたその日に彼女――アルフは主人であるフェイトと共に海上へとやってきていた。
 ジュエルシードの大まかな位置は分かったが、正確な位置は判明していない。
 その事実を前にしたフェイトが選んだ選択肢は、海に向けて魔力流を打ち込み、強制発動させた上で封印するというものだった。
 
「(――だけど、フェイト。無茶だよ……そんな状態で……)」

 言葉には出来ずとも、フェイトがギリギリの状態で頑張っている事は使い魔のアルフには痛いほど理解できてしまう。
 使い魔と主には魔法的なつながりがある。双方向ではないが、フェイトの抱いている感情や想いは不可視の絆を通じてアルフへと伝わる。
 そんな彼女には、主であるフェイトがどれだけの想いを以てジュエルシードを集めているのかが解ってしまうから――。

「(だから、反対はしない。フェイトは私が守るんだ――!!)」

 フェイトの身体は衰弱している――。
 時の庭園に戻ればプレシアに痛めつけられ、地球では朝から夜までジュエルシードの捜索をしている。
 食事や睡眠は削れるだけ削り、ジュエルシードを集めた当初から考えても決して万全などと言えるような体調ではないのだ。
 体力は落ち、魔力は消耗し、精神的な余裕すら失った現状でジュエルシードの暴走を促し、一斉封印など無謀にも程がある――。

「――はぁぁぁぁぁぁ……ッ!!」

 周囲に展開した魔力球から放たれる雷撃――それらが周辺の海面へと降り注ぐ。
 途端に反応したジュエルシードが海中で光を放つ。海面から上空へと立ち上る光の柱は全部で七本――。
 
「……はぁ…はぁ……見つけた…! 残り、七つ……ッ!」

 発動したジュエルシードは周囲の海水を取り込み、巨大な蛇のようになった襲いかかってくる。

「――いこう、バルディッシュ!!」

 愛機バルディッシュを構えて臨戦態勢を取るフェイトだが、既に息が上がっている。
 本調子の彼女なら、あの程度の魔力放出で息が上がるなど有り得ないというのに――。
 だからこそ――そんな主の願いを叶えるため…その想いを果たさせるために、アルフは覚悟を決めて海面を睨み付けるのだった。


 -Interlude-


『――エマージェンシー!! 捜索区域海上にて大型の魔力反応を感知しました!』

 艦内に鳴り響くアラートと共に聞こえてくる放送を士郎たちが耳にしたのは食堂での事――。
 魔法の実践を行った後にクロノと別れて戻ってきた直後の事で、周囲の空気は一瞬で緊迫したものに変わっていった。

「アラート!? まさか……」
「恐らく、ジュエルシードが見つかったか――あるいは、既に発動しているんだろう」

 ハッと気づいたように視線を向けてくるなのはに対して、士郎は同意するように告げる。

「どちらにしても、リンディ提督やクロノたちのところへ行って確認してみないとな」
「そ、そうだよね。じゃあ――」
「ただ…その前に一つだけいいか、なのは」

 今にも駆け出しそうな様子のなのはに声を掛けた士郎は、少しだけ表情を引き締めてから続けた。

「これまで管理局の協力者として活動してきた中で、フェイトと接触する機会はなかったし、これから先に何度もチャンスがあるとは思えない」

 語り始めた内容がフェイトに関する事だったからだろう。
 なのははじっと黙ったまま視線を真っ直ぐに姿勢を正し、直ぐ後ろに立っているユーノも何も言わずに黙って話を聞いていた。

「俺は彼女の事情を知らないが、なのはの想いは知っている。だからこれは――そうだな、お節介な年長者からの助言として聞いてくれ」
「……うん」
「色々な事を彼女と話したいだろうし、事情も聞きたいだろう。だけどそれは今の状況では難しい。それはわかるだろう?」
「うん…そうだね」

 どれだけフェイトに対して抱く想いがあろうと、限られた時間でそれを全て伝えるのは難しい。
 それはこれまで幾度かフェイトと戦い、こうして管理局と協力して活動しているなのは本人には痛いほど理解できるはずだ。

「接触していられるのはきっと限られた時間だ。だから多くを語る必要はない。自分の想いを…自分がどうしたいのかを真っ直ぐに、ありったけの気持ちを込めて伝えればいい」
「真っ直ぐに――」
「そうだ。理屈や道理などではない――高町なのはが彼女に対してどうしたいのかを、正直に…真っ直ぐに伝えればいい」

 それが受け入れられるか受け入れられないかはわからない。
 それでも声に出して伝えなければ始まらないものも確かにあるのだから――。

「……わかったよ、士郎くん。フェイトちゃんに何を伝えたいのか、私はどうしたいのか――それを、真っ直ぐにありったけの気持ちを込めて伝えるよ」
「ああ。では、行くとしよう」
「うん!」

 そうして走りだしたなのはの後をユーノと肩を並べて走っていく。
 目指す先はアースラの艦橋――艦長であるリンディやクロノたちがいるであろう場所だ。

「――フェイトちゃん!?」

 駆け込むように辿り着いたアースラの艦橋に、映し出されていた映像を目にしたなのはの声が響き渡る。
 大型のモニターには海上で戦闘状態に入っているフェイトの姿が映っており、その疲弊した様子から余裕のない状況なのだという事だけはわかった。

「状況は?」
「フェイト・テスタロッサが海に落ちていた七つのジュエルシードに対して魔力流を打ち込んで強制発動させた。今は封印しようと戦闘中だが――」

 問いかけに答えたクロノと共にモニターへと目を向ける。
 そこに映っているフェイトの姿を見れば、先の展開が否応にも想像できてしまった。
 静かに隣へと視線を向ければ、覚悟を定めた表情を浮かべたなのはの姿があった。
 フェイトに想いを伝えると決意した彼女が、窮地に立たされているフェイトの現状を見過ごせるはずがない。

「あの…私、急いで現場に――」
「いや、その必要はない。放っておけばあの子は自滅する。自滅しなかったら力を使い果たしたところで叩く。捕獲の準備を――」
「――了解」

 なのはの言葉を止めたクロノが素早く下した指示にクルーの一人が答える。
 モニターの先では海から吹き上げる無数の水柱がフェイトとアルフの二人に襲い掛かっていた。
 フィールドが海ということもあり、異相体の再生力は生物を核とした時とは比べるまでもない。持久戦になれば分が悪いのは間違いなくフェイトたちだろう。

「残酷に見えるかもしれないけど、これが最善――」

 言い聞かせるようなリンディの声になのはが視線を俯かせる。そこには指示に対する強い葛藤が見て取れた。
 実際、リンディとクロノの策は有効かつ的確だろう。
 封印処置が成功する見込みのない敵対勢力を助けるような真似をして、肝心のジュエルシードを確保できなければ組織としては本末転倒だ。
 自陣の戦力を温存して且つジュエルシードと敵対魔導師であるフェイトとアルフを確保する。
 そうすれば、事件の背後に見え隠れしているであろう"何者か"を炙り出すことが出来るかもしれないのだから――。

「でも……」
「――そうだな、確かにこのまま彼女たちには消耗してもらったほうが都合はいい。下手に介入して本来の目的を損ねては組織として失格だろう」
「……士郎くんッ!?」

 信じられないといった様子で顔を跳ね上げて睨んでくるなのはに対して、士郎は笑みを浮かべて見せた。
 ――わかっている…と。
 フェイトたちを見殺しにするようなことはしないと、言葉にはせずに視線に想いを込めてなのはへと向ける。
 そんな士郎の想いが伝わったのか、なのははそれ以上何かを口にしようとせずに、真っ直ぐにリンディたちへと視線を向けた。

「だが、ひとつだけ不確定要素があるのではないかな? 仮にこのまま彼女たちが力尽きたとして、暴走状態に入った七つのジュエルシードをどうやって抑えるつもりだ? 最悪、こちらが回収作業に入る前に手のつけられないほどの暴走を起こし、次元震を発生させる可能性は考慮してあるのか?」
「それは――」

 可能性を見過ごしているわけでも手立てが全く無いわけでもないのだろう。
 言い淀むクロノの表情を見れば選択の余地が残っている事は理解できるし、それでも自滅を待つと判断したのは暴走状態のジュエルシードを抑える方法があるからだ。
 だが、それでも暴走の可能性はゼロではない。フェイトたちが持ち堪えている間にジュエルシードが暴走して次元震を発生させないという保証など誰にもできないのだから――。

「君らも彼女たちが単独で動いている…などと思っているわけではないだろう? ここで上手く立ち回れば、或いは彼女たちの背後に手が伸ばせるかもしれないぞ」

 ある意味、それは確信を突いた言葉だった。
 なのはと同じ年齢にしては使命感が強く、悲壮なまでに覚悟を決めて戦いに望む――。
 以前に街中でフェイトと出会った時に彼女が零した"母"の存在と、これまでの交流で僅かなりと知れたフェイトの性格を踏まえれば、ある程度の推察は成り立つ。
 彼女――フェイト・テスタロッサの背後にいる彼女の母親……肉親こそがジュエルシードを求めている黒幕であり、フェイトを戦場に送り出している張本人なのだと――。

「――なるほど。それは確かにそうですね。ですが、具体的にはどうするつもりなんです?」

 振り返り、真剣な表情を浮かべたリンディの視線を真っ直ぐに受け止める。
 士郎は自身の周囲に立つなのはとユーノ、そしてクロノへと視線を向けてからゆっくりと頷いた。

「なのはとユーノは現場へ向かわせ、現地で封印作業中の魔導師と連携させてジュエルシードを封印状態にする。それを前提としてアースラで追跡の準備を完了させつつクロノを現地に潜ませ、隙をついてジュエルシードを確保する」
「考えていますね。そうすればジュエルシードも全て――最悪半数以上は確保できる上、現場での戦力比はこちらが勝る。追跡の準備を整えておけば、撤退する彼女たちを追跡することができ、事件の早期解決に繋がると――」
「そういうことだ。だが、最終的な判断は本件の責任を負っている貴女のものだ、リンディ・ハラオウン提督。ただ、こちらも"事件解決"だけを目的として管理局に協力をさせてもらっているわけではないという事は考慮してくれるかな?」

 告げて士郎はなのはへと視線を向けるが、彼女は真っ直ぐにリンディとクロノを見据えている。
 最悪、指示を無視してでも単身でフェイトの元へ向かって行きそうな気配を身に纏った彼女は静かに決定を待っていた。

「――わかりました。貴方の作戦を採用させてもらいましょう」

 そんな彼女の想いが届いたのか、あるいは単純なリスク計算に基づくものだったのか。
 小さく息を吐いたリンディが口にしたのは、士郎の作戦を採用するという決定の言葉だった。

「ところで、貴方はどうするつもりです?」
「流石に海上で空中戦が出来るほど器用ではないし、ここで待機させてもらおう」
「なるほど……では、なのはさんとユーノさん、それとクロノ執務官は現場へ。我々は追跡の準備に掛かります!」

 リンディの号令に従って全員が行動を開始する。
 慌ただしくなった艦橋から転送ポートで現場へ向かうなのはたちを見送った士郎は、そのままリンディの隣に立ってモニターを眺めるのだった。


 -Interlude-


 各員がそれぞれの作業を開始した事を確認した彼女――リンディ・ハラオウンは、直ぐ隣に立つ少年を横目に眺めながら小さく息を吐いた。

「……今回の件は、なのはさんのためですか?」
「ああでも言わなければ、彼女とユーノは独断行動を取ってでもフェイトたちの元へ向かったはずだ。俺個人としてはそれでも良かったが――」

 案じるような響きを含ませた言葉にリンディは視線をそのままに続きを待つ。
 少年――衛宮士郎も視線に気づいたのか、真っ直ぐにリンディへと向き直って視線を返してくる。

「だが、組織の中で自身の想いを貫くのは容易ではないという事を教えておきたかった。他者を鑑みない行動が齎す結果に後悔する前に……な」

 指示や命令を守るという事――それは集団を守るための最低限の規則《ルール》に他ならない。
 それが守られないということは、自分だけではなく共に行動する多くの人に迷惑をかけ、最悪の場合は事故や悲劇を引き起こす事にも直結する。
 ――想いを通し、信念に従うことは決して悪いことではない。
 けれど、こうして組織として動く以上は筋を通さなければならないのだと――彼はそれを示したかったのだ。

「……優しいのね」

 彼が管理局の介入を歓迎しているわけではない事は言葉や態度を見れば分かる。
 事実として、ジュエルシードを個人で処理できる彼にとって管理局との協力体制は情報収集能力の強化以上の意味は持たないだろう。
 そんな彼がこうして組織に身を寄せているのは、自己の心情よりも彼女――高町なのはを守り、彼女の進む道を見守る事を優先したからに違いない。

「いや、老婆心が強いだけだろう。彼女は昔の俺によく似ているし、あの笑顔を曇らせるような後悔をして欲しくはない」

 落ち着いた様子で語る士郎の姿はとても自身の息子であるクロノと同年代の少年とは思えないほど老成していた。
 或いは――本当に、自身よりも年長であるのではないかと思ってしまうほどに、彼が身に纏う空気は落ち着き過ぎている。

「貴方は……後悔しているの?」
「……後悔はしていない。そもそも俺には後悔する資格すらなかったからな」

 僅かばかり憂いを帯びた表情を浮かべながら告げる士郎に、リンディは言葉を続けることが出来なかった。

「どれだけ最善を尽くしても望んだ結果が手に入るわけではない。それでも歩みを止めないのなら、自身の選択の先に開けた道を見据えて進むしかない――そうだろう?」
「……そうですね。確かに、その通りです」

 それきり言葉を閉ざして画面へと視線を固定する士郎を横目にリンディも画面へと視線を向ける。
 映し出されている映像には、現場に転送を済ませてバリアジャケットを展開しているなのはの姿があった。
 彼はその姿を一体どんな想いを以って眺めているのだろうか――成り行きを眺めながら、リンディはそんな事を考えるのだった。


 -Interlude-
 
 
 アースラから転送してきたなのはの眼下には雲海が広がっている。
 落下していく身体をそのままに、全身を打つ風を受けながら目を閉じた。

「――いこう、レイジングハート」
『――All right.』

 いつもの様に応えてくれる愛機の言葉を受けて、なのはは意識を集中させる。

「風は空に。星は天に。輝く光はこの腕に――不屈の(こころ)は、この胸に!」

 決意を込めて閉じた瞼を開く。見据える先に待つ、寂しい目をした少女の元へ向かうために――。

「――レイジングハート!!」
『――Stand by Ready.』

 バリアジャケットを身に纏い、雲海の下へと降りていく。
 分厚い雲を抜けた先――薄暗い空の下にフェイトの姿を認めたなのはは、静かに彼女へと視線を向けた。

「うぁあああ!! フェイトの邪魔を、するなぁッ!!」

 フェイトへと注意を向けるなのはを敵と見なしたアルフが声を上げる。
 異相体の水柱に捕らえられて動きを止めていたアルフは拘束を引き千切り、真っ直ぐになのはへと向かってきた。
 そんな彼女の正面に飛び出したのは、なのはと共に転送陣でやってきていたユーノだった。

「――違う! 僕たちは、君たちと戦いに来たんじゃない!!」

 アルフとの間に展開した障壁を維持しながら、ユーノは更に声を上げる。

「今はジュエルシードを止めないと! 放っておいたら融合して、手のつけられない状態になるかもしれない。止めるんだ! 二人のサポートを!!」

 告げて展開されたのは巨大な魔法陣から伸びる幾つもの拘束魔法――チェーンバインドが海から伸びている竜巻を拘束していく。
 その光景を横目に、なのははフェイトの元へと向かった。
 伝えたい事や話し合いたい事は多くあるけれど、今はただ…協力して脅威を取り除くために――。

「――フェイトちゃん! 手伝って……一緒にジュエルシードを止めよう」
『――Divide energy(ディバイドエナジー)』

 警戒の色を覗かせたままのフェイトに杖の先端を向ける。
 そこから放つのは術式によって変換された魔法ではなく、魔導師が扱いやすいように加工された"魔力そのもの"――。

『――Charging.』

 滞りなく魔力を受け渡せた事を示すように、フェイトの手にするデバイスから声が発せられる。
 その戦斧の先端から放出される魔力刃が勢いよく吹き出す様は、彼女の回復状態を示しているかのようだった。
 
『――Charging completed!』
「二人できっちり、半分こ!」

 受け渡しを終えた事を告げるレイジングハートの言葉に従って杖を構え直す。
 海上ではユーノの拘束魔法とアルフの拘束魔法が竜巻を縛り付け、完全に動きを封じていた。

「ユーノ君とアルフさんが止めてくれてる。だから今のうち! 二人でせーので、一気に封印!」

 告げてフェイトの返事を待たずに上空へと向かったのは、確信していたからだ。
 彼女はきっと協力してくれる――と。
 標的の本体は海中――それを撃ち貫くための最適な位置へと移動しながら、レイジングハートを砲撃特化形態のキャノンモードへと移行させる。
 その最中、思い出すのは過去の出来事――自身の手の小ささを思い知った日の事だった。
 悲しんでいる人がいて、その悲しみに対して何も出来ずに見ていることしか出来ない無力な自分――。
 それが悲しくて、寂しくて。こうして魔法の力を手にしてさえ自身の手のひらは小さいまま――けれど、だからこそ彼女と出会った時に確信を抱くことができた。

 ――ああ、この子も私と同じなんだ。
 
 寂しい目をした彼女と話をしたい。想いを分かち合いたい――それが、答えだった。

「ディバインバスター、フルパワー! 一発で封印、いけるよね!!」
『――Of course master(当然です)』

 構えたレイジングハートの先端に魔力を収束させていく。
 眼下では――既にデバイスを構えたフェイトが魔法陣を展開し、溢れる魔力が雷となって周囲一帯に迸っていた。
 その中心にいる彼女――フェイトと一瞬だけ視線を交わして合図を送る。
 ユーノとアルフの二人が待避を開始した事を確認し、全力全開の一撃を彼女と共に――。
 
「――せぇーのっ!!」
「―――サンダー……レイジ!!」
「ディバイーン――バスター!!」

 フェイトが放った雷撃の嵐――そこへ被せるように限界まで圧縮した魔力を砲撃として放つ。
 雷を纏った砲撃は海上の竜巻全てを打ち消し、その奥――異相体を生み出しているジュエルシード本体を飲み込んでいく。
 辺り一面が眩い光で染め上げられ、直後に海の中から封印されたジュエルシード七つが全て浮かび上がってきた。
 この結果に安堵の息を零して、すぐに気を引き締める。
 なのはにとって、この戦場へやってきた最大の目的を果たすために小さく深呼吸をして気を落ち着かせた。

「――フェイトちゃんに言いたい事、やっとまとまったんだ」

 ジュエルシードを前にフェイトと向かい合ったまま言葉を口にする。
 告げるのは自身の想い――理屈も道理も関係ない素直な気持ち。
 高町なのはが彼女――フェイト・テスタロッサに対して抱いている想いを言葉にして伝える為に――。

「私はフェイトちゃんと色んな事を話し合って――伝え合いたい」

 こうして出会い、敵対して、協力し合って――言葉を交わしてさえ、お互いの全てを分かり合うことは出来ないだろう。
 それでも、伝えたい想いがある――伝えたい願いがあった。
 寂しい目をした彼女の――いつも厳しい表情を浮かべている彼女の心の底からの笑顔が見てみたい。
 一緒に笑って、一緒に悲しんで――もっともっと、お互いに知り合って解り合っていきたいから――。

「――友達に、なりたいんだ」

 ようやく見つけた答えを――ありったけの気持ちを言の葉に乗せて。
 どこか呆然としているフェイトと視線を交わしながら、はっきりと宣言するのだった。





 
 

 
後書き
第十六話です。

 

 

Episode 17 -明かされていく真実-

 
前書き
十七話目です。

 

 


「――旅を始めてから色々な世界があるとは理解していたつもりだけど……」
「星全体が死に向かう"死蝕"……か。星が死に絶えようとする光景を目の当たりにすることになるとは思わなかったわ」
『メルルさんと凛さんは暗いですね~。お二人のおかげでこの星は救われたのですから、もっと嬉しそうにされてはいかがです?』
「ま、確かにその通りね。結構長居しちゃったから情が移っちゃったのかしら」
「これでも随分と急いだつもりなんだけどね。アミタとキリエの二人も凄く頑張って素材を集めてくれたし」
「あの二人はほんと優秀だったものね。ギア―ズ……あそこまで高度な人格を有していれば、殆ど人間と同じ――まあ、あの二人に関しては身体が機械ってだけの人間だったわけだけど」
「魂が宿っているから――だっけ? 凛たち魔術師にとっては魂っていうのは身近な認識なんだね」
「まあね。それにしても今回は随分と深く関わっちゃったけど、その甲斐あって随分と研究が進んだし、素材も集まったわね」
『私としては残念で仕方ありません。ここには魔法少女適正を持った人が一人もいませんでした』
「ルビーの好みはともかくとして、人も随分と少なくなってたみたいだし、これで人が住みやすくなっていければいいよね」
「そこは現地民の今後の努力次第でしょ? 私たちがしたのは土台作り――星の環境を改善する道筋を用意して、死にかけの人間を一人治しただけなんだから」
「そういえば、博士から教えてもらったフォーミュラ・エルトリアの技術理論は凄く興味深かったな~。凛みたいに魔術回路がなくても魔力を操る理論――これを応用すれば私も魔力が扱えるようになりそうだよ」
「科学的なアプローチで魔力を運用する――それも確かに有りよね。上手く扱えれば便利な道具だもの」
『凛さんはあまり興味がないみたいですね~』
「興味とかじゃなくて、私には必要の無いものなのよ。私は過去の先にあるモノを目指しているわけだしね。辿り着く先が同じだとしても、進む道が真逆すぎるもの」
「魔術は過去に、科学は未来に向けて疾走する――だっけ? 凛は過去に向けて進んでいくんだね」
「まあね。とはいえ、魔法に至るために必要なら利用させてもらうわよ」
『流石は凛さんですね。苦手な科学にも魔法に至るためなら関わると――むぎゅ』
「あ・ん・た・は!! 一言多いのよ!!」
「それじゃ、次の世界に行ってみようか。次はどんな世界かな~」
「……まあ、いいけど。次はもう少し落ち着いた環境の場所に移動できるといいわね」
『そこは運次第ということで。それでは、今回も張り切っていきましょう! レッツらゴ~ですよ』





・――・――・――・――・――・――・――・――・――・






 -Interlude-


 放たれた砲撃と雷撃――なのはとフェイトが協力して放った魔法がジュエルシードの異相体全てを飲み込んでいく。
 リンディはその光景をモニター越しに眺めながら、俄に活気づいているクルーを見渡した。

「――凄い、七個全部を一発で完全封印!」

 管制官のエイミィの声が艦橋に響き渡る。
 周囲に表示されていく様々な情報は、先程の二人が放った一撃が如何に凄まじいのかを示していた。
 
「凄いわね」

 素直に感心したリンディの言葉に同意しているのか、隣に立つ士郎も頷きを返す。
 モニターには、フェイトと向かい合ったなのはが自身の想いを告げている姿が映し出されていた。
 始まりを告げる言葉――それが届くかどうかはまだ確定していないが、少なくとも彼女の意思と想いは示せたのだろう。

「ともあれ、これでジュエルシードは全て――」

 封印状態にできた――と。そう告げる直前、艦内にアラートが響き渡った。

「――次元干渉!? 別次元から本艦及び戦闘空域に向けて高次魔力――きます! あと六秒!?」

 エイミィの声に全員が前方へと視線を向ける。
 次元の海とも言えるその空間に出現する魔力の塊――それは(いかづち)となってアースラへと放たれた。
 誰もが唐突なその不意打ちに驚く中、リンディの耳には確かに"ソレ"が聞こえた――。
 
「――――I am the bone of my sword.《体は剣で出来ている》」

 静かに紡がれたその言葉――。
 魔力の波を感じさせないソレは、側に立つ士郎の口から発せられた言霊だった。

「熾天覆う七つの円環(ロー・アイアス)――――!」

 掲げられた左腕の先――紡がれた言葉と共にアースラ前方に巨大な七つの花弁が出現する。
 次元の海に咲いた神秘的な花弁はアースラを護るように大きく広がりを見せ、直後に飛来した雷撃と衝突する。
 七つの花弁に弾き飛ばされていく雷撃はしかし、その範囲を広げて花弁では覆い尽くせなかった部分へと干渉していく。
 そうして、アースラを狙った攻撃が防がれると同時――モニター越しに映る現場にも同じく激しい雷撃が降り注いでいた。

『――母さん!? う、うぁぁぁぁ……ッ』
『――フェイトちゃん!? きゃあ!?』

 雷撃が狙い撃ったのは黒衣の少女――フェイトの全身を雷撃が飲み込み、側にいたなのはも衝撃で弾き飛ばされていく。

 ――その瞬間、ほんの一瞬だけ周囲の空気が震えた。

 ギシリと空気が軋むような音が聞こえたのは決して気のせいではなかったのだろう。
 リンディの視線の先で拳を握りこんでいた士郎の背中からは、強い怒気が発せられていた。
 声を掛けることもできず、リンディはモニターの先で動いた状況を見守る。
 現場では、いま正に現場で待機していたクロノが相手の使い魔と対峙し、ジュエルシードを奪い合っていた。 

『――っ!? 邪魔を、するなぁぁあ!!!』

 凄まじい気迫でクロノを投げ飛ばす使い魔だが、直前にジュエルシードを半数ほど確保したクロノの姿を確認して肩を震わせる。

『っ!! うぁぁあぁあああああ……ッ!!!』

 クロノが四つ、使い魔の少女が三つ――その現状を覆すことは不可能と判断したのだろう。
 海面に向けて叩きつけた魔力弾によって目眩ましの水飛沫を生み出して姿を隠してしまった。

「――いけない、逃走するわ! 捕捉を!」
「先程の雷撃の余波でセンサー機能が一部停止! 追いきれません!」

 報告と同時に使い魔の少女とその主――フェイト・テスタロッサの反応は消失していた。
 センサー障害と追跡阻害の転送魔法が重なった以上、完全に追いかけることはできないだろう。
 
「――ふぅ……」
「すまない。想定が甘かったようだ」

 振り返った士郎の表情はいつもの通り、どこか真剣なものだった。
 そこに先程の雰囲気は微塵も残っておらず、あれが錯覚だったのではないかと思ってしまうほどだ。
 ――だが、あれは決して勘違いでも錯覚でもない。
 リンディは確かにあの瞬間、目の前に立つ少年の放つ気配に身体を強張らせ、恐怖に近しい感情を抱いたのだから――。

「あちらの能力を読みきれなかったのは私も同じです。それより、先ほど艦を守ってくれた巨大な花弁は貴方が?」
「ああ、アレは俺が所有する盾の一つだ。本来は人を守るためのものだからな……流石にアースラ全体を守ることはできなかったようだ」
「転送魔法――いえ、魔術でしたか。クロノの報告では主に剣を所持しているとのことでしたね」
「間違いない。防具の類は殆ど所持していないのでな。頻繁には使えないが、防御力は見ての通りだ」

 アラートが鳴る直前にクロノから受けた報告では、彼――衛宮士郎の魔法に対する適正値は基本的には高くない。
 魔力値もEランクで、基本的に補助的な魔法に適正を見せており、唯一"剣"に関わる魔法にのみ異常に高い適性を見せる――と。
 クロノが展開してみせた魔法――スティンガーブレイドをあっさりと再現した事そのものも驚くべきことだが、クロノが驚いていたのはそれだけではなかった。
 彼が魔法を使用した際に消費した魔力量はクロノの十数分の一程度――。
 だというのに完成度はクロノが最大出力で展開したモノと寸分違わず、操作性能なども極めて高いレベルだったらしい。
 魔力運用効率だけなら、間違いなく魔導師ランクSSと比肩するほどの魔力制御を平然と行ったのだから、クロノの驚きは当然のものだろう。
 そんな彼が防護服の形成に手間取っていると聞かされたときは更に驚いたものである。
 魔術という独自の魔力運用を行う彼が有しているという"剣"の属性が大きく作用しているとの事だが、それだけに防御面の不安は感じていた。
 そこにあの盾――あれほどの魔法を防ぎ、全く傷つかなかった堅牢さは、彼に対して抱いていた防御方面の不安を消し飛ばすには十分だったのだが――。

「――もうじき、なのはたちも戻ってくる。今後の話をするのだろう?」

 僅かに深く思考していたリンディはその声にハッとして視線を向ける。
 どこか安心感を感じさせる笑みを浮かべた士郎の姿に、リンディは頷きを返して応えるのだった。


 -Interlude-


 戻ってきた"時の庭園"内に悲鳴のようなものが響き渡る。
 それを耳にしたアルフは、待機しているように伝えられた部屋から飛び出した。
 向かう先は主であるフェイトが会いに向かったプレシアの元――時の庭園中枢である。
 そうして中枢の部屋に辿りつき、目の前に広がった光景を視界に収めたアルフは全身を震わせ、全力で走った。

「フェイト!? フェイトっ!!……っ!!」

 意識すらなく、恐らくは全身を鞭で打ち据えられ、傷だらけになって地面に倒れている主の元へと駆けつける。
 その傷跡は近くで改めて見ても決して軽いものではなかった。
 ボロボロになって倒れ伏したその身体に自身の外套をそっと被せたアルフは、身を焼きつくすような激情が促すままに立ち上がった。

『――たった八つ……これでは、アルハザードには届かない』

 扉の前に立つアルフの耳に僅かばかり聞こえてくる声――。
 フェイトがあれだけ必死になって集めたジュエルシードを手にしたプレシアの声には落胆すら感じられた。
  
「うっ……げほっ…げほっ!? もう……時間が、ない……」

 怒りで全身を震わせていたアルフにはハッキリと聞こえなかったが、それでもフェイトを傷つけた女の声であることは間違いない。
 ――感情に任せ、魔力を込めた拳を扉へと叩きつけた。
 吹き飛んだ扉はその周辺を巻き込んで砂埃を巻き上げながら消えていく。
 土埃の向こうに立つ女の背を見つけた瞬間――アルフは全力で跳躍し、魔力を込めた拳を振り上げた。

「――はぁぁああああ……ぐぁ!?」

 全力で叩きつけた一撃は展開された防壁に弾かれ、衝撃で身体ごと弾き飛ばされた。
 咄嗟に体勢を整えて相手を見据える。障壁の強度は凄まじい――けれど、そんなものは足を止める理由にすらならなかった。

「うぁぁあああ……はぁ!!」
 
 全身に魔力を漲らせ、再び相手へと肉薄する。
 再び展開される障壁を両手でこじ開けるように広げながら、全力で障壁を突破していく。
 力任せに障壁を引き千切ったアルフは感情の赴くままに女――プレシア・テスタロッサの襟元を掴み上げた。

「アンタは母親でッ!! あの子はアンタの娘だろうッ!! あんなに頑張ってる子に――あんなに一生懸命な子に、なんであんな酷いことができるんだよ!!!」

 ありったけの怒りを込めて言葉をぶつける。
 プレシアの表情に変化はなく、ただ静かに右手を動かす姿が目に入る。
 その手が光を発したと気づいた瞬間――腹部に放たれた鋭く強力な魔力弾がアルフの身体を貫いていた。

「――うぁっ!?」

 柱に叩きつけられ、苦悶の声を零す。
 たった一撃――桁外れの魔力が込められた一撃に意識が遠のきそうになり、必死に意識を繋ぎ止める。
 かろうじて意識を残したアルフはそのまま、目前へとやってきていたプレシアを睨み上げた。

「邪魔よ、消えなさい――」

 目前に向けられた杖の先端――収束していく魔力は先程の魔力弾とは比べるまでもなく強力だった。
 それを受ければ恐らく耐えることは出来ないだろうと直感したアルフは、咄嗟に地面へ転送陣を展開する。
 反射的に構成した術式だったため長距離転送は出来なかったが、それでも回避を成功させ庭園の外へと飛ぶことができた。

「ごめん…フェイト。少しだけ……待ってて――」

 自身の実力ではどう足掻いても勝ち目のない相手――。
 けれど、残してきたフェイトがこれからもプレシアのために戦うであろうことは予測できる。
 そして今度は――そんな最悪の予想を振り払いながら、アルフはもう一度転送魔法を発動させた。
 向かう先は地球――思い浮かべていたのは、どこか不思議な雰囲気を身に纏い、結果として何度もフェイトを救ってくれた一人の少年の姿だった。


 -Interlude out-


「――さて、問題はこれからね」

 薄暗い室内にリンディの声が静かに響く。
 報告に戻ってきたクロノやなのは、ユーノを出迎えた士郎たちは現在、アースラ内の一室で今後の検討を開始していた。

「クロノ――事件の犯人について何か判明しましたか?」
「はい。エイミィ、モニターに映してくれ」
『――はいはーい』

 リンディの問いかけに頷いたクロノは艦橋で作業中のエイミィへと呼びかける。
 受けたエイミィが室内の中央に配置されているテーブルの上に表示させたのは、とある人物の個人情報だった。

 ――プレシア・テスタロッサ。
 
 クロノたちと同じ管理世界――ミッドチルダ出身の魔導師で、彼女――フェイト・テスタロッサの"母親"と思われる人物だ。

「フェイトちゃん……あのとき、母さんって」
「親子……ね」

 なのはの言葉を耳にしたリンディが呟いた言葉には、どこか複雑な感情が込められているようだった。
 親子で管理局員という仕事に従事しているリンディにとって、親子でこのような事件に関わっているフェイトとプレシアに関して思うところもあるのだろう。
 だが――士郎には、それだけではないという予感めいた確信があった。

『プレシアはミッドチルダの民間エネルギー企業で開発主任として勤務。でも、事故を起こして退職していますね。裁判記録が残っています』

 改めて表示された情報を読み取り、僅かばかり疑問を抱いた士郎だが、この場で問い返す必要はないだろうと口を噤んだ。

「――現状ではこれくらいでしょうね。クロノは引き続き調査を。進展があれば随時報告をお願いね」
「了解しました、艦長」
「それじゃあ、なのはさんたちは着いてきてもらえるかしら」

 クロノとの会話を終えたリンディの呼びかけになのはとユーノはその背を追って部屋を後にした。
 士郎もそれに続こうとして、ふいに背後から強い視線を感じて振り返る。

「――後で話がある。なのはたちはこのまま一度家に戻して休養に当たらせる予定だが、出来れば君には残ってもらいたい」

 僅かに緊張感を含んだ声音に大凡の事情を察した士郎は頷きだけを残して部屋を後にした。
 通路ではリンディたちが待っており、士郎が部屋から出てきた事を確認して歩き始めたリンディを追いかける形でなのは、ユーノと共に歩を進める。

「プレシア女史もフェイトちゃんも、あれだけの魔力を放出した直後ではそうそう動きはとれないでしょう。貴女たちも一休みしておいたほうがいいわね」
「……えっ? でも……」

 提案というよりは決定事項と言った様子で告げるリンディの言葉になのはは戸惑いの声を零す。
 事件解決まで戻らない覚悟だったのだろうが、先の戦いで消耗しているという事実と膠着した現状を考えれば気持ちも揺らぐのだろう。

「ご家族とお友達に、元気な顔を見せてあげなさい」
「はい」

 素直な返答は家族思いで友達思いのなのはらしく、子供らしい表情を見られた事でリンディも笑みを浮かべていた。

「――貴方はどうします?」

 笑みを浮かべたまま問いかけてくるリンディに対して、士郎は顔をゆっくりと左右に振った。

「調べたいこともある。俺はこのままアースラへ残らせてもらおう」
「……わかりました。では、なのはさんたちはこのまま転送ポートへ行きましょうか?」
「あ……はい、わかりました」

 艦に残る旨を伝えると、リンディは僅かに思案するような素振りを見せたが、すぐに納得した様子で頷いてくれた。
 どうやら、先のクロノからの要請はリンディを通じたものではなかったらしい。
 すぐに事情を察してくれたリンディがなのはたちを促すと、なのはとユーノの二人は揃って不思議そうな表情を浮かべていた。

「またね、士郎くん」
「ああ。折角の機会なんだし、ゆっくり息抜きをすると良い」

 二人並んで頭を下げる姿に笑みを零し、歩き去っていく背を見送り続ける。
 なのはたちの姿が見えなくなったことを確認した士郎は、そのまま踵を返して元の部屋へと戻るのだった。


 -Interlude-


 クロノ以外の人間が部屋を出てから僅か十数分にも満たない時間――。
 人気の失せた室内を見渡しながら一息吐いて待機していると、部屋の扉がゆっくりと開け放たれた。

「すまない。待たせたな」
「いや、こちらこそすまない。こちらの都合で帰郷を見送らせてしまった」

 告げて席を勧めると、待ち人――衛宮士郎は素直に椅子へと腰掛けた。
 その対面に腰掛けたクロノは少しだけ気を引き締めて、真っ直ぐに士郎へと視線を向ける。

「――さて、こうして君にだけ残ってもらったのは他でもない。フェイト・テスタロッサ――及び、プレシア・テスタロッサについてだ」
「どうして俺だけに話してくれる気になったんだ?」
「簡単な話だ。君とフェイト・テスタロッサは個人的な繋がりがあると推測したからだよ」

 以前にフェイトを捕らえようとした際に士郎から感じた激しい威圧感を思い出しながら断言する。
 少なからず士郎と会話を重ねてきて、彼があのように感情を露わにする時というのは非常に限られる事を理解した。
 士郎は身内――もしくは近しい人物や護ると決めた人間に危害を加える者…または事象に対して"自己"を表すのだ……と。

「君が彼女についてどれだけの事を知っているのか、知らないのかはわからない。ただ、こちらの調査で判明した事実は知らせておいたほうがいいと僕が判断した」
「なるほど。では、聞かせてくれるか? 彼女と彼女の背後――プレシア・テスタロッサについて」

 士郎の声は淡々としながら、どこか愁いを帯びたものだった。

「まず、プレシアについての情報だが――」

 伝えた情報は決して多いというほどのものではない。
 プレシア個人の詳細な情報と略歴――過去に所属していた民間企業での裁判記録の一部など、執務官の権限で捜査に必要だと判断した情報を出来る限り公開していく。

「――過去の事故でプレシアは一人の娘を失っている。アリシア・テスタロッサ――それが、彼女の娘の名前だ」
「ふむ……では、フェイトはそのアリシアの妹――という事なのか?」
「どうだろうな。こちらの調査で判明した事だが、彼女――フェイト・テスタロッサはアリシア・テスタロッサのクローン体だ」

 ――プロジェクトF.A.T.E。
 使い魔を超える人造生命の作成と死者蘇生を主題に掲げた禁忌の研究――。
 フェイト・テスタロッサはアリシア・テスタロッサのクローンとして生み出された存在なのだ。

「――なるほど。しかし、それではプレシア・テスタロッサがジュエルシードを集めている理由が分からないな」
「ああ、そちらに関してはこれからも調査を進めていくつもりだが……君は、驚かないんだな」

 明かした情報は普通であればそれなりに考えさせられるものが多い。
 特にフェイト・テスタロッサの素性については、この管理外世界において未だ受け入れ難い事例であることは間違いない。

「本人がどう受け止めるかは別として、特に珍しい事ではないだろう。それに、どんな事情があろうと彼女個人が変わるわけではないからな」

 気負うでもなく淡々と告げる士郎の言葉にクロノは首肯で応えた。
 どのような思惑と手段が用いられようと、誕生した命は一個の生命としてそこに在る――。
 誕生したその瞬間から一人の人間として扱われるべき存在となったのだから、どのような生まれであろうとその人格や人権は尊重されるべきだろう。

「――そうだな。僕もその意見には賛成だ。だが、それを受け入れられる者――受け入れられない者も確かに存在しているんだ」
「ふむ――あるいは、プレシアの願いとはそこに起因するモノなのかもしれないな」

 得心が行ったのか、士郎はどこか哀れむような表情を浮かべて呟いた。

「どういうことだ?」
「……プレシアはフェイトに勝手な幻想を抱き、勝手に失望した。その果てに妄執に囚われたのかもしれないという事だ」

 プレシア・テスタロッサは、かつて事故で"死なせてしまった"愛娘――アリシア・テスタロッサを蘇らせるつもりで禁忌に挑んだのだろう。
 その結果であるフェイトがどの程度アリシアと似ていて、似ていないのかはわからない。
 だが、先の戦闘でフェイト本人に向けて放たれた雷撃がプレシアのものだとするなら、そこに真っ当な愛情があるようには思えない……と――。
 ――士郎のそんな推察を耳にしながら、クロノは納得半分感心半分の心持ちだった。
 少ない材料から様々な可能性を推察し、自己の感情や思想に囚われない――それは、様々な事件に関わる管理局の執務官であるクロノが常に心がけていた事だったからだ。

「死者を蘇らせる秘術を得たか、その方法を得るために必要なのか――プレシアがジュエルシードを欲する理由は"ソレ"だと、君は言うんだな」
「何にしても推察の域は出ないがな。失ってしまった過去への想い――ジュエルシードを集める理由としてはそれなりに確率が高いだろう?」
「そうだな。だけど、どんな魔法を使っても過去を取り戻すことなんてできないんだ。もしプレシアがそんな妄執に取り憑かれているのなら、手遅れになる前に止めないと――」

 誰も彼もが救われない――そんな結末を少しでも変えるために、不幸な未来を背負う人を少しでも減らすために戦うと決めた。
 幼い頃の想いを形にするために、こうして今も歩み続けている。
 数多の世界に住む人々を護るために平和を維持していく。例えそれが見果てぬ夢だとしても――。

「――そうだな。今になって正義の味方を気取るつもりはないが、手が届くのなら手を伸ばそう。何も出来ず、何もせずに後悔をするような事だけはしたくないからな」

 これまで、どこか達観した気配を纏っていた士郎は明確な意思を示して席を立った。
 プレシア・テスタロッサを止める――と。
 言葉にせずとも伝わってくるその決意を前にして、クロノは同意するように大きく頷くのだった。


 

 

Episode 18 -星の輝き-

 地上に戻ったなのはとユーノから緊急の連絡が入ったのは、フェイトとの接触から一日が過ぎた頃の事――。
 学校に顔を出したなのはが、傷だらけの大きな赤い犬を拾ったというアリサの話を聞き、外見的特徴がアルフと一致するというのだ。
 アリサの家に様子を見に行ったなのはたちから連絡が入ったのは、現地では既に日が暮れ始めた頃だった。
 モニターに映し出されているのは庭の片隅に設置された動物用の大きな檻――そこに入っているアルフと向かい合うように座るフェレットのユーノの二人だ。

『――アンタがいるってことは、連中も見てるんだろうね』
『……うん』

 どこか落ち着いた声音がモニター越しに響く。
 アルフの念話に応えるように、ユーノも小さくはっきりと返事を返していた。

「時空管理局、執務官。クロノ・ハラオウンだ。正直に事情を話してくれるなら悪いようにはしない。君の事も、君の主の事も――」
『――話すよ…全部。ただ、その前に――シロウはそこにいるのかい?』

 モニター越しの問いかけに士郎はクロノへと視線を向ける。
 問題ないと目配せで告げるクロノの了解を受けた士郎は、少しばかり感情を抑えながらユーノを中継した通信で呼びかけた。

「ここにいる。話では随分と怪我をしていたようだが……無事で何よりだ、アルフ」
『何とかね。でも、フェイトが――あの子がまだ残ったままなんだよ』
「残ったままというのは、君らの拠点――フェイトの母親の元に……ということか?」

 下調べに基づいた情報を口にすると、アルフはそれを肯定するように深く静かに頷いた。

『ジュエルシードを全部集められなかったフェイトはあの女――プレシアに痛めつけられて気絶してた。アタシはそれが許せなくてプレシアに掴みかかって……返り討ちにされたんだ』
「……フェイトは無事なのか?」
『わからない。だけど、あの女がジュエルシードを集める事を諦めていないなら、きっとフェイトを利用して残りのジュエルシードを回収しようとするはずだよ』
「そうか……」

 無事であるなら手を打つことはできる…と、安堵の息を吐く。
 幸い、敵の拠点に関する情報はアルフから手に入れる事ができるし、フェイトとの連絡もアルフならば可能だろう。
 アルフを取り逃がしたプレシアが何の対策もしていないということはないだろうが、それでも大きく前進した事に違いはない。

『――お願いだよ、シロウ。あの子を……フェイトを助けて。アタシじゃ……アタシだけじゃ無理だったんだ』

 滲み出るような悔しさが込められたその言葉に深く瞑目する。
 使い魔として生まれたアルフにとってフェイトは親であり、友人であり、誰よりも大切な存在のはずだ。
 そんな彼女がフェイトを救えないと――大切な人を守ってあげられないと全身を震わせている。
 なのはを護るために剣を取った士郎は、この世界で出会った人たちとの日常を守るために事件の只中へと進んできた。
 事件の中心人物であるフェイト――優しく気遣いの深いあの少女を救う。それはきっと、なのはも願っている事だから――。

「――なのは。聞いていたか?」

 呼びかけは他の誰でもなく、今現在最もフェイトを想う他人であるなのはに対して――。
 同時に浮かび上がったモニターには、アリサの家の通路を歩くなのはの姿が映し出されていた。

『うん。全部、聞いたよ』
「聞いての通り、フェイトは誰に救いを求める事もなく、ただ大切な存在のために戦い続けてきた。それは今も変わらないだろう。お前はどうしたい?」
『私は――私はフェイトちゃんを助けたい。友達になりたいって伝えたその返事も、まだ聞いてないしね』

 フェイトを救いたいと願うアルフ。フェイトと友達になることを望み、そのために彼女を救いたいと告げるなのは――。
 事件の解決を目指し、多くの世界とそこに生きる人たちの日常を守るために戦うクロノたち管理局――全員、目指すべき場所は同じはずだ。

「そうか……アルフ、聞いての通りだ。俺となのは――ユーノや管理局も手を貸す。全員でお前の大切な人を――フェイトを助けよう」

 守ると誓った相手が望む未来のために戦い、それが延いては世界を救うことに繋がる。
 ――ならば、惑う理由は一片もない。
 誰かのために戦うことしか出来ず、けれど大切な人のために戦うと決意した衛宮士郎にとって、持てる力を尽くすには十分すぎる理由だ。

『――ありがとう、シロウ。それとなのは……だったね。ありがとう』

 これまで何度も交戦してきたなのはの言葉に思うところがあったのだろう。
 戸惑いながらもなのはに対して感謝の言葉を伝えるアルフの目には僅かばかり涙のようなものが見えた気がした。
 

 -Interlude-


 海鳴臨海公園から少しだけ離れた海上――そこに用意された結界内に作られた建造物の中で、なのはは一人空を見上げる。
 魔導で作り上げられたレイヤー建造物は海に呑まれた都市を模したもので、その高層ビルの一つ――屋上に緑豊かな公園を備えたその中心になのはは立っていた。
 目前には静かに流れ出ている水を溜めている水溜まりがあり、天井は透明なガラスで覆われている。
 廃墟を模しているためか、周囲は相応に風化しており、かつては天井を覆っていた透明のガラスも所々が割れて空へと繋がっていた。

「――ここなら大丈夫だよ。出てきて、フェイトちゃん」

 瞑目し、周辺に向けて呼びかけた言葉は宙に消えていく。
 答える声はなくとも、即座に背後へ降り立ったフェイトの行動そのものが返答となる。
 目を開けたなのはの眼下――水溜まりには、少しだけ離れた場所に建つエレベーターの屋根に立つフェイトの姿がはっきりと映っていた。

『――フェイト! もう止めようよ……これ以上、あの女の言いなりになってたら――』
『だけど…それでも私は、あの人の娘だから――!!』

 近隣で待機しているユーノや士郎と共になのはたちを見守ってくれているアルフからの念話に、フェイトは頭を横に振って応えた。
 揺るぎのない目を向けたまま、その手に漆黒の戦斧を構えたフェイトは、その切っ先に金色の魔力刃を展開して構える。

「フェイトちゃんは止まれないし、私はフェイトちゃんを止めたい」

 告げて通常の杖形態――デバイスモードのレイジングハートを握り締める。
 その先端部分に光るレイジングハート本体へ指で触れ、封印していた全てのジュエルシードを周囲に展開していく。

「だから、賭けよう……お互いが持つ全部のジュエルシードを。それからだよ……全部、それから――」

 振り返ったなのははフェイトと正面から向かい合う。
 覚悟と決意を秘めた目をした少女――彼女に言葉を届かせるために。

「――私たちの全てはまだ、始まってもいない。だから、本当の自分を始めるために――始めよう! 最初で最後の本気の勝負!!」

 向けた杖の先――フェイトが臨戦態勢に入ったことを直感したなのはは即座に自身を戦闘用に切り替える。
 瞬きの間に斬りかかってきたフェイトの斬撃を回避して空へと飛び上がり、追撃にやってきたフェイトと共に海上に建つビル群の合間を飛んでいく。
 魔法と出会って、想いを貫き通すためにと学び、身につけてきた全てはこの時のため――。
 ユーノから教わった魔法の力と士郎から教わった戦うための力を手にして、なのはは愛機レイジングハートと共にフェイトとの戦闘に没頭していくのだった。
 

 -Interlude-


「――戦闘開始……かな」 

 目前のモニターに映る光景を眺めながら彼女――エイミィ・リミエッタは呟くように言葉を口にする。
 アースラの通信主任兼執務官補佐を務める彼女は現在、専用の部屋の中で操作端末を操りながら戦闘の一部始終をモニターしていた。

「――ああ。戦闘空間の固定は大丈夫なのか?」

 頷き、問い返してくるのは学生時代から親交のあるクロノだ。
 彼の視線は真っ直ぐにモニターへと向けられており、そこには現場で直接戦闘を行うなのはへの気遣いが見て取れた。

「うん、それは大丈夫だよ」

 上空まで覆うほどの結界の内部に戦闘訓練用のレイヤー建造物を配置して構成された大規模戦闘空間――。
 地球の海上にありながら誰にも見つかることはないし、どれだけ壊しても問題のない――正しく、戦闘するに適した空間だ。

「――それにしても、ちょっと珍しいね。クロノくんがこういうギャンブルを許可するなんて」
「なのはが勝つに越したことはないけど、勝敗はどう転んでも関係ないしね」
 
 先日――相手の使い魔である狼、アルフを保護して手に入れた情報から考案された作戦。
 ジュエルシードを賭けた戦いでフェイトを誘い出し、それを手に入れようとしているプレシアの所在を突き止める。
 仮になのはが負けようと、ジュエルシードを手にしたフェイトが帰還する際の経路を追跡する――エイミィはそのための準備を行いながら、事態が動くその時を待っていた。
 
「なのはちゃんが戦闘で時間を稼いでくれている間に、フェイトちゃんの帰還先追跡の準備――と」 
「頼りにしているんだ。逃がさないようにしてくれよ」
「了解――でも、なのはちゃんには伝えなくて良かったの? プレシア・テスタロッサの家族と……あの事故の事――」
「勝ってくれる事に越したことはないんだ。今はなのはを迷わせたくないし……そっちの案件では士郎が力を貸してくれるだろう」
 
 少しだけ表情を引き締めて告げるクロノの言葉にエイミィは僅かばかり微笑んだ。
 大衆を救うという正義のためではなく、あくまでも個人のために戦うと宣言した衛宮士郎――。
 そんな彼に対して思うところのあったクロノが、士郎本人に関する質問をエイミィへと投げ掛けてきたのは記憶に新しい。

「随分と信頼してるんだね」
「彼の主義は兎も角、誠実な人格だ。見た目以上に思慮深い点もいい。本来なら、是非管理局へ勧誘したい人材だよ」

 冷静で思慮深く、それでいて視野が広い。
 その上、報告通りなら戦闘能力は最低でもAAAクラスの魔導師並かそれ以上――。
 魔力値は低いが、"剣"に関係した魔法に対する魔力運用効率が非常に優れた戦闘向きの特性――。
 荒れた現場へ向かう事の多い執務官の中で、特にスタンドアローンで動く事の多いクロノにしてみれば、補佐の一人として欲しい人材であるのは間違いない。

「高評価なのも当然か……クロノくんたちが地上に降りてた時、艦にも攻撃されたでしょ? あの時も、士郎くんが攻撃を防ごうとしてくれたんだ」
「宝具――と、士郎はそう言っていた。自身の持つ武器庫のような場所から魔術を使用して取り出しているんだそうだ」

 アースラの前方に展開された巨大な花弁――後で聞いた限りでは、本来はあそこまで大きく展開するモノではないらしい。
 士郎の防御特性の低さを気にしていたリンディなども、あの宝具を目の当たりにした後に士郎の説明を受けてその認識を改めたという。
 曰く――七つの花弁はそれぞれ一枚一枚が古代の城壁に相当する強度を誇る…とのこと。
 彼が基準として捉えている古代の城壁がどれほどの強度を誇るのかは推測するしかないが、少なくともプレシアの放った雷撃を受けた花弁は一枚も欠けてはいなかった。

「そういえば――はい、これ」

 丁度良いと判断して手元に置いていた一枚のカード型端末を差し出す。
 局員に配られる基本的なデバイス――の予備。元々は真っ新で、術式も何も設定されていない未完成品だったものだ。

「すまない。助かるよ」
「別に大したことじゃないけどね。士郎くんにあげるんでしょ?」
「貸してやるんだ。そこは間違えないでくれ。流石に管理局が保有する予備デバイスを管理外世界の人間へ差し上げるわけにはいかないだろう?」
 
 不承不承といった様子で告げてはいるが、それが只の照れ隠しであることをエイミィは理解していた。

「言われた通り、バリアジャケットの生成補佐だけに機能を絞って組んでみたよ。デザインは士郎くん本人にセットアップする際に最適化するようにしてあるしね」
「士郎の魔法に対する適正の偏りは異常だ。幾ら強力な盾を持っているといっても生身である事に違いはないしな」
「当たらなければどうということはない――なんて言い出しそうだけどね」

 とはいえ――即興で組んだ術式を組み込んだデバイスをセットする事で身に纏うバリアジャケットはそこまで強力なものではない。
 なのはが展開するバリアジャケットの防御用積層構造は八層――対して、士郎用に組み上げたバリアジャケットは二層で、消費魔力も極限まで抑えた最低限の仕様だ。
 無いよりは遙かにいいとはいえ、当てに出来るほどの強力な防御力とは言い難いだろう。
 その仕様で頼む――と。クロノから直接頼まれなければ、エイミィとしてはもう少し防御力を向上させたかったところである。

「違いない。さて――後はこの戦いを見守るだけだな」
「そうだね」

 こうしてクロノと会話を交わしている間にも戦闘は続いている。
 今もモニターの向こうでは、なのはとフェイトによる激しい空中戦闘が繰り広げられていた。
 その一部始終を眺めながら、エイミィはもう一度――静かに追跡の準備と手順の確認に努めるのだった。


 -Interlude out-


 縦横無尽に空を舞い、ぶつかり合っては離れて魔力弾の応酬――。
 それを士郎は構築されたビルの一つ――その屋上でアルフ、ユーノと肩を並べながら眺めていた。
 なのはとフェイトの戦闘が始まって十数分――傍目にはなのはが押され気味だが、フェイトが圧勝しているという印象はない。
 彼女たちの最初の戦闘を見ていた士郎だが、この短期間の間にフェイトの域に迫るほどの成長を見せたなのはの努力と才能には驚くしかなかった。

「あの子――前に見たときよりも、ずっと強くなってる……」
 
 士郎は少しだけ驚きを含んだアルフの呟きに同意するように頷いた。
 元より戦いとは縁の無い生活を送っていた普通の小学三年生――僅か九歳の女の子だ。
 如何に強い意思を以て努力を重ねてこようと、超えられない壁は存在する――そんな常識をなのはは真っ正面から打ち砕いた。

「――天性の空間把握能力がなのはの強みだ。彼女は空で戦う限りにおいて、現時点でフェイトに拮抗するほどの魔導師に成長している」
「フェイトに負けたあの日――あれからなのはは一日も練習を欠かしていない。意思も、技術も、魔力だって、あの頃とは比べものにはならないさ」

 士郎の言葉に合わせるように、共に戦闘を見守っていたユーノが自信に満ちた声で続けた。
 魔法の指導を担当していたユーノは、それこそなのはが学校に行く時間を除けば殆ど一緒に過ごしてきた。
 なのはの努力を最も間近で見てきた彼にとって、なのはの成長した姿は当然の帰結だったのだろう。
 フェイトの高速攻撃に弾き飛ばされ、ビルの一つへ墜落したなのはだが、その気配は弱まるどころか強くなる一方だ。
 向かいのビルの屋上に降り立ち、息を整えながらその様子を眺めているフェイトだが、崩落に伴う土煙の向こうから放たれた強力な魔力砲を咄嗟に上方へ跳躍して躱していた。

「……フェイトはやはり、万全とは言い難い体調のようだな」
「うん……。だけど、きっとフェイトは辛いなんて思っていない――思う余裕がないんだよ」

 アルフが危惧していた通り、フェイトは限界を振り絞るようにしてこの戦いに望んでいる。
 開始から時間がそれほど過ぎたわけではないが、既に息が上がり始めている事を考えれば、長期戦はフェイトにとって歓迎できる事ではないだろう。

「焦りが勝負を急がせている…か。だが、なのはもそれはよく分かっているはずだ。開始からずっと全力で動いているのは"ソレ"もあるのだろうからな」

 ペース配分を無視した全力機動――それは恐らく、なのはとレイジングハートにとって負担の大きな戦法だ。
 だが、ただフェイトに合わせるためだけにそんな選択肢を選ぶほど、今のなのはが冷静さを欠いているようには見えない。
 そうして視線の先で再開される空中戦――速さで勝るフェイトの空戦機動に対して、なのはは効率的な機動と直線での加速を生かして肉薄する。
 圧倒的な速度で上空へと昇っていくフェイトに対して、なのははその機動の先を押さえるように直線的に追撃――。
 追いついたのか、追いつかせたのか……空に浮かぶ雲や空気の抵抗を生かしてなのはの背後へと回り込んだフェイトが放ったのは発射速度と弾速を優先した数発の魔力弾だ。
 背後から放たれたそれらを全て回避してみせるなのはだが、フェイトはそれを好機と捉えてなのはへと迫り、その手に持つ鎌で斬りかかる。
 それすらも的確に捕捉していたなのはは自身の身体を捻りながら器用に回避しつつ、杖で直接斬撃を受け止めてフェイトの攻撃を回避して見せた。

「……どちらも魔力と体力をハイペースで消耗している。決着は想像よりも早いかもしれないな……」

 告げると同時――見据える視線の先でフェイトとなのはの二人は再び交戦を開始していた。
 アリサの屋敷でフェイトの救出作戦についてクロノから問われた際、なのはなりに考えて告げたジュエルシードを賭けた戦い――。
 勝ち目はあるのかという問いかけに対して、なのはは少しだけ苦笑を浮かべながら、試したいことがあると告げた。
 その言葉を――意思と力を持ち、救いたいと願う相手の為に戦うと告げたなのはを信じて、士郎は二人の戦いの成り行きを見守るのだった。


 -Interlude-


 想像よりも遙かに強くなっている少女を前に、フェイトは小さく息を吐いた。
 防御が固く、それでいて反応が早い――恐らくは空間把握能力が途轍もなく優れているのだろう。
 それに加えて精度の高い誘導弾に、防御を貫く砲撃魔法も備えている重装高火力型の魔導師として完成度を高めてきている。

「――でも、私がここで負けたら……ずっと悲しそうに泣いていた母さんを助けてあげられない。優しく笑いかけてくれていたあの頃に、戻れなくなる――!」

 気合いを込めてバルディッシュを振り上げる。対する少女も同じく杖を向けて構えていた。
 そうして――互いに持てる技術を尽くして空を駆けながら、フェイトの脳裏に浮かんでいたのは過去の記憶だった。
 かつて、自身に魔法と戦い方…そして空の飛び方を教えてくれた大切な人――リニス。
 母であるプレシアが山猫のリニスを使い魔とした存在で、その豊富な知識と強力な魔導は今でもフェイトの憧れであり、目標となっている。

 ――けれど、時折思い出すことがあった。

 それはリニスが生まれる以前――まだ、母が優しい笑顔を見せてくれていた頃の記憶だった。
 あの事故――母のいた場所が光に包まれる瞬間まではフェイトもはっきりと覚えている。
 次に目を覚ましたとき、フェイトの目の前にあったのは見慣れない天井と、泣きながら視線を向けてくる母の姿だった。
 事故に巻き込まれ、怪我をしてずっと眠っていたのだと――。
 抱きついて泣きながら告げる母の言葉に耳を傾けながら、その暖かさに笑みを零した。

 ――ほら、ここがあなたのお部屋。暫く身体を休めて、元気になったらピクニックでも遊園地でも、好きなところへ連れて行ってあげる。
 
 優しく告げる言葉に、以前から忙しくしていた母の身を案じる。
 大丈夫だと――どこか無理をしたその顔が心配で、そっと"右手"を母の顔へと伸ばした。
 その瞬間、安堵していたはずの母が何かに気付いたように表情を変えた。
 それがどういう意味を持っていたのか…その理由がわかるはずもない。ただ、何でもないと――大丈夫だと告げた母は優しく微笑んでくれた。

 ――大丈夫よ、アリシア。

 ふと思い出した母の言葉にフェイトは目を見開いた。
 過去の記憶を辿れば辿るほど鮮明になっていく優しく微笑む母の姿。彼女はフェイトを前にして"アリシア"と口にする。
 暖かな部屋で、母が手作りしてくれたお菓子を食べていたときも――。
 
 ――どう? アリシア……美味しい?

 風が気持ちいい草原でピクニックをしたとき、母が手作りの花冠を頭に被せてくれたときも――。
 
 ――ほら。可愛いわ、アリシア。

「――違うよ…母さん。私は……フェイトだよ」

 呟きながら、フェイトは少女の防御に阻まれた攻撃の勢いをそのままに距離を取る。
 こんな時に定かではない記憶を思い返したのが拙かったのか――次々と溢れてくる過去の記憶は懐かしさよりも困惑を齎した。
 嫌な予感のようなものを覚えたフェイトは"それ"を振り払うように目を閉じて力強く頭を振った。
 
「……違う。どっちでもいい……ッ!」

 振り返りながら目を開ける。
 フェイトの目前には、杖を構えたまま待機している少女の姿があった。
 ――友達になりたい…と。
 そう告げてくれた少女――けれど、その問いかけに頷くことは出来ない。
 ジュエルシードを集めないと…母であるプレシアからの頼みを果たさなければ、もう二度とあの優しい笑顔が――。

「――勝つんだ……勝って、母さんのところに……帰るんだッ!!」

 迷いを振り切り、バルディッシュを横薙ぎに振るいながら術式を展開する。
 ――相手の防御が堅くとも、その防御ごと削り落とす。
 リニスから教わった、今のフェイト・テスタロッサに出来る最大魔法――。
 高密度に圧縮した貫通射撃弾を周辺へ大量に布陣し、一点に向けて乱れ撃つ雷の槍――。

「――フォトンランサー・ファランクスシフト!」

 周囲に展開していく貫通射撃弾は数を増せば増すほど威力を上げる代わりに発動までに時間が掛かる。
 確実に使用するためにはもう一手――相手の動きを止める必要があり、そのための布石は既に打ってある――。

「――えっ……!?」

 少女から驚きの声が零れる。彼女の動きを止めるため、その両腕に展開したのは設置型のバインド――。
 不可視の魔法陣を展開し、対象の動きを空間に固定する察知も脱出も困難な拘束魔法だ。
 少女の右腕と左腕を確実に捕らえ、その動きを止めた事を確認してからバルディッシュを少女へ向けて構える。

「ファランクス――撃ちッ! 砕けぇーー!!!」

 展開した全ての貫通射撃弾を一斉に少女へと向けて放つ。
 バインドを解除する事も出来ないまま動きを止めた少女は目前に障壁を展開して魔力弾を受け止めていく。
 だが、如何に互いの魔力が残り少ない拮抗した状態とはいえ、自身の魔力の殆どを使用して練り上げた貫通弾は少女の障壁を確実に削りながら幾つも貫通していく。

「――スパーク!」

 その光景を眺めながら、トドメの一撃を放つために左手に魔力を集中させていく。
 展開していた残りの貫通射撃弾さえも取り込んだ一撃――少女の防御を貫いて余りある雷の大槍を構える。

「エンド――」

 魔力を込めて全力で放つ一投――。
 空気を切り裂いて少女へと向かった雷の大槍は着弾と同時に周囲を巻き込む激烈な放電を行い、周囲の建造物ごと少女を飲み込んだ。

「……はぁ…はぁ…手応えはあった。これで……ッ!?」

 諸共になぎ払った目標地点――破壊された周囲のビルから立ち上った土埃の先に、在ってはならない人影が見えてくる。
 微かに流れている風に吹かれて消えていく土埃――晴れたその中空には、杖をフェイトへと向けたまま佇む少女の姿があった。

「――いくよ、レイジングハート」
『――All right My Master』

 デバイスを構える少女の姿に僅かな時間とはいえ呆然とする。
 そんな自身を奮い立たせて残された魔力を振り絞る――と同時に右手と両足に違和感を覚え、フェイトは思わず視線を少女から逸らした。

「――バインド!? いつの間に……!?」

 右手と両足を拘束する設置型のバインド――。
 少なくともフェイト自身はそれがいつ設置されたのかは察知できなかった。
 そして、それを可能とするタイミングはただ一つ――ファランクスを展開して放ったあの瞬間だけだろう。
 この一瞬を生み出すために少女は防御を最低限に留め、魔力と意識を残したのだ。
 その覚悟と選択に驚愕する間もなく、少女はフェイトへ杖の先端を向けて魔力を収束させていく。

「――ディバイーン、バスターッ!!」

 撃ち出された砲撃――それをフェイトは掲げた左手に展開させた障壁で拮抗する。
 互いの魔力残量が少ないことは明白――この一撃さえ防ぎきれば、僅かに少女より多く魔力を残すフェイトが有利になる。
 そんな一念で障壁を維持していたフェイトは、砲撃の勢いが衰えて消えた瞬間に目を閉じて安堵の息を吐いた。
 後はバインドを解き、少女へ刃を突き立てるだけ――。
 だが、僅か一瞬の休息を済ませたフェイトが目を開けたその先に、少女の姿はなかった。
 同時に、周囲の魔力が上空へと移動している事に気付き、フェイトはその魔力が向かっていく先を見上げた。
 雲間に集まる魔力の残滓――それが一点へと集められて収束していく。空に輝く桃色の光はまるで星の光のようだった。

『――Star Light Breaker』

 広い空へ巨大な魔法陣が描かれていく。
 その中心に収束していく膨大な魔力は、この戦闘でフェイトとなのは二人が使用してきた魔力の殆ど全てだった。

「ばらまいちゃった魔力を、もう一度――自分の所へ集める。レイジングハートと一緒に考えた、知恵と戦術――最後の切り札!」

 自身のリンカーコアを通さず、周囲に満ちた魔力を集めて収束する。
 砲撃魔術師の最上級技術――収束ロスを含めても、現状のフェイトには防ぐ手立てのない収束砲撃。

「――受けてみてッ!! これが私の、全力全開!!!」

 これが最後の一撃だと――言葉よりも、少女の気迫そのものが対峙するフェイトにも伝わってくる。
 そんな少女の覚悟に応えるように、フェイトは残された僅かな魔力を振り絞って七つの障壁を前方へと展開させていく。

「スターライト、ブレイカーー!!!!」

 号令一下――上空から地上へ向けて放たれた桃色の砲撃。
 障壁へ衝突してさえ勢いを全く減じない砲撃がフェイトの障壁を二枚、三枚……六枚――。
 最後の一枚が破られた瞬間、フェイトの全身は問答無用でその砲撃に飲み込まれていくのだった。
 







 
 

 
後書き
十八話目、更新完了です。
 

 

Episode 19 -決着は閃光と共に-

 
 空から降り注ぐ星の光――。
 膨大な魔力を収束させて放たれたその魔法は障壁を突破し、それを展開していたフェイトを飲み込んだ。
 僅かに分散して発生した幾つもの光弾が海上に作られたレイヤー建造物を消し飛ばしていく――。
 圧倒的な破壊はフェイトを飲み込んだ本命の一撃が海上に着弾した瞬間に膨れ上がり、周辺の全てを巻き込んで大規模な爆発を引き起こす。
 その光景を眺めていた士郎は、呆れた表情を隠そうともせずに口を開いた。
 
「――途轍もない破壊力だな。幾ら非殺傷攻撃(スタンアタック)とはいえ、アレほどの破壊を伴う一撃を受けて、フェイトは大丈夫なのか?」
「たぶん大丈夫だと思うけど……」
「フェイト……」

 不安そうに続けるユーノとフェイトの身を案じるアルフの二人を横目に流し見て、もう一度上空を見上げる。
 爆心地となった場所へ墜ちていったフェイトの姿を確認したのか、上空で消耗激しく肩を揺らしていたなのはが海中へと突入していった。
 暫くしてフェイトを担いだなのはが海上へと上がり、ビルの残骸へ着地する。
 時を置かずに目を覚ましたフェイトの姿を遠目に眺めていたアルフは安堵の息を吐き、ユーノも戦いが無事に終わったことで安心した表情を浮かべていた。

『――高次魔力の発生を確認。魔力波長は……プレシア・テスタロッサ! 戦闘空域に次元跳躍攻撃……!? ユーノ君、なのはちゃん――士郎君!』

 黒い雲が発生し、空を覆い始めたと同時にアースラで戦闘を監視していたエイミィからの通信が入る。
 上空から感じる強大な魔力は、以前にアースラを襲った一撃とは比べるべくもない。
 周囲に降り注ぐ幾つもの雷――それが本命の余波に過ぎないとなれば、放たれようとしているソレは生半なモノではないだろう。
 驚くユーノとアルフをそのままに、士郎は即座にその場を後にして海上に点在する幾つもの廃墟を足場にフェイトたちの元へと向かった。

「――――I am the bone of my sword.(体は剣で出来ている)

 素早く自己へと埋没し、剣の丘から盾を引き上げる。
 フェイトの直上に収束していく放電を確認したなのはが空を飛び、フェイトへ向かって行く姿を視界に収めながら右手を向ける。

熾天覆う七つの円環(ロー・アイアス)――――!」

 フェイトとなのはを覆うように展開させる七つの花弁――。
 一瞬の後に上空から降り注いだ巨大な雷電を受け止めた花弁がひび割れていく。
 一枚……二枚…、三枚目を砕いた雷電は周囲へと散らばり、激しい音と衝撃を伴って海上へと落ちていった。

「間に合った……か」

 安堵の声を零しながら士郎は静かに天を睨んだ。
 恐らくは一部始終を見ていたであろうプレシア・テスタロッサを見据えるように――。

『魔力発射地点――特定! 空間座標――確認!』
『転送座標――セット!』
『――突入部隊、転送ポートより出動! 任務はプレシア・テスタロッサの身柄確保です!!』

 エイミィを筆頭にアースラの通信士たちが素早くプレシアを捕捉する。
 準備が整った事を確認したリンディの号令を聞き届けた士郎は、フェイトとなのはの無事を確認して表情を引き締めた。

「――クロノ」
『――了解した。渡したいモノがあるから一度アースラを経由してもらうぞ』
「ああ、頼む」

 短いやり取りの直後に転送陣が足下へと現れる。
 起動した魔法陣から発せられた光に包まれながら、士郎は小さく息を吐いて覚悟を定めるのだった。


 -Interlude-


『転送反応――庭園内に侵入者多数』

 招かざる客の到着を告げる警告に耳を傾けながら彼女――プレシア・テスタロッサは画面から目を離さなかった。

「アレの直撃を防いだのは、この男――」

 画面の向こうで、まるで見えているかのようにこちらを見据えてくる。
 あの雷撃を完璧に防いだ花弁のような防御魔法や鋭い眼光、そして落ち着き払ったその佇まい――。
 見た目は少年そのものだが、決して侮れる存在ではない。

「――ゴホッ……ゴホッ……っ…かは…っ……」

 喉の奥から競り上がってきた血を吐き出す。
 地面に落ちた赤いソレを眺めながら、続けてこみ上げてくるソレを飲み下した。

「……まだ、終われないのよ。あの子との約束を……叶えなくちゃ――」

 揺れる視界――覚束ない足取りのまま、玉座の間へと向かう。
 管理局が踏み込んでくるであろう場所――そして大事な存在がいる場所へ繋がる場所へ向かうのだった。


 -Interlude-


 モニター越しに十人ほどの魔導師たちが突入していく様子をリンディは油断無く見守っていた。
 どのような罠が仕掛けられているかもしれない敵の拠点――。
 だが、警戒するリンディの心配を余所に局員たちは妨害を受ける事なくプレシアのいる場所へと踏み込んでいく。
 ――ふいに扉が開く音が艦橋に響いた。
 拘束されたフェイトを連れたなのはとユーノ、そしてアルフの四人――。
 現場にいた内、士郎を除いた全員が入ってきた事を横目に確認したリンディはすぐに視線をモニターへと戻した。
 複雑な表情を浮かべて視線を伏せているフェイトの様子は気がかりだったが、今は提督としての責務を果たさなければならない。

『――プレシア・テスタロッサ。時空管理法違反及び管理局艦船への攻撃容疑で、貴女を逮捕します』

 半数の局員がプレシアへ注意を向けて警戒しながら告げる。
 そうして、残りの半数はプレシアの背後――奥へと続く通路を探っていく。
 突入したのは、巨大な筒のような装置が連なる部屋――まるで研究室のような部屋だった。

「―――……っ!?」

 モニターの向こうで警戒しながら奥へと進む局員を見守る中、背後からなのはの息を呑む音が耳に届いた。
 通路のように細長く奥行きのある部屋――その中央に位置する場所に、稼働中の装置が一つだけ存在している。
 その中身――何かの液体で満たされた培養槽の中には、一人の少女の姿があった。
 死んだように眠る金の髪をした少女――幼い印象を受けるが、その姿は間違いなく彼女――フェイト・テスタロッサと酷似していた。

『――これは…ッ!?』
『私のアリシアに――近寄らないで……ッ!!!』

 声を上げて驚く局員の背後――怒りの形相を浮かべたプレシアが局員の頭部を鷲掴みにして投げ飛ばす。
 その力――その魔力は凄まじく、彼女が発動させた魔法による雷撃は瞬く間に室内を満たし、室内へ突入した全員を戦闘不能に追い込んでしまう。
 彼女を拘束しているはずの五人の魔導師は既にやられていたらしい。
 つまり、これで突入した局員は全員が任務続行不能となってしまったということだ。

『次元の狭間に存在するというアルハザード――たった八つのジュエルシードで辿り着けるかどうかはわからないけど……もういいわ』

 興味すら無いのか――倒れ伏した局員を一瞥したプレシアは、そのままアリシアと思われる人物が眠る培養槽へと縋り付く。
 そこに向けられた目に怒りはなく、狂気もなく――ただ悲哀に満ちた目で物言わぬ少女を見つめる母親の姿があった。
 その隙を突くように素早く局員を強制転移で帰還させるが、プレシアの意識がそちらへ向けられる事はなかった。

『――この子を亡くしてからの時間も、この子の身代わりを娘扱いするのも……終わりにする』
「………っ!?」

 悲しみに満ちた声は次第に憎しみが込められたモノへと変わっていく。
 その言葉を向けられた本人――フェイトの怯んだような声なき声だけが耳に届いた。 

『――聞いているでしょう? アナタの事よ、フェイト。折角アリシアの記憶をあげたのに、似ているのは見た目だけ。役立たずで使えない私の――』
『――そこまでにしておけ、プレシア・テスタロッサ』

 取り返しの付かない言葉が口にされる直前――。
 プレシアの独白に割り込む形で声を上げたのは、時の庭園の通路を歩いていた少年――衛宮士郎だ。
 先程までとは異なる衣装――赤い外套と黒いボディアーマーに身を包んだ彼の姿は、さながら騎士のようである。
 クロノとエイミィが用意したデバイスを使用して展開したバリアジャケットを装備した彼は、そのまま足を止めることなく先へと進んでいく。

『――アナタは……!?』

 士郎の存在をどのように捉えていたのか――プレシアはそれまでの様子を豹変させ、即座に術式を起動させた。

「大変です! 施設内に魔力反応多数!! いずれもAクラスの反応を示しています!」

 通信士たちの報告に空気が慌ただしくなる。
 Aランク魔導師相当の魔力値を備えた魔導人形が約八十――更に数を増やしていく。
 大部屋へ足を踏み入れた士郎の目前にいる数だけでも五十は下らない。その驚異を前にして、士郎は臆する事なく足を止めて正面を見据えた。

『――プレシア・テスタロッサ。貴様がフェイトに対してどのような感情を抱いていようと構わないが――』

 彼の背後から現れた無数の剣群――大小様々な剣の切っ先が魔導人形へと向けられる。
 直後――相手が無機物だからか、一切の躊躇無く放たれた剣弾は魔導人形を貫き砕いていく。
 圧倒的な速度と威力で撃ち出されたソレは砲撃の弾幕と言い換えてもいいだろう。
 暴風の如き破壊の嵐が吹き荒れた大広間――そこに出現していた五十を超える魔導人形達は、その全てが粉々に砕かれて消滅していった。

『――貴様が行おうとしている行為を許容するわけにはいかない。その願い、打ち砕かせて貰おう』
『打ち砕く? 私はただ、自分の娘と会いたいだけ――娘との約束を果たして…いつも優しく笑ってくれていたあの子の笑顔がもう一度見たいだけよ!』

 怯む様子さえ見せずに士郎へと声を上げるプレシア――その言葉に、士郎は厳しい表情を崩すことなく溜息を吐いた。

『娘思いは結構なことだが――手段を間違えたな。死者と語らいたいのなら、肉体ではなく魂を押さえておくべきだった』
『――魂……ですって?』
『人を人として成立させる要素――本来、人の記憶や性質は肉体ではなく魂に宿るとされる。貴様の執念があれば、"器を移し替える"程度には手が届いたかもしれないが――』

 士郎の語る"魂"の概念――それは、魔導師が使い魔を作る際に用意する人工の魂とは違うのだろう。
 人に宿る魂――そこにこそ個人を個人たらしめるモノが宿るというのなら、肉体や記憶を揃えたところで望む個人を蘇らせる事が出来ないのは自明の理だ。

『アナタは……一体なにを………』
『――俺には貴様の行動原理を否定する権利や資格などない。だが、貴様の行いが俺の護ろうとしている人たちを害する可能性がある以上、貴様を放置する事はできん』

 決意の込められた言葉は普段の彼とは異なる声音で告げられる。
 護るべき者のために戦うと――そう宣言した彼が、この瞬間こそがその時だと告げるように構える。
 そうして静かに突き出された左手に現れたのは、彼の身長と変わらぬ漆黒の長弓――。

『――――I am the bone of my sword.(我が骨子は捻れ狂う)

 以前に盾を取り出した時とは異なるその呪文――。
 呼応するように彼の右手の先から現れたのは捻れた刀身を持った異様な剣だった。
 魔力を纏ったそれは、彼が弓を構えると同時に細長く変形して光を纏い、一本の矢として顕現する。
 狙う先は下――床を見据えるその目は、床の先にあるモノすら見通しているかのように鋭く細められていた。

『――偽・螺旋剣(カラド・ボルグ)!』

 矢が放たれたと認識した時には、既に地面は穿たれていた。
 閃光のような一閃は瞬く間に床下を貫通し、あらゆる障害を穿ちながら時の庭園を離れて次元の彼方へと消えていった。

「――え、Sランクの魔力を感知! 放たれた矢のようなモノは庭園内部を貫通――途上に存在していた駆動炉を完全に破壊しました!!」
「な、なんて出鱈目な―――!?」
「す…凄い……士郎くん」

 報告の内容にユーノとなのはがそれぞれ声を上げる。
 直接声には出さなかったが、リンディも内心では同じような感想を抱いていた。
 先程の矢――変形する前は捻れた剣だったが、あれが形状変化の魔法なのか元々あのような変形をするモノなのかは解らない。
 一つだけ解るのは、あの短時間の準備でアレほどの破壊力を有した攻撃を行なうことが出来る彼――衛宮士郎の保有する戦闘力の高さだけだった。

『――その矢で、私諸共ジュエルシードを破壊しようと?』

 あらゆる障害を貫く矢を見せつけられたからだろう。
 奥の部屋でアリシアと共にいたプレシアは、単身で士郎が待つ大広間へと姿を現した。
 その周囲には八つのジュエルシードが浮かんでおり、彼女がその力を使おうとしているのは明白だった。

『それが希望ならば、そのようにしてやろう。生憎と俺は管理局の人間ではない。彼らのように、捕獲などという手段に拘るつもりはない』

 宣言と共に彼の両手に現れたのは白と黒の双剣だ。
 対して、プレシアは先程の士郎の言葉を思い返していたのか、怪訝そうな視線を向けてくる。

『管理局の人間ではない……?』
『ジュエルシードが落ちた世界――地球の人間だ。さて、選ぶがいい。ここで俺に討たれて夢半ばに散るか――潔く身を引くかを』

 自然体に構えながら士郎は鋭い目をプレシアへと向けている。
 そこに油断や遠慮はなく、ただ敵となるのなら討つという明確な意思だけがモニター越しにも伝わってくる。
 
『引けば見逃す。引かないのなら討つ……ということ? 生憎だけど、答えは否よ!!』

 杖を手にしたプレシアの周囲に魔力が放出されていく。
 それを合図と受け取ったのか――士郎は剣を構えて地面を蹴るのだった。


 -Interlude out-


 放たれる魔力弾――その速度と密度は明らかにフェイトのソレを上回っている。
 アースラから時の庭園へと転送してくる直前――簡易ストレージデバイスを受け取った際にクロノから受けた忠告は正しかったということだろう。
 彼女――プレシア・テスタロッサは、自身が保有する魔力が特別に優れているというわけではない。
 彼女は保有する特殊な技術――媒体から魔力を取り出し、それを運用する事で大魔導師クラスの魔力運用を可能とする。
 彼女が過去に保有していたという魔導師ランクは限定条件付きとはいえSS――。
 クロノでさえAAA+ランクであるという事を考えれば、彼女の魔導師としての腕前はなのはたちとは比べるべくもない。
 だが、何が原因かは定かではないが、プレシアの戦術は単純明快で、ひたすらに弾幕を張り、それを士郎が防ぎ躱す隙を狙って強力な魔法を放つだけ――。
 驕りか焦りか――目の前で決死の形相を浮かべる彼女の様子から後者であるという確信を抱きながら、士郎はひたすらにプレシアの攻撃を躱し続けていた。

「――どうして、ただ娘に会いたいという願いすら叶えられない! 私はただ、アリシアのために――」
「では、貴様の娘が一言でも言ったのか? 生き返らせてください――と?」

 狂ったように叫ぶプレシア――それは怒りに震えているというよりも、悲しみに憤っているようにも見えた。
 その様子から、彼女が自身の娘――アリシアをどれほど大切に思っていたのか……失った絶望の深さが如何ほどのモノだったのかを窺わせる。

「あんな事故で命を落として、アリシアが納得しているはずがないわ!!」
「なるほど……では、貴様は生き返らせた娘に強要するのだな。数多の犠牲を背負う事を――」
「なん……ですって……」
「優しく笑ってくれていたという貴様の娘が、その笑顔を曇らせる重荷を背負うと言った。アリシアが貴様の言う通りの優しい子ならば尚更だろうさ」

 破綻した願い――死者を蘇らせたいという妄念に取り憑かれながら、それでもプレシアは正気を保っている。
 本当に狂っているのなら、このような揺さぶりに反応するはずもない。
 愛娘の事を指摘されたプレシアの表情は険しく、その攻撃は一層激しく荒々しいモノへと変わっていく。

「――黙りなさい! アナタにアリシアの――アリシアと私の何が解るッ!!!」
「貴様の事など知ったことではないさ。だが、アリシアは別だ。彼女はフェイトの姉なのだろう? あの優しい少女の姉ならば、今の貴様を見て笑顔など浮かべないだろう」
「………ッ!?」

 一瞬の戸惑い――その間隙を縫うように一直線にプレシアへと肉薄する。
 向けられた魔力弾がバリアジャケットを貫通し、全身を傷つけていくが致命傷は一つも無い。
 剣を左右へ投擲して意識を逸らし、最短距離を通した拳をプレシアの腹部へと密着させて力を込める。
 直接的なダメージこそ与えられていないだろうが、狙い通りにプレシアの身体を壁際まで吹き飛ばす事に成功した。
 それなりに衝撃が突き抜けたらしく、勢いそのままに咳き込むプレシアの目前へと飛び込む。
 そうして先程投擲した双剣が弧を描いて戻ってきた所を掴み取り、そのままプレシアの目前へと突きつけた。

「――わからないのか、プレシア。貴様がそうしてアリシアのために戦えば戦うほど、貴様が積み上げた罪や咎をアリシアが背負う事になるという事が!」

 誰かの為に――そう告げるプレシアの道には少なからず犠牲を強いられる人が出てきてしまう。
 今回の件でいえば、ジュエルシードが落ちた地球の存在している世界――そこに生きる人たちがそうだ。
 プレシア本人がその犠牲を容認し、覚悟した上で事に望んでいるのは疑う余地はない。
 ――だが、そうして救われるかもしれないアリシアは別だ。
 仮に彼女を生き返らせる事が出来たとして、母であるプレシアが行った行動を知ってどのような反応を示すのか――。
 喜ぶのか、悲しむのか…あるいは――それが一番理解できるのは、アリシアの母であるプレシア以外には存在しない。
 だが、なんであれプレシアの行動が齎す責は確実にアリシアにも課せられてしまうだろう。
 プレシアが愛娘を愛している事だけは間違いの無い事実だが、果たして彼女はそれを許容する事が出来るほど"壊れているのか"――?

「それでもなお、貴様が貴様のために大切な存在を生き返らせたいというのならそれでいい。だが――」

 ――もしそうであるのなら、例えフェイトが悲しむと分かっていても躊躇はしない。

「――貴様の行いが、俺の護ろうとしている人たちを脅かしている。それを許容することは出来ない」

 これ以上の戦闘行為を継続するのなら切っ先を突き出す――と、視線で告げる。
 この距離ならばプレシアが攻撃――或いは障壁を展開するよりも早く士郎は行動を起こせる。
 それをプレシアも理解できているのか、壁に背をつけたまま地面に座り込んだ彼女からは先程までの敵意が全く感じられなくなっていた。

「―――っごほ……ごほ……」

 苦しげに咳き込むプレシアの口から赤黒い血が吐き出される。
 その様子から、士郎はこの戦闘において感じていた違和感の正体に思い至った。

「……病んでいたか。その様子では長くはなさそうだが――それが貴様の焦りの原因か?」
「私には……時間が、ないのよ。アナタの相手をしている暇も、管理局の邪魔を受ける時間も――」
「……ならば尚更だ。仮にアリシアを蘇らせたとして――貴様は優しい娘に悲しい思いをさせたいのか?」

 ハッと顔を上げたプレシアと視線を交わしながら、自身が大切な人を悲しませてしまった過去を思い出す。
 共に生きたいという願いを踏み躙り、長い時間を一人で過ごさせてしまった桜の姿を思い出しながら、士郎は視線に力を込めた。

「大切な母を亡くして悲しむ事になる愛娘の事を……貴様がアリシアを失った時に味わった絶望を愛娘に与えるということを――お前は、本当に考えていたのか?」

 突きつけたのは疑いようのない事実――残された者が背負う事になるソレを、プレシアは知っているはずだ。
 彼女の狂気はその絶望を受け入れて乗り越える事が出来なかった弱さと後悔、そして理不尽な運命への怒りが発端のはずだから――。

「アルハザードとやらが本当にあるのか――そこに死者を蘇らせる秘術や不治の病を治す秘術があるのかは知らん。だが――」

 死者を生き返らせる術がない――等と、士郎には口が裂けても言えない。
 かつての自身――そして、今こうして生きている自身が何よりの証拠だからだ。
 例え"完全な"死者の蘇生が夢物語だとしても、それでも――どんな形であれ死者を生き返らせる事が不可能ではない以上、彼女の願いそのものを否定する事は出来ない。

「――それでも貴様の行いが、貴様の"娘たち"の笑顔を曇らせることだけは間違いない」
「私は………私は…ただ、もう一度…アリシアの笑顔が……あの子が笑ってくれる姿が見たいだけ……あの子の笑顔を、もう一度見たかった――ぅぐ…ッ……」

 小刻みに咳き込み、血を吐き出すプレシアの全身から力が抜けていく。
 感じられていた魔力も鳴りを潜めて、彼女はただ静かに地面へ視線を落として肩を揺らしていた。

「――クロノ。見ているんだろう? プレシアの身柄を確保してくれ。急いで治療を施さなければ保たないぞ」

 一部始終をモニターしているはずのクロノへと呼びかける。
 即座に目前へモニターが出現し、どこか安堵した様子のクロノが映し出された。

『了解だ。後はこちらで――ッ!? これは……次元震!?』

 突如として起こる鳴動――それと同時に発光を始めたのは、プレシアの周囲に落ちていた八つのジュエルシードだ。
 これまでも何度か目にした暴走状態――その一歩手前の状態で共鳴を開始した魔力結晶から発せられる光は強くなる一方だった。

『いけない! プレシアの魔力に呼応したジュエルシードが暴走を起こしている。このままでは、共鳴を強めて大規模な次元震が――』
「――やるしかない…か。だが――」

 ――残りの魔力を考えれば自滅する可能性は高いだろう。
 それでも、八つのジュエルシードを"一度に纏めて"破壊する事の出来る宝具など、それこそ数える程しかない。
 ならば――と、覚悟を決めて行動を起こそうとした時、不意に胸元から光が零れた。
 そこにはメルルからもらったペンダントと赤い宝石――そして、この世界にやって来た時に粉々になっていたメルル作のアイテムを入れた袋がある。

「――これは……メルルのアイテムの残骸…? 何故――」

 発光していたのは、残骸を収めた小さな袋だった。

 ――なぜ、今更これが稼働するのか?

 そんな疑問を口にするより早く、士郎は嫌な予感を覚えてプレシアの腕を掴む。
 同時に室内を覆い尽くした目映い光に目を閉じて――士郎は少しだけ懐かしい感覚に全身が飲み込まれていく事を実感した。


 -Interlude-


 モニターの先で、目映い光に包まれていく士郎と母であるプレシア――。
 その光景を眺めながら、彼女――フェイトは嫌な予感に背筋を振るわせていた。

「――ジュエルシード……反応消滅。同時に、プレシア・テスタロッサ……及び、衛宮士郎の反応消失――」

 聞こえてきた報告は自身の大切な人と、自身の心を拾い上げようとしてくれた優しい騎士が消えてしまったという事実――。
 フェイトをアリシアの妹と断言してくれた彼がプレシアと共に消えてしまったその唐突さに、同じくその光景を見ていた誰もが驚きを隠さなかった。

「……そんな。一体どういう――」
「広域サーチ開始! 各種センサーの反応を見逃さないように――」

 アルフと肩を並べて立っていた少年――ユーノが呆然と言葉を零す。
 その目前――恐らくはこの艦の責任者と思われる女性が厳しい表情を浮かべながら声を荒らげるように指示を口にする。
 そして――これまでずっと自身を支えてくれていた少女の手から力が抜けていく。
 フェイトの身体から離れたその手は虚空を掴むように力なく掲げられ、その表情は見た事もないほど不安そうに歪められていた。

「――士郎くんッ!!!!!」

 あの優しく、どこまでも強かった少女の……自身に笑いかけてくれた少女の心の底からの叫び声――。
 悲愴さに満ちた少女の叫びに応える者はなく、ただ虚しく艦橋へ響かせたその光景に、フェイトは胸が締め付けられるような気がした。
 
 
 

 
後書き
第十九話です。

※10/04 一部文章改訂
 

 

Episode 20 -侵入者-

 目を覚ました時、彼――衛宮士郎の目の前にあったのは深い森と、木々の隙間から見える満月だった。
 まるでいつかの再現と思える状況に苦笑を零す。ここは地球なのか、あるいは異なる次元世界なのか…それとも――。
 周囲にプレシアの姿はなく、胸元で発光していたメルルのアイテムを収めた袋は既に光を失い、その活動を停止していた。

「――恐らく、プレシアも遠くない場所へ転移しているはずだが……」

 先の戦闘と転移の際に全身を襲った魔力流によって全身が傷ついていたが、行動不能に至るほどではない。
 通常であるなら瀕死とも言えるほどのダメージを抱え込んでいたが、その程度の事は何度も経験しているため焦りはなかった。

「……なんにしても、プレシアを探さなければ――。彼女の状態を考えれば、俺以上に致命傷を受けている可能性は高い」

 告げて歩き出した士郎は周囲を眺めながら警戒を強めていく。
 一見して普通の森だが、至る所から感じられる肌に纏わり付くような感覚は、まるで巨大な結界の内部にいるかのようだった。

「――それにしても、ここはどこなんだ?」

 警戒はそのままに森の中を歩きながら呟きを零す――と、ふいに感じた違和感に思考よりも早く身体が反応した。
 反射的に先程まで立っていた地面から数メートルほど飛び退く。
 直ぐに立ち上がった士郎だが、もちろん身体の傷はそのままで痛みは消えてなどいない。
 咄嗟の行動に激痛が全身を駆け巡るが、それを意識的にカットして周囲へと視線を向ける。
 見れば先程まで座り込んでいた地面には幾つもの氷槍が突き刺さっていた。理由も理屈もなく、それが自身を狙った攻撃なのだと理解する。

「――ほう、今の反応は中々だ。只の賊にしてはやるようだな」

 ともすれば意識を失ってしまいそうな痛みを堪えて声が聞こえてきた闇の中を睨みつける。
 暗がりの中から出てきたのは長い金の髪を靡かせた少女と緑の髪の女性だった。
 士郎に対して警戒をしているのはどちらも同じだが、特に少女の方は明らかに敵意を含んだ視線を向けてくる。

「さて、どのような目的があってこの土地に侵入してきたのかは知らんが、運がなかったな。満月の夜に行動を起こしたことを後悔するがいい」

 告げて行動を開始する少女――その姿を視認した瞬間、士郎は戦闘態勢に移行した。
 一秒に満たない間に少女の周囲から放たれた氷弾は数にして十六――その全てを紙一重で避ける。

「……問答無用、か。事態は飲み込めないが、とりあえずこのまま殺されるわけにはいかない」

 カチリ、と。頭の中で撃鉄を落とすイメージを浮かべて全身の魔術回路を起動させた。

「――――I am the bone of my sword.(体は剣で出来ている)」

 投影するのは転移する前にも作り上げた白と黒の双剣――干将莫邪。
 陽剣・干将、陰剣・莫耶。互いに引き合う性質を持つ夫婦剣。士郎が扱う中でも使用頻度の高い愛剣である。

「――油断するなよ。行け、茶々丸《ちゃちゃまる》!」
「了解しました、マスター」

 少女の言葉に従い、緑髪の女性――茶々丸は腰まで伸びた緑の髪を揺らしながら凄まじい勢いで肉薄してくる。
 見た限り人間ではないようだが、恐らくは人形か使い魔の一種なのだろう。となれば、思いも寄らない攻撃を受ける可能性がある。
 高速思考によってそれらの情報を頭に叩き込みながら、肉薄してきた茶々丸が放つ猛烈な勢いの右ストレートを剣の腹で受けて流した。

「――遠慮できる状況ではない…か。申し訳ないが……」

 回避と同時に双剣を振り上げる。振るった刃は僅かな抵抗すらなく茶々丸の両腕を切り裂いた。
 その反動で流れた茶々丸の身体を息つく間も空けずに蹴りつける。無防備にソレを受けた茶々丸は後方の大木へ向けて弾き飛んでいった。

「――なにっ!?」

 少女が零した驚愕の声を耳に届けながら、士郎は両手に持つ双剣に魔力を込めて投擲する。
 ――同時に、弓矢を取り出して一息もつかぬ間に矢を放つ。
 放たれた銀光は数にして四つ――それらは全て細長い剣の形をしており、一切の遠慮なく茶々丸の両肩と足を貫き、木へと縫い付けた。

「――貴様っ!!」

 激昂した少女が明確な殺意を持って距離を取る。だが、それは既に後手――。

「――かわせ!!」

 予想以上の反応を見せた少女が晒した一瞬の隙を見て、士郎は咄嗟に叫んでいた。
 声に反応した少女は一瞬の後に状況を把握し、後方から飛来した双剣を不可視の障壁で防いだが、反動で大きく弾き飛ばされていく。
 自身の命を脅かしている少女の致命を突けなかった甘さに安堵の息を吐きながら、士郎は木に打ちつけられた茶々丸へと近づきながら視線を向ける。
 抵抗ができないにも関わらず睨み返される。主である少女が操っている人形だと思っていたが、どうやら彼女には確固たる自我があるらしい。
 事実、先程少女が弾き飛ばされた時にはその身を裂いてでも少女の元へと駆け寄ろうと葛藤しているのが見えた。
 無論、それは不可能だったわけだが、主人を思う心の動きは人間と何ら変わりの無いモノだ。
 その少女も彼女――茶々丸が撃ち貫かれた瞬間、感情を表に出して声を上げていた。その必死な様は、自身の道具に対する態度には到底見えなかった。

「――手荒な真似をして済まなかった。だが………っ、まだ…死ぬわけにはいかないのでな……」

 気を緩めると同時に襲ってきた虚脱感を堪えながら独り事のように告げる。
 彼女の主である少女が戻ってくる前に逃げ出そうと地面を蹴った士郎はそのまま走り出した。
 命を狙われたことに対する最低限の反撃は体勢を整えるための布石でしかない。
 元々彼女たちに対して必要以上に攻撃を加えるつもりはなく、彼女たちから逃れるため駆け出した士郎は森の中を疾駆する。

「………っ…はッ…………はッ……!」

 ――限界は近い。
 突発的な戦闘を行ったことで開いた全身の傷から血を流し過ぎたせいだろう。
 意識は朦朧としており、転移前から真名開放などを使用して消耗していた魔力も限界が近い。
 息が切れる…体力も既に限界に近い――それでも士郎は足を止めず、森を抜けてからもひたすらに走り続ける。
 森を抜けた先に現れた街並み――申し訳程度の街灯に照らされた人気のない道を移動し、身を隠せそうな裏路地へと身を隠した。
 ――思っていた以上に限界は近かったのか、全身の力が抜けていく。
 そんな自身の状態に苦笑を零しながら、士郎は壁に肩から寄り掛かってゆっくりと地面に座り込んだ。

「……まずは止血からだな。残り少ない魔力でどこまでやれるかわからないが…」

 バリアジャケットを解除し、宙に現れたカード型の端末を手にして懐に仕舞いながら呟く。
 元々士郎は高い自己治癒力を備えており、自身の魔力を消耗することで大抵の傷を癒す事ができた。
 だが、それは生身を得る前の話――治療のための魔術も使えないことはないが、それも大したものではなく、止血程度はできるという程度のもので効率も非常に悪い。

「――命を落とすよりはマシ…か。相も変わらず生き汚いな……」

 意識を失う危険を冒してまで魔力を温存しても意味は無いが、だからといって治療によって魔力を完全に使い切る訳にもいかない。
 魔力とは生命力だ。それを失えば即座に意識を失ってしまうのは自明の理。追手に目をつけられているであろう今の状況で意識を失うことだけはできないのだから――。

「……とりあえず、血は止まった…か。後は運だな」

 先程までの流血はすっかり止まっている。
 失った血は戻ってはこないが、これ以上の流血を避けることが出来ただけでも僥倖だろう。
 ここがどこなのかが未だにわからない以上、脱出する算段はつかない。現状で士郎にわかるのは、自身が侵入者なのだということだけだ。
 先程遭遇した二人組が問答無用で攻撃を加えてきたことから、ここがそれなりにセキュリティの高い場所である可能性は高い。
 そんな場所で一人の人間を探し出してから逃げ出すには非常に高いリスクを伴うだろう。それでも黙って死を迎えることだけはできない。
 今の士郎を支えているのは生存本能を超えた強い想い――無事に帰ると告げて待たせている人たちとの約束だった。
 故に、最後まで足掻いて足掻いて生き残らなければ――そんな決意を固めながら、直ぐ背後から近付いて来ていた人影に意識を向ける。

「――大丈夫ですか?」

 慌てている様子は感じられず、どこか温かみを感じさせる声が耳に届く。
 気遣わしげな気配を背負ったまま声を掛けてきた相手へと視線を向ける。地面に座り込んだまま士郎が見上げたそこには、一人の女性が立っていた。


 -Interlude-


 彼女――エヴァンジェリン・AK・マクダウェルが自身の従者である茶々丸の元に戻った時、既に男の姿はなかった。
 魔力の残滓も感じられないことから、どうやら取り逃がして――いや、見逃してもらったらしい事を悟る。
 その事実に腸が煮え滾る思いがしたが、同時に安堵していることも事実だった。冷静な思考が、今の状態では勝ち目が見えなかったと判断していた。

「――マスター。申し訳ありません、何もできませんでした」

 茶々丸が申し訳なさそうに告げる。見れば彼女を縫いつけていた長剣はまるで霧のように霧散していった。
 投げ出される身体を自身の両足で支え、斬り飛ばされた腕を眺めながら自己分析に入っていく――。
 そんな茶々丸を眺めながらエヴァンジェリンは男の双剣によって斬り飛ばされた茶々丸の両腕を拾いに向かった。

「……相手が悪かった、ということだ。私とて、今の状態ではどうなったか知れたものではない」

 彼女の呟きはどこか慎重だった。不本意だが、対峙した少年の実力は今の自身では及ばないと実感していた。
 だが、あの侵入者に対応できる人材がこの麻帆良に――魔法使い共の集うこの土地に存在していないわけではない。
 もっとも、戦った感想を元に考えれば侵入者に対抗できそうな存在はそれこそ片手で数える程度しかいないのが問題といえば問題であるが――。

「どのような目的でこの"学園"に侵入してきたのかは知らんが、野放しにもできまい。アレほどの使い手ならば尚のことだ」
「……ですが、あの人はしばらく行動を起こさないと思われます」
「――ほう。それは何を根拠にした推察なんだ?」

 淡々と事実を口にするように告げられた茶々丸の言葉に返答を促す言葉を返した。
 興味を覗かせたエヴァンジェリンの視線を受けて、茶々丸は静かに報告を口にする。

「つい先程、彼が逃亡する際に声を掛けられました。その際、彼の状態を分析していたのですが……」

 言い淀む茶々丸に続きを促すように目で訴える。
 茶々丸にしては珍しく、自身が分析したデータを疑うような曖昧な表情を浮かべていた。

「――彼は、既に瀕死の状態です。生体反応は全て微弱――出血も激しく、データ上だけで考えるなら意識があるだけでも異常と言えるほど衰弱しているはずです」
「……瀕死の状態、か。なるほど…確かにお前のその分析は当たっていたのかもしれんな」

 報告を受けた彼女は、不思議と先程までの怜悧な怒りが失せていた事を自覚した。
 周囲に視線を向ければ所々に血痕が残っている。男が最後に立っていた場所は草に阻害されて傍目には見えないが、ちょっとした血溜まりができていた。

「――芳醇な魔力を含んだ血……やはり、魔法使いか」

 その血溜まりの一番綺麗な箇所を指で掬い上げて口に含む。
 僅かに鉄の味が広がったが、濃密に魔力を含んだそれは間違いなく極上の美酒だった。
 思わず恍惚に浸りそうになるエヴァンジェリンだったが、現状を鑑みるに茶々丸の修理が最優先であることを思い出し、吸えるだけ血を吸ってから歩き出した。

「お前を損傷させてしまったが、結果的に魔力を補充できただけで良しとするしかないな。とりあえず、工学部へ向かうぞ」
「はい、マスター。ただ、ハカセやチャオに怒られなければいいのですが……」

 茶々丸は科学と魔法によって造られた所謂ロボットという存在である。
 そのためか人形遣いの従者として生み出されてきた彼女の姉たちと比べると少し変わった思考を有している。
 それがどこまでも自分好みであるが故に、茶々丸もまた自身の従者として相応しいとエヴァンジェリンは笑った。

「とりあえず、報告が先だな。億劫だがこれも仕事の内だからな……」

 僅かに自嘲を含んだ独り言を零しながら、あの鷹の目を持つ少年を思い返して表情を引き締める。
 次に出会った時は――そんな可能性を脳裏に描きながら茶々丸と共に歩き始めたエヴァンジェリンだったが、すぐにその足を止めた。
 少年とは異なる血の臭い――予感めいたものを感じながら、血の香りを頼りに足を向ける。
 辿り着いたのは、少年と戦闘を行った場所から更に森の奥へと進んだ先――鬱蒼とした森に群生する草木の只中だった。
 
「――女……か。どうみても一般人ではなさそうだが……」

 どこか魔女を連想させるような衣装に身を包んだ女――意識を失っているためか、その顔に生気は感じられない。
 この状況下で女と少年が無関係であると考えるのは余程の能天気だろう。
 長い夜になりそうな予感を覚えながら、エヴァンジェリンは遅れてやってきた茶々丸に一つの指示を伝えるのだった。


 -Interlude-


 もうじき二月――肌寒い通学路を通って学校へ通い、放課後には保育所の手伝いをしてから寮へと戻る。
 そんな日常を彼女――那波千鶴(なばちづる)は、今日も変わらず、いつも通りに過ごしていた。

「――そういえば今日はあやかも夏美ちゃんも遅いのよね」

 ルームメイトの二人――雪広あやか(ゆきひろあやか)と村上夏美(むらかみなつみ)はそれぞれに用事があって帰りが遅くなると伝えられていた。
 そんな二人のために少しだけいつもよりも手を掛けた晩御飯を振舞おうと思い立ち、張り切って買い物をしてきた帰り道――。

 ――後に思い返せば、彼女の日常が変化したのは間違いなくこの時からだったのだろう。

 人通りの少ない道――買い物を済ませてから通い慣れた道を独り歩いていると、ソレは唐突に現れた。
 まるでバイクや車のような速度で走り抜けていった人影――。
 その人影が少し離れた路地の中に入っていくのが彼女の目にもはっきりと見えてしまった。
 普通なら見て見ぬふりをするのが正しいだろう。あれはどうみても普通ではなかったからだ。
 ――それでも足が向いたのはきっと何か理由があったのかもしれない。
 自分にも分からない理由があって、それで少し覗いてみようと思ったのだろう…と――自問自答を繰り返しながら、千鶴は駆け足で路地へと向かった。
 覗きこんだ狭い路地には点々と続く血の跡があり、奥から苦しげな息遣いが聞こえてくる。
 妙に落ちついた心境のまま路地の奥へと進んでいくと、なにやら奥から男の人の声が聞こえてきた。

「……とりあえず、血は止まった…か。後は運だな」

 酷く掠れた声――まるで、生きている人の声とは思えないほど生気が感じられない呟きに鼓動が乱れた。
 ――その理由を考える前に千鶴は歩を進める。
 血濡れの背中に近づいていくが、本当にすぐ後ろに立つまで男は千鶴に気付く素振りを見せなかった。

「――大丈夫ですか?」

 その背に声を掛けると男はゆっくりと視線を千鶴へと向けてきた。

 ――後に千鶴は絶対に忘れられない事柄は何かと問われた時、迷うこと無くこの瞬間だと答えた。

 その目が――その顔が――その気配が千鶴に理解を促してくる。
 余りにも色のない瞳。
 日常を営む人間には決して浮かべることのできない表情。
 そしてなにより、その身に纏う気配はどこまでも孤独だった――。

「――……何か、用かな?」
「えっ?」

 突然の言葉に疑問の声を零しながら、千鶴は眼下に座り込んだままの少年の姿を眺めた。
 赤茶色の髪に静謐な顔――鍛えてあるのか、がっしりとした体格をしている。
 年の頃は恐らく千鶴よりも僅かに上だろうが、まだ少年と呼ぶのが相応しい年頃だろう。その少年が戸惑った様子で千鶴を眺めていた。

「……血を流す程の怪我をしている人が路地裏に入っていくのが見えたので、気になって追ってきました。あの……救急車、呼びましょうか?」
「…いや、気にしなくていい。少々厄介事に巻き込まれているようでな。出来れば公共の場所には出たくない。君も、そのまま何も見なかったことにして立ち去ってくれると助かる」

 今動くのは億劫なのでな…と。何でもないように告げる彼は真実助けを必要としてはいないようだった。
 それでも、立ち去れという言葉は聞き入れられなかった。
 それをしてしまったら自分に嘘をついてしまうことになる――千鶴にとって、それは譲れない境界だった。

「――病院にいかないというのなら、せめて治療をさせてください。直ぐ近くに私の住んでいる寮がありますから」

 返答を聞くことなくその手を取る。
 彼は立ち上がることさえ辛そうだったが、酷く申し訳なさそうな笑みを浮かべながらゆっくりと立ち上がった。

「……もし、何か揉め事が起きたら俺に脅されて仕方なく匿ったと告げてくれ」

 それはきっと心からの言葉だったのだろう。それ以上、彼は何も事情を話さなかったし、千鶴も頷いただけでそれ以上何かを聞こうとはしなかった。
 どうしてこんな行動を取ったのかは分からない。けど、きっと間違ったことはしていない。千鶴は一切の後悔をしないことを確信しながら彼の手を引いて歩いていく。
 男をここで見放してしまえるのなら、自分はもう何に対しても胸を張って生きていくことができなくなる――そんな確信が千鶴にはあった。
 幸い千鶴の住んでいる女子寮では時間が遅い事もあって誰とも出会う事はなかった。
 さすがに男を連れて歩いているのが見つかれば騒ぎになると思っていたので警戒はしていたのだが――。

「――随分と広い部屋なんだな」

 無事に到着し、千鶴の住んでいる三人部屋に入った彼の最初の一言はそんな言葉だった。
 丁寧に靴を片付け、しっかりとした足取りで少年は部屋の中へと入っていく。それを見届けた後、千鶴もその後に続いた。
 男を座らせてから自室へと戻り、部屋に備え付けられている救急セットを取り出してきた千鶴はすぐに治療の準備を進める。
 救急セットはルームメイトである雪広あやかが備えてくれていたもので、簡単な治療を行うには十分な品揃えである。
 聞けば既に血は止まっているというので上半身の服を脱いでもらう。
 同じ年頃の男の裸など見た事もないのだから照れるのが普通の反応なのかもしれない。だが、千鶴にはそんな感情が微塵も湧いてこなかった。

「――少し染みますよ」

 動揺を押し隠し、そんな言葉を投げかける。彼は小さく頷いてされるがままだった。
 振り向かれて表情を覗きこまれたら気付かれていただろう……息を呑んで驚きを露わにしていた千鶴の表情に――。

 ――その身体には無数の切り傷があった。

 深い傷が数カ所――そこは何かの処置をしているらしく、傷口は閉じかけていた。
 その他の傷は比較的浅くて傷自体は大した深さではない。止血をしたと言っていたので何らかの治療は行ったのだろう。
 だが、肌を出している部分で傷のない個所は殆どなく、如何に浅い傷だとはいってもこれでは身体を動かすだけでも相当な激痛を感じていたはずだ。
 特製の軟膏を塗り、包帯を巻いていく――。
 幾つもストックがあったが、その殆どを使い切ってようやく治療を終えた時には彼の上半身は殆ど全てが包帯で包まれていた。

「とりあえずこれで大丈夫だと思います」
「ありがとう……おかげで随分と楽になったようだ」

 ぶっきらぼうだけど丁寧な言葉が返ってくる。
 まだ僅かにしか会話を交わしていないが、彼が悪意を持たずにここにいてくれているのがよくわかる。
 そもそも彼が一目その姿を見ただけで危険だと思えるような人物なら、如何に千鶴でも部屋に上げることはしなかっただろうが――。

「後はしっかり休んでください。一応この部屋には私を含めて三人が住んでいますけど、個室はそれぞれありますから私の部屋で休んでください」
「……いや、流石にそこまで世話になるわけにはいかないだろう。それに、その……なんだ? 見知らぬ男を自室には入れない方がいいと思うぞ」

 それは全くの正論だったが、それ以前の話でもある。向かい合っていれば否応なく理解できるからだ。
 彼の顔色は青く、まるで血の気が戻ってきていない。足取りもしっかりしているように見せているが、それが微かに震えているのを千鶴は見逃さなかった。
 彼は自分の調子や状態はそもそも勘定にすら入れていないのだろう。だから自分の状態よりも他人の状況を優先する。
 その在り方と今も感じさせる絶対の孤独――それを目にしてしまってはもう、千鶴は自分の意見を曲げるようなことはできなかった。

「少なくとも怪我人の貴方をどこかに放り出すことなんてできません。今はとにかく、自分の身体のことを気遣ってください」
「――む、なんだ…その、君は意外と頑固だと言われた事がないか?」
「貴方ほどではないと思います。そんなに辛そうなのに人の心配ばかりしている貴方よりは頑固じゃないと思いますよ」

 互いに平行線――歩み寄る余地はお互いになかったが、それでも彼は苦笑いを零しながら身体を揺らしていた。

「……少しだけ休ませてもらおう。さすがに一夜を明かすわけにはいかないし、これでも回復力は高いほうでね」

 どこか自嘲するような雰囲気を纏って告げる男は、まるで迷子になった子供のように見えた。
 未だに感じられる"孤独"は例えようもないほど深く、今の彼自身を形成しているように見えて――それが千鶴には我慢できなかった。

「そう言えば名乗ってさえいなかったな。衛宮士郎――生憎と語れるのは自分の名前だけだが、厄介者であることには違いない。気が向いたらすぐに追い出すことを勧める」
「那波千鶴です。あの――厄介者というのは?」
「それを話せば、本格的に君を巻き込むことになる。できれば聞かないでくれると助かる」

 そう告げながら一際深くなる孤独の気配――千鶴が感じていたモノは間違っていなかったらしい。

「……それに、ここまで世話になってから言うのもなんだが……これ以上、俺には関わらないほうがいい」

 彼が本当に優しい人なのだと、千鶴にはその言葉だけで理解できた。
 深い事情は知らないし、聞こうとも思わなかった。けれど、彼はそんな厄介そうな状況の中でさえ他人の心配をしてくれている。
 ぶっきらぼうな口調でどこか表情も硬く、ともすれば相当な偏屈者に見えても不思議はない。けれど、こうして話して見れば彼の人柄を知るには十分だった。
 千鶴はそんな士郎の在り方に一抹の寂しさを感じながらこの出会いに感謝する。そうして――不思議と落ちついた心境のまま口を開いて告げた。

「――私は私がそうすると決めて貴方を連れてきたんです。それを後悔するようなら、そもそも貴方に声をかけなかったと思います」

 ありったけの想いを込めて心からの言葉を口にする。
 それを受けた彼は微かに驚いたような表情を浮かべ、やがて苦笑してから柔らかく微笑んだ。

「なるほど…それは確かにその通りだな。いや、まったく……感情のまま言葉を口にするものじゃないな。君の選択を貶めるような意図はなかったんだが…」

 そう告げて彼は立ち上がり、先程脱いだ服を身に纏ってゆっくりと歩き出した。

「――ありがとう。君のおかげで本当に助かった。もし許されるならもう少し君と話をしてみたかったが――どうやら時間切れのようだ」

 どこかを見据えながら告げる彼の背中は問答など受け付けないと言っている。その姿は例えようもなく――。 

「――また、会えますか?」

 本心を隠してそう告げる。彼は一度歩みを止め、ゆっくりと千鶴へと振り向いた。

「そうだな――俺も、そうできたらと思う」

 嬉しそうに笑みを浮かべて、衛宮士郎と名乗った男は千鶴の部屋を出ていった。その背に絶対の孤独を抱えたままで――。
 けれど、それまでの表情が嘘のような明るい笑顔を浮かべていた。あんな綺麗な笑みを向けられたら言葉に詰まっても仕方ないだろう。
 ―――そう…仕方がない。
 だから千鶴は、やけに煩い自分の心臓の音を必死で無視して、立ち去っていった衛宮士郎という人の残像をいつまでも見つめているのだった。





 
 

 
後書き
第三章です。

 

 

Episode 21 -闇夜の一幕-



 目を開けると最初に目に入ったのは木製の天井――。
 これまで縁のなかったその光景を目にして、彼女――プレシア・テスタロッサはゆっくりと身体を起こした。

「――ここは……」

 周囲には、どこか怪しげな道具や煮立った液体に満たされた巨大な釜などが鎮座している。
 どうやら、何かの実験を行ったり研究を行うための場所らしい。

「――あ…もう目が覚めたんだね」

 見れば部屋の入り口から顔を覗き込ませている女が淡い笑みを浮かべていた。
 見た目は若く見えるが、どこか浮き世離れした雰囲気を身に纏った女の姿に違和感を覚える。

「少しは薬が効いたみたいだね。ここに運ばれてきた時には本当に危なかったんだよ」
「……アナタが、私の治療をしてくれた…と?」

 言葉を口にしながら、プレシアは自身の身体の調子が普段よりも良い事に気付いた。
 全身を包む倦怠感も殆どなく、身体の内から沸き上がってくる痛みと息苦しさが半減している――。

「一時的なものだけどね。病巣を取り除けたわけじゃないし、体力を回復させて痛んでいた中身を少し修復しただけだよ」
「……そう。一応礼を言っておくわね。けど、私はもう……生きる目的をなくしてしまった。これ以上生きて…どうすればいいのよ……」

 独白は誰に向けたモノでもなく、ただ自身に呼びかけるように吐き出した。
 意識を失う直前――それまで自身を動かしてきた想いを叶えられないと……外的要因だけではなく、自身の心がそれは叶えられない願いなのだと悟ってしまった。
 あの少年に突きつけられた言葉を否定する意思を持てず、自身の行いがアリシアを悲しませる事になると考えれば考えるほど、身体を動かす気力は損なわれていった。

「――何か、事情があったんだね。よかったら聞かせてくれないかな?」

 静かな声が耳に届き、プレシアは意識を内から外へと向けて顔を上げた。
 そうして、いつの間にかベッドの隣に用意していた椅子に腰掛けた女を流し見る。
 その声はどこまでも透明で、ただ相手を気遣う真摯な目だけが真っ直ぐに向けられていた。

「そうね……もう、何もかも終わった事だけど――最後にそんな"らしくない"事をするのも悪くはないわね」

 語るのは自身の最後――。
 尽きていく自身の命数を数えながら、焦燥に突き動かされた愚かな女の末路だ。
 いつでも気付くのが遅く、取り返しが付かなくなってから気付いて後悔を重ねていく。
 最愛の娘を失い、もう一度その笑顔を見るためにと外道を歩んできた。
 自身を母と呼び、笑顔を見せてくれていた優しい子を憎み、邪魔するもの全てを押し退けて願いを叶えようとした事を――。

「――だから、私にはもう叶えるべき願いも生きる目的もない。助けてもらってなんだけど……私のことは放っておいてちょうだい」
「……でも、後悔はしているんでしょう?」

 ――その言葉に肩を揺らした。
 叶えたい願いはなく、生きていく目的もない――けれど、確かに後悔はあった。
 今更と言えば今更だが、こうして僅かに死から遠ざかっただけで色々な事に思考を割いてしまう。
 そんな未練がましい自分に苦笑しながら、プレシアは静かに首を振った。
 
「無理強いはしないけど…ね」

 悲しげに微笑む女の声音は僅かばかり寂しげで、その姿がどこかあの少年に似ていると思った。





・――・――・――・――・――・





 ――やられた…と。
 ただそれだけの言葉を理解するのに数秒を要したのは彼女――桜咲刹那(さくらざきせつな)にとって初めての経験だった。
 先程入った報告によれば、結界が感知した侵入者を排除するために向かった者が撃退されたという。
 向かったのは如何に魔力を抑えられているとはいえ、裏の世界にその名を轟かせた者と、その従者の二人だ。
 侵入者に関する詳しい情報は殆どなかったが、相応の対処能力を持つ二人を僅か一分足らずの内に撃退して逃走したらしい。
 追跡はできていないそうだが、寮のある地区へと向かっていったことは確認されている。

「――なんにせよ、警戒する必要があるのう」

 この麻帆良学園の学園長であり、関東魔法協会の長でもある近衛近右衛門(このえこのうえもん)の言葉が学園長室に響く。
 彼の孫であり、刹那の幼馴染にして守るべき存在である近衛木乃香(このえこのか)は極東最強の魔力の持ち主である。
 日頃から頻繁と言うほどではないが、その力を手にしようと魑魅魍魎、呪術師、魔法使いなどが学園に侵入してこようとしていた。
 もっとも、それを許すほど麻帆良(まほら)の警備は甘くはない。事実、これまでそういった類の侵入者が警備の手を振り切った例はなかった。

「……お嬢様を狙ってのことでしょうか?」
「フム……可能性としては考えられる。スマンが頼めるかの?」
「もちろんです。私はそのためにこの学園に来たのですから」

 そう――そのためだけに刹那は此処にいる。
 ――彼女を…お嬢様を守る。例えこの身に代えても守り抜いて見せよう。
 その決意は彼女にとっては存在証明に他ならず、生きていくための目的でもある。
 故に、主である木乃香の身に危険が迫っている可能性があるならば、その身を護るための最善を尽くさなければならない。

「学園長。あの二人に協力を要請してもよいでしょうか?」
「……ふーむ、備えあれば憂いなしとはいうからの。報酬は出すと伝えておいてくれ」

 近右衛門の承諾を受けた刹那は即座に部屋を退出する。
 直ぐに携帯で連絡を取り、クラスメイトの長瀬楓(ながせかえで)と龍宮真名(たつみやまな)の二人に協力を要請した。
 楓は忍びの修行の一環として、そして真名はかつて戦場を渡り歩いた裏の世界のプロとして裏の仕事を共にする事のある実力者だ。
 それは今の刹那にとって間違いなく頼りになる援軍に他ならない。
 連絡を取り合い、簡単に打ち合わせた後、楓と真名の二人はさっそく寮内とその周辺の探索を開始してくれた。
 時間にすれば僅か数分の後――ふいに、胸元の携帯電話が振動する。
 二回ほどコールされた所で応答する。刹那が持つ携帯電話に連絡をくれたのは、先程探索を開始してくれた真名だった。

『――探知魔法に引っ掛かった。やはり寮内にいたようだな。正確な位置までは掴めなかったが、今は外へ向かっている』
「わかった。龍宮は長距離射撃で援護、楓には忍んでいつでも相対できるようにしていてくれと伝えておいてくれ」
『――了解だ。麻帆良湖の方面へ逃げたようだ。見失うなよ』
「わかっている」

 会話を終えて通話状態の携帯電話を切り、腰にぶら下げている小物入れへと放り込む。
 ――言葉は冷静に、しかし頭の中は怒りで煮え滾っていた。
 予想通り、賊は女子寮へと侵入していたらしい。人気の多いこのような建物に侵入する理由など、そう多くはないだろう。

「(……一歩間違えればお嬢様に危険が及んでいたかもしれない。そんな輩を取り逃がす程落ちぶれてはいないつもりだ!)」

 内心怒りに震えながら闇夜を駆ける。気がつけば、そんな刹那に並走するように楓が隣を走っていた。

「――刹那。どうやら賊がこちらに向かってきているようでござるよ」
「……そうか。楓はそのまま身を隠してくれ。極力捕縛するようにと学園長から指示を受けている」

 小さく頷くような気配を零し、楓は闇に溶けていった。その見事な気配遮断はそこにいるとわかっている彼女でさえ感知できないほどだ。
 そうして所定の位置へ到着した刹那は立ち止まり、臨戦態勢を整える。
 同時に真名から狙撃ポイントに到着したことを知らせる二回のコール届き、小物入れの中にある彼女の携帯を震わせた。
 ――これで準備は整った。
 後は賊がこの場へとやってくるのを待つばかり――。
 刹那は己が愛刀を竹刀袋から取り出し、神経を研ぎ澄ませながらその時を待つのだった。


 -Interlude out-


 見られていたのか探知されたのか…それは瑣末な差に過ぎないだろう。
 士郎にとって重要なことは唯一つ――。
 その身を敵とする者がいて、その身が罪なき一般人の元にあり、それを自身が許容できなかったという事だけだ。

「――さて、何とか振り切って体勢を立て直したい所だが……」

 その呟きは誰に聞かせるものでもない。真実、それは叶う事のない願い――願望に過ぎないのだから。
 治療を行ってくれた女性――那波千鶴の好意に甘えて治療を受けていたが、同時に士郎はどこかから探るような気配を感じていた。
 それは目の前にいた彼女ではなく、恐らく同じ建物の中にいる何者かが特殊な手段を用いて行った探索に違いない。
 ――そして、つい先程その網に引っ掛かったことを自覚した。
 故に士郎は彼女の元を去り、寮を離れてバリアジャケットを装着した状態で暗い夜道を歩いていた。
 遠く湖畔を見据えながら人気のない道を走り続ける。逃げるだけならこのまま走り去ればいい。だが――。

「――そこまでだ。どのような思惑あってかは知らぬが、覚悟していただきたい」

 士郎の前に立ち塞がるように立つのは凛とした佇まいをした少女だ。
 長い黒髪を靡かせている少女は身の丈にそぐわぬ野太刀を片手に敵意に満ちた目を向けてくる。
 後ろで纏められた髪とその容姿からしてまだ年若い少女だとわかる。
 だが、その眼光は鋭く、今にも切り裂かれそうな鋭利な殺気はただの少女が持つモノでは決してない。

「問答は無用ということか? どうにも、先の少女と従者もそうだが…ここにいるのは血の気の多い者ばかりのようだな」
「……なるほど。あの二人を退けたというのは本当のようだな」

 士郎の皮肉は戯言と取られたらしく、少女が纏う空気が更に重くなる。
 周囲の空間に満ちていく密度を増した気配――それは、軋みを上げるように辺りを圧し続けていた。

「あれは正当防衛だと自認している。命を狙われたなら、それに抗するのは当然だとは思わないか?」
「戯言を――ここに侵入してきた以上、排除されるのは覚悟の上だろうに」

 少女はその手に持つ鞘から刀身を抜き放ち、ゆらりと構える。
 これ以上問答をするつもりはないという絶対の意志を持って構えられた少女の獲物は、少し前にも見たことのある退魔の刀――夕凪だった。
 ――その事実に僅かばかり驚きながら、すぐに思考を切り替える。
 事実、少女の言葉は確かに間違いではないのだろう。彼女は敵対者を排除しようとしているだけなのだ。
 状況から推察すれば、士郎は紛れもない不審者に違いない。少女はきっと、那波千鶴のような一般の人間を護るために戦おうとしている。
 最初に接触した二人は兎も角、少なくとも目の前に立つ少女の真っ直ぐな目はそれを如実に語っており――故に、戦いは避けられないだろうと士郎は悟っていた。

「――三対一か。さて、無事に逃げられればいいのだが……」
「―――!?」

 告げて、目の前の少女が目尻を上げる。
 上手く周囲に溶け込ませているが、周辺の空気が一瞬だけ揺れる。
 同時に、直線距離にして一キロほど先から感じる極小の殺気が乱れた。

 ――つまり、そういうことだ。

 目の前の少女――いや、少女たちは数の有利を生かし、あくまでも侵入者を排除、或いは捕縛するつもりなのだろう。
 無闇に争うつもりなど士郎にはなかったが、命の保証があるわけではない選択肢を選ぶことはできない。
 多くを失い、その果てに救われて――この命は決して無駄にしていいものではないという強い意志が瀕死の身体を動かしていた。
 思考を冷静に、冷徹に回していくのは生きて帰るために――それは決して我が身可愛さだけから来るものではない。

 ――士郎はきっと、誰よりも自分の命を軽く考えている。
 
 だが、それではいけないのだと――それはこの命を紡いでくれた人たちの想いを踏み躙る蛮行なのだと魂が吠えていた。
 故に――例えこの身が混乱の原因だとしても、やすやすと命を捨てるつもりもなければ差し出すつもりもない。
 だからこそ、士郎は確固たる意志を持って少女“たち”と相対する――。

「――楓!」

 目の前に立つ少女の言葉に呼応するように暗がりから三本の短刀――くないが飛来する。
 ――同時に、野太刀を構えた少女が凄まじい速度で肉薄してくる。
 それは正に十間の距離を一息で詰める達人の技――その手に持つ夕凪を構え、必殺の一刀を振るおうとしているのが士郎にはしっかりと視えていた。
 距離にして一キロほど離れた丘の上で銃を構えている狙撃手が行動を起こした事を確実に視認し、押し殺された殺気を感じとりながら目前の光景を凝視する。
 ――時間にすれば、わずか一秒の出来事だ。
 その一瞬の間に少女たちは見事なまでの連携を見せて一切の油断もなく攻撃を加えてきた。
 目論見を指摘されたことで油断を排したのだろうが、その躊躇のない決断と行動は賞賛に値する――。

「――――I am the bone of my sword.(体は剣で出来ている)」 

 自己を表す言葉を口にする。どのような状況に陥ろうとも決して忘れることのない言葉――。
 それは魂に刻みつけられたもの――人が呼吸をする事を当然とするように、この言葉は衛宮士郎にとって当然のようにある言葉だった。
 脳裏に赤き荒野を幻想し、そこに聳える無限の剣の中から二種類の剣を抜き放つ。
 一つは巨大な岩の剣――そして、もう一つは細長い刀身の剣だ。
 左手に現れる岩の剣を飛び込んでこようとする少女の眼前に突き立てる。
 同時に細長い剣――黒鍵と呼ばれる投擲に特化した剣を右の手に四本ほど装填し、暗がりへ向けて弾丸のように撃ち出した。
 少女の繰り出した一刀は岩の剣に阻まれ、暗がりから放たれた三つのくないは撃ち出された黒鍵に弾かれ、勢いそのままに黒鍵はそれを放った人物へと殺到する。

 ――時が止まったのではないかと錯覚するほどに濃密な一瞬。

 岩の剣に一刀を弾かれた少女は驚きに表情を歪め、くないを弾いて飛来する黒鍵を迎撃しようとした人物はその衝突の威力に苦悶を洩らす。
 そして、その全てを布石として飛来してきた二つの弾丸――。
 それを辛うじて避けながら取り出した弓矢を構えた士郎は、その目に狙撃手の姿を確実に見据えてから番えた"矢"を放った。


 -Interlude-


『――三対一か。さて、無事に逃げられればいいのだが……』

 その光景を彼女――龍宮真名はスコープ越しに眺めていた。
 レンズの向こうにいる男と目が合う――その瞬間に真名が感じたのは紛れもない恐怖だった。
 多くの戦場を渡り歩いてきた彼女は凄まれて怯えるような少女チックな精神構造をしておらず、これまで身体を竦ませるほどの殺気を浴びても涼しい顔を崩した事はない。
 だが、いま間違いなく彼女は恐怖を感じていた。目と目が合った瞬間、怖気のようなものを確かに感じていたのだ。
 ――あの目には"なにもない"。
 喜怒哀楽は言うに及ばず、殺気や怯えも感じられない。
 この状況で自己を消して無我の境地に至るなど、男が生半な使い手では決して無いことを証明していた。

『――楓!』
『――心得た』

 刹那と楓が身につけている小型マイクが言葉を拾う。それを行動開始と判断し、真名は咄嗟に弾丸を撃ち込んだ。
 殺傷能力こそないが、術式処理を施された弾丸は無防備に受ければ骨にひびを入れる事ぐらいはできる。
 それを二発――刹那と楓の攻撃に被せる形で殺気を隠しながら相手の男に向けて放った。

『――――I am the bone of my sword.』

 そんな言葉を男が呟いた瞬間、刹那の斬撃は巨大な石の剣で弾かれ、楓の投擲したクナイは男が投擲した四本の剣で迎撃され、そのまま楓へと殺到する。
 全てを布石に変えて真名が放った弾丸は刹那と楓の攻撃を捌いた男へ着弾しようとして――あっさりと回避される。
 その手並みにほんの一瞬だけ驚き、男がいつのまにか弓矢を構えていた事に気付いた。
 武骨だがシンプルなデザインの黒弓――その洋弓に構えられている矢は、見間違いでなければ細長い剣のような形状をしていた。
 そうして…ほんの一瞬の間にその矢は弓から放たれ、音よりも早く彼女の元へと迫ってくる――。

「――……っ!?」

 咄嗟に回避行動を取ったのは偏に経験によるものだろう。
 矢が放たれたと認識した瞬間、彼女は銃をそのままに反射的に身を起こして横へと飛んだ。
 直後、置かれたままバランスを崩して倒れようとした銃に剣が突き刺さった。冷や汗が流れた……などと呑気なことは口にさえできない。
 すぐさま側に置いていた新たな銃を手にして構え、スコープで男を捉える。
 そうして真名は、男の足もとに血溜ができている事に気付いた。あれは間違いなく男の流している血――。

「――やはり、この短時間では傷が癒えていなかったか」

 ふと、彼女の背後にある木の上から声が聞こえてきた。その声はどこか機嫌が悪く、同時に心配そうな声音にも聞こえた。
 見上げればそこには金の髪の吸血鬼――エヴァンジェリン・A・K・マクダウェルの姿がある。
 彼女の瞳は血溜に立つ男へと向けられており、その声には普段から冷めた態度を崩さない彼女には珍しく感情が込められていた。

「――エヴァンジェリン。あれは貴女が…?」
「いや、私とやりあった時には既に死にかけていた。今は少し持ち直しているようだがな」

 そう告げるとエヴァンジェリンは真名に構うことなく戦場へと飛んでいった。
 男はそれに気付きながらも、相対している刹那と楓から視線を外そうとはしなかった。

『――さて、少しは冷静になってくれると助かるんだが……』

 苦笑しながら呟かれた言葉に敵意は微塵も感じられない。赤い外套で解り辛いが、彼の出血量はそれなりに酷いと言えるだろう。
 刹那も楓も、そんな彼に驚きの混じった視線を向けながら警戒を続けるのが精一杯といった様子だった。
 先の一瞬の攻防で分かった事だが、男の技量は真名たち三人がかりでようやく張り合えるという程の高みにある。
 決して勝利の可能性が見えないわけではないが、現状でさえ長期戦に持ち込まなければ敗北を喫するのは自分たちだと真名は理解した。

『――先刻ぶりだな。ああして見逃してもらった上でこうして再会するのも心苦しいが…な』
『……手荒なことをしてしまったことは否定しない。ところで姿が見えないようだが、あの従者の子は無事なのか?』
『茶々丸のことか? ああ、今頃修理されている頃だろうよ。貴様が察した通り、アイツは私の従者で人形でロボットだからな。あの程度の損傷なら修理は可能だ』

 どうやら手酷くやられたのは茶々丸だったらしく、憮然と応えるエヴァンジェリンの態度がその損傷程度を示していた。
 満月とはいえ、茶々丸さえ無力化してしまえば"今の"エヴァンジェリンを抑えることは可能だろう。
 もっとも、どのような状態でも彼女の前では生半可な使い手など物の数にもならないはずだという事は間違いない。

『……そうか。ところで、まだ俺を殺そうと思っているのか? もしそうであるなら、流石に手段を選ぶ余裕はなくなるが……』

 気軽に会話をするには彼の状態は決して楽観できるものではない。
 刹那と楓も気付いたようだが、彼の出血は益々酷くなっており、おそらくは魔法か何かで一時的に傷を塞いでいたのだと推測できる。

『その状態でそこまで言えるなら死にはしない…か。貴様ら――この場は私が預かる。矛を収めろ!』

 ――それは、提案ではなく命令だった。
 エヴァンジェリンの鋭い視線は刹那、楓…そして離れて銃を構えたままの真名を鋭く射抜いてきた。
 刹那は食い下がっている様子だったが、楓は気配を露わに姿を見せ、真名は直ぐに銃口を逸らして片付けを始めた。
 彼には既に――いや、思えば最初から敵意というものがなかった。
 恐らく何かの事情があってここにいるのだろう。それを侵入者扱いして命を脅かしていたのだとすれば、彼が必死に抵抗するのは当然と言える。
 そう納得し、真名はその場を離れて全速力で彼女たちの元へと移動した。
 エヴァンジェリンと男の会話に耳を傾けつつ、直後に待っている男との対面をどこか楽しみに思いながら、真名は夜空の下を駆けていくのだった。


 -Interlude-


 虚空から飛来した彼女――エヴァンジェリン・AK・マクダウェルを前にしても男の態度は変わらない。
 彼女の目の前に立つ半死人は、どう見ても明らかに生命力を損じていながら決して苦しそうな素振りを見せなかった。

「――すまなかったな」

 どこまでも自然体のまま立つ男に彼女は目を伏せてそう告げた。
 戦端を切ったのは紛れもなく自身の落ち度であったと認めたが故に――。

「……なにを謝る事がある? 君はこの地域に侵入した異物を排除しようとしただけだ。そして、俺は自分を助けるために抵抗した。ただそれだけのことだろう?」

 互いに矛を交えたのは当然の経緯だと笑みさえ浮かべて語る。
 その瞳には決して命を投げ出そうとするような色は見えなかった。

「ああ、そうだな。ところで…いくつか質問がしたいのだが、まだ大丈夫か?」
「問題無い。戦闘さえ行っていなければ止血は容易だ。それで、わざわざ争いを止めてまで対話を持ちかけてくれる理由はなんだ?」

 僅かに空気を揺らしながらの問い掛けに視線を交差させることで互いの嘘を封じ込める。
 油断はしていない――と。男の目が…表情が――身に纏う雰囲気が語っていた。
 それは彼女も同じだったが、どうにも男からは敵意というものが感じられない。ならば、彼がここに来たのには相応の理由があると考えるのは自然なことだった。

「質問に応えればわかるさ。とりあえず一つ目だ。お前はここにどんな目的でやってきた? こちらが観測した限りでは、お前はいきなり学園結界の内側に転移してきたと確認している」
「……意図してやってきたわけではない。気がついた時にはあの場にいて、気付いた直後に君に襲撃された。そもそも俺は、ここがどこなのかも知らないしな」

 その言葉に驚いたのは彼女ではなく、彼女の背後に立つ三人――龍宮真名も既に合流している――だった。

「なるほど……では二つ目だ。貴様はこの後にどう動くつもりだった?」
「……俺が招かれざる客だということは君たちの対応を見ていてわかった。この身が災厄を呼ぶと言うのなら、共にここへやってきたはずの者と合流し、速やかにこの地を後にしよう」

 膝を揺らしながら、それでも視線だけは逸らさずにはっきりと答えた男の言葉に嘘はないだろう。
 あれほどの戦闘能力を誇りながら、いま目の前に立つ男は嘘偽りのない目を向けたままはっきりと宣言した。

「…ふん。元を辿れば問答無用で攻撃を仕掛けたのはこちらだったな。しかも二人して返り討ちに遇い、貴様に見逃された……その借りは返してやろう」
「――エヴァンジェリンさん! それは……っ!」
「黙れよ刹那。これは私が決めた事だ。爺への報告は好きにしろ。ああ、明日にはこいつを連れて報告に行ってやると伝えておけ」

 不満げに黙り込む刹那を両隣の真名と楓が諌める。どうやら二人は納得しているようだった。

「……つまり、俺はどうすればいいのかな?」
「意外と察しが悪いようだな。とりあえず貴様の身の安全は保障してやるといっているんだ。その上で話し合いの場を設けてやる」
「俺としては助かるが、その…なんだ。そっちの彼女はどうも納得していないようだが?」
「刹那か? アイツは真面目なだけだよ。それで、そちらとしてはどうなのだ? 戦闘を継続する意志があるのか、ないのか?」
「もちろん話し合いで解決するならそれが一番いい。君たちのような女の子と殺し合うなど、出来ればしたくはなかったからな」

 そう告げて笑みを浮かべる男の表情には邪気はなく、ただ透き通るような透明さだけが際立っていた。
 そんな男の在り様は酷く興味を惹かれるものがある。
 彼女は久しぶりに退屈せずに済みそうな予感を感じながら笑みを浮かべていた。

「ならば、そういうことでこの場は収めよう。とりあえず貴様の傷を手当してやるからついてこい。そこの三人はどうする? この男を見張るというのなら止めはしないぞ?」

 ついてくる気があるのなら構わないぞ、と。そう告げて即座に反応したのは刹那だった。

「……許されるなら同行させていただけますか。傷の手当てに関しても手伝えることはあるでしょうから」
「ふむ、ならば拙者は遠慮しておくでござる。戦闘の後片付けも残っているでござるからな」

 刹那の言葉に続くようにして答えたのは楓だ。彼女は周囲を見渡しながら笑みを浮かべて答えた。

「なら、私も遠慮しておこう。学園長やその他のメンバーには私から報告しておくよ」

 真名も辞退を申し出る。どうやら付いてくるのは刹那だけのようだった。

「――それで、肝心なことを聞いていないが……君の名前は何と言うんだ? ああ、私は龍宮真名という。これでも雇われの身でね。済まなかったな」

 真名が男に向けてそんなことを口にする。
 それを聞いていたエヴァンジェリンも自身が男の名を知らないことに思い出し、男へと視線を向けた。

「俺は衛宮士郎だ。次に会う時にはスコープ越しでないことを祈る。正直、アレは心臓に悪い」
「お互い様だよ。私も君に弓を向けられたくはない。正直冷や汗ものだったからね」
「はは、確かに違いない」

 どこか場違いに軽い会話を交わしながら二人は頷きあう。どうやら互いに何か通じ合うモノがあるのだろう。

「ではこれで。また会おう、衛宮」
「ああ、龍宮も色々と忙しくさせたみたいだが、頑張ってくれ」

 男――衛宮士郎の言葉に笑みを零して、真名はこの場を去っていった。

「拙者は長瀬楓と申す。今日は良き経験になったでござる。大した詫びにもならぬが、せめてこれを受け取ってくれると嬉しいでござるよ」

 楓は懐から巾着のようなものを取り出し、その中身を少しだけ掌に出した。

「この丸薬は我が里に伝わる秘伝の造血剤でござる。衛宮殿の手当てが済んだならこれを服用するといい」

 そう告げて手に出した丸薬を再び巾着の中に入れ、そのまま士郎へと差し出していた。

「ありがたく受け取っておく。ありがとう、長瀬」
「なんのなんの。ではまた後日、改めて会う時を楽しみにしているでござるよ。それでは拙者はこれにて」

 告げるとまるでここに存在していたのが嘘だったかのように姿を消した。
 それを追うことなく、士郎は手元に残った巾着を大事そうに握り締めていた。

「ではいくぞ。衛宮、刹那……ついてこい」

 遠慮せずに歩き出した彼女の後ろからは士郎と刹那が肩を並べて追いかけてくる。
 微かに興味を覗かせながら先行していたエヴァンジェリンは緩んだ口元を隠すことなく歩を進めるのだった。


 
 

 
後書き
本編二十一話目です。
 

 

Episode 22 -再会-

 士郎と刹那がエヴァンジェリンについて向かった先にあったのは一件のログハウス――。
 室内は人形やら何やらで飾られており、見た目に沿った少女趣味だと呟くと、隣に立つエヴァンジェリンに頭を小突かれた。

「――まったく……ほら、そこに座れ」
 
 告げながら奥へと入っていくエヴァンジェリンに促されて椅子に腰を落ち着ける。
 奥から救急箱らしきモノを手に戻ってきたエヴァンジェリンからソレを受け取った刹那が隣に腰掛け、手際よく必要なものを用意していく。

「では衛宮さん、服を脱いで頂けますか?」
「――ああ」

 言われた通りに服を脱いで血に濡れた包帯を解いていく。
 千鶴の手で施された治療の跡――これがなければ、或いは刹那たちと交戦する事さえ出来なかったかもしれない。
 士郎が心の中でそっと彼女への感謝を抱いている間も治療は続いていく。
 とはいえ、血の跡を拭いてから改めて傷薬を塗り込み、新しい包帯に変えただけの応急処置のようなものだ。
 それは全て同行してきた刹那が行ってくれたが、その手際の良さからこういったことに慣れていることを窺わせる。

「――これでとりあえずは大丈夫だと思います」

 手当てが済んだと告げる刹那に感謝を伝えた後、士郎は楓からもらった造血剤――丸薬のようなモノを取り出した。
 この類のモノには経験上、反射的に警戒をしてしまう士郎だったが、彼女たちを信用して警戒を取り払い、躊躇無く飲み込んだ。

「――さて、そろそろ本題に入るぞ」

 治療を終えるのを見計らっていたのだろう。
 エヴァンジェリンはいつの間にか対面に用意していた椅子に小さく咳払いをしてから腰掛けた。

「色々と聞きたい事もあるが、まずは確認だ。貴様はここがどのような場所かも知らずに結界内に転移してきたというのだな」
「ああ、その通りだ。ところで…君たちの名前を聞いていなかったな。差し支えがないなら教えてくれるか?」
「あ……し、失礼しました――私は桜咲刹那といいます」

 思い出したように告げたのは共について来た少女――桜咲刹那だ。
 詠春が愛用していた夕凪を手にしていた彼女の自己紹介に対し、士郎は真っ直ぐに視線を向けてから、よろしく…と返した。

「ふん、マイペースなやつだな。まあいいだろう。我が名はエヴァンジェリン・A・K・マクダウェル。真祖の吸血鬼にして最強最悪の悪の魔法使いさ」

 続けて行われたもう一人の少女の言葉に空気が停止する。
 どこか不自然なまでに固まった空気を動かしたのは、なにやら慌てた様子の少女――エヴァンジェリンだった。

「ど、どうした…? あまりの恐怖に言葉もないのか?」

 子供が大人に尋ねるような様子で告げられた言葉には威厳もなにもない。
 どうやら彼女にとって先程の名乗りは当然のものであり、同行してきた刹那もそのことについて否定しようとしていないことから事実なのだろうと悟る。

「――なにか事情があるのか? 正直、今の君は世間でそう言われているであろう名乗りに相応しいようには見えない。仮に最強云々の語りを事実だと考えると、いささか魔力不足ではないか?」

 目の前の少女からは微弱な魔力しか感じられない。
 吸血種――それも真祖で魔法使いだというのなら膨大な魔力を保有しているはずだ。
 夜の一族の例もあるために一概には断言出来ないが、そんな疑問に彼女は苦笑しながら答えた。

「……貴様の言はある意味では事実だ。確かに今の私は全盛期の一割にも届かない程度の魔力しか保有していない。ここに身を寄せているのは封印されているせいなのだからな」

 エヴァンジェリンの言葉を耳にしながら、彼女が告げる"真祖の吸血鬼"という存在について思考する。
 ここがかつてメルルと共に訪れた世界に類する場所ならば、或いは士郎が知る"真祖の吸血鬼"とは異なるのかもしれないが――。

「……君たち真祖は耐え難い吸血衝動を抑えるために大半の力を使っていると聞いたが、そこに不備はないのか?」
「吸血衝動? なんだそれは?」

 探るような問いかけに返ってきたのは疑問に満ちた声――その知識の食い違いに士郎は確信を深めていく。
 少なくとも士郎が持っている知識に沿うならば、真祖の吸血鬼というものは世界の意思によって生み出された超越種の中の一種族だったはずだ。
 彼らには理由なき吸血衝動が存在し、それを抑えるために自身の能力を行使する必要があるという。
 それほどまでに強い衝動を身に宿しているはずの真祖であるエヴァンジェリンにはそうした衝動そのものがない様子だった。
 疑問を浮かべた視線を向けてくるエヴァンジェリンと刹那の二人に対して、士郎は分かる範囲で自身が知る吸血種について語った。
 死徒と真祖、それぞれの成り立ちと特徴を――。

「――なるほど。貴様が知り得る限りでは吸血鬼というものはそういうものだと…そう言うわけだな?」
「ああ。それにしても、吸血衝動がないのなら君たち真祖は思いのままに力を振るえるということか? 俺の知る真祖とは違うようだからどれほどのものかは知らないが――」
「――侮るなよ。力を封印されていてもそこらの人間風情なら軽く捻る事ぐらいはできる」

 馬鹿にされている――そう受け取ったのか、エヴァンジェリンの視線に殺気が混じる。
 それを受け流しながら、そんな意図はないと目で訴えると彼女は不承不承といった様子で殺気を鎮めて溜息を零した。

「今度はこちらが聞かせてもらおう。先程の戦闘を見ていた限り、貴様は魔法を使っているようには見えなかったが、取り出していた武具はアーティファクトか何かなのか?」
「……ひとつ尋ねるが、君のいう魔法というのはどういったモノを指しての言葉だ?」
「不可解な質問だな。貴様を攻撃した氷柱もそうだし、貴様の攻撃を防いだ障壁も魔法だ。なんだ? 貴様も魔法使いではないのか?」

 当然のことを語る様子の彼女に他意はないのだろう。横に座る刹那もそれを当然のように聞いている。
 士郎が知る限りではエヴァンジェリンの使用したものは紛れもない"魔術"であって、決して"魔法"などという奇跡ではないし、魔導とも別のモノだった。

「俺の持つ知識では、魔法と呼ばれる奇跡はたったの五つしか存在していない。君が使ったのは魔術であって、決して魔法などという奇跡ではない、と。そう認識している」
「魔法が五つしかない? またあれか、貴様の持つ知識とやらの中では定義が異なるというのか?」
「……魔法とは、その時代の文明の力ではどれだけ資金や時間を注ぎ込もうとも実現不可能な"結果"をもたらすモノ。対して魔術は人為的に奇跡・神秘を再現する行為の総称だと記憶している」

 ――説明を口にしながら、士郎は確信していた。
 ナギと出会った魔法世界で見た魔法とエヴァンジェリンの使用していた魔法――。
 詠春が愛用していた夕凪と刹那が持つ夕凪――その共通点から導き出される結論は一つだけだ。

「……では、その魔法と呼ばれるモノにはどんなものがある?」

 内心で結論を導き出した士郎の目前で、どこか真剣な様子のまま尋ねてくる。
 エヴァンジェリンからの問いかけに、士郎は小さく頷きながら続けた。

「俺が知る魔法は二つ程度だ。一つは第二魔法と呼ばれるもので、"並行世界の運用"を行うというものだ」
「……並行世界? ある時点から分岐し、それに並行して存在する別の世界のことか? それを運用するというのは自由にそれらを行き来する――或いは因果律の操作…ということ、か。なるほど、確かにそれは不可能だな」
「もう一つは第三魔法……魂の物質化だ。魂自体を生き物にして生命体として次のステップに向かわせるモノをいう。それは精神体でありながら単体で物質界への干渉を可能とする高次元の存在を作り出す業で、真の不老不死を実現させる大儀礼だ」
「大仰だが、確かに不可能なことだな。なるほど…それらが魔法と呼ばれるものであり、それ以外のモノは魔術だというのだな」
「……少なくとも、俺が持っている知識ではそうなっている。どうやら、君の知る魔法とやらはそのような定義付けで括られてはいないようだがな」

 それはエヴァンジェリンの反応や先の言葉で確信している。
 なのはたちが扱う魔法は科学に傾倒したモノだったが、この世界における魔法はどちらかといえば神秘寄りなのだろう。

「まあ独自の魔法体系が存在する可能性も否定しきれんからな。この世界にはいまだに未発見の異界もあるというし、案外貴様はそういった場所の出身なのか?」
「少なくとも、俺がいた場所は此所とは違う世界の可能性が高いと思っている。ふむ……そういえばまだ聞いていなかったな。ここは一体どこなんだ?」

 極めて真剣に、尤も最初の疑念を口にした。
 元々それを知らないが故に争いが起きたのだから、その問いかけは当然のモノだった。

「……む、そういえばまだ説明していなかったな」
「ここは日本にある麻帆良という土地です。聞き覚えはありますか?」

 エヴァンジェリンに代わって質問に答えたのは刹那だった。
 彼女は先程までの会話を黙って聞いていたようだが、既に緊張した気配は霧散している。
 これまでの会話を聞いていてある程度の事情が掴めたからなのか、むしろ気遣わしげな視線を向けてきていた。

「聞き覚えはないな。そういえば学園結界が云々言っていたが…つまり、ここはその麻帆良にある学園の中ということか?」
「はい、麻帆良学園(まほらがくえん)といいます。世界有数の巨大学園都市であり、同時に関東魔法協会の本拠地でもあります」

 刹那の説明を聞いた士郎は敢えて些細な疑問を口にはしなかった。
 先程のエヴァンジェリンとの会話から推察して、士郎が知る魔術師はこの世界においては魔法使いと思って差し支えないからだ。
 恐らく、魔法協会というのは程度の差はあれ、魔術協会と同じような組織なのだろう。
 具体的にどのような組織なのかをエヴァンジェリンから聞いた限りでは随分と趣は異なるようだが――。

「――つまりは魔法や魔法使いを管理する組織の只中に不測の侵入者が現れたから迎撃に来たわけか。なるほど、それなら問答無用で排除しようとするのも頷ける」
「そ、その件に関しては真に申し訳ありませんでした。まさかそのような事情があったとは思いもしなかったので……」

 酷く慌てた様子で頭を下げる刹那の姿にエヴァンジェリンと目を合わせて苦笑する。
 視線で"こういうヤツだ気にするな"と告げてくる彼女に頷きを返し、頭を下げたままの刹那へと呼びかける。

「エヴァンジェリンにも言ったが、気にしないでくれ。君らは正しい行動を取っただけだろう? 俺が君の立場だったなら遠慮せずに攻撃を加えていたさ」
「……そう言っていただけると助かります」

 ようやく顔を上げて表情を緩めた刹那を眺めながら士郎は笑みを浮かべた。
 どうにか誤解も解けた事に安堵して、もう一つの懸念――プレシアの目撃情報がないかどうかを尋ねようとエヴァンジェリンへと視線を向ける。
 表情を改めたからか、彼女は何かを察するように小さく溜息をつきながら手を振った。

「もう一つ、貴様に聞かなければならないことがあった。共にやって来た者がいる…と――貴様は先程、そう言っていたな?」
「ああ。ドレスのような衣装に身を包んだ女だが、病を抱えている。状況から考えて、彼女もここへ飛ばされたはずだ」
「――その女なら、もう保護して治療を行っている」

 予想外――というよりも、可能性として低く考えていた状況に僅かばかり驚きを表に出してしまう。
 それがどのように映ったのか、エヴァンジェリンは少しばかり表情を緩めてから視線を奥へと向けた。

「安心しろ。その女はこの家の地下にある一室で眠っている。そろそろ目を覚ましているかもしれんがな」
「そうか。なら、彼女にも事情は説明しなければならないか……」

 話を聞いてくれるかどうかと僅かばかり懸念を抱きながら立ち上がる。
 エヴァンジェリンも同時に立ち上がり、先んじて歩き出して――何かを思い出したように振り返った。

「――衛宮。あの女は身体もそうだが、精神も酷く消耗している。貴様がヤツとどのような関係かは知らんが、親しいのなら覚悟だけはしておけ」
「忠告は素直に受け取ろう。だが、生憎俺と彼女は親しくもなければ仲間というわけでもない。何しろ、ここへ飛ばされる直前まで彼女とは敵対していたからな」

 告げて歩き出す。驚いた様子のエヴァンジェリンと刹那を置いて家の奥へと向かう。
 プレシアがここにいる――そう聞いた直後に家の内部を解析した士郎は、この家の構造を理解しているため迷うような事はない。
 地下へと下り、人形で溢れた空間を抜けた先には二つの扉があった。
 どちらも古めかしい木製の扉だったが、その内の一つ――どこか見慣れた意匠の扉の前で立ち止まる。
 どう見ても急拵えの造りだったが、それを同じものをどこかで見たような気がして――士郎はそれを振り払うように頭を振った。

「――入るぞ」

 声を掛けると、中で人の気配が動いたのが感じられた。
 気のせいでなければ室内には一人ではなく、二人の気配が感じられたが、気にする事なく扉を開け放つ。
 そうして、士郎が扉を開くと同時――室内から一人の女性が駆け寄ってきた。

「―――シロウ!!!」
「――ごふっ!?」

 見計らっていたかのように飛びかかってきた人影を迎撃しようと身構えた瞬間、それが誰なのかを理解して動きを止めてしまった。
 そんな士郎の戸惑いなど知ったことではないといった様子で飛び込んできた人物に腹部めがけて頭突きをお見舞いされ、思わず背後へと倒れ込む。
 すぐ後ろにやってきていたエヴァンジェリンと刹那の驚いた顔を見上げながら、士郎は自身の腹部――共に地面へ倒れこんだ人物へと視線を向けた。

「――メルル…か。どうして、君がここに……」
「それはこっちの台詞だよ……どうして、シロウがここにいるの?」

 声を掛けながらその髪を撫で付ける。
 それで我を取り戻したのか、抱きついた形になっていたメルルは顔を上げ、少しだけ照れた様子で笑みを浮かべた。
 ――そうして、すぐに離れて立ち上がったメルルと一緒に立ち上がる。
 目の前には数週間前まで共に過ごした錬金術士――数百年の時を生きてきた自称魔女のメルルの姿が確かにあった。

「久しぶりだね、シロウ。心配はしてなかったけど、無事で良かったよ」
「君も元気そうでなによりだ、メルル。会えたら文句の一言でも言ってやろうかと思っていたが――」

 彼女と別れてからの数週間を思い返す。
 あの世界で出会った人たちの顔を脳裏に浮かべながら、その切っ掛けをくれたメルルに笑顔を向けた。

「――ありがとう…というのは少し違う気もするが、素直な気持ちだ。感謝している」
「あ…はは……まあ、シロウがそう言ってくれるなら素直に受け取るよ。色々と話もしたいけど、今はあの人の事が優先なんだよね?」

 苦笑いを零しながら身体を扉の前から避けて奥へ視線を向ける。
 その先――簡素なベッドの上に腰掛けていたのは、淡い水色の病衣に身を包んだプレシア・テスタロッサだ。
 気のせいでなければ、彼女の表情には微かな笑みが浮かんでいる。
 
「――プレシア」
「お互い無事だったみたいね。衛宮……士郎だったかしら?」
「ああ。治療を受けたと聞いたが、少しは調子がいいのか?」

 告げながら部屋へと足を踏み入れる。
 ベッドの脇に置いてある椅子へと腰掛け、ベッドの上で座ったままのプレシアへと視線を合わせた。

「……そうね。少なくとも、ジュエルシードを集め始めた頃よりは調子がいいわ」
「貴様の事だ……治療を拒んで死を望んでいるのではないかと思っていたが――」

 告げるとプレシアは少しばかり意外そうな表情を浮かべた。
 確かに戦闘中の事を思えば、プレシアの身を案じているのは意外に思われるかもしれないが――。

「――勘違いするな。別に貴様の身を案じているわけではない。フェイトに――貴様の"もう一人の娘"に会わせるまで、貴様を死なせるわけにはいかないと思っただけだ」

 誤魔化すように告げるが、個人的に彼女を憎めないのは彼女が暴走した理由を知っているからだろう。
 そんな内心を隠すように、先程までエヴァンジェリンたちと確認していた現状をプレシアへ伝える。

「……私を連れて帰ろうとするのは、フェイトの……あの子のためにということ?」
「俺の勝手な思惑だ。フェイトのため――という理由だけで、生きる目的を失ったお前を生かそうなどという無責任なことは言わないさ」

 プレシアがフェイトをどう思っていようと、フェイトにとっては只一人の母親だ。
 二人の関係は二人が解決すべきだとも思うし、まだ幼い彼女に辛く厳しい現実を突きつけるだけかもしれないという懸念も確かにあるが――。

「――アナタも、私に生きろと……?」
「――そうだ。それでも死にたいというのなら、せめて元の場所へ戻り、フェイトと話を済ませてからにしろ。彼女を受け入れるのも拒絶するのも貴様の自由だ」

 言いたい事だけを告げてから士郎は席を立った。
 死を望む者を生かす――その責任と覚悟を心に刻みながら、ゆっくりと部屋の出口へと向かう。

「……安心しろ、プレシア。もし貴様が元の場所へ戻ってコトが済んだ後も死にたいと願うなら――俺がこの手でお前を殺してやる」

 言い残し、振り返ることも返答を聞くこともなく部屋を後にする。
 エヴァンジェリンと刹那の二人が黙ってついてくるのを確認した士郎は一度だけ足を止めた。

「済まないメルル……そういうわけだ。俺が責任を取る――治療を施してやってくれ」
「――うん、わかったよ」

 それで伝えたい事は伝わったと確信し、今度こそ足を止めることなく地下室を後にする。
 事態がどう転ぶのか――など、わかるはずもない。
 それでも――願わくば、フェイトとプレシアの二人が最良の未来へ向かっていければいいと思う。
 甘い考えだということは士郎本人もわかっていたが、こうして手を伸ばすことが出来る以上、何もせずに後悔するような事だけはしたくなかったから――。


 -Interlude-


「――さて、それじゃあ準備しないとね」

 メルルと呼ばれていた彼女は辺りを探りながら幾つもの材料らしきものを揃え、順番に釜へと放り込んでいく。
 怪しげな儀式か何かかと思ったが、至って平静に作業を続ける彼女の姿をプレシアは眺め続けるのだった。

「……彼は、どうしてそこまで――」
「――ああいう人なんだよ。自分の為に……なんて言うけど、困っている人がいたら放っておけないみたい」

 作業に没頭している様子のメルルの背へ言葉を零すと、すぐに言葉が返ってくる。
 苦笑しながら告げるその声にはしかし、隠しきれない好意が込められていた。
 不器用な生き方をしていると告げながら、彼女はそんな彼だからこそ好意を抱くのだと堂々と宣言する。

「そんな生き方を…これから先もずっと続けるつもりなのかしらね……」
「多分そうだろうね。筋金入りだよ――これまで百年以上も、ああやって過ごしてきたっていうんだから」
「――えっ?」

 聞き間違いか何かだろうかと疑ったが、手を止めて振り返ったメルルの表情は真剣そのものだ。
 そこには先程まで彼女が浮かべていた少女らしい笑顔はなく、小さな溜息を零してからゆっくりと口を開いていく。

「――彼はもう、百年以上をああして生きてきた…と言ったのよ、プレシア」

 落ち着いた口調で語られたのは、彼――衛宮士郎という男が歩んできた人生の一端――。
 メルルが直接彼に聞き、今こうして語ってくれたソレは、余りにも報われない彼の結末に集約されていく。
 ――血塗られた荒野。
 世界中から怨嗟の声を向けられ、その生涯を閉じようとして――救われた。
 真実それが彼にとって救いだったのかどうかは当人にしかわからないが、今の彼を見れば後悔を抱いていないことだけは明白だった。

「多くの人を犠牲にして、それでも大切な人のために戦った事のある彼だからこそ貴女の想いを否定する事だけはできなかったのかもしれないわね」

 ――確かに、彼は何も言わなかった。
 それは不可能だと――そんな奇跡は起こらないと――。
 その願いは間違っているのだと――そんな言葉を、彼は一度も口にしなかった。

「生きろと――彼は私にそう告げていったわ」
「そうだね……と、よし――これで完成! もう少し時間が掛かると思ってたけど、意外と何とかなったよ」

 彼女が釜の中から取り出したのは、透明の容器に入った液体だ。
 ――それを受け取り、ひと思いに飲み込む。
 変化は劇的に――これまで感じられていた苦痛が瞬く間に薄れていき、抗い難い眠気を覚えたプレシアは促されるままベッドの上で横になった。

「――今は眠りなさい。慌てなくとも"時間なんて幾らでもある"のだから」

 優しさに満ちた声を耳に届けながら意識を閉じていく。
 久しく忘れていた安堵感に身を委ねながら脳裏に浮かんでいたのは、実の姉妹のように仲良く遊ぶアリシアとフェイトの姿だった。


 -Interlude-


 長く生きていれば予想もしなかった事象を目にすることもある。
 遥かな時を越えて生きてきた彼女――エヴァンジェリンにとって、未知との遭遇は常に起こり得る事象の一つに過ぎない。
 それでもなお、彼女をして珍しいと断言できる出来事が男――衛宮士郎との出会いだった。
 男の持つ知識、常識は彼女にとっての常識ではなく、同時に男の語る言葉には間違いなく嘘は無かった。
 少し前に知り合った錬金術士、メルルリンス・レーデ・アールズも彼と同じく異界の人間であったとは知らなかったが、彼との出会いが全ての起点と言える。

「――とにかく、貴様にはある程度この世界の事を教えておいてやろう。明日にはこの学園のトップに会わせることになっているし、身の振り方を決めるにしてもその様子では困難極まりないだろうからな」

 地下室を後にしたエヴァンジェリンたちは元いた一階ではなく、生活スペースにしている二階へとやってきていた。
 先程までの雰囲気を微塵も残さずに寛いでいる士郎に対し、刹那は落ち着きのない様子で周囲を見渡している。
 そんな対照的な二人を眺めながら、エヴァンジェリンは小さな溜息を零しながら続けた。

「元いた場所へ戻るとはいっても、すぐに発つわけではないのだろう?」
「そうだな。その辺りはメルルに任せることになるし、その間の身の振り方は考えなくてはいけないだろうな……」

 元の場所へと戻るために必要な道具はメルルでなければ用意できないのだという。
 そのメルルも、つい先日まで共に過ごしていた相方の女から渡されていた素材に悪戦苦闘していると聞いている。
 少なくとも、彼らが明日明後日には帰っていく――などという事はないだろう。

「君の好意に甘えることになるが…よろしく頼む」
「気にするな。こちらとしても、異界の情報に興味があるしな」

 互いに情報を交換する事を提案すると、男は笑みを浮かべて頷いた。

「――それでは、私はそろそろお暇させていただこうかと……」

 話が纏まったと判断したのだろう。
 先程まで周囲に興味を移していた刹那は、そっと頭を下げてからそう告げた。

「何を言っている。ここまで付き合ったのだ。今日くらいは別にここで寝泊まりしても構わんぞ」
「で…ですが……」
「――貴様も、いまさら中途半端に関わるつもりはないのだろう?」

 隠せているつもりだったのか、指摘すると刹那は声を詰まらせてしまった。
 刹那が士郎に対して強い興味を抱いているのは見ればわかる。特に地下での一幕を見た後は更にそれが顕著だった。

「――わかりました。では、私も分かる範囲で説明の手伝いをさせて頂きます」
「ああ、そうしてくれ。そうすれば私も楽できるからな」

 堅苦しく頭を下げ直した刹那を促して席に座らせる。
 そうして、その一部始終を眺めていた士郎は刹那が腰掛けると同時に立ち上がり、奥へと視線を向けた。

「さて、説明が長くなるのなら茶でも淹れよう。そこの茶葉を使わせてもらってもいいか?」
「ん? 目敏い奴だな…好きにしろ。本来は茶々丸が淹れた物しか口にしないが、今はいないからな」
「なら尚更だ。出来る限り美味しく淹れてやるから楽しみにしててくれ。物事は何事も等価交換だ。迷惑をかけた分は返しておこう」

 満面の笑みを浮かべて告げる男を胡散臭そうに眺めるが、止めるつもりはないらしい。

「好きにしろ。言っておくが、不味い茶を淹れたら承知せんぞ」

 一応警告のつもりで告げた言葉に士郎は頷きだけを残して奥へと向かっていく。
 男の手によって丁寧に淹れられたお茶が目の前に用意されたのは、それから僅か数分後の事だった。


 
 

 
後書き
二十二話目です。
 

 

Episode 23 -溶けていく心-

 
 慌ただしい夜が過ぎて明けた翌朝――。
 朝日を浴びて目を覚ました士郎の目の前には、昨夜の戦闘で負傷させた緑髪の少女が立っていた。

「――君はたしか、茶々丸…だったな?」
「はい。絡繰茶々丸(からくりちゃちゃまる)です。事情はマスターから聞いていますので、どうぞ休んでいてください。今から朝食の用意をしますので」

 自動人形――エヴァンジェリン曰く魔法と科学の複合体だという彼女――茶々丸は頭を下げて挨拶を返した。
 その対応は普通の人間と変わるところはなく、見た目はどう見ても機械人形だが、受け応えや動作は非常に人間らしい。
 そんな彼女の姿を眺めながら昨夜の出来事を思い返し、僅かばかりの罪悪感がこみ上げてきた士郎はそっと頭を下げた。

「……昨晩は済まなかった。幾ら自己防衛のためとはいえ、君を傷つけてしまった」
「いえ、幸い深刻な損傷ではありませんでしたし、貴方が手を抜いていてくれたのはわかりましたから。どうか、顔を上げてください」

 促されて顔を上げると、そこには淡い笑みを浮かべた茶々丸の姿があった。
 開発者の拘りなのか、少なくとも彼女の顔は様々な表情を浮かべる事の出来る素材――見た目は人間のそれと変わらないモノが使用されている。
 じっと顔を見ている士郎が気になったのか、茶々丸は首を傾げながら真っ直ぐに士郎を眺めていた。

「ああ、いや…すまない。ところで、エヴァンジェリンと桜咲は?」
「マスターはあちらのベッドでお休みになられています。桜咲さんは先程起きて外に出ていかれましたが?」

 茶々丸が視線を向けた先――部屋の奥に配置されていたベッドの上には深く眠るエヴァンジェリンの姿があった。
 ――ふと時計を確認すれば、時刻は朝の五時を示している。
 夜中の三時まで起きていた士郎だが、流石に疲れを溜め込んでいた事もあって仮眠をとる事にしたのだが――。

「――メルルたちはまだ上がってきていないようだな」

 二階から一階へと顔を覗かせてメルルとプレシアの姿が見当たらない事を確認する。
 そうして二階へ戻り、備え付けられていた窓から外を眺めると、家の前で鞘に収めたままの夕凪で素振りをする刹那の姿があった。
 彼女は随分とここに泊まることを遠慮していたが、話を聞いた限りでは仕方ない事だろう。エヴァンジェリンの素性を知る者であるのなら当然の反応だ。
 紆余曲折を経てここに泊まる事を承諾していたようだが、エヴァンジェリンと刹那の関係がどのようなものなのかを士郎は知らないし、無理に尋ねようとは思っていなかった。
 ふと覗き込んだキッチンスペースで食事を作る用意を始めていた茶々丸を見かけ、士郎は少しばかり思案してその背に声を掛ける事にした。

「――茶々丸。よかったら朝食を作るのを手伝わせてもらえないか?」
「それは構いませんが……衛宮さんは調理の経験が?」
「士郎でいい。こう見えて世界中を旅していたから料理は色々と作れるつもりだ。和洋中どれでもできるが、メニューは茶々丸に任せよう」
「……では、お願いしてもいいですか? 士郎さん」

 遠慮がちな茶々丸の言葉に士郎は頷きを返した。
 昨晩はエヴァンジェリンと刹那の二人からこの世界に関する最低限の知識も教授してもらい、今日はこの学園の長にも口をきいてくれるという。
 メルルとの再会は偶然だとしても、プレシアの保護まで行ってくれていたのだから、彼女たちに対して感謝を示したいと考えるのは自然な事だろう。
 そうして、二人肩を並べて調理を始めて数十分後――。

「――それで、これは一体何のつもりだ?」

 朝食を作り終えて配膳をしている士郎の耳に疑問に満ちた声が届いた。
 見れば茶々丸に起こされたエヴァンジェリンが驚きに満ちた様子を見せながら食卓の上に置かれた料理群を眺めていた。

「朝食だ――見れば分かるだろう? 君らには色々と世話になるわけだし、一宿一飯の恩くらいはちゃんと返しておかないとな」

 これも等価交換だ、と――。
 情報交換の時にも告げた言葉にエヴァンジェリンは呆れた様子で溜息を零していた。

「ちゃんと茶々丸の許可は得ている。彼女にも手伝ってもらったのだから、もちろん毒など入っていないぞ」
「士郎さんの腕前は立派でした。おそらくマスターも御気にいると思いますが……?」

 メルルたちを呼びに地下へ行っていた茶々丸が戻ってきて早々に援護の言葉を告げる。
 そんな彼女の言葉に反論するつもりはないのか、エヴァンジェリンは小さく肩を竦めて席に着いた。

「……まあいい。貴様の腕前を存分に堪能してやろう」
「ああ、そうしてくれ。ちなみに、そのニンニクたっぷりのコロッケは君専用だ。腕によりをかけて作った自信作だぞ」
「――――――っ!!?」

 さっと用意した皿の上にはコロッケが四つ――。
 ニンニクと聞いて驚きの声を上げようとしたエヴァンジェリンを眺めて笑みを零した。
 これで真祖の吸血鬼だというのだから、世の中というものは何かが間違っているのかもしれない。

「ちなみに、ニンニク入りというのは冗談だよ。君の苦手とするものは茶々丸から聞いて把握しているし、わざわざそんなものは出さないさ。食事はみんなで楽しく行うものだからな」

 だから嫌がらせなどしないと――。
 嘘をついて驚かすことは嫌がらせではないのかと恫喝してきそうな雰囲気だったが、美味しそうに香る食事を前に彼女も意気を消沈させていた。

「はあ……もういい。さっさと食事にするぞ」
「ああ。桜咲の分も用意してあるから席についてくれ」

 エヴァンジェリンの後ろで驚きを隠そうともしない刹那に声を掛けると、彼女はハッとした様子で顔を上げた。
 ちなみに、彼女の視線はずっとテーブルの上に用意された食事に向けられていたのは指摘しないほうがいいのだろう。

「で、ではお言葉に甘えて……」
「ああ。茶々丸も早く席に着くといい。エヴァンジェリンの後ろについていても仕方ないだろう?」

 いつまでもエヴァンジェリンの後ろに控えたままの茶々丸に声をかける。
 そんな士郎の声と視線を真っ直ぐに受け止めた茶々丸は静かに顔を横に振って応えた。

「私はロボットですので食事による栄養補給は必要としていません。機能的に摂取することは可能ですが、あくまでフェイクですので」
「だが、取れないわけではないんだろう? ならば席について一緒に食事をするべきだ。君はエヴァンジェリンの家族なんだろう?」

 意外そうな表情を浮かべていたのはエヴァンジェリンだった。
 茶々丸もその背後でなにか意外な言葉を聞いたようにうろたえている。

「ふむ……茶々丸、そういうことだから席につけ。こういうのも悪くはない」
「は、はい。わかりました……」

 戸惑いを隠さずに着席する茶々丸。後はメルルとプレシアだけだが――。

「―――――――――ッ……!?!?」

 階下から形容しがたい叫び声が聞こえてくる。
 何事かと警戒を露わにする刹那とエヴァンジェリンだが、何となく状況が理解できている士郎としては苦笑いを零すしかなかった。

「……な、何事でしょうか?」
「――女の声のようだったが……」

 僅かに聞こえてくる声が途絶えた瞬間、扉が開かれた音が聞こえてくる。
 階段を上がってくる二人分の足音に耳を傾けながら、士郎は数秒後にやってくるだろう二人のために飲み物を用意していく。

「――いいから、早くいかないとご飯が冷めちゃうでしょ?」
「そ…それどころじゃないでしょう……ッ!」

 騒がしく現れたのは満面の笑みを浮かべたメルルと、その彼女の腕を引っ張っている若い女性――。

「――おはよう、みんな。良い匂いだけど、もしかしてシロウが作ってくれたの?」
「おはよう、メルル。今日の朝食は俺と茶々丸の合作だ。もう用意は出来ているから席についてくれ」

 促され、腕を掴んでいる女性の手を振り切って席に座るメルル――。
 そんな彼女に取り残された若い女性は、呆然としているエヴァンジェリンと刹那の視線を受けて所在なさげに立ち竦んでいた。

「――あ、あの……」
「驚くのも戸惑うのもわかるが……とりあえず席に着け"プレシア"。折角の朝食が冷めてしまうぞ」

 かつての自身を思い出しながら、戸惑う様子を隠しきれない若い女性――二十代ほどの容姿となったプレシアへと声を掛ける。
 その姿はクロノとエイミィが集めた資料にあった若い頃のプレシアよりも若々しく、険の取れた表情が更に彼女を若く見せていた。
 勧められるままに着席するプレシアを待ち、全員でいただきますと声を合わせてから食事の時間となる。
 献立は簡単な和食で統一しており、存外に美味く出来ていたため、特にメルルとエヴァンジェリンは終始ご機嫌だった。


 -Interlude-


 朝食を食べ終え、片付けをしている男の横に並びながら彼女――プレシアは溜息を零した。

「――治療と聞いていたから油断した……というより、こんな事になるなんて想像の斜め上だわ」
「その気持ちはよく分かる。俺も自分の時には驚いたからな」

 食器を洗いながら告げる男――衛宮士郎の言葉には懐かしむような響きがあった。
 それはメルルからある程度の話を聞き、彼の素性を知っているからこそ納得できる反応だった。

「……貴方の事は彼女……メルルに聞いたわ」

 告げて背後の部屋で寛ぐメルルとエヴァンジェリン、そして刹那の三人を流し見る。
 メルルが九百年近く生きてきたと聞かされた時には驚きに声を失ったが、自身の現状を思えばそれも信じられる。
 詳しい理屈も聞いたが、病を治療するのではなく、肉体を若返らせて"病そのものが存在していない状態"に戻すなど普通では考えられない方法である。

「そうか……まあ、別に口止めするような事でもないからな」
「……貴方は、過去を悔いてはいないの?」

 又聞きとはいえ、明かされた彼の過去は一人の人間が経験するには余りにも重たいモノだ。
 何よりも大切な人と死別しながら、誓いを胸に孤独な道のりを戦い続けてきた果てに世界そのものから弾き出された存在――。
 
「そうだな……悔いてはいない。俺は、俺なりに満足のいく道を歩いてきたつもりだ」
「そう……貴方は強いのね」
「そうでもないさ。思い返せば、あの頃の俺は意地になっていただけだしな」

 手を止め、淡い笑みを浮かべて過去を思い返す士郎の姿は老成した年長者のようだった。

「――ただ、こうして再び真っ当な日常に浸っていると、これもまた悪くないと思ってしまったわけだ」
「――日常…ね。私は……私の日常を取り戻したかった。どうしてあの頃、もっとあの子の側にいてあげられなかったのか――どうしてもっと我が儘を聞いてあげられなかったのかって……」

 後悔ばかりを重ねて、今も後悔ばかりが脳裏に渦巻いている。
 アリシアの事――そして、フェイトの事も投げ出したままでいる今の自身が許せない。
 視線を俯かせながら呟いたプレシアの側で、士郎はそうか…とだけ零して洗い物を再開した。

「……誰でも、自身にとって最も幸福だった頃を懐かしむものだ。それが大切な人との思い出なら尚更だろう」
「過去を取り戻す――妄念にとりつかれていただけかもしれないけど、私にはそれだけしかなかった……そうしなければ、何もかもが認められなかった」

 けれど、それはただの逃避だったのだと気付いてしまった。
 進む道の先にアリシアの笑顔がないと突きつけられ、自身の願いが独り善がりなものだと理解すると同時に生きる目的を失ってしまったのだ。

「……アリシアは――君の娘は、どんな子だったんだ?」
「明るくて元気で……とても優しかった。私があまり家にいてあげられない時には寂しそうにしていたのに、それを必死に隠そうとしてね」
「良い子だったんだな」
「ええ、私には勿体ないぐらいに…ね」

 思い返すのはアリシアと過ごしていた時間――。
 いつも寂しい思いをさせていたアリシアと交わした約束を思い出し、自嘲するように笑みを浮かべた。

「誕生日のプレゼントに何が欲しいって聞くと、あの子は妹が欲しいって言ったの……。そうしたら寂しくないし、私の手伝いも出来るって――」

 そんな優しいアリシアを思い返しながら、自身のしてきた行いの全てを思い出して苦笑する。

「……いつだって私は気付くのが遅いのよ。もうどうにもならなくなって、失ったモノがどれだけ大切だったのかを思い知って後悔する……」
「まだ何もかもが手遅れということはないだろう。お前は生きている――生きてさえいれば、その手に残せるモノもあるだろう」

 どこか憧憬を含んだ声音にプレシアは思わず顔を上げた。
 苦笑いを浮かべている士郎と視線を交わしながらフェイトの事を思い返し、声を詰まらせる。

「……無理に理屈で考える必要はない。元の世界へ戻り、顔を合わせたその時に感じた感情に素直になればいいだけだ」
「そうね……。貴方がそう言うのなら、年長者からの助言だと思う事にしてみるわ」
「ああ、そうするといい」

 言葉少なめに頷く彼の姿に笑みを浮かべる。
 見た目には十代半ばの少年は、その顔に深い笑みを刻んで頷くのだった。


 -Interlude-


 森の合間に差し込む眩い朝日は今日が良い天気である事を実感させてくれる。
 まだ学園に向かうには早い時間だが、彼女――龍宮真名は昨日、共に仕事を受けた長瀬楓と肩を並べてエヴァンジェリンの家を訪れていた。
 正直にいえばあまり近づこうとは思わない場所だが、真名のルームメイトである刹那に着替えを届けなければならないからだ。
 そうして訪れた森の奥、エヴァンジェリンの家の前では目的の人物である刹那ともう一人――昨夜知り合った衛宮士郎が対峙していた。
 ――奔る剣閃。
 鋭く、重く、何よりも速く。
 刹那が本気で振るった木剣はしかし――容易く二つの木刀に防がれる。
 相対する二人の姿――その光景は真名と楓の足を止めさせるには十分過ぎるものだった。

「――はぁ…はぁ…くっ!!」

 刹那は息を整え、再び連撃を繰り出していく。
 自身の肉体を気で強化して振るわれるそれは、獲物が木剣であることを除けば間違いなく全力の攻撃だろう。

「――どうした? もうお終いか?」

 だがそれは、息一つ乱していない士郎が手にしている二つの木刀によって完璧に防がれていた。

「……なるほど、優れているのは狙撃の腕前だけではないということか」
「剣術、投擲術、弓術でござるか。どれも修めているというのは凄いものでござるな」

 昨夜の戦闘の一幕を思い出し、男の技量に素直に感心する。
 そんな真名の隣には、普段とは異なる真剣な声音で告げる楓の姿があった。

「シロウとしては調子を計っているってところかな?」
「……そうね。少なくとも、アレが本気ではないでしょう?」
「……本気ではない、か。戦い慣れしているのはわかっていたが、剣術そのものも達者ではないか」
「疲労も殆ど感じていないようです。病み上がりで体力が落ちているはずなのですが…」

 突然の声に真名は視線を向けた。いまこの場であの光景を観戦しているのは真名と楓だけではない。
 楓とは反対側の隣に立つ見慣れない二人の女性と、左隣に立つエヴァンジェリンと茶々丸――。
 彼女たちの視線もまた、真名たちと同じく戦闘を行なっている二人に向けられていた。
 見慣れない女性二人は別として、士郎と刹那を眺めている真名たち四人に共通しているのは、言葉に込められた感情が感心よりも驚きに傾倒していることだろう。
 そして、その驚きの元は刹那の猛攻を涼しい顔で防いでいる男に対するものだ。
 その技量もさることながら、一切身体強化を行っていない状態で気を使用した刹那の攻撃を防いでいるという事実――相対する二人の纏っている気配の違いが、二人の実力差を如実に表していた。

「よし、そろそろ終わりにしよう。これ以上は消耗戦…ただの体力勝負になるからな」
「は、はい……ありがとう…ございました」

 肩を上下させながら礼をする刹那に対してどんな感想を抱いたのか、対する士郎は汗一つ見せずに苦笑を浮かべていた。

「桜咲の剣筋は鋭くて感心するほどだ。本来、小回りの聞かない長刀を扱っていることを考えれば充分合格点だよ」
「いえ、まだまだ未熟であると痛感しました。もしよければ、これからお帰りになるまでの間、ご指導をお願いできませんか?」
「それはかまわないが…俺には指導などという器用な真似はできないぞ。だから今日のように打ち合うことしかできないが……それでもよければな」

 告げて、二人笑いあってどちらからともなく差し出した手を取り合って握手を交わす。
 そんな光景がなんとなく面白くないと思っているのは真名だけではなく、両隣に立つ楓やエヴァンジェリンも面白くなさそうにしていた。

「……それにしても、衛宮の腕前は凄いな。まさか、気を使った刹那を相手に気も魔力も使わないまま対応するとは…」
「それは思い違いだぞ、龍宮真名。奴は使わなかったんじゃなく、単に使えない……いや、使い方を習得できていないだけだ」

 一瞬何を言っているのかわからず、真名は眉根を顰めてエヴァンジェリンへと視線を向ける。
 彼女はその視線に気付いているのかいないのか、真名たちへ一瞥もせずに続けた。

「私も事情を知らねば何の冗談だと憤慨しただろうがな。だが事実は事実なのだから仕方ない」

 呆れた様子で呟いたエヴァンジェリンはゆっくり士郎と刹那の元へと歩いていく。
 茶々丸と見知らぬ二人の女性もそれに続いて歩いていく姿を目で追いながら、真名と楓は静かに刹那の元へと向かうのだった。


 -Interlude out-


 真名と楓…そして刹那が学園に向かった後、士郎はメルル、プレシア、エヴァンジェリン、茶々丸と共にログハウスの中に戻っていた。

「――なるほど。"気"という概念が存在する事は知っていたが、それは俺の扱っている魔力とはやはり異なるモノなのか?」

 先の世界で受けた"気"の概念と同じ説明をエヴァンジェリンの口から説明され、士郎は"気"について深く理解していこうと質問を返した。
 メルルとプレシアも興味はあるらしく、二人並んで席に座ってエヴァンジェリンとの会話に耳を傾けているようだった。

「まず前提として説明しておくが、この世界の魔力とは自然のエネルギーを精神力で従えたものだ。対して"気"は本人の生命力を燃やしたもの。貴様は自然界に満ちる大源(マナ)と個人が内包する小源(オド)の話をしたな? アレで言うなら魔力とは大源であり、"気"は小源に近しい。貴様が持つ"魔術回路"とやらは、生命力を魔力に変換していると言っていただろう? つまり貴様は気を魔力に変換して使っているということに……なるのかもしれん」
「なるほど。だからこそ、俺にはその"気"を扱える可能性があるということか?」

 その可能性は高いだろうとエヴァンジェリンは告げる。
 先の世界では詠春やジャック、ガトウにも同じように言われた事を思い出し、士郎としてはこれを機に身につけたいと考えていた。
 先のプレシアとの戦闘でも実感した事だが、身体強化を施した魔導師や魔法使いを相手にする際に自身の能力不足を痛感させられたからだ。
 ――命を奪う戦いならばどうとでもなる。
 だが、少なくとも今現在においてその必要性は低く、かといって相手を制するための戦いを行うには余裕がない。
 その一つの解決策として、かつても適正を認められた新たな技法に手を伸ばしてみようと思うのは不思議な事ではないだろう。

「認識の仕方次第で可能だろうと見ている。ふむ、ひとつ聞くが、貴様は――いや、貴様らはこちらの世界の魔力は扱えるのか?」

 説明を聞きながら試してはみたんだろう、と――。
 言外に告げるその双眸を受けて士郎はプレシアと視線を交わして小さく溜息を吐いた。

「いや、どうにも上手く扱えないようだ。そもそも俺は大源を使う魔術師ではないし、なによりこの世界の"魔法"についても殆ど知らない。そんな状態で上手くいくわけがないだろう」
「私は問題ないわね。ただ、あくまでも魔力素として扱えるというだけで、こちらの法則に従った魔力の運用は難しいみたいだけど……」
「なるほど……では、実験でもしてみるか。この指輪を嵌めてみろ」

 手渡されたのは何やら文字の刻まれた指輪だった。
 士郎たちは首を傾げながら言われた通りに指輪を指に嵌めてみるが、特別何か変化があるわけではなかった。

「それはこちらの魔法を扱う際に必要な魔法発動体だ。まあ、杖の代わりのようなものだと思っておけ。貴様らに解りやすくいうなら、外付けの魔術回路やリンカーコアのようなものだ」
「……なるほど。これを装備していれば俺たちにもこの世界の魔法が使えるということか?」
「それを実験してみようというのだ。プラクテ・ビギ・ナル"火よ灯れ(アールデスカット)"と唱えてみろ。魔術回路やリンカーコアではなく、その魔法発動体を意識してな」

 指先から火を灯したエヴァンジェリンに勧められるまま、士郎は自然体で構えた。
 目を閉じ、自己に埋没する。魔術回路ではなく、指に嵌めた指輪を意識して静かに息を整えながらゆっくりと目を開ける。

「プラクテ・ビギ・ナル――"火よ灯れ(アールデスカット)"」

 直後、意識を集中していた指先から不完全燃焼の象徴のような煙が小さく破裂するように上がった。

「……私も随分と長い間生きてきたが、貴様ほど才能のない使い手を見たのは久しぶりだな」
「………………そうか」

 微かに期待していた部分がなかったと言ったら嘘になるだろう。
 隣で同じように試したプレシアが指先から巨大な火を発生させている姿を見て肩を落とす。
 わりと本気で落ち込んでいるように見えたらしく、メルルとエヴァンジェリンが心配そうな表情を浮かべていた。

「あ~その…だな。慰めになるかどうかわからんが、とりあえずこちらの魔力を扱えることは確認できた。うん、アレは初心者用の基本的な魔法だが、魔力を扱えていないならそもそも何も起こらないからな。煙が出たということは、魔力は扱えるが魔法を扱うセンスが全くないというだけのことだから気にするな!」

 それは慰めではなく、ただの追い打ちだと憤慨したかった士郎だが、事実は事実なので厳粛に受け止めなければならない―――決して悔しいわけではない。

「……それで、俺がこの世界における魔力を扱えることと"気"の話はどういう関係があるんだ?」
「うむ。あまり意味のない結果になるかもしれんが、この世界では気と魔力は相反するものとして存在している」

 相応の修練を積まなければ気と魔力は同時に操れない、と。エヴァンジェリンはそう前置きをした上で告げる。

「貴様が普段使っている魔力と、その指輪を介して利用する魔力を同時に扱ってみろ。相反すればそれは貴様の魔力が気と似た性質を持つことが判明するし、同じ魔力として扱われるならそれはそれで問題あるまい」
「なるほどな。俺の魔力がプレシアやエヴァンジェリンたちの魔力とは異質だということには気づいていたのか……」
「当たり前だろう。お前が気付けて私が気付けない道理があるか。そら、試してみろ。イメージとしては、両手にそれぞれを乗せて合成するイメージだ」

 ――告げられ、士郎は再び自己に埋没する。
 右手には普段から扱っている魔力。指輪を嵌めた左手には指輪を介して扱うこちらの魔力を乗せる。
 それを合成するイメージを浮かべながら神経を集中して両の手を合わせた。

 ――後にエヴァンジェリンは語る。別荘を引っ張り出してそこでやらせればよかった、と。

 結論から言うと、士郎が異なる魔力を合成させた瞬間――猛烈な爆風が発生してしまい、ログハウスの一階は凄まじい惨状と成り果てていた。

「――なんというか……その、すまない」
「………いや、私も迂闊だった。磁石のように反発するのではなく、水と油のようにはじけ飛ぶとはな……」
「私が錬金で失敗した時よりも凄い爆発だったよ……」
「一般人がいなくてよかったわね。普通の人なら、衝撃に吹き飛ばされて怪我をしていたかもしれないわ」

 周囲には散乱した人形と家具類――。
 茫然とその惨状を眺めながら、士郎はエヴァンジェリン、メルル、プレシアが揃って溜息を零している姿に肩を落とした。
 反発するでもなく、同調するでもなく、ただ決定的に"異なっている"。
 感覚としてはそう感じられたが、結果として大爆発を起こしているというのはどういうことなのか――。

「続きは今度、外に結界でも張って行うべきだな。とりあえず片づけは茶々丸に任せて二階へ上がるぞ。爺の指定した時間まではもう少しあるしな」

 僅かばかり諦めが混じったエヴァンジェリンの言葉に従って二階へと向かう。
 待っていたとばかりに掃除を開始した茶々丸の姿を横目に見ながら、士郎はそっと頭を下げるのだった。

 
 

 
後書き
※誤字など一部修正  

 

Episode 24 -望む未来と振り返る過去-



 促されるままに二階に上がり、誰とはなく皆で寛ぎ始める。
 お茶と菓子を用意するため、士郎はひとりだけ席には着かずにキッチンへと向かった。
 そうして歩き出す直前――ふいに視線があったメルルが僅かに目配せをしてから後を追いかけてきた。
 エヴァンジェリンの相手はプレシアに任せる事にしたのだろう。
 何やら雑談を開始している二人を背にしたメルルは、静かに士郎と肩を並べて茶菓子の用意を始めた。

「――懐かしいな…。こうしてシロウと一緒に何かするのって何年振りかな」

 唐突に呟かれたメルルの言葉に一瞬だけ疑問を抱き、すぐに思い至る。
 再会した際のメルルの過剰な反応――。
 数週間離れていただけにしてはおかしいと思っていたが、やはり理由があったらしい。

「――メルル。君と俺が別々に世界を移動したのはどれくらい前の事だった?」
「どれくらいって、それは――」

 ――知っているでしょう…と、そう訴える視線を真っ直ぐに受け止める。
 それだけでメルルも理解に及んだらしく、彼女は視線を俯かせて口籠もってしまった。

「俺の認識では、君と離れてまだ数週間といったところだが……君は、どうなんだ?」
「――ちょうど二年くらい…かな」
「……そうか」

 特に感想を告げるつもりもなく、ただ相槌を打って応える。
 それぞれに世界を移動し、別々の世界で過ごすということの意味を朧気ながら実感して、互いに早い段階で再会できた奇跡に安堵した。

「世界が異なれば流れる時間も異なる……という事か?」
「……多分ね。でも、その辺りも融通を利かせて世界を移動できるようにしないと不便だよね」

 実際は不便――などという言葉で纏められる事ではないだろう。
 数百年を生きてきたメルルでなければ、そこまで達観した捉え方は出来ないかもしれない。

「そういえば……プレシアが起こした事件の顛末は聞いたんだけど、シロウはそれに関わって色々と大変だったんだよね?」
「まあそれなりには…な。君はどうだったんだ? その様子からすると、あの後すぐにこの世界へやってきたのか?」

 尋ねるとメルルは笑みを浮かべて簡単に説明をしてくれた。
 始まりは衛宮の屋敷――"あの結末"から一年後の衛宮邸に移動したメルルは凛と出会い、彼女と協力関係を結んだのだという。
 その後、並行世界を渡る杖――カレイドステッキのマスターとなり、凛と共に様々な世界を渡り歩いたらしい。
 旅の途中で遂に宝石剣を自力で作成する事が出来た凛は、それを条件として弟子に迎えると告げた魔法使い――キシュア・ゼルレッチ・シュバインオーグと共に元の世界へ戻っていった。
 その際に作成された宝石剣は、それを対価として協力者となったメルルへと譲渡されたというのだから驚くしかないだろう。
 そうしてゼルレッチの手によって回収されたルビーや凛と別れたメルルは、やってきていたこの世界で過ごしながら研究に没頭していたというのだが――。

「――麻帆良に来た時に出向いてきたエヴァンジェリンと色々と話してね。あの子は錬金術に凄く興味を持ってたから、作業場を提供してもらう代わりに色々と頼まれて道具とかを作ってたんだ」
「なんとも君らしいな。それで、どうだった? 色々な世界を旅した感想は?」
「興味深い――その一言に尽きるかな。本当に色々な世界があって、その中でも色々な国や文化があって――時間が幾らあっても全部を見て回るのは無理なんじゃないかって思ったよ」

 楽しそうに語るメルルの表情は好奇心に溢れた子供のように輝いている。
 あれから少しの時間を離れて過ごした魔女は、その望みのままに世界を旅して更に"人間らしさ"を取り戻していた。

「シロウはどうだったの? そっちの世界では色々とあったみたいだけど……」

 尋ねられ、自身が体験してきた事を一つ一つ丁寧に語っていく。
 なのはとの出会いから始まった新たな日常――そして、ジュエルシードを巡る事件に関わる事など。
 自身がこれまで得ることの出来なかった日常を与えてくれた人たちとの出会いや、高町家の皆との約束……そして、はやてとの約束など――。
 そうした全てを置き去りにしたまま、こうして唐突に世界を移動してきた事なども含めて全てを語った。

「――そっか。じゃあ、ちゃんと帰ってみんなを安心させてあげないといけないね」
「そのつもりだ……と言ってみたところで、結局世界を移動するのは君任せになっているがな」
「……宝石剣を媒体にした完成形はまだ設計段階だから、当分は完成させられないと思うんだ。でも、シロウが持っているアイテムの残骸を使えば一度くらいは世界を移動できると思うよ」

 恐らくは片道切符になるだろうが、二週間もあれば用意できるだろうと告げる。
 普段通りに振る舞って見えたが、どことなく寂しそうな声音に聞こえたのは空耳ではないだろう。
 その理由――それを考えて、向こうで研究に没頭できる場所が確保できるのだろうかと不安になっているのでは…と思い至った。

「――そうだな。あちらの世界へ戻ったらメルルが研究に専念できる場所を用意しないといけないか……」
「………えっ?」
「だから、君のアトリエに出来る場所を――ああ…俺が今まで暮らしてきた小屋があるな。あの場所なら人避けも出来るし丁度良いと思うぞ」

 住む場所としても活用できるだろうが、メルルも共にはやての家で過ごせるなら言うことはない。
 もっとも、メルルも共に居候させてもらうためには彼女の――はやて本人の許可が必要なのだが、頼んでみる価値はある。
 メルルが研究に打ち込める環境があるかどうか――その点において、あの小屋周辺は周囲から隔離された場所であるため理想的である。

「――えっと……。私も、シロウについていっていいの?」
「当然だろう? 今更遠慮するような間柄でもないし、きっとはやても家族が増える事を歓迎してくれると思う」

 今回の再会は多分に偶然が重なった末の奇跡めいたものだ。
 次も同じように出会える保証がない以上、士郎としては世界を渡るためのアイテムが"完成"するまで彼女にも同じ世界で過ごしてもらえればと思っている。
 ――元々、彼女は"生きる"という事そのものに飽いていた。
 そんな彼女が生きる気力を取り戻し、こうまで活発になったのは様々な世界を旅するという目的を得たからだ。
 世界を渡るためのアイテムを完成させて様々な世界を旅する事はメルルにとって生きる目的そのもので、それを邪魔するつもりなど毛頭無いのだから――。

「………本当に、ついていっていいの?」
「ああ、もちろんだ。色々な世界を旅するといっても、拠点とする場所くらいはあってもいいはずだしな」

 茶菓子の用意を終えて、真っ直ぐにメルルを見据えて頷きを返す。
 それをどのように受け止めたのか――メルルはこれまで見たことのない呆然とした表情を浮かべていた。

「――そっか……そうなんだよね。うん、わかったよ!!」

 何かを納得するように何度も頷き、次第に表情が明るく変わっていく。
 そうして満面の笑みを浮かべて告げられたメルルの言葉に、士郎は力強く頷いて見せるのだった。


 -Interlude-


「――それにしても、未発見の異界からやってきた者たちとこうして知り合う事になるとはな。長生きはしてみるものだ」

 茶菓子を用意して戻ってきた士郎とメルルを交えて雑談を開始して数分――。
 珍しいものを見たと告げて笑うと、士郎は感心したような様子で視線を向けてきた。

「そういえば、俺たちが異世界の住人だと告げて桜咲は驚いていたが、君はあまり驚かないな?」
「いや、これでも驚いているさ。ただ、私とて数百年を生きてきた身だ。多少の新技術や現象を見ていちいち慌てることはせんさ」
「――数百年?」
「ああ、そういえば言ってなかったな。私は吸血鬼の真祖だと言っただろう。こちらの世界では闇の福音(ダーク・エヴァンジェル)の名を知らぬ魔法使いはいないぞ」

 裏の世界では600万ドルの懸賞金を掛けられた賞金首だと告げると、士郎は僅かに考え込んでいた。
 今更委縮したわけでもないだろうが、その横顔には昨晩も浮かべていた微かな疑問の色が浮かんでいた。

「……封印されていると言っていたが、そのような処置を受けたのには何か理由でもあるのか?」
「さてな。とにかく今の私は、とある呪いと学園の張っている結界のおかげで魔力が極限にまで抑えられ、この土地から出る事もできない状態なのさ」

 思わず感情を込めてしまうのは封印されていた十五年という年月の末に溜まった鬱屈した感情のせいだろう。
 憎々しげに告げたその言葉を聞いた士郎はふむ…と、やはり考え込むような姿勢で聞いていた。
 同席しているメルルやプレシアからもどことなく観察されているような気がしていたが、決して不快なモノではなかった。

「君を縛っている呪いというのは?」
「ふん、無限登校地獄などというわけのわからん呪いだよ、この呪いせいでこの十五年、ずっと能天気なガキ共と机を並べてきたわけだ」
「なるほど……ところで、ひとつ聞きたい。君には吸血衝動はないと言っていたが、生きていくために血を吸う事が必要ではないのか?」
「まあそうだな。吸えるものなら吸いたいが、今の私では満月にでもならない限りは人から血を吸う事もできんし、無闇に血を吸うこともしようとは思わん」

 欲求としてはあるが、特に吸わなければ生きていけないというほどでもない。それを聞いた士郎は納得したような様子で笑みを浮かべていた。

「真祖にとって吸血行為は魔力補充の意味合いが強い。下僕に出来なくもないが、したところで意味はないしするつもりもない」
「――では、ずっと一人で生きてきたのか?」

 その言葉にエヴァンジェリンは思わず身体の動きを止めて士郎へと視線を向けた。
 見据える先に座っている士郎は感情を感じさせない表情を浮かべたまま、事実を確認しようとする真っ直ぐな目だけを向けてくる。

「一処に落ちつくことができなかったからな。魔法使い共の国でも受け入れられることはなかったし、孤島に居を構えて過ごしていたよ」
「……そうか」

 ただ一言、噛み締めるような言葉を口にして士郎は黙り込んでしまった。
 メルルやプレシアも同様だが、三人に共通しているのは、そこに安い同情の色は見えなかった事だろう。

「さて……それでは、今度こそ貴様たちの話をゆっくりと聞かせてもらおう。これまで語った話が全てというわけではないのだろう?」

 三人を眺めながら確信を込めた質問を口にする。
 エヴァンジェリンは口の端を歪めながらも溢れ出る好奇心を隠そうともせずに三人へ視線を向けていた。

「そうだな。君の事情を聞かせてもらった代わり…というのもなんだが、隠す事でもないしな」

 リビングのソファに腰掛け、互いに向かい合う。
 そうして聞かされたのは、俄かには信じられないであろうお伽噺だった。
 世界から排斥されながら己が生き方を貫き通した男――。
 悠久の時を生きてきた女が出会った光と数多の世界を旅するという新たな生きる目的――。
 何よりも大切な存在を失い、妄執に取り憑かれながら限られた命を生き急いだ女が迎えた結末と差し伸べられた手――。
 そして何より、彼らが過ごしていた世界――異相世界と説明していた場所は、こことは違う地球――恐らくは並行世界に類するものだという推論を聞かされた。
 話しても問題ないと信頼されているのか――ともあれ三人の話を聞き終えたエヴァンジェリンは次第に明るさを増してきた空を窓越しに見上げるのだった。

「――大凡は話した。この話を信じるも信じないも君次第だ」

 耳に届いた士郎の言葉に視線を下ろしてみれば、残った二人も士郎に同意するように頷いていた。
 確かに話だけを聞いたのなら胡散臭いなどというのもおこがましいだろうが、既に信じる信じないという選択肢など脳裏にすら浮かべてはいなかった。

「――つまらんことを言うな。貴様らが事ここに至って嘘偽りを語るとも思わんし、そもそも貴様らは嘘が下手だ」
「む……」
「そこは正直者って言ってくれると嬉しいな」
「ポーカーフェイスは苦手ではなかったはずだけど……」

 三者三様に反応した三人の顔は、揃いも揃って傍目に見ただけでは微かな表情の変化しか映していない。
 だが、その手の感情の機微に聡い自覚があるエヴァンジェリンにとって、男たちのそうした些細な感情の動きは容易に見て取ることができた。

「私は真祖にして悪の魔法使い…自己のために生き、そのために他者を排除してきた吸血鬼だ」

 エヴァンジェリンが語ったのは、これまでのこと――これまでの道行だ。
 六百年という年月を事細かに伝えることなどできないが、それでも辿ってきた道を言葉にすることはできる。
 中世に生まれ、領主の城に預けられ暮らしていた少女時代。そして、そこで吸血鬼にされてしまい、その張本人を殺害して逃げ出した過去――。
 その後も多くの外敵から身を守るために戦い、他者の命を奪い、数えきれぬほどの屍を築き上げてきた。
 誰に受け入れられることもなく、ただひたすら安息を求めて数百年――。
 南東の孤島に居を構え、命を脅かしに来る者を撃退する日々を送り、後に光と出会った。
 だがそれも瞬きの内に失ってしまい、こうして封印されたまま十五年という年月を生きてきた。

「――衛宮士郎。私はこれまで自身のためだけに生きてきた者だ。結果的とはいえ、他者のために生きてきた貴様とは対極に位置する者だよ」

 それは在り方の違いだけではない。決定的なまでに歩んできた道が真逆なのだ。
 己がためだけに生きてきた悪の魔法使いと、結果的にとはいえ他者のために自身の道を歩んできた誰かのための正義の味方――。
 そんな対極の道を歩んできた両者が出会ったのなら、それはどちらかの道筋が途絶える時だろうとエヴァンジェリンは確信していたのだが――。

「……俺にはエヴァンジェリン――君と敵対する理由がない。人を殺すことを絶対の悪と断じるのなら、この身は紛れもなく悪の具現だ。そんな俺が、どうして君を悪と断じることができる?」

 犯してきた罪の重さを比することに意味などない――生きるために歩んできた者を悪し様に断じることなどできない、と。
 目の前に座る男は迷いも後悔もない瞳を向けて、そんなことを口にしたのだった。

「……ふん、変わった奴だな…貴様は」
「これまでも良く言われてきたさ。自分でもそう思っている」

 自身を省みる時、その顔はどうしようもなく真摯なモノとなる。
 そんな男の姿を見て、彼らを信じないという選択肢を選ぶ余地など存在さえしていなかった。
 
「まあいい。これで貴様らの真実を知るための話は終わりだ。後は私の興味を満たすための話に付き合ってもらうぞ」
「これで君の信用が得られたというのなら幸いだ。君の興味を満たすのは容易ではないだろうが……出来る限りは答えよう、エヴァンジェリン」
「……私のことはエヴァと呼べ、士郎。貴様らもそれで構わんからな、メルル、プレシア」

 今更他人行儀にしてくれるな、と――。
 異なる世界から来た彼らがそれをどう受け取ったのか――士郎たちは一度驚いたように表情を変えて、すぐに笑みを浮かべた。

「では、エヴァ…と。短い間かもしれないが、よろしく頼む」

 士郎の言葉に頬が熱くなっていたことを自覚したエヴァだったが、どうにかそれを表に出すことなく乗り切る事に成功するのだった。


 -Interlude-


 日本の関東圏に存在する此所――麻帆良学園は世界でも有数の日本最大級の学園都市である。
 幼稚園、小学校、中学校、高等学校、大学までが揃っており、その広さは東京ドームがダース単位で並べられるほどに広い。
 それ故、学園敷地内には路面電車のレールが伸びており、ここで生活する者たちの重要な足となっている。
 そんな学園都市の女子中等部エリアの外れにある人気のない路肩で停止した車の中で彼女――ルヴィアゼリッタ・エーデルフェルトは小さく溜息を零した。

「――どうやらエンジントラブルのようです。直ぐに業者を呼びますので、今しばらくお待ちいただけますでしょうか?」
「わかりました。急ぎの用事というほどでもありませんし、しばらく待つとしましょう」

 エンジンルームを覗きこんでいた若い使用人からの報告に凛とした言葉で告げる。
 出来る限り穏やかに伝えたつもりだったが、却って自身の心中を伝えてしまったらしく、まだ年若く業務に不慣れな新人使用人はどこか申し訳なさそうにしていた。
 どちらにせよ、車が動かないことには見動きは取れないのだから焦っても仕方がない。
 とはいえ、今日はこの学園内に展開している多くの店舗について関係者各位や学園長と会談を行う予定があるのだが、それに間に合うかどうか――。

「――どうかしたのか?」

 業者を待っていた二人の背に男の声が届いた。
 揃って振り返ると、その先には錆びた鉄のような色の髪が特徴的な年若い男性が立っていた。

「どうやらエンジントラブルのようだが、ふむ……もしよければ少し見てもいいか? こう見えてもそれなりに詳しいのでね」
「見ず知らずの方にそのようなことをしていただくわけには……」
「なに、困った時はお互いさまというだろう。ああ、なるほど……ここの接触不良が………」

 言うが早いか、エンジンルームに手をいれながら何やら呟いている。
 名も知らぬ男の背中を眺めながら、ルヴィアは使用人と共に成り行きを見守るのだった。

「――よし。これでかかるはずだ。そこの君、試してもらえるか?」
「えっ? あ、は…はい」

 使用人は男の言葉に従ってエンジンを回す。
 すると、つい先程まで動かなかった車があっさりと動くようになってしまった。

「整備は行き届いていたようだから、単純に運がなかっただけだろう。一度業者にしっかりと見てもらうことを勧めるよ」
「おかげで助かりましたわ、感謝致します。もしよろしければ、貴方のお名前を――」
「――おい、士郎!! さっさとこい! いつまで待たせるつもりだ!!!」

 ルヴィアの言葉を遮るタイミングで少女の大声が響き渡る。
 見れば、声のした方には声の主と思われる少女と二人の女性の姿があった。
 そして目の前に立つ男――士郎と呼ばれた少年は、少女の言葉を聞いて苦笑いを零していた。

「連れが煩いのでこれで失礼しよう。それでは――」

 言葉とは裏腹に慌てた様子で少女の元へと駆け寄っていく。
 着くなりジャンプをして飛びかかってきた少女に頭を小突かれた彼は皆で足並みを揃えて歩き去っていった。

「――シェ…ロウ……シェロですか。どうやらよい人柄をした方のようですわね」

 どこか熱に浮かされたような声が口から零れる。
 ルヴィアの呟きは冬の冷たい風にかき消され、誰の耳に届くこともなく霧散していった。

 
 -Interlude-


「――儂がこの学園で学園長をしておる近衛近右衛門じゃ」
「メルルリンス・レーデ・アールズだよ」
「プレシア・テスタロッサよ」
「衛宮士郎だ。昨日は無駄に騒がせてしまったようで済まなかった」

 頭を下げて謝る男――衛宮士郎を眺める近衛近右衛門は麻帆良学園の長にして関東魔法協会の長でもある。
 その表情はエヴァの目から見ても相も変わらずのもので、内心企んでいることを悟らせない飄々としたものだった。

「エヴァンジェリンや龍宮君たちから報告は受けておる。意図した訪問ではなかったようじゃが、エヴァンジェリンからも異界の出身者で間違いないと言われては疑う余地はないじゃろ」
「理解してもらえたことに感謝しよう。こちらとしても無益な争いは望ましくないからな」

 お互いに腹の探り合いはしないようだが、それはおそらく正しい選択肢だろう。
 どんな事情があろうと、回りくどい手を使うほど互いを必要としているわけではないはずだ。

「さっそくじゃが本題に入ろうかの。こちらには君らが麻帆良に滞在する間の住居を用意する準備がある。無論、条件次第じゃがな」
「有難い申し出だが、その条件を教えてもらえるかな? こちらとしても、折角の好意を無下にはしたくない」
「うむ。君もエヴァンジェリンや刹那君たちがこの学園の警備を担当しておることは知っておるな? 君にもそのメンバーになってもらいたいんじゃよ」

 条件はそれだけだと告げる近右衛門に対し、士郎は怪訝な表情を浮かべた。

「どこの誰とも知れない不審者の上、戦力になるかどうかも直接その目で確認せずに…か?」
「ふぉふぉ、立ち振舞いを見れば相応の使い手とわかる程度の眼力は備えておるつもりでの。エヴァンジェリンも似たようなものじゃし、なによりそのエヴァンジェリンからの推薦もあってな」

 その言葉に士郎が振り返る。その視線が何故と問うていたため、エヴァは笑みを浮かべて答えた。

「なに、単純な話さ。帰るまでの間とはいえ、貴様が任につけば私が楽できるからな」
「なるほど。流石にお子様――いや、子供にはキツイ任務だったということか…」
「ええい、だれが子供だっ!!!」

 思わず飛びかかりそうな勢いで声を上げると、士郎は面白そうに笑みを浮かべていた。
 そこに皮肉げな笑みを見つけたエヴァは、自身が彼にからかわれていただけだと悟り、悪態をつきながらも気を静めて椅子に腰掛けた。
 たった一日程度の付き合いではあるが、互いに互いの性質を理解し合うには十分すぎるだけの会話は交わしている。
 エヴァにとって士郎は非常に興味を惹かれ、かつ信頼に値する人間であると同時に、ある意味苦手な部類に属する人種だとわかっていたのだから――。

「……ふむ、随分と信頼しておるようじゃの?」
「ふん。生憎こいつの実力を知る機会があったのでな。まあ、最低でも警備任務をこなせる程度には使えるだろうさ」
「なるほどのう。そういうわけなんじゃが、どうじゃろうか? 臨時メンバーという扱いじゃし、他にもメンバーはいるので学園全体を警備しろなどと無茶は言わんぞ」

 窺うような気配を漂わせて士郎へと選択を委ねる。
 士郎は両隣に立つメルルとプレシアの二人と視線を交わし、あまり考える素振りを見せずに頷いた。

「元の場所へ帰るための準備には最短でも一、二週間の時間が必要だ。それまでの間でいいのなら引き受けよう」
「それはもちろんじゃよ。他にも何か滞在中の希望があれば可能な限り対応しようとは思っておるのじゃが、どうかの?」

 問いかけは士郎だけではなく、メルルとプレシアにも向けられたものだ。
 とはいえ、メルルは元の世界とやらに戻るための小道具を用意するために忙しくなると言っており、プレシアは症状こそ快復したが精神的にまだ余裕があるわけでもない。
 そんな二人の事を誰よりも理解しているはずの士郎だが、何やら少し悩む素振りを見せた後、良い事を思いついたといった様子で笑みを浮かべた。

「――近衛翁。もしできるのなら、臨時に店をやってみたいと思っているのだがどうだろうか?」
「「――店?」」

 エヴァンジェリンは近右衛門と口を揃えて士郎の言葉を反芻する。
 確認の声に士郎は念を押すように頷き、両隣で意外そうな目を向けているメルルとプレシアを流し見ながら表情を綻ばせた。

「期間限定になるが、俺と彼女たちだけで出来る程度の……そうだな、簡単な喫茶店でもやれたらと思う。もちろん警備の仕事もちゃんとこなすし、他にも俺が力になれる事があれば極力そちらを優先しよう」

 期間限定としているのは元の世界へ戻ることを考慮しての事だろう。
 喫茶店を臨時開店させたいという士郎の意図はエヴァには分からなかったが、決して意味なくそのような事を言い出す男でもないだろうと小さく息を吐いた。
 料理や紅茶の腕前などはエヴァ自身も味わう機会があったため、士郎の腕前については保証する…と付け加えるように告げる。
 その後押しに対して近右衛門は少しだけ興味深そうに頷いた後、僅かに残念そうな表情を浮かべてから一度だけゆっくりと首肯した。

「むぅ、そういうことであれば協力しようかの。ではそちらは了承するとして――住居については店舗から近いほうが良いかの?」
「ああ。何から何まで世話になるが、その分の働きは保証する。遠慮無く使ってやってくれ」
「うむ。では、さっそく準備を進めるとしよう。店については心当たりがあるのじゃが、色々と確認しなければいかんこともあるし……そうじゃな。昼過ぎにまたここに顔を出してもらえるかの?」
「了解した」

 士郎の了承の言葉を以ってこの面談は終了を迎えた。
 立会人となっていたエヴァは、士郎たちの処遇が決まった事に安堵の息を吐くのだった。

「――それじゃ私は行くぞ、士郎。貴様らはこの後どうするつもりだ?」
「俺たちは適当に時間を潰しているから気にしないでくれ。ちゃんとサボらずに授業を受けるんだぞ、エヴァ」
「お前は私の保護者かっ!! まったく……心配せずとも授業には出るさ。貴様と朝まで話して殆ど眠れなかったから眠たいしな」

 ふん、と顔を背けたエヴァだったが、それを見ていた士郎が何故か手を伸ばしてくる。
 その手がそっと頭に乗せられ、ゆっくりと優しく動いて自身の頭を撫でる一部始終をエヴァはじっと眺めていた。

「――色々と教えてくれてありがとう。おかげで帰るまで安心して過ごすことができそうだ」
「……等価交換を最初に持ち出したのはお前だろう。貴様らからの対価は充分過ぎるほどもらっている」

 素直になれず、エヴァはそんな言葉を返してしまった。
 実際、彼らの素性を教えてもらったエヴァとしては、この程度ではまだ対価に届かないと思っている。
 彼らの語った事実はそれほどまでに類をみず、数百年を生きてきたエヴァでさえ驚きと感心に満ちた興味の尽きないものだったのだから――。

 
 

 
後書き
二十四話目です。

10/14 ※表現的に分かりづらい部分があったので、文章を一部加筆しました。 

 

Episode 25 -日常-



 近右衛門が用意してくれたという家へ先に向かったメルルとプレシア――。
 古い武家屋敷だが人が住むには問題ないらしく、先に掃除や片付けなどを済ませておくと告げた二人と別れた士郎は、建物の屋上で空を見上げながら寝転んでいた。
 女子中等学校の校舎を兼ねている建物だが、冬という事もあってか肌寒い屋上に人気はない。
 こういった環境に慣れている士郎でなければ、このような寒い日に外で横になろうとは思わないだろう。
 
「肌寒いが、まあいい天気だしな……」

 風は殆どなく、地を照らす陽射しは暖かい。
 かつて酷寒の地で過ごしていた頃の遠い記憶を思い出しながら、士郎は日本の冬の暖かさを実感していた。

「――あら、どなたかいらっしゃるのですか?」

 昇降口の上で寝ていた士郎を見上げるように眺める視線がひとつ――。
 身体を起こし、昇降口の入口前を覗きこむ。制服を着ていることからこの麻帆良学園女子中等部の生徒だとわかる。
 視線の先では長い金の髪を靡かせ、とても中学生とは思えない雰囲気の如何にもお嬢様然とした女の子が怪訝そうに士郎を見上げていた。

「――失礼。俺は衛宮士郎という。学園長に呼ばれてこの学園にやってきたのだが、時間を潰す必要ができてしまってね。あまりうろつくのもどうかと思い、こうして人気のない屋上で時間を潰していたというわけだ」
「あら、そうでしたの。私は麻帆良学園女子中等部1-A組の雪広あやかと申します」

 同じ高さに降りると同時に丁寧な礼が返ってくる。
 言葉遣いや態度、その所作から彼女が相応の家柄の人間である事を推察しながら、よろしく…と返した。 

「学園長にご用事でしたら私も同行させていただいてもよろしいでしょうか? 私も学園長に呼ばれていますので」
「それは助かる。正当な理由とはいえ、女子校の中を部外者の男が一人で歩き回るのは神経を使うからな」
「あら、貴方でしたら喜ばれこそすれ、嫌がられるようなことはないでしょうに」

 冗談とも本気ともつかないことを口にして、あやかはクスリと笑う。
 士郎はそんなあやかに笑みを向けて肩を並べ、共に学園長室へと向かうのだった。

「――あら、貴方は先程の……シェロではないですか」

 二人連れ立って学園長室に入ると同時にそんな声が耳に届く。
 見れば、あやかと同じく長い金の髪を靡かせたその女性が朝に出会った人物だと直ぐに気付く事ができた。

「ルヴィアさんではないですか? 今日はどうしてこちらに?」
「お久しぶりですわね、アヤカ。今日は色々と用件があって日本にやってきていたのです。スポンサーとして、偶には顔を見せておかなければならないでしょう?」

 どうやら二人は知人のようだが、事情を飲み込めない士郎はこっそりと学園長の傍へと歩み寄った。

「……これは一体どういう?」
「エーデルフェルト家は北欧の名家で、この麻帆良学園都市の商店にも出資しておるのでな。君の店を探すのに都合がよいと思って相談しておったんじゃが…」
「……なるほど」

 見ればどことなく似た雰囲気の二人である。
 背丈は似ているし、遠目には双子に間違われても不思議はないが、ルヴィアはその年齢もあってか、あやかよりもその美貌が際だっていた。

「積もる話もありますが、今はここまでにしておきましょう。私としてはアヤカの顔を見ることができただけでも嬉しかったですし」

 頬笑みを浮かべたルヴィアにあやかも丁寧に頭を下げて応えていた。
 そうして彼女――ルヴィアと呼ばれた女性はその視線を士郎へと向けて微笑んだ。

「まだお互いに名乗っていませんわね。ルヴィアゼリッタ・エーデルフェルトと申します」
「衛宮士郎だ。こうしてその日の内にまた再会することになるとは考えもしていなかったが――」

 道端で出会った時とは違い、それなりに丁寧な応対を心掛け、そっと頭を下げて礼をする。
 それは彼女の身分がどうだとかではなく、改めて向かい合った時に感じた彼女の雰囲気によるところが大きかった。

「それはこちらも同じですわ。礼の一つもさせてもらえずに別れたとあってはエーデルフェルトの名折れ。恩には礼を。なにか私にできることがあればよいのですが」

 考え込むような様子をみせるルヴィアだが、それを眺めていた近右衛門がここだとばかりに士郎の事情を簡単に説明する。
 二週間ほど麻帆良に滞在することや、その間に喫茶店などを臨時開店したいということなど――。 

「――なるほど、喫茶店ですか…。いくつか物件があることはありますが…そうですね。まずはちょっとしたテストでも受けていただきましょうか」

 喫茶店をやりたいという士郎に対し、ルヴィアは一つだけ条件を出してきた。
 それは、いまここで紅茶を淹れてくれないかというもの――ルヴィア、あやか、近右衛門の三人を納得させる茶を淹れて見せてくれというものだった。
 茶葉は部屋の外で待機していたルヴィアの使用人が素早く用意してくれた。
 どんなものを使用して良いということで、幾つか用意された茶葉の中から一つを選び出した士郎が用意したのはダージリン・ティー。
 香り高く深みのある味で、下手な淹れ方をすれば折角の持ち味を消してしまうため、腕前も充分に示すことができるだろうと踏んでの事だ。
 果たしてその思惑は叶ったらしく、用意した三つの紅茶はルヴィア、あやか、そして近右衛門が満足するには十分な出来栄えだったようで、香りと味を損なわずに淹れる事が出来ていたらしい。

「これだけ上手に淹れられるのなら充分ですわ。茶葉やコーヒー豆の調達にはお力添えしますので、遠慮なくお申し付けください」
「では甘えさせてもらうとしよう。こちらとしても、どうせ提供するのなら美味しいものを用意したいからな」
「ええ、それは大変よい心がけかと思いますわ」

 そんな会話を皮切りに、候補となる店舗を全員で相談していく。
 いつの間にかあやかも参加していたが、物件そのものは雪広が所有していた物件で決まった。
 店舗は湖の畔に立つログハウス。近右衛門が用意してくれた住居が同じ湖畔に立つ武家屋敷であることを考慮しての選択だった。
 すぐさま手続きを行ってくれたあやかの好意もあり、通常とは比べ物にならないほど格安で提供してくれるらしい。
 長らく引き取り手のなかった物件らしく、少しばかり古い造りをしている代わりに――ということだが、有難いことに変わりはない。
 二週間限定の貸出ではあるが、その支払いに関しては日々の稼ぎ――主に警備員としての――から返していくこととなった。

「では、店舗の改装と必要な物品及び葉やコーヒー豆などの用意はこちらで受け持ちましょう。礼としては即物的な気もしますが、受け取っていただければ幸いです」

 話が纏まると同時に、ルヴィアは素早く使用人を呼んで簡潔に指示を告げる。
 使用人が部屋を後にした後、彼女は真っ直ぐに士郎へと向き直って軽やかに礼をしてみせた。

「本日の出会いは大変有意義でしたわ。後二日ほど日本に滞在していますので、帰り際にでもお店に寄らせていただきますわね、シェロ」
「ああ、是非寛ぎに来てくれ。精一杯おもてなしする事を約束する」
「ええ、楽しみにしていますわね」

 そうして、終始和やかな空気のまま士郎の店舗に関する手続きは纏まり、開店の準備は整った。
 その後――ルヴィアとあやかが揃って部屋を後にした事を確認した士郎は、明日の夜から裏の警備任務を行うことを学園長と確認してから部屋を後にするのだった。


 -Interlude-


『――そういうわけで、店の体裁は明日には整う予定だ』

 耳に届く念話――それをプレシアは自身の魔法で画像として加工して宙に映し出していた。
 物珍しそうにそれを覗き込むのは魔導も魔術も扱えない錬金術士のメルルだ。
 彼女は宙に浮かぶ画面の向こうに映っている士郎と細かな打ち合わせを行っている最中である。

「こっちも大分片付け終わったよ。プレシアに協力して貰ったお陰でエヴァの家に増設した部屋をそのままこっちに移せたしね」
『そうか。プレシアも済まなかったな。病み上がりに無理をさせた』
「大丈夫よ。"こうなって"から、今までが嘘のように身体も軽いし、リンカーコアも平常だもの」

 僅かばかり申し訳なさそうに告げる士郎の気遣いが素直に感じられ、特に強がることなく答える。
 改めて――プレシアとしては、そんな自身の変化に驚きもしていたが、ある意味良くも悪くも吹っ切れたのかもしれないと感じていた。

『済まないが、プレシアはそのままメルルと一緒に家の方を頼む。俺はこのまま一度店舗の方へ顔を出してから最低限必要になる物を買いに街へ行ってくる』
「ご飯の材料もないし、その辺りはお任せするからよろしくね、シロウ」
『了解だ。買い物を済ませたらそのままそちらに戻る。あまり遅くならないように気をつけよう』

 では――と、簡単に告げて念話を終了させた士郎に合わせて映像を閉じる。
 士郎の予定を確認したメルルは小さく息をつき、真っ直ぐにプレシアへと向き直った。

「念話って便利だね。離れてても会話できるし、内緒話とかも出来るんでしょ?」
「相手の魔力を追うことが出来るなら次元世界を隔てても念話は可能だし、内緒話も確かにできるけど……対抗措置も確立されているものだから、内緒話に関してはあまり信頼性はないわよ」

 少なくとも、魔導を扱う人間であるなら念話の盗聴や妨害は不可能ではない。
 魔力運用技術の中でも特に繊細な適正を要するが、そういった分野に特化した魔導師は少なからず存在しているのだから――。

「魔力運用が前提の通話方法だもんね。その辺りはデバイス――だっけ? それで代用できるの?」
「出来るけど、デバイスを扱うのにも魔力運用――リンカーコアが必須よ。どれも魔導技術として研究されてきたものだから」
「――ふむ、プレシアは研究者だったんだよね?」

 突然、何かを思いついたといった様子で尋ねてくるメルルに頷きを返す。
 短い付き合いだが、彼女がこうした態度を取った時というのは、既に七割程度の具体的な案が纏まっている時だ。

「協力できる事なら協力するけれど、一体何をするつもりなの?」
「少し前に旅した場所でね、少し変わった技術を教えてもらったことがあるの。それをね――」

 我慢できないと言った様子で言葉を重ねるメルルの姿は見た目も手伝って年頃の少女のようだ。
 話に聞き、自身がこうして若返っていなければ、とても彼女が千年近くを生きてきた人間だとは信じられなかっただろう。

「――というわけなの。って、ちゃんと聞いてる?」
「ええ、聞いているわ。要するにリンカーコアを持たない者でも魔力を運用する事を可能とする人工的な魔導器と、それを前提とした独自の魔力運用技術を確立したい――と…そういうことでしょう?」
「うん。確かに使い方次第で危ういモノになるかもしれないけど、無責任に広めるつもりも公開するつもりもないしね」

 少しだけ引き締まった表情を浮かべるメルルの視線は虚空へと向けられていた。
 彼女ほど長い年月を生きていれば、見たくもない人の醜さや業など飽きるほど見てきていることだろう。
 そんな彼女が危惧し、それを承知の上で可能性を閉ざす行為を遠ざけるのなら、プレシアとしては苦言を呈する気も起きなかった。

「けど、それは一日や二日で出来るようなものじゃないわよ。それこそ、年単位で計画立てていかないと……」
「もちろんそのつもりだよ。だから、プレシアのいた世界へ行った後も研究は続けるつもりだし、プレシアにも色々と手伝ってもらえると嬉しいな」

 ――それは、強い信頼の込められた言葉だった。
 元の世界へ戻り、どう振る舞うにしても生きていく事を選択するだろう――と。
 死に逃げることを良しとせず、己が責と罪に向き合って生きていくだろうと疑いもしない言葉――。

「――ええ、そうね。そうできたら、きっと……」

 言葉に出来たのはそこまで――確約など出来るはずもない。
 けれど、あれほど絶望に沈んでいた心も今は軽く、その時になって感じる感情に任せようと笑みを浮かべる。
 それをどう受け取ったのかはプレシアにはわからなかったが、メルルは少しばかり驚いた表情を浮かべた後、優しく微笑んでいた。


 -Interlude out-


 校舎を後にした士郎が足を向けたのは湖の畔に立つこじんまりとしたログハウスだ。
 想像していたよりも整った外観をしたログハウスの庭先には観葉植物が邪魔にならない程度に配置されている。
 どれほど迅速な手続きを行ったのかは推測する事さえ困難だが、既に改装中となっている店内を作業の邪魔にならない程度に覗き込む。
 広すぎず狭すぎず――およそ十数人を収容する事が可能な広さがあり、室内の雰囲気もいい。
 そうして店内からウッドデッキに視線を移せば、そこには既に幾つかのテーブルが用意されていた。
 冬の間は少し寒いだろうが、いい天気の日にここを開放しておけば合計で三十人程度なら落ちつけるだろう。

「――ふむ、一階はほぼ全て店舗スペース。二階の物置は小さめだが、規模を考えれば充分だろうな」

 店内にはテーブルや椅子が作業の邪魔にならない位置で並べられており、木材を加工して作られたそれらは雰囲気を壊すことなく配置されていくのだろう。
 全体的に落ち着いた内装になる予定らしく、雰囲気を重視してか取り付けられる予定の照明も少なめだ。
 採光のために大きな窓がいくつか設置される予定で、ふと見上げれば吹き抜けになっている場所には既に幾つかの窓が設置されており、柔らかな日の光を受け入れていた。
 作業が既に終わっているカウンターに回って棚を開けてみると、一通り必要になりそうな食器や機材が梱包された状態で納入されていた。
 電気やガス、水道も現時点で全て通っており、明日にでも直ぐに店を開ける事ができるだろうとあやかやルヴィアが太鼓判を押していた理由を知った。

「唐突にやってきた俺たちには過ぎた待遇だな……」

 感慨に更けながらもログハウスを後にした士郎は、予定通りに買い物を済ませておこうと街へと向かった。
 湖岸から幾つかの通りを抜けて歩き続ける。視線の向こうには、見渡す限りの街並みが続いていた。
 どこか欧風な作りは欧州などで過ごしていた頃の記憶も相まって、どことなく懐かしさのようなものを感じさせる。
 活気のある商店街には多くの店があり、これならばわざわざ遠出をしなくても大抵のモノは揃うだろう…と、士郎は店を眺めながら関心した心持ちで過ごしていた。

「――それにしても、随分と広い街だな」

 立ち並ぶ店の品揃えを確認しながら散策を続ける。
 最初にエヴァと遭遇した後に無我夢中で街中へと逃れてきたが、こうして改めて見てみれば、ここが学園の中にある街とは到底思えないほどの規模だ。
 全てを見て回るのは難しいだろうと確信しながら、明日から必要となるだろう物品を扱っている店を探そうと視線を彷徨わせる。

「――衛宮さん?」

 その最中――唐突に背後から声を掛けられた。
 内心驚きながら聞き覚えのある声に振り返ると、そこには昨夜別れたばかりの少女――那波千鶴が立っていた。

「那波か…奇遇だな。こうしてまた会えるとは思わなかった」
「それはこちらも同じです。お元気そうに見えますけど、傷の具合は如何ですか?」

 走ってきたせいか微かに肩を上下させている千鶴と向かい合ったまま苦笑いを零す。
 慌てて駆け寄ってきた自覚はあったらしく、彼女は自身の呼吸が落ち着きを取り戻すまで静かに深呼吸を行っていた。

「一応傷は塞がってきているが、無理はできないかもしれないな。だが、あの時君が治療をしてくれたおかげで随分と助かったよ。本当にありがとう」
「こちらの勝手でやっただけですから、気になさらないでください。それにしても、その格好は……」

 窺うような千鶴の視線が士郎の服装に向けられる。
 血で濡れたいつもの服ではなく、魔術によって造り出した長袖シャツにスラックスだ。
 服を買うまでの代用品だが、意外と上手く出来ているという自覚があった。
 当然投影によって造られたものなので、下手に傷つけると消えてしまうため注意が必要ではあるが――。

「色々あってな。二週間程、この学園で過ごすことになったんだ。それで買い出しに来たわけだが……着の身着のままだったからな。服とか日用品なんかを買いにきたというわけさ」
「えっと…しばらくこの学園で暮らすということですか?」
「ああ、学園長の好意でな。明日からは仕事もあるし、仕事で着ていくスーツや平時の私服を購入しようと思っていたわけだが…どの店で買えばいいのか迷ってしまってな」

 包み隠さず伝えたのは彼女に対して見栄を張ろうという気が起きなかったからだった。
 出会って数日どころか数時間といった間柄だが、不思議と彼女の雰囲気は士郎にとって馴染みやすかった。

「そういえば、君はどうしてここに? 学生服を着ているようだが……学校はもう終わったのか?」

 見れば、彼女は刹那やエヴァ――あやかたちと同じ制服を着ている。
 この学園都市には幾つもの学校が存在していると聞いているが、制服はそれぞれ違うため、彼女が刹那達と同じ麻帆良学園本校女子中等部に通っている事を推察するには十分すぎる材料だ。

「はい。今日は先生たちの勉強会があるから午前中で終わりなんです。だから、いまは暇を持て余しているわけです」

 そう告げてニコニコと視線を向けてくる。
 その笑顔はとても眩しいのに、どうしてか背筋に寒気が走ったような錯覚を覚えた。

「……なら、もしよければだが……買い物に付き合ってくれないか? 俺はこの街が初めてで、どこに何があるのかまったくわからないんだ」
「はい、もちろんいいですよ」

 予め決めていた返答を口にしているような気がしたが、こういうことには深入りするなと本能が告げていた。

「それで…まずは服を買いにいきたいと?」
「この服は間に合わせだからな。一応仕事向けのスーツを二着と普段着を幾つか纏めて購入しておきたいんだ」
「そういうことなら、まずは紳士服を扱っている店に案内しますね。普段着はその後にしましょう」
「ああ、よろしく頼む」  

 上機嫌の千鶴に腕を掴まれ、引っ張られるようにして歩き出す。
 なんとなく状況に流されている気がしていたが、楽しめる内は楽しもうと割り切っていた。
 焦っても思い詰めても、行動を起こすまではどうしようもない。
 いまはただ、直面している現実と向き合いつつ、こうして与えられた"日常"を満喫しようと心機一転するのだった。


 -Interlude-


 ふいに横を見れば、どこか憂いを帯びた横顔がそこにあった。
 自身よりも僅かに高い位置にあるその目は周囲へ向けられており、彼女――那波千鶴はそんな彼の様子を飽きずに眺めていた。

「そういえば、色々と厄介事に巻き込まれていると言っていましたけど、もう大丈夫なんですか?」
「ああ、あれから色々とあってな。滞在中も幾つかの仕事を掛け持ちさせてもらえる事になったし、給金の一部を前借りできたからこうして買い物にも出かけてきたわけだ。まあ不審な男に対する扱いとしては破格だと思うよ」

 はっきりと告げる彼の言葉に嘘はないのだろう。
 自身を不審人物と断言する彼の言葉には一切の感情が込められておらず、ただ事実だけを告げる誠実さだけがあった。

「ところで、どんな仕事をするんです?」
「期間限定で営業する喫茶店の店長と学園の広域指導員――まあ警備員みたいなものだな。こちらは意外と給料がいいみたいだ」

 そんな他愛のない会話を交わしながら店に入っていく。
 見慣れているけれど、見慣れないその品の数々――。
 正直に言えば、千鶴はこれまで男の人のスーツを見立てたことは一度もなかった。
 士郎もあまりこうした場所に縁がなかったのか、様々なスーツが展示されている光景を前に苦笑いを零していた。
 そんな要領を得ない士郎を横目に店員を呼び出し、彼に似合いそうなスーツを幾つか見繕ってもらう――千鶴はその評価を任されることになった。

「――どうかな?」

 待つ事数分――紺を基調としたスーツに身を包んだ彼が居心地悪そうに尋ねてくる。
 本人は馬子にも衣装だと思っているのかもしれないが、引き締まった体躯で顔立ちもよく、背筋の伸びた姿勢――これでスーツが似合わないなどということは間違ってもない。

「とてもお似合いですよ。見違えて見えます」
「む、そうか…。どうにも気遅れする気がしていたんだが、君がそういうのならそうなんだろうな」

 彼は自分の格好に自信を持てないようだが、はっきり言えばそれは杞憂といってもいいだろう。
 どこか幼さを残しながらも落ち着いた佇まいに細身ながらもしっかりと引き締まった身体――。
 途轍もない美形というわけではないが、その凛々しい顔つきは多くの人を惹きつけるだろう。
 そんな事を考えながら、店員の勧めに従って似たようなスーツを二着ほど購入する。そうして二人が次に向かったのは男物の服飾を扱っている店だった。

「あまり派手な服はピンとこないな…。黒のスラックスとカッターシャツ。後は下に合わせて上を幾つか買っておけばいいだろう」

 今度はテキパキと自分で選んで手に取っていく。どうやら普段自分が着る服にはそれなりに意見があるらしい。
 そんなわけで大半は彼が自分で選んでしまったが、千鶴も彼の趣味に合いそうな服を選んで幾つかを差し出してみた。
 それを一通り眺めて小さく頷き、笑みを浮かべて千鶴の手からそれを受け取った彼は自身で選んでいた服の幾つかを戻し、千鶴から受け取った服を全て持ったままレジに向かっていった。

「あ、あの……サイズは大丈夫だと思いますけど、試着とかしなくてもいいんですか?」
「見れば大体自分が着ている姿はイメージできるし、これは君が考えて選んでくれた服だろう? だったら問題無い。折角付き合ってもらっているわけだし、君の意見や希望を尊重するのは当然だよ」

 はっきりとそう告げて、満足そうな笑みを浮かべる。
 心無しか頬が熱くなってきた気がしたが、外が寒いので恐らく店の暖房が強く効きすぎているのだろう。
 ――結局、彼は手にした全ての服を購入し、その内の一着に着替えたまま店を後にした。
 もちろん服に合わせて靴も購入しており、スーツに合わせた黒のビジネスシューズと普段用に使うというシンプルな黒のスニーカーの二種類だ。
 早速新しい服を着ると告げた彼は現在、薄い黒の背広とスラックスに白のワイシャツというコントラストのはっきりとした服装をしている。
 彼の身長は170㎝近くある千鶴より少しだけ高いのだが、身に纏う雰囲気が引き締まっているせいか、正直に言って非常に似合っていると断言できる。
 店を後にして日用品の買い物をしている間、千鶴は彼の隣をずっと並んで歩いていたが、どこか優越感のようなものを感じてしまう程度には周囲の視線が集まっていた。

「――それにしても助かったよ。おかげで買い物がスムーズに終えられそうだ」
「店を案内しただけですよ。でも、最低限必要な日用品といっても揃えれば結構な数になりましたね」
「そうだな。まあ、急がないものは宅配を頼むつもりだし、差し当たり台所用品と食材があれば二、三日は大丈夫だろう」

 買い物を終え、大きな買い物袋をお互いに一つずつ持って街を歩いていく。
 同居人が二人ほどいると聞いたときには少しばかり驚いたが、三人分の食料と考えても少し多く購入した感触があった。
 千鶴に渡された袋は比較的軽く嵩張るものが詰められており、彼の持つ袋とは見た目からして重さが違っている。
 そういう気配りをさりげなくするあたり、彼は本当に他人に対して気遣いのある人なのだと確信できた。
 先日の出来事を含めて謎の多い人ではあったが、それでもこうして彼と肩を並べて買い物をするのは素直に楽しかった。

「――今日は付き合ってくれてありがとう」

 だから、こうして楽しい時間の終わりには僅かにでも寂しさがこみ上げてくる。
 彼がこれから住むという家は住宅街の外れ――湖岸にある大きな武家屋敷だ。
 大家族で暮らしても不便のなさそうなほど大きな屋敷の門前で買い物袋を士郎へ手渡した千鶴は感謝を告げる彼と向かい合った。

「いえ、力になれたなら幸いです」
「今度はちゃんとお礼をするから、よかったらいつでも尋ねて来てくれ」

 聞けば、今日はまだ家の片づけやお店の準備などで忙しいのだという。
 手伝おうかと告げるが、夜中まで掛かるかもしれない作業を手伝わすわけにはいかないと言って聞いてもらえなかった。
 確かに千鶴はこれからボランティア活動の一環として近所の保育園にいかなければならない。
 それを無視して彼の手伝いをするわけにもいかないのは事実だが、それでも彼と一緒にいたこの数時間はとても楽しかったから――。

「――なら、お言葉に甘えさせてもらいますね。私の住んでいる寮からも遠くないですし、気が向いたら遊びにでもきます」
「ああ、その時には茶菓子を用意しておく。これからもよろしくな、那波」
「千鶴でいいですよ。折角知り合えたんですし、名前で呼んでもらえると嬉しいです」
「……そうか。なら――よろしくな、千鶴」
「はい。ではこれで失礼しますね、士郎さん」

 僅かな勇気を込めて名前を口にすると、彼は柔らかな笑みを浮かべたまましっかりと頷いて答えてくれた。
 後ろ髪を引かれる思いで士郎に背を向けて歩き出す――。
 肩越しに振り返ると、彼は千鶴の姿が見えなくなるまで門前で見送ってくれていた。
 それが嬉しくて足取りも軽くなり――千鶴は遠くから自分たちを眺めている四つの視線に気付くことなくその場を後にするのだった。



 
 

 
後書き
第二十五話目です。

今回の話の中には士郎の身体的数値を推察する一文が含まれていますが、これを機に士郎の身長など身体的な特徴について少し――。

衛宮士郎(えみやしろう)

身長170.1㎝ 体重66㎏

赤銅色に近い短髪が特徴的な設定年齢15歳の少年。
普段の雰囲気が柔らかいため、幼さが残っているように見える。
実年齢は120歳ほどで、メルルの薬によって見た目も精神も十代半ばの少年となっている。
思考力が落ちているわけではないが、意識していないと見た目そのままな態度が表に出てしまうため、普段からそれなりに気を張っている――つもり。
無駄のない筋肉質な身体をしていて、同年代の少年たちと比較するまでもなく屈強で、見た目に反して体重が重たい。

以上――設定の一部ですが、とりあえずこんな感じです。

原作を知っている方向けに言えば、原作の士郎とアーチャーを足して二で割ったようなイメージです。
髪や瞳、肌の色は士郎で雰囲気や表情などはアーチャーに近しく、体格はアーチャーをもう少し細身にした感じで、髪型は髪を下ろしたアーチャーそのままといった感じです。


 

 

Episode 26 -生きるに足る理由-



「――ただいま」

 買い物袋を二つ、片手に持って屋敷の門を潜り玄関の扉を開く。
 建て付けが少し悪いようだが、屋敷そのものが古びている事を考えれば当然だろう。

「おかえり、シロウ。とりあえず水回りと炊事場は使えるようにしておいたよ~」

 出迎えに出てきたのはプレシアと共に一足早くこの家にやって来ていたメルルだった。
 玄関の中も外からの見た目を裏切らない古びた様子だが、住むのに問題があるようには見えない。
 買い物袋を玄関の床の上に置いてから履き物を片付け、廊下に上がってから改めて周囲や床に目を向けた。

「元々取り壊す予定だった場所だと近衛翁も言っていたからな。正直、住む場所を提供してもらえただけでも有り難い」
「そうだね。こういう場所だと勝手に家を作って住むっていうのも難しいだろうしね」

 エヴァや刹那と確認した限りでは、この世界の文化水準は海鳴の存在する世界の日本と大差は無い。
 ――もっとも、何もかもが同じというわけではない。
 大気に満ちる魔力が濃く、吸血鬼や悪魔――鬼や妖精などという存在が未だに確認されて認知されている。
 まるで神話の時代がそのまま辛うじて続いてきたかのようだが、"表向き"は魔法などというモノが認識されているわけでもなく、相応に科学が発達してきた世界――。

「――シロウ? どうかしたの?」

 耳に届いたメルルの声に視線を向けてみれば、いつの間にか彼女は買い物袋を一つだけ手にして廊下を歩き始めていた。
 何でも無い…と曖昧に笑みを浮かべてから残りの一袋を手に持って歩き出す。
 かつては気にしていなかったそれぞれの世界の差異が気に掛かるようになったのは、きっと悪いことではないはずだと自身に言い聞かせながら――。

「――あら、おかえりなさい」

 居間に入ると座布団の上に座って寛いでいたプレシアと目が合う。
 特に何をするわけでもなくのんびりとしていたらしく、その落ち着いた様子を見た士郎は簡単に会釈してから台所へと向かった。
 メルルは買い物袋を置いて直ぐに部屋の奥へと向かっていってしまった。去り際に"出来たら呼んでね"と告げていく辺りが彼女らしいと言える。
 設計図を完成させるのに一週間――それは、確実に"元の世界"へ戻るために手を尽くすと宣言したメルルが提示した準備期間である。
 それから細々とした調合と錬金を繰り返し、肝心のモノを完成させるのに一週間――。
 根を詰めすぎないようにと告げたところで、メルルが気を遣って急ごうとするのは目に見えている。
 そんな彼女の変わらぬ姿にいつかのアトリエでの生活を思い返した士郎は小さな笑みを零し、袋の中から購入した食品群を取り出していく。

「プレシア――とりあえず軽く食べられるモノを用意するから、君も手伝ってくれないか?」
「それは構わないけど……もう随分と長くまともに料理なんてしていないから腕前は保証できないわよ」
「だったら尚更だ。紅茶とコーヒーの淹れ方は店の体裁が整ったら教えるつもりだったが、軽食も作れるに越したことはないしな」

 喫茶店ではプレシアに色々と動いてもらうつもりだから…と告げる。
 それを聞いたプレシアは唖然とした様子を僅かに見せてから直ぐに我に返って立ち上がり、ゆっくりと台所へとやってきた。
 その姿を確認しながら買ってきていたエプロンを二つ取り出し、ひとつをプレシアへ手渡し、もうひとつを自身に装着してから調理器具を準備する。

「それにしても…意外と家庭的なのね、貴方」
「自然と自分に出来る事をするようになっただけだ。メルルと出会うまで、こうした調理も生きていくための手段でしかなかったからな」

 すっかり慣れてしまった、こうした日常的な振る舞いを振り返りながらプレシアと肩を並べて食材を処理していく。
 誰かに食べてもらうために料理を作れる――かつて生きていた世界でも機会がなかったわけではないが、いずれも長くは続かなかった。
 それを悲しいと思った事はないが、他者との繋がりを強く実感できるこうした時間が居心地良く感じている事は間違いない。

「今回、近衛翁に無理を頼んだ事もそうだ。今の俺が自信を持って"日常"を過ごせると胸を張れるのはそれしかないから…だ」

 喫茶翠屋で勤めるようになり、社会の中で過ごすということを数十年振りに体感した。
 他人と関わり、他人の為に働く。それが自身のためになるという"当たり前"の事がどれだけ縁遠いものだったのか――。
 ――働き始めて実感したそれをメルルやプレシアにも感じてもらいたい。
 お節介な上に押し付けが過ぎるとはわかっていても、自身に示せる事などそれしかなかった。
 多くの人の好意に甘える形で手に入れた日常に救われた人としての心――それを失わなければ、きっとどんな事があろうと人として生きていけると信じている。

「俺たちはいま、こうしてここで日常を過ごしている。それはありふれたモノだが、当然のモノ……というわけではない」
「……そうね」

 喫茶店でも出せそうな簡単な料理を作り終え、皿へと移して汚れ物を洗っていく。
 暫く無言のまま調理器具等を洗い続け、それ終えてから改めてプレシアへと向き直って真っ直ぐに視線を向けた。

「いま、少なくない人たちの好意や思惑の中で、俺たちはこうして過ごせている。そうして重ねていく日々の果てにどんな結末を迎えるのか――それは、神ならぬ俺たちにはわからないがな」

 どれほど幸福な日常に身を置いていようと、それが唐突に奪われたり、失ってしまう事もあるだろう。
 プレシアにとって、アリシアを失った事件がそうであり、士郎にとっても遠く霞む遙かな過去に在って忘れる事のない苦い記憶がある。

「俺から言えることなんてそれぐらいだ。後はこれから元の世界へ戻るまでの短い日常の中でお前が感じて、そうして考えた末に出した結論を見届けるさ」
「士郎……貴方は――」

 プレシアが何かを口にしようとした瞬間――ベルの音が室内に響き渡った。
 呼び鈴は生きているらしく、来客を告げるベルの音が何度か繰り返し鳴らされていた。

「――お客のようね」
「なにか言いかけていたようだが?」
「いいわ……大したことじゃないもの。それよりも、わざわざここに訪ねてくる人は限られているわ。待たせるのは良くないと思うけど……」
「……そうだな」

 促されるまま玄関へと向かいながら尋ね人の姿を想像する。
 今の段階で士郎たちがこの家に住んでいる事を知る人物は学園長、あやか、ルヴィア、そしてエヴァの四人だけだ。
 わざわざ訪ねてくる人物となれば、その四人の中で確率が最も高いのはエヴァぐらいだろうと確信し、士郎は来客を出迎えるのだった。


 -Interlude-


 十数分前に立ち去っていく人影を見送った彼女――エヴァンジェリン・AK・マクダウェルは、何やら準備に手間取っていた同行者を連れて目的の家へと歩を進めた。
 どこか古びた門に備え付けられていた呼び鈴を押してから返事も待たずに門を勝手に潜り、玄関の前で立ち止まって扉を眺める。
 そのすぐ向こうに目的の人物がやってきた事を確認したエヴァはゆっくりと扉を開いた人物――衛宮士郎の姿を確認して小さな溜息を零した。

「…………恐ろしいほどにエプロンが似合う男だな、お前は」
「いきなりご挨拶だな……まあいいか。いらっしゃい、エヴァ。生憎とまだ片付いていないが――君の後ろにいる人たちは?」
「こんにちはネ、衛宮さん」
「どうもです」
「……お邪魔します、士郎さん」

 士郎からの問いかけに、エヴァの後ろについてきていた面々が揃って挨拶を口にする。
 麻帆良学園本校女子中等部1-Aのクラスメイトにして茶々丸の製作者である超鈴音《ちゃおりんしぇん》と葉加瀬聡美《はかせさとみ》――。
 そしてエヴァの従者である茶々丸の三人は、エヴァの背後で横並びに立ち止まったまま丁寧に頭を下げていた。

「……ふむ、とりあえず中に入ってくれ。立ち話をしにきた――というわけでもないんだろう?」

 少しだけ戸惑った様子を見せていた士郎の案内に従って四人連れ立って中へと入る。
 既に簡単な掃除は済ませていたのか、元々綺麗にされていたのか……今日から暮らし始めたという割に、家の中には埃が殆どなかった。
 通された居間はそれなりに年季が入った佇まいを見せており、その中央に配置された大きめな机と周辺に配置された座布団――そして、その上に座っている二人の女の姿が目についた。
 メルルとプレシア――二人は初めて顔を合わせた超と葉加瀬の二人と対面して簡単に自己紹介をしている。
 そんな四人を横目にエヴァはさっさと座布団の上に腰を下ろした。
 見れば、士郎はすでに台所で何かを準備しており、茶々丸もいつの間にかその側について士郎の作業を手伝っていた。

「――さて、落ち着いたところで確認だが……超と葉加瀬の二人が茶々丸の生みの親という事で間違いないんだな?」

 紅茶を用意してくれた士郎は、自身が手に持つ空になったカップをテーブルの上に置いて姿勢を正した。
 そうして――隠そうともしていない疑問に満ちた目で二人を眺めていたが、それも当然と言えば当然だろう。
 まだ十三の子供が、茶々丸のような高度な技術の塊とも言えるロボット――正確にはガイノイドというらしい――を制作したなど、容易に信じられるものではない。
 確認するような視線が向けられていたことに気付いたエヴァは、士郎と対面する形で座っている超と葉加瀬、茶々丸の背後で小さく頷いて見せた。

「うむ、確かに間違いないヨ。昨夜はお陰様で徹夜作業になってしまたネ」

 超の言葉を受けて、士郎は静かに頭を下げた。
 その様子に驚きの気配を見せたのは超ではなく、茶々丸と葉加瀬の二人だった。

「――すまなかった。あれは確かに俺の過失だ」
「……いや、別に責めるつもりはなかったヨ。正当防衛だったということは聞いているし、こちらとしても貴重なデータを手に入れることができるのだから差し引きゼロネ」

 責めるつもりがなかったというわりにはしっかりと交換条件を提示している。
 流石は麻帆良の最強頭脳と呼ばれる天才といったところだろう。士郎も超の筋書きを理解したらしく、どこか苦笑めいた笑みを浮かべていた。

「単刀直入に聞くネ。昨晩、茶々丸の両腕を切断した獲物を見せていただきたいヨ」
「はい。あまりに綺麗で、そのまま腕が接着するのではないかと思うほど鋭利な切り口――もしよければ後学のために…!」

 超と葉加瀬の二人が頭を下げそうな勢いで頼み込むと士郎は苦笑を深めた。
 つまり、それで手打ちにするからと暗に告げているわけだが――と、再び士郎の視線が向けられたので、エヴァは少し息を吐いてそれに答えた。

「心配せずとも二人はそれなりに"こちら"に通じている。それに…私も興味がある。茶々丸は微弱とはいえ私の魔力で守られていた。それをああもあっさりと切り裂いたのだ。その獲物に興味が出るのは仕方ないと思わないか?」

 隣に座る茶々丸も頷いている事を確認しながら告げる。
 これで一対四――メルルとプレシアはその件に関しては関与するつもりがないらしく、傍観者に徹している。
 そんな二人の様子は目を向けずとも理解しているのだろう。士郎は諦めたように溜息を零した後、何時の間にか取り出していた白と黒の双剣をテーブルの上に置いてみせた。

「ほう…これはまた随分な業物が出てきたあるネ」
「……データ解析……うーん、見た事のない金属のようですが……」

 さっそく調べ始めた超たちの横で、エヴァはじっくりとその双剣を眺めていた。
 白と黒――陰陽を示す剣は形状から推察する限りでは中華刀のようだが、そうした見た目以上に"何か"を内包しているように感じられた。

「――衛宮さん。これは干将莫邪ネ?」
「ああ、その通りだ。よくわかったな、超。これは俺が取り出せる武器の中でも相当に頑丈な双剣だ。分類としては宝具――アーティファクトのようなものだ」

 宝具――アーティファクトと評する士郎の言葉がエヴァの疑問を氷解させる。
 現代におけるアーティファクトとは、遙か昔に存在していた伝説の武器や道具などを模して造り上げられたレプリカであり、その能力を模して作られた強力なマジックアイテムである。
 つまり士郎が取り出したというこの陰陽の双剣は単なる剣ではなく、何かしらの能力を内包した武器なのだということなのだろう。

「見たところ偽物とは思えないのだが…こういった武具を取り出すのが衛宮さんの"魔法"ということかナ?」
「そう思ってくれて間違いない。俺は魔法使いとしては落ちこぼれもいいところだからな」

 士郎の肯定と言葉はある意味で事実であり、同時に間違いでもある。
 確かに士郎の魔法の才能は絶望的なまでに落ちこぼれているが、彼の扱う"転移系の魔術"とやらは、この世界における転移系の魔法とは趣が異なるのだから――。

「……衛宮さん。もしよければだが、この双剣を振らせてもらえないだろうカ?」
「超はこういうものに興味があるのか? 別に構わないが、それなりに心得がなければ振り回されて危ないぞ」
「気遣いには感謝するネ。けど、こう見えて私は中国武術研究会にも所属しているし、それなりに功夫も積んでるヨ」

 告げると同時に席を立ち、玄関へ戻って靴を履いたまま庭から戻ってきた超は双剣を両手に持ち、再び庭へと出ていく。
 そんな超の後を追ってエヴァたちも庭が一望できる縁側へと移動した。
 夕日が照らす庭先は不思議と落ちついた雰囲気を纏っている。超はその庭の中心に立ち、小さく深呼吸をしてから嬉々として双剣を振るい始めた。

「――よかったのか?」
「何がだ?」

 縁側に腰を下ろしたエヴァは隣に座る士郎へと言葉を掛ける。
 もちろんそれは、己の得物を他者に扱わせていることに関する些細な興味からくるものだ。

「アレはお前にとって愛着のある得物なんだろう? 何しろ、あんな状態で不意を突かれた時にも咄嗟に取り出していたものなんだからな」
「そうだな。確かにあれは俺にとって愛剣と呼べるモノだが……まあ、問題はない。別に差し上げるというわけじゃないしな」

 どうやらそういったことに拘りを持っているわけではないらしい。つまらない反応だが、それならそれで構わなかった。
 エヴァたち六人は座ったまま、庭で楽しげに双剣を振り回す超の姿を眺める。言うだけあってそれなりに扱えているのはさすがというところだろう。

「――いや、堪能したネ」

 満足した様子で超が双剣を返却したのは、庭で双剣を振り始めて三十分が過ぎた頃のことだった。
 少し早いが…と――そんな前置きの後に士郎が用意した多めの夕食を全員でご馳走になったのはお約束とも言える。
 士郎がプレシアと共に用意したというその料理はシンプルなメニューでありながら奥深い味わいだった。
 それを口にした超と葉加瀬の二人がどこか衝撃を受けていたような様子を見せていたが、それも当然と言える程に士郎たちが用意した料理はエヴァも満足できるほどに美味しかった。


 -Interlude-


 その夜――縁側から空を見上げていたプレシアは、直ぐ背後にやってきていた気配に気付いて振り返った。

「――なかなかいいお風呂だったよ。気持ちいいし、プレシアもゆっくり浸かってきたら?」

 湿り気を纏った髪を靡かせながらやってきたメルルだが、言葉とは裏腹にプレシアの側までやってきて隣に腰を下ろした。
 どこまでも自然体な彼女の姿に呆れながらも笑みを零してしまうのは、彼女たちに対して少しずつ心を許している証拠なのかもしれない。

「……もう少しだけ、星を眺めていたいのよ」
「冬だから空気が冷たくて透き通ってる――こんな日は星が綺麗だもんね」

 外の空気は寒いけどね――と、冗談交じりに告げるメルルの言葉に同意するように頷く。
 吐く息は白く、日が昇っていた内はそれなりに我慢できる程度の寒気だったが、日が落ちてしまえばそれなりの備えをしていなければ外で過ごすのは辛いだろう。

「あ…もしかして、なにか魔法を使ってるの?」
「ええ、まあ……耐熱耐寒のフィールドを体表面に展開しているから寒くはないわね」
「そっか。それなら風邪を引いたりはしないね」

 安心、安心…と、そんな呟きを零しながら彼女は空を見上げ続ける。
 ふと――どうしてかそんな彼女の事が気になって、気がついた時には口から疑問を零していた。

「――貴女がまだ"普通"に過ごしていた時……もう何百年も前なんでしょうけど、その頃の事は覚えているの?」
「そうだね……実は、あまりはっきりと全部を覚えているわけじゃないんだけど――」

 どこか寂しそうに聞こえるが、メルルの表情にそういった感情は一切浮かんでいない。
 彼女はただ、ありのままの事実を語る誠実さだけを身に纏い、ゆっくりと振り返るように過去の一部を口にした。

「アールズっていう辺境の小さな国の王女として過ごしていて、何年か後に共和国へ移行するとお父さんが決めてね。その準備のために、色々な国の人を招いて――」

 近隣の国――アーランドと呼ばれる国と併合する事を決めたアールズの王女として過ごしたメルルの運命の出会いはそんな頃の話――。
 彼女の錬金術の師となる人物――トトゥーリア・ヘルモルトと出会ったメルルは、彼女の元で錬金術を学び、国の開拓事業に乗り出した。
 それは多くの課題を残したまま国を統合する事に反対する者たちを納得させるためのものであり、併合する事を決めた両国は開拓事業に国の未来を託した。
 メルルがはっきりと覚えているのはその最中の出来事の幾つかだけ――多くの記憶はもう、思い出すことも殆どできないほど摩耗してしまったのだと告げる。

「――錬金術を極めるよ…って。どうしてそうしようとしたのか……それを忘れて置き去りにしちゃったんだ。それに気がついた時にはもう…何もかもが遅かった」

 多くの人のために――人々の幸福のためにと求めた錬金術によって彼女は悠久の時間を手に入れた。
 けれど、そうして手にした力を他者のために使えたことはなく、ただ自己の満足のために極めた力を持て余した時に彼女は初めて自身を振り返る。
 かつて共に生きた者たちは既にその生涯を全うし、かつて過ごした国も発展と衰退を繰り返した末に過去へと消えていった。
 悠久の時を共に過ごしていた者たちも一人、また一人といなくなり、気がついた時には孤独に生き続ける魔女がひとり――それが彼女…メルルリンス・レーデ・アールズの真実だった。

「実際…ね、もう生きているのにも飽きてたんだ。最後の最後にそれまで見たこともない素材を偶然手に入れたから、それを使った実験が終わったら何もかもを終わりにしようって思ってた」

 言葉とは裏腹にメルルは笑みを浮かべて楽しそうに語る。
 ――小さな、けれどとても大切な出会いがあった。
 自身の過ごしてきた狭い世界とは全く違う、異世界とも呼べる世界からの来訪者――それが衛宮士郎との出会いだった。

「最初はね…好奇心が湧いてきたっていうのもあったんだけど、退屈しのぎくらいにしか思ってなかったんだ。でも、彼と話してみて……彼の過去を知って、彼が世界を渡ったのは私の実験のお陰だって――ありがとうって、そう言ってくれたんだ」

 それが彼女にとってどれだけの救いになったのかなど、言葉を口にした士郎本人にもわからないだろう。
 誰かのためにと身につけた錬金術――それを極め、誰からも感謝されることなく悠久を生きてきたメルルにとって、そんな何でもない小さな感謝こそが救いだった。

「照れくさいからシロウには内緒だよ」

 はにかむように頬を赤らめて告げるメルルの姿は見た目相応の少女そのものである。
 その彼ならば、今頃は自室にしようとしている部屋の片付けに追われている頃だろうか――。

「――ええ、わかってるわ」

 声が弾みそうになるのを押さえながら答える。
 メルルにとって衛宮士郎という人物の存在がどれだけ大きいのかを理解して、プレシアは自然と笑みを浮かべるのだった。


 -Interlude out-


 明朝――自室として整理した部屋に敷いた布団の上で士郎が目を覚ましたのは午前の四時だった。
 どんな状況や異世界であろうと変わらない自身の生態に感心しながら、士郎は目覚ましついでに外へと向かった。

「流石に日が昇る前は肌寒いな――」

 薄暗い景色を眺めながら吐く息は白く、気温の低さを視覚的に知らせてくれる。
 ふと、住宅街のほうから誰かが走ってきているのが見えた。髪を両側で纏めて垂らしている少女が所謂――ツインテールを揺らしながら駆けてくる。

「――おはよう。新聞配達ご苦労さま」
「おはようございます! 朝早いんですね!」

 少女――千鶴たちと同じ制服を着ていることから学生だとわかる――が少し意外そうに家を眺めながら声を上げる。
 この家は士郎たちが住むまでは長い間ずっと空き家だった場所だ。
 そこに人が住み始めてこうして立っているのだから、ここに人がいないと知っている者たちからしてみれば珍しく見えて当然だろう。

「習慣のようなものでな。それにしても、君こそ学生なのに新聞配達とは感心するよ」
「必要に迫られて…ですよ! 販売所の人から噂で聞いてたけど、本当にここに住み始めた人がいるなんて驚きました」
「ああ、近衛近右衛門という人が紹介してくれてな。住み始めたのは昨日からだけど、手入れも行き届いていたし、中々気にいっているんだ」
「へぇ…結構世話焼きなのかな……って、やばっ!?」

 感心したような声を零しながら立ち止まっていた少女は何かを思いだしたかのように肩を震わせる。
 元々通り抜ける予定の場所――当初の予定ではここで立ち止まるつもりも立ち話をするつもりもなかったのだろう。

「まだ三件回らなくちゃいけないのにっ!! それじゃ、これで失礼しますね!!」
「ご苦労さん――っと、そういえば、君の名前を教えてくれないか? こうして挨拶したのも何かの縁だ」
「――神楽坂明日菜《かぐらざかあすな》です。お兄さんは?」
「士郎――衛宮士郎だ。それじゃ、気をつけてな神楽坂」

 挨拶を終えると神楽坂は先程までよりも更に早く駆け出し、あっという間に立ち去っていった。
 それを見送り、室内に戻って朝ご飯の支度をしていると玄関先から人の気配が感じられた。
 やけに濃い気配を身に纏っている辺り、当人も訪ねてよいのかと迷っているのだろう。現在の時刻は朝の五時半――他者の家に出向くには些か早い訪問だ。

「――お早うございます。朝早くに申し訳ありません」

 ちょうど食事を作り終える事ができた士郎は、今度こそエプロンを外してから玄関へと向かって扉を開ける。
 開けた扉の向こう――士郎の目の前には、何を語るよりも早く頭を下げていた刹那の姿があった。

「おはよう。別に朝が早い分には構わないけど、どうかしたのか?」
「いえ、その…先程朝の走り込みをしている際に門の外へ出ていらっしゃった衛宮さんの姿を見かけたもので……もしよければ少し稽古に付き合ってもらえないかと思いまして……」

 どうやら昨日の朝の打ち合いが気にいったらしいが、どこか申し訳なさそうにしている。
 起きている姿を確認した上での事とはいえ、今回の訪問は彼女にとっては恐らく冒険に等しい行為だったに違いない。
 俯きそうな顔を必死で堪えながら不安げな表情で見上げてくる――そんな彼女を眺めていた士郎の脳裏には、その申し出を断るという選択肢は全く浮かんでこなかった。

「――わかった。ちょうど庭もあるし、付き合おう」
「あ、ありがとうございます!」

 素直な感情を覗かせて感謝を告げる刹那を前に士郎は小さく肩を竦めてみせた。
 これで相手がエヴァだったなら、士郎は間違いなく皮肉めいた冗談を口にしていた自信がある。
 我が事ながら、その光景が鮮明に想像できてしまった士郎は庭に向かうまでの短い時間の中で軽い自己嫌悪に陥るのだった。

「……そういえば、もう傷のお加減はよろしいのですか? 先日はお恥ずかしながら無理をさせてしまったのですが……」
「先日も言ったと思うが、普通に動く分には問題ない。長時間戦闘状態を維持していれば大きな傷は開くかもしれないが、鍛錬程度なら問題ない」
「で、では…軽くニ十分ほどよろしいですか?」
「ああ――それでは、始めようか」

 告げて士郎は手に一本の木刀を用意する。刹那は自分の獲物である野太刀――夕凪を鞘に収めたまま使うつもりらしい。
 本来なら刀身を痛めるから止めておけと忠告する所だが、刹那曰く――刀身を微弱な気で覆って保護しているので問題は無いとの事だった。

「今日は一刀なのですね」
「二刀しか扱えないわけではないからな。ああ、そうだ。桜咲…今日は"気"を使った身体強化をしないでくれるか? 少し確認したいことがあってな」
「……わかりました。では、いきますよ」

 告げて駆け出してくる――が、やはり"気"を使っていないせいか身体の動きが鈍い。
 あくまでも先日と比べての話だが、士郎にとっては慌てるに値しない速度と断言出来る。
 "気"の有無が身体能力に相当の影響を与えている事を確認しながら、士郎は彼女の剣を受け止めた。
 如何に身体能力が落ちていようと、その技量までが落ちているわけではないので油断はできないし、するつもりもない。
 剣の鋭さや技の型は変わらず、まるで演武のような太刀筋を繰り出す刹那の努力と才能に感心しながら、それでも先日とは比べるべくもない軽さの剣を捌いていく。

「ふむ、やはり"気"の恩恵は大きいようだな」
「それは、そうでしょう!! 多くの達人は"気"を纏うことで初めて人を超えた能力を持つ者たちと戦えるのですから!」

 簡単に捌かれているのが悔しいのか、言葉を口にしながらも剣戟の厳しさは増していく。鋭い一閃は決して油断できるようなものではなかった。
 無言のまま彼女の攻め手を防ぐ度、静かな空間に木と木がぶつかる音が響き渡る。
 幸いこの家の近所には殆ど人が住んでいないため、他者への迷惑を考えなくていいというのは意外な利点だった。

「俺も、もう少し確実に使えるようになれるといいのだが――」
「よろしければ私が教えましょうか? これでも"気"の扱いに関してはそれなりと自負しているのですが…」

 数十合にも及ぶ激突を終え、距離を取った刹那がそんなことを告げる。
 どこか自信の篭ったその言葉は、彼女がこれまで積んできた修練を物語るようだった。

「頼めるか? エヴァによると一応だが身についてはいるらしい。後は自覚的に鍛錬を積めばもう少しマシになるだろうと言われてな」
「そうですね。それが無意識によるものだったのなら、これから自覚的に鍛錬を積むことでより高度に扱えるようになると思います。私もまだまだ未熟者ですが、お引き受けしましょう」

 礼儀正しく頭を下げる彼女の姿を眺めながら頷きを返す。
 メルルやプレシアが起きてきたのは、ちょうどそれから十数分が過ぎた頃のことだった。



 
 

 
後書き



10/15 ※誤字修正
 

 

Episode 27 -麻帆良の一日-


 朝も早くから庭先で行われていた士郎と刹那の訓練を僅かばかり眺めてから彼女――プレシアはメルルと共に朝食の支度を開始した。
 とはいえ、既に料理自体は出来上がっていたため、それらを食器に盛りつけて机の上に運ぶだけだ。
 士郎の性格からして、恐らく刹那も朝食に誘うだろうと判断して四人分の朝食をテーブルの上に配膳していく。

「――士郎。朝食の支度は終わったわよ」

 声を掛けると士郎と刹那の二人はすぐに手を止めて頷いて見せた。
 それを了承と受け取り、プレシアは台所で何かをしているメルルの元へと戻った。

「――パイ?」
「キノコのパイだよ。昨日シロウに買ってきて貰ったキノコを使ってみたんだけど――」

 八等分されたパイの一つを口に含みながら幸せそうな笑みを浮かべた。
 余程美味しく出来ているのか、一口一口味わうようにじっくりと食べている。

「うん、上出来上出来……あ、プレシアも味見していいよ。はい、どうぞ」

 差し出されたパイを素直に受け取って口元へと運ぶ。
 食べた瞬間、あまりの美味しさに思わず声が出そうになって必死に堪える。

「その様子だと気に入ってくれたみたいだね?」
「ええ、文句のつけようもないほど美味しかったわ。それにしても、こんな手の込んだ物をいつの間に?」

 食べたパイは焼きたての物だったが、メルルと共に台所へ来たのは数分前の事だ。
 その間にパイを用意するのは不可能だろうと思っていたのだが、返ってきた答えはある意味納得できるものだった。

「それ、錬金釜で焼いたパイなんだよ。特製の調合だから、ある程度時間が経っても焼きたての風味を維持できるんだよ」
「……汎用性の高い錬金術ね」

 聞けば、パイだけではなく料理の類も出来るのだという。
 プレシアは真面目に悩むのも馬鹿らしいと息を吐き、メルルの錬金術はそういうものだと割り切る事にした。

「――すまない。遅くなって……そのパイは、メルルが用意したものか?」
「久しぶりでしょ? 前に食べてもらったのは、火山に向かう途中だったよね」

 刹那と共に居間へやってきた士郎に対して嬉しそうに告げるメルルだが、当の士郎は彼女を横目にプレシアへと視線を向けてきた。

「……色々思うところはあるだろうが、メルルの錬金術については深く考えすぎないほうがいいぞ」
「ええ、わかっているわ。ほんの数秒前にその境地に達したところよ」

 そうして、二人揃って溜息を零した。
 なんのことやらといった様子で眺めてくるメルルと状況についてこれていない刹那――。
 二人の視線を受けたまま、士郎はメルルの差し出してくるパイを受け取って口に含み、納得した様子で頷いていた。
 同じようにパイを受け取った刹那も頬を綻ばせており、見ればその味に満足しているのは一目瞭然だった。

「――フェイト」

 誰にも聞こえないように呟かれたのは、突き放すだけ突き放した子の名前だった。
 いつだったか――フェイトが自身のためにと持ち帰ったケーキを払いのけ、その想いを踏みにじった時の事を思い返す。
 ――起きたことをなかったことには出来ない。
 自身が"起こしてしまった"事を無責任に放り出して向き合うことを避ける事は出来ないし、したくない。
 未だ考えの纏まらない自身の不甲斐なさに苦笑いを浮かべながら、プレシアは与えられたこの日常を生きてみようと気合いをいれるのだった。





 ・――・――・――・――・――・――・





 休日を明日に控えた昼下がり――。
 開店した『喫茶アトリエ』では現在、二人の少女が落ちついた様子で席についていた。

「――へえ、いい雰囲気の店じゃないか」
「お客さんも結構入っているようですね」

 店内を見渡して笑みを浮かべる龍宮真名と周囲を眺めて感想を零す桜咲刹那――。
 二人の女子中学生は学校が終わると同時に真っ直ぐに店へとやってきてカウンター席に腰掛けていた。

「店の開店に協力してくれた人たちが宣伝してくれたらしくてな。開店一番に珈琲や紅茶を目当てに来てくれた人たちが軽食も食べれるからと人を誘って昼食に来てくれたみたいだ」

 告げながら店内の一角に視線を向ける。
 そこには、私服の上にエプロンを身につけたプレシアが丁寧に注文を受けている姿があった。

「上手くいっているようでよかったよ。では、私は紅茶を頼む。葉は任せるよ」
「わ、私はその、ケーキセットを…。紅茶はお任せします」
「了解した。少し待っててくれ」

 予め用意しておいたケーキを小皿に盛りつけ、それに合わせてアッサムティーを用意する。
 士郎の独断と主観により、真名にはストレート。刹那にはミルクティーを用意して二人の目の前にセットした。

「アッサムか。久しぶりに飲むけど、こんなに美味しいのは初めてだな」
「ケーキも美味しい。あ、あの…これは本当に衛宮さんがお作りになったんですか?」

 まるで信じられない、というように尋ねてくる刹那に苦笑を零しながら答える。

「言えばメルルとプレシアも作れるとは思うが、今回のケーキは俺が作った物で間違いない。麻帆良に来る前に勤めていた喫茶店のパティシエ自慢の特製ケーキだ」
「なんと……素晴らしい腕前です」

 感心した様子の刹那と真名が同時に紅茶を飲み終える。
 ――と、微かに空気が重たくなった瞬間、刹那が深々と頭を下げた。

「今朝はどうもありがとうございました。お陰で充実した鍛錬を行う事ができました」
「礼を言うのはこちらの方だ。お陰で少しは"気"を扱えるようになってきたしな」

 気を扱う退魔の剣士――神鳴流の一人だという刹那の気を操る技量は伊達ではなかった。
 教え方も理論と実践をほどよく混ぜてくれるため、今の士郎にとっては良い手本でもあった。

「それで、龍宮と桜咲が二人してここに来てくれたのは開店祝いという事なのかな?」
「まあ、そうだね。単純に、貴方が店を始めると聞いたから興味があっただけなんだけどね。楓のやつも来たがっていたが、用事があるらしくてね」
「そうか。まあ、見ての通りだ。気が向いたらこれからも来てくれ。君らとは"仕事仲間"でもあるし、デザート位はサービスしよう」

 そう告げて真名の前にも刹那と同じケーキを用意する。
 一瞬驚いた真名だが、純粋な厚意だと悟ると表情を緩めてそれを口にしてくれた。

「――美味しい」

 思わず漏れた一言だったのか、呟いた直後の真名は頬を微かに染めていた。
 普段はどことなく冷静な貌をしている真名の反応を見て、士郎は笑みを深めるのだった。

「それはよかった。俺は他の注文に取りかかるから、気が向くだけのんびりしててくれ」

 告げて二人に背を向けてキッチンの一角に置かれている注文用紙に目を通す。
 プレシアが受けてきてくれたそこにはスパゲッティやサラダなどの軽食が記入されている。
 再びやってきた客の接客に向かっているプレシアやゆったりとした空気に身を任せている真名や刹那を横目に調理に取りかかる。
 ある程度は下拵えを済ませていたため、調理自体にそこまで時間は掛からないが、その分だけ丁寧に作って盛りつけていく。

「――注文追加よ、士郎。ケーキセット二つ、飲み物はどちらもロイヤルミルクティだそうよ」
「了解だ。寒い時期には美味しいからな……っと、注文を受けてた軽食はそこに出来てるぞ」
「ええ、もっていってくるわね」

 トレイに乗せた軽食を運んでいくプレシアの背を見送ってからミルクと先程のアッサムティーを用意して準備に取りかかる。
 さほど手間取ることなく暖かなロイヤルミルクティを二つ準備して戻ってきたプレシアに手渡す。
 これで少しは落ち着けるかと息を吐く――と、どこからともなく聞こえてくる聞き覚えのある声に反応して店の入り口へ視線を向けた。

「――マスター。どうやら今日から開いているようです」
「――わざわざこんな辺鄙な場所に開店するとはな……」

 穏やかな空気を吹き飛ばしながら現れたのは、そんな会話を交わしながら喫茶店の扉を開け放った二人の来客だった。

「エヴァンジェリンと茶々丸…?」
「エヴァンジェリンさん。茶々丸さんまで……」

 カウンター席に腰掛けたまま入り口へ振り返った真名と刹那の微かに驚いたような声が耳に届く。
 確かに先日はそれなりに会話も交わしていたようだが、二人にとって吸血鬼の真祖であるエヴァは近付き難い存在なのかもしれない。

「――いらっしゃいエヴァ、茶々丸。二人とも、よくきてくれたな」
「ふん、予想通り流行っていない……と思っていたのだが、存外客が入っている上に面白い奴らを相手にしているようじゃないか?」

 エヴァの視線はカウンター席に腰掛けている真名と刹那に向けられている。
 意外そうにエヴァ自身を眺めていた真名と刹那の二人を見据えながら、エヴァは珈琲を注文しながらゆっくりと彼女たちの隣の席へとやってきた。

「それにしても、刹那はともかく貴様と席を一緒にするのは初めてだったか、龍宮真名?」
「そうだな。私もまさかここで鉢合わせるとは思わなかったよ」
「なに、こいつの淹れるコーヒーは茶々丸が淹れたものよりも美味いからな」

 なあ、茶々丸…と振り返ったエヴァの視線の先には誰もいなかった。
 それもそのはず――彼女と共にやってきた茶々丸は既に士郎の傍に立っており、作業の手伝いをしてくれていたからだ。

「士郎さん。これはこの棚でよかったですか?」
「ああ。そちらのカップは隣に移しておいてくれ。あと、君たち用のカップを用意してあるから、それを出しておいてくれると助かる」

 既に手伝いが板についている茶々丸を見て呆然とするエヴァ――。
 その姿は普段の彼女が身に纏っている冷たい雰囲気とは違って年相応の少女のようにも見えた。
 エヴァたちの姿を確認したプレシアの視線を受けて小さく頷いて見せると、彼女はすぐに他の客が寛いでいる席へと歩いていった。

「――せっかくだし、龍宮と桜咲もどうだ? 丁度いい豆が手に入ってな。今なら通常価格でサービスするぞ」
「じゃあ一杯もらえるかい?」
「私も一杯頂けますか?」

 注文を受けて準備したのは四つの珈琲カップ――もちろん茶々丸の分も用意している。
 手伝いをしてくれていた茶々丸をカウンター席へ座るように促すと、彼女は小さく頷いてからエヴァの隣に腰掛けた。
 真名、刹那、エヴァ、茶々丸の順にカウンター席を占有し、その目前には香り高い珈琲――ややあって誰ともなく口をつけた。

「美味しいコーヒーだな。正直、あまりコーヒーは飲まないんだが、これは素直に美味しいと思うよ」
「確かに……素晴らしい香りだ」

 感心した様子の真名と刹那――エヴァはその反対に呆れた様子を見せていた。
 その隣では成分を分析しているのか、茶々丸が黙って珈琲を口にしながら小さく頷いている。

「……貴様、商売する気があるのか?」
「その様子だと、エヴァもお気に召してくれたようだな」
「ふん。本物のブルマン――それもNo.1をこんな値段で出すとは、商売人の風上にも置けんぞ」

 あきれ返ったように告げて悔しげに珈琲カップを口元に運ぶ。
 そんなエヴァの様子を見て、士郎は満足したように笑みを浮かべるのだった。

「へえ、これがブルーマウンテンか」
「む…コーヒーには詳しくないのですが、そんなにいいものなのですか?」

 納得した様子の真名とは違い、刹那は珈琲の銘柄を知らないためか疑問を乗せた言葉を口にしていた。

「ブルーマウンテンは、ジャマイカにあるブルーマウンテン山脈の標高800~1200mの限られた地域で栽培されるコーヒー豆のブランドです。収穫量は極めて少なく、高価な豆として知られています」

 そんな刹那の疑問に答えたのは、先程まで黙って珈琲を飲み続けていた茶々丸だった。
 彼女の丁寧な説明を受けた刹那は感心した様子で頷きながら手元に置いたカップに残っている珈琲を眺めていた。

「特にブランド志向というわけではないが、水増しされていない本物で品質もいい貴重な豆だ。先ずはエヴァに飲んでもらおうと思っていたんだが、気にいってくれたのなら何よりだ」

 告げると微かに表情を綻ばせたエヴァを横目に、戻ってきたプレシアから伝えられた珈琲の注文に対応する。
 開店記念サービスを兼ねて振る舞った珈琲は総じて評判も良く、店に訪れていた多くの人たちは満足した様子で笑みを浮かべていた。

 
 -Interlude-


 ――女子中学生として過ごしてきて、騒がしくも明るいクラスメイトに囲まれた日常を送ってきた。
 それはどこまでも平和で賑やかな毎日だが、一度外へと足を踏み出せば違う現実もあるのだと彼女――大河内アキラ《おおこうちあきら》は深く理解している。
 それは当然のことで、外を歩いていれば見たくもない現実を目の当たりにする事は幾らでもある。
 視線の先には数人の男女――いかにも不良といった感じの男たちが三人、怒りに満ちた目で正面を睨みつけていた。
 その男たちが睨みつける先には怯えた様子で身を竦ませている高校生の女性が一人。気が強いようには見えない一般の女子高生だ。
 そして、その両者の間に立って女性を守るように男へ向かって立ち塞がっているのは、見た目二十歳ほどに見える一人の女性だった。

「――聞こえなかったかしら? 女の子に声をかける時にはもう少し紳士的にしてみたらどう――と言ったのだけれど?」

 背後に立つ学生を守る騎士のような佇まいは鋭い視線と冷静な表情と相まって、彼女を見た目以上に凜々しく見せていた。
 相手が多勢だということは何ら問題ではないのか、彼女は特に気負った様子もなく散歩をしているように自然な振舞いを見せていた。

「ふざけたこと抜かしてないでさっさと消えろよ! それとも、お姉さんが相手をしてくれるわけ?」
「つーかなに? 女のくせにナイト気取りかよ」
「女だから手を出されないとでも思ってるの?」

 頭の悪そうな言葉を口々に洩らし、怒気を強めていく男たちを前にして、なお彼女は涼しげに佇んでいた。

「なるほどね。人語を理解できないとは予想外だったわ。これでも真剣に助言したつもりだったのだけど……」

 わりと本気で苦笑しているところを見ると、本当に悪気がなかったのかもしれない。
 けど、それすらも挑発と受け取った男たちは既に我慢など考えてもいなかったらしく、それぞれが拳を振り被って女性に殴りかかった。

「――なんで」

 思わず口から声が零れる。
 傍目に見ていて、彼女が男たちの拳をしっかりと見ていたことを理解していただけに――。
 彼女は男たちの拳をまったく避けようとせずにそれぞれ腹部と頭部、そして左の頬を殴られていた。
 ――周囲から悲鳴にも似た声が上がる。
 当然だろう。ああも無抵抗で殴られる女性の姿を見せられれば普通は目を覆ってしまう。

「――さて、"此所"ではどの程度までなら正当防衛が認められるのかしらね」

 さらりと――本当に、なんでもないことのように自然な状態のまま、彼女はそんな事を呟いた。
 ――同時にその身体がゆったりと動いた。
 決して過剰ではなく、不自然でもなく、あくまでもゆったりとした動きで男たちの傍を通り抜けていく。
 その際に彼女が男たちに加えた首筋への三撃は、そっと当てられただけなのにきっちりと男たちの意識だけを奪い取った。
 糸の切れた人形のように地面へ向けて倒れ伏そうとしていた男たちをゆっくりと支えながら地面に横たわらせたのは彼女の気遣いに他ならない。

「まったく、手間を掛けさせるわね」

 男たちが無防備に倒れようとしたのは硬いアスファルトの地面だ。
 そこに無防備に倒れ、下手に頭部などを強打すれば最悪の事態も考えられる。
 彼女はそれすらも織り込み済みで気絶させた男たちを支え、そっと地面に寝かせて見せたのだ。

「貴女も災難だったわね。彼らにも悪気は――あったのでしょうけど、見ての通り罰は受けたわ。彼らが目を覚まさない内にここを立ち去れば今後も絡まれる、ということはないでしょう」
「あ、あの――ありがとうございました! その……大丈夫ですか?」

 彼女の問いかけに、その背後でずっと事の成り行きを不安そうに見守っていた女性が頭を下げてからそんな心配を口にする。
 それに一度だけ意外そうな表情を浮かべた彼女は、直ぐに表情を緩めて柔らかな微笑を湛えた。

「幸い頑丈に出来ているみたいだけど、心配してくれてありがとう。今後はもう少し気を付けなさい。この類の手合いは下手に無視しても、返事を返しても絡んでくるでしょうから」
「は、はい! 気を付けます!」
「なら、もう行きなさい。私はこの子たちを起こしてあげないといけないから」

 少しだけ不敵に笑うと、女性はそんな彼女の姿に見惚れたような様子を見せてから一礼し、互いの名前を交換してから去っていった。

「……さて、一応起こしてあげないと夜中まで放置されかねないものね」

 それは可哀想だと――本当に男たちを気遣うような声を零して、彼女は男たちの背中に手を当てていく。
 何をしたのかはわからなかったが、彼女の気付けによって意識を取り戻した男たちは、暫く自分たちの状況が掴めていないように周囲を見渡していた。
 ――彼らの周囲には相当数の野次馬が集まっている。
 まるで見下ろされるような数十の視線から逃れるように、男たちは戸惑った様子で周囲へと視線を這わせていた。
 気がつけば女性はおらず、自分たちは地面に寝転がらされているのだ。
 そのうえ、目の前には対峙していた筈の女性が立っているというのだから、何が起きたのかなどすぐに理解できるだろう。

「できるだけ優しく意識を失わせたつもりだけれど、目は覚めたかしら?」

 少しだけ鋭く細められた目で男たちを睨みながら告げる彼女の言葉は少しだけ硬質だ。
 それで完全に状況を理解した男たちは、目の前に立つ彼女に対して明らかな怯えを見せながら立ち上がった。

「今回は見逃してあげるわ。けれど、次に同じことをすれば――わかるわね?」

 一瞬――ほんの、一秒にも満たない刹那……空気が凍った。
 周囲のギャラリーには感じ取れない、指向性を持った殺意――それが殺意だとわかったのは後になってからだが――に晒された男たちは一様に怯えた様子を見せたまま必死な様子で立ち去っていった。
 そうして、彼女はギャラリーが散っていくよりも早く、その場をそっと後にした。
 途端に湧き上がるギャラリーたち。皆、一様に彼女の行為を口にしていたが、そのどれもが賞賛と言い換えてもいいだろう。
 確かに、傍から見ているだけでも彼女の行為は非常に勇敢で、頼もしく、それでいて冷静で思慮深いものだった。
 そして、アキラは自身がそんなギャラリーたちよりも強く彼女に興味を抱いていたことに気付いていた。
 だからだろう――ぼんやりとしたまま進ませた足は、彼女が去っていった方角へと自然に向かう。
 無意識に急いでいたらしく、数分後に彼女の後姿を見つけた時には息が乱れていた。
 息を整えながら視線を向ければ、彼女はどうやら道に迷っていた外国人に道を教えていた途中だった。
 どこか拙い英語だったけれど、それでも丁寧な口調で説明をする彼女の説明に外国人の男性は満面の笑みを浮かべてから頭を下げ、手を振りながら去っていった。
 彼女はそんな男性を見送り、再び歩き出す。ふと、なにかを見つけたのか駆け足で街の片隅にある公園へと駆けこんでいった。
 慌てて追いかけて公園に着いたアキラの目に映ったのは、大きな木の上で泣いている小さな女の子――小学生ぐらいだろう――の傍へと向かっている彼女の姿だった。
 するすると昇っていき、少しだけ少女と会話を交わし、その背に少女を背負う――。
 危なげなく下りていき、地面に降り立つと少女を地面に下ろして膝を曲げた彼女は少女と目線を合わせて何かを語っていた。
 最初は泣き顔だった少女だが、次第に落ち着いてきたのか涙は止まり、声も上ずったものから落ちついたものへと変わっていく。
 最後にそっと少女の頭を撫でると、少女は嬉しそうに破顔し、大きく手を振ってから走り出した。どうやら家に帰るらしく、彼女も笑顔を浮かべてその後姿を眺めていた。
 そうしてその後、彼女が街中を後にするまでに大小様々な人助けをして去っていく姿を見送る。
 幾ら同姓が相手とはいえ、流石にそれ以上後をつけまわせば下手をしなくともストーカー扱いだ。少し手遅れ感はあったが――。

「――でも、やっぱり凄いな」

 極自然と人の手助けをしていく彼女の姿には素直に感動できる。
 あくまでも手助けの範疇を逸脱しないささやかな助力。それが如何に難しいのかをアキラはよく知っていたから――。

「プレシアさん…か」

 高校生の女性との会話で聞いた彼女の名前――。
 風の音にも掻き消されそうな声が去っていった背中に向けて零れるのだった。


 -Interlude-


 夜の闇を切り裂く数多の銀光――。
 空気の壁を突き抜け、音よりも早く、ただ早く飛んでいく。
 その先に集う有象無象へ向けて放たれたその閃光は、一切の遠慮無くその姿を穿っていった。

 ――その夜、麻帆良学園に存在する多くの魔法使いがその光景を目の当たりにした。

 つい先日、新たに学園を警備する人間が増えたことは彼らにもその日の内に知らされている。
 その人物が初めての夜間警備という名目で、最近学園結界の外に頻繁に出没するようになった魔物の掃討を担当する事となった。
 あらゆる状況を想定して学園各所に魔法先生、生徒、そして裏の仕事を担当する者たちが各所に配置されたのは当然の配慮だろう。
 それは正しく監視の意味合いが強く、同時に観察と保険の意味も含まれていたのだろうが、"ソレ"を眺めていた彼――タカミチ.T.高畑は遠い過去の記憶に苦笑いを零すのだった。

「――なるほど……どうやら学園長はとんでもない使い手を呼び込んだみたいだ」

 双眼鏡越しに目が合ってしまったことに気づいたのか、視線の先で彼が小さく手を振ってくる。
 四キロ以上離れた場所にいることを忘れてしまいそうなほど自然な動作だったため、思わず返事を返すように軽く手を上げてしまう。
 もっとも、これくらいの距離は"彼"にとっては大した隔たりではないだろう。
 事実、つい先程まで彼が放っていた"魔弾"は間違いなく十キロ以上先の戦場に向けて正確無比の精度を以って降り注いだのだから――。

「……千里眼を使ったとしても、その距離を弓なんていう前時代的な武器を使って正確無比な精密狙撃を連射できる人間がそう何人もいるわけがない。同姓同名の別人かと思っていたけど――」

 双眼鏡をずらし、着弾点付近へと視線を向ける。
 その先では最前面で戦っていたであろう生徒――桜咲刹那の驚いた様子が見て取れた。

「こうして遠目で見ていてようやく理解できるような芸当だ。彼女には何が起きたのかわからないだろうな」

 もう一度、射手である衛宮士郎を眺めながら呟きを零す。
 そうしてタカミチは、彼が始めたという喫茶店にでも行って直接話でもしてみようと思い立つのだった。






 
 

 
後書き
第二十七話です。

 

 

Episode 28 -遠い背中-



 今はもう遠い過去の事――。
 自身が憧れ、目指すべき目標として見ていた英雄たちとの会話を思い返す。

『――彼について…ですか? ふむ、そうですね……私は彼と相性が悪そうですね』

 アルビレオ・イマ――彼が語るのは性格の相性だけではなく、戦闘においても相性が良くないと告げる。
 それはどういう事なのかと問いかけると、彼は少しだけ意地悪そうに笑みを浮かべて口を閉じてしまった。

『――ふむ、彼奴の事か。そうじゃの……料理が上手じゃな』

 ナギの師匠であるゼクトの意見には素直に賛成できた。
 実際、彼の作る料理はとても美味しくて、どこかホッとする味だったから――。

『戦いの事となると……さて、どうじゃろうな。少なくとも、ワシたち紅き翼のメンバーならば今の彼奴と戦っても負けはせんじゃろうが……』

 見た目は少年そのものと言えるゼクトだが、そうして考え込む時の表情はどこか老人のようでもあった。

『――いや、あるいは誰が戦っても負けるかもしれんな』

 にやりと笑みを零しながら告げたゼクトは、その後のどんな質問にも答えようとはせず、ただはぐらかすようにして去って行った。

『――む…彼についてかい? そうだね…純粋な剣技を競い合えば負ける気はしないが――実戦ではどうなるかわからないな』

 紅き翼のメンバーの中でもっとも剣に卓越した青山詠春――彼は少しばかり難しい表情を浮かべてそう答えた。

『――うん、残念ながら彼には剣における"才能"は無い。だけど、それは彼にとっては既に何のマイナスにもなり得ない事だからね』

 ――才能が無い。
 そんな言葉を向けておいて、それがマイナスになっていないという事がどういう事なのか――。
 疑問に思って問いかけると、彼は少しばかり思案した様子を見せた後に一言だけ告げてくれた。

『――打とうが削ろうが、どれだけ使っても絶対に折れない剣。それが彼だということだよ』

 少しばかり悲しそうにそう告げて、彼は去って行った。

『――彼の事か? そうだな……長く生きているのも大きいんだろうが、一番の肝はその在り方だろうな』

 戦災孤児となった自身を助けてくれた師匠――ガトウ・カグラ・ヴァンデンバーグはいつもの通り、煙草を銜えながらそんな感想を口にした。

『――主義や主張の事じゃ無い。彼は良くも悪くも"変わらない"ということだ』

 どれだけ環境や状況に適応しているように見えても、彼の"本質"は変わらない。
 否――変わるのなら、彼はきっと現在に至るまでのどこかで足を止めて向かう先を変えていただろう…と、師は少しだけ感じ入るようにそう告げた。

『――あん? アイツの事について…だと? ふーむ、そうだな……戦ったら面白いを通り超えて、殺すか殺されるかのどっちかにしかならない物騒な奴だな』

 それは彼が強いという事なのか――と聞くと、ジャック・ラカンは大きな声で笑った。

『強いか強くないかで言うなら、そりゃあ強いだろうぜ。何しろ、"気"も"魔法"も使わずにアレだからな。まあ、普通に戦えば俺たちが負ける道理はないが――』

 自信に満ちた言葉は僅かばかり硬質なモノになっていた。
 その意味に思い至ることも出来ず、ただ再び口を開く時を待った。

『――そもそもアイツの"強さ"ってのは、そういう尺度で測れるもんじゃないからな』

 少しばかり真剣な声音で告げてから思案するように黙り込んでしまう。
 そんな彼の側で話を聞いていたもう一人の人物――紅き翼のリーダーでもあるナギ・スプリングフィールドは小さく合図を出してから席を立った。

『――アイツは俺やジャックとは正反対だからな。お前も、それが分かってるからこうして聞いて回ってるんだろ?』

 確信を突くその言葉に頷きを返した。
 才能がない――それは、"生まれつき呪文の詠唱ができない体質"である自身にとって楔のような言葉だったからだ。

『――そうだな……自分に出来る事の全部を本気で、それも長い時間をかけて磨き上げてきた結果が今のアイツなんだろうな』

 それはつまり、諦めずに努力を重ねてきたという事なのだろうかと納得する。
 すると、その返答に思うところがあったのだろう。ナギは小さく笑みを浮かべてからはっきりと答えてくれた。

『――いや、ただの意地っ張りだと思うぜ。きっと、本人に聞いてもそんな感じで答えるんじゃねえか』

 メンバーの中で、もっとも彼と仲が良いナギの言葉に呆然とする。
 そんな自身の反応は予想通りだったのか、ナギは小さく笑いながら歩き去って行った。
 それから数時間も経たない内に彼らと別れ、紅き翼は目指すべき目的地へ向けて旅路を再開した。
 事ある毎に思い返す彼らとの短い共同生活――それを思い返す度、ナギたちとの会話も思い出していた。
 ――あれから時は経ち、少年期を終えて大人になってもそれは変わらない。
 衛宮士郎という少年の姿をした男の姿は、彼――タカミチ・T・高畑にとって今も決して忘れることのない記憶の一つなのだから。





 ・――・――・――・――・――・――・





 朝も早い内から御苦労な事だと彼女――龍宮真名は肩をすくめて見せた。
 休日の朝――先日から再び人が住むようになった湖岸の武家屋敷の庭に立つ彼女の眼前では、二人の男女が剣を交えていた。

「――そら、もう剣が鈍ってきているぞ」
「はぁ…はぁ…はっ!!」

 上下左右、繰り出される連撃は流麗且つ鋭い。本人は自身を未熟だと言うが、実際彼女――桜咲刹那は充分以上に強い。
 それでもまだまだ足りぬというように限界を超えて繰り出される決死の斬撃は、涼し気な笑みを浮かべたままの彼――衛宮士郎にあっさりと防がれていた。

「――まだ元気が残っているようだが、あまり根を詰めすぎても非効率になる。今日はこれくらいにしておかないか?」
「は……はい、あ…ありがとう……ござい、ました……」

 肩で息をしている刹那に彼はすぐ側に置いていたペットボトルとタオルを手渡す。
 それが自分のために用意されていたとは思っていなかったのか、差し出された刹那は驚きながらも丁寧に礼をしてそれを受け取っていた。

「やはり"気"を使うことに慣れ過ぎているようだな。"気"を操る技量が必須なのは解るけど、実力が拮抗してくれば最終的には体力勝負になる。基礎力の向上は常に心がけたほうがいい」
「はい…! ご指導、ありがとうございました」

 汗を拭き、飲み物を口にして一息ついた刹那が馬鹿丁寧に礼をする。
 そんな様子に彼は苦笑を零していたが、ひょっとしたら照れているだけなのかもしれない。

「いや、こちらこそいい運動になった。よければまた今度手合わせしてやってくれ」
「はい。お忙しい中、どうもありがとうございました」

 礼を告げる刹那に手を振り、一部始終を離れて見守っていた真名にも挨拶をしてから士郎は立ち去っていった。
 今日は休日という事もあって、昨日開店したばかりの喫茶店を朝から開けるために家の中へ戻って準備をするのだろう。

「随分と熱中していたみたいだな」
「龍宮……」

 息を整えている刹那へと声を掛ける。
 その消耗の度合いは初めて出会った時の戦闘とは比べるべくもなかった。

「ああ、別にお前を笑いにきたわけじゃない。あの人の戦闘能力の高さは異常だよ。私だって同じ条件で動けば先に息を上げるだろうさ」

 常に"気"を利用することを念頭に置いた神鳴流剣士の刹那にとって、先程のような純粋な身体能力を使う戦いは想像以上に過酷だろう。
 相手にしていた士郎は"気"や魔力を扱わずとも常人を遙かに超えた身体能力を持ち合わせている。
 純粋な体捌きと技量を駆使し、そしておそらくは長く戦場に身を置いてきた生粋の戦闘者――。

「……味方としては頼りになる人だけど、敵には回したくないタイプの人だな」

 昨夜の光景を思い出し、心の底からの言葉を口にする。
 そんならしくない姿がどう映ったのか、目前に立つ刹那の表情は僅かに驚きを刻んでいた。

「……お前がそこまで評価しているというのも珍しいな、龍宮」
「なに、あの人からは同類の匂いがするんでね。――もっとも、これまでの様子からすると私よりも遙かに業が深そうだったけど……」
「えっ?」

 最後の呟きは聞き取れなかったのだろう。刹那は微かに疑問を浮かべた表情を浮かべていた。

「なんにしても、打ち合う度に自分に足らない物を実感できるからな。あの方と出会えたことは、私にとっては幸運以外の何物でもない」

 そう告げて、刹那は決意に滲んだ目を彼の歩き去っていった方角へと向ける。そんな彼女の姿に真名は小さく頭を振った。

「ああ、そうだな。確かに……護りたい者を護ろうとするなら、それに相応しい力を備えていなければならないからな」

 言葉通りに受け取るなら刹那の応援に聞こえるだろうその言葉は真実、自身に向けた言葉でもあった。
 かつて失ってしまった"ナニカ"を想い出してしまった真名の表情は、きっと普段の自身からは想像できないほど悲痛なものに見えていただろうから――。

「――らしくなかったな。さて、私はこのまま彼に付いて行って開店直後のティータイムに入るけど、お前はどうする?」
「もちろん私も行く。まだ、昨夜の礼も伝えていないしな」

 昨夜の仕事で直接的に彼の技量を目の当たりにした刹那の言葉にはどこか熱が篭っていた。

「――二人とも。俺はこれから店のほうに行くが、二人はどうするんだ?」

 唐突に縁側の向こうから声が掛かる。
 ちなみに、この場合のどうする――とは、このまま店に来るのか…それとも帰るのかという意味合いで間違いない。
 彼の同居人である二人の女性は先んじて開店の準備に向かったと聞いているため、彼が少しばかり急いでいるのは真名にもハッキリと理解できた。

「私と刹那はこのまま店のほうにお邪魔させてもらうよ。モーニングセットの注文は受け付けているかい?」
「簡単なのでよければな。なら、一緒に行くとしよう。戸締りを済ませるから、先に門の方に行っててくれ」

 あっさりとそう告げて窓や扉を閉じていく。
 そんな彼の言葉に従って、真名と刹那は家の外へと向かうのだった。


 -Interlude out-

 
 早朝の運動を終えた士郎はそのまま準備を済ませてから店へ向かった。
 朝も早くから家にやってきていた刹那と真名の二人を伴ってやってきた店の中で簡単な下拵えを開始する。
 店に着くと同時にプレシアを連れたメルルが買い出しに行ってくると言い残して店を後にしたが、すぐに戻ってくるというので店は予定通り開店させるつもりだ。
 メルルたちとのやり取りを眺めていた刹那と真名の二人が開店の準備を手伝ってくれたお陰で助かったのは言うまでも無い。
 そんな二人に対して、士郎がお礼を兼ねて用意したのはモーニングセット――。
 ココナッツを振りかけた練乳たっぷりのパンケーキと珈琲、そしてデザートを二人の前に配膳していく。

「珈琲用のミルクと砂糖もあるから、好みで調整してくれ」

 そう告げて早速今日の分のケーキを用意していく。
 カウンターを挟んで朝食を食べる二人の姿は、普段の凛とした姿が嘘のように少女らしい。
 ふいに気配を感じて視線を入り口へと向けると、開いた扉の向こうには先日に知り合ったまま会えずじまいになっていた長瀬楓の姿があった。

「――美味しそうな匂いに釣られてやってきたでござるよ」
「いらっしゃい、長瀬。この間はありがとう。あの薬のお陰で随分と助かった」

 彼女から貰った造血剤の効果は確かで、翌朝から血が足りなくて困るなどという事態には陥らなかった。
 どのような材料をどのように調合したのかは気になったが、今のところ副作用の類も起きていないのだから問題はなかったのだろう。

「なんのなんの。こちらこそ見聞を広めさせてもらったのだから、気にしなくてよいでござるよ」
「なら、せめて今日の朝食はサービスさせてくれ。口に合うようなら、今度は知り合いでも連れてきてくれると助かる」
「了解でござるよ。では、刹那たちに出しているモノと同じモーニングセットとやらをお願いするでござる」

 如何にも忍者といった姿をしている彼女が注文したのは意外にもパンケーキ――。
 笑みを浮かべて甘味を所望するその姿に歳相応の少女を見た思いがした士郎は一言――了解と告げてから準備に掛かった。

「……楓か。そういえば、お前は昨日用事で来れなかったんだったな」
「うむ。外せない所用があったので、どうしても時間を空けられなかったでござるよ。それにしても真名――お主、甘党だったでござるか?」

 甘みの強いパンケーキを美味しそうに食べてる真名に視線を向けた楓は僅かばかり驚いた様子で訪ねていた。
 見た目の印象だけではなく、彼女が普段に見せている態度も相まって、相当に予想外の光景に見えてしまったのだろう。

「糖分は脳の活動を活発にするし、ここのパンケーキは量も少なめで朝のエネルギー補給には最適だ。それ以外の理由など、あるわけないだろう」
「その割には随分と嬉しそうに食べているでござるな」
「――む」

 非常に年相応の会話に耳を傾けながらケーキ作成作業を進める。
 同時進行で楓のモーニングセットの準備も進めていき、ケーキを作る手を止めてセットを楓の元へと運んでいく。

「はい、どうぞ。珈琲はミルクと砂糖を好きに使って飲んでくれ」
「あいあい。それでは、いただくでござるよ」

 三人の朝食風景を眺めながら、士郎は先程中断したケーキ作りを再開する。
 翠屋という本格的な洋菓子店で世話になった経験が十分に役立っている事を実感し、士郎は僅かばかり自嘲気味な笑みを零すのだった。

「――ごちそうさま、美味しかったよ。これだけの腕前なら、実際裏の仕事に手を付けなくてもやっていけそうだ」
「料理や菓子作りは趣味の一環だよ。まあ、こうして店の商品として出す以上は丁寧に作ろうとは思っているがな」

 真名の言葉を受けて答えた言葉に嘘はない。
 事実、士郎は自身の料理スキルを本格的に伸ばしていこうとは考えていないのだから――。

「まあ、裏の仕事ぶりを見た後だと色々と思う所はあるんだけどね。そうそう、昨夜の仕事はちゃんと見させてもらったよ」
「なんだ、龍宮も見ていたのか? ふむ……それで、俺は彼らの眼鏡に適ったのかな?」

 昨夜の仕事の際に感じた監視の目の多さを思い出して薄く笑みを浮かべる。
 その内の一人であり、一度は対峙したこともある真名の目から見てどうだったのかと問いかける。

「充分……だろうね。ただ、あれでは重宝されて忙しくなるかもしれないよ?」
「あれくらいの用件なら大した手間じゃない。射程内に入ってきたものを片っ端から撃ち抜くだけだからな」
「違いない。そういえば詳しくは伝えてなかったけど、私はこの麻帆良学園の本校女子中等学校で学生をしながらフリーで仕事を請け負ってるんだ」

 よろしく――と、真名は名刺のようなものを差し出していた。
 それを受け取った士郎は、そこに書いてある情報を一頻眺めてから刹那へと視線を向ける。

「私も礼を――昨夜はどうもありがとうございました。お陰で仕事も早く終わりましたし、的確な援護のお陰で随分と助かりました」
「感謝は嬉しいけど、俺が手助けしなくても直ぐに終わっていただろう。桜咲の剣の腕前は素晴らしかった。やはり訓練と実戦は違うな」

 それは士郎の素直な感想だった。
 刹那の剣の腕前は、間違いなく士郎のそれと違って才能に溢れたものだったからだ。

「ふむ、刹那は衛宮殿と稽古をしたことがある…と。もしよければ、今度見学させてもらえると嬉しいでござるな」
「そうだな……桜咲次第だけど、俺としては別に異論はないぞ」
「了解したでござる。では、刹那が窺う時には同行させてもらうでござるよ」

 楓の言葉に頷きで答えた士郎は、同席していた真名がにやりと口角を上げていた事に気づくことはなかった。


 -Interlude-


 プレシアと共に早朝の商店街で買い出しをしてきたメルルが店の中へ入ると、カウンター席に一人の女性が腰掛けている姿が目に入った。
 金の髪をロールさせた特徴的なお嬢様――そんな印象を受ける人物と会話していた士郎は、店に入ってきたメルルたちを確認して笑みを浮かべていた。

「――お帰り、二人共」

 気負いのない言葉に各々返事を返してカウンターの奥へと入っていく。
 その際にカウンター席に座っている女性が軽く会釈をしたので、それに応えるように礼をして通り過ぎた。

「――大変美味しかったですわ、シェロ」
「満足してくれたようで安心したよ。それで、もう行くのか?」
「ええ。明日にはイスタンブールで用事がありますので、今日中には日本を発たないといけませんから」

 優雅な仕草に嫌味な気配は微塵もなく、彼女が相応の家柄の人間であることを伺わせる。
 ふと――そんな彼女と視線があった。
 士郎もその視線に気づいたらしく、ああ…と小さく零してから視線を真っ直ぐに向けてきた。

「この人はこの喫茶店を開店するために色々と協力してくれたルヴィアゼリッタ・エーデルフェルトさんだ」
「ああ、シロウが言っていた人だね。はじめまして、メルルリンス・レーデ・アールズです」
「プレシア・テスタロッサよ」

 簡単に名乗ると、彼女――ルヴィアゼリッタ・エーデルフェルトは少しだけ驚いたような様子を見せた後、柔らかな微笑を浮かべた。

「私はルヴィアゼリッタ・エーデルフェルトと申します。今日はシェロの紅茶を味わいに訪れたのですが、お二人がいらっしゃらなかったので残念に思っていたところです」

 だから会えて良かった――と、そう告げて、真っ直ぐに視線を向けてくる。
 プレシアを見ていたその目が自身に向けられた瞬間、メルルはなにか伺うような気配を彼女から感じていた。
 それがどんな意味を持っていたのか――。
 理由など思い当たるはずもなく、ただ物珍しさからくるものだろうと納得した。

「それでは、これで失礼します。またいつかお会いできる時を楽しみにしていますわね」
「ああ、そちらも無理のないように」

 どこか真剣な声音が混じっていたからか、士郎の言葉にルヴィアは苦笑を浮かべて頷いてみせた。
 静かに店を後にする彼女を見送ってから作業を再開――店に設置した簡易型の錬金釜に材料を入れてじっくりとかき回していく。
 店を後にしたルヴィアと入れ違いになる形でやってきた数名のお客を相手に接客へ向かったプレシアを眺めながら、側にやってきていた士郎へと視線を向ける。

「――ねえ、あの人って……」
「普通のお嬢様――というわけではないのだろうな。それより…その移動式錬金釜で何を作ろうとしているんだ?」

 疑問に満ちた声に笑みを浮かべて余っている素材を差し出してみせる。
 わざわざ購入してきた珍しいきのこを見て、士郎は少しだけ驚いた様子でソレを眺めていた。

「――セイヨウショウロとは……また、随分と高価なものを買ってきたな」
「珍しい食材を専門で扱ってるお店があってね。そこで見たことのないきのこがあったから、つい…ね」

 セイヨウショウロ――トリュフとも呼ばれる黒いきのこのお値段は、商店で扱っているきのこの類とは桁がいくつか違っていた。

「よく手が出せたな」
「シロウたちと会うまで色々と金策もしてたから。ほら、宝石剣を作るために…ね」
「……なるほど。遠坂と一緒に宝石を集めていたんだったな」

 純度の高い宝石を手に入れるために様々な世界で宝石を集め、金属や鉱石などは錬金術で少量の金を錬成して金策に励んでいた。
 そんな生活を二年近くも行っていれば、お金の管理などは自然と身に付いてしまうものだろう。

「――あら。いらっしゃい、エヴァ。今日は一人なのね」
「ああ、茶々丸は部活のほうに顔を出しているのでな」

 ふと、入口付近から聞こえてきたのはプレシアとエヴァの声――。
 それに反応した士郎は、小さく頭を振ってカウンターへと向かって行った。
 そんな彼の背を見送りながら、メルルは先程から作業を続けていた錬金に集中していくのだった。


 -Interlude-


 既に日も沈み、営業を終えようとしていた店内に一人の来客がやってきた。

「――あれ、もう終わりかい?」

 入ってきたのはスーツに身を包んだ長身の男だった。
 どこか演技めいた振舞いを見せてはいるが、"相当できる"事は彼女――プレシアにもすぐにわかった。

「営業時間は終わっていますけど、よかったらどうぞ。軽食やデザートは無理ですけど、紅茶かコーヒーなら出せますよ」
「なら、コーヒーをお願いしてもいいかな?」
「わかりました」

 丁寧に応対してカウンター席を勧めると、男は素直に席へと座った。
 カウンターの奥で片付けをしていた士郎に注文を伝えると、彼は腰掛けた男へと視線を向けた。
 見覚えのある人物だったのか、士郎は珈琲を淹れたカップを持ってそのまま彼の対面に腰掛けるのだった。

「どうぞ」
「ありがとう――うん、美味しいね。道理であのエヴァが足繁く通うわけだ」
「彼女とはどういう?」
「昔のクラスメイトだよ」

 傍目に見ていて、二人は互いに確信から僅かに外れた会話を交わしているかのようだった。
 士郎はそれ以上なにも口にせず、男も確信に至るためのキーワードだけを口にしていた――のだろうが、どうやら男はこういった腹芸は得意ではないらしい。
 せっかく演じて作り上げた空気に耐えられなくなったのか、男は苦笑しながら首を横に振っていた。

「……回りくどいったらなかったね。先ずは自己紹介を――僕の名前はタカミチ.T.高畑。貴方の仕事仲間に当たる者です」
「衛宮士郎という。つい先日、近衛学園長に拾われてここで過ごす事になった者だ」
「うん、話は聞いているよ。それに、昨日の仕事でも顔を合わせてるしね」

 そうだろう…と――悪戯めいた表情で告げてくるタカミチを前に、士郎は小さな苦笑を零していた。

「これだけ近くで挨拶をするのは初めてなのだし、これが初顔合わせでいいと思うがね」
「違いない。それにしても、貴方の腕前は素晴らしい。あんな芸当は誰にでも出来るものじゃないよ」

 それが昨夜に引き受けたという裏の仕事の事だとわかっていても、士郎は小さく浅く笑みを零すだけだ。
 あの夜――士郎は数十単位で押し寄せてくる外敵を前にして、ビルの上から十の矢を一息の内に放ち続け、十キロ以上先のターゲットを確実に撃ち抜いていった。

「多くの関係者は貴方の扱う弓が強力なアーティファクトなのだろうと口にしていたが、僕や学園長を含めた何人かは、あれが貴方の技術――弓術によるものだと理解しているよ」
「侮ってくれていたほうがのんびりと過ごしている身には有難い。それに、アレくらいなら大した手間でもないからな」

 実際、結界外に現れる有象無象程度ならば、わざわざ魔法先生及び魔法生徒が出動するまでもないだろう。
 士郎の持つ狙撃手としてのスキルを駆使すれば、街を一望できる見晴らしのいい場所から狙撃するだけで事足りるのだから――。

「――シロウ。試作品が出来たんだけど……って、お客さん? なんだか、誰かに似てるような……」

 奥の錬金釜の前でひたすら何かをかき混ぜていたメルルが顔を見せた直後に窺うような視線を男――タカミチへと向ける。
 その様子に士郎は同じようにタカミチの顔をじっと眺め、それを受けているタカミチは僅かばかり苦笑を浮かべていた。

「……あ、そうそう。ガトウに似てるんだよ」
「――そう言ってもらえるのは嬉しいですね。師匠は今でも、僕の憧れですから」

 唐突に丁寧な口調でメルルに告げて頭を下げるタカミチの姿に士郎とメルルの二人が顔を見合わせる。

「流石にわかりませんよね。いつか、お二人に手助けをしてもらった紅き翼の一員だったタカミチです」

 その言葉で思い至ったのだろう。
 士郎とメルルは二人して目を見開き、すぐに落ち着きを取り戻してタカミチを見据えていた。

「……本当に、君があの時の少年なのか?」
「はい。お久しぶりです、士郎、メルル。まさか、こうして再び貴方たちに会えるとは思っていませんでした」

 名前だけを聞いたときには同姓同名の別人だと思っていたらしい。
 昨夜の件で、士郎の能力を見て過去に出会った知人だと確信したから訪ねてきたのだという。
 これは話が長くなるだろうと判断したプレシアは、かねてから練習していた紅茶の腕前を振るうために三人を置いてキッチンへと向かうのだった。


 -Interlude-


 語り合うべきこと――語りたいことは幾らでもあった。
 それでも、いざこうして面と向かって会うと、そのどれもが喉を通ること無く消えていく。
 時間にして二十年――それだけの時を経ても色褪せない記憶を思い返しながら、タカミチは改めて用意された紅茶を口に含むのだった。

「――そうか。あれから、この世界では二十年以上も過ぎたというわけか」
「やっぱり、突発的な移動が時空間に影響を与えているのかな。だとしたら、やっぱり……」

 噛み締めるように呟く士郎と自身の思考に埋没していくメルルの姿は懐かしく、こうして言葉を交わせばかつての記憶が鮮明に蘇ってくる。
 二人にとってあの日の出会いはそれほど昔の事ではないらしく、異界から来たという彼らのかつての言葉に絶大な信憑性を与えてくれていた。

「ナギや詠春は元気にしているのか?」
「詠春さんは恐らく元気に過ごしていると思います。ただ、ナギは――」

 紅き翼のメンバーのその後について、タカミチが知りうる限りを伝える。
 二十年前の戦いでゼクトが逝き、その後の争いの中でナギとアルは行方不明になり、ガトウは命を落とした。
 詠春は十数年前に引退しており、現在は日本の京都にて過ごしている。
 ジャックもまた、十年前に隠居してしまい、あの時士郎と出会ったメンバーで現在も現役なのはタカミチ一人なのだと――。

「――そうか。ナギは行方不明……公式には故人ということになっているのだな」

 どこか寂しそうな笑みを浮かべた士郎は、親しい友人を亡くした事を噛み締めるように呟いた。
 あの頃――もっとも仲を深めていたナギと士郎は傍目に見ていたタカミチにも仲の良い友人同士に見えていた。

「君はまだ現役だと言っていたが……まだ、あの頃と同じように戦い続けているということか?」

 士郎の問いかけにハッキリと頷いて見せる。
 彼はあの頃も今も詳しい事情は何一つ知らないし、知ろうともしない。
 それを無関心だとはき違えるほど若くはないし、彼がそんな人間ではない事がわかるぐらいには成長した自覚がタカミチにはあった。

「今も戦い続けていますし、これからもきっと戦い続けます。あの人たちの背中にいつか追いつけるように」
「そうか。だが、君のほうが良く知っているだろうが、彼らの背中に追いつくのは並大抵ではないぞ?」

 試すような言葉に笑みを浮かべてみせる。
 ――世界を救った英雄。
 そんな人たちの背中を見続けて歩んできた少年時代――。
 例えその背中が目の前から消えていったとしても、目を閉じれば今でもソレは歩く道の遙か先に見えている。
 そしていま――こうして奇跡的に会うことができた彼のおかげで、タカミチは更に自身を高める決意を固める事ができた。

「追いついて見せます。それに、こうして貴方と会えて良かった――お陰で僕は、もう一度目標を見据えて歩き出すことができるから」

 真っ直ぐに士郎へと視線を向けて決意を口にする。
 そんなタカミチの姿は士郎とメルルには、どのように映っていたのか――。
 士郎は少しだけ呆気に取られた様子だったが、メルルは微笑ましそうに笑みを浮かべていた。

「ごちそうさまでした。また近いうち――貴方たちが帰るまでにはもう一度顔を覗かせます」
「大したおもてなしもできないが……そうだな、とびきりの珈琲を用意しておくから、楽しみにしていてくれ」
「またね、タカミチ。今度来たときには、特製のキノコパイを食べさせてあげるからお腹を空かせてきなよ」

 長い別れを感じさせるものではなく、近い再会を約束する言葉を交わし合う。
 それがどこか嬉しく感じられて、変わらず在り続けてくれた二人に対してもう一度だけ頭を下げてから店を後にした。

「――あら、もういいのかしら?」

 入り口を出てすぐに声が掛けられる。
 士郎やメルルと共にこの喫茶店で働いていた若い女性だった。

「ええ、昔語りをするには少し想い出が多すぎまして。美味しい紅茶をどうもありがとうございました」
「上手く淹れる事が出来てよかったわ。士郎に教えてもらってはいたけれど、自信なんてまるでなかったから」

 笑みを浮かべて語るその口調は、女性の見た目にそぐわないほど落ち着いていた。
 士郎とメルルの事情を知るタカミチとしては、目の前の彼女にも相応の事情があるのだろうと推測するには十分すぎる材料だった。

「プレシアさん…でしたか。士郎やメルルとはどういう……」
「メルルは私の命の恩人…かしら。彼女がいなかったら、私はとっくに命を落としていただろうから」

 それはどういうことなのか――そんな疑問が浮かんできたが、彼女はそれ以上の事情を口にしようとはしなかった。

「士郎は……そうね、以前は私の目的を邪魔する敵で、今は一緒に生活している同居人――そんなところじゃないかしら?」
「……いろいろと事情があるのはよくわかりました。ぶしつけな質問でしたね、すみません」
「気にしなくてもいいわ。士郎とメルルは貴方という知人と会えた事が嬉しかったようだし、また会いにきてあげてちょうだい」

 それだけを言い残して、彼女は店の中へと入っていった。
 中から聞こえてくる話し声は楽しげで、彼らが今という時間を満喫している事を知らせてくれる。
 どうしてか、そんな事実がやけに嬉しくて――タカミチは小さな笑みを浮かべて歩き出すのだった。


 -Interlude-


 夜空を飛んでいく航空機の一室で彼女――ルヴィアゼリッタ・エーデルフェルトは日本からの最終報告を受け取っていた。

「そうですか。では、シェロ――衛宮士郎とメルルリンス・レーデ・アールズはやはり紅き翼のタカミチ・T・高畑と知己であった…と」
「はい。特にそれ以上の情報は得られなかったとの事ですが……こちらも報告に上げてよろしいのでしょうか?」

 惑いのない声で告げる執事のオーギュストに頷いて見せる。
 そうして、信頼の置ける執事は小さく頷いてから席に腰掛けているルヴィアのすぐ側に控えるのだった。

「最低限の義理は果たして見せたのです。これ以上、私たちが首を突っ込むような真似をする必要はないでしょう」

 独り言のように零した言葉には誰からの反応も返ってこない。
 事実それは自己確認ともいえる言葉であり、返答を求めたものではなかった。

「偶然か必然か――これから先、どのような流れになるのかはわかりませんが……」

 傍観者に過ぎない者にそれを憂慮する資格も義務もない。
 それを誰よりも自覚しているからこそ、ルヴィアは優雅に笑みを浮かべてみせるのだった。


 
 

 
後書き
第二十八話です。
 

 

Episode 29 -モラトリアム-




「――それにしても、ここが噂に聞いていた喫茶店でしたか…」

 カウンター席に腰掛けた彼女――綾瀬夕映(あやせゆえ)が店内を眺めながら呟く。
 その言葉を耳に届けながら、プレシアはすっかり手慣れてしまった動作で二つのカップを用意していった。
 一つはアッサムのミルクティーで、もう一つは今日のおすすめになっているダージリン――秋摘みの最後の時期に収穫されたもので、甘い香りと深いコク味が特徴的な紅茶だ。

「――ウチらも前から行ってみようって思ってたとこなんよ」

 ミルクティーを彼女――近衛木乃香(このえこのか)の前に置く。
 どこかのんびりとした雰囲気を身に纏っており、背中まで伸びた長い黒髪がよく似合う可愛らしい少女だ。
 昼を過ぎて一度家に戻ったプレシアが再び店に顔を出す前にと頼まれた簡単な買い出し――。
 それを済ませるために街へ出た際に、不注意から二人の女子中学生と接触したプレシアは、彼女らの手にあった飲み物を服に浴びてしまった。
 特に酷く濡れたわけではなかったが、二人組の女子中学生――綾瀬夕映と近衛木乃香は必要以上に責任を感じたらしく、大丈夫だと告げるプレシアに対して何度も頭を下げてきたのだ。
 そうした紆余曲折があり――会話を交わす中で近衛木乃香の祖父がプレシアたちに様々な便宜をしてくれた近衛近右衛門であると判明し、こうして友好を深めるに至った――というのが十数分前の話である。
 そんな事情から親しくなった二人と会話をしている最中に士郎から念話で店の留守番を頼まれたプレシアは二人を店に招待し、今に至るのだが――。

「このショートケーキはサービスよ。見様見真似で作ったものだけど、それなりに上手く出来ていると思うわ」

 二人の視線を受けながら、プレシアは士郎から教わって作ったケーキをテーブルの上に載せて切り分ける。

「それじゃ、遠慮なくもらうな~」
「では、いただきます」
「ええ、どうぞ召し上がれ」

 程良い温度に保たれた紅茶に口をつけた二人の少女を眺めながら、プレシアは店内に満ちたまったりとした雰囲気を満喫していた。
 微かに聞こえる水の音と天窓から降り注ぐ陽光――。
 僅かに街中を外れた立地のために周囲は意外なほどに静かで、それがまたこの喫茶店の雰囲気を深く感じさせる要因となっているのだろう。

「そういえば、このお店は確かもうすぐ営業期間を終えると聞いたのですが…」
「ええ、その通りよ。ここは元々臨時で開店した場所だから、もう何日かしたら無事に営業終了ということになるわね」

 それこそが意外な言葉だったのだろう――。
 夕映の隣で話を聞いていた木乃香が不思議そうな表情を浮かべたまま、カウンターを挟んで立つプレシアへと視線を向けてきた。

「もったいないな~。こんな美味いのに……」
「そういってもらえるのは嬉しいわね。もし気にいってくれたのなら、今度はお友達でも連れてきてくれると嬉しいわ」
「了解や~」

 冗談交じりに告げた言葉に元気よく答える木乃香に笑みを向けて、プレシアは下拵えを開始した。
 士郎は出かけているため一人で行う事になるが、この一週間の間にいつも士郎と共に行ってきた作業なので特に手間取ることはなかった。

「手際ええな~」
「教えてくれた人が上手だったのよ」

 プレシアの手元を興味深そうに眺めていた木乃香の言葉に手を止めずに答える。
 気がつけば――二人は既にケーキを食べ終えており、カップに残っていた少量の紅茶を飲み干していた。

「――御馳走様です。大変美味しい紅茶とケーキでした」
「ほんまに美味しかったわ~。ありがとな、プレシアさん」

 笑みを浮かべた二人の言葉を受けて、プレシアは目前の食器を片づけながら笑みを零した。

「気が向いたらまたいらっしゃい。私の作った物でよければ特別価格でサービスしてあげるから」

 その言葉に木乃香と夕映は嬉しそうに頷きながら頷き、元気よく店を後にする。
 途端に静かになった店内で、プレシアは周囲を見渡してからそっと天井を仰いだ。

「――そう…もうすぐこの猶予期間(モラトリアム)は終わる。私も覚悟を決めないといけないわね」

 順調にいけば、数日後にはこの世界を離れて元の世界へと帰還する。
 そこで待っているのはプレシアが置いてきた現実――罪を犯して過ちを犯した世界と向き合う時間だ。
 ――悩むだけ悩み、後悔するだけ後悔もした。
 行動を起こしたことそのものに対して悔いはなく、それが失敗に終わった事も受け入れている。
 だから、残った問題はただ一つ――。
 アリシアの面影を色濃く受け継いだ少女――フェイト・テスタロッサとの関係に他ならない。

「顔を合わせたその時に感じた感情に素直になればいい……か。確かにその通りなのかもしれないわね」

 いつか士郎から告げられた言葉を静かに反芻する。
 考えても結論を導き出せない悩みに対して、悩む事の是非は問わずに結論だけを投げ渡された。
 その不器用だけど心に届く士郎の優しさに、プレシアは長らく忘れていた暖かな感情を胸に抱くのだった。





 ・――・――・――・――・――・――・





「――そら、待たせたな」

 手にしたキャットフードを開けて目前に置いてやると足元に座り込んでいた子猫が起き上がり、のそりのそりと歩いていく。
 ――早朝、店に一人で訪れた茶々丸に頼まれて引き受けた猫の餌やりである。
 用意してきたキャットフードの詰まった缶詰に口を寄せた猫たちが美味しそうにそれらを食べている様を眺めていると、自身が暖かな日常の中にいることを強く実感できた。

「――士郎さん?」

 背中越しに聞こえてきた声に振り返る。
 そこには、この麻帆良にやってきてから一週間余りの間ですっかり顔馴染みになった那波千鶴がいた。

「千鶴か。こんにちは」
「こんにちは。この時間帯にこの辺りにいるということは、今日はお店の方はお休みですか?」
「いや、店の方は任せて出てきたんだ。茶々丸は知っているだろう? 彼女に猫の餌やりを頼まれてな」

 特に理由を聞かなかったが、こうした日課を持っている茶々丸が微笑ましく思えて――。
 二つ返事で引き受けた士郎は、この一週間余りの間に随分と調理などの腕前を上げたプレシアに店番を任せて出てきたのだ。

「プレシアさんは士郎さんのお店の看板娘ですものね」
「本人が聞いていたら悶絶するような気がするが……客観的には正しい認識だろうな」

 見た目も若く整った容姿をしたプレシアは、その落ち着いた接客がお客の間で評判となっているらしい。

「そういえば、君はどうしてここに?」

 士郎たちが立っている場所は、街中から少し外れた場所に流れている小川の側に舗装された道だ。
 店からも離れているし、千鶴が通っている中学校や住んでいる女子寮からも遠い場所なのだが――。

「保育所に行っていたんです。休日保育について色々と検討しているみたいで、私もボランティアとしてお手伝いできる事はあると思いますし」
「そうか……。千鶴は、やはり将来はその方面に進みたいと思っているのか?」

 中学生である千鶴がボランティアとして保育所へ通っているということは、その道に強い関心や興味を抱いている証拠だ。
 実際、士郎からの問いかけに千鶴は一切の迷いも惑いもなく頷いて見せた。

「今はまだ夢ですけど、叶えたい未来でもあります。忙しいお父さんやお母さんがいない間、寂しい思いをしている子供たちが、少しでも笑顔で過ごせるお手伝いをしていきたいんです」

 真っ直ぐで清廉な言葉に自然と笑みを浮かべてしまうのは憧憬からだろうか――。
 ささやかで、けれど決して容易くはない夢を語る千鶴の姿は、少女らしさを感じさせながらも大人びた雰囲気を纏っていた。

「……ところで、この後は暇かな?」
「ええ、今日はもう特に予定はありませんよ」
「以前の礼もまだしていないし、良ければ店に寄っていってくれ。紅茶と菓子を御馳走しよう」
「あら、よろしいんですか?」
「もちろんだ。元を辿れば君のおかげでこうして過ごせているんだからな。個人的な買い物にも付き合ってもらったし、その御礼をさせてもらえないと立つ瀬がない」

 苦笑を零すと千鶴はそんな士郎の顔を覗き込み、なにやら思案した後に小さく頷いた。

「では、お願いしてもよろしいですか?」
「ああ」
「楽しみにさせてもらいますね」

 おどけるような言葉を口にして、彼女は小さな笑い声を零す。
 そんな彼女の姿にどこか懐かしい記憶を思い出しながら、二人肩を並べて歩き始めた。

「――お店には何度も来ていますけど、こうして改めて見ても風情があって過ごしやすい雰囲気のお店ですよね」
「まあ、その雰囲気だけが売りだからな」

 店内に入ると同時に店内を改めて見渡し始めた千鶴からは先程までの落ちついた雰囲気は消えている。
 背丈や体型に恵まれた容姿をしており、芯の強い性格をしている彼女が中学生だと知った時は本当に驚いたものだが――。

「――なにか失礼なことを考えていませんか?」
「いや、そんなことはない。直ぐに用意するから適当に腰掛けて待っててくれ」

 じろり、と。まるで心を読んでいるのではないかというタイミングで睨みつけてくる千鶴に、士郎は内心焦りを感じながら平静に答える。
 どうにも年齢離れした容姿と雰囲気は彼女のコンプレックスなのだろう。
 二度とそこに覚悟無しに触れないことを誓って、士郎はカウンターの奥へと入っていった。

「――あら。おかえりなさい、士郎」

 奥にはなにやら物思いに耽っているプレシアの姿――。
 彼女はすぐに士郎の存在に気付き、特に慌てた様子も見せずにそっと視線を合わせてきた。

「ただいま。すまなかったな、プレシア。急な頼みで急がせてしまった」
「お陰で可愛らしい子たちとのんびり過ごせたから気にしなくていいわよ」
「それならよかった。お客を一人連れてきたから、準備を手伝ってもらえるか?」

 すぐに頷いて答えたプレシアは、そっとカウンター席へと視線を向ける。
 そこに座る千鶴と目が合ったらしく、互いに小さく手を上げて簡単な挨拶を交わしていた。

「随分と千鶴と親しいんだな」
「それなりにはね。以前に彼女がボランティアで行っている保育所の近くを散策していた時にお邪魔させてもらった事があったのよ」

 プレシアが休憩時間に行っている周辺の散策――。
 その最中に店で顔を見ていた千鶴と顔を合わせ、彼女の誘いのままに保育所で子供の相手をしてきたらしい。

「そうか――」

 柔らかな笑みを浮かべているプレシアの言葉に一言だけ零して紅茶の準備を終える。
 プレシアも小皿にクッキーなどを盛りつけてくれており、それを置いて再び奥へと戻っていった。
 そんなプレシアを横目に眺めた後、準備を終えた紅茶とクッキーを千鶴の前に用意すると、彼女は嬉しそうに笑みを浮かべて紅茶を注いだカップに口をつけた。

「――美味しいです。本当に……」
「そう言ってもらえると招待した身としては安心できるよ。お替わりは自由だからのんびりしていってくれ」
「ありがとうございます。お言葉に甘えさせてもらいますね」

 のんびりとするためか、カウンターから窓際の席へと移った千鶴を眺めてから、士郎は夕方に向けて軽食の準備を進めていく。
 程なくしてやって来たのは三名の女の子――。
 いつの間にか戻ってきていたプレシアの姿を認めた三人の女の子たちは、プレシアを見て真っ直ぐに彼女の元へと歩み寄っていく。

「いらっしゃい、夕映ちゃん。そちらの二人は?」
「どうもです。こちらは早乙女(さおとめ)ハルナと宮崎(みやざき)のどか。私のクラスメイトで同じ部活に所属する親友です」

 淡々とした様子で告げる夕映という名の少女は、プレシアからの問いかけを受けて自身の両側に立つ二人の女の子たちに軽く視線を向けた。

「早乙女ハルナでーす。ねぇねぇ、お姉さん! ユエ吉とはどんなご関係で!!」

 長い髪を揺らしながら尋ねてきた活発な少女――早乙女ハルナにプレシアは少しばかり考えるような素振りを見せてから小首を傾げた。

「どんなと言われても、街で知り合った関係としか答えようがないわね」

 答えながら三人をテーブル席へと誘導し、その目前に手拭きを用意していく。
 その様子を眺めていた大人しそうな女の子――宮崎のどかはどこか慌てた様子で声を上げた。

「あ、ありがとう…ございます。わ、私、宮崎のどかって言います……」
「プレシア・テスタロッサよ。今日はゆっくりしていってね、のどかちゃん」

 メニュー表をプレシアから受け取った三人が注文したのは軽食のカルボナーラセットだった。
 手早くトロトロのソースに絡まったカルボナーラのセットを三つ用意していく。
 程なくして出来上がった三つのセットをプレシアが運んでいく姿を眺めていると、唐突に店の扉が開かれた。

「――なんだ、今日もそれなりに客が入ってるじゃないか」

 ――現れたのは、やけに機嫌のいい様子で現れたエヴァだった。
 彼女はいつものようにプレシアと簡単に視線で挨拶を交わしてからカウンター席へとやってきた。

「いらっしゃい、エヴァ。今日もお任せでいいのか?」
「ああ」
「了解。それにしても、茶々丸がいないのは珍しいな。昼間も頼まれ事をしたし、何かあったのか?」

 エヴァと茶々丸はいつも一緒にいるイメージが強かったので問いかけると、彼女は何でもないように告げた。

「アイツはメンテの日だからな。今日はハカセたちといるよ」
「ふむ。そういえば…茶々丸はそうだったな」

 つい忘れそうになってしまうが、茶々丸は純然たるロボットだ。
 聞いた限りの仕様――動力に魔法の力を使っている時点で純然かどうかは疑問だが、身体を構成する素材が無機物であることは間違いない。
 いつもの席に腰掛けているエヴァの前に紅茶とクッキーのセットを置きながらそんなことを思案していると、再び店の扉が開かれた。

「――お邪魔させていただきますわね、衛宮さん」
「ようこそ、あやか。ようやく顔を出してくれたか」

 訪れたのは開店に際して店舗を用意してくれた雪広あやかだった
 彼女が店を訪れたのはこれが初めてだが、いつでも歓迎できるようにと準備だけはしていた。

「紅茶をひとつ――葉はお任せしますわ。今日も期待していますので、よろしくお願いします」
「心得た。君が満足できる紅茶を用意するから、好きな席に腰掛けて待っていてくれ」

 そうして特別に置いておいた高品質の茶葉を取り出し、とっておきの紅茶を用意する。
 それをあやかの元へ届け、彼女が満足した様子でそれに口をつけると同時――ハルナたちのグループが何やら騒ぎ出した。
 どうやら彼女たちは顔見知り――聞こえた言葉を纏める限りではクラスメイトらしい――を呼んでくれるらしく、これから忙しくなりそうだとプレシアと笑い合う。
 この喫茶店を開いて一週間余り――想像以上の盛況ぶりに士郎は小さく喜びの溜息を零すのだった。


 -Interlude-

 
 少し冷めてきた紅茶を飲み込みながら、彼女――那波千鶴は一息吐いてから店内を見渡した。
 広いというほどでもない店は基本的に開放しないと決めていたらしいウッドデッキを開放してその許容量を増やしている。
 徐々に傾きつつある陽を浴びながら、いつの間にか始まっていた喧騒に包まれていた千鶴はもう一度目の前に置いてある紅茶に口をつけるのだった。

「――それにしても、1-Aの殆ど全員が揃うとは思わなかったわね」

 既に貸し切り状態といっても過言ではないこの喫茶アトリエ――その店内には千鶴のクラスメイトがほぼ全員揃っていた。
 もっとも、未だに誰も目にした事のない出席番号1番の相坂さよ(あいさかさよ)はいないのだが――。

「ちづ姉が最初からいたほうが驚きだって……」
「まったくですわ。千鶴さん、いつの間に衛宮さんとお知り合いになっていたのですか?」

 ルームメイトの村上夏美(むらかみなつみ)と雪広あやかが興味深そうに尋ねてくる。
 彼女たちからの問いかけに、千鶴は初めて士郎と出会った際の光景を思い返して意味深な笑みを浮かべた。

「――秘密よ。ほら、乙女には秘密が多い方がいいっていうでしょう?」

 いつの間にか聞き耳を立てていたクラスメイトたちが全員肩透かしを食らったかのように騒ぎ出す。
 そんな喧騒から距離をとっていたのは、いつの間にかカウンター席を占有している七名――。
 桜咲刹那と龍宮真名、エヴァンジェリン・A・K・マクダウェルに超鈴音、葉加瀬聡美と絡繰茶々丸――そして長谷川千雨(はせがわちさめ)の七名だ。
 彼女たちはクラスメイトと騒ぐというよりも、純粋に士郎の紅茶を味わっている様子で、各々静かに紅茶が注がれたカップに口をつけていた。

「――それにしても、衛宮さんって結構カッコいいよね」

 そんな声が辺りから微かに聞こえてきたのはきっと必然だったのだろう。
 騒ぎ疲れたわけではないだろうが、高まったテンションで一通り騒いだなら新たな話題を持ってくるのが1-Aだ。
 どこからともなく聞こえてくる話題は士郎の容姿や年齢についてのものが多い。カッコいい…渋カワイイ…まだ15歳らしい…プレシアは彼女ではない…など。
 そうして千鶴は自分がまだ衛宮士郎について殆ど何も知らなかったという事実――それなのに、こんなにも彼に対して信頼を寄せている自分の心に改めて気付くのだった。

「……でも、こういうのは理屈じゃないっていうものね」
「――ん? 何か言った、ちづ姉?」
「なにも言ってないわよ。それよりも夏美? 今日は――」

 この店はあと数日もすれば営業を終えてしまう。
 そうなれば、士郎たちは麻帆良から離れて元いた場所へ帰っていく予定だと聞かされている。
 ならば、悔いの無いように行動しなければならない…と――。
 それはきっと、理屈では説明の出来ない本能のようなものなのだろうと千鶴は笑みを深めるのだった。


 -Interlude out-


 嵐のような時間が過ぎ去り、その惨状を眺めていた士郎は小さく溜息を吐いた。
 それは決して散らかりに散かった店内の清掃が大変そうだから、というわけではない。
 むしろ、こんなになるまで大勢で楽しんでくれたのなら店を構えた甲斐があったといえるだろう。

「――うわ~みんな散らかしたいだけ散らかしたって感じね」

 ツインテールを揺らしながら告げる少女――神楽坂明日菜は、自分は違うとばかりに他人事な感想を口にする。

「――このゴミはこっちに捨ててええんよね」

 黙々とゴミを運んでいくのは明日菜のルームメイトだという近衛木乃香だ。
 片付けが手慣れていることから、普段からよくこういったことをしているのがよくわかる。

「――ていうか、普通片づけ位はしていくだろ……」

 ぶつぶつと愚痴を零しながらも丁寧に片づけをしているのは長谷川千雨。
 少しだけクラスメイトたちと距離を置いていた姿と眼鏡が特徴的な女の子だ。

「いや、大盛況で嬉しいばかりだよ。これくらいの片づけは嬉しい悲鳴の一つのようなものだし、君たちも無理して手伝わなくていいんだぞ?」
「えっ? あ、いや……べ、別に片付けるのが嫌とかそんなんじゃなくて…ですね。クラスメイトに対する愚痴というか……」

 口篭る千雨は心なしか慌てた様子で弁明しようとする。
 恐らく、先程の独り言をハッキリと聞かれていたのが恥ずかしかったのかもしれない。

「わかっているさ。プレシアも家の手伝いに戻ってしまったし、君たちの手伝いには感謝しているんだ。後で三人にはお土産に特製のケーキを用意するから、楽しみにしていてくれ」
「えっ、ホントですか? このかが、ここのケーキは凄く美味しいって言ってたから期待してますよ!」
「ああ、期待していてくれ」

 千雨の頭を撫でながら告げると明日菜と木乃香は嬉しそうに抱き合っていた。
 そうして――士郎の手の下にいた千雨は、どこか頬を紅潮させながら士郎を真っ直ぐに見上げてきた。

「あ、ああああのさ、その手は……一体…?」
「ん? ああ、すまない。癖のようなものでね。気を悪くしたなら謝ろう」
「あ、いや…別に……その、嫌ってわけじゃ…」

 聞き取れないほど小さな声でぶつぶつと洩らす千雨からゆっくりと手を離し、片づけを再開する。
 どうにも、なのはやフェイト――はやてと接する内に撫で癖のようなものが身に付いてしまったらしい。
 気心の知れた相手なら兎も角、出会って数時間もしていない相手の頭を了承もなく撫でるのはマナー違反だと反省する。
 自戒の念を込めるように視線を伏せた士郎が手を離した際に、千雨がどこか寂しそうな表情をしていた事には誰も気付く事はなかった。

「でも、今日は丁度よかったわよね。いいんちょから全員集合なんて声掛けられた時にはホント助かったって感じだったし」
「そやな~。今日は冷蔵庫の中もからっぽやったし、ちょうどよかったわ~」

 ルームメイトである明日菜と木乃香だが、どうやら普段は木乃香が料理当番を担当しているらしい。

「そうか。もうすぐこの店も畳んでしまうが、よければまた来てくれると嬉しい」

 笑みを浮かべながらそう告げると、二人は嬉しそうに破顔した。
 ――明るく素直で、なによりも元気に溢れている。
 そんな少女たちを見ていれば笑みが零れてしまうのは無理なき事だろう。

「――やっぱり…………よね?」
「――そやな。…………やな?」

 急にこそこそと話し始めた明日菜と木乃香――見れば、そんな二人を置いて千雨は早々と作業を終えていた。

「お疲れさま。珈琲を淹れてあるから飲んでいってくれ。ミルクもあるから、冷めてきたら混ぜるといい。疲れが取れるぞ」
「ありがたくいただきます。っていうか、凄くいい香りがするんですね」
「特製の水出し珈琲――いわゆるダッチコーヒーといってな。時間は掛かるが、香りも味も普通とは一味違う。……ところで、あの二人はどうかしたのか?」

 さあ、と――首を捻る千雨と共に先程から小さな声で何かを確認している明日菜と木乃香へと視線を向ける。

「神楽坂、近衛――二人の珈琲も淹れてあるから、よかったら飲んでやってくれ」
「――えっ? あ、ありがとう……って、そうじゃなくて。あ、あのね! 聞きたいことがあるんだけど、いいかな?」

 突然の声掛けに驚いたのか、顔を上げて反射的に礼をした明日菜はツインテールを靡かせながら顔をぶんぶんと横に振る。
 さりげなく隣に立っているこのかに髪がビシバシと当たっているが、明日菜は気付いていないし、当の本人も全く気にしている様子は見られない。
 もしかしたら慣れているのかもしれないが、傍目に見ている限りでは相当に痛そうな印象を受ける行為だった。

「とりあえず言ってくれなければ答えようもないのだが……」
「えっと……さっきもこのかとずっと話してたんだけど、衛宮さんってなんか凄くしっかりしてて大人っぽいなって思って……。年は私たちと少しだけしか違わないのに、自立してこんな店を始めてるし――」
「ふむ、大人かどうかはともかく――この店を始める事ができたのは色々な人の好意に甘えての事だ。偶然によるところが大きいし、自慢できる事ではないと思うが…」
「それでも…なんて言うのかな。一本筋が通ってるっていうか――見ていて安心するっていうか、とにかく大人っぽくてお兄さんっぽいなって!!」

 右往左往する明日菜を落ちつかせ、直ぐ目の前に座る千雨へと視線を向ける。
 そうなのか――と、尋ねるような視線を向けると、彼女は迷うことなく首を縦に振って頷いていた。

「まあ、神楽坂の言い分は最もじゃないんですか? 開店の経緯はともかくとして店をしっかりと経営する……なんて、図抜けた天才でもない限りは自立した大人でないと出来ないでしょうし」

 図抜けた天才という千雨の言葉で、ふいに超の事を思い出す。
 なんでも彼女はこの麻帆良の地で超包子という料理屋台チェーンを経営しているとかなんとか――。

「そうそう、千雨ちゃんの言う通り! 私って親とか兄弟とかいないから……なんとなくなんだけど、衛宮さんみたいな人がお兄さんだったらよかったのにな~なんて思って……」
「ウチも兄弟とかおらへんし、小さい頃からずっとこっちにおるからあんまり家族と会うこともないしな~」

 二人の言葉に思考を戻した士郎は、二人の意見に一応の理解を示すように頷きを返した。
 誰しも身の回りに親しい人間がいてほしいと思うものだが――。
 まだ知り合って間もない明日菜が自身に対してそんな風に思ってくれるのは、士郎にとっても嬉しく感じられるのだった。

「――もうじきこの地を離れる俺には安易な返事は返せないが…そうだな。二人が嫌ではないなら、俺の事は好きに呼んでやってくれ」

 言い淀む彼女たちに士郎は少しだけ気後れしながら告げていた。
 途端に明るくなる明日菜と木乃香の表情とは裏腹に、士郎の目の前で座る千雨の表情はどこか焦燥に駆られているかのようだった。

「じゃ、じゃあ…その……士郎お兄さん? うーん、なんか語呂が悪いかな……。士郎兄さん……シロウ兄……ん、シロ兄ってことでよろしく!」
「なんや照れくさいし、ウチはシローって呼びたいんやけど……ええかな?」
「ああ、いいぞ。まだ数日は麻帆良で過ごす予定だし、気が向いたらいつでも訪ねてきてくれ」

 告げると喝采を上げるようにはしゃぐ二人――。
 彼女たちから視線を外した士郎は目の前に座る千雨へと視線を向ける。俯いていた彼女は何故かぷるぷると震えているようだった。

「――ちなみに、あの二人に限った話じゃないんだぞ、長谷川。お前も遠慮せずに好きに呼んでくれればいい」

 それが要らぬお節介であることは承知していたが、告げると千雨は僅かに口元を緩めたままそっぽを向いてしまった。

「……なら、シロウさんって呼ぶよ。目上の人を名前で呼んだ事はないけど、シロウさんはどうもそのほうがいいみたいだし」
「ああ、変に遠慮されるよりはそのほうがずっといい。千雨も、その調子でクラスメイト相手に被ってる猫を少しでも減らせたらいいんだけどな」
「んなっ!?」

 奇妙な声を上げて狼狽する千雨を眺めながら押し殺すように笑う。
 どうやら彼女はあれで猫を被っているつもりだったらしいが、あれではすぐに猫かぶりだとバレてしまうだろう。

「まあ、とりあえず落ち着くといい。手に持ってる珈琲を零したら火傷するしな」

 ようやく落ち着いてきた明日菜と木乃香、そして千雨にそう告げて席に座らせる。
 彼女たちが着席すると同時に、入口から鈴の音が聞こえてきた。
 備え付けの鈴の音に目を向けるとそこには、少し小さめの鍋を両手に持った千鶴の姿があった。


 -Interlude-

 
 宴会が終わり、自室に戻った千鶴は晩御飯にするつもりで朝の内に下拵えを済ませていた材料を手際よく調理し、小鍋に入れて女子寮を後にした。
 どうして自分がこんなことをしているのかは自分自身でも理解できている。
 胸の奥に根付いたこの感情は、きっと彼にとっては大きなお世話なのだろうということも――。
 それでも、目の前に彼のような人がいれば放っておけないのが千鶴であり、こうすることが決して彼のためだけではないことは確かなのだから問題はないだろうと自身に言い聞かせる。

「――でも、ただのお節介で済ませたいだけなのかもしれないわね」

 先程までの店内での喧騒を思い出す。
 普通なら頭を痛めるほど騒いでいた1-Aの面々を見ながら、士郎は幸福そうな笑みを浮かべていた。
 そこにはいつか垣間見た、あのどうしようもないほどの"孤独"は一切感じ取れなかった。
 彼が同居しているプレシアとメルルの二人と一緒に過ごしている時も同じ――ただ、彼が"ソレ"を甘受しているだけに見えてしまったのは気のせいではないだろう。
 考え事をしながら歩いていた千鶴の目の前には目的地の店が見えており、その中にいるはずの人物を尋ねて扉を開け放った。

「――お邪魔します」
「千鶴か……どうした? なにか忘れ物でもしたのか?」 

 両手に持っている小鍋に視線を向けながらそんなことを聞いてくる士郎に笑みを零す。
 わかっていて言っているのなら皮肉屋だと告げるが、彼はそんなどうでもいい時に限って鈍さを見せる事を決して長くはない付き合いの中で知っていた。

「今日はこちらで晩御飯まで頂いたので、部屋で下拵えを済ませていた料理を持ってきました。よかったら食べてもらえますか?」
「……美味しそうな野菜煮込みだな」
「腕によりをかけましたから」

 普段よりも気をつかい、丁寧に仕上げている自信作だった。
 仕上げだけとはいえ、様子を見ていたルームメイトの夏美が驚いた様子を見せる程度には普段よりも力を入れている。
 差し出した小鍋は両端に小さな布巾を被せており、その上から挟みこむように持ちあげていた千鶴はそれを士郎へと差し出し、受け取ってください…と――言葉にはせずに微笑んだ。

「そういうことなら、遠慮なくいただくとしよう。ありがとう、千鶴」
「私のほうこそ、今日は御馳走になりました。ありがとうございます、士郎さん」
「どういたしまして」

 素直に笑みを浮かべて答えてくれた士郎の言葉が嬉しくて、千鶴は益々笑みを深めていくのだった。

「……なんか、あそこだけ空気が違わない?」
「……そやな。周りの空気が歪んどるみたいや」
「……ていうか、実際周りが目に入って無いだけだろ?」

 店の奥からそんな声が聞こえてくるが敢えて反応はしない。
 千鶴は鍋を受け取って柔らかな笑みを浮かべている士郎へと真っ直ぐに視線を向けて、ホッと一息を吐いた。

「ふふ、こうして男の人に手料理を振舞うのは緊張しますね」
「しっかり味わって頂くとするよ。ところで、明日菜たちにケーキを用意していたんだが、千鶴の分も用意するから珈琲でも飲んで待ってもらえるかな?」

 年上の男性らしく余裕のある返答を返してくる士郎の言葉に、千鶴はゆっくりと頷いて応えるのだった。



 
 

 
後書き
第二十九話です。

 

 

Episode 30 -それぞれの想い-



「――振り返ってみれば、あっという間に過ぎた二週間だったな」

 多くの人で賑わう店内を見渡しながら、士郎は少しばかり名残惜しそうに告げる。
 ――営業最終日。
 これまで短いながらも足繁く通ってくれた常連の人たちで賑わう喫茶『アトリエ』では、日が沈むまでを期限とした還元パーティが開催されていた。
 特別価格で食べて飲めるとあって、見渡した店内には席に座りきれないほどの人が溢れている。
 同じように店内を見渡しながら士郎の言葉を横で聞いていたメルルは、同意するように小さく頷いて見せるのだった。

「プレシアも随分と元気になったみたいだしね」
「そうだな」

 視線の先で多くの人と談笑しているプレシアの姿を眺めながら、二人並んで笑みを浮かべる。
 プレシアがどのような心境で今を過ごしていて、この後をどのように過ごしていくつもりなのかはメルルも士郎も知らない。
 彼女が選ぶ道は彼女自身の意思と選択の元で行われるべきことで、そこに介入するつもりはメルルにはなかったし、士郎も恐らくは似たような心境のはずだ。

「それにしても――試運転も無しで大丈夫なのか?」

 少しだけ声の大きさを落として尋ねてくる士郎の声音はどこか慎重だった。
 実際、前回二人で世界を渡ろうとしてあのような結果を招いているだけに士郎の心配は当然のものだろう。

「今回はシロウが持っていてくれたアイテムの残骸を元にして作った物だけを使うから大丈夫だと思うよ」
「……そうか。なら、心置きなく戻るためにそろそろ挨拶回りをしてくるとしよう」
「うん、いってらっしゃい。紅茶と珈琲の準備はちゃんとしておくから気にしなくていいからね」

 告げると、士郎は小さく頷いてから見知った顔が座っている席へと歩いていく。
 タカミチや刹那、千鶴に超――他にも多くの見知った顔、見覚えのない顔が見られるのは、士郎がこの世界で色々な人と交流を深めてきた事の証明だろう。
 客が多いため、店は現在ウッドデッキを開放する事で席を増やして対応しているが、多くの人たちは食事そのものよりも士郎やプレシアとの会話が目的のようにも見える。

「――なんだ。貴様は一人でのんびりしているのか?」

 ふいに聞こえてきた声に視線を向けると、どこか真面目な表情を浮かべたエヴァの姿がそこにあった。

「そういうエヴァはシロウたちと話をしてなくていいの?」
「奴らとはこの店でいつも顔を合わせていたからな。今更改めて挨拶などするつもりもない」

 表情を崩すことなくそれだけを告げたエヴァがカウンター席を越えて奥へとやってくる。
 そんな彼女を誘導するように少しだけ奥へと入り、備え付けてある小さな椅子を二つ用意して片方に腰掛けた。

「とりあえず座ったら?」
「ああ」

 静かに頷いて対面に用意した椅子へと腰掛ける。
 そんなエヴァを眺めながら、メルルは彼女が話を始めるのを静かに待った。

「それにしても…貴様と初めて顔を合わせてから一月余り――まさか、あの時は貴様が不死者だとは思わなかったが……」
「年を取らなくて死に難いだけだから不死ってわけじゃないけどね。シロウと出会わなかったら、今頃は自分で自分を殺してたと思うよ」
「士郎か……貴様は、これからもアイツと一緒に過ごしていくのか?」

 その問いかけに笑みを消して瞑目し、僅かな後に小さく首肯した。
 エヴァの問いかけ――そこには、長い時間を生きてきた者にだけ分かる特殊な意味が込められている。
 どれだけ親しくしようと、どれだけ楽しい時間を過ごしていこうと――それらは全て瞬きの内に過ぎ去り失われていく。
 それを誰よりも知っていて、それでも自らそんな苦しみを迎え入れようというのか――と。

「――エヴァ。私はね、生きていくのに飽きていたんだよ。だけど、そんな私を私のまま自然と側に置いてくれた彼となら、これからを生きていけると思ったの」
「ならば奴を貴様と同じにしてしまえばいいだろう。どうしてそうしない?」
「どうしてなのかな――だけど、何となく予感があるんだ。彼は私や貴女よりも特異な存在で、業の深い存在なんじゃないかって」

 疑問に満ちた表情を浮かべるエヴァに士郎との出会いの瞬間を詳しく語っていく。
 そして、この世界に来るまで共に過ごしていた凛や、その凛を弟子に迎えるためにやってきた魔法使いから聞いた"魔法"について――。

「――なるほどな。だが、それでも推測に過ぎないことに違いは無い。それに私が聞きたいのは結果や過程ではなく、貴様自身の意思と考えだ」
「……上手く言えないんだけど、きっと運命って言葉が一番しっくりくるのかな?」
「……なに?」
「だから、運命だよ。私が長く生きていた事も、シロウが自分の人生を完遂した事…その果てに出会えた事は運命なんじゃないかなって」

 淡々と告げた言葉に呆れた様子を隠そうともしなかったエヴァが小さく息を吐いた。
 そんな彼女の反応は予想通りだったが、メルルとしても冗談でそんな言葉を口にしたつもりはなかった。

「私がここに来るまで、色々な世界を旅してきたのは話したよね。その旅の中で思ったの――ああ、この世界は本当に数え切れないほどの可能性に満ちているんだって」
「並行世界……か」
「その数え切れない世界の中で出会えた事を思うとね。彼との出会いや、それを切っ掛けにして出会った多くの人たちとの関わりはきっと運命だったんじゃないかって思うの」

 どれだけ学問を学んでも説明できないことは幾らでもあるし、人の力ではどうしようもない事なんて幾らでもある。
 けれど、人が為しえないとされている奇跡をその身に受けた士郎は、その存在そのものが既に奇跡に等しい。
 人から外れた存在――それは、士郎がいつか自身の過去を語る際に告げた言葉だ。
 だが、仮に士郎が"そうした存在"になっているのなら、彼に与えられた奇跡は祝福ではなく呪いとも言えるものになっているだろうから――。

「――私は運命という言葉を否定しない。だけど、その運命を嘆くのも生かすのも人次第だというのなら、私は自分の意思で彼の側に居続けようと決めたの」
「随分と回りくどいことだが……貴様らしいと思えるのはどうしてだろうな」
「自分を偽れるほど若くないんだよ。こう見えても、それなりに長生きしてきてるんだから」

 そう告げると、エヴァは納得した様子で笑みを浮かべた。
 互いに長く生きてきた者同士――二人で静かに笑みを浮かべたまま取り留めの無い会話に興じる。

「――そういえば、話を聞いていて思ったのだが……貴様は士郎の事を好いているのか?」

 そんな会話の中で、ふいにエヴァが口にした言葉に反射的に頷いた。
 特に隠すつもりも否定するつもりもない事だが、淡々と答えた事にエヴァは不満そうな表情を隠そうともしなかった。

「もちろん好きだけど、今の関係のままが気楽でいいかな……」
「ふむ…だが、のんびりしていると誰かに取られるかもしれんぞ?」

 にやりと笑いながら告げるエヴァの言葉に苦笑いを零しながら、メルルは小さく頭を振った。

「シロウの中で一番目の席はとっくに埋まっていて、どうやっても入り込めないんだよ。だけど、私と同じで"それ"を承知で彼の側にいたいって人となら、きっと仲良くやっていけると思うんだけど?」

 少しだけ仕返しをするつもりで告げると、エヴァは少しだけ狼狽えた様子を見せて口籠もってしまった。
 珍しい反応を見せたエヴァの姿に満足したメルルは席を立ち、店内の様子を覗き込む。
 多くの人に囲まれている士郎を眺めながら、メルルは準備してきた特製のきのこパイを振る舞おうと準備に取りかかるのだった。


 -Interlude out-


 大盛況のまま日没を迎えて無事に喫茶店の営業を終了する。
 多くの人が閉店を惜しんでくれた事を嬉しく思いながら、士郎は客のいなくなった店内を片付けていく。

「――これで、このお店で働くのも最後になるわね」

 同じように片付けをしているプレシアの呟きに同意するように頷いた。
 互いにこの店で過ごした日々を名残惜しく思うのは同じなのだろうと二人揃って笑みを浮かべる。

「そうだな。大凡片付いた事だし、後は業者に任せて引き上げるとしよう」
「ええ、そうしましょう」

 明日には専門の業者が店の片付けと機材の回収にやってくる事になっており、借り受けていた店舗もそのまま返却する予定になっている。
 ログハウスは改修の際に移設が容易に可能な施工方法を採用していたらしく、綺麗に解体されて業者が引き取っていくのだという。
 立つ鳥跡を濁さず――とはよく言ったものだが、明日にはこの場所に店が構えられていたとは思えないような光景が広がっている事だろう。

「――綺麗な星空ね」
「ああ、そうだな――それに、綺麗な月夜だ」

 家までの道程――湖の畔に伸びる薄暗い街道をプレシアと二人、肩を並べて歩いていく。
 メルルは明日の帰還に向けて簡単なチェックを行うということで先に戻っており、今頃は家の中で作業に集中している頃だろう。

「……士郎。貴方は戻ったらどうするつもりなの?」
「特にどうするつもりもない。長く行方を眩ませていた事になるだろうから、職場復帰出来るかどうかも怪しいしな」

 翠屋の人たちとの約束を結果的に違えてしまった負い目もある。
 出来れば元の通りにアルバイトを続けていきたい所だが、そればかりは戻ってみなければ分からない事である。
 
「――だが、待たせている子がいる。事後処理を終えたら、まずは真っ直ぐに帰るつもりだ」
「貴方が同居するつもりの子だったわね。確か……はやてちゃんだったかしら?」
「ああ。縁あって知り合った子だが、いい子でな。本当は随分と年齢が離れているはずなんだが、こんな容姿をしているせいか妹のように思えてしまってな…」

 長く戻っていない事で心配をさせているだろうが、それでも彼女の住む家に帰ると約束をした――。
 だからこそ、同じように約束を交わした相手に対して、確認すべき事はきちんと確認するべきだろうと気を引き締める。

「プレシア――君はどうするつもりなんだ?」

 問いかけは静かにはっきりと――。
 足を止め、彼女へと真っ直ぐに視線を向けて投げかける。
 同じく足を止めて真っ直ぐにそれを受け止めたプレシアは、静かに微笑みを浮かべていた。

「心配しなくとも、自分から死を望むなんて後ろ向きな事は言わないわ。これまで一緒に暮らしてきた貴方やメルルなら、それくらいはわかっていたと思っていたけれど?」
「む……それはそうだが、一応確認はしておくべきだと思ったのさ。君に生きろと告げた者としては最低限の責任というものがあるからな」

 どこか非難めいた言葉を楽しげに口にするプレシアに苦笑を向けて答える。
 それをどう受け取ったのか――プレシアは笑みを浮かべたまま再び空へと視線を向けてしまった。

「とりあえず戻ったら管理局に拘束されるでしょうね。その後も裁判で色々と忙しくなるでしょうし、結果次第では下手をしなくとも檻の中――かもしれないわ」

 決して明るい未来が待っているわけではないと、プレシアはどこか楽しげに語った。
 悲観しているわけでも楽観しているわけでもない――。
 彼女はただ、自身のこれからを真っ直ぐに見据えた上で生きていく覚悟を定めているのだろう。

「それは別に構わないのよ。私は行動を起こした事そのものについて間違えたとは思っていないから。ただ……」

 言い淀んだ言葉の先――それが今の彼女が持つ唯一にして最大の悩みなのだろう。
 その悩みに対する回答を士郎は持ち合わせてはいなかったが、それでも言える事はあるだろうと口を開いた。

「――君の意思が決まっているのなら、俺はそれを手伝おう。例え、君がどのような選択をしようとな」

 ハッキリと告げた言葉にプレシアは静かに視線を下ろした。
 僅かに驚いて見せた後、まるで泣き笑いのような表情を浮かべた彼女は、ただ小さく頷いて見せるのだった。

「この世界とも明日にはお別れだ。今日は戻ったら――」

 そこまで口にして、不意に感じた視線のようなものに反応して振り返る。
 ――気のせいではない。
 先程も…そして、振り返った今も真っ直ぐに向けられる"視線"には、まるで値踏みするような意思が感じられた。

「……士郎?」
「客のようだ。どうやら俺に用事があるらしい。済まないが先に戻っていてくれるか?」
「……わかったわ。気をつけて」
「ああ、了解した」

 身に纏う雰囲気が変わったからか、プレシアも表情を引き締めていた。
 そんな彼女からの言葉に頷きで応えて全速力で駆け出す。
 視線はちょうど麻帆良の入り口――学園の端に伸びている巨大な吊り橋の向こう側から向けられている。
 数キロ以上離れた場所でさえ感じられるほどの強い視線は、普通に考えれば全うなものであるはずもない。
 恐らくは魔法関係者か、あるいは――。
 どうやら相手は立ち去るつもりもないらしく、その場所から動こうともしていなかった。
 強化した視力で視線の先を見てみれば、そこにはローブのようなものを身に纏った小柄な人物が一人だけ橋の向こう側――結界の外側に立っている。
 構造上、一度街中を経由しなければたどり着けない場所であるため、その姿を視界から外して走り続けた。

「――驚いたね。正直、これだけの距離で気づかれるとは思っていなかったよ」

 辿り着くと同時――どこか淡々とした少年のような声が聞こえてくる。
 橋の先――学園結界の境界線から僅かばかり離れた場所に立つその人物は、ローブのフードを深く被っているため人相までは判然としない。

「間接的な監視ならともかく、こうして直接"視られて"いれば気づかないはずもないだろう」
「なるほど。どうやら平和ボケした魔法使いたちとは根本からして違うようだね」

 本気で感心した様子で告げられたその言葉に視線を細める。
 告げた本人から感じられる気配――それは、かつての世界で対峙してきた"人外"のそれと同じだったからだ。

「その物言いからすると、俺が気づく事を前提としていたわけではなかったようだな」
「そうだね。だけど、気づくかもしれないとは思っていた――いや、期待していたと言ったほうがいいかな」
「……ふむ、どうにも回りくどいことだな。それで、俺に一体何の用事があって訪ねてきた?」

 告げると、少年は少しだけ驚いたように空気を揺らし、小さく肩を揺らしていた。
 それが声を殺して笑っているとわかったのは、少年が身に纏っていた気配があからさまに"変わった"からだろう。

「少し世間話がしたいと思ってね。ここ最近、夜の学園警備に頻繁に出没している謎の人物――それが貴方だろう?」
「……同僚たちが最近の魔物出現率は異常だと言っていたが、その黒幕と考えても?」
「あれは自然発生――或いは、この学園と潜在的に敵対している組織の差し金だけど、そう思ってもらっても構わないよ。利用させてもらったのは事実だからね」

 隠すつもりも否定するつもりもないらしく、少年は淡々とした様子で続けた。

「短い間だったけど、簡単に調べさせてもらったよ。衛宮士郎――貴方やメルルリンス・レーデ・アールズ、プレシア・テスタロッサの事を」
「ご苦労なことだ。それで、なにか興味を惹かれるような事実は発見できたのかな?」
「興味深いといえば、貴方たちの存在そのものが興味深いものだけど――残念ながら、貴方たちについてそこまで詳しい情報は"存在していなかった"よ」

 かなり本格的に探っていたことを示唆する少年だが、そもそも探って情報が出てくるはずもない。
 士郎たちについて詳しく事情を知るのはエヴァと刹那、そしてタカミチぐらいで、学園長にさえ真実は告げていないのだから――。

「だけど、わかったこともあってね。それを確認するために今日はわざわざ出向いてきたんだけど……予想以上の成果に少しだけ驚いているところだよ」
「……なるほど。理由はともかくとして、目的は俺やその周辺に対する調査といったところか?」
「そうだね。だけど、貴方たちは明日には"元いた場所"とやらに帰ると聞いている。だから、この訪問は純粋に僕の好奇心を満たすためだと思ってくれていい」

 敵対するつもりも害を加えるつもりもない…と、僅かばかり感情が込められた言葉に嘘はないのだろう。
 少なくとも――こうして対峙している少年からは、士郎に対する警戒や敵意などは微塵も感じられなかった。

「仕事帰りで疲れている所を話に付き合ってもらって感謝する。貴方との会話はとても有意義だった」
「調査の一環とやらか。君が何者かは知らないし、目的とやらにも興味はないが、無駄足ではなかったと言うのなら早々に立ち去るといい」

 ――告げて視線を細める。
 少年は確かに敵意や害意を抱いていないようだが、不審な人物であることに違いはない。
 学園の警備を受けるという契約がまだ続いている以上、少年のような人物が学園に侵入するというのなら見過ごすわけにはいかない。

「義理堅い人だね。だけどここで貴方と敵対するつもりはないし、今は大人しく立ち去るとしよう」
「結構なことだ。この学園の魔法使いや裏に関わる者たちには優秀な者も多い。気づかれる前に立ち去るというのなら、こちらからの手出しは控えよう」
「では、これで失礼させてもらうよ。これが最初で最後の邂逅になることを祈っているとしよう」

 そんな言葉を口にして、少年は背後に広がる暗闇へと姿を消した。
 気配も視線も完全に感じられなくなったことを確認し、その場を後にする。
 世界が違えばいろいろな出来事に遭遇することもある――。
 そんなわかりきっていたはずの事を改めて実感した士郎は、少しばかり緩みかけていた意識を引き締めながら帰路につくのだった。


 -Interlude-


 ふと目を覚ましたプレシアは、まだ薄暗い天井を眺めながらゆっくりと身体を起こした。
 見慣れた景色――すっかり馴染んだ部屋の中を見渡しながら、今日がこの部屋で目を覚ます最後の日だと思い出した。

「――こんな日くらい、早くに起きてもいいわね」

 いつもより確実に早い起床――それはプレシアにとってはある意味で新鮮さを感じさせるものだった。

「まだ五時にもなっていないのね……」

 改めて時計を確認し、部屋を後にして洗面所へと移動する。
 そうして最低限の身だしなみを整えたプレシアは、庭先に人の気配を感じてそっと足を向ける。

「――……はっ!」
「――――…っと」

 木と木のぶつかる音と一緒に聞こえてくるのは一組の男女の声だ。
 その男女が士郎と刹那であることに気づいたプレシアは足早に縁側へと向かった。

「――奥義、斬岩剣!!」
「おっと……流石にその技を木刀で受けたら折れてしまうな」

 刹那が振るった一刀は、手にしている獲物がただの木刀であるとは思えないほどの威力を発揮して地面を抉っていた。

「今の衛宮さんならば、上手く"気"を木刀に纏わせる事ができれば正面から受け止めることも可能だと思いますが?」

 そんな会話を交わしながら木刀と木刀を使用して切り結ぶ士郎と刹那――。
 そして縁側に座ってそれを眺める二人の女性――真名と楓の姿を認めて、プレシアは普段は目にした事がなかった士郎たちの立ち会いを眺めようと彼女たちの隣に腰掛けた。

「おはよう。真名ちゃん、楓ちゃん」
「おはようございます、プレシアさん」
「おはようございます――朝早くからお邪魔させていただいているでござるよ」

 いつも店で交わしているように挨拶を口にする。
 真名も特に気を張っていないのか、いつも通り丁寧な挨拶を返してくれる。
 楓はここが店ではなく家の中であることを考慮してか、普段よりやや丁寧で固い挨拶を返してくれた。

「いつもは終わった頃に起きるから、こうして鍛錬そのものを眺めるのは初めてね」
「今日は鍛錬最終日ということで、彼の"気"を操る技量の最終確認をしているそうですよ」
「初めの頃に比べれば随分と良くなったでござるが…まだまだ免許皆伝というわけにはいきそうもないでござるな」

 プレシアの呟きに真名と楓はそれぞれ返答するように言葉を返してくれる。
 この二人と、いまも士郎と剣を合わせている刹那の三人はプレシアと共に世界を渡った直後の士郎と戦闘を行っている。
 そのためか、三人とも士郎に対して一定の敬意とも呼べる感情を抱いているらしい。
 士郎にしても、彼女たちに対して自身の力を隠すつもりは毛頭ないらしく、この二週間の間に何度も彼女たち――主に刹那――と訓練を共にしていた。

「そういえば――これまで聞こうと思っていたのですが、貴女と彼は麻帆良に来る前に敵対していた……というのは本当ですか?」

 少しばかり申し訳なさそうに尋ねてくる真名に対して、プレシアは二週間前を思い出す。
 士郎と戦って敗北し、この世界へとやってきた頃――それが遠い昔のように思えてしまい、思わず笑みを浮かべてしまった。

「ええ、事実よ。彼と私は敵対していた――というより、彼の領分を侵そうとした私は、彼にとって排除するべき存在だったのでしょうね」
「……どうにも、今のプレシア殿と衛宮殿を見ていると想像するのが難しいでござるよ」
「事実は事実よ。私は自身の目的を邪魔しようとした彼を外敵として排除しようとして、彼は自身が護ろうとしている存在を護るために私という元凶を討ちにやってきた」

 実際、彼がどうして戦いの最中に手を緩めたのかは当時にはわからなかった。
 彼は間違いなくプレシアを討つ覚悟を定めてやってきていたし、状況によっては間違いなくそんな結末を迎えていたという確信がプレシアにはあった。
 彼が何を考え、何を思ってプレシアを救い上げようとしたのか――。
 その理由と理念――メルルから聞いた彼の過去や彼と日常を過ごす中で彼自身の言動や態度からそれらを窺い知ることが出来たことが、今のプレシアには嬉しく感じられていた。

「私を止めてくれた士郎と、私がそう思えるだけの時間を与えてくれたメルルには感謝してもしきれない。だから、今後どんなことがあっても、私が彼らと敵対するような事はないでしょうね」
「……そうですか。お話してくださったことに感謝します」
「気にしなくていいわ。士郎たちはともかくとして、私がこの麻帆良へやってくる事は恐らくもうないでしょうしね」

 メルルが研究している世界を移動するための道具――。
 それが完成すれば、メルルは多少の制約を受けながらも数多に存在する世界を行き来できるようになるだろう。
 それが何年後の事になるのかは推察する事しかできないが、プレシアには世界を渡る研究や他の研究に関しても協力してほしいと――有り体に言えばパートナーとなってほしいとメルルから打診をされている。
 魔法使いとしてではなく、一人の研究者として――そして、こうして共に過ごした友人として誘われた時、プレシアが抱いたのは純粋な感謝の気持ちだった。
 喜んで協力させてもらうと――けれど、そう返した口で、自身がこれから背負っていかなければならないことを投げ出すことは出来ないからと伝えた。
 メルルはそんなプレシアの言葉に優しく同意してくれた後、世界を旅することに誘うのは諦めると告げてくれたのだ。
 元の世界で為すべき事や向き合わなければならないことから逃げ出すことをしないという決意。それを後押ししてくれたメルルや、見守ってくれている士郎の信頼に応えるために――。

「帰った場所で、私は私の罪と向き合っていかなければならない。受け入れられても受け入れられなくてもその決意だけは変わらないし、変えるつもりもないから――」

 ――だからこそ、プレシアはこれからの生涯を過ごすべき世界で過ごしていく決意を固めている。
 けれど、もし……もしも、いつか彼女たちの旅路に同行することを自分自身で許せる時が来たのなら…それはどれだけ――。

「――そんなわけだから、もし彼らがまたここに来た時にはよろしくしてあげてね」

 本心からそう告げると、二人は僅かに背筋を伸ばしてから、真っ直ぐに向けたプレシアの視線を外す事なく頷いてくれた。
 そんな二人の姿を眺めた後、三人揃って庭へと視線を向ける。
 鍛錬に励む刹那と士郎の姿を眺めながら、プレシアは定めた覚悟を胸に暖かなこの日常との別れを静かに済ませるのだった。
 
 

 
後書き
第三十話です。 

 

Episode 31 -悪の矜持-

 
前書き
本編三十一話です。
 

 

「――これまでお世話になりました」

 朝の喧噪からは遠く離れた武家屋敷――その門前にて士郎に対して頭を下げて告げたのは、早朝から共に訓練に励んだ桜咲刹那だ。
 そんな彼女の両隣には同じく早朝からやってきていた龍宮真名と長瀬楓の二人がいつも通りの様子で立っている。

「それはこちらも同じだよ。君たちには色々と世話になった」
「いえ、それは私の言葉です。衛宮さんと共に鍛錬に打ち込めたこの二週間は、私にとって掛け替えのないものです」
「恐縮するばかりだが……その信頼を失わぬようにこれからも精進していく事を君に誓おう。いつかまた、機会があれば手合わせをしてやってくれ」
「はい!!」

 はっきりと大きな声で返答する刹那に頷きで返してから視線をすぐ隣へ。
 目と目が合ったことに気付いた彼女――真名は、少しばかり表情を崩してから口を開いた。

「またここに来ることがあったら声をかけてくれ。まだ後数年はこの学園で過ごしているだろうしね」

 学園都市である麻帆良では幼稚園から大学まで揃っており、中学生である彼女たちは長ければ後八年以上はここで過ごしていく。
 それだけの時間があれば訪ねてこれるだろう――と、そんな意味を含んでいるのは、それなりに士郎たちの事情を知っているからこそだ。

「そうだな。今度は事故ではなく、自分の意思でここを訪ねてこよう。とはいえ、すぐにというわけにはいかないのだろうがな…」
「なに、気長に待つよ。最悪、この学園を卒業した後でも構わないんだ。それはそれで楽しそうだからね」
「保証はできないが、忘れられる前に会えるように祈っておこう」

 世界を移動するための道具はメルルにしか用意できない。
 そんな彼女を急かして完成を急がせる――などという事は出来るはずもない。
 少なく見積もっても数年はかかるというプレシアとメルルの言葉を思い出しながら、いつかは会えるという確信を込めて頷いて見せる。

「次に会える時を楽しみにしているでござる。衛宮殿――もし訪ねてこられたなら、今度は拙者の修行にも付き合ってほしいでござるよ」
「ああ、その時はよろしく頼む」

 普段よりも僅かばかり真剣な表情を浮かべて告げる楓の言葉に頷きで応える。
 刹那もそうだが、楓は特に修行というものを日常的に行っている。
 どうみても忍者かそれに類する流派なのだが、そんな彼女が週末などに自主的に行っている修行とやらに付き合うことができなかったのは小さな心残りと言える。

「承知したでござる。とっておきの修行を考えておくので、楽しみにしていてほしいでござるよ」

 最後に僅かばかり真剣な表情を緩めながら告げた楓の言葉に頷きを返す。
 そうして――改めて正面に立つ三人の姿を流し見てからゆっくりと頭を下げた。

「これまでありがとう。君たちと再び会える日を楽しみにしている」

 言の葉にありったけの感謝を込めて告げると三人は揃って頭を下げて去っていった。
 彼女たちと過ごした時間は決して長いものではないが、"この世界"においては最も交流を重ねてきた。
 そんな彼女たちとの別れを僅かばかり惜しんでしまうのは無理からぬ事で、士郎は気持ちを切り替えるように小さく溜息を零した。

「――さて、そろそろ向かうとするか」

 既に片付けを終えて私物が取り払われた武家屋敷へと振り返り、最後の戸締まりを済ませる。
 メルルとプレシアはそれぞれ挨拶をしたい相手、行きたい場所があるということで、朝食後にそれぞれ身支度を済ませてから家を後にしている。
 合流は近衛近右衛門の待っている学園長室――。
 そこで集合し、最後の挨拶を済ませた後に学園を後にして世界を移動する予定だ。
 名残惜しく思える程度には楽しく過ごせた二週間を胸に刻み、家に背を向けて歩き出す。
 向かう先――歩いて行く先に見知った姿を見つけた士郎は、ゆっくりと歩を進めながらやり残していた事を思い出して気を引き締めるのだった。


 -Interlude-


 先日には確かに店のあったその広場で彼女――プレシア・テスタロッサは一人の女性と顔を合わせていた。

「――士郎とは、もう挨拶は済ませたの?」

 告げて、僅かに寂しそうな笑みを浮かべて頷いたのは那波千鶴だ。
 傍目に士郎と特に仲が良さそうに見えた彼女が店の跡地で佇んでいる姿は、どこか普段よりも大人びた気配を纏っていたのだが――。

「ええ、昨日の内に――プレシアさんは、大河内さんや綾瀬さんたちとはもう?」
「挨拶は済ませているわ。アキラちゃんや夕映ちゃん――知り合った人たち全員とね」

 千鶴のクラスメイトである大河内アキラや綾瀬夕映…彼女たちの友人一同とはいつかの貸し切り状態になった時に会話を交わしている。
 こうした交流は、プレシアがこれまで生きてきた五十年以上という決して短くない人生の中でも経験したことがなかったものだ。

「プレシアさんがいなくなると知って、みんな寂しそうでしたから」
「別れというのはいつでも寂しいものよ。それが親しければ親しいほど…ね」

 アリシアの事を思い出しながら告げると、千鶴は少しばかり心配そうな視線を向けてきた。
 声音が強ばっていたのか、或いは雰囲気が変わったせいか――いずれにしても、二回り以上も年下の少女に見せる姿ではないだろうと咳払いをする。

「出会いがあれば別れもある。それくらいに思って、その時その時を楽しく過ごすのが賢いのかもしれないわね」
「そうですね。ですが、やっぱり寂しく思うのは仕方ないみたいです。わかっていたはずなんですけどね…」
「そうね。確かに――寂しくないといったら嘘になるわね」

 千鶴の言葉を耳にしたプレシアは、自身のこれからを思いながら同意の言葉を返す。
 約束された離別――けれど、それを憂慮できるだけの余裕と時間を得ることが出来た奇跡にプレシアは感謝していた。
 同時に、士郎やメルルと共に過ごす時間を失う事を寂しく思うのは当然のことだとプレシアは静かに心情を吐露するのだった。

「どうかお元気で。士郎さんやプレシアさん、メルルさんとまたお会いできる時を楽しみにしています」

 惑いなく告げられた言葉には、親しい人との別れを惜しむ寂しさが込められていた。
 士郎が最も気に掛けていた少女――。
 人の世の裏側を知らず、どこまでも"普通"の日常を過ごしている彼女だが、瀕死の士郎を迷うことなく救ってくれたのも彼女だった。
 どのようなやり取りをしてきたのかはわからないが、士郎が彼女を好ましく思っている理由は恐らく、その在り方なのだろうとプレシアは見ていた。
 彼女――那波千鶴は、例え士郎がどのような存在であろうと自然と受け入れ、その上で日常を生きていける人なのだ。

「私は少し難しいかもしれないけど……士郎やメルルは近いうちに遊びに来るかも知れないわね」

 可能性の話を口にすると、千鶴は微笑みながら瞼を閉じて小さく頷いた。
 まるで自分に何かを言い聞かせるように二度、三度と小さく頷いた彼女は目を開いて真っ直ぐに視線を向けてくる。

「――それでは、私はこれで失礼しますね」
「ええ、気をつけてね」
「はい、プレシアさんもお気をつけて」

 まるで明日には再び顔を合わせるような軽い挨拶を交わしてから、千鶴はこの場を後にした。
 軽い足取りで立ち去っていった彼女の背には、この場所で最初に見かけた時に感じられた大人びた気配は微塵も残っていなかった。

「……さて――私もそろそろ行かないと約束の時間に遅れてしまうわね」

 合流場所は近衛学園長の待つ学園長室――。
 そこでメルルや士郎と合流し、最後の挨拶をすませてから元の世界へと戻る手筈となっている。
 覚悟はこの胸に――数時間後には訪れるだろうその瞬間を想いながら、プレシアは戻るべき場所へ戻るために歩を進めるのだった。


 -Interlude-


「――そうですか。では、上手くいけばまた近いうちにお会いできるかもしれないですね」

 人気のない森の中――嬉しそうな声音で告げたタカミチは、ポケットから煙草を取り出そうとしてすぐに手を止めてしまう。
 そんな彼の姿を眺めていたメルルは小さく笑いながら、その手に持つモノをタカミチへと差し出した。

「頼まれていたモノだよ。効果の程はシロウが保証してくれるって」
「ありがとうございます、メルル」

 差し出したのは小さな小瓶と、以前に士郎に頼まれて作成した二つのバンドと首飾りがセットになった拘束具――。
 刻み込んだ紋様を外す度に身体へ負荷を掛け、同時に装着者の成長を促していく効果を秘めたメルル特製のアイテムである。

「仕様はシロウに渡した物と同じだし、使い方はもう説明したからわかるよね。紋様は一度外すと戻せなくなるから、無理のない範囲で使ってね」
「……ちなみに彼は――士郎は、これを幾つ外しているんですか?」

 少しばかり神妙な様子で尋ねてくるタカミチの言葉にメルルは首を傾げながら思い出していく。
 この世界で過ごし始めて一週間と少しが過ぎた頃――丁度タカミチがメルルの元に頼み事をするために訪れる少し前に士郎からも相談を受けたのだ。
 曰く、このアイテムの強化版を用意してくれないか…というもので、以前に渡したモノを見せてくれたのだが――。

「――全部外してたよ。魔術も"気"も使っていないって言ってたけど、確かに全部の紋様を外した状態で使っていたみたいだね」
「そう…ですか。やっぱり、まだまだ彼の背中は遠いみたいですね」

 どこか嬉しそうにそんな言葉を呟くタカミチは、まるで大好きなおもちゃを手に入れた子供のように嬉しそうだった。
 タカミチが士郎の背中を追いかけようとしているのは、傍目に見ていたメルルにもわかっている。
 士郎はタカミチと力比べをすれば自分が負けると言っていたけれど、"戦い"となれば話は別だとも言っていた。
 タカミチも自分が士郎と戦って勝てるつもりはないみたいで、結局二人は一度も手合わせの類を行う事なく今日という日を迎えているのだが――。

「――くれぐれも無理はしないようにね。ああ見えてシロウは身体が特別に頑丈だから出来ているだけで、普通はあんな短い期間で限界値を上げていくと身体を壊すんだから」
「肝に銘じます。それに"この薬"に関しても――」
「本当は誰にでもあげるモノじゃないんだけど、タカミチの熱意に負けたってところかな。効果の程は今のシロウとプレシアで実証済みだから、安心して使ってね」

 さじ加減でどの程度まで年齢を若返らせるかを調整できる代わりに、永続性を失った不死の薬――。
 タカミチが大事そうに持っている小瓶の中には、以前に士郎やプレシアに使用した特製の若返り薬が入っている。

「ありがとうございます。元々無茶をして余分に年を取っていたので、これから行おうと思っている修行をすると老けている――では済まなくなりそうで」
「タカミチはまだ三十くらいだったよね。それにしては老けてるなって思ってたけど、やっぱり何かしてたんだね」
「ええ、エヴァに協力してもらって少し――今日も、これからあなたたちが帰った後に協力してもらうつもりなんですよ。とはいっても、場所を提供してもらうだけですけどね」

 恐らくは時間を操作した場所――或いは空間で修行を行うつもりなのだろう。
 肉体の老いを代償に多くの時間を過ごすことのできる場所で修行を行えば、確かに成長は"早い"だろうが――。

「――それでは、僕はこれで失礼します。また次に麻帆良へやってきた時には声を掛けてください」
「うん、頼りにさせてもらうね。タカミチも元気で――もし機会があるのなら、詠春やジャックにもよろしく言っておいてね」
「詠春さんは少し難しいかもしれませんが……お会いできる機会があれば必ず。それではこれで――」

 告げて一度頭を下げて礼をしたタカミチは、そのまま振り返り森の外へと歩いていった。
 程なく車が走り出すような音が耳に届いた事を確認したメルルは、そっと息を吐いて木々の隙間から覗く青空を見上げた。

「……うん、こういうのも悪くはないよね」

 子供だと思っていた人物が大人となり、かつては見上げるだけだったモノを追って真っ直ぐに歩んでいく姿は見ていて気持ちがいい。
 遠く霞んだ記憶の向こう側――錬金術士になると決意して歩き始めたかつての自身を思い出しながら、メルルはもう一度大きく息を吐いた。

「――トトリ先生」

 自身に錬金術を教えてくれた、かけがえのない恩師――。
 その名――その呼び方を言の葉に乗せるだけで懐かしさと寂しさ……教わった大切な事が脳裏を過ぎっていく。
 今の自分は、あの頃の彼女に誇れる錬金術士になれているのだろうか――。
 そんな想いを抱きながら、メルルは見上げていた視線を下ろしてからゆっくりと歩き出す。
 目指す先は学園長室――士郎やプレシアが待つ約束の場所へ向けて、メルルはいつもと同じく真っ直ぐに視線を向けて歩を進めるのだった。


 -Interlude-


「――それで、今日はわざわざ見送りに来てくれたのか?」

 喧噪は遙か遠く、見渡す限りに人の気配は存在していない。
 湖畔に伸びる街道を共に歩く男――衛宮士郎からの言葉に、エヴァは少しばかり口の端を歪めて見せた。

「その通りだが、何か問題でもあったか?」
「いや、問題は無い。ただ、普段の君からすれば珍しいと思えてな」

 笑みを浮かべながら口にした士郎の疑問はもっともだろう。
 珍しい事をしているという自覚はエヴァ本人にも確かにあったからだ。

「貴様は、元の世界に戻ったらどうするつもりなのだ?」
「うん? ここ最近はよくその質問をされるな。そんなに俺はおかしな事をするように見えるのか?」
「馬鹿者。それは貴様を心配している者たちが貴様を案じて告げた言葉だろうさ」

 恐らくはプレシアや刹那辺りから聞かれたのだろうと想像して溜息を零す。
 確固たる信念と想いを抱いて歩いていく男――。
 自身の道を決めかねている者ほど士郎の生き様は眩しく、同時に不安を感じるのだろう。
 特異な道を歩く者たちの往く道を照らしてくれる士郎だが、周囲が抱く不安は当の本人が歩んでいる道が見えてこないために生じるものに他ならない。

「私のこれは純粋な興味だ。貴様のような男が、この先も平穏な日常に浸っていけると――本気で思っているのかとな」
「難しい事を言うものだな。平穏な日常というのはつまるところ変化や変動の合間に訪れる休息だ。長続きしないからこそ、それは貴重で大切なものになる――そうだろう?」

 まるで当然の事のように答える男の姿に一瞬だけ呆気に取られて、こみ上げてきた笑いを堪える事もせずに声を上げた。
 衛宮士郎という男は自身よりも遙かに年若き男だが、その精神は紛れもなく完熟している。
 だというのに些細な事で一喜一憂し、あたかも"普通の人間"のように振る舞うこの男は、争いも平穏も共に日常だと笑顔を浮かべて宣言して見せたのだ。

「――いや、久しぶりに本気で笑ってしまったな。やはり貴様は変わった男だ」

 ひとしきり笑った後、呼吸を整えて零したのは虚飾のない本音だった。
 そんな言葉をどのように受け取ったのか――士郎は僅かばかり困ったように笑みを浮かべて口を開いた。

「君ほどではないと思うがな。それよりも、少し真面目な話があるのだが……聞いてくれるか?」

 足を止めて、それまでとは異なる張り詰めた空気を身に纏って告げる士郎――。
 その姿にエヴァは同じく足を止めて、どこか緊張しているような面持ちの士郎へと真っ直ぐに視線を向けた。

「君は俺のこれからを聞いてきたが、それはこちらも同じだ。エヴァ――君は、これからどうするつもりなんだ?」

 その言葉は、もう何年も前に考える事を放棄しようとしたものだった。
 未来を語るその言葉に対する答えはかつて光と出会い、封印されてから数年の間は真剣に考えていた。
 だが、その光を失ったと知った日から始まった終わりの見えない日々の中で希望は絶望へと変わり、やがて失望と諦めへと変わっていった。
 その答えを再び考えるようになったのはいつからだったか――。
 切っ掛けを与えてくれた男からの問いかけに、エヴァは暫く自身の内に問いかけて答えを探っていく。

「――そう…だな。貴様やメルルのような存在がいるとわかった以上、やはり呪いを解いて自由になりたいと思う。容易い道ではないだろうが、その価値はあると思わせてくれたお前たちには感謝しよう」

 膨大な魔力で強引に施された登校地獄という呪い――。
 "あの男"がなんのつもりでこのような呪いを施してまで自身を生かしたのかはエヴァにはわからない。
 その答えを知る男は既に故人となり、答えを聞こうにも当の本人がいないのでは永劫に聞くことは叶わないだろう。
 士郎たちはエヴァにとって、もう二度とは出会えないと思っていた光そのものだ――。
 未来へと続く光を垣間見せてくれた男たちのように生きてみたいという想いは、胸の奥で確かに芽生えているのだから――。
 
「――そうか。なら、ここからが本題だ」

 告げる士郎の声音は先程までよりも更に真剣味を帯びていた。

「――――I am the bone of my sword.(体は剣で出来ている)

 紡がれた言葉は出会った際に聞いた士郎の呪文――。
 彼が保有するという数多の武器を呼び出すための言霊だった。
 一瞬の後に士郎の手に現れたのは、どこか歪な形状をした短刀――その柄に手を添えて刀身をこちらへと向けた士郎はゆっくりと言葉を紡いでいく。

「――これは破戒すべき全ての符(ルールブレイカー)。かつて裏切りの魔女と呼ばれた女性の伝説が具現化されたもので、この刀身で対象を突くことであらゆる魔術を初期化する特性を持つ宝具だ」
「……あらゆる魔術を初期化する……ということは、私に掛けられた呪いも魔法――貴様が言うところの魔術で施されたものである以上、初期化する事が出来るというのか?」

 嘘や冗談の類でこのような事を口にする男でない事は当に知っている。
 つまり、この短剣を使用すれば十数年間も自身を縛り付けていた鎖を断ちきれるという事だ。
 そんな単純な解答に思い至り、エヴァは思わず声を上げようとして――表情を崩すことなく自身を見据える士郎の視線に気付いた。

「なにか、問題があるのか?」
「恐らくは……な。これによって破戒される魔術を俺が選ぶ事は出来ないんだ。つまり――これを使用することで、君が保有しているあらゆる魔術的現象や契約は問答無用で初期化されて失われる……ということだ」
「――なるほど。つまり私と茶々丸の契約や、家に仕舞い込んでいる人形や従者との契約も消えると……そういうことか?」

 茶々丸や、以前から行動を共にしていた人形などとは特殊な契約によって繋がっている。
 茶々丸は科学と魔法による存在であるため、契約は単純に主従を決めるだけのものに過ぎないが、他の人形は文字通り契約によって命を吹き込んだモノだ。
 その契約が初期化されるということはすなわち――それらを全て失ってしまうということに他ならない。

「そうだな。だが、それだけでは済まないだろうと思っている。君は言っていたな――かつて、人として過ごしていた頃に吸血鬼にされたのだ……と」
「ああ、既に失われた秘伝を用いて――なるほど、貴様が危惧しているのは"ソレ"か……」

 士郎がこの短刀の存在を軽々しく口にしなかった理由――それは単純明快なものだったのだ。

「――使えば、恐らく魔法によって生み出された真祖の吸血鬼であるエヴァンジェリンは消滅する。或いは――吸血鬼としての身体を失い、元の小娘に戻ってしまうということか」
「そういうことだ。確証はないが可能性は高いと思っている。最低でも君が保有する呪いや契約を断ち切り、最悪の場合は君という存在そのものを消し去ってしまう。仮にそうでなかったとしても、吸血鬼としての肉体を失う事になるかもしれない」

 言えるのはそれだけだ――と、告げた士郎は口を閉ざしてエヴァを見据えてくる。
 ――条件は出揃っている。
 選択に代償が必要となるのは当たり前の事――故に、士郎は視線で問いかけてくるのだ。
 お前はどの道を選ぶのか――どんな選択を選ぶのか……と。
 退屈だったとはいえ、これまでの人生では味わう事のなかった平穏な日常か、それとも共に過ごす従者たちとの関係か。
 或いは――長き人生に終止符を打つ事を覚悟して呪いを解く事を選ぶのか。
 だがその場合、上手くいったとしても人としての人生を歩んでいくことを覚悟しなければならないのだが――。
 
「――愚問だな。事ここに至って悩むことなど有り得ぬ選択肢だ」

 もとより自身の心が赴くままに生きてきた。
 それが痛みを伴うものであろうと、そうでなかろうと関係はない。

「もとよりいつ果てるとも知れぬ身だ。例えこの選択の果てに自身が消滅しようと、吸血鬼としての肉体を失おうと――私がエヴァンジェリン・A・K・マクダウェルである事に変わりはない」

 謳うように紡いだ言葉を確かに聞き届けてくれたのか――。
 士郎は柔らかな笑みと確かな覚悟を秘めた目を向けたまま、ゆっくりと短刀を持ち上げた。
 その目前へと歩を進めながら思い返す日々は暗く憂鬱で、けれど誇り高く他者へと語る事ができる。
 自身のために他者を踏みつけてきたこれまでの過去――。
 存在することさえ否定してくる数多の声を振り払い、ただ己が負った業を糧に更なる罪を重ねて生きてきた。
 その傲慢ともいえる生き方に後悔はなく、そしてまた悪であるのならいつでも自身が同じ側――他者に踏みつけられる立場になるのだと覚悟して生きてきた。
 それこそがエヴァンジェリン・A・K・マクダウェルをエヴァンジェリン・A・K・マクダウェルとして生かしてきた悪の矜持であり、唯一の誇りに他ならない。
 仮に危惧した通りの事態が発生して吸血鬼でなくなったとしても、"それ"を失う事さえしないのなら、例えどのような存在となろうともこれまでの道程を誇る事は出来るのだから――。

「――やってくれ、士郎」

 決意を込めた言葉に士郎は小さく、けれど力強くハッキリと頷いた。
 その手に持つ短刀の刃先が自身の胸元へと向かって突き出される光景を見届ける。
 浅く、けれど確かに突き立てられた破戒の刃――。
 それは思いの外あっさりと、けれど確かな感触と衝撃を以てエヴァンジェリン・A・K・マクダウェルという吸血鬼をこの世から消滅させたのだった。
 

 

Episode 32 -旅立ちの日-

 
前書き
第三十二話です。

 

 


「――なるほど。奇妙な感覚だが、確かに変化が感じられるな」

 突き立てた刃を引き抜いた先――先程まで自身の胸に突き立てられていたそれを眺めながら、エヴァはぼんやりとした様子で呟いた。

「エヴァ――それでは、やはり……」
「さて、どうだろうな。違和感を感じるとはいえ、"どうなっているのか"は流石に自分自身でもわからんが……」

 告げながら、彼女は自身の指を噛んで傷をつけた。
 小さな傷とはいえ、それなりに深い傷からは赤い血が静かに零れ始める。
 待つこと数秒――流れていた血は止まり、指先に刻まれた傷口は次第に薄くなって消えてしまった。

「……ふむ。士郎――少しだけ、貴様の血を吸わせてもらってもいいか? 血を数滴垂らしてくれればいい」
「…了解した」

 同意すると同時に自身の指先に傷をつけて血を流す。
 緩やかに流れるそれを眺めていたエヴァは、微かに驚いた様子で流れる血を見つめてからゆっくりと指先を口に含んでしまった。

「……鉄の味しかせんな」
「普通はそうだと思うが……以前とは感触が違うということか?」
「ああ。少なくとも、以前に貴様と遭遇した際に摂取した貴様の血は極上の美酒とも言える味がした」

 血の味を美味しいと感じられない――。
 それがどれほどの違和感なのかは、吸血鬼ではない士郎には想像するしか出来ない。
 六百年もの年月を吸血鬼として過ごしてきたエヴァにとって、それは思いの外大きな違和感なのだろう。

「……魔力は戻らず、契約の繋がりと呪いは消え失せた。身体の違和感を考えれば――」

 それだけを告げて、エヴァは静かに目を閉じてしまった。
 色々と考えを纏めようとしているのか、彼女が静かに瞑目してから数分が過ぎてしまう。
 そうして――目を開けたエヴァの表情は晴れ晴れとしながらも、どこか寂しさを感じさせる気配をその身に纏っていた。

「どちらにしても、"コレ"では吸血鬼の真祖――などとは口が裂けても宣言は出来んか……」

 自重するような呟きは空に向けて――誰に告げるでもなく、自身に言い聞かせるように発せられた。
 
「どうやら、この身は貴様が危惧していた通り、全うな吸血鬼ではなくなったらしい。もっとも、全うな人間の身体であるかどうかは疑問だがな」
「俺には君が変わったようには感じられないが――なるほど、つまり"それこそ"がおかしいということか?」

 恐らく――破戒すべき全ての符(ルールブレイカー)は危惧していた通りの効果を発揮したのだろう。
 エヴァンジェリン・A・K・マクダウェルという吸血鬼が抱える呪いや契約だけではなく、その身体そのものに対しても――。
 封印状態にあった彼女は、満月の夜でなければ人間と同じような状態となる。
 その身に纏う気配も当然のように人としてのものだったのだが、封印が解けてその気配に変化がない――ということこそ彼女の肉体が変化した証だろう。
 元々彼女が真祖の吸血鬼となった方法そのものが判然としない以上、どのように効果が作用したのかはわからない。
 だが、エヴァの主観を交えた推測としては吸血鬼の成りそこない――不完全な不老不死を保有した人間寄りの存在になった……というのが最有力だった。

「エヴァ――」
「下手な同情はしてくれるなよ、士郎。私は私自身で決断を下し、この結果を得たのだ。それを嘆くも受け入れるも私自身のものだ。そうだろう?」

 堂々と告げる彼女の姿は見た目の少女然とした姿からは想像もできないほど大人びていた。
 元より消滅することさえ覚悟の上で望んだ事――選択することで得た結果は全て背負うのだと彼女は笑みを浮かべる。

「それに――望む結果は得られたのだ。悲観することでもないだろう?」

 彼女を縛っていた呪いは完全に消え失せている。
 学園全域に張られている結界は未だに彼女の身を封じようとしているという――。
 だが、それとは別の要因――自身の内に起きている変化を彼女は自覚していた。

「問題があるとすれば、どういう影響があったのかはわからんが…魔力が"失われている"。魔力容量の問題のようだから魔法が使えない――というわけではないが、これでは封印されていた時と大差はないな」

 それが破戒すべき全ての符(ルールブレイカー)による影響であることは間違いないのだろう。
 本人曰く――吸血鬼になるまで魔法に触れたことはなかったとのことで、その辺りも関係しているのだろうという結論に落ち着いた。
 長い年月を掛けて身につけた魔力が事実上失われた事をエヴァが嘆いているかといえば、そんなことは全くなく――。
 "魔法そのもの"が使用できないわけではないのだから、また時間を掛けて魔力を取り戻していくと彼女は楽しそうに告げるのだった。

「――なんにしても……だ。貴様には感謝することしかできん。この日が来ることをどれだけ望んでいたか――」

 告げながらも寂しそうに見えるのは気のせい――というわけではないのだろう。
 彼女が自身に掛けられていた呪いをどのように捉えていたのかはわからないが、そこに特別な想いを抱いていた事は間違いない。
 解けた事が嬉しいというのは事実なのだろうが、思うところがあるのもまた事実なのだろう。

「……改めて質問させてくれ、エヴァ。君はこれからどうするつもりだ?」
「さて、呪いが解けたならこのまま学園で過ごすつもりはなかったが、今の状態で学園の外に出るのは得策とも思えんからな…」
「君の名はこの世界では有名なのだったな。麻帆良の外で君の生存は殆ど知られていないと耳に挟んだが、一度知れ渡れば賞金稼ぎの類は必ず訪れるだろう」

 裏の世界では元々六百万ドルの懸賞金を掛けられていた彼女だ。生きていたと世間に知れ渡れば再び懸賞金も掛け直されるだろうし、そうなれば彼女を狙う輩は幾らでも現れるだろう。
 最強最悪の魔法使い――だが、その実情を知る者は少なく、それをただの噂…あるいは伝説に過ぎないと見なす者は必ず存在する。
 このような状態でなければ彼女も憂慮することはしなかっただろうが、彼女の知名度の高さは現状において間違いなくマイナスにしかならない。

「別に学園の外に限った話ではないが――ふむ…簡単な解決方法を思いついたぞ、士郎」

 にやり――と、そんな擬音が聞こえてくるような笑みを浮かべて告げる。
 なんとなく彼女が思いついたことに思い至った士郎は、それもまた悪くないと小さく笑みを零すのだった。


 -Interlude-


「――それにしても、思った以上に早く過ぎた二週間じゃったのう」

 学園長室の椅子に腰掛けたまま、机を挟んで視線を交わしていた近衛近右衛門の言葉に士郎は同意するように頷く。
 そんな士郎の隣に立つ彼女――メルルは、士郎を挟んで反対側に立つプレシアが同意するように小さく頷きを返していた姿を見逃さなかった。

「近衛翁には何から何まで随分と世話になった。……とはいえ、殆ど毎夜呼び出されていた事を思えば等価と言えるかもしれないがな」
「おかげさまで随分と助かったぞい。衛宮君を重用した事で他の若手もやる気を出してくれたようじゃしな」
「都合よく利用してくれたのならそれで構わない。こちらも思い残すことなくここを去る事が出来るからな」

 士郎からの返答に対し、つれないのう…などと呟いている近右衛門の姿に溜息を零す。
 老獪という言葉がこれほど似合う人物もそうはいないだろうが、問題があるとすればそこに悪意よりも善意が多分に含まれていることだろう。
 感謝したいのに素直に感謝できない――そんなジレンマを他者に抱かせる事を生き甲斐としているかのようで、彼の部下たちの苦労がメルルにさえ容易く想像できてしまった。

「それにしても……一体どのような手段を使ったのかは聞かんが、本当に良いのかの?」
「もちろんだ。こちらとしても処置を施してそれまで――というのは少し寂しく思っていたところだからな」

 言葉を交わす二人が視線を向ける先へと振り返った。
 メルルたちの背後――学園長室の入り口から少しばかり離れたその場所に全員が視線を向ける。
 そこには旅支度を終えたエヴァと、そんな彼女が床に転がした荷物の最終点検をしている茶々丸の姿があった。

「――マスター。歯ブラシとコップはこちらに入れておきましたのでご確認を」
「ご苦労――じゃない! そんなものは向こうでも手に入るわ!! 細々とした雑貨をこれ以上増やしてどうする!!」

 士郎がエヴァに対して使用した"宝具"は彼女を縛っていた呪いや保有していた契約を断ち切り、その肉体に強い影響を齎した。
 その辺りのやり取りなどは詳しく聞いていないが、結果として真祖の吸血鬼とは断言出来る状態ではなくなり、敢えて表現するなら不完全な不死を得た"人間"となってしまったのだという。
 とはいえ、彼女自身はそれまでの彼女と何ら変わることなく、今も断ち切れた契約を新たに結び直した茶々丸と漫才を繰り広げている――というわけである。

「――まったく……いいか、茶々丸。貴様は私の従者だが、同時に確かな自意識を持つ一個体でもある。そんなお前を信頼して、私が留守の間は家を任せるぞ」
「お任せください、マスター。お戻りになるまで、家の留守を確かにお守りする事を誓います」
「大仰な奴だな。まあ、貴様らしいといえば貴様らしいか……む? なんだ、貴様ら。何を物珍しそうな目をしてこっちを見ている?」

 じろりと睨み付けてくる視線に士郎とプレシア、近右衛門は露骨に視線を逸らした。
 その横顔に笑みが浮かんで見えるのは、彼女の事をそれなりに近しく思う者たちだからだろう。

「そうしているとあなたも見た目相応の女の子にしか見えないからじゃない?」
「ふん、放っておけ。自分でも理解できるくらいに浮かれているのはわかっているさ」

 嬉しそうに告げるエヴァの姿に思わず笑みを浮かべてしまうのは仕方がないだろう。
 彼女が士郎との相談の末に世界移動に同行すると告げたのは十数分前――。
 もちろんメルルたちがエヴァの同行を拒否する理由はなく、彼女の現状と希望を学園長である近右衛門に説明したのが数分前――。
 当初は驚いていた近右衛門だったが、すぐに気を取り直してエヴァの同行に伴う手続きを行ってくれた。
 元々海外留学という名目で麻帆良学園中等部に属していたエヴァは簡単な転校手続きで学園を去ることが出来るらしい。
 その話を聞いた士郎は急な話でクラスメイトたちに別れを告げる事が出来ないのでは……と危惧していた。
 けれど、エヴァ本人が構わないという以上は口を出すべきではないと判断したのか……それ以上は士郎も何も言わなかった。

「――問題は魔法関係者への報告じゃが……さて、どうしたものかのぅ」
「別にありのままを報告すればいいんじゃない?」

 悩みを口にする近右衛門に対し、メルルは事も無げにそんな返事を返す。
 どういう事かと周囲の視線が集まったことを確認したメルルは、満面の笑みを浮かべてその答えを口にした。

「――衛宮士郎とその同行者たちによって"真祖の吸血鬼"、エヴァンジェリン・A・K・マクダウェルはこの世から消え去った……てね」
「「「「「――なるほど」」」」」

 告げた言葉に全員が納得したように声を揃える。
 "吸血鬼"という要素を完全とはいえないまでも排除したのは事実なのだから、わざわざ理由をねつ造する必要もない。
 そのうえ世界移動についてくる以上、間違いなく"この世界"から彼女は消えてしまうのだから嘘ですらない。
 問題はそれをどのようにして成し遂げたのか――そんなモノは、わざわざ明らかにするまでもなく根も葉もない噂となり果てるのが人の世だ。
 聞けば、麻帆良学園内に真祖の吸血鬼が封印されているという事実さえ世間一般――裏の世界の――では知られていないらしい。
 メルルが提示した言葉はエヴァンジェリン・A・K・マクダウェルの存在を知る麻帆良の魔法使いたちを納得させるだけの効力を持てばいいのだから――。

「――では、これで手続きは完了じゃの。気が向いたらいつでも戻ってきてよいぞ。その時には……まあ、本当の事を伝えなければならんじゃろうがな」
「ふん、気が向いたらな。当分は貴様の顔も見たくはないし、せいぜい羽を伸ばさせてもらうさ。まあ、特に身の振り方を決めているわけではないがな」

 楽しげに告げるエヴァの言葉に、近右衛門は少しばかり困った様子を見せていた。
 向こうの世界へ渡った後の身の振り方を特に決めていないというエヴァの言葉に少しばかり老婆心が働いているのだろう。

「――それでは、これで失礼するとしよう」

 粗方の挨拶を終えた事を確認した士郎が落ち着いた声音で告げる。
 それを耳にした近右衛門は長く伸びている顎髭に手を当てて、いつものように奇妙な笑い声を零した。

「ふぉふぉ……また会える日を楽しみにしておるよ。どうか、エヴァンジェリンの事をよろしく頼むぞい」

 最後にそんな言葉を口にした近右衛門に対して頭を下げて部屋を後にする。
 部屋から出てくる際――最後に退室したエヴァが近右衛門に対して軽く手を振っていたのは彼女なりのけじめなのだろう。
 なんであれ、この学園に封印されていたエヴァの身元を保証して日常の中で過ごせるように手配をしていたのは近右衛門に他ならないのだから――。


 -Interlude-


「――それにしても、本当によかったの?」

 茶々丸と別れ、校舎を後にしたエヴァは共に肩を並べて歩いていたプレシアからの言葉に視線を向けた。
 前方を歩く士郎とメルルは人目を警戒しながら、世界を移動するための下準備をしていたという場所を目指して歩を進めている。
 そんな二人の背から視線を外したエヴァは、特に隠すことでもないと口を開いて胸の内を明かした。

「元々この学園に必要以上の思い入れはないからな。懐かしく思えるようになったら、その時はメルルに協力してもらって遊びに来るさ」
「……ようやく得た自由だものね。詳しい事情は聞かなかったけど、向こうでは士郎と一緒に過ごすのでしょう?」
「ああ。もっとも、あの男も居候を頼んでそのままここに辿り着いたと言っていたからな。メルルや私が同じ家に居候できるかどうかはわからんぞ」

 士郎が約束を交わしているという少女――八神はやて。
 これから向かう世界でプレシアが起こした事件を追う最中に士郎が"帰る場所"と決めた家の家主だというのだが――。

「まあ、どうしても難しそうなら私とメルルは士郎が元々住んでいた小屋に住むつもりだがな。ところで、貴様こそ本当にいいのか?」
「良いも悪いもないわ。私は元々いた場所に戻るだけ――そこでどんな結果を迎えようと、それを受け入れるだけの覚悟はとっくに済ませているもの」

 ――プレシア・テスタロッサは元の世界で事件を起こしている。
 それがどんなものなのかは少しだけ耳にしていたが、戻れば身柄を拘束されて裁判に掛けられることは間違いないらしい。
 次元世界――並行世界とは異なるもので、次元の海を隔てた異世界で過ごしていたプレシアは、己の願いを叶えるために罪を犯してきた。
 それを後悔はしていないというが、わざわざその身柄を管理組織に預けて罪の清算をしようとするのは自分自身のためでは決してないのだろう。

「結構なことだ。せいぜい甘い裁定が下されることを祈っておいてやろう」
「ええ。よろしくお願いするわね、エヴァ」

 優しく微笑む女の姿はどこまでも強く、迷いのないものだった。
 そんなプレシアとのやり取りが聞こえていたのかいなかったのか――。
 前方を歩いていた士郎とメルルは少しだけ顔を振り向かせながら笑みを零していた。

「……ところで、一体どこまで歩いて行くつもりだ? そもそも、ここは麻帆良の敷地内だろう?」

 歩いている道はいつの間にか獣道のようになっており、ここが人里離れた山中である事を否応にも実感させる。

「もう少しいった所にゲートを仕掛けてるの。そこを潜れば完全に人の目を排除した空間に出るから、そこで移動することになるよ」
「人目に付かぬように……というのは理解できるが――む、もしや……あれが貴様の言うゲートとやらか?」

 メルルの言葉に応えながら向けた視線の先――歩く先に見えてきたのは光で構成されたようにも見える奇妙な"門"だった。
 元々は小さなものらしいが、使用者であるメルルの意思で展開されて空間を移動する"門"となり、指定された特定の場所へ一瞬で移動出来るのだという。

「錬金術によるゲートか。なかなか便利な物を所有しているじゃないか」
「こう見えても道具は結構持ち歩いてるんだよ。この鞄だって、中の空間をねじ曲げて拡張してるから見た目の数十倍は物を収納できるしね」

 事もなげに告げるメルルだが、彼女を除いた三人は顔を合わせて苦笑を浮かべるしかなかった。

「そういえば、タカミチが貴女になにか協力してもらうつもりだって言ってたけど?」
「ああ、別荘を使いたいと言っていたな。放置したまま地下に転がしているから好きに使わせてやれと茶々丸に伝えておいたから問題あるまい」

 時間と空間を隔離した特殊な場所――かつてタカミチが修行のために使用したモノと同じモノだ。
 何を思ったのかはわからなかったが、現状を超えるための修行をしたいと頭を下げに来た男の頼みを無下にするほど付き合いがないわけではない。
 士郎たちと別れた後の暇つぶしとして許可した事だが、このような状況になった以上は好きに使わせてやるのも一興だと思っただけのことでもあるのだが――。

「――さあ、それじゃいくよ。ゲートを越えた後は、そのまま世界を移動するからちゃんと皆で手を繋いでいようね」

 告げて士郎と手を繋いだメルルは残った片方の手を差し出してくる。
 同じように士郎と手を繋いだプレシアも手を差し出してきたため、エヴァは素直に二人の手を両の手に繋いで足を止めた。
 ――光で構成されていた"門"が粒子となって周囲を覆い尽くしていく。
 一瞬の後に薄暗く静寂に満ちた空間へと移動してきたエヴァたちは、直後に発生した虹色の光に包まれた。
 そうして何もかもが光に包まれた直後――エヴァは数百年を過ごしてきた世界から消え、新たな世界へと旅立つのだった。


 -Interlude-


 士郎たちが世界を移動して数時間後――学園での仕事を済ませたタカミチが訪れたその家には目的の人物がいなかった。
 その代わりに出迎えてくれたのは、自身が担任を受け持っている女子中等部のクラスに所属する絡繰茶々丸だった。

「――マスターからの伝言です。別荘は好きに使え……だそうです」
「……有難いことだけど、エヴァはどこかに出かけているのかい?」

 尋ねると、彼女は少しばかり迷うような素振りを見せてから僅かばかりの事実を口にした。

「マスターは士郎さんの帰郷に付き合う――とのことです」
「――それは……学園長はご存知なのかい?」
「はい。対外的には海外へ転校――魔法関係者には士郎さんたちによって退治された……といったニュアンスで伝えられる予定だそうです」

 およそ想像の斜め上をいくその事実に思わず閉口し、同時に如何にも士郎やメルルらしいと笑い声を零した。
 どこまでも常識外れな彼らならば――と、そんな納得をしてしまう辺り、自身も相当彼らに慣らされてきたと自覚する。

「そうか。じゃあ、エヴァに掛けられていた登校地獄は――」
「はい。士郎さんの手によって解呪されました。少々身体に影響を受けたとのことで、療養を兼ねた旅行――とマスターは仰っていました」

 かつてサウザンドマスターと呼ばれたナギ・スプリングフィールドによって施された呪い――。
 その真意はナギ本人にしかわからないことだが、彼が怨みや怒りなどといった負の感情でエヴァに呪いを掛けたわけではないことだけは理解しているつもりだ。
 実際、ナギによって施された呪いは強い縛りとなってエヴァを麻帆良の地へ封じていた。
 それが解呪されたことがよかったのか、そうでなかったのかはタカミチには判断の出来ないことだ。
 それでも、かつて麻帆良学園の中等部――現在の女子中等部とは違う共学校――で同級生だった彼女がようやく得ることの出来た自由を歓迎してあげたいと思う。

「それでは、ご案内しますので着いてきていただけますか?」
「うん、よろしくお願いするよ」

 先導するように家の奥へと入っていく茶々丸に続いて室内へ。
 地下へと続く階段を降り、煩雑な室内を歩いていくその先に備えられた扉を潜る。
 そこにはうっすらと光る魔法陣があり、その中心には大きな台座に巨大なガラス球を備えた"別荘"が埃まみれで存在していた。

「現在、別荘内部を管理している人はいません。高畑先生には恐縮ですが、その辺りを承知した上で使え――とのことです」
「了解。ありがとう、茶々丸くん」
「いえ。それでは私は猫の餌やりがあるので、これで失礼します」

 告げて頭を下げた彼女はそのまま振り返り、余韻一つ残すことなく地下を去っていった。
 そんな彼女を見送ったタカミチは、かつて同じようにこの別荘を使用した時の事を思い出しながら、そっと魔法陣の中へと足を踏み入れた。

「――懐かしいな」

 僅かな後、気づいた時には薄暗い地下ではなく、吹き抜けるような青空の下に聳える塔の頂上に立っていた。
 その光景を懐かしく思ったタカミチは、早速修行の準備に取り掛かろうと足を踏み出そうとして――ふと、遠い空の下にいる友人の事を思い出した。

「次に士郎たちが来たら、是非彼らとも顔合わせをさせてあげたいな。きっと"彼女"も士郎たちと気が合うと思うし」

 思い浮かべたのは、まだ十にも満たない少年とその幼なじみの少女と、そんな二人を見守る二人の女性だ。
 ナギ・スプリングフィールドの息子である少年と、彼を取り巻く人たち――。
 その中でも特に異彩を放つ少女――金の髪に翡翠の瞳を持つ女性の姿を脳裏に描きながら、他愛のない想像を働かせた。
 見た目は少女そのものだが、その身に纏う雰囲気や鋭い気配はよく思い返してみれば士郎と似ていると思い至り、紹介できなかった事を僅かばかり惜しく思う。

「とはいえ、彼女はイギリスから滅多に離れることはないし、今回も予定外の訪問だった士郎たちにイギリス旅行を勧めるわけにもいかなかったからな」

 きっと今も彼女は、タカミチの友人でありナギの息子である少年や、その幼なじみの少女を相手に剣を振るっているのだろう。
 縁あって知り合った友人――と断言するには少々彼女についての詳しい事情を知らないが、それでも彼女が"伝説に名を残した"英雄である事は間違いのない事実である。
 そんな彼女が士郎たちをどのように評し、士郎たちは彼女を知ってどんな反応を示すのか――。
 実現させることの叶わなかった他愛のない夢想を脳裏に描きながら、タカミチは緩みかけていた自身の意識を引き締める。
 ――目指す背中は遠く、けれど決して届かない頂ではない。
 どれだけの時間を費やしてでも、目の前に再び現れてくれた目標へと手を伸ばしてみせる。
 今はもう遠い彼らに恥じない自身で在り続けるために、タカミチは己を高めるための道を再び歩み始めるのだった。
 
 

 
後書き
※10/03 一部文章改訂 

 

Episode 33 -帰還-

 
前書き
第三十三話です。
 

 
 ――視界を埋め尽くしていた光が薄れていく。
 見えてきたのは世界を渡る前にも見ていた山中の光景――。
 だが、もう幾度も経験してきた独特の感覚から、士郎は自分たちが無事に世界を渡った事を半ば確信していた。

「――戻って……これたのかしら?」

 呟きはすぐ隣から――プレシアは、少しばかり戸惑った様子で周囲を見渡している。
 そんな彼女とは裏腹に、側に立つエヴァとメルルの二人は興味深そうに辺りを眺めていた。

「あまり代わり映えのしない光景だが……」
「世界は違っても同じ星――同じ国だからね。一応想定していた通り、元々麻帆良があった座標と同じ辺りに転移できたとおもうけど……やっぱり、もう限界だったみたいだね」

 エヴァの感想に答えながら、メルルは自身の手を眺めていた。
 そこには世界を渡るために使用したアイテムがあったはずだが、彼女の手のひらの上には既に何も残されてはいなかった。

「……とりあえず、確認はしてみなければならないだろうな」

 士郎は三人の側を離れてから仕舞っていたデバイスを取り出す。
 なのはやフェイトのデバイスとは異なり、完全に"装置"としての役割しか持たないカード型のデバイスだが、通信補助など各種の機能は使用できるためだ。

「――クロノ……クロノ……応答してくれ。こちら衛宮士郎だ」

 士郎自身が扱える念話ではクロノやなのはには繋がらないが、それが単純に距離が離れすぎているだけなのかそうでないのか――。
 そんな一抹の不安を打ち消すように通信は即座に繋がり、目前に浮かび上がった画面には数週間前に顔を合わせた男――クロノ・ハラオウンの姿が映し出された。

『――士郎!? 君は一体どこに――』
「こちらは地球――日本にいるのだが……とりあえず確認したい。君たちはいま地球にはいないのか?」

 どこか慌てた様子のクロノを落ち着かせるために努めて冷静な声で応答する。
 それを察したのか、クロノは少しばかり動きを止めた後、小さく息を吐いて気を落ち着かせていた。

『アースラは現在、遠隔探査の出来ない区画を捜索するため庭園近くに待機中だ。僕やなのは、それにユーノとアルフ…フェイトも君の捜索に――』
『―――士郎くんっ!!!』

 クロノの報告に割り込む形で通信を入れてきたのは、バリアジャケットに身を包んだなのはだった。
 お世辞にも大きな声…という表現を用いることが出来ないほどの大音量――。
 彼女はそれまでの悲愴な雰囲気を吹き飛ばし、浮かべていた険しい表情を緩めて泣き出しそうな表情を浮かべた。

『よかった……士郎くん…無事で…よかったよ』

 見れば目の周辺が赤くなっており、彼女が泣き腫らしていたことは容易に察する事が出来た。

「ごめんな。心配を掛けてしまった」
『ううん……いいの。士郎くんが無事だったなら、それだけでいいの』
『あ~おほん! とりあえず、だ! すぐにそちらの座標を特定して迎えにいく。撤収作業もあるから、少しだけ待っていてくれ』

 しんみりしていた空気を払いのけるように気まずそうな表情を浮かべたクロノが声を上げる。
 特に問題があるわけでもないため、素直に頷きを返した士郎だったが、画面越しに映るなのはの表情が少しばかり恨めしげだった事には気付いていない振りをすることにした。

「クロノ――こちらにはプレシアもいる。そちらと連絡できない状況が続いていたため、俺の方で治療は施しておいた。なお、彼女はこちらに同行する意思を固めている。出迎えに警戒は必要ないと思うが……」

 告げて視線に意思を込めて真っ直ぐに見据える。
 それをどれだけ察してくれたのか――クロノは僅かに迷うような素振りを見せた後、覚悟を決めた表情を浮かべて望む答えを返してくれた。
 
『……了解だ。こちらは僕だけでそちらに向かうことにしよう。では、また後で――』
『士郎くん、また後で……待ってるから』
「ああ、また後で」

 通信を終えて一息吐くと同時――すぐ背後に立つ大きな木の向こう側から幾つかの視線を感じて振り返る。

「今のがなのはちゃん? 可愛らしい子だね」
「ふん、あの娘には随分と慕われているようだな」

 意地悪そうな笑みを浮かべたメルルと機嫌が悪そうなエヴァからの言葉に苦笑する。
 少なくとも、あちらの世界で過ごしていた時間と同じ時間だけ心配させてしまった事は覆しようのない事実だ。
 どうしようもなかった事とはいえ、心配を掛けた罰ぐらいは覚悟しなければならないだろう。

「他人を気遣える優しい子なんだ。心配させた分だけいつもより感情的になるのは仕方ないだろう」

 泣き腫らしていたなのはの表情を思い返しながら呟くように告げる。
 こうして無事に戻って来れた事に安堵するよりも、彼女の泣いている姿を強く想像して気を落としてしまう。
 もちろん、それを表に出してメルルたちにまで心配を掛けるような事はしなかったのだが――。

「――とりあえず…だ。予定通りに戻って来れた事は確認できた。俺とプレシアはこれから管理局の船に向かって事後処理に付き合うことになる。メルルとエヴァは、俺の住んでいた小屋で待っていてくれるか?」

 手筈通りに行動するように告げる。それを了承するように頷きを返すメルルとエヴァの姿を眺めてからプレシアへと視線を移した。
 ――プレシアがエヴァやメルルと直接顔を合わせるのはこれが最後になるかもしれない。
 事後処理を終え、身柄を管理局に委ねたプレシアのその後がわからない以上、最悪の場合はこれが本当に最後の機会になるのだが――。

「またね、プレシア」
「また会おう」

 言葉少なめに――それでも再会を疑うことなく告げるメルルとエヴァの気安い言葉に、プレシアは嬉しそうに笑みを浮かべた。

「ええ、また会いましょう」

 答えるプレシアの言葉も簡潔で、メルルとエヴァは二人揃って小さく頷いていた。
 二人の視線が自身に向けられた事に気付いた士郎が頷いて見せると、二人は静かにこの場を去っていった。

「――さて、後はクロノが迎えに来るまで待つとしようか」
「――ええ、そうね」

 去っていった背を見送っていたプレシアの背に声を掛けると、彼女は晴れやかな笑みを浮かべたまま振り返って答えた。
 短くない時間を共に過ごした彼女と今更交わす言葉が多くあるわけでもなく、互いに無言のまま――けれど決して居心地の悪さを感じることなく過ぎていく時間に身を委ねる。
 なんとなく手持ち無沙汰になった士郎は、メルルから預かっていたアイテムを取り出した。
 小さな瓶に入った液体――それはかつて自身が飲み、恐らくはプレシアも飲んだであろう妙薬だった。

「……それは?」
「メルルが君に使用したアイテム――その劣化品だな。老化現象の減退と"若干"の若返り効果を持った薬だ」
「管理局に提出するつもりなの?」
「いや、特定の個人に渡すつもりだ。これを君の治療に使用したという報告をした上で…な。もちろんメルルの存在を管理局に伝えるつもりはないし、これは俺が所有していた秘蔵の薬という事で通すつもりだ」

 プレシアの病状を癒やすためにメルルが選んだ方法は的確だった。
 事実、医療的な技術や知識を持たない士郎たちが瀕死のプレシアを救うためには手段を選ぶ余裕などなかったのだから――。

「魔術という地球由来の魔力運用を行っているということは管理局にも知らせている。俺が保有している宝具についても示唆しているし、こういった秘薬の一つや二つを所持していても不思議ではないと思ってくれるだろう」
「貴方は……それでいいの?」
「もちろんだ。元々管理局という組織そのものを信用しているわけではないが……直接顔を合わせた執務官と艦長はそれなりの人物だと見ている。こちらが誠意を示せば相応に応えてくれるはずだ」

 もちろん最悪の事態を想定していないわけではないが、そうなれば潔くこの世界での日常を捨てるつもりだった。
 平穏な日常が如何に貴重なモノなのかは理解しているし、それがいつかは失われてしまう事も覚悟している。
 これまでは"状況"が齎していた事を自分自身の意思で行うだけの事だ。親しくなった人たちに悲しい思いをさせるかもしれないが、そうなった時には――。

「――来たみたいね」
「……そうだな」

 メルルたちと別れて十数分――士郎とプレシアの目前に一つの魔法陣が出現する。
 いつかの日も目にした転移魔法陣――それが僅かばかり輝いた後、その中心に一人の男の姿が現れた。

「――士郎。無事でなによりだ」
「ああ、心配をかけた」

 簡単な挨拶を交わした後、クロノの視線がプレシアへと向けられる。
 彼女の姿を見て、クロノは想像していた通り驚きに目を見張って――すぐに士郎へと視線を向けてきた。

「士郎……これは君が?」
「緊急処置だったがな。彼女には"これ"を使用した」

 差し出したのはプレシアにも見せた小瓶――その説明も同じように済ませると、クロノは少しだけ疑わしげに薬を眺めていた。

「アンチエイジングと言えば聞こえはいいが……魔術師というのは、こういったモノにも手を出しているのか?」
「魔術の探求は基本的に時間との闘いだ。探求を望む果てに長命であろうとするのは不思議なことではないだろう? もっとも、俺は所持していただけでこうしたモノを作る技術は持ち合わせていないがな」

 元の世界では、魔術師が研究の果てに吸血鬼――死徒と呼ばれる存在になった事例も存在している。
 それがどのような手段を用いたモノなのかは想像することしか出来ないが、それとは別に百年や二百年を生きた魔術師は少なからず存在していた。
 魔術の探求に必要なモノ――という位置づけは、魔術師である衛宮士郎を少しでも知っている今のクロノやリンディには受け入れやすい筈である。

「……実例を前にして疑うというのもおかしな話だが、変身魔法の類ではなく、本当にこの薬の効果なのか?」
「効果を疑うなら――そうだな、リンディ提督にでも試してもらえばいい。これは俺から彼女個人へプレゼントするとしよう。こういったモノは女性にとって無視したくとも無視できないモノだろうしな」

 何となく――此所での会話はアースラに筒抜けな予感がした士郎は、姿の見えないリンディが聞こえている事を前提に提案を口にした。
 はたして予感は的中したのか――クロノが少しばかり呆れた表情を浮かべたのはリンディ辺りから念話でも届いたからだろう。

「……とりあえず、これについては置いておくとしよう。事件に関わりのあるモノというわけではないしな」

 しっかり小瓶を回収したクロノは呆れた様子を隠そうともせずに胸元へと仕舞い込んだ。
 あくまでも衛宮士郎個人がリンディ・ハラオウン個人へと送った品――という扱いになるが、効果を知ればある程度は納得してくれるだろう。

「それで……プレシア・テスタロッサ。貴女はこちらに同行する意思があると報告を受けているが――」
「ええ、間違いないわ」
「そうか。なら、貴女の身柄はここで確保する事にしよう」

 宣言するように告げたクロノは一度瞑目し、ゆっくりと目を開いて真っ直ぐにプレシアへと視線を固定した。

「――プレシア・テスタロッサ。時空管理法違反及び管理局艦船への攻撃容疑、捜査員の捜査妨害により貴女の身柄を拘束します。同行願えますか?」
「ええ」

 応えて一歩前に出たプレシアの腕をクロノはそっと差し出した手で軽く掴む。
 自ら罪を認め、執務官の同行要請に快く応じる――。
 この形式めいたやり取りがどのような意味を持つのかは士郎には想像することしか出来ないが、そこにクロノなりの気遣いが感じられる事だけは間違いの無い事実だった。

「――心配しなくても悪いようにはしないさ」

 確信めいた言葉を口にして、クロノは小さく笑みを浮かべるのだった。


 -Interlude-


 ――転送ポートの前で静かに待ち続けること数分…。
 彼女――リンディ・ハラオウンは、部下のエイミィ・リミエッタと共に今回の事件の重要参考人であるフェイト・テスタロッサ及び使い魔アルフと共に待機していた。

「リンディ提督――やっぱり、フェイトには……」
「もしもの時は全員で対処します。ここは、フェイトさん自身の意思を尊重させてあげましょう」

 告げて隣に立つ少女――フェイトへと視線を投げかける。
 それに気付いた彼女は、少しばかり申し訳なさそうに顔を俯かせてしまった。

「――艦長。クロノ執務官から報告です。プレシア・テスタロッサの身柄を確保、これより帰艦するとのことです」
「了解しました」
「………母さん」

 エイミィからの通達に返答すると同時、隣から呟くような声が零れた。
 フェイトがプレシアにどのような仕打ちを受けていたのかはアルフの報告でわかっている。
 けれど――それでもフェイト・テスタロッサにとって、プレシア・テスタロッサは唯一の肉親で母親なのだ。
 どのような生まれで、どのような目的で生み出されたと知っても、それでも彼女が直接会いたいというのなら許容できる範囲でそれを叶えてあげたい。
 なのはとユーノがこの場への同行を辞退しているのも同じような想いからだろう。
 この問題に関してはフェイトの決意を信じるという、彼女たちなりの意思表示に他ならない。

「――来ます」

 エイミィの言葉から一瞬の後――僅かな発光を終えた転送陣の中心に三人の人影が現れて僅かばかり緊張が走る。
 そこにはクロノと、バリアジャケットを解除して私服に戻った衛宮士郎…そして、落ち着いた色調のワンピースに身を包んだプレシア・テスタロッサの姿があった。
 報告通り――彼女の見た目はいつかの資料にあった若い頃の容姿と同じ……或いはもう少し若く見えるだろう。
 それをどう受け止めたのか――フェイトは微かに驚いた後、少しだけ懐かしそうにプレシアの姿を眺めていた。

「母さん――」

 一歩前に出て、掠れるような声で呟くフェイトの視線は完全にプレシアへと固定されている。
 転送陣の中心で佇むプレシアの表情は固く、どこか覚悟を秘めた眼差しでフェイトの姿を注視していた。

「――あなたには、言っておかなければならないことがあったの」
「……はい」
「あなたは確かにアリシアの代わりとして生み出されて、けれどアリシアとは違う"人間"として成長していった。私の思惑を置き去りにして…ね」

 既に知れている真実を包み隠すつもりはないらしく、けれどはっきりと気遣うように言葉を選ぶプレシア――。
 続く言葉の先を想像しようとしているのか、フェイトの表情は次第に緊張と悲しみに覆われていき、徐々に俯いていく。

「――だけど、フェイト。あなたもアリシアと同じ――私の娘なのよ」

 優しい声音――気がつけば、いつの間にかプレシアの表情は慈愛を感じさせる母親のものへと変わっていた。
 それは想像していたものとは違っていたのだろう――。
 フェイトは一瞬だけ肩を揺らしてその顔を跳ね上げた後、その視線を真っ直ぐにプレシアの双眸へと向ける。

「認められなかった……認めたくなかった。それをしてしまえば、私がアリシアに抱いていた想いの全てが嘘になってしまうと思っていた」

 語られる言葉に耳を傾けて、フェイトは静かにプレシアを見つめ続ける。

「私を母と呼んでくれたあなたを……あなたの存在を憎むことで自分の想いを正当化しようとして、あなたを沢山傷つけてしまった……」
「わ……私は――」
「――だから、許してくれなんて恥知らずな事は言わないわ。その代わりに、私のこれからの生涯はあなたのために使う――あなたが友達と笑いあって、笑顔で過ごせる日々のために」

 ――決意を込めた優しい言葉に嘘はないのだろう。
 それほどプレシアの言葉にはフェイトへの確かな優しさと遠慮したような愛情が透けて見えた。

「――私があなたのために生きることを拒絶してもいい…今更だと否定してもいい。それでも私は、あなたのために生きると決めた。それがあなたの"母親"として、私がしてあげられる唯一の事だから…」

 どこまでも優しく微笑むプレシアにフェイトは少しばかり表情を引き締めた。
 躊躇しているのか、その口からは言葉にならない呟きが数度零れ――けれど確かな覚悟と共に彼女は静かに口を開いた。

「……ずっと考えていたんです。あの時――アリシアの前に立った母さんが、私を否定しようとした時からずっと考えていました。私は失敗作で、いらない子で――母さんの期待には応えられなかったんだって」

 静かに語られるその言葉には微かな悲しみと小さな決意が込められている。
 それでも真っ直ぐにプレシアへと視線を向けたまま、彼女――フェイト・テスタロッサは確かな意思を以て告げた。

「――だけど、どんな風に想われていても、私がこれまで……生まれてからずっと願ってきたことは変わらなかった。母さんに笑って欲しい――幸せになってほしいって……それが私の、フェイト・テスタロッサの本当の気持ちなんだって」
「フェイト……」
「だ…から……母さんが、私を認めてくれて………私に優しい笑顔を見せてくれて………凄く…すごく、嬉しかったんです。だか…ら………」

 それは瞬きの瞬間に――涙を堪えて告げるフェイトの細く小さな身体は、彼女の側へと歩み寄ったプレシアに優しく抱きしめられていた。

「――…………う…ぁぁ…っ!!!!」

 プレシアに抱きしめられながら押し殺した嗚咽を零すフェイト――。
 その姿を…静かに抱きしめ合う二人の親子を、リンディたちは静かに見守るのだった。


 -Interlude out-


 フェイトとプレシアの再会――。
 それを一頻り眺めた後、士郎はリンディやクロノたちと念話を交わして転送ポートを後にした。

「――お疲れさま、士郎。無事でよかったよ」
「ユーノ――」

 通路に出たと同時に正面から聞こえてきたのはユーノ・スクライアの安心したような声だった。

「心配を掛けてしまって済まなかった」
「無事だったんだからそれでいいよ――僕は…ね」

 笑顔を浮かべて答えたユーノは、すぐにその表情を曇らせて声の調子を落としていった。
 彼が想像しているであろう人物――アースラに戻る前にクロノと行った通信の際に一瞬だけ垣間見た、悲愴な気配を全身に纏ったなのはの事を思い出す。

「君とプレシアの反応が消えてから無事を確認するまでの一時間――周りに気を配って元気な様子を見せていたけど、無理をしてるのは誰の目にも明かだったしね」
「――そうか」

 驚きに声を上げそうになった士郎は、それを表に出すこと無く静かに返事を返した。
 ――あれから一時間。
 ユーノの言葉は、士郎とプレシアが世界を移動してから戻ってくるまでの時間経過に違いない。
 ふと――いつかエヴァの家でメルルと交わした会話を思い出しながら、"逆"の状況もあり得た可能性に思い至った。

「……運が良かったと言うべきか」

 どうとでも受け取れるような言葉として吐き出すと、ユーノは同意するように頷きを返してくれた。

「僕はクロノと少し話があるから、また後でね。なのはは…この通路を少しいった先にいると思うよ。君の事もそうだけど、フェイトのことも心配で仕方ないみたいだったから」

 フェイトの決意を後押しするために先の場へ同行せず、離れた場所でフェイトを見送ったのは、なのはなりの応援だったはずだ。
 フェイト自身が望んだというプレシアとの対面――その意思と決意を信じての事だろう。
 ――自身の帰りを待ってくれているというのなら、速やかに顔を見せて安心させてあげたい。
 そんな思いを抱きながらユーノの言葉に頷きを返すと、彼は少しだけ寂しそうな表情を浮かべた後に転送ポートへと向かっていった。
 ユーノの背を見送ってから歩き出す。見慣れた――けれど、懐かしい景色を視界に収めながら歩いていく。
 暫く歩いた先――通路の壁に背をつけて寂しそうに俯いているなのはの姿を目にして足を止める。
 いつも明るく笑顔を浮かべ、いざとなれば強い想いと決意を以て戦いに臨んだ少女――。
 そんな彼女の本当の姿を垣間見た気がして、士郎は小さく息を吐いてから静かに彼女の元へと向かった。

「――なのは」

 少しばかり離れた場所から声を掛けると、彼女は驚いた様子で顔を上げて視線を向けてくる。
 そこに先程までの儚い雰囲気は微塵も無く、なのはは嬉しそうに破顔してから士郎へと駆けてきた。

「――士郎くんっ!!!」

 勢いそのままに抱きついてきたなのはの頭をそっと撫でる。
 先程までの勢いとは反対に、静かに抱擁を続ける彼女から聞こえてくる安堵の息遣いと気配――。
 それを確かに感じながら、士郎はなのはが離れるまで――それから数分の間を静かに待ち続けるのだった。

「――えっと……ごめんね」

 身体を離したなのはの最初の言葉は、ばつが悪そうに告げられたそんな言葉だった。

「いや、心配をかけたのは俺の方だからな。殴られる事も覚悟していたが、泣かれるほうが辛いという事がよくわかった」
「う……だって、心配だったんだよ。突然消えちゃって…ひょっとしたら、もう会えなくなっちゃうんじゃないかって――」

 なのはの言葉に頷きを返しながら、士郎はかつて自身が抱き続けた想いの一端を思い出していた。
 ――そこに居るはずなのに、"そこ"からいなくなる。
 謎かけのような状態が当たり前だった頃――。
 そんな頃に抱いていた想いを彼女にはさせたくはないが、それでも――。

「――そうだな。ひょっとしたら、いつかはそんなこともあるかもしれない」
「士郎くん……?」
「可能性の話さ。だけど、絶対にないとは言えないことでもある。日常を生きていても別れは唐突にやってくる。こうした世界に身を置けば尚更だ」

 いつかは…と――そんな"可能性"に思い至り、足を止めてしまいたくなる時もあるだろう。
 平和な日常――自身にとって幸福な時間……そうした場所で立ち止まりたくなるのは失う寂しさや悲しみを知るからだ。

「――だけど、足を止めることだけはしない。少なくとも俺はこれまでそうして生きてきたし、これからもそうするつもりだ」
「私は……私も、そう出来るかな?」
「さて、なのはに俺の真似は似合わないと思うが…なのはが自分だけの答えを見つけられる日はきっと遠からず来るだろうさ」

 告げて歩き出すと同時になのはも歩き出して横並びになったまま、フェイトたちがいるであろう場所へと進んでいく。
 タイミング良く――と言えるのかどうかはわからなかったが、ちょうど転送ポートから出てきたリンディたちと顔を合わせることが出来た。

「フェイトちゃん!!」

 どこか憂いを帯びたフェイトの元へなのはが駆けていく。
 その姿を静かに見送ってリンディたちの元へと歩み寄る。雰囲気から察するに、プレシアの処遇についての話も済ませたのだろう。

「クロノ。プレシアとフェイトは今後どうなる予定なんだ?」
「幸いジュエルシードの暴走はプレシア個人が意図的に起こしたものでは無かったからな。もし次元断層を生み出すような行動を取っていたら、数百年単位の懲役は間違いなかったはずだ」

 クロノの言葉に頷きを返すリンディやエイミィとは裏腹に、なのはと向かい合っていたフェイトの表情は晴れない。
 プレシアは全ての罪が自身にある事――フェイトやアルフに関しては、自身が指示を出して行動を強制させていたと発言したらしい。
 その発言に対して思うところがあったフェイトだが、それでもプレシアは譲らず――結果として、公式には今回の事件がプレシア・テスタロッサ単独で引き起こされたものとして処理される事が内々に決定したのだという。

「今後は、本人の態度や今後の捜査に対する協力的な姿勢――他にも事件の動機に関する諸々について考慮しながら裁判が行われる事になるでしょうね」

 リンディから今後の予定を推測してもらいながら、士郎は静かにプレシアへと視線を投げた。
 彼女も同じように士郎へと視線を向けていたが、恐らく口にしようとしている言葉は大凡同じようなものなのだろうと二人して笑い合った。

「――あなたには、本当に世話になったわね」
「これも性分だ。悪い癖だとわかってはいるが、どうにも直せなくてな」

 手が足りるなら――手が伸ばせるのなら伸ばそうとしてしまう。
 それが状況を悪くする可能性に思い至っていながら、それでも手を伸ばしてしまうのは既に本能に近しい。

「それに救われた身としては感謝するしかないわ。本当に――ありがとう、士郎」
「――気にするな…と言ったところで、君は言葉を下げないだろう。なら、素直に感謝は受け取ろう。いつか君が自由になれたら……そうだな。その時には君の紅茶をご馳走してやってくれ」

 彼女が麻帆良で過ごしている間に何度が飲ませて貰った紅茶や珈琲は日を追う毎に味わいと香りを増していった。
 そんな彼女の淹れてくれたものを再び飲む機会が訪れることを願いながら、いつか訪れる――訪れて欲しいと願う再会の時を思い描いて笑みを浮かべる。

「……君とはまだ顔を合わせて"殆ど時間も経っていない"が、お互いを知るには十分すぎるだけの会話は交わしてきたつもりだ」

 少しばかり回りくどい言い回しで告げた言葉にプレシアは一瞬だけ怪訝そうに表情を曇らせたが、すぐに思い至った――或いは既に疑問を抱いていたのだろう。
 言葉の真意を正しく受け取ったプレシアは、小さく頷きながら静かに言葉を聞いていた。

「だから…俺から君に送れる言葉は一つだけだ、プレシア。――また会おう」
「――ええ、また」

 互いに視線を交わらせて頷きあう。
 ふと――周囲がやけに静まり返っていることに気付いて辺りを見渡した。
 クロノを初めとして、この場に立つ全員が各々の感情を覗かせながら視線を向けてきていた事に気付いて思わず怯んでしまう。

「――――――士郎くん」

 聞こえてきた静かで底冷えのするような声に視線だけを向ける。
 そこには、満面の笑みを浮かべながら冷めた空気を身に纏ったなのはの姿があった。

「………えっと…なのは。ど、どうかしたのか?」
「――ううん、なんでもないよ。ちょっと色々と再確認しただけだから気にしないでね」

 告げてなにやらぶつぶつと聞き取れない声で呟くなのは――。
 そのすぐ隣に立つフェイトも、なにやら同意するように頷いているのは一体どういうことなのだろうかと首を捻る。
 そんな光景を目の当たりにしながら、士郎はプレシアとリンディとエイミィが深い溜息を零し、クロノとユーノとアルフが呆れたように首を振る姿を見回すのだった。


 
 

 
後書き
※10/07 誤字修正 

 

Episode 34 -海鳴の街へ-

 
前書き
第三十四話です。 

 


「――やっぱり駄目だったみたいだね、クロノ君」
「エイミィか……。ああ、駄目で元々の勧誘だったけど、きっぱりと断られたよ」
「まあ、彼の言い分もわからないでもないしね。実際、個人の思惑や考えは優先されない場合が殆どだしね」
「そうでなければ広く手を伸ばすことは出来ない。だけど、そうして手を大きく広げればこぼれ落ちるものも増えてしまう。彼はそれが許せないんだろう」
「……ひょっとしたら、そうして零した何かに"掛け替えのない何か"があったのかもしれないね」
「そうだな。だけど、失う事を知っている彼のような人にこそ手伝ってもらいたい仕事なんだけどな…」
「難しいね……」
「……そうだな」
「――あら、こんな所にいたのねクロノ。エイミィも……」
「あ、艦長。どうし――」
「ん、母さ―――――」
「え…えっと、なにか変なところでもあったかしら?」
「い…いえ、ちょっと……というより、随分とその――」
「――小さかった頃の事を思い出したというか……母さん、士郎から貰った薬を試したんですね」
「だ、だって……一応個人的に彼から贈られたものだし、無碍にするのも悪いかなって思って……」
「……気のせいじゃなければ、なにか話し方も若くなってません?」
「そういえば、士郎が言っていたな。あの薬は精神にも作用するから、肉体的に若返った分と同じだけ精神も若返るって――」
「あ、あら……そうなのね。だから…かしら? ちょっと冷静に考えられないっていうのか――」
「えっと……それって、何のことです?」
「……士郎。なのはやフェイト、プレシアだけじゃ飽き足らず――」
「じゃ、邪推よ邪推! 私は別に……ただ、何となく彼が見た目以上に長く生きてるんじゃないかって思ってたり、色々と複雑で重たい想いを背負っているんじゃないか…なんて思っていないわよ」
「罪作りというかなんというか――」
「一時の気の迷い――ということで。どうかご自重ください、母さん」





・――・――・――・――・――・





 もう何度目になるのだろうか――。
 少なくとも、これで当分は――下手をすれば、もう二度と体験する事の無い空間転送に身を委ねる。
 正しく一瞬の後に肌に触れる空気が変わった事を知覚した士郎は、状況を確認するためにゆっくりと目を開いた。

「――戻ってきたな」
「うん、帰ってきたよ」

 転送陣の光が収まり、目の前に広がったのは海鳴臨海公園から望む夜の海――。
 綺麗に舗装されている歩道の上――人気のないその一角で、士郎は共に戻ってきたなのはやフェレット姿になったユーノへと視線を向ける。

「そういえば、二人は以前に一度、家に戻ったんだったな」
「うん。でも、あれからまたちょっと家を空けてたし、みんな心配してると思うから――」

 寄り道はせずに、真っ直ぐに帰るつもりだ…と。
 そう静かに告げるなのはの表情は僅かに曇っている。
 恐らくは挨拶すら満足に出来ずに別れたフェイトとの事を考えているのだろうが――。

「心配するな、なのは。クロノやリンディ提督も、フェイトに関しては保護観察で済むように努力してくれると言っていた。保護責任者になってくれたリンディ提督も、お前やフェイトの事を放置したまま帰る――という事はしないだろう」
「うん……そうだね」

 言葉少なめに答えたなのはだが、やはり落ち込んで見えるのは仕方が無い。
 結局――あれから皆が事後処理に追われていたため、なのはが以前にフェイトに告げた言葉の回答すらもらっていない状態なのだ。
 突如として姿を消した士郎とプレシアの捜索や、フェイトとプレシアの再会など――。
 なのはとフェイトが個人的に話し合えるような状況は実際に殆どなく、それがなのはにとっては引っかかっているのだろう。

「――とりあえず家まで送ろう。行くぞ、なのは」

 そうして士郎は高町家を目指して歩き出した。
 なのはは自身の肩に乗せているユーノと共に横へと並び、歩調を合わせて歩き出す。

「そういえば、ユーノはこのまま地球に残る予定だったな」
「うん、当面の間はね」
 
 高町家への道中ですぐに話題になったのは、ユーノの身の振り方だった。
 正式に地球で過ごす許可が出ているユーノだが、ある程度の時期が過ぎれば管理世界へと戻ることが決まっており、それまでの間は高町家でペットとして過ごすらしい。
 ――彼が地球で過ごすことができる理由は必須事項というわけではなく、関係者の思惑で用意されたものだ。
 色々とクロノが協力した上での事だが――主になのはの魔導に対する監督をするという名目になっているらしい。
 管理外世界の住人であり、まだ幼いなのはに魔法を教えた責任――。
 彼女が今後をどのように過ごすのかは別として、一度得た魔導の力を正しく運用できるようになるまで面倒を見るというものだ。

「ユーノは優秀な魔導師だからな。なのはの魔導の師としては望むべくもない相手だろう」
「むず痒くなるような評価だけど……僕としては、なのはにはちゃんと教えておきたいことも沢山あるし、今回の処置に協力してくれたクロノには感謝しないとね」
「うん。これからもよろしくね、ユーノ君」

 見た目はフェレットに戻ってしまっているが、ユーノが優秀な魔導師である事に疑いの余地は無い。
 事実として、地球の魔力素との適合不良を起こしてさえいなければ、ユーノはジュエルシードの異相体相手に傷を負うことなどなかっただろう。
 とはいえ――彼が傷つき助けを求めた結果、なのはは魔導と出会い、フェイトと出会う事が出来たのだ。
 結果論ではあるが、彼の行動と決断が現在の状況を作り出した最初の切っ掛けである事は間違いないのだから――。

「そういえば、士郎は随分とクロノやリンディ提督と話してたみたいだけど……なにかあったの?」
「別に大したことじゃない。よかったら管理局に所属してみないかと誘われただけだ」
「「――……えっ?」」

 事実を端的に告げると、なのはとユーノは声を揃えて驚きを露わにしていた。

「そこまで驚くことじゃないだろう? 俺は地球独自の魔力運用技術保持者で、曲がりなりにも魔法を身につけている。自分の身の振り方を自分で決められる俺に対して直接的な誘いがあってもおかしくはないと思うが……」
「いや、そう言われてみればそうだけど……それで、一体どう返事を返したのさ?」
「もちろん断ったさ。きっぱりとな」

 クロノとリンディ――アースラスタッフのような臨機応変さが管理局全体に望めるはずもない。
 秩序と平和を守る――そういった題目を掲げる組織も必要だと思うが、そこに自身が加わる事を士郎は微塵も考えていなかった。

「多くを守るための組織だ。俺などが所属しても百害あって一利無し――ああした活動は心の底から他者のために動ける人間がやることだろう。要するに、俺には無理だということだ」

 百の命と大切な人の命を秤に乗せれば確実に大切な人へと"傾ける"ような男だ。
 例え、その多くの人の命を救いたいと義務感にも似た想いを抱いてしまうとしても――。

「俺には多くの人のために大切な人間を切り捨てることは出来ないからな。そうすれば犠牲も少なく、結果的に多くを救えるかもしれないとわかっているというのにな……」
「えっと……それって、前に士郎くんが言ってた正義の味方のこと――だよね?」

 いつかの月夜に言葉に出して伝えた過去――。
 それを思い出したのか、なのはは少しばかり悲しげに瞳を揺らしていた。

「より多くを救うのが正義の味方だ。同時に、自身が救おうとするものしか救わないのも正義の味方だ。敵対するモノは速やかに排除し、最小の犠牲を以て多くの人を救う空想の存在――」
「……空想の存在?」
「現実にそんな存在はいないということだ。いたとすれば、それは稀代の殺戮者か何かだろうさ」

 自嘲めいた言葉になってしまったことを僅かに後悔しながら頭を振る。
 ――かつて自身が歩もうと夢見た理想。
 その果てに待ち受ける避けられない未来と道程――それを知り、それを"間違っていない"と思っている自分自身は確かに今も存在している。
 これまで生きてきた長い生の中で、何度も何度も自身へと問いかけた事――。
 そのどこまでも歪な理想と、借り物でしか無かった自身の想い――その全てを裏切って"たった一人を守る"事を選んだ過去の自分を思い出しながら続けた。

「今回の件で言えば、もっとも初手――事態の収拾のために、"争いの原因に関わる者や争いの原因そのもの"を速やかに排除すれば事件は早い段階で収束しただろう」
「……それって、つまり――」
「極論ではあるだろうがな。少なくとも、管理局はそこまで極端なスタンスを取る組織ではないようだし、そんな存在もいるかもしれないとだけ覚えておいてくれればいい」

 すっかり重たくなった空気を振り払うようにそう告げると、なのはとユーノはそれぞれ小さく頷いていた。

「まあ、とにかく――そういうわけで、管理局からの勧誘は断ったんだ」

 最後にそんな言葉で締め括りながら視線を先へと向ける。
 目的地であるなのはの家――高町家は、もうすぐそこに見えてきていた。


 -Interlude-


 士郎やプレシアと別れて数時間――。
 彼女――メルルはエヴァと共に士郎から聞かされていた住所を頼りに海鳴へとやって来ていた。

「――それで、どうして私たちはこんなところにわざわざ買い物にやってきたんだ?」
「シロウの家にシロウの財布があったからだよ。いつ帰ってくるのかわからないし、家の中のモノは自由に使っていいって言ってたしね」

 エヴァの疑問に答えながら見慣れた野菜を手にとって品質を確かめていく。
 素材の目利きは錬金術士には必須――とはいえ、それほど資金が沢山あるわけではないので厳選せざるを得ないだけだが…。

「エヴァは何が食べたい?」

 並べられている多くの食材や調味料を眺めながら問いかける。
 すぐ隣を歩いている彼女は、それを受けてゆっくりと周囲を見渡しながら答えた。

「貴様が得意としているのは、きのこ鍋だとかきのこパイだろう? どうせなら美味いものが食べたいと思うのは自然な事だと思うが?」

 ――つまりは得意な料理を作れという事だろうと受け取る。
 その圧倒的な正論に対して、メルルは笑みを浮かべて頷きを返した。

「じゃあ鍋だね。色々と美味しそうなきのこが沢山あったし、色々と試してみないとね」

 告げて商品棚からきのこ類の食材を手に取って買い物カゴの中へと入れていく。
 エヴァはそれに合わせて鍋に入れるつもりの食材を選んでいるらしく、ちまちまと手を出してはカゴへと投入していった。
 そのまま会計を済ませて軽くなってしまった財布を眺めながら、メルルはこの二年余りですっかり身に付いてしまった思考を働かせる。

「……当分の間はこの街で過ごす予定だし、資金は用意しておかないといけないね」

 凛との生活で身に付いた金銭感覚――。
 彼女ほど倹約するつもりはないが、無意味に稼ぐつもりもない。
 何事も適度、適当というものがあるということを、メルルはこの二年の生活で学んできたのだ。

「先立つ物がなくては何も出来ん……か。では、貴様も士郎のように仕事を探して働くつもりなのか?」

 僅かばかり心配そうに告げるエヴァの言葉にメルルは大げさに肩を竦めて見せた。
 そもそも士郎の仕事は彼が生きていく上で必要なもので、それが彼の技能に大きく貢献しているのだから問題などない。
 では、それと同じような労働をメルルが行う――というのは、メルルが何を生業としているのかを考慮していない言葉に他ならない。

「あのね、エヴァ。私は錬金術士だよ? 錬金術士には錬金術士なりの稼ぎ方っていうものがあってね……って、あれ? あの子…なにしてるんだろう?」
「……ん?」

 メルルなりの方法を言葉にしようとして、ふいに視界が捉えた光景に言葉を止めた。
 商品棚が並ぶ通路の途中――車輪のついた椅子に腰掛けた女の子が必死に手を上に伸ばそうとしている。
 傍目に見ていてそれは危なげで、思わず歩を進めてしまったのはメルルだけでは無く、隣に立っていたエヴァも同じだった。

「――はい。これでよかった?」
「……えっ? あ…はい、おおきに。……助かりました」

 意外そうな視線を向けてきたのは小さな少女――見た目だけならエヴァと似た背格好をしている。
 彼女が取ろうとしていたのは出汁を取るために使うカツオ節だった。
 見れば、彼女の膝の上に乗せてあるカゴの中には他にも色々と材料が入れられていた。
 中身から推測するかぎり、恐らくは自分の家族と鍋を囲むために材料を買いに来ているのだろう。
 
「手の届かないところにあるモノを無理に取ろうとすると危ないよ。そういうのは誰かに手伝ってもらわないと……」
「誰かと来ているのならそいつに頼め。見ていて危なっかしいぞ」

 エヴァと共に告げると、少女は少しだけ困ったように笑みを浮かべてから頭を下げた。

「心配してくれてありがとうございます。でも、どうしても一人で買っておきたくて……」
「これって鍋の材料だよね。ご家族と食べるの?」
「はい。今は大事な用事で海外に出かけてるんですけど、帰ってきたら一緒に鍋を作って食べようと思ってます」

 屈託のない笑顔を浮かべながら告げる少女の姿を目の当たりにして、エヴァと二人揃って顔を見合わせる。
 
「そういうことなら仕方ないか……じゃあ、他に何か買う物はある? お姉さんたちが手伝ってあげるから」
「遠慮せずに頼め、コイツが全部集めてきてくれるそうだ」

 買い物カゴをエヴァに預けて宣言する。
 少女は少しだけ驚いたようにぼんやりとした表情を浮かべた後、嬉しそうに破顔して頷いてくれた。

「それなら、まずは――」

 少女と共に再び店内を見て回る――それ自体は確かに特筆するような出来事ではなかっただろう。
 それでも、こうして新たな世界にやってきて最初に知り合った他人が彼女のような優しい少女であった事は幸運と言えるだろう。
 二家族分の買い物を終えて外に出ると、外は店に入る前よりも暗くなっており、道路を照らす街灯がその役割を果たそうと明るく輝いていた。

「――手伝ってもらって助かりました。おおきに」

 店の外――街路の上でぺこりと頭を下げる少女の姿に小さく手を振って応える。
 気にするな――と、そういう意味を込めてのものだったが、少女はそれを見ても小さく笑うだけだった。

「なんや、お姉さんたちはわたしの知ってる人と何となく似てるような……」

 なにか思い当たることがあるようにメルルたちを見つめてくる少女――。
 そんな彼女に疑問の目を向けると、彼女はすぐにそれに気付いてくれた。

「――あ、さっき話題にした海外に行ってる家族ですけど、あの人も気にするなって態度で手伝ってくれたことがあったから……」
「そっか。ご家族だって言ってたけど、お兄さんとかお父さん?」
「あ…いえ、わたしの家は両親がいなくて……。あの人とも血縁者っていうわけやないけど、兄妹みたいなものやと思ってまして――」

 明るい笑顔を浮かべたまま語られたのは少女の"世界"そのものだった――。
 足が不自由で自由に歩き回れず、血の繋がった肉親とは死別してしまった。
 それでも悪い事ばかりではないようで、血の繋がりは無いけれど大切な人と共に過ごす事が出来ているらしい。
 そんな彼女の話を聞いて、メルルはふと――未だに自己紹介すらしていなかった事に気付いてエヴァへと視線を向けた。
 どうやら彼女は随分と前にその考えに至っていたらしく、慌てた様子で振り返ったメルルに対して、エヴァは小さく肩を竦めて溜息を零していた。

「そういえば、まだお互いに自己紹介してなかったね。私はメルルリンス・レーデ・アールズだよ」
「……エヴァンジェリン・A・K・マクダウェルだ」
「メルルさんにエヴァちゃんですね。わたしは八神はやて言います」

 互いに名乗りを終えて、もう一度エヴァと顔を見合わせる。
 メルルへと視線を向けてくるエヴァも同じ答えに行き着いているのか――。
 小さく頷きあってから少女――八神はやてと名乗った彼女へと視線を向けた。

「あのね…はやて。貴女が言っていた家族の名前って、もしかして――」
「――やはりメルルとエヴァか? どうして君たちがこんな所にいるんだ?」

 ふいに背後から聞こえてきたのは、もうどうやっても聞き間違える事の無い人の声――。
 どこかぶっきらぼうなのに、不思議な暖かみを感じさせてくれるその声を耳に届けて振り返る。
 そうして三人揃って見据えた先には、どこか意外そうにこちらを眺めている衛宮士郎の姿があった。


 -Interlude out-


「――本当にありがとう、シロ君」

 玄関口で頭を下げるのは、なのはの母である桃子だ。
 その両隣には恭也と美由希――そして、その背後には家主である高町士郎の姿もあった。

「いえ、俺は何も……」

 否定しても仕方の無いことなのだろうが、それでも自身がなのはに対して何かを出来たかと言われれば首を傾げてしまう。
 確かに心構えを説いた。決意を後押しもした。だが、それら全てを受け止めて実行したのは他ならぬなのは自身なのだから――。

「アルバイトには明後日から復帰してくれると嬉しいな。やっぱり少しだけ手が足りなくてね」
「――わかりました。長い間休んだ分もしっかり働きますので、どうかよろしくお願いします」

 高町士郎の言葉に対して丁寧に礼をして頭を上げる。
 見れば、それぞれが何かを口にしようとして迷っている姿が目に入った。
 色々と聞きたいこともあるのだろうが、今夜は遠慮するべきだろうと思い直し、もう一度頭を下げてから踵を返した。

「――それでは、また」

 各々と挨拶を済ませて高町家を後にする。
 広がる景色を懐かしいと思えることを嬉しく感じながら帰路を歩いていく。
 長らく空けていた自宅に待たせている筈のメルルたちを迎えにいこうと足を急がせる――と、街中の路上に見知った二人の背中が見えてきた。

「――やはりメルルとエヴァか? どうして君たちがこんな所にいるんだ?」

 歩いて近付き、その背に向けて声を掛ける。
 同時に振り向いた二人の先――彼女たちの正面には、見慣れた車椅子の少女が意外そうな目をこちらへと向けてきていた。

「………士郎? 士郎やん!!」
「はやて――どうして君が彼女たちと……いや、それはまた後で聞くとしよう」

 告げてメルルとエヴァにそれぞれ目配せをする。
 二人はそれだけで理解してくれたらしく、それぞれ身体をはやてから離して正面を空けてくれた。

「――まずは、挨拶をちゃんとしておかないとな」
「――うん、そうやね」

 互いに笑みを浮かべて視線を交わす。
 はやての目前で膝を落として視線の高さを合わせた士郎は、出来るだけ…持てるだけの感情を込めてその言葉を口にする。

「……ただいま、はやて」
「……おかえり、士郎。お勤めご苦労さんや」

 戻るべき場所――そんな贅沢を強く実感して、はやてへと微笑みかける。
 彼女と約束を交わしてから二週間――移動した世界での事も含めれば、実質は一ヶ月ぶりの再会だった。

「ちょうどいいタイミングやったね。今日は士郎がいつ戻ってきてもいいようにって鍋の材料を買いにきたとこやったから」
「そうだったのか。なら、今日は腕によりをかけて調理する事にしよう。ところで、どうして君たちが一緒に?」

 士郎の疑問は自分以外の三人へ――。
 メルルとエヴァは察しろとばかりに溜息を零し、はやてはある程度の事情を察したらしく、少しだけ困った様子を見せていた。

「偶然だよ。何か食べるモノを作っておこうと思って買い物に来たら、商品を取るのに苦戦していた女の子が見えたから――」
「――気まぐれに手伝ってやったら、そいつがたまたま貴様の言っていた八神はやてだったというわけだ」

 メルルとエヴァの端的且つわかりやすい説明に納得しながら視線をはやてへと戻す。
 彼女はその視線をメルルやエヴァ――そして士郎へと何度も往復させ、少しばかり考えるような素振りを見せてから真っ直ぐに視線を向けてきた。

「えっと…話を聞いてて思ったんやけど、メルルさんとエヴァちゃんは士郎のお知り合いか何かなんかな?」
 
 メルルとエヴァを流し見ながら尋ねてくるはやてに頷きで応える。
 予定していたものとは随分と異なるが、こうして顔を合わせたのも何かの導きだと都合良く解釈することにした。

「ああ、二人とも国外にいた知人でな。今回偶然出会えたこともあって、一緒に行動していたんだ。二人とも行く当てがないというし、良ければ日本に一緒にこないかと誘ってな」

 予め決めておいた設定を口にして伝える。
 嘘というわけではないが、真実というわけでも無いその説明を耳にして、はやては僅かに表情を崩した。

「え……それって、もしかして――」
「ああ。突然の申し出になってしまうが、はやてさえ良ければ彼女たちも一緒に居候させてもらえないだろうか? 彼女たちの生活費は何とか――」
「――大丈夫だよ、シロウ。こう見えても、私ってお金持ちなんだから!」

 はやてとの会話の合間に声を上げたメルルは、その両手に大きな塊を掲げていた。
 夜の薄暗さなどものともしない輝き――僅かな街灯の光に照らされて輝いているのは、紛れもなく純金の塊だった。

「軽く両手に納まるくらいの大きさはあるし、こっちで金の価格相場がどうなっているのかは知らないけど、それなりの額で売れると思うよ」

 それなり――などという安い単価では決して無いだろう。
 士郎もこの世界における金の価値など調べたことはないが、文化水準を考慮すれば極端に価格が低いはずもない。
 見た目だけで判断しても数キログラム単位の純金――しかるべき場所で換金すれば下手をしなくとも八桁に手が届くだろう。

「……なるほど。それが先程貴様が言っていた、自分なりの稼ぎ方――というやつか」

 納得した様子のエヴァの言葉に納得する。
 ――錬金術とは、古来においては正しく金を生み出すと言われていた技術だ。
 メルルが自身の世界において錬金術を極めた存在だということを改めて実感してしまった。
 金塊を鞄へ片付けるメルルを横目に、はやてへと視線を向ける。
 流石の彼女も純金の塊を目にしたのは初めてだったのだろう。驚いた様子を引き摺ったまま、メルルの鞄を眺めていた。

「とりあえずわたしとしては、メルルさんとエヴァちゃんの二人にはお世話になったし、人柄もわかってるから文句なんてないけど……」
「こちらから頼んでおいてなんだが……いいのか、はやて?」

 ごく自然な声音で告げるはやてに問い直す。
 それをどう受け止めたのか――はやては、その表情を崩して大きく頷いた。

「うん、家族が増えるのは嬉しいからな。ただ、家族になる以上は堅苦しい感じは禁止や。それさえ守ってくれるなら、わたしは二人を大歓迎するよ」

 本当に嬉しそうな笑みを浮かべて、弾む声を抑えながら告げられるはやての言葉――。
 了承するという彼女の言葉に、思わず士郎はメルルやエヴァへと振り返り、互いに視線を交わし合った。
 楽しくなりそうだね、と笑うメルルと、まあこういうのも悪くはないと口の端を歪めるエヴァ――。
 どこか嬉しそうな二人を眺めながら、士郎はこれから訪れるだろう新たな日々を想像して笑みを浮かべるのだった。

「――そういえば、士郎は帰ってくる時にお土産を持って帰るって言ってたけど、まさか"人"を持って帰ってくるとはな~。流石のわたしもこんなお土産は予想外や」
「―――――――――――あ………」

 どこか冗談めいた口調で告げられたはやての言葉に、士郎は数瞬ほど動きを止めてから小さな声を零した。
 ――確かに、はやてとの別れ際には再会を誓う言葉を送っている。
 そして、その際にお土産を持って帰ってくることを確かに告げた事を思い出した。
 お土産を用意して帰ってくる事をすっかり忘れていた士郎は、にやりと意地悪そうに笑うはやて、メルル、エヴァの側で暫く自己嫌悪に陥るのだった。

 

 

Episode 35 -見上げた空-

 
前書き
第三章最終話の第三十五話です。
 

 


「――それでな、士郎は……」
「――なるほどね。だけどシロウは……」
「――おい、貴様ら……これは一体どういうことだ?」
「「……えっ?」」
「え――じゃない。だからこの状況の事だ。どうして私が貴様らと寝床を同じにしなければならないんだ?」
「だってなぁ。ほっといたらエヴァは士郎の部屋に行くつもりやろ?」
「そんなの駄目だよエヴァ。気持ちはわかるけど、何事も節度って大切だと思う」
「貴様らが何を想像しているのかは兎も角、あの男が"その程度"で靡くとは微塵も思えんがな」
「う~ん、確かにそうかもね。まあ、そういうのはいつか機会が来たら自然と…ね」
「エヴァとメルルは二人とも士郎の事を好いてるんやね。……やっぱり、士郎は"おんなたらしさん"なんや」
「メルルは兎も角、私はそうだと一言も口にした覚えはないぞ」
「見てたらわかるよ。エヴァは士郎と話してる時だけ声音が優しいからな」
「そうだよね。私やはやてには厳しいのに、シロウにだけは優しいもんね」
「――貴様ら。その薄い胸板に手を当てて、よくよく自分を振り返って見ろ。貴様らに遠慮する道理などあるわけがないだろう」
「じゃあ、エヴァは士郎には遠慮してるん?」
「少なくとも、貴様らに対してよりは確実に気を使って――じゃないッ! 話題を逸らすな!!」
「はいはい、あまり大きな声は出さない。耳に響くでしょ?」
「耳どころか体中に響いたやん。もう遅いんやし、そろそろ静かにしとかんとな」
「……はぁ」
「ほな、そろそろ電気消して寝ようか。もう日付変わってしもうたし」
「じゃあ電気消すね。ちゃんとお布団開けておいてね」
「了解や」
「………」
「ありがとね。それにしても、大きなベッドだね」
「わたしのお気に入りなんよ。こうしてると流石に少し狭い気もするけど、これはこれでええもんやし」
「………………おい」
「「うん? どうかした、エヴァ?」」
「――どうして貴様らは二人揃って左右から私に抱きついてくる?」
「エヴァは暖かいからな~。わたしとしては、これからもエヴァにはこの部屋で一緒に寝て欲しいくらいや」
「でも駄目だよ~。エヴァは私と同じ部屋で決定だからね、はやて」
「残念やけど仕方ないな~。けど、たまにはこうやって三人で寝るのもいいやろ?」
「うん、もちろん。だよね、エヴァ?」
「……はぁ…好きにしろ」





 ・――・――・――・――・――・





 この世界へ戻ってきてから迎えた最初の朝――。
 八神家の屋根の元で目覚めた士郎は、自身に割り当てられる事になった部屋で最低限の身支度を済ませてから部屋を後にした。
 そのまま静かに家を出た士郎は、メルルが新調してくれた拘束具を使用してから走り出す。
 "気"を全力で使用しながら、それらを精密に制御して町内を走り抜けていく。住宅地を離れ、臨海公園まで回ってから再び家へ――。
 この一連の流れを日課として始める事にした士郎は、これだけの事で想像以上に身体へ負担が掛かっている事を実感しながら家の前で息を整えた。

「……ふぅ。真っ当な鍛錬というのも……馬鹿には出来ないものだな」

 傍目には早朝ランニングにしか見えないという点も悪くないと笑みを浮かべる。
 実際は身体に尋常ではない負荷をかけ、"気"を全力で使用することで体力を極限まで使いつつ制御訓練も行えるのだ。
 これから先にどんな事が起きても後悔しない為に――。
 自身に妥協しない事を改めて心に定めた士郎は、呼吸が落ち着いた事を確認してから家の中へと戻った。

「――おはよう、エヴァ。この時間帯に君が起きているというのは珍しい気がするな」

 リビングに入ってすぐ目に入ったのは、庭と居間を繋ぐテラスに腰掛けている少女――エヴァの姿だった。
 時刻は午前六時――士郎にとっては普通の時間ではあるが、彼女がこの早朝に目を覚ましているというのは珍しいと言えるだろう。

「ああ、おはよう。恐らく体質が変わったからだろうな。特に朝が弱いというわけでもないようだ」

 落ち着いた声音で答えるエヴァの言葉に同意を返した士郎はコップに水を入れて一息で飲み干す。
 エヴァの視線は変わらず庭に向けられており、特に何をするわけでも無くのんびりと庭を眺めていた。

「メルルとはやては?」
「あの二人はまだベッドの上だ。二人並んで布団に潜っていたぞ」

 少しだけ呆れたように告げるエヴァの言葉に小さく相槌を返しながらコップを片付ける。
 朝食の準備を始めなければならない時間だが、どんなメニューにするのかを悩んでいた士郎は珍しく起きているエヴァへと尋ねてみることにした。

「今日の朝ご飯は何かリクエストがあるか?」
「ん~何でもいい……」
「何でもいいっていうのが一番難しいんだけどな……」

 答えながら冷蔵庫の中身を確認した士郎は、残っている材料などを流し見てメニューを決めることにした。

「パンが残ってたはずだから、簡単なサラダとミニオムレツ……果物はオレンジがあるし、珈琲は買い置きが――」
「――ふむ、そうだな。今日は紅茶を飲みたい気分だ」
「了解だ。そういえば、結局部屋割りはどうすることに決まったんだ?」

 問いかけると、エヴァは少しばかり疲れたというような表情を浮かべて見せた。
 それは昨夜の事――八神家で過ごすことになって初めての夕食を終えた後のことだった。
 これから同じ屋根の下で暮らしていく上で、まず決めなくてはならないのが各人の部屋割りだった。
 一階には家主であるはやての部屋があり、二階には個室として使える部屋が二つほどある。
 誰かが相部屋になる事は決まっており、男の士郎が個室であることは早々に決まったため、相部屋はメルルとエヴァになる予定だった。
 ところが、はやてがエヴァと同室がいいと発言し、私もエヴァと一緒の部屋がいいとメルルが悪ふざけ半分本気半分といった様子で宣言――。
 それならば、今日のところは三人一緒の部屋ということでどうだろうか…と。はやてが何の解決にもならない提案で纏めたのが、士郎が耳にした彼女たちの最後の会話だった。

「そもそも、貴様が早々に戦線を離脱したせいで二人の攻撃が私に集中したんだぞ?」
「無茶を言うな。俺にどうしろというんだ?」
「ふん。だから言ってやったのさ――ならば私は士郎と同室にするから、貴様らはそれぞれ個室ということにしておけ……とな」

 堂々と宣言するエヴァの得意げな姿に士郎は溜息を零した。
 どこまで本気でどこまで冗談なのか――。
 性格も生い立ちも何もかもが異なる三人だが、そうした性質だけは血の繋がった姉妹のように似通っているというのは如何なものだろうか。

「――いっておくが、冗談では無いぞ?」

 少しばかり艶やかな仕草を見せながら告げるエヴァの姿は、見た目からは想像も出来ないほど大人びている。
 ――とはいえ、そんなものに誘惑されるほど士郎も初心というわけではない。
 そもそも、そんな事になれば確実に八神家が物理的に吹き飛んでしまいそうな予感がヒシヒシと感じられたため、士郎は冷や汗を流しながら平静に答えた。

「……だったらなおさらだ。そんなことを口にしたら、あの二人が反対するのは当然だろう? 風紀が乱れるとな」
「む――確かに反対されたが……少なくとも、貴様が想像しているような理由だけで反対されたわけではないと思うがな」

 にやりと笑みを浮かべながら小声で何かを告げているエヴァに適当な相槌を返しながら作業を進めていく。
 四人分の朝食を用意しながら脳裏に描くのはフェイトたちのこと――。
 クロノやリンディから伝え聞いた限り、アースラは本日中には全ての事後処理を終えて次元の海に浮かぶという管理局本局へ向かうらしい。
 自身もそうだが、特になのはがフェイトとの挨拶を交わせるようにするとはクロノの弁である。

「――よし、これで完成だ。そろそろはやてたちを起こしてきてくれるか?」
「面倒だ。放っておけばそのうち勝手に起きてくるさ」

 ぶっきらぼうに告げるエヴァの言葉に応えるように、廊下の先から物音が聞こえてくる。
 微かに聞こえてくる会話から、メルルとはやてが揃って目を覚ましている事がすぐにわかった。

「――そら、起こしに行くまでもなく起きてきたぞ」

 得意げに告げるエヴァの言葉に合わせるようにメルルとはやての二人がリビングへとやってくる。
 揃って眠たそうにしているメルルとはやての姿は、まるで二人が本当の姉妹のように感じさせてくれた。

「う~おはよう。二人とも早いね……」
「おはよう、士郎。エヴァも早いな~」

 二人に挨拶を返しながら、士郎はテーブルの上に朝食を配膳していく。
 これから当たり前になっていく光景――。
 それがどれだけ貴重なものなのかを胸に刻みながら普段通りに朝の時間を過ごしていく。
 そうして――どこか嬉しそうなユーノからの念話が届いたのは、ちょうど朝食を終えた頃のことだった。


 -Interlude-


 陽に照らされた海を眺めながら彼女――フェイト・テスタロッサは、クロノやアルフと肩を並べて人を待っていた。
 一人はフェイトにとって正しく恩人とも言える人物である衛宮士郎――。
 彼のおかげで母であるプレシアはその命を繋ぎ、和解する切っ掛けや機会を手にする事ができたのだ。
 そんな彼に対して改めて挨拶をするのは当然の事だ。そしてもう一人は――。

「――フェイトちゃーん!!」

 元気な声を響かせながら駆けてくるのはすっかり見慣れてしまった少女――。
 彼女の肩に乗っていたフェレットのユーノはすぐに彼女の肩から飛び降り、側に立つアルフの肩へと乗り移った。

「僕たちは向こうにいるからな。時間はあまりないけど、ちゃんと話をするといい」
「うん、ありがとう」

 クロノからの言葉に応える彼女の表情は明るく、クロノたちが静かに離れていく姿を揃って見送った。
 ふいに視線と視線がぶつかり、互いに照れくさくなって笑い合う。
 それが――彼女の笑顔が、どれだけ自身の心を救ってくれたのかを実感して、先日の言葉を思い出しながら口を開いた。

「――本当は、もっと色々な事を話したかったんだ」

 謝りたいことも感謝したいことも沢山ある。
 何度も何度も声を掛けてくれて、ぶつかりあいながらも声を掛け続けてくれた彼女に――。

「――私もね、もっともっと話したいこと……言いたかったことがあるんだ」

 互いに同じような事を思っていた事を語り合い、二人揃って笑顔を浮かべる。

「だけど、こうして会える時間は限られてるから。だから、一番伝えたかったことだけでもちゃんと伝えたかったんだ」
「うん……」

 誰よりも自身の事だけを考えてくれた少女――。
 いまも、こんなにも近くにいてくれる彼女に、ありったけの感謝を込めて笑顔を向けた。

「ありがとう、なのは――」
「フェイトちゃん……」
「貴女と士郎が私と母さんを救ってくれた。確かに悲しいことも沢山あったし、これからも色々としなくちゃいけないことがあるけど――」

 今回の事件の責任は全て母であるプレシアが被ってくれた。
 自分の意思で事件に関わってきたフェイトにとって、それは受け入れ難いものだったけれど、母の心遣いを無碍に出来る筈もない。
 事件に"巻き込まれた"事になるフェイトだが、クロノたちの手伝いをすることで少しでも自身が犯した罪や母の罪を償っていけるのなら――。
 管理局の本局でこれから行われていく母の裁判を側で聞きながら、自身の進んでいくべき道を決めていきたい。
 だから、ここで彼女とは暫くの別れになってしまうけれど――。

「――この世界で君と出会えたこと。なのはと出会えてよかったって思う。だから、ありがとうなのは――」

 ありったけの感謝を込めて告げると、彼女は少しばかり放心して――。

「――~~~~ッッ!」

 表情を歪め、双眸からは涙を零しながら胸元へと抱きついてくる。
 声にならない泣き声を上げながら、彼女は堪えきれないといった様子で涙を流し続けた。
 詳しい理由なんて知らないし、わかるはずもない。それでも、フェイトにはどうしてか理由が分かる気がしていた。
 それぞれに抱えていた苦しみや悲しみ――言葉に出来ないそれらが触れあった場所から伝わってくるような不思議な感覚を覚えた。

「――泣かないで、なのは」
「――ごめんね……ありがとう……ありがとう、フェイトちゃん」

 それは何に対する感謝だったのか――。
 言葉を交わして、本当の心をぶつけあって、それでもまだ十分とは言えない程度の交流しか交わしていない。
 それでも――それでも、こうして言葉を交わすことのできる現在という奇跡に感謝しながら、フェイトは確信を抱いて彼女の肩を優しく抱きしめた。

「わかったことがあるんだ。こうして"友達"が泣いていると、自分まで悲しくなっていくんだって――」
「………フェイトちゃん」
「いまは離れ離れになるけど、それでもいつか必ず君に会いに来る。だから、その時にはまた君の名前を呼ばせてくれるかな、なのは――」
「うん……うん……私も、また呼ぶよ。フェイトちゃん――」

 そうして、静かに抱きしめ合って互いの存在を近くに感じながら目を閉じる。
 頬に触れ、髪を揺らす潮風を感じながら、自身を抱きしめる暖かな感触にフェイトは微笑を浮かべるのだった。


 -Interlude-


 二人が抱きしめ合って語り合う姿を眺めていたクロノは、自身の隣に座るアルフが涙を零している事に気付いた。
 それを慰めるように手を添えるのは、彼女の肩に乗っているフェレットのユーノだ。
 そんな二人の向こうから、すっかり見慣れてしまった男がゆっくりと歩いてきている姿が目に入る。

「――どうやら、ちゃんと話が出来たみたいだな」

 そんな言葉を口にしながら彼――衛宮士郎は、普段は見られない優しい眼差しをなのはたちへと向けるのだった。

「君はこれが見たくて頑張ってきたんだろう?」
「結果は二の次だったがな。俺は、なのはが真っ直ぐに自分の道を進んでいく手伝いをしただけで、彼女がフェイトと心を通わせる事が出来たのは彼女自身の意思と力だ」

 例えフェイトと心を通わせることができなくとも、なのはが後悔をしないように――。
 簡単に告げているが、それがどれだけ難しいものなのか――そんなことは今更語るまでもない。

「――士郎。本音を言えば、僕はまだ君を誘うことを諦めてはいない」

 特に気を張ることもせずに告げると、士郎は静かに言葉へ耳を傾けてくれた。

「僕は執務官だ。多くの人たちが平穏な日常を生きていけるように、これからも戦っていきたい。だからこそ、本当は君のような人にこそ手伝って貰いたいと思っている」
「……ああ」
「だけど、無理強いはしない。ただ、また何かがあれば遠慮無く頼ってくれ。管理局の執務官としても、クロノ・ハラオウン個人としても力は尽くす」

 短い付き合いだったが、彼と知り合ったことで再確認した自身の決意と想い――。
 自らの行動と言動を以て一つの道筋を見せてくれた彼に、出来る限りの感謝と敬意を込めて頭を下げた。
 
「――ありがとう。君のおかげで、救えなかったかもしれない人や失うかもしれなかった想いを守る事ができた」
「……参ったな。これまで疎まれる事は多くあったが、そこまで真っ直ぐに感謝をされたのは――さて、いつの事だったか……」

 懐かしむような声に頭を上げると、彼は少しばかり戸惑った様子を見せていた。
 
「クロノ――また何かあれば、気軽に声を掛けてくれ。俺が力になれることなら喜んで手を貸そう。こちらの事情を慮ってくれる君の頼みなら、きっと力になれるはずだ」
「ああ……その時は是非――」

 告げて片手を差し出すと、彼は快くその手を取ってくれた。
 その手から感じられる彼の強い信頼を裏切る事のないように歩んでいく。
 決意は胸に、これからも真っ直ぐに歩んでいく事を誓うように、強く……強く彼の手を握り返した。


 -Interlude-


「――さて、そろそろ時間だ。済まないが、もういいか?」

 向かい合って話をしていたなのはとフェイトに向けてクロノは申し訳なさそうに告げる。
 そんなクロノの言葉に振り向いた二人は、共に髪留めを外した状態で頷き合っていた。
 互いの髪留めを交換して別れの挨拶を交わす二人を眺めながら、アルフは主であるフェイトの側へと歩み寄っていく男の背を眺めていた。

「……士郎。その、なんて言ったらいいか……色々とありがとう。感謝しても足りないくらいだけど、士郎には本当に色々と助けてもらったから――」
「――さて。俺がした事と言えば君を投げ飛ばし、君の話を聞き、君の悩みを聞いたくらいだが……それが助けになったというのなら感謝は素直に受け取ろう」

 ぶっきらぼうな言葉にフェイトは嬉しそうに笑みを浮かべていた。
 突き放したような言動や冷静な態度が誤解を招きそうになるが、彼がフェイトとプレシアを救ってくれた事実は消えない。
 プレシアの命を救い、心を救って――それがフェイトの心を救う事に繋がった。
 そして、フェイトの姉であるアリシアのことも――。
 アリシアの遺体はプレシアの同意の下、アースラにて丁重に葬られる事が決まっている。
 それはプレシアやフェイトにとって、これからを生きていくために避けて通れなかったものだ。
 二人が未来へ向けて歩いて行ける――それは間違いなく彼の……士郎のおかげだろう。
 いま――フェイトから感じられるのは、目前にやってきた男に対する溢れそうな感謝の心と強い好意だ。
 この世界にやってきて、こうして事件を通じて出来た友人……高町なのはを導き、フェイトとなのはを見守り続けてくれた人――。
 そんな彼に対してフェイトが惹かれているのが、アルフにはハッキリと感じ取れていた。

「それだけじゃないです。私がなのはと友達になれたのも、母さんが笑顔を浮かべてくれるようになったのも――全部、士郎のおかげだから」
「それは買い被りだ。なのはが君と友人になりたいと望み、プレシアが君と過ごしたいと望んだからこその結果だ。事実、俺はプレシアが君を受け入れようと拒絶しようと構わないと思っていた」

 士郎曰く――プレシアは当初、生きる目的さえ見失っていたのだという。
 そんなプレシアに生きろと――死を選ぶなら、せめてフェイトと会話を済ませてからにしろと告げたらしい。
 もし彼女がフェイトと会った後も死を望むのなら、自身の手でその命を断つと誓って――。

「――結果が良い方へと傾いたのは皆がそのように望んだからだ。俺の力では断じてない」
「でも……だけど――」
「だからフェイト――君は、君が行ってきた行動や抱いてきた想いを誇っていい。プレシアが決意を固める事が出来たのは、間違いなく君自身の功績なのだから」

 満面の笑顔を浮かべて告げる士郎の言葉に、フェイトは一瞬だけ驚いてから決意の表情を浮かべて頷いていた。

「アルフ。君もプレシアには色々と思うところがあるとは思うが――」
「――うん、わかってるよ。だけどアタシはフェイトさえ幸せならそれでいいんだ。あの人がフェイトを傷つけず、守りたいって言うならアタシはそれを見守るだけだよ」

 個人的に思うところがないのか――そう尋ねられたら迷うこと無く首を横に振るだろう。
 ――起きたことは覆せない。
 それでも、フェイトのために生きると告げた今のプレシアは信用できるから――。
 なら、これからの二人を見守り続けて、二人が幸せになってくれるように祈るのが使い魔としてのアルフの願いに他ならない。

「そうか――」
「フェイトを助けてくれたこと――フェイトの未来を守ってくれたこと……本当に感謝してる。ありがとね、士郎」
「主を守りたいという君の気持ちはそれなりに分かるつもりだ。今後も努力を怠らず、彼女を守れるように頑張るといい」

 笑顔を浮かべて告げる士郎の眼差しは強く――。
 そこには誰かを守るということ――その意味と大切さを思い起こさせる何かが秘められているようにも見えた。


 -Interlude out-


 転送の光に包まれて去っていくフェイトたち――。
 ユーノを肩に乗せたなのはは、自身の視界から消えていく人影を士郎と二人肩を並べて見送った。

「――行ってしまったな」
「――うん」

 少しばかり物悲しい雰囲気を感じながら、士郎の言葉に小さく頷く。
 それでも、いつ会えるのかはわからないけれど近いうちに必ず会えると信じているから――。

「――ありがとうね、士郎くん」
「ん? 何がだ?」
「フェイトちゃんとの事だよ。私がちゃんとフェイトちゃんとお話できたのは、きっと士郎くんのお手伝いがあったからだから」

 士郎のおかげだと――そう告げても、きっと彼は遠慮がちにそれは違うと口にするだけだろう。
 だから、告げる言葉はこれでいいのだと自身を納得させながら、本音とは少しだけ違う遠回しな表現を用いて感謝の言葉を口にした。

「俺がいなくとも、君はきっとフェイトを追いかけて話をしていたと思うがな」
「うん、自分でもそう思うんだけどね。でも、そんなもしもの話じゃなくて――」

 ――現実に士郎はここにいて、共に戦ってくれたのだ。
 そんな彼のおかげで事件の解決も理想的な形で迎えられたのだから――。

「――私がこうしてフェイトちゃんとお友達になれたのは、士郎くんやユーノ君が私を助けてくれたからだもん。それは間違いないでしょ?」
「……む」
「だから――ありがとう士郎くん」

 これまでの様々な出来事を思い返しながら、心の底からの感謝を口にする。
 それを困ったような顔で受け取ってくれた士郎を見上げながら、なのはは静かに歩き始めた。
 
「――そういえば、君と始めて出会ったのもこうして海を望める場所でのことだったな」

 後からゆっくりと――けれど、離れることなく着いてくる士郎の言葉に数週間以上も前の事を思い返す。
 寂しさと悔しさ――自身の力の無さを自覚し、やるせない想いを吐き出すために頻繁に訪れていた埠頭での出来事を思い出していく。

「……あれからまだ一ヶ月も経っていないんだね」
「そうだな。随分と長い時間を共にしてきた気がしていたが――」

 彼と出会い、魔法と出会い、事件に身を投じて様々な出来事を経験してきた。
 きっとそれは普通に生きていても、いつかは直面する事になる出来事と本質的には変わらないことなのだろう。
 人との出会いと別れや人生を左右する何かとの出会いや出来事――。
 なのはにとって、その全ての始まりこそが士郎との出会いに他ならなかった。

「なのは。君はこれからも魔法と付き合っていくのか?」
「……うん」

 少しばかり声音の変わった士郎の問いかけに僅かばかり考えてから答えた。
 ――魔法の力。
 それは決して"夢の力"などではなく、どこまでも現実的で強力な"力"そのものだった。
 けれど、どんな力も使い方次第だと――大切なのはそれを扱う人間だと教えてくれたのは肩に乗るユーノと隣を歩く士郎だ。
 泣いている誰かの力になってあげたいと――そんな自身の想いを貫き通す……そのための"力"として受け入れ、手にした力を否定する事も拒絶することもしない。

「――まだ考え中だけど、魔法にはこれからもずっと関わっていくつもりだよ」

 だからこそ、自身の意思で得た力を投げ出すことも置き去りにすることもしない。
 この力と共に生きていく――そんな決意を込めて士郎を見据える。
 なのはの視線に気付いた士郎は、少しばかり心配そうに小さく笑みを浮かべていた。

「……そうだな。君はもう、自身の戦う理由や目的を自分自身で決める事ができるのだったな」

 何かを噛み締めるような響きを持った言葉――。
 彼がどんな事を考えているのかは想像することすら困難だったが、彼の声がどこか寂しそうに聞こえたのは決して気のせいではないはずだ。

「――士郎くんは……これから、どうするの?」
「元の生活に戻る――というと少し違うのだろうが、これからも俺は俺の日常を生きていくつもりだ。そういう意味では、俺も君も変わらないのかもしれないな」

 互いに歩む道は異なっていても、向かう方向は同じだと――。
 空を見上げながら、少しだけ嬉しそうに呟かれた士郎の言葉になのはも同意するように頷いた。
 一度、自身の肩に乗っているユーノと視線を交わして頷きあってから、隣を歩く士郎へともう一度視線を向ける。
 まだ見上げるように差のある背丈――見た目以上に大人びた士郎と、本当の意味で肩を並べる事の出来る大人になっていきたい。
 なのはが知る限り誰よりも強い彼から心配されるだけではなく、対等の人間として信用され、信頼されるように――。

「これからもよろしくね、士郎くん」
「ああ、こちらこそ。よろしくな、なのは」

 どちらからともなく互いに視線を交わして笑みを浮かべる。
 今はまだ遠い目標だが、いつかは必ず追いついて肩を並べたいと思わせてくれた人――。
 そんな彼と共に歩みを再開したなのはは、決意と覚悟を胸に秘めて空を見上げた。
 青く広がる空――空を飛ぶ事を覚えた少女は、見上げる空と自身に誓いを立てて真っ直ぐに歩いていくのだった。

 

 

登場人物設定集ーメインキャラ編ー

 
前書き
設定資料の一部です。
本編中にこれまで登場した設定や裏設定など、今後のネタバレにならない程度に掲載しています。
かなり初期に作成したモノに手を加えたものなので、本編中と一部設定がかみ合わない――等というおかしなことがありましたら、是非ご報告ください。
今回の更新ではメインキャラだけとしていますが、こうした形で問題がなさそうなら順次キャラクターを追加したり、作中で登場する設定などの解説も載せていこうかと思っています。 

 
キャラクタープロフィール(第三章終了時点の主要人物)


衛宮士郎(エミヤシロウ)

年齢:15歳(実年齢120歳以上?)
身長:170.1㎝ 体重:66㎏


略歴

赤銅色に近い短髪が特徴的な設定年齢15歳の少年。
普段の雰囲気が柔らかいため、幼さが残っているように見える。
実年齢は120歳ほどで、錬金術士メルルの作成した若返りの妙薬によって見た目も精神も十代半ばの少年となっている。
思考力が落ちているわけではないが、意識していないと見た目そのままな態度が表に出てしまうため、普段からそれなりに気を張っている――つもり。
無駄のない筋肉質な身体をしていて、同年代の少年たちと比較するまでもなく屈強で、見た目に反して体重が重たい。
幼い頃に住んでいた街を襲った大災害に巻き込まれて天涯孤独となっており、死の直前にあった自身を救ってくれた男、衛宮切嗣の養子となった過去を持つ。
亡き養父との誓いから「全てを救う正義の味方」を志していたが、聖杯戦争と呼ばれる争いに巻き込まれていく中で「誰かのための正義の味方」となる事を決意――。
それまでの自分を形成していた全てを裏切り、たった一人の味方となるために死闘を繰り広げていく。
結果として、その戦いの終焉と共に死亡――肉体は死滅したが、第三魔法と呼ばれる奇跡を受けて曲がりなりにも生き延びる事となった。
その後は紆余曲折あり、結果として月の聖杯と呼ばれるモノに触れた彼は自身が生きていた時代よりも数十年後の故郷へと帰還し、自身がかつて守ると誓った人と再会――最後の別れを済ませて故郷を後にしている。
故郷を後にしてからの百年余りは戦場から戦場へ――争い続きの日々を送っている。
その末に再びの死を迎えようとした彼は一人の魔法使いに誘われ、異なる世界で孤独に生き続けた魔女の元へと辿り着くのだった。

人物

幼少期の経験から人のために生きねばならないという強迫観念にも似た義務感を背負っているが、聖杯戦争の最中にそれを裏切り続けていく事を決意している。
過去の経験から争いも平穏も日常だと認識しており、剣を執って戦う事も美味しい紅茶を淹れることも彼にとっては当然のように訪れる日常でしかない。
実は、本来なら殆ど感情を揺らすことのない人間味の薄い人物だったのだが、作中冒頭の出来事で肉体を得た後、肉体的に若返った事で精神にも強い影響を受けている。
そのため「あらゆる出来事に対して達観的」だった彼は、「物事を達観的に捉えながら個人的な感情で行動を決定する」というある意味矛盾した精神性を獲得し、本人もそれを悪くないと受け入れている。
思考や性格が変わったわけではないので基本的には理知的に行動するが、自身の感情を揺さぶるような場面に遭遇した際には感情を露わにすることもある。
肉体的に若返った影響として、過去の摩耗した記憶や感情を思い出すことがあり、それをきっかけとして作中では大きな事件に関わる事となった。

能力

魔術と呼ばれる神秘――その一つである投影魔術と呼ばれる特異な魔術やモノの特性や性質を増強する「強化」の魔術を主とする魔術使い。
自身の心象風景を現実世界に具現化する大禁呪にして大魔術である「固有結界」の使い手であり、「無限の剣製」という固有結界を展開することができる。
限界値はあるが、およそ目にした全ての剣をほぼ完璧に再現して貯蔵――投影魔術によってそれらを取り出すことで数多の武器を使用する。
そのため、ある意味では武器庫とも解釈できることを幸いに、彼は対外的には自身の魔術について「武器庫から魔術を使って武器を取り出している」と説明している。
剣に偏った魔術特性を持つが、その本領は百発百中の腕前を誇る「弓」及び「射出」にあり、「強化」によって自身の目を強化した場合、遮蔽物がなければ十数キロ先の目標に対する精密狙撃を容易に行えるほどの腕前を誇る。
元々剣の才能に恵まれていたわけではないが、長い年月と経験から研ぎ澄まされた剣技は超一流の使い手たちには一歩及ばないまでも間違いなく一流以上――。
自身の固有結界の中に保有している伝説の武器――いわゆる聖剣、魔剣、名剣などの武具は千を軽く越えており、それら全てを使い手並に操るだけの技量と経験を保有している。
様々な死闘や争いを潜り抜けてきた経験値に加えて、聖杯戦争の最中に失った自身の左腕に移植した英霊の腕から得た戦闘知識や経験を"とある理由"でほぼ完璧に得ており、実際よりも遙かに長大で膨大な経験値を保有している。
物理的な戦闘能力だけなら彼を上回るはずの者たちが、総じて彼に対して確実な勝利を連想できないのは、そうした士郎の特異な事情に依るものである。
現在はメルルの協力の下、肉体そのものを鍛えながら魔導と呼ばれる科学的な魔力運用と"気"と呼ばれる身体に宿るエネルギーを活用した技術を習得しようとしている。



メルルリンス・レーデ・アールズ

年齢:約900歳(推定値であり、実際は1000歳に限りなく近い)

身長:159㎝ 体重:??㎏


略歴

かつて辺境の地にあったアールズという小国の元王族にして、世界にその名を刻む伝説の錬金術士。
見た目は14、5歳の少女だが、実際には1000年近くを生きてきた自他共に認める"魔女"。
元々は人口100人程度の小さな国の姫として過ごしていたが、国王の決断により共和国へと移行する事が決まったことが彼女の人生の転機となった。
開拓事業の一環としてアールズを訪れた凄腕の錬金術士トトゥーリア・ヘルモルトが使用していた錬金術に対する好奇心から彼女の押しかけ弟子になり、やがて国の開拓事業へと乗り出していく。
様々な経験を通して国を発展させた後、共和国となって王族でなくなった彼女は師たちと共に錬金術を極めようと研鑽を積んでいく。
錬金術の粋を集めた妙薬で不老不死となった彼女は、その後も錬金術を極めんとして長い年月を過ごしていった。
数百年を過ごしている内に一人――また一人といなくなり、最後には彼女だけが残り、いつしか「魔女」とまで呼ばれる存在に成り果てていった。
そうして時が過ぎると共に生きていくことそのものに飽きてしまった彼女は、大陸を襲った流星の残骸から見た事の無い素材を発見し、それを使用した実験を最後に自身の人生に終止符を打つ事を決めていた。
その実験にて予期しなかった現象が発生し、出現した謎の空間から現れた一人の男との出会いが、彼女に再び生きる気力と目的を呼び覚ますのだった。

人物

王国の王女として生まれ育った彼女だが、基本的には常識的な価値観を持った明るく前向きな女性である。
錬金術にも好奇心から手を出しているが、やがて自国の開拓へ本格的に乗り出したのは王族としての責務を自覚していったからに他ならない。
国のため――ひいては国民のために錬金術を学び、それを極めていこうとした好人物だが、長い年月を生きていく内に目的を遠ざけてしまい、手段に傾倒していった。
その結末こそが悠久の孤独――長い年月を費やして極めた錬金術だが、それを使うための目的を失った彼女は自身の生涯に強い後悔と無力感を覚えており、やがて生きていくことそのものに意味を見出せなくなっていく。
そんな彼女の前に現れたのが元の世界で過酷な生涯を生き抜いてきた男――衛宮士郎だった。
自身とは真逆の生き方を貫き通した彼の生き様を聞き知り、自身の過去を明かしてさえ態度を変えなかった彼に興味を抱いた彼女は、自身がかつて作った薬を彼の治療に使用。
その結果を受けた彼が浮かべた笑顔と感謝の意思こそが現在のメルルを生かしている全てであり、そんな彼女にとって士郎と共に過ごすことは生きる事と同義であり、それは互いに異なる世界へ移動した後も変わることはなかった。
現在彼女が生き甲斐としている「見果てぬ世界を旅していく」という目的は、正しくは「シロウと共に様々な世界を旅していく」というもので、そこに士郎は一切気付いていないのだが、メルルとしては側に居る事が第一の目的であるため然したる不満は抱いていない。
士郎に対して強い信頼と友情、そして愛情を抱いている事を自覚しており、特にそれを周囲に隠そうとはしていない。また、士郎以外の人間に対しては基本的に明るくお調子者な様子を見せるが、時折真剣な様子を見せることもある。

能力

錬金術という学問を修め、自身の生きた世界においてはそれを極め尽くした超一流の錬金術士。
材料と明確な目的があればどんな物でも作成することのできる万能さを誇るが、逆に言えば材料が無く明確な目的がなければ作る物が定まらないという弱点を抱えている。
彼女が常に肩から腰に提げている鞄は彼女特製の素材と効果を持った物で、実際には見た目の十数倍以上の容量を誇る。
中身はメルルによって完全に整理されており、彼女がどの世界に移動しても即席でアトリエを構えてしまうのは、鞄の中に錬金釜を始めとした各種の道具を備えているからである。
この鞄を使用する際にも錬金術を応用した技術が使用されるため、現在に於いては事実上彼女以外には扱えない代物である。
過去に作成した危険極まりないものから、戦闘などにおいて使用可能なもの、日常的に活用できる便利な小道具まで様々な道具を所有している。
錬金術そのものは学問として成り立っているため、その気になれば誰にでも使用できるが、その出来映えなどは多分に個人の資質が関わってくる。
そのため、仮に彼女以外の人間が彼女と同じように錬金術を使おうとしても、彼女と同じ事が出来るというわけではない。
錬金術士としての彼女は作成したアイテムの効力を強めたり、素材そのものが持つ力を最大限に引き出すことの出来る「ポテンシャライズ」と呼ばれる能力を保持している。



高町なのは(タカマチナノハ)

年齢:8歳

身長:129㎝ 体重:24㎏


略歴

私立聖祥大付属小学校に通っている小学3年生の少女。
およそ争い事とは無縁の生活を送っていたが、公園で傷だらけのフェレットを助けたことが彼女の転機となった。
脳裏に直接響く助けを求める声――魔法の才能ともいえるリンカーコアと呼ばれる器官を備えていなければ反応できないそれに反応した彼女は争いの渦中へと足を踏み出していく。
傷だらけのフェレット――ユーノ・スクライアに魔法の才能を見出された彼女は、自ら進んで彼への協力を申し出ている。
その背景には、かつて幼かった頃に父親が事故で死の淵を彷徨っていた際に、何の力にもなれなかった悔しさと寂しさがあった。
争いの中で知り合ったフェイト・テスタロッサが抱えている感情に強く反応した彼女は、そういった背景を背に戦いの日々を送っていく事となった。
やがて争いが終結し、フェイトとも友誼を結んだ彼女は魔法の師となってくれたユーノと共に日々魔法使いとしての力量を向上させようと努力している。

人物

明るく優しい性格をしており、強い正義感を持っている。
辛いことや悲しいことを抱え込んでしまう傾向があるが、そうした感情の機微に聡い士郎と接する内にそれを強く自覚しており、それらを余り表に出さないように努力している。
他人に対する気配りが出来る…とは側にいるユーノ、士郎の二人が共通して彼女に抱いている認識だが、それが行き過ぎてしまわないかと心配もされている。
自身と同じような想いを抱いていながら己の道をしっかりと歩み、常に一個人として接してくれる士郎に対して絶大な信頼を抱いている。
年上の士郎に対して友人として接するようになり、彼を等身大の個人として見ている内に彼が抱えている様々な思いや覚悟を本能的に感じ取っている。
いつか士郎と肩を並べるに相応しい大人になりたいと思っているが、士郎を支えたいと願う自身の想いが何に起因するものなのか――ということは未だ自覚していない。

能力

管理外世界である地球出身者としては極めて希だが、魔導師としては天才と呼べる素質があり、「魔力収束」と呼ばれる希少なレアスキルを保有している。
衛宮士郎とユーノ・スクライアの二人に師事し、実戦を繰り返していく中で急速にその才能を開花させていった。
膨大な魔力を生かした堅牢な防御と砲撃に特化した魔法適正、そして元来有していた特異な空間把握能力を磨き上げ、魔法と出会って一ヶ月余りとは思えないほどに完成された空戦魔導師となった。
魔導師としては元来、固定砲台として成長していくタイプだが、実戦での必然性や士郎、ユーノの指導もあって単身で戦闘を行う砲撃魔導師としてのスタイルを完成させている。
相手の攻撃を受け止め、誘導弾などで相手の動きを封殺し、拘束魔法で動きを止めて、貫通力の高い砲撃で仕留めるという重装高火力型の魔導師である。
余談であるが、事件後に好奇心からレイジングハートとユーノに協力してもらって構築した仮想データ「衛宮士郎」とのイメージバトルを行ったことがあるらしく、その時は数十秒で瞬殺されたらしい。
基本的に遮蔽物のない空を主戦場とし、相手の攻撃を受け止めてから反撃――というスタイルのなのはにとって、音速を遙かに超える速度の狙撃で魔法による防御を容易く抜いてくる士郎は天敵ともいえるほどに相性が悪いとはユーノの弁である。



エヴァンジェリン・A・K・マクダウェル

年齢:約600歳(見た目は10歳程度)

身長:130㎝ 体重:??㎏


略歴

なのはたちが暮らす地球とは異なる地球の出身で、裏の世界では元々600万ドルの賞金首でもある。
見た目は10歳程度の女の子だが、その正体は吸血鬼の真祖にして老練の魔法使い。
魔法世界では「闇の福音」「人形使い」「不死の魔法使い」「悪しき音信」「禍音の使徒」「童姿の闇の魔王」などの様々な異名で恐れられている。
十数年程前にサウザンドマスターと呼ばれる魔法使い、ナギ・スプリングフィールドによって「登校地獄」の呪いを掛けられ、麻帆良学園に封印された。
ナギが故人となったため、その強力な魔力によって強引に施された呪いを解くことが誰にも出来ないまま麻帆良学園で十数年間も中学生を繰り返していた。
そんな彼女の転機となったのが衛宮士郎との出会いである。
彼の所有する契約破りの宝具によって呪いを破戒された彼女は晴れて自由の身となったが、同時に自身を真祖の吸血鬼とした秘術も破戒され、自身の肉体に多大な影響を受けている。
自身でさえどのように変化したのかが把握できていないため、それを口実に士郎たちの世界移動に付き合うことを決めた彼女はようやく得た自由を満喫するために元いた世界を後にするのだった。

人物

元々は中世のヨーロッパに生まれた人物で、幼い頃はどこぞかの領主の城に預けられて何不自由ない暮らしをしていたらしい。
弱者を弄るような行為は善しとせず、女子供は殺さないというポリシーを持つ悪の魔法使い。
元々は普通の人間であったが、10歳の誕生日に目覚めたときには既に真祖の吸血鬼となっていた。
自身を吸血鬼化させた人物に復讐を果たした彼女はその後、数百年間を生き延びてきたが、生き延びるために多くの人間を殺しており、それ故に自らを「悪の魔法使い」と呼んでいる。
そうした過去の行いから、これからも悪として生きていくことしかできないと考えており、士郎の宝具によって肉体的変化を自覚した後もそれは変わっていない。
基本的に尊大な態度を取っているが、意外と情に弱く、慌てたり涙ぐんだり動揺したり物事の貸し借りにこだわるような一面がある。
サウザンドマスターに対して思慕の念を抱いていたらしく、彼がいつか呪いを解いてくれるという約束を胸に人間社会の中で生きていたが、彼が故人となったことでその行為に意味を見出せなくなっていた。
士郎との出会いは、そんな彼女にとって奇跡にも等しく感じられており、士郎と接する内に彼女はかつて捨て去った想いを取り戻していった。
呪いが解けた後、士郎たちについていくことを決めたのは、自身の内に抱いている正体不明の感情の正体を知るためであり、その対象である士郎を自身にとってある意味で特別な人間だと自覚している。
士郎の影響からか――その時その時の状況を楽しむ癖がついてきており、稀に自分でもおかしいと思うような行動をしては首を傾げつつ、かつての自分との差異を楽しんでいる。

能力

元は氷系と闇系の魔法を得意とする悪の大魔法使いだが、呪いを解く際の影響から魔力を殆ど失っており、大多数の魔法が使用できない状態となっている。
同時に真祖の吸血鬼としての固有能力の殆どが使用できなくなっているが、人形使いのスキルや達人級の体術などは健在で、余程の相手でもない限りは現状でも対応できる程にその力は計り知れない。
魔法そのものを失っているわけではないらしく、自身の魔力さえ用意できるなら現状でも大魔法などを使用することは可能らしい。
魔法を使用する際の始動キーは「リク・ラク・ラ・ラック・ライラック」。



 

 

Episode 36 -新たな日常-

 
前書き
第四章開始です。
 

 
 
 五月の連休を終えて少しずつ暖かくなってきた最初の週末――。
 少しばかり街並から離れた場所に建つ月村邸の一室で四人の女性がそれぞれに対面している様子を彼――衛宮士郎は部屋の片隅から眺めていた。

「エヴァンジェリンさんとメルルリンスさん――でしたね。まさか、士郎くんの"知り合い"と会える日が来るとは思っていませんでした」
「私もエヴァもシロウとは畑違いだけどね。そういえば、貴女はシロウの後見人をしているって聞いたけど――」

 数少ない知り合いということでメルルとエヴァの二人を月村邸へと連れてきた士郎だが、それには理由がある。
 この世界において、士郎の裏の顔を少なからず知った上で身元を保証してくれているのは月村の当主である忍だからだ。
 そういう人物がいるとメルルに伝えた所、彼女は手土産を持参した上で忍と面会する事を望み、本日こうして実現に至ったのである。

「ええ、色々とありましたので。士郎くんは信頼に値する友人だと思っていますし、彼がここで過ごしやすいように手を出させてもらったんです」
「シロウが言っていた通り、いい人なんだね。そんな貴女を頼りにさせてもらおうと思って、今日はこんなものを持ってきたんだけど――」

 告げてメルルが取り出したのは巨大な金塊――。
 この世界に戻ってきた日に士郎たちが目にした物と同じ、重さ数キログラムはあるだろう純金の塊だった。

「――これは……金ですか?」
「うん。今の私じゃこれを売るのに手間が掛かるから、これを貴女に預けたいの。対価は私とエヴァの身元の保証及び売却価格の五割――ということで……どうかな?」

 提示されたその条件に忍は一度目を細め、メルルへと視線を向けてから小さく息を吐いた。
 凛とした様子のメルルを見て、そこからどのような意図を読み取ったのか――。
 忍は静かに瞑目しながら少しだけ佇まいを正し、目前に座るメルルを見据えるようにゆっくりと目を開けた。

「対等な契約関係をお望みということですね……わかりました。この件に関してはきちんとした契約として扱わせていただきます」
「ありがとう。それで、結果はいつ頃に?」
「明日までには全て滞りなく」
「なら、明日またここに来ることにするね。他にも色々と頼みたいことがあるし、これを機に個人的にも良好な関係を築いていけると嬉しいな」
「ええ、こちらこそよろしくお願いします」

 どちらも手慣れた様子で契約を纏めていく様子を眺めながら静かに紅茶を準備していく。
 ふいに気になってメルルたちとは別の場所――窓辺に配置されたソファの上で対面しているエヴァとすずかへと視線を向ける。
 見た目の年齢は似通っている二人――会話までは聞こえてこないが、二人の間にある雰囲気はどう見ても年長者と年少者のそれである。

「……ふむ。まあ険悪というわけでもないか」
「――ご友人方の事が心配なのですね」

 ティーセットの準備を終えた事を確認したのか、側にやってきた月村家のメイドであるノエルが声をかけてくる。
 心配であるかどうかと問われれば心配であると答えるだろう。
 とはいえ、士郎が心配しているのはエヴァやメルルではなく、彼女たちの相手をしているすずかや忍のことではあったのだが――。

「メルルとエヴァは意外と相手に遠慮がないからな。もっとも、俺も人のことは言えないが……」
「士郎様は十分以上に相手を気遣っているように感じていましたが?」
「まあ、それなりに近しい相手には……な。だが相手と状況次第では相応の態度を取っている自覚はあるのさ」

 初めて忍と顔を合わせた時や、クロノとの最初の対面などを思い出しながら告げる。
 実感が伴った言葉だったからか、ノエルは具体的な事は聞かないまま納得した様子で頷いていた。

「士郎様のご友人――私は詳しくは聞いていませんが、"裏"に関わる方々ということでよろしいのでしょうか?」
「ああ、俺とは少し事情が違うがな。もっとも、メルルのほうはあの通りだから心配はいらないようだが……エヴァのほうがな――」
「エヴァンジェリン様――ですか? 不躾な質問になるのですが……その、エヴァンジェリン様は"夜の一族"と何か関わりが?」

 ノエルからの質問に少なからず驚きながら、それを表に出すこと無く首を横に振った。

「いや、関わりはないはずだ。ノエルの目から見て、エヴァは何か違って見えるのか?」
「そういうわけではないのですが、すずかお嬢様の態度や忍お嬢様が"身内"に向けるような視線を彼女へ向けている事から推察したまでです」
「身内というのは吸血鬼――ということか?」

 少しだけ声のトーンを落として尋ねると、ノエルはゆっくりと首を縦に振った。
 その視線はすずかとエヴァへと向けられており、同じようにそちらへと視線を向けてみれば変わらず真面目に対談している二人の姿があった。

「そうだな。特に本人も隠すつもりはないだろうが、吸血鬼のような存在――と思っていてくれると助かる」
「そうでしたか。お年も同じ頃に見受けられますし、すずかお嬢様の良き理解者になっていただければよいのですが……」

 年齢は兎も角、すずかにとって家族以外に自分と同じような存在を目にしたのは初めてなのだろう。
 あの二人がどのような会話をしているのかは士郎も気になっていたが、時間は刻一刻と過ぎている。
 全員の希望だったとはいえ、紅茶を用意するという約束を引き受けた以上、翠屋での仕事前にそれだけは済ませて行かなければならないからだ。

「――よし、これで準備は完了だ。済まないが、後は任せていいか?」

 すぐに紅茶をカップへ淹れることの出来るように支度を整えてノエルへと語りかける。
 今日に限ってファリンは所用で出かけているとのことで、全ての雑事をノエルが引き受けているらしい。
 そんな事情を前提とした忍やすずかの提案――それに悪乗りしたメルルやエヴァの要望から、士郎は今回も執事の仕事を引き受けていたのだが――。

「――もちろんです。見事な手際で、大変良い勉強になりました」
「ノエルの紅茶を飲み慣れている忍たちに出す以上は手を抜けないからな。それでは、よろしく頼む」
「はい、お任せください」

 簡単な挨拶を済ませて視線を忍たちへと向ける。
 彼女たちも時間は気にしていたらしく、全員の視線が士郎へと向けられていた。

「済まないが、俺はこれで失礼する。メルル、エヴァ――二人はどうするんだ?」

 問いかけるように告げると、メルルは忍に簡単な挨拶をしてからゆっくりと立ち上がった。

「私も失礼するつもりだよ。明日にはもう一度ここに来るつもりだし、今日はこの後に用事もあるしね」

 メルルの用事というのは、病院で検査をしているはやての迎えに違いない。
 朝から病院へ定期検診に向かったはやてだが、終わるのは正午過ぎと言っていたので今から向かえば丁度いい頃合いだろう。

「そうか。エヴァはどうするつもりだ?」
「私はもう少しここに残るつもりだ。後で貴様の勤めているという喫茶店を覗くつもりだが――」
「――あ…その、案内は私がしますので。士郎さんは安心してお仕事頑張ってください」

 答えたエヴァの言葉に被せるようなすずかの宣言――。
 二人の関係がどのように落ち着いたのか興味はあったが、少なくとも友好的ではない――ということはないらしい。

「わかった。なら、また後で会おう」
「ああ。いいから、さっさといけ。遅れてしまうぞ?」

 邪魔者を追い出すように手を振るエヴァの姿に苦笑してから部屋を後にする。
 そうして月村邸の外へと足を運び、敷地の門前でメルルと顔を見合わせた士郎は、彼女と肩を並べたままゆっくりと歩き出した。

「忍との契約……随分と手慣れていたようだったが?」
「リンと一緒に生活している内に自然と身についたみたい。実際、一緒に過ごしてた時間は長かったしね」

 凛とメルルが共にそれぞれの目的を以って協力関係にあったという話は士郎も聞いている。
 具体的にどのように過ごし、どのような世界を旅してきたのかは聞いていないが、少なくとも平穏無事という事はなかったのだろうと勝手に推察していた。

「時間だけ見れば、俺が遠坂と過ごした時間よりもメルルが一緒に過ごした時間のほうが遥かに長いわけか…」
「まあそうだけどね。でも、リンにとってシロウは少し特別な存在なんだと思うよ。その、妹さんの事もあるんだと思うけど……」

 少しばかり遠慮した声音で告げるメルルの姿に笑みを浮かべて応える。
 気にするな……と、そんな意思を込めて――。
 色々と事情を知ってくれているメルルがそうした気遣いを向けてくれるのは有り難くもあったが、その件に関して遠慮はして欲しくなかった。

「――そういえば、リンから伝言があったんだ」

 思いが伝わったのか、明るい笑顔を取り戻したメルルは特に気負った様子もなくそんな言葉を口にする。
 士郎の記憶に残る遠坂凛という少女からの伝言。その内容になんとなく思い至りながら、士郎は足を止めずにそのままメルルの言葉を待った。

「――そのうち会いに行くから、覚悟しておきなさい……だって」
「……そうか。なんとも彼女らしい伝言だな」

 遥か遠い過去――摩耗した記憶と思い出の中に残る彼女の姿と言葉を思い返す。
 メルルの薬によって肉体的に若返った影響からか、時折こうして摩耗したはずの記憶を思い出す事があった。
 その中でも彼女に関する記憶は特に色鮮やかに思い出せる。
 かつて衛宮士郎が憧れていた少女――その眩しい生き方に焦がれた事も今となっては良い思い出だった。

「――さて、ここで別れだな。はやての向かった病院がどこにあるのかは把握しているのか?」
「住所は聞いてるし、地図でも確認してるから大丈夫だよ。もしかしたら、はやてと一緒にシロウの働いている"翠屋"に行くかもしれないよ?」

 それは丁度いいと思い、出来るだけはやてを誘ってきて欲しいと伝える。
 今日は休日ということもあって、なのはも店の手伝いをする予定だ。機会があれば二人の顔合わせをすることも出来るかもしれない。

「はやても甘味には目がないから余程の事が無ければ来てくれるだろう。では――」
「――うん、また後でね」

 簡単に挨拶を交わして互いに目的の場所へ向けてそれぞれに歩き出す。
 先日購入した腕時計で時間を確認した士郎は、少しばかり小走りに翠屋へと向かうのだった。


 -Interlude-


 士郎とメルルが部屋を後にして敷地を出た事を確認したエヴァは、すずかの隣にやってきた忍の姿を横目に小さくため息を零した。

「――それで、貴様らが"混ざりモノ"である事は秘密にしておけばいいのか?」

 確信を突いた言葉に忍は笑みを浮かべて頷いた。
 すずかは少しばかり戸惑った様子だが、見た目相応の年月しか生きていない事を考えれば当然の反応なのかもしれない。
 顔を合わせた直後に二人が"そうである"と見抜いたエヴァが、士郎たちに聞こえないようにその事実を告げた時に強く反応したのはすずかだけだったのだから――。

「ええ、そうしてもらえると有難いわね。まあ、今どき私は吸血鬼なんです…と言っても、多くの人は信じてはくれないでしょうけど――」
「そうでない者もいる――か。まったく、どこでもそうした事は変わらぬのだな……」

 どこの世界でもそうした風潮は変わらないのだろう。
 吸血鬼などという存在は、表では架空の存在――裏では人に仇なす"魔"の存在として扱われる。
 その内容に多少の違いはあれど、この世界に於いても吸血鬼やそれに類する存在はそのように扱われているのだろう。

「そういえば、貴様らの素性を士郎は知っているのか?」
「ええ。彼の素性と交換条件みたいになったけどね。実際は彼に対して非礼を働こうとした謝罪と誠意の証――かしら」

 不思議とそうした事を告げても大丈夫だという予感が働いていた――と。
 思い返すように告げる忍の言葉に、エヴァは内心で頷きながら視線をすずかへと向けた。

「月村すずか。貴様が自身をどのように定義するのか――それに口を出すほど無粋ではないつもりだが、自身が"普通"とは違うという事から目を逸らすのは止めておけ。後で後悔するぞ」
「エヴァンジェリンさん……」
「幸い、貴様らは"人間寄り"だ。自身の在り方にさえ迷うことがなければ、どうとでもやっていけるだろうさ」

 いまの自身の状態を思い返しながら告げると、二人は揃って表情を曇らせてしまった。

「――これも縁なのだろうな。本来なら貴様らのような小娘を相手にすることはなかっただろうが、私も士郎に影響されたのかもしれん」
「……その言いようだと、貴女は随分と長生きしてるみたいに聞こえるわね」
「ん? ああ、こう見えても六百年ほどは生きているからな。貴様らとはそもそも年季が違う」

 二人が息を呑む音を耳に届けながら、エヴァは自身の過去を振り返る。
 ――真祖の吸血鬼。
 十の誕生日を迎えるまでは全うな人間だった自身が"化物"となった頃――。
 あの頃から歩んできた血生臭い道を事細かに二人へ伝えるつもりはないが、それでも事実は事実として告げておこうとエヴァは考えていた。
 例え二人が元の世界では気にもしなかっただろう"半端な存在"とはいえ、知り合ったからにはある程度の真実を知らせておく事は結果として互いのためになる筈だ。
 下手な同情や勘違いを起こされて面倒だという気持ちもあったが、間違っても自身のような存在を"同類"などと思い込んでしまわないように――。
 
「私は生粋の吸血鬼だ。例え今がどうであれ、私が"吸血鬼"として長き月日を生きてきたのは間違いのない事実――」
「――だから、私たちとは違う…と?」
「そうだ。それをどう解釈するのかは貴様らの勝手だが、貴様らが"こちら"側ではないということだけは間違えるなよ」

 老婆心が過ぎたか――と、自嘲するように告げながら静かに席を立つ。
 見れば時刻は既に午後の一時を過ぎようとしており、思いの外話し込んでしまったことに気づいて笑みを浮かべた。
 
「――ひとつだけ聞いてもいいかしら?」

 そんなエヴァに向けられた静かな問いかけは忍から発せられたものだった。
 どこか慎重な声音で告げられた問いかけを耳に届けたエヴァは、忍へと視線を向けて言葉の先を促した。

「貴女が士郎くんと一緒に過ごしているのはどうしてなの?」
「野暮なことを聞く女だな。まあいいが――そうだな……敢えて言うなら、奴は私にとって"特別"な存在だということだ」

 不思議と側にいることが特別に感じられない存在――と言えば誤解されるかもしれない。
 だが、エヴァンジェリンにとって衛宮士郎という男は、現時点に於いては特別な思慕を抱く相手ではない事は紛れのない事実だった。
 同時に、側にいることが当然という奇妙な感覚を彼に感じている事も間違いのない事実――。
 故に、自身が抱いている感情の赴くままに行動してみようと世界を渡ってまで生活を共にしているのだ。
 自身が初めて抱いた奇妙な感情――その答えを得るために、今はただ自身に未来を示してくれた彼と共に過ごしていく。
 そんな想いを込めて告げた言葉だったのだが、予感した通りすずかは顔を赤らめ、忍は納得したように満面の笑みを浮かべていた。

「なるほど……わかりやすい理由ね。答えてくれてありがとう"エヴァンジェリン"」
「ただの気紛れだ。じゃあな――」

 告げて歩き出すと、すぐ背後から立ち上がって小走りについてくる気配が一つ――。

「――翠屋へは私が一緒に行きます。同行してもいいですか?」
「道案内をしてくれるのならそうしてくれ。それと――月村すずか。私たちは見た目には年齢が近い。周囲に違和感を与えたくなければ、姉のように言動には注意しておけよ」

 言い含めるような言葉にソファに腰掛けたままの忍が小さく頷いていた。
 それを横目に僅かばかり迷うような素振りを見せた後、すずかは小さく頷いてから柔らかな笑みを浮かべた。

「……うん、わかった。だけど、そういう事ならエヴァちゃんも私の事はすずかって呼んでくれると嬉しいな」
「――ああ、いいだろう。………しかし、慣れというのは恐ろしいものだな」

 何もかもが以前からは考えられないような事ばかりだが、"これもまた悪くない"と感じているのも確かだった。
 士郎たちとの出会いから始まった今という現実――それを思う存分堪能しようと、エヴァは口の端を歪めて小さく笑うのだった。


 -Interlude-


 平日に比べて人の少ない院内を彼女――八神はやては車椅子で進んでいく。

「――そういえば、士郎くんが海外から帰ってきたのよね。じゃあ、今日は士郎くんがお迎えに来るのかしら?」

 隣を歩いている担当医の石田は少しだけ遠慮したようにそんな言葉を掛けてくる。
 ――実際、士郎が病院に付き添ってくれたのは数えるほどしかない。
 だが、はやてが倒れた日の士郎を知る石田には彼がはやての保護者的な存在に見えているのかもしれない。

「えっと…士郎はお昼から仕事なので、今日は一人です」
「……そう。ところで士郎くんがはやてちゃんの家に居候することになったのは聞いたけど、他にも一緒に住むことになった人たちがいるのよね?」
「はい。士郎の知り合いの人で、紹介してもらう前に偶然わたしも出会っていて、困ってた時に手助けしてくれた人たちなんです」

 士郎と共に同居する事になった二人――メルルとエヴァの姿を脳裏に浮かべながら答える。
 自然と笑みを浮かべてしまうのは、これまでとは違った賑やかな日常を思い返しているからに他ならない。

「その人たちとも、いつかちゃんとご挨拶できたら先生としては嬉しいんだけどな」
「帰ったら相談してみます。面白がってついてきてくれそうですし……」

 エヴァは面倒だというかもしれないが、メルルは面白そうと口にして着いてくる可能性は高い。
 共に暮らし始めて数日――彼女が知識欲旺盛な人物であることは八神家内では既に既知のものとなっていた。

「そうなんだ。じゃあ――」
「――あ、はやてを発見! お~い迎えに来たよ~」

 石田の言葉の途中ですっかり聞き慣れた声が耳に届く。
 声の聞こえてきた方へと目を向ければ、そこにはいつものように明るい笑顔を浮かべたメルルが手を振りながら近づいてくる姿があった。

「あれ? メルルは士郎たちと一緒に用事があるって言ってたような…」
「少し長くなりそうだったから、簡単に話を纏めてきたんだよ。今日はシロウもエヴァもこっちに来れそうになかったしね」

 だから自分が迎えに来た――と。
 当たり前のようにそう告げてくれるメルルに感謝を伝えると、彼女は優しく微笑みながら頷いてくれた。

「――えっと、はやてちゃん。ひょっとして、こちらの方が?」

 どこか伺うような声は石田のモノで、その視線は真っ直ぐにメルルへと向けられていた。

「あ……はい、そうです。一緒に暮らす事になった人で――」
「――メルルリンス・レーデ・アールズといいます」

 紹介しようとしたはやての言葉を紡ぐようにメルルは自身の名を石田へと告げる。
 その態度の変わり様は思わず感心するほど劇的で、普段は見せない真剣で誠実な態度を見せたメルルは石田に対して丁寧に頭を下げていた。

「はやてちゃんの担当医をしている石田です。ちょうどはやてちゃんにお会いできないかと言っていたところだったんですよ」
「そうだったんですね。はやてから先生の事は耳にしていたので、お会いしたいと思っていたんです。とても親身になってくれるいい先生だと――」

 そんな会話を皮切りに何やら二人で会話を弾ませるメルルと石田の二人――。
 士郎と同じぐらいの年齢だと思っていたメルルだが、そうして石田と話す様子は紛れのない大人の姿そのものだった。

「――では、今日はこれで失礼します。これからよろしくお願いしますね、メルルさん」
「はい、こちらこそ。どうかよろしくお願いします」

 はやてがメルルの意外な姿に感心している内に会話が終わっていたらしい。
 既に別れの挨拶を交わしていた二人へ改めて視線を向けると、二人も同じように視線をはやてへと向けてきた。

「それじゃあ……またね、はやてちゃん」
「はい。今日はありがとうございました」

 いつものように石田と挨拶を交わし、彼女が歩き去っていく姿をメルルと共に見送る。
 そうして彼女の姿が見えなくなった瞬間、隣に立つメルルが小さく――けれど、どこか安堵したような溜息を零した。

「……やっぱり、こういうのは少し慣れないかな」

 苦笑しながら告げるメルルだが、違和感がなかったのも事実だ。
 はやての目には石田と丁寧に会話を重ねるメルルの姿は、まるで自身の保護者のように見えていたのだから――。

「メルルも士郎と同じで妙に大人っぽいところがあると思ってたけど、ホントはもう成人してるとか?」
「うん? そうそう……言ってなかったけど、私って実は九百歳なんだよ」
「冗談のような冗談じゃないような……まさか、ホントに?」
「どうかな~。でも、一応法的には成人してる事になるのは本当だよ」

 妙な言い回しの言葉の後にメルルは自身が二十一歳なのだと自己申告する。
 だが、それこそが冗談のように聞こえてしまったのはどうしてなのだろうか――。
 冗談交じりに九百歳と告げた時のメルルの雰囲気が妙に真摯なものだったからかもしれないが、真相は謎のままだった。

「けど、それやとメルルは士郎よりも年長さんなんやね」
「あ~うん、それは間違いないよ。エヴァとシロウと私なら、間違いなく私が一番年長者だから」

 そうなると八神家ではメルルが一番の年長者ということになる。
 見た目はともかくとして、成人を過ぎた大人が一人でも家にいてくれるのは不思議な安心感があった。

「ということは、メルルは八神家のお母さんいうことやね」
「私がお母さん……ということは、お父さんはシロウだよね?」
「士郎は十五歳やし、いくらなんでも無理やないかな?」
「……え~じゃあ、私も十五歳っていうことにしておけばよかったかな……」

 冗談交じりの会話を交わしながら病院を後にする。
 メルルの勧めで士郎が勤めているという喫茶店『翠屋』へと向かいながら、はやてはメルルとの会話を楽しむのだった。


 -Interlude-


 店外のテーブル席に腰掛けながら、メルルは暖かな紅茶を口に含む。
 芳醇な香りと味わい深いそれは、士郎がいつも淹れてくれている紅茶そのものだった。

「――ふむ、なかなかの賑わいじゃないか」
「翠屋さんは海鳴でも人気のお菓子屋さんなの。平日でもお客さんが沢山なんだけど、今日は特に多いかな……」

 目の前に座るエヴァの言葉に相槌を返したのは月村邸で知り合ったすずかだ。
 そんな彼女たちを横目に見ながらケーキを食べているはやてへと視線を向けると、彼女は嬉しそうに頬を綻ばせていた。

「お菓子が有名だから女性客が多い――と、そういうわけなんだね」

 告げながら店内へと視線を向ける。
 そこにはきちんとした服装に身を包んだ紳士――もとい衛宮士郎が女性客たちを相手に接客をしている姿があった。

「士郎さんは特に人気のウェイターで、暫く店に姿を見せなかった時期があったから、それが逆に人気に火をつけちゃったみたいなんです」
「まあ、シロウは表情を引き締めていれば格好はいいしね」

 普段は緩い雰囲気と表情を浮かべている事が多いが、いざという時に見せる凛とした表情は人を引きつける類のモノだ。
 そんな彼が常に気を張り、ソレっぽく振る舞っているのだから人気が出るのも当然かもしれない。

「――あ、なのはちゃん」
「いらっしゃい、すずかちゃん」

 いつの間にかテーブル近くにやって来ていた小柄な少女――。
 可愛らしい私服の上にエプロンを身につけた彼女はすずかの知人らしく、親しげに挨拶を交わしていた。

「えっと、一緒にいるのはすずかちゃんのお知り合いの人?」
「そうだけど、どちらかというと士郎さんのお知り合いというかご家族というか――」

 その言葉に驚きの表情を浮かべた彼女の顔をじっくりと眺める。
 どこかで見覚えがある気がしたメルルは、僅かばかり自身の記憶を探ってすぐに思い出した。
 この世界へやってきた当日、士郎が念話で報告をしている最中に声を荒らげていた可愛らしい少女――。

「――えっと、もしかして高町なのはちゃん?」
「あ、はい……高町なのはです。あの……貴女は?」
「私はメルルリンス・レーデ・アールズ。こっちの車椅子の子は八神はやて。すずかと一緒にいるのがエヴァンジェリン・A・K・マクダウェル。シロウと一緒に暮らしてる……家族みたいなものかな?」

 簡単に素性を明かすと、彼女――なのはが驚いた様子で店内の士郎へと視線を向けた。
 その視線に士郎が気付くことはなく、彼女はもう一度メルルたちの方へと視線を向けてぺこりと頭を下げた。

「あ…あの、士郎くんにはいつもお世話になっています。でも、本当にびっくりしました。士郎くん、一緒に暮らしてる人がいるなんて一言も言ってませんでしたし」
「あ~色々あってね。全員が一緒に暮らし始めたのはつい最近なんだ。それにシロウはあまり自分の身の回りの事を話さないでしょう?」
「確かに…そうかもしれませんね。それじゃあ、私はまだお仕事のお手伝いがあるのでこれで――どうかゆっくりしていってください」

 もう一度丁寧に頭を下げてから店内へと入っていく。
 そんな彼女を見送った面々は、それぞれ視線を店内へと向けながら寛ぎ始めた。

「お家の手伝い…か。いい子なんだね」

 店内で注文を受けたなのはが士郎と一緒になって調理場へ注文を伝えに行く姿を眺める。
 なにやらミスでもあったのか、慌てた様子のなのはを士郎が優しく笑いながらフォローしていた。
 そうして和やかな雰囲気のまま談笑している二人を見守りながら紅茶を飲み干したメルルは、これまで見た事のなかった士郎の新たな一面を見た気がして、静かに笑みを浮かべるのだった。


 

 

Episode 37 -私立聖祥大付属小学校-

 
前書き
第三十八話です。
 

 

 
 その日の夜――台所で食事の準備をしている士郎の背後では、月村邸から戻ってきたメルルが何やら色々と机の上に広げていた。
 どうやらメルルとエヴァに関する個人情報などを整える事ができたらしく、それに関する書類などを持ち帰ってきたらしいのだが――。

「――なん…だと……」

 その内のひとつ――厚紙のような物を手に持ったエヴァが呻くような声を零す。
 あまりにも珍しい光景だったため、士郎は思わず手を止めてエヴァが手に取っている書類を覗き込んでしまった。

「――エヴァンジェリン・A・K・マクダウェル……フランス出身の留学生。年齢は……九歳……!?」

 見間違いかと思い、一度目を閉じてもう一度目を通して見る。
 だが、そこに書かれている情報は間違いなくエヴァが九歳であるというものだった。

「ほら、すずかと同じ年頃だって話をしたんでしょ? だから、忍が気を遣って公式に同じ年齢に……って、聞いてる?」

 書類を持ち帰ってきたメルルが事情を説明するが、エヴァからの反応はない。
 これは相当ショックだったのだろうか――。
 士郎はメルルと二人顔を見合わせたが、ようやく動き始めたエヴァは手にしていた書類をよく見えるように差し出してきた。

「―――年齢は…別に構わん。だが、これは……何の悪夢だ」
「ええと、フランス出身の留学生。年齢は九歳――日本の家にホームステイしながら小学校へ。受け入れ先は私立聖祥大付属小学校……学年は三年生……あ~そういうことね」

 メルルが読み上げたその一文は、エヴァにとってはある意味で死刑宣告にも等しい。
 何しろ六百年を生きてきた真祖の吸血鬼……だった女性だ。
 麻帆良学園の中等部に通っていることでさえ苦痛そうだった彼女にとって、小学生というのは余りにも――。

「――ん? みんなで集まって何しとるん? なんやこれ……ふむふむ、エヴァに関する書類やね。やっぱりエヴァはわたしと同じ年やったんや。メルルの例があったから自信なかったけど、こっちは当たってたなぁ」

 自室に戻っていたはやては戻ってくるなりエヴァが差し出していた書類を覗き込み、一人納得した様子で頷いている。
 そんなはやての様子をぼんやりと眺めながら、エヴァは静かにその細い肩を震わせていた。

「あ…ああ、それはまあいいんだが……エヴァ――どうするんだ?」
「……いいさ。これも悪くは……悪くは……悪いに決まっとるわッ!!」

 何となく叫びそうな気配がしていたため、士郎は咄嗟に自身の耳を塞いでやり過ごす。
 見ればメルルとはやての二人も既に耳を塞いでおり、その身体のどこから発せられたのかと疑いたくなるほどの大声を何とかやり過ごしていた。

「ようやく馬鹿な女子中学生共や退屈な学園生活とおさらばしたというのに、どうしてここに来てまで学生なんぞしなくてはならんのだ!!」

 怒りの矛先が見当たらなかったせいか、書類を持ち帰ってきたメルルに詰め寄りながら訴えるエヴァ――。
 その目からは涙が零れており、動転したその様子はいつもの冷静沈着さなど微塵も感じさせない見た目の年齢相応な姿だった。

「まあまあ……小学生なら逆にそこまで能天気じゃないと思うし、むしろ無邪気で可愛いんじゃないかな?」
「ええい、人事だと思って暢気なことを……! 士郎!! 貴様なら私のこのやるせない気持ちが理解できるよな?」

 満面の笑みで答えるメルルに毒気を抜かれたのか、勢いを減じたエヴァが次に標的に選んだのは士郎だった。
 その縋り付くような視線を真っ直ぐに受け止めた士郎は、エヴァの訴えに同意するように頷きながら、なのはたちが着ていた制服をエヴァが身に纏った姿を想像していた。

「そうだな。確かにエヴァは中学校卒業以上の学力を保持しているし、小学校で学び直せるモノというのはないかもしれない」
「そ、そうだろう? そうだよな?」
「――だが、エヴァが聖祥大付属小学校の制服を着たら凄く似合うと思うぞ」

 ありのままの感想を口にすると、エヴァはその場に突っ伏してしまった。
 制服自体は知っているのか、はやても同意するようにウンウンと頷いていた。

「細かい事情はようわからんけど、とりあえず士郎の後見人さんが気を利かせてくれたことなんやろ? 折角なんやし、通ってみたらええやん」

 ぴくり――と、はやての言葉を聞いたエヴァが顔を上げた。
 その視線をじっとはやてへと向けたエヴァは、数秒だけ彼女の目を真っ直ぐに見つめてから小さく溜息を零した。

「――わかったよ。ああ……いいさ。小学校というのも新鮮だし、何事も経験だ。小学校に通ってみるのもいいだろう」
「やけっぱちやなぁ。別にわたしに気を遣わんでも、本当に嫌なら断った方がええよ」
「別に貴様に気を遣ったわけではない。冷静に考えてみれば、もう二度とはない事だしな。今のうちにこういった事を経験してみるのも悪くはないと思っただけだ」

 色々と吹っ切れたのか、にやりと笑みを零したエヴァに先程までの悲愴さは微塵もない。
 だが、どこか壊れたような笑い声を零し始めた彼女の両目の端に涙が溜まっているのは指摘したほうがいいのかどうか――。

「えっと、こっちの書類は転入手続きに関するものかな? 明日から通うことになってるけど、制服とか――あ、向こうを出るときに渡されたもう一つの鞄の中かな……」

 事態が収束したと見たメルルは既にエヴァの登校に関する準備を進めている。
 最近忙しくなったと零してどこか疲れた様子のメルルを尻目に不気味な笑い声を零すエヴァと、それを眺めながら苦笑するはやて――。

「――とりあえず、晩ご飯を仕上げるとするか」

 そんな彼女たちを眺めながら、士郎は放りだしていた晩ご飯の支度を再開するのだった。


 -Interlude-


「――なるほど……確かに、これはこれで新鮮だな」

 廊下を歩きながらエヴァは思索に耽っていた。
 巨大学園都市である麻帆良で幾つもの中学、中等部に繰り返し通ってきたエヴァだが、こういった雰囲気の場所はどこにもなかった。
 あるいは――ここが異常なのでは無いかと本気で思ってしまったが、はやてなどから伝え聞く限りでは麻帆良の学校の方がおかしいのは間違いない。

「先に教室に入ってお話をしてきますので、呼んだら入ってきてね、マクダウェルさん」
「――了解した」

 自然ぶっきらぼうな返答になってしまうが、それは仕方ないというものだろう。
 担任となる女教師もエヴァが外国出身の留学生と思っているためか、特にそうしたことを気にしている様子はない。
 まだ年若い様子の女教師はエヴァに向けていた笑顔を浮かべたまま、静かに教室の扉を開いてからゆっくりと中へ入っていった。
 一人廊下に残されたエヴァは、これから自身が通うことになる教室の前に立ち尽くし、その扉を見据える。
 ――ここまで来た以上、もう後戻りはできない。
 ある種の決意を固めながら、扉の向こうから聞こえてきた教師の声に合わせて扉を開く。
 そうして教室内へと足を踏み入れたエヴァはゆっくりと足を進ませてから黒板の前に立ち、姿勢を正してから僅かに頭を下げた。
 
「――今日からこのクラスの一員になるエヴァンジェリン・A・K・マクダウェルだ。精々よろしくしてやってくれ」

 告げると同時に教室内が俄に騒がしくなった。
 はしゃぐというよりは歓迎の声をあげているらしく、男子女子問わずにエヴァを歓迎する声が教室中から聞こえてきていた。

「はい、それではマクダウェルさんは其処の空いている席――高町さんのお隣に座ってね」

 教師の言葉に頷きを返したエヴァは、そのまま勧められた席へと腰掛ける。
 指定された席は教室の中央にある空席だった。
 突然の転校生だったはずだが、どうやら偶然――非常に怪しいが――席が空いていたらしい。
 
「私、高町なのは。一昨日に翠屋で会ったよね? これからよろしくね、エヴァンジェリンちゃん」
「ああ、よろしく頼む。高町――なのは……だったか?」

 士郎が働いている喫茶店で寛いでいた時にやって来ていた少女――。
 すずかの友人で、あの士郎が勤めている喫茶店を経営する家族の一員にして"魔法使い"。
 士郎とどのような関わりがあるのかは詳しく聞いてはいなかったが、彼が先の事件に関わる切っ掛けとなった少女だとは聞いている。

「うん! あ、そうだ……私の事は、なのはって呼んでくれると嬉しいかな?」
「了解だ、なのは。そういえば、教科書の類が明日にならねば届かないらしくてな。済まないが見せて貰ってもいいか?」
「もちろんだよ」

 何処から見ても年相応の少女であるなのはと会話を交わしながら椅子に腰掛ける。
 その際に大なり小なり視線を感じたが、僅かに緊張を孕んだその視線も授業が始まると同時に感じられなくなった。
 授業中、全員が黒板に集中している隙を見計らって先程視線を感じた方角へと目を向けると、その先にはクラスメイトとなった"月村すずか"の姿があった。
 どうやら姉である忍からは何も聞かされていなかったらしく、見ればすぐにわかるほど驚いた様子を見せている。
 そんなすずかの姿を横目に眺めた後、なのはと一緒に教科書を眺めている内に授業は終了――。
 辺りを見渡せば、拘束時間から開放された子供たちはすぐに活気づき、各々休憩時間を満喫し始めていた。
 
「エヴァンジェリンちゃんは士郎くんと同じ家に住んでるんだよね? メルルさんは最近一緒に暮らし始めたって言ってたけど?」
「その通りだ。私とメルルは以前から同じ家にいたが、ちょっとした事情があってな。今はあの時翠屋にいた奴らと士郎の四人で過ごしている」

 特に隠すような事でもないため、彼女の質問に差し当たりのない程度に答える。
 その後も質問に答えながら世間話をしていると、すずかともう一人――恐らくは、なのはやすずかの友人と思われる少女が近づいてきた。
 
「アリサ・バニングスよ。よろしくね、エヴァンジェリン」
「あ、あの……よろしくお願いします」

 金の髪を揺らしながら近付いてきた少女は快活な様子で名乗りを終えて挨拶を済ませる。
 そんな少女――アリサの隣でどこか遠慮がちに声を上げたのは、先日からそれなりに親交のある月村すずかだった。
 
「ああ、よろしく」

 堂々とした様子のアリサと、ようやく落ち着いた様子を見せるすずかに対して無難な返事を返しながら周囲を見渡す。
 三人との会話が気になっているのか、教室内の少年少女たちは一様にエヴァたちの姿を注視しながら、その会話に耳を傾けているようだった。
 そんな状況の中――短い休憩時間の中でなのはたちとの僅かばかりの会話に興じながら、エヴァはこれからの生活に想像を巡らせて小さな溜息を零すのだった。


 -Interlude-


 ――留学生がやってきた。
 そんな噂が全校に知れ渡るのに時間はさして必要では無かったらしい。
 昼休憩に屋上へ上がってきた彼女――月村すずかは、周囲から向けられる好奇のまなざしに苦笑いを零していた。

「――それにしても、手の込んだお弁当ね」
「わぁ……本当だ。凄く美味しそうだよ」
「これは同居している者が用意してくれたものだ。作ったのは貴様らと同じ年の女だぞ?」

 屋上で輪になって昼の弁当を広げているのは友人の高町なのはとアリサ・バニングス――。
 そして、つい先日に出会った吸血鬼の女性――エヴァンジェリン・A・K・マクダウェルその人だ。
 彼女が持ってきていた弁当に詰められている色取り取りのおかずは、どれも見た目に綺麗で美味しそうに仕上げられていた。

「それにしても、エヴァはフランスから来たっていう割に日本語が達者よね。ひょっとして他にも色々と話せるわけ?」
「欧州諸国の主要言語と英語――ギリシャ語と日本語程度だな。どれが得意というわけでもないが、最低限の会話と読解力程度は身に付いているぞ」
「うわ……流石に勝ち目がないわね。英語と日本語は私も自信あったんだけど……」

 すっかり仲良くなっている様子のアリサとエヴァを眺めながらすずかは自身の弁当に箸を伸ばす。
 アリサが転入初日のエヴァを気遣い、率先して関わろうとしているのは見ている周囲の人間やエヴァ本人にもきっと伝わっている。
 そんな彼女の態度と言葉をエヴァがどのように感じているのかはすずかにはわからなかったが、少なくとも楽しそうに見えるのは気のせいではないはずだ。

「そういえば、なのはとは顔見知りだったみたいだけど?」
「翠屋という喫茶店で働いているなのはと顔を合わせただけだ。まともに話をしたのはここに来てからだぞ」
「そうだよね。でも、エヴァちゃんが同い年で同級生で、しかも聖祥に転入してくるなんて思ってもみなかったよ」

 すずかの姉である忍の計らい――ということは授業の合間に何度かあった休憩時間に聞いている。
 仮にも六百年を生きてきたという女性にそれはどうかと思ったけど、すずかが見た限りではエヴァ本人も満更ではなさそうに見えた。

「――小学校という場所に真っ当に通った経験はなかったからな。これもいい機会だと思って通わせてもらったわけだ」
「真っ当にって……それじゃあ、これまではどうしてたのよ?」
「いわゆる飛び級というヤツだ。日本でいう中学生の最高学年に在籍していた事があったが、こちらでそれが適応される事はないからな。年齢に合わせた学年へ移ってきたのさ」

 話の合間に弁当のおかずやご飯を食べるエヴァの言葉にアリサは少なからず呆れたような様子を見せていた。
 そんなアリサの反応も面白く映ったのか、エヴァのアリサを見る目は好奇に満ちていた。

「そういうのって、そのまま海外で過ごすか、インターナショナルスクールみたいな所に行くのが普通だって聞いたことあるけど……」
「別に勉強が好きなわけでは無いからな。大切な事はこの街へやってくることで、それ以外の何かを望んでここへ来たわけではなかったしな」

 エヴァの目的――彼女が先日に口にしたのは、すずかたちも良く知る衛宮士郎が特別な存在だということだけだ。
 彼もまたすずかにとっては特別な存在で、自身の秘密を知る彼――衛宮士郎は"月村すずか"という存在を有りの儘に肯定してくれた初めての他人である。

「エヴァちゃんは士郎さんと一緒に暮らすために日本へ来たんだよね?」
「む――まあ、あながち間違いではないが……すずか。貴様はまだ勘違いをしているわけじゃないよな?」

 にこりと笑いながら尋ねてくるエヴァだが、その身に纏う雰囲気はどこか禍々しい。
 もちろん、初めて耳にしたときにはそのままの意味に捉えて赤面してしまったが、ちゃんと後で本当の所を聞かされたのだから誤解などあるはずがない。

「そんなことないよ。エヴァちゃんがどうして士郎さんと一緒に暮らすことにしたのかは、ちゃんと聞いているから」
「それならいいが……む、どうかしたのかアリサ?」

 少しばかり不機嫌そうに答えたエヴァの視線の先では、なにやら意外そうな表情を浮かべたアリサが箸を持った手を下ろして呆然としていた。

「――士郎さんって、衛宮士郎さん?」
「……む、貴様も士郎を知っているのか。なるほど――おんなたらしなどと揶揄されるわけだ」

 その評価は割と信憑性が高そうだ――と、すずかはなのはやアリサと視線を交わして同時に頷いた。

「ちょ……ちょっと興味あるわね。士郎さんって、家ではどんな風なのか……とか?」
「あ、それは私も興味あるかも」
「うん、私も興味あるかな……。ねえ、エヴァちゃんどうかな?」

 アリサ、なのはと共に同意を示してエヴァへと問いかける。
 そんなすずかたちの視線を一身に受けたエヴァは、すっかり空になってしまった弁当箱を片付けながら小さく溜息を零した。

「答えられる範囲でなら答えてやる――と言いたいところだが、生憎と昼休憩はもうすぐ終わりだぞ?」

 さっと立ち上がって歩き出すエヴァ――。
 同時に校内に鳴り響いたチャイムは、昼休憩の終了を知らせるものに違いなかった。

「……むぅ、逃げられたわね」
「えっと、まあ次の機会に聞ければいいと思うよ」

 少しばかり残念そうに告げるアリサと、諦めた様子をはっきりと見せるなのはの二人を横目に溜息を零す。
 すずかたちは少しばかり残っていた自分たちの弁当のおかずを急いで食べ終えてから片付けを済ませ、エヴァの後を追いかけるのだった。


 -Interlude-


 外国からの転入生がやってきた日の放課後――。
 いつもなら習い事があるために迎えの車がやって来ているが、今日は特に習い事などはない。
 そんな状況を確認しながら彼女――アリサ・バニングスは目の前を歩く二人の背を眺めながら少しばかり考え事に耽っていた。

「――それにしても、すずかちゃんとエヴァちゃんは仲が良いよね」

 隣を歩くなのはの言葉に小さく頷きながら、丁度良いとばかりに視線をなのはへと向けた。

「ねえ、なのは。今日って士郎さんは翠屋でお仕事なのかな?」
「えっと、今の時間だともう終わってるんじゃないかな……。今日は確か、朝から昼過ぎまでって言ってたし」
「ふむふむ――」

 つまり、彼は既に帰宅している可能性もあるという事――。
 そんな可能性に思い至ったアリサは、少しばかり歩調を早めてエヴァの隣へと並んだ。

「――あ、アリサちゃん。ちょうど良かった。今日はこれから翠屋さんに行こうって話をしてたんだけど……」
「なのはの母親が作るショートケーキが美味いとすずかが勧めるのでな。貴様も行くだろう?」
「あ~ごめん。私、これからちょっと用事があるから今日は遠慮しておくわ」

 すずかとエヴァからの誘いの言葉に断りの返事を返す。
 実際、友人たちと揃って甘味を味わいに行くのは相当に魅力的な話だったが、今はこれを好機と捉えて行動を起こすべき時だ。

「そっか……ちょっと残念だけど、用事なら仕方ないよね」
「ふむ――」

 言葉通りに残念そうな表情を浮かべるすずかだが、その隣に立つエヴァはどこか窺うような視線を向けてきて、小さく頭を横に振った。
 まるで何かを口にしようとして止めたような――そんな確証もない想像を働かせながら、アリサはエヴァに対して頭を下げた。

「ごめんね。本当は歓迎の意味を込めて、みんなで騒げたらって思ってたんだけど……」
「気にするな。用事があるというのなら、そちらを優先するのは当然だ」

 何を当たり前の事を言っている――と、そう言いたげな視線を向けられたアリサは、少しばかり驚きながら小さく頷きを返すのだった。

「それじゃあ、すずかにエヴァ。それになのはも――さようなら。また明日ね」
「――さようなら、アリサちゃん。また明日ね」
「――さらばだ。また明日にでも会うとしよう」
「――バイバイ、アリサちゃん。いつも忙しそうだけど、たまには翠屋にも顔を見せてね」

 三者三様の別れを口にしながら見送るアリサを置いて歩いて行く。
 そんなすずかたちを見送ったアリサは、三人の姿が見えなくなった事を見届けてから足を進ませた。
 目指す先はひとつだけだ。いつかの日に街中から立ち去っていく衛宮士郎の後を追いかけて辿り着いた彼の自宅――。

「――えっと、ここだった……わよね?」

 呟きは周囲の森の中を抜ける事なく響き渡った。
 以前に来た際には山間にある掘っ立て小屋のような様相の小屋がこっそりと建っていただけの場所だったのだが――。

「なんだか妙な感じがしたけど……まあ、気のせいよね」

 小屋へと向かう道中――ふいに不可思議な感覚を覚えたが、それを無視して足を進める。
 元々この場所は住宅街からも少し離れており、鬱蒼とした森林地帯の中にある。
 以前にこの場所へやって来た時は士郎の後を着いていくことだけに集中していたせいで気づけなかったのかもしれないが、こうして改めて来てみれば見た目以上に不思議な雰囲気が漂う空間だと感じられた。
 秘境の地――というと大仰かも知れないが、少なくとも森へと足を踏み入れた瞬間に感じられた奇妙な感覚はアリサにとって未体験の感覚だった。

「それにしても……あれから一ヶ月も経っていないのに随分と様変わりしたのね」

 以前にここを訪れた時には人が住んでいるのかと疑いたくなるような小さな小屋があった。
 だが――いまアリサの目の前に建っているのは、少しばかり大きくなったログハウスのようなものだけである。
 ともあれ、これならば以前の小屋と違って数人で暮らすのも可能かも知れないと納得して、アリサは家の扉へと近付いた。

「――こんにちは~!!」

 出来る限り大きな声で呼びかけるが、相手が出てきそうな気配はまるでない。
 見れば扉が少しだけ開いているため、余りにも不用心だと苦笑いしながら家の中にいるのだろうと判断して静かに扉を開け放った。

「……見事なまでに面影が無くなってるわね。って、とりあえず……こんにちはー!!」

 扉を開いた先を眺めながらそんな感想を口にしたアリサは、そのまま玄関口から顔を覗かせて室内へと視線を向けて再び声を上げる。
 目に映った室内には殆ど仕切りとなる壁がなく、やけに広く感じるその空間には細々とした用途不明の道具たちが所狭しと詰め込まれていた。
 ふと視線の先に見覚えのない女性が椅子に腰掛けて眠っている姿を見つけたアリサは小さな溜息を零した。
 見れば女性の足下や目前の机の上には色々な材料のようなものが放置されており、その最奥では今にも吹きこぼれそうに沸騰している巨大な釜があった。
 
「これって一体――って、それどころじゃないわよね!! すみませーん、吹きこぼれてますよー!!」

 見据えた先にある釜は既に遠目にもわかるほどに限界まで煮詰められている。
 声をかけても身動ぎするだけの女性――。
 彼女が目覚めそうにない事を確認したアリサは、目の前の事態を見て見ぬふりも放置する事も出来ず――意を決して室内へと入り、釜の側に置いてあった棒のような物を手に取った。

「火が付いてるわけじゃないのに沸騰してる? え、えっと……吹きこぼれを防ぐにはかき混ぜるのがいいのよね……。かき混ぜるための棒にしてはやけに装飾されてるけど――とりあえず……こうかな?」

 なんとなく――そんな不思議な感覚に任せた間隔で釜の中に満ちている液体をかき混ぜていく。
 それが功を奏したのか、次第に沸騰していた液体が落ち着きを見せていき、ようやく一段落した所で小さな声が耳に届いた。
 視線を向けてみれば、先程までどれだけ声をかけても目を覚ます事なく眠っていた女性が、どこか疲れているような様子を見せたまま目を開けて立ち上がる。

「へぇ~これは、また中々――って、そうじゃなくて。えっと……知らない子だけど、貴女はここに何の用事があって来たのかな? この土地……普通には入ってこれないようになってるはずなんだけど――」

 目を覚ました女性は釜の中身を覗き込んでから、さっと手を入れて何かの物体を取り出し、そのままアリサへと向き直る。
 ――特に凄まれているわけでもなんでもないというのに、その一挙手一投足から目が離せない。
 薄く微笑みながら真っ直ぐに見つめてくるその姿はまるで、童話や物語に出てくる魔法使いのようだと――。
 そんな事を考えながら、アリサはこの予期していなかった邂逅をどのように潜り抜けようかと頭を横に振るのだった。
 

 

Episode 38 -錬金術 前編-

 
前書き
第三十八話です。
 

 

 
 週に一度は訪れている海鳴市立図書館――。
 その建物の中に所狭しと並べられている本の数々を彼女――八神はやてはゆっくりと眺めて回っていた。
 いつもと同じように興味を惹かれた本を手にとって読み進めていく。
 すっかり手慣れてしまった作業に没頭すること十数分――はやては壁に掛けられている時計へと視線を向けた。

「――もうすぐ三時三十分……今日はどうやろな」

 そんな事を口にしていると、背後から聞き慣れた靴音が聞こえてきて振り返る。
 完璧では無いが、殆ど間違える事のなくなってきた彼の足音を耳に届けながら振り向くと、視線の先にはいつも通りの私服に身を包んだ士郎の姿があった。

「――すまない。待たせたな」
「ううん、時間ぴったりや。お疲れさま、士郎」

 見れば時刻は午後三時三十分丁度――。
 朝から午後の三時過ぎまで仕事がある日にはこうして図書館で待ち合わせ、そのまま一緒に買い物へ行く。
 こんな素敵な習慣が出来たことに、はやては改めて笑みを浮かべてしまうのだった。

「なんだ。やけに嬉しそうだな?」
「だって、士郎とこうやって外で待ち合わせてお買い物に行くのは楽しいからな~」
「そんな事を言ってもデザートは適量購入だぞ。最近はエヴァだけじゃなくてメルルまではやての影響で間食が増えているんだからな」

 言葉はぶっきらぼうで厳しいけど、その優しい声音からは士郎の本音が透けて見える。
 それがわかることも嬉しくて、そんな人とこうして家族のように日々を過ごせるとは、二ヶ月前のはやてには想像することさえ出来なかった。

「ところで、今日は何か借りていくのか?」
「うん、もちろんや。今日は……これや!」
「――吸血鬼ドラキュラ……また、随分と珍しいものを借りるのだな」

 差し出した本を見た士郎が何故か苦笑している。
 そんな士郎の反応は兎も角として、こういったジャンルの本を借りるのは確かに初めてのことだった。

「過去の英雄さんが出てくる物語は大体読んだから、次はこういうジャンルを攻めてみようと思ったんよ」
「なるほどな。では、それを借りたら買い物へ向かうとしよう。そろそろエヴァも学校を終えて帰ってくるだろうからな」
「そやね。そういえば、今日はメルルはどこに行ったんやろ……」

 共に暮らす者たちを思い浮かべながら告げると、士郎は少しばかり意外そうな表情を浮かべてから思案顔になった。

「確か、夜の七時頃には帰宅すると伝言が置いてあったな。どこに行ったのかまでは聞いていないぞ」
「やっぱり、みんな携帯電話くらいは持ったほうがええんやないかな? いざという時にすぐに連絡できるから便利やと思うよ」
「ふむ、確かに便利だろうな。職場でも皆が持っていたし、緊急の場合にはすぐに繋がるから便利で助かるとも言っていた」

 携帯電話の購入に前向きな士郎の言葉を耳にしながら、彼のアドレス登録第一号は自分のモノだと気合いを入れる。
 そんなはやての気を知ってか知らずか――士郎はさっそくはやての背後へと回り、車椅子のハンドルを手にしてゆっくりと歩き始めた。

「――とりあえず、買い物へ行かないとな。行こうか、はやて」

 優しく車椅子を押してくれる士郎の優しい声に頷きながら、はやてはこの日々がいつまでも続くようにと願うのだった。


 -Interlude out-


 すっかり当たり前になってきた八神家での夜――。
 台所で車椅子に座ったまま器用に調理をするはやての横で、士郎はオリーブオイルや各種調味料を混ぜ合わせていた。

「――士郎。そっちに置いてるお塩を取ってくれる?」
「ああ、ついでにドレッシングも完成したから渡しておこう」

 出来上がった特製ドレッシングを専用の容器へ容れてからはやてへと手渡す。
 彼女は手慣れた手つきで塩とドレッシングを受け取り、自身の作業スペースへと置いていく。

「おおきに。コイツを混ぜて――と、完成や。こっちはもう出来たからテーブルに運んどくよ~」
「了解だ。こちらもすぐに仕上がる。すまないが他の用意を頼んでもいいか?」
「うん、わかった。エヴァ~。そろそろ晩ご飯の支度が終わるよ~」

 用意した料理――サラダ等をテーブルへと運びながらリビングの端に座っているエヴァへと声を掛ける。
 その声に反応したエヴァが一度だけはやてへと振り返ったが、すぐに視線を元の位置へと戻してしまった。

「――む……もう少し待て。もう少しだけ……うむ、こんなものだろう」
「さっきから何を作っとったん?」
「これだ。割と自信作だぞ」

 はやての問いかけに答えながらエヴァがその手に持つ何かを掲げてみせる。
 布製だと思われるそれは、どことなく彼女の従者であった茶々丸をデフォルメしたような小さな人形だった。
 
「お人形さん……って、これを作ってたんかッ!? す…凄い腕前や……」
「そうでもないさ。この程度なら材料さえあれば大した時間も掛からんしな」

 エヴァは特に反応することなく淡々と答えていたが、はやてが驚くのはもっともだろう。
 事実、彼女が元々住んでいたログハウス内には溢れんばかりの人形で埋め尽くされていたが、その全てはエヴァの手によって作成されている。
 あの光景を見ていなければ、士郎もエヴァの見かけによらないその器用さに驚いたはずだ。

「いやいや、お世辞でもなんでもなくて本当に凄いからな。お店で売っててもおかしくない出来映えやと思うよ。……もしかして、どこかで英才教育でも受けてたとか?」
「こう見えても人形つ……人形を作るのは趣味のひとつだ。そうだな……何か希望があれば好きな人形を作ってやるぞ?」

 恐らく無意識に"人形遣い"と口にしようとしたエヴァだが、すぐに思い至って言い直していた。
 もっとも、言い直した言葉も決して嘘ということはないのだろう。趣味で無ければ、彼女の家の中に溢れていた趣味全開の人形たちは生み出されていなかったはずだ。
 そんな彼女が好きな人形を作ってやると言えば、それにはやてが飛びつかないはずはない。
 事実として、エヴァの言葉を聞いたはやては全ての作業を放り投げてエヴァの元へと車椅子を進ませて行ってしまった。

「ホンマか!! だったらやな…………とか…………なんて出来る?」
「…………出来るぞ。ただし、材料費は貴様持ちだぞ」
「もちろんや! う~ん、楽しみやな~」

 なにやら小声で相談している二人を横目に晩ご飯の支度を進めていく。
 そんな士郎の事など目にも入っていないといった様子で、二人の少女――ひとりは見た目だけ――の会話には熱が篭もっていった。

「――では、後で用意しておけ。きっちり"三体分"…な」
「りょうか――って、待った。それっておかしいやろ!?」

 声を上げるはやてだが、そんな彼女を見るエヴァは酷く楽しそうだ。
 聞こえてくる会話の断片から大凡の事情を察しながら、士郎は冷蔵庫から飲み物を取り出して机の上に置いた。

「どうせ一体だけ作っても取り合いになるのだ。争いの種を最初から刈り取れると分かっているのなら、それは賢い手段だとは思わんか?」
「むむむ……確かにそうやけど。まあ背に腹はかえられんし……ええよ。きっちり渡すから、その代わり――」
「――ああ。最高の出来映えを保証しよう。それは兎も角――とりあえず私が考えているバリエーションとしては………」
「………なるほど。確かにそれはええな。なら、私は――」

 こそこそと何かを相談する二人の仲の良さに感心しながら、士郎は準備の整った卓上へと視線を向ける。
 後はメルルが帰ってくればすぐにでも晩ご飯が食べられる状態だが、彼女が伝言で残していった帰宅時間は既に十分ほど過ぎていた。
 なにか予定外のことでもあったのか――連絡を取ろうにも、その手段は無い。
 以前からはやてが勧めてきている携帯電話の導入をいよいよ本格的に考えるべきだろうか……等と考え、はやてたちにそれを提案してみようとした直後――。

「――ただいま~」

 玄関先からリビングにまで聞こえてきたのはメルルの声だった。
 それを耳に届けた士郎は、開きかけた口を再び閉じてからリビングの扉を潜って玄関へと向かう。

「おかえり、メルル」
「ただいま、シロウ」

 いつも通りの挨拶を交わしてリビングへ。
 はやてとエヴァの二人は変わらず二人で何かを話しており、どこか微笑ましいその光景に士郎は思わず笑みを浮かべてしまった。

「さて、二人とも内緒話は其処までにして席につけ。もう晩ご飯の支度は済んでるぞ」

 声を掛けるとすぐに反応を返した二人は、帰宅したメルルと挨拶を交わしてから席へと移動する。
 最低限の片付けを済ませたメルルが席についたことを確認し、いつものようにはやてが手を合わせて声を上げた。

「それでは――いただきます」
「「「――いただきます」」」

 全員が同時に箸を取って食事が開始される。
 食事の合間にも会話が途切れることは無く、それぞれの一日を振り返るような会話が交わされていく。

「――それにしても、随分と遅かったんだな? この間のように無理をしているんじゃないか?」

 ふとメルルへと問いかけると、彼女は少しばかり困ったような表情を浮かべた。
 今はもう存在しないかつての自宅――森林地帯にひっそりと建っていた小屋は解体され、そこにはメルル特製のアトリエが建てられている。
 見た目には木造のログハウスにしか見えないが、実際は錬金術で造り上げた特殊な建材で作成されており、木造とは思えない高度な防音や見た目にそぐわない耐久力等――。
 錬金術を扱う場所として最低限の備えだとメルルは笑っていたが、それを一日二日で準備したメルルは当日――すっかり疲れ果ててしまい、帰宅後にシャワーを浴びてすぐに眠ってしまったのだ。

「あはは、もうそんな無茶はしてないから大丈夫だよ。今日はちょっと忍と一緒に翠屋に行ってたんだ」
「忍と? 何か用事でもあったのか?」
「シロウは聞いてない? この週末にお店をアルバイトやパートさんにお任せして高町家と月村家――後はアリサも一緒になって合同家族旅行に行くんだって」

 食事の手を止めて告げられたメルルの言葉を耳にして、士郎も同じように食事の手を止めた。
 思い返すのは今日までの職場での会話――特に今日の朝から昼過ぎまでの仕事時間に聞こえてきていた同僚たちの会話を思い出していく。
 
「……そういえばそんなことを仕事仲間たちが言っていたな。この時期恒例の行事だということは耳にしたが…」

 アルバイトやパートタイマーだけでは人手が少しばかり足りなくなるかも知れない。
 或いは普段は土日に休みを取っている人たちが出るのかもしれないと思い至り、士郎は少しばかり安堵の息を零すのだった。

「旅行か~。そういうの経験したことないし、どうなんやろ……」
「普段とは違う環境で過ごすわけだ。それを開放的と捉えるか手間だと考えるかで楽しめるかどうかが決まるだろうな」

 幼い頃から一人で過ごしているはやての言葉にエヴァが答える。
 その的確な助言に、はやては納得した様子を見せながら小さく頷いていた。

「エヴァは旅行とか好きなん?」
「――そうだな。長らく旅行などしたことがないが……嫌いではないな」

 麻帆良の地に十数年も封じられてきたエヴァは、その呪い故に学園そのものから離れることが出来なかった。
 登校地獄と呼ばれる呪いの効果で何度中学生を繰り返しても周囲にはおかしいと思われていなかったらしいが、麻帆良の外へ出るような活動には全く参加していないのだという。
 同級生となった少年少女たちが修学旅行や合宿などに出かけていく様子を見送り続けてきたエヴァだが、旅行そのものは嫌いではないと聞いて少しばかり安心する。

「エヴァとはやては大丈夫として……忍か恭也から何か聞いてない? 今回の家族旅行――シロウも家族を連れて参加してもらいたいって忍が言ってたけど?」
「聞いていないな。仮にそのつもりなら、明日翠屋に行った時にでもその話をされると思うが……みんなは旅行に参加したいのか?」
「うん」
「ああ」
「どんな所にいくんやろうか……楽しみやな~」

 メルルの言葉を受けて尋ねると、彼女たちは一人の例外も無く同時に頷いていた。
 はやてに至っては既に旅行先にまで思考が及んでおり、その楽しみの度合いがよくわかる。
 旅費に関することなど色々と考えることはあるが、折角の機会をふいにすることもないだろう。

「……よくわかった。忍と会う機会が作れたら全員参加ということで伝えておこう」

 告げて、それぞれに笑顔を浮かべる彼女たちを眺めながら、士郎は止めていた食事を再開するのだった。


 -Interlude-


「――じゃあ、エヴァちゃんも参加することになったんだ」

 旅行の話を耳にした翌日――。
 いつも通りの退屈な授業を終えて迎えた昼休憩に、エヴァはいつもの面子と昼食を食べていた。
 旅行に関する話を口にして即座に反応を返してきたのはすずかで、彼女はエヴァたちが参加すると聞いて嬉しそうに微笑んでいた。

「そのつもりで返事をすると士郎は言っていたな。それにしても、週末の家族旅行にしては人数が多くなるが……大丈夫なのか?」
「大きい車を二台出していけば大丈夫だってお姉ちゃんが言ってたよ。お部屋はちゃんと大きな部屋を借りてるみたいだし」
「なのはとその両親と兄姉、すずかと忍とそのメイドたち――後はアリサも参加すると聞いているが……」

 結構な大所帯になるが、大丈夫だというのなら素直に楽しみにしておけばいいのだろう。
 そんなことを考えながらアリサへと話題を振るが返事が返ってこない。見れば、そこには僅かばかり思案顔を浮かべているアリサの姿があった。

「………えっ? 私がどうかした?」

 全員の視線が向けられていることに気付いたらしく、彼女は慌てた様子で取り繕おうとする。
 そんな姿を見て、すずかとなのはの二人は顔を見合わせてから小さな笑みを浮かべた。
 気にするな――と、言外に告げられた二人の仕草に、アリサは頬を赤く染めながら落ち着きを取り戻していった。

「週末の旅行の事だよ、アリサちゃん。どうかしたの?」
「……ううん、ちょっとぼんやりしてただけよ。旅行にはちゃんと私も参加するから、安心しなさいよねエヴァ」

 すっかり調子を取り戻したアリサの言葉がエヴァへと向けられる。
 それを正面から受け止めたエヴァは、小さく口の端を歪めてからアリサへと視線を向けた。

「ああ、安心したさ。貴様がいなければからかう相手がいなくて大変だからな」
「あ…あんたね……」

 実際、アリサ・バニングスという少女のことをエヴァは気に入っていた。
 見た目も言動も年相応――頭もそれなりに良く、友人に対して気遣いや思いやりを忘れない。
 決して考え無しというわけではないが、いざという時の決断の早さと的確さ――なにより、"何があっても"正面から受け止めるその気質がエヴァの好みだった。

「あ……そういえば、全員参加するってことは、はやてちゃんも参加するんだよね?」

 なのはが思い出したように口にした言葉にエヴァは頷きを返した。
 昨夜のはしゃいでいたはやてを思い出して口元が緩みそうになるのを、エヴァは必死に堪えていた。

「幸い最近は病状も落ち着いているしな。今日は病院に行って、医者の許可をもらうと言っていたぞ」
「そっか……はやてちゃんも来てくれるんだ」
「はやてって、エヴァのお弁当をいつも作ってくれてる子だっけ?」
「そうだが……そういえば、アリサはアイツと顔を合わせた事がなかったな」

 すずかの呟きに被せるように発言したアリサの言葉に頷く。
 たまに士郎が手作りしてくれた弁当の時もあるが、はやてが作る弁当も相当な出来映えのため、食べてみなければ違いはわからない。
 わざわざ爆発すると解っている爆弾を投下するつもりは毛頭無く、エヴァはその真実を口にすることを放棄していた。

「そうなのよね~。まあ、今回の旅行に来るなら丁度良いわ。仲良くなれるといいけど…」
「凄く話しやすい子だから大丈夫だと思うよ」
「私もあまりお話したことがないから楽しみだな」
「まあ当日の楽しみにしておくといいさ」

 おかずを口にしながら呟くアリサにすずかとなのはがそれぞれにフォローを入れていく。
 彼女たちとはやてが仲良く話をする光景を想像しながら、それもまた悪くない――と、エヴァは小さく頷いた。
 そうして話し込んでいる内に昼休憩が終わり、再び開始されるのは退屈な授業――。
 それを居眠りすることなく乗り越えたエヴァは、下校時間になって集まってきたなのはたちと共に教室を後にした。

「――それじゃ、今日は用事があるからここで。また明日ね、みんな」
「うん。また明日ね、アリサちゃん」
「ばいばい、アリサちゃん」

 駆けるように立ち去っていくアリサの背を見送りながら、エヴァはその背が見えなくなったことを見計らって一歩前に出た。

「今日は私も用事があるからここで別れる。また明日な」
「え……うん。じゃあまた明日ね、エヴァちゃん」
「またね」

 少しばかり戸惑った様子のすずかと、いつも通りの明るい笑みを浮かべるなのはを背にして歩き出す。
 向かう先はアリサとは別の方角――。
 殆ど魔力を失った今のエヴァでも魔法そのものはこの世界でも扱えることは既に確認している。
 アリサに対して追跡魔法を仕掛けておいたエヴァは、アリサが向かっている先を目指して別ルートを歩いていく。

「――さて、この位でいいか」

 特に苦労することもなくアリサに追いついたエヴァは、彼女に気付かれない位置を維持して歩き続ける。
 その最中――思い出すのはここ最近のアリサから向けられていた窺うような視線と、なにか考え事に集中している姿だった。

「見る目が変わっていた……か。こんな薄い根拠を頼りに私は一体何をしているのだろうな」

 アリサのエヴァを見る目が少しばかり変わっていたのは間違いない。
 とはいえ、それはエヴァに嫌悪を抱かせるような類のものではなかったのだが――。

「む――ここは……」

 アリサが向かう先に見えてきた自然の色――。
 街中から少しばかり外れたその場所に、エヴァは一度だけ訪れたことがあった。

「元は士郎の小屋があった場所だな。今はメルルのアトリエがあるはずで、一般人は近づけないように結界が張ってあると聞いたが――」

 士郎が元々いた世界の魔術師直伝という認識阻害の結界だ。
 詳しい理屈は聞いていないが、以前にメルルが行動を共にしていたという魔術師と共同で開発した魔術具――。
 錬金術によって作ることを可能にした結界を発生させる道具だと言っていたが、その効果は確かなものだと士郎が太鼓判を押していた。
 考え事をしている内に結界を越えたエヴァだが、確かにコレならば目的地へ足を踏み入れたことがある者が余程"明確な目的"を持たない限り、この場所へ近付く事すらできないだろう。
 そんな結界を簡単に越えていったアリサだが、この先に彼女が向かう意味と理由を考えて、エヴァは小さく溜息を零すのだった。


 -Interlude-


「――こんにちは。メルル先生はいらっしゃいますか?」

 いつもの通り、アトリエで調合をしていたメルルの耳に聞き慣れた声が届く。
 その声の主を思い浮かべ、小さく笑みを零した自分を戒めながら手を止めたメルルは、アトリエの入り口前で待っているであろう来客を出迎えに向かった。

「こんにちは、アリサ。懲りずに今日も来たんだね」

 半分本音で半分冗談の言葉を投げかける。
 アトリエの入り口前に立っていたのはアリサ・バニングス――数日前にアトリエにやってきた一般人だ。
 その日は特に忙しく、疲れていたこと――認識阻害の結界を張って油断していたこともあって侵入を許してしまうという大失態を演じてしまった。
 初めは警戒していたが、事情を聞けば士郎の知り合いだという。元々士郎の小屋があった場所を尋ねてきたという彼女の話を聞き、結界を越えてきた理由には納得したのだが――。
 それから少しばかり話を聞き、彼女が以前に士郎の家で紅茶を御馳走になった経緯などを聞いて安堵すると同時に、錬金術を知った彼女にどのような処置を施すべきかと悩んだのは誰にも内緒だった。
 彼女は士郎の裏の姿を知らず、友人である高町なのはの事も気付いてはいない。かといって、この世界の裏に関わるような人間でも無い本当の一般人だ。
 メルルの不注意だったとはいえ、そんな彼女に知られたからにはそれなりの対処をしたほうがきっと賢いのだろう。
 記憶を消す――そんな手段が脳裏を過ぎっていたが、都合良く錬金術に関する記憶だけを失わせる薬は"まだ作ったことがない"。
 もっとも、アリサ一人に錬金術が知れたところで、そんなものを信じるような風潮がこの世界の一般社会にあるとは到底思えないわけだが――。

「今日も見学させてもらっていいですか?」
「別に構わないけどね。でも、見てて楽しいものじゃないと思うんだけどな」

 今更断る理由も無く、いつもそうしているように彼女をアトリエの中へと招き入れる。
 すっかり慣れた様子で室内に足を踏み入れたアリサは、このところ練習しているという珈琲を淹れるための準備を始めていた。
 そんな彼女を横目に改めて調合を開始したメルルは、アトリエの中に漂い始めた珈琲の香りに浸りながらのんびりと釜の中身を杖でかき混ぜていく。

「そんなことないですよ。どんなものが出来るのかなって楽しみですし」
「そっか。そういえば、私も錬金術を習い始めたころはそんなこと思ってたな……」

 遠い過去を思い出しながら、自身の錬金術士としての原点を思い出す。
 本当に最初の最初――まるで魔法のようにも見えた素敵な力が自分にも出来ればと胸を躍らせていたな、と思い出して小さく笑みを零した。

「メルル先生も誰かに錬金術を教わったんですか?」
「うん。トトリ先生って人からね。凄く立派な人で、私の尊敬する人の一人だよ。もう故人だけどね」

 ――トトゥーリア・ヘルモルト。
 メルルの生まれ育った国――アールズとは距離の離れた隣国アーランド出身の錬金術士にして、メルルに錬金術を教えてくれた師だ。
 その名声は遠く離れたアールズにも知れ渡っており、その彼女がアールズの開拓事業に伴うアーランドからの人材派遣でやってきたのが全ての始まりだった。
 彼女に憧れ、彼女が扱う錬金術を学びたいと思った少女時代――。
 やがて王国が共和国へと移り変わった後も彼女と共に錬金術の研鑽に励み、永い時間を過ごしていった。
 そうして、いつしか錬金術で出来ない事が"殆ど"なくなったと悟ったとき――その時にはもう、メルルの側に彼女の姿はなかった。
 確かに別れの挨拶はしたはずで、けれどその詳細を思い返すことができない。
 大切な恩師と離別した時の記憶さえも摩耗させてしまった自身の薄情さを思い返す度にメルルは苦笑いを浮かべてしまうのだった。

「そうなんですか……。でも、私も――」
「――何度も言ってるけど、アリサに錬金術を教えるつもりはないよ。ううん、アリサだけじゃなくて、この世界の誰にも錬金術を教えるつもりはないから」

 物思いに耽っていたメルルの思考を戻したのはアリサの遠慮がちな声だった。
 何となく彼女の言葉の先が読めたこともあり、メルルはそれを封殺するように告げる。
 それは掛け値無しの本音であり、同時に彼女へ抱きつつある親近感とも言える感情を消していくための作業でもあった。

「どうしても……ですか?」

 窺うような言葉を口にしながら、アリサの表情に諦めは全く見られない。
 どうして彼女がここまで頑なに錬金術を学びたいと口にするのか――。
 その理由が何となくわかっていながら――それでも決して首を縦に振ること無く拒否の意思を示す。

「――だって必要ないでしょう? こんな力を持っていても、このご時世――現代の社会では表に出せないしね」

 錬金釜の中で完成したきのこパイを取り出し、台の上で切り分ける。
 それを小皿に乗せてアリサに差し出すと、彼女は小さく頷いてそれを受け取り、静かにパイを口に含んで頬を緩ませた。

「それでも……メルル先生の錬金術なら、普通ならどうにもできないような事で困っている人たちを助けたりすることもできると思います」

 アリサはそんなことはわかっている――と。きっと意識はしていないのに、それでも事の本質をしっかりと捉えた上でそんな事を口にする。
 その顔に笑みを浮かべながら告げるアリサの言葉に、メルルは士郎との出会いから始まった今日までの日々を思い返していた。

「……確かにその通りかも知れないね。だけど、どんなに言い繕っても"コレ"は異端の力だよ。アリサのような子が学んでいいものじゃないと思う」

 だからこそ、彼女は"こちら側"に来るべきではないとメルルは思っていた。
 あるいは――単に自分のエゴを押しつけているだけなのかもしれないという思いはある。
 それでも、彼女のような人間がわざわざ望んで"普通"の人生から足を踏み外していく事を良しとするほどメルルは達観してはいないつもりだった。

「でも……いえ、すみませんでした。今日の所は諦めます。でも、これだけは……メルル先生の錬金術は、凄く立派で素敵な力だと思いますよ」

 その手に珈琲カップを持って近付いてきたアリサは、それをメルルの前へと置いてから頭を下げた。
 含みのない笑みを浮かべたままアトリエを去っていくアリサの後ろ姿を見送ってから暫く――折角淹れてくれた珈琲を冷ますのも悪いと思ってカップに口をつける。
 士郎と比べれば見劣りはするだろうが、それでも自身が淹れるよりは美味しく淹れる事が出来ている。
 最初に彼女が淹れた珈琲を飲んだのは、ほんの数日前――。
 その時とは比べるべくもない味わいと香りに、アリサの努力と気持ちが伝わってくるような気がした。
 

 

Episode 39 -錬金術 後編-

 
前書き
第三十九話は前回の続き――後編です。 

 

 
 ――時刻は午前九時。
 朝食後――メルルやエヴァを送り出した士郎は忍と連絡を取り、旅行の件について確認を済ませた。
 メルルから伝え聞いたとおり、家族全員で参加してみないかという忍の誘いを受けることを伝えた後、はやてと共に病院へ。
 旅行に先駆け、丁度病院での定期検診を行う予定があったはやてと共に海鳴大学病院へ訪れた士郎は今――診察室の中で椅子に座って待機していた。

「――そうですね。とりあえず激しい運動をしたり、はしゃぎすぎたりしなければ大丈夫でしょう」

 診察室で太鼓判を押してくれたのは、はやての主治医である石田先生だ。
 彼女は目の前に座るはやてに対して、少しばかり柔らかな口調で言い含めるようにそう告げてから、その視線を士郎へと向けてきた。

「もし何かあればすぐに連絡をしてください。いつでも対応できるようにしておきますから」
「ありがとうございます。彼女の体調に関しては十分に注意しておきますので」

 丁寧に頭を下げて告げると、彼女は僅かに笑みを深めてから視線を再びはやてへと戻した。

「はやてちゃんも……初めての旅行だからってはしゃぎすぎないようにね」
「えっと……はい。気をつけます」
「うん。まあ、士郎くんやメルルさんが一緒だから大丈夫でしょう。折角の機会なんだから、楽しんできてね」

 笑顔で見送ってくれた石田と挨拶を交わして診察室を後にする。
 そうして受付を済ませてから院内での用事を終えた士郎とはやては、二人揃って顔を見合わせた。

「こうしてちゃんと手続きを踏んでいくと、本当に旅行にいけるんやって楽しみになってきたな~」
「行き先は街から少し離れた郊外にある海鳴温泉という場所だ。露天風呂もあると言っていたし、少しはのんびりできそうだな」

 病院の外へ出てきた士郎は、はやての車椅子を押しながら歩道を歩いていく。
 既に普段よりはしゃいでいる様子のはやてだが、それを指摘するのも無粋だと判断した士郎は静かに彼女の言葉を耳に届けていた。

「そういえば、士郎は旅行とかよく行ったりしてた?」

 はやてからの質問に、士郎はかつての世界での事を思い返す。
 街から街へ――国から国へと移り歩きながら過ごしていた時間を思い出して小さく頷いた。

「そうだな。こうみえても世界中を回っていたし、あれを旅行だと考えれば随分と経験している事になる」

 およそ行ったことの無い国の方が少ないというのもどうかとは思うが、事実は事実なのだから仕方が無い。

「そうか~。なら、好きか嫌いかで言ったら?」
「好きな部類に入るだろうな。温泉も好きだし、のんびりと過ごせる場所なら尚更だ」

 思い返しても、温泉にのんびりと浸かれたことは殆どなかった。
 だからこそ、今回の旅行の目的地が温泉宿だと知った時には本当に嬉しく思えたのだろうが――。

「わたしも温泉は特に楽しみなんよ。なあなあ、温泉やったら混浴とかもあるんかな?」
「あるところにはあると聞くが、最近は少人数を対象にした家族風呂などが多いらしいぞ」

 実際、日本には幾つもの混浴温泉が存在している。
 入り口と脱衣所が別で、湯船が共有となっているものや、入り口も脱衣所も浴場も完全に一緒になっているものまで――。
 もちろん混浴となれば色々と問題も起きやすくなる。だからこそ、そこには最低限のマナーが設けられており、誰もが楽しく過ごせるように心がけるべき場所でもある。

「それやったら、みんな一緒に入れるかな?」
「………はやて。それは俺も一緒にということか?」

 聞き間違いかと思って問い返すと、はやては当然だというような表情を浮かべて頷いていた。

「家族水入らずっていうし、そういうのが旅の醍醐味ってメルルからもらった雑誌に書いてあったよ?」
「どうして彼女がそんなものを用意していたのかは兎も角――そんなことになったら色々と大変なことになりそうな気がするな……」

 はやてやアリサ、すずかは最悪の場合でも基本的には大丈夫だろうが、なのはに関しては最悪の場合、魔法で吹き飛ばされる可能性も――。
 ファリンやノエル、忍や美由希、桃子などはそれなりに良識があるため大丈夫だろうと信じられる。
 だが――メルルとエヴァは別だ。メルルがどんな反応をするかは未知数であり、エヴァに至っては意図的に悪ふざけを敢行してくる可能性が否定できないからだ。
 
「最近家でメルルやエヴァとは一緒にお風呂に入ることが多いけど、士郎と一緒に入ったことはなかったから楽しみや」
「まあ、メルルやエヴァが無理だと言わず、大人しくしていてくれるのなら、そういうのも悪くはないかもしれないな」

 共に過ごしている者たちと一緒に湯に浸かる――。
 その落ち着いた様子を脳裏に描きながら笑みを浮かべると、車椅子の上に座っていたはやてが身体を捩った状態で顔を後ろへと振り向かせていた。

「……やっぱり、士郎もこういうのは気になるん?」

 どことなく興味深そうに――それでいて少しばかり寂しそうな声で尋ねてくる。
 そんなはやての問いかけに、士郎は真っ直ぐに頷いて見せながら静かに堂々と答えた。

「それは当然だろう。仮にも女性と一緒に湯に浸かるとなれば、男性としてはそれなりに気を遣わなければならないからな」

 あくまでも湯を楽しむという前提で気を遣うべきだと強調する。
 その答えをどう受け取ったのかはわからなかったが、はやては一度小さく溜息を零してから視線を前へと戻していった。

「う~ん、そういうこと聞いてるわけじゃなかったんやけど……まあええかな。そういえば、旅行にはすずかちゃんやなのはちゃんも来るんよね?」
「ああ。それと、はやては顔を合わせたことがないだろうが、あの二人の友人のアリサという同い年の子も来るぞ」

 士郎にとってもそれぞれ親交がある三人組――今はそこにエヴァも加わった四人組だが、彼女を除けば全員がはやてと同じ年齢の少女だ。
 どこか友人という関係性を遠ざけている様子のはやてだが、最近は家でエヴァと過ごしている影響からかそういった人付き合いにも積極的に見える。
 彼女のこれまでの境遇を思えば、出来る限りそうしたことを叶えてあげたいと思うのは普通の事だろう。

「アリサちゃんか……会うのが楽しみやな~」

 恐らく同じような事を思っているだろうアリサのことを思い浮かべて笑みを零す。
 面倒見がよく、誰とでも打ち解ける彼女のような子ならば、はやてにとって良い友人になってくれるだろう。
 そんなことを考えながら、すっかり思考がはやての保護者のようになってきていることに気付き、そんな自身に向けて苦笑するのだった。 

「……そうだな。向こうもきっと、はやてに会えるのを楽しみにしているだろうさ」
「そうやとええけどな。そういえば、旅行にはこの本を持ってても大丈夫なんかな?」

 告げて彼女は膝の上に乗せていたいつもの本を掲げてみせる。
 鎖付きの本――エヴァやメルルも興味を持っていたが、無理矢理中身を確認するようなことはしていない。
 はやてが物心ついた頃から持っているという大切な本――。
 彼女の両親が残したものかもしれないということを考えれば、はやてにとっては家族も同然に思えているのかもしれない。

「だが、出先で無くしたら大変だからな。どうしても……というのでなければ、旅行の間だけは家に置いておくのがいいと思うぞ?」
「う~ん、確かにそうやね。大切な本やし、ちゃんと部屋に置いてから出かけることにするよ」

 少しだけ寂しそうな声音で告げるはやてだが、振り返ったその表情は明るい。
 彼女なりに折り合いをつけたことを確認した士郎は、そんなはやての頭をそっと優しく撫でるのだった


 -Interlude-


 メルルとの一幕を終えてアトリエを後にした彼女――アリサ・バニングスはすっかり通い慣れてしまった森の小径を歩いていた。
 数日前に初めて訪れて以来、暇を見つけては訪れているメルルのアトリエ――。
 今日もいつもと同じような問答を繰り返してきたアリサは今――少しばかり自身の行動に自信を失いかけていた。

「……今日も駄目だったわね。まあメルル先生があの調子だから、元々無理な頼みなのかもしれないけど……」

 錬金術を教えてほしいと――そう繰り返し告げてきて、その度に丁寧に断られてきた。
 とりわけ今日はいつもよりも踏み込んだ話になったが、解決の糸口が見つからないという結論だけは最初から何一つ変わってはいなかった。

「――アリサ」

 独り言を呟きながら歩いていたアリサの名を呼ぶ声が耳に届く。
 その唐突さに肩をびくりと震わせながら、声の聞こえてきた方へと視線を向けた。

「――エヴァ!? ど、どうしてここに……って、考えてみれば当然か。メルル先生の家族なんだもんね」

 驚きの声を上げたアリサだが、すぐにエヴァがこの場にいる理由に思い至る。
 メルルとエヴァ――アリサがまだ会ったことの無い少女はやて。彼女たちは士郎と同じ家で暮らす家族のようなものだ。
 "普通は入って来れない"と聞かされたこの土地にエヴァがいるのも、そう考えてみれば不思議なことではないのかもしれない。

「言っておくが、私がここにいる事とメルルには何の関係もないぞ。メルルが錬金術士だからといって、私がそれを扱えるわけでもないし、他の同居人もそれは変わらん」

 そんなアリサの言葉を柔らかく否定するエヴァの言葉――。
 続けられた彼女のその言葉に、アリサは少しだけ自身の認識を改めなければならなかった。

「メルル先生は家族にも錬金術を教えるつもりはないってことなのかな……」
「そもそもはやてはメルルが錬金術などというモノを扱えること自体知らんがな」
「そうなんだ……」

 士郎やエヴァは兎も角、彼らが同居しているという八神はやてという少女は錬金術というものが実在している事さえ知らないのだと――。
 それは言い換えれば、士郎やエヴァはメルルが言うところの"普通"から外れた者だということなのだが、エヴァはそれを肯定も否定もしなかった。

「私も興味はあったが、やり方を教えてもらうことは出来なかったな。どうやらアイツは錬金術を誰かに教えて広める事を禁忌としているのかもしれん」
「……それは、どうして?」
「理由など幾らでも想像できると思うが……まあ、貴様のようなヤツには難しいのかも知れないな」

 小さく溜息を吐きながらの言葉に、アリサは思わず眉根を寄せた。
 エヴァのこうした物言いにはすっかり慣れていたが、今回は本当に小馬鹿にしているような気配が感じられたからだ。

「なによ……それって、もしかしなくても私を馬鹿にしてる?」
「もちろんだ。どうせメルルに錬金術を教えてもらおうとして断られたのだろう? メルルが貴様のような人間に教えようとしない事など、少し考えればすぐに解るだろうに」

 少しばかり文句を言うように告げると、エヴァはそれを肯定した上でアリサの行動を推察してみせた。

「……わからないわよ。なにも……なにひとつ――私はただ、メルル先生の錬金術が素敵だなって思っただけだもの……」

 対して素直な感想を口にすると、エヴァは瞑目して僅かに思案するような姿勢を見せた。
 何かを告げることを迷っていたのか、それともこうした会話をしていること自体に惑いを感じているのか――。
 しばらくして閉じていた目を開けたエヴァは、見た目からは考えられないほど大人びた雰囲気をその身に纏っていた。

「――仮にだが……錬金術を学んだ事で、貴様にとって不都合な事が起きたとしよう」
「な、なによいきなり……」
「いいから聞け。そうなった時に貴様は自分がどんな事を思うのだろうかと想像して見ろ」

 唐突なエヴァの質問に疑問を乗せた視線を彼女へと向ける。
 そこには想像していたような小馬鹿にした表情など微塵もなく、ただ真っ直ぐに自身を見据えるエヴァの真摯な姿があった。

「随分と大まかな問いかけだけど……まあ、何とか周りに迷惑を掛けないようにするでしょうね。私一人でどこまでできるのかは解らないけど、それでも大切な人たちに悲しい思いをさせるのは嫌だから」
「……そうか。だが、だからこそ貴様には教えられないと――メルルはそう考えているのだろうな」

 それはどういう事かと疑問を口にしようとして、エヴァに制止される。
 殊の外真剣な表情を浮かべているエヴァの普段とは違う姿に僅かばかり驚きつつ、アリサは素直に彼女の言葉に耳を傾けた。

「望まれぬ者や望まれる者……持って生まれた者や必要に迫られた結果として持つ事を選ぶ必要のあった者。あるいはそうした特異な環境で生まれ育った者――」

 それはただの例えとして口にしているだけなのか、詳しく告げられた事例は一つも無かった。
 それでも彼女が何を言っているのか――何を口にしようとしているのかが何故か理解できたため、アリサは静かに彼女の話を聞き続けた。

「そいつらに求められるのは現実を見据える覚悟だ。世間に認識されていない事象など吐いて捨てるほど存在する。そして、それに深く関わることになった者たちは"その立ち位置がなんであれ"必然として相応の覚悟を求められる」

 現代の社会において容認されていない事象――。
 書物などで過去の歴史を紐解けば空想や御伽にも思えるものが幾らでも語られている。
 ――けれど、もし仮にそれが空想や御伽ではなかったとしたら?
 中世の魔女狩りに代表されるように、"普通"ではないとされた者たちに対する世間一般の反応は時代を経ても変わらないだろう。
 だから、もしも現代においてそうした事象に関わるのであれば、相応の覚悟が必要になるのだとエヴァは語る。
 
「だが――貴様は違う。およそ裕福で普通な家に生まれ、普通の生活を送っている貴様は、そうした事柄や覚悟とはもっとも遠い人種だ」

 エヴァの言葉はアリサにも実感できるものだった。
 事実として、アリサはこれまでそうした事象に直面したことなどなく、そのような覚悟が必要になることもなかったから――。

「でも、それは……それじゃ、普通に過ごしていることがいけないっていうの?」
「貴様がそう感じたならそうなのかもしれないな」

 疑問の言葉を口にしても、エヴァは肯定も否定もしなかった。
 これは是非を問うような問題ではないのだと――。
 アリサ・バニングスにとって、これは認識するかしないか――或いは目を向けるか逸らすことしか出来ないただの事実なのだと彼女の目が語っていた。
 
「じゃあ……どうすれば私は――」
「貴様は言ったな。大切な人たちに悲しい思いをさせるのは嫌だと――」

 言の葉に込められた感情が変わった事を感じて、アリサは再び視線を真っ直ぐにエヴァへと向けて首を縦に振った。

「――ええ…確かに言ったわ」
「つまり貴様はメルルの錬金術を正しく認識しているという事だろう? これは普通とは違う……世間の目に晒すことの出来ない力だと――」

 ――それは、改めて言われるまでもないことだった。
 メルルの錬金術が世間一般に受け入れられる類のものではないということぐらい、まだ幼いアリサにもわかっていた。
 実際にどのような問題が起こるのかと尋ねられれば想像を働かせることしか出来ないが、決して良い結果になることはないだろう。

「他者との差異――それは知識や技術、生まれや育ち……あらゆる要素に発生する。そして、そこで発生する齟齬は大きければ大きいほど争いの元になる」

 家族構成や家の状況、通う学校やクラス、学習状況やテストの結果など――。
 確かにアリサの身の回りの事だけを見ても、例を上げていけばキリがないほどにエヴァが語る"他者との差異"は存在している。

「メルルの持つ力は特にそうだ。貴様が見てきたものなどその一端でしかない。あの女の力は、使い方を誤ればすぐにでも世界を巻き込む大騒動を引き起こすモノだからな」

 事実として、メルルの錬金術によって"どこまでの事が出来るのか"がアリサには想像することしか出来ていない。
 アリサがこれまで見てきたメルルの錬金術が一端でしかなかったとしても、それだけで世間との差異を生み出すとアリサが悟れる程度には特異な技術なのだ。
 それは確かに本来であれば秘匿するべきモノなのだろうが、メルルの錬金術そのものが持っている価値や素晴らしさはそういったモノとは別のはずだとも思っていた。
 だからこそ、アリサはそんな確信を抱きながら、つい先日に目にした光景を思い出してゆっくりと口を開いた。
 
「――あのね。メルル先生って、普段は楽しそうなのよ」
「……ああ、そうだな」

 唐突な発言にもエヴァは神妙に耳を傾けてくれる。
 そんな彼女に向けて、アリサは自分が感じたことを素直に口に出していく。

「私が初めてアトリエに入っちゃった時も、事情を話したらすぐに納得して……あまり言い触らさないようにねって笑いながら軽く言ってて……」

 本当のところはどうだったのか……などアリサにはわからない。
 或いは――士郎の知り合いでなければ、彼女はもっと直接的な何かをしていたのかもしれない。
 アリサが思いつく限りでも記憶を消したり、命を奪うなど――。
 口を封じる手段など幾らでもあるし、あるいはそうしたことをされていたかもしれないという予感はあった。

「……もちろん私だって、誰かに言い触らすようなことは考えもしなかった。誰も信じてくれないだろうって思ってたし、メルル先生を裏切るような事はしたくなかったから」
「そうか」

 メルルやエヴァの言うように、メルルの錬金術は今の世界に表立って受け入れられるようなものではない。
 ――そもそも、そんなモノが存在していると認めてもらえるはずがない。
 仮にアリサが――小娘一人が騒いだところで、きっと夢の話か漫画の話でもしているのだろうと思われて終わりだろう。

「だけど、そうやって次にアトリエに来たときに見たの……凄く寂しそうに――ううん、まるで"何も感じていない"ように調合をしてるメルル先生を……」

 まるで魔法のような素敵な力であるはずの錬金術――。
 けれど、それを扱うメルルの姿がアリサの目には、まるで居場所を見失った迷子のように見えて仕方がなかったから――。

「私はメルル先生がどんな風に錬金術と出会って、どんな事を経験してきたのかなんて解らない。それでも……まるで自分を否定するようなあんな顔はして欲しくないって思ったの。だから、私は――」

 ――錬金術を習って、これは素敵なモノなのだと証明したかった。
 確かに自分自身が錬金術という力に興味を抱いているのも否定はできない。
 けれど、あのとき独りで錬金釜を眺めていたメルルを見た瞬間に抱いたその想いは、間違いなく自身の内からこみ上げてきたものだから――。

「――馬鹿なやつだ」
「な、なんでよッ!?」

 溜息交じりに呟かれたエヴァの駄目出しに思わず声を上げる。
 彼女はそれを耳に届けてから、もう一度大きく息を吐いてから続けた。

「貴様がそういうヤツだからこそ、メルルは尚のこと貴様に錬金術を教える事を拒んでいる。それに気づいていないからだ」

 まるで出来の悪い子供へ諭すように告げられた言葉が耳に届く。
 アリサへと向けられたエヴァの視線もまた、大人が子供へ諭すような厳しくも優しいものだった。

「メルルが錬金術と出会う前――出会ってからどうだったのかは私も知らん。私が知っているのはあの女が錬金術を極めた後、生きる事に飽きて死を望んでいた事と、それを士郎が救ったという事実だけだ」
「――士郎さんが?」
「あの男の在り方に救われていると言い換えた方がいいかもしれんな。そして、メルルはそれを尊いものと考えている。だからこそ、"普通に生まれ育った"はずの貴様が僅かとはいえソレを備えている――その尊さに思うところがあるのだろうさ」

 ――それは、少なくともメルルに憎からず思われているということだろう。
 それが嬉しくて、けれどだからこそ錬金術から遠ざけられているというのだからままならない。

「だけど、私は……」
「ああ。それは結局メルルの立場からのものだ。貴様がそれを憂慮する必要はない。だが、貴様が直面している壁の正体くらいは知れていた方が何かといいだろう?」

 その言葉で、これまでのエヴァの言動が全てアリサに対する助言だったのだと悟る。
 どういうつもりなのかはわからなかったが、少なくともエヴァンジェリン・A・K・マクダウェルという少女は、アリサ・バニングスに的確な助言をしてくれていたらしい。

「エヴァは……私がメルル先生に錬金術を教わることに関しては反対しないわけ?」
「学びたければ学べばいい。どんな力も扱う人間次第だし、貴様がそうした事に思い至れぬほど愚かとは思っていないしな。だから、忠告くらいはしてやろう」
「忠告?」

 意外にもエヴァに評価されていた事に嬉しさを感じながら、アリサは彼女へと問い返す。
 それを受けて、エヴァは小さく頷いてから静かに口を開いた。

「――先にも言ったように、普通に過ごしている貴様には本来無縁の話だ。およそ普通に生きていく上では必要無かったモノが"最低限"必要になる」
「えっと……現実を見据える覚悟がどうのこうのって言ってたけど、それのこと?」
「いや、それはただの前提条件だ。そこをはき違えないようにしろ……とだけ忠告しておいてやる」

 いわゆる裏の世界に関わる様々な人が、その道行きの初めから途上で備える必要があるという覚悟――。
 アリサ・バニングスという少女が"こちら側"に関わるというのなら、そんなものは持っていて当然の前提条件に過ぎないとエヴァは告げる。
 そして、それを備えた上で更にもうひとつ大事なモノが"最低限"必要になるだろう――と、それだけを言い残して彼女は言葉を止めてしまった。
 
「つまり、答えは自分で見つけろ――いえ、感じろってことね」
「ああ、よくわかってるじゃないか。もし貴様が自力でそんな境地に辿りついたのなら、メルルも首を横には振らないだろうさ」

 ――今はまだ見当もつかない事だが、いつか必ずそれを見つけてみせる。
 だから、今はただ覚悟を――。
 すずかやなのは、士郎も――自身が関わる人たちが少なからず"こちら側"に関わっているのだという予感と推察は恐らく間違っていない。
 そして、それを知ることを周囲からは望まれておらず、ただ普通に過ごすことを期待されている。
 そんな全てを覆し、自身がこれまで過ごしてきた日常から離れていく事や、これまで当然だと思っていた全てが当然では無くなってしまう事――。
 どのような結果になろうと、この道を歩いて行く事を決意したのは自分自身だということを胸に刻む。
 自分の意思でこれから歩んでいく道を定めた以上、決して後悔だけはしないという事を、アリサは自分自身に誓うのだった。



 

 

Episode 40 -合同家族旅行へ-

 
前書き
第四十話です。
 

 



 五月もいよいよ終わろうかという頃――。
 週末を利用した家族旅行の目的地である温泉宿へと向かう車中で彼女――高町なのはは、同乗している七人の会話を耳に届けながら外に広がる自然豊かな景色を眺めていた。

「――話には聞いてたけど、アリサちゃんはなのはちゃんやすずかちゃん、エヴァとは同じクラスなんよね?」
「――ええ。私もみんなからはやての事は聞いてたから、今日はようやく顔合わせが出来るって楽しみにしてたのよ」

 八人乗りの車の二列目に腰掛けているはやてとアリサの会話が途切れることなく耳に届く。
 出発前の集合場所となった月村邸で顔を合わせた二人はすっかり意気投合しており、仲良くお喋りをしながら親睦を深めていた。

「――それでね、この温泉宿にはこんなお風呂もあって……」
「――なるほどな。となれば、後の問題はどうやって誘うかということだが……」

 車中の三列目――なのはの隣に座るすずかと、その隣に座るエヴァの二人は温泉宿のパンフレットを眺めながら小声で会話を交わしていた。
 たまに聞き取り辛い部分があるせいで話の全容は把握できなかったが、温泉についての話をしているのは間違いないらしい。

「――今回は少し時期がずれたけど、おかげで予約が空いていてよかったわね」
「――そうだな。店を任せてきたみんなのためにも、存分に骨休みをしないとな」
「――温泉なんて久しぶりだし、ゆっくりできるといいよね」

 車を運転しているのは父の高町士郎――その隣に座る母の桃子と、すぐ後ろの席でアリサの隣に座っている姉の美由希の会話が聞こえてくる。
 直ぐ隣りの二人の会話が途切れ途切れにしか聞こえないというのに、少し離れた両親や姉の会話がはっきりと聞こえてくるのはどうしてなのか――。
 そんな自分以外の七人の会話に耳を傾けながら、なのはは自身の肩に乗っているフェレット姿のユーノと念話を行っていた。

『温泉か…楽しみだけど、この姿のままっていうのは少しだけ残念かな』
『そうだよね。こんな機会は滅多に無いんだし、ユーノ君だって元の姿でゆっくりしたいよね……』

 高町家ではいつもペットのフェレットとして過ごしているユーノだが、元々が普通の男の子だと考えれば色々と不便だったり我慢している事もあるだろう。
 それでも、そんなユーノから不平不満の言葉や愚痴は一度も聞いたことはないし、そんな彼が温泉ぐらいは元の姿で楽しみたいというのなら、出来る限りの協力はしてあげたい。
 そんな事を考えていたなのはだったが、ふと――ある考えが脳裏を過ぎり、実行可能かどうかをすっかり慣れてきた並列思考をフル稼働させて検討していく。

『――うん、きっと大丈夫。あのね、ユーノ君。私や士郎くんとだけなら元の姿を隠す必要ないんだし、家族風呂を借りて一緒に入るのはどうかな?』

 ユーノだけを誘ってもきっと断られると判断しての提案だったが、考えてみれば考えてみるほど妙案だと確信する。
 妨害を受ける可能性や乱入者が訪れる可能性は非常に高く、難易度も高いが……士郎が一人でいる所を狙って誘うか、或いは念話で誘えばきっとなんとかなるだろう。
 そんな諸々の思いから告げた言葉だったのだが、当のユーノからはどこか遠慮したような念話が返ってきた。

『い、いや……その、それはちょっと……』
『でも、せっかく温泉にいくんだし、ユーノ君だってたまには元の姿に戻りたいよね?』
『それは……まあ、そうなんだけど――』
『うん、じゃあそういうことで。後で士郎くんにも相談してみよっと』

 これまでを共に過ごして、ユーノがとても責任感の強い人だという事はわかっている。
 そんな彼が、万が一にも自身の素性がばれないように気を張っているのがなのはの為だということも――。
 だからこそ、なのはとしては日頃から魔導の指導をしてくれている彼に、せめてそれくらいの息抜きはさせてあげたかったのだ。
 
『――まいったなぁ。士郎なら、あっさりと同意しそうだよ……』
 
 決意を新たに士郎を誘う方法を並列思考フル活用でシミュレート――。
 見た目には景色を楽しんでいるようにしか見えないなのはだが、レイジングハートの協力を得て全力全開で危険回避の道筋を検討していく。
 余分な思考に気を回すことさえも忘れていたため、なのはにはどこか諦めたようなユーノの呟きを認識する事が出来なかった。


 -Interlude-


「――それにしても、あっちに乗らなくてよかったのか? 美由希と母さんだって、お前たちがみんなと一緒のほうがいいんじゃないかって気にしてたんだぞ」

 七人乗りの車を運転して前を走る八人乗りの車を追いかけていく月村忍――。
 その隣の助手席に腰掛けていた彼――高町恭也は、僅かに後ろへと振り返りながらそんな言葉を投げ掛ける。
 隣では忍も同意するように頷いており、恭也は視線を車中最後尾に座る二人の男女――衛宮士郎とメルルリンス・レーデ・アールズに向けた。

「こっちのほうが下手に気を使わなくていいから気が楽なんだ」
「そうそう。せっかくの旅行なんだし、せめて道中だけでも気兼ねなく過ごせるほうがいいしね」

 二列目の席に腰掛けているファリンとノエルの後ろから聞こえてくる士郎とメルルの返答に全員が同時に曖昧な笑みを浮かべた。
 基本的に今のような態度と言葉が二人の普段通りであると知っている者だけがいるせいか、二人の言いたい事がすぐに理解できてしまったからだ。

「まあ、確かにそうよね。二人とも士郎さんや桃子さんには遠慮してるようだしね」
「普段の士郎様やメルル様を見ていると、あれはあれで貴重な姿なのだと思っていましたが……」
「お二人とも別人のようですもんね」

 忍の言葉にファリンとノエルが同意するように続けたが、恭也も視線を前へと戻しながら頷いていた。
 事実として、士郎とメルルの二人は恭也の両親以外に対しては、なのはだろうが恭也だろうが態度を変えようとはしない。
 もちろんそれは社会的には年長者である二人に対して士郎とメルルが気を遣っているからに他ならないのだが、曲がりなりにも二人の裏の顔を知る恭也たちからしてみれば違和感を覚える光景でもあった。

「まあ、気持ちはわかるが……なのはたちは、お前たちが一緒の方が喜んだと思うぞ?」

 なのはやすずか、アリサが士郎に対して一定以上の好意を抱いているというのは忍の言である。
 士郎やメルルの同居人でもある少女――八神はやてが二人に強い親愛を抱いているのは見ればわかったし、あの気難しそうなエヴァという少女も二人には心を許しているようだった。
 父である士郎も二人――特に士郎とは、もっと色々と話をしたいと言っていたのだが……。

「心配しなくても、向こうでは基本的になのはたちと行動を共にするつもりだ。二人の逢瀬を邪魔するつもりはないから安心してくれ」
「なっ!? お、俺たちは別に……っ!!?」
「――俺は士郎さんと桃子さんの事を言ったつもりなんだが……なるほどな。心配せずとも、君たち二人の邪魔をするつもりもないから安心していいぞ」

 そんな言葉に驚いて再び後ろへ振り返って見ると、そこには皮肉げな笑みを浮かべた士郎の姿――。
 隣に座るメルルが声を抑えて笑っている姿を見て、自身がからかわれた事を悟った恭也は思わず声を失ってしまった。

「別に気を使わなくてもいいのよ。今回は家族旅行みたいなものだし、恭也とはいつでも二人きりになれるしね」
「そうか。余計な気を回してしまったようだな」

 いつの間にか結託している忍と士郎の二人から視線を外して溜息を零す。
 忍はあれ以来――士郎に対して月村の秘密を告げた日から、すっかり士郎を気に入ってしまったらしく、今ではまるで本当の家族のように接している。
 とはいえ、忍が士郎やメルルに対してある程度の距離を保っているのも事実であり、同時にそれが士郎たちの意思である事も恭也は承知しているのだが――。

「――はぁ……まあいい。兎に角……だ。今回は水入らずの旅行なんだし、こっちは気にせずにお前もメルルとのんびり過ごしたらどうだ?」
「私はそのつもりなんだけど……エヴァやはやてがいるし、なのはちゃんたちもいるから難しいかな」

 仕返しのつもりで告げた言葉に存外真面目に返答を返したメルルだが、隣に座る士郎は特に気負うこと無く頷いていた。

「心配してくれなくとも、メルルとはいつも家で一緒に過ごしているし、折角の旅行なのだからのんびりと過ごすさ」

 士郎の言葉にメルルが苦笑いを零していたのは気のせいではないだろう。
 士郎がどのように同居人たちを捉えているのかはわからないが、少なくともメルルは士郎に対して好意を隠そうとはしていない。
 忍を経由して知り合った女性――メルルリンス・レーデ・アールズという女性は、その見た目も手伝って士郎と肩を並べていると恋人か兄妹のように見える。
 そんなメルルに対して士郎が親愛の情を持っているのは間違いないのだろうが、二人が男女の仲なのかと問われれば皆が首を捻ってしまう。
 恭也としても士郎の人間関係に関して興味はあったが、当の本人たちがそのような関係性で落ち着かせているのだから口を出すべきではないと傍観しているのだった。

「それにしても、今回の目的地に関してある程度は調べてきたが、実際はどんな所なんだ?」
「山の奥にあるのんびりとした雰囲気が特徴の温泉宿だ。周りには綺麗な川や散策に丁度いい森林があるし、骨休めにはうってつけだろうな」

 目的地の特徴を簡単に説明すると、士郎は少しだけ嬉しそうに笑みを浮かべていた。
 或いはこうした事をあまり経験していないのか――。
 恭也の目には、士郎のそうした姿がどこか年齢相応の少年のように見えたのだった。


 -Interlude-


「……なるほど。確かにいい所だな」

 目的地に到着して車から降りたエヴァを新鮮な空気が出迎えてくれる。
 海鳴の街から離れた山奥に立つ宿は、相応の歴史を感じさせながらも古びた印象を持たせない。
 周囲には綺麗に並ぶ木々や、合間に流れる川や岩間の間に流れる水流が自然のまま残されており、のんびりとした雰囲気を演出していた。

「年寄り臭いわよ、エヴァ」
「む……ああ、そうだな。はしゃいでいるお前が子供としては正しい。本来は私も見習うべきなのだろうな」

 横から呆れた風に告げてきたアリサに素直な嫌みを告げる。
 事実として彼女たちのような素直な感情表現が苦手なエヴァだが、そもそも――いまさら、あのように子供らしく振る舞える筈もないと口の端を歪めた。

「……なんか、馬鹿にされてるように聞こえるんだけど?」
「さてな。ところで、はやてたちはどこにいったんだ?」
「あの三人なら士郎さんのところでしょ?」

 不服そうに表情を顰めていたアリサだが、尋ねるとすぐに答えて二人の所在を指し示す。
 その先に視線を向けてみれば、そこには並んで共に周囲の景色を眺めている士郎となのは――その隣には車椅子に座ったまま景色を眺めるはやてとその背後に立つすずかの姿があった。

「貴様はあっちに混ざらなくてよかったのか?」
「エヴァとこうして過ごすのだって滅多にあることじゃないし、私としては問題なんてないつもりだけど?」

 自分の好きでここにいる――と。
 そう告げるアリサと共に保護者たちの集まる場へと向かう。
 受付に向かった高町士郎と月村忍、士郎を含めた子供たちを除いた全員が揃ったその場では、メルルがなにやら高町桃子と楽しげに話をしている姿が目に入った。

「――そういえば、エヴァは温泉とか好きなの?」
「湯浴みは嫌いではないな。温泉も入ったことがないわけではないが――」

 かつて暗黒大陸の奥地に存在していた自身の居城や、自身の隠れ家として造り上げた別荘には相応の浴場を用意していた。
 日本に訪れた際に温泉に入った経験もあったが、それは百年近くも前の話で、浴場として整備される以前の天然温泉が殆どだ。
 すずかの話によれば、この温泉宿には普通の内風呂の他に混浴の露天風呂なども多くあり、家族連れなどで楽しめるようになっているのだとか――。

「まあいいけど……。折角温泉に来たんだから、日本人としては全部の温泉を堪能しないとね」

 そんな発言をする自称日本人の少女――アリサ・バニングス。
 彼女の両親は日本で起業したアメリカ人だと聞いてはいたが、生まれと育ちが日本であるのなら確かに彼女の言は間違っていないのかもしれない。

「……構わんが、あまりはしゃぐなよ。滑って転んで頭を打って永眠――などという恥を晒さないようにしてくれ」
「アンタね……私の事をどんな風に思ってるのよ」
「からかいやすい女――だな」

 アリサの言葉にエヴァは考えるまでもなく即答する。
 頭が良く行動的で、普段は基本的に明るく屈託なしに行動する年齢相応の少女――。
 だが、その裏で友人や周囲に対して様々な感情を抱いており、それを処理する術を知らない無知が故に理知的に振る舞えない子供――。
 そんなアリサの姿は見ていて面白く、彼女の行動観察や彼女との会話は退屈な小学校生活に於いては唯一の趣味だと断言出来る程度にはエヴァなりに気に入っている相手なのだ。

「真面目に答えなくていいから! 第一、気をつけるのは私じゃなくてはやてのほうでしょ? 浴場とか結構危ないんじゃないかしら」

 声を上げたアリサはすぐに気を落ち着かせてそんな言葉を口にした。
 ――彼女が危惧するように、足の不自由なはやてにとって温泉というものは一人で楽しめる場所ではない。
 メルルとエヴァはそれぞれの知識から、どうにかはやての足を治せないものかと思案してみたが、原因そのものが不明である以上は手がつけられないという結論に達している。
 或いは――メルルがプレシアに施した方法を使用すれば歩けるようになるかも知れないが、少なからず一般社会に関わっているはやてに対しては勧められないとメルルは首を横に振っていた。
 エヴァとしても、人形遣いとしてのスキルを駆使すれば歩行の補助程度は可能だろうが根本的な解決にはならないため提案すらしていない。
 結局のところ――命に別状があるわけでもないため、はやての足に関しては現代の医療に任せつつ、メルルが独自に研究を進めていくという形で落ち着いたのだが――。

「まあ、心配するだけ無駄だろうな。はやてにはメルルが付き添うことになっているし、あの女に限ってその程度を苦にすることもないだろうしな」

 所詮は小柄な九歳の女子供――。
 士郎曰く――およそ普通の人間では持ち上げることすら困難な巨大な大剣を自在に振り回すメルルにとって、はやて一人を抱える事など造作もないだろう。

「……メルル先生って、力持ちなの?」
「少なくとも、貴様程度なら片手で放り投げられる程度にはな」

 彼女のアトリエに設置されている数々の道具や調度品は全てメルルが自力で設置したものだ。
 彼女が日頃から愛用している錬金釜も彼女が長年の研究の果てに作成した特注品であり、その重さと頑強さは士郎が太鼓判を押すほどである。

「うわ……なんか、簡単にその様子が想像できちゃったじゃない」

 力持ちなメルルという姿はアリサにも想像しやすかったのか――。
 アリサが零した呟きを耳に入れながら、エヴァは同意するように静かに頷くのだった。


 -Interlude out-


「――確かに、これはいい……な」

 暖かな湯に身体を沈めながら、士郎は頭上に広がる青空へ向けて息を吐いた。
 大部屋の中に自身の荷物を置いてやってきたのは当旅館自慢の露天風呂で、広々とした周囲の景色が確かな開放感を与えてくれていた。

「あまりこういう場所には来たことがなかったのか?」

 意外そうな声をかけてきたのは一緒にやってきた恭也だった。
 彼もまた士郎と同じく露天風呂を堪能していたためか、その言葉は普段とは異なるのんびりとした口調で告げられていた。

「ああ、中々こういった場所に縁がなくてな。景観もいいし、確かにおすすめするだけのことはある」
「それなら誘った甲斐があったってものだ。そういえば、あのフェレット……ユーノはどこいったんだ?」
「ユーノなら、なのはたちが連れていったぞ。アリサが全身隅々まで綺麗に洗ってやりたいと言っていたが……」

 あれでユーノは純情なところがある。
 あの年頃の少年としては珍しくないのだろうが、なのはから聞かされた提案にも及び腰だったのは間違いない。
 もちろん、なのはのユーノに対する気遣いには大賛成だったため、士郎は早速桃子たちに許可を得て家族風呂を使えるように手続きを済ませていた。

「……それにしても、凄い体付きだな。俺も随分と鍛え込んできたつもりだったが、流石にお前と競える気にはならないな」

 恭也の視線が自身の身体に向けられている事に気付いて、士郎は思わず自身の身体へと視線を向ける。
 元々、かつての世界で過ごしていた頃から自身が保有するあらゆる武具を自在に操れるようにと鍛え続けてきた。
 生身とは言い難い状態だったため、身体的な変化は殆ど見られなかったが、自身が保有する力を最大限に使えるようにと練磨を怠る事はしなかった。
 こうして肉体を得た後も暇を見つけては鍛錬に励んでおり、メルル特製の拘束具を使用している影響から全身が筋肉の鎧で覆われたような状態となったのは必然なのだろう。
 ――聞けば、普段着ているようなゆったりとした服を着ていると細身にしか見えないらしい。
 身体のラインが出るような服を着るか、こうして肌を見せればがっしりとした体格だとわかるため、そのギャップに驚くのは当然だと恭也は語った。

「さて、俺はそろそろ上がるとしよう。恭也――君はどうする?」
「俺はもう少しのんびりしていくつもりだ。出たらちゃんと水分をとっておけよ」
「ああ、わかっている」

 返事を返した士郎はそのまま浴場を後にして更衣室へ。
 着替えを済ませてから目的の自動販売機へと向かい、予め用意していたお金を投入してコーヒー牛乳を購入した。
 恭也に言われたままに実行してみたが、これはこれで悪くはなく、今はもう思い出すことすら難しい頃の事を思い出す事もできた。

「――そうだったな。藤ねえや藤村組の若衆たちに教えられたことがあったな……」

 思い返す記憶は所々が虫食いのようになっていたが、それでもそんな出来事があったのだと思い返すことができた。
 ――藤村大河(ふじむらたいが)
 通称、藤ねえは士郎にとって養父である衛宮切嗣に次いでもっとも身近にいた人で、身内がいなくなった士郎の姉代わりとなってくれた女性だ。
 思い返せば、彼女の破天荒な振る舞いにどれだけ救われていたことか――。
 そんな懐かしい記憶を思い返していたせいか、限りなく自然に消された気配に気付いたときには既に"彼女"は背後で足を止めていた。

「――藤村組って土建屋さんとかそういう集まりのこと?」

 振り返ると同時にそんな言葉を投げ掛けられる。
 眼鏡とおさげが特徴的な少女――高町家の長女である高町美由希がそこにいた。

「やはり美由希か。そうやって気配を消して背後に立たれるとつい反応しそうになるから止めてくれると助かるんだが……」

 彼女からの問いかけにはそんなところだ……と、適当な相鎚を返しながら文句にも聞こえる言葉を口にする。
 それをどう受け取ったのか、彼女は腰に手を当てた状態のまま、呆れた様子を隠そうともせずに首を横に何度も振りながら溜息を零していた。

「あのね、シロ君。普通は気配を消した相手に反応なんてできないでしょ? それに、シロ君が相手だから私も練習を兼ねてこんな事が出来るんだし」

 何事も実践してみなければ上達しているのかどうかもわからない――と、そんな事を言って自身の正当性を訴える。
 確かに彼女が気配を消すなどという裏家業的な技術を向上させたいというのなら、士郎や恭也……後は高町家の家長である高町士郎に対して実践してみるのが一番なのだろうが――。

「とりあえず、こういう時には構わないと妥協するから店で働いている時は止めてくれ。少なからずこちらも身構えてしまうから、接客中だときっと相手を怖がらせてしまうだろうからな」

 相手が大した使い手でないのなら、士郎もそのような反応をしない自信があった。
 だが、少なくとも美由希のソレは充分以上に洗練されており、相応の使い手でもない限りは彼女の気配を辿ることは困難だろう。
 そんな彼女が真剣に気配を消して背後から迫ってくる――というのは、士郎にとって見れば藪の中から刀の切っ先を向けられているに等しい。

「あはは、それは確かに不味いかもね。シロ君って、うちの学校でも随分と噂になってるし、実は強面だったなんて噂になったら大変だしね」
「わかっているのなら善処してくれ。ところで、今回は俺や君――忍も店を休んできたが…大丈夫なのか?」

 共にアルバイトとして翠屋で働く者同士――。
 士郎の懸念は彼女にとってもすぐに思い当たるものだったらしく、少しだけ考え込むような仕草を見せていた。

「普段は週末がオフシフトの人も出てくれてるしね。シロ君は知らないだろうけど、みんなシロ君をお手本に色々と頑張ってきたから……きっと大丈夫なんじゃないかな?」
「俺を?」
「うん、そうだよ。シロ君の接客態度は勿論なんだけど、いつも凄く洗練された動作で仕事をしてるから、みんな接客のお手本にしてるんだよ。知らなかった?」

 特に気をつけて何かをしているつもりはなかったが、それでも周囲から見れば普通ではなかったのだと知り、少しばかり考え込んでしまう。
 結果的にスタッフの練度向上に役立てていた……というのは喜ばしい事だったが、そうした周囲の意識に気がつかなかったというのは自身の観察力不足とも言えるだろう。

「そうだったのか……」
「学校で噂になってるって言ったでしょ? 女子だけじゃなくて、男子にも人気なんだよ。シロ君って仕事中は完璧な執事さんのようだし、憧れって言うと大仰だけど、そんな感じみたい」
「別に技術云々ではないと思うけどな。心構え一つでそれなりに"それっぽく"見えると思うぞ」

 何事もその気になれば"それなり"に見えるものだ。
 雰囲気や気配――或いは立ち振る舞いというものは、どのような心がけをしているかで大きく変化するものなのだから。

「言われてみれば確かにそうだよね。なるほど……帰ったらみんなにも教えてあげようかな」

 本来、彼女ほどの使い手ならその辺りは心得ているはずだ。
 これだけの腕前を持ちながら精神的にはまだ甘い――というよりは、必要に迫られていないというのが正しいのだろう。
 恭也はあれで既に色々と経験しているためか、美由希に比べれば覚悟を背負った様子を見せる時がある。
 だが、美由希は純粋に剣士として育てられているという印象を士郎は抱いていた。
 それが誰の意図によるものなのか――など、考えるまでもない。
 恭也にしろ、美由希にしろ――二人の扱う剣術の大本の師は、士郎が知る限りではたった一人……彼らの父親である高町士郎しかいないからだ。

「……ところで、美由希は温泉にはもう入ったのか?」
「ううん、今からだよ。もう少ししたらみんなと合流して一緒に入ってくるよ」

 みんな――というのは、今回の旅行に参加している女性陣全員だろう。
 もっとも、士郎と恭也が温泉に向かう際に高町士郎だけは姿が見えなかったため、女性陣も桃子だけは別行動をしている可能性が高い。
 ともあれ、いつまでも立ち話をしているとメルルたちと遭遇することになる。
 そんな事になればもう一度温泉に入る羽目になりそうな予感がしていた士郎は、話はここまでにしようと歩を進め始めた。

「いい湯だったし、しっかりと堪能してきたらいい」
「うん。また後でね、シロ君」

 いつものように気軽な調子で挨拶を交わしてからその場を後にする。
 通路を歩いている道中に聞こえてきた女性陣の会話に耳を傾けると、美由希以外の全員が温泉を目指している事がわかった。
 桃子がそこにいる――その事実に少しばかり疑問を抱いた瞬間に士郎の身体を強烈な殺気が襲った。
 喉元に剣を突きつけられているような"ソレ"は士郎にとっては懐かしくも感じられるもので、特に慌てる事なく殺気が放たれた場所へと視線を向ける。

「……そういえば、恭也が言っていたな。俺と話がしたい…と。それにしても、これは幾ら何でも乱暴な呼び出しだな」

 告げながら笑みを浮かべて歩を進める。
 気配の元――旅館から離れた雑木林の中で待っているであろう人の元へと向かっていく。
 人気のない雑木林は時期が時期だけに賑やかな様相となっており、少しばかり暖かな日差しと吹き抜ける風が心地いい。
 入浴後の散歩としては最適な場所かも知れない…などと、のんびりとした事を考えながら歩いていると、視線の先で一人の男が木の幹に背を預けて待っていた。

「――やあ。ごめんな、士郎くん。乱暴な方法で呼び出してしまって。まさか、本当に気付いてくれるとは思わなくてつい…ね」
「いえ、構いません。ただ、乱暴な呼び出しだったということについては否定しませんよ――士郎さん」

 悪びれもなく告げてきた相手に軽い調子で返す。
 目の前に立っているのは、高町家の家長にしてなのはたちの父親である高町士郎その人だった。


 

 

Episode 41 -合同家族旅行にて-

 
前書き
本編第四十一話です。 

 

 
 ――初めて顔を合わせた時から気にはなっていた。
 あまりにも日常から乖離した気配と目の光――それを押し隠し、普通に振る舞っている少年の姿は遠い過去を思い出させるからだ。
 いつか機会があればと……そうして待ち望んだ今を迎えた彼――高町士郎は、目の前に立つ衛宮士郎と向かい合っていた。

「――それで、わざわざこういった方法を選んだのは相応の話があるのだと思っても?」

 尋ねてくる声はどこか慎重だった。
 既に身に纏っている気配がいつもとは違う事に気付きながら、その言葉に小さく頷いてみせる。

「ああ。それに、君が"どんな反応をするのか"と思ってね」

 ――そもそも、あの手段を呼び出しと気付ける人間がどれだけいるだろうか。
 それなりに裏に関わっている恭也でさえ、あれを呼び出しの挨拶だと判断することはしないだろうが――。

「なるほど……それで、結果は期待通りでしたか?」
「いや……こういうと誤解されそうだけど、僕の見込み違いだった。君は、僕程度が計れるほど真っ当な生き方をしてきていないようだ」

 普段よりも張り詰めた気配を身に纏いながら問いかけてくる。
 その言葉に首を横に振りながら答えると同時に、自身の物言いに僅かばかり苦笑いを零す。

「別に君を危険だと思っているわけじゃないんだ。士郎くんの事は信頼に値する人間だと思っているし、先日の件についても約束を守ってくれたことに感謝している」

 補足するように告げると、少年は少しばかり表情を緩めた。
 時折彼が見せる年相応の表情に近しいが、彼はすぐにその表情を消してしまった。

「……僕が言っているのは君自身の事だ。どうして君は、その若さでそんな境地に至ったのか――とね」

 僅か十五歳の少年――。
 仮に物心ついた頃から命のやり取りの中で過ごせば、彼のように研ぎ澄まされた気配を持つのも納得はできる。
 ――だが、それでは普段彼が見せている姿に違和感を覚えてしまう。
 あれは断じて仮面を被っているわけではなく、彼本人の姿であると確信している。
 仮にそうでなかったとすれば、その時は本当に自身の見る目がなかったと諦められる程度には――。

「それは……」
「差し支えがないのなら教えて欲しい。こうみえて、僕はそれなりに裏の世界に関わって生きてきた身だ。実際、その関係で何年か前に死にかけたことがあったぐらいだしね」

 思い出すのは当時の桃子や恭也たちの姿だった。
 どれだけ心配を掛けてしまったのかを容易に想像できる程に憔悴した家族の顔を見て、もう二度と同じような思いはさせたくないと思ったから――。

「なのはから、彼女が幼少の頃に"事故"で貴方が瀕死の重体になったとは聞いていましたが?」
「実際は事故ではなかった……といえば、君には想像できるだろう。まあ、それからどうにかして過去を過去として清算して今に至る――というわけだ」

 もし命を落としていたのなら純然たる事故として扱われたのだろう。
 家庭を得て裏の世界から身を引いて、それで全てが終わったと勘違いをしたまま全ての禍根を残して――。

「……恭也はその頃の僕を見ていることもあってか、今も裏に関わる事を少なからずしているようだ。僕にも話してくれないのは寂しいけどね」

 息子である恭也がそうした世界に足を踏み入れたのは運命だったのか――。
 その切っ掛けとなったのが今でこそ仲睦まじい様子を見せる忍にある事も、どういった事情を抱えているのかも直接は聞かされていない。
 それが恭也なりの気遣いであり、同時に身内にさえ明かせないような事情であることもそれなりに理解していたが、親として寂しく思うのは仕方が無い事だろう。

「美由希も幼い頃に色々とあってね。今でこそ落ち着くところに落ち着いたわけだけど、あの子には出来るだけそうした世界に関わって欲しくないとは思っている」

 自身の妹の子供である美由希――。
 そんな彼女を養女として引き取った頃のことを思い出す度に苦々しい思いが蘇ってくる。
 けれど、それを過去の出来事として振り返る事ができるのは、そうした事情をそれなりに清算することができたからだ。
 これからをどうするつもりなのかは美由希次第だが、こうして共に暮らしながら自身が剣を教えた恭也から剣を教わっているのも彼女なりに将来を考えているからだろう。

「……だけど、なのはにはそうした世界があるという事すら知らせていない。出来ればそのまま平穏の中で過ごしていってほしいと――そう思っていたんだけどね」

 ――だからこそ、なのはにだけはそうした世界と関わることなく過ごしていって欲しいと皆が願っていた。
 自身や桃子は言うに及ばず――恭也も美由希も自身の幼少期に思うところがあるからか、なのはに対しては同じような想いを抱いていた筈だ。

「だけどまあ、それはなのは自身が見つけて歩み始めた道だ。親としては心配だけど、あの子から僕たちに話してくれるまでは傍観しているつもりだよ」

 年齢不相応の覚悟を以て決意を告げてきた日――あの時のなのはを思い出しながら笑みを浮かべる。

「もし…君が同居している彼女たちの事を心配しているのなら安心して欲しい。ここで聞いたことや知ったことを誰かに漏らすことは決してしない。それは相手が桃子やなのはたちであってもだ」

 なのはを支えてくれた少年――。
 恭也が友と認め、美由希とも友人として接してくれている彼に親としての立場からそう告げた。

「……そこまで大仰な前振りをしてくれなくとも、話すこと自体に抵抗はない。ただ……それを信じるも信じないもそちら次第だと理解してくれると助かる」

 途端――彼が身に纏っていた雰囲気が一変する。
 その言葉遣いや視線も普段とは異なり厳しいものだったが、それが自然に感じられるのは彼が見せたこの姿が普段の彼だからなのだろう。

「――ああ」

 だからこそ、そんな彼に驚くこと無く静かに声を返した。
 それを受けて彼が語り始めたのは彼の過去――。
 衛宮士郎という人物が辿ってきた紛れの無い道程――まるで伽噺話のようにも聞こえる物悲しい物語だった。

「――と、そういうわけだ。これで君の疑問には答えることができたと思うが……」

 そうして語られた物語は多分に主観的で、決して全てを語ったものではないのだろう。
 彼が幼少期に経験したという災害と、その後に経験した裏の世界の争い――。
 その後をどのように過ごしてきたのかという話を簡単に告げた彼は、話はこれだけだと目を閉じてしまった。

「……そうだね。見込みが違ったのは当然か……前提条件からして既に違っていたとは思わなかったよ」
「見た目がこうだからな。恭也と忍も推測ぐらいはしていると思うが、なのはや美由希は気付いてさえいないだろう」

 既に百歳を越えていると――そう告げる彼の言葉に嘘は無く、そんなこともあるのだろうと受け入れる。
 そして恐らくは恭也たちも同じように納得しているのだろうという確信があった。

「君の同居人はこの事を?」
「はやて以外は知っている。あの子は裏にさえ関わりのない一般人だからな」
「では、メルルくんやエヴァちゃんは――」

 車椅子の少女――八神はやて。
 なのはと同じ年だという彼女はそうした裏に関わるような子ではないと――。
 そう告げる彼の表情はどこまでも優しく、或いは本当に彼女の事を妹か娘のように想っているのだと悟るには十分だった。
 同時にエヴァとメルルの二人は一般人では無いのだという意味に解釈することができる言葉だと判断し、それを戸惑うこと無く口にした。

「――彼女たちの事が知りたいなら、彼女たちに直接聞いてくれ。下手に俺から事情を話すと、何をされるか全く想像がつかない」

 少しばかり表情を硬くして溜息交じりに告げる――。
 そんな彼の様子から何となく事情を察してしまい、曖昧な笑みを浮かべることしかできなかった。

「ま……まあ、少なくとも事情があるということはわかったよ。君のことも少なからず知ることが出来たしね」
「それなら話した甲斐があったというものだ。別に隠し立てしているというわけではないが、信用してもらえる類の話ではないしな」
「それは……まあ、そうだろうね。だけど、少なからず君を知る者ならある程度の納得は出来る話だったと思う」

 実際に彼が生きてきた年数と、歩んできたであろう決して平坦では無い日々――。
 その全てを信じさせてくれるのは、これまでに彼が見せてくれたモノが確かにあったからに他ならない。
 だから信じると――そんな想いを込めて告げると、彼は少しだけ嬉しそうに笑みを浮かべてからゆっくりと頭を下げた。

「――それではこれで。すっかり湯冷めしてしまいましたし、もう一度温泉を堪能してきます」
「……ああ、いってらっしゃい」

 話はこれまでだというように元通り十五歳の少年らしくそう告げて踵を返す。
 その言葉に返事を返してから彼――高町士郎は、自身と同じ名前を持つ男の遠ざかっていく背を見つめ続けるのだった。
 

 -Interlude-


「――どうして……こうなったんだ」

 どこか情けない声を耳に届けて彼女――メルルリンス・レーデ・アールズはゆっくりと湯に身を沈める。
 そんな彼女の正面で同じように湯の中へ腰を下ろしている士郎の言葉には多分に諦めが混じっていた。

「折角こうして温泉に来たのだ。一つ二つ入った程度で満足できるはずがないだろう」
「そうそう。こんな機会は滅多にないんだし、ちょっと恥ずかしい気がするけど気にしない方向でね」

 やはり同じように湯に浸かっているエヴァの言葉に同意しながら告げる。
 そうして返ってきたのは、どこか諦めたように顔を俯かせてしまった士郎の溜息だけだった。

「貴様とて別に悪い気がしているわけではないのだろう?」
「別に君たちが気にしないというのなら、こちらとしては文句などあるはずもないがな……。はやてにバレたら大変だぞ?」

 エヴァの言葉にもう一度溜息を零してから告げた士郎の言葉に耳を傾ける。
 確かに彼女だけをのけ者にしたとなれば、旅行後の彼女がどれほど落ち込んでしまうのかと想像に難くないが――。

「はやてにはちゃんと言ってきたよ? 今からシロウを捕まえて一緒にお風呂に行ってくるって――」
「――なに?」
「後から来ると言っていたな。心配せずともあのメイドたちが浴場まで連れてきてくれるそうだ」
「流石に連続して温泉に入れるほど体力があるわけじゃないしね。一休みしてから来るって言ってたよ」

 温泉に強い関心を抱いていた士郎が何度も温泉に入ろうとするのは予想通り――。
 そんな彼を混浴の温泉に誘導するのは容易ではなかったが、これではやての希望通り四人一緒に温泉に入ることが出来るだろう。

「それなら……まあいいか。折角の機会だし、こうしてゆっくり過ごすのも悪くない」

 士郎もそれは承知しているのか――。
 仕方が無いという表情を浮かべたまま湯に身を沈めて視線を空へと向けてしまった。

「温泉か……そういえば、随分と昔に国の開拓の一環として温泉を作ったことがあったな~」
「そういえば、貴様は自国の開拓事業を手がけていたとか言っていたな?」
「うん、そうだよ。だけど、随分と昔のことだから結構曖昧にしか覚えていないんだけどね」

 温泉を満喫しながら微かに思い出せる過去の一部――。
 想い出を覆う霞の向こうにあるはずの笑顔だけはどうやっても思い出せず、それが少しだけ寂しく感じられた。

「私も昔の記憶は曖昧な部分が多いな。はっきりと覚えている事もあるが、大半は思い出せないものばかりだ」
「そっか……士郎もあまり昔の事ははっきりと覚えていないんだよね?」

 同意するようなエヴァの言葉に頷きながら士郎へと話を振る。
 彼はいつも以上に緩んでいた表情を僅かに引き締めてから空を見上げていた視線をメルルたちへと向けてきた。

「まあ、そうだな。印象的な出来事は今でもはっきりと覚えているが、特に世界中を旅するようになってからは過去に遡るほど思い出せない事が多い。最近はそうでもないがな」
「薬の影響が出てるんだと思うよ。完全に元通りってわけじゃないけど、肉体も精神も若返ってるわけだしね」

 士郎が語る限り、彼は過去の殆どをはっきりと覚えていないらしい。
 印象深い出来事や彼のその後に強い影響を与えた出来事はしっかりと覚えているが、特に故郷の街を出てからの事は曖昧な記憶も多いらしい。
 若返りの薬の影響で過去の記憶をはっきりと思い出せることがある――というのは、きっと士郎にとっては悪い事では無いのだろう。

「そういえば詳しくは聞いていなかったな。貴様は元々、メルルと出会う前には既に不老不死だったのではないのか?」
「俺も自分の状態を詳しく把握していたわけじゃないからな。俺が"知った"のは、自身の身体が純然たる生身ではなかったという事ぐらいだ」

 エヴァからの疑問に士郎は淡々と答えていた。
 実際――彼は自分がどのような状態だったのかを完璧に把握していたはずだ。
 そんな彼が自分の事を曖昧にしか語らないのは、そこにメルルたちにさえ明かせない何かがあるのか――。
 或いは――自分自身の事だからこそ記憶を摩耗させてしまったのかもしれない。

「その辺りはリンが色々と推測してたけど――」
「――みんなおるか~?」

 少し前まで共に世界を旅して回っていた少女――遠坂凛との会話を思い出す。
 そこで彼女から聞かされた士郎に関する推測を口にしようとして――浴場にすっかり聞き馴染んだはやての声が響き渡った。

「……まあ、細かな事を気にしても仕方が無いだろう。こうしてここにいる――それは間違いの無い事実なんだからな」

 それだけを告げて立ち上がった士郎は腰に巻いたタオルに手を添えながら浴場の入り口へと向かっていった。
 腰にタオルを巻いているとはいえ殆ど裸の状態ではやてを迎えにいく士郎――。
 その背を見送ったメルルは、立ち上がろうとしていた自身の腰をエヴァの隣へと下ろしてから小さく息を吐いた。

「………殊更、自分の事に関しては徹底して達観した男だな」
「そうだね……気にしてないわけじゃないんだろうけど、あまり重要な事じゃ無いって思ってるみたい」

 ――士郎は自分に関することに興味関心が薄い。
 それは彼本人も認めていたし、傍から見ていても気づけるただの事実に他ならない。

「あの男は自分に関しては覚悟が極まっているのだろう。だからこそ、例えどのような状況になろうとあるがままに行動し、望む結果を手繰り寄せようとする――」 
「――まあ、シロウの過去を聞くと一人でなんでもやろうとするのはわかるんだけどね。今はこうして私も貴女もいるわけだし、もう少し頼ってくれてもいいんだけどな」

 士郎が揺るがない人だということはメルルもよくわかっているつもりだった。
 けれど、だからこそ――彼がおざなりにしている彼自身の心配をしてしまうのは無理の無い事なのかもしれない。

「本当に自分の手ではどうにもならないような事があれば、迷わずそうするだろうさ」

 どこか確信したようなエヴァの言葉に頷きを返す。
 見れば――入り口の方からはやてを御姫様抱っこで運んでくる士郎の姿がそこにあった。
 タオル着用が認められている混浴だからか、はやては身体に一枚の大きなタオルを巻いている。
 そんな二人の姿を眺めながら、メルルはエヴァと共に湯へ身を沈めながら二人の到着を待つのだった。


 -Interlude-


「――うわ~凄く景色が綺麗だよ、ユーノ君」
「本当だ……綺麗だね。それにしても、この家族風呂っていうのは他の温泉とは随分と趣が違うようだけど……」
「他の湯は大衆向けに開放的な雰囲気を重視しているようだったからな。家族風呂は少人数での使用を想定したものだから、その辺りは意図的に環境を変えているのだろう」

 温泉宿の中にある家族風呂――。
 貸し切り予約の必要な場所で周囲から隔離されたような雰囲気が特徴的だった。
 そんな中で夕暮れの空を見上げながら素直な感想を口にしたなのはの言葉にユーノと士郎がそれぞれに言葉を口にする。
 三人揃っての入浴――そんな普段では考えられないような状況を実感し、なのはは自身の頬が緩んでいる事を実感していた。

「ほらほら、ユーノ君はそこに座って。背中流してあげるから」
「うわっ!? い、いいよそんなの!! 自分で洗えるから!?」
「遠慮しないでってば。少し前までお父さんの背中とか流したりしてたから慣れてるし、上手だってお父さんも褒めてくれたしね」

 遠慮がちなユーノの手を引いて洗い場の椅子の上に誘導する。
 転ぶと危ないため強く引っ張るようなことはしなかったが、ユーノも強く抵抗することなく椅子へと腰掛けてくれた。

「ユーノも普段は高町家のペットだ。いつも美由希や桃子さんと入って慣れてるんだろう?」
「べ、別に僕が好きで一緒に入ってるわけじゃないよ!!」

 そんなユーノに向けてからかうような口調で告げたのは、既に簡単に身体を流して湯に浸かってしまった士郎だ。
 彼の言葉に声を上げるユーノ――その小さな背中に向けてゆっくりとお湯をかけていく。

「ユーノ君、いつも私が一緒に入ろうって言っても断るのに……」
「まあ、一日に何度も入浴をするというのも大変だろうしな……」

 普段の不満を口にすると、今度はユーノを援護するような士郎の言葉が耳に届く。
 確かにそれは正論で、自分に当てはめて考えれば納得できることだった。

「まあいいけどね。でも、折角こうして温泉に来たんだし、今日くらいは思いっきり羽を伸ばしてくれると嬉しいな」
「うん、それはもちろん。こうして元の姿で温泉に入れるのは凄く嬉しいしね」

 軽く合図をした後、頭からお湯をかける。
 そうして濡れた髪に洗髪剤をつけた自身の手を使って優しく洗っていく。

「のんびりと入浴を楽しめるというのはいいものだな……」

 なのはたちを眺めながらぼんやりと告げる士郎の言葉に思わず笑みを零してしまう。
 普段とは異なるそれは、彼がこの状況を満喫している証拠に他ならず、そんな彼の姿を見ることができたことが嬉しく感じられた。

「なんだかお年寄りさんみたいだよ、士郎くん」
「む……確かに二人より歳上なのは間違いないが、そんなに老けこんで見えるか?」

 冗談交じりの言葉に思いの外真剣に答える士郎の返答に思わず手を止めてしまう。
 みれば、彼は少しばかり思案するような表情を浮かべており、何かしら考え事をしている事を窺わせた。

「え……あ、ううん。そういうわけじゃないけど、でも大人っぽいとは思うかな? お兄ちゃんとかお父さんより大人っぽく見える時があるもん」
「そうだね。確かに士郎は凄くしっかりしてるし、クロノも随分と見た目よりは大人びてるほうだけど、士郎はそれ以上だしね」

 なのはの言葉に同意するように補足してくれるユーノの頭に再びお湯をかける。
 綺麗に洗髪剤を落とせた事を確認したなのはは、今度こそ彼の背中を洗い始めていく。

「しっかりしているという意味でなら、ユーノも負けてはいないと思うがな。その年で考古学者として発掘に携わっていたのだろう?」
「元々、スクライア一族は発掘とか探索を生業にしていたからね。みんなと過ごしている内に自然とそうなっただけだよ」

 ユーノの生い立ちや地球に来るまでの話は何度か聞いていた。
 とても同じ年の男の子とは思えないほどしっかりしているユーノだが、彼本人にとってそれは特別なことではないのだろう。

「年齢相応ではないという話さ。ユーノがそれを普通の事だと思っている事も含めてな」

 士郎も同じように考えているのか、そんな言葉をユーノへと向けていた。

「士郎だって、考古学に携わっていた時期があったって言ってたよね?」
「海鳴に来る以前の話だがな」

 以前に考古学に手を染めていたと話してくれたことを思い出す。
 アースラの室内で本を片手に読書に耽る士郎の姿はとても様になっていた。
 何となく頬が熱くなってきたことを実感しながらユーノの背中へと湯をかける。

「――はい。終わったよ、ユーノ君」
「うん、ありがとうなのは」
「どういたしまして。士郎くんはどうする?」
「俺はもういい。さっきもはやてたちと一緒に温泉に入ったばかりだしな」

 洗い終えて湯の中へ向かったユーノを見送りながら士郎へと声を掛ける。
 そんな彼から返ってきた返答に、なのはは自身の身体を洗いながら思わず眉根を寄せてしまうのだった。

「はやてちゃん……"たち"?」
「あ……いや、別にやましいことは何もない。同居人同士、親睦を深めるために皆で温泉を楽しんできただけだ」

 堂々とした態度で告げる士郎の言葉で何となく状況を想像してしまう。
 この温泉に幾つか存在している混浴の温泉――そこで同居人たちと水入らずで楽しむ彼らの姿に思わず笑みを零した。

「エヴァちゃんやメルルさんとも一緒だったの?」
「ああ。今のように家族風呂を借りて――というわけではなかったがな」
「一緒に暮らしてるんだもんね。家族みたいなものなのかな?」

 身体を洗い終えて士郎たちの入っている湯へと身体を沈ませる。
 暖かな感触に頬を緩ませながらユーノの隣――士郎の対面へと腰掛けた。

「どうだろうな。少なくとも、はやての事を妹のように思っているのは確かだが……」

 士郎がはやてを妹のように見ていること――そして、はやてが士郎を兄のように見ている事は傍目にもすぐにわかる。
 お似合いの兄妹だとはなのはたち全員の共通認識だが、それならばと浮かんできた疑問を口にする。

「エヴァちゃんやメルルさんは違うの?」
「あの二人とは親しい同居人というのが正しい気がするが……少なくとも姉や妹のようには見えないな」
「……そうなんだ」

 あの二人に関してはそういう目では見ていない――と。
 どうとでも受け取れるような返答に、なのはは静かに相鎚を打った。

「はやてがあの二人をどう思っているのかはわからないがな。まあ血の繋がりだけが家族の証明では無いだろう。今は……そうだな。家族のような同居人――というところだろうさ」

 士郎の言葉が優しく耳に届く。
 そんな士郎がどれだけ優しい表情を浮かべているのか――。
 それを口にすることなく笑みを浮かべ、すぐ隣でやはり同じように笑みを浮かべていたユーノと顔を見合わせる。
 これからも続いていく、続いていって欲しいと思える優しい光景――。
 それを実感しながら、なのはは今日という日の想い出を大切にしようと決意するのだった。


 -Interlude out-


 数度目の入浴を終えて、夕食を済ませてから数時間――。
 すっかり夜も更けてきた周囲の景色を眺めながら、士郎は独り旅館の外で空を見上げていた。

「――眠れないの?」
「メルルか? ああ、まあな。そういう君も眠れないのか?」

 唐突な声に振り向かずに答える。
 そのまま隣にやってきた彼女は同じように空を見上げながら優しく笑みを浮かべた。

「手持ち無沙汰になっただけなんだけどね。はやてはもう寝ちゃったし、子供たちはみんな一緒に寝てるしね」
「……エヴァもか?」
「はやてとアリサの二人に抱き枕にされてたのは見たけどね。大人組もみんな寝るって言ってたし、起きてるのは私たちだけなんじゃないかな」

 どこか嬉しそうに告げるメルルの言葉に視線を下ろす。
 やはり同じように視線を下ろしていたメルルと視線を交わし、二人同時に笑みを零した。

「折角だし、その辺りを散歩でもしないか?」
「うん、いいよ。今日は月も綺麗だし、いつかの森の中に比べれば歩きやすいしね」
「魔獣が出没するような森と同じにするのはここの旅館に失礼だと思うが……まあいいか」

 多くを口にする事なくそれだけを告げて――。
 同意を返してきたメルルと肩を並べて旅館周辺を歩き始めた。

「――この世界での生活はどうだ?」

 少しだけ気になっていた事を口にする。
 メルルは特に気負った様子もなく、はっきりと首を縦に振っていた。

「ちゃんと楽しんでるよ。素材の研究をするのもそうだし、プレシアからの預かり物もあるしね」
「預かり物?」
「彼女の使っていたっていうデバイスだよ。えっと……はい、これだよ」

 浴衣姿の彼女が肩から提げていたいつもの鞄――。
 そこから取り出したのは、いつかの日に対峙したプレシアが所有していた杖だった。

「そういえばそんな杖を使っていたな。ところで、君はこんな時でもその鞄を持ち歩いているのか?」
「別に置いてきてもいいんだけどね。アトリエに置いている箱からでもアイテムは取り出せるし、この鞄と同じものだってすぐに作れるしね」
「そういえばそうだったな。君のアトリエから火山に向かう時もそんなことを聞いた覚えがある」

 簡単そうに告げるが、真面目に考えると頭を痛めてしまう類の事実だろう。
 メルルと知り合って数ヶ月――すっかりこうした事に慣れてきた事を士郎は強く実感していた。

「それに、いつも同じ物を持ち歩いているのはシロウも同じでしょ? その首飾り――大切なモノだって言っていたけど、シロウがそれを外してる所なんて殆ど見た事が無いよ」

 メルルの視線の先にはいつも身につけている紅い宝石があった。
 浴衣の中にぶら下げられているそれを手に取り、遙か昔にこれを拾った時の事を思い出していく。
 あれから百年余り――戦いの中で紛失しないようにと装飾には色々と手を加えてきたが、宝石そのものは月から帰還した時から何も変わってはいない。

「入浴中はちゃんと外しているさ。盗難対策もしているし、多少離れた場所に持ち出されてもすぐに見つけられるからな」
「詳しくは聞かなかったけど、それって命の恩人が落としていったモノだって言ってたよね」

 彼女――遠坂凛の姿を脳裏に浮かべながら頷く。
 あの日あの瞬間――深夜の学舎で、心臓を穿たれた衛宮士郎を救うことができたのは彼女以外にはいない。
 その後に手にした記憶や知識からそれが間違いの無い事実だと確信しているが、本人にそれを確かめる事は終ぞ出来なかったから――。

「ああ。直接本人に確かめたわけじゃないが……まあ身につけているのが普通だったしな。今でも肌身離さないのは戒めのようなものだ」
「――戒め?」
「ああ。予防線を張る――というよりも、ある種の戒めと表現した方が的確だろう。お前が生きているのは、多くの人の助けがあったからだ――という事を忘れないための……な」

 宝石を眺める度に深夜の学舎で救われた事を思い出させてくれる。
 それからも色々な人に助けてもらったが、その始まりとも言える記憶を思い返させてくれるこの宝石は、衛宮士郎にとって特に大事なものなのだ。

「そっか――シロウはそうやって長い時間を変わらずに過ごしてきたんだね」
「メルル?」

 ふと――メルルの声音が変わったことに気付いて視線を向ける。
 彼女はそれを受けて小さな笑みを零した後、ゆっくりと背後へと向かって背中合わせに身体を預けてきた。

「――ちょっとだけ、こうしてていい?」
「……ああ」

 普段とは異なる静かな口調――。
 そこに寂寥感のようなものを感じた士郎は静かに同意の言葉を返す。
 千年を生きてきた女性――そんな彼女が何を思い返しているのかは想像するしかできなかったが、こうして共に過ごす時間は不思議と心地よかった。

「綺麗な月だね」
「そうだな」

 メルルと背中合わせになったまま空を見上げる。
 満月というわけではないが、優しく夜空を照らす月と周囲の星々を眺めた。
 それからしばらくの間――メルルが背を離すまで、士郎はメルルと共に静かに空を見上げて過ごすのだった。

 

 

Episode 42 -合同家族旅行の終わりに-

 
前書き
第四十二話です。 

 

 
 旅先の旅館で迎えた朝――。
 日の出から僅かに過ぎた頃、暖かな温泉に身を沈めながら彼女――エヴァンジェリン・A・K・マクダウェルはのんびりと空を仰いでいた。

「――ふぅ……いい湯だな」

 すぐ隣から聞こえてくる声に視線を下ろす。
 見れば、同じく温泉に入っている男――衛宮士郎が普段でさえ見せない緩みきった表情を浮かべていた。
 声もしみじみと呟くように零れたもので、仕草や表情と相まって年寄りのようにも見える。

「見た目に反して年寄り臭いやつだ」
「素直な感想だ、気にしないでくれ」

 呆れたように告げると少しだけ気にしたのか、表情だけを改める。
 まだ朝の内は冷たい空気が頬を撫でていくが、暖かな温泉のおかげで心地よさしか感じない。
 そんな環境を満喫しているのだから気持ちはわからなくもなかったが、傍目にだらしなく見えてしまうのは仕方が無いだろう。

「それにしても、エヴァと二人で早朝から温泉というのはどうなんだろうな?」
「単に早く起きたのがお前と私だけだった……というだけだろう」

 昨夜は大人も子供も旅先で開放的になっていたせいか、皆が皆はしゃいでいた。
 その反動からか、普段は恐らく早くに目覚めているであろう者たちも誰一人として起きてはこなかったのだ。
 目覚めたエヴァが目にしたのは、自身の身体を抱き枕にしていたアリサとはやてがそのまま眠っていた姿――。
 きちんと並べられた布団の上で眠る大人たち――そして、窓際の壁に背を預けたまま座って寝ていた士郎と、その膝を枕にして眠るメルルの姿くらいである。
 起こすつもりはなかったのだが、そんな状況でも士郎は士郎だったらしく、エヴァが動いた気配を感じてすぐに目を覚ましてしまった。
 すぐに状況を確認した士郎がメルルを起こさないように立ち上がり、着替えを手に部屋を出て行こうとしたため、エヴァもすぐに同じように支度を整えて部屋を後にした……というのが十数分前の話――。

「はやてとメルルは朝早くに起きる習慣がないし、なのはたちも出先でいつもとは生活リズムが違っているのだろうしな」
「そういうわけで、お前と私がこうして二人で温泉に入っているのは当然の帰結というわけだ」
「……いや、俺は普通に一人で入ろうと思っていたんだぞ?」
「減るものでもなし……気にするな」

 意外そうに告げる士郎に対して気にするなと手を振ってみせる。
 それがどう受け止められたのか、士郎は笑みを浮かべてから小さく頷いていた。

「もう諦めている。折角の機会だし、思う存分温泉を堪能したいしな」

 その士郎の言にはエヴァも賛成だったため、互いに視線を交わしながら小さく頷き合い、揃って空を見上げた。
 ふと――こんな状況が滅多に無い事を実感したエヴァは、兼ねてから試してみようと思っていた事を実行してみようと視線を下ろして立ち上がった。

「ふむ――そうだ、士郎。良い事を思いついたから、そこで暫く待っていろ」

 軽く手を挙げて応える士郎を背にして更衣室へと向かう。
 自身の着替えと一緒に持ってきた手荷物――小さな袋に入れて持ってきた"ソレ"を二つほど取り出してから再び温泉へと戻った。

「――ふぅ……本当に、いい湯だな」
「――待たせたな」

 変わらず温泉を堪能していた士郎の背に向けて声を掛ける。
 一応バスタオルを身体に巻いているエヴァだが、特に気にした様子もなくエヴァへと振り返る士郎の姿に口の端を歪めた。

「おかえり、エヴァ。それで、一体何だったんだ?」
「とりあえず、これを飲め」

 尋ねてくる士郎へ"ソレ"を差し出して告げる。
 手のひらの上を眺めた士郎は"ソレ"を見て小首を傾げていた。

「丸薬? 飴玉か何かなのか?」
「ああ、まあそんなものだ。別に毒とかそういった類のものじゃないし、私も飲むから安心しろ。そら――」
「む……まあいいか」

 要らぬ心配をしていそうな士郎を安心させるために"ソレ"を口に含む。
 時間差を考慮して飲み込むのは遅らせたが、躊躇無く口にした事で士郎も少なからず納得したように手にした"ソレ"を口へと運んでくれた。
 すぐに魔法の発動を感じ取り、自身の身体と感覚が変化した事を知覚する。
 発生した魔法の煙が晴れた先に見えてきたのは、ある意味で慣れ親しんできた自身の大人びた姿――。
 そして、そんなエヴァの目前で同じような過程を経てから姿を見せた長身の男――衛宮士郎の大人びた姿だった。

「――ほう。これはまた……中々いい男じゃないか」

 メルルの薬によって十四歳程度の肉体年齢となった士郎――。
 それよりも更に背が高くなり、傍目にハッキリと解るほど屈強な体付きをしている。
 引き締まった顔と鍛え抜かれた身体、鋭利な視線は見た目以上に士郎を凜々しく見せていた。

「………君は誰だ?」
「馬鹿なことを言うな。お前と一緒の湯に入っていたのが私の他にいたのか?」

 唐突に尋ねてきた士郎の表情は本気で見知らぬ人間へ向けるようなものだった。
 それが嬉しくもあり、腹立たしくもあったため、エヴァは特に意識しながら(しな)を作って士郎へと言葉を投げ掛けた。

「エヴァ……なのか?」
「――どうだ? こうしていれば、私も中々のもの――って、どうして顔を逸らす?」
「わかっていて聞くのはよせ。今の君が魅力的な大人の女性なのはよくわかったが、それならば慎みというものを持つべきだ」

 顔を背けてしまった士郎の姿に頬を緩める。
 先程までの態度とは異なるその反応に、エヴァは浮かぶ笑みを隠そうともせずに士郎の背後へと近づいてからその顔を覗き込んだ。

「なんだ――照れているのか?」
「当然だ。鏡の前に立って自分の姿を見てくると良い」

 言いながら士郎の表情は普段よりも引き締められている。
 それが照れ隠しだとわかったのは、少なからず彼を観察してきたからこそだろう。

「それはお前も同じだろう? 元の姿もいいが、そうして成長して大人の背格好になったお前も悪くない」

 雰囲気が余りにも異なるため、目の前で変化を見ていたエヴァも思わず同一人物かどうかを疑うほどの変貌である。
 手渡した丸薬――エヴァ特製の年齢詐称薬によって二十歳の年格好になったはずだが、その成長ぶりはこうして見ていても信じられないほど劇的だった。

「む……そういえばやけに視界が高いな。どれ――これは……」
「ん? どうかしたのか?」
「……いや、懐かしい姿だなと思ってな。多少の差異はあるが、メルルと出会う以前はこれくらいの年格好だったからな」
「ああ、なるほどな」

 すぐ近くのガラス窓に自身の姿を映した士郎の声音が変わった事に気付いて声を掛ける。
 そうして返ってきた返事は懐かしんでいる……といったもので、過去の自分と似ていると告げる士郎の言葉に相鎚を打った。

「それにしても、どうしてわざわざこんなモノを用意したんだ?」
「元々は魔法薬の実験と魔法の実践のつもりで拵えたものだ。こちらの世界でも魔法が使えるのか――使えるとしたら、どのような影響があるのか……とな」

 肉体的な変化は当然として、世界を移動した事による影響がどの程度あるのか――。
 それを把握しておくのは魔法使いとしての自負があるエヴァにとっては当然のものだった。

「麻帆良を離れて、少しは魔力が戻ってきた……ということなのか?」
「微々たるものさ。仮に全盛期の魔力総量を百万程度だとすれば、一か二程度は回復したといったところだろう」

 学園結界から逃れてみても魔力は戻らず、学園に封印されていた頃と大きく変わりはない。
 それでも"完全に失った"わけではない以上、少しずつでも改善させようと手を打つのは当然だろう。
 この世界にやってきたエヴァが人知れず魔力容量増大のために訓練をしていることは、誰にも知らせていない秘密である。

「随分とわかりやすい例えだな。しかし、それだと殆ど魔法が使えないことに変わりはないんじゃないか?」
「規模と効率に気をつければ少しは使えるということだ。それに、この手の魔法薬は元々麻帆良に封印されていた頃から拵えていたしな」

 実際、士郎と初めて遭遇した時にも魔法の発動を補助するための魔法薬は使用していた。
 満月であったことも大きいが、それでも"あの程度"の魔法を発動するにも補助が必要な程度には魔力が押さえ込まれていたのだ。
 それと同等――下手をすると少し及ばない程度にしか魔力がない今のエヴァにとって、こうした確認と準備は己の身を守るための最低限の備えに他ならない。

「備えは常に――ということか……」
「それはお前も似たようなものだろう。知れば知るほど奇妙な男だよ。何故、いつかは失うとわかっているのにそうまで自然体でいられる?」

 呟きに被せるように疑問を口にする。
 エヴァにとってこうした備えが当然であるように、士郎も日々の中で常に"備え"とも呼べる行為を行っている。
 未来に対するあらゆる可能性の推測とそれに類する覚悟――。
 そんなものを常に胸の内に抱きながら、士郎は日々を笑顔で過ごしているのだ。
 ――常在戦場という言葉がある。
 どのような場にあっても、常に戦場にいる心構えを持つ事を示した言葉だが、士郎の"ソレ"はそうした心構えとは似て非なるものだ。
 常に戦場に――ではなく、日常の中で起こり得る当然の事として争いを認めている。
 常在日常とでも言うべきソレは、士郎が真っ当な人生を送ってきていないことを否応にも悟らせてくれた。

「何故も何も無い。永遠不滅のものなど存在しないし、平穏も争いも始まりがあれば終わりがある。今はこうして平和な日常を過ごす時間だというだけのことだ」
「貴様自身はそこに固執するものはないと?」
「できれば平穏無事に過ごしたいとは思っている。争い事は身体も心も疲れるばかりだ。……いやまあ、中には戦いに悦を感じる者たちもいるが、俺にはそうした趣味はないしな」

 どのように醜悪で悲劇的な争いにも始まりと終わりがあるように、どんなに幸福で好ましい日常にも始まりと終わりがあるのだと――。
 そんな当たり前のことを本当に当たり前として受け入れ、それを理解した上で士郎は特に気負った様子もなく平穏が好ましいとだけ告げた。

「八神はやて――あの娘はお前に対して強い親愛を抱いている。それがわかっていて、それでもこの日常がいつまでも続いて欲しいとは思わないと?」
「続けられるなら続けていきたいと思っているさ。俺がはやての側にいるのは俺が望んでそうしたいと思ったからだしな。仮に、はやてと過ごすこの日常が崩れる日が来たのなら……その時は選択するだけだ」

 今の士郎にとって決して小さくはないはやての存在を口にしても士郎の口調に乱れはなかった。
 彼は今のはやての側にいるのは決して彼女の境遇に同情したからではなく、あくまでも自分が側に居たいと思ったからだと断言する。
 だからこそ、"はやてと共に"いられるのなら、そこが平穏な日常でも争いの渦中でも構わないと――。
 ただ何を最優先とするのかを選択するだけだと――士郎は迷いも決意も見せることなく、自然体のままでそう告げた。

「――揺らがんな」
「……いや、そうでもないさ。分はわきまえているつもりだったのに、こうして暖かな世界を心地よく思っているんだからな」

 今の日常を心地よく感じているのは間違いないと告げる士郎の顔には苦笑いが浮かんでいる。
 まるでそれが悪い事だと――。
 自分自身には分不相応な事だと思っているかのように、士郎の声には微かな戸惑いのようなものが含まれていた。

「自分には相応しくないと? まるで、こうした平穏に浸ることそのものに罪悪を感じているようにも聞こえるぞ」
「理屈と感情は別物――ということさ。俺もまだまだ若造だということだろう」

 わかってはいるが、そう思ってしまうことは変えられないのだという。
 それは当然の事だ。多くの人間はそこに何かしらの要素を絡め、優先順位を定めて取捨選択をしていく。
 士郎は恐らくそうした姿を他者へ見せることを好ましく思っておらず、それを内に秘めたまま過ごしていこうと決めているのだろう。

「そうした姿をもう少し……いや、余計な世話だな。話は変わるが、なのはと共にいるイタチ――あれは普通のイタチではないな?」

 告げるべきではない言葉を口にしようとしたことを改め、以前から気に掛かっていた事を尋ねる。
 気付かれているとは思っていたのか、士郎は特に慌てた素振りも見せずに小さく頷いてから湯の中に身を沈めてしまったため、エヴァも同じように湯の中へ座り込んだ。

「ユーノはあれで元々はちゃんとした人間だ。魔法を使ってあのような姿になっているが、それも色々と事情があってのことだ」

 告げられた事実は特に際立って特異なものではなかった。
 次元世界から訪れた少年と、そんな彼の救いを求める声に呼応した少女――。
 語られたのは、そんな少女のために戦いの渦中に身を投じた士郎と、全ての元凶となったプレシアの物語だった。

「――なるほど、プレシアと同じ世界の出身だったか。事件後もこの世界に留まっているのは、なのはのためか?」
「彼女に魔法をきちんと教えるためだろう。年に見合わず優秀で責任感のある少年だ」

 士郎にしては珍しく高い評価を下しているらしく、ユーノという男に士郎が向けているそれは信頼に近しいものだった。
 聞けば士郎もユーノには色々と世話になったことがあるらしく、その辺りを含めて評価しているのだろう。

「お前は手伝ってやらないのか? 魔法はともかくとして、少なからず争いに関わる世界へ踏み出しているなのはに教えてやれることは幾らでもあるだろう?」
「訓練には付き合っているさ。だが、訓練や実戦で何を感じ、どんな選択をしていくのかは彼女次第だと思っている。俺の考えや生き方を強制するつもりもないしな」

 士郎が見定め、自身の力を以て守ると誓った少女――高町なのは。
 彼女に対する士郎の態度はメルルやエヴァは勿論、はやてやアリサたちに対するモノとも異なる。
 それがどんなものなのかを察するには、エヴァはなのはの事を詳しくは知らないし、士郎となのはがどんな関わりを持ったのかも知らない。
 エヴァにわかるのは、士郎がなのはに対して特別な心配と信頼を抱いている――という程度のことだった。
 
「口に出すばかりが全てでは無い……か。お前の背を真っ直ぐに見つめているあの女がどんな道を歩んでいくのか――面白くはあるな」
「君がそこまで他人に興味を抱くというのも珍しい気がするが……」
「心配せずとも、自分でも珍しいと思っているさ。こうしてお前と二人で湯に浸かりながら話をしている事を含めてな」

 元より、エヴァは他者の事情に深入りするようなことは殆どしたことがない。
 それがいつの間にか――特に士郎に関してはどこまでも知りたいと思ってしまう。
 この感情はあの男――自身が好意を抱いたサウザンドマスターに抱いたモノと似通っていながら、どこかが違うと心の内が叫んでいた。
 それを焦って知りたいとは思わないのは、こうして士郎と共に過ごせる時間が確かに存在しているという実感があるからなのだろう。
 そんな事を考えながら胸の内が暖かく感じられてきたことを実感したエヴァは士郎の側へと身を寄せ、その右腕を抱き抱えるような形で縋り付いた。
 
「……だから、何故身体を擦り寄せてくる?」
「いや……お前があまりにも冷静なものだから、ついからかいたくなってな」

 半分本音、半分誤魔化した言葉を口にする。
 密着した肌と肌からは確かに士郎の体温が感じられ、それがエヴァに安心感のようなものを与えてくれる。

「心配しなくとも十分に動揺しているし、人並みに興奮もしている。君のような魅力的な女性に誘惑されれば大抵の男は前後不覚に陥るだろうさ」

 そんなエヴァの内心を知ってか知らずか――。
 士郎は少しだけ慌てた様子を見せ、そんな言葉を早口に告げながら身を離そうと湯の中を移動していく。
 もちろんエヴァは士郎の腕を掴んだまま放していなかったため、エヴァも同じように移動していったのだが――。

「そうかそうか。お前も一応は真っ当な男だったということだな」
「当たり前だ。どう思われているのかは知らないが、俺はそこまで堅物というわけじゃない。もっとも――それに流されるかどうかは別だがな」
「それは当然の事だろう。私としては、お前が真っ当な男だということが確認できただけで十分だ」

 気恥ずかしさと安心感を覚えながら、心の底からの笑みを零す。
 何がそこまで嬉しかったのか――そんなことに気を回すことさえできず、エヴァはこの一時を味わい尽くそうと士郎に寄り添い続けた。
 やがてそんな状態にも慣れてきたのだろう――。
 数分後に入ってきた桃子や忍、美由希やノエルの声が聞こえてくるまで、エヴァは特に抵抗する事なく空を仰ぎ見る士郎と共に温泉を満喫するのだった。


 -Interlude-


 旅館を出る時間を後一時間後に控えた午前九時――。
 朝食を終えて帰りの支度を整えたはやてたちは、おみやげを物色するという男組と別れて最後の温泉を満喫していた。

「それにしても、いい湯だね~」
「うん、気持ちいいよね~」

 なのはとすずかの素直な感想が耳に届く。
 これまでこうした温泉宿で温泉に入ったことのなかったはやてだが、彼女たちの感想には素直に同意できた。

「日本人に生まれてよかったって思う瞬間よね~」
「それはツッコミ待ちと解釈してもええか?」

 すずかたちの声を聞いたアリサが冗談とも本気とも受け取れるような言葉を口にする。
 はやてが聞いた限り、アリサの両親は紛う方無き外国人――。
 見た目からして日本人から乖離しているアリサの言葉に、はやては思わず手の甲でアリサの肩を叩いていた。

「それにしても、メルルさんって力持ちだよね」
「うん。はやてちゃんを軽々と連れてきたもんね」

 なのはが言うように、メルルはその見た目に反して力が強い。
 士郎とどちらが力持ちなのかは聞いたことがないが、すずかが言うようにはやての身体を軽々と持ち上げられるのだ。

「でも、すずかならはやてくらいは抱えられるんじゃない?」
「というと、すずかちゃんは力持ちなん?」

 アリサの言葉を受けて、はやては視線と言葉をすずかへと向ける。
 曰く――体育の成績はダントツだというすずかだが、見た目だけならやはり力持ちには見えない。

「えっと、どうだろ……多分大丈夫だと思うけど」
「メルルさんはお姉ちゃんたちとサウナに行っちゃったしね」
「試してみたら? はやてだって、ずっと湯に浸かったままじゃ逆上せちゃうでしょうし」

 すずかの呟きに耳を傾けながら視線を露天風呂から内風呂の方へと向ける。
 釣られてそちらに視線を向けたなのはの言葉通り、一緒に温泉に入りにやってきたメルルと忍と美由希の三人はサウナを満喫したいとそちらへ向かった。
 三人は一度朝にも温泉に入ったらしく、最後にサウナだけでも楽しみたいと告げ、メルルだけは早めに戻ってくると言い残してからはやてたちと別れたのだ。
 年長者がいない場でそうした事を試すのは危ないかも知れないと思い、つい視線を向けてしまったのがなのはの目にも留まったのだろう。

「でも、はやてちゃんも不安だろうし……」
「わたしは構わんよ~。もちろん、すずかちゃんが良ければ……やけど」

 最後にアリサが付け加えた言葉に返事を返したすずかにはやては構わないと告げる。
 聞いている限り、はやてを抱えることそのものにすずかが不安を感じている様子は見られない。
 ならば――と、はやてはすずかへと向き直って笑顔を浮かべて応えて見せた。

「じゃあ、失礼して――」

 座ったまま側へやってきたすずかはそのままはやての背中と膝の裏に手を差し入れて立ち上がる。
 その軽々とした気配と感触は、すずかがはやてを抱える事を全く苦にしていない事の証明だった。

「……ち、力持ちやな~」
「まあ、すずかだしね」
「そうそう、すずかちゃんだし」
「アリサちゃんもなのはちゃんもひどいよ~」

 はやての感想になのはとアリサが納得の言葉を口にする。
 それを聞き届けたすずかは、はやてを抱えたままで二人に対して柔らかな文句を返していた。

「すずかちゃんにお姫様抱っこしてもらえるとは思わんかったよ。士郎とメルルも随分と力持ちやと思ってたけど、背格好考えたらすずかちゃんが一番凄い気がするな」

 はやてにとって年長者である士郎とメルルなら自身を軽々と持ち上げても不思議は無い。
 けれど、同年代で体格もそこまで差がないすずかが自身を抱えるようにしている――というのは、ある意味で衝撃的な事だった。

「そういえば、はやては士郎さんとはどうして一緒に暮らすことになったの? あまりその辺りの事情は知らないけど、士郎さんってちょっと前まで一人暮らしをしてたし……」

 ふいにアリサが口にした言葉に、はやては士郎と出会った夜から続く日々を思い返していく。
 危ない所を救われ、共に買い物をして、食事を一緒に取り、発作で倒れた自身を夜通し見守ってくれた。
 そんな士郎と交流を重ねる内に互いの距離が縮まってきていることは実感していたが、そんな彼が一緒に暮らしたいと言ってくれた時の事を思い返して――。

「――どうしてって……う~ん、士郎がわたしの家で居候したいって言ってくれて、それを了承したらメルルとエヴァもそれに加わったって感じなんやけど」

 大切な用事で海鳴を離れた士郎が帰ってきた時に同じく出会った二人の女性――。
 メルルとエヴァの二人はそれぞれ全く異なる性格をしているが、それでもはやてにとっては困った時に手を貸してくれた優しい女性である。
 士郎の知り合いだという二人を拒絶する理由も特になく、そのまま共に過ごすことを決めたが、そこから始まった今という日常がこれほど楽しいものになるとは思わなかったのだ。

「なんとなく士郎くんらしい気がするけど……でも、居候を了承したってことは、はやてちゃんは士郎くんが一緒に暮らしたいって言ってくれて嬉しかったんだよね?」
「それはもちろんそうや。頼りになって優しくて何でもできて……最高のお兄ちゃんや」

 なのはの言葉に心の底からの素直な感想を口にする。
 それは常々はやてが感じていることで、今となっては誰に対しても自慢できることの一つでもあった。

「全然違和感の無い感想をありがと。まあ、はやてのお兄ちゃん好きは見てたらすぐにわかるけどね~」
「そんな素振りを見せた覚えはないんやけどなぁ」

 アリサからの言葉に答えると、はやてを除いた三人は互いに目配せをしてから揃って笑みを浮かべた。

「でも、士郎くんを見る目とか――」
「士郎さんとの話し方とか――」
「はやてちゃん、士郎さんと一緒にいるときはいつも柔らかく笑ってるもんね」

 なのはたち三人の言葉にはやては頬が熱くなってきたことを実感する。
 言葉に出して告げることは兎も角――普段の態度からそれを悟られるというのは想定外だった。

「うわ~なんや恥ずかしいな……」
「いいじゃない。私だって、あんなお兄さんがいたら思いっきり甘えるわよ」
「アリサちゃんは一人っ子だもんね」
「なのはだって、士郎さんがお兄さんだったら甘えるでしょ?」

 アリサからの問いかけになのはは少しだけ考えるような素振りを見せる。
 数秒ほどそうしていた彼女は、少しだけ苦笑気味に表情を変えてから頭を横に振った。 

「そんなことないよ。私は士郎くんがお兄さんって、あまり考えたことが無いもん」
「そうなんだ。私は……士郎さんがお兄ちゃんだったら凄く甘えそうだけど」

 なのはの言葉を聞いていたすずかはアリサに同意するというようにそんな言葉を口にする。
 それから互いの家族の事で盛り上がったはやてたちは、メルルたちが迎えに来るまでの間を楽しく過ごすのだった。


 -Interlude out-


 温泉宿を後にして街へ戻ってきた正午過ぎ――。
 海鳴臨海公園の付近で降ろしてもらった士郎たちは、車でそのまま月村邸へと戻る桃子たちと挨拶を交わしていた。

「――じゃあシロ君、また明日からお願いね」

 去り際に残していった桃子の言葉に頷きを返してから発車する二台の車を見送る。
 車体が見えなくなった事を確認して、士郎は自身の背後に立つ三人の同居人へと視線を向けた。

「……さて、折角だし今日はこのまま皆で買い物にでも行くか?」
「うん、賛成や」
「きのこの買い置きが無くなってたから、それを忘れないようにしないとね」

 夕食の材料が全く家に無い事を把握しているはやてがすぐに同意の言葉を返してくれる。
 それを耳にしたメルルも思い至ることがあったらしく、頭を縦に振って頷いていた。

「どうせなら例の材料も揃えたいな。案内は頼むぞ、はやて」
「あ……そやね。それなら近くにお勧めの店があるから、先にそっちに寄っていこ」

 思い出したように告げるエヴァの言葉にはやてが同意を返す。
 一体何の事なのかはわからなかったが、以前に二人が家で何かを相談していた事を思い出して納得する。

「何か揃えたいものがあるのか?」
「秘密だ」
「秘密や」
「秘密だね」

 問いかけに返ってきたのは同居人全員からの秘匿の意思だった。
 それがあまりにも揃っていたため、士郎は両手を上げて降参するように笑みを零した。

「三人揃って秘密と言われては仕方が無い。特に詮索はしないから店の案内は任せるぞ、はやて」

 告げると嬉しそうに頷くはやて――。
 そんな彼女を眺めていたエヴァが、その背後へと回って車椅子のハンドルを握った。

「椅子は私が押してやろう」
「ありがとな、エヴァ。えっと、まずは――」

 二人して和やかに進み始める。
 そんな二人を追いかけるように歩き出すと、士郎と肩を並べるように歩き始めたメルルがそっと顔を寄せてきた。

「……ねえ、シロウ」
「……ん? どうかしたのか、メルル」

 辛うじて耳に届く程度の声がすぐ近くから聞こえてくる。
 そんなメルルからの問いかけに視線は向けずに耳を傾け続けた。

「もうすぐ六月でしょ。そうしたらすぐに――」

 多くを語る必要の無いその話題に小さく頷きを返した。
 ――もうすぐ六月。
 五月を終えて六月になれば、すぐに彼女の――はやての誕生日がやってくる。
 その際にはやてへと渡すプレゼントの候補をそろそろ決めなければならないのだ。

「――ああ、そうだな。丁度良いから、ここで少し参考になりそうな物でも探していくか」
「うん、そうだね。でも、どんなものなら喜んでくれるかな…」

 二人顔を見合わせてその瞬間を思い浮かべる。
 自分たちの日常の要となっているはやてが少しでも喜んでくれるものを――。
 そんなことを考えながら、士郎はメルルと一度だけ顔を見合わせてからエヴァとはやての背を追いかけていくのだった。
 
 

 
後書き

 

 

Episode 43 -終わりの始まり-

 
前書き
本編第四十三話です。 

 

 ――夢を見る。
 いつも見ている夢――誰かが話しかけてくる夢を見ている。
 夢の中では覚えているのに、起きた瞬間には思い出すことさえできない夢を――。

「――ん………あれ…エヴァ?」

 目を覚ましてすぐに、そこにあるべき暖かみがないことに気付く。
 自身のすぐ隣に寝ているはずの同居人、エヴァの姿が見当たらない事を確認したはやては、まだはっきりと見えない目を擦ってゆっくりと身体を起こした。
 ぼんやりと周囲を見渡してから、昨夜は珍しく同じ部屋で寝ることを了承――諦めたともいう――してくれたエヴァが既に起きて部屋を後にした事を確信する。

「六時……相変わらず早起きさんやね」

 そんな呟きを零しながらベッド脇に置いてある車椅子へと身体を移乗させる。
 すっかり手慣れてしまった作業を終えてからブレーキを解除して部屋を後にすると、リビングから軽快な音が聞こえてくる。
 まな板を包丁がリズミカルに叩く音を聞きながらリビングへと入ると、予想していた通りの人物――衛宮士郎がエプロンを装備して台所に立っていた。

「――おはよう、はやて」
「おはよーさん、士郎。あれ……? エヴァが見当たらんけど……」

 室内を見渡しても彼女の姿は見当たらない。
 庭に出ているのかと覗いてみても、エヴァの姿はどこにもなかった。

「エヴァはメルルと一緒に早朝から出かけていったぞ。朝食までには戻ると言っていたから、もうじき帰ってくるだろう」

 どうやら士郎が起きている内に出かけていったらしい。
 いつもは遅くに起きるメルルまで一緒に早くから出かけていったというのは珍しいが、これまでも数回そんな事があった事を思い出した。

「そうなんや……あ、朝ご飯の準備手伝うな」
「じゃあスクランブルエッグを作ってくれるか?」
「了解や」

 はやてが口にする言葉がわかっていたかのように素早く淀みなく返答を返してくる。
 そんな士郎の側に移動し、フライパンを取り出してから材料を用意していく――。
 士郎が一人で調理した方が早くて出来映えが良くなるのだが、こうした申し出を彼が断ったり渋ったりした事は只の一度も無い。
 むしろはやてやメルルが一緒に調理することを楽しんでくれているようで、はやてとしてもこうして士郎と共に調理をするのは楽しみの一つであった。

「それにしても……今日はみんな早起きさんやったけど、士郎はいつも何時に起きてるん?」

 調理の合間にふと気になっていた事を尋ねてみる。
 はやてが起きてくる時間には必ず起きている士郎だが、彼がいつ起きて何をしているのかは聞いたことがなかったからだ。

「大体は四時から五時の間だな」
「そ……そんな早くに起きて何かしてるん?」
「早朝ランニングと精神統一だ。その後は今と同じで朝食と弁当作りをしているぞ」

 返ってきた返答は如何にも"士郎らしく"て、はやては思わず笑みを零した。

「運動しよったんやね。けど、士郎はもう随分と身体を鍛えてると思ってたんやけど……」
「こういうのは続けることに意味があるんだ。料理と同じで、何事も丁寧に反復することが向上の要だからな」

 相変わらず、さらりと為になる言葉を口にする士郎に頷きを返しながら調理を進めていく。
 とはいえ、これまで何度も士郎と一緒に作ってきた物であるため、余程の事が無い限り失敗をするような事はないのだが――。

「――ただいま~」

 ふいに玄関口から聞こえてきたのはメルルの声だった。
 扉の閉まる音と玄関から聞こえてくる物音を耳に届けたはやては、すぐ隣に立つ士郎と顔を見合わせてから小さく笑った。

「……帰ってきたようだな」
「そやね」

 どたどたと足音が近付いてくる。
 直後に開かれた扉からカジュアルな服装に身を包んだメルルが満面の笑みを浮かべて入ってきた。
 毎日違う私服を着ているメルルだが、いつか彼女の部屋に赴いてそれら全てを見せてもらうのもいいかもしれないと小さく頷く。

「ただいま、シロウ」
「ああ、おかえりメルル」

 夕方にはいつも聞く二人のやり取り――。
 互いに気軽な感じで言葉を交わす姿は、はやての目から見ても二人が仲の良い夫婦のように見えていた。

「はやても起きてたんだね。おはよう、はやて」
「おはよー、メルル」

 同じように親愛の篭った声を向けられて返事を返す。
 見れば、メルルのすぐ後ろ――リビングの入り口には起きたときから探していたエヴァの姿があった。

「――戻ったぞ」
「おかえり、エヴァ」

 どのような状況でも、彼女――エヴァがこうした挨拶や声かけを最初に向けるのは決まって士郎である。
 彼女は基本的に気難しそうな雰囲気を纏っているのだが、実際に話してみれば面倒見のよい人柄を覗かせてくれる。
 ただ、例外というのはあるもので――士郎に対する態度だけは誰の目から見ても特別だった。
 それを隠すつもりは毛頭無いらしく、当人も士郎に対しては特別な意識を持っていると公言している。
 
「おはよーさんや、エヴァ。朝早うからどこに出かけてたん?」
「メルルの用事に付き合ってきただけだ。大した用事じゃない。それより、今日の朝食は何だ?」

 はやての言葉に小さく笑みを浮かべて答えてくれたエヴァは、リビングの中へと歩を進ませながら朝食の内容を尋ねてきた。

「士郎直伝のふわふわトロトロスクランブルエッグや。トーストとサラダにソーセージもあるよ」
「ふむ――士郎。今日は珈琲を頼む」

 エヴァが朝食のメニューを聞いてから飲み物を指定するのはいつものこと――。
 大体は紅茶か珈琲だが、稀に果汁100パーセントのフルーツジュースや緑茶などもリクエストしている。
 凄いのは、エヴァの思いつきに全て対応出来ているという事――士郎の先読みが的確すぎるという点だろう。

「了解した。すぐに用意できるから、二人とも手を洗ってくるといい」
「は~い」
「メンドいが仕方ないか…」

 士郎の言葉に二人して頷いてからリビングを出ていく。
 その姿を見送ってから、はやては改めて感心したように溜息を零した。

「士郎はすっかりこの家のお父さんやね」
「ただの性分さ。見方によっては、はやてだってこの家のお母さんのようだぞ」
「あはは、確かにそうかもしれへん。けど、メルルはあれでちゃんと年長者さんをしてくれてるし、八神家のお母さんはメルルでええと思うけどな」

 士郎の言葉に少しだけ胸を弾ませ、作業を再開しながら素直な感想を口にする。
 実際、士郎とメルル――そしてエヴァの三人がいてくれるおかげで、はやては自身が様々な事柄から守られているのだと実感している。
 如何に親の財産があり、周囲の協力があって一人暮らしをすることが出来ていたといっても不安がなかったわけではない。
 自身の病気のことや周囲の子供たちとの環境の違いなど――。
 こうして士郎たちと暮らしてみるまで目を向けられなかった……目を背けていた事柄に対し、ようやく振り返る事ができるようになったのは同居してくれている三人のお陰だった。

「なるほど。確かに、まだまだお子様のはやてにお母さんは少し早かったな」
「名実共に八神家最年少やからね~」

 きっと士郎と出会う前なら反発していたはずの言葉――。
 子供扱いされて嬉しく感じられる幸福を、はやては確かに実感するのだった。

「そうだな。ただ、子供は子供らしく――とはよく聞くが、俺としては別に子供が子供らしくしている必要はないとも思っているんだ」
「その心は?」
「年齢に関わらず、自身の道を定められる者と定められない者がいる。大人でも道に迷うことがあるし、子供でも真っ直ぐに目指す先を見据えることはできるということだ」

 どこか実感の篭もった士郎の言葉に視線を向けずに相鎚を返しながら実例を探していく。
 身近にそうした言葉を体現している人間がいるだろうかと考え、ふいに思い当たったのは小学生らしくない達観した様子をみせるエヴァだった。

「う~ん、身近な例やとエヴァとか?」
「む――彼女はまた特殊な事例になるが……まあその認識で間違いはないかな」

 どんな事情があるのかはわからないが、士郎は少しだけ戸惑ったような声を零してから自己完結してしまった。
 まだまだ謎の多い同居人たち――自身が知らない事情も沢山あるのだろうと一応の納得を示しながら、はやては目の前で配膳をしている士郎へと視線を向ける。

「士郎はどうやった? やっぱり小さい頃から自分が目指してた道を真っ直ぐに見据えて進んできた?」
「――いや、俺は途中で挫折した口だな。色々と迷いもしたし、ひょっとしたら間違った選択もしてきたかもしれない」

 特に表情を変えることなくそんな言葉を口にする士郎の横顔を眺め続ける。
 視線に気付いたのか、士郎は手を止めて真っ直ぐにはやてへと向き直ってから柔らかな笑顔を浮かべた。

「だけど、俺自身で選んで歩んできた道だ。後悔はしていないし、この道を歩いてきたからこうしてはやてと一緒に朝ご飯を作れるんだしな」

 一際嬉しそうに告げられた言葉にはやても釣られて笑みを浮かべる。
 詳しく聞いたことがないため、士郎がどのような経験をしてきたのかは想像することしかできない。
 けれど、こうして共に過ごすことが出来る今を士郎が喜んでくれている――それだけの事実が、はやてには無性に嬉しくて仕方がなかった。

「――それじゃいってくる。今日は野暮用があるから帰りは遅くなるぞ」
「――あ……待って待って。私も一緒に出るよ。今日は私も帰りが少し遅くなるかもしれないけど、シロウが帰る頃までにはなんとか帰るから」

 朝食後――エヴァとメルルの二人が揃って家を出て行く姿を見送る。
 エヴァは学校で、メルルは……恐らく何か用事があるのだろう。
 そんな二人を見送って暫く――朝の九時を十数分後に控えた頃に二階の自室へ戻っていった士郎が着替えを済ませてリビングに降りてきた。

「さて――それでは俺もそろそろ出るぞ」
「今日のお仕事は朝から?」
「いや、今日は昼から夜の七時過ぎまでだな」

 士郎の仕事場は駅前商店街にある喫茶店翠屋――。
 シュークリームや自家焙煎珈琲が有名なお店で、海鳴では人気のお店である。
 その店でアルバイトとして働いている士郎だが、その勤務時間は固定ではないのだという。
 そのため一週間が過ぎる度に予定を聞かなければ士郎がどんな時間に仕事をしているのかが把握できないのである。

「それで今から出かけてくのは少し早いような……」
「忍から頼まれ事をしていてな。そちらを片付けてからそのまま翠屋に向かうつもりだ」

 はやてと同じく両親や親類のいない士郎だが、そんな彼の後見人をしてくれている月村忍は資産家の令嬢だ。
 士郎が仕事休みの時は大体彼女の用事で呼び出されているのだが、今回のように仕事がある日にも――というのは珍しい。

「なら今日は久しぶりに一人で過ごす日やね」
「そうだな。まあ、なにかあれば俺かメルルに電話をしてくれ。先日購入したこの携帯電話もちゃんと扱い方は把握しているしな」

 取り出した携帯電話――所謂スマートフォンと呼ばれる最新の携帯端末を手に軽い調子で告げる。
 旅行から帰ってきた日に購入したそれは士郎が強い興味を持っていた物で、買ってから二日三日は色々と操作方法を試していた姿をはやても目撃している。
 どうやらすっかり使いこなせているという自負があるらしく、これでいつでも連絡が取れるようになったのは事実なのだが――。

「……これでも士郎と出会うまで一人で色々と出かけてたんやし、そこまで心配せんでも大丈夫やって」
「――あのな、はやて。ちゃんと、俺と出会った時の事を正確に思い出してみろ」

 言われて士郎と出会った日の出来事を思い出す。
 暗い夜道を一人で買い物へと向かい、車に轢かれそうになった所を士郎に救われたことを――。

「……あ~そやったね。うん、ちゃんと気をつけます」

 素直にそう告げると、士郎が手を伸ばして頭を撫でてくれる。
 暖かで優しいその感触に目を細めてから、ゆっくりと離れていく手に合わせて真っ直ぐに士郎へ視線を向けた。

「では、出かけるときにはちゃんと戸締まりをしてな」
「了解や。いってらっしゃい、士郎」
「ああ、いってきます」

 静かな音を立てて閉じた扉を暫く眺めてから自室へと戻る。
 出かけるための服に着替えるための準備を済ませ、車椅子からベッドの上に移乗してから着替えを終える。
 そうしてもう一度車椅子へと戻り、必要な手荷物を鞄に詰めてからいつものように鎖付きの本を膝に乗せて部屋を後にした。

「――火元の確認は済ませてるし、戸締まりも完璧……うん、大丈夫や」

 玄関の鍵が閉まっている事を確認してからリビングへ――。
 車椅子で外へ出かける際に通るスロープはリビングから庭に向けて設置されているため、外出時の出入りは基本的にリビングからだ。
 いつものように外へと出てから専用の鍵で戸締まりを済ませてスロープを下っていく。
 そうして手慣れた行程を経て庭から敷地の外へ出ると、六月に入ったばかりの暖かな日差しと風が出迎えてくれた。

「――けど……ホントに久しぶりやな」

 士郎が海外から戻ってきてからは一人で出かける――という事自体が殆どなかった。
 いつも士郎かメルル――気が向いた時があればエヴァも付き添ってくれるため、外に出かける時は必ず誰かと一緒に行動してきた。
 こうして一人で出かけるのは約一ヶ月ぶりのため、士郎の忠告を思い返しながら特に気をつけて道を進んでいく。
 向かう先は街中にある市立図書館――周囲には食事処が幾つもあり、交通の便も整っている。
 今日は一日本を読んで過ごすことを決めたはやては、陽光降り注ぐ道を新鮮な気持ちのまま進んでいくのだった。


 -Interlude-


 学校を終えてからいつものように習い事へ向かう。
 そうして日が沈み、暗くなった頃に習い事を終えたすずかは、迎えを呼ぶ前に借りていた本を返してから新しい本を借りるために市立の図書館へと足を運んでいた。

「次はどんな本を借りていこうかな……」

 最近は様々な伝説を描いた本を主に読んでいるのだが、それを薦めてくれた友人が現在読んでいるという吸血鬼物や怪奇物も面白いかも知れないと悩む。
 そうして館内を一通り歩いていると、テーブル席の奥で車椅子に座った少女が机に突っ伏して眠っている姿が目に入った。

「――あれ? あそこで寝てるのって……はやてちゃん?」

 少しばかり周囲の本棚や物で隠れて見えにくい場所のためか、または周囲にあまり人がいないせいか――。
 眠っているはやてを気に留める人はおらず、結果として彼女は誰に邪魔されることなく机の上で腕を枕にして安眠していた。
 ――見れば、時刻は既に夜の七時を過ぎている。
 幾らなんでもこんな場所でこんな時間に寝ていると、家族――士郎やメルルが心配するのではないかと考えてはやての頬を軽く叩く。
 柔らかな感触を手のひらに感じながら続けること数秒間――。
 小さなうめき声を零しながら身じろぎを始めたはやてから少しだけ離れて様子を見守っていると、ゆっくりと身体を起こして視線をすずかへと向けてきた。

「――こんばんは、はやてちゃん」
「――えっ? あ……すずかちゃん。どうもこんにちは……って、七時半!? あかん……本を読んでたらいつの間にか寝てたみたいや。時間が凄い事になっとる」

 上の空で挨拶を返してきたはやてだが、すぐ近くの壁に掛けられている壁掛け時計を見て目を見開いた。
 一体何時から寝ていたのかはわからないが、少なくとも今の時間まで図書館で過ごす予定では無かった事は推測できる程度に慌てている。

「えっと……今日はここでずっと本を読んでたの?」
「う、うん……あ、ちゃんとお昼ご飯は食べてるよ。ただ、その後でつい本を読むのにも夢中になってしもうて……そういえば、すずかちゃんはどうしてこんな遅い時間に?」
「習い事の帰りなの。本を借りてから帰ろうと思って」
「そうなんや。私も本を借りようと思ってきたんやけど、結局殆ど読み切ってしもうたし――って、あ~やっぱり着信とメールが届いてる……」

 思い出したように肩から提げていた鞄を開き、中から携帯電話を取り出す。
 手慣れた手つきで操作して確認していたのは新着のメールと着信履歴――。
 画面を覗いてみると、そこには『お兄ちゃん』と表示されていて――それが士郎の事だと悟るのに時間は必要なかった。

「士郎さん、携帯電話を持ってるんだね」

 これまで彼が携帯電話を使用している所を見た事がなかったため、少しだけ意外に思えて尋ねる。
 すると彼女は柔らかな笑みを浮かべたまま小さく頷きを返してくれた。

「うん。この間の旅行から帰った日にそのままみんなの分を買いに行ってな……えっと、今から帰ります――と、これで大丈夫や」

 図書館の中で電話をするのは不味いと思ったのか、手早くメールを打って送信してしまう。
 少しだけばつの悪そうな笑顔を浮かべているはやての姿を眺めながら、すずかは降って沸いた疑問を口にした。

「はやてちゃんのお家ってここから近いの?」
「ちょっと遠いけど、バスが近くまで出てるんよ。図書館はよう利用するからすっかり慣れてしもうてな」

 市立海鳴図書館は街中に存在するため、周囲の公共交通機関はそれなりに充実している。
 近頃は車椅子でも利用しやすいノンステップバスなども便数を増やしているため、はやてにも利用しやすいのだろう。

「そっか。じゃあ、今日は私もご一緒しても良い? 家の位置がわかったら、今度から遊びにいけるし」

 半分本音、半分名目としての言葉を口にする。
 いくら通い慣れているとはいえ、外を見ればすっかり日も落ちて真っ暗になっている。
 その中をひとり、遠い家まで帰るというのは如何にも危なっかしい。
 せめて家まで送ってあげたいという想いと、口にしたように家の位置を知るための提案だった。

「え……けど、それやとすずかちゃんが帰るのが遅くなるんじゃ……」

 案の定、彼女は少しだけ困ったような申し訳ないような表情を浮かべてしまう。
 旅行中に色々と話をしたり、一緒に行動する中でわかったこと――。
 はやては他人に気遣われることに少しだけ思うところがあるらしく、こうした申し出を素直に受けてくれそうにないという予感があったのだ。
 そのために自身の本心と被せるように提案してみたのだが、やはり彼女はそうした事には特に敏感に反応していた。

「ちゃんとお家には連絡しておくから大丈夫だよ。はやてちゃんのお家の住所を伝えておけば、そっちにお迎えが来てくれるから」

 問題は無いということを強調するように告げる。
 すると、はやても何かを思い出したようにハッと表情を変えて小さく頷きを返してくれた。

「……そういうことなら、お願いします」
「うん」

 なんとなく嬉しくなってしまい、笑顔を浮かべて弾む声で返事を返す。
 そうして――二人で机の上に置いてあった幾つかの本を片付けてから、共に並んで図書館を後にするのだった。


 -Interlude-


「――じゃあ、いつもエヴァちゃんが持ってきてるお弁当は士郎さんとはやてちゃんが交代で作ってるんだ」

 帰りのバスの中――はやてはすずかと共に薄暗い車内で小さな声を意識しながら会話を続けていた。
 図書館で顔を合わせたすずかと共にバスに乗って既に十数分――あと少しで下車するバス停に到着する予定だ。
 聞き上手なすずかとの会話は楽しく、こうして時折意識していないと降りる場所を過ぎてしまいそうだった。

「けど、わたしが作る時にも士郎が手伝ってくれるから、実際は士郎が作ってるほうが多いけどな」

 現在の話題はすずかの通っている小学校での昼食――。
 すずかとなのは、アリサとエヴァの四人は、それぞれが持ってきている弁当をいつも見比べているのだという。
 聞けば、エヴァが持っていく弁当はいつもはやてが作っていると思われていたらしく、それを耳にしたはやては苦笑いを零しながら小さく首を横に振ることしか出来なかった。

「エヴァちゃん、そんなこと一言も言ってなかったから。てっきりはやてちゃんが全部作ってるのかと思ってたよ」
「流石に士郎と比べると見劣りしてしまうからな。エヴァも士郎の手料理の方が好みやと思うし」
「ふふ、エヴァちゃんはいつも美味しそうに食べてるよ。いつもお昼ご飯を食べてる時は頬が緩んでるもん」

 いつもぶっきらぼうに美味かったと一言だけ感想を口にしてくれるエヴァだが、彼女と昼食を共にしているすずかによれば随分と気に入ってくれているらしい。

「それやったらええんやけど……あ、次で降りるよ~」
「うん」

 目的の場所が近付いてきた事を確認して下車を伝えるボタンを押す。
 それから少しして目的のバス停に到着すると、バスの運転をしていた人が席を立ってはやての側へとやってくる。
 手慣れた手つきで下車の準備を進めてくれる運転手に任せて、すずかには先にバスを降りてもらう。
 殆ど待つこと無く車椅子から留め金を外してもらい、傾いた車体から伸びたスロープをゆっくりと下り始めた。

「――おおきに」

 地面の上に降りた事を確認してから顔を後ろへ向けて笑顔で挨拶を口にする。
 それを笑顔で返してくれた運転手の顔には見覚えがあり、これまでも何度か同じように手伝ってくれた人だった。
 
「なんだか運転手さんも手慣れてるね」
「これまで何度か同じように手伝ってもろてるからかな……。お互い名前は知らんでも顔見知りさんや」
「そうなんだ。なんだか、そういうのっていいね」
「そやね」

 互いに小さく笑い合ってから夜道を進み始める。
 並んで歩道を進んでいくのだが、暗がりの中で独りではないという事が強い安心感を与えてくれるのだと実感する。

「ここからは遠いの?」
「少し離れてるけど、そんな遠くはないよ。せやからいつもこうやって自分だけでも出かけられるわけや」

 周囲に広がる住宅街を眺めながら尋ねてくるすずかへ簡単に返答を返す。
 はやてからすれば見慣れた景色だが、すずかにしてみれば普段は目にすることの無い見知らぬ土地である事は間違いない。

「疲れたら手伝うから遠慮せずに言ってね」

 優しい笑顔と言葉が彼女の本心からのモノであると、何故か確信できる。
 これまで何度も会話を重ねてきた相手だが、少なからず友人というものを遠ざけていたはやてにとってすずかは誰よりも最初に親しくなった友人である。
 もちろん、家族同然の関係となったメルルやエヴァは除外して……だが――。

「すずかちゃんは力持ちさんやから、それはそれで楽そうやけど、これくらいなら大丈夫や」
「ふふ。そういえば、はやてちゃんの膝の上に置いてある本――鎖が付いてるけど、図書館の本?」

 すずかの視線が膝の上に置いてある本へと向けられる。
 傍目にみれば鎖で封をしている本など見る機会さえない――ということを考えれば、彼女の疑問は至極当然のものだった。

「ううん、これは私物なんよ。わたしが物心ついた頃から持ってた本で、多分両親がくれたものやと思うんやけど……」

 正確なことは解らないが、両親と死別して独りとなったはやてにとって、この本はある意味ではもっとも身近なモノだった。
 両親との繋がり――というよりも、本当に自分に寄り添ってくれていると錯覚するほど、この本を側に置いている時には安心感を感じるのである。

「大切なものなんだね」
「うん、それはもちろんや。ただ、どうやっても開かんから中身がどうなってるかはわたしも知らないんよ」

 今よりも幼い頃――好奇心から様々な手を使って戒めを解こうとしたことがあった。
 もちろん結果は振るわなかったが、今も中身に対する興味が薄れているというわけではない。

「そうなんだ。せめてタイトルが読めたら中身が想像できるのにね」

 そんなすずかの質問に同意しようとして――ふいに思い出したようにその答えが脳裏を過ぎった。

「この本には夜天の書ゆう名前が……って、あれ? どうして、知って……」

 自分で口にして、その違和感に手を止めてしまう。
 これまで"ソレ"を知らなかったのは間違いないはずなのに、どうして――。

「――…てちゃん!! はやてちゃん!!! だ、大丈夫ッ!?」

 ぼんやりとしていたのか、すぐ耳元で声を上げるすずかの声に気付く。
 その様子から自身が数秒ほどぼんやりとしていた事を推察したはやては、努めて明るい笑顔を浮かべて自身のすぐ右横に立つすずかへと視線を向けた。

「……だ、大丈夫や。ちょっと目眩がしただけで――って、すずかちゃんッ!?」
「――――ッ!!」

 いつかの再来――というにはあまりにも危険な光景が、すずかのすぐ背後から迫ってくる。
 自身が手を止めたのは道路を跨ぐ横断歩道の上――。
 迫ってくるトラックの運転手は居眠りかよそ見をしているのか、そんなはやてたちに気付いた様子を見せる事なく猛烈なスピードで近付いてくる。
 咄嗟に手を動かす事さえ出来ずにその光景を凝視して、ふいにトラックが凄まじい音を鳴らしながら減速を開始した事を悟った。
 とはいえ、すでにトラックとの距離は十数メートル程度――速度の出ていたトラックが止まれる道理などあるはずも無い。
 同じ光景を振り向き様に確認したすずかが、何かを覚悟したような険しい表情を浮かべてはやての身体を掴んで――その瞬間、自身とすずかの身体を目映い光のようなものが包み込んだ。
 どこか神秘的で幻想的なその光景を、はやては確かにその目ではっきりと見ていた。
 ただ、それが一体どんな意味を持っていたのか――それを知る由もなかったはやては、一瞬の後に訪れるであろう衝撃を想像しながら目を閉じて身体を竦ませるのだった。
 

 

 

Episode 44 -夜天の主と守護の騎士-

 
前書き
第四十四話です。 

 

 自身の正体を疑われる事を覚悟の上で動こうとして――直後に発生した光に呑まれる。
 目映い光の中で思わず目を閉じたすずかは、自身が感じている不思議な感覚に戸惑いながらゆっくりと目を開けた。
 
「――えっ!?」
 
 視界に映ったのは星の瞬く夜空――。
 そっと下を見てみれば、人工の光を灯した住宅や建造物が並んでおり、先程まではやてと共に歩いていた道路も直下に見えていた。
 立ち止まっていた横断歩道――その上を僅かばかり通り抜けた場所で停車しているトラックを視界に捉え、今が夢の中ではないという事を否応にも理解する。
 ふと、視界の端に黒く光る何かが見えて、すずかは地上に向けていた視線を正面へと戻した。
 すずかの目前――僅かに視線より高い位置で黒く発光していたのは、はやてが所持していた一冊の本だった。

「あれは…はやてちゃんの……――ッ!? はやてちゃん!! しっかり――はやてちゃんっ!!」

 本に目を奪われていたすずかだが、自身のすぐ隣で横転していた車椅子の側に倒れているはやてを見つけて駆け寄る。
 発光している線のようなモノが足下にあるとはいえ、殆ど空に浮かんでいるような状態だ。
 幸い周囲の風景さえ目にしなければ地面に立っている状態と変わりは無く、すずかは即座にはやての上半身を抱え、彼女が気を失っているだけだと確認して安堵の息を吐いた。
 そんなすずかのすぐ上――宙に浮かんでいた本が脈打つようにしながらゆっくりと近付いてくる。
 本に巻き付いていた鎖に微細な亀裂が刻まれていく光景を眺めながら、すずかは気を失ったままのはやての身体を強く抱き締めた。

『――封印を解除します』

 ひび割れ、粉々に消し飛んでいく鎖――。
 開放された本は宙に浮かんだまま、ひとりでに開かれて中のページが捲られていく。
 やがてもう一度閉じられた本はそのまま、黒い光を纏ってすずかの――否、倒れたままのはやての目前へと移動する。

『――起動』

 始まりの時を告げる声――。
 脳裏に届くその言葉と共に本は発光を終え、すずかたちの目の前で静かに滞空し続けるのだった。


 -Interlude-


 どこか現実感の薄いその場所で静かに意識が目覚めていく。
 自身の身体が感じている柔らかな浮遊感は心地よく――けれど、どこまでも非現実的なその感覚に、はやては急速に意識を取り戻していった。

「――おはようございます」

 ふいに聞こえてきたのは優しい声――。
 聞き覚えのない女性の声を耳に届けたはやては、自身の身体が地面らしき場所に降りたと同時にそっと目を開けてから周囲を見渡した。

「……ここは……ああ、そうや。いつも見てる夢の中や」

 いつの頃からか――こうした不思議な空間で微睡む夢を見始めた。
 あれは思い返せば、士郎と出会った頃――。
 その頃から稀に見ている夢の中の光景と同じ、見渡す限り風景というモノが存在していないその空間をぼんやりと眺める。

「覚えていらっしゃったのですね。例がなかったわけではありませんが……或いは貴女のお兄さまやご家族の影響かもしれません」

 優しげな声はすぐ目前から聞こえてくる。
 そっと視線を向けてみれば、そこには銀色の髪を揺らしながら目を閉じたまま跪く女性の姿があった。
 片手の拳を地面に置き、もう片方は腕に抱くようにして本を抱えている女性の姿を目にしたはやては、女性が抱えている本がいつも自身の持ち歩いている本と同じだと気付く。

「貴女は……?」
「こうしてお目にかかるのは初めてとなります。私はこの本――夜天の魔導書の管制融合騎です」

 尋ねた言葉に女性は淀みのない言葉で応えてくれた。
 閉じられていた目が開かれる。その双眸には優しさを秘めた赤色が浮かんでいた。 

「貴女は先程、正式に我らが主となられました。夜天の魔導書とその守護騎士四騎――貴女の知恵と力になり、御身に尽くさせて頂く所存です」
「守護騎士?」

 聞き覚えのない言葉に疑問の声を零す。
 それをどう受け取ったのか、目前の女性は少しばかり表情を改めてから静かに言葉を口にし始めた。

「……お伝えしたいことは星のように沢山あるのですが、この一時の微睡みから目を覚まされれば、貴女は私が伝えたことの殆どを忘れてしまわれるでしょう」

 これまでがそうであったように――と。
 少しばかり寂しそうに告げる女性に、はやては小首を傾げて疑問を口にする。

「そうなん? けど、その本のお名前――夜天の魔導書の名前だけはちゃんと覚えてたみたいやけど……というか、貴女とは初めてな感じがせえへん」

 これまでの夢では姿もなく、声も違って聞こえていた事をぼんやりと思い出す。
 だというのに、女性の姿も声も――言ってしまえば、はやては彼女に対して長年共に過ごしたような安心感を覚えていた。

「この動かぬ本の姿で……ですが、貴女がご幼少の頃より共に過ごさせて頂きました」

 差し出された本はいつも共に在った分厚い鎖付きの本――。
 彼女が抱えていたその本はその手を離れ、ゆっくりと浮かんではやての側へとやってくる。
 見れば鎖が付いていなかったが、これまで数える事さえ出来ないほど目にしてきたその本を見間違えるような事はしない。

「あ…なるほど……あれ? な、なんやこれ――」

 納得の声を零すと同時に自身の身体が浮き上がっていく感覚を覚えて戸惑いの言葉を口にする。
 女性はそっと立ち上がり、淡い光に包まれながら浮かぶはやての身体を支えるように両の手を広げた。

「微睡みの時が終わるようです。もう、お会いすること叶わないかもしれません」

 差し出されるように伸ばされた女性の手を掴むように、はやても自身の両腕を伸ばした。
 手のひらを下に向けて伸ばしたはやての両手に添えるように伸ばされた彼女の手のひらは上に向けられていて――。

「――ですから、貴女にお願いが……」
「え…?」

 触れあう手のひらと手のひら――。
 向けられた赤い双眸は悲しみと慈愛に満ちていて、はやてはその目から視線を逸らすことなく見つめ続ける。

「これから貴女がお会いになる優しい騎士たちは、ずっと望まぬ戦いを続けてきました。どうか――あの子たちに優しくしてやってください」

 女性の声音はひたすらに優しく、心の底から相手を慈しみ、気遣いを向けていることがわかる。
 その言葉は決して忘れてはいけないと――。
 そんな決意が自然と浮かび上がってきたことを自覚しながら、はやては全霊を傾けて女性の声を耳に届ける。

「それから、なにより――なにより、貴女が幸せでありますように」

 離れていく手のひら――。
 遠ざかっていく視線と声を留めることはできず、抗うことも出来ないままに虚空へと浮かび上がっていく。

「あの……待って――待って!!」

 叫ぶように言葉を口にしながら、自身の身体がどこまでも浮上していく感覚に一瞬だけ目を閉じた。
 その瞬間に頬を撫でる風――感じられる現実感に、はやては自身が微睡みから目覚めたことを確信する。

「――……て…ん! …やてちゃん!!!」
「う…ん、すずか……ちゃん?」

 途端に聞こえてきたのは友人であるすずかの声だった。
 どこか慌てた様子のすずかをぼんやりとした視界に映しながら、はやてはゆっくりと自身の身体を起こす。

「よかった……気がついて。大丈夫、はやてちゃん?」
「ん……大丈夫や。ちょお頭がぼうっとしてる気がするけど、ちゃんと"覚えてる"――」

 すずかと共にトラックに轢かれそうになってから目映い光に包まれた――。
 その後はすぐに微睡みに身を委ねていたはやてだが、そこで交わした会話も"大凡"は覚えている。

「私たち……お空の上にいるみたいなんだけど……」
「へ……? ほ、ほんまや!? い…いくらなんでも、これは怖いなぁ……」

 告げられたすずかの言葉の意味がわからず、思わず周囲を見渡して見る。
 そこに広がっていた見慣れない光景は、すずかの言葉が正しく現実を告げていたものだと悟るには十分過ぎるものだった。
 見れば、自身のすぐ目前では一冊の本――夜天の魔導書が主の覚醒を待っていたとばかりに宙に浮かんで待機していた。

「この本……はやてちゃんの本もさっきまで黒く光ってたし、いまも浮いてるんだけど……」

 戸惑いを感じさせるすずかの声を耳に届けながら、はやてはその視線を本へと真っ直ぐに向ける。
 静かに浮かぶその本を――微睡みの中で一人の女性と言葉を交わしていたことを思い出したはやては、本を見据えたまま小さく静かに頷いた。

「夜天の魔導書――うん、ちゃんと覚えてるよ」
「――はやてちゃん?」

 本に向けて告げた言葉を耳にしたすずかが怪訝そうに見つめてくる。
 傍から見れば怪しい行動にしか見えない事に思い至ったはやては、その視線を苦笑いを浮かべたまま受け止めるのだった。

「――闇の書の起動を確認しました」

 ――ふと聞こえてきたのは凛とした女性の声。
 自身の右前で、微睡みの中で出会った女性がそうしていたように跪いている長髪の女性――。

「――我ら、闇の書の蒐集を行い、主を護る守護騎士にてございます」

 続けて聞こえてきたのはその反対側――。
 はやての左手側で、やはり同じように跪いた金髪の女性が告げた言葉に疑問と納得を覚える。

「――夜天の主の元に集いし雲」
「――ヴォルケンリッター」

 背後から聴こえてくる男の声と、どこか幼さを感じさせる声――。
 視線を向けてみれば、髪の毛の間から動物の耳のようなモノが覗いて見える屈強な男と、自身やエヴァと同じ位の年格好に見える少女が跪いていた。

「守護騎士四騎……聞いてた通りや。つまり、わたしがこの子――夜天の魔導書の正式な主ゆうことで間違いないんやね」
「――夜天の…書?」

 宙に浮かんでいた本へ視線を向けながら告げると、長髪の女性が疑問を含んだ声を漏らす。
 まるで忘れていた大切な何かを思い出したような――呆然としたその声に、はやては静かに頷いて見せた。

「あなたたちが闇の書ゆうてたのはこの子のことやろ? けど、この子の中におった人はこの子のことを夜天の魔導書やっていうてたよ」
「そう…なのですか?」
「うん。それで、他にも色々と聞いたような気がするんやけど、あまり覚えてないんよ。せやから、できれば事情を説明して欲しいんやけど……」

 覚えている事はどれもはっきりと覚えている。
 それだけでもこれまでとは違うのだが、それだけに忘れている事が気に掛かってしまう。
 とはいえ、いくら思い出そうとしても覚えていないことは思い出せず、"何を忘れている"のかさえも判然としないのだが――。

「それはもちろん。ですが――」
「えっ?」
「そちらの方は?」

 答える声は即座に――同時に長髪の女性はその視線をはやての側に立つすずかへと向ける。
 戸惑いの声を零したすずかに視線を向けたまま問いかけてくる女性に、はやては優しく笑いかけながら口を開いた。

「わたしのお友達で、月村すずかちゃんや。夜天の書が起きた時にも一緒におってくれて……巻き込んだんはこっちやし、ちゃんと一緒に事情を聞かせてもらいたいんよ」

 事情を説明すると、彼女は少しだけ思案するように目を閉じた。
 そうして静かに頷いてから閉じていた目を開き、その視線をすずかへと向ける。

「……えっと、いいんですか?」
「はい。主の意思は何よりも優先されますので」

 すずかからの声にも素直に頷いて見せる彼女の姿と言葉はどこまでも真っ直ぐだった。
 
「――では、僭越ながら私からご説明を」

 四人を代表するように語り始めたのは金髪の女性だ。
 彼女の口から語られた事実は多くなく、恐らくはこの場にすずかもいる事から最低限必要な事だけを語っているのだろう。
 闇の書――夜天の書と呼ばれた魔導書は次元世界と呼ばれる別世界でかつて栄えたベルカという国で生み出されたものだということ。
 主を求め、長き時間を旅してきた魔導書――。
 そして夜天の書とその主を護るための騎士が彼女たち守護騎士四騎――ヴォルケンリッターなのだという。

「………つまり、この子――夜天の魔導書は古い異世界の……ベルカってとこの魔法の本で、みんなはその守護騎士なんやね」
「はい」

 話が終わり、その確認のための言葉を口にすると金髪の女性は笑顔を浮かべたまま応えてくれた。

「で、わたしはその主……と。夢の中で聞いた事と一致してるし、大体の事情はわかった」

 唐突と言えば唐突な出来事だが、それでも納得できるのは彼女たちの言葉に嘘が感じられないからだろう。
 そして、これまで幾度か聞いた声――つい先程に微睡みの中で出会った人と交わした会話と今現在の状況は決して夢幻の類ではない。
 自身に課せられていた夜天の書の主という責務――それを噛み締めるように頭の中で反芻し、導き出した結論に思わず笑みを零した。

「つまり、わたしは夜天の書の主として守護騎士みんなの衣食住、きっちり面倒みなあかんゆうことや」
「―――……えっ?」

 宣言に対して、これまで殆ど喋っていなかった小柄な少女が驚きを隠そうともせずに声を上げた。
 みれば全員がそれなりに驚いたような表情を浮かべていたが、主として生活の面倒を見るのは当然の事だろうと小さく頷いてみせる。

「幸い住むとこはあるし……あ~でも、部屋が余ってないんや。帰ったら士郎たちと相談して部屋割り考えんと――」

 現在、八神家で部屋として使える場所は全て埋まっている。
 後は一階――はやての部屋とは別に客間として使える物置があるだけだが、最悪はそこを部屋として使えるようにしなければならないだろう。

「あの……はやてちゃん?」
「うん? すずかちゃん、どないした?」
「まず、士郎さんたちに事情を話さないと……」
「あ……そうやね。けど、信じてくれるかな……」

 すずかの忠告を受けて空を仰ぎ見る。
 士郎たちなら当たり前のように受け入れてくれそうに思っていた事に思い至り、そんなはずがないと苦笑する。
 はやてとしては、士郎は当然として同居している二人の女性のことも強く信頼している。
 けれど、同居人たちに隠し事をして守護騎士たちに苦労をかけるのは夜天の主として間違っているし、士郎たちに隠し事をすることはしたくない。
 受け入れてもらえるかどうかは別として、真実を話して誠心誠意頼めば大丈夫だと思いながらも一抹の不安が消えてくれなかった。

「それは多分大丈夫だと思うよ。えっと、本当は私から教えて良い事なのかわからないんだけど、士郎さんたちも色々事情があって――」

 すずかの口から語られたのは士郎たちのこと――。
 すずか本人も詳しく知っているわけではないという前置きの元で明かされたのは、士郎たちが所謂裏の世界に関わる者たちだということだった。
 月村の家も少なからず裏の世界に関わっている部分があるため、そんな彼らの素性を保証しているのにはそうした事情もあるのだとだけ説明してくれた。

「――そう……やったんや」

 話を聞いて感じたのは、一抹の寂しさと胸の奥に灯る暖かさだった。
 士郎たちに隠し事をされていた――と、何も考えずにそんなことを思えるほど厚顔ではない。
 それでも、家族の一員として知らせて欲しかったという寂しさがこみ上げてくるのは仕方が無いことだ。
 ただ、何故士郎たちが自身にそうした事情を一切話さずに側にいてくれたのか――。
 そして、これまで彼らと送ってきた暖かな日常が士郎たちの想いを知らせてくれるようで、それが無性に嬉しくて仕方がなかった。

「きっと、はやてちゃんに何も伝えてなかったのは士郎さんたちの……」
「……うん、わかってる。ちゃんとわかってるよ、すずかちゃん。士郎たちがわたしのこと大切に思ってくれてるって…」
「うん、そうだね。……はやてちゃん、携帯が鳴ってるよ?」

 肩から提げていた鞄の中から振動音が聞こえてくる。
 鞄を開けて携帯電話を取り出し、その画面に目を向けて思わず笑みを浮かべてしまった。
 ――画面には『お兄ちゃん』の文字。
 こんな状況である事を忘れてしまいそうになるほどの安心感を与えてくれる人からの電話――。

「噂をすればなんとやら……やね――もしもし、はやてです」
『――どうやら杞憂だったようだな。メールが届いてから帰ってくるまで時間が随分と過ぎているから、また車にでも轢かれそうになっていたのではないかと心配したぞ』

 聞こえてきた声はどこか上擦っていた。
 もっとも、他人が聞けば判別できないほど僅かに声の調子が違っていただけなのだが、そんな士郎の言葉に申し訳なさがこみ上げてくる。
 伝えるべき事を頭の中で整理して、はやては静かな覚悟を以て現状を伝えるための言葉を口にした。

「えっと……ニアピン賞や、士郎。実は、ほんとに轢かれそうになってな」
『――なに? 怪我はないのか? 大丈夫なのか?』
「大丈夫やって。心配掛けてごめんな、士郎。もうすぐ帰るから――そしたら、少しお話があるんやけど……メルルとエヴァはもう帰ってる?」
『ああ。晩ご飯の支度はまだかと騒いでいるぞ』

 背後からそんな士郎に抗議するような声が二つほど聞こえてきて、思わず声を零して笑ってしまう。
 一頻り笑ってから咳払いを一つ――かつて士郎がそうしていたように、意識的に声音を変えて自身の想いを相手に伝えよう。

「――すぐに帰るから、みんなでちょっとお話をしたいんや」
『――真剣な話題のようだな。わかった。みんなで待っているから、気をつけて帰ってきてくれ』
「了解や。それじゃまた後でな~」

 察してくれながらいつものように優しさを感じさせてくれる士郎の言葉――。
 それを耳に届けて小さく頷きながら、いつものように…いつもそうしているように士郎へと返事を返した。

「……ほな、まずはわたしの家にいこか。みんなのこと――ちゃんと主として面倒見るから、安心してな」

 携帯電話を鞄に仕舞ってから周囲を見渡して笑顔を浮かべる。
 柔らかな笑みを浮かべたすずかと、戸惑いながらも頷きを返してくれる守護騎士の四人を見据えながら、はやては静かにこれからを想うのだった。


 -Interlude out-


 戻ってきたはやてと共にやってきたのは習い事の帰りに出会ったというすずかと、怪しげな四人の人物――。
 互いに視線を合わせた瞬間に空気が一瞬だけ緊張してしまったのは当然の成り行きで、彼女たちは何処から見ても一般人ではなかった。
 そんな空気を肌に感じたからか、はやての仲裁と彼女たちに対するはやての態度――そんなはやてに対する彼女たちの応対を見て一先ず家の中に入ってもらうことになった。

「――事情はわかった。確かに俺は次元世界という言葉を知っているし、魔導師と呼ばれる者たちとも関わりがある。ベルカという言葉も以前に耳にした事が確かにあるしな」

 はやてとすずか――そして、同行してきた四人から聞かされた話に嘘は感じられなかった。
 ――主を求め、時や世界を越えて旅する魔導書。
 そんな魔導書とその主を護るための騎士――それが彼女たち四人の正体だった。

「少し前にもロストロギアと呼ばれる古代遺産を巡って魔導師たちが争っていてな。君らも次元世界の出身だというのなら、管理局という組織の名前くらいは耳にしたことがあるだろう」

 告げると四人は少しばかり表情を曇らせて頷いていた。
 どうやら推察した通り、彼女たちは管理局のような組織からしてみれば歓迎されるような存在では無いのだろう。
 時代や世界を越えて旅する魔導書――。
 ユーノやクロノたちから聞かされた話を元に考えれば、恐らく夜天の魔導書はロストロギア――古代遺失物に分類されるモノに違いない。
 そんな魔導書の守護騎士だという四人が管理局に対して好意的な筈も無く、それは管理局の側からしても同じだ。
 考えるべき事や警戒するべき事は幾らでもあるが、それでもはやてからしてみれば素性の知れない自身たちも同じようなものだろうから――。

「――はやてがそうすると決めたのなら、俺からとやかくいうようなことはない」

 事の決定権は最初からはやてにあるのだと告げる。
 憶測だけで四人をはやてから引き離すことなど出来るはずがないのだから――。

「……えっと、怒ってる?」
「気にするな。この男はただ寂しがっているだけだ」
「はやてが自分の手から離れていくようで寂しいんだよ」

 少しだけ声のトーンを落としたはやてが窺うように尋ねてくる。
 それを共に耳にしていたエヴァとメルルがそれぞれにからかうような声を向けてきた。

「二人とも馬鹿なことを言うな。俺はただ、はやてのことが心配なだけだ」

 これまで子供らしく過ごしてくれていたはやての決意に満ちた目を眺めながら告げる。
 出会った頃から見れば格段にしっかりしてみえる彼女の姿に想うところがないかと言われればその通りではあるのだが――。

「あの、士郎さん。それだと何も否定できてないと思うんですけど……」
「む――まあ、それはいい。とにかく、俺が彼女たちの同居を拒むような理由はない。シグナムとシャマル…ヴィータにザフィーラだったな」

 騎士らしい佇まいをしている長髪の女性――シグナム。
 どこか冷静な様子を見せている金髪の女性――シャマル。
 はやてと背格好の似通った無愛想な少女――ヴィータ。
 頭部から獣の耳を覗かせる筋骨たくましい男――ザフィーラ。
 守護騎士を名乗る四人は、士郎からの問いかけに対して静かに頷きを返してくれた。

「君たちに確認したい。夜天の書とその主を守護するという君たちは、如何なる場合にもはやてを護ると――彼女を害するような真似はしないのだな」
「はい。守護騎士――ヴォルケンリッターが将、シグナムが誓います。我が名と剣に誓って、主はやてを護り通すことを――」

 騎士を名乗る者が剣とその名に誓うと告げた以上、それを違えるつもりはないのだろう。
 仮にそれを違えるというのなら、その時は排除する――それだけの意思を視線に込めてシグナムへと向ける。
 彼女はそれを真っ直ぐに受け止め、揺らがぬ決意と信念を秘めた目を士郎へと向けたまま佇んでいた。

「……こう見えて、はやてはしっかりしている子だ。そんな彼女と君たちを信じて、俺は…俺たちは君たちを歓迎する。ようこそ、八神家へ」
「よろしくね、みんな」
「ふん。せいぜい羽を伸ばすがいいさ」

 メルル、エヴァと共に新たな同居人へ言葉を贈る。
 その歓迎に、はやては笑みを浮かべ、守護騎士達は深々とした礼を以て応えてくれるのだった。

「ほな、話が纏まったところでみんなはわたしの部屋にいこか? その服――ちょっと目立ちすぎや。まずはお洋服をなんとかせんと……」

 はやての言葉通り、シグナムたちは袖のない黒シャツにスカート、ザフィーラはズボンとシンプルな服装をしている。
 奇妙な出で立ちではないが、そのシンプルさが却って周囲の視線を引きつけることになるのは間違いないだろう。

「そういうことなら私が暇つぶしに作っていたメルルと士郎用の服を幾つか見繕ってやろう」
「ありがとな、エヴァ――って、そんなことしとったん!?」
「ただの暇つぶしだ。貴様はさっさとやつらの服のサイズを調べておけ。私は部屋からいくつか適当に服を持って降りてくる」
「りょ、了解や。じゃあ、みんな着いてきて~」

 告げて部屋を出て行ったエヴァに続くようにしてはやてが――そんな彼女を追ってシグナムたちがリビングを出ていく。
 残ったのは士郎自身とメルル――そして、はやてと共にこの家にやってきていたすずかだけだった。

「まったく……ありがとう、すずか。君がはやてと一緒にいてくれて色々と助かった」
「いえ、大したことはしてませんから。でも、こういうのも何ですけど…よかったんですか?」

 すずかの問いかけは当然の懸念だろう。どれだけの説明を重ねようと懸念がなくなるわけではないのだから――。
 だが、それだけのことではやての意思を退けることはできないし、シグナムたちの主に対する想いにも偽りはなかった。
 万が一にも何かがあればその時は別だが――それでも、はやてにとって家族が増えてくれるというのは士郎としても好ましい事柄である事は確かな事だった。

「差し当たり問題はないだろう。勿論、完全に鵜呑みにするようなことはしないが、少なくとも彼女たちの決意と誓いは本物だ。はやてもあの通りだしな」
「だけど、すずか――今日のことはあまり他の人には言わないであげてね。はやてもそうだし、シグナムたちもこれから"ここ"で生きていくことになるから」

 メルルが気遣っているのは守護騎士四人なのだろう。
 彼女たちの得体が知れないことは当然として受け止め、それでいてこれから共に過ごす彼女たちを心配している。
 もちろん彼女たちが人知れずはやてと共に過ごすことを許容して、ここで暮らしていくためには幾つかの課題はあるのだが――。

「はい、わかっているつもりです。今日のことは誰にも――私の胸の内にだけ仕舞っておくつもりです」
「ありがとう、すずか。これからもはやてと仲良くしてやってくれ」
「はい」

 柔らかな笑みを浮かべて答えるすずかの返答を耳にしながらこれからの事を考えていく。
 ――夜天の魔導書。
 その詳細を知ることは恐らく地球で過ごす士郎たちには不可能だろう。
 次元世界――それも、とうの昔の滅びた古代文明の遺産だというその書がはやてを害する可能性は決してゼロではない。
 先の事件で関わったロストロギア――ジュエルシードとて、その存在目的そのものは持ち主の願いを叶えるというものだった。
 それが使い方を誤っただけで世界を滅ぼしかねない危険なモノとなったのだから――。
 夜天の魔導書は主に大いなる力を齎すモノと――そう説明するシグナムたちに嘘や戸惑いはなかったが、全てを額面通りに受け止めることは出来ない。
 最悪の事態もあり得る事を頭の片隅で考えながら、今はただ――新たに増える事となった四人の同居人たちとのこれからを想って小さな笑みを浮かべてみせるのだった。

 

 

Episode 45 -訪問は唐突に-

 
前書き
第四十五話です。
 

 


 梅雨を迎えて一月と少し――。
 七月に入って日差しも厳しくなり、肌に触れる風の熱が夏の訪れを感じさせる。
 珍しくユーノからの念話が届いたのは、暑くなっても変わらず士郎が毎朝の日課としている早朝ランニングの最中だった。

「――そういえば…士郎くんのお家に新しく来た人たちってどんな人なの?」

 呼ばれて向かったのは町外れの高台にある登山道――。
 広域結界を張って周辺から隔離された空間で魔法訓練を行っていたなのはとユーノがそこにいた。
 聞けばプレシアの事件以来、殆ど毎日ここで魔法の訓練をこなしているのだという。
 そんな彼女の訓練事情を苦笑気味に聞いていた士郎だったが、唐突になのはから尋ねられた話題に少しばかり身構えてしまう。

「……エヴァにでも話を聞いたのか?」
「うん、学校でお昼ご飯を食べてる時にね。すずかちゃんとそんな話をしてたから、少しだけ気になってたんだけど…」

 どうやらなのはやアリサには既に当たり障りのない程度に話を通しているらしい。
 シグナムたちの素性がなのはやユーノから管理局に伝わらないようにこれまで口にしてこなかったが、エヴァが話しても大丈夫だと判断したのなら問題はないだろう。

「あまりこちらの暮らしに慣れていない連中でな。今は家で、はやてと一緒に過ごしながら色々と慣れてもらっているところだ」

 彼女たちが肉体的には殆ど一般の人間と変わらない――というのはメルルやエヴァの保証付きだ。
 その上でメルルに魔力を封じるアクセサリーを作成してもらい、それをはやてや守護騎士たちに身につけてもらっている。
 以前に士郎の身体に触れた状態でリンカーコアの状態を把握したユーノであっても、恐らく彼女たちが魔導に関わるものだとはわからないだろう。

「……そうだな。近いうちに顔合わせぐらいは出来るかもしれないぞ」
「そっか。じゃあ、それはそれで楽しみにするとして――今日は本当に付き合ってもらっていいの?」

 少しだけ遠慮がちに尋ねてくるなのはに頷きを返す。
 今回この場所へやってきたのはこのため――なのはとの模擬戦闘を行うためである。

「ああ。ユーノからは少しだけ話を聞いていたし、たまにはこういうのも悪くはない」
「えっと……一応結界は張ってあるし、中と外の相互干渉は出来ないんだけど、あまり強すぎる射撃や砲撃魔法は避けてね。特に士郎――君が以前に時の庭園で放ったような狙撃は厳禁だよ」

 ユーノが念を押すように告げてくるが、もちろんその辺りの配慮を怠るつもりはない。
 とはいえ、彼が形成するような巨大な結界を突破するような攻撃となると相応の"モノ"を用意する必要があるだろうが――。

「もちろんそのつもりだ。そもそもあれは切り札とか奥の手とか、そういう類のものだ。そこまで多用することはしない」
「あれ? そうなの?」

 宝具を使用した射撃を時の庭園で見せたせいか、なのはとユーノはあれがいつでも行える攻撃だと思っているのだろう。

「今日はその辺りも含めて、正確なデータをレイジングハートやユーノに見せるのも目的の一つだ。君が最近行っているという仮想データとの模擬戦闘を有意義なものにしてやるためにな」
「にゃっ!? どど、どうしてそんな事まで知ってるの!?」
「もちろん相談を受けたからだ。ユーノから話を聞いた時は開いた口が塞がらなかったな。よもや仮想敵として俺を想定しているとは思いもしなかった」

 訓練の一環としてレイジングハートやユーノに協力してもらって構築したプログラム。
 それがフェイトとの戦闘やジュエルシードを破壊した時、クロノを襲撃した際の攻撃やプレシアとの戦闘などを元に構築された仮想敵データである。
 一週間に一度は必ずその仮想データとイメージバトルをしているらしいが、宝具による狙撃を連発する仮想データに勝利したことはないらしい。

「べ、別に悪気があったわけじゃなくて……最初はただの好奇心というか、やってる内に悔しくなって意地になったというか…」
「いや、別に文句があるわけじゃないから落ち着け。色々な相手と戦うことを想定するのは悪くない発想だ。だから、今回は少し協力してやろうと思ったのさ」

 ――なのはが実戦で戦った相手はジュエルシードの異相体とフェイトだけである。
 優れた魔導師であるフェイトに拮抗するために腕前を上げたなのはだが、実戦経験の少なさは無視できるものではない。
 なのはがこの先も魔法と関わっていくというのなら、必然的に争いも身近になっていく。
 そうなった時に彼女が無事でいられる保証などなく、ならば自分の身を自分で守れる程度には経験を積ませたいと思って士郎は今回の話を了承したのだ。

「士郎の戦闘データを記録して、それをレイジングハートと一緒に分析すれば今よりもずっと精度の高い仮想データを構築できるからね」

 戦闘は逐次ユーノとレイジングハートによって記録してもらう手筈となっている。
 とはいえ、レイジングハートはマスターであるなのはと共に戦闘も行うため、基本的な記録はユーノが行う予定だ。

「――では、始めるとしようか」
「よろしくお願いします」

 丘の上で距離を取って向かい合う。側には木々もあり、障害物もそれなりに設置された地形だ。
 空戦を主体とするなのはよりも陸戦を主に行う士郎に有利な地形ではあるが、なのはの射砲撃の威力なら諸共に吹き飛ばす事が出来るだろう。

「今回は俺も魔法を主に使用するつもりだ。君も結界に考慮した上で遠慮せずに全力全開で来てくれ」
「だ、大丈夫だよ。ユーノ君の結界は凄く強力だもん」
「そうだな。では――」

 意識的にリンカーコアへ魔力を流して魔法を構築する。
 右手に具現化するのは魔力で構成された大剣で、以前にアースラでクロノが見せてくれた魔法の最大出力を模したものだ。

「それって――前にアースラでクロノ君から教えてもらってた……」
「スティンガーブレイドとクロノは言っていたな。それを俺なりに改良したものだ。ちゃんと非殺傷設定(スタンアタック)にしてあるから、こちらも全力でいくぞ。油断せずに掛かってくるといい」
「――うん。全力全開!! 本気でいくからね!!!」

 途端に彼女の身体から強大な魔力が放出される。
 フェイトと戦った頃よりも更に洗練された魔力運用を身につけている事が士郎にさえ理解できるほどだった。

「いい気迫だ。それではユーノ――開始の合図を頼む」
「う…うん。それでは――開始!!!」

 決して楽観視できる相手ではない事はわかっている。
 だが、彼女のためにも――そして、魔導師との戦闘経験の少ない士郎にとっても今回の模擬戦闘は有用だ。
 全力全開で向かってくる彼女に力負けしないために、士郎はこれまでの鍛錬で身につけてきた技能――"気"を全身に纏ってから地面を蹴るのだった。


 -Interlude-


「――…ん……あ…れ? ここは……」

 目を覚ました彼女――なのはの視界には、雲一つ無い青空が広がっていた。

「よかった……気がついたんだね」
「ユーノ君……?」

 視界の端からなのはを覗き込むのはフェレットの姿をしたユーノだった。

「士郎との模擬戦で撃墜されて気を失ってたんだよ。怪我は殆どしてなかったけど、かなり攻撃を受けてたから……」
「そっか…やっぱり負けちゃったんだ」

 ユーノの言葉を耳にしながら蘇ってくるのは士郎との戦闘の記憶だった。
 互いに正面からぶつかり合い、近接戦ではどう足掻いても及ばないと即時判断したなのはが距離を離し過ぎないように距離を保って戦えていた所までは良かった。
 ――問題は、士郎の技量を完全に見誤っていたことだろう。
 彼が十数メートルの距離を一瞬で詰めてくると同時に魔力刃をもうひとつ展開して斬り掛かってきた際、咄嗟に空中へ逃れたのがなのはの敗因となった。
 空中に逃れた瞬間、士郎の周囲に浮かび上がった魔力刃の数は視認できただけでも三十以上――。
 縦横無尽に飛来してきた強力な魔力刃を防御魔法で防いでいたなのはに向けて、地上で弓を構えた士郎が何かを放って――そこでなのはの記憶は終わっていた。

「――気がついたか」
「――士郎くん……」

 身体を起こしたなのはに気付いた士郎が心配そうな声を向けてくる。
 彼にしては珍しく、本当に申し訳なさそうな表情を浮かべているのがなのはの目には新鮮に映った。

「すまなかったな。なまじ魔法戦に拘ったせいで加減が全く出来なかった」

 手加減無しの全力で向かってきてくれたという士郎に笑みを浮かべて見せる。
 彼が"本当の全力"でなかったことはわかっているが、それでも彼と競えた事実はなのはにとって嬉しいものだったからだ。

「ううん、それはむしろ嬉しかったんだけど……」
「なにか気になることでもあったのか?」
「私が空中に逃れたときに士郎くんが弓矢を使って魔力刃を飛ばしてきたけど、あれって魔法なの?」

 比喩でも何でも無く、放ったと思った瞬間には防御を抜いてきた強力な狙撃に撃ち落とされていた。
 見えていなかったわけではなかったが、それを回避するだけの動きが今のなのはには出来なかったのだ。

「あれは只の弓術だ。矢はスティンガーブレイドを変形させたものだがな」

 その言葉に、以前アースラでクロノから聞いた話を思い出した。
 ――曰く、士郎は剣に関する魔法なら間違いなく魔導師ランクSS相当の魔力運用をこなしている。
 魔力値は低くとも、これだけの効率と精度で剣を構築できるのなら実質はAAAランク以上の評価になるだろう。
 こうして改めて士郎と正面からぶつかってみれば、あれでも過小評価だったのではないかと思うほど彼の"剣"に関する魔導とそれを扱うための技能は圧倒的だった。

「……やっぱり、こういう体術というか武術みたいなのって、ちゃんと身につけておいたほうがいいのかな…」
「それはそうだろうな。以前は時間がなかったから勧めはしなかったが、先の事を真面目に考えているのならきちんとした武術を身につけたほうがいいだろう」
「なのはは砲撃型だけど、相手がフェイトのような高速型だと近接戦もこなさなくちゃいけないだろうしね。体術とか剣術、槍術なんか身につけてみるといいんじゃないかな?」

 士郎の言葉に同意するように告げられたユーノの言葉にはなのはも納得できた。
 フェイトとの戦闘の際にも感じていたが、重火力型で機動が重たいなのはは相手の攻撃を受け止めて攻撃…というのが基本的なスタイルとなる。
 だが、その際に相手に圧倒されるだけでは自身に有利な状況を生み出すことさえできない。
 それを打開するためには、最低限でも近接格闘をこなせるだけのスキルは身につけなければならないと実感していた。

「剣術と体術はお兄ちゃんとお姉ちゃんに頼み込めば教えてくれるかもしれないけど、槍術なんて教えてくれる人に心当たりなんてないよ~」
「それは僕だってそうだけど――」
「――そういうことなら、少しだけ力になってやれるかもしれないぞ」

 ユーノと二人で頭を悩ませていると、士郎が思いついたようにそんな言葉を口にした。

「士郎くん…槍も使えるの?」
「完全な人真似になるが、型の模範にするのなら問題はないだろう。その道に長ずるつもりならお勧めはしないがな」
「なのはの長所を生かすなら近接戦闘でも遠距離戦闘でも砲撃に重きをおくべきだと思う。体術や槍術はあくまでも護身のために身につけたほうがいいよ」

 なのはの問いかけに答える士郎――。
 そんな彼の言葉に同意するユーノと一緒に頷いて見せると、士郎は少しだけ表情を引き締めた。

「なら、とりあえずやってみるとしようか」

 簡単そうに告げて左手を前に差し出す。
 そうして目を閉じた彼は、いつかのように自己の内へと埋没していく。

「――――I am the bone of my sword.(体は剣で出来ている)

 魔力の波を感じさせない言霊を口にすると同時――差し出していた左手に物体が現れる。
 転送魔法のようなものだと聞いてはいるが、いつ見ても幻想的なその光景に思わず見とれてしまう。
 そうして出現したのは赤い長槍――。
 目にしただけで寒気のようなものを覚えるソレは、目を離すことが出来ないほどの存在感を放っていた。

「……なんだか、凄く不思議な気配がする槍だね」
突き穿つ死翔の槍(ゲイボルク)という槍で、神話に出てくる英雄が使っていたとされる伝説の槍だ」

 神話に詳しくないため、なのはには槍の出自はわからなかった。
 だが、士郎の言葉からソレが普通の槍とは比べられないほどのモノだという事だけはわかった。

「この槍を使って、一通り基本となる動きを実演するから――」
「なるほど。それをレイジングハートに記録してもらって、僕が一緒に解析してなのは用の教習プログラムを作成するんだね。ただ、それだと――」

 士郎とユーノが二人揃って確認するように言葉を交換していく。
 そんな二人を横目になのはは二人の話が落ち着くまで静かに待ち続けた。

「――大体の趣旨は解ったけど、どうして宝具なんて持ち出す必要が?」
「こうした伝説の武器には使い手の想念――使い手の技術や技能が色濃く残っている。俺はそれを再現する魔術が使えるんだ。無論、本来の持ち主に比べれば幾分ランクが落ちるがな」
「いや……十分だと思うけど。伝説の武器を持ってるだけじゃなくて、伝説の武器の担い手の技量を再現できるなんて……」
「実際の戦闘では滅多に役に立つことのないものだがな。ともあれ時間もあまりないことだし、さっそくやってみようと思うが――」

 話が終わったらしく、士郎の視線が真っ直ぐになのはへと向けられる。
 そんな彼に応えるように真っ直ぐに視線を返してから静かに頷いて見せた。

「――うん、わかった。ごめんね、レイジングハート。お願いしても良いかな?」
『――了解です、マスター』

 アクセサリーの状態のまま待機しているレイジングハートへ呼びかける。
 いつものように応えてくれる愛機の声を受けて、なのはは槍を構えた士郎へと視線を固定した。

「では――始めるぞ」

 静かな言葉と共に場の空気が緊張していく。
 只ならぬ気配が周囲を覆っていくことを肌で感じ取りながら、なのはは士郎の動きを見逃すまいと気合いを入れるのだった。


 -Interlude out-


 なのはたちと別れて家に戻った士郎は、庭先で木刀を手にしたまま佇む人影を見つける。
 朝早くからそのようなことをする人物は一人しかおらず、邪魔をするのも忍びないと思いつつ声を掛けるために近付いていく。

「――おはよう、シグナム」
「おはようございます、士郎。今日も朝練ですか?」

 一月前から共に暮らしている人物の一人、シグナム――。
 夜天の主であるはやてに仕える守護騎士、ヴォルケンリッターの将である彼女は今日もまた剣を手に瞑想をしていたらしい。
 士郎が声を掛けると同時に閉じていた目を開けて構えを解いた彼女の問いかけに、士郎は小さく頷いて答えた。

「ああ。少し知り合いと組み手をしてきたところだ。他の皆はまだ起きていないのか?」
「いえ、エヴァンジェリンは既に起きていました。今はリビングでのんびりしているはずです」

 いつものやりとりを交わしながら視線をリビングへと向けて笑みを浮かべる。
 互いに同じような行動を取っていた事に気付いて顔を見合わせ、二人揃って小さく笑った。

「すぐに朝ご飯の支度をするから、ほどほどで切り上げて中に戻ってきてくれ」
「はい」

 簡潔なやり取りを終えて踵を返し、家の玄関から中へと入っていく。
 リビングに足を運んでみれば、そこにはいつも通りぼんやりとしているエヴァと、その側でのんびりと伏せている子犬姿のザフィーラがいた。

「ただいま、エヴァ」
「ん? 戻ったか。今日は緑茶がいいと思うぞ」
「了解だ。ザフィーラも起きてきたんだな」
「ああ、今日は寝覚めがよくてな」

 エヴァと毎朝交わしている会話を終えてからザフィーラへと呼びかける。
 守護獣と呼ばれる存在のザフィーラは、初めて家を訪ねてきた時に見せていた人型の他に大型の獣の姿となる事ができた。
 あまりにも目立つため子犬のような形態にはなれないのかと尋ねた所、彼なりに研究して獣の姿になるときは基本的に今のような子犬の姿をするようになったのだ。

「すっかりその子犬モードが定着してしまったな。別に家の中では人型でいてもいいと思うが…」
「主はやてはこちらの姿のほうが喜んで下さる。それと、犬ではなく狼だ」
「そうだったな。まあお前がそれでいいのなら問題はないか……」

 はやてが昔から動物を飼いたかったという想いを抱いてきた事を知り、今のように獣姿で過ごすことを決めたのだという。
 あるいは、ザフィーラなりに主であるはやてへの忠義を示しているのかもしれない。

「――おはようございます」

 落ち着いた声音を響かせながらリビングへと入ってくる人影がひとつ。
 ――ヴォルケンリッターの一人、シャマル。
 身支度を完全に済ませ、落ち着いた様子で入ってきた彼女の姿を見て思わず口の端を歪めてしまう。

「おはよう、シャマル。今日は寝坊しなかったな」
「あう……」

 以前に朝ご飯を手伝うため無理に早く起きようとして寝過ごしてしまい、寝間着にぼさぼさの髪のままリビングへ突入してきた時の姿を思い出す。
 あの時はシグナムやエヴァ、はやてもその場にいたため、彼女は顔を真っ赤にして部屋に戻っていったのだが――。

「――冗談だ。準備を済ませたら手伝ってくれ」
「了解です」

 ――からかいも過ぎれば身を滅ぼす。
 冗談である事を示すように手伝いを促すと、彼女は満面の笑みを浮かべて頷いてくれた。

「今日は握り飯――おにぎりメインだ。混ぜ込む材料やおかずは俺が用意するから、シャマルはひたすら握ってくれ」
「りょ…りょうかいです」

 食事の支度を整えてから指示を出すと、彼女は少しばかり身を縮こまらせてしまった。
 彼女たちと過ごし始めて一ヶ月と少し――。
 こうして日常的な作業を手伝ってもらうようになってまだ一週間足らずだ。
 その記念すべき最初の日にシャマルが料理の手伝いを申し出て、見事に大失敗をしてしまったのは記憶に新しい。

「苦手意識を持つのもわからないでもないが、そこまで緊張しなくても大丈夫だ。そんなに力が入っていたら折角のおにぎりが台無しになるぞ」
「前に士郎君が教えてくれたように…ですね。やさしく…やさしくふんわりと……」
「ああ、それで大丈夫だ。形が不揃いなのもすぐに上手くできるようになる。形が上手くいくようになったら味付けも少しずつ覚えてもらうからな」
「はい。よろしくお願いします、師匠!」

 聞き慣れない言葉に手を止めて視線をシャマルへと向ける。
 特に悪気のないその表情から、彼女にこんな言葉を吹き込んだ人物に思い至る。

「――その言い回し……はやてか?」
「はい、はやてちゃんがこう言えば士郎君が喜んでくれるって言ってましたよ」

 屈託のない笑顔を浮かべてそんな事を言われては文句さえ口に出来なかった。

「悪い気はしないがな。弟子入りする以上は厳しく仕込むから、そのつもりでいてくれ」

 基本的に料理が上手く作れないシャマルだが、今からみっちり基礎を叩き込めば十分に上達してくれるだろう。
 いつか――遠い過去にこんな日常を過ごしていた事を思い出しながら、士郎はシャマルと共に様々な種類のおにぎりを作っていく。

「――おはようさんや。みんな早いな~」
「ああ、おはよう」
「おはようございます」
「おはようございます、はやてちゃん」

 次いで入ってきたのは、身支度を済ませたはやてだった。
 そんな彼女の言葉にエヴァ、ザフィーラ、シャマルがそれぞれ返事を口にする。

「おはよう、はやて。ヴィータは一緒に起きてこなかったのか?」

 続くように声を掛けた士郎だが、いつもなら一緒に起きてくるもう一人の姿が見えないことに気付いて尋ねる。
 ――ヴォルケンリッターの一人、ヴィータ。
 背格好はエヴァやはやてに近しい彼女だが、この日常を送るに当たって最も印象が変わったのは彼女だろう。
 どこか険悪な雰囲気を纏っていた彼女だが、はやてと接する内に見た目の年格好相応の反応を見せるようになり、今ではすっかりはやての妹扱いである。

「まだ気持ちよさそうに寝てたよ。そういえばメルルもまだ起きてへんみたいやけど?」
「最近は夜遅くまでアトリエに篭もっているみたいだからな。疲れて眠っているんだろう」

 守護騎士たちが同居するようになってから仕事の増えたメルルはアトリエに篭もる時間が長くなっていた。
 最近はプレシアから譲り受けた魔導師の杖――デバイスを研究しているらしく、シグナムやシャマルとなにやら話している姿もよく見かける。
 聞けば、どうやらオリジナルのデバイスを造る下準備をしているらしく、昨夜も皆が寝静まるような時間に帰宅していた。

「せやけど、もうすぐ朝ご飯も完成しそうやし……わたしが代わるから、士郎はメルルを起こしてきてくれん?」

 朝食は出来る限り家人揃って行うことにしているためだろう。
 はやての申し出に少しばかり思案してから手を止めた士郎は、場所を明け渡すようにその場から移動していく。

「そうだな。じゃあ、後はよろしく頼む」
「了解や」

 告げてリビングを後にすると、廊下の先からのそりのそりと動く小さな影――。
 はやての部屋の前から歩いてくるのは、つい先程はやてと共に話題に挙げたヴィータだった。

「……おはよ~」
「おはよう、ヴィータ。随分と眠たそうだが、大丈夫か?」
「ん…大丈夫。ちょっと……昨日は遅くまで起きてたから…」

 寝惚け眼をこすりながら答えるヴィータだが、見れば髪にも見事な寝癖がついている。
 手を伸ばして寝癖を直そうと優しく撫でるが、気持ちよさそうに声を零すヴィータとは裏腹に寝癖は全く直ってはくれなかった。

「もうすぐ朝食だ。先に顔を洗ってくるといい。ちゃんと寝癖も直してくるんだぞ」
「……うん、わかった」

 未だにぼんやりとしたまま返答を返して洗面所へと向かっていくヴィータを見送る。
 彼女が洗面所へ辿り着いたことを確認した士郎は、メルルの自室がある二階へと向かい、部屋の前で立ち止まった。

「――さて…素直に起きてくれればいいが……」

 ――扉を軽く叩いてみる。
 暫く待っても反応がない事を確認して小さく溜息を零し、仕方が無いと扉を開いて中へと入った。
 大きなベッドが一つと巨大な本棚――そしてなにやら小道具が置かれている作業台が目に入る。
 メルルとエヴァの共同部屋らしく、各所に怪しげな道具や人形が配置されていた。
 そんな光景を目の端に入れながら、ベッドの上で布団に包まっているメルルへと視線を向けて声を掛ける。

「――メルル、朝だぞ」
「……う…ん、あと五………」
「五分待っても眠気は消えないぞ」
「……あと五十年」
「……眠り姫じゃあるまいし、無茶な事を言うな」

 本気なのか冗談なのか――相変わらず時間の感覚がおかしい彼女に苦笑しながら身体を揺する。
 よほど眠たいのか、彼女は殆ど開いていない目を士郎へと向けたままゆっくりと布団を開いて手招きを始めた。

「ん……だって……お布団気持ちいいし……シロウも入ってみなよ。凄く気持ちいいから……」
「寝ぼけていることはよくわかったが、そろそろ朝食だ。君以外は全員起きているぞ」

 遠慮無く布団を剥ぐと、彼女は眠たそうに瞼を擦りながらゆっくりと身体を起こした。

「……う…ん、わかったよ。起きる……起きるから――」

 暫くベッドに腰掛けたまま何かを呟いているメルルをじっと見守る。
 やがて目を開けた彼女は、ゆっくりとベッドから腰を上げて立ち上がり、開いた眼を真っ直ぐに向けてきた。

「おはよう、メルル。ようやく目が覚めたか…」
「おはよう、シロウ。もう大丈夫…ちゃんと頭が働き出したから。着替えたらすぐに降りるね」
「ああ」

 告げて部屋を後にして、もう一度小さな溜息を零した。
 この世界に辿り着いてから数ヶ月――。
 いつ終わるともしれないと思っていた暖かな日常を今日も送れていることを実感しながら、士郎は小さな笑みを零すのだった。


 -Interlude-


 昼を過ぎ、ちょうど日差しが最も厳しい時間――。
 庭に干していた衣服がちゃんと乾いていることを確認したシグナムは、慣れた手つきで衣服を回収していた。

「――それにしても…変われば変わるものだな」

 晴天の下、青く澄んだ空を見上げながら実感を込めた言葉を口にする。
 こんな風に平穏の中で過ごすことが出来る等、この世界で目覚めるまでは想像した事さえなかったことだった。

「なにか言った、シグナム?」
「いや……目覚めてから一ヶ月余りで、我々も随分と変わったなと思ってな」

 共に作業をしていたシャマルの問いかけに素直な返答を返す。
 彼女は同意するように、小さな笑みを浮かべたままゆっくりと頷きを返してくる。

「…そうね。確かに私たち、みんな変わったわ。でも、それはきっといいことなんだと思うわ」
「そうだな。主はやては勿論として、我らを暖かく迎えてくれた士郎やメルル、エヴァンジェリンにも感謝しなければな」

 共に暮らす三人を脳裏に浮かべながら、洗濯物の回収を終える。
 ややあって家の中から聞こえてきたのは彼女たちの主――八神はやての声だった。

「――二人とも~。おやつできたで~」
「は~い、すぐ行きまーす。――行きましょう、シグナム」
「ああ」

 短く返してから家の中へ戻ると、リビングのテーブルの上にお菓子と飲み物がそれぞれ用意されていた。

「――二人ともお疲れさんや。飲み物とクッキー用意してるよ」
「はい、ありがとうございます」
「これって、士郎くんが買ってきていたハーブですか?」
「そうや。幾つかあったけど、今日はレモングラスを使ってみたんよ」

 爽やかな香りを立ち上らせている紅茶とクッキーを席に座ってから改めて眺めてみる。

「美味しそうに出来てますよ」
「あら? そういえば、ヴィータちゃんが見当たらないですけど…」

 感想を口にすると、隣で同意するように頷いていたシャマルが周囲を見渡しながら尋ねる。
 見れば確かに室内にはヴィータとザフィーラ、そしてメルルとエヴァンジェリンの姿が見当たらなかった。

「ヴィータなら、ちょっと前にエヴァと一緒に出かけてったな。材料がどうとか言うてたから、多分お人形さんのことやろ」
「以前に皆で買い物に出かけた時に気に入っていたあのウサギの人形ですか?」
「いや、そっちやなくて……こっちやね」

 告げて、主であるはやてがテーブルの上に置いてみせたのは、片手で持ち上げるのにちょうどいい大きさの人形だった。
 オレンジ色の髪の毛に無愛想な表情――所謂執事服と呼ばれる類の服装に身を包んでいる人形だが、見間違いでなければそれは――。

「――これは……士郎…ですか?」
「そや。エヴァも満足の出来映え――入魂の一作でな。誕生日にエヴァがプレゼントしてくれたんよ」

 自慢の品だと告げるはやてを横目に人形を注視する。
 人形らしくどこかデフォルメされたソレは、シグナムの目から見ても愛らしくて可愛らしく見えた。

「……可愛いですね」
「そやろ? それでこれを見たヴィータが欲しそうにしてたのがわかったんかな? エヴァが材料集めを手伝うなら暇つぶしに作ってやるって。せやから、二人も欲しかったらエヴァと交渉してみたらええよ」
「な…なるほど……検討しておきます」

 エヴァが戻ってきたら頃合いを見計らって交渉をしようと心に決める。
 それを察してか、はやては人形を眺めながら補足するように説明を続けた。

「この人形は喫茶店のマスターをイメージした士郎らしいけど、あと二つバリエーションがあるからメルルとエヴァが持ってる人形も見せてもらったほうがええかも…」
「その二つはどんなイメージなのですか?」
「メルルのは普段着を着てる士郎やね。エヴァのは黒い服の上に赤い外套を着てるやつや。両手に中華刀みたいなの持ってたよ」

 話にだけは聞いている戦闘時の衛宮士郎――を模した人形らしい。
 彼が扱うという二刀を見たことは未だないが、エヴァが持つというその人形には強く惹かれるものがあった。

「なるほど。エヴァンジェリンの持っている人形には大変興味がありますが…出かけているのでは仕方ありませんね」
「とりあえずメルルちゃんのお人形だけでも後で見せてもらいましょう。彼女、今日は出かけていませんよね?」

 シグナムとは違い、普段着を着ている士郎を模した人形に興味を抱いているらしいシャマルがはやてへと問いかける。
 はやては何かを思い出すように視線を二階へと向けてから僅かばかり苦笑いを零した。

「多分、部屋で本を読んでると思うよ。なんやいつも難しそうな本ばかり読んでるけど、今日は……なんやったかな。因果律がどうとか書いてあったような気がする」
「メルルは一応学者らしいですから。知識を増やしていくのは彼女からしてみれば当然の行為なのでしょう」

 ――錬金術士。
 魔導師でも騎士でもなく、ましてや魔法使いや魔術使いでもない。
 きちんと学問として成り立つそれを極めた人物――それが同居人、メルルリンス・レーデ・アールズの本当の顔だ。
 シグナムたちを八神家へ迎える際に士郎たちはそれぞれの素性をはやてへと明かした。
 その際に聞いたメルルの事情を鑑みれば、彼女が常日頃から貪欲に知識を得ようとするのは人が息をするのと同じぐらいに当然のことなのだと納得できる。
 シグナムの言葉に対してはやても異論はないらしく、同意するように頷きを返してくれた。
 そうして残っている僅かな菓子に手を付けようとして――唐突に室内に響き渡る音色に手を止めてから視線を玄関へと向ける。

「あら? お客さまみたいですね」
「私が行こう」

 告げて立ち上がろうとするシャマルを制して立ち上がる。
 まだ菓子も紅茶も残している彼女より、既に殆ど菓子を食べ終え、飲み物も飲み干しているシグナムが応対するほうがよいだろうと判断してのことだ。
 そうして――はやてと頷きあってからリビングを後にしたシグナムは、そのまま玄関口へと向かい、鍵を開けて扉を開け放った。

「――はい」
「――こんにちは。こちらにメルルリンス・レーデ・アールズがいると思うのですが、彼女……います?」

 門前に立っていたのは長い黒髪が特徴的な女性だった。
 赤を基調とした服に身を包み、真っ直ぐに立つその女性は軽やかな笑顔を浮かべたまま唐突にそんな言葉を投げかけてきた。

「ええ、確かに彼女は家にいますが……失礼ですが、貴女は?」

 僅かばかり疑うような声音で尋ねると、彼女は何かを思い出したように声を零してから小さく頭を下げた。

「名乗りもせずに失礼だったわね。遠坂凛――メルルとは随分前に一緒に暮らしてた間柄なの」

 僅かばかり謝意を示した彼女はそっと頭を上げ、まるで唄うように自身の名とメルルとの関係を口にするのだった。
 

 

Episode 46 -魔法使いの憂鬱-

 
前書き
第四十六話です。 

 
 
 知り合いが尋ねてきていると聞いて彼女――メルルは自室を後にする。
 この世界にわざわざ家にまで訪ねてくる知り合いに心当たりのなかったメルルだが、その姿を見てすぐに納得した。

「――リン! 久しぶりだね」
「久しぶりね、メルル。変わらない貴女を見るとホッとするわ」

 リビングの中で椅子に座って出迎えてくれたのは、士郎と再会する前に別れた友人だった。
 ――遠坂凛。
 士郎とは戦友で、メルルにとっても数年間を共に協力しながら過ごした相手だ。
 並行世界の運営を行うという魔法――第二魔法と呼ばれる奇跡に手を伸ばそうとしている魔術師にして魔法使いの弟子。
 年若い少女であることをまるで感じさせない聡明さと行動力に満ち溢れた彼女の姿に、どれだけ励まされたことだろうか――。

「――えっと、それでお二人はお知り合いゆうことやけど……」

 互いに視線を交わして黙り込んでしまったせいだろう。
 凛の応対をしていたはやてが少しばかり気まずそうに声を掛けてくれた。

「あ…うん、彼女とは前に何年か一緒に暮らしながら色々と旅をしていたんだよ」

 簡単にそれだけを告げるとある程度の事情を察してくれたのか――。
 シグナムとシャマル、ザフィーラとはやてはそれぞれ納得したように頷いていた。

「懐かしいわね。思えば、あの頃が一番楽しかった気がするんだから時間の流れっていうのは不思議なものよね」

 どこか落ち着いた口調で告げる凛の姿に首を傾げながら予感めいた考えが脳裏を過ぎる。
 以前とは異なる老成した雰囲気――なにより、懐かしむようにメルルを眺めるその視線が予感を確信に変えてくれた。

「……まあ、積もる話はまた後でするとして、今日はどうしたの? というより、"此所に来れた"ってことは、ちゃんと目的が達成できたってこと?」

 この場で尋ねるには少しばかり込み入った話になると判断して話題を切り替える。
 問いかけに凛は少しだけ誇らしげに――けれど、僅かばかり自重するようにして小さく頷いた。

「一応はね。けど、まだまだ見習いの駆け出し――免許皆伝には程遠いって感じかしら」

 とても魔法使いだと名乗れるほど熟達していないと告げる凛だが、この世界へ自力で辿り着いたというだけでも以前とは違う――。
 滲み出る自信のようなものは、明らかにメルルが知っている頃の遠坂凛にはなかったものだった。

「"至った"ら、それだけで大丈夫――ってわけじゃないんだね」
「まあね。それで、今回貴女を訪ねてきたのは他でもないの。ここにあの馬鹿が来てないかって思ってね」

 凛の言葉を耳に届けたメルルは、すぐに該当する対象に思い至った。
 彼女がこういった物言いをメルルに対して零す時は、メルルや凛と共に様々な世界を旅したあの杖を語る時なのだから――。

「あの馬鹿って――ルビーのこと?」
「そうよ。事もあろうに厄介事をまき散らしながら逃げ出したアイツを追いかけてきたわけ。アイツが向かうとすると貴女の所が一番確率が高いと思ったんだけど……」
「ごめん。ここには来てないよ。会えるなら私も久しぶりに会ってみたいけどね」

 愉快型魔術礼装カレイドステッキ――。
 第二魔法の理論を用いて作成されたその杖は凛の家の宝箱に封印されていた曰く付きの杖だ。
 なにしろ杖だというのに自律行動を可能とし、人工天然精霊ルビーという破天荒な精霊がステッキ本体に宿っているのだ。
 彼女に振り回されていた凛からしてみれば、あの杖を野放しにすることは厄災を放置するのに等しいのだろう。
 もっとも――彼女の正規マスターとなったメルルからしてみれば、イタズラ好きの少女にしか見えないため凛ほど苦手意識を抱いてはいなかった。

「…そう。一応こんな事もあろうかと、あの馬鹿が"どこかへ行く"時にはわかるようにしておいたから、この付近のどこかにいるのは確実なんだけどね」

 彼女の師である魔法使いによって封印処置が施される時に細工を施しておいたのだという。
 細かなことは分からないが、世界を渡るような現象を感知すると同時に特殊な波長を放出させ、それを追いかけることでルビーを追跡できるのだとか――。
 いよいよ魔法使いらしくなっていると思いながら、聞き逃せない単語が彼女の口から語られていた事を思い出したメルルは小さく咳払いをした。

「……ところで、厄介事をまき散らしてって……何かあったの?」
「まあ…ちょっとね。メルル――ここの人たちってどこまで……」

 凛の視線がはやてたちへと向けられる。
 メルルが作成したアイテムの効果からか、はやてたちは凛の目から見ても一般人に見えているらしい。
 同居しているとはいえ、どこまで事情を話しているのかと尋ねてくる凛にメルルは静かに微笑んで見せた。

「大丈夫だよ。ちょっとした細工をしてるからわからないだろうけど、みんな魔力持ちだし、それなりに事情は知ってるから」

 簡単にそれだけを告げると、凛ははやてたちを流し見てから少しだけ感心したような声を零し、真っ直ぐにメルルへと視線を向けてきた。

「なら大丈夫…というより、むしろ説明しておかなくちゃいけないわね。多分大丈夫だと思うけど、一応用心したほうがいいし…ね」

 ――説明は端的で的確に行われた。
 凛曰く――杖と同じように封印されていた"とある魔術品"の半数以上がルビーの世界移動と時を同じくして消えてしまったというのだ。
 それがどうして厄介なのか――それは、その魔術品の効果が余りにも危険なものだからに他ならない。
 過去に伝説を残したような英雄たちが死後、輪廻転生をすることなく保存されているという英霊の座――。
 その座にアクセスし、英霊の力の一端を再現する――それが今回消失したという魔術品の持つ特異な能力だ。
 以前にメルルが凛と旅して巡った世界で回収したものだが、凛と共に回収した十数枚の内、八枚程度が紛失しているというのだ。

「――えっと、つまりルビーが逃げ出す時に、同じように封印されていた"あのカード"が半分以上なくなっちゃったってこと?」
「まあそんなところ。そっちも同じようにある程度近くにいればわかるように細工はしてあるんだけど、正確にそれを探るためにはあの馬鹿の力がいるわけよ」

 メルルたちと共に旅したカレイドステッキは数多ある並行世界に存在するステッキの原典――オリジナルだと本人は自称していた。
 それを証明するようにカードの回収に際して有り余る能力をフル活用したルビーだが、彼女のお陰でカードの回収が順調に終えられたのは凛もメルルも認めている。
 
「……なるほどね。ルビーにしてみれば、いきなり捕まって封印されないための予防線になってるわけだね」
「……状況からの推察だから、今回の件がどこまで意図しての事かはわからないけどね。ともかく、なんであれまずはルビーを探さないといけないんだけど――どうやらこの街に一枚……あるみたいなのよね」

 メルルと共に説明を聞いていたシグナムたちの気配が僅かばかり引き締まる。
 凛の説明によると、カードは特殊な封印が施されているため、霊脈などから魔力を吸い上げることが殆どできなくなっているらしい。
 そのため基本的にはカードの効力が発揮されることはないと想定しているが、世界移動に際してどんな影響が出ているのか分からないため警戒する必要があるという。
 特に強力な魔力を保有する人間などがカード周辺に強く魔力を流し込めば、強制的に発動して取り込まれる可能性も否定出来ないと――。
 となれば、万が一にもはやてがそれに巻き込まれてしまったら――というシグナムたちの懸念は至極当然のものだろう。
 
「カードの場所はわかるの?」
「大雑把にだけどね。ただ、この街に来た時に霊脈の乱れを探ってみたんだけど、この辺りってどこもかしこも霊脈が乱れてるのよね……前に何かあったの?」
「少し前に事件があったとはシロウが言ってたけど、そのせいかもしれないね」

 士郎やプレシアから聞いたジュエルシード事件――。
 その際に何度か暴走したジュエルシードが土地に流れる魔力の流れ――霊脈を乱している可能性は高い。

「――士郎……? もしかして、アイツもここにいるわけ? っていうか、ちゃんと再会できたってこと?」

 僅かに声音が変わったことに気づいて笑みを浮かべる。
 どれだけしっかりしても、そういったことは変わっていないらしい。
 彼の事になると態度が少しだけ変わることに、果たして彼女は気づいているのだろうか――。

「うん、少し前にね。ちゃんとリンからの伝言も伝えておいたよ。彼女らしいって言ってたけど……」
「――そう。まだ会うつもりはなかったけど、ちょうどいいかもしれないわね」
「ちょうどいい?」

 笑みを浮かべて告げる凛の姿はどこか好戦的な気配を漂わせていた。
 会うつもりがなかった士郎がいることをちょうどいいと――。
 そう告げる彼女にどういうことかと尋ねると、凛は口の端を歪めるように笑みを刻んでから口を開いた。

「アイツにも手伝ってもらうって事よ。そんなわけで、アイツの居場所――教えてもらえるかしら?」


 -Interlude-


「――これで必要な材料は大体揃ったな」

 街中の歩道を歩きながら零したエヴァの言葉に彼女――ヴィータは小さく首を傾げた。
 何種類もの糸や何十枚もの布や綿など――裁縫というものに縁がなかったヴィータにとって、それらは未知の素材そのものだった。

「よくわかんねえけど、こんなんであんな凄い人形が作れんのか?」
「はやてや私が所持している人形が何よりの証拠だろう? こんなものを市販していると思うか?」

 告げてエヴァが取り出したのは赤い外套に身を包み、両の手に中華刀を構えている衛宮士郎――の人形である。
 エヴァの掌よりも僅かに大きいデフォルメされた人形だが、見れば見るほど精巧に編み込まれた"ソレ"は、驚くべき事にエヴァの自作だというのだ。

「まあ…どこからみても士郎だしな」
「そういうことだ。ところで、普段着仕様でよかったのか?」
「ああ。普段の士郎と同じような服着てるほうが士郎らしくていいじゃん」

 この世界で目覚めて一ヶ月余り――。
 どうせこれまでと同じ――戦うだけの日々を送り、適当に選ばれた主とやらの元で道具として過ごすだけだと思っていた。
 だが、今回の主である八神はやてという少女はヴィータたちを家族として迎え入れてくれた。
 闇の書――否、夜天の書の主としての責務から逃げることも目を背けることもせず、ただ新たな家族として――。
 そして、そんな主の同居人として過ごしていた衛宮士郎、メルルリンス・レーデ・アールズ、エヴァンジェリン・A・K・マクダウェルの三名もまた、同じように家族としてヴィータたちを受け入れてくれた。
 それぞれ特殊な事情を抱えていた三人は、ヴィータたちを受け入れると同時に自身の素性を明かしてくれた。
 はやても知らなかったという三人の裏の事情――特にはやてにとって大きな衝撃だったのは、同じ年齢だと思っていたエヴァが六百年以上を生きてきた吸血鬼だったことらしい。
 そんな特殊な背景を持つ彼らだが、日々を過ごす中でそうした事情は特に表に出てくることなく平穏無事な日常を送ってきた。
 そんな日常の中で士郎は八神の家の中心的な存在で、様々な事情を抱える住人たちの大黒柱――父親とか兄だとか、そういった立ち位置に自然と立つ人物だ。
 はやてが実の兄のように慕っているというのも今のヴィータなら納得できる。
 こうして日常の中で生きていく事を決めたヴィータにとっても士郎は、とても頼りになる兄のように思えていたから――。

「らしい…か。まあ、貴様はアイツが戦っているところを見ていないからな。そう思うのも無理は無いか…」
「……エヴァは士郎が戦ってるとこ見た事あんのか?」

 少しばかり考えこむようにして呟かれたエヴァの言葉にヴィータは疑問の声を返した。
 いつも温厚で冷静、気遣いに溢れた士郎と、そんな彼の近くでのんびりと過ごすエヴァ――。
 そんな二人の関係は傍で見ているヴィータにとっては仲の良い友人だとか親友だとか、そんな風にさえ見えていたからだ。

「見た事があるというより、直接戦ったことがあるだけだ。アイツと初めて顔を合わせた時にな」

 帰ってきた返答は想像していなかった類のものだった。
 エヴァと士郎が戦ったと――。
 ニュアンスから判断する限りでは恐らく命をやり取りするようなものだったのだろうが……。

「…それで、どうなったんだ?」
「うん? 封印されて最弱状態だった私が士郎に勝てる道理など無いさ。向こうは向こうで死にかけていたし、見逃してもらえなければあそこで死んでいたかもしれないな」

 詳しくは聞いていないが、エヴァは元々とある場所で魔力や能力を極限まで抑えられた状態で封印されていたのだという。
 それでも満月となれば少しは動けたらしく、そんなエヴァが士郎と遭遇したのは満月の光が夜空に浮かぶ森の中――。
 エヴァが封印されていた土地に侵入してしまった士郎を排除するために出向いて返り討ちにあったらしい。

「なんていうか……想像できねーな。エヴァと士郎が戦ってるところなんてさ」
「事実は事実だ。まあ、そんなこともあったというだけさ」

 どこか嬉しそうにさえ聞こえる声で答えるエヴァの姿に首を傾げる。
 そんなヴィータの反応は予想通りだったのか、エヴァは薄く笑みを浮かべたまま歩みを速めていく。
 エヴァの隣を歩こうとヴィータも歩を速める。
 そうして少しばかり歩いて人気のない辺りへやってきた時、すぐ目の前のビルの入り口から見知った金髪の少女が姿を見せた。

「――あら? エヴァとヴィータじゃない。珍しいわね、あんたたちが二人で出かけてるなんて」
「アリサか。貴様こそ、休日のこんな時間に一人で街に出てくるとは珍しいな」
「そーだよ。アリサこそいつも習い事で忙しいって言ってるじゃん」

 彼女――アリサ・バニングスは、はやての親友であるすずかの友人で、はやてにとっても大切な友人の一人だ。
 エヴァとは同じ学校に通っており、メルルのアトリエに出入りしている唯一の一般人――。
 士郎とも個人的に親しいらしく、そのため八神家ではすずかに次いで認知度の高い人物である。

「ちょうど今暇になったところなの。二人に会えたのはちょうどよかったわね。久しぶりに翠屋でお茶タイムっていうのはどう?」
「おう、いくいく! あそこのシュークリームはギガウマだしな」
「今日は士郎も調理に入っている日だったか……ふむ、まあいいだろう」

 翠屋は士郎が働いている喫茶店だ。
 そこの末娘――高町なのはとは殆ど顔を合わせた事はないが、基本的に人懐っこい人物だったと記憶している。
 というのも、彼女は地球人としては珍しい"魔力持ち"――管理局とも関わりのある空戦魔導師だからだ。
 彼女と、彼女に魔導を教えているユーノなる人物と接触すればヴィータたちの素性を疑われる可能性が高く、それはつまりはやての存在を管理局へ伝える危険性があるということ――。
 きちんとした対策が出来るまでは…と、士郎やメルルが色々と動いてくれたおかげで、今ならば恐らく会っても大丈夫だと言われている。
 はやてやすずか、アリサとも友人だという少女――これを機に知り合えればと思い、僅かばかり表情を緩ませた。

「じゃ、決まりね。折角だし歩いて――って……何よコレ?」
『あはは~これはこれは、また随分と面白そうな人材が揃っているじゃないですか~。よりどりみどりとはこういうものなんですね~』

 アリサの目の前には空に浮かぶ奇妙な杖――らしきものがウネウネと動いていた。

「……喋る杖?」
「貴様の関係者か?」

 アリサの呟きに被せるようにヴィータの耳元でエヴァが呟く。

「確かに話す杖とか剣とか棒には心当たりがないわけじゃないけどさ。コイツはちょっと毛色が違うような……」

 現在の魔導師たちが持つデバイスは基本的に杖の形状をしている。
 術者を補佐するタイプのデバイスは人格を宿しており、ヴィータが持つデバイスも同じく人格を持っている。
 だが、目の前で怪しい動きを見せる杖モドキは、そうしたものとはまるで違うと感じられていた。

『ふむふむ……よ~し、君に決めた――ということで、強制仮契約発動です!』
「エヴァッ!?」
「ちょ…なによこれッ!?」

 突然発光したと思った瞬間、側にいたエヴァが同じく光に包まれてしまった。
 そのあまりの唐突さに目を閉じながら、側で為すすべなく光に呑まれてしまったエヴァへ手を伸ばす。

「――魔法少女、リリカル☆キティ誕生!! 子供も大人も、みんな揃ってゴスロリだ!!」
「――――――――……は?」
「―――――――……な、何も見てないわよ。私はなにも見てない」

 晴れた光の向こう――エヴァが立っていたその場所には、真っ黒でフリフリのドレスに身を包んだエヴァ……らしき少女が杖を振りかざしてポーズを決めていた。

「――って、なんだコレは!!? オイコラ、貴様の仕業か!!!!」
『あれ~洗脳が解けちゃいましたね…。やっぱり伊達ではないということなのでしょうか…』

 唐突に声をあげたエヴァは手にしていた杖に向けて文句を口にする。
 杖の頂点に位置する部分にある装飾――羽のようなものを両手で掴んで引き伸ばそうとするエヴァだが、杖から聞こえてくる声はのんびりと落ち着いたものだった。

「いいから元に戻さんか!! なんだこれはッ!?」
『偶然でしたが、仮契約を結んだのが貴女でよかったです。じつはですね……かくかくしかじか』

 よく聞き取れない声――というよりも、杖から聞こえてくる声は耳からではなく直接脳裏に響いていたのだが、それが聞き取り難くなる。
 どうやらエヴァに対してだけ何かを伝えているらしく、エヴァも静かにそれを聞いている様子だった。

「この街に魔力を感知して取り込むようになった危険な魔術道具があるから回収を手伝って欲しい? 何故私が貴様の手伝いなどしなくてはならんのだ」
『悪い取引ではないですよ~。なにしろ、私と契約している間は魔力供給は無尽蔵!! 貴女のお悩みとストレスを解消するにはもってこいかと』

 今度はヴィータたちにも聞こえる声で答える。
 そんな杖の返答に、エヴァは珍しく目を見開いて――これまで見せたことのない怜悧な表情を覗かせた。

「タチの悪い奴だな。貴様――仮とはいえ契約した相手の事情や状態は把握済みということか?」
『あはは~どうですか? 一時の気分転換にはもってこいかと思いますが?』

 普段は聞いたことのないような底冷えのするような声で尋ねるエヴァに対して、杖から聞こえる声の調子は変わらない。
 そうして睨み合うようにしているエヴァと杖を見守ること数秒間――。
 埒が明かないと悟ったのか、エヴァが小さく溜息を零して気配を緩めることで膠着状態は解消された。

「フン、仕方が無いな。付き合ってやるから案内――」
『――認知!! それでは再び洗脳して……』
「――あがががががががが……は…ははっ…はーはっはっは!!!」

 僅かにでも気を許したエヴァが悪かったのか、杖の性格を見抜けなかったエヴァが愚かだったのか――。
 ともあれ魔法少女リリカルキティを名乗るゴスロリ魔法少女は、どこか壊れたような笑い声をあげながら空へと浮かんで見えなくなってしまった。

「………奇声あげながら飛んでいっちゃったわね。っていうか、人が空飛ぶなんて……まさかこんな漫画みたいなことが現実にあるなんて思わなかったけど――うん、すっごく面白そうじゃない!!」
「…とりあえず追いかけてみっか」

 飛び去っていった某を眺めていたアリサが感心したような声をあげる。
 そんな彼女を横目にヴィータは、飛び上がって姿を消してしまったエヴァを放置することもできないからと溜息を零した。
 目視できなくなったのは特殊なフィールドを形成したためなのだろうが、幸いにして魔力の残滓は残されている。
 それを追いかければエヴァに辿り着くだろうと考えたヴィータは、面白いものを見つけたと笑みを浮かべるアリサと共にエヴァの元へと走り出すのだった。


 -Interlude out-


 仕事終わりが近づいた頃――。
 調理場でシュークリームを完成させた士郎はその出来栄えに満足しながら箱へと詰めていた。
 翠屋ではシュークリームなどの菓子類を注文のあったお宅へと届けるデリバリーサービスを行なっている。
 そのため、調理に専任している時などはこうしてデリバリー用の菓子などを作ることもあるのだ。

「――シロ君、ごめんなさい。そのシュークリームなんだけど、デリバリーもお願いしていいかしら?」
「了解しました。送り先は――八神……ウチの家じゃないですか?」

 同じく調理場にいた桃子から手渡されたメモ書きには見覚えのある住所が記載されていた。
 注文者名はメルルの名で、個数は九個――全員がひとつ食べても一個は余る計算だが、甘いモノが好きなはやてが二個食べるのだろうと納得する。

「お客様はお客様よ。時間もそろそろちょうど良いし、今日は届けたらそのまま上がっていいからね」
「了解しました。それでは、おつかれさまでした」
「はい、おつかれさま」

 いつものように挨拶を済ませて調理場を後にする。
 もちろん自分で梱包したシュークリームも忘れずに持ってきており、更衣室で素早く着替えた士郎はそのまま手土産を手に店の出口へと向かう。

「――あれ? シロ君今日はもう上がり?」

 従業員用の出入り口へ手を掛けて開くと同時――ちょうど同じように扉を開こうとしていた美由希と遭遇し、小さく手を上げて簡単に挨拶を済ませる。

「ああ。美由希はこれからか?」
「うん。今日は忍さんもお休みだし、頑張らないとね」
「そうだな」

 高校生としての生活に加えて剣術の訓練、そして翠屋の手伝いと多忙な美由希だが、彼女はその全てを全力で満喫している。
 将来は恐らく翠屋を継ぐつもりなのだろうが、彼女の調理スキルは桃子でさえ匙を投げているそうなので、桃子の後を継ぐ――というのは難しいかもしれない。
 そんな失礼な事を考えている事を微塵も表に出すことなく返事を返すと、美由希は道を譲るように外で横向きになった。

「じゃ、おつかれさま」
「ああ、おつかれさま」

 そんな彼女の目の前を通り抜けて店の外へ出ると、入れ違いに美由希は店へと入っていった。
 気を取り直して歩き出そうとして――ふいに感じた奇妙な気配へと視線を向ける。

「――そうしてると、本当に普通の子供みたいね」

 店を出て直ぐの道端――電信柱に寄りかかるように立っていたのは、赤と黒で統一された服装に身を包んだ女性だった。
 長い黒髪はまっすぐに腰まで伸ばされており、どこか大人びた風貌をしているが、士郎がその姿を見間違えることなどあるはずがなかった。

「――遠坂…か?」
「ええ、私が他の誰かに見えるのかしら?」

 嫌味の込められた言葉も彼女が口にするだけで優雅な言葉に聞こえてしまう。
 そんな彼女の全てが懐かしく、士郎はそんな彼女の元へと静かに歩み寄りながら小さな笑みを零した。

「いや、見えない。メルルから近いうちに会いに来るとは聞いていたが、こんなに早くに来るとは思っていなかった」
「こっちもまだ会いに来るつもりはなかったんだけどね。ま、積もる話もあるでしょうし、家に戻りながら話しましょ」
「――ああ」

 短いやり取りを終えて歩き出す。
 肩を並べて歩くだけで、当時の記憶が蘇ってくるかのようだった。

「――先に聞いておくが、君は俺を助けてくれた遠坂なのか?」

 そんな懐かしさを封じて問いかける。
 こうして生きている――その最初のきっかけを与えてくれた"彼女"は君なのか…と。

「貴方をあの世界から移動させたのは間違いなく私よ。アトリエに辿り着いたのはメルルのおかげでしょうけどね」

 死を迎えようとしていた衛宮士郎を救ってくれた女性――。
 そんな彼女に対して最初に浮かんだ感情は感謝ではなく、小さな疑問だった。

「どうして俺を助けた?」
「気まぐれよ。まあ、メルルから話は聞いてたし……仮に聞いていなかったとしても、同じような事をしたでしょうけどね」

 メルルから死にかけの衛宮士郎を救ったのは遠坂凛であると聞いたのだと苦笑交じりに告げる。
 その時点では身に覚えのないことだったらしく、凛としてはいつか訪れる未来がどうして訪れたのかと悩んだ事もあったらしい。
 そんな心境を語る凛の表情はどこか憮然としたもので、ジロリと向けられる彼女の視線に士郎は思わず身じろぎをしてしまうのだった。

「……怒っているのか?」
「私がアンタに腹を立てる理由に心当たりでもあるわけ?」

 咄嗟に口をついて出た言葉に即答で返される。
 心当たりがあるかないかと問われればあると答えるのだが、彼女の回答の真意に気づいた士郎は小さく頭を振って自身の不甲斐なさに苦笑した。

「いや……そうだな。すまない、これは俺の弱音だな」

 他の誰よりも当時の士郎を支えて、導いて、共に肩を並べてくれた女性――。
 そんな彼女に対してかつての愚痴を零そうとしていた事に気づいた士郎は、そんな自身を戒めるように謝罪の言葉を口にした。

「言っておくけど、アンタとあの子の間の事に関しては口を出すつもりなんてないわ。アンタがあの子に何を誓って、何を貫いたのかも私には関わりのないことだしね」

 言葉尻だけを捉えれば随分と冷たい言葉に聞こえるかもしれない。
 けれど、その言葉に秘められた彼女の不器用な本音が、士郎にとっては何よりも懐かしく感じられた。

「ああ、ありがとう」
「む……まあいいけど。ところで、今回はちょっとお願いがあって来たんだけど――」
「遠坂から頼みが来るっていうのは何か怖い気がするな。それでお願いっていうのは…?」
『――士郎!!!』

 凛への問いかけを終えた瞬間――脳裏に聞き慣れた声が響いた。

『……ユーノか? どうした?』
『それが……なのはと一緒に出かけてたんだけど突然変な空間に飲み込まれて――君が見せてくれた槍を持った男となのはが……』

 どこか焦っているユーノの言葉を認識した瞬間、全身を喩えようのない寒気が襲った。
 士郎が見せた槍――それを持った男となのはが、今まさに対峙しているのだと聞かされて心配をしないはずがない。

『――場所はどの辺りだ』
『月村家の庭だよ。恭也さんと忍さん、すずかも一緒なんだ!!』

 ユーノからの報告に士郎は思わず舌打ちを残した。
 恭也とて剣の腕前は他者に誇れるほど熟達しているが、今回に限って言えば相手が悪いとハッキリ断言できる。

『すぐに行く。なのはには絶対に無理をするなと伝えておけ!』
『う…うん!!』

 こうしている間にも彼女たちがその身を危険に晒しているかもしれない。
 そう考えるだけで逸る気持ちを必死に抑えて念話を終えた。

「――どうかしたの?」

 尋ねてくる声は先程までと違ってどこか硬質だった。
 念話が聞こえていたわけではないだろうが、場の空気が変わった事で何かがあったのだろうと察したらしい。

「知り合いが奇妙な空間に引き込まれてしまったらしい。それにしても…俺が見せた槍を持つ男だと……どうして、ランサーが――」

 そこまで口にして、目前の凛が気配を変えたことに気づく。
 見れば、彼女は既に動き出す準備を終えて士郎をまっすぐに見据えてきた。
 
「――事情を説明してる場合じゃなさそうね。士郎……その場所はわかるのよね?」
「ああ。それに、何となく君の用件とやらが関わっている事はわかった。詳しい事情は走りながら聞かせてもらうぞ!」
「ええ!!」

 互いに余分な会話を交わすことなく最低限のやりとりを済ませて走り出す。
 その道中で事態の真相を知った士郎は、"気"を足に集中させてからその場を後にするのだった。
 

 

Episode 47 -伝説との激突-

 
前書き
第四十七話です。
 

 


 凛が使用する認識阻害の魔術をその身に受けながら市街地を駆け抜ける。
 目的地――月村の家を目指しながら、士郎は隣を走る凛の言葉を脳裏で反芻して小さく溜息を零した。

「――では、高い魔力を持つ"何か"を取り込むことでサーヴァント……いや、英霊の力の一端を再現した存在が出現するということか?」

 凛がこの世界を訪れた理由――。
 それが世界を移動する自立型の杖と共に消失した魔術品の存在だった。
 英霊の座にアクセスし、その力の一端を使用することのできるというカード型の魔術道具――それが現在、この海鳴に一枚だけ存在しているのだという。
 一度確保した際に細工をしているため、霊脈などから自然に魔力を取り込んでいくという事は殆ど出来ないらしい。
 だが、直接魔力を注ぎ込む――またはすぐ近辺で多くの魔力が発生すれば、それを取り込もうとする可能性が高いというのが凛の考えだった。

「少なくとも、私やメルルが遭遇したのはそうだったわね。理性も何も無い力の具現――私や貴方が知るサーヴァントに比べれば能力は低かったけど、宝具や技能はそのままだったわ」
「だったら尚更だ。俺が見せた槍を持つ英霊となればランサーだが、宝具として使用されればアレほど厄介なモノも少ない」

 例え能力が落ち、理性のない力を振るうだけの存在に成り果てていようと、宝具を使用してくるとなれば話は別だ。
 宝具とは英霊のシンボル――彼らが伝説として残した逸話そのものだ。
 それは担い手の能力を問わず強力無比な兵器であり、とりわけ今回の相手が持つ魔槍はタチが悪い。
 ――ゲイボルク。
 アイルランドの大英雄が振るったとされるその槍は、放てば相手の心臓を必ず貫いたという。
 宝具として顕現したそれは、振るえば因果をねじ曲げて相手の心臓を穿つという結果を齎し、放てば相手を粉砕するまで追いかけ続けて周囲周辺を諸共に吹き飛ばす――。

「その取り込まれた子――高町なのはっていう子はどうなの?」
「具現化した存在が伝え聞いた通りの能力ならば、彼女が万全でさえあれば戦えるだろう。だが――」

 恐らくなのはが取り込まれたのは、彼女が普段から行っている訓練のせいだろう。
 レイジングハートの協力で、一挙手一投足に魔力負荷を加える魔力養成ギブス――。
 溢れ出るなのはの魔力がその魔術品に触れ、諸共に吸収したのだろうというのが士郎と凛の共通見解だ。
 ――つまり、現時点のなのはは魔力を大凡……或いは殆ど失った状態で敵と相対しているはずだ。
 しかも、過去の記憶が確かならサーヴァントとして顕現しているであろうランサーのクラスには対魔力が備わっている筈だ。
 戦闘が可能だとして、なのはの砲撃なら或いはそれを突破するかもしれないが、そうして追い込まれれば理性のない相手とて宝具を使用する可能性は高い。

「――宝具を防ぐ手立てはない……か。急ぎましょう」
「――ああ」

 取り返しがつかない事態になる前に辿り着かなくてはならない。
 そんな想いを抱きながら、士郎は内心の焦りを押し隠したまま足を速めるのだった。


 -Interlude-


 街外れの道を走りながら、アリサは隣を走る少女――ヴィータを流し見る。
 共に走る速度はそれなりに速く、いつもならばどんなに調子がよくても疾うの昔に体力が底をついているだろう。
 そうなっていないのは偏に今が普通ではないということ――。
 ネックレスのようなモノを外したヴィータがアリサに対し、何かを呟いた直後から異様に身体が軽くなって力が漲ってきたからだ。
 ちょっとしたまじないのようなものだとヴィータは言っていたが、その効果は絶大だった。
 メルルのアトリエに通うようになってからそうした不思議な力に関しては"ある"ものだと認識しているため、特に驚くようなことはなかったのだが――。

「――それにしても……ヴィータもやっぱり普通とは少し違うのね」

 元々疑っていた――と言えば聞こえは悪いだろうが、メルルやエヴァ――士郎と関わる人間に対してある種の観察をしてしまうのは既に反射となっている。
 メルルのアトリエに通うようになってそれなりに経つが、その間に詳しくなったのはメルルに関してではなく、むしろエヴァに関してのことだ。
 ――曰く、今更無責任に興味本位な問いかけなどするはずがないよな…とのこと。
 普段見せない満面の笑みで告げていたのだから、あれは本当に本気の言葉だと判断し、明確な意思を以て頷きを返した瞬間を今でもはっきりと思い出せる。
 要するにエヴァは、アリサが試行錯誤し、覚悟を決めて問いかけた事に関してはちゃんと答えてくれるのだ。
 もっとも――それはエヴァなりの信頼があればこそのもので、アリサがそれを違えた時には二度とそうした事を語ってくれることは無くなるだろう。

「――ってか、アリサがそういうことを知ってる事の方が驚きだって」

 だからこそ、ヴィータの疑問は当然のものに過ぎない。
 今回の件でヴィータがアリサに対して"魔法"を使ってくれたのも、そもそもはアリサから提案したからだ。
 
 ――ヴィータは速く走れる魔法とか魔術とか…そういうのは使えないの?
 
 そんな問いを受けたヴィータが口にした幾つかの質問にアリサは頷いて見せた。
 そうして彼女は不承不承といった様子で"何か"をしてくれ、その結果としてアリサはヴィータと肩を並べて走るだけの能力を得たのだが――。

「まあ……メルル先生の関係で少しね。誰がどうとか魔法がどういうものなのかとか――そういう詳しい事は何も知らないんだけどさ」
「その割にはあまり驚いてねーな」
「不思議なことは不思議なことだと思ってるけど、"ある"か"ない"かっていう事とは別だと思ってるだけよ」
「そっか……」

 特に構えることなくそう告げると、ヴィータは少しだけ表情を緩めてペースを上げた。
 そんな彼女を追走するように走っていたのだが、一度通り抜けたような路地を何度も見かけているのは気のせいではないだろう。

「ところでヴィータ――私たち、どこに向かってるわけ?」
「よくわからねえけど、色々な所を飛び回ってんだよな……もしかして、迷ってんのか?」

 エヴァの姿は見えないが、ヴィータには彼女の位置がある程度わかるらしい。
 それを頼りに走っているわけだが、肝心の対象そのものが周囲をグルグルと飛び回っているというのだからどうにもならない。

「向こうは空を飛んでるんでしょ? こっちは走り回ってるんだし、せめて目的地を絞らないと追いつかないわよね…」
「つってもな……って、アレって――士郎か?」

 立ち止まり、一息吐きながらそう告げる。
 すると、返事を返そうとしたヴィータが驚いた様子でそんな言葉を口にした。

「え……ど、どこに士郎さんがいたのよ?」
「あ……いや、ちょっと一般人には認識しにくい何かをしてたみたいだからアリサには見えなかったんだろうけど、割とすぐそこの道をこう……知らねえ女と肩並べて――」

 曰く――見た事もないほど険しい表情をして走っていたのだという。
 見知らぬ女性と肩を並べてというのも気になってはいたが、あの士郎がそんな風に感情を露わにして走っていたというだけでも十分に貴重だろう。

「ふーん、何となく気に掛かるわよね……。普段は有り得ないような事が二つ重なるって、偶然かしら?」
「――どうせ当てもねえし、そっちに行ってみるか?」

 エヴァの変貌と士郎の様子――。
 この二つが無関係では無いと考えてしまうのはアリサだけではない――ヴィータもまた、同じように考えていたはずだ。

「――そっちは追いかけられそうなの?」
「そう遠くないとこで足を止めてるみたいだ。この先を少し行った先みたいだけど……」
「あの辺りは確かすずかの家の敷地だったと思うけど……」

 ついでに言えば、すぐ近くにはアリサの家もある。
 元々学校の送迎などをすずかと一緒にしてもらうことが多いのは、月村の家とバニングス邸が近しい位置にあるからだ。
 
「とりあえず――」
「――ええ、行ってみましょう」

 ヴィータと視線を交わして頷きあう。
 目指すは月村家――もうすっかり馴染みになってしまった友人の家を目指し、アリサは再び走り出すのだった。


 -Interlude-


「――そらッ!! コイツはどうだ!!!」

 ――幾重にも走る閃光。
 その全てを視界に捉えながら、なのははソレら全てを杖と障壁で捌いていく。
 それが相手にとって予定調和であることは間違いなく、今もそうして捌けば捌くほど相手が振るう"槍"は速度を上げて襲い掛かってくる。
 宙に逃れようと跳躍して迫ってくるが、砲撃と誘導弾――そして拘束魔法を最小限かつ効果的に使用することで防ぐ。
 それでも段々と目が追いつかなくなり、速度と共に増していく威力に杖は弾かれ、障壁は軋みをあげていく。
 苛烈な攻撃をどうにか防ぐことが出来ているのは、偏に相手が未だ本気ではないという事と、振るわれるその槍の軌道を"知っている"からだ。
 見知っているモノと全てが全て同一では決して無い。だが、全く知らなかった状態と多少でも知っている今とでは大きな隔たりが生じる。
 楽しそうな笑みを浮かべたまま、なのはに向けて槍を振るう男――。
 底知れない何かを感じさせる男との戦いは、そうした些細な事柄さえも致命に至るほどに切迫していた。

「――っ!!」

 一際強力な一撃を渾身ではじき返す。
 そうして開いた距離は僅か数メートル――。
 至近距離で構えたまま、互いに視線を逸らすことなく向かい合った。

「――筋もいいし、思い切りもいい。魔術師と斬り合いなんざ望んでなかったんだが……近接戦も悪くはねえな。年を考えれば十分過ぎる逸材だぜ、嬢ちゃん」
「あ……ありがとうございます」

 まるで親しい間柄のように語りかけてくる。
 その気安さに思わず戦っている相手だということを忘れそうになってしまう。
 だが、万が一にもそんな勘違いをすれば、間違いなく瞬きの内に貫かれてしまうだろう。

「だが、まあ――こうして出会った以上、互いにやるべきことはひとつだけだ。俺はこの身体を維持するために嬢ちゃんの魔力を貰い受ける。嬢ちゃんは"此所"から出るために俺を倒す――と」

 男の言葉は覆すことも否定する事もできない事実だった。
 この場所は通常の空間とは異なる異相空間に広がっているとユーノは言っていたが、ここに強制転移させられる直前、なのはの魔力は七割以上も"吸われてしまった"。
 詳しいことは殆ど判らないが、目の前の相手が通常の生命体ではないというのはユーノやレイジングハートの分析で判っている。
 なにより、兄の恭也が繰り出した攻撃が男の身体を"すり抜けた"こともそれを証明しており、男に対する攻撃手段を保有するのは現時点でなのはとユーノしかいない事も承知している。

「――戦わずに済むならそのほうがいいと思う。だけど、戦わないと守れないっていうのなら、私は戦うことから逃げたりしない!」

 男は魔力を欲しており、なのははこの場にいる恭也、忍、すずかを何としても無事に脱出させたい。
 ――故に、互いの目的とそれを叶えるための方法は明確だ。
 どれほど消耗して勝機が殆ど見えなくとも、相手に背を向けるような事だけはできないのだから――。

「いい覚悟だ。本当は使うつもりなんぞなかったが――気が変わった」

 ――男が身に纏っていた気配が変わる。
 手にしていた槍が脈動し、立ち上る魔力は目に見えるほどに禍々しい。
 男は、まるで眠りから覚めたように圧倒的な気配を漂わせるその槍を軽く振って構える。

「――"お前"の覚悟に応えて、俺も本気でいくとしよう」

 構えられた槍の穂先は地面へと向けられている。
 その構えから放てるのは下段への刺突だけだが、なのはの直感がかつてないほどの警鐘を鳴らしていた。
 ――あれを使われたら、間違いなくやられてしまう……と。
 だが、もう遅い。すでに男が構えに入った以上、なのはにできるのはこの場で受け止めることだけだ。
 受ければ死ぬ――将棋で言えば"詰んだ"と言える状況だろう。
 それでも、なのはは一縷の望みを抱きながら自身にできる全てを以て必殺の一撃を回避しようと残された魔力を振り絞る。

『――下がれ』
「……えっ?」

 脳裏に聞き馴染んだ声が聞こえたのはそんな時だった。
 ――大気をねじ曲げながら"ソレ"が飛来してくる。
 それは反射的になのはが背後へ飛ぶのと、男が中空を仰ぎ見たのとほぼ同時――。
 かつて映像越しに見た螺旋の一撃――時の庭園を貫いた規格外の狙撃と酷似した一矢が相対していた男へと落下する。
 ――それを、男は全身と槍に漲らせた魔力を込めた渾身の一撃で迎撃した。
 轟く爆音と周囲を揺らす衝撃――。
 圧倒的な破壊を齎したその一撃を放った本人――衛宮士郎は、なのはが後退したすぐ横に降り立った。

「――どうにか間に合ったようだな」
「士郎くん……それに――」

 なのはの隣に立つ士郎に安堵の声を零す。
 見ればそのすぐ隣――士郎を挟んでちょうどなのはと反対側に見慣れない女性が立っている。
 士郎よりも少し年上に見えるその女性は、視線を真っ直ぐに爆心地へと向けたまま静かに佇んでいた。

「――遠坂」
「了解。あなたはこっちに来なさい。ここは士郎が引き受けてくれるから」
「……はい」

 士郎の言葉に反応した女性――遠坂と呼ばれた彼女は即座に頷いて視線をなのはへと向けてくる。
 投げ掛けられた言葉に返事を返すと、彼女は淡く笑いながら視線をなのはの背後へと逸らした。

「――そこの二人もよ」
「お…おう」
「えっと……りょ、了解です」

 背後から聴こえてきた声に僅かばかり驚きながら咄嗟に振り向く。
 一人は一度だけエヴァと共にいる時に顔を合わせた程度の女の子――士郎と同居しているという少女だ。
 そして、もう一人はなのはの同級生にして親友のアリサだった。
 二人に向ける女性の表情が仕方がないといったような、どこか呆れたモノだということが今の状況を説明してくれているようで、なのはも思わず苦笑を浮かべるのだった。

「――恭也。君たちは無事か?」
「……ああ、大丈夫だ」
「……私たちは大丈夫よ」
「なのはちゃんが私たちを護ってくれましたから…」

 士郎の声を受けて、僅かに離れた場所で戦いを見守っていた恭也たちがそれぞれに答える。
 それを受けた士郎は僅かに表情を緩めて見せた後、すぐに鋭い視線を爆心地へと向けて身に纏う気配を尖らせた。

「君たちも全員下がっているといい。少しばかり荒れた状況になりそうだからな」

 告げると同時――爆心地から立ち上っていた煙が切り払われる。
 閃光と見紛うばかりに鋭い一閃――。
 晴れた薄靄の先には、特に目立った負傷を見せずに槍を構え直す男の姿があった。

「――貴様……何者だ」

 男の視線と警戒は完全に士郎にだけ向けられている。
 現状でもっとも警戒すべき相手――それを男は的確に感じ取っているのだ。

「通りすがりの魔術使いだ。それにしても……大人げないにも程があるのではないか、ランサー?」
「あん?」
「如何に力と覚悟を持とうと彼女はまだ子供だ。そんな相手に宝具の真名を開放しようとするとはな」

 どこか挑発的にも聞こえる口調で告げる士郎――。
 そんな彼の言葉を聞いた男――ランサーと呼ばれた槍使いは、特に士郎の言葉を否定することなく目を閉じて見せた。

「俺なりに敬意を表したつもりなんだが……まあいいさ。ちょうどいい相手も来たみたいだしな」

 目を開いたランサーは獰猛な笑みを浮かべて士郎を睨み付ける。
 全身から放たれる圧倒的な殺気になのはは身体を強ばらせ、周囲の誰もが各々の感情を見せながら身構える。
 その最中――士郎だけは涼しい表情でそれを眺め、僅かばかり目を閉じて両の手を身体から少しだけ離して構えた。

「――――投影、開始(トレースオン)

 士郎の両手に現れたのは、彼が戦う姿を初めてみた時と同じ――白と黒の剣だった。

「――魔術師が剣を使うだと?」

 どこか嘲りさえ感じさせる声音で告げる。
 そんなランサーに対し、士郎は露骨に溜息を零して見せた。

「やれやれ……魔術使いだと名乗ったはずだが――まあいい。扱えるかどうか、その身で味わってみるか?」
「ハッ…上等だ!!」

 ――開戦は速やかに。
 深紅の槍を構えたランサーと陰陽を象徴する白と黒の剣を構えた士郎――。
 二人は互いに示し合わせたように全速力で相手へと接近し、互いが持つ武器を振るうのだった。


 -Interlude out-


 振るわれる槍を双剣で弾き返し、或いは軌道を逸らすように捌いていく。
 聞いていた話とは違い、理性と意思を持って現界しているのはサーヴァント中最速を誇るランサーのサーヴァントだ。
 その男が全力で振るう槍は、もはや視認する事さえ困難な速度を以て士郎を切り刻もうとする。
 振るわれる線の攻撃ですらそれなのだ――刺突による点の攻撃など、もはや士郎の目を以てしても閃光のようにしか見えない。
 それでも攻撃を防ぎきることができているのは、長い年月を掛けて培ってきた洞察力――。
 そこから導き出される予測と意図的な隙を作り出すことによる攻撃箇所の調整、なにより槍の使い手の技量を知っているからに他ならない。

「――なるほど、大した腕だ。でかい口を叩くだけのことはある」
「お褒めに預かり光栄だ」

 攻撃の合間に言葉を投げてくるが、そこには既に侮りはなかった。
 その代わりに言葉と共に吐き出されたのは、明確な苛立ちと不快感――。

「――だが、それだけだ。貴様の剣には決定的に――誇りが…ない!!」

 これまでよりも速度を更に上げ、渾身の力が込められた上段からの振り下ろし――。
 その一撃を、全身に"気"を漲らせた上に強化の魔術を施した"腕"を振り上げ、手にした双剣の刃で受け止めた。

「生憎だが――誇りなど、最初から持ち合わせてなどいない」

 ――全力で剣を振り上げて相手の槍を弾き、互いに距離を取る。
 僅か十間程度の距離など互いにとっては微々たるものでしかないが、"この位置"が士郎に許された限界ギリギリの距離だった。

「ほう……」
「必要なのは相手を討ち、護るべき者を護るための力――それ以外の余分など無用だ」

 元より栄誉や思想、大義のために剣を振るったことのない身――。
 英雄と呼ばれる男が口にするような誇りなど、どれほど長く戦い続けてこようと身に付くはずもない。

「――そうだろう、クーフーリン? かつての君がその誇りとやらで大切な誰かを護り通すことが出来たというのなら……そら、その槍を掲げて思う存分に誇るがいいさ」

 栄光と破滅に彩られた伝説を残すアイルランドの大英雄。
 その槍で貫いてきたであろう者たちを思い出したのか、目に見えてランサーの表情は険しく変化した。

「――よくいった。ならば、我が必殺の槍……受けてみるか?」

 全身に魔力を漲らせて発せられた言霊には明確な殺意が込められている。
 それを正面から受け止めながら、段々と透け始めているランサーの全身を眺めて笑みを浮かべてみせた。

「自滅を厭わないというのなら止めはしない。どのみち……君と相対する以上は避けられないことだ」

 ――元より無理のあった現界だったのだろう。
 なのはから取り込んだ膨大な魔力も、英霊という破格の存在を維持するには至らない。
 戦闘で消費される魔力はランサーが本気を出そうとすればするほどに激しくなり、結果として彼は既に身体を構成する魔力すら枯渇させようとしていた。
 ――故に、自身の消滅を承知で放つ一撃が生半可なものであるはずがない。
 ランサーが手にする魔槍――その真の能力を知る士郎にとって、今から行う最後の攻防は正しく生死を賭ける博打に近い。

「ならば、手向けとして受け取るがいい――」

 告げると共に大きく後退するランサー。
 一瞬にして離された彼我の距離は百メートル――それほどの距離を後退して見せたランサーがその身を屈める。
 まるで号砲を待つランナーの如く屈められたその姿勢から、ランサーは一瞬の暇も見せずに駆け出した。
 それを目にした士郎は即座に剣を地面へと捨て、最速で自己に埋没する。
 直後――離された距離の半分ほどを駆け抜けたランサーは全力で地面を蹴り、中空へと舞い上がった。
 
突き穿つ(ゲイ)――――!」

 反り返るほどに身体を反らして力を集約させるランサー。
 必殺の一撃を放とうとする敵を前に、士郎は目を逸らすことなく右手を構える。

「―――――死翔の槍(ボルク)!!!」

 真名の開放と共に投擲された渾身の一投――。
 ――突き穿つ死翔の槍(ゲイボルク)
 全霊を込めて投擲されるその一投こそが伝説に名を記す魔槍の本来の使い方だ。
 幾度かわそうとも標的を目指して飛翔するその一撃は大軍すら一掃するほどの破壊を齎す。
 ランサーの残り魔力の殆ど全てを込めて放たれた伝説の魔槍――それが音すら軽々と追い抜いて迫ってくる。

「――――I am the bone of my sword.(体は剣で出来ている)

 迫り来る必殺の一撃――その脅威を目前に言葉を紡ぐ。
 自己の内面へと意識を飛ばした士郎は、自身が持ち得る最高の盾を剣の丘より引き上げた。

「"熾天覆う七つの円環(ローアイアス)"――――!」

 突き出した右手の先に咲き誇るのは七つの花弁――。
 かつて大英雄の投擲を防いだ英雄アイアスが使用したとされる盾が宝具へと昇華されたものだ。
 七枚の花弁はその一枚一枚が古代の城壁に匹敵し、特に投擲されたモノに対しては無敵を誇るとされている。
 ――その花弁が、瞬く間に貫かれていく。
 一枚、二枚――六枚目を貫き、これまで突破されたことのない七枚目に激突しても放たれた槍は止まらない。
 魔力を全霊で込めた盾が軋みをあげ、同時に槍もその刃先を軋ませていく。
 必ず当たる必中の槍と、どのような投擲であろうと通さぬ盾の激突――。
 互いの存在意義を賭けたその衝突は、時間にして数秒足らずで終わりを迎える。
 これまで突破されたことのない盾は無残に破壊し尽くされ、必ず相手を絶命させた必殺の槍は標的を貫くことなく停止したのだ。

「――防いだ……だと?」

 盾を構えていた士郎の右腕をズタズタにしながらも必殺足り得なかった事が予想外だったのだろう。
 呟かれたその言葉からは、彼が抱いている様々な葛藤のようなものが僅かばかり感じることができた。
 
「――流石は…伝説に名を刻む大英雄の放つ一撃だ。まさか、アイアスがこれほど完璧に破壊されるとはな……」

 皮肉も何もなく、純粋に感心したように零したからか――。
 宝具を使用する前よりも更に透けて見えるその身体を揺らして、ランサーは大きな声で笑った。
 自身を英雄たらしめた一撃を防がれたことで憤怒の怒りを見せると思っていただけに、その反応は士郎をして予想外のものだった。

「宝具を止めるほどの盾を持つ…か――ハッ、テメエ面白すぎるぜ!」

 向けられる眼光は言葉とは裏腹に苛烈だった。
 怒りを通り越えての笑いだったらしく、仮に戦闘を継続できたのなら正しく怒涛の追撃を敢行してきただろう。

「……生憎と右腕は使い物になりそうにないがな。そちらも限界だろう?」

 言葉を交わす間にもランサーの身体は益々透き通っていく。
 もはや数秒保つかどうかという最中――ランサーは一度目を閉じ、その苛烈な光を鎮めた目を開いてから小さく笑ってみせた。

「ああ、まあ当然の結末ってやつだ。嬢ちゃんから回収した魔力だけじゃ、"出来損ない"でも数十分が限度だ。ましてや、今みたいに完璧に具現化させれば十数分も保てば上出来だろうよ」
「それがわかっていたからこその宝具だったか……」
「――ああ。お前諸共、後ろの連中をなぎ払うためにな。だが、それもこれもテメエの思惑通りなんだろ?」

 呆れたような口調の問いかけに曖昧な笑みで答える。
 誘導したことは事実だとしても、それが博打に近しかった事をわざわざ告げてやるほど士郎は素直ではなかった。

「さてな。盾を突破されたのは全くの予想外だったが……。まったく……投擲されたモノに対しては無敵を誇る盾だというのにな」
「仕留められなかったのは事実だ。とりあえず今回は分けってことにしといてやるよ。ま、降って沸いた戦いにしては楽しめたぜ。嬢ちゃんも含めてな」

 互いに絶対の自信を以て挑んだ刹那の決闘――。
 その結末が互いに望まぬ形で終わった以上、戦いの決着がついたとは言えないだろう。
 仮にランサーが魔力を残していたのなら――そんな仮定に意味はないし、それを口にするのは互いを貶めるだけだ。
 それを誰よりもわかっているのだろう。ランサーは消えゆく自身の身体を一度流し見て、矛を交えたなのはを褒めながら視線を真っ直ぐに士郎へと向けてきた。

「――名は?」
「――衛宮士郎」
「また機会があれば、今度こそ互いに本気で殺し合おうぜ」
「御免被る……と言いたいところだが、機会があるならまた相まみえることもあるだろう。その時には覚悟しておくといい」

 交わす言葉はそれだけ――。
 刃を交わし合い、こうして互いに生きている。
 次に相まみえる時には完全な決着を…と望むランサーに対し、士郎もまた同じ気構えで応えた。

「――じゃあな、士郎」
「さらばだ、クーフーリン」

 そんな士郎の返答が気に入ったのだろう。
 ランサーは、まるで友人に告げるような気安さを感じさせる別れの言葉を口にする。
 その言葉に惑うことなく返答すると同時――。
 伝説の大英雄は、まるで初めから存在していなかったように静かにあっさりとこの世界から消失していった。

 

 

Episode 48 -戦いの後に-

 
前書き
本編第四十八話です。
 

 

 
 ――去っていったランサーの姿を見送った士郎の側に無数の足音が近付いてくる。
 どこか慌てたような足音が多い中、一人だけゆっくり近付いてきたのは心配そうな視線を向けながらもどこか呆れた様子の凛だった。
 彼女はすぐに士郎の右腕に視線を向け、簡単に状態を観察してからその手を士郎の右腕へと触れさせて何かを呟く。
 それだけの事で先程から流れ出ていた血は止まったが、流石に"感覚が戻ってくる"ことはなかった。

「――ほら、一先ず応急の処置はしておいたわよ」
「ああ、ありがとう」

 凛が口にしたように、"ソレ"は正しく応急の処置だったのだろう。
 少なくとも血が足りなくなる――などという事態は避けられた事に、士郎は安堵の息を吐いて見せるのだった。

「士郎くん……大丈夫…なの?」
「ああ……見た目が酷いことになっているがな。この程度で済んでよかった――」

 心配そうに尋ねてきたのは、凛のすぐ側で士郎の右腕の状態を眺めていたなのはだ。
 表情を曇らせた彼女を元気づけようと努めて明るい声で応えるが、彼女の表情は曇っていくばかりだった。

「――私……また、士郎くんに………」
「……なのは?」

 ――それは、どこか後悔を含んだ声音だった。
 すぐにそれに気付いたのか――。
 それ以上を口にすること無く目を閉じたなのはは、小さく頭を横に振ってからその真っ直ぐな眼差しを士郎へと向けてくる。

「………ううん、なんでもない。助けに来てくれてありがとう、士郎くん」

 何かしらの葛藤を抱いていたようだが、どうやら自分の中で折り合いをつけたらしい。
 士郎はそれ以上何かを告げる気になれず、ただ彼女が口にした感謝の言葉に応えるように頷いて見せるのだった。

「……まあ、色々とそれぞれに話をしないといけないこともあるでしょうし、今回の件について巻き込んじゃった人たちには後でちゃんと説明を――」

 静かに士郎たちのやり取りを眺めていた凛が空気を入れ換えようと声を上げる。
 その途中――まるでそんな凛の行動をかき消すようにして、"ソレ"は堂々と空から舞い降り、地面に降り立った。

「――魔法少女リリカル☆キティ参上!! 子供も大人も纏めてゴスロ………リ…だ?」

 ――それは、どこからどう見ても少女チックなゴスロリ服に身を包んだエヴァだった。
 彼女はその手に持つコミカルな杖を振りかざし、これまで見た事もないような満面の笑みを浮かべてポーズを決めて――固まってしまった。

『あはは~もう終わっちゃってたみたいですねー』

 固まったエヴァが手にしていた杖が勝手に動き出し、彼女の手を離れて宙に浮かぶ。
 そのまま脳裏に直接聞こえてくる声を響かせながら士郎たちの側までフラフラと飛んできた。

「ルビー…アンタね、勝手に飛び出して間に合わないってどういうことよ?」
『いえいえ、別に悪ふざけをしていたわけではなくてですね……っと、まあそちらはまた後で』
「ふん、いいわ。後できっちり説明してもらうからね」

 怒りを通り越えて呆れてしまったのか――。
 凛は大きな溜息を零した後、睨み付けるような視線を謎の杖へと向けていた。

「その杖は?」
「メルルから聞いてない? コイツがカレイドステッキよ」
『お初にお目に掛かります。私、魔導元帥ゼルレッチ(糞爺)によって造られた愉快型魔術礼装、カレイドステッキことルビーと申します。以後お見知りおきを!』

 以前にメルルから聞いていた杖――カレイドステッキ。
 世界を渡るために凛の家に保管されていたソレを目覚めさせたメルルはソレの正規マスターとなり、凛と共に様々な世界を旅したのだという。
 メルルから聞かされたかぎりでは悪戯好きの女の子――というイメージを受けたが、実物を前にした士郎としては、メルルの認識がずれているという小さな確信があった。

「まあなんにしても――出来ればこれっきりの付き合いにしたいところだな」
『――剛速球ッ!? さ、流石はあのマスターが認める方……あちらの少女に向けていた優しげな気配が嘘のような酷薄さです…』
「元を辿れば原因はお前なのだろう? なのはたちが危険な目にあった事を含めて、好意的になれるはずもない」

 本音を口にすると衝撃を受けたように杖の柄を捩らせる愉快型礼装――。
 そんな杖に宿っているであろうタチの悪い精霊の言葉に耳を貸すことはせずに追求の言葉を向ける。

『そもそも、それが誤解なのですよ~。まあ、凛さんが事態をちゃんと認識していないのですから仕方がないでしょうが……』
「…とりあえず、"ソレ"も含めて後で説明してもらうわよ」
『了解です。ルビーちゃんとしても、冤罪でこの方の恨みを買うのは御免ですからね~』

 今回の出来事はカレイドステッキ――ルビーの仕業ではないと当人は告げた。
 それは凛から聞かされていた推察とは異なるが、彼女も把握していない何かしらの要因がある可能性は否定できない。

「そういうことで、ひとまず今日は一旦解散させてもらっていいかしら? 士郎の治療もちゃんとしなくちゃいけないし、そっちはそっちで色々と話もあるでしょうしね」
「ああ、もちろんそれで構わない」

 簡単に話を纏めた凛が言葉を向けたのは、静かに成り行きを見守っていた恭也だ。
 この場にいる一般人の代表だと見ているのか、凛は少しばかり真剣な表情を浮かべてなのはと恭也へ交互に視線を向ける。
 凛の言葉と視線を受けた恭也は、小さく頷きながら了承の言葉を返すのだった。

「じゃ、行きましょ士郎。まずはアンタの家に戻ってメルルを呼んでこないと――」
「――電話で呼んだほうが早いな。アリサ――鞄から携帯を取ってくれるか?」
「落ちてくる時に投げ渡されたコレですか? えっと……はい、どうぞ」
「ありがとう。遠坂――メルルを呼ぶならコレを使ってくれ」

 治療はアトリエで行うつもりなのだろう。
 そのためにメルルを呼びに行こうと口にする凛を制するようにアリサから手渡された携帯電話を差し出す。

「――何コレ?」

 手にした携帯電話を眺めながら、凛は本当にわからない……といった様子で呆然と携帯電話を眺めていた。 

「携帯電話だが?」
「…ボタン無いわよ?」

 最新式の携帯電話には物理的なボタンが殆ど存在していない。
 これまで主流だったものとは違い、ほぼ全ての操作を特殊な液晶に直接触れることで操作するためだ。

「タッチパネルなんだ。電源は横に――ああ、いや……ヴィータ。済まないが、メルルに電話をしてもらえるか?」
「ん……わかった」

 ――遠坂凛は機械に弱い。
 遠く霞んでいた記憶の向こう――冬木の街でいつか彼女がそんな事を零していたような気がして苦笑を浮かべる。
 下手に強要して携帯電話を破壊されても困るため、士郎は即座に携帯電話を取り上げてヴィータへと手渡してから簡潔に用件を口にした。

「……機械が苦手なのは相変わらずなのか?」
「うるさいわね!! こんなもの使えなくても困ってなかったってのよ!」

 ガーッという音が聞こえてきそうな勢いで叫ぶ凛――。
 そんな彼女の言葉を耳にしながら、士郎は小さな……本当に小さな溜息を零すのだった。

「……ところで、彼女はそのままでいいの?」
「……は……はは………ハハっ……ハ……」

 ふいに聞こえてきた忍の言葉に全員が視線を一カ所へと集中させる。
 先程空から舞い降りた魔法少女――。
 全身をゴスロリ服で包んだエヴァが、壊れたような笑い声を零しながら呆然としている姿がそこにあった。

「放っておいてあげなさい。私も経験したことあるけど、結構キツいから――」

 実感の篭もった凛の言葉に全員が小さく頷いて応える。
 エヴァが立ち直ったのは、それから数分が過ぎた頃のことだった。


 -Interlude-


「――はい。まずはこれで大丈夫だよ」

 あれから程なく解散し、合流したメルルと共にアトリエに赴いて十数分――。
 ぼんやりと様子を眺めていたエヴァの目前では、上半身の服を脱いで治療を受ける士郎と、そんな彼に治療を施しているメルルの姿があった。

「ありがとう、メルル」
「どういたしまして。傷がちゃんと塞がったら次は神経を修復しないとね。その右腕――感覚がまったく無いんでしょう?」
「……ああ」

 右腕全体に特殊な包帯を巻き付けられた士郎が脱いでいた服を着ながら頷きを返す。
 ――士郎の腕の損傷はエヴァの目から見ても相当な深手に見えた。
 聞けば、士郎は展開した盾に魔力を注ぎ続けていたため、破られた際の反動も相まって損傷が神経にまで及んだのだという。

「なのはを護るため?」
「……そうだな」
「私は仕方が無かったってわかるし、シロウがどんな無茶をしても納得できるけど……はやてたちの事も考えてあげてね」

 どこか淡々とした声音で告げるメルルの言葉に士郎は小さく頷きを返していた。
 メルルにとっての衛宮士郎という男は、いつでも無茶を通してしまう人物――という認識らしい。
 士郎の周囲にいる人間が全員メルルと同じような心構えをしているはずもなく――メルルは具体的な例を口にして士郎に釘を刺していた。

「ところで、エヴァはどうしてそんな隅っこで項垂れてるの?」
「……放っておいてくれ。今は絶賛自己嫌悪の真っ最中だ」

 士郎への言及はあれで済んだのか――。
 メルルの視線を向けられたエヴァは、彼女からの言葉に小さな声を返して視線を俯かせた。
 ――杖如きにいいようにされたことが悔しく、屈辱だった。
 なにより――そんな杖の言葉に惑わされて醜態を演じた自身への自己嫌悪は、エヴァがこれまで歩んできた六百年以上の人生の中でも群を抜いていた。

「エヴァ――心配しなくとも、ちゃんと衣装は似合っていたぞ」
「そういう問題では無いわ!!!」
「あ…元気が出たみたいだね」

 士郎のぼんやりとした発言に思わず声を荒らげる。
 同時にメルルの冷静な声が耳に届き、熱はすぐに冷めてしまったのだが――。

「――ふん……そういえば、貴様はアレの正規マスターだったか? さぞや苦心していたのだろう? ああ、それだけは同情してやるさ」
「リンも昔似たようなこと言ってたけど、私は別に気にならないんだよね~」

 会心の嫌みを口にして返ってきたのは、予想もしていなかったメルルの気楽な声だった。

「………なに?」
「ほら、確かにルビーって悪戯するけど、それって好意の裏返しで悪気はないでしょ? 色々面白いこともしてくれるしね」

 "アレ"をそのような認識で捉えているメルルに対し、エヴァは露骨に表情を歪めて見せた。
 奇特――と、メルルをそう評するには些かあの杖の出鱈目振りと破天荒さは目に余る……というのがエヴァの正直な感想だった。

「…巻き込まれたこちらとしては迷惑極まりないがな」
「うん。まあ、他人を巻き込もうとする癖だけはキツく叱っておかないとね――」

 ふいに気配を変えたメルルに怪訝な視線を向けてしまう。
 そんなエヴァの視線にも気付いていないのか――。
 メルルは普段は見せない冷徹な表情を覗かせた後、何かをぶつぶつと呟きながら手持ちの鞄から怪しげな道具を次々と出しては仕舞ってを繰り返していた。

「……士郎。私は以前から少し思っていたのだが――」
「君も気をつけるといい。彼女の逆鱗に触れると、本当に何をされるかわかったものじゃないぞ」
「……肝に銘じるとしよう」

 普段は温厚な彼女にも逆鱗はあると――。
 特に驚いた様子も見せずに冷静に告げる士郎の言葉だけに、その助言は心に留めていなければならないと思わせてくれた。

「そういえば、遠坂が戻ってこないな…」

 思い出したように告げる士郎が周囲に視線を向ける。
 士郎と肩を並べて歩いていた見知らぬ女――。
 彼女こそ、かつてメルルと共に世界を旅した人物で、いつかの日に士郎が口にした"魔法"を習得した魔法使いなのだという。

「あの女とはどういう関係なんだ?」

 二人の会話や雰囲気から、相当に親しい相手なのだということは理解できた。
 エヴァの問いかけに対して、士郎は何かを思い出すように僅かばかり瞑目して見せた。
 そうして開いた目には温かな光が浮かんでおり、彼が彼女に対して強い信頼を抱いている事を窺わせる。

「友人というよりは、戦友といったほうが近しいな。随分と昔――俺がまだ未熟極まりなかった頃に色々と助けてもらった」
「なるほどな。旧知の仲――というやつか」
「そうだな。真面に顔を合わせるのは随分と久しぶりになる」

 士郎から聞いた話を元に考えれば、二人が共に過ごしていたのは百年以上も前のことなのだろう。
 衛宮士郎が未熟だったという頃とはつまり、かつて彼の故郷で起きたという聖杯戦争と呼ばれる魔術師たちの争いがあった頃に他ならない。

「――……そろそろいいかな。はい、シロウ。次はコレを腕に塗るからね」

 話の流れを断つようなタイミングで正気を取り戻したメルルは、士郎の眼前に小さな小瓶を差し出した。

「これは?」
「神経に作用する特殊な薬液だよ。神経を完全に消失していたら使えないんだけど、破損や断絶程度ならこれで修復できると思うよ」
「少し前から研究していたそうだ。ちなみに資料と材料は私が集めるのを手伝った」

 この世界で採取可能な素材を集めて研究し、それらを利用したアイテムを作成していく――。
 メルルからの要請で協力することになったが、錬金術に興味を抱いているエヴァにとっても悪い話ではなかったため二つ返事で引き受けたのだ。

「君らがよく二人で出かけていたのはそういう事情があったのだな。はやてのために――ということか?」

 どこか神妙な様子で告げる士郎にメルルは素直に頷いて見せた。
 事実――メルルが普段から医学書を読み漁り、今回のようなアイテムを研究して作り出したのは全てはやてのためだった筈だ。

「まあ、効果が確認できなかったから失敗したのかなって思ってたんだけど、この間試したらちゃんと効果が出たから安心してね」
「試した? それは……いや、何となく想像は出来た。あまり無茶なことはしないようにな」

 納得したように小さな溜息を零した士郎からじろりと睨まれる。
 どうやら、薬の効果を調べるためにエヴァとメルルが行った行為の内容に思い至ったのだろう。

「うん。それじゃ、これは直接肌に塗らないといけないから服を脱いでもらっていい?」
「了解だ」

 メルルが服を脱ぐように指示すると、士郎はボロボロになった服をもう一度脱いで腕を差し出した。
 そうして、差し出されたその腕に巻き付けられていた包帯が解かれる。
 ――見れば、表向きは既に傷が消えて綺麗になっていた。
 それを確認したメルルはゆっくりと士郎の腕に薬液を塗り込んでいく。
 数分が過ぎ、段々と感覚が戻ってきたのか――士郎は動くようになった手を眺めながら表情を曇らせた。

「それにしても――」
「――ん? どうかしたのか? もしかしなくとも、薬が効かなかったのか?」
「いや――薬の効果が確かだという事はいま実感している。ただ、それならどうしてはやてには作用しなかったのかと気になってな」

 士郎の疑問は耳にしてみれば当然の言葉だった。
 エヴァも士郎も――確実に薬の効果を実感できている。
 だが…それならば、どうしてはやてに限って効果が認められなかったのか――。

「そうだな。原因不明の神経麻痺とはいえ、メルルの薬の効果を考えれば普通は治る――もしくは効果があるはずだ」

 病院での診断がよほど的外れでなければ薬は効いたはずだ。
 だが、診断が正しかった上でこのような結果になったというのなら、それはつまり――。

「……外的要因があるってこと?」
「可能性はあると思っている。そして、はやてに関することで心当たりがあるとすれば――」

 恐らく全員が脳裏に描いているのは同じものだろう。
 ――夜天の魔導書。
 もし仮に――はやてにも薬の効果があったとして、それでも改善がみられなかったというのなら原因は絞られる。
 神経が断絶していたとしても再生させるほどの効力を持つ薬だ。
 それで治らないというのなら、彼女の症状は単純な病気や欠損の類ではなく、常に何かしらの影響を受けている結果としてのものだということ――。

「――推測に過ぎないけど、零じゃない…か」
「――だが、詳しく探ることは難しいのでは無いか? アレは地球由来のものではないのだろう?」

 メルルの呟きに被せるように事実を口にする。
 仮に原因が夜天の魔導書にあるとして、それを詳しく調べることはエヴァたちには不可能だからだ。

「当てがないわけではないが、無理に探れば色々と厄介なことになるだろうしな。差し当たり現状では静観するしかない」

 それでも動じることなく告げていた士郎だが、その手が固く握り絞められていることをエヴァは見逃さなかった。
 ――彼がいま何を想い、何に葛藤しているのか。
 推察することしか出来ないが、そんな彼がいつか下すだろう決断を見届けたい。
 そんな想いを抱きながら瞑目したエヴァの耳には、束の間の平穏が崩れ始めた音が確かに聞こえたのだった。


 -Interlude-


「――はあ……とうとうバレちゃったね」

 自室のベッド上で横になったなのはが零した言葉にユーノは小さく頭を横に振った。

「仕方ないよ。あの時はなのはが頑張らなかったら、恭也さんたちが危なかった」

 あの空間に引き込まれ、槍を構えた相手の敵意を認めた恭也は、およそ常人とは思えない速度で間合いを詰めて一撃を放った。
 結果としてそれが通じなかった時点で、あの場で戦えるのはなのはだけとなったのだから、躊躇せずに戦闘体勢に入ったなのはの判断は正しい。

「……うん、そうだね。アリサちゃんやすずかちゃんもあまり驚いてなかったみたいだし、少し構えすぎてたのかもしれないね」
「でも、これで隠し事をせずに過ごしていけるし、なのはにとってはいい切っ掛けだったんじゃないかな?」
「これからも今回みたいなことがあるかもしれないしね……」

 どこか沈んだ声音で答えるなのはだが、その表情は明るい。
 けれど、その笑顔がユーノの目には無理に笑っているように見えて仕方がなかった。

「……もしかして、落ち込んでる?」
「少しだけ…ね。どんなに褒められても、結果的に上手くいったとしても――私だけじゃ結局なにも……誰も救えなかったかもしれないから」

 僅かばかり自嘲を含んだその言葉に、ユーノは頭を横に振った。
 確かに士郎が駆けつけるのが後少し遅ければ取り返しのつかないことになったかもしれない。
 だが、なのはが頑張って持ち堪えたからこそ士郎が間に合ったというのは間違いのない事実だ。
 
「誰かを護りたいっていうなのはの想いはよく知ってる。だけど、何もかも一人でする必要なんて――」
「――わかってる。一人じゃ無理でも、みんなで力を合わせればって…。だけど、いつも士郎くんに助けてもらってばかりは嫌なの」
「なのは……」

 涙こそ流れてはいなかったが、泣き笑いのように零すなのはからは強い決意が感じられた。

「強くならないとね。無理なく真っ直ぐに――ユーノ君から教えてもらった私の魔法は、誰かを守るための力だもん」
「うん、そうだね」
「だからね、明日にでもお兄ちゃんやお姉ちゃんにお願いしようと思ってるの。私にも武術を教えてって」
「守るために?」
「――うん」

 自分の往く道をうっすらと、けれどしっかりと見据えて進んでいく。
 そんな彼女の決意と想いを信じて、ユーノはもう少し話すのを控えているつもりだった事を口にすることを決めた。

「魔法に関してなんだけど、もう僕から教えてあげられる事は殆ど教えちゃったから、これからは実戦訓練よりもイメージトレーニングをメインにしたほうがいいかもしれない」

 基礎となる部分は既に教えてある。後は反復を繰り返していけば大丈夫だろう。
 元々そうした反復訓練を好むなのはなら、きっと真っ直ぐに成長していける筈だ。

「レイジングハートと一緒に今日の実戦も踏まえた訓練データと仮想敵のデータを仕上げておくよ。それと、クロノから訓練メニューを預かってるからこれも――」

 告げて待機状態のレイジングハートにデータを転送する。
 内容にはユーノも一度目を通したが、管理局の執務官らしくハードなメニューだった。
 厳しいメニューには違いないが、きっとなのはなら楽しみつつも真剣にこなしていくだろう。

「クロノくんから? いつの間にそんなものもらったの?」
「数日前にクロノから連絡があったんだ。ほら、なのはとフェイトはビデオメールでやり取りしてるでしょ? その時にはいつもクロノたちから直接連絡がくるんだよ」
「そうだったんだ……。あれ? でも、フェイトちゃんからのビデオメールが届いたのって、もう何週間か前だよ?」
「うん。今回は完全に僕個人への用件があったみたいだから、直接僕だけに連絡がきたんだ」
「……ユーノ君に用件? もしかして――」
「――うん。そろそろどうだろうか…って」

 クロノからユーノに用件があるとなれば思い当たることも少ないのだろう。
 察したように呟く彼女に向けて、ユーノはしっかりと頷いて見せた。

「……ユーノ君は、戻ったらどうするの?」
「実はクロノやリンディ提督からいい話をもらってるんだ。管理局の本局にある無限書庫っていう場所の発掘と整理をしてくれないかってね」
「書庫なのに発掘?」
「なんでも、色々な資料を無作為に集めて放り込んだ場所らしくて、書庫とは名ばかりの倉庫になってるみたいなんだ。だから、そこを整理整頓するために僕を使いたいって言ってくれてる」

 管理局が次元世界中から集めた様々な書物や資料が眠る倉庫――。
 そこを発掘するというのは大変な事だろうが、ユーノにとって夢のような話である事は間違いのないことだった。

「凄い! それって、ユーノ君の事を管理局の人が認めてくれたってことでしょ?」
「うん、そうなんだけどね……。ただ、ひとつクロノから個人的に頼まれ事もしてるんだ」
「頼まれ事?」
「――士郎を一緒に誘ってくれないかって」


 -Interlude-


 日が沈み、周囲が暗闇に染まった頃――。
 シグナムは表に見せないまま胸の内に仕舞っていた昂揚を吐き出そうと庭に出た。
 そうして小さく息を吐いたシグナムは、暗がりの中に先客がいることに気づいて歩を進ませていく。

「――主はやて。このような時間に外に出られて……考え事ですか?」
「シグナム……」

 どこか沈んだ気配を身に纏って庭に出ていたのは、シグナムの主であるはやてだ。
 彼女が表情を曇らせている理由に心当たりがあったシグナムは、つい先程入った知らせを伝えようとはやての傍に歩み寄る。

「つい先程、エヴァから連絡がありました。士郎の負傷はメルルの治療でちゃんと治ったそうですよ」
「そっか…ならよかった」
「気がかりはそれだけではないようですね」

 安心したように溜息を零しながら、それでも彼女の表情は晴れない。
 何となく理由を察しながら尋ねてみると、彼女は静かに頷いて応えてくれた。

「うん……ヴィータが見せてくれた映像――あんな戦いを、士郎やシグナムたちはずっとしてきたんやなって思ってな」
「我らが戦いの日々を送ってきたのは事実です。恐らく、士郎たちも相当な修羅場を潜り抜けているのでしょう」

 メルルの友人である遠坂凛から伝えられた魔術道具に遭遇してきたヴィータが持ち帰った映像記録――。
 そこに記録されていたのは、普段の姿からは想像し難い戦闘者としての士郎が剣を手にして戦っているものだった。

「あの戦い……シグナムの目から見てもやっぱり凄かったん?」
「はい。少なくとも、士郎が対峙していた男の技量と能力は尋常ではありませんでした。そして、それを相手取った士郎も――」

 無駄のない動きと一点に集約された破壊力――。
 破壊規模や戦闘距離ならば魔導を扱う者が勝るだろうが、実際に対峙したとすれば話は別だろう。
 そんな相手と当然のように交戦して見せた士郎の姿は、彼がこれまで潜り抜けてきた戦場の苛烈さを示しているかのようだった。

「わたしはただ、みんなで平和に暮らしてたいだけなんやけど…それもやっぱり簡単なことやないんやね」
「平穏を守るために戦う――矛盾して聞こえるかもしれませんが……」
「ううん、わかるよ。せやからわたしはみんながいざという時に戦うことも否定したりはせん。ただ…心配なだけや。わたしには戦う力はないしな」

 ――それこそが、彼女が抱えている不安の正体なのだろう。
 こうして平穏に暮らしている中でも争いは存在すると知り、自身の側にいる者がその渦中へと飛び込む事を止めることも護ることも出来ないと――。

「――蒐集を行って夜天の書を完成させれば、主はやては絶大な力を得ることができるでしょう。その足も……動かせるようになるはずですよ」

 夜天の書が完成すれば、主であるはやては真の覚醒を経て強大な力を所持する事となる。
 膨大な魔力と魔導を得た主の力があれば、身体機能の不備すら容易に治療する事が可能となるはずだ。

「それはあかん。夜天の書を完成させるためには色んな人にご迷惑をおかけするんやろ? そないなことしてまで歩きたいと思わんし、戦う力は無くてもみんなが安心して帰ってこれる場所を守ることはできる」
「はい」
「――シグナム。わたしは夜天の書の力になんて興味ない。せやから、わたしが夜天の書の主でいる内は蒐集のことは忘れて……約束できる?」

 向けられる視線には、普段は決して見られない決意と意志の光が灯っている。
 庭先で車椅子に腰掛け、真っ直ぐに視線を向けてくる主を前にシグナムは静かに頷いて見せた。

「ええ――我が名と剣に誓いましょう」
「ならお話はこれでおしまいや。士郎たちもすぐに帰ってくるやろうし、晩ご飯を用意しとかんとな」

 いつもの朗らかな笑みを浮かべて家の中へと戻っていく。
 そんな彼女が振り返った姿を眺めながら、シグナムは足を止めたまま小さく頭を下げた。

「申し訳ありません。私はもう少しここで風に当たっています」
「うん、ええよ。すぐ支度するからほどほどにな~」

 特に尋ねてくることもせずに了承を残して家の中へと入っていく。
 そんな彼女の気遣いを素直に受け止めたシグナムは、星が瞬き始めた夜空を仰いだ。

「――誇りのない剣…か」

 戦闘中に士郎に向けて告げられた言葉――。
 それを肯定し、戦うことの意味を告げた士郎の姿を思い出す。
 誇りでは大切な人をこそ守れないのだと……けれど、そう告げた瞬間の彼の姿こそがシグナムの目には誇り高く見えた。

「士郎――私には、誰かのために戦う貴方の姿こそが真の騎士に見えて仕方がない」

 きっと彼に向けてそんな言葉を口にすれば苦笑されるか否定されるかのどちらかだろう。
 それでも――主に剣を捧げる騎士として、シグナムは衛宮士郎という一人の騎士に尊敬に近しい想いを抱いていた。

「――主はやてと士郎に出会えた奇跡……お前も喜んでくれているだろうか――夜天の書よ」

 未だ意思を現す術を持たず、恐らくはこれから先もそのままで過ごしていく同胞に向けて言葉を紡ぐ。
 ――はやてがシグナムたちの主であるかぎり、夜天の書が完成を迎えることはないだろう。
 それでも――例え"彼女"が意思を現すことが出来ずとも、こうして過ごしている姿を見て喜んでくれているだろうという確信があった。
 気が遠くなるほどの長き旅路の果てに巡り会えた現在(いま)という奇跡――。
 その幸運と幸福を噛み締めながら、シグナムは空に向けていた視線を下ろし、主や仲間――家族の待つ家へと戻っていくのだった。

 

 

Episode 49 -僅かな真実と小さな疑問-

 
前書き
第四十九話です。
 

 


 まだ日が昇り始めた頃――街に人影も見当たらないような早朝に関係者が顔を揃えていた。
 事件の現場となった月村の屋敷にあるその一室には、今回の事件に直接巻き込まれたメンバーが集まっている。
 彼女――遠坂凛が昨晩寝泊まりさせてもらった八神家の住人たちには既に説明しているため、ヴィータ以外の全員が揃っているその場で彼女は小さく頷いた。

「――それじゃ、今回の件に関して説明しておくわね」

 改めて事情を説明しようと僅かな時間だけ瞑目する。
 ――思い返すのは昨晩の出来事。
 ルビーから真相を聞かされ、メルルのアトリエで士郎の治療が終わった直後のこと――。

「――あら、もう治療が終ったの? 相変わらずメルルの仕事は早いわね」

 どこか懐かしい気配を漂わせた屋内へ入ると、部屋の中央では右腕の調子を計るように動かしていた士郎の姿が目に入る。
 エヴァもメルルもそれを眺めながらほっとしたようにしている姿が印象的で、士郎の事を親身に考えているのだということが傍目にも理解できた。

「遅かったな、遠坂。ルビーとの話はもう済んだのか?」
「ええ。といっても、アイツも全部を把握してたわけじゃないみたいだから推測を交えながらになるけどいいかしら?」
「ああ」

 返答を返しながら席に腰掛けた士郎の目前に置かれた椅子に腰掛ける。
 エヴァとメルル――二人の視線が向けられた事を確認した凛は、小さく咳払いをしてから彼らを真っ直ぐに見据えて口を開いた。

「まず最初に――ルビーが自力で封印を抜けて逃げ出したと思ってたけど、ここが違うみたい。アイツが気づいた時にはもう封印が解かれた状態でこの世界にいて、自律行動が可能な状態だったらしいわ」
「――あの忌々しい杖の封印を解いた何者かがいた…ということか?」

 嫌悪を隠そうともせずに告げるエヴァの言葉に同意するように頷く。
 先程ルビーから聞かされた話を考慮すれば、エヴァがルビーを嫌うのは当然だろう。

「ルビーが言うには、アイツの姉妹機――もうひとつのカレイドステッキの仕業じゃないかってことらしいわ」
「……あんな杖がもう一本存在している…というのか」
「宿っている精霊の性格は随分と違うから、ルビーほど傍迷惑じゃないと思うけどね」

 深い溜息を零すエヴァにフォローになるのかどうかも怪しい言葉をかける。
 そんな気休めは御免だというように二度目の溜息を零すエヴァを眺めていると、彼女の隣に座るメルルが何かを思いついたように小さく声を上げた。

「――ルビーの姉妹機っていうと、もしかしてサファイア?」
「ええ。私と貴女が以前に見たアレのオリジナル――ルビーと出自を同じくする対の杖。能力的にはルビーと同等だと思っていいらしいわ」

 いつか彼女と旅した世界のひとつ――。
 数多ある並行世界の一つで出会った魔法の杖の片割れに宿る精霊がサファイアである。
 彼女の性格はルビーとは違って落ち着いた部分が多く、どちらかといえばマスターの意向を大事にするタイプだ。
 もっとも――並行世界のカレイドステッキたちは、凛やメルルが知るカレイドステッキよりも遙かに真っ当だったため、あまり当てにはならないかもしれないが――。

「その言いようから察するに、遠坂はその杖を知らなかったのか?」
「可能性として存在しているのかも……とは思ってたけどね。並行世界に数多く存在するカレイドステッキ――そのオリジナルであるルビーがいる以上、もう一対の杖にもオリジナルとされる存在がいるかもしれないってね」

 問いかけられた士郎からの疑問に頷いてみせる。
 ルビーが語るサファイアもカレイドステッキのオリジナルとなれば、その力は推して知るべし――。
 どれほど理不尽な出来事を引き起こそうと納得できてしまう辺り、大師父もとんでもないものを造ってしまったものだと呆れるばかりである。

「では、その杖がルビーの封印を解き、カードも一緒に解き放ったと?」
「そこはルビーにもわからないみたいね。ただ、アイツはこの世界で目覚めてすぐにあのカードがこの街にあることを感じ取って行動を開始したってことらしいし、他に同じような事が出来そうな奴に心当たりはないみたいだしね」

 自分がどうして封印を解かれたのか――。
 その理由は分からずとも、この好機にきちんと功績を残して評価してもらおうと思った――とは、ルビーの言だ。
 理由はなんであれ殊勝な心がけである。あれであの性格さえどうにかするのなら凛も色々と考えなくはないのだが……。

「……その割に脳天気なことばかりをさせてくれたようだが?」

 ルビーによって実害を受けたエヴァからの言葉に溜息交じりに頷く。
 とはいえ――どこまで意識していたのかは知らないが、ルビーが彼女を選んでしまったのは相応の条件が揃っていたからに他ならない。

「その通りだけど、ああ見えてちゃんと貴女を選んだのは流石というか、アイツなりに真剣だったんじゃないかと思うのよね。悪ふざけしたことは別として――」
「どういう意味だ?」
「ルビーから聞いたけど、貴女は元々相当な使い手――貴女の世界でいう魔法使いらしいじゃない? 今は諸事情で魔力が殆ど消失しているけど、魔法を失っているわけじゃない――と」

 仮契約とはいえ、契約を交わした相手の状態や記憶などもある程度把握してしまうのがルビーが持つ特異な能力のひとつだ。
 ――カレイドステッキはその性質上、マスターに途轍もない力を与えてしまう。
 それ故、それを行使させるに相応しい相手を選ぶため、ルビーには意識無意識問わずに契約対象の情報を得る性質が備わっている。

「……それがどうした?」
「貴女も多分聞いたと思うけど、カレイドステッキは無尽蔵の魔力を供給する破格の魔術礼装でもあるわ。つまり、アイツと貴女が協力すればカードの回収も難しくないって思ってたわけ」

 今回の件で無意識にエヴァを選んだのは、ルビーが力を振るうに最も適した人材だと判断したからだ。
 ルビーが彼女の失われた魔力を補って余りある無限の魔力供給を与えれば、恐らくこの街に存在する何者をも凌駕すると――。

「……では、あの悪ふざけはいったいどういうつもりだったのだ?」
「面白そうだからじゃない? あの馬鹿は余程のことでもない限りはアレが基本スタイルだから、いちいち反応していたらこっちの身が保たないわよ」
「リンも最初の頃にルビーに変身させられてトランスしちゃったもんね。まあ、私もそうなんだけど」

 溜息交じりに零れたエヴァの言葉に苦笑いを浮かべながら答える。
 すぐ隣から聞こえてきたメルルの言葉に苦い想い出が蘇ってきたが、それを振り払うように大きく溜息を零した。

「……ともかく、アレにとってああいうイタズラは人が息をするのと同じ位当然のものだって割り切らないとやってられないってことよ」
「……納得したわけではないが、忠告は受けておこう。もっとも――次に同じような事をされれば、私も相応の行為で返すつもりだがな」
「それは自由にしてくれていいわよ。破壊してくれるならそれが一番だし」

 本気の気配を滲ませながら告げるエヴァに同意するように答える。
 実際――アレを破壊できるというのなら、是非お願いしたいというのが凛の素直な思いだった。

「ルビーの件は承知した。それで――肝心の話だが、あの魔術道具は君から聞いていたモノとは随分と違っていたように思えたが?」

 話が脱線しかけていたからか――少しだけ声の調子を改めた士郎が場の空気を変えるように本題を口にした。
 そんな彼の言葉にエヴァもメルルも思い直したように顔を見合わせて、改めて凛へと視線を向けてくるのだった。

「考えられるのは世界を移動した際の影響とかサファイアが何かをした――或いは、全く別の何かが作用したか……」

 ――考えられる可能性はそう多くはない。
 だが、どれも有り得そうなだけで決定的とは思えずに首を捻るようなモノばかりである。

「もともと、あのカードは英霊の力の一端を扱うために使用されていた。それが霊脈から魔力を吸収し、特殊な空間内でその力そのものを具現化したのは副次的なモノに過ぎないはず……」
「あくまで現象として発生したモノで、英霊そのものを具現化しているわけではない……と。では、ランサーが具現化していたのは他に何かしらの外的要因があるということか?」

 士郎の言葉を耳にしてルビーとの会話を思い出す。
 ルビーと二人で議論して導き出した可能性のひとつが外部干渉――つまりは未知の原因である。

「ルビーが少しだけ気にかかることを言ってたけど、この街の周辺にはカードと似たような反応が多い上に探知が阻害されているような感覚がして迷ったって――」
「……だが、あのカードはこの世界に一つしか存在していないのだろう?」
「ええ、それは私も保証してあげる。ルビーと一緒に改めてカードを精査して同じような反応を探ったけど、違う世界からしか反応はなかったわ。似たような反応はこの街の周辺に幾つかあったけどね」

 ルビーと共に探ったが、誤認していたという反応は詳しく調べればすぐに違うとわかるものばかりだった。
 仮契約中だったルビーの不完全な探査では、どれもこれも似たように感じられたとしても不思議はない程度には似通っていたのだが――。

「そのカードとやらはいつの間に回収したんだ?」
「全員であの空間を離脱した後よ。これも例外というか、以前とは違う点――本来カードは具現化した現象…つまり英霊の内部に存在していた。けど、今回の事例ではそこからして根本的に違っていたのよ」

 空間そのものに魔力を吸われたような感覚を覚えた――とは、戦闘を行っていた高町なのはの言葉である。
 それを踏まえた上で空間消滅後に出現したカードの事を考えれば、確証に近い推察は可能だった。

「――英霊ではなく、カードそのものが空間を形成し、その中に英霊が具現化されたと?」
「ええ、そういうことだと思っている。何にしても、ランサーがあんな形で現界した事も含めて未知の事案が多すぎて確実なことは何も言えないわ」

 逃げ出したルビーを捕まえてカードを回収するだけ――。
 そんな甘い見通しを嘲笑うような状況に、凛はにやりと笑みを浮かべる。
 こんなことでへこたれるような神経など持ち合わせていないし、仮にも魔法使いの後継者を名乗る以上、先代の後始末をするのも勤めだろう。

「だけど、これから他のカードを探すときの参考にはなったわ。回収に協力してくれた士郎には素直に感謝する――ありがとう」
「……俺は俺なりの理由があったから剣を執っただけだ。事の原因そのものが君にあったわけでもないのだから気にしなくていい」

 どこかぶっきらぼうに答える士郎だが、どこか照れた様子なのは隠しきれていない。
 メルルの薬で肉体的にも精神的にも若がえったというが、そうした姿は在りし日の彼を想起させてくれた。

「なら、アンタに関してはこれ以上特には言わないわ。だけど、巻き込んじゃった人たちはそれで納得はできないでしょ?」

 事細かに説明をするつもりは毛頭無いが、それでも直接巻き込んだ人にはそれなりに説明をするのが筋だろう。
 あれがどのようなもので、どうしてあのような場所にあって、どうして巻き込まれるに至ったのか――。
 それに付随して発生する疑問に関して答えるかどうかは凛の――というよりは、この世界で過ごしている士郎たちの事情次第だ。

「そうだな。恭也たちもそれなりに裏に関わる人間だし、相応の覚悟はしているだろうが、今回のような特殊な事案に巻き込んでしまったのは事実だ。それなりに疑問も覚えているはずだろうしな」
「まあ、そこは上手く打ち合わせて説明するとしましょう。ところで――士郎、ちょっといいかしら? できれば二人で話したいことがあるんだけど?」

 少しだけ声音を変えて告げると、士郎は特に考える素振りを見せずに頷いた。
 ――士郎と二人きりで話す話題となればそう多くはない。
 士郎もそれがわかっているからか、惑うこと無く頷いてから凛の側へと歩いてきた。

「悪いわね、士郎を借りていくわよ。代わりにルビーを置いていくから、煮るなり焼くなり好きにしたらいいわ」

 特殊な術式を込めた糸で編み込んだ布で隈無く包まれたルビーをメルルたちの足下へ放り投げる。
 色々と協力してくれたルビーだが、悪ふざけをしたことはそれとは別の話だ。

『――――――ッ!! ―――? ―――――!!?』
「今は簡易封印してるから話せないし動けないけど、ルビーならあと数分もしないうちに解呪しちゃうでしょうから、逃がさないようにね」
「了解。終わったら戻ってきてね」

 ビチビチと跳ねるように蠢くルビーを見下ろしながら告げる。
 その言葉を待っていたという様子でにやりと笑みを浮かべるエヴァと、逆に無表情になっていくメルル――。
 そんな二人から視線を離した凛は、すぐ隣に立つ士郎の肩を軽く叩いてから歩き出した。

「それじゃいきましょ、士郎」
「ああ。エヴァ――君も程ほどにな」
「わかっている。口惜しいが、今の状態でどうにか出来るほど真っ当な物体ではないんだ。今回はメルルの仕置きでも見物しておくさ」

 ルビーにとっては生き地獄にも等しい時間の幕開けを告げるエヴァの言葉――。
 それに小さな溜息で応えた士郎は、仕方が無いといったように肩を竦めながら凛と肩を並べてくる。
 二人揃って顔を見合わせ、何となく笑みを浮かべた凛は、士郎と共にメルルのアトリエを後にするのだった。


 -Interlude out-


「静かでいいところね」

 アトリエから外に出て暫く――見慣れた景色を眺めながら歩いていると、側を歩く凛が周囲を見渡しながらぽつりとそんな言葉を零した。
 ――世間話をするためにこうして外にやってきたわけではない事ぐらい士郎にもわかっている。
 彼女の呟きを合図と受け取った士郎は足を止め、殆ど同時に足を止めて振り返った凛へと真っ直ぐに視線を向けた。

「――それで、話があるっていうのは?」

 特に気を張っていなかったせいか、言葉遣いが酷く幼くなってしまった事に気付く。
 凛に対して気を遣うというのがどこかおかしく感じられていた事を思い返し、彼女と二人で話す時ぐらいは有りの儘に話してもいいだろうと思い直した。

「ん……別に士郎にとっては大したことじゃないかもしれないけど、少し気になったことがあったからその件についてよ」
「気になったこと?」

 凛の言葉に相鎚を返すと、彼女は少しばかり表情を引き締めてから心配そうな視線を向けてきた。

「士郎――貴方、自分がいまどういう状態なのかって理解しているのよね?」
「――それなりには……な。もともと俺が冬木に戻った時点で真っ当ではなかったし、自分の状態を推察する程度の材料はあったからな」

 彼女が言いたい事は士郎にもすぐに理解できた。
 元の世界で突然多くの人々に認識され始めたことや、メルルのアトリエで目覚めてから現在に至るまでの日々――。
 そして、魔法使いとなった凛が死の直前にあった衛宮士郎を異なる世界へと送った理由を考えた時、一つの結論が浮かび上がった。
 ――それが守護者。
 死後に英霊となり、世界の従僕として人類を破滅させる要因を排除するだけの存在――。
 世界から弾かれた身でありながら世界に在り続け、その力を以て多くの事象や人の運命を変えてきた士郎は十分にその条件を満たしていたのだろう。
 後はたったひとつ――誰の記憶にも残っていないという問題さえ解決してしまえばいい。
 そうすれば、ただひたすらに人々を救っていく一個人――集団や組織、国の意思とは無関係に在り続ける救い手など、人の世にとって厄介者以外の何物でも無い。
 めでたく世界の敵となった男に用意された末路――それは人々の怨嗟と共に反英雄として祭り上げられ、死後も戦い続ける運命を強制される守護者と成り果てるというものに違いなかった。 

「なら、もう少し気をつけなさい。今の貴方じゃ、死んでも死にきれないわよ」

 恐らくは、このような状態になってさえ確実に大丈夫だとは言えないのだろう。
 異なる世界、異なる理の中に在り続けようと世界からの呪縛に囚われない保証などできるはずもないのだから――。

「昔ほど無鉄砲じゃないさ。それに――遠坂とメルルに助けてもらった命だ。無闇に扱うなんてことはしないぞ」
「はぁ……まあいいけど、護ってあげたいって子がいるなら、もう少しだけ自分の身体を大切に扱ってあげなさい。でないと不安ばかり感じさせることになるわよ」

 凛の言葉を耳にしてすぐに脳裏を過ぎったのは、以前にアースラの通路で垣間見た、何かを堪えているなのはの姿だった。
 不安と後悔が入り交じったようなか弱い姿――。
 あんな表情を浮かべた彼女を――そして、自身に何かがあれば間違いなく同じように心配させてしまう筈のはやてを思い返して神妙に頷いた。

「……そうだな。確かに遠坂の言う通りだ」

 本音の言葉を零したからか――。
 凛は少しだけ柔らかに笑みを浮かべた後、そっと近くに歩み寄ってくる。
 そうして目の前に立った彼女は、僅かに差のある視線を合わせようと覗き込むように見上げてきた。

「――どう? 少しは自分の幸せっていうものが見つけられそう?」
「……どうなんだろうな。こうして暖かな日常に身を置いてみて、余計に判らなくなった気がするし、今が幸せだとも思っている」

 自身にそんな資格があるのか――。
 そんな問いを胸に抱きながら、それでも死の間際に聞いた凛の言葉を胸にこれまでを生きてきた。
 図らずも日常の中で生きる事を許され、決して少なくない知人や家族と呼んで差し支えのない者たちと過ごせている。
 それでも何かが満たされていないという想いはあるし、自身には過ぎたモノだという想いもある。
 平穏と争い……繰り返される日常の変化に戸惑うことはなくとも、多くの人と共に歩んでいく事そのものが衛宮士郎にとっては奇跡にも等しいのだから――。

「なら、それでいいじゃない。どうせいつまでもこんな風には過ごせない――なんて思ってるんでしょうけど、そんなの誰だって同じよ。未来の保証なんてどこにもないんだから」
「確かにそうだな。遠坂――遠坂はいま……幸せか?」
「どうかしらね。まあ、今更人並みにっていうのは遠い話だし、目指してた場所に辿り着いてるわけだから満足はしてるけどね」

 惑い無く応える彼女の表情は強く眩しく――。
 胸を張って自身の道を歩んでいるその姿に、遠い日の記憶が蘇ってくるかのようだった。

「そういえば、その宝石――ずっと持っていたのね」
「ああ。これを拾った時の事――そして、お節介な誰かに助けてもらった事も含めてちゃんと覚えている」

 凛の視線が士郎の胸元へと向けられる。
 そこに下げられている赤い宝石は遠い昔……死にかけた男を救ってくれた奇特な少女が落としていったものなのだから――。

「持ち主が返却を求めてきてるわけでもないんだし、もうとっくに時効でしょ。それはもう……貴方のものよ」
「……そうだな。遠坂がそう言ってくれるなら、きっとそうなんだろう」

 互いに笑みを浮かべたまま改めて視線を交わす。
 どこか照れくさく感じてしまうのは、相手がきっとかつて憧れていた少女その人だからかもしれない。

「……それにしても随分と手を加えてるのね。もしかして一度壊れたの?」

 少しだけそうして過ごした後――思い出したように告げる凛の言葉に内心で疑問を浮かべる。
 どうしてそんな言葉が出てきたのか――それがすぐには思いつかず、ただ有りの儘の事実を伝えようと口を開いた。

「いや、そんなことはない。紛失するわけにはいかなかったから、色々と手を加えてはいるが……」
「飾りや鎖の事じゃ無いわよ。その中央の光って見える部分とか宝石そのものにも随分と手を加えているようだから、一度割れた宝石を再加工したのかと思っただけよ」

 ――その言葉が何を意味していたのか。
 それに思い至る事が出来なかった士郎は、そのまま凛と共にアトリエへと戻っていくのだった。


 -Interlude-


「――と、まあそういうわけで今回の件は一応解決したと思ってくれていいわ」

 昨日の事を思い返しながら当たり障りのない程度に事情を説明した凛は、そうして室内を見渡しながら告げた。

「何か今回の件に関する疑問や質問があるなら答えるけど…どうかしら?」
「――今回の件で現れたあの槍使い……ランサーという呼称には何か意味があるのか?」

 凛からの問いかけに応えるように質問を口にしたのは高町恭也――ランサーと戦っていた少女、高町なのはの兄だった。

「ええ。あらゆる願いを叶えるとされる聖杯――願望機を巡る魔術師の争いで召喚される英霊を現世に留める際に必要な殻なのよ」
「殻?」
「そう。およそ普通の人間とは比べるべくもない存在規模を持つ英霊という存在を"そのまま"現世に召喚することは人の手に余るからね」

 英霊という存在――そして、世界がそれらを使役する仕組みを簡単に説明する。
 初めて耳にする者たちは当然として、すでに聞き知っているはずのエヴァたちも感心したように聞き入っていた。

「だから殻――クラスを当てはめて制限を掛けることで制御できるようにした。それがサーヴァントと呼ばれる破格の使い魔の正体よ」
「じゃあ、あのランサーって人も使い魔なの?」
「見方によってはそうとも言えるわね。あのランサーの正体はアイルランドの大英雄であるクーフーリンなわけだけど、その能力と特性はランサーというクラスに縛られていたわけだから」

 この屋敷の主である月村忍の言葉に頷きと共に答える。
 その解答が気になったのか、忍と並んで腰掛けていた恭也が疑問に満ちた表情を浮かべて視線を向けてくる。

「……その言葉をそのまま受け取ると、あのランサーは元の状態よりも弱体化していたという風に聞こえるな」

 士郎の話によれば、彼は一般人としては破格の戦闘能力を誇るらしい。
 事実――伝え聞いた限りでは、彼はあのランサーに対して不意打ちを仕掛け、それを成功させてしまったというのだ。
 もちろん半霊体であるランサーに普通の攻撃が通用するはずもないが、なんであれ攻撃を届かせたのは事実――。
 それほどの腕前を誇る彼にとって、あのランサーの技量――そして、そんな男と互角の戦いを演じた士郎の技量は無視できるものではないのだろう。
 なんとなくそんな彼の心情を悟った凛は、敢えてその事には触れずに当たり障りの無い言葉で答えようと口を開いた。

「技量が大きく変わるわけじゃないでしょうけどね。まあ今回の事は相当なイレギュラーだから、特に気にする必要はないと思うわよ」
「……そうだな。ところでもう一つ質問があるが……いいか?」
「構わないわ」
「先程、あらゆる願いを叶える聖杯という言葉を使っていたが、そんなものが実際に存在しているというのか?」

 願えば望みを叶える――。
 そんな怪しげなものが本当に存在しているのかという彼の疑問は当然のものだろう。

「本物については、"私は触れた事がない"から知らないけどね。願望機と呼ばれた聖杯は魔術の儀式によって作り出される擬似的なモノ――端的に言えば偽物ね」
「その偽物を巡ってそんな大掛かりな事をしていたというのか?」
「結果として本物と同じような成果を得ることができるなら真贋は問わないということよ。願いを叶えるという結果が同じなら、それを為すモノが本物の聖杯であろうと偽物であろうと構わないでしょ?」
「それは――そうかもしれないが……」

 質問はそこまでと判断して視線を恭也から外し、他の人間を順番に眺めていく。
 先程までの受け答えを整理しているのか、事情を知らなかった者たちは一様に思案顔をしていた。

「他には特にないかしら? それなら話はこれで終わりにするけど……」
「――あの、今回の件というか、ちょっとした質問があるんですけど…」
「はい、すずかちゃん。何かしら?」

 手を上げて質問を口にしたのは、忍の妹である月村すずかだ。
 どこか遠慮したように告げられたその言葉に、凛は努めて笑顔を浮かべながら答えた。

「士郎さんと凛さんは凄く親しそうな感じがするんですけど、お二人はどういうご関係なんでしょうか?」

 その問いはある意味で不意打ちだった。
 とはいえ、凛にとっては悩むべきでない問いかけには違いない。
 だからこそ、凛は内心の僅かな戸惑いを見せることなく即答してみせた。

「残念だけど、貴女たちが想像してるような甘い関係じゃないわ。私と士郎は古い知人――もう少し突っ込んで答えると、戦友ってところじゃないかしら?」
「戦友?」
「互いの目的を果たすために共闘した仲――とだけ言っておくわ」
「そうなんですか……」

 それで一応の納得はしたらしく、彼女は感謝の意を示すように丁寧に頭を下げた。
 それと同時――彼女の隣に座っていた少女、高町なのはが小さく手を上げて質問があるという意思を示した。

「貴女は……なのはちゃんだったわね。なにかしら?」
「カードの説明をした時に、もうこの世界には無いっていってましたけど、それって――」
「――深い意味なんてないわ。この世界にあのカードは一枚しか存在していないから、あれを回収した以上はもうどこにもカードはないってだけ」

 次元世界における技能――魔導と係わる彼女にとって、"この世界"という認識は他者とは異なる。
 そんな彼女の不安を払拭するように、ありったけの真実を込めてそう告げると、彼女は僅かばかりホッとした様子を見せた後、何かに気付いたように表情を改めた。
 どんな疑問を抱いたのか――それを確認する必要を認めなかった凛は、話はそれだけだとなのはから視線を外した。

「私も質問です」

 次いで手を上げたのはアリサ・バニングス――。
 聞けば、あのメルルを慕ってアトリエに通い詰めている少女らしい。

「アリサちゃん、どうぞ」
「あの杖――エヴァが振り回してたアレは結局何だったんです?」

 エヴァと共に行動していた彼女はルビーの奇行を最初から目撃していた一人だ。
 そんな彼女の疑問に答えるのは容易な事で、凛は表情を顰めながら本心そのままの言葉を告げる――。

「――悪戯好きの性悪杖よ。なまじ性能が凄いだけに殊更タチが悪いわ」
『おや、お呼びでしょうか?』
「――呼んでない。見ての通り自立行動する杖でね。こんなのを万が一にも見かけたら全力で関わらないようにしなさい」
「は…はい」

 いきなり沸いて出てきたルビーに即答で返すと同時――。
 メルルが放った何かがルビーの全身を縛り付け、即座に彼女の元へと連れ戻されていく。
 そんな光景を眺めながら続けた言葉に、アリサは視線をメルルに向けたまま小さく頷きつつ返事を返してきた。

「最後にもう一つだけ聞きたいことができたんだが……」

 再びの問いかけを口にしたのは恭也だ。
 これまでの受け答えを耳にして新たに疑問が沸いたのだろう。
 その視線が凛と士郎を行き来している事から、何となく質問の内容が想像できてしまった。

「――なにかしら?」
「以前、士郎は自分以外の魔術師を知らないと言っていた。だが、君の話を聞く限りでは君も魔術師のように聞こえたが――」

 意図しての事ではなかったのだろうが、士郎の言は今なお真実のままだった。
 だからこそ、凛は恭也の言葉を否定するように頭を横に振ってから、にやりと笑みを浮かべて答えた。

「士郎の言葉に嘘偽りはないわよ。だって、私は魔法使いだもの――」


 -Interlude-


「――もう少しゆっくりしていけばよかったのに」

 早朝の説明会が終わってすぐのこと――。
 視線で合図をしてきた凛と共に屋敷の外へやってきたメルルは改めて凛と向かい合っていた。

「そうしたいのは山々だけど、カードの回収は急いだ方が良さそうだしね」

 行方知れずになったカードは後七つもある。
 それだけの数を放置すれば、それだけ多くの人を巻き込む騒ぎになるだろう。
 魔法使い見習いの凛としては放置できる事柄ではないのだろうと理解しているが、別れに寂しさを感じてしまうのは止められなかった。

「……本当に手伝わなくていいの?」
「いいわよ。こっちは私とルビーで何とかするから。もしどうにもならない事態になったら、その時はちゃんと頼みに来るわ」

 明るい笑みを浮かべて告げる凛の言葉に笑顔で返す。
 メルルにとっては数ヶ月前――凛にとっては百年以上も前の出来事だが、共に過ごした想い出に違いはない。

「それにしても――楽しくやれているようで安心したわ」
「それはこっちの台詞。リンが元気にしてて安心したよ」

 ――かつて、お互いに目指すべき目的のために協力してきた。
 そうして彼女と共に過ごした数年間は、メルルにとっては士郎との出会いと同じくらいに貴重で大切なものだった。

「――そうそう…メルルに会えたらこれを渡しておこうと思っていたのよ」

 告げて凛が懐から取り出したのは、手のひらに収まる程度の小さなアクセサリーだった。

「宝石剣……のミニチュア?」
「お互いに色々とあちこち移動してたら会いたい時に会えないでしょう」
「これで私の居場所がわかるっていうこと?」

 凛の言葉の意味を正しく受け取り問いかける。
 彼女は少しだけ自慢げに胸を張ってそのアクセサリーをメルルへと手渡してきた。

「ええ、貴女がアイテムを完成させる頃にまた会いにくるから、その時は私の居場所がわかるようにするヤツを一緒に用意しましょう」

 ――それは確信の込められた言葉だった。
 彼女はメルルがアイテムを完成させる事を微塵も疑っていない。
 だからこそ、そんな彼女の信頼に応えるようにメルルはしっかりと頷いて見せるのだった。

「そうだね。頑張って最高のアイテムを創り出すから、楽しみにしてて」
「そうさせてもらうわ。それと…士郎の事――私が頼むのは筋違いだけど……」

 僅かに声のトーンを落として告げる凛の口元に手を当てる。
 彼女の言葉の先を理解した上で、メルルは安心してと告げるように満面の笑みを浮かべた。

「ううん、そんなことないよ。リンの分まで無茶し過ぎないように見守って、いざとなったらシロウに恨まれても手を尽くすつもりだから安心してね」

 凛から聞かされた士郎の事情――エヴァと共に聞いたそれは、メルルにそれだけの覚悟を抱かせるには十分過ぎるものだった。
 そんなメルルの言葉を耳にした凛は、その手に宝石剣と簡易封印を施したルビーを持ち出してから嬉しそうに口の端を歪めて見せた。

「――じゃあね、メルル。また会いましょう」
「――ええ。また会いましょう、リン」

 この広い世界の中で、同じ目線に立って語り合うことの出来る貴重な友人――。
 そんな友との別れにあれこれと告げるほど野暮ではなく、メルルは飾りの無い言葉を口にして彼女の旅立ちを見送るのだった。
 

 

Episode Ex02 -八神家の一日-

 
前書き
番外編です。
時系列的には本編四十九話と五十話の間――七月下旬頃です。 

 

 ――午前四時。
 まだ日も昇らぬ内から動き始める気配が一つ――。
 静かな足取りでリビングへと姿を見せたのは、この家の実質的な家長である衛宮士郎だ。
 彼は見た目こそ少年のそれだが、実際は百年以上を生きてきた男である。
 そんな彼の視線が自身に向けられたことに気付いたザフィーラは四肢を床に立てて身体を起こした。

「――起きていたのか。おはよう、ザフィーラ」
「ああ、おはよう」

 狼形態のまま静かに瞑目し、頭を下げる。
 ザフィーラの主はこの家の持ち主である八神はやてという少女だ。
 彼はそのはやてにとって大切な人物――彼女が特に心を許し、信頼を抱いている人物である。
 主であるはやての兄ともいえる士郎は、ザフィーラにとっては主に次いで大切な存在といえる。

「これからいつもの日課か?」
「ああ」

 彼には毎日のようにこなしている日課がある。
 そうして――今日もまた、普段と違わず家を後にする彼を見送ると、再びリビングに静寂が戻ってきた。
 士郎が戻ってくるまでもう一眠りしようと床に身体を降ろそうとして、唐突に扉が開かれる。
 微かな気配を身に纏ってリビングに姿を現したのは、金の髪を揺らしながら欠伸を零す少女――エヴァンジェリン・A・K・マクダウェルだった。

「――おはようございます」
「うん? ああ、ザフィーラか……おはよう。貴様も相変わらず早くから起きているな」

 告げながらキッチンへと向かい、専用のコップに水を淹れて飲み干していく。
 そんな彼女の姿を眺めていると、彼女は良い事を思いついたといった様子でザフィーラに手招きを向けてきた。
 浮かべられている邪気の無い笑顔――それだけを見れば年格好相応の少女だが、彼女もまた見た目通りの少女ではない。
 彼女は六百年以上を生きてきた吸血鬼――つまり、人の血を吸って生きる化け物……だと本人は自称していたが、今の彼女からそのようなイメージは全く浮かべる事ができない。
 そんな彼女がこのような笑顔を浮かべている時というのは、大抵が降って沸いた思いつきを試してみようという時だ。
 断る術があるはずも無く――ザフィーラは、ある種の覚悟を決めてエヴァの元へと近寄る。
 促されるままリビングに設置されているソファの上へ登って彼女の側に身体を降ろすと、彼女はザフィーラの体毛を一撫でした後に身体を横たわらせ、ザフィーラの身体を枕にして転がってしまった。

「以前にはやてがこうして気持ちよさそうにしていたからどんなものかと思っていたが――なるほど、確かにこれはなかなか心地いいな」

 突然の行動に驚きの声を上げようとして――堪える。
 普段は中々見られない彼女の安らかな表情に毒気を抜かれたザフィーラは、仕方がないといった心持ちで今の状態を受け入れるのだった。



 ・――・――・――・――・――・



 日が昇り、家族全員が朝食を終えてそれぞれの予定をこなしていく。
 そうして日中の家に残るのは、特別な事が無い限りは大体がいつもと同じメンバーである。

「――はやてちゃん。今日は病院に行った後、少しお買い物をしてきてくれって士郎くんに頼まれたんですけど……」

 明るい笑みを浮かべたまま問いかけているのはシャマル――ヴォルケンリッターの一員である。
 そして、彼女と会話を交わしている車椅子の少女こそが八神はやて――ヴォルケンリッターが守護する夜天の魔導書の主だ。
 彼女の膝元には今日もまた夜天の魔導書が乗っており、主である彼女が夜天の魔導書を大切に思っているという事を改めて実感させられる。

「なら、今日はわたしも一緒にいこか。たまにはシャマルと一緒にお出かけしたいしな~」
「はい、じゃあ行きましょうか。ザフィーラはどうするの?」

 手早く出かける支度を済ませたシャマルから声を向けられ、ザフィーラは縁側に横たわらせていた身体を起こして視線を向けた。

「今日はメルルに呼ばれている。もう少ししたら出かける予定だ」
「あら、そうなの?」

 特に驚いていない様子で答えるシャマルに改めて頷きを返す。
 メルルに呼ばれている――と口にした以上、彼女が僅かばかり苦笑を浮かべている理由など考えるまでもなかった。

「ほな戸締まりはお願いな、ザフィーラ」
「はい。主もどうかお気をつけて」

 簡単に挨拶を交わし、出かけていく二人を見送る。
 そうして静かになった家を見渡し、一息ついてから人間形態へと変わる。
 主であるはやてが狼形態を甚く気に入っているため、滅多なことではこちらの形態になることはないが、細々とした事をするのはこちらのほうが楽なのだ。
 そうしていつものように火元などの確認を改めて済ませてから家の裏口へ。外から鍵を掛け、首から下げている巾着に入れてから再び狼形態へと戻る。
 出歩く際にはもう少し小型な方が良いという士郎の意見から、普段とは違って子犬のような姿となったザフィーラは、気を取り直してから目的地へと向かった。



 ・――・――・――・――・――・



 どこか独特の雰囲気を感じる森の中を進んでいく。
 街外れにあるこの森林地帯には現在、ザフィーラたちにも容易には感知できない結界が張られている。
 以前は侵入者の類を寄せ付けないために認識阻害を主とするものが展開されていたのだが、先日に家を来訪した魔法使いの女性の助力を得て、より強固な結界へと生まれ変わっている。
 ――曰く、僅かにずれた異相空間に任意の空間を用意して外界から遮断している……とのこと。
 言葉にすれば大仰だが、入る方法はそれほど難解というほどではない。
 森の奥にある建物に入り、家の最奥にある裏口から出ていくだけ――。
 その際には個人認証が為されるため、特定の人間以外には基本的に作動することのない仕掛けなのだという。
 ザフィーラが認識している限り、この結界を通れるのは八神家の全員と、主であるはやての友人である月村すずか――。
 そして、この結界の奥に自身のアトリエを構えているメルルリンス・レーデ・アールズが気に掛けているという少女――アリサ・バニングスのみだ。
 そんなことを思い出しつつ家の裏口から出たザフィーラは、肌に触れる空気と気配――広がる景色が一変したことを実感しながら先へと進んでいく。
 綺麗な小川の流れるその畔――どこか古びた印象を受ける煉瓦造りの建物こそ、この地の主であるメルルの構えたアトリエだ。

「――いらっしゃい、ザフィーラ。わざわざここまで来てもらってゴメンね」

 アトリエの中へ人間形態となって入ると、すぐにメルルが出迎えてくれる。
 彼女は士郎やエヴァよりも更に長き時間を生きていた女性で、その年齢は千に届くほどだという。
 錬金術と呼ばれる失われた学問を修めた彼女は、こうして独自の拠点を構えて日夜研究に励んでいる。
 その姿は普段とは異なり、どこか学者を思わせるような格好をしている。
 普段の温和な雰囲気よりも、どこか理知的な雰囲気を漂わせる彼女に勧められるままに椅子へと腰掛けた。

「さて、それじゃまずはこれを見て欲しいんだけど――」
「これは……デバイスですか?」

 腰掛けた目前に備え付けられている机の上に置かれたのは、手甲の形をしたデバイスだった。
 洗練された形状と見慣れない材質で構成されたそれは騎士――或いは魔導師が使用する魔導端末そのものだった。

「うん、そうだよ。色々とシャマルにも話を聞いて作ってみた試作品なの。手甲型だから、テストを頼むならザフィーラがいいって彼女も言ってたから」
「――なるほど。士郎のデバイスを造られていたのですね」

 彼女の真意を悟り、頷きと共に問いかける。
 すると彼女は少しばかり表情を曇らせながら頷いた。

「……大丈夫だって思ってても、この間のような事がまたあるかも知れないしね」

 彼女が危惧しているのは以前に士郎が戦闘を行った一件だろう。
 あの戦いは映像を持ち帰ったヴィータのおかげでザフィーラも目にしたが、アレを目にしてどのような感情を抱いたかは各々異なるはずだ。
 とりわけメルルは心配を募らせたらしく、そんな彼のためにデバイスを用意して渡すつもりなのかもしれない。

「そういうことであれば、喜んで協力しましょう」
「ありがとね。じゃあ、まずはこのデバイスを使ってもらって、この試作型の魔導炉とリンクを――」

 彼女が用意していた機器を一つずつ試していく。
 そうしてその日――ザフィーラは魔力を枯渇させる直前までテストを繰り返して一日の大半を過ごすのだった。



 ・――・――・――・――・――・



「――今日は大変だったようだな」

 夕食後に庭に出ていたザフィーラの背後から声が掛かる。
 振り返った先にはシグナム――ヴォルケンリッターの将が、気遣うような視線を向けてきていた。

「俺が役に立てたのならそれでいい」
「そうか。そうだな……確かに、我らの力や魔導が役に立つというのなら惜しむ理由などないな」

 共に主であるはやてを守護する者――。
 主と共に過ごす家族である士郎やメルル、エヴァに抱く親愛の感情は同じだと笑みを浮かべ合う。
 揃って家の中へと戻ると、リビングには士郎とエヴァ――そしてヴィータだけが残っていた。
 のんびりと本を読んでいたエヴァに聞けば、シャマルとはやては風呂へ向かい、メルルは自室に戻っていったらしい。

「――なあなあ、冷凍庫に置いてあるバニラアイス食べてもいいだろ~」

 キッチンで何かを作っている士郎の背にヴィータがねだるような声をあげる。
 ヴォルケンリッターの一員であるヴィータは、普段はザフィーラやはやてと共に家で過ごしている。
 時折近所の老人会が行っているゲートボールチームに混ぜてもらっているらしい。
 士郎のズボンを引っ張りながら告げる彼女の腕には、以前はやてに買って貰ったウサギの人形と、そのウサギの首に下げられているスカーフに設けられたポケットに収まっている士郎人形がある。

「お前……さっきあれだけ食べてまだ食べるのか?」

 ザフィーラの隣に立つシグナムがどこか呆れたような声を零した。

「うるせーな。育ち盛りなんだよ! はやてのアイスはギガウマだけど、士郎のアイスはもっと美味しいもんな……」
「仕方が無いな。ちゃんと取り皿に移してから食べるんだぞ」
「うん!!」

 士郎の許可を得て満面の笑みを浮かべたヴィータは、そのままアイスを取りに冷凍庫へと近付いていく。
 そんな一連の流れを眺めていたエヴァは、読んでいた本を閉じてから士郎へと視線を投げた。

「――士郎。そろそろどうだ?」
「ちょうどできた。シグナムとザフィーラもよかったらどうだ?」

 エヴァに促されるようにして士郎がテーブルの上に置いたのは、大きなガラス容器に入れられた色取り取りのフルーツと液体だった。

「いわゆるフルーツポンチというやつだ。忍から新鮮なフルーツを沢山もらったのでな」

 士郎の説明を聞いてシグナムと顔を見合わせたザフィーラは、士郎に向けて小さく頷いて見せる。
 返答代わりに笑みを浮かべた士郎はそのまま小分けするための容器を用意していた。
 容器が家の住人分用意されているということは、ザフィーラたち以外は食べるという前提で作っていたからだろう。
 実際、家人の中で甘味にそこまで関心がないのはザフィーラとシグナムの二人だけだ。
 もっとも――ザフィーラと違い、シグナムがどうなのかという本当のところはわからないのだが……。

「――あ、もう用意できたんやね」
「士郎くん手製のフルーツポンチ……美味しそうですね」

 図ったようなタイミングでリビングへとやって来たのは、入浴を済ませたばかりのはやてとシャマル――。
 そして、そんな彼女たちに続くように、二人の背後からもう一人の姿が近付いてくる。

「――もう出来たんだ? 少し飲み物をもらおうと思って降りてきたんだけど……ちょうどよかったかな」
「メルルも食べるだろう? はやてとシャマルの分も用意してあるから席に着くといい」

 そうして――家族全員が揃って席に着く。
 もちろんザフィーラが家で狼形態のまま過ごす旨は士郎に伝えてあるため、ザフィーラにだけはガラス製の綺麗な深皿に取り分けてくれている。
 歓談の合間に皆が果物を口に運んでいく姿を眺めていたザフィーラは、すっかり当たり前になったこの日々に感謝しつつ、静かに笑みを浮かべるのだった。

 

 

Episode 50 -選択と決断-

 
前書き
本編第五十話です。
 

 

 ――日々は駆け足で過ぎ去っていく。
 それが心地よく平穏なものであればあるほど時間の流れは早く感じられる。
 けれど、いつまでもそうして過ごすことが出来ない事は身を持って知っていた。
 だからこそ、先の見えない未来の先に立った時、過去を後悔しないようにと決断を下していく。
 何を優先し、何を置き去りにしていくのか――。
 それら全てを胸の内に秘めたまま、彼――衛宮士郎は、ある一つの日常に別れを告げるための準備を進めていた。

「――そう。寂しくなるわね」

 事情を丁寧に話し終えると、彼女――高町桃子は言葉の通り、寂しそうな笑みを浮かべた。
 そんな彼女に対して今の士郎から言える言葉は余りにも少なく、ただ真摯に決意を伝えることしかできなかった。

「……申し訳ありません」
「――事情あっての事なんだ。士郎君が気にすることじゃないさ。確かに僕も桃子も寂しくは思うけどね…」

 静かに頭を下げると、桃子の隣に腰掛けていた高町士郎は静かな口調でそう切り出した。

「店としては痛手だけど、士郎君のお陰で他の皆もいい刺激を受けたし、新しく入った子たちにも直接指導してもらうわけだから」
「はい」

 気にしなくていいよ――と、夫妻揃って明るい笑顔を浮かべてくれる。
 そんな二人に心の内でもう一度――心の底からの感謝を告げるように頭を下げた。
 ――そうして、今後の予定を簡単に決めてから部屋を後にする。
 この日の業務は既に終えていたため、士郎はそのまま更衣室へ戻って着替えを済ませた。
 すっかり見慣れてしまった更衣室を一度流し見た士郎は、この場所にも愛着を覚えていた事を実感しながら部屋を後にするのだった。

「ふう……」
「――おつかれさま、シロ君」

 更衣室を出たすぐ目前――。
 小さく息を吐いた士郎の目の前には、まるで待ち構えていたというような様子で立つ高町美由希の姿があった。

「ああ、おつかれさま。美由希も今日はもう終わりか?」
「うん。もうすぐ夏休みも終わるしね」

 既にエプロンを外して帰り支度を済ませている美由希は明るい笑顔を浮かべてそう告げた。
 時刻は午後二時――外に見える日差しは厳しく、気温は茹だるように暑いままだろう。
 けれど、暦の上ではすでに夏は終わり、彼女たち学生も夏休みという名の長期休みの終わりを目前に控えている。
 休みの間は平常よりも長く店に出てきていた高校生の美由希だが、これからは再び平常のシフトに戻していくのだろう。

「ところで、シロ君。今日はこれから何か用事とかあるの?」
「いや、特にはないが……」

 覗きこむようにして尋ねてくる美由希の言葉に即答で返す。
 皆それぞれに予定があるため、これから真っ直ぐに家へ戻った所で誰もいない。
 特に予定もないので、家の戻ったら自室で読書でもして過ごそうかと思っていた程度だ。
 そんな余暇の過ごし方を頭の片隅に押しのけてそう告げると、彼女は嬉しそうに破顔した後、少しだけ頬を赤く染めて口を開いた。

「……じゃあさ、これから私とデートしない?」
「……えっ?」


 -Interlude-


 どこか浮き立つような気分を自覚しながら街中を歩いていく。
 目的の場所――海鳴臨海公園に足を踏み入れ、心地よい潮風の中を更に進んでいった。
 そうして公園の中央にやってきた美由希は、目指していた場所に立つ一人の男の背を見つけて小走りに近寄っていった。

「――おまたせ」

 声をかけると同時に彼はゆっくりと振り向いた。
 いつかの時とは違って普通に近づいたのだから、彼には美由希が近くにやってきていることなどわかっていた筈だ。
 けれど、彼は普段もそうしているように――声をかけるまで気づいていなかったというように、自然な素振りで美由希へと向き直った。

「いや、俺も今来たところだ」

 言葉を口にしながら表情が微かに驚きを刻んでいる事に気づいて、美由希は浮かべていた笑みを深めた。
 普段とは異なる雰囲気を身に纏っているせいか、士郎が向けてくる視線に僅かばかり鼓動が早まったが、それを必死に隠して簡単にポーズを決める。

「――どうかな?」

 カジュアルだが、いつもよりも落ち着いた色調に整えた服装に身を包んだ自身の姿――。
 メガネは外してコンタクトを使用しており、髪もおさげにはせずにそのままストレートにしている。
 鏡で見たそんな自分がまるで別人のようにも見えた美由希だが、果たして彼の目にはどのように映っているのだろうか――。

「――普段とはまた随分と違う印象になるものなんだな。けど、そういう格好もよく似合っていると思う」

 真っ直ぐに視線を向けたまま、柔らかな笑みを浮かべた彼は臆面もなくそんな事を口にした。
 落ち着いた声音と態度はいつもと変わらないはずなのに、どこか年齢相応に聞こえるその言葉に美由希の動悸は強くなっていく一方だった。

「あ…はは……なんか照れ臭いけど、そう言って貰えると気合を入れてきた甲斐があったかな」

 照れ隠しをするようにそう告げても彼は優しく笑みを浮かべたまま――。
 そんな振る舞いが美由希の目には大人びて見えたのだが、彼はふと表情を改めて苦笑を浮かべた。

「……しかし、これではこちらが見劣りしてしまうな」

 黒を基調とした服に身を包んだ自身の姿を見ながらそんなことを口にする士郎に対して、美由希ははっきりと首を横に振って否定の意思を示した。

「そんなことないよ。シロ君、何時もより凄く大人っぽいし、格好いいから」
「む……まあ、君がそう言ってくれるなら、そう思うことにしよう。それで、今日はどこか行きたい場所があるのか?」

 窺うように尋ねてくる士郎に頷きで答える。
 ただ……それは最後で構わないため、これから一緒に過ごすための予定には使えないというだけのこと――。

「折角こうしてデートしてるんだし、色々行ってみるっていうのは?」
「そうだな。なら、交代で希望を出していく――ということでいいか?」

 互いに異論無く打ち合わせていく。
 息が合っている――というよりも、彼が合わせてくれているのだろう。
 年上の人にリードしてもらっているような錯覚を覚えながら、美由希は最初から考えていた唯一のプランを脳裏に浮かべて言の葉に乗せた。

「うん。じゃあ最初は私からでいい? 近くに美味しいって噂の食事処があるから、そこでお食事っていうのはどう?」
「昼食にはちょうどいい時間だし、反対する理由なんてない。案内は任せても?」
「もちろん! じゃあ、行こっか」

 正面に立つ士郎の側へと移動してその腕を取り、抱くようにして引っ張っていく。
 こうした接触に慣れているのか――彼は少しだけ照れたように笑いながら、特に抵抗すること無く隣を歩いてくれた。
 向かう先は同級生たちや店にやってくる人たちから噂で聞いていた和風レストラン――。
 そこからどういった場所を巡っていくのかを楽しみにしながら、美由希は生まれて初めてのデートを満喫しようと心に決めるのだった。


 -Interlude out-


「――大衆向けに構えられた店舗の割に材料もいいし、手間も掛けられている。これでこの値段なら、確かに人気があるのも頷けるな」

 美由希と共に向かった店で昼食を終えた士郎は、感心した様子を隠す素振りさえ見せずに感想を口にする。
 それを聞いていた美由希は同意するように頷きを返してくれた。
 そんな彼女と向き合う形で足を止めた士郎は、何かを期待しているような目を向けてくる美由希を真っ直ぐに見つめながら考えを纏めていく。

「それでは、次は俺の番だな。趣味で読んでいる古書がそろそろ打ち止めになりそうなんだ。それを扱っている店が商店街の外れにあると聞いた。そこに行きたいと思うが――どうかな?」
「うん、いいよ。私も興味あるし、気に入ったのがあったら何冊か買っていこうかな」

 乗り気な彼女と肩を並べ、再び腕を組んだ状態で歩いて行く。
 流石に街中でそうしていれば目立つのか――。
 周囲からの視線をひしひしと感じながら、士郎は努めて冷静に目的地へと向かって行く。

「そういえば、シロ君って学校とかに行くつもりはないの?」
「ああ。特にその予定はないな」

 そんな周囲の視線など気にしていないといった様子の美由希から尋ねられた質問に即答で返す。
 彼女にとっては予想通りの返答だったようで、すぐ側に見える彼女の横顔には柔らかな笑みが浮かんでいた。

「そっか…残念。シロ君なら制服とか似合いそうなのに」
「これでも一応大学卒業程度の学力は保持しているし、学歴というものを欲しているわけでもないしな……」

 そんな会話を交わしながら辿り着いたのは、古びた様子のないこぢんまりとした古書店――。
 一昔前からひっそりと存在していたといったようなその店は、海鳴では知る人ぞ知る名店なのだという。
 この店では見当たらない古書も、頼めば必ず仕入れてくれるため、古書を愛読する人間にとっては大変に有り難い場所なのだとか――。

「――ふむ、確かにいい品揃えだな」

 目当ての本を数冊ほど見つけた士郎は、そのまま本を手に会計を済ませた。
 見渡して見ると、自分たち以外にも数人の客がいることが確認できる。
 誰もが古書に夢中になっているその中で――美由希は特に夢中になって様々な本に目を通しては手元へと重ねていく。
 すでに十冊――手持ちのお金は足りているのだろうかと心配になったが、そんな心配は杞憂だというように、彼女は十数冊の本を購入して満足そうな笑みを浮かべていた。


 -Interlude-


 交代で目的地を告げていくデートの只中――。
 古書店で買い物を済ませた美由希は、士郎と共に"その場所"へと訪れていた。

「――私の剣は、貴方が瞬きをするより早くその首を落とすよ」
「――剣を執るのは、必勝を誓った時のみだ」

 互いに気合いを込めた言葉を口にし、武器を構えて前進する。
 自身も相手も手にする得物は互いに双剣――。
 それが日本刀か中華刀という違いもあるが、最大の違いはその戦闘スタイルにある。
 美由希は速度を重視し、気配遮断を活用した俊足の追い足を最大限に発揮した急襲タイプ――。
 対する士郎は、双剣による鉄壁の護りと的確な状況予測――そしてそれらを活用したカウンター攻撃を主体とする技巧派タイプだ。

「私の技が……止められた!?」
「ふん――その程度の攻撃が通るとでも?」

 堅牢な護りと的確な予測に基づいた回避を前に攻撃手が次々に捌かれていく。
 それでも攻撃を敢行するのは、それしか手段を持ち合わせていないと思わせること――。
 相手に自身が大した相手ではないと思わせると同時に優勢を保たせるため、切り札を温存したまま攻防を繰り広げていく。
 ――既に限界は近い。
 だが、それは逆に言えば好機が迫っているということ――。
 そうして幾度目かになる攻撃を防がれた瞬間――美由希はそれまで温存していた技を使用した。

「――なにっ!? ガードをすり抜ける…だと!!」
「これが――私の切り札だよ」

 ガードをすり抜けて相手を切り捨てる一撃必殺の技――。
 限界ギリギリまで追い詰められることで、初めて真価を発揮するその技に、士郎は断末魔の声を零す。
 そうして――美由希が向かい合うような形で座っていた筐体に備え付けられていた画面には『YOU WIN』の文字が、堂々と浮かび上がってくるのだった。

「――流石に強いな。いつもこうしたゲームで遊んだりしているのか?」

 悔しがっている姿が見られるかと思っていた美由希だが、むしろ感心した様子の士郎を見て僅かばかり肩を落とす。
 色々とノリよく付き合ってくれた異世界混合バトルゲーム――。
 対戦中のノリの良さが嘘のように冷静な彼の姿に、美由希は少しばかり気持ちを落ち着かせてからゆっくりと肯定するように首肯した。

「シロ君は、こういうゲームとかあまりしてなさそうなイメージだったけど?」
「これの家庭版が家にあるんだ。エヴァやヴィータがよく遊んでいてな。休日に家にいるとよく付き合わされるから、それで自然と操作を覚えてしまったというわけだ」

 彼の住む家には大勢の人が暮らしている。
 八神の家の名が示す通り、家主はなのはと同じ年齢の少女――八神はやて。
 そんな彼女の兄代わりである居候の士郎や、その士郎の友人として厄介になっているというメルルとエヴァ――更には海外からやってきたというはやての親戚たちまで同じ屋根の下で暮らしている。
 総勢八人の大家族となった八神家だが、年長者であるメルルに尋ねてみれば、実質的な家長は士郎なのだという。

「なんにしても、こうやって出先でゲームをするというのも悪くはないな」

 冷静な声音で告げる士郎だが、その表情は明るい。
 意外とこういったものに強い関心を抱いているのかもしれない。

「さて――次は俺の番だな」

 ゲームセンターを後にしてすぐに告げられた士郎の言葉に耳を傾ける。
 そうして彼が指定したのは、美由希が最後に立ち寄るつもりでいたあの場所――。
 ――海鳴臨海公園。
 望むままに公園へと向かった美由希は、士郎と肩を並べたまま――かつてデートを開始したその地点へと向かうのだった。


 -Interlude out-


 夕暮れの海を眺めながら、すぐ隣で同じように海を眺めている女性へと視線を向ける。
 士郎が向けた視線の先――そこには、肩と肩が触れあうような距離で並び立つ美由希の横顔があった。

「――う~ん。楽しかったね、シロ君」
「そうだな。中々こういった事はした事がなかったからな。柄にも無くはしゃいだ気がするよ」

 女性と二人で遊びに出かける――という行為そのものに不慣れだったという事もあるのだろう。
 他の誰と出かけるにしても、そこに遊びという要素を加えた覚えは殆どなかったからだ。
 とはいえ、見た目の年齢を考えれば自然な事なのだろう。
 事実――街中を二人で回っている間の美由希は普段とは違い、年齢相応の少女らしさを垣間見せてくれた。

「それで……今日の本題は何だったんだ?」
「もう…シロ君はせっかちだね。ほら――前に一度相談受けたでしょ? 今の状態で自分がシフトを抜けたら大変そうだなって」

 それは七月の終わり……件のカード事件が終わって少し経った頃の事――。
 八月になったらこの世界を離れ、次元世界の向こうへと帰ることが決定したユーノからの相談を受けた直後に口にした言葉だった。
 ユーノから伝え聞いたのはクロノからの伝言――。
 ――それはプレシアの裁判が決着する予定だ……という、予想外のモノだった。
 事件そのものが小規模に終わったとはいえ、管理外世界において違法行為を重ねていた事は紛れの無い事実だ。
 そんな彼女に下された判決は、魔力の大部分を封印処置するというモノと数年間の執行猶予期間を保護監督の元で過ごすというモノだった。
 これはプレシアの協力によって得られた情報――過去に起きたアリシアの事故に関する証言や、捜査などに協力的な態度等が考慮されており、その上でリンディやクロノの協力があったからこその結果だろう。
 ともあれ――そんな結末を迎える予定の時期にクロノからユーノを通じて打診されたのは、ユーノがこれから従事する予定の仕事を手伝うという名目で、プレシアに会いにこないかというものだった。
 結局――様々な要素を考慮してその話を受けることにした士郎は、差し当たっての問題を解決するために仕事仲間である美由希に相談してみた……というのが今回の件の真相である。

「すぐにわかったよ。ああ――シロ君はお店を辞めちゃうんだなって……」

 少しだけ寂しそうに笑ってから数歩前に歩いていく。
 そうして道の端に備え付けられていた柵に背を向けた彼女は、夕暮れを背にしたまま真っ直ぐに視線を向けてきた。

「……君に相談した時は、そんな事は一言も口にしなかったはずだが?」
「わかるよ。だって、あの時と同じだったから……。大切な用件があるからって家に来た時と同じ――何かを決意したような雰囲気だった」

 彼女の感覚が優れていたのか、隠しきれなかった自身が未熟だったのか――。
 あるいはその両方だったのかもしれないが、今となってはわからない。
 ただ、それを察していたという彼女は今も変わらず寂しそうに笑みを浮かべたまま視線を逸らそうとはしなかった。

「シロ君はいつもそうだよね。こうだって決めたら、迷いも見せずに先へ歩いて行こうとする」

 それはどうして――と。
 僅かな疑問と興味からの言葉に、士郎は少しだけ表情を改めて自身の心情を口にする事を決めた。

「――後悔だけはしたくないんだ」
「後悔?」
「ああ。あの時こうしていればよかった――あの時にこうしていなかったら……そんな言葉で自分の歩んだ道を否定したくない」

 口にすれば際限なく溢れてくる言葉たち――。
 自己を省みるという意味では間違っていないのかもしれないし、精神的な意味での自己保存を計る上では必要な心の働きとも言えるだろう。
 けれど、それはこれまでの士郎には遠いモノ――決して自身には縁の無いモノだったというだけのことだ。
 なにより――これまで流してきた数多の血や払ってきた犠牲を思えば、今という時でさえそんな贅沢は身に余るという思いがあった。

「――恭ちゃんがね……夏になってから、馬鹿みたいに厳しい鍛錬をしてるんだ。まるで……そう、まるで何か目標を見つけたように、嬉しそうな顔して」

 その話は士郎もなのはから耳にしていた。
 事件後に頼み込み、恭也たちに体術を教えてもらうことになったなのはだが、彼女の目から見ても恭也の訓練は苛烈極まりないという――。

「私の見立てだと、その目標に見据えているのがシロ君なんだよね」
「……それは、君の勘か?」
「うん、ただの勘だよ」

 悪びれもなくそう告げる美由希の姿はどこか儚く見えて――。
 ――それが、いつかの日のなのはと似ていると思った。

「私はさ…恭ちゃんや忍さん、なのはのようにシロ君の事情を詳しく知ってるわけじゃないし、無理に知ろうとも思わないけど……それでも、シロ君を殆ど毎日見てたから」

 だから、なんとなくでもわかると彼女は告げる。
 そんな彼女がこれから何を告げようとしているのか――。
 それがわかっていながら、士郎はそれを受け止める事だけはせずに視線だけを交わし続ける。
 数秒ほどそうして、ふいに彼女が何かを納得したように小さく頷き、ゆっくりとその視線を海へと向けた。

「――だからね。シロ君から相談を受けた時にピンときたの。ああ、シロ君はここからいなくなるつもりなんだなって」
「それは、君が寂しく思ってくれていると思い上がっていいのか?」

 敢えて冗談交じりにそう告げると、彼女は思わずといった様子で士郎へと視線を向け――肩を揺らして笑った。
 そうした気遣いが"らしくない"と思ったのだろうが、遠慮無く笑う彼女からは先程までの儚い雰囲気は微塵も感じられなくなっている。
 一頻り笑った後、彼女は呼吸を落ち着けてからゆっくりと頷いて見せた。
 
「もちろんだよ。それに、私がこうして男の人とデートしたのはシロ君が初めてなんだからね」
「お互い様だろう。俺も、こうして女性と遊びに出かけたのは初めてだぞ」
「……ほんとに?」
「ああ、遊びに出かけたのは……な」

 疑うような視線を向けてくる美由希に、ありったけの真実を込めてそう告げる。
 察しの良い彼女はそれだけで言いたい事を理解してくれたらしく、ガクリと肩を落として落ち込んでしまった。

「あ……そういえば、聞くの忘れてたんだけど――シロ君が翠屋を辞める理由って結局は何なの?」
「海外にいる知り合いから仕事を手伝って欲しいと――短くても一、二ヶ月。長くても三ヶ月程度の期間だけでもと言われてな。理由はそれだけではないが、主な理由はそんなところだ」

 クロノから依頼を受けた仕事――。
 それは、ユーノが引き受ける事になった業務の補佐と補助というものだった。
 ――管理局の本局にあるという"無限書庫"という名の巨大な倉庫を発掘調査し、有用に活用できる体制を整えたい。
 現場でそれなりに結果を出してきた執務官としての意見が上層部に認められたため、クロノはその調査に際してユーノを推薦し、その補助として士郎を当てたいというのだ。
 そこにはプレシアと直接顔を合わせられるようになったという要素や、以前にクロノが口にしていたような勧誘目的も多分にあるのだろう。
 だが、士郎がいまの生活を置き去りにしてでも依頼を受けようと決意したのは、その無限書庫と呼ばれる場所に士郎自身も用があるからに他ならない。
 あらゆる世界の有形資料が様々な形で無作為に集められているという無限書庫――。
 そこには遙か過去から連綿と続く世界の歴史そのものが集められており、過去に滅びた文明についての情報も例外では無いという。
 クロノが様々な事件と向き合う執務官として無限書庫の有用な利用を訴えたのも、そこに集められている情報に一定以上の価値を見出しているからだ。
 そして――恐らくそこには、夜天の書の情報も少なからず存在している筈だ。
 地球上ではどうやっても調べる事が出来ない異世界の魔導書――。
 それを調べるためには、最低でも地球での日常は置き去りにしなければならない。
 だからこそ――士郎は翠屋を自主的に辞め、せめて後進の人材を確保して育てることで店への負担を減らそうと思ったのだ。

「ふ~ん。まあ、シロ君らしいっていえばシロ君らしい理由だね」

 納得したように告げる美由希の言葉を耳にしながら、公園に備え付けられている大きな時計へと視線を向ける。
 ――見れば、時刻は既に午後の六時を過ぎていた。
 如何に残暑厳しい八月の終わりとはいえ、時間と共に周囲が次第に薄暗くなっていくのは当然のことだ。
 言外に今日はここまでだと告げたように聞こえたのだろう――。
 美由希は一度小さく頷いてから海に背を向け、士郎の横を通り越えて真っ直ぐに歩いていく。

「――それじゃ、今日はこれで解散だね」

 振り返って告げられた言葉に頷きを返す。
 美由希と過ごした数時間を思い出しながら、士郎は静かに感謝の言葉を口にした。

「今日は楽しかった。ありがとう、美由希――」
「私もだよ。じゃあね、シロ君。また明日――」
「ああ――また明日」

 言いたい事や聞きたいことはまだまだ沢山あるのだろう。
 それでも彼女は、そうして全てを胸の内に秘めたまま一足先に公園を後にして去っていくのだった。




 ――そうして彼女を見送った士郎は小さな溜息を零してから帰路についた。
 家に戻った瞬間、家の女性陣――ザフィーラを除いた全員から、何故か知られていた今日のデートの件について問い詰められた…というのは完璧な余談である。

 

 

Episode 51 -暫しの別れ-

 
前書き
本編第五十一話です。
 

 

 夏の熱が未だ僅かに残る十月――。
 関係各所との連絡調整を済ませた士郎は、いつかの波止場で釣り竿を構えたまま簡易椅子に腰掛けていた。

「――こんなところにいたのか?」
「エヴァ……」

 ――声の主が誰であるかなど振り返るまでもない。
 士郎は声の聞こえた背後へと振り向きながら、静かに彼女の名を口にした。

「ふん。貴様の事だから、どうせ一人になれそうな場所でのんびりしていると思ってはいたが……」

 どこか呆れたような口調で零しながら傍へとやってくる。
 そうして――士郎がすぐに用意して見せたもう一つの椅子を受け取り、手早くそれを展開して腰掛けた。

「……釣り竿もすぐに用意できるが?」
「――いらん。それに、貴様も全然釣れていないではないか…」

 エヴァの視線は空のクーラーボックスへと向けられている。
 本気で釣りをするために来たのなら落ち込むべき惨状なのだろうが、生憎と今日は魚を釣る事を目的としているわけではない。

「それはそうだろう。なにしろ針が"これ"だからな」

 釣り竿の先から伸びている糸を手元のリールを使って巻き上げ、糸の先端につけられた針を手にとって見せる。
 通常の針とは異なり、ただ真っ直ぐに伸びたその針では真っ当な魚釣りなど出来るはずも無い。
 だからこそ、それを目にしたエヴァはすぐに納得したように頷いていた。

「――考え事でもしていたのか?」
「まあな。それにしてもエヴァがここに来たのはちょうどよかった。少し話がしたいと思っていたところだったんだ」
「……なんだ?」
「今更だが……本当によかったのか?」

 問いかけに、エヴァは特に表情を変えること無く視線を海へと向けた。
 明日には管理局の本局へと赴く事になっている士郎だが、理由があるとはいえエヴァたちを置いていくのは事実だ。
 その事で何かを言われると思っていた士郎にとって、エヴァが着いてくると言い出さなかった事は意外に思えて仕方がなかった。 

「別に構わないさ。ここでの生活もそれなりに満喫しているし、それに――お前はちゃんと戻ってくるんだろう?」

 恐らく、かつて麻帆良学園に封印された際の事を思い出しているのだろう。
 いつか封印を解いてもらうと約束を交わし、結局それが果たされないまま過ごした十数年――。
 言質を取るような口調で尋ねてくるエヴァに対して、士郎は迷うこと無く頷いて見せた。

「――ああ、約束する」

 真っ直ぐに視線を交わしながら告げると、彼女は途端に表情を緩めて見せた。
 それはこの数ヶ月で彼女がよく見せてくれるようになった柔らかな微笑だった。

「ならいいさ。無限書庫とやらには私も興味があるが、わざわざ管理局などという胡散臭い組織の中へ出向くのも億劫だしな。お前の土産話を楽しみにしているとしよう」

 それきり――彼女は口を閉じ、士郎の側に腰掛けたまま並んで海を眺め続けた。
 ――特に何かがあるわけもなく、ただ時間だけが過ぎていく。
 波の音や鳥の声が耳に届くばかりで、周囲からは人の話し声などは一切聞こえてはこなかった。

「それにしても…本当に人気の無い場所だな。のんびりとするにはちょうど良いかもしれんが……」

 ゆったりとした口調で告げられた言葉に同意するように頷く。
 ふと――背後から人が近付いてくる気配を感じ取り、エヴァと二人揃って背後へと振り返る。

「――あれ? 士郎くん……と、エヴァちゃん?」

 意外そうな声を零しながら波止場へと近付いてきたのは、私服に身を包んだなのはだった。
 彼女は士郎とエヴァを見つめながら、少しだけ歩調を速めてやってきた。
 
「む……ヤツはお前の招待か?」
「いや、偶然だ。――奇遇だな、なのは。今日はどうかしたのか?」
「ううん、別にどうってわけじゃないんだけどね。ただ、何となく懐かしくなって久しぶりに来てみたんだ」

 士郎たちの傍へとやってきた彼女はそう告げながら海へ向かって立ち、空を眺めるように天を仰いだ。
 その姿がいつかの日のなのはの姿と被って見えて――。
 どこか懐かしい気分を覚えながら、士郎はそんな彼女の背に向けてそっと言葉を投げかけた。

「……あれから一度もここへは足を運ばなかったのか?」

 それが"いつの事"を指しているのかはすぐに察しが付いたのだろう。
 なのはは視線を下ろし、のんびりと釣り竿を手にしたまま座っている士郎へと視線を向けて小さく笑った。

「それどころじゃなくなったしね。だから、今日は本当にただの気まぐれだよ」
「そうか」

 偶然にしては出来過ぎだといえるこの状況に、二人揃って笑みを浮かべあう。
 そんな士郎の視界の端で、僅かばかり不機嫌そうな表情を浮かべたエヴァが士郎となのはの顔を交互に見比べながら小さく咳払いをした。

「……話が見えんが?」

 至極尤もなエヴァの言葉に士郎はもう一度なのはと顔を見合わせ、エヴァへと視線を戻した。

「――ここは俺がなのはと出会った場所なんだ」

 メルルと離れ離れとなり、やはりこれからも変わらず一人で過ごしていくのだと理解した頃――。
 自身の幸せというものについて考えを巡らせながら海を眺めていた士郎のすぐ近くで溜め込んだ想いを吐き出していた少女と出会った。
 それがきっかけ――以降に続くあらゆる出会いと日常の始まりの出来事である。

「そういえば、あの時も士郎くんは釣りをしてたよね?」
「あの時はちゃんと食料を調達に来ていたんだ。埠頭に来る理由としては真っ当だろう」
「あはは、確かにそうだね」

 波止場にその日の食料を求めて釣りにくる人間が果たして何人いるのかはわからないが、魚を釣りに来ていたことは事実だ。
 海を眺めにくるよりも――そして、海に向けて声を上げるよりも自然な理由だったからだろう。
 士郎の言葉を耳にしたなのはは、どこか納得したような様子で同意の言葉を返してくれた。

「ふむ……そもそも、貴様は何をするためにこんな場所に来ていたんだ?」

 エヴァからの質問はなのはに向けて告げられる。
 士郎が波止場にいた理由は納得したようだが、それならばどうしてなのはがこんな場所へ来ていたのか――と。

「――う~ん、改めて振り返って見ると……憂さ晴らし…かな?」

 当時の事を思い出しているのだろう。
 どこか寂しげな表情を浮かべた後、苦笑いを浮かべたなのはが当時の心境を述懐する。
 そんな彼女の様子がお気に召したのか――エヴァは少しばかり笑みを深めてなのはへと向き直った。

「ほう……貴様にも溜め込むような何かがあったのか?」
「それはまあ…色々とね。今だってその頃と根本的に変わったわけじゃないけどね。ただ、少しだけ前向きに考えられるようになったの」

 告げて柔らかな笑みを浮かべてみせる。
 それで少なからず察したのか――エヴァは途端に笑みを消して小さな溜息を零した。

「それなりに解決済みということか……つまらん」
「もう……まあいいけど。それじゃ私はこれで――またね、士郎くん」
「ああ、君も気をつけてな」

 本当にここへは只の気まぐれでやってきていたのだろう。
 既に出立の挨拶を個人的に交わしていたこともあり、なのはは特にそれ以上を告げることなく立ち去っていった。
 そんな彼女の背が見えなくなるまで眺めていると、ふいにエヴァの視線が士郎へと向けられたことに気付く。

「――それで?」
「……何だ?」
「ヤツとの出会いは、本当にそれだけだったのか?」
「ああ。釣りをしていた俺に気付かずやってきた彼女がここで憂さ晴らしをしていった――それだけだ」

 有りの儘の事実を出来る限り客観的に告げると、エヴァは少しばかり考え込むようにして腕を組んだ。
 そうして何かを思いついたといった様子で小さく頷いた後、椅子から腰を上げて士郎の傍へと近付いてきた。

「――士郎。少し頭を貸せ」
「うん? まあいいが……」

 言われて頭を彼女の傍へと寄せる。
 その頭頂部に手を添えるようにして立つエヴァは、静かに目を閉じて何かを呟いてみせる。
 それが、いつかの日に彼女が口にしていた魔法の始動キーだった事に気付くよりも早く、エヴァは少しだけ残念そうな表情を浮かべてから手を離した。

「――ふむ……やはり無理か」
「何が無理なんだ?」
「いや、なに……お前の記憶を覗いてみようと思ったのだが――上手くいかん。まあ、今の私ではお前の夢や記憶を強制的に覗けるとは思ってはいなかったがな」

 さらりと危ない発言をするエヴァに苦笑を向ける。
 これまで少なからず彼女が扱う魔法を目にしてきた士郎だけに、彼女の言葉が冗談などではないと悟るのに時間は必要なかった。

「――君の扱う魔法にはそんなモノまであるのか?」
「まあな。気を悪くしたなら許せ。成功しないと思っていたからこその悪戯だ」

 曰く――彼女の扱う魔法ならば、強制的に相手の精神を捉え、刻まれた記憶を読みとる事が出来るのだという。
 それなりに耐性のある相手には通じにくいものらしいので、士郎がそういった干渉に対して強い耐性を持っている事も大きいのだろう。
 魔力の大半を失っているという現状もまたエヴァが成功しないと判断した大きな要因なのだろうが――。

「つまり、俺がエヴァに対して協力的なら成功する可能性はあるということか……」
「……士郎?」
「いや…別に君個人に対して隠し事をしていたいというわけじゃないしな。ただ、どう言葉にしても俺の主観が多分に混じったモノになるだろうから好んで語りたくはないというだけだ」

 過去の出来事や経験を詳しく語れば数日ではとても語り尽くせないだろう。
 だからこそ、これまで自身の過去を口にする時も出来る限り客観的かつ端的にしてきたのだから――。

「――いいのか?」
「君がどうしても知りたいというのなら別に構わないさ。ただ、お勧めはしないがな。我ながら見苦しい人生を送ってきているし――覚えている大半は争いの記憶だ。正直に告白すれば、似たような経験をしてきている筈の君にしか明かせないかもしれない」

 他の者は兎も角として、なのはやアリサ、すずかやフェイト――はやてに見せていい類の記憶では無いという自覚はあった。
 言葉にして伝える事と、実際にそれを目にすることには大きな隔たりがある。
 あれは――士郎が見てきたモノの大半は、およそ自己が確立しきっていない子供たちに見せていいものではないと確信していた。

「……何にしても試してみなければ成功するかどうかもわからんな。士郎――少し後ろに下がってこちらを向け」

 士郎の言葉を聞いても戸惑いも迷いも見せず、ただ真摯な表情を浮かべるエヴァが小さく手を振って離れろと告げる。
 その言葉に従って、椅子ごと後ろに下がってエヴァから距離を離してみせた。

「これでいいのか?」
「ああ。後は私の目をじっと見ていればいい――」

 彼女の言葉に従って、じっとエヴァの目を見つめる。
 思い出すのは遠き過去――。
 自身が覚えているかぎりの全てを脳裏に描きながらエヴァの目を覗き込む。
 そうして――ふいに意識が遠ざかるような感触を覚える。
 ――直後、士郎の眼前に広がったのは桜の花びらが舞い踊る衛宮邸の庭先だった。


 -Interlude-


 士郎が旅立つ前日の夜――。
 珍しく士郎以外の全員で用意した夕食も食べ尽くされ、すっかり片付いている。
 後片付けをしているはやてやシャマルを横目に眺めながら庭へと続く窓の側へと歩み寄っていく。
 そうして、綺麗に夜空へ浮かぶ月を眺めていた彼女――シグナムの耳に、外から微かな声が聞こえてきた。

「――相変わらず気ままなヤツだ。この家の外では間違っても同じような事をしていないだろうな?」

 どこか呆れたようにも聞こえる言葉だが、その声音は優しい。
 声の主である士郎の姿を脳裏に描きながら視線を外へと向けると、そこには庭の暗がりに立つ士郎と側に浮かぶ夜天の書の姿があった。
 珍しい組み合わせだと思いながら、シグナムはそっと庭へと出て暗がりへと近付いていく。

「まあいい。お前がはやてや皆を大切に思ってくれているということはわかっているつもりだ。だが、それでも――」
「――士郎」

 夜天の書に何かを告げていた士郎の背へと声をかける。
 彼はすぐに視線をシグナムへと向け、いつものように柔らかな表情を浮かべた。

「シグナム……君も月見か?」
「ええ。ご一緒しても?」
「構わないさ。先客もいるしな」

 告げて夜天の書へと視線を投げ掛ける。
 それをどう受け止めたのか――。
 宙に浮かんでいた夜天の書は士郎の側へと近づき、まるで寄り添うようにして動きを止めてしまった。

「夜天の書と一緒とは珍しいですね」
「そうでもないぞ。以前からよく部屋に来たり、一人でいる時には側に来ていたからな」
「なるほど……と、言っている内にまたどこかへ行ってしまいましたね」

 僅かに視線をずらした直後には姿を消してしまった夜天の書――。
 放浪癖でもあるのだろうかと以前にはやてが零していた事を思い出し、こういうことだったのかと思い至る。

「はやてのところにでも戻ったんだろう」
「そうでしょうね」

 その名を口にした後、空を見上げて見せる士郎の側へと歩み寄る。
 彼の横に並んで同じように空を仰いでみれば、室内から見るよりも綺麗に輝く月が夜空に浮かんで見えた。

「――今回の件……主はやても表には出していませんが、寂しく思われていますよ?」
「……そうだな。だが、今はメルルもエヴァも――君たちもいる」

 それは百も承知だと告げるように――。
 けれど、断言するような言葉に力はなく、彼は自嘲するように小さく笑った。

「――だからといって、俺がはやてを寂しがらせてしまう事実は変わらないがな」

 八月の中頃に士郎から聞かされたのは単純な話だった。
 かつてこの街で起きた事件に関わった際に知り合った管理局の魔導師や事件の当事者たち――。
 特に事件の首謀者だった人物は士郎やメルル…エヴァとも知己となったらしく、その人物との面談や仕事の依頼を兼ねて管理局へ出向くというものである。
 士郎が管理局という組織そのものを好ましく思っていないのは言動から察することが出来たが、関わった局員はそれなりに信用しているらしい。
 そうしたこともあって今回の渡航を決めたという士郎だが、そこにはシグナムたちにも語っていない何かがあるのだという事ぐらいは察していた。

「主はやては貴方の事をとても大切に想われています。今は我慢しているようですが、明日は難しいでしょう。どうか出立の際には特に気遣ってあげてください」

 シグナムは何も問いかけない。
 衛宮士郎という男は、主であるはやてが最も信頼している人物――。
 そして、この数ヶ月の生活でシグナムたちがはやてと同じくらいに信頼を抱いた相手なのだ。
 その彼がシグナムたちに何も口にしようとしない以上、そこには相応の理由があるはずだ。
 士郎からその話題を口にしない以上、シグナムはこの件についての真意を尋ねることはしないと決めている。
 だからこそ――シグナムは主であるはやてが悲しんでいるという事実だけを口にするのだった。

「そうか…そうだな。何か考えておくとするよ。ありがとう、シグナム」

 普段よりも見た目の年齢相応な言葉に内心で動揺しかけたシグナムだが、それを表に零すことはしない。
 努めて冷静な様子を保ったまま、シグナムは真っ直ぐに士郎へと向き直ってから頭を下げた。

「いえ…出過ぎた真似だとは重々承知しているつもりですので」
「そんなことはないさ。こうして一緒に暮らしてきて、君たちがはやてを大切に想ってくれているのはよくわかっているつもりだ」

 視線を上げれば、士郎も視線を下げてシグナムと向かい合うようにしていた。
 どこか真剣な表情を浮かべた彼の姿に、シグナムもまた応えるように真っ直ぐに姿勢を正した。

「――シグナム。君たちはこれまで色々な主に仕えてきたのだったな」
「はい。ですが、主はやてのように家族として迎え入れてくれた主は初めてです」
「はやては幼い頃から寂しい思いをしてきたようだからな。そのせいか、俺と出会った頃は年齢相応の子供といった様子ではなかった」
「そう…なのですか?」

 予想外の言葉に思わず言葉を零してしまう。
 だが――よく考えてみれば、主であるはやてはまだ九歳の少女だ。
 そんな彼女とこうして同じような夜空の下で語り合った時の事を思い出してみれば確かに――と納得することができた。

「今ではすっかり子供らしくなってくれたがな。もっとも、今でも気丈に振る舞うのは変わらないようだが……」
「士郎は、主はやてに子供らしく過ごしてもらいたいのですね」
「どれだけしっかりしていても、まだ家族に甘えていい年齢だ。これまでそれが出来なかった分も、しっかり甘えてくれると嬉しいとは思っている」
「……そうですね」

 士郎のはやてに対する想いが言葉の端々から伝わってくる。
 親愛の情を含んだその声音はシグナムの耳にも心地よく――。
 断言するように自身の希望を口にする士郎に対して、シグナムは万感を込めて同意の言葉を口にした。

「シグナム――俺がいない間、はやてのことをよろしく頼む」

 向けられたのは信頼の眼差しと言葉――。
 それを真っ直ぐに受け止めて、シグナムは士郎の目前で片膝をついて瞑目して見せた。

「――我が名と剣にかけて誓いましょう。主はやての幸福こそ、我ら夜天の騎士の望みなのですから」

 自身の決意を告げて立ち上がる。
 僅かばかり驚いた様子の士郎だったが、すぐに気を取り直した彼は小さな笑みを浮かべて見せた。

「大仰だな」
「本心です。受け止めて頂ければと」
「そうだな。だったら――これは俺とシグナムの誓いだ」

 そうして――士郎はシグナムに向けて右手を差し出してきた。
 応えるように右手を伸ばしたシグナムは、その手にそっと触れてからゆっくりと力を入れて握り締めていく。
 誓いは此所に――。
 ――騎士として彼の信頼に応えていきたい。
 シグナムはそれを決して言葉にはせず、ただ己が胸の内で誓いを立てるのだった。


 -Interlude-


「――それでは行ってくる」

 その日の早朝――。
 旅支度を終えた士郎からそんな言葉を投げ掛けられる。
 簡潔な言葉だが、それが彼らしいと思えてメルルは小さく笑みを零した。

「うん。プレシアによろしくね」
「ああ」

 そんなやりとりを終えて背後へと視線を向ける。
 シグナムたちはすでに挨拶を終えているためか、もっとも後列に位置する場所で並んでいた。
 エヴァはそんな彼女たちの目前で腕を組んで士郎へと視線を向けたままだ。

「……士郎」

 彼女たち全員の前には車椅子に腰掛けたはやてが佇んでいる。
 発せられたその声は、昨晩の明るい調子とは裏腹に、不安と寂しさに満ちたものだった。

「はやて……」

 士郎もそんなはやての様子に気付いたのか――。
 そっとはやての側へと歩み寄り、屈んで視線をはやてと合わせながら柔らかく微笑んでみせる。
 そんな士郎に応えるように、はやてはどこか苦笑めいた笑みを浮かべながら明るい調子で口を開いた。

「次に帰ってくる時はもう冬やね」
「そうだな。早ければ十一月中には戻れると思うが、長くかかるようなら十二月か…下手をすれば年明けになるかもしれないな」

 予定では一、二ヶ月の滞在ということになっているらしい。
 それは無限書庫と呼ばれる場所の探索と発掘の進捗に左右されるらしく、今の段階では確実には断言出来ないというのが本当の所だ。
 もっとも――士郎が目的としているモノを見つけることができるまで帰ってこない可能性は否定できないのだが……。

「管理局の本局って遠いんやろ?」
「距離的なことは俺にもはっきりとは分からないが、遠いことは間違いないだろうな」

 次元の海を隔てた別の世界――。
 管理世界と呼ばれている其処に存在するというのだから、物理的な距離に換算して考えることは難しいだろう。
 いずれにしても、現在の地球の科学技術では到底及ばない地点であることは間違いなく、その意味でもはやての言葉は正しいといえる。

「しばらくは連絡も満足に出来ないとは思うが――」
「お手紙は大丈夫っていうてたから、お手紙書くよ。士郎もちゃんとお返事書いてな」
「柄じゃないとは思うが……ちゃんと書く。だから――そんな寂しそうな顔をするな」
「せやけど……」

 言葉を口にしながら、段々と表情を曇らせていくはやて――。
 皆で過ごす内に子供らしさを取り戻していった彼女が、もっとも信頼している士郎と離れることを不安に感じるのは当然のことだ。
 恐らく内心では士郎を困らせたくないと思っているのだろうが、自身の感情を誤魔化せるほど今の彼女は良くも悪くも強くはないのだから。

「――前にも言っただろう? ちゃんとここに帰ってくる」
「……うん」

 落ち着かせるようにはやての頭をそっと撫でていく。
 そんな士郎の所作からは紛れの無い優しさが滲み出ていて、それが何故か嬉しく思えた。
 メルルが自身のそんな心境を鑑みていると、ふいに士郎がはやての頭を撫でていた手を止めてしまった。
 先程よりは落ち着いた表情を浮かべているはやてと真っ直ぐに向き合っている士郎は、僅かに瞑目してから改めてはやてへと視線を向けた。

「――はやて。少しの間だけ目を閉じて頭を俯かせてくれるか?」
「えっと……こう?」

 はやては士郎に促されるままに目を閉じて頭を下げる。
 そんな彼女の目前で、士郎は自身の首から下げられていたペンダント――紅い宝石を手にして自身から外してみせた。
 予想外のその行動に、メルルは思わず声を上げようとして――必死に堪えた。
 それほど――思わず声を上げそうになるほど、士郎が取った行動は事情を知るメルルにとっては衝撃的なものだった。

「……よし、もういいぞ」

 手慣れた様子ではやてにペンダントを身につけさせる。
 そんな士郎の言葉に従って頭を上げたはやては、そっと目を開けて自身の胸元に下げられたペンダントへと視線を向けた。

「これ……士郎がいつもしてる――」
「ずっと昔から肌身離さず持ち歩いていたペンダントだ。ずっと大切にしてきた物だから――それを、はやてに預かっていてほしい」

 その言葉の意味――重さをメルルは知っている。
 見ればエヴァも同じように驚いた様子を見せていることから、彼女もあの宝石について何かを聞いているのかもしれない。
 彼がずっと……それこそ生涯持ち続けた宝石――。
 その宝石に抱いている士郎の感情を思えば、彼がどれだけはやてを大切に想っているのかが手に取るように解るというものだ。

「――士郎……」

 詳しくは知らずとも、士郎がその宝石を肌身離さず身につけていたことは知っているのだろう。
 はやてはどこか恐る恐るといった様子で宝石に手を触れさせて、戸惑いの視線を士郎へと向けていた。

「帰ってきたらちゃんと返してもらうつもりだから安心してくれ。そういうアクセサリーを身につけるのは、まだはやてには早いだろうしな」
「――うん」

 努めて軽い調子でそう告げる士郎にはやては次第に笑みを深めていく。
 そうしてはやては先程まで浮かべていた不安や寂しさを感じさせない明るい笑みを浮かべて見せる。
 そんなはやての姿を一頻り眺めていた士郎は静かに立ち上がり、最後にもう一度だけはやての頭を一撫でしてから踵を返す。
 ゆっくりとした歩調で元々立っていた位置に戻った士郎は、改めてメルルたち全員へと視線を向けてきた。

「――いってきます」

 軽く手を上げ、背を向けて歩き出していく。
 各々が口にする別れの挨拶をその背に受け止めた士郎は、迷いも惑いもないといった凛とした姿を残して旅立っていくのだった。
 

 

Episode Ex03 -フェイトの挑戦-


『嘱託魔導師試験の合格おめでとう、フェイトちゃん。こちらは毎日何とか――』

 映像から流れてくるなのはの声に彼女――フェイト・テスタロッサは思わず笑みを浮かべてしまった。
 ――この数ヶ月で何度もやりとりを繰り返してきたビデオレター。
 裁判を控えていた母――プレシアと共に過ごしている関係から直接的な通信は出来ないために始めた手段である。

『――それでね、フェイトちゃん。実はユーノ君やレイジングハートが協力して凄い訓練データを作ってくれたの。よかったらフェイトちゃんもやってみて、感想を聞かせてくれると嬉しいな』

 そんな彼女の言葉を最後に映像が終了する。
 咄嗟に送られてきた物に目を向けてみるが、それらしいものはどこにもない。

「……もしかして、ユーノが直接持ってきているのかな」

 思い浮かんだのは、このビデオレターを持参して次元航行部隊本部へとやってきたユーノ・スクライアのこと――。
 彼から直接データを受け取ってくれということなのだろうと納得し、フェイトは丁寧にビデオレターを仕舞ってから自室を後にした。
 リビングに出てみれば、そこには珍しくのんびりと過ごしているクロノとエイミィ――その正面に座るユーノの姿があった。
 リンディやプレシア――それにアルフの姿が見えないのは、三人揃って買い物にでも出かけているためだろう。

「――もういいのか、フェイト」

 いつもより柔らかな雰囲気のクロノから言葉を向けられる。
 事件の現場に直面していない時のクロノの姿は殆ど見た事がなかったが、どことなくいつもよりも幼い感じを受けた。

「うん。クロノとエイミィはお休みなんだね」
「そうだよ~。この二、三ヶ月はずっとお休み返上で働いてきたしね」

 フェイトの返答に答えたのはエイミィだ。
 彼女は執務官であるクロノの補佐官をしているため、常にクロノと共に仕事をこなしている。
 二人は春の事件――フェイトやプレシアが起こした事件が解決して以来、激務に追われていた。
 増え続ける案件やプレシアの裁判に関する各種調整作業など――。
 基本的にはプレシアの保護観察官でもあるリンディの元で管理局業務に携わっているフェイトだが、二人の多忙さには心配を通り越えて感心してしまうほどだった。

「とりあえず現状で抱えている案件が片付いたからな。少し纏まった休みをもらったんだ」
「といっても、二日だけなんだけどね」

 クロノの言葉に苦笑を零したエイミィが言葉を被せる。
 そんな二人を眺めながら、フェイトはユーノの隣へと腰掛けた。

「大変だね。私も手伝えることがあれば手伝うけど…」
「いや、フェイトにはこいつの――ユーノの手伝いをしてもらいたいんだ。もちろん母さんの仕事が優先だが……」
「空いた時間に少しでも手伝ってあげて欲しいんだ」

 そうしてフェイトの前に差し出されたのは、一枚の紙――。
 みれば、そこには正式にユーノを補佐する仕事を依頼する旨が書かれていた。

「ユーノのお仕事って――無限書庫っていう場所の発掘と調査…だったよね」

 告げながら隣に座るユーノへと視線を向ける。
 年齢はフェイトやなのはと同じだが、クロノや士郎からの信頼も厚いユーノは本日付で管理局での仕事を開始する予定だ。
 それが無限書庫の発掘と調査――。
 クロノが上層部に提案し、実質的な責任者として立ち上げた仕事だ。
 有能な人材を確保できたと零していたクロノの嬉しそうな声は今でもはっきりとフェイトの耳に残っていた。

「うん、そうなんだ。一度見てきたんだけど、想像以上にゴチャゴチャになってて――士郎が来てくれるまでには一次調査くらいはしておきたいしね」

 士郎が来てくれるまでには――。
 その言葉を耳にして、僅かばかり跳ねた自身の鼓動を知覚する。
 今回の仕事はクロノが責任者となり、調査責任者としてユーノ――そして、その補佐としてフェイトと士郎が当たることになっている。
 彼が管理局の仕事を引き受けたことに僅かばかり驚いたが、フェイトとしては数ヶ月ぶりに再会できることが嬉しくて仕方がなかった。
 そんな内心を表に出さないように、けれど僅かばかり緩んだ表情はそのまま――フェイトはユーノの言葉に応えるようにはっきりと頷いて見せた。
 
「足手まといにならないように頑張るね。あ……それと、ユーノ。なのはが言ってた事なんだけど、凄い訓練データがあるって――」

 ふいに思い出したように告げる。
 すると、ユーノは驚いた様子で視線をフェイトへと向けてきた。

「えっ? あ、ああ……うん、確かにあるけど……もしかして?」
「うん、よかったら私にも使わせてもらえないかなって」

 なのはが薦めてくれた訓練データ――。
 どんなものなのかという興味を抱くのは当然のことだろう。

「それは――まあ、構わないと思うけど…………………一応、本人の了承も得てるし」

 どこか歯切れの悪いユーノだが、これでその訓練を体験することが出来るとフェイトは胸を躍らせるのだった。

「じゃあ、お願い。今の時間帯だと訓練場空いてると思うし……」
「あ…いや、大丈夫だよ。このデータは仮想空間――イメージトレーニングみたいなものなんだ。データとデバイスがあれば、どこでも出来るものだから」
「そうなの? じゃあ、ここでも出来るんだ…」

 ユーノからの説明を聞く限り、その訓練データは仮想敵との対戦形式で行われる実戦的なモノだという。
 ――なのはのために作られたという訓練データ。
 訓練場所の確保や利便性などを考慮した上でのモノなのだろうと納得する。

「うん。ただ、かなり綿密に組んだモノだから、仮想空間で感じる疲労や痛みなんかもリアルに感じられる……から、あまりお勧めはしないよ」

 ユーノの言葉に頷きで返す。
 実戦に近しい感覚が得られるというのなら申し分ない――と。
 はっきりとした意思を込めてユーノに視線を向けると、彼は仕方が無いと言った様子で頷き返してくれた。

「なかなか面白そうだな。ユーノ――フェイトの訓練を僕たちが見ることはできるのか?」
「映像として出力することはできるよ。そこはバルディッシュに頑張ってもらわないといけないけどね」

 興味を覗かせたクロノからの質問にユーノは惑い無く答えていく。
 二人の会話を耳にしながら、フェイトは自身のデバイスであるバルディッシュを取り出して見せる。

「さっそくやってみるつもりだね、フェイトちゃん」
「うん!」

 エイミィの言葉に心の底からの返答を口にする。
 そんなフェイトの傍で、ユーノはフェイトが持っているバルディッシュに触れて何かの作業を始めていた。

「えっと…じゃあバルディッシュにこのデータを読み込ませて…………うん、大丈夫。これでいつでも出来るよ」

 立ち上がった画面に向けて何かを打ち込んでいたユーノの作業はすぐに終わってしまった。
 これですぐに訓練を開始できる――。
 すぐにでもデータを立ち上げようとしたフェイトだが、ふいに帰宅を知らせるベルが耳に届いて思い止まる。

「――ただいま~」
「あら、みんな揃っていたのね。ユーノ君もいらっしゃい」
「ただいま、フェイト」

 出迎えに向かったエイミィと共にリビングに入ってきたのは、買い物袋を手にしたアルフとリンディ――そして、フェイトの母であるプレシアだった。

「なのはちゃんからのお手紙はもう見たの?」
「はい」
「そう。なら、また今度お返事しなくちゃいけないわね」

 買い物を片付けながら声を掛けてくるプレシアに笑顔を浮かべて返事を返す。
 そんなフェイトに釣られてか――プレシアは同意するようにそんな言葉を告げながら柔らかな笑みを浮かべていた。

「それで、みんな揃って何かしてたのかい?」
「ユーノがなのはやレイジングハートと協力して訓練データを作ったらしいんだ。それを今からフェイトがやってみようということになったところだ」
「イメージトレーニングの一種だから、ここでも問題なく使用できるモノなんだ……一応」

 アルフからの質問に答えるクロノとユーノ――。
 二人の言葉を耳にして興味を覗かせたのは、リンディとプレシアの二人だった。

「それは興味深いわね」
「訓練内容はどんなモノなのかしら?」
「仮想敵との一対一の戦闘です」

 二人からの質問にユーノが先と同じ説明を繰り返す。
 その内容に感心した様子を見せたリンディとプレシア――。
 二人も訓練内容を見てみたいと告げたため、フェイトの訓練風景は大きな画面で映し出される事となった。

「――じゃあ、始めるね」

 準備が整った事を確認したフェイトはバルディッシュにインストールされたデータをロードしていく。
 引き込まれていくような感覚――。
 ふいに肌に触れたのは、いつかの日に初めてなのはと戦闘を行った森林地帯を思い出させる空気だった。

「ここは……?」

 森の只中で僅かに開けた場所に立っている事を確認して声を零す。
 周囲には木々が広がっているだけで、その対戦相手となるデータの姿は何処にも見られなかった。

『――フェイト。聞こえるかい?』
「ユーノ。うん…聞こえるよ」

 耳に届いたユーノからの言葉に返答する。
 映像はないが、その声ははっきりと聞こえてきた。

『この訓練には難易度の設定がしてあるんだ。訓練モードに実戦モード――それと……』
「それと?」
『――本気モード』

 僅かに戸惑ったようなユーノの言葉――。
 それに対して、フェイトは迷うこと無く小さく頷いてから答えた。

「じゃあ、本気モードで」
『やっぱり……なのはが、フェイトならきっと本気モードを最初にやってくれるって言ってたけど……』
「まずは一番難しいところからやってみたいんだ。どこまでやれるかはわからないけど――」

 実戦形式の訓練ということもあり、この数ヶ月で身につけてきた魔導を試してみたいという想いも多分にある。
 プレシアやクロノの指導を受けながら過ごしてきただけに、以前よりは上達しているという確かな実感があったからだ。

『う~ん。ここでアドバイスすると後でなのはに何を言われるかわからないから止めないけど――頑張ってね』
「了解」
『じゃあ起動するね。あ…訓練は制限時間を越えるか、相手か自分が死亡判定を受けると強制的に終了するようになっているからね』

 そんな言葉を最後にユーノの声が遠ざかっていく。
 ふと――目の前に突然現れた気配に、フェイトは思わずバルディッシュを手にして身構えた。

「――し、士郎!?」

 目前に現れた人影は、間違えようもない人物だった。
 ――衛宮士郎。
 かつてプレシアの庭園で見せた赤い外套に身を包んだその姿と視線の厳しさに、フェイトは即座に自身を戦闘モードへと切り替える。

「――訓練を開始する」

 簡潔な言葉と共に、彼の両手にいつかみた黒と白の双剣が出現する。
 瞬きの間もなく一瞬で距離を詰めてきた士郎の斬撃をアックスフォームのバルディッシュで受け止める。

「――ッ!?」

 途端に吹き飛ばされそうな衝撃を覚え、必死に堪える。
 一撃目を食い止めれば二撃目――それを食い止めれば三撃、四撃と続く連撃を捌いていく。
 魔力を全力で身体強化に回せば防げない威力では決して無い。
 だが――その苛烈さはかつてみたソレとは比べものにならないほど鋭く巧みで、速度で上回るはずのフェイトでさえ捌ききれないほどだった。

「は…速い。それに、威力も……」

 押し切られると判断し、渾身の力で相手を弾いて空へと飛び上がる。
 空中での高速戦闘こそがフェイトの本領だ。
 クロノやプレシアの指導で更に向上させた空戦機動と魔導でなら対応できるはず――。
 そんな想いを抱いていたフェイトを嘲笑うかのように周囲から突如として様々な剣の群れが飛び掛かってくる。
 不規則な軌道で迫ってくるソレは、そのいずれもが凄まじい速度でフェイトを目指して飛来する。
 弾いて、防いで、回避する――。
 だが、剣は勢いを減じることなくフェイトへと群がってくる。
 まるで剣そのものが生きているかのような挙動に戸惑いつつ、フェイトは自身の速度を更に上げて距離を取った。

「くっ!? だけど、それなら――」

 弾いても防いでも回避しても追いかけてくるのなら、破壊するしかない――。
 質より量――数で圧倒するべきだと判断したフェイトは、この数ヶ月の訓練で可能となったフォトンランサー・ファランクスシフトの即時展開を実行しようと試みる。
 数こそ全力時には及ばないが、それでも視認できる剣の数を圧倒できるだけの数は展開できる。
 ――破壊すると判断して空へと上がり、剣を視認して構える。
 時間にして僅か二秒――追いすがるように迫ってくる剣群を捉えて魔導を発動させようとしたフェイトだが、唐突に視界がブラックアウトしてしまった。

「――えっ?」

 ――直後に視界に映ったのは、訓練を開始する前と同じ風景だった。

「えっと……お疲れさま、フェイト」
「あ…あれ?」

 気まずげに告げるユーノの言葉が耳に届く。
 思わず視線を巡らせてみれば、そこには各々複雑そうな表情を浮かべた姿があった。

「……君の負けだ、フェイト」
「え……」

 そんな中――最初に言葉を発したのはクロノだった。
 何の事かと一瞬だけ分からずに声を零したフェイトだが、自身が敗北したという事実だけは不思議とすぐに実感することができた。

「フェイトちゃんが高速機動で剣群を回避してたところを、地上から弓で狙い撃った仮想敵――士郎君の矢に撃ち抜かれたんだよ」

 エイミィの説明で自身の最後を知り、フェイトは呆然とするしかなかった。

「……彼の使っていた矢は、あの時の?」
「――庭園の駆動炉を消滅させた矢と似ていたわね。同じモノなの?」
「士郎がいうには、矢そのものは同じだけど、真名開放――つまり、武器に内包された力を開放しているかしていないかの差だってことです」

 リンディとプレシアの言葉に答えるユーノの説明を聞いて、フェイトはいつか見た士郎の一撃を思い返した。

「……全然気付けなかった」

 飛来する剣を回避しながら、フェイトは常に地上で剣を撃ち出してくる士郎を注視していた。
 フェイトが士郎から目を離したのは空へと上がり、フォトンランサーを展開しようと構えた二秒程のことだ。
 それが致命だったのだと――こうして終わってみれば、そう納得するしかなかった。

「無理も無いよ。士郎の矢は音速を遙かに超えた速度で飛んでくるし――」
「それに、恐らく攻撃の気配を殆ど消した上でフェイトの意識の隙間を狙ってきている。なるほど……士郎が言っていた狙撃は得意というのは、こういうことだったんだな」
「飽和攻撃をしながらの精密高速狙撃――しかも、魔力障壁を簡単に貫通してくるんだ。堅い防御を誇るなのはでも防ぎきれなかったし、回避か迎撃――もしくは、もっと防御力を上げるかしないと防げないだろうね」
「それも彼が真名解放を行わない状態での話だろう? 以前に庭園で彼が使用した矢の威力と速度は今のデータを遙かに上回っていた」
「そうそう連発できるものじゃないとは言ってたけどね」

 ユーノとクロノが交互に口にする評を耳にしながら、フェイトはビデオレターでなのはがこの訓練データを勧めてきた理由に何となく思い至った。

「――ユーノ。なのははこれを使って毎日訓練しているの?」
「うん。普段は訓練モードで、週末には実戦モードで頑張ってる。実戦モードは精神疲労も激しくなるから、週末ぐらいにしかできないって笑ってたよ」
「そっか――」

 ユーノの返答を耳にして確信する。
 それと同時に、これを勧めてくれたなのはに改めて心の中で感謝を告げるのだった。

「楽しそうだね、フェイト」
「うん。だって……本物じゃないけど、これを使えば士郎に近づける気がするし――それに、なのはに置いていかれたくないから」

 アルフの言葉にはっきりと頷いて答える。
 互いに肩を並べて行こうと――。
 そう笑顔で告げるなのはの姿を幻視しながら、フェイトは自分たちが見据える男の背中を追いかけていこうと心に誓った。

「けど、ほどほどにねフェイトさん。いくらイメージトレーニングとはいっても、根の詰めすぎはよくないわ」
「はい。ありがとうございます、リンディ艦長」

 心配するようなリンディの言葉に笑みを浮かべて答える。
 その隣で優しく微笑む母――プレシアの娘として真っ直ぐに歩んでいく。
 そんな誓いを胸に秘め、フェイトはこれから歩んでいく自身の道を少しずつ見極めていくのだった。

「――ところでユーノ。そのデータ……僕にも使わせてもらえるか?」
「それは士郎に直接頼んでくれると助かるんだけど…」

 部屋の片隅でクロノとユーノがそんな会話を交わしていたのは余談である。

 

 

Episode 52 -時空管理局本局へ-

 
前書き
本編第五十二話です。
 

 


「――ようこそ、アースラへ」

 転送魔法に導かれて訪れたのはアースラ――。
 以前にも乗船したことのある次元航行船の艦内で士郎を出迎えてくれたのは、この艦の艦長を務めている女性――リンディ・ハラオウンその人だった。

「久しぶりだ、リンディ提督」
「ええ、お久しぶりですね」

 華やかな笑みを浮かべて応える彼女の姿に違和感を覚えて僅かに首を傾げる。
 彼女の姿を最後に目にしたのは、プレシアとフェイトが再会した後――アースラを降りて地上へ帰還する直前なのだが……。

「……心なしか、以前に見た時よりも若く見えるのは――」
「えっ? あ、ああ……前に貴方から貰った薬を使ったからだと思うけど、変…かしら?」

 そういえば――と思い至る。
 プレシアの状態を証明するため、メルル作の若返りの薬劣化版を彼女個人へ送ったのだ。
 あれを使用したのならその容姿を大きく変えるほどの変化はなくとも、以前より若返っているのは間違いない。
 事実――士郎が記憶していたリンディもクロノという息子がいるとは思えないほど若く見えていたが、今の彼女は十代後半といった若々しさを感じさせていた。

「いや、そんなことはない。以前に増して若々しく見えたから少し驚いただけだ」
「そ、そう……」

 素直な感想を口にすると、彼女は僅かばかり身構えてしまう。
 まるで何かを堪えているようにも見えるが、彼女がそんな反応を見せる理由に心当たりはなかった。

「リンディ提督?」
「な、なんでもありません。とりあえずこんなところで立ち話も何ですし、食堂にでも行きましょう」
「了解だ。それと、リンディ提督――」
「はい、なんでしょう?」

 少しばかり慌てた様子で歩き出そうとするリンディを呼び止める。
 振り返った彼女は既に落ち着いた様子を見せており、そんな彼女へ向けて提案を口にする。

「今は事件の最中というわけでもないんだ。無理に丁寧な話し方をしなくとも、普通にしてくれればいい」
「……それは」
「無理にとは言わないがな。ただ、先程は素が出ていたようだから提案しただけだ」

 以前とは異なり、今回は士郎が管理局へ望んで出向く形になっている。
 正式に所属するつもりなど毛頭ないため、士郎としても相手に特別な敬意を払うつもりはない。
 直接接してきたリンディに対しても、いまさら無理に敬語を使えば逆に相手を不愉快にさせてしまうだろうと感じていた。
 だからこそ以前と同じように接していたのだが、それに釣られる形で彼女も普段の姿を覗かせてくれたというのは、彼女なりに士郎を信頼してくれているからだろう。
 ならば、無理をして形式張った応対をしてくれなくてもいい――と。
 そんな士郎の考えをどこまで汲み取ってくれたのかはわからないが、彼女は小さく息を吐いてから優しげな笑みを浮かべてみせた。
 
「……そうね。折角だから、そうさせてもらうわね。もちろん立場上、オンとオフはきちんと切り替えさせてもらうけど――」
「ああ、それで構わない」

 管理局という組織の中にあって、こうした艦船の責任者を任されている彼女だ。
 その責任を確かに自覚している彼女だからこそ、プライベートとそれ以外はきっちりと区別するだろうと理解を示して頷きを返した。

「貴方も私の事は呼び捨てにしてくれて構わないのよ? 貴方も言っていたように、今は事件を追って動いているわけではないのだし」
「そうだな。なら…俺の事は衛宮でも士郎でも好きなように呼んでくれ、リンディ」
「ええ。そうさせてもらうわね、士郎くん」

 互いに視線を交わして頷き合う。
 そうして――落ち着いた様子で歩き始めた彼女に合わせて歩を進めていく。
 
「――それにしても驚いたわ。貴方がクロノの依頼に応えてくれるとは思ってなかったから……」

 通路を歩きながらの言葉には僅かばかりの戸惑いが感じられた。
 士郎が管理局という組織を好んでいないということは彼女も感じ取っていたのだろう。
 もとよりそうした感情を隠していたわけではないが、それだけに今回の仕事を引き受けた事に驚いたらしい。

「別に気まぐれというわけじゃない。クロノからの頼みであれば無理の無い範囲で手伝うと約束をしていたしな」
「なるほどね。クロノもあれから、休む間も惜しんで忙しく動いているわ」

 今回の依頼もその一因なのだと彼女は語る。
 ――多くの事件を解決していくために必要となるのは確かな情報だ。
 そうした情報を溜め込んでいると思われる無限書庫の有用さをクロノが上層部に訴えかけた結果、彼は無限書庫の発掘調査総責任者となった。
 これ幸いにと、クロノがすぐにオファーを持ちかけたのが発掘調査を生業としているスクライア一族――ユーノ・スクライアだ。
 そして、その発掘や調査に際してユーノを補助する人材として使えると判断した上で士郎に依頼をしてきた――と。
 士郎の魔法適性が基本的には調査や把握に長けていることを考慮した上、互いのメリットを考えた上での依頼だった事は疑う余地もない。
 もっとも――リンディが告げたように、そうした事が休みなく働いているというクロノの現状を生み出す一因となったのは間違いないだろう。
 
「無限書庫――話に聞いた限りでは巨大な倉庫といった印象を受けているのだが……」
「あながち間違いじゃないとは思うけど、まあ…それは見てのお楽しみということにしておきましょう」

 暗に情報を引き出そうとしていることがはっきりと伝わったからか――。
 リンディは少しばかり意地の悪そうな笑みを浮かべて、それは秘密だと告げる。

「む……まあ、そういうのなら後の楽しみにさせてもらうとしよう」

 そんな会話を交わしている内に到着した食堂には人の姿は見当たらなかった。
 調理場からは人の気配が感じられるが、特別に人払いでもしているのかもしれない。
 ――促されるまま、先に席へと腰を落ち着ける。
 同じようにして対面に腰掛けたリンディと雑談を交わしていると、調理場から近づいてきていた気配がすぐ側で立ち止まった。

「――はい、どうぞ」

 懐かしい声と共に差し出されたのは、香り高い液体を注いだカップ――。
 見れば、そこには別れの際にいつか再会することを約束した女性――プレシア・テスタロッサの姿があった。

「――プレシア」
「久しぶりね、士郎」

 落ち着いた口調で返答を返した彼女はそのままリンディの目前にも同じようにカップを置いていく。
 その所作にいつかの姿を思い出しながら、士郎は彼女が変わらず過ごせているその様子に笑みを浮かべてみせた。

「元気そうでなによりだ。ところで、その格好をしているということは――」
「ええ、今はリンディの補佐としてこの艦に乗せて貰っているわ。もちろんフェイトやアルフも一緒にね」

 プレシアは現在、以前にアースラで見た多くの局員たちと同じ制服に身を包んでいる。
 裁判後、執行猶予中の過ごし方としてリンディの仕事の補佐を選んだのは恐らく、すでに管理局の仕事を手伝っていたというフェイトのためなのだろう。

「まったく……プレシア? 任せていた仕事はどうしたのよ?」

 目の前から呆れたような声が耳に届く。
 リンディのそれは、どこか親しい友人に向けるような気負いの全く感じられないものだった。

「もちろん片付けてきたわよ。それに、今はお客様の応対が貴女の仕事でしょう? それを補佐するのは私の仕事だと思うのだけど…どうかしら?」

 士郎の隣へ腰掛けながら答えたプレシアも同様に、リンディに対する気遣いの類は一切感じられなかった。
 四月に起きた事件からもうじき半年――。
 二人がどのように親交を重ねてきたのかは想像するしかないが、彼女たちの様子は古くからの親友と言われても信じられるほどに親密だった。

「はぁ…まあいいわ。ところで、フェイトさんたちはどうしたの?」
「あの子たちなら、今は通信室でクロノやエイミィと話しているわ。士郎のこれからの予定を確認してくると言っていたから、もう少ししたら来るでしょう」

 これから――というのは、現在向かっている時空管理局の本局に到着した後のことだろう。
 ――管理局には大きく分けて二つの部署が存在している。
 ひとつは主に次元の海を隔てた数多の世界を対象に活動を行う次元航行部――。
 もうひとつが、管理世界の中心として管理局が居を構えているミッドチルダという世界に存在する地上本部だ。
 局内では空と陸と形容されているらしいが、リンディたちが所属している次元航行部の本部でもある時空管理局本局は次元の海に浮かんでいるのだとか――。

「それにしても――君の淹れてくれたこの紅茶は美味しいな。葉は地球のモノなのか?」
「いいえ、ミッドで取れる葉よ。向こうにも紅茶はあるし、葉も良い物がちゃんとあるのよ」
「ミッドには色々な世界から移住してきた人やその系譜の人たちがいるわ。その人たちが元いた星の文化を持ち込んで発展してきたモノも少なくないのよ」

 プレシアに続くように語り始めたリンディ曰く、ミッドチルダには様々な管理世界から人が集まってきているのだという。
 管理外世界の出身であっても強い魔導の才能を秘めた者が管理局と関わり、魔法と関わる中でミッドチルダに渡った者もいるらしい。
 そうした者たちや、過去のそうした者たちの子孫が持ち込んだ文化や知識が根付いているのだと――。
 紅茶という文化が根付いている辺り、過去に地球からミッドチルダに移り住んだ人たちもいたのかもしれない。

「――士郎!!」

 唐突に聞こえてきたのは懐かしい声――。
 食堂の入口付近で声を上げた人物の姿を視界に収めた士郎は、変わらぬ少女――フェイトの姿に頬を緩めようとして首を傾げる。
 近づいてくるフェイトのすぐ隣についてくる幼い少女――その面影に見知った女性を想起した士郎は、僅かばかり戸惑いを含んだ声を零した。

「……アルフか?」
「久しぶりだね、士郎。珍しく驚いてるようだけど、どうかしたのかい?」

 戸惑いながらの言葉を肯定するように頷きを返してくる少女――。
 その声は幼いながらも、その口調は間違いなくフェイトの使い魔であるアルフのものだった。

「いや……君の姿があまりにも縮んでいるからだが?」
「あ~そういえば、士郎にこの姿で会うのは初めてなんだよね。最近、現場以外ではこの形態でいることが多くなったから忘れてたよ」

 使い魔であるアルフは、ただ存在しているだけで主であるフェイトの魔力に負荷を与えている。
 そのため、普段はこうしてフェイトの魔力に極力負担を与えない形態を取るようにしたのだという。

「――えっと……お久しぶりです、士郎」

 目前で改めて挨拶を口にするフェイトへと視線を向ける。
 以前よりもあからさまに生気に満ちたその姿は、あれから彼女が過ごしてきた日常が相応に満たされていたという証だろう。

「久しぶりだな、フェイト。なのはから話には聞いていたが、元気にやっていたようで何よりだ」
「は、はい…士郎も元気そうでよかったです」

 以前よりも素直で明るい笑みを浮かべてみせるフェイト――。
 そんな彼女と視線を交わしていると、ふいに隣に座るプレシアが空気を変えるように咳払いを零した。

「――フェイト。そんなところで立っていないで、あなたも座りなさい」
「あ…あれ? 母さん、どうしてここに?」

 どうやらプレシアの姿が目に入っていなかったらしい。
 驚くフェイトの姿に、プレシアは僅かばかり寂しそうな表情を浮かべていた。

「プレシア…アンタ、まさかサボってるんじゃ……」
「アルフ…人聞きの悪い事を言わないで。私はちゃんと仕事としてここにいるのよ。客人の応対をしているリンディの補佐としてね」

 どうやらフェイトやアルフにとっても、プレシアがこの場にいることは意外だったらしい。
 彼女が引き受けていたという仕事がどんなものかは知らないが、そう簡単に終えられる類のモノではなかったようだ。

「はいはい、そうね。じゃあプレシア――フェイトさんとアルフさんにもお茶をお出ししてあげてね」
「了解よ」

 リンディの言葉に従う形で席を立ったプレシアは、予め持ってきていた残り二つのカップに紅茶を注いでいく。
 そうしてリンディの隣に腰掛けたアルフと、士郎の隣に腰掛けたフェイトの前にカップを置いていった。
 ちょうど士郎を挟むようにプレシアとフェイトが両隣に座る形になったが、互いが互いに向ける穏やかな表情を見れば二人が上手くやれている事は容易に想像できた。

「……仲良くやれているようだな」
「はい、何とかやれています」
「プレシアのマイペースっぷりが凄くて振り回されっぱなしだけどね」

 僅かばかり困ったように笑みを刻んで答えるフェイトに対し、アルフは呆れた様子を隠そうともせずに告げた。
 そんな彼女の評が的を射ているのか――プレシアは特に反論を口にすること無く、士郎へと真っ直ぐに向き直った。

「まあ…それなりにやらせてもらってるわ。貴方のほうはどうなの? 話に聞いたあの子――はやてちゃんと同居しているんでしょう?」
「ああ、彼女や知人たちと一緒に暮らしている。こちらも…まあ、それなりには過ごせていたと思う」

 今ではすっかり大人数となった八神家――。
 その一員として過ごしてきた日々は、控えめにも幸福な日常だったと言える。
 そんな想いを抱いている事が伝わったのか――プレシアは少しばかり笑みを深めて士郎の目を真っ直ぐに覗き込んできた。

「本局に着くまでには、まだ時間が掛かるわ。折角こうして会えたのだから、のんびりとお互いの近況でも語り合いましょうか」
「そうだな。俺も君たちがどのように過ごしてきたのかは興味があるしな」

 誰言うとなくそれぞれの日常が語られていく。
 士郎は自身の日常を当たり障りのない程度に告げた後、プレシアたちが口にする数ヶ月の日常風景に耳を傾けるのだった。


 -Interlude-


 予定の時刻がやって来たことを確認して、彼――クロノ・ハラオウンは腰掛けていた席から立ち上がった。
 それとほぼ同時――次元港に繋がる通路から姿を見せた士郎を確認して、クロノはゆっくりと彼の元へと歩き出した。

「――士郎」

 声を掛けると、彼はすぐにクロノに気付いて視線を向けてくる。
 それを真っ直ぐに受け止めながら、クロノは彼の正面数メートル程の場所で立ち止まった。

「クロノ――久しぶりだな」
「ああ。今回はこちらの無理を聞いてもらってすまなかった」

 互いに右手を差し出して握手を交わす。
 挨拶もそこそこに手を離して告げると、士郎は小さな笑みを零して見せた。

「なに、こちらの都合もあってのことだ。君の計らいのおかげでプレシアとも話せたしな」
「あの人も士郎に会いたがっていたからな。機会を設けることが出来てよかったよ」

 管理外世界である地球にいた士郎を巡回任務中のアースラに拾ってもらう手筈を整えたのは、正しくそのためである。
 彼のおかげで命を救われ、フェイトとも順調に交流を重ねているプレシア――。
 彼女が士郎を憎からず思っていることを知るクロノとしては、彼女と士郎の再会は出来る限り早く実現させてあげたかったのだ。

「それで――ここからは君が案内してくれるのか?」
「ああ。フェイトたちは色々と帰還に伴う手続きがあるからな。無限書庫へは僕が案内する」

 巡回任務を終えた形になるアースラのクルーには帰港に伴う手続きがそれなりにある。
 客として招いた形の士郎に作業終了まで待たせるわけにもいかず、手の空いていたクロノが出迎えにやってきたのである。

「では、頼むとしようか」
「ああ。それと――これを先に渡しておく」

 案内をする前にと胸元からソレを取り出して差し出す。
 士郎の目前に用意したのは、以前彼に貸し出したモノと同じカード型のデバイスだ。

「これは……以前に借り受けたデバイスか?」
「ああ。あの時は急拵えだったが、今回はちゃんと君に合わせて調整している。以前と性能は変わらないが、基本的な機能が拡充されているし、君が局に滞在している間の身分証明も兼ねているからちゃんと所持しておいてくれ」
「了解だ」

 簡潔な返答と共に差し出していたデバイスを受け取る士郎――。
 そんな彼の姿を横目に歩き出すと、彼はすぐにクロノを追いかけるように歩き出した。
 暫く他愛のない会話を交わしながら辿り着いたのは、目的地へと繋がっている転送ポートである。

「――ここがそうなのか?」
「そうだ。書庫に繋がる転送ポートはここ――本局とミッド地上本部にそれぞれ設けられている。もっとも――ここは整備して使えるようにしてあるが、地上側の出入り口は塞がったままなのさ」

 多世界の情報を集め続けている無限書庫を利用しようという風潮は地上本部には殆ど存在さえしていない。
 本局でさえ物置扱いしかしていなかった現状を鑑みれば、専用の転送ポートに最新型を用意できた事自体が異例だと言えるだろう。

「書庫の名が泣いているな。まあいい、とりあえずここを使えるようにするのが仕事ということだな」
「正しくは、この書庫の有用性を証明するために使用できる環境に整える――だな。正直、ここの整備を円滑に進めるためには正式にチームを立ち上げて年単位での作業が必要になると思っている」

 一次調査の報告書を受け取ったクロノの所見では、真っ当なデータベースとして稼働させるためにはそれでも足りないくらいだと思っている。
 とはいえ、報告を上げてくるユーノ・スクライアの優秀さを鑑みれば、意外と早い内に目処が立つかもしれないのだが――。

「人手が割けないほど見向きもされていない…ということか」
「そういうことだ。情報の重要さ…君なら理解してくれていると思うが、ここを有用に活用できるようになれば、これまで以上に円滑に事件を解決していくことが出来るようになるはずだ」

 整理整頓の類は全くされていないが、無限書庫はその名が示す通り様々な世界の資料や情報を常に集め続けている。
 そこから適切な情報を常に得ることができれば――。
 執務官として様々な事件に関わるクロノにとって、希少で有用な情報はそれだけで黄金にも勝る価値があると言えるだろう。

「確かに、その通りだな」
「――じゃあ、行くとしよう」

 迷うことなく頷きを返してくれた士郎に少しばかり笑みを浮かべてから、クロノは転送ポートの操作を開始する。
 既に座標は固定されているため、煩雑な操作は必要ない。
 最低限の操作で稼働した転送ポート――機器から零れ出してくる光に包まれながら、クロノは転送時に感じる独特の感覚に身を委ねるのだった。


 -Interlude out-


「――なるほど。リンディが見てのお楽しみと言っていたのはこういうことか…」

 転送直後――いきなり身体が浮かび上がり、地に足が付かなくなった。
 奇妙な浮遊感を覚えたと同時にゆっくりと宙を彷徨う自身を眺めながら、士郎は自分の置かれた状況に思い至った。

「……大丈夫か、士郎?」

 すぐ傍を慣れた様子で浮かんでいるクロノから声を掛けられる。
 思い通りに動かない自身の身体の感覚に集中し、少しずつ動きを試していく。

「流石に無重力空間で活動した経験はないからな。少しばかり戸惑うが――ふむ、こんな感じか」

 力の加え具合や身体の動かし方――。
 無重力下でのソレを少しずつ身体に覚え込ませていく。
 奇妙な感覚が付き纏うのはどうしようもないが、動きそのものは次第に慣れてきたのが実感できる。

「慣れるのが早いな」
「違和感は残っているがな。まあ、それは少しずつ消えていくだろう」

 壁面を軽く叩いてクロノが浮かぶ傍へと移動していく。
 自由に好きな場所へ動けないのは不自由だが、差し当たり最低限の移動を行うことは出来るだろう。
 そうして動く事に余裕が出てくれば、ようやく周囲の様子が目に付くようになった。
 本棚らしきものや部屋の外壁のようなものが縦横無尽に浮かぶその光景は、ここが書庫であるということを全く連想させてはくれない。

「――士郎! もう来たんだね」

 反復訓練のつもりでクロノの後を追いかけていくと、浮遊物の向こうから人影が現れた。
 聞き慣れたその声は、一足先にここへやってきていたユーノのものだった。

「ユーノか。その姿の君と会うのは久しぶりだな」
「そういえばそうだね」

 すっかり慣れた様子で傍にやってくるユーノの動きを注意深く観察する。
 ユーノとクロノの動きを模倣できれば、少なくとも今よりは確実に動けるようになるだろう。

「ユーノ。作業の目処は立ったのか?」
「うん、大体はね。士郎がいてくれるなら後回しにしようと思っていた場所の探索も出来そうだしね」

 ユーノの期待に応えるためにも手早く慣れる必要がある。
 そんな思いを胸に秘めながら、士郎は少しずつ二人の動きをトレースしていくのだった。

「……そうか。そういうことだ、士郎。後の作業はユーノから聞いてもらえると助かる」
「わかった」
「クロノはこれからまた出動かい?」
「いや、しばらくは内勤だ。数日は休暇を取っているし、少しはのんびりするさ」

 リンディが言っていたように、クロノが多忙な日々を送ってきたことを知っているからだろう。
 ユーノがクロノへ向ける視線には、それなりに心配の色が覗いていた。

「フェイトやエイミィさんも心配していたし、君も少しはゆっくりしたほうがいい」
「そうするさ。では士郎――また後で」
「ああ」

 ユーノの言葉に返答を返したクロノは、簡潔にそれだけを告げて最初に書庫内へやってきた付近へと向かって行った。
 その姿を宙に浮かんだまま見送った士郎は、傍に浮かんでいた物体を活用して身体をユーノへと向けてみせる。
 この状態で戦闘をこなせと言われると困るが、普通に移動をするのに十分な程度には動きが掴めてきた事を実感する。

「それじゃあ、まずは簡単に書庫内を案内するから着いてきて。作業の打ち合わせはそれからのほうがいいでしょ?」

 告げながらユーノは奥へと向かって行く。
 そんな彼の背を追いかけるように身体を中空へと進ませる。
 そうしてユーノの後ろについて書庫の奥へと進んでいくが、その構造は解析の魔術を扱える士郎にもはっきりとは把握できないほどごちゃごちゃに混ざり合っていた。

「――そうだな。ここまで色々な空間が混ざり合っていると、俺も完全には把握できそうにない。どうなっているのかは直接目で見たほうが良さそうだな」
「とりあえず、無重力にはもう慣れてるみたいだね。じゃあ行こうか」
「――ああ」

 少しだけ速度を上げて移動していくユーノ――。
 そんな彼に追従するように、士郎は書庫の奥へと進んでいくのだった。


 -Interlude-


 書庫と繋がっている転送ポートの前で待ち続ける。
 仕事を終えたフェイトは、ここから戻ってくるはずの男を待っていた。
 そうしてどれだけの時間が過ぎた頃か――。
 転送ポートが光を放つと同時に現れたのは、待ち人である衛宮士郎その人だった。

「――お疲れさまです、士郎」
「お疲れさま、フェイト。君はもう仕事は終わっているのか?」
「はい。下船手続きも終わりましたし、明日からは私も士郎と同じ仕事に関わることになっていますから」

 簡単にその辺りの話をすると、士郎は少しだけ驚いた後に柔らかな笑みを浮かべてみせるのだった。

「それで…私がここに来たのは、士郎がこれから寝泊まりする場所に案内してくれってクロノから言われて…ですね」
「そういうことなら、案内を頼むとしようか」
「はい」

 そうして士郎と二人で局内部を歩いていく。
 世間話などをしながら暫くして辿り着いたのは、局員用の部屋が並ぶその一角に存在している一室だ。

「――ここです」

 そうして施錠を解き、室内へと足を踏み入れる。
 出迎えにやってきたのは、シンプルなデザインのエプロンを装着した母――プレシアだった。

「おかえりなさい、フェイト」
「ただいま帰りました」
「ちゃんと士郎とお話は出来たのかしら?」
「えっと…はい、まあ……それなりには」

 プレシアからの質問に歯切れの悪い返答を返す。
 それをどう受け止めたのかは分からないが、プレシアは少しだけ柔らかな笑みを浮かべていた。

「貴方も――おかえりなさい、士郎」
「…これから寝泊まりする場所と聞いていたが―――ここは君たちの暮らしている部屋なのか?」
「ええ、その通りよ。とはいっても多人数でも住める程度には広いし、ちゃんと個室もあるわよ」

 だから心配はいらないと――。
 そう告げるプレシアの姿に、士郎は小さく納得のため息を零すのだった。

「ここに私と母さんとアルフ――それとリンディ艦長が一緒に暮らしているんです」
「リンディも?」
「はい。名目上は母さんの監視ということになってはいるんですけど――」
「私とフェイトが一緒に過ごせるように、リンディが気を遣ってくれたのよ。ここもリンディが借りてくれている場所なの」

 プレシアの言葉を耳にして、士郎はその視線を周囲へと向けていった。

「……姿が見当たらないようだが、彼女はまだ仕事中なのか?」
「今はアルフと一緒に買物へ出かけているわ。今日は貴方の歓迎会をするつもりなの。もちろんクロノたちも来る予定よ」

 少なくともこれから一月以上は同じ屋根の下で暮らすことになるのだ。
 その始まりを盛大に祝いたいというプレシアやリンディの考えにはフェイトも賛成だった。

「そういうことなら、俺も準備を手伝うとしよう。世話になる以上、それくらいの事はしておかないと気が済まないからな」
「ええ、お願いするわね」

 いつの間にか用意して見せたエプロンを身に纏った士郎が調理場に立つプレシアと肩を並べる。
 傍目に仲が良い二人の姿をその目に映しながら、フェイトも同じように席を立って士郎たちの手伝いをするために傍へと歩み寄っていくのだった。
 

 

Episode 53 -日常の終わりに-

 
前書き

 

 


 故郷の街を後にして数日――。
 男が向かったのは多くの人が過ごしている大都会だった。
 特に目的があったわけではなく、ただ自然と足がそちらへと向いただけの土地――彼はそこで一つの出来事に遭遇する。
 
 ――それは、どこにでもあるような事故だった。
 
 けれど、起きたからには人の手ではどうにもできないもの――それを、彼はあっさりとどうにかしてしまった。
 周囲で巻き込まれそうになった多くの人が彼に感謝を抱いたのは当然の流れだったのだろう。
 事故に巻き込まれていた当事者の女性は命の恩人である彼にお礼がしたいと告げる。
 酷く嬉しそうに感謝をしたいと告げる女性に対し、それは過分だと――ただ通りすがっただけだと男は答えた。
 それがどのように映ったのか――。
 男の謙虚な態度に深い感銘を覚えた女性はもう一度深く頭を下げ、感謝の言葉を口にしようとして――ハッと正気に戻った。
 
 ――どうして自分は"誰もいない"場所に向けて礼をしていたのだろうか?
 
 男の目の前で不思議そうに零した女性は、まるで男の姿など見えていないといった様子で周囲を見渡してから去っていった。
 先程までは周囲で感謝の声を上げていた人たちも同じように周囲を軽く見渡してから去っていく。
 その一見しなくとも奇妙な一連の出来事を、男は当然のことだと受け入れる。
 もとより――男は自身が世界から弾かれた存在であることを承知していたからだ。
 それからの半年間――男は旅を続けながら、多くの人を救っていった。
 繰り返される感謝と忘却――。
 頭で理解していたことをようやく身体で実感した男は、あるひとつの決意を固めた。
 誰の記憶にも残らないというのなら、例えどんなに人間離れした行為を行っても騒がれることはない――と。
 男が持つのは、およそ普通の人間が持ち得るようなものではない強大な力――。
 神話や物語に登場し、伝説を刻んだ英雄とその武器――男は、その武器の数々を用意して扱うことができた。
 使い手と全く同じでなくとも、限りなく本物と同じならば、それはつまり伝説の再現に他ならない。
 男はその力を駆使して、あらゆる苦難と困難を打倒していこうと決めたのだ。
 そうして――それからの長い時間を男は戦いの中で過ごしていく。
 人から忘れ去られるまでには揺らぎがあり、一瞬の後に忘れられることもあれば数日後まで覚えられている場合もあった。
 けれど結果は同じ――どれだけ期間があろうと最後には必ず忘れ去られてしまう。
 それを当然の事として受け止めていた男は、自身が持つ力を駆使して数多の戦いを潜り抜けていった。
 ――男が戦う相手とは、極論すれば運命そのものだったのだろう。
 人のみならず、街や国、世界――規模の差こそあれ、そのいずれにも人の身ではどうすることもできない事象は存在している。
 それこそが男の敵であり、男が生涯を賭して全霊で戦ってきたモノの正体だった――。





 ・――・――・――・――・――・――・





 十月もそろそろ終わりに近付いてきた頃――。
 士郎が旅立って数週間が過ぎたその日の帰り道を彼女――エヴァンジェリン・A・K・マクダウェルは友人のアリサと共に歩いていた。

「――そういえば、今日は何か用事とかあるの?」
「特にはないな。はやての病院も今頃家の連中が連れて行っている頃だろうし、帰ってのんびりするぐらいだ」

 アリサからの唐突な質問にエヴァは即答してみせる。
 今日は海鳴大学病院ではやての定期検査が行われる日である。
 午前中から出向く予定だったこともあり、学校に通うエヴァは付いていかなかったが、彼女以外の全員が付き添っているはずだ。

「それならちょっと付き合ってよ。新しい本も沢山仕入れたから、興味あるなら貸してあげられるわよ」
「小難しい本ならゴメンだぞ」

 アリサが現在集めて読み進めている本は小難しい内容のものが多い。
 普通ならば十にも満たない子供が理解できるようなものではないのだが――。

「大丈夫よ。ちゃんとエヴァの好きそうな小説も沢山あるから」
「まあいいだろう。今日はどっちだ?」
「アトリエのほうよ。家に溜め込んでいた分も全部移しちゃったから」

 アリサがメルルのアトリエに入り浸るようになって数ヶ月――。
 彼女は以前からやっていた習い事を辞めて、アトリエや自宅で勉強に勤しんでいた。
 なのはや士郎から並列処理(マルチタスク)を教授してもらって効率が上がった――とは本人の弁である。

「よくメルルが許可したものだな」
「メルル先生は私が色々な本を読んだり知識を得ることそのものについては応援してくれてるの。まあ、あっちの方は相変わらずなんだけどね」

 いつも通りの手順をこなしてアトリエのある空間へと足を踏み入れる。
 その中央に立つアトリエの中にある一室をアリサは好きに使わせてもらっているらしい。

「――それにしても、随分と増えたな」

 室内を眺めながらエヴァは素直な感想を零した。
 見渡す限りに敷き詰められた本棚――その全てを埋め尽くす無数の本は、まるで学校にある小規模な図書室のようでもあった。

「時間が足りなくて全部はまだ目を通せていないけどね。今の私じゃこれ以上読む速度を上げることは出来そうにないし……何かいい手段があるなら教えて欲しいくらいよ」

 中身を理解することが困難なのではなく、単純に本を読む速度が問題なのだという。
 事実、一つ一つが鈍器にもなり得るほどに分厚い書物が殆どなのだ。
 たかが数ヶ月程度で全てを読み尽くすなど、普通の方法では不可能に近いだろう。

「……ふむ。そういう事ならば手が無いこともないぞ」
「そうなの?」
「ああ。準備に手間が掛かるが、二週間程度もあれば今の私でも用意してやれるだろう」

 準備に当たって必要な魔力を確保するための準備に一週間――。
 肝心の手段を用意するための作業に更に一週間程度は掛かるだろう。
 それを伝えると、アリサは僅かに戸惑ったような様子でエヴァを見つめてきた。

「ありがたい話だけど、具体的にそれってどういう手段なわけ?」
「対象の精神を幻想空間に閉じ込めるタイプの魔法書……いや、巻物の方が効率はいいのだがな。元々は対象を幽閉することを目的としたもので、それを使用するのさ」
「幽閉……それって入ったら中からは自力で出られないってこと?」

 当然の心配を口にするアリサに対して、エヴァは静かに首を横に振って答えた。

「その辺りは作り手のさじ加減でどうとでもできる。これを使用する利点はたったひとつ――幻想空間では現実世界の数倍から数十倍ほど時間経過が早い…ということだ」
「足りない時間を作るにはもってこいってことね」
「そういうことだ。まあ、貴様が欲しているのは本を読む時間――つまり物を持ち込めなければいけないのだから、精神だけでは無く肉体も取り込めるようにしなければならないがな」

 とはいえ、術式そのものに関して問題は無い。
 あるとすれば、複雑な術式を組む上で必要となる魔力を融通する事が難しいという一点のみだ。

「それってやっぱり難しいの?」
「全盛期の私ならば容易だっただろうが……まあ、それはこっちの問題だ。貴様がどうしても必要だというのなら用立ててやると言っている」
「もちろんお願いするわ。それにしても、エヴァがそういう方面で融通を利かせてくれるのは珍しいわね」

 アリサの言葉には微かな戸惑いが含まれていた。
 それを当然と受け止めたエヴァは、僅かばかり苦笑を浮かべて見せた。

「心配せずとも純粋な好意などではないさ。貴様が目指す場所へ向けて進んでいく姿は見ていて面白いからな」

 元々それなりに優秀で希有な性質を備えていたアリサだが、メルルとの出会いが彼女を本気にさせたのだろう。
 あくまでも一般人の子供としては優秀だったアリサは、自身の周囲やメルルとの距離を冷静に推し量り、自身に足りないものを手にしようとしている。
 そのために出来る限りの事を全力でやってきたアリサの姿を傍でずっと眺めてきたのは、詰まるところ暇つぶしに他ならないのだが――。

「折角の暇つぶしだ――精々退屈な人間にだけはなってくれるなよ」
「なにが琴線に触れているのかはわからないけど、私は私がやるって決めたことに妥協なんてしないわよ」
「そうか」

 迷いなく堂々と答えるその姿には確かな決意が見て取れた。
 若干九歳の子供――。
 出会った頃には間違いなくそうであった少女は、日毎に確かな成長を刻んでいる。
 己が未来を真っ直ぐに見据え、そのために迷い無く進んでいく姿は好感を抱くに値するものだった。

「ところで、最近すずかの様子が少しおかしかったみたいだけど…何か知ってる?」

 ふいに告げられた言葉にエヴァは思い当たる節があった。
 夏の前に起きた魔術に関する事件を経て、なにもできずに護られてばかりだったことに独り悩んでいたすずか――。
 そんな彼女から持ちかけられた頼みを渋々ながら引き受け、まずは半年間続けて見せろと勧めた日課を思い出して笑みを浮かべた。

「あれはただの寝不足だろう。貴様と同じで、夢中になれるモノが出来たのだろうさ」

 もしアリサとすずかがそれぞれ自身が目指す道を歩んでいくなら、いずれは知る事になる程度のことだ。
 そんなことをわざわざ知らせることに意味は無いし、そういったことは当人同士で話せばいいのだから――。

「……まあいいけど。それで、なにかお気に召した本はあった?」

 とりあえず納得したのか、自身の読書を開始しながらそんなことを尋ねてくる。
 新しく補充したという本の幾つかを簡単に通し見て、興味を持ったモノを数冊ほど手に取った。

「ああ、幾つか借りていくとしよう。貴様は……相変わらず小難しい本を読んでいるようだな」
「錬金術って結局は学問なわけでしょ。確かに今は教えてもらえてないけど、それならそれで今できる事は全部やっておきたいしね」

 物理学に関する本を流し見ながら告げる言葉に偽りはないのだろう。
 彼女はいつか教わることになると信じている錬金術のために自身をどこまでも高めていこうとしている。

「……待ち続けて、それでも教えてもらえないときはどうする?」
「例えそうなったとしても無駄にはならないわよ。そりゃメルル先生と出会わなかったら、きっとここまで真剣に勉強しようなんて思わなかったでしょうけど……」

 それまでも優等生として知られていたアリサだが、あくまでも天性をそのまま自然に伸ばしてきただけに過ぎなかった。
 そんな彼女が本気で自身を高めようとすれば、元来備えていた能力が開花していくのは当然の事だろう。
 アリサ・バニングスという少女は、メルルと錬金術に出会うことで所謂"天才"と呼ばれる人種へと目覚めていったのだから――。

「ふん…機会を生かすも殺すも当人次第だろう。ともあれ自身の選択と歩みに後悔しないように気をつけることだな」
「忠告は有り難く受け取るわ。それが簡単なことじゃないってことは私なりに理解しているつもりだしね」

 どれほど知識を得ようと変わらぬその在り方――。
 そんな彼女もいつか変わる日がくるのか、それとも変わることなく生きていくのか……。
 退屈しのぎでなくとも興味を抱くには十分過ぎる相手だと、エヴァはうっすらと口の端を歪めた。

「結構なことだ。今日はメルルもこっちには来ないだろうから、貴様も程ほどにしておけ」
「了解。気をつけて帰りなさいよ、エヴァ」

 簡単な挨拶を交わしてアトリエを後にする。
 帰路についたエヴァは、さっそく魔法書の作成を行うために作業工程を脳裏に描きながら歩いていくのだった。


 -Interlude-


 病院のロビーに備え付けられている椅子に腰掛けたまま暫く――。
 彼女――メルルリンス・レーデ・アールズは、検査を終えて戻ってきたはやてを出迎えていた。
 隣に腰掛けていたヴィータがはやての姿を認めて立ち上がり、傍へと向かって行く姿を見送りながら笑みを零す。
 すっかりはやての妹のような立ち位置が定着しているヴィータだが、はやてと共にやってきていた医師の石田に丁寧な挨拶をする姿は見た目も相まって微笑ましく見えた。

「――おつかれさま、はやて」
「ありがとな、ヴィータ」

 車椅子に腰掛けているはやての背後へと回り、手押しハンドルのグリップを持ったヴィータがゆっくりと車椅子を押し始める。
 そんなヴィータの行動に合わせて車輪に備え付けられているハンドリムから手を離したはやては、静かに後ろへと頭を振り向かせて満面の笑みをヴィータへと向けていた。

「じゃあ、はやてちゃん。先生…メルルさんたちとちょっとお話があるから」
「はい」
「ヴィータちゃんも、はやてちゃんと一緒にここで待っててね」
「はーい」

 どこかいつもより丁寧に見える石田が告げた言葉にはやてとヴィータがそれぞれ応える。
 そんな姿を共にやってきていたシグナムやシャマルと共に眺めていたメルルは、二人に背を向けて歩いてくる石田に促されて診察室へと向かった。
 この世界にやってきて、士郎と共に八神の家で暮らすようになって約半年――。
 その間、何度もやってきて見慣れてしまった診察室の椅子に腰掛けて石田と向き合う。
 デスクの上に置かれているディスプレイに映されているデータは、先程まで検査を受けていたはやてのデータだ。
 彼女はそれを難しい顔をしたまま流し見て、何かを覚悟したような表情をまっすぐにメルルたちへと向けてきた。

「あの…お話というのは?」

 隣に腰掛けたシャマルが少しばかり戸惑った様子で問いかける。
 いつもとは違う石田の姿に違和感を覚えたのだろう。
 メルルを挟んで逆隣に腰掛けているシグナムも、どこか窺うように石田の姿を眺めていた。

「今日の検査結果から判明したことなのですが……神経の麻痺が進行しています。最善は尽くしていますが、このままいくと内臓機能の麻痺に発展する危険性も――」

 ――唐突な宣言に、診察室内の空気が一変する。
 両隣からの息を呑む音を耳に届けながら、メルルは危惧していた最悪の事態がやってきたのだと悟った。

「――命の危険がある…ということですね?」
「……はい」
「先生の所見で構いません。このまま症状が進行していったとした場合、猶予はどれくらいあるでしょうか?」

 努めて平静に問いかけると、石田は表情を崩すことなく視線をメルルへと真っ直ぐに向けてきた。

「――長くても三ヶ月……早ければ二ヶ月程度かと」

 あまりにも短い残された時間――。
 石田が言うには、本人には相応に自覚症状があるはずだという。
 恐らく皆を心配させまいと隠していたのだろうと思い至り、メルルは静かに瞑目した。
 浮かぶのははやてと共に笑いあう士郎の姿――。
 そして、二人の別れ際の姿を思い浮かべたメルルは閉じていた目を静かに開けて石田へと向ける。

「そうですか……わかりました」

 言葉を失ったままのシグナムとシャマルを代表してそれだけを口にする。
 改めて最善を尽くすと言葉にしてくれた石田と今後の打ち合わせをして診察室を後にしたメルルは、呆然とした様子でついてくるシグナムとシャマルへと振り返った。

「――ごめんね、シグナム。私はちょっと用事が出来たから一度アトリエの方に向かうね」
「……わかりました」
「シャマルも……ヴィータやザフィーラには説明をしておいてあげてね」
「はい……」

 悲痛な表情を改めるようにと伝えるためにいつも通りの笑顔を浮かべてみせる。
 二人もすぐにメルルの意図を悟って、それまで浮かべていた表情を改めて平静な様子を取り繕って見せた。
 そんな二人と別れ、ロビーで待つはやてとヴィータに挨拶だけをしてから病院を後にする。
 アトリエへと向かう道中――これからのことを脳裏に描きながら、メルルは静かに覚悟を決めていく。
 そうして辿り着いたアトリエに入ると、そこにはいつもと同じようにアリサの姿があった。
 扉を開けたメルルの様子に気付いたのか、いつものように声を掛けてこようとしたアリサは僅かばかり窺うような視線を向けてきた。

「――メルル先生?」
「遅くまで熱心だね、アリサ」

 彼女がアトリエに入り浸るようになって数ヶ月――。
 言葉にこそ出さなくなったが、彼女が錬金術を学びたいと思っていることは間違いない。
 そんな彼女が勉学に力を入れていることは知っているが、その熱心さはかつて錬金術を学び始めた頃の自身をメルルに思い出させていた。

「ちょうどそろそろお暇するところでした」
「そう……」
「なにか……あったんですか?」

 いよいよいつもと異なると確信したからか――。
 メルルが腰掛けた正面に同じように腰掛けたアリサが静かに尋ねてくる。
 すっかり彼女に素顔を見せることに抵抗を覚えなくなっている自身に内心苦笑いを浮かべながら、メルルは胸中をうち明けるように言葉を零した。

「少しね……星を救えても、人一人助ける事が出来ない自分の不甲斐なさが身に染みちゃって」

 士郎と出会い、凛と出会って様々な世界を旅してきた。
 そうした中で決して少なくない人たちと関わり、出来る範囲で多くの人たちの悩みや苦悩を解決してきた。
 あるときは病に苦しむ人を――。
 また、あるときは人が住めない環境になりつつあった星を――。
 けれど、それは決してメルル本人が強く望んだ事ではなく、ただ請われて出来るからと行ってきたことに過ぎない。
 そんな自身が少なからず大切に思っている人間一人を救うことの出来ない現実に、メルルは決して小さくない無力感を覚えていた。

「助ける事が……もしかして、はやてに何かあったんですか?」

 メルルの様子と言葉から状況を把握したのだろう。
 確信を以て告げるアリサの言葉に、メルルは隠していた苦笑を表に出してから頷いて見せた。

「すっかり察しがよくなっちゃったね。うん…まあそうなんだけど――この事は誰にも口にしちゃダメだよ」
「………わかっています」

 僅かばかり戸惑いを見せたアリサだが、すぐにそれを消して頷いてくれた。

「ありがとう」

 素直に感謝を告げると、彼女は再び窺うような視線をメルルへと向けてきた。

「――それで、メルル先生はどうされるつもりなんですか?」

 このままではいないのだろう――と。
 そんな意思をこめたアリサの視線を真っ直ぐに受け止めて、メルルは静かに首肯する。

「打てる手は全て打つよ。個人的にはやてを助けてあげたいって想いもあるし、あの子がいなくなったらシロウが……あの人が悲しむもの」

 士郎がはやてを特に大切に思っていることは間違いの無い事実だろう。
 彼が他者にそうした感情を抱いてくれている事を嬉しく思う反面、それを失うかもしれないと知った彼がどのような思いを抱くのか――。
 遠い過去に置き去りにしていた感情を自覚しながら、メルルは決意を秘めた眼差しでアリサに応えてみせた。

「……士郎さんはこの事を?」
「まだ知らせていないけど、どこかで知らせようとは思ってるよ。最悪――シロウにも協力して貰うことになるかもしれないし…ね」

 メルルの本気を感じ取ったのか――。
 慎重な様子で尋ねてくるアリサの言葉に答えながら覚悟を決めていく。
 かつて自身が望み、多くの人を救うためにと研鑽を積んできた錬金術――。
 たったひとりの大切な人を悲しませないためにその力を使うことを、メルルは改めて決意するのだった。


 -Interlude-


「――どうして……気づけなかった」

 夜の公園で彼女――シグナムは後悔の滲んだ声を零した。
 主である八神はやての症状が病気によるものではなかったという事実が判明したのは、病院を後にして家に戻った後のことだ。
 シャマルがこれまで以上に精密な検査を行った結果、夜天の書――闇の書とも呼ばれている魔道書の独立防衛システムの異常が発覚した。
 抑圧された強大な魔力は未成熟なはやての身体を蝕んでいき、その果てに待っているのは確実な死という定められた結末だけだった。

「――助けなきゃ……」

 零れる声は背後から――。
 シグナムが振り返った先には、共に主であるはやてに仕えるヴォルケンリッタ―が揃っている。
 絞り出すように声を零したのは、目尻に涙を浮かべたヴィータだった。

「はやてを助けなきゃ…っ!!」

 慟哭するように声を上げたヴィータの言葉はシグナムたち全員の想いそのものだ。
 主であるはやてを救いたい――。
 そして、そのためにシグナムたちができる事などたった一つしかない事は、この場にいる誰もが理解していた。

「――シグナム……どうする?」

 確認をするように尋ねてくるザフィーラの声を耳にして、シグナムは自身の手に握り込んでいたものを直視する。
 自身がその手に持つ剣のミニチュア――所謂デバイスの待機状態であるキーホルダーを右の手のひらに乗せたまま、シグナムは僅かに瞑目した。

 ――俺がいない間、はやてのことをよろしく頼む。
 
 信頼の眼差しと言葉を残して旅立った人――。
 これから行おうとしていることは、きっと彼の信頼を裏切るに等しい行為に違いない。
 この世界で目覚めてから与えて貰った暖かな日常の全てを捨てて、それでも大切な人を護るために――。

「――道は……ただ一つだ」

 決意を込めてその言葉を口にする。
 後戻りの出来ない道――。
 その先に待っている結末を受け入れようとして――ふいに彼女はその姿を現した。

「――こんな夜更けに揃って家を出て行ったと思えば…随分と興味深い話をしていたようじゃないか」

 聞こえてくる声はどこか冷淡なものだった。
 まるで闇に溶け込むように佇む少女――エヴァンジェリン・A・K・マクダウェルは、普段とは異なる気配を身に纏ってシグナムたちを見据えてくる。

「エヴァ……どうして、貴女がここに?」
「そんなことはどうでもいいだろう? それで……貴様たちはこれから自分たちが何をして、何を得ようとしているのか――そして、何を失おうとしているのか…それをわかっているのだろうな?」

 余計な問答は不要だと告げて確信を突いてくる。
 言われるまでもない――そんなことは全て承知していた。
 はやてや士郎の思いや願いを裏切り、死へと向かうはやての未来を手に入れる――。
 そして、そのために失うもの――払う代償こそがはやてを傷つけ悲しませる結果に繋がるだろうということも全て承知している。

「――無論です」
「なるほど……覚悟はあるということか。結構なことだ」
「主はやてを救うためならば、我らは……」
「――それを……はやて本人が望むと思うのか?」

 はやての名を出したシグナムに突きつけられたのは絶対の真実だ。
 あの心優しい少女とかつて交わした会話を思い出し、彼女がシグナムたちが行おうとしている事を知れば間違いなく止めるだろうという確信を抱く。
 ――彼女や士郎に騎士の誓いを立てた想いに嘘はない。
 けれど――自身の小さな誇りと、あの優しい少女と士郎が笑い合える未来を比するつもりなどシグナムには毛頭なかった。

「いえ……これは我らが独断――例え主はやてを……士郎を裏切ることになろうとも、我らは我らの意思で主を護ります」
「事情を話せば、士郎ならば貴様らの味方をすると思うが?」
「――だからこそ…です」

 ありったけの決意と覚悟を極めて断言する。
 それをどう受け止めてくれたのか――エヴァは静かにシグナムたちの覚悟を聞き届けてくれた。

「そうか……ならば止めはしないさ」
「よろしいのですか?」
「かまわんさ。最悪、はやてを生かしておくだけならば手がない事もない。もっとも――いまと同じように…とはいかんだろうがな」

 それがどのような手段なのかはシグナムには想像することも出来なかった。
 ただ、憂慮するような表情を浮かべるエヴァを見れば、それが苦肉の策である事は間違いないのだろう。
 それでも――なんであれ主であるはやてを救える可能性があるというのならそれに越したことはないのだから。

「――行動を起こすのなら一度家に戻ってメルルに協力を呼びかけろ。あの女は、士郎とはやてのためならば貴様らに手を貸してくれるだろう」
「わかりました」

 エヴァの言葉に従い、シグナムたちはこの場にもう暫く残ると告げたエヴァを置いて家に向かった。
 ふと――彼女の胸元に赤く光る宝石のようなものが見えた気がしたが、それを確認するような余裕はない。
 これまで過ごしてきた暖かな日常に別れを告げて、シグナムは望む未来を得るために自身の剣を振るうことを改めて決意するのだった。
 

 

Episode 54 -大切な想い-

 
前書き
第五十四話です。
 

 


 薄暗い通路の奥から小さな光点が移動してくる。
 それを静かに眺めながら彼女――フェイト・テスタロッサは愛機バルディッシュをその手に構えた。

「――そっちに行ったよ、フェイト、士郎!!」

 一際大きな光が周囲を照らしたと同時に、そんなユーノの声が辺りに響き渡る。
 それを耳に届けると同時に隣で同じく待機していた士郎と視線を交わして頷きあう。

「了解だ。フェイト――」
「――援護します!」

 士郎の周囲に発生する小さくも無数の魔力刃――。
 それら全てがユーノの誘導してきた青白い発光体や身体が透けて見える数体の獣を取り囲むように展開されていく。
 その全てを包み込むように捕縛陣を起動させたフェイトは、展開された魔力刃が対象へ降り注ぐと同時に構えて飛び出した。
 空戦を得意とするフェイトにとって無重力空間での戦闘はある意味で慣れ親しんだもの――。
 速度を落とすことなく肉薄し、構えたバルディッシュに展開した魔力刃で対象を切り裂いていく。
 ふと横を見れば、両の手へ魔力刃を構えた士郎が近場の対象を切り伏せながら、なにもない空中をまるで跳ねるように移動していた。

「――おつかれさま、二人とも」

 対象を排除し終えた事を確認したユーノが周囲を魔法で照らしながらやってくる。
 そんな彼の姿を眺めながら、フェイトは戦闘体勢を解いてバルディッシュを待機状態へと戻すのだった。

「ああ、おつかれさま」
「おつかれさまです」
「それにしても……まさか、あんな幽霊みたいなのが現れるなんて――」

 無限書庫での探索調査を開始して一月余りが過ぎた。
 探査を進める内に遭遇した奇妙な場所や罠の仕掛けられた宝物――。
 その中には巨大な宝物庫そのものさえもあり、ここが様々な有形資料を無造作に集めているという当初の触れ込みを実感させられてきた。
 今回もその類のもので、恐らくは数百年以上も前に存在していたと思われる古風な建物を内部調査するために足を踏み入れたのだが――。

「なんにせよ、魔法による攻撃が効いてくれたのはよかったな」

 躊躇なく攻撃を開始した士郎の言葉に同意するように頷きを返す。
 奇妙な相手であったのは確かだが、もし攻撃手段が通用しなかったのなら奇妙だけでは済まなかっただろう。

「そういえば……さっき士郎が何も無いところでいきなり加速していたのは?」
「なに、君たちと違って俺は空を飛べないからな。ならば魔法で足場を作ればいい…とプレシアが勧めてくれたから実践してみたというわけだ」

 告げると同時――空中に魔力で構成された薄い剣のような形をした足場が発生する。
 地面と同じような感覚で立てるというほどではないらしいが、それでも空を飛べない士郎にとっては貴重な手段に違いない。

「とりあえず、これで全体の一次調査は大体終わりかな。書物のチェックと区画整理は並行して進めていく予定だから、明日までには作業手順を纏めておくよ」
「了解だ」
「はい」

 いつものように周辺をチェックしていたユーノの言葉に士郎と揃って頷いてみせた。

「じゃあ、今日はこれで終わりにしよう。そろそろ時間も遅いしね」

 当初予定されていた作業日程を大幅に短縮しての一次調査終了――。
 フェイトにとっても新鮮だった今日の調査任務は、いつもと変わらないユーノの言葉で締め括られるのだった。


 -Interlude-


「――ふむ、まあこんなところか……」

 自室の机の上に広げた紙面を眺めながら、士郎は確認するようにそんな言葉を零す。
 これまでの長い人生の中でもあまり経験したことのない行為なだけに、その出来映えには自信が持てなかった。

「――士郎。少しいいかしら?」

 小さく扉を叩く音が響くと同時に聞き慣れた声が耳に届く。
 扉の向こうに立つ人物の姿を思い浮かべながら、士郎は静かにそちらへと向き直った。

「プレシアか……どうぞ」
「お邪魔します。あら、こんな遅くまで仕事をしていたの?」

 室内へ入ってきたプレシアがすぐに机の上に広げられた小さな紙面へと視線を向ける。
 もうじき日付が変わろうかという時分――。
 机を前に椅子へ腰掛けた士郎が何かをしているとなれば、仕事をしていると受け取られてもおかしくはないのだが――。

「いや、手紙を書いていたんだ」
「ああ、はやてちゃんにね。メルルやエヴァは元気にしているのかしらね」

 すぐに納得した様子のプレシアに備え付けのベッドの上を勧める。
 椅子がないことは承知しているからか、プレシアは特に気にした様子もなくベッドの端へと腰を下ろした。

「向こうからの手紙では特に変わったことはないと書いてあったからそうなのだろう」

 なのはとフェイトのビデオメール交換などに合わせて行っているはやてとの手紙のやり取り――。
 はやてからの手紙には日々の他愛のないことや、いつも通りの毎日を送っていることが数枚に渡って書かれていた。
 十一月に入ってから皆が忙しそうに動いているとは書いてあったが、メルルやエヴァがよく傍にいてくれるようになったことは嬉しいともあった。

「そう……まあ、あの二人に限って心配は無用でしょうね」

 プレシアにとって、メルルやエヴァは貴重な友人といえる。
 互いに互いの事情を知り尽くした仲だけに、プレシアの言葉には確かな信頼が込められていた。

「そうだな。それに、もうじき会えるのだろう?」
「ええ。リンディとクロノが上手く手続きをしてくれたわ。遅くても来月の頭には向こうへ移住できるみたいよ」
「なんであれ、局としては都合がいいのだろう。管理外世界に局員が住むことで間接的に調査活動もできるわけだからな」

 嬉しそうに語るプレシアの言葉に相鎚を打つように答える。
 以前から打診していたことらしいが、プレシアはフェイトと暮らす拠点を地球の日本――海鳴に決めていたらしい。
 かつて彼女が事件を起こした場所だけに容易なことではなかったはずだが、そこはプレシアも言うようにリンディやクロノが手を尽くしたのだろう。
 紆余曲折あったということだが、晴れてプレシアとフェイトの二人はリンディの保護監視下において――という条件の下、管理外世界への滞在員として地球に移住が認められたのだ。

「名目としては十分でしょうね。それに、それが許可されるくらいにはリンディが局内でも信頼されているということよ。本当に……感謝するしかないわね」

 臨時とはいえ、局員としてリンディの補佐を務めてきたプレシアの評価はそれなりに高いとクロノが言っていた事を思い出す。
 そんな彼女の積み重ねや、嘱託魔導師として活動する娘のフェイト――。
 それに加えてリンディやクロノたちの口添えがあったからこそ、管理外世界滞在員という立場に落ち着くことができたのは言うまでもない。

「フェイトにとっても、向こうで生活できるのは楽しみのようだしな」

 ビデオメールを通じて交流を重ねてきたなのはと共に過ごせる環境だ。
 直接ではないが、すでにアリサやすずかたちとも交流を開始しているらしい。
 ともあれ、初めての友人だというなのはと共に過ごせることはフェイトにとっては良い事だろう。

「なのはちゃん…ね。向こうにいったら改めて挨拶しないといけないわね」
「心配しなくとも、彼女は君の事を悪くは思っていないと思うが?」
「迷惑をかけたことや、危害を加えようとしたことは事実よ。これから先の事を考えるなら筋は通さないといけないでしょう?」

 かつて事件を引き起こし、なのはをこちら側へ引き込む要因を作ったのは紛れもなくプレシアだ。
 当時の彼女がフェイトへ行っていた行為を知るなのはだけに、プレシアが彼女に対してある程度配慮しているのはある意味で当然とも言えた。
 もっとも――プレシアが気にしているのは自身に関する心証そのものではなく、なのはを友人としているフェイトのことだけだろうが……。

「フェイトのために……か。色々と考えてはいるようだな」
「あの子が将来どうするかは別の話としてだけど、今回の件を切っ掛けにして私は向こうに永住するつもりなの。魔力は殆ど封印された状態になるでしょうけどね」
「……いいのか?」
「私にとって大切なのは魔法じゃないわ。フェイトがいつか独り立ちするまで過ごしやすい環境を整えてあげること――そして、あの子がいつでも帰ってこれる居場所を作ってあげることよ」

 フェイトが過ごしやすい環境を整えてあげたいのだとプレシアは迷いなく告げる。
 気負った様子を微塵も見せず、ただ当然のことだというように宣言するプレシアの姿は紛れもなく母親そのものだった。

「アリシアのお墓も向こうに用意するつもりなのよ。あの子には、今もお墓を用意してあげることが出来ていないから……」
「そうか……」

 事件後にアリシアの遺体は手厚く葬られたと聞いていたが、きちんとした墓所は用意していないのだという。
 随分と早い内に地球への移住を考えていたプレシアの判断だというが、故人であるアリシアに申し訳なく思うその姿は士郎には眩しく見えた。

「ごめんなさい…無遠慮だったわね」

 話を聞いていた士郎の様子が少し違って見えたのか、プレシアが遠慮がちにそんな言葉を口にする。
 何の事かと一瞬だけ迷い、すぐ理由に思い当たった士郎は苦笑いを零しながらまっすぐにプレシアと視線を合わせた。

「そういえば、君はメルルから俺の事を聞いていたんだったな」
「……ええ」
「気にする必要はないさ。全てを置き去りにする道を選んだのは俺自身なんだからな」

 大切な人たちと死別し、その死を悼む時間を持つ事なく旅立った過去――。
 ――後悔はなくとも、"ソレ"を考えなかったはずがない。
 あの頃、すでに自身が生きていた頃から長い年月が過ぎ、当時親しかった人たちの大半が既に世を去っていたという事実を――。
 
「……メルルから話を聞いた時にはどこのお伽噺かと本気で思ったわ」
「違いない――我が事ながら、振り返って見れば本当に波瀾万丈な人生だったのだと思ったほどだからな」

 場の空気が僅かに暗くなったからだろう。
 プレシアが努めて明るい調子で本音を口にしてくれたことに内心で感謝しながら、かつてメルルと出会ったときに抱いた想いを振り返った。
 そんな士郎の言葉を耳に届けて優しく微笑むプレシアの姿に、士郎は改めて笑みを浮かべてみせるのだった。

「――そういえば作業のほうは目処が立ったの?」
「ああ。一次調査は予定通り終えられたし、今月一杯で最低限の区画整理も終えられるだろう。後の作業は俺とユーノだけでも問題はない」

 空気を入れ換えるように振られた話題に即答で返す。
 地球へ移住するフェイトが一次調査を終えた段階で滞在員へと席を移すことは前もって知らされていた。
 実際にフェイト本人へ告げられるのは準備が全て整ってからになるだろうが、ここから先の作業は士郎とユーノだけで問題がないというのも間違いの無い事実だった。

「貴方も一度地球に戻ったら? メルルたちも喜ぶと思うわよ」

 気遣いの込められたプレシアの言葉に、士郎は考え込むように腕を組んだ。
 彼女たちと離れてから一月余り――。
 手紙である程度の近況は知れたが、皆の顔を直接見たいという想いは確かにあった。

「ふむ……そうだな。君らの引っ越し作業を手伝うという名目で休暇を申請してみるとしよう」
「ええ、それがいいと思うわ」


 -Interlude-


「――休暇申請? それはもちろん構わないが……プレシアたちの引っ越しでも手伝うつもりなのか?」

 自身に割り当てられている執務室の中――。
 クロノは訪ねてきた士郎の言葉を耳に届けてからそんな言葉を投げ掛けていた。

「ああ。作業そのものも一段落したしな」
「ついでに家にも戻ってみたいというわけか……わかった。日程を合わせて休暇が取れるようにしておこう」
「すまないな」

 後回しにするほど今が忙しいというわけでもないが、先々の事は早めに調整しておいたほうが楽だろう。
 そう判断してすぐに空中へ映し出したモニターに表示されている日程表の予定を修正したクロノは、作業を終えると同時にモニターを消してから士郎へと改めて向き直った。

「仕事として引き受けてもらっている以上、休暇は当然の義務だ。これまで一日もまともに休んでいないだろう?」
「やることは幾らでもあったからな」
「違いない。君やユーノ……フェイトのおかげで予想よりも随分と早く作業が進んでいる。この調子なら、あと一月程度で大体の目処が立つかもしれないな」
「少なくともユーノはそのつもりだろう。区画整理と書物のデータベース化を同時にこなしていくつもりのようだ」

 士郎に滞在してもらう二ヶ月の間にせめて一次調査を終えられればと思っていたクロノだが、良い意味で期待は裏切られたといえる。
 ユーノ、士郎、フェイトの三人は予定の半分ほどの時間で一次調査を終えてしまい、既に次の作業へと移ろうとしていた。

「有能なのは有り難いけど、アイツにも少しは休暇を使ってもらわないといけないな」
「ユーノも君にだけは言われたくないだろうな。何か胸に期するものがあるのかもしれないが、君の仕事量は傍目に見ても過剰だ」

 休みなく働いているユーノや士郎に対する苦言を零すと、苦笑いを零した士郎からそんな言葉を向けられる。
 クロノ本人も自覚していたことではあったが、改めて口にされると確かに……と思えた。

「……無理をしているように見えるか?」
「皆が心配しているのは間違いないと断言出来る程度にはな」

 少なくとも、疲れや焦りを表に出したつもりはクロノ本人にはなかった。
 だが、周囲にはそういったことに聡い者たちが揃っているのだ。
 仕事量そのものが多かったせいもあるのだろうが、周囲に心配を抱かれるのはクロノとしても本意ではない。

「そうか……確かに、少し焦っていたかもしれないな」
「自覚出来たのなら自重するか、周囲に対してもう少し気を遣うことだ。悪戯に周囲から心配されたくはないのだろう?」

 そんなクロノの心情を理解してくれているのだろう。
 士郎からの忠告は、クロノ本人の本心を代弁してくれたような内容だった。

「忠告は素直に受け取ることにする。わざわざすまなかった」
「なに、気にすることはないさ。若い内にはよくあることだ」
「……一応、僕は君と同じ年齢ということになっているんだけどな」
「ふむ…そういえばそうだったな」

 隠すつもりがないのか、それともからかっているだけなのか――。
 自身を十四、五歳と告げていた士郎は、知れば知るほどクロノと同年代の少年とは思えないほど成熟しているように思えた。
 もっとも……仮に士郎が見た目以上に年齢を重ねていたからといって、今更彼に対する態度を変えるつもりなどクロノには微塵もないのだが――。

「まあいい。今後は気をつけるとするさ」
「ああ。ところで、今日は珍しくエイミィと一緒ではないようだが……」
「エイミィは艦長が受け持っている仕事を一部引き継ぐためにそっちに付いている」

 プレシアの地球滞在に伴って、監督官として当面の間は艦を降りることを決めた母――。
 その業務をクロノとエイミィが引き継ぐ形になり、クロノとエイミィは交互に引き継ぎ作業を行っているのだ。

「なるほど。それにしても、リンディは随分とプレシアやフェイトに親身になっているようだな」
「……艦長――母さんは、恐らくプレシアに昔の自分を重ねているんだろう。大切な人を失った悲しみや喪失感……それをあの人は痛いほど知っている」

 事件後、二人の保護観察を引き受けたリンディは特にプレシアに対して深い思い入れがあったように見えた。
 それは遠い過去――まだクロノ自身が幼かった頃に見た母の姿と重なって見えたのは決して気のせいではないはずだという確信がクロノにはあった。

「――家族か?」
「僕の父さ。まだ僕が三歳の頃に殉職したんだ」

 予想通りの返答だったのか、士郎は特に驚く様子を見せることはなかった。

「両親ともに局員として働いていたということか…。では、君が管理局の局員を志したのは――」
「多くの人のために働いていた父さんや今も頑張っている母さんのように、自分も多くの人たちが少しでも平和に暮らせるように手伝いたい――その想いは今も変わらず抱いているつもりだ」

 胸に抱き続けてきた偽りのない本心を、ある種の決意を込めて断言する。
 真っ直ぐに視線を向けたまま向かい合っていた士郎は、まるで出来の悪い弟を見ているかのように小さな笑みを浮かべていた。

「結構なことだ。ならば、尚更自己の管理は徹底するといい。自身のことさえ覚束ないようでは他者のために働きたいなどと語っても、ただの空想に墜ちてしまうぞ」
「理解してるつもりだ。そうでなければ君の手前――正義の味方になりたいなんていう夢を語ることは出来そうにないしな」

 彼の主義とは相いれない理想――。
 けれど、それでもクロノは自身が歩むと決めた道を進んでいくと覚悟を決めている。
 一人では決して歩めないその道も、多くの仲間たちとならきっと歩いて行けると信じているから――。


 -Interlude out-


「――こんな時間まで起きていたのね」

 夜――リビングへ足を運んだ士郎は、ちょうど椅子に腰かけていたリンディと目を合わせると同時にそんな言葉を投げかけられた。

「それはこちらの台詞だろう。君が夜更かしとは珍しい」

 ――すでに日付は変わっている。
 いつもはそれなりに早く自室へ戻って休んでいる彼女がこの時間まで起きているというのは言葉にするまでもなく珍しい事だった。

「明日……いえ、今日から現地入りまでの長期休暇だもの。プレシアもさっきまでは一緒にいたのよ」

 告げられたリンディの言葉に納得する。
 彼女とプレシアは地球に滞在するための手続きに入った為、暫くは休暇扱いとして過ごす事になったのだという。
 休暇明けはすぐに地球へ赴き、そちらで滞在員として日々を過ごしながら管理局員として書類仕事などを主にこなしていく予定らしい。

「……相変わらず緑茶に砂糖を入れているのか。苦いのなら、無理をして飲まなければいいのではないか?」
「これが美味しいのよ。士郎くんも一杯どうかしら?」

 話題を変えるつもりで指摘すると、リンディは頬を綻ばせながらそんな事を口にする。
 そんな彼女に対して、士郎ははっきりと首を横に振って見せた。

「遠慮しておこう。どうしても苦みが強い茶を飲む際には茶請けを用意しておけば事足りるからな」
「茶請け……お菓子のことよね? 以前になのはさんが教えてくれたわ」

 初めてリンディと対面した際に、彼女が緑茶に角砂糖を何個も投入していたのをなのはもしっかりと目撃していたのだろう。
 なのはから甘味と一緒に飲めばそこまで苦くは感じないと聞いてはいたらしい。

「甘いお菓子に苦みのする緑茶の組み合わせは相性もいいと個人的には思っているが……」
「なんだかんだで試してみたことがないから何とも言えないわね」

 まるで何かを期待するような視線を向けたままそんな事を告げてくる。
 そんな彼女に溜息を零して見せた士郎は、仕方がないといった様子を隠すこともせずに提案を口にした。

「体重の増加を気にしないというのなら、緑茶と合わせて今から用意してもいいが……どうする?」
「折角の機会だからお願いしようかしら」

 迷いのない返答が即座に返ってくる。
 もう一度溜息を零して見せた士郎は、小さく頷いてからキッチンに残っている材料等を確認していく。

「了解だ。少し時間が掛かるが――」
「――なら、完成したら部屋に持ってきてもらってもいいかしら?」
「ああ、わかった。出来る限り早く用意するから楽しみにしていてくれ」


 -Interlude-


「――美味しい」

 皆が寝静まった深夜の自室で、リンディは勧められるままに甘味を口にしてから緑茶を飲んで素直な感想を口にしていた。

「そうか……気に入ってくれたのなら作った甲斐もあったというものだ」

 告げて同じように甘味を口にした士郎が落ち着いた所作で緑茶を飲み下していく。
 出来映えに満足しているのか、彼にしては珍しく気の抜けた和やかな笑みを浮かべていた。

「個人的には砂糖を入れたほうがいいとは思うけど、これはこれでとてもいいものだっていうことはよく分かったわ」
「自分で用意するのが大変ならプレシアにでも頼めばいい。彼女ならこれくらいの甘味は用意できるだろう」

 まるで当然といった様子で告げる士郎の言葉に頷いてみせる。
 何となく以前から感じていた事を改めて思い出したリンディは、この機会に少しだけ踏み込んだ話をしてみようと話題を振って見る事にした。

「士郎くんの中では、プレシアの評価は割と高めなのね」
「こちらに来てから殆ど毎日一緒に食事を用意しているからな。彼女の腕前はよく知っている」
「そういえばそうだったわね」

 士郎がこちらへやってきてから一か月余り――。
 その間、毎日のように肩を並べてキッチンに立っていた二人だ。
 料理の腕前を互いに熟知しているのは考えるまでもなくわかることだった。

「プレシアの場合は……フェイトのためという理由もあるのかもしれないな。娘が少しでも喜んでくれるならと思っているのだろう」
「そうね。彼女が管理局の手伝いをしてくれているのは、自分の事よりもフェイトさんのことを考えての事みたいだものね」

 プレシアが士郎と調理をしながら色々と学んでいることはこれまでの食事でわかっていた。
 そんな彼女が誰の為に料理の腕を磨いているのかは一目瞭然だ。
 プレシアが管理局の仕事を進んで手伝ってくれているのも、自らのためではなくフェイトのためだという事も――。

「そういえば、プレシアはこれからを地球で過ごしていくつもりだと聞いたが……」
「ええ、本人から聞いているわ。制約が掛かることもちゃんと説明して……それでも考えは変わらないって言ってたわ」
「今の彼女にとってフェイトより優先順位の高いモノはないのだろう。向こうではアリシアの墓も用意したいと言っていたしな」

 元々管理世界の出身者であるプレシアが管理外世界へ移り住むというのは本来であれば難しい。
 けれど、彼女は自身の魔力をほぼ全て永久に封印しても構わないとまで告げたのだ。
 そうまでして地球で過ごしたいというプレシアの想いを否定する事は、彼女の想いを知るリンディにはできなかった。

「故人に対する想いがあれだけ強かったプレシアだもの。そうしたことにちゃんと向き合っている姿は素直に凄いと思うわ」
「そうだな。ところで先程から気になっていたのだが……そこの写真に写っているのは――」

 士郎の視線の先には一つの写真立て――。
 そこにはまだ幼いクロノとリンディ自身……そして、彼女にとって最愛の人が写っていた。

「――クライド・ハラオウン。十一年前に亡くなった私の旦那さんよ」
「クロノが三歳の時に殉職したと聞いていたが……」
「ええ……とあるロストロギアを調査回収する任務中のことよ」

 当時の事は今でも鮮明に思い出すことができる。
 当時に感じた悔しさや無力感……そして大切な人を失った絶望も――。
 その全てが今の自身を形作っているという実感と共に、はっきりと思い出すことができた。

「――不躾な質問だったな」
「え……? ああ、気にしないでね。この話はプレシアたちにもしているんだから」

 士郎の言葉にリンディは努めて明るく笑みを浮かべながら告げる。
 それでもその根底に隠していた重苦しい気配を感じたのか――。
 士郎は僅かばかり苦笑を浮かべた後、以前に見た事のある真剣味を帯びた表情を浮かべた。

「――後悔しているのか?」
「……悔いというよりは未練かもしれないわね。夫が身を挺して排除したロストロギアには無限転生機能が備わっているし、今もどこかに転生して存在している可能性は極めて高いもの」
「……無限転生?」
「ええ。ロストロギア――闇の書。持ち主に絶大な力を与える代わりに約束された破滅を齎す危険なモノ……」

 第一種危険指定物に指定されている闇の書には特異な性質が備わっている。
 その最たるものが無限転生機能――。
 つまり闇の書とは、破壊しても再生し、新たな主を求めて転生を繰り返していく極めて厄介なロストロギアなのだ。

「……ごめんなさい、湿っぽくなってしまったわね」

 苦笑いを零して告げると、士郎は表情を崩すことなく静かに頭を横に振っていた。
 
「ところでクロノはそのことを――」
「ええ、知っているわ」
「――なるほど。クロノの根底にはそういった事情があったわけか……」

 物言いから判断する限り、士郎はクロノが管理局員を志した動機など知っているのだろう。
 親であるリンディでさえエイミィからの又聞きでしか聞いた事はない。
 それだけでもクロノがどれだけ士郎の事を深く信頼しているのかがわかるというものだ。

「クロノは貴方のことを随分と信頼しているのね。あの子が自分のことを話したのは、私が知る限りではエイミィぐらいよ」
「それはエイミィとクロノが信頼関係をしっかりと築けている証拠だろう。あの二人は互いに支え合えるいいコンビだと思うが……」
「親としては、そのまま……なんて思ったりするんだけどね。まあその辺りは当人同士の問題だものね」
「二人とも既に社会的にも精神的にも独り立ちしているんだ。近しい場所でそれなりに意識していれば自然とそうなることもあるだろうさ」

 どこか達観したその物言いに、以前に感じたことを思い出した。
 まるで自身よりも年長者であるかのような余裕さえ感じられる態度と気配――。
 ――なにより、プレシアや自身が使用した件の薬の存在がある。
 彼が語る言葉――言動から受ける印象は、彼が見た目通りの年齢ではないという確信を抱かせるには十分過ぎた。

「――ところで、貴方にはそういう人はいないの?」

 ふと――そんなことが気になって尋ねてみる。
 リンディからの問いかけに、士郎は少しばかり表情を曇らせ、視線を横へと逸らしてしまった。

「それは……」
「あ…む、無理に言わなくてもいいわ。軽い気持ちで聞いたことだし……」

 大切な人を――護りたいと思った者のために戦うとかつて告げた士郎だ。
 そんな信念を抱いている彼が人を愛するという事を知らないはずはないのだから――。

「……もう随分と前の話になるが――確かにいた」
「…え?」
「何を犠牲にしてでも……例え何を裏切ろうとも護りたいと――そう思えた人が確かにいたんだ」

 優しく……けれど、強い意志を感じさせる眼差し――。
 それ以上を士郎が言葉にして語ることはなかったが、リンディはそこに彼の原点を垣間見た気がしたのだった。


 

 

Episode 55 -きっかけ-

 
前書き
第四章最終話――第五十五話です。
 

 


 ――体は剣で出来ている。


 故郷を離れ、旅を始めて幾星霜――。
 どれだけの年月を経ても男の旅路に果ては見えなかった。
 それでも男は誰かのためにと剣を振るい、数多の敵を打倒していく日々を過ごしていく。


 ――血潮は鉄で心は硝子。


 どれほど感謝され、どれだけの賞賛を受けようと必ず訪れる忘却という結末――。
 世界中を渡り歩きながら、どれだけそれを繰り返したのかは男自身にも正確にはわからなかった。
 それでも立ち止まることだけは出来ず、男は約束された結末へ向けて歩みを進めていく。
 そんな争い続きの日々でも、決して安らぎがなかったわけではない。
 けれど、どんな出会いも日常も瞬きの内に失われていくことに変わりはなかった。
 ――悠久の孤独。
 それを当然としながら、男は足を止めることなく旅を続けていく。


 ――幾たびの戦場を越えて不敗。


 あらゆる苦難を払い、救われない人々の運命さえも覆し、人知及ばぬ災害すら退けた。
 男は持てる力の全てを駆使し、あらゆる手段を尽くして戦い続けていく。
 形振り構わぬ戦いは決して無駄ではなく、男は全ての戦いで勝利を重ねていった。


 ――ただ一度の敗走がなくともただ一度も叶うことなし。


 けれど、どれほどの奇跡を為そうと男の願いが叶うことは決してなかった。
 もとより男の望みとは、たった一人の大切な人をあらゆる苦しみから護ることだった。
 彼の望みは既に遠く霞む過去にしか存在しておらず、未来を見据えて進めば進むほど袋小路へと向かっていくのは当然の帰結だろう。
 
 
 ――彼の者は常に折れず、剣を抱いて丘に立つ。


 それでも――それでも構わなかったらしい。
 ――男は既にその道行を知っていた。
 報われることのないその道程と結末を知った上で男は故郷を後にしたのだ。
 それが正しいことだったのか、それとも間違っていたのかは男自身にもわからなかったのだろう。
 どれだけの年月を重ねようと、男はひたすらにその道を歩き続けて謂れなき運命を背負わされた無辜の人々を救い続けていく。
 

 故に、生涯に意味はなくとも――その体は、無限の剣で出来ていた。


 誰に覚えられずとも多くの人々を救い続けた英雄――。
 男は真実――あらゆる敵を討つ(つるぎ)そのものだった。
 忘却の中に生き、誰からも忘れ去られようと男は決して道を違わなかった。
 あらゆる敵を討つ無限の剣――そんな彼に与えられた報酬は、忘却の日々の終焉と世界中から向けられる怨嗟の声だった。
 約束された結末はあっけないほど速やかに訪れる。
 例え忘却されずとも変わらず戦い続けた男は、各地に残る伝説の実行者として世界中にその存在を認識されていった。
 ――素性も目的も不明な絶対の救い手。
 もちろん男に感謝を抱いた人間もいただろう。
 けれど、およそ人間離れした男の偉業は人々が畏怖の感情を抱くには充分だった。
 組織にも国にも依らず、敵と定めたモノを討つ絶対者――。
 そんな存在が人の社会に許容されるはずなどなく、男は瞬く間に世界の敵として祭り上げられていった。
 ――それで終わり。
 男は世界の敵となり、救い続けてきた人々の手によって終焉を迎える。
 数えきれない程の人々を救い続けた英雄は、最初から最後まで決して報われることなくその生涯を終えたのだった。





 ・――・――・――・――・――・





 十一月があと数日で終わろうという頃――。
 色付いていた葉も次第に枯れ始めており、肌に触れる冷たい風は冬の到来を思わせる。
 そんな中――いつもと同じように学校から帰宅したエヴァは、リビングで嬉しそうに何かを眺めているはやての姿を認めて溜息を零した。

「――士郎から手紙が届いたのか?」

 声を掛けると同時にはやての肩が僅かに跳ね上がった。
 特に気配を消していたわけではないが、エヴァの帰宅に気づかないほど手紙に見入っていたのだろう。
 エヴァへと振り返ったはやては、どこかバツが悪そうな笑みを浮かべていた。

「お、おかえりエヴァ。よう士郎から手紙が届いたゆうてわかったね?」

 取り繕うように告げるはやての言葉に応えず、エヴァはただ小さく溜息を零して見せた。
 そもそも、はやてが周囲に気を向けないほど集中する事柄などそうはない。

「それで、何かいいことでも書いてあったのか?」
「うん。まだお仕事は残ってるらしいけど、休暇が取れたから来月には一度戻ってくるって」

 告げながら差し出してくる手紙を受け取り、中身に目を通していく。
 皆の近況や仕事の進捗具合など、いつもと同じ内容が書かれている手紙の最後――。
 はやてが言うように、休暇が取れたのでこちらに戻ってくるという旨が簡潔に書かれていた。

「みんなにも知らせてあげんとな~」
「ふむ……そうだな」

 きっと皆が喜ぶに違いないと――。
 そう疑いもせずに満面の笑みを浮かべるはやてを横目に、エヴァはもう一度小さく溜息を零した。
 
「メルルには私から伝えておいてやろう。あの女は最近、アトリエの方に篭もっているからな」
「了解や。わたしはシグナムたちが戻ってきたら伝えとくよ」

 そんな会話を交わしてからエヴァはリビングを後にする。
 二階にある自室へと戻り、荷物を置いて着替えを済ませてベッドへと腰掛けた。

「――奴らの元にいなくていいのか?」

 誰もいないはずの空間へと声を向ける。
 応えるようにどこからともなく現れたのは、宙に浮かぶ魔導書――夜天の書だ。

「言っておくが、私は奴らに協力するつもりはないぞ。黙認はしてやるがな」

 突きつけるように告げると、夜天の書は再びどこかへと姿を消してしまった。
 言葉を話すことはしないが、少なくとも周囲の声や状況は把握しているのだろう。

「さて――どうなることやら……だな」

 先行きの見えない事象に自身が当事者の一人として関わるなど、一年前には想像もしていなかったことだった。
 そして――第三者として立ち回れない以上、様々な事や可能性を考慮していかなければならない。
 何度も転生を"繰り返してきた"という魔導書――。
 はやてに与えている影響を考えれば、懐疑的になってしまうのはエヴァとしては当然の事だった。

「士郎……」

 知らず男の名を呟いて、エヴァは苦笑いを浮かべた。
 彼の帰郷が全ての始まり――。
 複雑に揺れ動くそれぞれの思惑や願いがどのような結末を導き出していくのかはわからない。
 それでも当事者の一人として、エヴァは自分自身にできることは惜しまず行っていこうと腹を決めるのだった。


 -Interlude-


「――それでは、失礼します」

 いつも通りの丁寧な礼を口にして去っていくのはシャマルだ。
 彼女を見送って暫く――小さな溜息を零したメルルは、いつものように漂い始めた珈琲の香りに意識を向けた。

「おつかれさまです、メルル先生」

 そう告げながら珈琲の淹れられたカップをメルルの目前へと置いていくアリサ――。
 そんな彼女に視線で礼を告げながらカップを手に取り、珈琲を口に含む。
 半年ほど前からは考えられないほど美味しく感じられるそれは、聞けば士郎にも色々と教えてもらったのだという。

「それにしても、かなり頻繁に通ってきてますね」
「そうだね。でも、それだけ必要になっているってことでもあるわけだから――」

 メルルがシャマルに渡している物――。
 傷を癒やす妙薬などの消耗度合いを考えれば、シャマルたちがどれだけ動いているのかは手に取るようにわかる。

「――もしかして、戸惑っていたりします?」

 窺うようなアリサの言葉にハッとして、メルルは思わず視線をアリサへと向けた。
 そこには、心配そうな面持ちでメルルを見つめるアリサの姿――。
 彼女から純粋に心配されていることを悟り、メルルは笑みを浮かべてから小さく頭を横に振って見せた。

「心配しているだけだよ。彼女たちだって、私にとっては半年も一緒に暮らしてきた家族みたいなものだからね」
「そっか…そうですよね」
「アリサだって、色々と思うところはあるんじゃないの?」

 メルルとしては、事情を知りながらも変わらずメルルと共にアトリエで日常を送っているアリサの心境こそが気になっていた事だった。
 日頃からエヴァと過ごし、この半年で見違えるように精神的な成長をしてきた彼女はこの状況をどのように捉えているのか――。

「それは……もちろんそうです。だけど私には代替案も浮かびませんし、他に手段がないならっていう皆さんの気持ちを否定するつもりもありません」
「その結果として、色々な人が困ることになっても?」
「他の何よりも大切なことのために戦おうとしている人を否定したくないだけですよ」

 その行いが善であるか悪であるのかは問題ではないと――。
 問題はそれによって発生するあらゆる事象を承知し、罪と罰を当然のものとして受け入れられるかどうかだけ。
 罪の所在や罰の必然を忘れているわけではないけれど、それを承知の上で戦っている人を否定するつもりはないとアリサは告げる。
 
「シグナムさんたちは全てを承知の上で戦っています。自分の信念や日常の全てを対価にして、それでも大切なことを優先して……」
「……だから、アリサとしては口を出すつもりはない?」
「はい。けど……もし仮に身近な人が当事者として関わるようになるなら、その時はもっと感情的になるとは思いますけどね」

 苦笑いを零しながら告げるアリサは、まるで自身の幼さを恥じているかのようだった。
 それは違うと――メルルは立ち上がり、そっとアリサの頭を撫でた。

「メルル先生?」
「それは私も一緒だよ。大切な人がそうなったら、私だって冷静でいられる自信なんてないもの」

 それは幼さ故のものではないと――。
 そんな勘違いだけはしないでほしいという気持ちを込めて、メルルはゆっくりと優しくアリサの頭を撫でていく。

「メルル先生も……ですか?」
「うん。私もエヴァも……表にはあまり出さないかもしれないけど、シロウだってそれは同じだよ」

 生きてきた年数や経験はそれらの感情に対する慣れと対応を身につけさせてくれる。
 なにも感じないわけではない――。
 なにも感じなくなったのだとしたら、それはすでに人の形をした別のモノになったということだろう。

「"彼女"たちだって、それはよくわかってる。だから私たちにできる事は、それぞれが信じる最良の結果を得るために最善を尽くしていくことだけだよ」
「――簡単なことのようで難しいこと……なんですね」

 普段から色々とそうした事を考えているのか――。
 アリサの呟きからは、どこか強い想いのようなものが感じられた。

「そうだね。誰かにとっての最良が皆にとっての最良とは限らないし、それが他人にとっては最悪の結果を齎すこともある。だから、何かを為そうとするならそれは自覚していなくちゃいけないんだよ」
「――はい」
「……ちょっとお説教みたいになっちゃったね」
「そんなことないです。メルル先生の言葉――ちゃんと胸に刻みましたから」

 努めて明るい調子でそう宣言するアリサの頭から手を離し、メルルはそっと微笑んでから再び席へと腰掛けた。
 少しだけ冷めた珈琲を一気に煽り、一息吐いてのんびりと窓の外へと視線を向ける。
 今日もまたアトリエに泊まり込みになるだろうと考えながら、はやての事をエヴァに任せきりにしている事を思い返す。

「――邪魔するぞ」
「――あれ? いらっしゃい、エヴァ。珍しいわね」 

 唐突に入り口が開かれたと同時――聞き慣れた声が耳に届く。
 応対するアリサの言葉にエヴァは小さく頷きながら何かを呟き、真っ直ぐにメルルの元へと近付いてきた。

「今日はどうかしたの?」
「ああ。はやてへの手紙に書いてあったのだが、来月早々に士郎が帰ってくるそうだ」

 淡々と告げるエヴァの言葉に一瞬声を上げて喜ぼうとして――すぐに思い直す。
 彼が帰ってくるということは、"彼女"たちにとってのタイムリミットが差し迫ってきているという事に他ならない。

「――そう」
「意外と冷静だな」

 窺うような言葉だが、エヴァの表情は冷静そのものだ。
 彼女にとっても思うところはあるのだろうが、それはメルルにとっても同じことだった。

「覚悟は決めているつもりだよ。それは貴女も同じでしょう?」
「違いない……。私は私の思惑で動く。そして――」
「――私は彼のために動く。それは"彼女"たちも承知しているもの」

 そうして、互いに告げて笑いあう。
 ――みんな、それぞれの想いを抱いて動いている。 
 未だ当事者ではない士郎が地球に戻ってくる――。
 それが全ての始まりになるのか、それとも全ての終わりとなるのかはわからない。
 けれど…それでもメルルはエヴァと同じく、自分にできる事は全てやっていこうと決めているのだから――。


 -Interlude-


 すっかり日も沈み、辺りが暗くなった頃――来客を知らせるチャイムが家の中に鳴り響いた。
 台所で晩ご飯の支度を済ませたばかりのはやては、壁掛け時計を見てから時間通りだと笑みを浮かべる。
 いつものようにリビングから庭へと出て玄関へと向かうと、そこには予想していた通りの人物が待っていた。

「――こんばんは、はやてちゃん」
「いらっしゃい、すずかちゃん」

 外灯の下で挨拶を交わしあう。
 来客は月村すずか――はやてにとって、特に親しくなった友人である。

「今日はお邪魔させてもらうね」

 手荷物を持ち上げながら告げるすずかに頷きを返す。
 今日は久しぶりのお泊まり会――。
 食べて遊んで話しをして過ごすだけのものだが、はやてにとってそれは大きな楽しみであった。

「どうぞ、遠慮せずに上がってな」

 挨拶もそこそこに、すずかと共に庭からリビングへと入る。
 静かな室内を軽く見回したすずかは、少しだけ意外そうな視線をはやてへと向けてきた。

「今日は皆さんお出かけしてるの?」
「シャマルが一度戻ってきたけど、またすぐ出かけてったんよ」
「そうなんだ…」
「最近は皆、帰りが遅くてな~。シグナムやシャマルは兎も角、ザフィーラやヴィータもなんよ」

 シグナムは剣道の臨時講師――。
 シャマルもご近所付き合いが色々とあるらしく、ザフィーラもそこに付き添うことが多い。
 ヴィータは近所の老人会で行っているゲートボールに混ぜてもらっているらしく、試合の後はよく話に付き合っているらしい。

「皆さん忙しそうだもんね。でも、メルルさんとエヴァちゃんは?」
「メルルは最近仕事場に泊まり込みが続いてるんよ。毎日朝と昼と夜にはメールをくれるから元気にはしてるみたいや。エヴァはいつもならこの時間は一緒におるけど――」

 十一月に入った頃から忙しそうにしているメルルは殆ど家に戻ってきていない。
 週に一日戻ってくるかこないか――それすら確実ではないのだ。
 それでもメールは頻繁に送ってくれるし、時折くれる電話から伝わってくるメルルの優しさはいつもと変わらない。
 少しだけ寂しくは思うが、そんなときはいつもエヴァが傍にいてくれたし、もうすぐ――。
 そこまで思い浮かべ、士郎が帰ってくるということを伝えていなかったことに気付いたはやては、その旨をすずかへと伝えるのだった。

「――そっか。士郎さんが帰ってくるんだ。よかったね、はやてちゃん」
「うん!」

 すずかからの言葉に素直に頷いて答える。
 何となく視線を向けた先には、士郎が出立してからは堂々と棚の上に飾っている士郎人形が"二体"並んで立っていた。

「あれ……あの剣を持ったお人形さんって、もしかして士郎さん?」
「えっ…? あ~そうなんよ。前にも人形をエヴァに作ってもらったんやけど、無理言ってもう一体だけ作ってもらったんよ」

 士郎が発って数日後――。
 無理だろうと思いながらエヴァに頼み、あっさりと了承された時の事は今でもはっきりと覚えている。

「そういえば、すずかちゃんは…士郎が戦ってるとこを見てたんよね?」
「うん。凄く凜々しくて、頼りになって――はやてちゃんが士郎さんの事を凄く頼りにしてる気持ちが何となくわかった気がしたよ」

 最近では特に士郎を慕う自身を隠そうとしていないはやてだが、改めて言葉にされると身体がむず痒く感じられた。

「あ、あはは……なんや照れくさいな」
「あの一件はヴィータちゃんが映像を撮ったから持ち帰ってみんなに見せるって言ってたけど……もしかしてそれで?」
「うん、まあそれだけっていうわけやないんやけど……そんなとこかな」

 理由があるにはあるが――それを誰かに口にするつもりはなく、それは相手がすずかでもエヴァでも変わらない。
 気を取り直すように笑みを浮かべて見せると、すずかはまるで何かいいことを思いついたというように両手の手のひらを合わせるように軽く叩いた。

「そうだ――ねえ、はやてちゃん。もしよかったら、あの剣を持ったお人形さんを少しだけ貸してくれないかな? 机の上に置いてくれるだけでいいの」

 満面の笑みを浮かべて告げるすずかの言葉を否定する理由は特にない。
 もちろん誰にでも貸そうと思えるようなものではない――。
 けれど、すずかならば問題ないと判断したはやては剣を持った人形の傍へと移動し、人形を手にしてすずかの正面へと戻っていく。

「――はい、これでええ?」
「うん……それじゃちょっと準備を――」

 告げて、机の上に置かれた人形に軽く手を添えたすずかが静かに目を閉じる。
 その様子は普段のすずかとは異なり、どこか真剣な面持ちで深く集中しているようだった。

「――すずかちゃん?」
「――うん、いける」

 ポツリと零し、目を開いたすずかがその手を人形から離してしまう。
 ―――そうして、僅かな暇を挟むことなく変化は訪れた。

「―――――えっ!? に、人形が立ち上がって動き始めた!?」

 むくりと起き上がった士郎人形は、その両の手に持つ剣をそのままに深々とはやてへと頭を下げた。
 そんな予想外の光景を前にして驚くはやてだったが、対面に座るすずかの表情に驚きは少しも混じっていなかった。

「これって……もしかして、すずかちゃんが何かしてるん?」
「エヴァちゃんから教えてもらったの。小さな人形なら、限られた範囲でだけど好きなように動かせるよ」
「す……凄すぎや。そんなん教えられるエヴァもエヴァやけど、それを覚えたすずかちゃんもすずかちゃんや」

 エヴァが長く生きてきたことは知っていたが、こうした技能を有していることは聞かされてはいない。
 素直に凄いと感じることだけに、身近な友人であるすずかがそれを教えてもらって実践して見せたという事実には感心するしかなかった。

「とはいっても、これはまだ初歩の初歩らしいんだけどね。今の私だと、自分の動きで人形を動かしていることがすぐにわかっちゃうし」
「目を凝らしても糸がみえへん……けど、触ってみたら確かになにやら手に触れるような感触があるんやね」
「もっと上達したら、触っても殆どわからなくすることができるってエヴァちゃんは言ってたけど……簡単にはできそうにないかな」

 まるで蜘蛛の糸のような感触だったが、粘着性があるというわけではない。
 それが人形の各部に巻き付いているらしく、それを操っているのは目の前に座るすずか本人なのだという。
 確かにすずかが何かをしているように見えたのは事実だが、これが初歩だというのならいつかは全く種を悟らせずに人形を動かすことができるようになるかもしれない。

「それにしても……このサイズの士郎がちょこちょこ動いて剣を振ってるのは、なんや可愛らしいな」
「確かにそうだね」

 机の上で剣を振るう士郎人形――。
 その姿は、実際の士郎が剣を振るう姿からは考えられないほど無邪気で可愛らしく見えた。

『――ただいま~』

 ふと――玄関から声が聞こえてきた。
 その聞き覚えのある声に、はやては思わず笑みを浮かべるのだった。

「ヴィータや」
「それじゃ、人形はお返ししておくね」
「ありがとな、すずかちゃん」
「どういたしまして」

 人形劇はここまでだと――少しだけ疲れた様子のすずかから人形を受け取ったはやては、深々と頭を下げた。
 まだ不慣れなことだというのは本人の言が示す通りなのだろう。
 それでも、士郎と離れたはやてが寂しく思っていることを察して実行してくれたすずかには感謝しか浮かばなかった。

「――ただいま、はやて」
「おかえり、ヴィータ」
「お邪魔してます」

 リビングへと入ってきたヴィータと挨拶を交わす。
 同時に声を掛けたすずかの姿に気付いたヴィータは、少しだけ驚いた様子を見せた後に満面の笑みを浮かべた。

「いらっしゃい、すずかさん。今日はもしかして?」
「そうやで。今日はすずかちゃんがお泊まりやから、ヴィータも後で一緒に遊ぼうな」
「うん!!」

 嬉しそうに返事をしてリビングを後にする。
 恐らく荷物を置いてくるつもりなのだろうが……その姿を見送ったはやては、同じくヴィータを見送っていたすずかと顔を見合わせて静かに笑いあった。

「あ……皆さんも帰ってきたみたいだよ」

 玄関から人の気配を感じたのか――。
 すずかの言葉通り、シグナムとシャマルが二人揃ってリビングへと入ってきた。

「ただいま戻りました」
「おかえり、シグナム」
「すみませ~ん、遅くなっちゃいました」
「シャマル、おかえり」

 いつも通りの挨拶を交わす。
 ふと――二人の視線がはやての正面へと向けられる。
 そこに座るすずかを見て、シグナムは微かな驚きを――。
 シャマルは微笑ましそうにしていたのが、はやての目には対照的に見えた。

「お邪魔してます」
「ようこそ。今日はもしや?」
「今日はすずかちゃんがお泊まりするって聞いてたから、ケーキを用意したんですよ」

 理由に思い至った様子のシグナムの隣で、シャマルが笑みをそのままに告げてその手に持っていたモノを掲げてみせる。
 どこか見慣れたその箱は、随分と前に士郎がお土産と称して仕事場から持ち帰ってきた物と同じ物だった。

「翠屋さんのケーキやん。ここのケーキは美味しいもんな~」
「食事が終わったらみんなで食べちゃいましょう」
「そやね。そういえば、ザフィーラは?」

 姿の見えないもう一人の名を口にする。
 そんなはやての心配そうな声が耳に届いたのか――。
 少しばかり慌てた様子でリビングへと入ってきたのは、狼姿のザフィーラだった。

「――ここに。遅れて申し訳ありません、ただいま戻りました」
「おかえり、ザフィーラ」
「はい。すずか嬢もようこそ」
「お邪魔してます」

 はやてと挨拶を交わしたザフィーラは、そのまますずかとも挨拶を交わす。
 ザフィーラが話したり人型になることを知っているのは、はやての友人の中ではすずかだけだ。
 そして、四人が夜天の魔導書と共に現れた存在であることも――。
 四人も事情を知るすずかのことは特に気に入っているらしく、特にヴィータなどは懐いているように見える。

「メルルは多分今日もお泊まりのはずやし、後はエヴァと夜天の書だけなんやけど……」
「あ……エヴァちゃんはメルルちゃんの所に泊まるそうです。こっちに帰ってくる前に会ったので、それをはやてちゃんに言付けてくれって頼まれました」
「どうやら夜天の書もそちらにいってしまったみたいですね」

 シャマルとシグナムの言葉を耳にしたはやては、そういうことならば仕方が無いと笑みを浮かべて見せた。

「そっか……まあ、メルルも一人でおるよりエヴァがおったほうが嬉しいと思うしな」

 アトリエに篭もっているというメルル――。
 そんな彼女の傍にエヴァと夜天の書が行ったというのなら、それはそれで嬉しいことだと素直に感じられた。

「それなら、まずはみんなで鍋パーティを始めよか。もう準備は大体できてるんよ」
「手伝うね」
「私もお手伝いしますね」

 すずかとシャマルの言葉に頷いたはやては、家の中がすっかり賑やかになった事を実感していた。
 士郎と出会い、紆余曲折を経て手に入れた大切な絆――。
 誰が欠けても嫌だと思えることが嬉しく、少しだけ怖く感じるようになった。
 ――誰かを失う悲しみを知っている。
 またいつ誰かを失ってしまうかも知れないと――。
 士郎が傍にいてくれた頃には感じたことのなかった不安。それを感じたとき、はやてはいつも首から下げて服の中に仕舞っている宝石へと手を伸ばす。
 服越しだが、そうして宝石に触れているだけで別れ際の士郎の姿を強く思い出すことができる。
 たったそれだけ――それだけの事で、降って沸いた不安は完全に消え去っていった。
 願わくば、この幸福が長く続きますように――そんなことを内心で祈りながら、はやては家族や友人との時間を過ごしていくのだった。
 

 

Episode 56 -開幕-

 
前書き
新章第一話――本編第五十六話です。
 

 

十二月――短かった秋も終わり、冬らしい冷たい空気が頬を撫でる。
肌寒い朝の空気を揺らすように鳴り響くのは携帯電話にセットしていたアラームの音だ。
彼女――高町なのはは、少し前から覚醒していた意識をそのままにベッドから身を起こして立ち上がった。
自室の机の上で鳴り響く携帯電話を手に取り、その画面に表示されている文字を目にして思わず頬を緩める。
――今日は約束の日。
時刻は朝の六時半――いつもと比べれば随分とのんびりとした時間だが、今日だけは例外である。

『――おはようございます。マスター』
「うん! おはよう、レイジングハート」

 自身の愛機――レイジングハートといつも通りの挨拶を交わす。
 そのまま部屋を後にして洗面台へ向かい、顔を洗ってから再び自室へと向かう。
 学校の準備を済ませ、着替えを終えたなのはは鏡に映る自身の姿を眺めながら、すっかり使い慣れた黒のリボンを綺麗に結び終えて笑みを浮かべた。

「――いってきまーす」

 身支度を終えて家族揃っての朝食を済ませてから家を後にする。
 一度帰宅する予定のため、学校の鞄は置いたまま人気がまだ疎らな住宅街を駆けていく。
 夏からの日課で走り込みもしているため、今となってはそうそう簡単には息など切れない。
 目的地は海鳴臨海公園――かつて彼女と最後にあったその場所だ。
 乱れないはずの息が上がるのは興奮からか、次第に高鳴っていく心音を自覚しながら公園に到着する。
 朝早い公園に人気は殆どなく、時期が時期のためか散歩をしている人も殆ど無い。
 そんな中――自身の目前から僅かに離れたその場所に目的の人物を見つけたなのはは、同時にこちらを見つけた彼女と真っ直ぐに視線を交わした。

「フェイトちゃん……」
「なのは……」

 春の事件で知り合い、互いに分かり合えずぶつかり合って――。
 そうして最後には分かり合えて友人となった少女――フェイト・テスタロッサが駆けてくる。
 彼女の髪に結ばれている白いリボンを目にしたなのはは、それを迎えるように自身も駆け出した。

「フェイトちゃん!」

 両手を広げて互いに抱きしめ合う。
 手紙とビデオメールでのやり取りとは違う実感を確かに感じ取り、お互いの存在を確認するように強く抱きしめ合った。

「おかえり、フェイトちゃん」
「ただいま……なのは」

 身体を離し、真っ直ぐに向き合って言葉を交わし合う。
 それはいつか交わした約束――。
 また会うときには、お互いの名を呼び合おうという小さくも大切な約束を果たす。
 これからを共に歩んでいけるだろう大切な友達――。
 フェイトとの再会を果たしたなのはは、それから暫くの間を彼女と見つめ合うのだった。


 -Interlude out-


 無重力に身を任せながら魔法で本をひとつひとつ検索してはデータに登録していく。
 地味な作業ではあるが、こうした作業に関して相応の適正を有している士郎にとっては然程困難なものではなかった。

「――今頃、フェイトはなのはと会えた頃かな?」

 僅かに離れた場所で同じような作業をしているユーノが尋ねるように声を上げた。
 作業の手は止まっていないが、その視線は真っ直ぐに士郎へと向けられている。

「海鳴臨海公園で待ち合わせているといっていたからな。直接顔を合わせるのは春以来だし、お互い思うところもあるだろう」

 二人がこの半年余りの期間、どのような交流を重ねてきたのか――。
 それはわからないが、あの二人が互いに互いを必要としているということはそれぞれとの交流で察している。
 プレシアもそれを強く感じていたからこそ、今回のような決定をしたのだろうと推測していた。

「そうだろうね。それにしても――」
「――ん? どうかしたのか?」
「いや、僕はてっきり君も一緒に戻るものだと思っていたから……」

 ユーノの指摘はつい先刻、クロノやエイミィにも告げられたことだった。
 フェイトたちの移住に合わせて休暇を申請しているのだから、彼らの指摘は至極尤もなものだろう。

「心配せずとも今日の内には戻るさ。暫く休む以上、それなりにしておかなければならないこともあるだろう」

 つい先日に書庫内の探索が終了し、ようやく区画の整理と書物の整理が順調にできるようになった。
 ユーノと士郎が保有する探索魔法は相応にレベルが高いとはクロノのお墨付きだ。
 もちろんユーノ一人でも作業は進んでいくだろうが、夜天の書の情報を探る目的を持つ士郎としてはここからが本番という思いがあった。

「それはまあ…そうだけど。よかったの?」
「ちゃんと手紙に日付と大凡の時間は書いて知らせているし、大丈夫さ」

 数日前に出したはやてへの手紙――。
 そこで十二月の初めには一度帰るということを明記してある。
 その上で先日、正式な日取りと時間を決めてから手紙を出したのだから――。

「そういうことなら早く今日の作業を済まよう。僕は手前から順に進めていくから――」
「では、俺は奥から順に進めていくとしよう」

 互いの受け持ち区画を簡単に定めてからそれぞれ適した場所へと移動していく。
 作業終了後の忙しなさを想像しながら、その後に待つ八神家の皆との再会に士郎は笑みを浮かべるのだった。


 -Interlude-


 見慣れた――けれど着慣れてはいない制服に身を包んだフェイトは一人、静かな通路に立って開き戸を正面に見据えていた。
 正面の室内やその両隣――通路の先から僅かに聞こえてくる声や物音は、ここに相応の数の人たちがいることを教えてくれる。

『――今日からこのクラスに新しいお友だちが来てくれます』

 職員室からここまで一緒にやってきた先生の声が室内から聞こえてくる。
 ――聖祥大付属小学校。
 それが、これからフェイトが通うことになる小学校の名前だった。

『フェイトさん――どうぞ』

 促すように告げられた言葉にフェイトは思わず身を強ばらせる。
 静かに深呼吸をして、僅かばかり固さの取れた身体を動かし、扉の取っ手に手をかけてゆっくりと開いていく。

「――し……失礼します」

 出来る限りはっきりとした声で告げてから、ゆっくりと歩いていく。
 教壇の上に辿り着いたフェイトはそのまま、自身を見つめている十数人へと振り向いてから大きく一礼した。

「フェイト・テスタロッサです。よろしくお願いします……」

 挨拶を終え、勧められた席へと移動していく。
 見知った顔をすぐ隣に見つけたフェイトは、彼女――高町なのはと視線を交わしてから揃って笑みを浮かべた。

「――隣の席だね」
「うん」

 朝のHRが終わり、隣の席となったなのはと話そうと声を掛ける。
 それを待っていたのか――。
 この教室内で、なのはの他に見覚えのある二人が示し合わせたようにフェイトの傍へと近付いてきた。

「――はじめまして。アリサ・バニングスよ」
「月村すずかです。はじめまして」
「あ…えっと、はじめまして。フェイト・テスタロッサです」

 互いに挨拶を口にして、三人揃って小さく吹き出してしまう。

「お互いビデオメールでやり取りしてたからあんまり初めてっていう感じはしないけどね」
「そうだね。なのはちゃんに比べれば回数は少ないけど、お互いビデオメールを交換してたから初めてな感じはしないかも」
「うん…それは私も同じ…かな。でも、アリサとすずかに直接会えて凄く嬉しい」

 アリサとすずかの言葉に同意するように頷き、本心からの言葉を口にする。
 互いの顔や声はビデオメールを通して知っていたが、こうして直接会話を交わすということには代えられない。

「それに、なのはとも席が隣だし……」

 これから共に過ごしていく上で物理的な距離が近いというのは大きい。
 フェイトにとって、もっとも親しいと言える友人――。
 そんな彼女へと視線を向けて告げると、どこか照れたような視線が返ってきた。

「にゃはは…ま、まあちょうど席が空いちゃったからね」
「そうそう。まったく……相談もせずに辞めちゃうんだから困ったもんよ」
「えっと…私は前から聞いてたからあまり驚かなかったんだけど……」

 なのはに続くように呆れた様子を隠そうともせずに零すアリサ――。
 そんな彼女を、すずかは仕方が無いことだと告げて落ち着かせようとしていた。

「以前にこの席にいた人って?」
「えっとね、エヴァンジェリン・A・K・マクダウェルっていう子なんだけど……」
「いなくなったのだって、ほんの二日前の話よ。まあ、名目上は国に戻ったっていうことだけどね。まったく――」
「士郎くんの家族の一人だよ、フェイトちゃん。士郎くんから何か聞いてない?」

 三人の言葉に耳を傾けていたフェイトは、最後になのはから尋ねられた言葉から数日前を思い出していた。
 彼が地球で共に過ごしているという少女と手紙を交換し合っていたのは知っている。
 その少女が、かつてフェイトが士郎と共に出会った車椅子の少女だということも――。
 現在その少女が住む家には士郎の他にも同居人が何人かいるらしく、その内の一人にエヴァという子がいるのだという話は士郎自身が口にしていたことだった。

「あ……そういえば言ってたかも」

 思い出したように告げると、それをどう受け止めたのか――。
 アリサが僅かばかり窺うような視線をフェイトへと真っ直ぐに向けて覗き込んできた。

「――フェイトは士郎さんと知り合いなの?」
「う…うん。私がここに来る前にいた場所に住み込みで来てたし、士郎のお仕事の手伝いもしてたから」

 どこで何をしていたのか――。
 それを告げることはできないが、同じ場所で暮らして仕事の手伝いをしていたという事実だけは伝えても大丈夫だろう。
 そんな考えを抱いていたフェイトは、自身の隣に座るなのはが苦笑いを浮かべていることに気付いて思わず視線を左右へと向けた。

「へえ~それはまた――」
「――興味深い話題かも……」

 どことなく威圧感が感じられる二人の言葉――。
 フェイトはそれから最初の授業が始まるまでの数分間をアリサとすずかからの質問で潰されるのだった。


 -Interlude-


 これから生活をしていく基盤となるマンションの部屋の中をぐるりと見回す。
 家財を運び入れてくれた業者も既にいなくなり、溢れていた荷物もきちんと収められている。
 家具がセットされたリビングでそれを確認したリンディは、小さく頷いてから隣に立つアルフへと視線を向けた。

「これで大体片付けは終わりかしら?」
「うん…多分大丈夫だと思うよ」

 指示を出すだけだからと少女の姿となっているアルフが笑みを浮かべて答える。
 そんな彼女に笑みを返したリンディは、キッチンから流れてくる香りに気付いて視線をそちらへと投げた。

「――リンディ、アルフ。紅茶を淹れたわよ」

 それとほぼ同時――いつのまにかキッチンに居座っていたらしいプレシアからそんな声が掛かった。
 彼女お手製の紅茶は士郎のお墨付き――リンディにとっても、最近のお気に入りの一つである。

「ええ、ありがとうプレシア」
「ありがと。プレシアのほうは片付け終わったの?」

 心配そうなアルフの声にプレシアは小さく微笑んだ。
 最近は彼女の事も我が子のような目で見ていることが多く、アルフも満更ではないように見える。

「後は細々としたものばかりよ。フェイトのほうは……帰ってきたら手伝ってあげてね」
「うん、もちろんだよ」

 二人のやり取りを耳に届けながら、リンディはテーブルの上に用意された紅茶を求めてソファへ腰を下ろす。
 向こうでプレシアがよく用意してくれたロイヤルミルクティ――。
 暖かなそれを一口するだけで、僅かばかり疲れていた身体が癒やされていくような感覚を覚える。

「それにしても――本当によかったの、プレシア?」

 同じように座って紅茶を飲み始めたアルフとプレシア――。
 並んで座る二人を横目に、リンディは以前からもう何度も口にした質問を再び投げ掛けた。
 プレシアに課せられる事になった大幅魔力封印――念話を行う程度ならば問題はないだろうが、実質魔法の行使は殆ど不可能なほど厳重な封印だ。
 彼女ほどの大魔導師がそうした決断をするというのは、管理局の内部でも非常に惜しまれているというのは紛れのない事実である。

「ええ、もちろんよ。あなたには迷惑をかけてばかりだけど……」
「それはかまわないのよ。私も地球には興味があったし、居心地が良さそうなら私もここに移り住もうかと思ってるくらいだもの」

 元々管理局内の居住区暮らしだったリンディにとって、定住の地というものは存在していなかった。
 クロノが早い内に独り立ちしてしまったということもあるが、プレシアたちとの生活はその意味でもリンディにとっていい刺激だったのだ。

「あ、それいいと思う。フェイトも喜ぶと思うし」
「まあ、あなたがそういうならそれでいいけれどね」

 数ヶ月間生活を共にしてきた二人がいつものように柔らかな笑みを浮かべて肯定の意を表してくれる。
 そんな二人ともう一人――いまはここにいないフェイトと共に暮らしていくというのはとても幸福な未来だと素直に思えた。

「フェイトさんもアルフさんも、とても良い子ですもの。あなたにも変に気を遣わなくていいから楽だしね」
「そうね」

 古い付き合いの友人とも気の置けない関係だと思っているが、プレシアとも既にそうした関係になれているという自覚がリンディにはあった。
 これから先がどうなっていくのはわからないが、それでも心地が良いと思える場所を得ることが出来たのは幸運と言える。
 互いにそんなことを考えているのがわかるせいか――。
 プレシアと視線を交わしていたリンディは、彼女と揃ってもう一度小さく笑い合うのだった。


 -Interlude-


「――フェイトちゃん。学校は大丈夫そう?」

 夕暮れの帰り道――。
 いつものように学校前でアリサやすずかと別れたなのはは、フェイトと二人で海辺の道を歩いていた。

「うん。先生もクラスのみんなも優しいし、アリサやすずか、なのはもいてくれるから大丈夫だよ」
「よかった。フェイトちゃん、学校に通うの初めてだって言ってたから」

 以前聞いたことだが、勉強や魔法はフェイトの母であるプレシアの使い魔が教えてくれたのだという。
 魔導師としての教育が重点的に行われていたらしく、物理や数学などが得意な反面、国語や社会などは聞いていただけではよくわからなかったと休憩時間の度に零していた。
 そんな彼女が学校に通うことをどのように思ったのか――。
 それがなのはとしては気がかりだったのだが、思いの外フェイトも学校生活を楽しんでくれていたと知って内心ホッとするのだった。

「そういえば、ユーノとクロノから色々と預かってきたよ。魔法訓練用の教材とか、新しい訓練メニューとか…私となのはの二人で出来るようにって」
「そっか。これからは魔法の練習も二人で一緒に出来るんだ」

 ユーノや士郎との訓練はあくまでも戦闘に関する技術や心構えについてだ。
 フェイトと共に魔法の訓練が出来るというのは、これまで基本的な訓練を一人でこなしてきたなのはには魅力的な事に思えた。

「ところで、アリサとすずかの二人は魔法の事を知ってるんだよね?」
「えっと…うん、夏の事件の時にね。後で色々質問攻めに遭って大変だったけど……」

 魔法とはどのようなものなのか――。
 空を飛ぶのはどんな感覚なのか――など、次々と浴びせられる質問の対処に困ったのは記憶に新しい。

「――ねえ、なのは」
「どうかしたの、フェイトちゃん?」

 ふいに立ち止まったフェイトの声に返事を返す。
 見据える先――夕暮れに照らされたフェイトの顔を真っ直ぐに見つめながら、なのはは静かに彼女の言葉を待っていた。

「学校とかこの世界とか…まだ全然わからないことが多くて、心配とか迷惑とかもかけちゃうかもしれないけど……私、頑張るから。だから――」

 決意を語りながらフェイトは静かに瞑目する。
 僅かな後に開かれたその双眸は、ただ真っ直ぐになのはへと向けられていた。

「――これからよろしくね、なのは」
「こちらこそ! よろしくお願いします、フェイトちゃん!」

 互いに改めて挨拶を交わし、なのはは笑みを浮かべたままフェイトと肩を並べて歩いていくのだった。


 -Interlude-


 ここ暫く通い詰めている無限書庫――。
 今日という日も変わらず朝から無重力に身を任せていたユーノは、今も手を止めることなく書庫の整理に勤しんでいた。

「――フェイトと半年ぶりに会えて、いっぱい話せた?」

 目の前に開いた映像通信に映るなのはに向けて尋ねると、彼女は柔らかく微笑みながらはっきりと頷いていた。

「うん。ユーノくんはお仕事忙しい?」
「それなりにね。無限書庫は凄く広くて深いから」
「そっか」

 無限書庫の名の通り、絶えず新たな書籍や資料を世界のどこからか集め続けて拡張を続けている。
 そんな場所の発掘と調査が容易い仕事だとは元々思ってはいなかったが、決して簡単な仕事でないことは間違いない。

「でもまあ、少し前まで士郎がずっと手伝ってくれてたし、しばらくはのんびりやれるかな」

 士郎の手伝いがあればこそ無限書庫全体の一次調査を短期間で終えることが出来た――というのは間違いのない事実だ。
 仮にユーノがひとりでこの仕事をしたとすれば、ある程度見切りをつけて探査する区画と探査しない区画に分けていただろう。
 区画整理と書庫の調査、整理を交互に繰り返し、少しずつ使える部分を増やしていく――。
 クロノからの依頼はそれでも十分こなせただろうし、時間は掛かるがいつかは全ての区画を調査することもできたはずだ。
 その予定を圧倒的に早めた要因が士郎であることは、共に仕事を手伝ってくれていたフェイトも同意してくれるという確信がユーノにはあった。

「士郎くん、今日こっちに戻ってくるって聞いてたけど?」
「もう随分前にそっちに向けて出立したから、そろそろそっちに着く頃なんじゃないかな。着いたらまずは家に戻るっていってたし」

 午前の内にある程度の作業をこなした士郎はそのまま、クロノたちと合流して打ち合わせをした後に単身地球へと向かった。
 近くを通る巡視船に同行しての帰郷だが、早ければちょうど今頃地球に到着していることだろう。
 明日になれば滞在員として地球で過ごすプレシアたちの住まいに簡易転送システムが使用できるだろうと言っていたが、それでも行き来に一手間かかるのは仕方がない。

「はやてちゃんも士郎くんに早く会いたいって言ってたしね」
「そうだね。士郎と彼女は本当に実の兄妹って言われても違和感ないし、お互いに色々と心配事もあるんだろうから……」

 フェイトからの又聞きではあったが、士郎とはやての手紙のやり取りはかなり頻繁に行われていたらしい。
 はやてが士郎を慕っているのは周囲にいた誰もが知っていることで、士郎がはやてに対してある種特別な感情を向けている事は容易に察することができる。
 そんな二人が実の兄妹のようだとはユーノだけの所見ではなく、なのはも含めた友人一同の総意だった。

「早く会えるといいね」
「うん」

 なのはの言葉には二人に対する優しさが溢れている。
 そんな彼女の言葉にユーノは笑みを浮かべて同意を示すように首肯した。

「そういえば、フェイトちゃんと一緒に出来る魔法の訓練メニューとかユーノ君が用意してくれたんだよね?」

 思い出したように告げられたなのはの言葉に一瞬だけ手を止め、先日フェイトに手渡した訓練データの事に思い至る。
 あくまでも基礎的な訓練に重きをおいてきた魔法訓練だが、そろそろもう一段階上に進んでもいいだろうと判断してのものだ。

「クロノと協力してね。模擬戦のほうも二人で一緒に入れるようにしておいたから、落ち着いたら休みの日にでも試してみたらいいよ」
「フェイトちゃんと一緒に……うん、それ面白そう!」
「連携訓練にはもってこいだろうってクロノの太鼓判付きだよ」

 僅かばかり苦笑いを零してしまうのは、あの仮想敵データとの模擬戦闘訓練に繰り返し挑んだクロノを思い出してしまうからだ。
 士郎に直接交渉して訓練の使用許可を得たクロノだが、大方の予想通り彼も見事に玉砕してしまった。
 ――それだけならまだよかったのだろう。
 問題はその後――興味を抱いたプレシアが仮想空間限定とはいえ自身に何の制限も無い状態で挑み、見事勝利してみせたのだ。
 病もなく、制限もなにも無い状態のプレシアはかつて限定SSランクを所得していたという経歴を証明するに足る魔導運用を見せてくれた。
 圧倒的な効率と精度で緻密な魔導式を作り、強力無比な魔法を多用し、転移魔法を駆使して――。
 とはいえ、当の本人曰く――本物はこんなものじゃないでしょうしね……とのことだ。
 実際に士郎と命のやり取りを経験している彼女には、あの仮想敵が実際の士郎には及んでいないと言っていた。
 それでも、模擬戦で相応にボロボロになっていた彼女を思えば、ユーノたちがあの仮想敵を越える日はまだまだ遠いのかもしれない。

「今週のお休みにでもやってみるね」
「うん」

 恐らくは今も週末には変わらず仮想敵との訓練に勤しんでいるのだろう。
 一人では立ち向かえずとも二人なら――なのはとフェイトが再び本気モードの仮想敵に挑むだろうというのはユーノでなくとも想像出来る事だった。

「それじゃ、またね」
「うん。またね」

 そうしてなのはとの挨拶を終えて通信を閉じる。
 少しばかりなのはとの会話に夢中になっていたことを自覚し、小さな笑いを零す。
 次に彼女から連絡がくるのは恐らく模擬戦闘にフェイトと共に挑んだ後だろうか――。
 そんなことを考えながら、ユーノは今日もまた書庫の整理作業に没頭していくのだった。


 -Interlude-


 ビルの屋上から見慣れた夜景を見下ろす。
 眼下に広がる人工の光は、この世界で目覚めてから半年以上も過ぎた彼女――ヴィータの目には既に物珍しいものではなかった。

『――大型の魔力反応二つとその他二つ。微弱な魔力反応も発見』

 自身のデバイスであるグラーフアイゼンからの声を受け、ヴィータは自身の目前に展開していた周辺図へと視線を向けた。
 反応を示す光点は大きなモノが二つ――。
 それより僅かに小さな光が二つと微弱ながらも確かな魔力反応が一つだけ。事前の想定よりも数が多いが、その程度の誤差は許容値である。

「……おう。一つはアイツ……残りは多分管理局の関係者のはずだ」

 見覚えのある顔を思い出し、思わず手に力を込めてしまう。
 ――決して親友と胸を張って言えるほど親しくはない。
 それでも少なくない数の交流を重ねてきた自覚がヴィータにはあったし、恐らく向こうもヴィータを親しく思ってくれているだろう。
 あるいは、彼女ともっと親しくなる未来もあったかもしれない。
 ――けれど、それも今日ここまでの話だ。
 後戻りのできない地点は既に通り越えているのだから――。

『もう一つ――予定通り彼の反応も先程感知しました。現在は家へと向かっているようです』

 気を利かせてくれたのか、或いは覚悟を確かめようとしてくれたのか――。
 グラーフアイゼンからの言葉にヴィータは一瞬だけ笑みを零し、すぐに表情を引き締めた。

「そっか。なら――始めるぞ、アイゼン」
『――了解』

 結界を展開するグラーフアイゼンを見据えながら、手慣れた手順で自身の姿を変えていく。
 普段とは異なる戦闘服――そこから更に変化していく自身の身体を一度流し見て、ヴィータは僅かに瞑目した。

「……覚悟はとっくに極めてる。お前に恨みなんてねえけど――」
『――封殺型結界、展開完了』

 すっかり聞き慣れた"少年の声"が自身の口から零れたことで意識は戦闘モードへ。
 愛機を手にして振り上げたヴィータは、目指す場所を遠目に睨んで自身の身体を宙へと浮かべた。

「――お前はあたしを恨んでくれていい。その代わり、お前の魔力はもらっていく……高町なのは」

 開幕の鐘を鳴らすが如く――。
 ヴィータは目的地へ向けて、全力で飛翔していくのだった。


 

 

Episode 57 -襲撃-

 
前書き
第五十七話です。
 

 


 地球へとやってきたフェイトが初めて学校へ通ったその日の夕刻――。
 アルフはこれから住むことになる家の中で、フェイトと共に彼女の自室の整理を行っていた。

「――うん、これで大体は大丈夫だと思う」

 住居を地球に移すことになり、家具自体を新調したため見渡す部屋は新鮮味に溢れている。
 これから過ごしていく内に慣れてしまってなんとも思わなくなるのだろうが、今はそれが顕著に感じられた。

「意外と早く片付いたね」
「そうだね。じゃあ、そろそろ出かけようか」

 簡単なやりとりの後、フェイトの部屋を後にする。
 そうしてリビングへやってきたアルフとフェイトは、そこでのんびりとテレビを眺めているリンディを見つけて思わず顔を見合わせて笑みを零した。

「何を見ているんですか?」
「えっ? ああ、フェイトさん。お部屋の片付けが終わったのね」
「はい」
「別に変わったモノを見ているわけじゃないのよ。今日起きた色々なことを纏めて知らせてくれるニュース番組を見ていたの」

 念話でプレシアへ準備が整った事を知らせながら自身の形態を変化させていたアルフは、先に部屋へと入っていったフェイトとリンディの会話に耳を傾けていた。
 ミッドチルダにも似たようなモノはあるが、管理局に勤めて長いリンディには物珍しく見えたのだろう。
 事実、フェイトが管理局の手伝いを始めてから半年余り――アルフ自身もそうしたものを見る機会は殆どなかった。

「――フェイト。準備できたよ~」

 準備を終え、リンディと肩を並べるように座ってニュースを眺めていたフェイトへと声をかける。
 そんなアルフの直ぐ背後には、出かける支度を済ませたプレシアもやってきていた。

「あら、アルフ。そっちの格好をしてるってことは、これからお散歩?」
「うん。プレシアも一緒に近所を見て回ろうって」

 リンディの問いかけに答えながら視線をプレシアへと向ける。
 背後に立つプレシアの視線は真っ直ぐにリンディへと向けられていた。

「あなたも一緒にいく?」
「私は遠慮しておくわ。折角の地球なんですし、親子水入らずでいってらっしゃい」
「ありがとう」

 どこか微笑ましそうにプレシアを眺めるリンディの言葉に、彼女の隣に座るフェイトが僅かばかり嬉しそうに口元を緩めていた。
 思えば、フェイトがプレシアとゆっくり散歩に出かける――という事自体が殆どなかったことを思い出す。
 プレシアとフェイトが一緒に過ごせる時間を大切にしてあげたいというリンディの想いが伝わってくるようで、それがアルフには嬉しく感じられた。

「今度は私も連れて行ってね」
「はい。それじゃ、いってきます」

 そうして一人家に残るリンディと別れて家を後にしたアルフたちはそのまま外へと向かった。
 傍目には犬の散歩という形になるため、アルフの首輪にはきちんとリードが繋がれている。
 気が向いたほうへと歩いて行くアルフの背後からは、歩調を合わせて歩くフェイトとプレシアの足音がはっきりと聞こえていた。

「学校はどう?」
「少し緊張したけど、楽しんでいけたよ。隣の席になのはもいたし、アリサやすずかも同じクラスだったから」

 フェイトにとって大切な友達である高町なのは――。
 そして彼女の友人であるアリサやすずかともビデオメールを通じて知り合っていたフェイトにとって、顔見知りが近くにいるというのは心強かったはずだ。
 道中――学校での事を語るフェイトの言葉に嬉しそうに相槌を返すプレシアの声が耳に届く。
 彼女としては、フェイトが楽しそうに過ごしていけそうだということが嬉しくて仕方がないのだろう。

「落ち着いたら、なのはちゃんにも挨拶に行かないといけないわね」
「その時は私も一緒に行くよ。プレシアだけだと、なのはも緊張しちゃうだろうしさ」

 なのはがプレシアをどのように思っているのかはわからない。
 士郎曰く、それほど悪印象を抱いているようではなかったとのことだが、以前が以前なのだ。
 それはプレシア本人も気にしているらしく、面と向かって会えたならまずは謝罪したいと常々零している。

「み、みんなでいけばいいと思うよ」
「そうね……そうしましょうか」

 なんとなくフェイトも思うところがあるのか――。
 そんな提案を焦った様子で告げる彼女へと振り向き、ふと目が合ったプレシアと共に小さく苦笑いを零した。

「まあ、それは落ち着いてから――って、あれは……?」

 告げて再び前へと視線を向けようとして――その異常に気がつく。
 アルフ達が歩く道の先に広がる市街地を中心として、見た事のない術式で形成された巨大な結界が広がっている。

「――結界? こんな街中で……」
「あっちは……確かなのはの家がある方向――母さん!」
「……ええ、いってらっしゃい。気をつけてね」
「――はい!」

 疑問の声を零すプレシアの言葉にフェイトは考え得る一つの可能性を思い描いて声をあげた。
 そこに普段は見られない真剣味が含まれているのは友人の身を案じるが故だろう。
 そんなフェイトに向けて心配そうな視線を向けながらも背を押すプレシア――。
 フェイトは即座にバリアジャケットを展開し、空へと舞い上がっていった。

「……アルフ。あなたもフェイトと一緒に――」
「――うん。連絡は任せるね」
「ええ」

 リンディやクロノたちへの連絡をプレシアへと任せて、アルフは人型へと形態を変えて地面を蹴った。
 空を行くフェイトの後を追いかけるように、全力で街を駆け抜けていく。

「……胸騒ぎがする」

 なんとも言えない感覚を覚えながら、アルフは更に力を込めて跳躍を繰り返していく。
 人気はまばらとはいえ、人目に付くのは良くないと判断しての事だ。
 遠く見える異質な結界――。
 それを目指して走るアルフの足を止めたのは、唐突に地面から現れた無数の光柱だった。


 -Interlude-


 フェイトが転入してきたその日の夜――。
 自室で着替えの支度を済ませたなのはが風呂場へと向かおうとした時、その異常は発生した。

「――これは……結界!?」

 唐突に耳に届いたレイジングハートの警告と同時に、なのはは自身の身が何かしらの結界に囚われたことを知覚した。

『外部との通信途絶。封殺型の捕縛結界と推測――同時に、こちらへ向けて高速接近する飛翔体を確認』
「こっちに向かってきてる……狙いは私ってこと…だよね」

 レイジングハートが観測している限り、近付いてきているのは魔導師で間違いは無い。
 結界に使われている術式に見覚えはなく、このままでは残り数分も経たない内に接触することになるだろう。

『――マスター』
「うん。急ごう、レイジングハート」

 自身が尤も対処能力を発揮できる環境――。
 家を後にして、人気が完全になくなったビル群へと飛ぶ。
 着地と同時に周囲へ警戒を行いながらバリアジャケットを展開し、どこから何が現れても対処できるように身構える。

『誘導弾――来ます』

 遙か先から高速かつ複雑な動きで接近してくる光弾――。
 それをしっかりと目で捉え、自身に接触する直前で障壁を展開して受け止める。

「――っ!!」

 見た目以上に強いその威力に僅かばかり驚きを露わにする。
 その間隙を縫うように背後に現れたのは、大きなハンマーのようなモノを振りかぶった小柄な"少年"だった。

「――でやぁああ!!!」

 光弾を受け止めていた障壁を片手で保持し、もう片方の手で新たに障壁を展開する。
 それは相手にとって予定調和だったのか――。
 構わず諸共に吹き飛ばそうと振るわれたその鉄槌は障壁へと激突し、まるでそんなものは役に立たないとばかりにあっさりと障壁を打ち砕いてしまった。

「――テートリヒ・シュラーク!!!!」
「レイジングハート!!」

 撃ち抜いた勢いもそのままに、魔力を込めた一撃を振るう少年を真っ直ぐに見据える。
 威力は桁違いだが、その速度ならば対処できると――。
 そんな確信を抱き、なのはは自身に可能な最速で魔力弾を至近展開し、同時にレイジングハートが展開してくれた障壁で少年の一撃を受け流す。

「――ちっ。やっぱり、この程度じゃ落ちねえか……」

 砲撃の衝撃と障壁による受け流しで辛うじて追撃を免れたなのはは、そのまま宙へと身を投げて体勢を整える。
 咄嗟の魔力弾とはいえ、相応の破壊力を持つソレが直撃したというのに、少年は全く動じた様子もなく宙へと浮かび上がっていく。 

「いきなり襲い掛かられる覚えはないんだけど――何処の子? なんでこんなことをッ!?」

 僅かばかり感じていた戸惑いを捨てて言葉を投げ掛けても返答は返ってこない。
 理由も何も言葉にせず、ただ襲いかかってくる相手――。
 それが自身を襲っている敵だと正しく認識した上で、なのはは自身を完全に戦闘モードへと移行させた。

「――教えてくれなきゃ、分からないんだからッ!!!」

 展開する魔力弾は八つ――。
 渾身の魔力を込めた高速誘導弾を展開し、少年の周囲へと撃ち出していく。

「くっ!?」

 機動回避と障壁でそれらを捌いていく少年から苦悶の声が零れる。
 足止めが成功している事を確認し、攻撃の手はそのままにレイジングハートをキャノンモードへ。

「話を――」
『ディバイン――』
「――聞いてってば!!」
『――バスター』

 誘導弾――アクセルシューターを操作しながらの砲撃魔法。
 レイジングハートとの連携で可能となる誘導弾と砲撃の同時攻撃――。

「――っ!!?」

 それすら咄嗟に回避してみせる少年だが、そこに余裕は感じられない。
 だが、決して焦っている様子を見せないことがなのはにとっては不気味に感じられて仕方がなかった。

「――侮ってたつもりはなかったけど、流石ってとこか」
「――……えっ?」

 呟くような言葉は、どこか納得しているような声音だった。
 まるで自身のことを知っているかのようなその言葉に疑問の声を零したその瞬間――少年は、その手に持つ鉄槌を空へと向けて構えた。

「――グラーフアイゼン!! ロード・カートリッジッ!!!」
『――ラケーテンフォルム』

 少年の号令一下――その手に持つ鉄槌の中心部で強力な魔力が炸裂した。
 それがどういう意味を持つのか――そこに思い至る前に、その鉄槌はまるで小型のロケットのような形状へと先端を変形させた。

「ラケーテン―――!!!!」

 ハンマーの先端部分――その片方を鋭角化させると同時に反対側をロケットのブースターのように変形させて構える。
 両手で保持したその先端に備えられたブースターが火を噴くと同時に、少年は凄まじい加速でなのはの懐へと肉薄してきた。

「――速いッ!?」

 それまでとは桁違いの速度で迫ってくる。
 半端な攻撃では決して止まらないとばかりに猛烈なその勢いに、辛うじて反応しながら回避行動を行う。
 
「――ハンマーーー!!!!」

 だが、それすらも下策だと――そう告げるように、少年は自身を中心に鉄槌を振り回し、圧倒的な加速を以てなのはへと一撃を叩き込んでくる。
 回避の間に合わないその一撃を、渾身の障壁で受け止める。
 如何に速度が速く、不意を突いた一撃とは言え反応できない一撃では決してない。
 けれど、如何に反応できようと防げなければ意味は無いと――。
 圧倒的な破壊力を秘めたその一撃は、なのはが展開した障壁を硝子細工のように粉々に打ち砕き、受け止めたレイジングハートの柄をあっさりと破壊してしまった。
 
「――うぁッ!?」

 弾き飛ばされた衝撃をそのままに地面へと叩きつけられる。
 如何にバリアジャケットで身を守っているとはいえ、限界を超えた衝撃は肺の中の空気を全て吐き出させた。
 それでも目だけは逸らさず、追撃に迫ってくる少年の一撃を真っ直ぐに見据えながらレイジングハートが準備していた術式を発動させて障壁を用意する。

「――ぶち抜けぇぇッ!!!!!」

 怒声と共に振り下ろされる鉄槌――。
 その一撃が障壁を砕き、自身のバリアジャケットすら砕いた音が耳に届いた。
 同時に、もはや痛みすら感じさせないほどの圧倒的な衝撃がなのはの身体を宙へと吹き飛ばしていく。
 そのまま勢いを減じることなく重力に従って地面へと落下しては跳ねて――何かに激突してようやく止まる。
 自身の身体に水らしきものが掛かっていることを微かに感じながら、なのはは意識が急速に遠ざかっていくことを自覚していた。

「……すまねえな」

 そうして、なのはの意識が黒く塗り潰される直前――。
 意識を失う間際に聞こえてきたのは、申し訳なさそうに呟く少年の声だった。


 -Interlude-


 結界内部へと突入して周囲を探索していく。
 どうやら内部に取り込んだモノを逃がさないための捕縛結界だったらしく、進入そのものは容易だったのだが――。

「――なのは! 返事して!」
『――魔力反応低下。レイジングハート、応答ありません』

 つい先程まで感じられていたはずのなのはの魔力――。
 それが殆ど感じられなくなっていることに危機感を感じつつ、微弱なその反応を追ってフェイトはひたすらに空を進んでいた。

「――そこまでだ」
「……っ!?」

 唐突に現れた気配と投げ掛けられた声に動きを止める。
 目前に現れたのは、デバイスと思われる剣を構えた長髪の"青年"だった。

「これより先へは……通せんな」

 問答は受け付けないとばかりに構える青年。
 その姿に絶対の意志を感じ取り、フェイトは自身の愛機であるバルディッシュを構えて臨戦態勢をとった。

「――押し通ります!」
「当然の選択だ。受けて立とう」

 その構えと気配が油断を廃してくれる。
 それは夏の日から、格上の存在を相手に模擬戦闘を繰り返してきたからこそ身に付いた判断能力から来るものだった。
 相手の力量は間違いなく自身と同等かそれ以上――。
 だからといって引く道理などあるはずもなく、フェイトは自身の全速を以て青年へと斬り掛かる。
 それを正面から受け止める青年のそれは、フェイトが良く知る剣の使い手である士郎とはまるでタイプの違うモノだった。
 技巧を凝らした剣筋と、全速のフェイトすら捉える剣速。そして剣戟を受け止めたフェイトを軽々と弾き飛ばす圧倒的な威力――。

「――っ……くっ!!」

 吹き飛ばされ、ビルの中腹を抉るように叩きつけられたフェイトは身を起こしながら、宙に浮かんでフェイトを見据える青年へと視線を向ける。

「ふむ――魔導師にしてはいい腕前だな」
『――はい』

 フェイトの斬撃が届いていないわけではない。
 最速を以て繰り出した無数の斬撃は、確かに青年のバリアジャケットと思われるそれを幾重にも斬りつけ、鋭利な切り口を残していた。

「威力も速度も凄い……だけど――」

 手を尽くせば拮抗できないわけではない。
 そんな確信を抱く反面、なにか不気味な気配を感じる自身を叱咤して身を起こす。

「――あれは………なのはッ!!?」

 ふと、宙に浮かぶ青年のその向こう――。
 遠く見える半壊した噴水の傍で、地面に仰向けに倒れているなのはと傍に立つ少年の姿が視界に飛び込んできた。
 弾けるような感情の爆発と共に見据える先へと飛び出す。
 自身の内面で荒れ狂う激情を確かに感じながら、それでも冷静に状況を観察できるのは間違いなく訓練に付き合ってくれたクロノや士郎のおかげだろう。
 視線の先で倒れたなのはの傍に立つ少年が掲げた手の先には、宙に浮かぶ一冊の本が見える。
 その本の開いたページに向けてなのはから吸い込まれているのは、間違いなくなのはの魔力そのもの――。

「レヴァンティン――」

 耳に届く青年の声を確かに認識しつつ、状況の確認を終える。
 同時にどちらも対処することは不可能――。
 そう判断したフェイトが選んだのは自身の防御ではなく、なのはに対して何かしらの干渉を行っている本を排除するというモノだった。

「あの本が――」

 恐らくは今回の襲撃そのものの根底にあると――。
 咄嗟にそこまでを悟ったフェイトは、原因そのものを排除しようと術式を起動させる。

「――紫電……一閃!!!」

 そんなフェイトの行く先を塞ぐように、桁外れの魔力を纏わせた斬撃を振るってくる青年――。
 炎を纏ったその一撃は、それに反応して構えたバルディッシュの柄を簡単に切り裂き、中程から真っ二つにしてしまった。

「くっ……フォトンランサー!!」

 頑強さが特徴のバルディッシュを容易に切り裂いたその一撃に驚きながら、それでも発動させた術式を展開する。

「――早い!?」

 目前の青年を前に展開した光弾は十程度――。
 その全てに渾身の魔力を込めて、青年とその向こうに存在する"本"を狙い撃つ。

「ちぃッ!!!」

 青年は自身に向けられた光弾の幾つかを斬りつけながら上方へと回避行動を行う。
 その予測通りの行動の結果、フェイトが放った光弾の幾つかは間違いなく宙へ浮かぶ本へと殺到した。
 唐突な狙撃を感知した少年が防御や回避を行うよりも早く本へと直撃する魔力弾――。
 それが本を幾らか削った事を確認したと同時――フェイトの身体を圧倒的な殺気と共に激しい衝撃が襲った。

「――うぁッ!!?」

 吹き飛ばされ、地面へと猛烈な勢いで叩きつけられる。
 即座に意識を飛ばされてもおかしくない程の圧倒的な破壊力が込められた一撃――。
 それに辛うじて耐えぬいたフェイトは、叩きつけられて破壊された地面から必死に這い出て視線を遠くへと向けた。
 見れば、ところどころ欠けている本は既に閉じられ、少年の側から消えていった。
 それが損傷による離脱なのか、それとも既に目的を達成したからなのかはフェイトにはわからない。
 わかるのは、どちらにしても本を完全破壊できなかったこと――。
 そして自身が受けた一撃が戦闘の継続を不可能とするほどに致命だったということだけだった。

「……驚いた。まだ動けるのか」

 背後から聞こえてくるのは冷静な青年の声だ。
 それに振り向くこともせず、視線は真っ直ぐに遠く倒れているなのはへと向けたまま――。
 フェイトの見間違いでなければ、側に立つ少年がなのはに対して行っているのは怪我の治療に違いない。
 それがどうしてなのか――。
 理由がわからないまま、直ぐ背後に近づいてきている気配へ最後の気力を振り絞って振り返る。

「お前と彼女がどのような関係かは知らんが…我らにも為さねばならぬことがある」

 ぶつかる視線と視線――。
 薄れゆく意識の中で青年から感じられたのは怒りでも狂気でもなく、ただ誠実で真っ直ぐな意思だった。

「――悪い夢を見たと思って……諦めてくれ」

 そんな言葉と共にフェイトに向けて青年はその手を振りかざした。
 何をされたのかが理解できるほど全うな状態であるはずもなく――。
 友人を守ることも敵を撃退することもできずに敗北したという事実だけを強く認識したまま、フェイトは辛うじて保っていた意識を失うのだった。


 -Interlude-


 並んで倒れている少女たちを眺めながら、青年に姿を変えていた彼女――シグナムは小さく息を吐いた。
 見れば少女たちは幼く、その内の一人は親しくはなくとも顔見知りであることに違いはない。
 そして、彼女たちの主にとっても友人であるその少女、高町なのはを救わんと行動した金の髪の少女――。
 彼女との短くも濃密な戦いを振り返り、彼女が一体誰の師事を受けていたのかに思い至ったシグナムは僅かに瞑目するのだった。

「――なあ…そいつって……」
「ああ、恐らくはそうだろう」
「……そっか」

 少年の姿に変わっているヴィータからの言葉に簡潔に答える。
 それで納得したのか、ヴィータは真っ直ぐに金の髪をした少女へと視線を向けていた。

「悔やんでいるのか?」
「馬鹿いうなよ。そんな半端な覚悟なら、最初からこんなことしてねえよ」

 激するわけでもなく、冷静に答えるヴィータからは確かな覚悟が感じられた。
 或いは――そんな言葉を投げかける自身こそ後悔しているのではないかと思えてしまうほどに真摯な視線が向けられる。

「そうか――それもそうだな。すまん」

 ヴィータからの視線を真っ直ぐに受け止め、シグナムは自身が要らぬ気を回したことを認めて小さく頭を下げた。

「――大体、本番はこれからだろ?」
「……ああ、その予定だ」

 その言葉にシグナムは緩みかけていた意識を引き締める。
 想像していたよりも遥かに手強かった少女たち――。
 そんな彼女たちとの戦いが、これから始まる戦いの序章でしかないことは初めから定められていることだ。

「――お待たせ。こっちは終わったわ」
「使い魔が一人と、恐らくは魔力を封印された状態の魔導師一人――想像以上にページが稼げた」

 静かに臨戦態勢を整えながら待機していたシグナムたちの耳に、幼い少女の声と僅かに幼さを残した少年の声が届く。
 視線を向けた先からは、少女の姿へと変わったシャマルと、ヴィータのそれよりは幾分年上に見える少年の姿へと変わったザフィーラがやってきていた。

「向こうにも色々と事情はあるのだろう。こちらにとっては僥倖だった…というだけのことだ」

 この地にやってきている管理局の魔導師たち――。
 それが皆、彼との繋がりがあるであろうことは想像するまでもなく明白だ。
 元より引き返す道など存在してはいないが、この一件が決定的な引き金となることは間違いないだろう。

「そうね。一応その二人も近くに運んでいるけど――」
「ああ。お前はそこの少女の蒐集と治療を頼む。思いの外良い腕前をしていたお陰で加減があまり出来なかった」

 なのはと金の髪の少女に対し、シグナムとヴィータはそれぞれに出来る範囲で治療は施している。
 それでも完璧でないことは間違いなく、元々治癒に長けているシャマルにそれを任せるのは当然の事だった。

「予定外はあったけど、誤差の範囲だと思う。……そっちは当初の予定通りに?」

 早々と少女からの魔力蒐集を終えて治療を開始したシャマルの言葉には心配するような響きがあった。
 それを当然と受け止めたシグナムは、並び立つヴィータと共に小さくもはっきりと頷いて見せた。

「――ああ」
「侮るつもりは微塵もない。予定通り、三人で――」
『――避けろッ!!』

 会話の最中――唐突に脳裏に響いたザフィーラの言葉に反応して全員が咄嗟にその場から飛び退く。
 直後、的確に地面へと突き立つ四本の長剣――。
 倒れた少女たちに配慮してのことか、威力よりも鋭さを重視したその狙撃は確実に敵の命を刈り取ろうとする相手の意思を感じさせた。

「――…ッ!!!」

 全員の視線が狙撃が放たれたと思われる方向へと向けられる。
 僅かに離れたビルの屋上――ハッキリと姿の見える程度の距離を保ったままシグナムたちを見下ろす人物がそこにいた。

『予定通りだ――いけッ!!!』
『わ、わかったわ。気をつけて――』

 思念通信でシャマルへと行動を促すと同時、彼女は少女たちと共に転送陣を発動させて姿を消した。
 それを見送った相手の視線が僅かに動いたことに気づき、相手が転送してこの場を離脱したシャマルを捕捉している事を確信する。
 魔導との関わりの深さ故か、咄嗟に発動した転送で長距離の移動が出来ないことは承知済みなのだろう。
 そんな彼の行く手を阻むように、シグナムはヴィータとザフィーラの二人と肩を並べたまま宙へと飛び上がった。

『……ここからは命がけだ。油断せず、全力で掛かるぞ』

 相手からは余分な問いかけはなく、その視線と気配には微塵の隙も存在しない。
 僅かでも気を抜けば、その瞬間に全身を串刺しにされそうな怜悧な殺気――それを正面から受け止めながら、シグナムは剣を構えた。
 自身が主の次に心を許し、信頼している人物――衛宮士郎から向けられる本気の殺気を全身で受け止める。
 此処から先はどうあっても命がけになると――。
 彼を誰よりも知る人から告げられていたその言葉を思い出しながら、シグナムは決死の覚悟を胸に剣を握る手に力を込めるのだった。
 

 

Episode 58 -激闘-

 
前書き
第五十八話です。
 

 


 フェイトたちが散歩に出かけると告げて家を出てから数分後――。
 家に一人残ったリンディは、クロノたちとの通信を終えてすぐに士郎へと念話をつないでいた。

「――そう。じゃあとりあえず真っ直ぐ家に戻るのね」
『到着時間を詳しく知らせているわけではないが、いい加減待ちくたびれているかもしれないからな』

 少しだけ嬉しそうな士郎からの返答に思わず笑みを零す。
 クロノたちから伝えられた士郎の出立時間と到着予想時間からそろそろ到着した頃だろうと予測しての念話だったが、ちょうど地球に戻ってきた直後だったらしい。
 まずは家に顔を出し、周囲に帰郷を知らせるのは明日以降にする予定だと告げる士郎――。
 彼が家族――血の繋がりのない妹と頻繁に手紙のやり取りをしていたことは彼の周囲にいた誰もが知っている。
 そんな彼が誰より優先して妹に会いに戻ろうとしているというのは、未だ孤独な気配を漂わせる彼にとって良い事なのだという確信がリンディにはあった。

「早く顔を見せて安心させてあげられるといいわね」
『そうだな。そういえば、そちらの片付けはもう終わったのか?』
「ええ。フェイトさんも片付けを終えて、ついさっきアルフとプレシアの二人と一緒に散歩に出かけたところよ」

 ありのままを伝えると、通信越しに見える彼が僅かばかり苦笑を浮かべる。
 それがまるで、心配そうに子供を見守る親のように見えてしまうのはどうしてなのか――。

『それで、君は一人居残りか?』
「折角の地球だし、家族水入らずのほうがいいでしょう?」

 本音を言葉に託して告げると、士郎は納得したように小さく頷いていた。
 微笑を浮かべたままリンディを見る士郎は相変わらず年長者のようで――。
 それを何故か当然と受け止めているという事を、リンディは我が事ながら不思議なものだと感じていた。

『……ふむ。それで暇になって俺に通信を入れてきたというわけか』

 からかうような言葉だが、そこに嫌味や含みは感じられない。
 彼がそうした言動を親しい人間にする時というのは、大体の場合が場の空気を和ませるためだ。
 共同生活を通じて、そんな些細な事が分かるようになってきたことがリンディには素直に嬉しく感じられていた。

「別にそれだけじゃないけどね。ちゃんと貴方が無事に到着したかどうかを確認したかったの」
『まあ、事故や事件に巻き込まれる可能性がないわけではないが……この通り、無事に到着したよ』

 素直な返答は見た目の年齢相応と言えるだろう。
 普段の彼がどこか大人びて見える反面、彼の素が透けて見えるようで素直に嬉しく思えた。

「ええ、これで一安心。早く帰って、妹さんを安心させてあげてね」
『そうするとしよう。ところで、君に預けている私物は明日にでも取りに行こうと思っているのだが……』

 士郎が向こうで過ごしている間に増えた私物は引っ越しの際にリンディが纏めて預かっている。
 身の回りのものや幾つかの服飾程度だが、それらは確かに纏めてリンディの自室へと運んであった。

「ちゃんと纏めてあるからいつでもいいわよ。あ…そうそう。明日来るなら、ついでに街の案内を頼めないかしら? 時間が取れないようなら無理にとは言わないけど――」

 リンディとしては友人であるプレシアがフェイトたちと水入らずで過ごせる時間を出来る限り大切にしてあげたいと思っている。
 彼女たちと街を見て回るというのも悪くはないだろうが、出来る限り家族の時間を取らせてあげたい――。
 ――とはいえ、こちらで生活する以上はリンディもそれなりに周辺の地理などを把握していなければならない。
 そうした事を踏まえた上で、元々この街に住んでいる士郎ならば案内を頼むのに最適だろうと判断しての提案に、彼は即座に頷いて肯定の意を返してくれた。

『――問題ない。それなら、明日の昼前にそちらに向かうからそのつもりで用意していてくれ』
「わかったわ。それじゃ、また明日ね」
『ああ、また明日――』

 簡単に打ち合わせを済ませて念話を終える。
 途端に表情が緩んでしまうその理由を自覚しながら笑みを零す。
 そうして――腰を下ろしていたベッドからゆっくりと立ち上がったリンディは、クローゼットの中へ片付けたばかりの私服を幾つか取り出していく。

「……着ていく服はどれにしようかしらね」

 基本的に私服の類をそれほど所持しているわけではないが、それでもいくつかはある。
 なんとなく浮き立つような気分を満喫しながら服を選んでいたリンディだったが、それも僅か数分の事だった。

『――リンディ』
「あら、プレシア。どうかしたの?」

 唐突に届いたのは先程出かけたプレシアからの念話だ。
 どこかノイズ混じりに聞こえるのは彼女に施された封印処置の影響からだろうか――。

『いま、市街地で特殊な結界が発生したのを確認したわ。映像を送るわね』
「――これは……」

 プレシアから送られてきた映像には、ビル街を覆うように展開されている巨大な結界が映し出されていた。
 隠すつもりもないのか――魔法を扱える人間ならば決して見逃すことのないソレは、まるで何かを閉じ込める檻のようにも見えた。

『あまり見覚えのない術式なのよ。もしかしたらベルカ式かもしれないわ』

 ミッドの魔法に精通するプレシアからの言葉にリンディも頷きを返す。
 かつて栄えたベルカという国を中心とした次元世界で主流となっていたベルカ式魔法――。
 ベルカという国が滅んだ後も少数派だが残っている魔法体系だが、現代に残るベルカ式魔法にこれほど巨大な結界を展開するものは見当たらない。
 展開されている結界が仮にベルカ式の魔法だというのなら、恐らくは遥か過去に存在していた本物のベルカ式魔法ということになるのだが――。

「――了解。こちらで確認したらクロノに調査依頼を出しておくわね」

 そんな魔法の使い手が管理外世界の地球に存在しているという事実――。
 もっとも可能性が高いのは違法渡航者によるモノという線だが、これを偶然と捉えるのはあまりに楽観的だろう。

『お願いね。それと、結界はあの子――なのはちゃんの家がある方向に発生しているらしいわ。フェイトとアルフがそっちに向かっている』
「わかったわ。じゃあ、私たちは一度合流して――」

 そこまで告げて、念話に混じっていたノイズが唐突に激しくなった。
 まるで何かしらの妨害を受けているような気配を感じたその瞬間、プレシアとの念話は唐突に途切れてしまった。

「――プレシア? プレシア、応答して! まさか……」

 このタイミングでの通信途絶――。
 それが結界の件と連動していることを確信し、リンディは現状で即座に対応できる人物――士郎へと念話を飛ばすのだった。


 -Interlude out-


 夜の街を彩る人工の光を覆うように展開された結界――。
 遠目に見ただけでも街一つを覆うほどに広範囲な結界の境界を目前にして、士郎は駆けていた足を止めた。

『――士郎くん』
「リンディか。そろそろ連絡がくる頃だと思っていたが……街中に発生しているこの結界はそちらでも確認済みか?」

 結界の目前で境界を眺めていた士郎の脳裏に声が響き渡る。
 念話で聞こえてくるリンディの声音はいつかのように凛としており、現状が容易い物では無いということを否応にも想像させた。

『ええ、話が早くて助かるわ。結界はなのはさんの家の方面に発生しているの。現在フェイトさんとアルフが向かっているらしいわ』
「……そうか。プレシアはどうしている?」
『彼女からの通信で状況を把握したのよ。ただ、その通信の途中で念話が途切れて……以降の応答はないわ』

 報告の言葉には心配の色が僅かだけ含まれていた。
 プレシアの現状をもっとも正しく認識しているリンディの言葉に、士郎は僅かばかり手に力を込める。

「なにかしら起きている――ということか。仮に何かがあったとして、今のプレシアは一般人と殆ど変わらないからな……」

 地球への移住に際して自身の魔力に対して強力な封印処置を施すことを決めたプレシア――。
 かつて起こした事件の当事者として執行猶予中のプレシアが、あくまでもフェイトの事を最優先するために局と協議を重ねて定めた条件だ。
 そんな彼女が事件に巻き込まれているとなれば、既に彼女の友人と断言できるリンディが身の安全を心配するのは当然の事だろう。

『私もこれから現場へ向かうわ。士郎くんは――』
「もう向かっているところだ。結界に突入した後は通信が困難になる可能性もある。こちらに来る前にクロノに報告をしておいてくれ」

 既に事態が動いているとなれば、局と歩調を合わせることで目的達成の確率は高くなる。
 状況も何もかもが不明な状況だが、いまが一刻を争う事態と考えるのは決して考えすぎではないはずだ。

『わかったわ。気をつけて――』
「互いにな。では――」

 通信を終えると同時にデバイスを取り出し、バリアジャケットを身に纏ってから結界へと足を踏み入れる。
 何の抵抗も感じさせないソレを疑問に感じて振り返って見れば、その理由は明白だった。

「侵入は容易だが脱出は簡単ではない……か。獲物を捕らえる類の結界ということだな」

 結界の性質を解析して即座に反転――地面を蹴って中心部へと向かう。
 並び立つ高層建造物の最中では遠目に人を見つける事も容易ではないのだが――。

「――悠長に動いているわけにはいかないな……無事でいてくれ」

 こうした時に最悪の事態から状況を想定しようとするのは反射に近い。
 とめどなく溢れてくる可能性に優先順位をつけながら、ひたすらに高所を移動して周辺へと視線を巡らせていく。

「あれは――」

 ふと――破損したビルや道路が目に入る。それが自然崩落などでないことは明白だった。
 そのすぐ近くに倒れている見慣れた二人の姿を確認した瞬間、士郎は溢れそうになる感情をそのままに左腕を前へと差し出した。

「――――I am the bone of my sword.(体は剣で出来ている)

 ――思考は冷静に、自己へと埋没しながら矢を番える。
 倒れた二人に当たらない軌道を通すように矢として放った剣は四つ――。
 そうして、なのはとフェイトの傍に立つ四人の人影へと向けた矢はしかし、直撃の直前に回避されてしまう。
 恐らくは放つ直前の僅かな気配に反応したのだろうと判断し、士郎の存在に気付いた様子の四人を油断無く睨み付ける。
 四人の内の一人がすぐにその場から消えるが、気配が追える程度の距離を移動したに過ぎない。
 離脱した相手と共に姿を消したなのはたちがその場にいる事は間違いないだろうが、残った三人も相応の使い手――。
 ――多勢の手練れを相手に油断や遠慮など出来るほどの余裕を持ち合わせているはずもない。
 故に――目前で油断無く構える三人を見据えながら、士郎は自身の周囲に最速で武器を展開するのだった。


 -Interlude-


 臨戦体勢のまま構えるザフィーラの目前――ビルの屋上に立つ衛宮士郎の周囲に無数の剣が出現する。
 どこからか現れる――ではなく、唐突にそれら無数の剣群は彼の周囲に"出現"したようにザフィーラの目には見えた。
 形こそ剣だが、それら全ては魔力で編まれたモノ――彼が扱えるという数少ないミッドチルダ式魔法の一つだろう。
 構成する魔力は相応に見えるが、感嘆するほど精密に編みこまれたその術式を見て取り、ザフィーラは肩を並べているシグナムたちと同様に身構えた。

『――来るぞ』

 脳裏に響くシグナムの声――同時に放たれた無数の剣は総数にして五十程度だ。
 三人へ向けて放たれたソレを、ザフィーラは魔力を込めた腕と拳で受け流していく。
 シグナムは振るう剣でそれらを弾き、ヴィータは殺到する剣の全てを障壁で防いでみせる――が、それは予測通りだったのだろう。
 次いで出現したのは先程とは異なり実体を持った剣群――それが不可思議な軌道を描いて迫ってくる。
 等分に殺到した魔法の剣とは異なり、シグナムを中心に殺到する剣弾――。
 その対応に追われるシグナムを横目に、ヴィータが渾身の魔力を込めて放った弾丸が士郎の立つビルへと直撃した。

「――はぁぁッ!!!」

 問答無用で破壊されたビルから飛び退く士郎を追って距離を詰めたザフィーラは、彼が着地した瞬間を狙って渾身の力を込めた拳を叩きつける。
 いつのまにか握られていた両刃の剣の腹でそれを受け止めてみせる士郎だが、それにも構わずに拳を振り抜く。
 激突した瞬間に士郎が僅かばかり零した苦悶は、彼の力がザフィーラの一撃を阻むには僅かばかり足りていないからだろう。
 剣を叩き折るつもりで振り切った拳が士郎の身体を剣ごと弾き飛ばした事を確認し、体勢を整える前に追撃するべく地面を蹴る。
 慌てた様子を全く見せることなく剣を地面に突き立て、飛ばされた勢いを減じて体勢を強引に立て直してみせる士郎――その反応の鋭さに感嘆しつつ、ザフィーラは彼が剣を構える隙を与えまいと最速で拳を構えた。
 ――渾身の魔力を込めたその一撃は間違いなく先程よりも重く鋭い。
 確実に直撃するタイミングで放った拳――だがそれは、士郎の目前で唐突に出現した巨大な剣に阻まれてしまった。

「――なにッ!?」

 あっさりと弾き返される拳と身体――跳ね返ってきたその衝撃に思わず苦悶の声を零す。
 同時に腹部に感じる衝撃――士郎が放った蹴りが腹部へと深々と突き刺さる。
 常に展開している障壁を突破するほどの破壊力はないが、まるで気配を感じさせなかったその一撃に対応することが出来ずに吹き飛ばされてしまう。

「……くっ!?」

 体勢を整えて再び肉薄しようとするザフィーラだが、そんな目論見を阻むように投擲される四本の剣――。
 それを咄嗟に展開した魔法の盾で防いでみせたが、それが下策だったことをザフィーラは直後に理解した。
 盾に防がれた剣は勢いそのままにザフィーラの周囲を飛び交い、踊り狂うように刃を振るってくる。
 まるで剣そのものが意思を持っているかのように振るわれる刃に、ザフィーラはその場からの後退を余儀なくされた。

「ラケーテン――!!」

 ザフィーラに追撃を放とうとしていた士郎に対し、ヴィータが愛機と共に凄まじい加速で迫っていく。
 彼女が得意とする鉄槌の一撃――彼女の一撃ならば、恐らくは士郎が先程構えた剣すらも破壊してみせるだろう。
 そんなヴィータに向けて士郎は静かに片手を差し出し――直後、その目前に巨大な七枚の花弁が展開された。
 いつかの際に士郎が使用していた花弁の盾――それが鉄槌を振るおうと加速していたヴィータを止めたモノの正体だった。

「これは――ッ!!?」

 加速途中だったヴィータは唐突に現れた花弁に進行を阻まれ、完璧にその勢いを殺されて停止を余儀なくされる。
 そして、そんな彼女に向けて息つく間もなく宙へと飛び上がって肉薄する士郎――。
 その両手にはいつか見た陰陽の双剣――振るわれたその一撃に辛うじて反応して見せたヴィータだったが、相当に強力なその一撃を防ぎきれずに弾き飛ばされていく。

『――ヴィータ!!』

 自身の周囲を飛び交う剣の一つを打ち砕きながら、ザフィーラは念話を通じて警告の意を込めた声を上げる。
 直後――彼女へ向けて投げつけられた双剣は弧を描くようにヴィータへと向かっていった。
 即座に展開した障壁で防ぎながら驚きの表情を浮かべるヴィータを見れば、投擲された双剣にどれほどの威力が秘められているのかは想像に難くない。

『――援護する!!』

 ヴィータと対峙していた士郎の隙を突くように上空から振り下ろしの一撃を見舞うシグナム――それを彼は、いつの間にか再び手にしていた双剣で受け止めてみせる。

「――はぁっ!!」

 受けたまま地面へと落下した士郎へと振るわれる無数の斬撃――。
 魔力を込めたその一撃一撃を確実に捌いてみせる士郎だが、傍目には力も速度も士郎を上回っているシグナムが押しているように見える。
 振るう剣が士郎の身体を徐々に傷つけていく――そんな光景を横目に、ザフィーラは自身の周囲で飛び交う剣を二つほど打ち砕くことを成功した。
 そうして振り向いた先――視線の向こうでは、先程ヴィータへと投擲された双剣が凄まじい速度で弧を描きながらシグナムに向かって飛来しようとしている。

『――シグナム、後ろだッ!!!!』

 咄嗟の言葉にシグナムは即座に視線を背後へと向け、自身へと飛来した二刀をギリギリのタイミングで回避してみせた。
 だが、そんな彼女の隙を突くように振るわれた士郎の一撃がシグナムを弾き飛ばし、再びその手に出現させていた双剣を投擲してくる。
 一投、二投……続けて三投、四投と投げつけられる双剣――。
 シグナムを強襲したモノも含めて六つの剣が勢いを減じることなく弧を描き、ザフィーラたち三人へ向けてそれぞれ二刀ずつ迫ってくる。

「この程度――!!」

 どうにか自身の周囲を飛び交っていた剣を全て排除したザフィーラは、迫り来る双剣を渾身の一撃で弾き返そうと構えた。
 同じように体勢を整えたヴィータとシグナムも同様――それぞれの武器を構えて迎撃の一撃を放とうと渾身の魔力を全身に漲らせる。
 ――どれほど連携を意識しても捌かれてしまうというのなら、まったく同時に攻撃を行うしかない。
 向かってくる双剣を弾き飛ばした後、それが再び自身へと返ってくる可能性すら考慮しながら反撃に備えて身構える。
 そうして、それぞれが渾身の魔力を込めた一撃を以て迫り来る双剣を迎撃しようとして――ふいに発生した不可思議な爆発に、ザフィーラたちは例外なく飲み込まれてしまうのだった。


 -Interlude-


 数的不利に立たされながらも圧倒的な対応力を見せる士郎が放った幾つもの投擲――。
 迫り来る刃を弾き飛ばそうと剣を構え、迎撃のために魔力を込めた一撃を振るおうとした瞬間、シグナムの全身を凄まじい衝撃と熱が襲った。

「――……ぐぁっ!!?」

 物理的な衝撃と魔力の爆発は常に展開している障壁がある程度防いでくれた。
 だが、シグナムたちを襲った凄まじい衝撃はそうしたカテゴリに含まれるものではなかったのだろう。
 全身をバラバラに吹き飛ばしてもおかしくないようなその衝撃は、迎撃後に反撃へ転じようとしていたシグナムたちを再び宙へと弾き飛ばした。

『――みんなッ!?』

 傍目にそれがどのように見えていたのかは当のシグナムにもわからない。
 ただ、この戦闘を魔法を使用して遠目に視ていたシャマルからの念話には隠し切れない驚きと畏怖が多分に含まれていた。

「――――投影、開始(トレース、オン)

 全身に感じる苦痛を堪えながら体勢を整えるシグナムの耳に士郎の冷めた声が響くように届く。
 その瞬間に士郎の周囲へと出現した剣の総数は十数本――。
 浮かぶ剣に同じものは一つとして存在しておらず、短刀のようなものから通常の剣……家すらも容易に両断できそうな巨大な剣など種類も大きさも様々だ。
 それら多種多様な剣群が、まるで弓矢で放たれたかのような凄まじい加速を以てシグナムたちへと放たれる。

「……ふっ…はッ!!!」

 規則正しく、しかし音すらも追い抜くほどの速度で撃ち出された剣をシグナムは辛うじて弾き返していく。
 同時にザフィーラへと放たれた数本の短刀は、それぞれが意思を持っているかのように不規則な動きを見せて彼の周囲を飛び交っている。
 そして、ヴィータへと襲いかかるのは優に彼女の数倍はあろうかというような巨大な三本の剣――。
 それぞれに向けて放たれた剣群への対応に苦慮している二人を横目に、シグナムは飛来してきた八本の剣全てを弾き飛ばしてみせた。

「――往け」

 そんなシグナムに構うことなく弓を構え、まるで命ずるように告げる士郎が放つ一矢――。
 これまでとは比べものにならないほど膨大な魔力が込められたソレは弾丸となり、音速を遥かに超えてシグナムへと向かってくる。
 ――咄嗟に剣で受けるが、その余りにも強い衝撃に吹き飛ばされてしまう。
 そうして――シグナムを弾き飛ばしたその"矢"は勢いを減じることなく軌道を修正し、再びシグナムへと向かって迫ってきた。

「追尾してくる……だと!?」

 魔力を纏った弾丸が飛来する速度はシグナムが空を飛ぶ速度とは比べるべくもなく速い。
 ともすれば剣ごと打ち砕かれそうな威力を秘めた矢を迎撃するべく、シグナムは自身のデバイスに備え付けられているカートリッジシステムを起動させた。
 カートリッジシステムはデバイス内に魔力を込めた弾丸を装填し、それを炸裂させることで爆発的な威力を瞬間的に生み出す機構だ。
 作動したカートリッジシステムにより、シグナムはデバイス内部で炸裂させた魔力の全てを剣に纏わせた。
 保有する魔力変換資質――"炎熱"により、愛機レヴァンティンは炎を纏った剣と化し、あらゆるモノを切り裂く刃となる。

「――はぁぁぁッ!!!」

 全力で振るう一刀で迫り来る矢を斬りつける。だが、圧倒的な速度と硬度を誇るその矢を弾き飛ばすことは出来ても切り捨てることは出来なかった。
 弾かれ、勢いを減じた矢は再び姿勢を制御して動き始める。
 その矢が、ようやく巨大な剣を全て打ち砕いたヴィータへと目標を変え、その背に向けて進んでいく光景に背筋を凍らせた。
 ――ほぼ制止した状態から、あの矢がどれほどの加速を行うのかは推測することしかできない。
 恐らくは数秒もしない内に先程と同等近い速度を出してヴィータを撃ち抜くだろうと推測したシグナムは自身の限界を振り絞って彼女の元へと飛翔した。

『――ヴィータ!!!』

 呼びかけは飛び出すと同時に――言葉を重ねるほどの余裕はなく、ただ危機を知らせるべく上げた声にヴィータは背後へと振り返った。
 加速していくその矢を認識したヴィータは即座に多重障壁を展開して見せる。その反応の早さと魔法の強度はシグナムをして驚嘆させるほどに迅速且つ強力なものだった。

『援護する――!!』

 周囲を飛び交っていた剣の全てを渾身の魔力を込めた拳打で打ち砕いたザフィーラが声を上げる。
 シグナム同様――限界を振り絞った速度を以てヴィータの横へと移動した彼は、既に展開されているヴィータの障壁に重ねるように自身の障壁を展開した。
 対象を追尾する性質を備えた矢がヴィータへと向かい始めてから僅か二秒程度――。
 許されたその時間で備えうる最善の防御体制を敷いた二人を見て取り、シグナムはその手に持つ剣を構えた。

「――紫電」

 即席で展開されたあの障壁では一度防ぐのが精一杯――だが、それで充分だと渾身の魔力を剣に籠める。
 弾かれたその矢を全力の一撃で両断するため、シグナムはもう一度カートリッジシステムを起動させて魔力を炸裂させる。

「一閃――ッ!!!」

 既に魔力を纏わせていた剣に加え、自身の肉体にもブーストを施しての全力全開の一刀。ヴィータたちの障壁に激突し、勢いを減じた矢に向けて最高の一撃を振り下ろす。
 シグナムが繰り出せる中でも最強最高の斬撃――炎を纏ったそれは、不可思議な能力を秘めたその矢を確実に両断してみせた。

『――すまねえ、シグナム!』

 感謝の言葉に返答を返すことも出来ぬまま、即座に視線を地上へと向ける。
 ――見れば、士郎はシグナムへと矢を放ってから移動していなかった。
 その手に持つ弓に更なる一矢が番えられている光景を目の当たりにしたシグナムは、瞬間的に自身の死を覚悟した。
 致命の一撃を防いだ直後――正に体勢を立て直そうとした一秒の隙を突くように矢が放たれる。
 その速度は先程の比ではなく、赤く迸る魔力を纏った矢は一瞬の後にシグナムたちへと飛来する――そんな絶望的な未来を脳裏に描いた瞬間、シグナムの身体を強い衝撃が襲った。
 思いもしない方向からの殴打は直ぐ側にいたザフィーラが繰り出したものに違いなく、同様に吹き飛ばされたヴィータと共に驚愕の視線を彼へと向ける。
 笑みを浮かべてシグナムたちを見据えるザフィーラの顔には覚悟の色――恐らくは既に死を覚悟しているのだろう。
 彼はそれでも最後まで抗ってみせようと視線を真っ直ぐに矢へと向け、迫り来る死を乗り越えるべく障壁を展開し――激突の直前に発生した大爆発に飲み込まれていった。
 先の一撃とは比べものにならない規模の大爆発――それはシグナムやヴィータさえも諸共に飲み込み、圧倒的な衝撃を以て彼女たちを地表へと叩きつけた。

「――が…ふっ………」

 地に伏した状態のまま肺から全ての酸素が吐き出されていく。
 障壁でさえ防ぎきれなかった激しい衝撃に、シグナムは堪えきれず呻き声を零した。
 ――意識があることが信じられず、五体が吹き飛んでいなかったことが奇跡だった。
 それぞれが咄嗟に展開した障壁が多少なりとも衝撃を緩和してくれたのだろうが、致命傷であることに違いは無い。
 辛うじて見える距離で、同じく呻き声を零して地面に倒れているヴィータ――。
 意識がある彼女たちとは異なり、直接矢を向けられたザフィーラはすぐ傍に建つビルの壁に叩きつけられたまま意識を消失していた。

「――まだ息があるのか。存外にしぶといようだが……ここまでだ。命が惜しいのなら、連れ去った者たちを速やかにこの場へ連れてくることだ」

 すぐ傍へと降り立った士郎の言葉には真実だけが込められていた。
 同意しないのならここで討つと――この場を離れているシャマルが状況を見ていることを確信しての言葉だろう。

「返答はない……か。覚悟はできているということだな」

 告げて、その手にいつの間にか握られていた長剣が振り上げられる。
 見れば士郎も僅かに呼吸を乱しており、それなりに疲弊していることは明白だった。
 力も速度も魔力も――シグナムたちが士郎に劣っていた部分など一つとしてなかった事を考えれば、シグナムたちが感じていたほど士郎にも余裕はなかったのかもしれない。
 彼がシグナムたちとの戦闘で大きく消耗したことは間違いないのだろうが、すでに瀕死の状態のシグナムたちではこれ以上の交戦が不可能なことは間違いない。
 そんな彼女に向けて振り下ろされるはずの剣――けれど、それが振り下ろされることはなかった。
 剣を振り下ろそうとしていた士郎は、僅かばかり驚きの声を零しながら手を止め、咄嗟に地面を蹴ってその場を離脱していく。
 直後――士郎が立っていた場所を通り抜けていく強大な魔力砲。それを見て、シグナムは死力を尽くしてボロボロとなった自身の身体を必死に起こした。
 砲撃を放った人物――"彼女"がこの場へやってきたということは即ち、この場から離脱しろというメッセージに他ならない。
 まだ霞む視界の先に微かに見えるその人影を見つけたシグナムは、持ち堪えることの出来なかった自身の未熟に深く恥じ入りながら、事の成り行きを静かに眺めつつ離脱の準備を進めるのだった。
 
 

 

Episode 59 -終幕と再会-

 
前書き
第五十九話です。

 

 


 淡く光る膜に覆われた結界の中、見上げれば夜空を照らす月明かりも殆ど見えない。
 爆発の余波で巻き上げられた粉塵がようやく落ち着きを見せていく。
 その最中――遠く響く戦闘の音を耳に届けながら、シグナムは自身の身体に治癒を施していた。
 使用している妙薬は本来、襲撃した対象に使用するために常備しているものだ。それを自身に使用する…というのは、ある意味で因果応報と言えるかもしれないと苦笑を零す。

『――シャマル……ザフィーラは無事か…?』

 爆発の中心部で直撃を受けて意識を失ったままのザフィーラを地面に降ろし、状態を診ているシャマルへと念話で呼びかける。
 恐らくは全力で障壁を展開したのだろう。全身に傷を負った状態で頭部からも血を流しているザフィーラだが、四肢や体躯を喪失しているわけではなかった。

『……辛うじて息はあるみたい。これならまだ――』

 どうやら外部よりも内部が酷く損傷しているらしい。だが、それならば確かに打つ手はあった。
 シグナムたちが手にしている治療薬は外傷にも作用するが、その本質は損傷した内臓さえも再生させるほどの治癒にある。
 喪失した腕や内臓を再生させることはできないが、それが損傷であるのならどれほど深く傷ついていようとも再生させる――とは制作者の言だった。

『――ヴィータ。そちらはどうだ?』
『……ああ、なんとか……大丈夫だ』

 シグナム自身と同じように治療を施していたヴィータへと問いかける。
 返ってきた返事には苦痛を堪える必死さが見え隠れしていたが、命の危険に晒されているということはないらしい。
 どうにか一人も欠けることなく戦いを切り抜けることが出来た事に安堵の息を零しながら、シグナムは聞こえてくる戦闘の音に向けて視線を投げた。
 先程よりも接近している"彼女"と士郎の距離――。
 あれほどの狙撃能力を誇る士郎が放たれる砲撃を避けて接近を試みているのは、単純に彼の魔力が相応に消耗しているからというだけではないだろう。

『……大丈夫なのかな? だって、あれは一発撃つ度に――』

 ヴィータの言葉には隠しきれない不安と心配の色が混ざっていた。
 "彼女"が放つ強力な魔力砲――銃器の形状をした特殊なデバイスを介して放たれるソレは、放つ度に常人ならば死に至るほどの苦痛を伴う。
 それほどの代償を払いながら休みなく幾度も放たれる魔力砲はしかし――その威力と速度を以てしても士郎に対しては威嚇にしか成り得ていなかった。

『わかってる。だが、それが必要だと判断しているんだ。他でもない、士郎をもっともよく知る彼女が――』

 "彼女"は初めからそれほどの代償を払わなければ威嚇さえ出来ないと判断していたのだろう。
 白く輝く魔力光で構成された魔力砲は空気を裂く勢いのまま士郎を掠めるように空を幾重にも照らしあげ、周囲に聳えるビルへと激突しては大規模な爆発を巻き起こしていた。

『最低限の目標は達成している……口惜しいが、ザフィーラの意識が戻ったらシャマルを残して我らは即時離脱だ』
『……了解』

 士郎を無力化させるという最大の目的を達成することは出来なかったが、彼を消耗させるという最低限の目的は達している。
 或いはそれすらも"彼女"の想定内だったのかもしれないとある種の確信を抱きながら、シグナムは今にも接触しそうなほど接近した二人を見据えながら頭を振った。

「――どうか、ご無事で」

 自身の口から零れた言葉を耳に届けて、シグナムはゆっくりと立ち上がった。
 見上げる月は遠く霞み、周囲を覆う結界は未だ健在のままだ。
 辺りに響く轟音に揺らされる身体を気力で動かしながら、シグナムは今も戦闘中の二人の無事を静かに祈るのだった。


 -Interlude out-


 頬を掠めていく魔力砲を紙一重で避け、通り抜けていく光線を横目に構えた短刀を相手へ向けて投擲しながら距離を詰めていく。
 相手の全身を覆う黒色のローブは伝記などで見ることのできる魔術師のそれを想起させる。
 フードに纏われた相手の顔は白く飾り気のない仮面で覆われているため、その表情を窺うことはできなかった。
 そんな得体の知れない相手に対して近接戦闘を仕掛けるのは、先程の三名に対して宝具を惜しみなく投入したことで魔力が残り少ないために他ならない。
 相手の放つ魔力砲がなのはの砲撃に匹敵するほどの破壊力を秘めていると推察し、そんな砲撃を続け様に連射してくる相手に対して遠距離戦を仕掛けられるほど今の士郎に余裕はない。
 仮に増援がこれで最後だというのなら問題はないだろうが、そんな保証はどこにもない。故に士郎は、相手の力量を正確に計りながら無駄な消耗を避けて戦わなければならない――。

「――距離を離さず、むしろあちらから近付いてくる……か」

 距離を縮めようと接近を試みる士郎から遠ざかるでもなく、むしろ砲を放ちながら徐々に接近してくる。
 そうして互いに距離を縮めていけば、いつかはぶつかるが道理――即座に飛び込める距離に到達した瞬間、士郎は両の手に双剣を投影して全力で地面を蹴った。
 叩きつけるように片手で剣を振り下ろし、もうひとつの手で横薙ぎに斬りつける。
 息つく間も与えぬとばかりに放った連撃は、いつの間にか相手の手に握られていた双剣に阻まれてしまう。
 見れば先程まで相手が構えていた銃器はいずこかに消え失せ、代わりにどこか機械的な外装が特徴的な剣が二つほど握られていた。
 受け止められたことにも構わず正面からの斬り合いを仕掛ける。士郎の斬撃を防ぐ相手の剣――その威力と速度から力量を正確に分析して把握していく。
 数度のやり取りで大凡を把握してみせた士郎は、自身のギアを二段階ほど上げて攻撃の手を早める。
 回転を増していく攻撃に相手が対応し切れていないことは明白だ。今度こそ致命的な隙が生まれたことを確信し、その手に持つ剣を振り下ろした。

「む……これは――」

 絶対的な隙を突いて振り下ろした剣が防がれる。まるで意図して生み出した隙へ攻撃を誘導したような相手の反応に、士郎は僅かばかり首を傾げた。
 自身が似たことをしているということも大きいのだろうが、相手のソレがそのような戦略に基づいたものではないことは直接刃を交わしていればわかる。
 だが、それでも現実に相手は士郎が放った斬撃を完璧に防いでみせ、返す手で反撃を繰り出してくる。
 それら全てを返す手で捌きながら、もう一度相手へ剣を振り下ろす。だが、速度が乗ったその一撃は先読みしたように配置されていた相手の剣に受け止められた。
 ――理由は兎も角として、相手が士郎の動きを高い確率で先読みしていることは間違いない。
 そう確信した士郎は、自身の剣を振るう速度を限界まで引き上げながら、可能な限りの様々な剣筋を惜しみなく投入していく。

「――っ!?」

 威力と速度を増した変幻自在の剣舞――。
 突如として変わったリズムに戸惑いの声を零す相手に構うことなく、士郎は更に攻撃の手を速める。

「これで――」

 先読みの限界か、身体能力の限界か――大きく弾いた剣と共に体勢を崩した相手の懐へと飛び込む。
 股下から両断する勢いで剣を振り上げるが、刃は咄嗟に身を引いた相手の仮面を斬り飛ばすことしか出来なかった。
 反射的にとはいえ、士郎の放った渾身の一撃を辛うじて回避してみせた相手に僅かばかり感心しながら追撃の手を用意する。
 そうして士郎は対の手に持った剣を相手の胸へ突き出すように構えて――――剣を持つその手を全力で停止させた。

「―――な…に……!?」

 両断された仮面の下――そこに浮かぶ顔は、衛宮士郎にとって決して忘れられないものだった。
 忘れられるはずもない――彼女こそは、士郎が最愛の人へ再会するための道筋をくれた恩人なのだ。
 咄嗟の事に驚きを隠せなかった士郎だが、反射的に止めた手は致命的な隙を生み出す。
 これまで――故郷の街を後にしてから只の一度も晒したことのなかった決定的な隙。それを承知しているかのように、彼女はその手に持つ剣を銃器へと瞬時に入れ替えて構えた。

「――拘束弾(バインド ブレッド)

 目前に見えるその口から呟かれた声は記憶の中にある彼女のモノと何一つ変わっていない。
 懐かしさを呼び覚ますその声と共に放たれた弾丸は、士郎の身体を壁面へと吹き飛ばす。
 砲撃とは異なるその感触に戸惑う暇すらなく、自身の身体を包み込むように発生した光の束が士郎の全身を拘束していった。

「……これは――!?」

 どれほど力を込めようとも微動だにしない身体――。
 体内の魔力運用さえも阻害する強力な拘束に対し、士郎は自身の晒した致命的な隙が招いた結果に歯噛みするのだった。

「―――わかっていたつもりだけど、やっぱり私じゃどう逆立ちしても敵わないわね」

 拘束に抗おうとする士郎へ向けられたその言葉には感心したような響きがあった。
 士郎が動けないことを理解しているからか、彼女はその手に持っていた銃をどこかへと消して空手のまま歩み寄ってくる。

「――岸波白野(きしなみはくの)。どうして君がここに……いや、この世界にいる?」

 かつて衛宮士郎が奇跡と必然の果てに辿り着いた月の聖杯。並行世界に存在していたその聖杯へ紛れ込んだ士郎はそこで一人のマスターと出会った。
 月に実在した本物の聖杯を得るために行われていた聖杯戦争の裏で起きていたある一つの事件――。
 その最中に紛れ込んだ士郎が出会った一人のマスターこそが彼女――岸波白野という名の少女だった。

「偶然――なんて言っても信じられるわけじゃないでしょう? その拘束はあまり長くは保たないし、蒐集を急がせてもらうわね」

 説明するつもりはないのだろう。懐かしさを感じさせるぶっきらぼうな口調でそう告げる。
 すぐ傍までやってきた彼女は自身の手で士郎の身体を壁から引き摺り出して地面へと下ろした。

「"闇の書"…蒐集開始――」

 唐突に背後に現れた気配に身構えながら、どこか幼さを残した少女のような声が耳に届く。
 背後に立ち、顔の見えない少女が口にしたその言葉――闇の書という名に、士郎は僅かばかり表情を強張らせた。

「――その様子だと、闇の書の名に聞き覚えがあるみたいね」

 どこか確信めいた白野の言葉に同意するように視線に力を込める。
 そんな士郎の視線を、彼女は僅かな微笑を浮かべたまま静かに受け流していた。

「では、君たちの目的は――」
「ええ……魔力を集めて闇の書を完成させる事よ」

 背後に掲げられているであろう"闇の書"へと自身の魔力を吸われていく感覚に戸惑うことなく問いかける。
 リンディから聞き知った限り、闇の書を完成させることで持ち主は絶大な力を得るという。
 約束された破滅を齎すというその危険な遺物を彼女が所持している事も踏まえた上で問いかけを続けていく。

「……完成させてどうするつもりだ?」
「持ち主に絶大な力を与えるとされている闇の書――それを完成させる事に何か他の目的が必要かしら?」

 恐らくは士郎の言いたい事もわかっているのだろう。
 それでも彼女は表情を変えることなく、それが当然だというようにはっきりと断言した。

「――蒐集完了」
「魔力量に反して随分とページが埋まったみたいね。やっぱり予想した通り…か」

 背後から聞こえてくる少女の言葉に答えるように呟く白野――。
 そこには何かを憂慮するような響きがあったが、彼女はそれを振り払うように小さく息を吐いた。

「結界内部を高速で移動してくる物体――恐らく増援かと思われます」
「早いわね。けど、士郎ならそれくらいの備えをしていても不思議はないか……」
「迎撃しますか?」
「いえ、いいわ。こちらの目的は達しているし、向こうもこちらが気付いている以上は無意味に仕掛けてはこないでしょう」

 少女との会話を続けながら白野は空を睨む。
 その向こうには、飛行してこちらへと近付いてくるリンディの姿があった。

「――そこまでよ」

 僅かに距離を離した場所に着地するリンディへと向けられる銃口――。
 それ以上近付けば撃つと――そんな気配を身に纏いながら銃を構えた白野は、臨戦態勢のまま構えるリンディを眺めたまま小さく笑みを刻んだ。

「リンディ・ハラオウン提督……貴女が来たということは、管理局の増援もすぐにやってくるということね」
「……白野。君は――」

 こちらの内部事情を把握したような言動――そしてなにより、百年ぶりに再会したとは思えないほど士郎の事を周知しているような態度に疑念と確信を強めていく。
 そうした要素と彼女が"この世界"にいる理由も合わせて考えれば、そこから導き出せる可能性は限りなく少ない。

「この場は引かせてもらうわね。ああ、そうそう――」

 そんな士郎の思考を遮るように、白野はそっと身体を士郎へと寄り添わせた。
 肌に触れる感触は確かに生きている人間のモノ――。
 その温かさを実感した瞬間、彼女の吐息が士郎の頬へと当たり……直後に柔らかな感触を齎した。

「「―――え……えぇっ!?」」

 士郎の頬へと口づけをした白野を見て、少女とリンディが揃って声を上げる。
 どこか場違いな空気が流れる中、口づけをしたままの白野がほんの僅かだけ口を離し、士郎の耳でさえ微かに聞こえる程度の声を零した。

「……始まりの場所で待ってる」

 始まりの場所――それがどこを指しているのかを瞬時に悟る。
 士郎の返答を待つことなく身を離した白野は、いまだ拘束されたままの士郎と身構えるリンディを余所に少女が発生させた魔法陣の中へと入っていった。

「――じゃあ、これで失礼するわ。あの子たちはここから少し離れた所で寝ているから、結界が消えた後にでも起こしにいってあげればいい」

 それだけを告げて、白野は少女とともにこの場から消えてしまった。
 数秒後に士郎を縛っていた拘束が解けたことを考えれば、彼女たちの離脱は最高のタイミングだったと言えるだろう。
 始まりの場所――かつてこの世界にやってきたとき、たった一人で月を見上げた場所で彼女が待っている。
 それを胸の内に閉まったまま、士郎は拘束の解けた身体をゆっくりと起こしてからリンディへと真っ直ぐに視線を向けるのだった。


 -Interlude-


 周囲を覆っていた結界が解けて消えていく様子を静かに見守る。
 途端に現れた月に照らされる中、リンディは真っ直ぐに視線を向けてくる士郎へと視線を返した。

「――士郎くん……大丈夫なの?」
「ああ……外傷はない。魔力を吸われたせいか、少し身体が重い気がするが……活動そのものに支障は無い」

 つい先程まで不可思議な光の束に拘束されていた士郎だが、確かに外傷と呼べるものは見当たらない。
 だが、彼から感じられる魔力が殆どなくなっていることや普段よりも明らかに鈍っているその動きを見れば心配するのは当然のことだった。

「でも、一度ちゃんと検査を――」
「大丈夫だ。それより、なのはたちが心配だ。急いで彼女たちの所へ向かおう」

 自身の心配は無用だと――普段よりもどこか強い口調で告げる士郎の表情は一見すれば冷静に見える。
 だが、どれだけ表面を取り繕っていても彼の放つ雰囲気がいつもより尖って感じられるのは決して気のせいではなかった。

「……そうね」

 指摘することなく同意するように告げて淡い笑みを浮かべてみせる。
 そんなリンディを見て僅かばかり苦笑を零した士郎は、一度周囲を見渡してから歩き始めた。
 すでに結界が解けている以上、無理に急ぐことはできない。僅かばかり人の気配を感じるようになった街の中を二人肩を並べて歩いていく。
 そうして結界の有無に関わらず人気のない街角へと辿り着いたリンディたちは、備え付けのベンチに身を寄せ合うようにして眠っている三人と一匹の姿を発見した。

「――大丈夫。彼女が言っていた通り寝ているだけ……みんな極端に魔力が減退しているけど、命に別状はなさそうよ」

 士郎と同様――或いは彼以上に魔力を喪失しているプレシアたちの状態を見て安堵の息を吐く。
 ――外傷は全く見当たらず、魔法による治療の痕跡も見当たらない。
 だが、士郎の話を聞く限り彼女たちは何らかの治療を受けていたとのこと――。
 その治療方法は兎も角として彼女たちが負傷していた可能性は高く、傍目に無事に見えても容易に楽観視することは出来なかった。

「そうか……彼女たちは魔力を集める事が目的だと言っていたが、どうやら嘘ではなさそうだな」

 噛みしめるような呟きが周囲へと静かに響き渡る。
 納得したようなその声を聞き届けたリンディは、そっと視線を士郎へと向けて問い返した。

「魔力を集める? それは――」
「闇の書を完成させるためだと――彼女はそう言っていた」

 闇の書を完成させる…と――そんな単語を口にした士郎を眺めながら、リンディは驚きを隠すことなく表情を歪めた。
 自身にとって忘れたくとも忘れられないその名――よもや管理外世界の地球で再び聞くことになるなど、どうして想像することが出来るだろう。

「闇の書……」
「ああ」

 呆然と零れたリンディの声に、間違いないと士郎は告げる。
 動揺する自身の心を落ち着かせるように一度大きく息を吐いてから、リンディは努めて冷静に士郎へと向き直った。

「……なのはさんたちの状態も気になるし、一度家に皆を運びましょう」
「そうだな」
「――私も手伝うわ……」

 僅かばかり気だるそうな声が耳に届く。
 士郎と共に咄嗟に視線を向けてみれば、先程まで意識を失っていたはずのプレシアが目を開けて真っ直ぐにリンディたちを見上げていた。

「プレシア……貴女、目が覚めていたの?」
「今し方…ね。私は別に戦闘を行って意識を失ったわけじゃないもの」

 魔導を封印された状態とも言えるプレシアが襲撃者に対してほぼ無防備だったことは想像に難くない。
 下手をすれば命に関わったはずの事態だが、闇の書の完成を目指しているという彼女たちが無用な殺生を望んでいないことが幸いしたと言える。
 自身の肩に寄り掛かるように眠っているフェイトやアルフからそっと身を離したプレシアは、なのはを含めた三人が寄りかかるようにしてからゆっくりと立ち上がる。

「――詳しい話は後にしましょう。今は三人を――」
「そうね」
「了解だ」

 告げて即座に返ってくる返答に頷きを返す。
 プレシアはフェイトを背負い、士郎はなのはを抱き抱える。
 そんな二人を横目に子犬状態のまま眠るアルフを抱えたリンディは、二人を先導するように歩き出すのだった。


 -Interlude-


 微かに月明かりが溢れる森の最中――数日前とは異なり、歩幅の増した自身の身体の変化を実感しながら木々の合間を抜けていく。
 いつか士郎と出会った時もこんな雰囲気の中だったことを思い出しながら彼女――エヴァンジェリン・A・K・マクダウェルは更に歩を進めていった。

「――はぁ……はぁ……っく……ぁ……」

 微かに耳に届くのは苦痛に満ちた息遣いに違いない。
 次第に近づいてくるその音へと歩み寄り、月明かりから隠れるようにして木の幹へ背を預けている女を視界に収めた。

「――無事だったようだな」

 声を掛けると同時に苦しげな息遣いは鳴りを潜めた。
 途端に気配まで変わった事に感心しつつ、エヴァは彼女――岸波白野へと視線を向ける。

「エヴァンジェリン……見ていたの?」

 先ほどの戦闘のことか、それとも今しがた見せていた苦痛に喘ぐ姿のことか――。
 どちらとも受け取れるその質問に対し、前者だと受け取ったエヴァは肯定するように頷いて見せた。

「折角の機会なのでな。それにしても随分と無茶をするものだ」

 結界の内部に身を潜め、一部始終を眺めていたエヴァは呆れた様子を隠そうともせずに告げる。
 これまで直に見たことのなかった衛宮士郎の全力――。
 あのシグナムたちさえも退けてみせた彼の力を見れば、白野が敵う道理など微塵もないことは彼女本人もわかっていたはずだ。

「そうね。我ながら無茶な事をしたって思う」

 白野が士郎に拮抗することを可能とした理由は三つ――。
 彼女に与えられた圧倒的な身体能力と耐久力――そして彼女が体内に有する特殊な魔導器と、そこから魔力を吸い上げることで強力な兵器と化す特殊なデバイスの存在だ。
 そして三つ目――なにより大きな理由は、彼女が衛宮士郎という人物の戦いを誰よりも……下手をすれば当人よりも把握していたという点にある。
 曰く、衛宮士郎と常に共にあったという彼女は誰よりも衛宮士郎の戦い方を知るが故に、それを逆手に彼の行動を予測することで圧倒的な実力差を一時的にとはいえ埋めてみせたのだ。

「そういえば、はやてはどうしたの?」

 心配するような彼女の声音にエヴァは溜息を零した。
 士郎が帰ってくるのを今か今かと待ち続けていたはやて――。
 そんな彼女を一人置いて出てくることも出来ず、エヴァは彼女を魔法で眠らせるという方法を取ったのだ。

「仕方がないから寝かせてきた。貴様はこれから士郎と会うつもりなのだろう? だから待ちくたびれる前に眠らせてやったのさ」
「ええ。色々と話もあるし、事情も説明してあげないといけないから」

 当然だというように告げる彼女の姿に迷いや後悔は一切見られない。
 その姿がどこか士郎と似ているように感じられたエヴァは、小さく頭を振りながら苦笑を零した。

「ご苦労なことだな。だが、貴様がそこまでするのは士郎のためだけなのか?」
「そんなわけない――と言いたいところだけど、実際そうなのかもしれないわね。だけど、私がそうしたいと思ってすることに違いはないから」

 自身のためでもあると惑いなく告げるその姿こそ、彼女が士郎と共に長き年月を過ごしてきた証明だろう。
 似たもの同士というには少し違和感があるが、二人の本質が似通っているという確信がエヴァにはあった。

「岸波白野――貴様が何を思ってこんな茶番を仕掛けたのかは理解しているつもりだ。だが、果たして士郎はこれをどう受け止めるかな?」

 シグナムたちが武器を手にすると決意したいつかの日――。
 メルルに対して決意を表明した瞬間に姿を現した岸波白野は、実体を持たない仮想生命体ともいうべき存在だった。
 士郎が生涯身につけていた紅い宝石――そこに宿っていたという彼女は、誰よりも士郎を知る存在として姿を現した。
 そんな彼女が持ち出した条件は、衛宮士郎を敵とすること――。
 図らずともシグナムたちの想いと一致したその提案はメルルにも受け入れられ、今回のような茶番を演出するに至ったのだ。
 衛宮士郎を管理局の側に置くための命がけの舞台を乗り越えて見せた白野たちの真意を知り、士郎は果たしてどのような反応を示すのか――。

「――納得するだけ……でしょうね」
「ほう?」
「彼はそういう人よ。色々あって理想に背を向けたけど、その本質が変わったわけじゃない。士郎は今でも本質的には何も変わっていない」
「それは聖杯戦争当時から……ということか?」

 衛宮士郎という男は元々、他者のためにしか生きられなかったのだという。
 ――人間は本来、なんであれ自己を優先する生き物だ。
 自己を優先する事ができず、他者を優先する士郎は人間として壊れていたとも言える。
 そして、現時点で誰よりも士郎を知る白野は、士郎が今もその頃と本質的には変わっていないのだと告げた。

「随分と昔の事になるけど、本人の口から聞いた事だから間違いないと思う。それに、ずっと一緒にいたから確信できる――あの人は全てを受け入れて納得するだけよ。自分の事は全て後回しにして……ね」

 そこにどんな思い入れや関係性があろうと、起きたことは起きたこととして受け止める。
 そうして自己を省みるのではなく、どこまでも他者へと思考を向けてしまうのが衛宮士郎という男であり、数多の経験と過去がそれらの本質を常に殺し続けているのだ。
 遠い過去に自身へと課した戒め――多くを見捨ててたった一人を救うことを選んだ以上、見捨てた数多の命をないがしろにするようなことはできないのだろう。

「なるほど……難儀なヤツだな」
「ふふ…だからいいんじゃない。そうでしょう、エヴァンジェリン?」
「ふん……」

 確信を以て投げかけられた問いを肯定することはせず、けれど否定することもしない。
 そもそも、自身が士郎の何に惹かれているのかをエヴァ自身も未だに把握できていないのだから――。

「だけど、流石はメルルリンス――この身体……身体能力もそうだけど、耐久性もとんでもないわ」

 話題を変えるように自身の身体へと目を向ける白野の言葉には感心だけが込められていた。
 錬金術士であるメルルが作り出した人工生命体――の出来損ないとは本人の言だ。
 もっとも、それは肉体の性能ではなく意思なき人形となることを指しての言葉であることは間違いない。
 本来は魂を有し、意思を備えて生み出されるホムンクルス――。
 曰く決定的な材料が足りないせいだというが、その身体能力と耐久性能はおよそ普通の人間のそれとは比較にすらならないほど高い。

「魔女の面目躍如といったところか……。だが、わかっているのだろう?」
「そうね。これじゃ代用品にはまだ遠い――私は兎も角としても……ね」

 そんな人形にすぎない肉体に実体を持たない岸波白野の精神を移したのは他ならぬエヴァ自身だ。
 宝石に宿っていた彼女の精神を儀式魔法によって取り出し、仮初めの肉体へと移し替える。
 それはいつか訪れるかもしれない結末に備えてエヴァが準備を進めてきたもの――はやてを救うために準備してきた方法だった。

「まあ、最悪の場合は精神と魂だけを抜き出して封じるという手もある。時間稼ぎ程度は手伝ってやれるだろう」

 元々肉体を持たない白野とは違い、自身の肉体を確かに持つはやてを別の身体に移し替えるには幾つかの問題が残っている。
 最たるものとして、作り出された肉体は生命活動を行っていないという問題は致命的だろう。
 憑依するような形で肉体を操っている白野とは違い、それを新たな肉体としてはやてに扱わせるためにはその問題をクリアしなければどうにもならないのだから――。

「――思っていた通り、優しい人ね」

 呟くようなその言葉にエヴァは表情を歪めてみせる。
 それは違うと――不機嫌な様子を隠そうともせず、白野へ向ける視線を僅かに細めた。

「それは貴様の錯覚だ。私は気まぐれで動いているに過ぎん」
「気まぐれを起こせるだけでも充分よ。ありがとう、エヴァンジェリン」
「む……そもそも、貴様に礼を言われる筋合いはないぞ」
「それもそうね。ごめんなさい――自分の事のように認識していたから……」

 エヴァの睨みつけるような視線もどこ吹く風とばかりに受け流し、彼女は静かに礼を口にする。
 それがまるで士郎が口にするかのように見えて――エヴァはそれを正すように釘を刺す。
 彼女もまた、それを良しと受け止めているわけではないらしく、百数年も士郎と共に在った後遺症とも言えるソレを反省するように苦笑した。

「まあいい。そら――」
「これは……」
「メルルが用意した特製品だ。どうあっても無事では済まないと思っていたのだろうさ」

 投げ渡したのは、メルルから彼女へと手渡してくれと頼まれた特注の妙薬だ。
 士郎との戦いでは最悪命を落とすことすら視野に入れていた白野に対し、メルルなりに気を遣ったのだろう。
 例え命を落とすことはなくとも、士郎に対して放っていた魔力砲を可能とする未完成の魔導器から来る反動は白野の肉体を致命的に傷つける。
 並みの人間ならばショック死してもおかしくないほどの苦痛を一射ごとに味わっておきながら平然として見せた彼女の精神力は、エヴァをして感嘆するほどだった。

「そういうことなら有り難く貰うわね。ところで、彼らは――」
「ああ、どうにか持ち直したようだ。落ち着いたら家に戻ると言っていたぞ」

 士郎との戦闘で深く傷ついていたシグナムたちだが、どうにか全員が命を繋ぐことに成功していた。
 シグナムとヴィータは兎も角、ザフィーラなどは瀕死の状態だったのだから持ち直せる状態で戦いを終えることが出来ただけでも僥倖と言えるだろう。

「そう……無事だったのならよかった。最悪、彼女たちが命を落とすことも考えていたから――」

 シグナムたちが全員命を落としてもかまわなかったと告げる白野からは確かな覚悟が感じられた。
 メルル以上に士郎の事を優先するその徹底ぶり――冷徹なそれは彼女の本質などでは決してないだろう。
 士郎と共に様々な人物と触れ合ってきた白野は、かつて士郎が告げたように選択しただけだ。
 何を優先して、何を置き去りにするのか――。
 白野が優先したのは士郎とその周辺――特にはやてやなのはとの関係性を優先した。
 だからこそ似たような想いを抱いていたシグナムたちは、白野を"闇の書"の主として迎えて共に戦っている。

「とはいえ、今回のコレは紙一重の結果だ。風向き次第では、間違いなくそうなっていただろうさ」

 シグナムたちほどの腕前があればこその結末だ。
 瀕死の状態で敗北を迎えたという結果さえも奇跡的なものだったのだと…客観的に戦いを眺めていたエヴァは確信していた。

「まあ、そうでしょうね……。じゃあ、私はそろそろ行くとするわ。またね、エヴァンジェリン」
「ああ」

 そんなエヴァの言葉を当然のものとして受け止め、彼女は簡単に挨拶をしてから森の奥へと歩き去っていく。
 覚悟と確かな意思を感じさせるその背は見た目には似ても似つかぬ女のものだというのに、どこまでも士郎のそれと似通っていた。

「……さて、私も準備だけは進めておかなければな」

 告げて、エヴァは自身の身体を改めて眺める。
 メルルの妙薬によって十四歳の肉体となった身体は幻術魔法で変身していた時とは違い、確かな実感をエヴァに与えてくれた。
 魔力の回復が時間経過に依るものではないかと推測しての事だったが、目論見は見事に外れてしまったと言える。
 確かに若干の魔力回復は実感できたが、全盛期のそれとは比べるべくもない。
 とはいえ、元の十歳の肉体よりも確実に回復していることは間違いなく、この程度の魔力でも儀式は可能だと判断して今の肉体年齢を維持することを決めたのだ。
 自身の事はとりあえず後回し――今はただ、自身に出来るだけのことをするために行動する。
 かつての自身からは考えられないその思考にエヴァは、それもまた良しと小さく笑ってみせるのだった。
 

 

Episode 60 -月下の決意-

 
前書き
本編第六十話です。
 

 


 それは、とある並行世界での事――。
 月面で発見された太陽系最古の物体は、真実あらゆる願いを叶える聖杯だった。
 その所有権を手にするために集まったのは、地球上の魔力(マナ)を失いながらも形を変えて生き延びた魔術師(ウィザード)たち。
 特殊な防壁を持ち、物理的な侵入を拒む聖杯に対して魂のみをアクセスさせ、聖杯の内部へと至れる唯一の存在――。
 そんな魔術師たちが集う場所こそが聖杯の内部に広がる霊子虚構世界――『SE.RA.PH(セラフ)』と呼ばれる場所だった。
 ――ムーンセル・オートマトンと呼称された聖杯は己が担い手たる者を選ぶため、厳然たるルールを敷いた。
 それこそが聖杯戦争――百二十八名の霊子ハッカーたちをトーナメントによって勝者と敗者に分け、勝ち残る強き魂を選定する戦い。
 その聖杯戦争に彼女――岸波白野はイレギュラーな存在として参加した。
 決して強い力を持っていたわけでもなく、特殊なスキルを有していたわけでもない。
 ただ、現実の世界には存在していないというだけの特異な出自を背景とするだけの無力な少女――。
 彼女はそこで赤き錬鉄の英霊と契約した。
 魔術師としての知識も技能も持たず、戦う術どころか覚悟も目的も持たなかった彼女は戦いの中で成長していく。
 敗者に課せられる魂の消滅という約束された終わりを背負いながら、それでも彼女は勝ち進んでいった。
 多くの屍を踏み越える度に覚悟を定め、戦う目的を見出していく彼女にパートナーとなった英霊は次第に協力を惜しまなくなっていく。
 そうして勝ち進んでいく最中、彼女は一つの事件に遭遇する。
 月の聖杯に発生した謎のバグ――その只中に巻き込まれた彼女は自身のパートナーである英霊とはぐれ、虚数や悪性因子を封じているとされる月の裏側へと墜ちていった。
 二度とは目覚めぬ虚数の奈落――そこで彼女はとある男との出会いを迎える。
 互いにイレギュラーな存在である事は明白で、それでも互いが助かるためには互いの手を取るしか無いのだと理解していた。
 奇跡か必然か――彼女が契約していた英霊とも決して無関係ではなかったその男との仮初めの契約に成功した彼女はそうして虚数の海を脱する。
 そこから始まった数多の冒険と戦いの日々こそが彼女と男――衛宮士郎を繋ぐ唯一にして絶対の絆だった。





 ・――・――・――・――・――・――・





『――検査の結果は良好。本当に眠っているだけよ。検査は終わっているから、目が覚めたら家に戻ってもらうつもりよ』

 本局からの音声通信越しに聞こえてくる母――リンディの声は僅かばかり硬質だった。
 それは息子であるクロノだけでなく、すぐ隣で同じように聞いている同僚のエイミィにも同様に聞こえたはずだ。

「――それでは、なのはたちは皆無事なんですね」

 アースラ艦内の通信室に響く程度の声音で再度確認するように告げる。
 幾分心配を含んでいるクロノの言葉に対して、リンディからの返答は即座に返ってきた。 

『ええ。ただ、リンカーコアの異常萎縮と魔力減衰はそのまま……完全に元へ戻るまでにはそれなりに時間が掛かるでしょうね』

 管理外世界で発生した魔導師襲撃事件――。
 それは、つい先日にクロノが依頼を受けた違法渡航者による強奪事件――リンカーコアを対象とし、魔力を奪っていく不可解な事件とも決して無関係ではないだろう。

「闇の書――まさか、その名を聞くとは思っていませんでしたが……」
『そうね……だけど、いつかはこういうことがあると思ってはいたから』

 魔力を奪っていった者たちの目的は第一級危険指定遺物であるロストロギア――闇の書を完成させるためだという。
 十一年前――父を亡くしたその日以来、クロノはその名を忘れたことはなかったし、それは母であるリンディも同じだろう。

「母さん……」
『大丈夫よ。それより、今後の捜査については何か聞かされている?』
「はい。僕が責任者として事件解決に向けて動く事になりそうです」

 上層部からは違法渡航者追跡任務からそのまま、関連事件として対応するようにという通達を受けている。
 因縁があるロストロギアが関わっている事件の担当を引き受ける事になった運命に感謝しつつ、クロノはリンディの言葉を待った。

『そう……艦を降りた身としては表だって手伝うことは難しいと思うけど、協力できることがあれば何でも言ってね』

 気負いのないその言葉には明確な意思が込められていた。
 恨みつらみではなく、あくまでも事件の一つとしていつも通りに対応していくと――。
 管理局に所属する一局員として出来る限りの事をすると告げるリンディの言葉に、クロノは僅かばかり苦笑を零した。

「……わかりました。ところで、士郎はどうしているんです?」
『えっ? あ、ああ……士郎くんなら、自分の心配は無用だ――なんて言って、なのはさんたちの命に別状がない事を確認したら家に戻るといって出て行ったわ』
「そうでしたか。アイツには襲撃者の容姿や特徴を聞かせてもらいたかったのですが、念話も通じないみたいですし……」

 元々デバイスの補助がなければ長距離通信の困難な士郎だ。
 デバイスを持たせているとはいえ、地球から遠い世界に位置しているアースラからでは通信が困難という可能性も否定はできないが――。

『ああ、それなら説明するより見た方が早いといってデバイスを置いていってくれたわ。戦闘の映像は記録されているでしょうから……見てもいいということなんでしょう』

 リンディの言葉に疑問は氷解し、同時に小さな疑念が浮かび上がってくる。
 士郎の所持していたデバイスには目立った損傷は無く、恐らくは完璧に近い形で戦闘のデータが記録されているだろう。
 彼の性格からすればリンディに対して最低限の報告ぐらいはしているだろうと思っていたが、どうやらそれすらもないらしい。
 どことなくいつもの彼らしくない気がして、それがクロノには少しだけ気に掛かっていた。

『それと、気になる点がもう一つ――闇の書の持ち主と思われる女性なんだけど……どうも、士郎くんと面識があるような様子だったのよね』

 違法渡航者であり、ロストロギアである闇の書を所持する女性と顔見知り――。
 その事実は少なからずクロノを驚かせたが、それを表に出すことはせずに努めて冷静に問い返した。

「その事についてはなにか?」
『もちろん尋ねてみたけど、詳しくはなにも……。だけど、なのはさんたちの意識が戻ってから彼女たちも含めてちゃんと説明してくれるそうよ』

 現場での事も含めて、当事者を揃えてから説明をするつもりなのだろう。
 そう考えれば不自然はないのだが、それでも一度抱いた小さな疑念が消えることはなかった。

「わかりました。現在アースラは地球へ向けて出発する準備を進めています。早ければ明日の内には到着するでしょうから、こちらできちんと場所を確保しておきます」
『頼むわね。士郎くんのデバイスに記録されていたデータに関してはすぐにそっちへ送るわ』
「お願いします。襲撃の危険はまだあるんですから、母さんも充分に気をつけてください。では――」

 業務連絡を終えた後、最後に私人としての言葉を告げて通信を終える。
 小さく息を吐くと同時――すぐ隣に立って控えていたエイミィから向けられた視線に対してクロノは真っ直ぐに視線を合わせた。

「――よかったの?」
「いいも悪いも無いさ。母さんが決めたことに僕が口出しをするわけにはいかないだろう?」

 闇の書の名を聞いたリンディが心中穏やかなはずはないという確信がクロノにはあった。
 彼女が捜査に加わりたいというのならそれを無視することも出来ないと思っていたのだが、彼女がそうした提案を口にすることはなかった。
 或いは――自身の身を囮にして接触するつもりなのかもしれない。
 そんな予感めいた考えを振り払うように目を閉じたクロノだが、可能性としては決して低くないだろうと見ていた。

「そうだね……あ、早速データが送られてきたみたいだよ」

 エイミィへと送られてきたデータは一般には簡単に覗けないように暗号化が施されている。
 リンディから届いたそのデータを受け取ったエイミィは、早速といった様子でクロノが腰掛けている椅子の近くに備え付けられている端末の前へと向かって行った。

「解析を頼めるか?」
「うん、すぐにやっちゃうから少し待っててね」
「頼む」

 二人きりの時には当然となっている軽い調子で答えたエイミィが即座にデータの解析作業へと入る。
 その姿を横目に、クロノはもう一度決意を固めるように小さく息を吐いてから静かに瞑目するのだった。


 -Interlude out-


 僅かばかり零れる月明かりを浴びながら木々の隙間を抜けていく。
 そうして森を越えた先――闇を照らすような月光の下で黒のセーラー服に身を包んだ彼女は、自身の背中に届くその髪を風に靡かせながら静かに空を見上げていた。

「――懐かしいわね」
「そうだな。ここで目覚めてからまだ一年も経っていないというのにな」

 穏やかな声音は葉擦れの音と共に耳に届いた。
 彼女――岸波白野の言葉に同意を示しながら静かに目前へと歩を進めると、彼女は微かに微笑みを浮かべた顔を士郎へと向けてから地面に腰を下ろした。

「……隣、座ったら?」
「また不意打ちを食らわすつもりか?」
「二度通用する手じゃ無いでしょ? 心配しなくても、こっちから手を出そうなんて思っていないから安心していい」

 冗談交じりの皮肉にも気にした様子を見せぬまま、軽やかな返答を口にする。
 自身の隣を勧めながら柔らかな笑みを浮かべる彼女の姿を一瞥し、士郎は小さな溜息を零した。

「そういうことならお邪魔させてもらうとしよう」

 告げて彼女の隣へと腰を下ろす。
 肌寒いからか、隣に座った士郎の直ぐ傍に身を寄せてきた白野の肩が触れる。
 それを指摘することもせず、ただ傍に感じる僅かな暖かみを実感しながら空を見上げた。

「……何も聞かないの?」
「いや、聞きたいことは幾つもある。ただ、どれを優先すべきかと思ってな」

 空に広がる星空を眺めながらの言葉に、直ぐ傍から僅かばかり驚くような気配が感じられた。
 視線を下ろしてみれば、そこには意外そうなモノを見るような白野の視線があった。

「あなたがそういうことで悩むのは珍しい気がするわね」
「自覚している。そうだな……まずは礼を言っておきたい」
「……礼?」
「ああ。何も思い出せずにいた俺の背を押してくれたこと――かつて共に戦った際に俺の行く道を照らしてくれたこと……その礼を伝えることは結局出来ないままだったからな」

 微かに頬を撫でていく冷たい風を受けながら、真っ直ぐに視線を向けて告げる。
 かつて出会った時、記憶の殆どを失っていた衛宮士郎を支えてくれた女性――。
 成り行きから契約を交わし、彼女の剣となって戦った日々と経験がその後の衛宮士郎を支える根幹となった。
 そんな事を思い返しながらありったけの感謝を込めて告げた言葉に、彼女はただ小さな笑みを浮かべるだけだった。

「そういうことなら謹んで受け取るとするわ」
「そうしてくれ。それで、まず聞きたいのはどうして君がこの世界にいるのか…ということだが――」

 感傷に浸る間もなく質問を口にする。
 士郎からの問いかけに白野は表情を改め、僅かばかり真剣な表情を浮かべた。

「まあ当然の疑問よね。私がここにいるのはあなたが想像している通り――偶然なんかじゃない」

 そうして語られたのは単純明快な話だった。
 あの時――全てが終わった月の聖杯の中で別れた後、気がついた時には既に士郎が身につけていた宝石の中にいたのだという。
 そもそも、あの宝石にそうした機能があるはずがない。だが、白野曰く――現在あの宝石の内部は月の聖杯と同じモノで構成されているらしい。
 あまりにも規模が小さいため、限られた情報の蓄積と白野の存在を維持する程度の機能しか持たないが、それでもあれは紛れもなく聖杯の欠片なのだと――。 

「――なるほど。では、あれから常に俺と一緒にいたということか?」
「そういうこと。もっとも、どうしてそうできたのかは推察しかできないんだけどね。ひょっとしたら、色々不都合な存在だった私やあなたを一緒に処理するためだったのかもしれない」
「……かもしれないな。なら次の質問だ――どうして、君が"闇の書"の主となって魔導師を襲っている?」

 未だ確信を持てない疑問をぶつけるように問いかける。
 推測はしていても確証はない真実――それを確かめるように静かな口調で尋ねた。

「理由は言った通り――闇の書を完成させるためよ。あなたも闇の書については少しぐらい聞き知っているんでしょう? なら、全ての最悪を組み合わせれば自ずと答えは導き出せると思うわ」
「……持ち主となる主を求めて転生を繰り返し、絶大な力と引き替えに約束された破滅を齎すとされる魔導書――その言葉をリンディから聞いた時、ふと夜天の書の事を思い出したんだ」

 白野の言葉にふと、以前にリンディから聞いた話を思い返した。
 十一年前に命を落としたというリンディの夫――クライド・ハラオウン。彼の命を奪う原因となったロストロギアこそが闇の書である。
 破壊しても転生を繰り返し、新たな主の元で再び魔力を集めていくという魔導書――。
 聞き知っている夜天の書との類似を偶然と受け取ることは難しく、だからといって同一の存在であるかどうかの確証もなかった。
 だが、事ここに至ってそれは確信となり、夜天の書こそがリンディやクロノの肉親の命を奪う要因となった闇の書そのものであるのだと理解した。
 同時に――恐らくは白野と共に行動していた襲撃者たちが士郎の良く知る者たちであると確信し、士郎は僅かばかり頭を振った。

「……俺と常に共にいたという君が俺と離れ、こうして肉体を得て闇の書の主となっている。それを偶然と受け取るほど楽観的にはなれないな」
「私の存在の有無に拘わらず遅かれ早かれあなたが疑いを持つ事はわかっていた。管理局との繋がりがあるあなたにはいつか事件に関連した情報が届く…そうなればあなたはすぐに"ソレ"を可能性として考えてしまうから――」
「そうだな。少なくとも、無関係で通すほど浅い付き合いをしてきたつもりはないからな」
「ええ、わかってる」

 例え白野がいようといまいと、世界を問わずリンカーコアを所持する魔導師や魔法生物を対象とする事件の情報が士郎へと届く可能性はそれなりに高い。
 実際、これまで白野たちが様々な世界を渡り歩いて蒐集を行ってきたという事を鑑みれば、今回の一件がなくとも士郎やなのはに情報が届いた可能性は非常に高くなる。
 そうなれば白野が指摘するように、士郎が夜天の魔導書やその守護騎士たちに疑いを持つ可能性は極めて高くなるのだから――。

「わからないことはもう一つ――何故このタイミングで完成を急いでいる? 何か相応の理由がなければ彼女たちとてこのようなことはしないだろう?」
「それは――」

 一瞬だけ言い淀んだ白野は、すぐに思い直したように語り始めた。
 それは危惧していたひとつの可能性――。
 原因不明の症状で苦しみ続けてきたはやての容態が、いよいよ限界を迎えるという宣告だった。

「――はやてが……?」
「あなたが地球を後にして少し、医者から余命幾ばくもないと宣告されている。だからこそ、守護騎士たちは魔導書を完成させてあの子を真の主として覚醒させようとしている」

 曰く、はやての症状は幼いが故に未成熟なリンカーコアが抑圧された膨大な魔力を受け止められない故のものだという。
 生まれた時から夜天の書と強く結びついているはやては、そうして徐々に自身の内側から崩壊を始めており、それがとうとう限界に達してしまった。
 魔導書を完成させないまま放置してきたからこそのモノだというが、それを解消するためには夜天の書を完成させて、はやてを夜天の主として覚醒させる必要があると――。
 約束された終わりを突きつけられた守護騎士たちはそれを唯一の希望と受け止め、全てを覚悟して事に臨んだのだろう。

「それが蒐集を行う理由……か」
「納得できたの?」
「……せざるを得ないだろう。彼女たちが剣を手にした動機は理解できるし、俺もその場にいたなら恐らくは彼女たちに協力しただろう」

 魔術とは異なる理で結びついているはやてと夜天の書の契約を断ち切れるかどうかはわからない。
 以前に異なる世界の理に括られたエヴァへ使用した契約破りの短剣が齎した不具合を思えば、はやてにどんな悪影響があるかは想像することしか出来なかった。
 だからこそ――はやての命を救う方法が目の前にあるというのなら、士郎は恐らく葛藤を抱きながらも迷わず手を貸すことを決断しただろう。

「なのはやはやての気持ちや願い――あなたがこれまで築いてきた多くの人たちとの関係全てを置き去りにして?」
「それは当然のことだろう。何かを救うために何かを犠牲にする――その責をあの子たちに背負わせずに済むというのなら躊躇う理由は無い」

 迷いなく告げた言葉に白野は苦笑を浮かべていた。
 これまで共に過ごしてきた彼女にとっては、士郎がどのような決断をするのか…などと考えるまでもなかったのだろう。

「そういうと思っていたわ。だから私はあなたをこちら側に置きたくなかった……」
「白野……」
「遅いか早いかの些細な違いでしかないけど、少なくとも今というタイミングでなら最悪ではない。あなたと直接敵対するよりも、あなたに真実を隠されていた……というほうがまだ救いはあると思うから」

 ――それが誰を指しての言葉なのかは考えるまでも無い。
 今回の襲撃を受けた魔導師やその関係者――士郎とは決して浅くない付き合いをしてきた者たちだ。
 歯車が少しずれていれば、今回の襲撃でなのはたちを襲ったのは士郎自身だったかもしれない。
 そんな有り得たかもしれない未来よりは、真実を知りながらそれを口にすることのできない今という現実のほうが幾らもマシだと――。
 白野は迷いも後悔もない真っ直ぐな視線を士郎へと向けたまま堂々とそう告げて見せた。

「それに、私の心情は別としてもあなたをこちら側に居させるメリットがあまりにも少ない。蒐集は捗るかもしれないけどね」

 シグナムたちは姿を変え、魔法によって様々な世界を渡り歩いて蒐集を行っている。
 そもそも世界を渡る術のない士郎では移動という面で足手纏いになることは間違いなく、仮に戦闘や蒐集の面で力になれたとしても劇的と言えるほどの成果はないだろう。

「だが、完成を急がなければ――」
「――それだって、確たる方法とは言えない……でしょ? あなたの言葉……持ち主に約束された破滅を齎すという結末が正しいのかそうでないのか――少なくとも守護騎士たちはそれ自体を認識していないと思う」
「やはりそうか……。そうでなければ、彼女たちが蒐集を行うはずはないだろうからな」

 完成させた後に約束された破滅が待っているというのなら、シグナムたちがはやてを救うための手段として見出すはずも無い。
 リンディが告げたように破滅が待っているのかそうでないのか――。
 可能性は考えれば幾らでも浮かび上がり、結局のところ何が正しいのかを判断するには確たる情報が少なすぎる。

「大事なことは一つ――あの子の命を救うこと。なんであれ彼女たちは彼女たちにしかできない方法でそれを目指している。メルルリンスやエヴァンジェリンもそれは同じ……あなたや私にだって、それぞれにしか出来ない事はあるでしょう?」

 告げて、彼女はもう一度視線を空へと投げる。
 決意の浮かぶその横顔を眺めながら、士郎は最後の疑問の答えにあっさりと辿り着いた。

「君のその身体は、もしや――」
「ええ、推察通り――彼女たちに肉体を用意してもらって、そこに精神を移したの。所詮は仮初めの肉体だけど、生身の身体っていうのはやっぱり気分がいいものね」

 メルルが用意した意思持たぬホムンクルスの肉体に、エヴァの儀式魔法によって精神を移す――。
 そして、白野が体内に宿しているという魔導器こそメルルがこれまで研究してきた人工魔導器の試作品に他ならず、白野が使用した銃も同様だろう。
 そう考えれば、先の戦いははやてを除いた八神家プラス白野対士郎というとんでもない構図になる。
 規模の大きな身内争いだったのだと悟り、士郎は白野の横顔を眺めながら静かに覚悟を固めていくのだった。

「話はそれだけよ。保険はメルルリンスとエヴァンジェリンが用意しようと頑張っているし、私は"闇の書"の主として蒐集を急ぐ。だから、あなたはあなたにしか出来ない事をすればいい」
「そうだな……道筋は多いほうがいい。俺は"闇の書"について情報を集めてみることにしよう」

 恐らくメルルとエヴァは、はやての新たな肉体を用意し、そこへ精神を移すつもりなのだろう。
 最良とは思えないが、それが可能ならばはやてを救える可能性は非常に高い。
 白野はシグナムたちと共に"闇の書"の完成を目指し、守護騎士達が信じるはやての救済に全霊を注ぐ。
 ――そして、管理局とそれなりに関わりを持つ士郎には士郎にしか出来ない事がある。
 幸いにしてあらゆる情報を収集する無限書庫への出入りが可能な身分――情報収集を行うには最善の立ち位置に違いない。

「話はこれだけよ。呼び出しておいてなんだけど、はやくあの子に顔を見せてあげるといいわ」
「ああ、そうだな」

 帰宅する予定の時間から既に三時間が過ぎている。
 具体的な時間こそ知らせていないが、はやてが待ちくたびれていることだけはすぐに想像出来た。

「じゃあ、私はこれで――」
「白野」
「……なに?」

 何を告げることもなくその場を去ろうと立ち上がり、士郎へと背を向けて歩き出す白野――。
 立ち上がりながらそんな彼女の背に向けて声を掛けると、白野は歩を止めたまま振り向かずに問い返してきた。

「――ありがとう」

 そんな彼女に向けて、もう一度感謝の言葉を口にする。
 そこに込められた想いをどれだけ汲み取ってくれたのかは士郎にはわからない。
 ただ、静かに振り返った彼女の顔には優しさに満ちた柔らかな微笑みが浮かんでいた。

「ずっとあなたと一緒にいたって言ったでしょ? 私にとってもこれは他人事じゃない。だから礼はいらないわよ」

 表情とは裏腹に冷静な言葉を残して今度こそ立ち去っていく。
 闇の中へと消えていったその背を眺めながら、自身の身体を撫でていく冷風に押されるように足を踏み出した。

「……まだ間に合うはずだ。俺にしか出来ない事――彼女たちの家族として共に過ごしてきた俺にしか出来ない事がある。そのためならば、俺は――」

 独り呟きながら、決意と覚悟を胸に歩を進めていく。

 ――貴様のような男が、この先も平穏な日常に浸っていけると本気で思っているのか。

 いつかの日にエヴァから問いかけられた言葉を思い出す。
 ――その問いかけに向けた返答に嘘は無い。
 貴重で大切なこれまでの日常――その終わりがやってきたというだけだ。
 惜しむ気持ちも、これからも続けていきたかったという未練も確かにある。それでも、自身が守りたいと思う人のためならば足を踏み出すことを躊躇いはしない。
 この決断は多くの人を騙し、多くの人を傷つけていくだろう。その事実と罪を胸に刻みながら、士郎は帰るべき家に向けて足を進めていくのだった。
 

 

Episode 61 -少女たちの葛藤-

 
前書き
本編第六十一話です。 

 


「そんなわけで、緊急事態につき――」
「――本日只今より、このチームにて遂行中だった違法渡航者事件との関連が疑われるロストロギア――闇の書に関する捜査を開始します」

 艦橋に響くエイミィの声に続くようにクロノは捜査責任者として任務概要を告げる。
 直後――向かい合う十数名の局員たちから返ってきたのは一糸乱れぬ了承の返事だった。

「迅速な逮捕及び確保に向けて、頑張りましょう!」

 エイミィの号令に再度局員たちが声を上げる。
 それを聞き届けたクロノは、いつものように全員の姿を簡単に見渡してから小さく頷いた。

「それでは各員持ち場へ。アースラはこのまま事件の発生した現場――第九十七管理外世界、地球へ向けて出航します」

 告げると同時に各員がそれぞれの持ち場へと向かっていく。
 毅然と行動する局員たちの姿を見送ったクロノは、自身の席へと腰掛けながら任務概要を纏めたデータを目前に展開した。

「――まずは襲撃者たちの行動範囲を絞りこまないとな……」

 母であるリンディと古くからの付き合いがあるレティ・ロウラン提督から依頼された違法渡航者グループによる略奪事件――。
 魔導師や魔法生物が体内に有するリンカーコアを対象としたその事件は当初から謎に包まれたものだった。
 何故なら、襲撃にあった魔導師たちに負傷などは一切見られず、治療の魔法を使用した痕跡なども全く見受けられなかったからだ。
 被害者であるはずの魔導師たちから得られる証言も曖昧なモノが多く、大多数の者が突然襲われて即座に意識を奪われているため事件の詳細そのものが中々表に出てこなかったのだ。
 襲撃を受けた者たちに共通しているのは、リンカーコアの異常萎縮による一時的な魔力減衰だ。
 原因も動機も不明だったが、魔導師にとっての生命線とも言えるリンカーコアを対象とした魔力略奪と判断して捜査を開始――。
 そんな矢先に管理外世界の地球で発生したのが、クロノが捜査中の事件と関連していると思われる事件――現地滞在中の魔導師に対する襲撃だった。

「――クロノくん。技術部のマリーから、破損したなのはちゃんとフェイトちゃんのデバイスが記録していた映像データが届いたよ」

 すぐ側の席に腰掛けているエイミィから映像データが送られてくる。
 それは先の戦闘で破損したレイジングハートとバルディッシュが記録したもので、事件に関する情報としては非常に有益なものだ。
 解析に協力してくれたのは本局の技術部に所属しているマリエル・アテンザ――。
 クロノやエイミィの後輩にあたる女性で、以前からクロノが所持しているデバイスやフェイトのバルディッシュなどの調整を行ってくれている技術者である。

「了解した。それと、士郎のデバイスに記録されていたデータだが……もう解析は終わっているか?」
「うん……ちゃんと解析して閲覧できるようにしてあるよ」

 尋ねるクロノの声に静かに答えつつ、エイミィが先ほどと同じようにデータを送信してくる。
 それを受け取りながら、どこか苦笑しているようにも見えるエイミィへと真っ直ぐに向き直った。

「……どうかしたのか?」
「届いたデータは士郎くんが襲撃者三名及び闇の書の主と思われる女性と交戦した際の一部始終を記録したものなんだけど、改めて士郎くんの異常性を再認識させられたっていうか……」

 言い淀むエイミィの言葉にクロノは僅かばかり首を傾げた。
 士郎の戦闘能力の高さをよく知るエイミィの言葉だけに、一体どのような記録だったのかと僅かばかり興味が湧いてくる。
 現地に到着するまで数時間――元々それまでに情報の整理を行う予定だったクロノは受け取ったデータを持って席を立った。

「別室で閲覧してみるとしよう。何かあれば直ぐに声を掛けてくれ」
「ん、了解です」

 士郎に関するデータは慎重に扱って間違いない――。
 そんな予感めいた確信を抱きつつ、クロノは艦橋を後にした。
 人気のない会議室の扉を施錠し、受け取ったデータを次々に表示させていく。
 レイジングハートやバルディッシュが記録していた襲撃者たちとの会話や映像記録――。
 撃墜されるまでの詳細な記録に一通り目を通したクロノは、最後にエイミィから受け取った士郎の戦闘記録を再生する。
 そうして映し出されたのは、士郎が襲撃者と接触した後の戦闘や会話の一部始終だった。


 -Interlude-


 撃墜から一夜明けた朝――。
 先日から通うことになった学校の制服に身を包んだフェイトは気持ち早めに歩を進めて目的地へと向かっていた。
 昨夜の内に意識を取り戻し、同じく意識を取り戻したなのはやアルフと共に地球へ戻ってきたフェイト――。
 自身の身体の調子を計るように駆けてみるが、昨夜の撃墜が夢か幻だったのではないかと思うほど足取りは軽く、撃墜前よりも調子が良くなっていると感じられるほどだった。

「――なのは」

 自身の調子をある程度見切ったフェイトの視界に、公園の入口で佇むなのはの姿が映る。
 どこか落ち込んだ様子に見える彼女に向けて、フェイトは出来る限り明るい声音を意識して声を掛けた。

「あ…フェイトちゃん」
「おはよう、なのは。具合はどう?」

 なのはの目前で足を止め、調子を伺うように尋ねる。
 先程までの落ち込んだ様子を消し、笑みを浮かべたなのはは自身の調子を示すようにその場で身体を動かしてみせた。

「うん…魔法は無理だけど、身体は全然大丈夫だよ」
「そう……私とアルフとお母さんも同じだよ」

 撃墜された時には確かに感じていた身体的な損傷――。
 けれど、後に士郎やリンディがフェイトたちを発見した時にはその痕跡は一切見られなかったのだ。
 症状として残っているのはリンカーコアの異常萎縮による魔力減衰のみ。それも時間が経てば自然治癒する程度のものである。

「そうだ…フェイトちゃん。私の事、助けに来てくれたんだよね? ありがとう、フェイトちゃん」

 思い出したように礼を告げるなのはの姿に胸が締め付けられる。
 彼女が言うように、なのはの身を案じて結界の中へと侵入し、襲撃犯と交戦したのは事実だ。
 けれど、その結果は返り討ち――なのはを救うことも出来ず、襲撃者に撃墜されるという苦いものだった。

「私は何も……結局何も出来ないままだったから――」

 半年前の事件以来――母であるプレシアやクロノの指導を受けながら訓練を重ねてきた。
 以前とは比べ物にならないほど魔導が上達してきた実感がフェイトにはあったし、秋口からは士郎にも訓練に付き合ってもらった。
 だというのに、肝心の実戦であの体たらく――守りたいと思う人を守るどころか救うことすら出来ず、結局共々に士郎に救われるという結果に終わってしまった。

「ううん、そんなことないよ。ありがとう、フェイトちゃん」
「……うん」

 純粋に感謝を告げるなのはの言葉はフェイトにとって救いであり、同時に不甲斐ない自身を省みる警鐘に他ならない
 彼女が心の底から感謝を口にしているということは疑いようもない。そして、そんな彼女だからこそ守りたい……助けたいと思ったのだから――。

「――それにしても、あの人たち……何だったのかな?」

 多くの人が行き交う道を学校へと向かって歩き出しながら、フェイトはどことなく重くなった空気を変えるためにそんな言葉を口にする。
 冷たい空気が頬を撫でていくが、自然と繋いだなのはの手から伝わってくる暖かさがフェイトには心地よく感じられていた。

「私も急に襲われただけだったから……」

 なのはの返答には小さな疑念だけが込められている。
 それに同意するように頷きを返したフェイトは、昨夜遅くに届いたクロノからの通信を思い出していた。

「そういえばクロノから伝言を預かってきたんだ。昨日の件に関して色々と報告とか話があるから私となのはもアースラに来てくれって言ってた」
「アースラに?」
「ひょっとしたら、あの人たちの事が何かわかったのかもしれない」

 詳しくは聞かされていないが、襲撃者と交戦した士郎が何かしらの情報を得ていても全く不思議はない。
 そんな希望を込めて告げたフェイトの言葉に、なのはは僅かばかり笑みを浮かべてから小さく頷いていた。

「そうだね……じゃあ、放課後はそのままフェイトちゃんの家に行くから一緒に――」
「――うん」

 そうして、互いに予定を確認してから歩を早めた。
 なのはと手を繋いだまま学校へと向かったフェイトだが、道中で合流したアリサとすずかに生暖かい目で見られたのは余談である。


 -Interlude-


 学校を終えたなのはがフェイトと共にやってきたのは、半年ぶりとなるアースラ艦内の一室だった。
 見れば室内にはリンディやプレシア、アルフとクロノ、エイミィやユーノなど見知った顔が揃っている。

「――さて、これで全員揃ったな」

 たった今到着したなのはたちに全員の視線が集まる中、全員を見渡すように立っているクロノが告げる。
 その言葉を耳にしたなのはが咄嗟に抱いた疑問を口にしたのは、恐らくは同じ疑問を抱いたであろうフェイトだった。

「クロノ……まだ士郎が来ていないみたいだけど?」
「ああ、彼はもう少し後でこちらに来る手筈になっている。その前に、皆にこの映像を見てもらおうと思ってな」

 なのはたちの疑問は承知済みだといった様子で答えたクロノが部屋の中央に位置する台の上にモニターを表示する。
 そこに映し出された映像は昨夜のモノ――なのはを襲撃し、フェイトを撃墜した襲撃犯と士郎が戦っているものだった。

「これって……」
「見ての通り、先日の襲撃犯と士郎が交戦していた際の映像と音声だ」

 思わず零れたなのはの呟きに返答を返すようにクロノが答える。
 そんな彼の言葉をぼんやりと耳に届けながら、なのははその映像に全神経を集中させていた。
 三人の襲撃者に対してたった一人で戦う士郎の姿に目を奪われる。
 速度も力も襲撃者に比べて秀でているわけではないように見えるのに、それでも常に先手を取って圧倒していく。
 夏の事件の際に見た士郎の全力戦闘――それとはまた趣の異なる苛烈な戦闘に、なのはは知らず自身の手を握り締めていた。

『――まだ息があるのか。存外にしぶといようだが……ここまでだ。命が惜しいのなら、連れ去った者たちを速やかにこの場へ連れてくることだ』

 襲撃者たちを撃墜して見せた士郎が発する冷徹な言葉には一切の情も感じられなかった。
 それがわかっているはずなのに、それでも襲撃者は最後の警告とも受け取れる士郎の言葉に答えない。

『返答はない…か。覚悟はできているということだな』

 遠慮の欠片もなく剣を振り上げる士郎――。
 相手を制するのではなく、確実に命を奪うために振り下ろされた剣は襲撃者に届く直前で止められた。
 直後に彼が立っていた場所へと放たれた強力な魔力砲――それは砲撃を得意とするなのはの目から見ても強力無比なモノだった。
 砲撃を放ったのは、全身を覆う服に表情を隠す白い仮面を身につけた人物――。
 その手に持つ銃の形状をしたデバイスから膨大な魔力が込められた砲撃が速射砲の如く放たれる。
 そんな相手の攻撃に対し、士郎は苦にする様子さえ見せないまま徐々に距離を詰めていく。
 数秒の後、同じように距離を詰めてきた相手と士郎が接触し、火花を散らす激しい剣戟が繰り広げられた。
 どこか士郎と似たような剣筋をみせる相手に対し、士郎は変幻自在の剣技を駆使して圧倒していく。
 そうして繰り出した士郎の渾身の一刀――それを紙一重で避けた相手の仮面が割れる。
 追撃の手を繰りだそうとして動きを止める。白い仮面の下から現れた女性の顔を目にした瞬間の士郎の変化は劇的だった。
 これまで見たこともないほど驚いた様子の士郎が晒した致命的な隙――。
 その間隙を突くように放たれた女性の砲弾は士郎の身体を後方へと弾き飛ばし、その身体を魔力で構成された束で拘束してしまった。

『―――わかっていたつもりだけど、やっぱり私じゃどう逆立ちしても敵わないわね』
『――岸波白野。どうして君がここに……いや、この世界にいる?』
『偶然――なんて言っても信じられるわけじゃないでしょう? その拘束はあまり長くは保たないし、蒐集を急がせてもらうわね』

 交わされる女性と士郎の会話を最後に映像が途切れる。
 誰もが見入っていたのか――僅かばかり重たくなっていた室内の緊張した空気が一気に弛緩していった。

「この際に士郎の魔力を奪ったのが闇の書と呼ばれるロストロギアだ。持ち主に絶大な力を与えるというこの魔導書を完成させるためには多くの魔力を集める必要がある……昨日の襲撃はそのためのものだったということだ」

 クロノの言葉を耳にして、なのはは自身が襲われた理由に納得する。
 魔力を奪うための襲撃。なんであれ、そこには明確な目的があったのだから――。

「これって……士郎はあの女の人を知っているってこと…?」
「――その疑念は至極当然のものだな」

 ぼんやりとした声音で呟かれたフェイトの言葉に答えるように聞こえてきたのは当の本人――士郎の声だった。
 背後から聞こえてきたその声に振り返ってみれば、部屋の入口に佇む士郎の姿があった。

「早かったな、士郎」
「ああ、とりあえずのんびりと過ごせたからな。君たちも…元気そうでなによりだ」

 クロノの言葉に対して簡単に答えながらその視線と言葉をフェイトたちへと向けてくる。
 聞けば当初の予定通り家に戻った士郎は、昨夜からつい先ほどまではやてたちと過ごしていたらしい。
 そんな彼から向けられる優しい視線と声に、なのはとフェイトは互いに顔を見合わせてから小さく頷いて応えた。

「説明してくれるんだろう?」
「そのつもりだ。とはいえ、別に大層な話ではないがな」

 伺うようなクロノの言葉に答える士郎はその顔に苦笑を浮かべていた。
 なのはたちが見た映像から推察できるのは士郎が襲撃者の一人と顔見知りであるということ――。
 そんな全員の疑念に対して、士郎は特に気負った様子もなく口を開いて語り始めた。

「彼女――岸波白野と俺はかつて共に肩を並べて戦ったことがある。互いの目的を果たすために共闘したというのが正しいのだろうから、戦友というよりは同士といったほうがいいかもしれない」

 共に肩を並べて、同じ目的のために戦ったことのある相手だと告げる。
 そこに偽りなどないということは、堂々と語る士郎の目を見ればはっきりとわかった。

「なるほど……でも、士郎くん。ひとつ疑問があるのだけど、いいかしら?」
「ああ」

 士郎の言葉に対して最初に口を開いたのはリンディだ。
 恐らくは全員が抱いたであろう疑問に対して、彼女はこの場に集う全員を代表するように告げた。

「貴方は少なくとも、半年前のジュエルシード事件に関わるまで次元世界という概念を認識していなかったはずよね? なのに闇の書の主として様々な世界を渡り歩いている彼女を知り、地球にいた事を驚いていたのは……」
「俺があの事件に関わるまで次元世界を認識していなかったのは事実だ。彼女がこの世界にいた事を驚いたのは、何も彼女が次元世界を渡っていることを知ったからではない」

 そもそも――士郎があれほど驚いた姿を見せたのは初めてのことだ。
 これまでどんな事があっても常に冷静で、何があっても動じることのなかった彼が驚くに値する理由とは何なのか――。

「なら――」
「彼女――岸波白野は、こことは違う地球がある世界……簡単にいえば、並行世界に存在していた女性だ」

 リンディからの追求に対して士郎の口から告げられたのは、恐らくは誰もが想像していなかった意外なものだった。

「並行世界……?」
「そうだ。海鳴の存在しない日本がある地球や管理局が存在していない世界――今とは異なる歴史を刻んできた別世界…と認識してくれればいい」

 知らず零したなのはの呟きに答えるように士郎が説明を口にする。
 ――並行世界。
 合わせ鏡のように無限に並びながら存在する同じであって同じではない世界群――。
 今こうして魔法と出会ったなのはが存在する世界があるように、なのはが魔法と出会わなかった世界も可能性としては存在する。
 そんな可能性の数だけ分岐している様々な世界――それが並行世界と呼ばれるものなのだという。
 
「あらゆる行動の結果として分岐していく世界群――概念は知っているけど、それが実在するなんて……」
「仮に事実だとして、そんな女性と君が知り合いである理由にはならないだろう?」

 信じられないといった様子で呟くリンディを横目にクロノが問いかける。
 至極尤もなクロノの言葉に対して、士郎は同意するように頷きながら答えてくれた。

「……とある事件に関わった際、俺は並行世界の壁を越えた先に存在していた世界へと至った。彼女と知り合ったのはその時だ」

 出会いは偶然だったが、互いの目的を果たすためにそれぞれの意思を以て共闘したと――。
 戦いの果てにそれぞれの目的を果たすために別れて以来会っていなかった――否、会える筈がないと思っていたのだという。

「――今更になって君の言葉を疑うつもりはないが……」
「信じるも信じないも好きにすればいい。俺と彼女の関係については話した――今回は不覚を取ったが、次はあのような無様を晒すつもりはないから安心してくれ」

 話した言葉に嘘はない。それだけは誓えると断言すると――。
 堂々とした様子でこの場にいる皆を見渡していた士郎は、まるで自分に言い聞かせるようにそんな宣言を口にした。

「士郎は……相手がそんな親しい人でも戦うの?」

 フェイトが口にした言葉は、なのはが思い浮かべていた言葉と相違ない。
 僅かなりと緊張を孕んだフェイトの言葉に、士郎は真っ直ぐな視線をなのはたちへと向けたまま頷いた。 

「個人的な心情で言えば、彼女と剣を交わすのは御免被りたいところだ。彼女は俺にとって恩人でもあるし、俺が剣を預けた唯一の女性でもある」

 その言葉に、なのはは思わず身体を揺らしてしまう。
 剣を預けたという言葉からは士郎の彼女に対する信頼の深さを否応なく感じさせた。

「――だが、それでも彼女が再び敵として現れたのなら戦う事を戸惑うことはしない。彼女もその程度の事は覚悟している筈だ」

 大切な存在で、信頼を抱いている相手に違いはないと――。
 それでもなお、敵として立ち塞がるのなら剣を向けることを躊躇うことはしないと士郎は告げる。
 その覚悟を疑う余地などなく、フェイトもそれ以上の言葉を口にすることは出来ないようだった。

「……けれど、しばらくは無理をしないほうがいいわ。貴方……今は魔法も魔術も殆ど使えないのでしょう?」

 心配を多分に含んだ声音で告げられた言葉はプレシアの発したものだ。
 なのはにとっては事件の最後に顔を合わせただけの人物だが、士郎に向ける視線は純粋に彼の身を案じているかのようだった。

「む……確かにその通りだ。魔法に関しては補助的なモノなら可能だろうが、魔術に関しては暫く使用する事が出来そうにない」

 あっさりと戦う力を失っている事を宣言する士郎の姿に悲壮感は微塵もない。
 彼はいつもと同じ――堂々とした気配を身に纏ったまま自身の調子を明かしてくれた。

「それでも出来ることはあるだろう。クロノ――俺はユーノと共に無限書庫で闇の書に関する情報を集めようと思っているのだが……構わないだろうか?」
「それはもちろんこちらから頼みたいぐらいだが……いいのか?」
「当事者として関わった以上、今回の事件を傍観するつもりはないからな」

 はっきりと告げる士郎とクロノの視線が交錯する。
 提案を受けたクロノは僅かばかり表情を引き締め、士郎の提案を飲むように首肯するのだった。

「なら、士郎にはユーノと一緒に闇の書に関する情報収集を頼むとする」
「了解だ」

 互いに頷きあう士郎とクロノを横目に視線を俯かせる。
 知らず握られていた手をそのままに、なのはは胸の内に湧いてくる感情をはっきりと自覚するのだった


 -Interlude-


「――こんにちは」

 見慣れた本局の通路の先――。
 目的の部屋を訪れたフェイトはなのはと共に、室内で作業をしていた一人の女性へと頭を下げた。

「ああ、フェイトちゃん。それから…えっと――なのはちゃん?」
「あ…はい」
「技術部のマリエル・アテンザです。クロノ執務官とエイミィ先輩の後輩なの」

 肩には届かない程度に切り揃えられた髪を揺らし、笑みを浮かべて挨拶を口にする。
 白衣に身を包んだ女性――マリエル・アテンザはそうして、身につけている眼鏡越しに柔らかな視線をなのはへと向けていた。

「高町なのはです。あの…レイジングハートがここにいるって聞いて――」
「お見舞いね。二機ともシステムチェック中だからお話は出来ないんだけど、会ってあげて」

 告げて向けられたマリエルの視線の先には液体の満ちた容器の中で浮かぶ二機のデバイスがあった。
 フェイトの愛機であるバルディッシュと、なのはのパートナーであるレイジングハート――。
 ボロボロに傷ついた外装を見て、フェイトは自身の未熟を改めて思い知った。
 恐らくはなのはも似たような心境を抱いているのだろう。レイジングハートを見る彼女の表情は申し訳無さに満ちていた。

「――ちょっと時間はかかるけど、ちゃんと直るよ。だから心配しないで」

 フェイトたちの内心を察してくれたのか、告げるマリエルの声音は優しかった。
 そんな彼女の心遣いに応えるように、フェイトたちは小さく笑みを浮かべてみせるのだった。

「でも、この二機をここまで壊すなんて……よっぽど凄い相手だったんだね」
「変わった魔法でした。魔法陣の形も違ってましたし……」

 マリエルの言葉に同意するように頷きながら零れたなのはの言葉には疑問だけが感じられた。

「あれはベルカ式……それも本物の――」
真正古代(エンシェント)ベルカ……遠い時代の純粋な戦闘魔法だよ。一流の術者は騎士って呼ばれてる」

 知識としては知っていたそれを口にしたフェイトを補足するようにマリエルが説明を口にする。
 ミッドチルダ式と呼ばれる魔法体系が主流となる以前――遥か過去には主流だった戦闘魔法こそが真正古代ベルカと呼称される魔法体系だ。
 現代に残っている近代ベルカ式とは異なるそれは、戦乱の世に相応しく強力無比の魔法である。

「じゃあ、デバイスの中で何かを爆発させていたのは……」
「魔力カートリッジシステムね。圧縮魔力の弾丸をデバイス内で炸裂させて爆発的な破壊力を生み出すの。頑丈な機体と優秀な術者が揃わなきゃ自爆装置になりかねない物騒で危険なシステムなんだけど……」

 現代では使い手がいないとされているシステムだが、その様式と機構は伝承されているのだという。
 ミッドチルダ式に組み込もうとする試みもあったというが、その扱いの難しさとデバイスの強度という観点から実用化は見送られてきたらしい。

「それって、もしかして――」

 マリエルの説明を聞いていたなのはが何かに気づいたように声を上げる。
 なのはの視線はマリエルではなく、真っ直ぐにレイジングハートへと向けられていた。

「――なのは?」
「……ううん、なんでもない。マリエルさん…レイジングハートのこと、よろしくお願いします」

 フェイトの問いかけに首を振ったなのはは、その視線をマリエルへと戻してから深々と頭を下げた。

「うん、任せて」

 なのはの想いに応えるように頷いて答える。
 そんなマリエルの姿を眺めながら、フェイトは先程なのはが零した言葉が示す意味に思い至るのだった。

 

 

Episode 62 -見据える先へ-

 
前書き
本編第六十二話目です。 

 


「――悩んでるみたいだね」

 夕暮れが差し込む部屋の中で耳に届いたのは確信の込められたフェイトの言葉だった。
 リンディたちが地球で過ごすための拠点としているマンションの一戸――。
 その中にあって特に日当たり良く外を望める部屋の主であるフェイトからの言葉に、なのはは勧められた椅子へと腰掛けながら視線を向けた。

「フェイトちゃん……」

 向けられる瞳は落ち着いた口調とは異なり、どこか心配そうに揺れている。
 誤魔化しても心配を掛けるだけだろうと悟り、小さく頷いてからゆっくりと悩みを告げた。

「……フェイトちゃんは、強いってどういうことだと思う?」
「私もよくわからない…かな。ただ力が強ければいいってわけじゃないとは思っているんだけどね」

 隠すつもりなど毛頭なかったが、自分から尋ねることには躊躇していた。
 以前から抱いていた疑問――魔法と出会ってからの日々で更に強く考えるようになった疑問に対して、フェイトは戸惑うことなく"わからない"と答えてくれた。

「……そうだよね。だけど、このままだとあの子たちとまた会った時、同じように話も聞いてもらえずにやられちゃう……。それは嫌だから――」
「――うん、そうだね」

 問答無用で襲いかかってきた相手――そこに理由があり、恐らくは事情があることも想像する事は出来る。
 けれど、それを知ることさえ出来ずに矛を交え、何一つ知ることの無いままやられてしまった現実から目を逸らすことはできない。

「――フェイト、なのはちゃん。クッキーが焼けたわよ」

 部屋の外から聞こえてきたのはフェイトの母であるプレシアのものだ。
 リンディとアルフは夕食の買い物をすると告げて家を出ている。
 現在、なのはとフェイトの他にこの家の中にいる唯一の人物からの声に、フェイトはベッドの隅に下ろしていた腰を上げてから扉へ向けて声を上げた。

「はーい。いこう、なのは」
「うん」

 二人揃って部屋を後にして、食欲を刺激する焼き菓子の香りに誘われるようにリビングへと向かう。
 向かった先にはエプロンを身につけたまま笑顔を浮かべて迎えてくれるプレシアと、彼女の目前に置かれたバスケットに積まれた美味しそうなクッキーがあった。

「――凄く美味しいです」

 席に着き、促されるままにクッキーを口へと含んで素直な感想を口にする。
 ――もちろん、それはお世辞でも何でもない。
 喫茶店の娘であるなのはからしてもプレシアのクッキーは充分以上に美味しく仕上がっていると感じられたからだ。

「ありがとう。クッキーはあまり作ったことがないから自信がなくてね」
「あれ、そうだったんだ? でも、前に母さんが作ってくれたクッキーも凄く美味しかったけど……」
「あれは士郎に教わりながらその通りに作ったものよ。一番基礎的なところを教えて貰ったから、後はそれにアレンジを加えるだけで色々と作れるって言われてね」
「そうだったんだ……」

 少しだけ自信なさげに告げるプレシアとちょっとした疑問を素直に尋ねるフェイト――。
 当たり前の光景――以前を思えばどこまでも自然な母と子の会話に、なのはは自身が杖を手にした原点を見たような気がした。
 士郎と出会い、魔法と出会ってから半年余り。フェイトとプレシアが笑顔で語らうその姿に、なのはは知らず笑みを浮かべてしまうのだった。

「プレシアさんは士郎くんと仲がいいんですね」

 以前にも抱いた感想を思い出しながら尋ねると、そんななのはに向けてプレシアは苦笑を向けてきた。

「向こうがどう思ってくれているかはわからないけどね。けれど、私個人としては彼を信頼しているつもりよ」

 かつてプレシアがジュエルシードを集めていた際に彼女と対峙し、不治の病を患っていた彼女を救ったのは士郎だ。
 彼とプレシアがどのような交流をしてきたのかは想像することしか出来ないが、迷い無く告げるプレシアからは士郎に対する確かな信頼が感じられた。

「そういえば、前にクロノが言ってました。士郎と母さんが二人並んでキッチンに立っている姿を見ると、まるで夫婦みたいだって」

 思い出したといった調子で告げたフェイトの言葉を耳にして、なのはは脳裏にその光景を思い浮かべた。
 的確且つ落ち着いた様子で作業をする士郎とプレシア――。
 背丈も近い二人が肩を並べたその光景は、二人が連れ合いであると言っても通用する程度には似合っているように思えた。

「他人の目から見てそう思えたのなら、士郎もそれなりに私の事を信頼してくれていると思っていいのかもしれないわね」
「信頼……」

 士郎から信頼されているかもしれないというプレシアの言葉には確かな喜びが感じられる。
 そんな二人を脳裏に浮かべながら自身がどんな顔をしていたのか――それは、当のなのは本人にもわからなかった。
 ただ、なのはを見るプレシアとフェイトが二人揃って顔を見合わせていたことを考えれば、決して普通の様子ではなかったのだろう。

「……なのはちゃん?」
「あ…いえ、その……なんでもないんです」

 プレシアの心配そうな声音に思わず肩を揺らしてしまう。
 そうなれば、言葉で大丈夫と伝えてもそれが偽りであると思われるのは当然の事――。
 なのはの対面に腰掛けたプレシアは、優しげな笑みをその顔に浮かべながらなのはへと真っ直ぐに視線を向けてきた。

「……なのはちゃんには、なにか悩み事があるのね。私で良ければ相談に乗るけど……どうかしら?」

 恐らくは純粋な厚意からの言葉に、なのはは思わず隣に座るフェイトへと視線を向ける。
 そんななのはの迷いと戸惑いを察してくれたのか――フェイトは、なのはと視線を交わしたままゆっくりと頷いてくれた。

「……プレシアさんは、強いってどういうことだと思いますか?」

 脳裏に一人の男を思い浮かべながら尋ねる。
 強いということの意味を問うなのはに対して、プレシアは存外真剣な表情を浮かべながら小首を傾げた。

「力が強い、魔力が強い――そういうことだけじゃないのね?」
「……はい」

 単純に強いということを考えるならそれも間違いではない。
 だが、なのはが求めている答えはそれだけではないという確信があった。
 だからこそ自身よりも長く生き、あの士郎から信頼されている彼女へと問いかける。

「そうね。個人的な見解だけど、意思の強さ……かしら」
「意思……ですか?」
「そう。何かをしたい、何かを手に入れたい…守りたい。それがなんであれ、どんな願いや目的にも意思や想いが関わってくるもの」

 戦うことに限らず、あらゆる行動の動機の源泉は意思にあると彼女は語る。
 意思があるからこそ望みが生まれ、希望と欲望はそれを叶えるための原動力に他ならない。
 故に、意思強き者こそが己を叶えることの出来る強者なのではないか……と――。

「……でも、想いや意思だけじゃどうにもならないときは?」
「壁にぶつかって諦められるならそれでいいでしょうし、諦められないのなら前を向いて少しずつでも進んでいくしかできないと思うわ」

 諦められるのならそれで構わないだろうと彼女は告げる。
 それでも、どうしても諦められない事ならば立ち向かうしかない。
 結果がどうなるかは別として、そこに立ち向かう意思があるのなら先へと進んでいくことしかできないのだから――。

「そっか……そうですよね」
「私もそうやって前を向いて歩いている途中よ。こんな私でも必要としてくれる人がいて、守りたいと思える人がいる。そのためなら私は、どれだけ大変なことでも頑張ろうって思えるから」

 フェイトへと視線を向けて語るプレシアの声には確かな決意と想いが込められている。
 プレシアが戦うプレシアだけの理由を耳にしながら、なのはは自分にとっての理由について改めて考えを巡らせていくのだった。


 -Interlude-


 薄暗く人気の無い研究室の中で彼女――マリエル・アテンザは唐突に聞こえてきたアラームに首を傾げた。
 警告音はシステムチェックをしていたデバイス――レイジングハートとバルディッシュが収められた設備から鳴り響いている。

「――エラー? 破損箇所のシステムチェックは問題なし……機能に問題があるっていうの?」

 作業の手を止めてデータを流し見ていくと、二機からの報告文に機能に問題ありと表示されていた。
 意思を持つデバイス――インテリジェントデバイスである二機は、マリエルの言葉に呼応するように新たな文を画面に表示させていく。

『機能に重要な問題点が発生しています。問題解決のための部品[CVK792]を含むシステムを組み込んでください』

 その要求を目にして、マリエルはふいに視線を先程まで自身が作業していた机へと向けた。
 魔導師襲撃事件に関する情報収集の一環として取り寄せた特殊な機材――。
 敵の騎士が使用しているシステムを把握するために取り寄せたソレを横目に、マリエルは二機へと向き直った。

「確かに修理に関することは全面的に任せるって言ってもらってる。だけどこれは…いくらなんでも――」

 クロノからの依頼は二機を取り急ぎ元通りに修復すること――その際に必要な処置については一切を任せてもらえている。
 それはクロノからの信頼に他ならず、マリエルもそれに応えようと二つ返事で依頼を引き受けた。
 そんなマリエルにとって、少なからずデバイスや術者に負担を与えるシステムを容易に組み込むことは出来ないのだが――。

『――機能に重要な問題点が発生しています。問題解決のための部品[CVK792]を含むシステムを組み込んでください』

 再度、懇願するようにも見える同じ文章が表示される。
 その強い意志は、自身を愛機としてくれている魔導師である少女たちを思うが故か――。
 ――戦闘記録を見る限り、二機の性能が相手の魔導に圧倒されていたことは間違いない。
 それを二機がどのように考えているのか――この要求は、そんな問題に対して二機が導き出した答えそのものなのかもしれない。

「CVK792――ベルカ式カートリッジシステム……本気なの?」

 実用性すら保証されていない研究用のシステム。
 限りなく安全性を高めながら実用に耐えうるだろうとされている最新鋭のパーツ――。

『――お願いします』

 無機質な文字に込められた強い想い――。
 二機揃っての願いに、マリエルは小さく――けれど確かに頷きを以て応えるのだった。


 -Interlude-


 雲間から零れる月明かりを眺めながら小さく溜息を零す。
 ビルの屋上へとやって来たヴィータは、そこに集まっていた三つの人影を確認してからゆっくりと歩み寄っていった。

「――来たか」
「ああ」

 近付くヴィータに気付いたシグナムが確認するように呟く。
 変装を解いたままで待機してる三人を眺めながら、ヴィータは小さく頷いて見せた。

「はやてちゃんは?」

 心配を多分に含んだ声はシャマルのものだ。
 夜天の書をその手に持っている彼女の言葉に、ヴィータは家を後にする直前に見てきた光景を思い出して小さく笑みを零した。

「しっかり寝てる。それに、今日はエヴァが一緒に寝てくれてるから大丈夫だ」
「そうか」

 報告に対して返答を零したシグナムの傍へと立つ。
 横目に見上げることもせず、ただ二人並んで虚空へと視線を投げる。その先にあるであろう八神の家を見据えるように――。

「管理局の動きも本格的になってくるでしょうけど、私たちの行動方針に変更はないわ」
「出来る限り、ここを含んだ広範囲の世界で蒐集を行わなければ攪乱にならないからな」

 シャマルとザフィーラの言葉通り、ここまでは予定調和に過ぎない。
 多少のイレギュラーはあったが、それでもこうして当初の予定通りに事は進んでいるのだから――。

「いま何ページまで来てるっけ?」

 夜天の書を持つシャマルへと問いかける。
 蒐集を開始して一ヶ月余り――これまで多くの魔導師や魔法生物から蒐集してきた魔力は夜天の書のページへと形を変えて貯蔵されている。
 もっとも――正確には魔力だけではなく、リンカーコアを通して対象の魔法そのものを記録しているのだが……。

「――今はちょうど380ページね。この間の件で随分と稼げたわ」

 その言葉に、前回の襲撃を思い返す。顔見知りである高町なのはが魔導師として優秀な事は知っていた。
 恐らくは自身を友人だと思ってくれていた彼女を裏切り、そんな彼女の友人やその家族までも対象にした襲撃を思い返す。
 その後に行った彼との戦闘までを思い返し、ヴィータは決意と覚悟を胸に秘めたまま小さく頷いて見せた。

「もう半分越えてたんだな。でも、早く完成させねえと……そうしなきゃ――」

 何もかもが報われないまま終わってしまうと――。
 そう言葉にしようとして、それを遮るように"彼女"は隣のビルからヴィータたちの下へと飛び移ってきた。

「――焦る気持ちはわかるけど、仕事は丁寧にね」
「白野……」

 優しい笑みを浮かべて告げる彼女の名は岸波白野――。
 その目的と想いを信じ、"闇の書"の主として迎えた女性だが、その見た目はどう見ても十代後半の少女にしか見えない。

「こちらにこられたということは、彼はもう発ったのですか?」

 やってきた白野に歩み寄ったシグナムが僅かばかり神妙に尋ねる。
 そんなシグナムの様子を真っ直ぐに見据えたまま、白野は腕を組みながら小さく頷いた。

「ええ、律儀に挨拶に来てくれたわ。しばらくは向こうで情報収集に専念するそうよ」
「……そうですか。当面は彼と再び相見えることはないと思ってよさそうですね」

 蒐集の影響で、士郎が当面は魔術などを使用する事ができないだろうとは白野から報告を受けていた。
 夜天の書やはやてのこと――先の襲撃の真実を知った士郎が、これからも管理局の側に身を置いて情報収集を行うということは昨夜遅くに帰ってきた彼本人からも聞かされている。

「士郎はこの間のこと、何か言っていた?」
「はい……色々と思うところがあるはずなのに、我らの身を案じてくださいました。あのような裏切りを働いた我らに感謝するとまで……」

 事情は承知したと告げる彼の言葉には静かな覚悟と決意が込められていた。
 なのはたちを襲った責を問うことはしないし、蒐集行為を責めることもしないと――。
 代わりにヴィータたちを討とうとした事や、これから先もあるかもしれない戦闘で傷つけるかもしれないことを謝ることもしないと断言した。
 そしてそれは、決意を抱いて行動しながらもどこかで罪の意識を抱いているヴィータたちに対する救いに他ならなかった。

「あの子のために動いてくれたから……か。士郎らしいわね」

 呟きはどこか呆れたようにも聞こえたが、その顔に浮かんでいたのは柔らかな微笑だった。
 彼女から断片的に"見せてもらった"士郎の過去と彼女との関わり――。
 そこから感じ取れた彼女の士郎に対する想いを知れば、彼女の反応は当たり前のものにしか思えなかった。

「それにしても、貴女は大丈夫なのですか? この間は随分と無理をされていましたが……」
「大丈夫よ。特製の薬ももらったし、この身体も随分と頑丈に出来てるみたいだから」

 襲撃の際に士郎と交戦した白野は文字通り自身の身を削って微かな勝機を手繰り寄せた。
 それが一時的なモノに過ぎず、致命的なモノではなかったとしても、彼女は確かにあの士郎を御してみせたのだ。
 その結果を手繰り寄せたのは運でも、有り得ない再会に隙を晒した士郎でも、メルルが用意した強靱な肉体でもない。
 死すら生ぬるい苦痛を当然とし、断固たる決意と揺るがぬ想いを胸に砂粒ほどの勝機を掴んだ白野自身の意思の強さなのだから――。

「そうですか……貴女がそう言われるのなら、こちらとしては信じるしかありませんね」
「ありがとう。だけど、あんな無茶をするつもりはもうないから安心してくれていいわ。私はこれまで通りシャマルと一緒に行動するから」
「はい。よろしくお願いします、マスター」

 仮初めの主とはいえ、彼女と共に戦えることはヴィータたちにとっては幸運以外の何物でも無い。
 それを自覚しながら、ヴィータは自身の身体をいつものように変化させる。
 そうして――同様に姿を変えた仲間と共に転送陣を展開し、ヴィータたちは再び異世界へと向けて飛び立つのだった。


 -Interlude-


 休日の早朝――まだ人気の少ない街を抜けたなのはは、波の音が静かに響く埠頭で足を止めた。
 見渡す海はいつかのように静かで穏やかなまま、けれど春に見た光景よりもどこか寒々しく見える。
 肌を刺すような冷たい海風を身に浴びながら、なのはは静かに海を眺め続けていた。

「――こんなところで黄昏れていると老けるぞ」

 ふと聞こえてきた声は少しだけ懐かしいモノと似ていた。
 声の主に覚えのあったなのはは、脳裏に彼女の姿を思い浮かべながら声の聞こえた方へと振り返り――思わず首を捻ってしまった。

「えっと、エヴァちゃん……だよね?」

 振り向いた先に立っていたのは見知らぬ――けれど見知っていた少女の面影を強く残した女性だった。
 年の頃は十四、十五歳程度だろう。士郎よりは僅かに低いという程度には高い身長、目を引く金の髪は頭の後ろで綺麗に纏められながらも背中へと垂らされていた。
 
「うん? ああ、この姿でお前と会うのは初めてだったか」

 自身の姿を流し見ながら告げるその口調は間違いなく友人のエヴァンジェリン・A・K・マクダウェルのものだ。
 冷静に見てみれば、今の彼女の姿はなのはの良く知るエヴァがそのまま年齢を重ねていったらこうなるのでは……と思えるものだった。

「……それがエヴァちゃんの本当の姿ってこと?」
「今は……そうだな。ちょうど今の士郎と同じ位の年格好だし、この姿もそれなりに気に入っている」

 今の姿はそれなりに気に入っているというエヴァだが、その言葉には僅かな違和感があった。
 "今の士郎と同じ位の年格好"と――彼女は確かにそう口にした。
 士郎の幼少期を知っているというのならわからないでもないが、彼女のそれはまるで、士郎の今の姿が本来の姿では無いと告げているように聞こえたのだ。

「……それって、どういう――」
「言葉通りの意味さ。無理に知る必要もないだろう?」
「それは…そうだけど……」

 士郎の事を匂わされて気にならないはずはない。
 そんななのはの内心を知ってか知らずか――エヴァはなのはを眺めたまま僅かに口の端を歪めてみせた。

「――士郎の事が気になっているのか?」

 確信を突く言葉に思わず息を呑んでしまう。
 そんななのはの反応をしっかりと見ていたエヴァは、その顔に笑みを刻んで小さく頷いていた。

「ふっ……図星か。相変わらず分かりやすい奴だな、お前は。今日は気分もいいし、相談ぐらいは乗ってやってもいいぞ」

 告げながら、エヴァは戸惑うこと無く埠頭の隅に腰を下ろしてしまった。
 気分がいいという割に真剣な表情をしている彼女を眺めながら、なのははその隣へとゆっくり座り込む。
 肩を並べて海を眺めながら、なのはは自身の内に仕舞い込んでいた想いを少しずつ纏めながら静かに口を開いた。

「……私にとって、士郎くんは強くて頼りになって信頼できる人なんだ。だから、そんな士郎くんといつか肩を並べられるようになりたいってずっと思ってたの」

 出会った時から幾度となく目にしてきた士郎の戦う姿を思い返しながら口を開く。
 彼が戦う姿やその理由を目の当たりにして、いつか自分も彼のように強くなりたいと思ったけれど――。

「士郎を目標に据えていたわけか……。だが、思っていた――ということは、貴様の悩みはそこにあるのか?」
「わからなくなってきたんだ。士郎くんの強さを知れば知るほど、私にはどうやっても出来ないって痛感させられて……」

 守るべき者の為に戦うと告げた彼は真実言葉を違えることなく剣を手にして戦ってきた。
 そこにあるのは誰かを守りたい……必ず守るという強い意思なのだろう。
 その意思の強さは先日、アースラで見た士郎の戦闘記録を見れば否応なく感じ取れた。
 敵に対して一切の遠慮も油断もなく戦うその姿を見て、なのはは見据えていたその背が遠ざかっていく事を実感したのだから――。

「当然だろう。士郎は士郎、貴様は貴様だ。どう足掻いても貴様は衛宮士郎にはなれんし、なる必要もない」
「エヴァちゃん……」
「大方、あの男の本質にでも触れたのだろう? そして、それは自分の目指している強さとは違うと痛感した――違うか?」

 高町なのはでは、どうやっても衛宮士郎にはなれないとエヴァは告げる。
 それは力や経験だけの事では無く、決定的に歩む道筋が異なっているのだと――。
 目指す方向は似通っていても同じ道筋を歩むことはできないと断言され、なのはは憤ることも悲しむ事もなく静かに納得してしまった。

「……ううん、違わない。違わないから悩んでるんだって……ようやくわかった」

 目標に見据えていた人のようにはなれないと理解してしまった。
 ――けれど、彼のように強くなりたいという想いは変わらない。
 例え求める強さが違うとしても、それでも衛宮士郎という人物がなのはにとって大きな存在であることに違いはないのだから――。

「……なるほど、士郎が貴様の事を気に掛けている理由がなんとなくわかったぞ」
「え……?」
「――貴様はどれだけ遠回りをしても道を違わない。なんであれ最初から最後まで自身の道を貫き通すだろう貴様は、士郎にとっては空に浮かぶ小さな光に見えるのだろうさ」

 面白くなさそうな声音で告げるエヴァだが、その表情はどこか優しく見える。
 まるで誰かを案じているような――そんな感想を抱いたとき、脳裏に浮かんだのはやはり士郎の姿だった。

「……私が…光……?」
「貴様の悩みは当然のものだ。士郎が剣を執る理由と貴様が杖を執る理由は根本からして異なっているのだからな」

 はっきりと突きつけるように告げるエヴァの言葉に耳を傾ける。
 潮風に動じること無く語り続ける彼女の姿は、その見た目からは想像も出来ないほど老成して見えた。

「そもそも、戦う理由などそれぞれに持っていて当然のものだ。どれが正しくてどれが間違っているのか――それを判断するのは自分自身ではなく他人に過ぎない」

 だからこそ、衛宮士郎と高町なのはが異なるのは当然の事だとエヴァは語る。
 そんな当たり前の事を本当の意味で理解していなかったなのはに対して、それを悟れと優しく突きつけてくれた。

「――高町なのは。お前は一体何のために戦う?」

 問いかけは真っ直ぐに――ただなのはが抱く意思を示せと告げる。
 そんな彼女からの視線を正面から受け止めたなのはは、自身の深奥に問いかけるように瞑目した。

「――私は……悲しい出来事や悲しんでいる人を見過ごしたくない。どうにもならないことが幾らでもあるなんてわかってる。だけど、それでも私は最後まで諦めたくないから――」
「はっ、見事なまでに自分勝手で現実の酷さを知らぬ者が抱きがちな理想論だな」
「うん、自分でもそう思ってる。それでも私に出来る事があるのなら話を聞いて手を差し出していきたいの」

 綺麗事だということも、理想に過ぎない想いだということも理解している。
 否――理解できているつもりでいて、実際には理解など出来てはいないのだろう。
 それでも……例えそうだったとしても、自分を偽ってまで歩みを進めることは出来そうにないから――。

「貴様に限って覚悟を問う必要などあるまい。せいぜい自身の理想を貫き通してみせることだ」
「エヴァちゃん……」

 突き放すような言葉を口にして、エヴァは静かに立ち上がった。
 そんな彼女に続くように立ち上がり、先程までとは異なる心持ちでエヴァを見据える。
 なのはからの視線を正面から受け止めたエヴァは、今度こそ本当に面白そうに笑みを浮かべて見せた。

「なんであれ貴様は道を定めたのだ。それを歩き通す程度の覚悟がなければ、士郎の隣に立つなど夢のまた夢だぞ」

 士郎の背を追いかけるだけでは彼の隣には立てないと――。
 まるでなのはの背を押してくれるようなその言葉に、なのはは笑みを浮かべて小さく頭を下げた。

「……うん、ありがとうエヴァちゃん」
「ただの気まぐれだ。じゃあな」

 どことなく照れた様子のエヴァはそのまま、軽く手を振って埠頭を去っていった。
 そんな彼女の背が見えなくなるまで見送って、ゆっくりと歩き出す。
 海を眺めて悩みに沈む暇など今の自分にはないと――目指すべき先と歩んでいく道を自覚したなのはは、小さくも確かな決意と覚悟を胸に歩を進めていく。

「――強くなりたい。悲しいことを見過ごさずに済むように……もう誰も傷つけずに済むように――」

 力だけでも想いだけでも足りないというのなら、その両方を手にしよう。
 ――確かな想いを自覚し、そのために必要な力を手に入れる。
 魔法という力と出会い、様々な人と出会って見出した自身の歩むべき道――。
 相手を討ち滅ぼす力ではなく、相手を制するための力を手にするため――今はただ、見出した自身の道を進んでいこうと決意するのだった。

 

 

Episode 63 -開戦の狼煙-

 
前書き
第六十三話目です。
 

 

 地球での任務を開始してから一週間――。
 日毎に寒さを増してくる冬の外気を他所に彼女――リンディ・ハラオウンは、自宅からそう遠く離れていないスーパーマーケットへ買い物にやってきていた。

『――犯人がコア蒐集を出来るのは、やはり魔導師一人につき一度限りということらしいです』

 念話越しに聞こえてくるのはリンディの一人息子にして管理局の執務官であるクロノの声だ。
 いつもよりも真剣味の増した声音を聞き届けながら、リンディは棚に陳列された食材を吟味していく。

『そう……なら、なのはさんたちはもう襲われる心配はないのね?』
『…ええ。ですが、母さんご自身が――』

 現在地球に滞在している魔導師の中で蒐集されていないのは、クロノ直下の滞在隊員を除けばリンディただ一人だ。
 管理局の監視が強まっている地球で二度目の襲撃はリスクが高いと判断するのが普通だろう。
 だが、これまで彼女たちが襲撃対象に選んでいる人間の大半が管理局の局員であることを考えれば決して低い可能性ではない。
 様々な世界で広範囲に渡って活動している相手だけに捜査範囲の絞り込みは容易ではないが、管理外世界である地球は相手にとって都合の良い場でもあるのだから――。

『一応襲撃に備えてはおくから、万が一の時は犯人の確保を優先して動いてね。私も出来る限りを尽くして対応するから』
『……わかりました』

 返答から僅かばかりの葛藤が感じ取れるのは気のせいではないのだろう。
 幼き頃に父を亡くし、その原因である闇の書に関わる事件の渦中に母であるリンディがいる。
 それがクロノにとってどれだけ不安を抱くモノなのかは、逆の立場で考えてみればリンディにも痛いほど理解できた。

『ごめんなさいね。こんな時だっていうのに我儘ばかり言ってしまって…』
『いえ、そんなことはありません。フェイトたちのこともありますし、警戒だけはお願いします』
『はい、了解』

 念話を終え、リンディは会計を済ませてから店を後にした。
 自身を含めて四人分の食事を用意するための食材は持参した袋に詰めてある。
 それを片手にすっかり見慣れてきた道を歩いていると、ふいに聞き知った声が念話を通してリンディへと届いた。

『――リンディ。いきなりで悪いんだけど、ちょっといい?』
『あら、レティ。そっちから連絡を入れてくるなんて珍しいわね』

 レティ・ロウラン――リンディとは古くからの友人であり、今も管理局の同僚として交流を持つ女性だ。
 そんな彼女からの珍しい念話を受け取り、リンディは何となく理由を察しながらも平静を保って返答してみせた。

『クロノくんやエイミィから報告を受けてね。捜査チームに加わらなくてよかったの?』

 闇の書に関わる事件の捜査に加わらなくてよかったのか…と――。
 直球で尋ねてくる友人からの問いかけには僅かばかり窺うような気配が感じられた。

『今の私の任務は管理外世界の調査と評価を受け持つ駐在員よ。いくら現地で事件が発生したからといって、捜査チームに加わるのは筋違いでしょう?』

 無理に無理を重ねてようやく担当することになった任務――。
 そこに思い入れがあるのは当然の事で、少なくともプレシアの立場がもう少し好転するまでは立場を変えるつもりはなかった。

『だから自分の職務を全うする…ね。もしかしなくても、自分を囮にしてない?』
『さあ…それは向こうが判断することだもの。私は私の職責を果たすだけよ』

 内心を指摘するような問いかけにリンディは否定も肯定もしなかった。
 仮にそのような事をリンディが考えていようといまいと、襲撃があるかどうかは相手次第なのだ。
 管理局の局員として、これ以上の犠牲者が出る前に取り押さえられればいいと思う気持ちに嘘があるわけではないのだから――。

『まあいいわ。とりあえずそういうことにしておいてあげるから』

 溜息交じりな言葉には微かに心配そうな響きがあった。
 そんな友人の気遣いと配慮に、リンディは小さな笑みを浮かべる。
 そうしている内に自宅へ到着し、施錠された扉を開けて室内へ。買い物を入れた袋を手にしたままキッチンへと向かった。

『そういえば、クロノに闇の書関連の事件捜査を依頼したのは貴女だって聞いたけど……』
『ええ。ただ、最初はこちらでも認識できてなかったのよ。私たちが知ってた闇の書事件とは色んなことが違っていたから――』

 食材を片付けながらの問いかけにレティは少しだけ声音を引き締めて答えた。
 これが闇の書に関わるものだと知っていたのなら、レティは恐らくクロノには依頼しなかったのだろう。

『闇の書が関わっているって報告を受けた後、クロノ君には他のチームに代わってもらうって言ったんだけど……』
『――聞かなかったでしょう』

 その時のクロノの様子は手に取るようにわかった。
 いつもと同じように――けれど、いつもよりも更に表情を引き締めて淡々と告げるその姿がリンディにははっきりと想像出来た。

『ええ。貴女に闇の書と関わってほしくないみたいだったし、どんな因縁があっても職務を全うするって』

 個人的にリンディへ報告することはそれだけだ…と――そう告げて、レティからの念話は終了した。
 購入してきた物を全て片付けて自室へと向かう。畳の香りが鼻を擽る中、視線が無意識に"それ"へと向けられたのは当然のことだろう。
 若かりし頃のリンディとクライド…そして幼いクロノが映った家族写真――視線はそのままに写真を収めた額の傍へと歩み寄る。
 その直ぐ下――畳に置かれている木製の小物入れに備え付けられている取っ手に手をかけ、ゆっくりと引き出しを開けていく。
 中にいくつも入っている小物を一瞥し、古びた手帳をそこから取り出す。何も書かれていないページを捲り続け、目的のページで手を止めた。
 そこに挟むようにしてあったのはカード型のデバイス――それも只のデバイスでは無い。
 十一年前の闇の書事件の最中に、闇の書を封印するためにと開発が急がれたが結局間に合わなかったという曰く付きのモノだ。
 ――氷結の杖『デュランダル』
 奇しくも士郎がロストロギア『ジュエルシード』を破壊した際に使用したという伝説の剣と同じ名前を持つそれを眺めながらかつてを思い返す。
 確保した闇の書を護送している最中に起きた闇の書の暴走――。
 艦船を丸ごと飲み込むように伸びる茨は周囲の人間すらも捕らえて闇の書へと取り込もうとしていた。
 その最中――他の局員を退避させながら闇の書を小型艇へと運んだ人物こそがリンディの夫であったクライドだった。
 彼は自身の身を犠牲にする事を前提に闇の書を艦外へと運び出し、自爆することで闇の書を破壊した。
 泣き叫び、彼の身を引き留めようとするリンディの声に応えず、ただ多くの同僚や艦が向かっていた先に存在する世界を守るために――。
 
「――さて、晩御飯の準備をしておかないとプレシアに怒られちゃうわね」

 思い返していた過去を振り払うように頭を振る。
 呟いた言葉には先程まで身に纏っていた悲壮な気配は微塵も無く、いつもの声が自身の耳へと届く。
 気を取り直したように笑顔を浮かべて見せたリンディは、現在外出中の友人家族の姿を脳裏に描きながら部屋を後にするのだった。


 -Interlude-


 以前に訪れてから一週間と少し――。
 連絡を受けたフェイトがなのはと共にやってきたのは本局にある研究室の一つだった。

「――こんにちは。お邪魔します」

 室内に足を踏み入れながら声をかける。
 薄暗い空間の奥に見える微かな人影が声に反応してゆっくりと近づいてきた。

「は~い……ちょっと待ってね…」

 ちょうど作業台の奥に隠れるような場所からやって来たのはマリエル・アテンザその人だ。
 局員の制服の上から白衣を身に纏った彼女は、ボサボサの髪を整えながら気怠げにフェイトたちの目前へと歩いてくる。

「いらっしゃい、ふたりとも」
「どうもです。あの……大丈夫ですか?」
「えっ? ああ…平気平気……なんとか期日に間に合ってよかったよ~」

 見ればその顔には疲労が色濃く残っており、目の下の隈を見れば彼女が相当な無理をしていたことは想像に難くない。
 心配そうな視線を向けているフェイトとなのはの二人の視線が気になったのか、彼女は強がるように平気だと口にして笑みを浮かべていた。

「それにしても、二人は大丈夫なの?」
「バッチリです」
「前よりも魔力量が増えたぐらいだってお墨付きをもらっています」

 笑みを浮かべて答えるなのはと共に状態を告げる。
 あれから――襲撃から二日が過ぎ、前日までは何かを悩んでいたなのはからの提案で共に訓練に励んできた。
 魔法は使えなくともイメージトレーニングや体術、互いの特性を把握した上でのコンビネーションパターンの構築など――。
 時間は幾らあっても足りず、あれこれとしている内に魔力は完全に回復し、今日という日を迎えることが出来たのだ。

「若さだね~。あ、でも衛宮君はまだ完調には程遠いってぼやいてから、二人が例外なのかもしれないね」

 あれ以来、ユーノと共に無限書庫に入り浸っている士郎は未だに状態が回復していない。
 それも魔導に関することではなく、彼が保有しているという魔術に強く影響を残していると言うのだ。
 詳しい事はフェイトにはわからなかったが、まだもう暫くの間は魔術を使用することは出来そうにないらしい。

「士郎くんもここに?」
「うん、色々と相談に乗ってもらったの。まあその話は置いておいて…とりあえず準備は出来てるから、会ってあげて」
「はい」

 なのはの問いかけにマリエルはあっさりと応えてくれた。
 マリエルが士郎に相談というのは珍しい気もしたが、その後に続けられたマリエルの言葉に今日の本題を思い出す。
 肩を並べて立っていたなのはと顔を見合わせたフェイトは、二人揃って笑みを浮かべてから頷きと返答を返した。

「あ……」

 台の上に鎮座している二機のデバイス――。
 レイジングハートとバルディッシュを目にして、なのはが何かに気付いたように小さく声を零した。

『しばらくです、マスター』

 そんな主との再会が嬉しかったのだろう。
 レイジングハートから聞こえてくる声はどこか弾んでいるようにも感じられた。

「レイジングハート――形が……」
『なかなかお洒落でしょう?』
「うん、可愛い。似合ってるよ」

 僅かに意匠を変えているレイジングハートと首飾りの接合部を眺めながら声を上げるなのは――。
 そんな彼女に応えるように冗談交じりに告げるレイジングハートを横目に、フェイトは自身の愛機であるバルディッシュへと視線を向けた。

「バルディッシュも――」
『――ありがとうございます』

 以前は綺麗なトライアングル型だった本体が更に鋭角的な意匠へと変わっている。
 どこか雷や電気を連想させるそれはバルディッシュの力強さを現しているかのようだった。

「変更点については本人たちから直接聞いたほうがいいかな?」
「はい!」
「ありがとうございます」

 新しいシステムが導入されていることは既に知らされている。
 その扱いに関してはこれから試してみなければわからないが、それ以外にも大きな変更点があるのだという。
 今までも――そしてこれからも共に歩んでいく愛機の事を早く知りたいと逸る気持ちを抑えながら、フェイトは浮かべていた笑みを更に深めていった。

「仕様に関しては衛宮君にも色々と助言をもらって決定しているの。もし何かあれば彼に助言をもらうのもいいかもね」
「はい、わかりました」

 先程告げていた士郎への相談というのはその事だったのだろう。
 なのはとフェイトの魔導を良く知る士郎が助言をしてくれている――という事実は、フェイトに大きな安心感を与えてくれた。

『――フェイト。ちょっといいかな?』

 唐突に――何の前触れもなく念話による通信が届く。
 自身の使い魔であるアルフからの突然の映像通信――。
 それに言いようのない胸騒ぎを感じたフェイトは少しだけ怪訝な表情を浮かべた。

「アルフ……どうかしたの?」
『うん…今日ね、リンディさんと待ち合わせしてたんだけど…連絡がつかないんだ。プレシアも知らないって言うし、フェイト……何か聞いてない?』
「ううん、私も聞いてないけど……」

 通信の向こう側では、恐らくリンディに対して念話通信を送ろうとしている母――プレシアの姿が見て取れた。
 待ち合わせをしていたというのに姿を見せず、余程の事がなければ次元世界を跨いでさえ届く念話が届かないという事実――。
 予感めいた胸騒ぎは確信へと近付いていく。そんなフェイトの内心を代弁するかのように、アルフは不安そうな表情を浮かべていた。

『嫌な予感がするんだ。これって――』

 アルフの言葉が最後まで告げられる前に鳴り響くアラート――。
 それは、常に通信を繋いでいるアースラからの緊急警報に他ならない。
 即座に状況を確認したフェイトは迷うこと無くバルディッシュを手にし、同じようにレイジングハートを身につけたなのはと顔を見合わせた。
 言葉にするまでもなく意思を通わせて頷き合う。そうしてフェイトは、なのはと共に研究室を後にするのだった。


 -Interlude-


 警戒態勢を維持していた艦内にアラートが鳴り響く。
 途端に慌ただしくなった艦橋の空気に彼女――エイミィ・リミエッタは表情を引き締めた。

「――観測地点にて結界発生!」
「術式は――真正古代(エンシェント)ベルカ!!」

 観測班から上がる報告と同時に情報がエイミィの手元に送られてくる。
 それを即座に纏めて簡潔かつ必要最低限の報告書としてクロノの下へと送っていく。

『――現在、滞在中の隊員四名で包囲! 結界の破壊工作中なんですが……術式が強固で破るのには相当な時間が掛かると思われます!』

 現地から送られてくる映像データには、四人の隊員が街中に発生している結界を破壊しようと苦心している姿が映し出されていた。
 前回とは異なり、現地時間で昼を過ぎた程度の明るい街中に浮かぶ遮断型の捕縛結界――。
 如何にそれが任務で、現地民に悟られないように魔法で姿を隠しているとはいえ、管理外世界で局員がこれほど大々的に活動するには相応の手続きが必要となる。
 ある程度の下準備をしているとはいえ、事態が起きてからでなければ行えないその手続きを全速で行っていくのは執務官補佐であり、通信士でもあるエイミィの仕事だ。

「了解だ。突発的な襲撃を警戒しつつ破壊工作を継続してくれ。こちらからもすぐに増援を送る」
『――了解しました!!』

 通信越しに指示を口にするクロノの表情はいつも以上に冷静だ。
 事件を追いかけるチームのリーダーとしての自覚故か――。
 冷静沈着に対応しているクロノの姿は周囲の人間に安心感を与えているように見えた。

「空戦魔導師隊を出動させてくれ。現地での指揮は僕が直接執る」
「了解!」

 クロノからの指示に合わせて最後の手続きを終える。
 同時に艦内で待機している空戦魔導師たちへ指令を送り、即時出動の準備を促していく。

「――ユーノ」
『――どうかしたの?』
「地球で緊急事態発生だ。士郎はそこにいるか?」

 クロノが通信を送った相手は、無限書庫で情報収集を行っているユーノだ。
 彼に対して簡潔に用件を伝えたクロノは、その場にいるであろうもう一人の男の名を口にしていた。

『――ここにいる。彼女たちが現れたのか?』

 応えるように画面に姿を見せたのはユーノと共に無限書庫で情報収集を行っている士郎だった。
 そんな彼からの確信めいた言葉に、クロノはそれまで浮かべていた表情を崩し、僅かばかり緊迫した様子を隠そうともせずに頷いていた。

「ああ。既になのはとフェイトは先行して現場へ向かったと報告がきた。僕もこれから出動するつもりだ」

 アラートとほぼ同時にフェイトから送られてきた通信文――それに許可を出したのは他ならぬクロノ自身だった。
 本局に設置されている緊急転送装置を使えば、現地滞在員となったリンディが設置した簡易転送装置と連動する事で短時間の到着を可能とする。
 アースラからの増援が到着するまでの時間稼ぎを指示しているが、彼女たちの事――そして、自身の母であるリンディの身をクロノが心配していないはずはない。

『……そうか。魔術が使えない俺では足手纏いにしかならないだろうが――』

 どこか冷静な士郎の呟きにクロノは表情を変えない。
 彼が完調していない事はクロノも把握しているのだから、そんな彼に無理をさせるつもりはないのだろう。

『――クロノ。現場に着いたら金の髪をした少女に注意しろ。恐らくは彼女が襲撃者たちの補佐を引き受けているはずだ』
「了解した」

 接触した際に把握した各人の戦力や特徴などを細かに報告してくれた士郎からの助言――。
 襲撃犯たちの要はその少女だと――そう告げる士郎に対して、クロノはしっかりと頷きを返していた。


 -Interlude-


 日中の街中に展開された捕縛結界――。
 人気の排除された隔絶空間にその身を浮かべていたシグナムは、注意深く周辺を探っていた。

『――現在、結界の外で魔導師四人が解除を試みているわ。そう簡単に破られはしないけど、増援も直ぐにやってくるはずよ』

 唯一結界外に待機しているシャマルからの念話が耳に届く。
 結界の構築と周辺の監視及びシグナムたちの補助を行う彼女の声は既に変装後の少女のものだった。

『地球での蒐集は局の魔導師を呼び込みやすい。手早く目標を押さえるぞ』
『おうよ』

 少年の声で確認を取り合うザフィーラとヴィータ――。
 二人が危惧しているのは、下手に長引かせる事で再び士郎がやってくるという可能性だろう。
 それが杞憂であると断言する事など出来はしない。シグナムは上空から結界内部を見渡しつつ周囲を索敵していく。

「……さて、結界内に閉じ込めたことだけは間違いないが――」

 対象者は管理局で部隊を率いているというリンディ・ハラオウン提督――。
 流石にその肩書きは伊達ではないらしく、結界内部に閉じ込めた直後に自身の魔力と気配を隠匿してみせた相手の練度には感心してしまう程だった。

「――ああ、貴方が闇の書の騎士たちのリーダーよね?」
「……あなたは――」

 唐突に背後から聴こえてきた声に合わせて気配と魔力が露わになる。
 空に浮かぶシグナムが振り向いた先――高層ビルの屋上に姿を現したのは、地球の衣服に身を包んだ長髪の女性だった。

「――少し話を聞かせてもらって…いいかしら?」
「……話?」

 見ためは若い少女のように見えるが、彼女がただ者ではないということは間違いない。
 予感ではなく、確かな確信を抱いて警戒を強めるシグナムを前に、彼女はどこか冷淡な声音で言葉を投げ掛けてきた。

「闇の書のシステムの一部。それぞれ独立した意思と実体を持った無限再生プログラム――守護騎士、ヴォルケンリッター」

 彼女は視線をシグナムへと向けたまま、その素性は既に知れているのだと告げる。
 相手に事情を知る士郎が所属している以上、最低限の情報が伝わっているのは当然の事――。
 故にその質問に慌てるような要素は微塵も無く、シグナムは自身のデバイスに手をかけたまま臨戦態勢を維持していた。

「――貴方たちは一体、闇の書をどうするつもりで蒐集を続けているの? マスターの少女に命じられたから?」

 疑念に満ちた問いかけに内心で首を傾げる。
 管理局がロストロギアと認定している闇の書を確保――または破壊しようとしていることは想像に難くない。
 だが、結界に捕らえられた自身の身を態々晒してまで問いかけてくる内容にしては酷く個人的なものに感じられた。

「……我らには我らの目的と理由があります。だが、それをあなたに説明する義理も理由もない」

 夜天の書の完成は、今も静かに身体を蝕まれているはやてを救う唯一の道筋だ。
 それを邪魔するというのなら、例え相手が誰であろうと容赦はしない。
 そんな覚悟を視線に込めて相手を睨み付ける。彼女はそんなシグナムの敵視を正面から受け止め、その双眸を鋭く光らせた。

「――私が十一年前……暴走した闇の書に家族を殺された人間だとしても?」
「――……っ…!?」

 ――それは、想像すらしていなかった問いだった。
 微かに滲む憎しみと怒りは決して偽りのモノでは無い。彼女は真実、夜天の書――闇の書を敵視している。
 だが――だが、シグナムが記憶している限りに於いて、そのような事例が起きたことは一度もない。
 ……ないはずだと思いながら、どこか確信を抱けない自分が確かに存在している事に、シグナムは剣を持つ手を緩めて――。

「――はぁぁぁああ!!!」

 ――直上から響き渡る声と共に放たれた砲弾がビルの屋上へと激突し、その根元から倒壊させてしまった。

「馬鹿野郎! 相手を前にして、なにボーっとしてやがる!!」
「あ…ああ、すまない」

 油断を出来るほど余裕があるはずはないと――忠告するように怒鳴り声を上げたヴィータに小さく返答を返す。
 例えどのような事情があろうと、いまこの瞬間に遠慮や躊躇が出来るほどシグナムたちに余裕はない。
 迷いを振り払うように頭を振り、倒壊したビルから逃れたであろう女性の気配に視線だけを追いかけさせる。

「これはちょっと……マズいかもしれないわね」

 そう遠くないビルの屋上に着地してみせた女性の声は、言葉とは裏腹に冷静そのものだ。
 シグナムとヴィータ――そして同じくやってきていたザフィーラの三人を見渡しながら、女性はその手にデバイスと思われる杖を展開した。

『――上空に転移反応あり。増援が来たわ』

 周辺の監視を継続していたシャマルからの念話が脳裏に響く。
 結界の直上から爆発するような魔力の奔流を感じた直後――結界の内部へと降り注いだのは光に包まれた少女と雷を身に纏った少女だった。

「アイツ……」

 呟くようなヴィータの声がシグナムの耳へと届く。
 二人の視線の先にはバリアジャケットに身を包んだ二人の魔導師――。
 高町なのはとその友人であると思われる金の髪の少女がそれぞれのデバイスを構えてシグナムたちを見据えていた。

「もう魔力が戻ったのか……呆れた回復速度だ。それに、あのデバイス――」

 形を変えているそのデバイスに取り付けられている部品を目にして確信を抱く。
 恐らくは前回の轍を踏まぬようにと準備をしてきたのだろう。
 見れば、ザフィーラの正面には一人の女性が立っている。
 使い魔と思われる女性は以前の襲撃でシャマルたちが蒐集を終えた相手だが、主の復調と共に魔力を回復させているはずだ。
 確かな意思を込めてシグナムたちと対峙する少女たちの凛とした姿を前に、傍に浮かぶヴィータはその手に持つ鉄槌を構えて声を上げた。

「なんであろうと関係ねえ!! 邪魔するつもりなら、ぶっ叩くだけだ!!」
「――とはいえ、多勢に無勢でしょう? 私も手を出させてもらうわよ」

 ふいに聞こえてきた声と共にシグナムの傍に立つビルの上に姿を現したのは、彼女たちの仮初めの主である白野だった。

「マスター……」
「騎士たちだけ戦わせて傍観するっていうのも後味悪いし、目的を達成できなければ意味が無い――違うかしら?」

 そんな彼女が視線を向けているのは、蒐集の対象であるリンディ・ハラオウンだ。
 相手も白野の視線に気付いたのか――その警戒は真っ直ぐに白野へと向けられていた。

「……いえ、どうかお気をつけて」
「ありがとう」

 本命を白野へと任せることを決意したシグナムはヴィータと肩を並べて剣を抜き放つ。
 手にした愛機、レヴァンティンを構えて見据えるは以前にも剣を交えた金の髪の少女――。

『――各個撃破だ。私は金の髪の少女。ヴィータは高町なのは嬢、ザフィーラは使い魔を――』
『――おう!』
『――心得た』
『シャマルはそのまま周辺の警戒を続けろ。撤退のタイミングは一任する』
『了解』

 時間的余裕が予想よりも遙かに短いことを実感しながら手早く確認を終える。
 開幕の狼煙は白野が放つ魔力弾――。
 幾重にも奔る閃光が宙を白く染め上げると同時、シグナムはヴィータと共に少女たちの下へと突撃を開始するのだった。

 

 

Episode 64 -譲れない想い-

 
前書き
本編第六十四話です。
 

 

 ずっと、もう随分と長い時間を彼女はそうして過ごしてきた。
 男が身につける宝石と共に在り続けて百年余り――。
 その道程を誰よりも身近に見ながら、それでも彼女に出来たのは眺め続けることだけだった。

 ――ありがとうございました。

 そんな言葉を、もう何度耳にしただろうか。
 繰り返される感謝の言葉とその後に約束された忘却の瞬間を、彼女はきっと誰よりも彼に近しい位置で眺め続けてきた。
 例えどれだけの人を助けようと、どれだけの組織を護ろうと、どれだけの国を救おうとも彼の旅路に終わりは見えなかった。

 いや――或いは、彼自身には既に終わりが見えていたのかもしれない。

 彼がどのような想いを抱き、何を求めて旅を続けていたのかは彼女にも推察する事しか出来ない。
 一心同体のようなモノだったとはいえ、彼女はそれでも確固たる"他人"として彼と共にあったからだ。
 どこまでいっても他人事――それでも、長い年月を共に過ごせばやがてそれも変わっていく。
 彼が見聞きするモノは彼女にとって見聞きするモノに他ならず、彼が体験する出来事は彼女が体験する出来事に相違ない。

 一方的な共有――それを彼女は、自身に許された唯一の自由として受け入れた。

 暖かな人々との交流も、血で血を洗うような凄惨な戦場も体験した。
 約束された滅びに絶望する人々や、信じていた全てに裏切られて絶望する人たちを見てきた。
 その全ては彼だけのモノであり、同時に彼女自身のモノでもあった。
 思考や在り方が似通っていたということも大きいのだろう。彼の行動について理解出来ないという事は殆どなかった。
 だからこそ、彼女は唯一彼の最後に納得する事が出来ずに慟哭した。
 
 ――どうして自分は彼を助けてあげられないのか。
 
 どれほど嘆き喚こうと、それが彼に届くことはない。
 満足したと零して地に倒れた彼を救ったのは、彼を見守っていた魔法使いと異世界の錬金術士――。
 けれど、例え身体が救われようとも、全てを果たした彼の心は空虚そのものだった。
 表向きは何も変わらない。その在り方も、その性質も何も変わってなどいなかっただろう。
 それでも、ずっと彼の傍で彼を見てきた彼女には分かっていた。彼が生きる目的を見失っているということを――。
 
 ――そうして生きる目的を見失ってしまった彼の心を救ったのは、何の変哲も無い小さな出会いだった。
 
 自身の鬱憤を余すこと無く吐き出す少女――。
 その嘆きに、彼はかつての想いを思い出した。
 決してそれが全てでは無い。その後のあらゆる出会いと再会こそが彼を救った全てだ。
 それでも、そのきっかけこそが大切だったのだと彼女は思う。
 己が力ではなにもできないのだと無力を嘆く少女――そんな彼女を男がどのような想いを抱いて見守っていたのかは痛いほど理解出来たのだ。
 
 ――ふと、小さな切っ掛けを得た。
 
 とある事件の最中、彼はその身に彼女の姿を具現化させるに足る膨大な魔力を浴びてしまう。
 彼自身の身に滞留していた膨大な魔力――それは彼自身の身に小さな変動を齎し、同時に彼と共に在った彼女にも変動を齎した。
 それに気付く事なく日々は過ぎていったけれど、彼と初めて別れたその夜――彼女は、自身の意思を外界に示せることを初めて知る。
 そうして彼の周囲で静かに起きていた異変を知り、迷うこと無く自身の姿を晒した彼女は少しでも彼のためになろうと行動を開始した。
 彼が今現在、何よりも大切に想う二人の少女のために戦う事が出来るように――。
 彼が運命の悪戯に嘆くような事にならないように、ただそれだけを願って彼女――岸波白野は世界を敵とすることを決意したのだった。





・――・――・――・――・――・――・





 振り上げた鉄槌の一撃――。
 それを相手の少女――高町なのはは以前よりも確実に受け止めてみせる。
 魔導の向上か技量の向上故か――どちらにしても、ヴィータが繰り出す攻撃は彼女が展開する障壁とデバイスによる防御を突破できていなかった。

「――今度こそ、お話聞かせてもらうよ!!」
「笑わせんな! やる気の新武装をぶら下げておいて話も何もねーだろうが!!!」

 声を張り上げ、相手の防御を打ち砕く勢いで武器を叩きつける。
 それを両の手に握ったデバイスで受け止めて見せるなのはの姿にヴィータは小さく舌打ちした。
 ――近接戦闘において、ヴィータは間違いなくなのはを凌駕している。
 速度、威力、技量――けれど、それを承知した上で彼女はヴィータの攻撃全てを防いでみせたのだ。
 以前の戦闘でも見せていた天性の空間把握能力に裏打ちされた反応速度と、デバイスを槍のように扱ってみせる技能――。
 そして、以前とは明らかに異なるその魔導――彼女が手にしている新デバイスに搭載されているカートリッジシステムこそが以前には確実にあった二人の差を無くしてしまっていた。

「問答無用で撃ち落とされるわけにはいかないから!」

 以前に彼女を仕留めた渾身の一撃さえも障壁で防ぎきり、なのはがその手に持つ杖を振るった。
 カートリッジの使用と同時になのはの周囲に出現する八つの魔力弾――。
 そのひとつひとつに込められた魔力は以前のそれとは比べるまでもなく強力だ。
 不規則な加速を伴って撃ち出された魔力弾は宙を舞うようにヴィータへと殺到してくる。
 迎撃の手は同じく八つ――宙に展開した鉄球に魔力を乗せて撃ち出したそれは同じく宙を駆けて相手の魔力弾全てを迎撃していく。

「――あなたたちが闇の書を完成させるために魔導師を襲っているのは知ってる。だけど、それはどうして?」

 激突の余波が収まると同時――風に乗って届いたのは敵意も戦意もない、ただの問いかけだった。
 ――善悪を正すでもなく、ただその理由が知りたいのだと彼女は言う。
 このような命がけの戦いの最中にそのような事を問いかけてくるというのは余程の馬鹿かお人好しか、或いは――。

「どうしてもこうしてもねえ。闇の書は完成させる――闇の書の騎士として存在している以上は当然の事だ」

 言葉を口にしてから一呼吸置いて思考を冷静に働かせる。
 相手の防御力は圧倒的だ。以前よりも数を増している複合障壁を身に纏い、カートリッジから供給される魔力を利用した鉄壁の防御壁――。
 そして、それらを有効に運用してみせる技量も相俟って彼女――高町なのはは、以前とは比べものにならないほどの強敵となっていた。

「――話はそれだけだ。止めたけりゃ、殺す気でかかってきな」

 元より語る言葉など持ち合わせているはずもない。
 この襲撃に余人を納得させるような正当性がないことなど百も承知なのだ。
 それでも――それでも、例え誰から恨まれようと、何を裏切ろうとも守りたいと思った光景がある。
 優しく笑うはやてと、そんな彼女を優しく見守る士郎たち――。
 争い続きの日々を送り、道具として扱われてきたヴィータたちが出会った暖かな光。それを失わないために戦うと決意した。
 それが主である少女を裏切り、自分たちに信頼と親愛を抱いてくれていた男を裏切る行為だったとしても……もう二度とあの日常に帰ることが出来ずとも、それでも護ると決めたのだから――。

「――とめるよ」
「――やってみな」

 相手がどんなつもりでこようと全て粉砕する。
 ――油断なく確実に。
 求める結果を得るために、ここで立ち止まる訳には行かないのだから――。


 -Interlude-


 空を駆け抜ける閃光――。
 そう形容するに足る圧倒的な速度を以て、少女が縦横無尽に襲いかかってくる。
 振るわれる刃は少女自身の速度と相俟って、交差する一瞬にすら気を抜けぬほどの鋭さだった。

「――以前とは動きが違うな。更に迷いなく……鋭い」

 互いに間合いを計るように距離を取る。
 距離が近すぎれば斬り合いは止まず、距離が離れすぎれば射砲撃を許してしまう。
 故に――シグナムにとって、少女とにらみ合いの出来る距離は極々僅かな空間しか存在していなかった。

「――鍛え直してきましたから」

 少女の静かな自信に満ちた声が風と共に届く。
 その構えに油断は無く、例えシグナムが不意打ちを仕掛けようとも少女は確実に対応してみせるだろう。

「我らを打ち倒すために…か?」
「止めるためです。どんな理由があっても、無関係の人たちを襲っていい理屈にはなりません」

 それは文句のつけようのない正論だった。
 例え誰かを救うためであろうと、無関係な他者を犠牲にしていい道理などあるはずがない。
 正義と悪という言葉を使うのなら、シグナムたちは紛れのない悪だろう。
 その自覚は剣を執ると決めた時から既に持ち合わせていたし、こうして客観的に自分たちの立場を鑑みても覆しようのない事実だった。

「道理だな。だが、元より他者に理解してもらおう等とは思っていない。止めたければ、我らを殺す気で掛かってくるといい」
「殺しません。私は貴方たちを止めたいだけです」

 迷いのない返答に眉根を寄せる。
 現代における魔導の運用が非殺傷に重きを置いていることはシグナムとて承知している。
 だが、これほどまでの腕前を誇る使い手が命のやりとりを覚悟していないはずはないと思っていたからこそ、目前の少女を前に落胆の息を零した。

「甘いな。その程度の覚悟ならば…悪い事は言わない――命を落とす前にこの場から去るがいい」

 奪い奪われる覚悟を持つ事は、戦場に立つ際の最低限の心構えに他ならない。
 それすら持ち合わせていないというのなら、少女のような幼き者がこうした場に立つことは止めておけ…と――。
 言葉にはせずに、ただ気遣いを乗せた言葉を少女へと向けた。

「覚悟はあります。これは問答無用の命のやり取り――だからこそ、私は命を奪わない覚悟を以て貴方とこうして対峙している」

 シグナムの言葉に対して真っ直ぐに応える少女の目に迷いはない。
 その言葉――あくまでも止めるために命を賭けるのだと告げる少女に、シグナムは僅かに息を呑んだ。
 戦いの結果としての死を受け入れ、それでも抗うのだと――迷いなく告げる少女の姿は、幼くとも一端の戦士そのものだった。

「……どうやら見誤っていたようだ。ならば、我が全霊を込めた剣――受けてみるか?」
「受けて立ちます。その上で、勝たせてもらいます」

 非礼を詫びる代わりに油断なく剣を構える。
 手加減はしない――全力で排除すると告げて構えたシグナムに対して、少女は同じく油断なくデバイスを構えた。
 或いは――このような形で出会っていなければ、この少女とは良き好敵手になれたかもしれない。
 そんな有りえたかもしれない夢想を脳裏の片隅から追い出し、シグナムはその手に持つ剣を構えて少女へと疾駆した。


 -Interlude-


 宙を飛び交い、互いに魔力を込めた拳をぶつけ合う。
 衝突の余波は確実に周囲の建造物を揺らし、或いは破壊していった。
 そんな光景を横目にザフィーラは女性と距離を保ったまま小さく息を吐いた。
 対峙する使い魔と思われる女性は以前に襲撃した時と比べて明らかに魔力は向上し、身体能力も底上げされている。
 恐らくは主であると思われる少女の影響だろうが、彼女自身の技量も決して侮れるものではなかった。

「――アンタも使い魔なんだろう? なら、主が間違ったことをしているならちゃんと止めなきゃだめじゃんかよ!」

 激した言葉には使い魔としての彼女の信条が透けて見える。
 彼女が主想いの使い魔である事に内心で笑みを浮かべつつ、ザフィーラは彼女から向けられるその視線を冷静冷徹に受け止めた。

「――間違っているというのは、罪の無い人を襲い、その魔力の源を奪うことか?」

 問いかけは静かに、けれど確信に満ちた声音で告げる。
 そんなザフィーラからの問いかけに、彼女は当然だといった様子で腕を振るって声を上げた。

「そうだよ。どんな理由があっても、無関係な人たちを無差別に襲っていい道理なんてないだろう!」

 お前たちの行為は間違っていると――。
 あまりにも当然の言葉に、ザフィーラは心の底から同意すると同時に覚悟を新たにする。

「その通りだな。故に我らは罪と知りつつもこうして行動をしている」
「だから、それが――」
「――だが、それでも我らにとっては間違いなどではない」
「――ッ!?」

 そうして――ザフィーラは決意と覚悟を込めて女性を見据えた。
 ――自分たちの行動が悪である事など百も承知している。
 それでも護るべき者のために戦うと決めた。どのような対価を支払おうとも、必ず果たしたい想いがあるからだ。

「守護の獣よ。貴様も主のためならば己が命を投げ出す覚悟――あらゆる敵を打ち砕く覚悟はあるだろう?」
「……ああ」

 問いかけに彼女は神妙な顔で答えた。
 互いに主を持つ身――その胸に秘めた誇りは同じだろうと視線を交わし合う。

「それは俺も同じだ。マスターが闇の書の完成を目指すのは己が野望の為非ず――故に、我らはマスターと共に戦うことに一片の迷いも無い」

 主であるはやてのためであれば喜んで血を流し、罪という名の泥に塗れよう。
 その果てにあの暖かな日常が残されているというのなら惑う理由などない。
 例えそこにザフィーラたちが戻れずとも、あの幼く優しい主に未来を残せるのなら本望なのだから――。

「……信念があるっていうんだね。なら、私は私の信じるもののためにアンタを止めるよ」
「それでいい。我らを止めたければ、全霊を賭けて挑んでくるがいい!」

 望む未来を手にするために己が力を振るう――。
 それこそが夜天の主に忠誠を誓う守護騎士たち全員の共通した想いだ。
 罪も罰もこの身に受ける覚悟はある。それが仮初めの主となってくれた白野に及ぶことも承知している。
 或いは夜天の主であるはやてや、その家族である士郎たちにも咎は及ぶかもしれない。それでも――それでも、定められた終わりを受け入れる事など断じて出来ない。
 閉ざされるとわかっている未来を座して待つぐらいなら、この手に罪を背負って戦い抜く。
 揺るがぬ覚悟と決意を両の手に込めて、ザフィーラは眼前に立ち塞がる使い魔の女性と再度激突するのだった。


 -Interlude-


 周囲を染め尽くさんとばかりに放たれる数多の速射砲――。
 それを最小限の動きで回避しつつ、躱しきれない射撃を障壁で逸らしていく。
 距離を保ったままの砲撃戦を演じながら彼女――リンディ・ハラオウンはその手に構えたデバイスを相手へと振りかざした。
 もしもの時のためにと持ち歩いていた氷結の杖――デュランダル。
 その杖に込められた大魔法は使えずともデバイスとしても優秀なそれは、リンディの魔法を通常以上に的確且つ強力に運用させてくれていた。

「――流石は管理局の提督さん。あわよくば押し切れるかもって思っていたけど、随分と戦い慣れしているようね」

 圧倒的な攻め手を展開していた女性――岸波白野が存外本気で感心したような声音でそう告げる。
 その理由――彼女が押し切れると判断したのは決して自惚れではない。
 白野が放つ光弾――彼女が手にする銃器型のデバイスから放たれるそれは、その一つ一つに膨大な魔力が込められている。
 なにより、その規模も鋭さも映像で見た士郎との戦闘で放たれていた砲撃とは比べるまでもなく抑えられているという事実――。
 それは彼女が本気では無いという証拠であり、現状でさえ凌ぐのが精一杯のリンディにとって、この状況を楽観できるほどの余裕はどこにも存在していなかった。

「貴女は、どうしてその闇の書を完成させようとしているのです?」

 そんな彼女のペースに呑まれまいと質問を投げかける。
 第一種危険指定遺物である闇の書を完成させる事の意味を本当に理解しているのかと――。

「どうしてもこうしてもない。必要だからそうするだけのこと――当然でしょう?」

 返ってきた答えは、彼女の本心などまるで感じさせない冷めたものだった。
 はぐらかしているのか、それともわかっていてそれでも完成を目指す理由があるのか――。
 どちらにしてもリンディたちが彼女たちの蒐集行為を認める理由にはなり得ないが、それでも士郎の恩人だという彼女が何を思って行動しているのかは無視できるものではなかった。

「それを完成させれば待っているのは破滅だけ。今ならまだ――」
「――もう手遅れよ。時間は止まってくれない。私に出来るのは、残された時間をただ精一杯に突き進むだけ」

 リンディの言葉に被せるように告げられたのは、それまでとは異なる彼女自身の想いが込められた真言だった。
 闇の書が齎すとされる力も破滅という結末も承知しているのだと――。
 それでも完成させなければならない理由があるのだと、言葉よりも彼女から向けられる視線が雄弁に語っていた。

「貴女は……」

 力強い意思を感じさせるその視線は決意に溢れていた。
 どこか覚悟を感じさせる表情とその視線――それがリンディも良く知る彼と似ていると確信する。
 かつて士郎に道を指し示したという少女が何を想い、何を覚悟して戦いの場に立っているのか――。
 凛として立つ彼女の姿からはしかし、其処に向けられた決意と覚悟を疑う余地など微塵も感じさせなかった。

「例え破滅を齎す可能性があると告げられても、既に砂時計の砂は落ち始めている。それを止める方法は今のところただ一つ――闇の書を完成させることだけなのだから」

 まるで他人事にも聞こえるその言葉に内心で首を傾げる。
 闇の書の主であるという彼女が口にしている"時間が無い"というのは一体何の事なのか――。
 それを説明するつもりはまるでないらしく、リンディと向かい合っている白野はただ真っ直ぐに視線を向けてきていた。

「……貴女の事情はわかりません。けれど、その闇の書を完成させることを見過ごすことはできない」

 告げるリンディの脳裏を過ぎるのは十一年前の光景だった。
 暴走した闇の書と運命を共にした最愛の人――。
 あの時抱いた後悔と絶望を再び誰かに背負わせるわけにはいかない。
 そんな想いと決意を込めて、リンディは白野に向けて真っ直ぐにデュランダルを構えた。

「完成させれば破滅を齎すという闇の書――貴女の言葉が真実なら、それは当然の選択ね」

 リンディに応えるように銃器を構える白野――。
 その視線は真っ直ぐにリンディへと向けられたまま、彼女は小さく息を吐いてその身に纏う気配を引き締めていった。

「わかっていて、それでも止まらないのですね」

 互いに引き金に手をかけた状態でにらみ合う。
 どちらが仕掛けても、その瞬間が戦いの再開を告げる号砲となるだろう。
 現状でリンディに許される最善手は、このまま持ち堪えること――。
 リンディは白野が本気で攻撃を展開する可能性を考えながら、持ち堪えて増援を待とうと決意する。

「――リンディ・ハラオウン。貴女は、一つの世界と一人の人間――どちらを選ぶ?」

 そんなリンディの考えを知ってか知らずか――。
 白野は銃口をリンディへと向けたまま静かにそんな言葉を口にした。

「……どういう意味です?」
「そのままの意味よ。多くの人が住まう世界と、たった一人の大切な人――そのどちらを貴女は選ぶのかしら?」

 どこか興味深そうに尋ねてくる白野の表情は僅かばかり笑みを刻んでいる。
 まるで苦笑しているようにも見えるそれは、リンディの敵意を削ぐには十分過ぎるほど場違いなものだった。

「それは……」
「躊躇は当然の事だけど、その選択を突きつけられた人に足を止める暇は無い。貴女が良く知るあの人――士郎も…かつて、そうして選択した」

 告げられた言葉は恐らく疑うまでもなく真実なのだろう。
 リンディがいつか士郎から聞いた話を鑑みれば、彼が選んだのは恐らく大切な人に違いない。
 その是非を問う資格など、当の士郎本人にしかないはずだ。
 だが、たった一人を救うために世界を犠牲にする――それは、極論すれば"悪"といってもいい選択だろう。
 如何にその当人にとって大切な存在であろうと、その一人のために多くの人たちを犠牲にしていい道理などない。
 それでも、その選択を突きつけられたのならお前はどうするのか――白野の問いかけに、リンディはかつての夫の姿を思い出しながら小さく首を振った。

「だから、貴女も同じように選択した…と?」

 問いかけに答える代わりに杖を再び構え直して臨戦態勢を整える。
 正面に立つ白野は浮かべていた苦笑を消して、ただ静かに納得したような表情を浮かべた。
 それが正しいのだと――多くを救う事を旨とするなら、一を犠牲にして九を救うことこそが正しいのだと言うように――。

「ええ、その通りよ。結果がどう転ぶのかはわからない。失敗するかもしれないし、成功するかもしれない――それでも立ち止まることはしたくないし、できないから」

 白野は世界ではなく大切な一つを選んだ――それが答えだ。
 闇の書の危険性も破滅の可能性も全て承知して、それでも叶えなければならない何かのために戦っている。
 確固たる信念を抱いて闇の書の完成を目指しているというのなら、もはや言葉で止まるはずがない。
 ――世界を滅ぼしてでも救いたいという"何か"が白野自身ではないことは目を見ればわかる。
 それが何なのかを知りたいと思う気持ちはあったが、それを白野に問いかける事に意味などない。
 結局のところ――リンディは闇の書の完成を見逃せず、そして白野たちは何があっても闇の書を完成させなければならない。
 ならば互いの立ち位置は明白にして絶対だ。歩み寄りの余地が無いのであれば、後は互いの主張を押し通すために戦うだけなのだから――。

「……全てを承知の上だというのなら、これ以上無駄な問いかけはしません。けれど、それでも私は私が信じる想いのために貴女を止めます」

 甘いと言われようと、理想論だと笑われようとも高らかに理想を掲げよう。
 ――大切なモノを護りながら世界も護っていきたい。
 傲慢で、それでいて身の程知らずなその想いを抱いてこれまでを生きてきた。
 危険に身を晒す以上、自身や親しい人が命を落とすことも覚悟している。
 抱いた悲しみや絶望は決して生易しくはなかったが、それでも自身のような思いをする者を一人でも減らしていきたい。
 手を引くことも、理想を捨てて自身の目前に広がっていた現実から目を背ける事も簡単だ。
 それでも歯を食いしばって戦ってきたのは、多くを救いたいという夢を仲間や友人――そして自身の息子と共に追いかけてきたからに他ならない。
 一人で無理なら二人。二人で無理なら十人で――。
 そうして理想を共にする仲間と共に駆けてきた十数年が決して甘い夢物語ではなかったのだと証明するために、今ここで退くことはできない。
 
「油断をするつもりは微塵も無い。そちらの援軍が到着する前に、目的は果たさせてもらうわ」

 向けられるのは絶対の意志――。
 己が信念を貫き通す強さを滲ませる白野の姿に士郎の面影を見たリンディは、小さく息を吐いて気を引き締めた。
 状況は変わらない――圧倒的に不利な形勢のまま何も変わりはしていない。
 それでも言葉を交わす前にもあった確かな決意は更に確固たるものとなってリンディの背を押してくれる。
 互いに譲れぬモノのため――リンディが白野に対して攻撃を仕掛けるのと、白野がリンディへ向けて引き金を引いたのは全くの同時だった。

 

 

Episode 65 -タイムアップ-

 
前書き
本編第六十五話です。 

 


 結界内での戦闘が開始して既に数分――。
 対象を結界内に閉じ込めてから既に十分程が過ぎようとしている。
 想定していた当初の予定時間を既に越えている現状に、シャマルは強い危機感を抱いていた。

「おかしい……あの子たちの参戦は兎も角として、管理局の動きが遅すぎる」

 如何に不意を突いた襲撃とはいえ、この地での蒐集は二度目だ。
 局員が滞在している地での蒐集だけに管理局による包囲を想定していたのだが、未だに姿を現しているのが当初から対処に当たっている四名だけというのは如何にもおかしい。
 罠か陽動か――そんな疑いをシャマルが抱くのと、展開していた探索網に無数の反応を捉えたのは偶然か必然かほぼ同時だった。

『――みんな、管理局の増援が近付いてきているわ。数はおよそ十五……速度も速い。展開されたら包囲される可能性が高いわ』

 得られた情報からの推測だが、念話を通して全員へと警戒を促すように届ける。
 返ってくる返事がないのは恐らく、結界内での戦いがそれぞれ切迫しているからだろう。

『……頃合いを見計らって閃光弾を放つわ。それを合図に離脱しましょう』

 出来る限り蒐集は継続するべきだが、無理をして捕縛されるような事態は避けなければならない。
 そんな警戒を抱くと同時――シャマルは自身の身体に絡みついてきた無数の光に目を見張る。
 まるで網のように重なり合う光の線――それは対象の自由と魔法を阻害する拘束魔法に他ならなかった。

「――そこまでだ」
「おとなしくしてください」

 直上から聞こえてくる二人分の声に視線を空へと向ける。
 そこには黒衣の衣装に身を包んだ黒髪の少年と、どこか中性的な顔立ちが特徴的な少年二人の姿があった。

「どうやってここに……」

 内心の動揺を零すこと無く、出来る限り淡々とした口調で言葉を発する。
 二人の少年はそのまま、シャマルの直ぐ目前にまでやってきて油断無く構えたまま視線を向けてきていた。

「ネタ明かしをしてやれるほど楽観的じゃ無い。ただ、僕たちには君の警戒網を抜ける方法があったと……ただそれだけのことだ」

 どういうわけか、黒衣の少年がどこか苦々しげに告げる。
 彼の隣に立つ少年が苦笑しているのが気に掛かったが、その考察をしていられるほど状況は優しくはない。

「――時空管理局執務官、クロノ・ハラオウンだ。君が闇の書を護る守護騎士の一人であることはわかっている。魔導師襲撃事件の重要参考人として、その身柄を拘束させてもらう」

 油断無く間合いを保ったまま冷静な声で告げる黒衣の少年――。
 クロノと――その名を聞いて、以前に士郎を勧誘した局の魔導師の名と一致する事を思い出した。
 同時に、彼の隣に立つ少年の格好が一般的な局の魔導師とは異なる旅装束を思わせるものである事――。
 そして以前に魔導師の少女――高町なのはと共にいたフェレットから感じた魔力を有していることから、もう一人の少年が士郎の友人であるユーノ・スクライアである事を確信する。

「執務官自らがこちらに手を回していいのかしら? 例え私を拘束しても、結界内の皆は決して手を緩めはしない。目標の魔力は確実に貰い受ける事になるわよ」

 先程までモニターしていた限りでは奮戦しているようだが、それも時間の問題だろう。
 如何に優れた魔導師であろうと、その魔力は有限――対する白野は"条件付き"とはいえ、引きずり出せる魔力はほぼ無尽蔵なのだ。
 最大出力こそ桁外れに高いというわけではないが、無尽の魔力供給に裏打ちされた強力無比な砲撃の嵐は並大抵の魔導師では対抗し得ないだろう。

「心配無用だ。あちらにはすでに援護が向かっている。少なくとも、僕たち二人よりも戦闘能力の高い男がな――」

 どこか信頼を含んだクロノの言葉を耳にして、咄嗟に脳裏に浮かんだのは先日も矛を交えた士郎の姿だった。
 以前の襲撃から一週間――その間にも管理局の追跡はあったが、そこに士郎の姿はなく、彼と再び相見える瞬間が訪れない事を密かに安堵していた。
 地球での蒐集を行う以上、彼が出てくる事も確かに想定はしていたが、こんなタイミングで彼を投入されれば戦局は一気に向こうへと流れていくだろう。

「……くっ!?」

 撤退するのなら今しか無い――彼が来るというのなら、状況が変わってからではもう遅い。
 だが、魔法を発動させようにも魔力の運用そのものを阻害されてはどうにもならない。
 幸い――本当に幸いだったのは、自身の姿を変えている手段が"魔法に依るモノ"ではないという事だけだった。

「――続きは護送先で聞かせてもらう。おとなしくしていてくれるなら手荒な真似はしない」

 抵抗したくとも出来ない状況を用意しておきながらの警告に僅かばかり口の端を歪める。
 即座に転送陣を用意しようとするクロノの徹底ぶりに対し、シャマルが"最後の手段"を使用するかどうかを迷った刹那――。

「――なに?」
「――えっ?」

 二人の少年の、どこか間の抜けたような声が耳に届いた。
 見れば、シャマルの視界に映る二人の姿がまるで波間に映した写真のように揺れ動いている。
 その異常な光景――それが目の錯覚では無く、実際にシャマルとクロノたちの間に存在している"空間そのもの"が揺れているのだと気付くのに然したる時間は必要なかった。


 -Interlude-


 轟く遠雷と爆発音。そして、空を照らす無数の魔力光――。
 それらを眺めながら彼――衛宮士郎は、小さく息を吐きながら意識を集中する。
 魔術による強化を施していない目では遠目に見える無数の光点が誰であるのかがはっきりとは見えないが、ただ当てるだけならそれでも十分だ。

「――済まないが、撃たせてもらおう」

 イメージするのはいつもと同じ、弓に番える矢――。
 魔術を満足に使用できない現状では愛用の弓を用意することは出来ないが、魔導によって生み出された魔力の剣を周囲に展開することは出来る。
 周囲の空間に展開した"矢"は総数四本――それは、なのはたちが対峙している相手の数と同数の最小構成だ。
 ――魔法の応用で生み出した"弦"に番え、限界まで引き絞る。
 そうして――目標に向けて撃ち出した矢は音速にまで達して飛翔していった。
 距離が離れていたからか、それとも前回の戦いである程度慣れてしまったからなのか――放った矢は、そのどれもが直撃する直前で防がれ、迎撃され、回避されてしまった。

「……流石と言うべきか、俺が甘かったのか――ともあれ、クロノからの依頼を果たすとしようか」

 呟きを残して地面を蹴り、ビルの屋上から屋上へと移動していく。
 全身に纏った"気"に不備はない。魔力による強化こそ施してはいないが、間違いなく全力で目的の場所へと向かう。
 見据える先には二人の女性――銃を構えたまま苦笑している白野と、疲弊した様子でありながら笑みを浮かべるリンディの姿があった。

「――そこまでだ、白野。ここから先は俺が相手を務めよう」

 対峙する二人の間――リンディの目前に着地すると同時に告げる。
 その言葉を耳にしていた筈の白野は未だ剣を構えていない士郎の姿に僅かばかり首を傾げ、納得したように小さく頷いていた。

「可能性としてはあるかもしれないと思っていたけど、まさか本当に貴方がこの場にくるなんてね。管理局って、もしかしなくても人使いが荒い?」
「さて、使えるモノならば猫の手も――というところだろう。見ての通りの半端な状態だが、この状況でなら然程問題にはならないだろうさ」

 前回の戦闘で得られた情報から白野たちが五人で行動していることはクロノたちに知られている。
 だからこそクロノは、なのはとフェイトがそれぞれ現場に向かった状況を利用して彼女たちの戦力を分散させ、各個撃破する策を用いた。
 なのはやフェイト、アルフがそれぞれ直接戦闘を行う騎士を担当し、自身が補佐を担当している騎士を捕らえる――。
 拮抗した状況になれば姿を現すだろう白野がリンディを狙うことすらも想定した上で――恐らくはリンディが内心で囮を望んでいた事を鑑みての事だろう。

「君たちの起こす事件を担当している執務官は優秀だ。今頃、結界外で待機している者は"彼ら"に捕縛されている頃だろうさ」
「……そう。目論見が甘かったことは認めるけど――」

 それで本当にいいのか――と、白野は言葉にはせずに視線で問いかけてくる。
 結界外に待機して他のメンバーの補佐に回っているのは、少女の姿に変装したシャマルだ。
 彼女が管理局に捕縛されるということは、シャマルを知るユーノやなのはから芋づる式にはやての存在を知られ、八神家全員へ捜索の手が伸びる事を意味する。
 それで本当にいいのかと――そう問いかけてくる白野からの視線を真っ直ぐに受け止めた士郎は、敢えてそれに応えることなく小さな溜息を零して見せた。

「――さて、選ぶがいい。素直に投降するか、一縷の望みに賭けて抗戦するのかを」

 両の手に魔力で構成した剣を二本ほど具現化し、構えながら最後通牒を言い渡す。
 迷いも憂いも見せずに告げた姿をどのように受け止めてくれたのか――白野は僅かに口の端を歪めるように笑みを零し、その手に持つ銃を構えた。

「あくまでも抗戦を選ぶ……か。リンディ――援護を頼めるか?」

 背後で乱れていた呼吸を整えていたリンディへと呼びかける。
 振り向かず、ただ言葉だけを向けたその要請に対して、リンディは一歩前へと踏み出してから静かに応えてくれた。

「――了解よ。それにしても……真打ちは遅れて登場するっていうけど、出来ればもう少し早く来て欲しかったところね」
「文句は君の子息であるクロノに直接言ってくれ。俺をこのタイミングで投入すると決めたのは俺ではなく彼だ」

 無限書庫での情報収集を一時中断する事も厭わず、士郎やユーノをこの戦いに参戦させる事を急遽決定したのはクロノだ。
 状況から補助役が結界外にいるだろうと推測していた彼は、自身とユーノをそちらへと配置し、ターゲットであると思われるリンディの護衛に士郎を指定した。
 魔術が使えずとも戦力になるとはクロノの言だが、確かにこの状況ならば白野を圧倒することは容易である。

「――切り札を使うべきかどうか迷っていたけど……どうやら時間切れのようね」

 白野の言葉を耳にして、隣に立つリンディが小さく息を呑む。
 目前の光景――魔力の発露も魔導の痕跡さえも見せずに揺らぎ始めた空間が白野の姿を覆い隠していく。
 その冗談のような光景を前に、士郎は咄嗟に展開した魔力刃と両手に持つ剣――都合三つを白野へ向けて投擲する。
 だが、白野へと向けて放ったソレは彼女へと到達する前に揺らぐ空間に飲み込まれてしまい、何処かへと消失してしまった。

「空間転移!? いえ……でも、これは――」
「残念だけど、貴女の魔力は諦めざるを得ないみたいね」

 驚くリンディに対し、どこか呆れた様子で呟く白野――。
 そんな二人を横目に、士郎は周囲で同じような状況に直面しているなのはたちへと視線を向けた。
 驚いているのが両者――というのは少しばかり違和感を与えてしまうだろうが、それでもどうやら間に合ったらしい。

「――撤退するのか?」
「ええ、これ以上はこちらが不利になるばかりだろうから退かせてもらうわ。またね、士郎」

 気軽に別れの挨拶を告げた直後――白野は元から其処にはいなかったのではないかと思えるほど静かに消えていった。

「結界は残ったままか……破壊工作が終わるまで待つしか無いな」
「……そうね」

 疲弊した様子のリンディは小さくそれだけを零してから地面に膝をついた。
 荒く乱れた呼吸――それは彼女がどれだけ必死になって白野と拮抗して見せたかを物語るようだった。

「彼女を相手に物量戦は分が悪い。よくも保たせたものだ」

 メルルが作成したという試作型の魔導炉――そこから生み出される魔力は理論上ではほぼ無尽蔵なのだという。
 ただし、それはあくまでも魔導炉を有している生命体が"生きている間"は――という限定条件付きだ。
 魔導炉から強引に魔力を引き出せば引き出すほど、それは術者本人へ多大な負担を与える。
 それは当然だ。なにしろ、魔導炉が魔力を生み出すための動力としているのは術者本人の"生命力"そのものなのだから――。

「これでも、"元"次元航行部隊の提督ですもの……」
「現役を退いて一週間余りの元提督だ。その戦闘勘は流石に錆び付いてはいなかったようだな」

 冗談めいた強がりに冗談のような言葉で応える。
 それをどのように受け止めたのかはわからなかったが、地面に膝をついたまま呼吸を整えていたリンディの表情は明るい。

「――士郎くん、リンディさん!!」

 遠くから声を上げて近付いてくるなのはと、その直ぐ傍を飛ぶフェイトとアルフへと視線を向けて小さく手を振ってみせる。
 同時に、彼女たちの更に向こう――結界に遮られた空に亀裂が入る。
 直後にガラスが砕けるような音と共に結界は粉々に消え失せ、途端に周囲の喧騒が耳に届くようになった。
 
「どうやら全員無事だったようだな」
「――うん」
「なんとか……」
「結構際どかったけどね」

 目の前に着地したなのはとフェイト、そしてアルフがそれぞれ答えながらバリアジャケットを解除していく。
 そんな彼女たちを前にして、それまで苦しそうにしていたリンディが何もなかったかのようにさっと立ち上がって見せる。
 自身の無事をアピールしているつもりなのだろうが、足下が微かに揺れているのは無理をしている証拠に他ならない。

「――とりあえず、リンディたちの家にでも戻るとしよう。クロノたちはこのまま周囲の探索に移行するだろうしな」
「そうだね。だけど、あの人たちの消え方……転移魔法のようだったけど、魔法じゃなかったんだよね?」

 なのはの疑問は魔導師であるならば当然のものだろう。
 いや――ネタが割れていなければ、恐らくは士郎自身も戸惑いを隠せなかったはずだ。

「何であれ、この場から消えてしまったのは事実だ。足取りが追えるかどうかは怪しいが、こちらとしては再び捜索から出直すしかないだろう」
「……そうね」

 呟くような言葉は直ぐ隣に立つリンディが零したものだった。
 空を仰ぐように見上げ、どこか悔しそうに――けれど決意を感じさせるその横顔からは、リンディの複雑な心境が感じ取れた。

「――何にしても無理はよせ。皆を心配させたくないという君の気遣いは立派だが、君が疲弊していることなど疾うに筒抜けだぞ」

 告げると同時に彼女の身体を横から支える。
 それが意外だったのか――気を抜いたリンディが再び腰を落とそうとする。
 そんな彼女を横から支えたまま、小さく溜息を零してからその身体を抱き上げた。

「――っ!!? し……士郎くんッ!?」
「歩けるほど回復してはいないのだろう? 心配せずとも、このまま街中を歩くほど野暮ではないさ。一先ず、目立たない小陰に移動して少し休むとしよう」
「……別に、士郎くんさえよければこのまま――」

 歩き出すと同時にリンディが何かを呟いていたが、途中で途切れた言葉の先が続けられることはなかった。
 一先ず提案に納得したのだと判断した士郎は、リンディを抱き上げたまま周囲から目立たない小陰へと移動する。
 不満そうに頬を膨らませていたなのはや苦笑気味のフェイト――呆れた様子を隠そうともしないアルフからの視線を受けながら士郎が考えていたのは先程の転移現象だ。
 ギリギリのタイミングとはいえ、頼んでいた事をきっちりとこなしてくれた彼女――メルルに対して、士郎は声には出さずに感謝を抱くのだった。


 -Interlude-


 空間の歪みを認識し、光に包まれたと思った瞬間――白野の目前に現れたのは、どこか古びた印象を与える見慣れたアトリエだった。

「――無事でしたか、マスター」

 背後からの声は、変装を解いたシグナムのものだ。
 見れば彼女の背後には同じく変装を解いたヴィータやザフィーラ、シャマルの姿がある。

「ええ、なんとかね。シグナムたちも随分と手を焼いていたみたいだけど、みんな怪我はしていない?」
「はい。それにしても、先程の空間転移は一体――」

 疑問の声にはどこか確証を求めるような響きがあった。
 魔力の発露や魔法の発動もなくあのような現象を起こせる人物――。
 そして今――こうして転移してきた場所が異相空間に構えられている見慣れたアトリエの目前だという事実を鑑みれば、答えは自ずと一つに集約される。

「――タイミングとしてはギリギリってところかな?」

 唐突に聞こえてきた声に振り返る。
 未だ何も存在していないその空間に僅かばかり揺らぎを認めた瞬間、淡い光と共に彼女――メルルリンス・レーデ・アールズが姿を現した。

「メルル……やはり、先程の空間転移は貴女が――」

 シグナムが得心が行ったというように告げると、メルルは柔らかな笑みを浮かべて小さく頷いた。

「前にシロウが戻ってきた時にね。もし次に貴女たちが海鳴で蒐集をする時には撤退の手伝いをしてやってほしいって頼まれてたの。だから、感謝するなら私じゃ無くてシロウにしてね」

 恐らくはこのような状況になることも想定していたのだろう。
 士郎なりに白野たちを気遣っての事なのだろうが、その先読みの深さには思わず感心してしまう程だ。

「……じゃあ、さっきのはメルルのアイテムなのか?」
「そういえば、ヴィータたちには今まで見せたことがなかったんだっけ? 元はトラベルゲートっていう移動用のアイテムなんだけど、それを応用して作ったアイテムだよ」

 ヴィータからの問いかけに、メルルは小さく頷きながら説明を始める。
 先程の現象は空間そのものに働きかけるものだという説明を皮切りにして、徐々に専門的になっていく説明を正面から聞かされているヴィータの表情は引きつっていくばかりだ。
 シグナムたちも基本的には理解出来ているというわけではないようだが、ともあれメルルのアイテムのお陰であの状況から離脱できたという事だけは理解出来たらしい。

「ありがとうございました。皆は兎も角、私はもう本当に危なかったから……」

 シャマルが頭を下げると、メルルは気にしないでといった様子で優しく微笑んでいた。

「魔法を封じられていたらどうしようもないでしょう? 変装用にあげたアイテムが役立ってよかったよ」
「はい、本当に……そうでなかったら、あの段階でユーノ君に正体がバレていたでしょうから」

 結界外のシャマルの元に現れたのは執務官のクロノとフェレット――ではなく、人間の姿をしたユーノだったらしい。
 シャマルの警戒網を抜けての不意打ちだったというが、恐らく彼らがそれを可能にした手段は――。

「流石のシャマルも、魔力を極限まで抑えた小動物二匹の動向を完璧に把握するのは難しかっただろうしね。見てた私としては面白くて仕方がなかったけど……」
「動物に……ああ、そういうことだったんですね。ユーノ君が海鳴にいる時に使っていた変身魔法を応用したんですね」
「みたいだね。私は周辺で"動いていた物体"全部を監視してたから気づけたけどね」

 さらりと言っているが、あの周辺全ての動いている物体がどれほど存在していたかなど考えるだけで頭が痛くなる。
 当人を除いた全員が苦笑いを零す中、メルルは両手の平を軽く叩き合わせてから真っ直ぐにアトリエの入り口へと指差した。

「ひとまずみんなお疲れさま。色々とあるだろうけど、まずは休みなさい。中でアリサが珈琲を用意して待ってるからご馳走してもらうといいよ」
「……わかりました」

 全員を代表するように答えたシグナムがゆっくりと歩き出す。
 そんな彼女についていくように歩き始めたヴィータたちを見送りながら、白野は小さく溜息を零した。

「私はちょっとメルルリンスと話があるから遠慮しておくわ。皆は先に入って休んでいてね」
「了解しました」

 簡単に挨拶をしてアトリエの中へと入っていくシグナムたちを見送ってからメルルへと視線を向ける。
 そこには先程のように優しい笑顔を浮かべたメルルの姿はどこにもなく、ただ呆れたように白野を眺めている錬金術士が立っていた。

「まったく――自重しなさいっていったでしょ?」
「仕方がないわ。思っていた以上に彼女……リンディは手強かったのよ」

 呆れを隠すことなく告げるメルルに本心からの言葉を返して思い返すのはつい先程まで戦闘していた相手――リンディの事だった。
 想定よりも遙かに熟達した腕前を誇る彼女に対して"リミッター"を解除した事を、メルルは見逃してくれなかったらしい。

「貴女の身体に埋め込まれている魔導器は試作品だから容易にリミッターを解除できる。だけど、それを多用したらどうなるのか……わかっているんでしょう?」
「わかっているわ。上手くいけば肉体の消滅――下手をすれば、私という存在そのものが消滅する可能性がある……でしょ?」
「魔力や気――世界によって細々と異なる性質を備えているものだけど、その根幹は生命力として共通している。それを燃料にして魔力を生み出すわけだから、それが完璧に枯渇すれば肉体そのものが消滅する可能性は極めて高いんだよ」

 そもそも白野の精神の受け皿となっている肉体は生命体としてはそれほど優れているわけではない。
 どれほどの身体能力や性能を誇ろうと、一人の人間として稼働する性能を発揮できていない未完成のホムンクルスでは負担が大きいのは当然の事だ。
 白野が士郎に対してリミッターを解除して行った砲撃の連射では一射ごとに死すら生温く感じるほどの苦痛を味わった。
 砲撃の連射等という無謀な魔導を行使していた負担も当然あったのだろうが、それ以上に自身の生命力を切り売りしていたからこその苦痛に他ならない。

「夜天の書が完成するまで保てばそれでいい。私が士郎のために出来ることなんて、これくらいしかないんだから……」
「シロウが知ったら止めると思うけど?」
「……かもしれないわね」

 告げて、何となく二人顔を見合わせて小さく笑い合った。
 彼に心配してもらえるというのは嬉しいが、彼に心配を抱かせるということでもあるため素直に喜ぶことは出来そうに無かった。

「そういえば、エヴァンジェリンは?」
「エヴァならはやてと一緒にすずかの家へお泊まりに行ってるよ」
「彼女は彼女で変わらず日常を満喫しているわね。こちらには一切協力しないって言ってたし、ある意味徹底しているわね」

 感心したように零すと同時にアトリエに背を向けて歩を進める。
 そんな白野を疑問に思ったのか――メルルは僅かばかり小首を傾げていた。

「どこへ行くつもりなの?」
「士郎がよく釣りをしていた埠頭よ。ちょっとね、そこに用事があるっていうか……話をしたい人がいてね。多分そこに姿を見せると思うから」

 迷い無くそう告げると、メルルは小さく小首を傾げた。
 白野が告げたそれだけの情報で、対象が一体誰のことなのかはメルルにも確信できないのかもしれない。
 或いは知っていてそうしてくれているのか――ともあれ、彼女は深く尋ねようとはせずに柔らかな笑みを浮かべて見送ってくれた。

「気をつけてね」
「ええ、ありがとう」

 簡単にそれだけを告げてアトリエの存在している空間から離脱していく。
 目指す場所は一つ――士郎となのはが出会った埠頭に向けて、白野は小さな覚悟を胸にゆっくりと歩き始めるのだった。

 

 

Episode 66 -終末の鐘-

 
前書き
本編第六十六話です。 

 


 アトリエの中で管理局の追跡が遠のくまで待機することになってから一時間――。
 事情を知りながらも変わらず、主であるはやてと友人として付き合ってくれているアリサが月村邸へと向かった後、シグナムたちは先の戦闘について各々想いを巡らせていた。

「――そういや、あの時なに話してたんだ?」

 疑問の声はヴィータから――戦闘開始の直前に、蒐集対象の魔導師とシグナムが交わしていた会話が気になっていたらしい。
 標的を前にして問答をするほどシグナムたちに余裕などあるはずがない……というのは守護騎士全員の共通した認識なのだから――。

「ああ……闇の書――夜天の書の事を聞かれた。我々は夜天の書の何を知っていて、何が目的なのかとな」
「……あたしたちは夜天の書の騎士だ。主のためにページを集めるだけじゃねえか。目的なんて言われたって、他に何があるっていうんだよ?」

 はっきりと告げるヴィータだが、その表情はどこか上の空にも見える。
 改めて問いかけられた時にシグナムも感じた小さな違和感――それを彼女も感じているのかもしれない。

「だが、何かが引っかかっていてな。彼女――リンディ・ハラオウンは闇の書の暴走で家族を失ったと……そう言っていた」

 決して見知らぬ他人というわけではない。
 彼女の名は士郎を通して聞いていたし、世話になったこともあるとも聞いていた。
 そんな彼女から向けられた鋭利な視線――そこには、闇の書に家族を奪われたという彼女の言葉を信じさせるだけの強い意志が感じられたのだ。

「なんにしても、今更後戻りなんてできねえんだ。シャマル――夜天の書のページは今どこまできてる?」
「543ページ……白野さんが手伝ってくれたおかげで私も蒐集に加われたから、それなりにペースアップしてきてるわ」

 様々な世界で主に魔獣を対象とした蒐集――撹乱も兼ねたそれを一週間続けてきたが、結果としては上々といったところだろう。
 メルルが用意する薬のおかげではやての体調も辛うじて維持できており、このままのペースでいけば十二月の半ば過ぎには蒐集を終える事ができる筈だ。
 メルル曰く、タイムリミットそのものが長くなるほどの効果はないと言っていたが、蒐集を終えるまでにはやてが変わらず日常を過ごせるというだけでも十分過ぎる。
 夜天の魔導書による浸食が主の命を奪う前に――そんな決意を改めて固めるシグナムの目前に、シャマルの手元から離れた夜天の書がゆっくりと浮かび上がってやってきた。

「……心配してくれているのか? 案ずるな……我らなら大丈夫だ」
 
 400ページを越えた時点で起動することの出来る管制人格――。
 主の承認を得なければ意思を表すことが出来ない筈だが、それでも"彼女"に届いていると信じて言葉を掛ける。
 
 ――誰が付け加えたモノなのか……この呪いの鎖はどうやっても私から外れん。

 夜天の書を眺めながら思い返すのは遠い過去――。
 戦火が広がる中、主の住まう古城の見張り台に立つ守護騎士を前に、彼女は腰まで届く銀の髪を風に靡かせながら続けた。

 ――時に主やお前たちすら危険に晒し、永劫続く望まぬ無限転生の宿命を強いることになる。お前たちには……本当にすまない。

 覆せない宿命を強いることを詫びるその姿はどこまでも清廉で、主のみならず騎士であるシグナムたちを心から心配しているかのようだった。
 そんな彼女に――シグナムたちが目覚めるよりもずっと昔から主であるはやてと共に過ごしている彼女に望まぬ結末を齎すわけにはいかない。

「主はやてを――あの優しい主を、お前に殺させるようなことはしない」

 今回の襲撃が成功していれば更に早く蒐集を終える事が出来たのだろうが、結果は結果として受け止めなければならない。
 ――いまさら自身の未熟を恥じる時間などあるはずもない。
 今はただ、主であるはやてを救う唯一の道標を目指して進んでいこうと――シグナムたちは夜天の魔導書を前にして決意を新たにするのだった。


 -Interlude-


 戦闘を終えて暫く――クロノから襲撃者である闇の書の騎士たちを捕捉できなかったという報告が届いた。
 魔力の痕跡も何も見つからないというその報告を聞かされ、待機していたなのはたちも解散する事に――。
 それから急ぎ無限書庫に戻るという士郎やユーノと別れたなのはは今――フェイトの家を後にして一人帰路を歩いていた。

『じゃあ、今日の戦闘で使った形態だけじゃないの?』
『――はい。形状変化は私とバルディッシュ、共に三形態ずつです』

 念話を通じた通信をレイジングハートと行いながら夕暮れに染まった道を歩いていく。
 確認するのは装い新たに生まれ変わったデバイス――レイジングハート・エクセリオンとバルディッシュ・アサルトに関する新機能についてだ。

『バルディッシュのブローヴァとクレッセント、私のアクセルとバスターカノンは通常形態。そして三つ目が――』
『――フルドライブ……エクセリオンモード』
『はい、その通りです』

 改良されたレイジングハートには、なのはと常に魔力を循環させることで安定した魔力維持を可能とするユーザークロスリンク方式が採用されている。
 常になのはの魔力を消耗している形になるのだが、待機形態であるペンダントの状態では魔力負担も最小限に抑えられており、なのはやレイジングハートの負担はもっとも少ない。
 通常形態であるアクセルモードと呼ばれる杖の形状となった際には飛翔や防御、弾道制御に対する補助を行うために適した魔力運用を――。
 そして、一見すると槍のような形状となるバスターカノンモードでは、砲撃の射程や威力に重きをおいた砲撃特化の補助が優先されるようになっている。
 そして三つ目の形態変化であるエクセリオンモードはユーザークロスリンクを全開で運用し、循環する魔力をなのはの能力強化にのみ限定させることで強力な戦闘能力を得る事を可能としている。
 代償は安全性能――限界までカットされた安全性は術者であるなのはだけではなく、レイジングハート本体にも多大な負担を強いることになる。

『切り札……ってことだよね』
『はい。マスターが望む勝利を掴むために』

 仕様決定は主にレイジングハートの要望を主軸にして行われている。
 その際の細々とした調整には士郎やマリエルの意見が取り入れられているが、エクセリオンモードに関してはノータッチなのだという。
 マリエルは安全性の面から搭載を躊躇していたらしいが、士郎の後押しとレイジングハートの強い希望を叶える形となったらしい。

『……頑張ろうね、レイジングハート』
『はい』

 互いの意思を確認し合うように告げて、なのはは小さく頷いた。
 止めるための力――その意味と重みを自覚しながら、変わらず平和な街並みを歩いていく。

「――ちょっと寄っていこうかな」

 一人呟きを零しながら家路を外れて見慣れた道を進んでいく。
 次第に感じられるようになった冷たい潮風に誘われるように歩を早め、見えてきた埠頭へと辿り着く。
 そうして埠頭の先に立ったなのはの目前には、夕暮れに照らされた穏やかな海がどこまでも広がっていた。

「――綺麗な光景ね」

 ふいに耳に届いたのは、どこか聞き覚えのある女性の声だった。
 振り返ってみれば、そこには見覚えの無いセーラー服に身を包んだ女性が一人――。
 格好こそ学生そのものだが、彼女が身に纏う気配や強い意志を感じさせる双眸は何処から見ても一般人のそれではない。

「あなたは……」
「岸波白野。士郎から少しくらいは話を聞いていない?」

 その名を耳にして思わず身構えようとするが、どこまでも毒気の無い彼女の視線を受けて思い止まる。
 如何に蒐集が魔導師一人につき一度だけとはいえ、再び襲われる可能性は全く否定できない。
 これまでの経緯を考えれば、本来は直ぐにでもリンディやクロノに報告をするべきなのだろうが――。

「聞いています。あの……今日はどうして――」
「うん? ああ、どうしてここに来たのかってこと? それはもちろん貴女に会うためよ。闇の書の主としてじゃなく、ただの岸波白野としてね」

 潮風に揺れる髪をそのままに白野は淡々とした口調で目的を告げる。
 その容姿とは裏腹にぶっきらぼうな態度はどこか士郎を思わせ、なのはは僅かな警戒だけを残して真っ直ぐに彼女と向き合った。

「ここは貴女が士郎と出会った場所ね……今もよく通っているんだっけ?」
「えっと……はい。でも、どうして――」
「見ていたかのように知っているのか…でしょ? その理由を話す前に――まずはお礼をさせて」

 隠し事をするつもりはないといった様子で苦笑気味に告げる彼女が姿勢を正して真っ直ぐになのはへと視線を向けてくる。
 直後――彼女はゆっくりと……なのはに感謝を示すようにゆっくりと頭を下げた。

「――ありがとう。貴女のおかげで士郎は士郎として生きていけるようになった」

 どうして感謝されるのか――その理由に心当たりはなくとも、目前の女性が心から感謝を告げてくれている事だけは真実だ。
 戸惑いよりも沸き上がってくる暖かな気持ち。それに後押しされるように、なのはは小さく頭を振った。

「私はなにも……ただ、自分がこうしたいって思う事をやってきただけです。私のほうこそ、士郎くんにはいつもいつも助けてもらってばかりで……」
「貴女が貴女自身を卑下する必要なんて何処にも無い。誰だって最初から何もかも出来るわけじゃないし、それは士郎だって同じよ」

 未熟な頃は誰にでもあるのだと……そんな当然の事を彼女は噛み締めるように告げる。
 理屈では分かっているつもりだったが、普段の士郎を見ているとそうした姿を想像することは非常に困難に思えた。

「まあ、そうはいっても私も士郎が未熟だった頃というのを直接知っているわけではないけどね」
「岸波さんは……その、士郎くんとは昔馴染みなんですよね?」

 これまで少しずつ降り積もっていた僅かばかりの疑問を乗せた言葉を口にする。
 余りにも見た目の年齢と乖離した経験値と能力――それは、特に問い詰める理由がないからと尋ねることさえしなかった小さな疑問だった。

「そうね。もう随分と古い付き合いになるけど、彼とは色々とね……その辺り、士郎は何か言っていなかった?」
「えっと……自分が剣を預けた唯一の女性だって言っていました」

 それはつまり士郎が彼女のために彼女と共に戦ったという事であり、同時に士郎が彼女の往く道を傍らで支えたということ――。
 岸波白野という女性が進んでいく道を切り開く剣となったのだというその発言は、士郎にとって白野がどれだけ特別な存在だったのかを物語っている。

「勘違いしているかもしれないけど、私と彼が契約関係を結んで共に戦うことになったのは成り行きよ。彼がそうしたいと望んでそうなったわけじゃない」

 まるでなのはの内心を読んだように告げる白野の表情は明るい。
 海風に靡く髪をそのままに、彼女はゆっくりと息を吐いてから静かに瞑目した。
 なにかを覚悟しているような――そんな表情を浮かべたまま口を閉じてしまった白野の姿は、なのはの目から見ても酷く儚げに見えた。

「――もうすぐ闇の書は完成する。そうなっても何も起きないかもしれないし、何かが起きるかもしれない」

 唐突に口にしたのは予言ではなく、ただの宣告だった。
 闇の書の完成はもう誰にも止められない……と、そう告げる彼女こそが闇の書の主だというのに――。

「まるで……他人事のように言うんですね」
「主に力を齎す魔導書――でも、管理局の魔導師には確実な破滅を齎す魔導書だと言われたわ。その事については騎士たちも心当たりがないみたいだったけど、無視できる内容でもないでしょう」

 なのはの言葉を肯定することも否定することもせずに至極尤もな言葉を口にする。
 そんな彼女の言葉からは嘘など微塵も感じられず、静かに語るその姿をなのはは黙って眺め続けた。

「だからといって完成を諦めることは出来ないし、かといって致命的な事態を引き起こしたいわけでもない。それでも、もしもの時のために貴女には伝えたいことがあったから……だからこうして姿を現したってわけ」
「どうして私……なんですか?」
「今回の事件に直接関わっている人間の中で、一番士郎の身近にいられそうなのが貴女だから――そんな答えじゃ納得できないかしら?」

 個人的な見解だけど……と。そんな断りを入れながら、それでも白野は閉じていた目を開けて真っ直ぐになのはへと視線を向けてくる。
 絡み合う視線――そこに虚偽や虚飾は感じられなかった。
 だからこそなのはは、ただあるがままに彼女の言葉を受け止める事を決めて、ゆっくりと静かに頷いて見せる。

「……わかりました。それで、私に伝えたいことっていうのは?」
「私が見てきた士郎の過去――彼が私と出会ってから、貴女と出会うまでの過去を貴女に伝えておきたいの」

 どくん……と、鼓動がやけにはっきりと聞こえた気がした。
 人の過去を詮索するのはよくないとわかっていても、士郎の過去に対する興味がなくなるわけではない。

「貴女がそれを見て、何を感じて何を思うのか――それを強制するつもりはないから安心して」
「でも、それは……」
「私はただ、私が見てきた士郎の過去――つまり私の過去の記憶を貴女に伝えようと思う。私が私の記憶を伝える事を決めたのだから、貴女はそこに罪悪感を抱く必要はないわ」

 士郎の過去を士郎本人の肖り知らぬ所で知る事に尻込みしていることがはっきりとわかったのだろう。
 彼女はあくまでも自身の記憶を伝えるだけだと告げ、罪悪感に揺れるなのはに対して気遣いをしてくれている。
 後はあなたの覚悟次第だと――向けられる視線に込められた意思を正しく受け取り、なのはは迷いを振り払ってはっきりと頷いた。

「――聞かせてもらえ……ううん、聞かせてください」

 あくまでも彼女の過去を聞くのは自分の意思で決めた事だと告げるように言葉を言い直す。
 それがどう受け止められたのか――白野は一瞬だけ意外そうな表情を浮かべた後、柔らかな笑みを浮かべて小さく頷いた。

「言葉にして伝えると時間が幾らあっても足りなくなる。だから、貴女には直接私の記憶を見てもらうわね」
「直接って……そんなことができるんですか?」
「媒体無しだと少し難しいけど、出来ないわけじゃないわ。一応これでも魔術師(ウィザード)の端くれだし、多少の距離はあっても"繋がっている"から」

 どういう事なのかは詳しくわからなかったが、問題はないと当人が言う以上は問題はないのだろう。
 そう思い直したなのはは、小さく手招きをする彼女の傍へと静かに歩み寄った。
 そっと伸ばされた華奢な手がなのはの頭部付近へと掲げられた瞬間――白野が呟いた何らかの言葉と同時に、それまで感じられていた潮の香りも冷たい風も感じられなくなった。
 五感が麻痺したわけでも意識を失ったわけでもない。ただ、一瞬のうちに見知らぬどこかへとやってきただけ――。
 どこまでも闇色にしか見えないその只中――どちらが上でどちらが下なのかさえ分からない深淵に向けて一筋の光が墜ちていく。
 そんな光景を眺めながら、ふいにその光こそが奈落へと墜ちていく白野だと確信する。
 どれだけの時間をそうしていたのかは客観的に眺めているなのはにもわからなかったが、そうしてどこまでも墜ちていく彼女はその最中に小さな光と出会った。
 小さな光――それが見知った男であることは間違いなく、互いが交わす言葉は耳からではなく、直接なのはの意識へと届く。

 ――俺は約束を果たすために。君は自分の願いのために。

 彼は告げて手を伸ばす。
 応えるように白野も真っ直ぐに手を伸ばした。

 ――呼んでくれ。一度だけでいい。たった一度だけ、君の声で俺の事を。

 名を呼べと彼は言う。
 けれど、どれだけ呼びたくても知らなければ呼ぶことは出来ない。
 それに気付いた彼は己が名を名乗り、彼女はその名を以て彼との契約に成功した。
 互いの状況――互いが抱く目的を叶えるため、合致するそれらを糧に結ばれた仮初めの契約――。
 それこそが岸波白野と彼――衛宮士郎が出会った瞬間であり、同時に彼がそれから歩んでいく長い旅路の始まりでもあった。


 -Interlude-


 巨大な壁のように聳え立つ本棚を順番に探っていく作業に没頭して既に二日――。
 ユーノと共に無限書庫に篭もっていた士郎は、扱い慣れてきた探索魔法などを駆使して闇の書――夜天の書に関わる資料を探していた。

「――この付近にはベルカに纏わる逸話や伝説を記した本が多い。となれば……」

 本の中身を魔法を使用して確認していくが、中々目的のモノは見つからない。
 それでも、これまでユーノと共に探ってきたお陰で随分と捜索範囲は狭まっている。
 それから更に二時間――ふいに手にした一冊の本に、ようやく目的の情報を見つけることができた。

「――士郎。この本に闇の書に関する記述が見つかったよ」

 同じように本を探っていたユーノが、手にしている二冊の本を掲げて告げる。
 そんなユーノに応えるように、士郎も同じく本を手にしてユーノに向けて掲げて見せた。

「こちらでも見つけた。まだ幾つかあるかもしれないな」
「それなら、探せるだけ探したら情報を纏めてクロノに報告したほうがいいかな?」
「そうだな……まずはこの周辺を洗いざらい調べてみよう。作業を終えたら対象の資料だけを集めて情報の整理だ」
「うん、わかった」

 互いに作業を確認し合ってから再び本棚へと向き直る。
 そうして探索を続けること更に一時間――二人合わせて幾つもの書籍と映像記録を確保した士郎とユーノは、それらを集めて必要な情報だけを抜き出していった。

「僕たちが闇の書と呼称していたロストロギア……その正式な名称は夜天の魔導書―――」
「元は各地の偉大な魔導師の技術を収集して研究するために作られたようだな。主と共に旅をする魔導書……か」

 夜天の魔導書に関して記された記述や記録に目を通しながら情報を纏めていく。
 確信に迫っていることを強く実感しながら、それでも焦りを見せることなく努めて冷静に情報に目を通す。
 纏まった資料として残っているものは極めて少なく、細々とした記録を幾つも繋ぎ合わせなければならない。
 そんな作業をユーノと二人で行った士郎は、新たになってきた夜天の魔導書の真実に思わず歯を食いしばった。

 ――夜天の魔導書。

 正式な名前が分からなかったために管理局によって暫定的に闇の書と呼称されたその魔導書は本来、調査と研究を旨とする魔導書だった。
 それが破壊の力を振るうようになったのは遠い過去――恐らくは所有者となった歴代の主の誰かがプログラムを付け加えた事が原因だろうと推測出来る。
 闇の書が備えているという無限再生機能や転生機能は本来、収集した記録の劣化や喪失を防ぐ為に備え付けられていた復元機能に過ぎないのだと――。

「――なるほどな。そうした改変の果てに元来備えていた各種の機能が破損…もしくは変質した結果が今の闇の書の姿というわけか」
「それだけじゃないみたいだよ。主に対する性質の変化――ある程度の期間蒐集が行われないと、持ち主のリンカーコアを侵食して死に至らしめ、完成したらその魔力で破壊を呼び起こす……」

 どこか気遣わしげな視線がユーノから向けられているのは決して気のせいではないだろう。
 闇の書の主であろう岸波白野が、衛宮士郎にとって見知らぬ他人では無いと知っているのだから――。

「その全ての原因となっているのが、自動防衛プログラム――ナハトヴァール」

 それこそが所有者への浸食と暴走を引き起こす要因であり、闇の書を闇の書たらしめている元凶そのものだ。
 その上、完成前のシステムに外部からの手が及んだ場合は即座に主を吸収して転生してしまうという機能を持つため、完成前の封印も事実上の不可能とされている。
 破壊しても再生……或いは転生し、あらたな主の元で蒐集を行って魔導師や魔法生物などに多大な被害を齎す。
 そうした犠牲の果てに完成したとしても、本来の性能を取り戻した際には所有者と融合し、そこで必ず融合事故を引き起こして暴走――周辺の次元世界を巻き込むほどの大災害を生み出してしまう。
 仮に所有者が蒐集を良しとせずに魔力の蒐集をしなかったとしても、所有者へと浸食して命を脅かし、蒐集を強いる。
 それを食い止めようと魔導書本体に手を出せば即座に所有者を吸収し、再び転生――。
 果て無き旅路……繰り返される終わりの無い破滅の輪廻――それが夜天の魔導書に宿命付けられた永劫の呪いだった。

「……闇の書には守護騎士だけじゃなく、メインの管制融合システムがあるみたいだ。闇の書の意思……と言うべきユニットが存在しているらしいよ」

 告げてユーノが目前に展開した映像記録には、闇の書――夜天の魔導書を片手に佇む銀髪の女性が映っていた。
 どこか諦めにも似た表情を浮かべ、その赤い瞳で周囲を見据える女性こそが夜天の魔導書そのものとも言える存在なのだという。

「完成した直後は彼女が表に出ているらしいけど、一定時間が過ぎると自動防衛プログラムであるナハトヴァールが優先になるみたいだね」
「そうして暴走の果てに周辺の全てを巻き込み、主の死と共に再び転生する……か」

 蒐集こそがはやてを救う道だと信じている守護騎士たちの直感はある意味で正しかったとも言える。
 ――だが、彼女たちは恐らく、この結末に関する記憶を有していないのだろう。
 こんな記憶を有しているのなら、あの四人がはやてのためにと日常を捨て去ってまで蒐集を行うという選択をするはずがない。

「――ユーノ。君の意見を聞かせてもらいたい。闇の書と主を繋いでいるのは魔法によるものだと思うか?」
「どうだろう……恐らくはもっと物理的というか、密接に繋がっているんじゃないかな。多分、主のリンカーコアそのものと言い換えてもいい位には……」

 それが魔法による効果や契約に依るモノでは無いとユーノは告げる。
 そこまでは士郎も推察していたことで――その推察を前提に士郎は唯一の光明を探るように再度尋ねた。

「――では、闇の書が完成した直後の融合時はどうだ? この時もやはり変化はないと思うか?」
「質問の意図は分からないけど、恐らく違うんじゃないかな。闇の書が完成した後に管制融合システムと持ち主が融合するのはれっきとした魔法現象だしね」

 一度完成した闇の書は、魔導書としての本来の姿を取り戻す。
 つまり、主と分離した後にユニゾンデバイスと呼ばれる真の姿へと変わり、改めて主と融合することで絶大な力を振るうようになる。
 そしてそれは間違いの無い魔法現象だと告げるユーノの言葉は、今の士郎にとっては唯一の道標に他ならなかった。

「……それならば、或いは打つ手がある……か」

 再び資料の纏めを再開したユーノには聞こえない程度の小声で呟いた士郎は僅かに瞑目し、自己へと埋没する。
 確認するのは自身の魔術回路――。
 蒐集から一週間――未だ強く後遺症を残していると"思わせていた"それを静かに精査していく。
 少しばかり大げさに受け取られるように演じてきたが、実際はもう殆ど完調と言っても問題ない程度には回復している。
 残っている不調とて、自身の身の安全を度外視すれば然したる問題にはならない程度だ。
 宝具の投影も真名の解放も行えるとなれば或いは――夜天の魔導書が完成した直後にこそ、はやてを救うための手段を用意する事が出来るかもしれない。
 契約を断ち切り、あらゆる魔術を初期化する宝具――破戒すべき全ての符(ルールブレイカー)
 融合現象が魔法現象だというのなら、可能性は低くとも融合そのものを初期化――つまり解除できるかもしれない。
 そうなれば少なくとも融合事故は塞ぐことができ、その後に続く暴走を食い止めることの出来る可能性が見えてくるはずだ。

「ユーノ。後の作業を任せても大丈夫か? 俺は――」
『――ユーノ。そこに士郎はいるか?』

 地球に戻り、白野たちに情報を知らせるため――ユーノに作業を任せる旨を伝えようとした瞬間、目前にクロノからの通信パネルが表示された。
 向かい合って作業をしていたユーノの姿は向こうにも見えているらしく、ユーノが答えるよりも早くそちら側へと回り込む。

「ここにいる。焦っているように見えるが、何かあったのか?」
『良くない知らせだ。つい先程、地球の海鳴市付近全てを覆う巨大な結界の展開を確認した』

 街全てを覆う巨大な結界――それが展開される直前と直後に強大な魔力の奔流を観測したのだという。

『――現場付近にいたなのはとフェイトから緊急で君に伝えて欲しいと通信があった。事態の中心地は……君が住んでいるという家だと――』

 それはつまり――事態は想定よりも幾分も早く進んでしまったということに他ならない。
 八神家を中心として発生しているという巨大な結界の中にはこれまでを共に過ごしてきた家族が――。

「クロノ――俺はこちらから直接地球へ向かう。手続きと準備を頼めるか?」
『了解だ。君の転送終了後、アースラはアルカンシェルの搭載作業が完了次第地球へと向かう』

 ――高出力魔導砲アルカンシェル。
 それは極めて広範囲の空間を歪曲させ、反応消滅を起こす強力無比な魔導砲で、必要な事態が起こると予想される場合のみ特別に巨大艦船に搭載されるものだ。
 闇の書が暴走を開始し、周辺の世界を巻き込む前に破壊するためのものだろうが――。

「了解した。ユーノ――君は今現在分かっている情報の全てを急いで纏めて、クロノかエイミィに届けてくれ」
「わかった! 気をつけて」

 挨拶もそこそこに無限書庫を後にする。
 すっかり見慣れてしまった本局内を走りながら脳裏を過ぎるのは八神家の皆と白野の姿――。
 最悪の結末を覆すため、士郎は自身が持ち得る全てを以て対処する事を心に誓いながら転送ポートへと向かうのだった。
 
 
 

 

Episode 67 -絶望の帳-

 
前書き
本編第六十七話です。 

 


 ――夢を見る。
 赤く染まった丘で独り佇む男の夢を――。
 どうしてそうなったのか――どうしてそんな道を歩き続けたのかはわからない。
 男には確かな誓いと決意があり、目的も願いも確かにあった。
 傍から見ていて破綻しているものなど殆ど無い。
 唯一首を傾げるのはその境遇――まるで世界から拒絶されているかのような立ち位置だけだ。
 誰からも忘れ去られ、忘却の果てに世界の敵となって討たれた英雄――。
 全身を貫かれ、致命となる傷を浴びるほどに受けて――それでも男は立っていた。
 
 ――ああ、だけど……これならきっと胸を張れるよな。
 
 零れたその声は誰の耳に届く事もなく消えていく。
 そうして、男は旅を始める前からもうずっと――只の一度も手放すことのなかった剣から手を離した。
 倒れる身体を食い止める力は既に無く、男は達成感に満ちた表情を浮かべて虚空を見据える。

 ――多くの人を救ってきた。

 直接その手で救った人の数でさえ尋常では無い。
 間接的に救った人を含めれば、恐らくは地球上に存在する全ての人の数さえ越えるかもしれない。
 もちろん救えなかった人もいただろうし、彼が行動することによって救われなかった人も確かにいたのだろう。
 それでも――日々を生きる人々の他愛の無い日常こそが尊いとして、あらゆる理不尽と戦い続けた英雄であるという事実に変わりは無い。
 そんな彼に与えられた結末に、一体当人以外の誰が納得できるというのだろうか――。
 ――余りにも報われないその人生と結末。
 けれど、死を目前にして空を見上げる男の顔はどこまでも満ち足りていて――。
 そんな彼を眺め続けるだけの夢を見ながら、彼女――八神はやては、今日もまたゆっくりと目を覚ましていく。

「――ん……もう朝なん?」

 目覚めは朝日と共に。決して快適とは言い難い覚醒に、はやては僅かに表情を曇らせた。

「……またこの夢や。幾らわたしがのんびりしてるっていうても、流石にこうまで続けて見てたら嫌でもわかるけどな……」

 始まりは二月近く前――丁度、士郎が管理局の仕事を引き受けて八神の家を後にした翌日からだ。
 ――最初はただの夢だと気にも留めなかった。
 それが数日続き、どうやら夢の中に出てくる人物が士郎であることに気づいた。
 士郎と離れたことによる寂しさからのものだと思っていたが、それからの一週間で夢の内容が地続きに進んでいるものだと気づき、これがただの夢ではないと悟った。

「……まあ、夜天の書みたいな魔法の本があるくらいやから、これくらいの事はあるんかもしれんけど――」

 努めて軽い調子で独り事を零すが、自身の表情が強張っていることなど鏡を覗くまでもなく明白だ。

「士郎の過去……きっと、その筈なんや……でも――」

 そうだと断定するには幾つかのピースが足りない。
 夢に見る士郎は今とは異なり、どうみても成人を過ぎた大人の姿をしていた。
 とはいえ、姿形を変える魔法があることは承知してるため、それ自体はさほど大きな疑問ではない。
 だが、彼が辿った道筋はあまりにも長く、同時にはやて自身そんな英雄じみた人物が存在しているという話は一度も耳にしたことがない。
 仮にそれらが全て世界の裏……表沙汰にならない場所での事だったとしても、彼があの赤い荒野で――。

「う……あかん、思い出したら……こんな…………」

 堪え切れないほど痛む胸と溢れる涙を止めることが出来なくなる。
 恐らくは断片的にしか見ていないはずの夢――それでもその内容は、士郎の家族を自認するはやてにとってはあまりにも衝撃が強いものだった。

「――はやて。起きているのか?」

 ふいに自室の扉向こうから聞こえてきたエヴァの声にハッとする。
 零していた涙をそのままに、僅かばかり呼吸を整えて小さく発声し、声を揺らさないことだけに注意して精一杯の明るい声を絞り出す。

「起きてるよ~。すぐ行くから、リビングで待っててな」
「ああ、わかった」

 遠ざかっていく気配に安堵の息を吐き、未だ溢れている涙を拭ってからベッドの脇に停めてある車椅子へと移乗する。
 いつものように着替えを済ませ、簡単な身支度を済ませる間に涙は止まってくれたが、胸の痛みだけは消えてはくれなかった。

「――おまたせ、エヴァ。今日はどうする?」
「緑茶で頼む」
「了解や。朝ご飯の用意もすぐにするから、ちょう待っててな」

 リビングへと移動して、この二ヶ月近く殆ど毎日のように交わしてきたやりとりを終える。
 士郎がいなくなってからの習慣だが、これも今となっては満更でもない気がしていた。

「――ふむ」

 用意した緑茶を満足そうに飲み下していくエヴァの様子を眺めながら、以前よりも大人びた姿にも随分と慣れてきたものだと苦笑する。
 彼女がそれまで通っていた学校を辞めてから十日余り――。
 正確には母国としているフランスへ帰国したとしているらしいが、その理由については教えてはくれなかった。

「そういえば、今日はみんなもう出かけたん?」
「ああ。今日の夜は皆で久しぶりに鍋をすると言っていただろう? そのために用事を早い内に終わらせると言っていたぞ」

 ご苦労なことだ……などと零しながら緑茶を飲み干し、そっとリビングの窓へと視線を投げる。
 窓の向こうに広がる青空を眺めるエヴァの姿は大人びており、事実として今の彼女はどこから見ても十四、十五歳といった年格好だ。
 朝日を背に静かに佇むその姿は、まるで絵画の中から出てきた深窓の令嬢といったところだろう。
 そんな彼女の目前に、和風な朝食を配膳してから定位置へと移動し、自身の朝食を配膳する。エヴァはすぐに手を合わせ、静かに朝食を食べ始めた。

「それにしても、エヴァのそれは魔法やないんよね?」
「似たようなものだ。それで、今日はまず病院に行くんだったか?」
「うん。今日は午後にアリサちゃんとすずかちゃんが遊びに来てくれるって言うてたし、それまでに用事は終わらせとかんとな」

 最近は特によく遊びに来てくれるようになった二人の友人の顔を思い出して笑みを零す。
 すずかとアリサの二人はとても仲がよく、そんな二人と共に日々を過ごせる今はきっと幸福に違いない。
 そんな事を自覚すればするほど胸の痛みは強くなってくるが、それを堪えることにはすっかり慣れてしまっていた。

「そういうことなら、手早く診察を終えて翠屋にでも行くとするか」
「そやね。あそこのシュークリームは美味しいし、すずかちゃんもアリサちゃんも好きやって言うてたしな」

 喫茶翠屋は以前に士郎が勤めていた洋菓子を主とする人気の店だ。
 ふと、そこの住人である高町なのはの事を思い出し、十日ほど前に彼女から送られてきたメールを思い出した。

「そういえば、なのはちゃんが仲良しの子が学校に転校してきたって言うてたんやけど……」
「そうらしいな。すずかやアリサとも仲は良いらしいぞ」
「時間が合えば二人も一緒に遊びに来てくれたら嬉しいんやけど、なかなか難しいみたいやしな」

 名前と顔だけは知っている少女――フェイト・テスタロッサ。
 現在、士郎が出向いている時空管理局で士郎の補佐をしていたという同年齢の少女だ。
 直接の面識はないが、士郎との手紙のやり取りの中で互いのことは少なからず知っている。
 そんな彼女が以前に士郎と共に街を歩いている際に出会った金髪の少女であると知り、意外と世間は狭いと感じたのは記憶に新しい。

「焦る必要もないだろう。時期がくれば、その内にそういうこともあるだろうさ」
「うん、そやね。朝ご飯食べ終わったらすぐに出かける?」
「うむ、何事も手早く済ませて損はないだろうしな。面倒事はさっさと済ませるに限る」
「毎度付き合わせてもうてごめんな。翠屋さんでは、エヴァの好きな洋菓子を買うたげるから楽しみにしてて」

 そうして食事を再開するエヴァを眺めながら、はやても同じく箸を動かして食事を進めていく。
 気がつけば――もうすっかり胸の痛みに"慣れてしまった"自分に内心で呆れつつ、午後からの一時を脳裏に描いて笑みを浮かべるのだった。


 -Interlude-


 放課後の喧騒を耳に届けながら荷物を片付けていく。
 隣の席で同じく片付けをしているなのはを横目に、フェイトは手早く作業を終える。

「――そういえば、今日は二人共何か用事とかあるの?」

 徐々に人気が少なくなってきた教室で、不意に訪ねてきたのはクラスメイトである月村すずかだ。
 転校してきて十日と少し――すっかり学校生活にも慣れてきたフェイトは、友人からの問いかけに視線をすぐ隣へと向けた。

「私は特に用事はないけど……」

 告げてフェイトへと視線を向けてくるなのはの言葉を受け、フェイトは同じく頷いた。

「私はちょっと用事があるけど、その後でよければ大丈夫だよ。どうかしたの?」
「うん。今日ね、はやてちゃんから遊びにこないかって誘われてるの。フェイトちゃんはまだはやてちゃんと直接会ったことはないから、どうかなって」

 フェイトがなのはと行動を共にすることが多いことを察しているからこそ、二人の予定を確認してきたのだろう。
 ――八神はやて。
 士郎が妹同然に想っている少女で、いつかの日に士郎と出会った際に車椅子に腰掛けていた少女だ。
 直接の面識はなかったが、士郎と彼女の手紙のやり取りの中で少なからず互いの事は話題にしているため、互いにある程度の事情は認識している。
 士郎との関係上、魔法の事もそれなりに知っているらしく、その辺りに気を使わなくていい相手というのはアリサやすずかを含めて非常に貴重な存在と言える。

「じゃあ、一度家に戻ってからフェイトちゃんと一緒に行くね。はやてちゃんには私から直接メールしておくよ」
「うん、お願い。アリサちゃんも用事を済ませたら直接向こうに行くって言っていたから、はやてちゃんの家で直接集合ってことで」

 はやてとは個人的によく連絡をしているというなのはの言葉にすずかが笑みを浮かべて答える。
 事件の最中にこうして過ごす日常が如何に尊いものなのか――。
 争いも平穏も共に日常だと言っている士郎の言葉を思い出し、フェイトは僅かばかり表情を緩めた。
 彼がどのような経験を経てそのような境地を得たのかは想像することさえ出来ないが、それでも彼の言葉には共感する事は出来る。
 事件の最中に――という思いも確かにあったが、それでも今のフェイトに出来ることは何かが起きた時に対応することだけだ。
 そんな現実を踏まえた上で、今という時間を大切にしていきたいと思うのはきっと悪いことではない筈だから――。


 -Interlude-


 道を行き交う人たちを眺めながら目前の高層マンションを見上げる。
 それなりに出入りのあるマンションから見覚えのある姿を認めたメルルは、同じくメルルに気づいた彼女――プレシア・テスタロッサの元へと歩き出した。

「――メルル。久しぶりね」
「お久しぶり、プレシア。元気にしてた?」

 こうして言葉を交わすのは随分と久しぶりになるからか、互いに声が少しだけ弾んでしまう。
 彼女と別れて半年以上――その近況は士郎を通じて知ってはいたが、こうして直接顔を合わせるとなれば懐かしさと嬉しさが表に出てくるのも当然だろう。

「なんとかそれなりにやれているわ。積もる話もあるし、どこかゆっくり出来る場所にでも行かない?」
「そういう事なら丁度いい場所があるよ。プレシアは用事とか大丈夫なの?」
「ええ、今日の夕食の買い物でもしながら街の散策をしようと思っていただけだから」

 だから大丈夫だと告げるプレシアと共に人気のない路地へと向かう。
 誰も見ていない事を確認して使用したのはトラベルゲート――いつかの日にも使用したそれを使って目的地へと移動する。

「……ここは?」
「私のアトリエだよ。ちょっとした場所に隠してあるから内緒話には丁度いいかなって」

 かつて麻帆良の地を後にした時に使用した事があるからか、プレシアは特に驚いた様子を見せずに周囲を見渡していた。
 穏やかに流れる水を受けて回る水車とレンガ調の建物――。
 周辺に広がる畑には様々な薬草や素材が色とりどりに生えており、それら全てを覆うように広がる森は"外界"との境界線とも言える。

「落ち着く場所ね」
「そう言ってもらえると嬉しいな。立ち話もなんだし、とりあえず中に入ろっか」

 告げてアトリエの扉を開いて中へと移動していく。
 室内に入った瞬間に香る珈琲の香りに、今日も彼女がここに来ている事を察した。

「――おかえりなさい、メルル先生」

 奥の部屋から出てきて声をかけてきたのは本を片手にどこか疲れた様子のアリサだ。
 どうにかそれを悟らせまいとしていることは伺えるが、そうしたポーカーフェイスはまだ彼女には難しいらしい。

「ただいま、アリサ。もしかして、学校をサボったの?」
「終わってからすぐに来たんです。今日はちょっと、この後に用事があるので」
「そうなの?」
「はい。すずかと一緒にはやてから遊びにこないかって誘われたので、お呼ばれすることにしました」

 年齢相応の笑みを浮かべて告げるアリサの言葉に納得して小さく頷きを返す。
 ふいに、アリサの視線がメルルの背後――プレシアへと向けられ、互いに初対面であることを思い出した。

「――アリサ。彼女はプレシア・テスタロッサ……私の友人だよ」
「アリサ・バニングスです。テスタロッサ……ということは、もしかしてフェイトの?」
「フェイトの母、プレシア・テスタロッサです。よろしくね、アリサちゃん」

 交わされる挨拶は和やかに――けれど、アリサが僅かばかり表情を強張らせたのをメルルは見逃さなかった。
 アリサは夜天の魔導書に関わる事件についてそれなりに知っている。
 もちろんなのはやフェイト、そしてプレシアがシグナムたちの襲撃を受けたことも――。
 友人知人が襲撃を受けたこと――その襲撃を行ったのが同じく友人であるヴィータを含む守護騎士たちであることも彼女は承知している。
 そんなアリサにとって襲撃受けた被害者であるフェイトや、その母であり同じく被害を受けたプレシアには色々と思うところがあるのだろう。

「アリサちゃんの事はフェイトからよく聞いているのよ。娘がいつもお世話になっています」

 あくまでもアリサの友人であるフェイトの母として、ゆっくりと丁寧に頭を下げる。
 それはメルルの目からみても、プレシアが立派に母親としてやっているのだと確信するには充分すぎるものだった。

「そんなに大したことはしてませんけど、フェイトとはこれからも仲良くしていければと思っています」
「ありがとう。娘共々、これからもよろしくね」

 そうして互いに頭を下げて礼を告げるアリサとプレシアの二人を見守る。
 やがて頭を上げたアリサは、手にしていた本を所定の位置に置いて定められた手順を行って封印を施していく。
 感心した様子でそれを眺めていたプレシアを横目に、メルルはその作業がきちんと行われているかどうかをチェックする。
 複雑な手順に戸惑うことなく確実に作業を終えたアリサはそのままゆっくりと振り返り、メルルに向けて小さく頭を下げた。

「私はこれで失礼しますね。なにかはやてに伝言とかありますか?」
「今日は私もできるだけ早く帰るから、夕食の準備は一緒にしようねって伝えておいてくれる?」
「わかりました」

 笑顔を浮かべて了承の返事を返してきたアリサはそのまま、プレシアともう一度挨拶を交わしてからアトリエを後にした。

「礼儀の正しい子ね。見たところ普通の子のようだけど、もしかして――」

 魔力も何も感じない一般人であるアリサが特殊な封印術を扱っていた事に気づいたのだろう。
 もっとも――あれは用意したエヴァが拵えた特殊なもので、手順さえ間違えなければ誰にでも扱えるように作られているだけだ。
 問題はそれがあまりにも複雑なものだというだけ――それを惑うことなくこなしていたアリサを見たからこそ、プレシアの疑問は当然のものだと苦笑する。

「私の弟子っていうわけじゃないよ。本人は押しかけ弟子を目指してるみたいだけどね」
「まだ9歳の一般人としては少し突き抜けている気がしたけど、貴女の弟子を希望しているのなら納得できるわ」

 士郎やエヴァと同じく、メルルの錬金術について理解しているプレシアだからこそアリサの努力は理解できるのかもしれない。
 メルルとて、アリサが錬金術を教えてもらえるようにと尋常ではない努力を重ねている事は承知している。
 一般人で子供だから――そんな言葉で遠ざける事が出来るほど彼女の決意が弱くない事はメルルも理解しているし、その覚悟も認めているつもりだ。

「メルルとしては、あの子を弟子として迎えるつもりはあるのかしら?」
「少し迷ってるところかな。今更アリサの立場や将来を言い訳にしてあの子の決意を無下にするつもりはないけど……私個人の気持ちがね」

 かつて純粋に錬金術を学び、やがて月日と共に傾倒していった自身のようになるのではないか――。
 士郎と出会うまでの自身の歩みに未だ後悔を抱いているメルルとしては、好ましく想っている相手をそのような道に誘う事にどうしても抵抗を覚えてしまう。

「わからなくはないけどね。だけど、きっとあの子は貴女が認めてくれるまでずっと諦めないと思うわよ」
「うん、わかってる。だからきっと、これは私の問題なんだよね」

 いつか自分の過去をもっと前向きに捉えられる日がきたなら――。
 そんな未来を描きながら、今日の本題を思い出したメルルは話題を変えるために小さく咳払いをした。

「まあ、それはそれとして――元気そうでよかったよ。シロウから、貴女が事件に巻き込まれたって聞いていたから」
「別に怪我をしたわけじゃないもの。抵抗すら出来ずに拘束されて魔力を奪われただけ――我ながら笑えるくらいあっさりとね」

 聞けば、魔力の源であるリンカーコアに強力な封印を施されているプレシアはかつてのような魔導を扱うことが出来ないらしい。
 士郎から聞いた限り、仮にプレシアが万全であったのなら魔力の蒐集を目的とした襲撃を彼女は退ける事ができた可能性が非常に高いという――。 

「これもシロウから聞いたんだけど、地球に永住する条件として魔力の殆どを封印したんだよね?」
「いくら更生したと認められても、前科持ちであることに変わりはないもの。そんな私が管理外世界に移住しようとすれば、これくらいはね」
「娘さん……フェイトちゃんのために?」
「ええ」

 迷いなく答えるプレシアの姿は凛としており、自身が失った力など瑣末なモノなのだと告げているかのようだった。

「プレシア本人がそれでいいって思っているなら周りがとやかく言うことじゃないよね。私としては、これからいつでも貴女に会えるのは嬉しいから大歓迎だよ」
「そう言ってもらえると嬉しいわね。そういえば、エヴァは元気にしているの?」
「してるしてる。あの子がきっと一番毎日を満喫してるから。ただ、前に比べて背格好が成長しているから、会った時にびっくりするかもね」

 エヴァに請われて用意したのは、士郎やプレシアに使用したものとは異なる本当の秘薬――。
 メルルがかつて自身に使用したものと同じ、年齢を固定化させる不老不死の妙薬を使用したエヴァの姿は十四歳の姿で固定されている。
 そのあまりの成長ぶりにはメルルも驚きを隠せなかったが、当の本人は魔法の薬で大人の姿にも子供の姿にも自在に変われるため然程驚いてはいないようだった。

「それは会うのが楽しみね」
「今度は三人……ううん、シロウも一緒に四人で会えるといいね」

 士郎やプレシアが関わっている夜天の魔導書に関わる事件――。
 白野から聞く限り、あと一週間もしない内に目処が付くという蒐集行為が終わりさえすれば以後の事件は起きなくなる。
 そうなれば四人で会う機会も作ることが出来るだろう――そんな希望を込めた言葉に、プレシアはただ静かに同意するように頷いていた。

「それで、今日は私に何か用事でもあったのでしょう? でなければ、士郎から色々と事情を聞いているはずの貴女がわざわざこの時期に私に会いにはこないわよね」

 核心を突くような言葉はどこまでも静かに――。
 それを当然と受け止め、メルルは小さく頷いてから口を開いた。

「士郎や貴女が追っている魔導書――闇の書について、貴女が知る限りの事を聞きたいの」
「……理由は聞かないほうがいいのよね?」
「ごめんね」
「いいわよ。例えどんな事情があっても、私は貴女や士郎の力になりたいと思っているのだから」

 だから詮索はしないと――。
 聡明な彼女なら、恐らくは様々な可能性を想定しているはずだ。
 それでも事情は問わないと――ただ、メルルや士郎の力になりたいと告げてくれる。
 そんなプレシアに内心で頭を下げながら、それを表には決して出さずに小さく頷きだけを返した。

「とりあえず、今のところ私が知っている範囲でしか答えられないけど――」

 そんな前置きから語られたのは、闇の書について管理局が承知している幾つかの事実――。
 所有者を破滅に導き、やがて周辺世界を巻き込む暴走を引き起こす危険極まりないモノだという厳然たる事実だった。

「私は直接それを見たことがないから確実にそうなるとは断言できない。ただ、過去に闇の書の暴走で家族を失った人がいるというのは確かな事実よ」
「そう――」

 可能性を挙げればキリがないが、それでも安穏と構えていられるほど悠長ではない。
 最悪――二度と使用するつもりがなかったアイテムを使うような事態が起きることを改めて覚悟してから、メルルは"ソレ"を鞄から取り出してプレシアへと差し出した。

「――これは?」
「いつか貴女から預かったデバイスを研究して作ったものだよ」

 取り出したのは鞘の形を模したアクセサリーを待機状態とするデバイスだ。
 鞘の形をしているのは剣を作り出す士郎のためにとイメージしたものだが、それを見てプレシアは僅かばかり驚いた様子を見せた。

「……この短期間で独自のデバイスを作成したなんて、普通なら信じられないことだけど――」
「似たような機構を学んだ事があったんだよ。その知識と貴女から預かったデバイスを研究して拵えたものなの」

 差し出したままのそれを、プレシアはゆっくりと受け取った。
 観察するようにデバイスを眺めるその姿は研究者としてのプレシア・テスタロッサに他ならない。

「それをシロウに渡してほしいの。いつどんな事が起きてもいいように……」
「……わかったわ。これは確かに彼に手渡しておくわね」
「――ありがとう」

 少しでも彼の身を守る助けになってくれればいい――。
 そんな願いを込めて作成したモノだが、それが必要とならなければいいとも思う。
 けれど、士郎がいつでもどんな時でも自身の身を顧みずに戦いへと赴くのは理解しているつもりだから――。


 -Interlude-


「――今頃、皆は家でのんびりしている頃かしらね」

 海を望みながら手にした釣り竿を揺らしてみる。
 いつも士郎がそうしていたように魚を釣る事の出来ない形の針を海へと垂らしながら、白野は独り呟いてから膝元に乗せている本へと視線を投げた。

「最近はこうして一緒にいることが多くなったわね」

 膝の上にある夜天の書に問いかけるような言葉に返答はない。
 真の主であるはやての側に夜天の書が戻るのは大体にして夜遅く――はやての周囲に他人がいなくなる時だけだ。
 意思を表すことはなくとも、夜天の書が主であるはやてに疑いの目が向かないように気遣っていることは明白で、そこには確かな意思が感じられる。

「すっかり日も落ちてきたし、そろそろ潮時かな」

 時間が遅いわけではないが、日没の早いこの季節――既に周囲は薄暗くなり、次第に闇色を深めていく。
 いくら時間潰しのために釣り糸を垂らしているだけとはいえ、日が落ちて寒さを増した外気に晒されながら釣りを継続する理由はどこにもない。
 仮宿として用意してもらっている宿に戻ろうかと思い、用具を片付けて立ち上がった白野の側で――ふと、これまで沈黙を守ってきた夜天の書が微かに鳴動した。

「……えっ?」
『――主の周囲に長時間脅威指定対象が存在していることを確認。守護騎士による排除が困難と判断し、自動防衛用システム〈ナハトヴァール〉起動』

 脳裏に響くその言葉を認識し、白野が咄嗟に手を伸ばした瞬間――夜天の魔導書は忽然と姿を消してしまった。
 空を掴むように伸ばされた自身の手を僅かばかりぼんやりと眺めた白野は、想定外の事態が現在進行形で起きていることを確信するのだった。


 -Interlude-


 ――その光景をどのように表現したらいいのだろうか。
 植物のツタのようにも見える触手に腹部を貫かれたままのメルルとエヴァ――。
 そんな二人に庇われる形で突き飛ばされ、呆然としているアリサとすずか、なのはとフェイトの四人――。
 まるで夢の様なその光景に彼女――はやては目前の現実を受け止めきれず、脳裏で先程までの時間を振り返る。
 日が暮れ始める前――初めて顔を合わせたフェイトとも打ち解け、同年代の友人が増えたと喜んだ。
 戻ってきたシグナムやヴィータたちの様子が少しだけおかしかったような気もしたが、アリサやすずかのおかげもあってヴィータもすぐに打ち解けてくれたようだった。
 士郎を除いた全員が揃った八神家で賑やかに過ごせた時間は決して夢でも幻でもない。
 ならば……いま目の前で起きていることは、決して夢でも幻でもなく――。

「ナハト…ヴァール………」
「そうだ……思い出した。お前が――お前がッ!!!」

 呆然と呟きながら"ソレ"を眺めるシグナム。同じように"ソレ"を眺めながら驚愕を露わにしているシャマルとザフィーラが目に映る。
 そして激昂した様子で"ソレ"を睨みつけながら声を上げるヴィータ――彼女たち四人が行動を起こそうとするよりも早く"ソレ"からメルルやエヴァを貫いている触手が伸びる。
 恐らくは魔法を使用して防ごうとした筈だが、そんな彼女たちの抵抗をものともせずにその身を拘束してしまう。

『――守護騎士システムの維持を破棄。闇の書〈ストレージ〉の完成を再優先。守護騎士システムは消去――同時に敵対勢力の排除を開始』

 そんな言葉と共に"ソレ"から闇色の光が広がる。
 それがどのようなものなのかはわからない。ただ、直後に姿を消したのは、なのはとフェイトの二人だけ――。
 同時にメルルやエヴァ――すずかとアリサの周囲を闇色の球体が包み込んでしまう。
 拘束されたシグナムたちの胸元に浮かぶ小さな光から溢れる粒子が流れていく先には"ソレ"――夜天の魔導書を包むように蠢く蛇の姿がある。
 ヴィータたちが苦悶するその一部始終を見せつけられながら、はやてはこれまでよりも遥かに強い激痛を感じる胸を押さえて必死に声を押し殺していた。 

『――コア還元を終了。頁蒐集完了』

 そんな言葉と共に蛇に包まれていた夜天の魔導書が床へと落ちる。
 独りでに開かれたそこには、白紙であった筈の夜天の魔導書を埋め尽くす文字が――。

『覚醒の時です。我が主――』
「そ……そんなんどうでもええ!! みんなに何をしたん!? みんなを離して……返してッ!!!」

 動転する心を叱咤するように声を荒らげる。
 それが届いたのか届かなかったのか――返ってきたのは到底認められない無慈悲な現実だった。

『――了解。守護騎士システムを完全消去。コアモードで主に還元――同時に保護対象を吸収』
「え―――ち、ちゃう……そんなんちゃう!!」
「――抹消」

 問答など受け付けないといった様子でシグナムたちへと伸びる触手――。
 それは確実に全員の身体を貫き、瞬きの内に彼女たちの肉体を消滅させてしまった。

「あ………ぁ……ああ――」
『覚醒の時です』

 どこまでも淡々と告げる言葉を耳にしながら、呆然と眺めるのは消えたシグナムたちが身に纏っていた衣服――。

「ぁ……ぁ……うぁぁぁぁぁあああああああああッ――――!!!!」

 眼前に突きつけられた無慈悲な光景――。
 これまで自身の日常そのものであった大切な人たち皆を失った現実に張り裂けんばかりの声を上げる。
 絶望に沈んでいく意識の中で、唯一この場にはいなかった人――士郎の事が脳裏を過ぎった。
 けれど、すぐに自身の足元から吹き上がった闇に呑まれてしまい、そこではやての意識は途切れてしまうのだった。
 

 

Episode 68 -闇の書-

 
前書き
本編第六十八話です。
 

 

 暖かな日常――その始まりはどこまでも唐突だった。
 主である少女が独り出かけた先で事故に遭う直前――少年は颯爽と現れて少女を救って見せた。
 見た目に反してしっかりした様子の少年と主である少女はそうして出会い、友好を深めていく。
 互いの距離が直ぐに縮まったのは当然の成り行きだったのだろう。
 両親を失い、幼き身でありながら自己の殻に籠もり始めていた主にとって、少年との出会いはそれだけ鮮烈だった。
 自身よりも更に深い孤独を感じさせる少年は優しく頼りになり、他者を信じられなくなってきていた主も少年には心を開いていく。

 ――傍から見ていても、少年がどのような素性の人間なのかはわからなかった。

 どう見ても普通の少年でありながら、決定的に"異なる"存在――。
 そんな少年と主である少女の交流は暫くの間続き、彼自身の事情から暫く会えなくなると告げられた主は自身の想いを自覚する。
 悲しみに揺れる主を励ますためだったのか――それとも、少年自身にも思うところがあったのかはわからない。
 けれど、少年は戻ってきた後には主である少女と共に暮らしたいと告げ、主はそれを何よりの贈り物と受け止めて了承した。
 それから暫くは少年と出会う前と同じ一人きりの生活に戻るが、そこに以前のような鬱屈した空気は微塵も無い。
 主である少女は少年の言葉を疑うことすらせず、ただ彼が戻ってきた時に備えて少しずつ準備を整えていった。
 やがて主の元に帰ってきた少年は、同じく家の無い少女二人も共に暮らせないかと主へと告げる。
 奇しくも主が困っていた際に手助けしてくれた者たち――人柄も信頼できると、その申し出を快く受けた。

 ――そうして始まったのは、かつては当たり前にあり、けれど失ってしまった暖かな日々だった。

 一人で暮らすには広すぎた家も、四人で暮らすとなれば収まりもよかったのだろう。
 いずれも素性の知れない者たち――けれど、主である少女に向けられる優しさに疑いの余地はなかった。
 どれほど気丈に振る舞おうと、主である少女が幼いという事実は消せない。
 それでも一人になってしまったからには弱音すら零せず、先行きの見えない未来を想像することさえ出来ずに日々を過ごしていたのだから――。
 そんな主にとって、四人で暮らし始めた日常は掛け替えのない宝に他ならず、凍てついていた心も瞬く間に溶けていった。
 ――幸福な日々は駆け足で過ぎていく。
 主が生まれた日を記念するその日――主は再びその身を危険に晒してしまう。
 その最中に目覚め、主と一時の邂逅を果たしたが、それが吉兆である筈もない。
 これまで幾度となく繰り返されてきた破滅と転生の宿命が始まったのだとわかり、せめて主である少女がこのまま幸福に過ごせればと願う事しか出来なかった。
 戦いの日々に生きた騎士たちを家族として迎え入れてくれた四人は、それからも暖かな日常を過ごしていく。
 時に争いや事件も起きたが、それが主を害することはない。
 そうして――季節は巡り、少年が主である少女の傍を少しの間だけ離れると告げた。
 少年が主である少女を家族として見ていることは明白で、それは主である少女も同様だったのだろう。

 ――血の繋がりは無くとも、二人は既に兄妹だった。

 だからこそ主である少女は一時の離別に心を痛め、そんな主を誰よりも理解している少年は常に身につけていた宝石を少女に託した。
 それは運命だったのか必然だったのか――。
 二人の離別から程なく、主の身にいよいよ異常が顕在化していく。
 呪いに身を削られ、余命幾ばくもないと知った騎士たちは再び剣を執ることを決意した。
 それは主の命を守りたいという想い以上に、騎士たちを家族として受け入れてくれた主たちの日常を守りたいという想いがあったからだろう。
 それが主である少女を裏切り、騎士たちを信頼してくれている少年を裏切ることになろうとも――。
 そうして――騎士たちが決意を固めたその日、主である少女に託されていた宝石に宿っていたという女性が姿を現した。

 ――自分たちがどうなってもいいという覚悟があるというのなら共に戦いましょう。

 互いに最優先とするモノは異なろうとも、護るべきモノは同じだろうと彼女は言う。
 その覚悟と想いを証明すると告げたその想いを信じ、騎士たちは仮初めの主として彼女を迎え入れる。
 それから始まったのは日常と争いを交互に過ごす波乱の日々――。
 少年と共に主と暮らし始めた二人の少女は騎士たちの行動を許容し、それぞれに出来る事をと日々を過ごしていく。
 やがて騎士たちは主に次いで信頼を抱いていた少年と対峙する。そうまでして護ろうとしたのは暖かな日常に他ならない。
 主である少女がこれからも変わらず日常を送っていける未来を手に入れるために――。
 求めたモノは主の未来そのもの――騎士たちはそれだけを望みに蒐集を繰り返していく。
 主の身を削る呪いを解く唯一の道――未完成のまま主の身を浸食する魔導書を完成させるために多くを犠牲にしていった。
 命を奪わなければいいという問題であるはずもないだろう。
 けれど、その責は全て自分が負うと――あの決意の日、新たに騎士たちの主となった女性は告げる。
 そんな女性の覚悟を信頼に変えて騎士たちは戦いの日々を過ごしていく。
 その果てに待ち受ける約束された破滅を思い出すことなく、主たちの未来だけを信じて――。

 ――暴走は既に始まっていた。
 
 それでも――例え意思を表すことは出来ずとも、ある程度まで暴走を留めておくことは可能だ。
 けれど、それにもすぐに限界が訪れてしまい、魔導書――夜天の書を闇の書と呼ばせる元凶が起動する。
 自動防衛システム――ナハトヴァール。
 魔導書の完成を至上とする"ソレ"は主の身を守るためではなく、魔導書を完成させることだけを優先させる。
 主がこれまで拠り所としてきたモノ全てを呑み込み、主に芽生えた絶望を糧に力を解放させて――。
 そんな呪われた祝福の中――夜天の書に宿る意思は、暴走に至るまでの僅かな時間だけ許された自由を主が抱いた最後の願いを叶えるために使うことを決意するのだった。





 ・――・――・――・――・――・





 突如として起きた惨劇に惑いを抱いた刹那――。
 現れた闇の書から発せられた光に呑まれたフェイトは、共にいたなのはと二人揃って静かな室内へとその身を移していた。

「……結界!?」

 周囲になのは以外の人影は見当たらず、先程の光景が嘘だったのでは無いかと思える程の静寂がそこにはあった。

「結界の内側に存在している外……私たちだけがここにいるってことは、多分間違いない」

 展開された結界の中心地にいながら結界の外に弾き出されてしまった理由はわからない。
 突然現れた闇の書と、そこに巻き付く奇妙な蛇の形をしたナニカ――そこから伸びてきた触手は間違いなくフェイトとなのはへと向けられていた。
 直ぐ傍にいたアリサとすずかが危険だと判断したのだろう。
 同席していた二人の女性――メルルリンス・レーデ・アールズとエヴァンジェリン・A・K・マクダウェルに纏めて弾き飛ばされ、次に見た時には触手に貫かれた二人の姿があった。
 その直後、闇の書が発した光に包まれて今に至るのだが――。

「――クロノくんに通信繋がったよ。とりあえず、現状は報告したけど……」
「それなら、私たちは急いで戻ろう。もしあれが闇の書の暴走だったなら――」

 八神家の住人だけでなく、この世界そのものが滅んでしまう可能性がある。
 なにより――友人であるすずかやアリサ、士郎の家族である八神家の人たちを見捨てられるはずがない。

「事情はわからないけど、起きた事実は事実として――」
「うん――レイジングハート!」
「バルディッシュ――」

 互いに意思を確認してバリアジャケットを身に纏う。
 そうして――手にしたデバイスを"其処"へと向け、意識を集中していく。

『――解析完了。侵入座標を固定――』
『レイジングハートからデータ受信完了。結界内部への侵入を開始します』

 レイジングハートとバルディッシュ――それぞれ持ち主であるなのはとフェイトと連携して結界に穴をこじ開ける。
 そうして出来た僅かな侵入口から再び結界の内部へと足を踏み入れた時――事態はもう後戻りの出来ないところへとやってきていた。

「あ………ぁ……ああ――」
『覚醒の時です』

 淡々と告げる闇の書の言葉を耳にしながらはやてが呆然と眺めているのは、この家で出会ったヴィータたちが身に纏っていた衣服に他ならない。
 持ち主を失った衣服は触手に貫かれたままゆらりと揺れている。
 見れば周囲には既にはやてと闇の書以外の誰も存在しておらず、残されていたはやての足下にはベルカ式特有の魔法陣が黒く光っていた。

「ぁ……ぁ……うぁぁぁぁぁあああああああああッ――――!!!!」

 身を切り裂くようなはやての絶叫が響き渡る。
 直後に彼女の身体から放たれた魔力の奔流――黒色に染まったソレに、フェイトはなのは共々屋外へと弾き飛ばされてしまった。
 弾き飛ばされ、宙を舞いながら体勢を整えて空に浮かぶ。そうして見据えた先には崩壊した八神家の跡地を中心に広がる黒々とした球体があった。
 それが何なのか――そんな疑問を口にする暇さえ無く、球体は突如として爆発し、周辺を吹き飛ばしてしまう。
 直後に宙を迸る黒雷と巻き起こる突風――禍々しく溢れる黒色の魔力を放出しているその中心には、銀の髪を揺らしながら佇む一人の女性が立っていた。

「――また、全てが終わってしまった……」

 呟かれる言葉には悲しみと苦しみしかなく、虚空を睨む女性の瞳からは一筋の涙がとめどなく流れ落ちていた。
 その首に掛けられたペンダント――紅い宝石を揺らしながら、彼女は静かにその双眸をフェイトたちへと向けてくる。

「……はやてちゃん?」
「――はやて?」

 なのはの呟く声に被せるように疑問の声を零す。
 状況から推察する限り、女性が立っていた場所にいたのは八神はやて――以前に出会い、今日という日に改めて友人となった同年齢の少女だ。
 彼女に対して闇の書が告げた言葉――そして直後に彼女の身体から溢れた魔力は、今も魔法陣の上に立つ女性から感じられるモノと間違えようも無いほどに同一だった。

「我は魔導書……」

 フェイトたちの疑問に応えるように発せられた言葉が耳に届く。
 虚空に向けて腕を伸ばす女性の直ぐ傍――彼女の両隣には、闇の書に絡まっていた蛇と闇の書本体が浮かんでいた。

「我が力の全ては――」
『――デアボリック・エミッション』

 呼びかけに応えるように鳴動する闇の書――。
 同時に伸ばされた女性の腕の先――掲げられた手の上には徐々に勢いを増して膨張していく魔力の塊が出現していく。

「――主の願いを阻まんとする者たちを撃ち払うために」
「空間攻撃……!?」

 球体状の魔力を掲げたまま決意に満ちた声を口にした女性の姿を見て、フェイトはその意図を悟る。
 女性が構えているのは、恐らくは対象に向けて放たれるソレとは桁違いの範囲効果を備えた広域攻撃魔法――。

「闇に……沈め――」

 圧縮していく魔力球――直後、それがまるで爆発したように膨張していく。
 回避が間に合うような規模ではないと――フェイトがそう判断を下した瞬間、隣にいたなのはがフェイトを庇うように前へと出た。

『――エクセリオンシールド』

 レイジングハートの声と共になのはの目前に展開されるシールド――。
 構えられたソレに強力な魔力の奔流が衝突――流れを堰き止めながら徐々に後退を始めたなのはに従って、フェイトはなのはと共にゆっくりとその場から後退していくのだった。


 -Interlude-


 観測地点で発生した膨大な魔力はおよそ魔導師個人が保有できるような規模のものではない。
 アースラの艦橋には崩壊した家屋の跡地に立つ独りの女性が、展開された結界内の空間全てを覆うほどの広範囲魔法を放出している姿が映し出されていた。

「彼女が……闇の書の意思――」

 両の目から涙を零しながら虚空を睨みつける銀髪の女性――その両隣には蠢く蛇のようなものと闇の書本体が浮かんでいる。
 事態が想定を遙かに上回る速度で展開されていることに歯噛みしながら、クロノは手元に送られてくるユーノ・スクライアからの報告書に目を通してからその視線を通信席へと送る。

「――エイミィ。アルカンシェル搭載完了まで後どれくらいかかる?」
「現在緊急配備中ですが、搭載完了までには早くても後数時間はかかるかと……」

 戦域の観測とアースラへのアルカンシェル搭載作業の二つを並行して行っているエイミィの声には力が篭もっていた。
 それでは遅いと――先の映像を目の当たりにして、自分たちが行っている作業が致命的に遅れていることを理解しているからこその反応だ。

「作業員を増員して急がせてくれ。崩壊が始まってからじゃ遅いんだ」
「――了解」

 クロノからの無茶な要望に対して、エイミィは文句一つ零すこと無く作業の手を早め、その目前に通信画面を幾つも展開していく。
 そんな彼女を横目にクロノは映し出された映像を注視する。
 闇の書の意思と思われる女性と対峙していたなのはとフェイトの二人に対する通信は未だ通らない。
 だというのに向こうからの映像や音声が通っているのは、現在展開されている結界がそれまで観測されてきた封殺型の結界とは異なるものだからだろう。

「打てる手は全て打つべき……か」

 状況の詳細と現状で考え得る対処法の全てを急ぎ纏めていく。
 時空管理局は決して腰の重い組織では無いが、巨大で強力な力を保有する関係から諸手続は複雑で決定までに時間が掛かる。
 特に今回の事例のように、管理外世界で突発的な事態が起きたとなれば許可を得てから行動するのではどうやっても間に合わない。

「エイミィ。地球に滞在しているリンディ元提督とプレシアの二名に通信を繋いでくれ」
「二人に? ……了解!」

 作業の合間に急ぎ通信回線を繋いでもらう。
 打てる手は全て打つ。何もかもが手遅れになる前に――。
 決意と覚悟を胸にクロノは手元で作成した報告書を本局へと送りつつ、通信越しに姿を見せた"魔導師"と対面する。


 -Interlude out-


「――士郎!」

 転送を終えた直後に聞こえてきたのは、どこか焦りを感じさせるプレシアの声だ。
 目前の風景はいつもの通り、プレシアたちが地球上での拠点としているマンションの一室――。
 どこまでも違和感しか感じさせない空気を肌に感じながら、士郎はただ目の前に立つプレシアへと視線を向けた。

「事態は把握しているか?」
「ええ、なんとかね。ここはもうこの地方全てを覆う巨大な結界の只中で、隔離された世界と重なる中心地――」

 その中心部――結界の発生源こそ八神の家が存在している座標に他ならない。
 夜天の魔導書が暴走を開始したというのなら、そこには恐らくはやてやシグナムたちもいるはずだ。
 そして、クロノからの報告が正しければなのはとフェイトの二人は既にその現場へと到着し、事態を目の当たりにしていることだろう。

「いまの私じゃ貴方の手助けすらできない。けど、せめてこれを渡すくらいは――」

 そうして差し出された手のひらには、鞘をモチーフにしたアクセサリーの形をしたデバイスが乗せられていた。

「メルルから貴方に渡してほしいと手渡されていたものよ。あまり時間はなかったけど、ちゃんとチェックだけはしておいたから安心して使って頂戴」
「いつの間にそんなものを……いや、それは今はいい。ありがたく使わせてもらうとしよう」

 手渡されたデバイスの代わりに、それまで所持していたデバイスをプレシアへと受け渡す。
 管理局に臨時で所属する際に預かったものだが、それが戦闘に最適化されていないことは使用者である士郎にもわかる。
 調べた限り、途方も無い力を所有しているという夜天の魔導書――その暴走を食い止めるために必要なのは戦うための力に他ならない。
 そうして受け取ったデバイスを使用すると同時に、自動的にバリアジャケットが全身に展開される。
 黒服に黒のズボン――それらを覆うように赤き外套を身に纏う。
 これまで使用してきたものと似通う部分を多く残しながらも細部に違いは見て取れた。
 その最たるモノ――これまでとの決定的な違いは、両腕の指先から手首までを覆うように展開された銀色の籠手――。

「防御性能は以前のモノとは比べものにならないほど高いし、絶えず肉体を監視して修復する機能を備えているわ」

 バリアジャケットは基本的に魔法による障壁と差異は無い。
 以前は二層しかなかったその障壁だが、新しいデバイスによって構築されるそれは十二層――単純計算では六倍以上もの強度を保証してくれる。
 肉体を監視して修復するというのも魔法による補助だと考えれば、手渡されたデバイスがどれだけ戦闘面を考慮して作成されたモノなのかを疑う余地はなかった。

「けど、その代わりに魔力消費も増大しているわ。それを補うために備え付けられているのが――」
「カートリッジシステム……なのはやフェイトのデバイスに取り付けられたブースターだな」
「ええ。カートリッジから供給される魔力でバリアジャケットと治癒を賄う設計になっているから、貴方の魔力を圧迫することはない……貴方を良く知るメルルらしい配慮ね」

 自身の魔力を消費することなく展開できるという利点――。
 なにより、カートリッジに蓄えられた魔力を使用者に拡充できるそれは、間違いなく衛宮士郎の助けになってくれるだろう。

「士郎――今は何も聞かないけど、ちゃんと全てが終わったら説明してもらうわよ」

 事態の中心地が士郎の住んでいた八神家である事や、このタイミングでメルルが士郎用のデバイスを拵えていた事……そのデバイスにベルカ式特有のシステムが組み込まれている事など――。
 その他様々な要因から推察できる真実にプレシアは恐らく気付き始めている。
 ――いや、或いはすでに大凡を把握しているのかもしれない。
 それでも、いまは何も問うことなく送りだそうとしてくれる彼女に、士郎はただ静かに誠意を示すように頷いて見せた。

「……そうだな。どちらにしても、この事態を収めることが出来たなら色々と説明しなければならないだろうからな」

 秘匿してきたあらゆる真実――それは夜天の書に関わることに留まらないだろう。
 出し惜しみをしていられる状況ではない事は間違いなく、自身の全てを尽くすだけの覚悟は既に決めている。

「……色々と?」
「ああ、色々と……な。メルルやエヴァには迷惑を掛けるかもしれないが、俺が責められるだけで済むのなら安いものだ」

 なんであれ、起きてしまった事柄に対して責任というものは発生してしまう。
 ――だが、それを背負うのが間違ってもはやて一人であってはならない。
 彼女が負うべきモノが少しでも軽く出来るのなら、これまで築いてきた日常を捨てることに躊躇いなどないのだから――。


 -Interlude-


 変わり果てた風景を目にしながら、夜天の魔導書の意思とも言える女性は静かに自身の目元を拭った。
 ――こぼれ落ちる涙は自身のモノに非ず。
 絶望を突きつけられた主の少女と、そんな彼女を救わんと身を粉にして戦い抜いた騎士たちの嘆きを知るが故に――。
 これまで数多の結末がそうであったように、抗えぬ終焉に呑み込まれた主にせめてもの救いを齎すために与えられた有限の時間と力の全てを尽くす。

「――自動防衛……一時解除。これより先は私が主の身を守り、その願いを果たそう」

 まだ、現時点では辛うじて制御できるシステムへと介入する。
 自身の身体を動かしていた戒めとも言うべき枷が外れていく事を実感しながら、彼女は自身の傍に浮かぶ蛇――ナハトヴァールへと視線を投げた。

「ナハト……ただの防衛プログラムであるお前を悪し様に責めるような事はしない」

 破滅の要因にして夜天の魔導書が抱える暴走の元凶――けれど、それでもこれまでを共に過ごしてきた存在には違いない。
 意思を持つことを許されず、ただ力と野望に取り憑かれた所有者たちの手によって改変され続けた果てに変貌を遂げたシステム――。

「――全ては破滅を食い止められなかった私に責がある」

 意思持つ彼女とどれだけ乖離していようと、夜天の魔導書を構成するシステムである事実は変わらない。
 ならばこそ――夜天の魔導書の意思である彼女には、望まぬ結末を齎すことしか出来なくなったナハトだけを悪し様に責めることは出来なかった。

「だが……それでも叶えて差し上げたい想いがある。だから、あと少しだけ……大人しくしていろ――」

 蠢く蛇へと左手を伸ばし、その中心に存在する呪いの鎖を掴む。
 目には見えずとも、絶えず繋がれている戒めをその手にすると同時――呪いの鎖はその形状を変化させ、彼女の左手を覆う籠手へと変質する。
 そうしてナハト本体を視覚化していた蛇は消えていき、形状を変化させ続けた籠手は確かな輪郭を帯びて具現化した。
 先端に突き出ているのは相手を貫く投射槍――制御可能な段階のナハトヴァールが変貌したその武装を手に、彼女はその腕を振り上げた。

「我が主――どうか暫しお待ちを……。貴女の最後の望み……願いは、私が必ず叶えて差し上げます」

 告げて展開するのは外界からの隔離を優先とした広範囲結界だ。
 ナハトが起動時に展開したモノと同じ……けれど、主が過ごした世界が少しでも長く平穏を保てるように――。
 同時に、上書きされていく結界が"相手"の位置を知らせてくれる。
 主である少女と友誼を結んでくれた少女たち――例え彼女たち個人を好ましく思っていようと、その存在が主の願いを阻む壁となるのなら排除しなければならない。

「逃げずに向かってくる……いや、これは――」

 対象の少女たちは結界から逃れようともせずに向かってくる。
 それを正面から眺めながら、彼女は少女たちが自ら近付いてきてくれる事を静かに歓迎した。

「――あの……闇の書さん! はやてちゃんは無事なんですか?」
「私たちは、ただはやてを――」

 語りかけられる声音に敵意は微塵も感じられない。
 当然だろう――今の彼女は主である八神はやての身体そのものを依り代に具現化している。
 少女たちにとって、"闇の書の意思"として具現化した彼女は敵対者であると同時に救う対象でもある筈だ。
 夜天の書の意思である彼女はこうなる以前――本の姿のままである時も守護騎士であるヴォルケンリッターと精神的に繋がっていた。
 そんな騎士たちが少女たちに抱いていた感情を思えば、二人の少女が問答無用で攻撃を加えてくるような者たちではない事ぐらいは理解出来るが――。

「――騎士たちは皆、ただ主が生きる未来を手にするために戦ってきた」

 少女たちの問いかけを封殺するように告げるのは有りの儘の事実――。
 姿を偽り、親しい者とそれ以外の者を区別することを良しとせずに全てを賭けて戦い続けた騎士たちの真実だ。

「家族を偽り、主を偽り――それでもなお求めたモノを得る事すら出来ず、無念に消えていった」

 だが……だからこそ――最後に残された者として果たさなければならないことがある。

「そして我が主は――目の前で家族を失った絶望の中で、ただ一つだけを願われた。我はただ、それを叶えるのみ――」

 それを果たすために障害となるモノは全て排除する。
 その覚悟と決意を胸に、彼女は自身の赤き双眸を少女たちへと向けたまま視線を細めた。

「主には、穏やかな眠りの中で永久の眠りを……。そして、主の願いを阻もうとする者たちには永遠の闇を――!!」

 こうして少女たちと問答をしていられる時間は限りなく零に近い。
 それを誰よりも理解しているからこそ、彼女は自身に与えられた全ての力を少女たちへと向けて振るう。
 約束された滅びの刻は近い――ならばせめて、全てが終わる前に主が抱いた最後の願いを叶えなければならない。
 目前には表情を改めて身構える少女たち。年若くとも確かな意思と力を持った強き姿――。
 そんな少女たちを救うために――そして、己が家族を救うためにやってくるであろう人を迎えるために、夜天の書の意思である彼女は己が力を開放するのだった。
 

 

Episode 69 -交錯する想い-

 
前書き
本編第六十九話です。
 

 


 地面を蹴りつけると同時に頬を打つ冷たい外気――。
 駆ける足に渾身の力を篭めて、士郎は全速力で街外れへと向かっていた。

「結界の境界まで、あと五キロ程度――」

 海鳴を覆う結界の規模は大きく、既に内側に呑まれている士郎が内部へと侵入するには結界の境界から強引に侵入するしかない。
 そう判断して街外れへと向かう士郎の直ぐ目前――人気の無い街路の先に一人、見知った女性が立っていることを確認して咄嗟に足を止めた。

「こんばんは、士郎」
「――白野。君は……どうやって此所に?」

 薄暗い中で独り佇むように立っていたのは、闇の書の持ち主として動いている筈の岸波白野当人だった。
 勿論彼女と待ち合わせなどしていないし、士郎の動向を彼女が予測していたはずもない。
 疑問に満ちた声を零した士郎を前に、彼女は僅かばかり微笑みを浮かべてから直ぐに表情を引き締めた。

「メルルリンスからデバイスを渡されたでしょう?」
「ああ。人伝にだが、確かにメルルが用意してくれたデバイスを所持している」
「私が扱っているデバイスや魔導器はそれの兄妹機なのよ。互いのパスが通じてるから、互いの位置を知ることが出来るわけ」

 意識してみれば直ぐに出来ると言われ、意識を集中する。
 確かに目前の白野がどこにいるのかということが感覚的に理解出来る事を確認した士郎は、だからこそもう一つの疑問に首を捻る。

「位置を知ることが出来たとしても……だ。俺の行く先を予測していなければ、待ち伏せなど出来ないだろう?」
「詳しい説明は後にするけど、予測でも予知でもない。私はただ、貴方の近くへ"転移"してきただけよ」

 彼女が保有する魔導器とデバイスの組み合わせから使用する事のできる魔法は僅か三つ程度――。
 砲撃と斬撃、そして空間転移――元はプレシアのデバイスを解析し、残されていた術式を解析して発動できるようにしたものだという。

「大本の転送式に手を加えられているらしいから結界なんかも無視して転移出来るのが強みだけど、魔力消費は当人が使用していたモノとは比べものにならないほど多くて燃費が最悪なのよ。だけどほら、私の身体にある魔導器は一応無尽蔵に魔力を吸い出すことができるから……ね」

 使えば使うほど生命力を減じ、やがては術者を死に至らしめるだろう魔導器――。
 本来であればリミッターが設けられているため、そこまで過度な魔力生成が行われる事はない。
 だが、白野が有している魔導器は試作型であるが故にそのリミッターを容易に解除できるのだという。
 だからこそ彼女は己が命を対価に無謀を押し通し、無尽蔵の魔力を以て闇の書の主として振る舞ってこれたのだろう。

「――つまり、俺を夜天の魔導書の元へ送ることも可能だということだな?」

 既に暴走を始めていると思われる夜天の書の傍に白野がいないという事実――。
 八神家を中心として結界が張られているという事も合わせて考えれば、先ず間違いなく渦中にいるのは正式な持ち主であるはやての筈だ。

「相変わらず察しがいいわね。ええ――私が貴方をあの子の所へ送ってあげるわ」

 自信に満ちた表情に悲壮さは微塵も感じられず、彼女は士郎をはやての――夜天の書の元へ送ってみせると断言する。
 それがどれだけ彼女の負担となるのかは想像することしか出来ないが、そんな彼女を不用意に気遣うことができる筈も無い。

「効果範囲が狭くて転移は一人が限界――だから、私は一緒には行けないわよ」

 直ぐに駆けつけるつもりだけど……と、軽い口調で告げる彼女に頷きを返す。
 彼女にどのような意図があるとしても、夜天の魔導書の元へ確実に至れるというのなら願ってもない申し出なのだから――。

「十分だ。頼む――」
「――了解」

 会話もそこそこに互いに準備に移る。
 臨戦態勢を整える士郎を前にして、白野は士郎の目前に魔法陣を展開していく。

「ああ、そうそう――この間、あの子と……なのはと少しだけ話をしたわ」

 思い出したというように告げる白野の言葉に黙って耳を傾ける。
 彼女は少しばかり苦笑するように表情を歪めながら、ただ有りの儘の感想を口にした。

「彼女に私の過去を見せたの。だから、あの子はもう殆ど全てを知っているわよ」

 決して考え無しにそのような事をしたわけではないだろうに、どこか申し訳なさそうに彼女は告げた。

「君が君の過去を見せることに対して俺からとやかく言うことはないだろう?」
「そうね……確かにその通りなんだけど、一応貴方には伝えておこうと思ったの」

 これまで常に士郎と共に在ったという白野の過去――。
 それは大凡が衛宮士郎の過去に重なるものに違いは無いが、同時に白野の過去にも違いない。
 ならば、それを白野本人が誰に伝えようとも士郎から文句など言えるはずもないのだから――。

「……律儀なことだ。そういう所はどれだけ経っても変わらなかったようだな」
「お互い様――はい、準備できたわよ」

 告げると同時に背を押される。
 その柔らかな感覚に笑みを浮かべながら、士郎は振り返ることなく魔法陣へと身を委ねるのだった。


 -Interlude-


 地表を貫き、空へと向けて吹き上がる無数の火柱――。
 宙に浮かぶフェイトたちは、自身の足元から立ち昇る炎を咄嗟に回避し、不規則に続くそれらを躱していく。
 ――見れば、闇の書の意思と思われる女性は既に姿を消していた。
 まるで誘導されているかのように、高層ビルが建ち並ぶ市街へ。恐らく火柱に紛れて攻撃を仕掛けてくるつもりなのだろう。
 そうしてフェイトが身構えた瞬間――僅かに離れた場所を飛行するなのはの直上に銀の髪を揺らして現れる。
 左腕に装着されている篭手に備えられている杭を突き出してくる女性に対し、なのはは即座にレイジングハートを振るってそれを払いのけて見せた。
 春の頃とは比べ物にならないほど鋭く振るわれる杖――けれど、それは相手にとっては想定通りの対応だったのだろう。
 闇の書の意思は左腕を再度振るい、それを杖の柄で受け止めてみせたなのはに向けて、魔力の込められた杭を勢いよく撃ち出した。

「――なのはっ!?」

 胸元に撃ち込まれた杭は障壁に阻まれ、なのはの身体には直接届いてはいない。
 それでも圧倒的な威力を以て撃ち出されたそれは、障壁諸共なのはの身体を大きく弾き飛ばしてみせた。
 堪え切れず地面へと墜落していくなのはを前に追撃に入ろうとする闇の書の意思――そんな彼女へ向けて、フェイトは全速でバルディッシュを構えて斬りかかる。
 大鎌の形状で魔力刃を展開してからの渾身の斬撃――それを紙一重で回避してみせた女性に焦りや戸惑いは一切見られない。
 それだけのやり取り――僅か一度の攻防で、闇の書の意思である女性の力量が自身を上回っているということをフェイトは確信した。

「だけど――ッ!!」

 斬撃を躱された状態のまま僅かに距離を取り、魔力カートリッジを起動させる。
 デバイス内で炸裂する二発分の圧縮魔力――それら全てをデバイスに展開していた魔力刃へと流し込み、女性へと向かって加速する。

「クレッセント……セイバー!!!」

 投げ飛ばすように放ったのは高速回転する魔力刃だ。
 対象に対する誘導性能を備えたそれは確実に相手へと届いたが、女性はそれを左腕であっさりと受け止めて見せる。
 その一瞬の間隙を縫うように高速機動で背後へと回り込み、闇の書の意思へと斬り掛かろうとするが、受け止められていた魔力刃を投げ返されて急停止を余儀なくされる。
 咄嗟の障壁でそれを弾いてみせたフェイトだったが、息つく間もなく放たれた黒色の魔力弾に障壁を貫かれて吹き飛ばされてしまう。

「コンビネーションアタック――バスターシフト!!」

 弾かれながら耳に届いたのは、先程撃ち落とされたなのはの声――。
 訓練で身につけてきた連係攻撃の合図を受け、全力で体勢を整えて再び構える。

「――拘束(ロック)!!」

 タイミングを合わせて仕掛けた拘束魔法が彼女の両腕を捕らえた事を確認すると同時に魔法陣を展開する。
 なのはの位置はフェイトから見て女性を中心に対角線上。対象を挟み込む形での同時拘束からカートリッジ使用を前提とした同時砲撃――。

「「――シュートッ!!!」」

 全く同時に放ったのは、それぞれが得意とする砲撃魔法であるディバインバスターとトライデントスマッシャー。
 強力な障壁突破能力を誇るなのはのディバインバスターと、射出点から三つ叉に放たれた砲撃が着弾点で合流することで強力な破壊力を生み出すトライデントスマッシャーによる一点攻撃――。
 それを闇の書の意思である女性は焦る様子さえ見せず、勢いよく振った腕で拘束を引き千切り、両の手にそれぞれ障壁を展開することで防いで見せた。
 障壁をそれぞれ両手に展開するというだけでも高等技術だというのに、なのはとフェイトの渾身の砲撃ですら撃ち抜けない強度――圧倒的な魔力量に裏打ちされた熟練の魔導運用に僅かばかり息を呑んだ。

「――貫け」

 ふいに聞こえてきたのは女性の声――。
 障壁で砲撃を防ぎながら展開されたのは、女性の周囲に浮かぶ赤い短剣だ。
 ――瞬間、血のように赤いその短剣が複雑な軌道を描いて迫ってくる。
 それを防ぐために砲撃の手を止めて障壁を展開したフェイトだが、着弾と同時に炸裂した短剣の巻き起こす爆風に呑み込まれてしまった。

「これ位のことで――」

 追撃の手を警戒して、ダメージをそのままに全速で距離を取る。
 同じように距離を取ったなのはと共に構え直し、相手へと向き直った。

全投影(ソードバレル)――」

 紡がれた言葉と同時――女性の周囲に浮かび上がったのは少なく見積もっても百を越える無数の剣群だった。

「あれは……」
「まさか、士郎くんの……だけど、あれは――」

 なのはと二人、その光景を前に僅かばかり動揺する。
 いま、女性の周囲に浮かぶそれは紛れもなく士郎が使用している剣群だ。
 けれど――それはあくまでも彼が保有しているという武器庫から魔術で呼び出しているものだとフェイトは聞いていた。
 士郎が使用できる攻撃魔法は、クロノが教えたというスティンガーブレイドを基本形とした魔力刃のみ。物質生成魔法というものがあることは確かだが――。

「――連続層写(フルオープン)

 思考する間など与えぬと放たれる無数の剣群――。
 真っ直ぐに撃ち出されたそれは、今日までこなしてきた模擬戦闘でのそれと同じかそれ以上の速度を以て飛来してくる。

「バルディッシュ――」
『――ソニックフォーム』

 面制圧のように間断なく、それでいて隙間無く撃ち出される剣は自身の障壁では防ぎきれないと――。
 即断したフェイトは、迫り来る弾丸を回避するために常時高速機動を可能とするソニックフォームへとバリアジャケットを切り替えた。
 腕と足、それぞれに計十枚――光る羽を展開したこの状態は、防御性能を犠牲にする代わりに圧倒的な高速機動を可能とする。
 自身に着弾する直前の剣をギリギリで回避し、直後の剣を同じく紙一重で避けていく。
 それでも回避しきれないほどの圧倒的な物量に歯噛みしながら、数撃は持ち堪えられるだろうと障壁を展開する。
 だが、そうして動きを止めたフェイトや同じように障壁で完璧に防いで見せていたなのはの隙を見逃してくれるほど甘い相手である筈がない。
 剣を射出し終えた女性の手から伸びてくる魔力の鎖――フェイトの使い魔であるアルフが得意とするチェーンバインドが、フェイトとなのはそれぞれの両腕と身体を拘束するように巻き付いてきた。

「――捕獲、完了」

 鎖で拘束されたまま引き寄せられる。
 女性へとぶつかる直前――再び身体を拘束するように展開されたのは、なのはとフェイトがそれぞれに得意とするバインドだった。

「これは、私たちの……!?」
「――夜天の騎士達が身命を賭して集めた魔法だ」

 目前で静かに告げる女性の言葉に視線を向ける。
 見れば、彼女はその両の目から涙を零し、ただ申し訳なさそうな表情でフェイトたちを見据えていた。

「……時間が無い。主の命が尽きる前に……全てが破滅を迎える前に――」
「――まだ、はやてちゃんは生きてる!! まだ、いまならまだ――」
「もう遅い。主に破滅を齎す"闇の書"――その宿命は、始まった時が終わりの時だ」

 なのはの言葉にも聞く耳を持つことなく手を構える。
 その手の先――開かれた闇の書に描かれた文字が黒く明滅し、フェイトたちの目前にベルカ式特有の魔法陣が展開された。

「まだ終わりじゃ無い……終わらせたりしない!!」
「強き心を持った少女たち――だが、おまえたちの心にも"闇"はあろう?」

 ――それはまるで、心を見透かしたかのような真言だった。
 具体的な事を咄嗟に思いつけずとも、自身の心の底は偽れないと――。
 そうして展開された魔法陣から伸びる闇色の粒子が全身を呑み込み、消失させていく。
 その奇妙な感覚に戸惑うことすら許されず、瞬く間にフェイトとなのははその姿を失っていった。

「――己が闇に抱かれて……眠るがいい」

 最後の最後――フェイトの耳に届いたのは、涙を零しながら申し訳なさそうな表情を浮かべた女性が口にした優しい声音だった。


 -Interlude-


 士郎を送り出して数分――プレシアは自身の無力を噛み締めながら、静かにリビングのソファへと腰掛けた。

「――プレシア」

 声を掛けてきたのは、つい先程までクロノと何かしらの打ち合わせをしていたリンディだ。
 その身に纏う気配はいつもとは異なり、管理局の魔導師として凛とした姿がそこにあった。

「クロノ執務官からの通信……本当は私と貴女二人に用件があったみたいだけど、貴方は士郎くんと話があったみたいだから私が聞いておいたわ」
「そうだったの……それで、執務官は何て?」
「――現時刻を以て、貴女に施されている封印処置を一時的に解除します」

 それは、予想もしていなかった言葉だった。
 思わず目を見開き、下ろしていた腰を上げて立ち上がった。

「どういうこと?」
「ロストロギア、闇の書――本来、これを処理するために使用されてきた魔導砲アルカンシェルの準備が間に合わない可能性が高い。そのため最悪時間稼ぎが出来そうな人材が一人でも必要だと……上層部に掛け合ったみたい」

 具体的には、リンディの友人であるレティ・ロウランを通じて上層部へ提案したのだという。
 アルカンシェルの積み込み及び、現場での使用まで時間を稼ぐ必要があると――。

「もちろん条件はあるわ。先ず一つ……事態の収束後はその功績に関わらず、今後の処置に変更が無いということ――」

 ある種当然の通達に頷きを返す。
 元よりそれを条件に管理外世界へと移住を認められたのだ。そこに不満を覚えるはずもない。

「もう一つは、現地監督官の管理下で行動すること――つまり、私と一緒に行動してもらうということよ」
「条件と言うには優しすぎるものばかりね」

 リンディと共に行動することに不満などあるはずもない。
 そんな条件ともいえない条件を対価によくもこれだけの措置を行えるものだと……ある意味でクロノの立場を心配してしまうほどだ。

「アルフは闇の書についての情報や報告を終えたユーノくんと合流してから現場に向かうそうよ」
「なら、私たちはその前に――」
「――ええ。ただ、私はまだ前の戦闘で使い果たした魔力が完璧には回復していない。闇の書本体と事を構えるには不足しているかもしれないから、貴女のサポートに徹するつもりよ」

 そう告げて差し出してきたのは、一枚のカード型端末――。

「――それは氷結の杖デュランダル。前回の闇の書事件の際に使用しようとして、私の夫が局に開発を依頼していた特注品なの」

 完成したのは事件後だけどね……と、どこか苦笑気味に告げるリンディだが、その表情に曇りは無い。

「無限に再生、増殖を繰り返す闇の書の暴走体――それを食い止めるために用意された一品よ。それを貴女に使って欲しい」
「……そういうことなら、有り難く借り受けるわね」

 手渡されたデバイスを手にリンディへと視線を向ける。
 彼女が目前に展開した術式が自身の身体を包み込む感触に身を委ねて数秒――。
 フェイトがよく利用していた模擬戦を体験させてもらった時以来――実際には半年振りに蘇ってきた感覚に、プレシアは表情を改めた。

「――セット」

 デバイスを起動させ、バリアジャケットを展開する。
 見た目こそ以前に身につけていた局員用の制服だが、その強度と性能は比べるべくもない。
 あくまでも管理局の一員として戦うのだと実感すると共に、それでも彼や娘たちの手助けができることが嬉しく感じられた。

「――行きましょう」

 告げるリンディも既に局員としての服に身を包み、その手には一般的な魔導師の杖が握られていた。
 決意を秘めた視線を向けてくるリンディに頷きを返し、プレシアは魔導師として自身の現状を確認していく。
 すでに此所は結界の只中――展開された直後の揺らぎが残る状態ならまだしも、こうして完成した結界を越えて侵入するには相応の準備がいる。

「ええ――行きましょう」

 だからこそ空間転移を得意とするプレシアを動けるように手配したのだろうことは疑う余地も無い。
 自身に寄せられたそんな期待に応えて見せようと――プレシアは自身の目前に魔法陣を展開し、結界への抜け道を準備していくのだった。


 -Interlude-


『――吸収』

 魔導書からの声を耳に届けながら静けさを取り戻した周囲を眺める。
 先程まで全力で抗い、拘束から逃れようとしていた少女たちの姿は既に無い。
 確認するまでもない――少女たちは他の者たちと同じく、覚めることのない夢へと墜ちていった。
 確かに、破滅の時をせめて夢の中で過ごしてくれればという思いもあった。
 だが、畳みかけるように攻め立て、拘束し、夢の世界へと誘ったのはもう一つ――大きな理由がある。
 年齢に見合わぬ能力を持つ魔導師の少女たち――彼女たちが"彼"と連携して向かってくるという最悪の事態を回避するためだ。

「――来たか」

 然程の時間も経たない内に現れた侵入者――結界を越えてきた相手を認識する。
 閉じ込めるでもなく、外部からの侵入を阻むでも無く、ただ外界との遮断と感知に重きを置いた結界を敷いた理由――。
 その原因である男が結界内に侵入してきたことを確かに感じ取り、彼女は全身に魔力を漲らせて臨戦態勢を――等と思考した瞬間、自身へ向けて飛来する物体を知覚する。
 音すらも置き去りに飛来してきたのは一本の剣――高密度の多重障壁で"逸らした"それが宝具ではなくただの魔力刃であった理由に思い至り、僅かばかり口の端を緩めて……すぐに引き締めた。
 そうして、彼女は追撃を回避するために高度を落とし、ビル群を縫うように飛翔してくる無数の剣群を同じく展開した剣群で迎え撃つ。
 ――直後にビルの側面を蹴るようにして姿を見せたのは赤い外套に身を包んだ男だ。
 その両手に黒と白の双剣を構えて凄まじい速度で肉薄してくる男――衛宮士郎を視認し、彼女はその左腕を全力で振るった。
 激突する二刀の刃と魔力を込めた杭――交錯する互いの視線をそのままに、彼女は再び僅かだけ士郎との距離を離して間合いを計る。

「君が夜天の魔導書の――」
「はい。管制融合騎です……士郎――」

 ――彼の能力の高さや経験の深さを彼女は理解している。
 だからこそ、彼を相手に万が一が起こりうる遠距離戦をするつもりは彼女には毛頭無かった。
 壁面を蹴って移動する士郎に対して空を飛び、一定の距離を保ちながら併走――時折見せる彼の急加速と同時に振るわれる斬撃を捌ききり、再び距離を取る。

「――退けないか?」
「退けません。我が主の願いを叶えるまでは――」

 そんな繰り返しの中でも気を抜くことなど決して出来るはずがない。
 移動の最中に彼が投擲してくる剣を受けた障壁が揺らぎ、障壁を抜いた剣が頬を掠めていく。
 恐らくは剣自体に魔力の流れを阻害する効果があるのか――理由は推察するしかなかったが、彼の保有する"能力"の特異さを改めて実感しながら真っ直ぐに視線を向ける。

「……願い?」
「――我が主は、目の前で家族や友人を失った絶望の中で、たった一つだけを願われたのです」

 半年余りの日常で享受してきた暖かな幸福――その全てを唐突に奪われ、絶望した幼き少女を誰が責められるだろう。
 普通であれと望まれ、ようやく年相応の少女として過ごせるようになってきた主の願い……最後の想いだけでも、せめて――。

「――貴方に傍にいて欲しい。傍で……いつものように優しく笑いながら頭を撫でてもらいたい。絶望の中でただ……それだけを願われたのです」

 そうすれば、目の前の残酷な現実もきっと夢か幻だったのだと信じられると――。
 例えその願いが逃避する心から生まれたものだとしても、主である少女がそう願うことを否定する権利など誰にもあるはずがない。
 幼き頃より独りで過ごし、他者を信じられなくなってきていた少女――。
 そんな少女が彼と出会い、彼と過ごす内にようやく年相応の少女として生きられるようになった事を、夜天の魔導書として常に傍にいた彼女は知っている。
 だからこそ、主である八神はやてが彼を心の拠り所として頼ることは当然であり、二人の出会いから共にいた彼女に出来ることは、そんな二人を共に過ごさせてあげる事だけなのだから――。

「――滅びが覆せない定めだというのなら……私はせめて、主の願いを叶えて差し上げたい」

 決意を込めて全力で振るった拳は、それを双剣で防いで見せた士郎の身体を剣ごと大きく弾き飛ばす。
 幾つかのビルを貫通した先――小さなビルの屋上に難なく着地して見せた士郎の目前に立って向かい合い、退けない意思を示すように視線を交わした。

「私は、貴方を主の元へと送る。だから――」
「――君は優しいんだな」

 ふいに返ってきたのは予想もしていなかったそんな言葉だった。
 まだ本の姿のまま、意思を表すことすら出来なかった頃――。
 士郎と過ごす時に何度も耳にした優しく静かな声音に、彼女はただ黙って耳を傾けた。

「だが、それは諦めだ。俺はまだ諦めていない――だから、君の行動を受け入れることは出来ないし、暴走を食い止めることを諦めもしない」
「士郎……」
「手詰まりである事は否定しないさ。それでも、俺は俺が救いたいと願う人のため――その人たちが生きるこの世界を護るために、こうしてここに立っている」

 ――それが、彼が示した答えだった。
 大切な者を護りたいと――そのために他の全てを犠牲にしてでも戦い抜くと彼はかつて誓った筈だ。
 けれど、今こうして目の前に立つ彼はその犠牲となる者も救いたいのだと――それは以前の彼からは考えられない暴論だった。

「貴方の言葉とは思えません。大切な者を救うため、愛する人を護るために自身の理想すら裏切って見せた貴方の言葉とは――」
「――そうか。君は俺の過去を……」

 士郎の呟きに対して返答はせずに、ただ視線だけを交わし続ける。
 蒐集に際して得た彼の過去――そして、主である少女が常に身につけ、今も自身が身につけている紅い宝玉から得た記録に偽りは無い筈だ。

「――そうだな。以前の俺は己の無力を自覚し、救えるモノだけ――救いたいと思うモノだけを救おうと戦ってきた」

 けれど、それすらも衛宮士郎には身に余る行為だったのだと――奇跡の上塗りで手にした結果だったのだと真剣な表情で語る。

「ならば――」
「一人では出来ない事も、二人でなら出来るかもしれない。二人では出来ない事でも十人なら――俺がこの世界で学び、思い出したのは、想いを同じくする者たちを信頼するということだ」

 自分一人の力では叶わないことも、多くの人と共に在れば叶える事が出来るかもしれないと彼は言う。
 それを夢想だと突きつけられようとも、最初から出来ないと諦めることだけはしたくなくなったのだと――。

「ですが、貴方と共に戦えたはずの少女たちは既に私の中で覚めることの無い夢に墜ちています。それでも貴方は――」
「――ああ、信じている。なのはやフェイトがその程度の夢を振り払えないはずがない……とな」

 互いに平行線――譲れない想いと願いを叶えるために対峙する。
 それでも――終わりの時は確実に近付いていた。
 こうして"彼女"が表に出ていられる時間は残り僅か――暴走が進めば意識を失い、代わりに自動防衛システムが表へと出てくるだろう。
 ――そうなる前に全てを終わらせなければならない。
 覚悟を新たに、夜天の魔導書の意思である彼女は愛しささえ覚えている男へ向けて疾駆するのだった。

 

 

Episode 70 -少女たちの見る夢-

 
前書き
本編第七十話です。 

 

 圧倒的な魔力を駆使して彼女――夜天の魔導書の意思はその力を振るい続ける。
 遠慮など微塵もないと――決意に満ちた視線を向けたまま加えられる打撃を受け止める士郎だが、その手に持つ双剣は軋みを上げ、突き出された杭によって弾き飛ばされてしまう。
 ――彼我の能力差は明らかだった。
 如何に与えられたデバイスによって防御能力を向上させ、魔力の貯蔵に多少の余裕が生まれようとも地力の違いを埋めるには至らず、"気"を纏ったまま相手と交差する瞬間に自身の肉体を魔術で強化しようとそれは変わらない。
 否――もとよりそれは、守護騎士たちと戦った経験からわかっていたことだ。
 単純な能力で自身が守護騎士たちに及んでいなかったことを思えば、夜天の魔導書そのものである彼女に及ばないのは道理――。
 それでもこうして戦えているのは、彼女が士郎を取り込もうとしている事――そして、士郎が保有する"宝具"による真名開放を知るが故の警戒からに他ならない。

「――なるほど。騎士たちが貴方に遅れをとったのも確かに頷ける」

 ビルの合間を縫うようにぶつかり合いながら発せられた言葉には小さな納得があった。
 士郎は焦る彼女が攻め急いでいる事を逆手に致命的な隙を見せ、そこに攻撃を誘発させることで辛うじて攻撃を防いでいる。
 彼女もそれを理解しているはずだが、それでも敢えて力押しを敢行してくるのは、いつかは押し切れると確信しているからこそだろう。
  
「お褒めに預かり光栄だ。だが、次も同じように立ち回れるほど彼女たちも甘くはないだろうさ」

 事実として――士郎がシグナムたちを圧倒できたのは、魔力消費を惜しまず"宝具"を多用した上で虚を突いたからだ。
 戦闘記録を見たクロノたちがどのように受け止めたのかはわからないが、あれは自身の手札を惜しまず投入することで辛うじて手に入れた薄氷の勝利なのだから――。

「なんであれ、侮るつもりはありません。貴方が起死回生の一撃を多く保有している事は知っていますから――」

 肉弾を挑んでくる彼女に対抗するように、咄嗟に投影した剣を撃ち出す。
 だが、それは彼女がその身に纏う強力無比な魔力に裏打ちされた鉄壁の防御を貫くことは出来ず、それを見越して振るわれた彼女の一撃に大きく吹き飛ばされてしまう。

『――フォトンランサー・ジェノサイドシフト』

 耳に届く魔導書からの声に反応し、強引に体勢を立て直して地面に着地する。
 見上げた宙にはフェイトが得意としているフォトンランサーが自身を覆い囲むように展開されていた。

「――カートリッジロード」

 視認できる限りの雷撃弾を撃ち落とすため、士郎はデバイスに備えられたカートリッジシステムを稼働させる。
 爆発的に発生した魔力の全てを魔術回路へと乗せ、自身の周囲に剣群を展開していく。
 ランクは低くとも、その全ては魔力を内包する宝具――躊躇なく撃ち出された弾幕に向け、展開した剣を全て撃ち出した。
 撃ち出した剣は魔力弾を貫き、宙へと向かって消えていく。その光景の先――宙に浮かぶ彼女の周囲には更に数を増した魔力弾が既に展開されていた。

「全方位から放つ雷を纏った魔力弾――貴方が得意とする盾でこれを防ぐ事は不可能です」

 一切の遠慮無く放たれる雷撃が自身を取り囲むように迫ってくる。
 完璧な回避も防御も不可能な弾幕を目前に、ならばせめて致命傷を避けようと身構えた瞬間――士郎の周囲に幾重にも重なった障壁が展開された。

「――士郎!!」
「よかった……ぎりぎり間に合ったみたいね」

 すぐ側に転移してきたのは、局員の制服に身を包んだプレシアとリンディの二人だ。
 その手にデバイスを構えたまま安堵の表情を浮かべる二人に、士郎は僅かばかり驚きながらも笑みを浮かべてみせた。

「すまない……お陰で助かった」

 感謝を告げると、二人は揃って首を横に振り、油断なく宙へと視線を向ける。
 同じように空を見上げてみれば、夜天の魔導書の管制融合騎である彼女は僅かばかり表情を曇らせ、苦しげな息を小さく零した。

「――時間が…ない。彼を取り込む邪魔をするというのなら、誰であろうと容赦はしない」
「それは結構。だけど、生憎と簡単にやられてあげるわけにはいかないのよ」

 応えるリンディの声には確かな気迫が込められている。
 その隣――リンディと肩を並べていたプレシアは、視線はそのままに小さな声で訪ねてきた。

「――フェイトは?」
「俺がきた時には既にいなかったが、聞く限りでは彼女に取り込まれているようだ」
「そう――」

 知らせると同時――プレシアの全身に魔力が漲る。
 その全身から感じられる気迫と気配は、かつて対峙した時とは比べ物にならないほど充溢していた。

「――お前たちも、覚めない夢の中で眠れ」

 地を砕きながら吹き上げる炎と、周辺の建造物を諸共に呑み込まんと吹き荒れる竜巻――。
 世界の終焉を彷彿とさせるその光景の中心で、夜天の魔導書は自身の周囲に剣群を展開しながらその手に圧縮された魔力を構えた。

「大規模範囲魔法と天候操作――物質生成に空間攻撃……ね。流石はロストロギアに認定される魔導書……途方も無い処理能力だわ」
「感心している場合じゃないわよ、プレシア。士郎くん……私は貴方の補助に回るから――」
「――了解だ、リンディ。こうして誰かと共に戦うというのは随分と久しいが……合わせてみせよう」

 会話もそこそこに全身に再び"気"を充実させながら両の手に双剣を投影する。
 徐々に口数も少なくなり、落ち着いていたその気配を乱しながら構える夜天の魔導書――。
 その身に纏う魔力を増大させていく彼女を"制する"ため、士郎たちは互いに示し合わせたように攻撃へと移った。

「――前衛は引き受ける」
「ええ、後衛は任せてちょうだい」

 プレシアと目配せを終えて宙へと飛び出す。
 迎撃の手は速やかに――夜天の魔導書の周囲に浮かぶ無数の魔力弾が放たれる。
 その幾つかを双剣で切り飛ばし、残りは即座に目前へ展開された障壁によって逸らされていく。
 リンディの援護が確かなものだということを確認し、無造作に相手へ向けて加速――狙いは彼女が左腕に巻きつけている武装だ。

「……近接戦闘は、こちらも望むところです」

 振り下ろした剣を左腕の杭で受け止めながら、どこか苦しげに告げる。
 時間がないと――そう繰り返していた彼女の限界は、想像しているよりも近いのかもしれない。
 鍔迫り合いを続けることに嫌な予感を感じ、即座に距離を取った士郎は先程と同じように壁面を蹴り、リンディが用意する障壁さえも足場に空を駆け抜けていく。

「逃しません」

 どれほど速度を上げてビルの合間を駆けようと、空を舞う彼女にはすぐに追いつかれてしまう。
 四本の剣を周囲に展開し、向かってくる彼女を迎え撃つために足へ力を入れた瞬間――聞き慣れた声が耳に届いた。

「――サンダーレイジ」

 士郎が撃ち出した四本の剣を回避しながら近づいてくる彼女の直上に魔法陣が出現する。
 直後――発生した三筋の雷光が降り注ぎ、飛び交う剣弾を回避していた彼女へと直撃した。

「私のことを忘れてもらっては困るわね」

 士郎とは反対側の空に浮かびながら、静かに堂々と告げたのはプレシアだ。
 敢えて士郎とも距離を取って構えているのは、仮に自身の元へ彼女がやってきたとしても捌ける自信があるからだろう。
 なにより――夜天の魔導書の意思である彼女が、不必要に士郎に対して近接戦闘を仕掛けていることに気づいたからかもしれない。

「……直撃したはずだけど、無傷とはね――」

 迸る雷を振り払うようにして宙に佇む彼女を見て、プレシアが呆れ半分感心半分といった様子で呟いた。
 雷撃は確かに直撃していたし、彼女の防御が間に合っていなかったことは士郎もリンディも確認している。
 プレシアの魔法が強力であることは、かつて彼女と戦ったことのある士郎は身を以て痛いほど知っているのだが――。

「――眠れ」

 周囲を一瞥しながら開かれた魔導書――そのページが明滅すると同時に魔法陣が展開される。
 士郎たちの頭上どころか、辺り一帯を覆い尽くすように展開されたソレは、紛れもなく先程プレシアが放ったモノと同じ――。

『――サンダーレイジ』

 魔導書から聞こえてくる声――。
 見上げた空に走る稲光を見て取った士郎は、即座に双剣を破棄した手を構えて空を睨んだ。

熾天覆う七つの円環(ローアイアス)――――!」

 可能な限りの魔力を注ぎ込み、大きく羽を広げた形で展開した七枚の花弁――。
 瞬きすら許さぬ勢いで放たれた雷撃が花弁を削り取っていく。
 見る見るうちに欠けていく花弁を見て、士郎は全身に走った悪寒に小さく舌打ちを零した。

「――貴方なら、きっとそうして周囲を庇うと思っていました」

 目前に見えるのは風に靡く銀の髪――士郎の目前にリンディが展開した障壁さえも突き破って肉薄してきた彼女の姿が、目の前へと迫っていた。
 伸ばされる手には魔導書本体と開かれたページ――。
 そこに展開された黒い魔法陣が自身に向けられていることを認識しようと、未だ降り続ける雷撃を止める手は下ろせない。
 もっとも、仮に空いている手に剣を投影して見せたところで既に遅い。時間にしてコンマ一秒の差で士郎の迎撃は間に合わない――。

「――そうね。だから、こういう展開になれば貴女がそうするだろうって思ってた」

 気がついた時には――そう表現するのが的確なほど唐突に。
 士郎の目前に現れた彼女――岸波白野は自信に満ちた声音で告げて、士郎に向けて構えられた魔法陣へと身を捧げた。

「……ッ…マスター!?」
「……ちゃんとそう呼んでくれるんだ。一方通行で無くて安心した」

 安堵したように呟いた白野は、瞬く間に消えていく自身の身体には見向きもせず、士郎に向けて顔だけを振り向かせた。

「――中の事は任せて。上手くやってみせるから」

 そんな言葉を残し、彼女はその姿を消失させてしまう。
 生まれた一瞬の空白――それを利用して放たれたリンディの魔力弾に合わせて彼女の身体を蹴り飛ばす。

「――今のは……岸波白野……?」

 唐突に現れた彼女に驚きを隠そうともせずに呟くリンディの言葉に頷きだけを返す。
 恐らくは、先程のような手段を以てなのはやフェイト――暴走時に共にいた者たちを取り込んでいるのだろう。
 白野があのタイミングで介入してくれなければ、恐らく自身も――そこまで思い至り、士郎は警戒をそのままに視線をプレシアとリンディへと向けた。

「――私たちのことは気にしないで」

 傍に佇むリンディが明るい調子で告げる。

「貴方の援護に来て、貴方の隙になるのは御免よ。こっちはこっちで勝手に身を守るから、貴方は――」
「――了解だ」

 自分たちを信頼しろと――暗にそう告げるプレシアの言葉に頷き、再び剣を投影する。
 両手に握る干将莫耶に強化を施し、その刀身が倍以上となると同時に宙を蹴って彼女へと向かっていく。
 力及ばぬ自身が他者の心配をしている余裕などあるはずがない――。
 改めて自身の未熟を自覚した士郎は、改めた覚悟を胸に彼女へと剣を振り下ろすのだった。


 -Interlude-


 始まりは湖畔を望む古城の一室からだった。
 血に濡れて倒れ伏す一人の男――その身体から点々と続く血の跡は、呆然とソレを眺める少女の身体へと続いている。
 自身の過去を血塗られたものだと告げて教えてくれなかった事を彼女――月村すずかは今でもよく覚えていた。
 血に濡れた口元を拭うこともできず、呆然とその光景を眺める少女が、本当の意味で少女であった頃のエヴァンジェリン・A・K・マクダウェルだと察するのに時間は必要なかった。
 
 響くのは少女の慟哭――血の涙を零しながら、変わり果てた自身が元凶である男を殺めたことを自覚する。
 
 憎かった――ただひたすらに憎かった。
 それまで決して裕福というほどではないが、不自由のない生活を城で送っていた少女にとって、突然突きつけられた現実は余りにも重く絶望的だった。
 自身を化け物へと変えた男への復讐を果たした少女は城を飛び出し、広大にして無慈悲な荒野へと足を踏み出す。
 人であった頃とは何もかもが違うことを自覚するのに一年――。
 それでもまだ人として生きていける筈だと奮闘し、馴染んだ村で過ごして数年が過ぎた頃――いつまでも成長しない少女に不審が向けられたのは当然の帰結だった。
 まだ魔女狩りが最盛期を迎える以前の話だ。それでも人とは異なる存在であると疑われたなら普通の暮らしなど出来るはずもない。
 数年過ごした村から逃げるように旅立った少女は、一つの土地に長くは暮らせないという教訓を得て旅を続けた。
 どんなに上手く隠していても、少女が普通の人間ではないこと――吸血鬼である事に気付く者たちは現れる。
 そうした者たちから身を守るため、少女は戦いの術を学んでいく。
 元より人間よりも優れた能力を有し、魔法の根源である魔力にも恵まれた真祖の吸血鬼――不死身である事を生かし、文字通り死に物狂いで戦いの日々を過ごしていった。
 もっとも、争いの日々がいつも続いたわけではない。自身の正体さえばれないのなら、少なくとも数年は平穏な暮らしができるからだ。
 周囲に溶け込まず、けれど浮き立たず――ただ静かにそこに在るだけ。そんな立ち回りを覚えてからは、長く平穏な暮らしを送ることができた。
 十年、二十年、五十年――百の年月をどうにか過ごした少女。そんな彼女にとって最も厳しい時代があったとすれば、それは正にその時だったのだろう。
 魔女狩り――異端審問などが最盛期を迎えた頃には、人から向けられる視線が絶えず自身を疑っているのではないかと疑うほどに危険が直ぐ傍にあった。
 逃げるように旅を続け、尋ねた先で魔女狩りにあって火あぶりにされる者たちを眺めながら、次は自身の番かもしれないと息を呑んだ。
 火あぶりに処された大多数は普通の人間であり、本物やそれに類する存在など一割にも満たない。
 それでも人々の断罪は止むこと無く、そうした風潮の中で少女自身もその身を焼かれた事が一度だけあった。

 ――それからも少女の安住の土地を求める旅は続いていく。
 
 魔法と呼ばれる世間に認知されていない技法を主とする異世界――。
 異端の者が集うという魔都や、そういった風潮とは一切無縁の土地など――様々な土地を渡り歩いていく。
 戦争に巻き込まれることもあり、多くの人をその手に掛けなければ生きていけない時代もあった。
 それでもどうにか生き延びた少女――いつしかその名が売れ、賞金首として裏の世界で名を馳せることになったのは必然だったのだろう。
 闇の魔王とも呼ばれる彼女に向かってくる者は後を絶たない。
 ただ、それが死を覚悟して向かってくる者たちであったことが少女にとっての唯一の救いだった。
 時間は淡々と流れていき、人の世も移り変わっていく。
 旅を続けた少女が辿り着いたのは、南洋に浮かぶ孤島――そこを拠点とすることで、ようやく少女は平穏を手に入れた。
 もちろん、自身の首に掛けられた賞金を目当てに訪れる者はいたが、それとて数える事ができる程度の少数――。
 それを排除することに戸惑いなどあるはずもなく、無意味で終わりのない人の争いに巻き込まれないだけで少女は満足していた。
 そうして長い旅の果てにようやく手に入れた現状に、少女は自身の在り方を改めて自覚し、いつか自身が討たれるその日まで生きていこうと決める。

 ――出会いがあった。
 
 気まぐれに出かけた先で出会った一人の青年――。
 普通の幼子であれば命に関わるという程度の出来事から少女を救って見せたその青年は、少女の正体を知っても態度を変えることはしなかった。
 聞けば、青年は裏の世界で名を馳せる伝説の英雄当人であり、伝え聞く人物像との違いに笑みを零し、それが数百年ぶりのモノだと自覚した時にはもう遅かった。
 青年を自分のものにしたい。青年が自分に興味を抱くようにしたい――。
 吸血鬼としてではなく、遠い過去に失ったはずの"人"としての感情に少女は僅かばかり戸惑いながら、それもいいと受け入れた。
 問題があったとすれば、青年は少女に全くそうした意味での興味を抱いてはくれず、どれだけ付き纏おうとも自身を傍には置いてくれなかったことだけだ。
 こうなれば実力行使だと思い至ろうと、思い人相手に本当の意味で本気を出すことが出来るはずも無く――少女は青年に敗れ、その身に呪いを掛けられた。
 
 ――登校地獄……という、傍に見ていたすずかでさえ首を捻るような呪い。
 
 けれど青年の力は強大無比――適当な術式と強力な魔力で施されたその呪いは想定以上に少女の身体を縛った。
 そんな少女を連れた青年が向かったのは日本のとある都市――魔法使いやその関係者なども住まうそこで少女は封印という枷の下、学生として日常を送る事を義務づけられる。
 
 ――光に生きてみろ。
 
 制服姿になった少女を見て苦しそうに笑っていた青年は、少女の頭を優しく撫でながらそう告げた。
 また戻ってきた時には呪いを解いてやると――その約束を胸に、少女はそれまで経験した事の無かった光の中で過ごしていく事を決める。
 けれど、期待と希望はすぐに失われる――数年後、青年が消息を絶ち、公式に死亡したと知らされた。
 約束を守ることなく消えた希望の光。それはやはり自身には遠いモノなのだと改めて自覚し、逃れられぬ呪いに抗うこと数年――。
 学生として過ごしながら、自身の身を守るために始めていた警備員の仕事。
 土地へ侵入してきた賊を相手にしようといつものように出張った満月の夜――少女は一人の少年と出会った。
 縁あってその少年の事情を知り、彼らの内情に深く関わる事となった少女はそうして――失ったと思っていた希望の光をそこに見たのだ。
 もう二度と――そう思っていながら、心のどこかで残っていたナニカ。少年たちと過ごせばそれが分かるだろうと決意し、少女は彼らと共に在ることを決めたのだった。


 -Interlude-


 それはまるで本に描かれた物語のように――。
 流れていく光景は見たことのない――けれど、確かに聞いたことがあるものだ。
 そうして彼女――アリサ・バニングスは、流れていくその光景をただ見守ることしか出来なかった。

 ――辺境に存在する小国の王女、メルルリンス・レーデ・アールズ。

 国の未来を憂いた王の決断により、近く共和国として隣接する国と併合する事の決まったその国で、彼女の物語は幕を開けた。
 自身が望み、国のため――国民のためにと学んだ錬金術を駆使して彼女は国の開拓を進めていく。
 多くの友人や仲間たちに囲まれ、国民に親しまれた彼女は与えられた課題――解決していかなければならない事案を少しずつ片付けていった。
 やがて自国内の開拓を終えた彼女は、国が共和国として生まれ変わった時に王国の姫であった自身に別れを告げる。
 それは決して悲観すべきことではなく、新たな人生の始まりとも言える記念すべき日――。
 その記念の日を境に、彼女は自身が身につけた錬金術を更に究めんと決意して研鑽に励んでいく。
 一年が過ぎ、二年が過ぎ――五年が過ぎる頃には、錬金術士としての彼女の名声は大陸全土に広まるほどに高まっていた。
 共に錬金術の高みを目指す仲間と共に研究に没頭していく中、彼女たちは錬金術を極めるためには余りにも時間が足りないと判断し、自らの寿命を排除した。
 何もかもが瞬きの内に過ぎていく。次第に外との関わりも減り、気がついた時には百年もの月日が流れていた。
 
 ――傍から眺めていたアリサから見ても、彼女が送るそれからの日々に特筆すべき変化など殆どなかった。
 
 ひたすらに錬金術を極めんと研鑽を積み、ひとつ――またひとつと出来ない事が減っていく。
 そうして、どれだけの月日が過ぎた頃だろうか――。
 共に歩んできた錬金術士たちは一人……また一人とアトリエを去っていった。
 その理由を彼女は殆ど覚えていない。或いは、別れの挨拶も交わさぬまま別れたのでは無いかと疑ってしまうほどに――。

 ――また長い月日が過ぎていく。

 いつしか自身に錬金術を教えてくれた師もいなくなり、これまで共に過ごしていたホムンクルスたちも静かに去っていった。
 残ったのは只一人――そうして彼女はたった一人で過ごし始め、やがて自身が納得できる限りにおいて錬金術を極めた。
 ――確かに出来ない事は殆どなくなった。
 望むことは全てできるようになり、天から降り注いだ災厄さえも退けた。
 けれど、それは本当に何もかもが出来るようになったわけではなく、ただしようと思うことが無くなっただけのこと――。
 そうして彼女は、まるで夢から覚めたかのように周囲へと目を向ける。
 かつて共に過ごした友人や仲間は既に生涯を全うし、共に錬金術を極めんと励んできた者さえも既にいない。
 天災によって大陸中が人住めぬ土地となる以前――彼女が錬金術を学ぶ根本となった国は発展と衰退を繰り返し、既に遠い過去に消え去っていた。
 彼女が知る者は誰もいない――けれど、彼女を知る者は多い。
 一度――勇気を出してアトリエを後にした彼女は遠方の人里を訪れ、そこで一つの伝説を知ったのだ。
 
 ――かつて栄えたアーランド共和国。
 今では人が住めぬ魔境と化した最果ての地には、今も昔からずっと生き続ける魔女がいる――と。
 
 国を滅ぼし、大陸を人住めぬ地へ追いやったとされる伝説の錬金術士――それは紛れもなく、遙か過去から生き続けるメルルに他ならなかった。
 もちろん彼女は国を滅ぼしてなどいないし、大陸が人の住めない魔境となった要因は、空から降り注いだ流星群に彼女が守ったアトリエ以外の全てをなぎ払われたからだ。
 或いはアトリエだけが無事だったからか――仮にその大災害を生き延びた人がいたのなら、唯一無事なアトリエに住まう錬金術士が大陸を滅ぼした張本人と語り継がれても不思議では無い。
 人の噂など曖昧で、時と共に形を変えていくものなのだから――。
 ともあれ、彼女はたった一度の人里への訪問で全てを悟り、自身にできることは何も存在していないと確信して里を後にし、アトリエへと戻った。
 
 ――それからも変わること無く過ぎていく日々をただ惰性で過ごしていく。
 
 長い年月の中、自身がどうして今も生きているのかさえわからなくなり、彼女は生きる事そのものに意味を見出せなくなっていく。
 遠い過去に永遠の命を手にした身――不死身ではない事が唯一の救いだと、彼女は自身の生涯に幕を引くことを決心した。
 そんな折りに再び空から落ちてきた一筋の流星――それがかつて訪れた人里の方角へ落ちたことを知り、彼女はもう一度そこへと赴く。
 一面の荒野――かつてその地で人が暮らしていたなどと信じることのできない程の圧倒的な破壊がそこにあった。
 何もかもが意味なく消えていく。人も国も――最後に消えるのは自分自身だと確信しながら、彼女はその場で見つけた一つの宝石を持ち帰った。
 長い人生の中で一度も目にしたことの無い未知の素材。それを目にした彼女が錬金術士として興味を抱いたのは本能か運命か――。
 最後の錬金術――そう決心して望んだ実験は盛大な勢いで失敗してしまう。
 もう何百年も失敗などしていなかった彼女は実験の失敗に遠い過去を思い出し、直後に現れた黒い穴から出てきた一人の男を介抱する。
 その出会い――彼との出会いこそが運命だったのだと、今の彼女は胸を張って宣言するだろう。
 異なる世界からやってきた衛宮士郎との出会いと、そこから始まった新たな日々に彼女は何もかもを救われたのだから――。


 -Interlude-


 闇色に染まった空間で彼女――高町なのはは先程まで見ていた夢を反芻する。
 闇の書に取り込まれ、意識を取り戻した彼女の目前に広がるのは桜の花びら舞う武家屋敷の庭――。
 桜吹雪を背景に、長い月日を離れ離れに過ごした一組の男女は再会し、永遠の別れを迎えた。
 そこにどれだけの意味が込められていたのかは、客観的に眺めていたなのはには想像することしか出来なかった。

 ――おやすみ、桜。よく…頑張ったな。

 永遠の眠りについた最愛の女性を胸に抱き、男は小さく噛みしめるように呟いた。
 なのはが知るよりも幾分年齢を重ねているように見える青年――衛宮士郎は、そうして涙を零しながら決意する。

 ――例え誰からも忘れられていくとしても、俺は俺の道を歩き続ける。だから、ゆっくり休んでくれ……桜。

 逃れられない未来――やがて訪れる破滅を迎えるまで、精一杯に自身を貫き通すことを誓って彼は故郷の街を後にした。
 そうして――そこから始まったのは、いつまでも果ての見えない旅だった。
 なにしろ旅の終わりは自身の終焉――それがいつ訪れるのかは、旅を始めた彼本人にもわからないのだ。
 ――それでも、最愛の女性に誓った決意が彼の足を進ませていく。
 どうにもならない終わり――破滅の運命を背負った人々を少しでも救おうと剣を執り、奇跡の果てに得た力を振るった。
 どれだけの年月……どれだけの戦いに臨んだのだろうか。客観的に見てさえ判別がつかないほど何度も何度も戦い続ける。
 そんな戦いの日々を過ごしていく彼にも決して平穏な日々がなかったわけではない。ただ、どんな暖かな日々もすぐに失われていくだけ――。
 背負った宿業は彼という存在を周囲から忘却させ、彼はそれを幸いにと人ならざる力を振るい続けた。
 形振りの構わない戦いは決して無駄ではなく、本来であれば救われなかった筈の人々を彼は救い続けていった。
 繰り返される争いと平穏――それが彼にとっての日常で、彼が歩むと決めた道に他ならない。
 例え彼の本当の望みが、もう二度と訪れることのない遠い過去にしか存在していなくとも、彼は前へと歩み続けた。
 傍から見れば、自己の見返りを望まず人々を救う英雄――或いは、彼自身がかつて語ったような正義の味方だろうか……。
 誰よりも早く自身を犠牲とし、護りたいと決めた人々を救い続けるその姿は尊く崇高で――どこまでも報われない。
 長い年月を旅していく中で数えきれないほどの人をその手にかけ――その数十倍の人々を救い続けていく。
 そうして過ごし続けた彼に与えられた報酬は忘却の日々の終わりと世界中からの疑念と怨嗟の声――。
 人が三代を跨ぐ年月を生き続け、各地に残る伝説を作り上げた存在。そんな規格外の存在が人々に許容されることはなかった。
 終わりは速やかに――彼は救い続けてきた人々の手によってその長い人生に終わりを告げた。


 ――体は剣で出来ている。
 
 ――血潮は鉄で心は硝子。
 
 ――幾たびの戦場を越えて不敗。
 
 ――ただ一度の敗走がなくとも、ただ一度も叶うことなし。
 
 ――彼の者は常に折れず、剣を抱いて丘に立つ。
 
 ――故に生涯に意味はなくとも、その体は無限の剣で出来ていた。


 自身を表す言霊――そんな言葉を唯一の誇りとして、彼は笑顔を浮かべて地に倒れた。
 あくまでも客観的に眺めていたなのはにさえ、彼の歩んできた道程は血塗られていたと断言できる。
 それでも彼は歩み続けることの出来た自身を誇り、静かにその終焉を迎え入れた。
 そんな彼を救ったのは、いつかの日に出会った魔法使いの女性――遠坂凛。そして、なのはもよく知る女性――メルルリンス・レーデ・アールズその人だった。

 ――あ、もう起きたんだ? 結構怪我してたみたいだし、勝手に治療とかしちゃったんだけど、気分が悪いとかあるかな?

 なのはが知るメルルとは異なり、どこか淡々とした調子で彼女は告げる。
 そんな彼女に対して彼は当然の感謝を告げ、やがて彼女と共に日々を過ごすようになった。
 彼と過ごす日々の中で彼女は次第に明るく活発に――彼女と過ごす日々の中で、彼は少しずつそれまでの自身とは異なる現状を受け入れていく。
 傍目に見れば仲睦まじい恋人同士にも見えるけれど、当の本人たちはそうした感情をみせることなく日々を過ごしていった。
 失われることのない日々――それが長く続いてほしいと願う一方で、いつかは失われるのだろうと構えているようにも見える。
 そんな彼の予感は的外れとならず、彼女が作り上げた異世界を渡る道具によって異なる世界へ。
 それが別れの予兆であることを予感しながらも目の前の現実を直視し、現状を認めて受け入れていく。
 やがて再び世界を移動し、自身を救ってくれたメルルとも離れ離れとなった士郎は、新たに目覚めた世界で独り空を見上げた。

 ――今度は自分を救ってあげなさい…か。俺にそんな贅沢が許されるのかな……。

 それは彼が故郷を後にしてから百年余り――ただの一度も零すことのなかった弱音だった。
 長い年月を歩き続け、自身の道を完遂した彼が再び得た生――。
 自身に未来をくれた人からの言葉を思い返しながら、ようやく受け入れ始めた日々を再び失った事を自覚する。
 かつてのように過ごすことはもう出来ない。けれど、自身が歩んでいくべき道筋も見えない。
 元より生きるということそのものが彼にとっては苦難であり、大切な人への誓いと決意だけを支えに彼は歩んでこれた。
 それを失い、共に歩めるかもしれないと思った人とも離れ離れとなり、いよいよ彼は自身の歩むべき道筋を見失ってしまう。
 生きている限りは生きていかなければ、自身を救ってくれた人たちに申し訳がないと――。
 彼は自身の現状をありのまま受け入れ、新たに訪れた世界で過ごしていくことを受け入れた。
 そうして惰性のまま生きていくことを受け入れようとしていた彼の前に一人の少女が現れる。
 胸を締め付ける寂しさを吐き出すように声を上げる少女と出会ったその瞬間――少女本人であるなのはは意識を取り戻した。

「……白野さんが見せてくれた士郎くんの過去……私と出会う前の士郎くんの真実――これが、私にとっての"闇"……?」

 問いかけるような言葉に返答はない。けれど、確かに――と僅かばかり納得する。
 闇の書の意思と戦い、捕らえられて引きずり込まれた場所で見た夢は確かに何度見ても衝撃的なものだった。
 彼が辿ってきた道筋は決して綺麗なものではなく、人の世界の醜さや酷さを凝縮したようなものだったからだ。

「――だけど、それでも士郎くんは笑ってた」

 士郎は自身の過去を背負ったまま、今という現実を歩んでいこうとしている。
 なら――いつかは彼と肩を並べたいと願う自身が、他人の過去を理由に歩みを止める道理などあってはならない。

「レイジングハート」
『――はい』

 闇の只中ではっきりと目を開き、自身の手に握られたままの愛機へと声をかける。
 主の目覚めを待っていたというように返ってきたレイジングハートからの即答に笑みを浮かべ、なのはは杖を握る手に力を込めた。
 見れば、闇色しか無かった視線の先から僅かに光が覗き始める。その変化に気を引き締めて視線を向けると、そこから見知った人物が下りてくるのが見えた。

「白野さん……どうしてここに?」
「どうしてって……夜天の書に吸収されたからに決まってるでしょ。まあ、あなたのところに最初に来れたのは偶然だけど」

 当然といった様子で告げた白野は、そのまま自身が落ちてきた場所を指差して視線を向ける。

「道は開いておいたわよ。リンクが切れてるからこの程度のことしかしてあげられないけど、あなたなら大丈夫でしょう?」

 ここから外に繋がる道筋は用意したと――後はなのは次第だと告げる白野に対して小さく頭を下げる。
 交わした言葉はそれだけ――気がついた時には既にその姿を消していた白野に驚くこともせず、なのはは杖を構えた。

「これが私の迷い――闇だっていうのなら、全力全開で撃ち抜くだけ!!」
『スターライトブレイカー。スタンバイ――』

 なのはの決意に応えるようにレイジングハートが魔法を放つ準備を整えていく。
 ――なのはが保有する最大最強の砲撃。
 魔力カートリッジに装填されている七発の弾丸全てを炸裂させ、得られた膨大な魔力と周囲に満ちる魔力を収束していく。
 放てば反動で自身の身体やレイジングハートの機体に大きな負担がかかり、暫く魔力運用が困難になるだろう。
 それでも――自身が抱えていた"闇"から目を逸らしたままで過ごすよりは遥かにいい。

「――スターライト……ブレイカー!!!」

 どこまでも深い闇の彼方へ向けて放つ全力全開の砲撃――。
 それは闇に満ちた空間を照らし、どこまでも続いているように見えた空間の境界を撃ち貫いて見せる。
 そうして出来た空洞から徐々に広がる光は夜明けの空のようにも見える。
 深い闇に浮かぶ目映い空――砲撃の反動に軋む自身の身体を叱咤して、なのは真っ直ぐに空へと向かって飛翔するのだった。
 

 

Episode 71 -夢に見た光景-

 
前書き
本編第七十一話です。 

 

 闇に浮かぶ光の向こう――なのはが飛び出した空の先に見たのは、夜空の下で戦う四つの人影だった。
 管理局の制服に身を包んだ二人の女性――リンディとプレシア。
 そして、その二人と連携して剣を振るいながらも自身の周囲に展開した剣を放つ士郎――。
 そんな三人を一度に相手しているのは、なのはが戦っていた時よりも苦しげに――しかし圧倒的な魔力を振るう闇の書の意思である女性だ。

『――マスター』
「うん。行こうか、レイジングハート」

 空になったマガジンを破棄し、即座に予備のマガジンをレイジングハートの機体に装着する。
 収束砲を放った反動は確かに残っており、なのはもレイジングハートも決して万全とは言い難い状態であることは間違いない。
 そんな承知済みの事を再度確認しながら照準を合わせて魔力を収束させていく。狙うのは、士郎の斬撃を彼女が防ごうとする一瞬――。

「――シュート!!!」

 カートリッジをロードすると同時に放ったディバインバスターが、左腕を振り上げようとしていた闇の書の意思へと迫る。
 その砲撃に誰よりも早く気付いたのはプレシアでもリンディでも……そして、砲撃を放たれた当人である闇の書の意思でもなく――宙を跳ねるようにして闇の書の意思と斬り合いをしていた士郎だった。

「――いい援護だ、なのは」

 僅かに後れて砲撃に気付いたのは闇の書の意思だ。
 なのはの放った砲撃を辛うじて回避して見せた彼女が見せた一瞬の隙――そこを突くように振るわれた士郎の二刀が彼女の障壁を切り裂き、好機とばかりにプレシアやリンディが彼女へ向けて魔法を放つ。
 同時に、間髪入れずに双剣を破棄した士郎がその手に握り締めた小さなナイフのようなモノを突き出そうとする。
 ――僅か一秒にも満たない濃密な瞬間。
 瞬きの内に行われた連続攻撃を前にして、闇の書の意思はあらゆる魔法を無防備に受けてでも士郎の攻撃を回避するという無謀を選んだ。
 強力な雷撃と高密度に圧縮された魔力弾が殺到する。展開していた障壁や、その身に纏っていた多重障壁さえも失った状態でそれらの直撃を受けた彼女は、微かに苦悶の声を零しながらも士郎たちから大きく距離を離していた。
 
「――士郎くん!!」
「――無事だったようだな、なのは」

 ビルの屋上に着地して油断無く構える士郎の傍へ駆けつけると、彼はいつもより淡泊に――けれど、はっきりとした声音で応えてくれる。
 一度だけなのはへと向けられた視線も既に闇の書の意思へと向けられており、その意識が彼女にだけ向けられている事はなのはにも理解することができた。

「――契約破りの短剣……やはり、それを使ってきましたか」

 届く声になのはもそちらへと視線を向ける。
 苦しげにしながら、それでも彼女――闇の書の意思の視線は真っ直ぐに士郎だけを見据えていた。

「そうですね。或いは――それを使えば、私と主の融合状態は解除されるかもしれません。ですが、今の状態でそれを行えば、枷を失って暴走する防衛プログラムに主が呑み込まれるだけです」
「……その言いようだと、やはり君は防衛プログラムの暴走を抑えようとしているようだな」

 確信の篭った士郎の言葉には肯定も否定も返ってこない。
 それは答えるまでもないと――言葉にするよりも、その態度がなによりも雄弁に語っていた。

「……もう、時間は殆ど残されていません。だから……どうか、お休みを。覚めない眠り、永遠の夢を――」
「――永遠なんて……ないよ」

 遮るように零れたなのはの言葉に、闇の書の意思はようやくその視線をなのはへと向けてくる。
 今はもう零れていない涙――けれど、心の中でまだ泣いているのがはっきりと分かる悲しみに満ちたその目を真っ直ぐに見据えた。

「誰だって――どんな人だって、きっといつかは足を止めて眠る時がくるんだと思う。だから、いつかはみんな眠るよ。だけど、それは今じゃない――!!」

 かつて独りで戦い続けた士郎が、一度はその歩みを止めて眠ろうとしたように――。
 歩く速度や進む方向がそれぞれに異なっていたとしても、きっと誰もがいつかは足を止めるだろう。
 ――けれど、それは諦めの果てに望むものでは決してないはずだという確信が今のなのはにはあった。

「――レイジングハート。エクセリオンモード――ドライブ!!」

 レイジングハートとの間で魔力を循環させているシステムをフルドライブさせ、二発のカートリッジを使用して発生した魔力の全てをなのは自身の能力強化に全て注ぎ込む。
 安全措置を最大限放棄し、自身とレイジングハートへの膨大な負担を犠牲に絶大なブーストを掛ける切り札。バリアジャケットも防御力と瞬間加速能力の強化に重きをおいた仕様のエクセリオンモード――。

「悲しみも、悪い夢も……終わらせてみせる。私が――私たちが!!」

 なのはの変化に合わせて形状をより先鋭化させたレイジングハートを構える。
 合わせるように隣に立つ士郎が弓を構えた姿を見て、なのはは視線だけを士郎へと向けた。

「障壁を抜いても隙を見せないのなら、魔力ダメージを蓄積させる他に手はない」
「――うん」
「呼吸はこちらで合わせよう。プレシアとリンディもいる――いくぞ、なのは」

 その言葉――なのはを信頼しての言葉に、僅かに口の端を緩めそうになって直ぐに引き締める。
 肩に掛かるその信頼に違わぬように――そしてなにより、悲しみに涙する人を助けるために、なのはは全力で闇の書の意思へと向けて飛び立つのだった。


 -Interlude-


 目を覚ました瞬間にフェイトの視界に映ったのは、半球型の天井に描かれた夜空――そして、室内を照らす照明を兼ねた星々だった。
 柔らかく暖かなベッドの上で身体を起こし、周囲を眺めて――ふと自身の隣に気配を感じて視線を向ける。
 そこには、子犬の姿で気持ちよさそうに眠るアルフともう一人――幼さを残した顔つきをそのままに心地よさげに寝ている少女がいた。
 
「ここは……それに、この子は――」
「――フェイト。アリシア、アルフ……もう朝ですよ」

 扉を叩く小さな音の後、部屋の扉を開けて入ってきたのは、母であるプレシアの使い魔であったリニスだ。
 山猫を元に生み出された使い魔であり、フェイトやアルフにとっては大切な家族で、フェイトの魔導の師でもあった女性――。
 そんな彼女がどうして生きているのか――なにより、直ぐ隣に寝ている少女を見間違える筈などあるわけがない。

「まさか……でも、どうして――」

 リニスによって開け放たれた暗幕の向こうから差し込む朝日――その眩しさに目を細めながら、もう一度視線を少女へと向ける。

「ん……おはよーフェイト」

 寝惚け声で告げる少女――アリシア・テスタロッサは、眠たそうに起きたアルフの頭を撫でながら柔らかな笑顔を浮かべていた。

「まだ眠たそうですね。どうせまた二人とも夜更かしをしていたんでしょう? 早寝早起きのフェイトを見習ってくださいね。アリシアはお姉さんなんですから」
「はーい」

 優しく言い含めるように告げるリニスに笑顔で答えるアリシア――。
 そのやり取りを眺めながら、フェイトは自身の傍に愛機のバルディッシュが存在していないことに気付いて小さく息をついた。

「どうかしたの、フェイト?」
「……ううん。なんでもないよ、アリシア」

 心配そうに覗き込んでくるアリシアに笑顔を浮かべて答える。
 辿れないバルディッシュとの繋がり――そして、目の前の光景と自身の記憶の齟齬から、これが夢の中であることをフェイトは静かに確信した。

「さて、起きたなら着替えを済ませて朝食にしましょう。プレシアと私で用意した朝食は中庭のテーブルに運んでありますからね」

 優しく告げて部屋を後にするリニスに合わせて全員でベッドから下りる。
 いつも身につけていた白い髪留めは其処には無く、あったのは以前になのはと交換したはずの黒いリボン――。
 記憶との差異にどうにか折り合いをつけながらリボンを身につけ、同じように水色のリボンで髪を留めようとしているアリシアを手伝う。
 そうして各々に支度を済ませたフェイトは、アリシアやアルフと共に見慣れた景色を眺めながら其処へ――晴れやかな青空に照らされた時の庭園の中庭へと向かった。

「――おはようございます、母さん」

 中庭のテーブルに備え付けられている席に腰掛けていたのは、すっかり見慣れた母の姿だった。
 士郎によって救われ、フェイトに刻まれていたアリシアの記憶に残っていた若々しい姿よりも更に若くなった姿のままで、彼女はゆっくりとフェイトたちへと振り向いて笑顔を浮かべた。

「おはよう。今日はみんな早かったわね」
「ちゃんと起きていたのはフェイトだけでしたよ。アリシアとアルフの二人はいつも通りです」
「あら、そうだったの」

 和やかに会話するプレシアとリニスの姿を眺めながらアリシアとアルフがそれぞれの席へと移動していく。
 ――疑問や疑念はそのままに、フェイトも彼女たちに続いて席へと向かう。
 全員が着席した事を確認したリニスが配膳を開始する傍ら――プレシアとアリシアが笑顔で語らうその姿を見て、フェイトは込み上げてくる涙を必死に堪えていた。
 これは間違いなく夢だと確信している。それも、フェイトが望んでいた優しい夢……プレシアがいて、リニスがいて、アルフがいて――そしてアリシアがいる優しく幸福な夢だ。
 プレシアと和解し、親子として過ごすようになって暫くした頃から心の底で思い続けた光景――それがいま、フェイトの目の前に広がる夢のような景色だった。

「今日は天気も良いし、朝食を食べたらみんなで街へ出ましょうか」

 プレシアの提案に喜びの声を上げるアリシアたち。
 そんな皆を眺めた後、プレシアは優しく微笑みながらフェイトへと顔を向けてきた。

「街に出たら、フェイトには新しいお洋服を買ってあげないとね」
「あ~フェイトばっかり、ずるいよ! 私も欲しい!」

 どこか拗ねたような声を上げるアリシアの無邪気な姿に思わず苦笑する。
 そんな彼女の直ぐ後ろ――席につかずに控えていたリニスが、仕方が無いと言った様子で柔らかく笑いながらアリシアへと語りかけた。

「フェイトが魔導試験満点を取ったご褒美ですよ。アリシアも負けずに頑張らないといけませんね」
「そうだぞ~」

 リニスの言葉に同意するように告げるアルフ――二人からの言葉をうけたアリシアは、少しばかり悩んで見せてからテーブルの下へと潜ってしまう。
 そうしてフェイトの足下へやってきたアリシアは、テーブルの下から覗き込むようにフェイトを見上げながらその両の手を合わせた。

「ねえ、フェイト……今度の試験の日に、補習をお願いね……」

 小さな声で頼み込んでくる小さな少女――自身にとって、正しく姉であるはずの少女が見せる無邪気な仕草に堪えていた涙が零れてしまった。

「フェイト……どうかしたんですか?」
「フェイト――」

 リニスとプレシアの心配そうな声が耳に届く。
 零れた涙を拭いながら嗚咽を零すことだけは堪えて、フェイトは静かに首を横に振った。

「ちょっと……目にゴミが入ったみたいで……大丈夫だから」

 誤魔化しになっているのかどうかも怪しい言葉を口にして、大丈夫だと笑みを浮かべて見せる。
 優しさに満ちた夢のような光景――それが正しく夢に過ぎないとしても、いまこの時だけはせめてこの夢を過ごす事を許して欲しいと願わずにはいられなかった。


 -Interlude-


 暗闇に満ちた微睡みの中にいる少女――主である八神はやてを眺めながら、夜天の魔導書の意思である彼女は静かに佇んでいた。

「ん……ねむい………」

 強制される眠りに抗っているのか、或いは"外"の戦いが響いているのか――。
 彼女の主である少女は、この空間の中でさえ車椅子に腰掛けたままぼんやりと薄目を開けて呟いた。

「どうか、そのままお休みください。我が主――貴女の望みは全て私が叶えます」

 例えそれが夢の中でのことであろうと、覚めない夢は現実と変わることのない真実だ。
 破滅の瞬間を迎えるその時まで、せめて心安らかに過ごしてもらいたい。そのためには主の望みを叶えなければ――。

「望み……わたしは……なにを………望んで……」
「悲しい現実を夢だと信じたいと――優しい兄にいつものように笑いかけてほしいと……」

 長く孤独な日々を送ってきた少女が、無理だと悟りながらも心の何処かで望み続けていた幸せな日々。
 幸福で満ち足りた日々――そんな日常を失いたくないと、絶望の淵で願われた主にせめて望むままの夢を――。

「――健康な身体や愛する者たちとの日々……これまで積み重ねてきた幸福な日常」
「わたしが……願った幸せ……」
「眠ってください。そうすれば、夢の世界で貴女はずっとそんな世界にいられます。傷つかず、悲しみも痛みも存在しないそんな世界に――」

 現実には存在し得ないことも夢の中でなら可能となる。
 外部での戦闘が激化しているためか、この空間にすら既に影響が現れ始めていた。
 そうなる前に……全てが破綻する前に眠りについてもらわなければ、彼女は再び辛い現実に直面しなければならなくなるのだから――。


 -Interlude-


 庭園の外に広がる森の中――生え揃った芝の上で寝転がりながら陽光を背に読書するアリシア。
 フェイトはそんな彼女を木陰から見守りながら、背にした木々の隙間から覗く青空へと視線を上げた。

「あれ……?」

 唐突に聞こえてくる遠雷の音――曇り始めた空を眺めてアリシアが声を零す。
 見上げていた空は瞬く間に曇天へと移り変わり、空を走る雷と共に雷鳴が鳴り響いた。

「せっかく良いお天気だったのに、天気悪くなっちゃったね。このままここにいても濡れちゃうだけかな……しょうがないからそろそろ帰ろっか、フェイト」

 二人揃って家に戻ろうと――そんな当たり前の言葉を告げるアリシアに、フェイトは応えることができなかった。

「もう、ゆっくりしてると雨が降ってきちゃうよ。フェイトってば……!」
「ごめん、アリシア。私はもう少しここにいるから」

 感情を表に出さず、出来る限り淡々と告げる。
 それをどう受け止めたのか――アリシアは少しだけ疑問に首を傾げた後、自分もそうすると告げてフェイトの側へと腰掛けた。

「こうしてふたり一緒に雨宿り――うん、たまにはこういうのもいいよね」

 直ぐ隣に腰掛け、その頭をフェイトの肩に乗せたアリシアは満面の笑みを浮かべていた。
 降り始めた小雨はすぐに勢いを増し、数秒後には激しく降り始めてしまう。
 雨音を耳に届けながら、フェイトは目を覚ましてからずっと口にすることの出来なかった真実を口にする覚悟を決めた。

「――ねえ、アリシア。これは……ここは夢の中……なんだよね?」

 問いかけに応える声はなく、僅かばかりの静寂がアリシアとの間に生まれる。
 聞こえる音は地を打つ雨音だけ。そうして数秒が過ぎた後、アリシアはそれまでよりも冷静で落ち着いた口調で応えた。

「フェイトは変なことを言う子だね。これが……ここが夢の中だなんて……そんなことあるわけないじゃない」

 何かを悟ったような口調は幼いアリシアの容姿には到底似合わない。
 それでも、彼女は歪みそうになる表情を堪えていつもの明るい笑みを浮かべようとしていた。

「……アリシアと私は同じ時間を生きられない。だって、アリシアが生きていたら私は生まれてさえいないんだから」

 不慮の事故でアリシアを失い、失意の果てに彼女を生き返らせようと母であるプレシアが行った禁忌の研究――。
 その成果として生み出されたフェイトは、その出自からしてアリシアとはどうあっても共に存在できない運命の元にある。
 そんな非情で悲しい現実を口にしながら、フェイトは自身がプレシアと過ごし始めてから少しずつ抱き始めた思いを口にしていく。

「母さんが私をアリシアの妹だと認めてくれて、一緒に家族として暮らせるようになって……ずっと思ってた。ああ、ここにアリシアがいてくれたらって――」

 母であるプレシアから向けられる愛情を信じられないほど今のフェイトは孤独ではない。
 それでも――ふとした瞬間に思うことはあったのだ。
 ここにアリシアもいてくれたら――そうなればどれだけ幸福だろうか……と。
 そんなフェイトからの言葉に、アリシアは先程まで浮かべていた明るい笑顔を消してどこか悲しげに苦笑していた。

「……お母さん、凄く一生懸命な人なんだよ。死んじゃった私を生き返らせようとして、でも出来なくて――」
「……うん」

 それまでとは異なる真剣な口調――そこに込められたアリシアの想いに応えるように小さく頷きを返す。

「そんなお母さんが、ようやく私がいなくなったことを受け入れて前に進んでくれたの。ちょっと寂しい気がするけど、それはきっと正しいことだと思う。だけど、フェイトがそう思ってくれるのは凄く嬉しいな」

 自身の死を前提とした日常を生きているフェイトを妬むでもなく、アリシアは笑顔を浮かべて断言する。
 けれど、それが強がりだという事は考えるまでもない。アリシアの表情は次第に歪み、彼女はそれを隠すように悲しみと寂しさを同居させたような笑みを浮かべた。

「――ねえ、フェイト。別に夢でもいいじゃない。ここにいようよ……ずっと一緒に……みんなで楽しく暮らすの」

 ――それは、アリシアなりの精一杯の希望だったのだろう。
 こうして夢の中とはいえ、現実と紛う世界の中で一人の人間として存在している今の彼女が夢を夢と知りながらも口にした小さな願望――。

「……私も、ここでならフェイトのお姉ちゃんでいられるもの。お母さんやリニス、アルフだって一緒にいる――」

 それは紛れも無く、フェイトが心の底で望んでいた夢の光景だった。
 失われた人のない世界。こぼれ落ちた幸福を有りの儘に享受できる夢の世界で過ごせたなら、それはどんなに幸福だろうか――。

「――家族みんなで仲良く一緒に暮らすの。きっと楽しいことだって、いっぱいあるよ」

 泣き笑いを浮かべながら告げるアリシアの視線を正面から受け止める。
 悲しみに揺れるその瞳を覗き込み、口にしなければならない言葉を飲み込んでしまいそうになる自身をごまかすように視線を逸らした。

「フェイトがずっと望んでいた夢……欲しかった幸せ……ここでなら、全部あげられるよ」

 自身の膝の上に置いていた手にそっと重ねられるアリシアの手――その小ささと暖かさは、これが夢であるとは思えないほどだった。
 鳴り響く雷鳴――それを耳に届けながら、フェイトはそっと彼女の手から離れてゆっくりと立ち上がる。

「――ありがとう、アリシア」

 告げる言葉は心の底からの感謝だった。
 本来であればアリシアこそが得ることの出来た幸福な日々――それを享受しているフェイトを彼女は恨んでもいい筈だ。
 それでもアリシアはただの一度もそうした感情をみせることなく、今でさえもフェイトを心配するようにその表情を曇らせている。

「だけど……ごめんね。私は、行かなくちゃ――」
 
 外ではきっとプレシアや士郎が待ってくれているだろう。
 一緒に闇の書へと飲み込まれたなのはも、きっと既に夢を振り払って外に出ていると確信できる。
 だから行かなくてはいけない――そんな覚悟の宣言にアリシアは一度瞑目し、開かれた瞼の奥で揺れる瞳を俯かせてからゆっくりと立ち上がった。 

「フェイトが謝ることなんてひとつもないよ。だって、ごめんね……は、私のほうだもん――」

 湿った草の上を歩きながら、アリシアは水音と共にフェイトの側へとやってくる。
 そうしてフェイトの目前にやってきたアリシアは、そっと手のひらを合わせた両手を差し出してきた。
 閉じられていた手のひらがゆっくりと開かれていていく。開かれたその手のひらの上には、フェイトの愛機であるバルディッシュの姿があった。

「――本当はわかってたの。だけど、少しでも……たとえ夢の中でもなんでも、ほんの少しでいいからみんなで一緒にいたかったの」

 悲しみを浮かべた表情のまま告げるアリシアに何も言えず、ただ立ち尽くしてしまう。
 アリシアはそんなフェイトの手を握って、自身の手にあるバルディッシュをフェイトの手へと渡してくれた。
 それは別れの挨拶に違いなく、こうして巡り合うことのできた姉妹としての時間の終わりを告げるものに他ならない。
 夢の中でしか許されなかった幸福――その奇跡に別れを告げるように、フェイトはアリシアの身体を静かに抱き寄せた。

「ごめん……ごめんね、アリシア。それでも私は……」
「いいよ。だって、私はフェイトのお姉ちゃんだもん。だから、可愛い妹の応援をしてあげないとね」

 優しく囁くような声音に両の目から涙が溢れ出す。
 堪えることも出来ず、フェイトはただアリシアを抱いたまま静かに身体を震わせた。

「外で友達が待ってるんでしょう? 優しい人たちも……それに、お母さんもフェイトが戻ってくるのをきっと待ってるよ」
「……うん」
「じゃあ……いってらっしゃい、フェイト」

 どこまでも優しくフェイトを包み込むようなアリシアの言葉に涙が止めどなく零れていく。
 頬を伝っていく涙がこぼれ落ちていくのを感じながら、フェイトはアリシアを抱きしめている腕の力を強めた。

「ありがとう……お姉ちゃん…………大好き…っ…!!」
「……うん。私も――大好きだよ……フェイト」

 揺れる声と共に抱きしめられているアリシアの腕に力が入る。
 互いに相手を強く抱きしめ、互いの存在を確認しながらアリシアはもう一度だけ優しく微笑んだ。

「ずっとずっと……元気でね、フェイト。お母さんのこと、大切にしてあげてね」
「……うん」

 最後にそんなやり取りを終えて、互いの腕を解いて身を離す。
 アリシアは雨に打たれながらも真っ直ぐに立ってフェイトを見送ってくれた。
 振り返り、そんなアリシアに背を向けて真っ直ぐに歩いていく。もう二度と振り返ることなく、ゆっくりと確かな足取りで――。
 別れは此処に――決意と思い出だけを胸に秘めて、フェイトは自身がいるべき場所へ戻るためにその足を進ませていくのだった。


 -Interlude-


 雨が強まる中、別れの言葉を交わした妹が去っていく姿を眺め続ける少女――。
 そんな彼女を木陰から見守っていた白野は、少女の妹であるフェイト・テスタロッサがいなくなった途端に泣き崩れた少女の元へと歩いていく。

「――よく……頑張ったわね」

 涙を流しながらも決して声を零すことなく体を震わせる少女の前で膝を下ろし、そっと彼女の身体を抱き締める。
 そんな白野の行動に少女は一瞬だけ涙に濡れた瞳を向け――そのまま白野の胸元に顔を押し当てながら嗚咽を零した。

「わた…し……ちゃんと……頑張ったよ。お姉ちゃんらしく……頑張って――」
「ええ、ちゃんと見ていたわ。貴女が妹のために頑張っていた姿を……私は、しっかりと見ていた」

 悲しみに震えながら、それでも笑顔を浮かべて妹を送り出した少女の姿には確かな尊さが感じられた。
 自身の望み――願望を押し殺し、それでもただ大好きな妹のためにと送り出した少女の想いは確かに白野の胸に届いたのだ。

「……本当は、もっと一緒にいたかったの」
「……ええ」
「もっと一緒にいて――みんなで仲良く暮らしていたかった……」

 それが叶えることのできない夢だと悟っていても、そう思うことそのものを否定する権利は誰にもないのだから――。
 ――次第に透けていく少女の体を暫く抱き締め続ける。
 やがて腕に抱いた感触は消えていき、少女の身体は光の欠片となって空へと昇っていった。

「おやすみなさい、アリシア――」

 夢の中の存在――恐らくは本物のアリシアとは異なる存在であった少女が、かつての自身と似ていると白野は思っていた。
 互いに本物を模して生み出された存在同士――アリシアの姿に深い共感を覚えてしまった白野は、光の消えていった空を見上げながらゆっくりと頷いてみせるのだった。


 

 

Episode 72 -呪いを解き放つ光-



 駆け抜けるように過ぎていく景色――。
 街中を抜けて海上に飛び出したなのはの視界には地面から突き立つ無数の岸壁と、その間を縫うように並走してくる闇の書の意思だけが映っている。
 速度は間違いなく相手が上手――けれど、それは決して圧倒的な差ではない。
 これまで積み重ねてきた鍛錬と向上した魔導による空戦機動を駆使し、相手の隙を生み出そうと砲撃を続ける。

「――無駄だ。一つ覚えの砲撃では陽動にすらならないとわかっているだろうに」

 速射砲の大半は回避され、僅かに直撃した砲弾は鉄壁の障壁に弾き飛ばされていく。
 ――確かに速度を重視した砲撃で貫けるほど彼女の障壁は柔ではない。
 それでも撃ち続けるのは、なのはが決して一人で戦っているわけではないからだ。
 なのはに向けて放たれる魔力弾――それが直撃する直前、なのはの目前に幾重もの障壁が展開される。
 正面から受け止めるのではなく、あくまでも逸らす事を目的に展開されたソレは遠方から援護してくれているリンディのものだ。
 直後――周囲の空間に展開される幾つもの魔法陣から無数の魔力刃が飛び出し、彼女へと殺到する。
 プレシアの転移魔法に士郎の魔力刃を組み合わせた全方位攻撃――。
 その全てを彼女は咄嗟に展開した剣群で打ち払ってみせる――が、その動きは一瞬だけとはいえ間違いなく止まっていた。

「――ディバイン、バスター!!」

 二発のカートリッジを使用しての砲撃――僅かな隙を突いて放ったソレは、間違いなく彼女へと直撃する。
 猛烈な爆風と爆煙――その中から無傷のまま、けれど僅かに苦しそうな素振りをみせる彼女が飛び出してきた。
 直線的に迫ってくる彼女が構えているのは左腕――その腕に装着された杭を撃ち込もうと振り被り……即座に距離を離した。
 見れば、彼女のすぐ背後には弧を描いて迫る白と黒の双剣がある。
 いつか見た映像を思い出したなのはも同じように距離を離そうとして――即座に思い留まる。
 転移魔法陣から続けて飛翔してくる新たな双剣。合計四本もの剣が高速で回転し、まるで吸い寄せられるように闇の書へと向かっていく。
 数秒後の光景を予測してみせたなのはは、ここを最大の好機と判断してレイジングハートを構えた。

『A.C.Sスタンバイ。ストライクフレーム――』

 レイジングハート本体の先端に形成される高密度魔力刃――。
 砲口を兼ねたその先端を相手へと向け、カートリッジを使用して全身に魔力を漲らせる。

「――エクセリオンバスターA.C.S!」

 時間にして二秒程度の準備時間――通常であれば致命的なそれを補うように炸裂する四つの曲刀。
 その爆風の中心地で全身を覆うように障壁を展開しながら苦悶の表情を浮かべる闇の書の意思を視界に捉える。

「ドライブ――!!」

 槍の先端を向けるように構えたまま飛翔する。
 自身に可能な全力の突撃――全力全開の加速で彼女へと肉薄し、槍の先端を突き出す。
 当然のように激突する障壁と魔力刃――拮抗するその衝突をそのままに自身の加速を増していく。
 彼女の身体諸共空を駆け、無数に聳える岩塊を幾つも突き破りながら更に加速――。
 そうして巨大な岩塊に彼女を押し付ける形となったなのはは、自身に掛かる負担を度外視してカートリッジ三発をロードした。

「……届かせる!!!」

 後先を考えていられるほど、今のなのはに余裕などない。
 彼女の障壁が完璧ではない今この瞬間に、自身が放てる最強クラスの砲撃を――。
 拮抗状態の魔力刃が徐々に彼女の障壁を貫いていき、その先端が間違いなく彼女が展開する障壁の内側へと押し込めた事を確信する。

「――まさか……っ!?」

 障壁を抜かれたことに驚きの声を零す彼女に向け、渾身の魔力を魔力刃の先端に収束させていく。
 スターライトブレイカーと並ぶ、現時点でのなのはに可能な最大威力の砲撃魔法――エクセリオンバスター。
 その収束を相手の障壁内部に侵入させた槍の先端で終えたなのはは、自身への反動を承知した上でゼロ距離砲撃を敢行した。

「ブレイク……シュート!!!」

 直撃する渾身の砲撃――それは闇の書の意思を呑み込み、同時に術者であるなのは自身の身体にも多大な反動を与えた。
 確実に当てるためとはいえ、密着してのゼロ距離砲撃――直撃の余波が自身を傷つけることなど想像するまでもなく当然のことだ。
 発生した膨大な熱量を排出するレイジングハートを眺めながら、傷ついた全身から感じられる苦痛になのはは思わず表情を曇らせる。

「……直撃したはず。これでダメなら――」
『マスター』

 レイジングハートの声と共に、再び空へと舞い上がってくる闇の書の意思――。
 士郎の攻撃である程度障壁が薄れていたためか、彼女とて全くの無傷というわけではない。
 それでも――なのはの渾身の砲撃をゼロ距離で受けて尚、彼女には殆どダメージを与えることが出来ていなかった。

「――いや、全く通用していないというわけでもないようだ」

 唐突に隣から聞こえてきた声に視線を向けると、そこには宙に立つ士郎の姿があった。
 飛行魔法を使用しているわけではなく、魔力で足場を用意してその上に立っているらしい。
 
「君の砲撃は間違いなく効いているはずだ。その証拠に彼女の左腕は――」
「あれは……」

 士郎の言葉が示すように、変化は彼女の左腕に現れていた。
 彼女が左腕に装着しているデバイスのような物体――そこから漏れ出るように蠢く蛇の身体がなのはの目にもハッキリと見える。

「彼女が抑え込んでいるという防衛プログラムだろう。それを抑えきれなくなってきているようだ」

 士郎の推測が正しいのなら、事態は好転したどころか悪化したとも言える。
 魔力ダメージを与えたことで暴走を早めてしまったというのなら、事態は更に切迫したものとなるからだ。

「目に見えて余裕も失われてきている。このままいけば、やがて大きな隙を晒してくれるはずだ」

 暴走が近づき、相手の冷静さが失われれば隙が生まれると――。
 その瞬間こそが好機だと告げる士郎が切り札として考えているのは恐らく、彼女に対して一度は振るったあの奇妙な短剣の筈だ。
 契約破りの短剣――それを使用すれば闇の書の意思とはやての融合状態を解除できるかもしれないとは当の闇の書の意思が告げた言葉に違いない。
 はやてと闇の書が物理的に離れる事になれば、恐らく士郎は持ち得る全ての方法を用いて暴走した闇の書に全力で攻撃を行うつもりなのだろう。

「あの短剣は魔術で構成されたモノを初期化する能力を有している。彼女の融合状態や他者の吸収が魔法現象である以上、上手くいけば融合を解除して取り込まれた者たちも全員救い出せるはずだ」
『――そういうことなら、融合状態が解除できたらすぐに魔導書と他の人たちを引き離して頂戴。氷結魔法で即座に封印処置を施すわ』
『プレシアに持たせているデバイスには最大級の氷結魔法がインプットされているわ。それを使って確実に封印が出来る保証はないけど、最悪でも時間稼ぎ位は出来るはずよ』

 士郎の言葉に被せるようにプレシアとリンディからの念話が届く。
 出来る限り戦域から離れて後方支援に徹してくれている二人の言葉に頷く士郎と同じくなのはも小さく頷いて応える。
 蠢く蛇を押さえつけるようにしながら声を上げる闇の書の意思――苦痛と苦悩に満ちた咆哮を前に、なのはは傷ついた身体を厭わず体勢を整える。

「持久戦ならこちらが適任だ。援護は任せる」
「――うん」

 巨大な双剣を構えてみせる士郎に呼応するようにレイジングハートに魔力を込める。
 明らかに冷静さを失ってきている闇の書の意思――その瞳にはすでになのはの姿は映っておらず、ただ真っ直ぐに士郎だけを見据えていた。


 -Interlude-


 アリシアと別れた後、フェイトはそのまま雨の中を真っ直ぐに進んでいた。
 夢を夢と認識した瞬間から人の気配を感じさせなくなった時の庭園内部を歩きながら、一時の幸福な時間を思い返していく。
 そうして玉座の間に辿り着いたフェイトは足を止め、バルディッシュを手にバリアジャケットを展開する。

「家族皆で暮らす夢――本当に暖かくて、嬉しかったけど……」

 けれど夢は夢だ。どれほど幸福でも、自身が直面しているはずの現実を放り投げてまで受け入れていいものではない。
 そうして、魔力を全開に解き放ちながらフェイトは覚悟を固めていく。自身の奥底にあった淡い望みと希望……その全てに確かな別れを告げるために――。

「――もう迷わない。私がいるべき場所……私が守りたいものを守るために、私はここから先に進む」

 与えられた命と与えられた日常――その全てを有りの儘に受け入れて、ただ真っ直ぐに前へと進む。
 ――常に側にいてくれたアルフや、母として自身を受け入れてくれたプレシア。
 そして未来への道標を照らしてくれた士郎や、自身と肩を並べていきたいと言ってくれたなのはと共に歩んでいくために――。

「――いこう、バルディッシュ」
『――ザンバーフォーム』

 カートリッジ三発を炸裂させて発生した魔力を使用し、バルディッシュはその形状を変化させていく。
 鍔のように変形した先端から発生させるのは雷を纏った大剣――。
 戦斧の柄はそのまま大剣を支える柄となり、自身の身長を超えて余りある大剣を構えて術式を起動させる。

「リニス……それに、お姉ちゃん。夢の中でも、会えて嬉しかったよ――」

 もう二度とは会えない人たちに向けて感謝を告げる。
 いつも見守ってくれて、優しくしてくれて、戦う力を育ててくれたリニス――。
 フェイトが生まれてくる理由そのものであったアリシア――二人の家族に確かな別れを告げて、フェイトは剣を掲げるように構えた。

「――疾風迅雷!!」

 振り下ろすのは全てを断ち切る雷の剣――。
 それは時の庭園を切り裂き、薄暗い空を貫き、この夢の世界そのものを切り裂いていく。
 ――崩れていく夢の世界。
 砕けた世界の向こうに現れたのは、黒雲に包まれた現実の世界に違いない。
 現状を把握するまでもなく、フェイトが出現した直下で激しく激突している二つの人影が目に入る。
 闇の書の意思と赤い外套に身を包んだ士郎――二人が戦うその直上に現れたフェイトは、士郎に向けて放たれようとしていた巨大な矛に向けて大剣を振り下ろす。
 一刀の元に両断してみせた巨大な矛は海上へと落下し、大きな飛沫と共に海中へと消えていくのだった。

「――フェイトちゃん!!」
「ごめんね、なのは。少し遅れた」

 そんなことないと口にしながら首を振るなのはを横目に士郎へと目を向ける。
 未だ闇の書の意思と刃を交わしあっている士郎がその視線をフェイトへ向けるようなことはしなかったが、その口元が微かに笑みを刻んでいたのをフェイトは見逃さなかった。

『――無事でよかったわ……フェイト』

 母であるプレシアからの念話に僅かばかり表情を緩めてみせる。
 もう大丈夫だと――心の底からそう告げるように笑みを浮かべてみせたフェイトは、なのはと共に未だ戦闘中の士郎たちへと意識を向けるのだった。


 -Interlude-


 海中から空に向けて聳え立つ無数の岩壁――それらを足場にすること無く空を文字通り駆けていく。
 空を飛ぶ事のできない士郎の足下に作られる即席の足場は全て剣として作りだしているものだ。
 自身の特性からその形が尤も消費が少ないと判断しての事だったが、夜天の書との戦闘でその魔導を覚えたデバイスからの補助もあり、然程意識せずとも足場を用意する事ができる。
 結果――士郎は文字通り空を足場に走り、或いは跳んでを繰り返して擬似的な空戦を可能としていた。

「――状況はこちらに傾いている。手を引けないか?」
「どのような状況だろうと同じです! 私は貴方を主の元へ送る――それだけが……せめて、それだけでも!!」

 空を駆けながら激突する彼女は常に苦悶の表情を浮かべたまま桁外れの魔力を込めた拳を振るってくる。
 目に見えて蠢き始めている左腕の蛇を見れば、彼女が抱えている異常はあきらかだ。
 これが防衛プログラム暴走の予兆だというのなら、彼女は今どれほどの苦痛を感じながらそれを抑え込んでいるのだろうか――。
 ――なのはの砲撃を弾き、フェイトの追撃を跳ね返し、リンディの拘束魔法を引き千切り、プレシアが放つ雷撃を回避する。
 その上で士郎に肉薄して拳を振るう彼女の力と速度は、誰の目から見ても士郎とは比することさえできないほどに強力無比だ。
 だが、士郎にとっては戦い始めた頃の彼女と比べれば現状のほうが対処は容易であると断言できる。
 どれほど力と速度を込めようと、冷静さを失った単調な攻撃を捌くことなど今の士郎にとっては決して難しい事ではないのだから――。

「もう………時間が……ッ…――」

 掠れるような声を零しながら、その攻撃は更に苛烈になっていく。
 或いは――すでに彼女の意思ではなく、防衛プログラムが暴走を始めているのかもしれない。
 彼女は言った。現状で契約破りの短剣を使用すれば分離後に防衛プログラムを抑えきれずに暴走させてしまい、主諸共呑み込んでしまうかもしれないと――。
 だが、こうしている間にも防衛プログラムが暴走を始めているというのなら、もはや一刻の猶予もない。
 見れば左腕に装着されていたデバイスは既にその形を失い、今では完全に蠢く蛇と化している。
 恐らくは彼女が装着していたあのデバイスそのものが防衛プログラムを制御することで顕現していたものなのだろうが、それが形を失ったということはつまり――制御ができなくなったという事に他ならない。

「――やるなら、もうここしかない……か」

 上手くいく保証などなくとも、他に手がないのなら惑うわけにはいかない。
 覚悟を胸に契約破りの短剣をその手に具現化しようとして――ふいに聞こえてきた"声"に士郎はその手を止めるのだった。


 -Interlude-


 ひび割れた世界――その只中を歩いていく。
 胸に抱く光は全部で四つ。その全てを宝のように大切に抱えながら、白野は世界の中心へと向かった。

「――ようやく会えたわね」

 夢の終着点にして出発点――夜天の魔導書の管制融合騎と真の主である八神はやての二人を前に、白野は安堵にも似た吐息を零した。

「マスター……どうして、貴女がここに――」
「こう見えても、精神や魂での活動には慣れっこなの。魔術師(ウィザード)としてはへっぽこだった私だけど、伊達に長く聖杯と繋がっていたわけじゃないのよ」

 ――コードキャスト。
 霊子世界に於いては魔術と同様に扱われたソレは、極小のかけらとなった聖杯にも記録されている。
 だからといって出来る事など決して多くはないのだが、かつての岸波白野が扱えたモノであれば再現は可能だ。
 なにより――そうした手段を用いなくとも白野が彼女たちの元に辿り着けない道理など最初から存在していない。

「――貴女がその首飾りを身につけてくれていたから探す手間が省けたわ。言ってなかったかしら? その首飾りの宝石は私と繋がっているって――」

 白野が現実の世界で肉体を得て動けていたのは、あくまでも聖杯である宝石があればこそだ。
 それをメルルとエヴァの協力によって擬似的に肉体を得ただけ。白野自身はいつでも聖杯の中に存在しているのだから――。

「それで……ここに来て何をされるつもりですか?」
「とりあえずはやてを起こしてみようかなって思ってね。融合したっていっても元はその子の身体なわけだし、彼女の精神と魂を揺さぶり起こして表層に引き上げれば少なくとも士郎との戦闘は止まるでしょう?」

 管制人格の言葉に従って手を拱いていれば、やってくるのは紛れのない終幕だ。
 白野や士郎が行おうとしている方法で事態が解決できるかどうかは未知数だが、それでも座して破滅を待つよりは幾らもマシだという確信が白野にはあった。

「それに、どの道もう歯止めはきかない。魔導書に吸収した魔導師の一人――フェイトが放った一撃がこの空間に致命的な損傷を与えている。遅かれ早かれはやては目覚めるわ」

 取り込んだ者たちを夢へと誘う空間――けれど、それはもはや風前の灯火とも言える程に崩れ始めている。

「そうして、主に再び絶望を抱かせろと――そう…おっしゃるのですか?」

 目を覚ましたところで、待っているのは確実な破滅しかないと――。
 これまで幾度も同じような結末を迎えてきた彼女にとって、それはもはや絶対の結末に違いない。
 だが……例えそうだとしても、そこから目を背けていいという理屈にはならない――。

「――目の前の現実から目を背けても得られるものなんてない」

 それを突きつけることを必死に否定しようとするのは、彼女が主であるはやてを心の底から大切に思っているからだろう。
 これまで幾度となく破滅を迎えてきた彼女だからこそ、その結末を主であるはやてに突きつけたくないと思ってしまうのだろうが――。

「逃げてもいい……立ち向かってもいい。けど、それがどれだけ絶望的で救いのないものでも、直面している当人には紛れのない現実なのよ」

 確かに確実な破滅が待っているというのなら、それは幼いはやてにとって受け入れ難い現実かもしれない。
 それでも、夜天の主としての宿業を背負っているのは他の誰でも無くはやて自身なのだ。
 なら、その現実を前にしてどのような選択をしていくのかは最後の最後まではやて自身によって決められていくべきだろう。

「――けどまあ、何も独りで抱え込め……なんて酷いことは言わないわ。少し時間が掛かったけど、ちゃんとはやての味方を連れてきたのよ」

 告げて、白野は胸に抱いていた光を目前にゆっくりと放り投げる。
 ゆらりと宙に浮かぶ四つの光は、瞬きの間に形を変えて四つの人影を生み出した。

「メルルにエヴァ……それに、すずか嬢とアリサ嬢まで――」

 夢の世界に囚われていた四人――尤も、メルルとエヴァは囚われていたというよりも、浸っていたと表現するのが相応しい状態だったのだが……。

「――はやて!」
「――はやてちゃん!!」

 途端に駆け出すアリサとすずかの二人が眠ったままのはやてへと駆け寄っていく。
 純粋に友人を心配している様子の二人を邪魔するつもりはないのか、彼女は視線を俯かせてしまった。

「よもや当の本人ですら忘れかけていた過去を事細かに見せてくれるとはな……腹を貫かれた対価としては十分過ぎる報酬だな」
「そうだね。もうどうやっても思い出せないって……そう思ってたんだけど――それだけは感謝してもいいかな」

 自身の過去――深層に眠っていた記憶や情報の全てを夢として見ていたエヴァとメルルはそれぞれ満足そうな笑みを浮かべていた。
 本来であれば悪夢と受け取っても差し支えのない夢を見ていた彼女たちだが、今更自身の過去に拘るほど弱くは無かったということだろう。

「……う…ん……ここは……?」

 ふいに聞こえてきた声に全員の視線が集まる。
 この空間の中にあってさえ車椅子に腰掛けているはやては、アリサとすずかに囲まれた状態でゆっくりと目を開いていく。

「アリサちゃんに…すずかちゃん。それにエヴァとメルル――って、みんな無事やったんか!!」

 ようやく目が覚めたのか、ハッキリとした声で叫ぶはやての姿に全員が笑みを浮かべる。
 ただひとり……夜天の魔導書の管制人格である彼女を除いて――。

「生憎、腹を貫かれた程度では死ねぬ身体でな。もっとも、これは私の体質というよりはメルルの薬の効果が大きいのかもしれんな」
「どうなんだろ……今度その辺りの確認をするために実験でもしてみる?」

 少しばかり考え込むように告げるエヴァに対して、名案だというように告げるメルル――。
 その緊張感のないやり取りがどう映ったのか――はやては一度ぼんやりと口を開けたまま二人を見つめ、小さく安堵の息を零していた。

「そや……思い出した。なんでこうなったんか――なにが起きたんか……思い出した」
「――どうか……もう一度お休みください」

 告げて表情を改めたはやてに向けて震える声が届く。
 意識を取り戻したはやての目前――跪くようにしてはやてと視線を合わせた管制人格は、その目から涙を零しながら懇願するように呟いた。

「もう……あと数分もしないうちに、私は私の呪いで貴女を殺してしまいます……っ……だから…どうか――せめて心だけでも幸せに……」
「優しい気持ち……わたしのために泣いてくれるんやね」

 涙を零す彼女に向けられたのは、はやての優しい声と伸ばされた手だった。
 銀の髪を伸ばした手で優しく撫でながら、はやては彼女に向けて笑顔を浮かべて見せる。

「ずっと独りで寂しくて、独りじゃなにもできんで……わたしら似たもの同士や。せやけど、いまは独りやない――そうやろ?」
「我が主……ですが、ナハトは止まりません…ッ……暴走も……」
「大丈夫や。ちゃんと分かってる……もう全部、ちゃんとわかってるよ」

 優しい笑みは消え、代わりにはやての表情に浮かんだのは確かな決意――。
 足下に現れる白銀の魔法陣――その直上で、はやては静かに瞑目してからその手を上へとかざした。

「――止まって」

 一言――ただそれだけを唱えた瞬間、地鳴りのように聞こえていた音が止んだ。
 同時に、白野たちが存在しているこの空間の気配が変わり、どこか暖かな感覚さえ感じられるようになった。


 -Interlude-


『――外で戦ってる人……聞こえますか?』

 唐突に聞こえてきたその声は、士郎にとっては聞き間違えるはずのない大切な家族のものだ。
 頭に直接響くような声には確かな決意が込められており、そこには現実に絶望した様子は微塵も感じられない。
 
『協力してください。この子に取り憑いてる黒い塊を――』

 外の様子が完全にわかるわけではないのか、端的で簡潔な言葉だけが脳裏に響く。
 見れば夜天の書の管制融合騎は先程よりも苦しげに呻き、腕と魔導書に絡みつく黒い蛇のようなモノに包み込まれようとしている。

『――士郎!』

 唐突に届いた通信はユーノからのものだ。
 データの整理を終えたのか、どうやら彼もこちらへとやってきたらしい。
 結界内ということもあり映像が乱れてはいたが音声はしっかりと届いている。

『さっきの声は僕たちにも聞こえた。主の意識が残っている今なら、防衛システムと融合騎を切り離せるかもしれない!』
「方法は?」
『純粋魔力で黒い塊を吹き飛ばせばいいんだ。遠慮無く、全力全開で!!』

 恐らくは通信を聞いているなのはとフェイトに向けての言葉なのだろう。
 ユーノからの言葉を聞いたなのはとフェイトは、二人顔を見合わせてから力強く頷いて見せた。

「――さすがユーノ君!!」
「――わかりやすい!」

 告げて互いのデバイスを構えて魔力を開放していく。
 そんな二人を余所に、融合騎である彼女は益々苦しみを露わにしながら無差別に魔力砲を放出し始める。
 流れ弾から二人を守ろうと、プレシアとリンディがなのはとフェイトの目前に障壁を展開して立つ。
 文字通り盾となった二人のその背後――なのはとフェイトはそれぞれ杖と剣を構えながら、その双眸を目標へと向けた。

「――中距離殲滅用コンビネーション!」
「――ブラスト・カラミティ!!」

 重なる二人の魔法発動――圧倒的と呼ぶに相応しい魔力の奔流が放たれる。
 それは今なお苦しみ続ける夜天の書の意思へと向かい、無防備なままの彼女へと直撃して大爆発を引き起こすのだった。

 

 

Episode 73 -闇の書の闇-


 静かに見守ってくれている皆の視線を受けながら自身に流れ込んでくるのは膨大な記録と記憶――。
 夜天の書が記録している全て――管制機として在り続けてきた悲しみや苦しみさえも受け継いでいく。
 流転の果てに破滅の輪廻を背負った夜天の書――その性質から闇の書とも呪いの書とも呼ばれて忌み嫌われた存在。
 夜天の主として知るべき事を確かな実感と共に手に入れた彼女――八神はやては、目の前で涙を流す女性へと微笑みを浮かべて見せた。

「――主として、貴女に名前をあげる。もう誰にも貴女の事を闇の書とか呪いの書とか、そんな風には呼ばせへん。ううん、わたしが言わせへん」

 長い年月を過ごしてくる中で、たった一人破滅の記憶を背負って生きてきた人――。
 そんな彼女が、彼女として存在するために必要なもの――彼女だけが持つ名を夜天の主として口にする。

「目を覚ましてからずっと考えてた名前や。強く支える者……幸運の追い風。祝福のエール――リインフォース」

 ――瞬間、世界が砕けた。
 闇の満ちた世界は砕けて消え、そこから溢れんばかりの光が満ちていく。
 その最中――光の中で揺蕩うように落ちていく身体がそっと優しく抱かれる。
 静かに目を開けてみれば、そこには先程まで涙を零していた彼女が――リインフォースが決意と優しさに満ちた目をはやてへと向けてきていた。

「夜天の魔導書と、その管制融合騎――リインフォース。この身の全てで御身をお護りします……我が主」

 その身を縛っていた呪いの鎖を断ち切り、ようやく彼女自身として在ることを許されたリインフォースの言葉に小さく頷きを返す。
 ふいに彼女がその表情を曇らせた事に気づいたが、何を考えているのかなど探るまでもなく伝わってくる。

「――ですが、ナハトヴァールの暴走は止まりません。切り離された膨大な力は制御を失い、直に暴走を開始するでしょう」

 夜天の書を闇の書足らしめていた要因――その呪いの根源ともいうべき存在を辛うじて抑えこんできたリインフォースの言葉だ。
 彼女が言うように、闇の書の闇とも言うべき存在であるナハトヴァールは直ぐにも再生を開始して暴走を始めるのだろう。
 ――ならば、それをどうにかするのは夜天の主としての責務に他ならない。

「そうやね。けどまあ……なんとかしよ」

 告げて腕を宙へと伸ばして意識を集中する。
 応えるように現れる夜天の書――それを手に取り、大切に胸へと抱いて真っ直ぐに視線をリインフォースへと向けた。

「初めての共同作業や。いこか――リインフォース」
「――……はい、我が主」

 確かな意思を感じさせる答えと共に彼女の身体が光となって消え、すぐに小さな光となって自身の目前へと浮かび上がる。
 そこに感じる確かな存在感をそのままに、はやては意識を集中して夜天の書を構えた。
 ――開かれる頁。
 掌握した全ての機能を駆使して、失ったと思っていた全てを取り戻すために――。

「――管理者権限を発動。リンカーコア復帰と共に守護騎士システムの破損回帰」

 空白となっていた頁の一部を指で撫でるように書き換えていく。
 正式な主として覚醒したからこそ可能となった権能ともいうべき行為――。
 それを以て、防衛システムに消去されていた守護騎士システムの破損を復元していく。

「わたしの家族……わたしの騎士たち――」

 目前に浮かぶ五つのリンカーコア――。
 その全てが確かに間近に感じながら、はやては皆と共に現実世界への帰還を果たすのだった。


 -Interlude-


 なのはとフェイトが放った圧倒的な砲撃の嵐――。
 光の奔流が蠢く蛇を消し飛ばした直後――爆煙の中から、五つの人影が海へ向けて落下していった。
 それが夜天の書に取り込まれていた白野や、恐らくは暴走時に側にいたと思われるメルルやエヴァ、アリサとすずかである事に気づいて士郎はその足に力を込める。
 宙を蹴って彼女たちの元へと駆けつけようとした瞬間、彼女たちの足元へ展開されたのは巨大な足場――。
 同時に彼女たちを優しく包む光はその落下速度を減じさせ、全員が宙に浮かぶ足場の上へと静かに着地する事に成功していた。

「――いきなりでびっくりしたけど、とりあえずみんな無事かな?」

 足場の上では言うほど驚いた様子を見せてはいないメルルがアリサたちを眺めながら確認するように告げる。
 特に驚く様子を見せていないエヴァと白野――それとは対照的に、いきなり空の上に放り出されたアリサとすずかの二人は驚きに表情を歪めていた。

「無事で何よりだ、みんな」

 彼女たちが立つ足場へと降り立ち、その無事を喜ぶ――。
 いつも通りの笑みを浮かべて応えてくれるメルルとエヴァの姿に安堵の息を零し、ようやく落ち着いた様子のアリサとすずかを確認して小さく息を零した。
 どこか顔色の悪い白野の姿だけが気に掛かっていたが――一先ずの無事を確認した五人を横目に士郎は空を見上げる。
 宙に浮かぶ眩い光と、それを囲むように展開された四つの魔法陣――。
 そこから溢れ出るように放たれた閃光の中には、騎士として与えられた服に身を包んだシグナムたちが静かに佇んでいた。
 彼女たちに囲まれている中心――眩い光が膨らむと同時にひび割れてから砕け散る。
 そこには、騎士服に身を包み、杖を手に夜天の書を側に浮かべて佇むはやての姿が現れていた。

「――リインフォース、ユニゾンイン!」

 その手に持つ杖を掲げ、彼女の側に浮かぶ小さな光がその胸の中へと消えていく。
 目も眩むような光の中から再び現れたはやてはその髪の色彩を僅かに変え、その背に黒き翼を展開している。
 感じられる強力な魔力は彼女が夜天の主として覚醒を果たしたという事に他ならず、はやてはそのまま守護騎士たちと共に静かに士郎たちの立つ足場へと降りてきた。

「リインフォースが教えてくれた。みんなが、これまで何をしてたか……わたしのために戦ってきてくれたことを――」

 自らの足で立ち、決意と優しさに満ちた瞳を後悔滲ますシグナムたちへと向けたまま微笑むはやて――。
 夜天の書の主として覚醒を遂げ、死の定めを振り払ったその姿にヴィータは涙を流してはやてへと抱きついていた。

「――よかったね、士郎くん」

 ふいに聞こえてきたなのはの声に視線を向ける。
 フェイトと共にやってきた彼女は、その顔に満面の笑みを浮かべていた。

「その剣――私が戦っていたのは貴女だったんですね、シグナムさん」
「敬称は不要だ。姿を偽り、名を名乗れずにいた非礼は素直に詫びよう。ヴォルケンリッターが将、シグナムだ。改めてよろしく頼む、テスタロッサ」

 変装の解けた状態で顔を合わせたシグナムとフェイトが改めて挨拶を交わす。
 はやてに抱きついて泣いているヴィータを見ていたなのはは、静かに笑みを浮かべてその姿を眺めている。
 そんななのはの視線に気づいたのか――泣き止んだヴィータは僅かばかりバツが悪そうにはやてから離れ、ゆっくりとなのはへと向き直って頭を下げた。

「……悪かったな、高町。本当は謝って許されるようなことじゃねえとは思ってるけど――」
「ううん、ちゃんと事情はわかったから気にしてないよ。どうしても気になるなら、今度から私の事を"なのは"って呼んでくれると嬉しいな」

 撃墜された事を気にしていないと告げられて僅かばかり困惑していたヴィータだったが、僅かに目を閉じて決意の表情を浮かべた彼女は応えるように小さく頷いていた。

「――士郎」

 ふと――周囲に向けていた視線とは別の場所から声が耳に届けられる。
 聞き慣れた声に視線を向けると、そこには何かを堪えるようにして笑みを浮かべていたはやての姿――。
 そんな彼女の側へと静かに歩み寄った士郎は、はやてが被っている帽子から露出している頭部へ向けてそっと手を伸ばした。

「よく頑張ったな、はやて」
「うん……」

 両の目を僅かに潤ませていたはやての頭をそっと優しく撫でていく。
 生まれた時から背負っていた運命ともいうべき宿業。それを背負い、強くあろうとしている少女――。
 彼女がせめて、こうしている時だけでも有りの儘の少女でいられるようにと願いながら、ゆっくりと優しく頭を撫でる。

「――水を差してしまうようで済まないが、いいだろうか?」

 聞き覚えのある男の声――空の上からやってきたのはバリアジャケットに身を包んだ執務官、クロノ・ハラオウンだった。
 彼とともにアルフ、ユーノ――そして、先程まで共に戦っていたリンディとプレシアの二人も共に足場へと着地してみせる。

「――時空管理局執務官、クロノ・ハラオウンだ。時間がないので簡潔に事態を把握したい」

 告げて彼が指し示した先には、開いた黒き穴で蠢く塊がある。
 あれこそが夜天の書から切り離された暴走体――恐らくはその大本ともいうべき存在に違いない。

「あれが闇の書の防衛プログラムで、あと数分足らずで暴走を開始する――間違いないか?」
「うん。あれが自動防衛システム、ナハトヴァール――」
「――暴走を始めれば、ナハトは周辺の物質を侵食して自分の一部としていく。やがてはこの星ひとつ位は呑み込んでしまう可能性がある」

 クロノの問いかけに答えたのは夜天の主であるはやてと、そんな彼女の側に小さな姿となって浮かぶ管制融合騎――リインフォースだ。
 周辺の魔力や物質を侵食吸収し、やがては地球そのものさえも呑み込む可能性を持つソレは、夜天の書を闇の書と呼ばせるに至った元凶に他ならない。

「生憎と、アレを停止させるためのプランは準備が間に合っていないのが現状だ。それでも、手を拱いて見過ごすわけにはいかない」
「アルカンシェルを搭載したアースラが地球軌道上に到達するまでおよそ一時間――それまでどうにかあれを食い止める事が出来れば……」

 恐らくは間に合わないと判断したからこそ、クロノは単身先行して現場へとやってきたのだろう。
 そんな彼に続くように捕捉を口にするリンディの言葉には、アースラが到着するまではどうあっても食い止めてみせるという覚悟が滲んでいた。

「使える手は多ければ多いほどいい。守護騎士たちは闇の書の呪いを終わらせるため。なのはたちはこの街とこの世界を護るため――協力してもらえるか?」

 クロノの言葉に頷きを以て応えるはやてたち――そんな彼女たちを眺めながら、それまで静かに話を聞いていたプレシアがその手にしていた杖をクロノへと差し出した。

「クロノ執務官――使える手が多い方がいいというのなら、この杖は貴方が使ったほうがいいわ」

 プレシアがクロノへと差し出したのは、氷結の杖――デュランダル。
 そのデバイスにインプットされている氷結魔法は、ある一定以上の魔導運用をこなせる魔導師であれば強力無比な魔法を発動させることが可能だという。
 デバイスを介さない状態であれば、恐らくはクロノよりも強力な魔法を有しているプレシアが攻撃手に回ったほうが間違いなく手は増える筈だ。
 それはクロノ自身も考えていたのか――彼は悩むことなくその提案を受け入れ、プレシアから待機状態となったデバイスを受け取っていた。
 カードの形に戻ったデュランダルを手に、クロノは静かに目を閉じて再度杖としての形状を再現する。
 それまでと異なるのは、彼の周囲に浮かぶ四つの飛翔体――恐らくはデュランダルの機能を最大限に発揮するために必要なものに違いない。

「――士郎。君の力も貸してもらえるか?」

 ふいに向けられたのは、協力を呼びかける言葉そのものだった。
 士郎が保有している戦力をある程度推察した上で宝具の真名開放を知るクロノからの要請――。
 ――それはつまり、士郎が持ち得る最大の手を使用してくれるか……という要望に他ならない。

「もとよりそのつもりだ。クロノ――これはもう、俺たちの戦いだ。君に頼まれるまでもなく、俺は俺の全力を尽くそう」

 覚悟を決めて言葉を口にしながら視線をメルルたちへと向ける。
 それだけで意図が伝わったのか――メルルとエヴァは互いに視線を真っ直ぐに士郎へと返しながら小さく頷いてくれた。


 -Interlude-


 アリサとすずか、そして二人を守るリンディを除いた全員での総攻撃――。
 なのはたち魔導を扱う者たち全員が見守る中、白野の目の前では士郎とメルル――そしてエヴァが最後の確認を行っていた。

「――では、使用できるのか?」

 問いかけは士郎からエヴァへ。その問いに、エヴァはにやりと笑みを浮かべて頷いて見せた。

「こちらでは随分と効率も落ちる上に使い辛いが……まあ、その辺りは考慮済みだ。後は魔力さえ用意できれば一度ぐらいは問題ない。悪いが協力してもらうぞ、岸波白野――」

 告げてエヴァは視線を白野へと向けてくる。
 具体的にどのような協力をすれば良いのかは口にしなかったが、彼女がわざわざ白野へと協力を要請する以上、それは白野に可能なことなのだろう。

「それよりも、貴様こそ大丈夫なのか? はやてやリインフォースの話から推察する限り、アレのコアは生半な魔法や魔術程度でどうにかできる類のものではないようだぞ」
「それについては全力を尽くすとしかいいようがないな。それで駄目だった時は、魔力が限界を迎えるまで徹底的に殲滅を続けるだけだ」

 事も無げに言ってのける士郎だが、実際に彼が有する最大火力でコアを破壊できないというのなら、それは例え誰がやっても結果は同じだろう。
 そうなれば後は物量と忍耐の勝負――管理局が用意しているという魔導砲"アルカンシェル"を搭載したアースラが到着するまで断続的に攻撃を仕掛けて時間を稼ぐ事が正しい。

「――メルル」
「……ん、わかってる。出し惜しみなんてしないよ」

 士郎の視線と言葉を真っ直ぐに受け止めながら、メルルは笑みを浮かべて頷いていた。

「そういうことを心配しているわけじゃなかったんだが……」
「それこそ気にしなくていいのに。それに、もし万が一下手な事になったら潔く此所から消えるだけ――シロウだって、それくらいの覚悟はしているんでしょう?」

 真っ直ぐに交わされる互いの視線――そうして数秒が過ぎた後、瞼を閉じて小さく息を吐いたのはメルルではなく士郎の方だった。

「……そうだな。だが、出来ればそんな事にならないように祈るとしよう」
「そうだね」

 たったそれだけのやり取りで通じているのか――士郎とメルルの二人は互いに笑みを浮かべて頷きあう。
 失敗することを気にしているのではなく、全てが終わった後の事を気にしているというのは如何にも二人らしく思えた。

「リインフォース――君に聞きたいことがある。俺の保有している武装でナハトヴァールのコアを破壊できる可能性はあるだろうか?」

 士郎からの問いかけに、はやての傍で小さな姿のまま浮かんでいるリインフォースは僅かばかり瞑目する。
 曲がりなりにも士郎の武装を魔導で再現していた彼女は、或いは士郎の宝具に関してはそれなりに把握できているのだろうか――。

「――少なくとも、可能性があるとすれば一つだけ……」
「なるほど……なら、コアへの攻撃は俺が引き受けるとしよう」

 リインフォースの探るような言葉に迷いなく頷いて応えた士郎は、メルルとエヴァを見渡してからそう断言した。
 元より個人が扱える魔導で排除することは困難だと言われているナハトヴァールのコア――。
 彼がその破壊を可能とする方法を有しているかもしれないというのなら、その断言を否定することは誰にも出来ないだろう。

「よし、最終確認だ。まずはナハトの多重障壁を破って、それから本体にダメージを与えてコアを露出させる――」

 淡々とした口調で告げるクロノだが、その表情は固い。
 最悪の状況を考えれば決して楽観できる状態ではないのだから、当然と言えば当然と言える。

「――その後、コアが露出した後は障壁が戻る前にメルルリンス、エヴァンジェリン、士郎がコアを破壊するために行動する」
「……見事なまでに力押しの作戦ね」

 素直な感想を口にすると、そんな白野の意見に同意するようにクロノは僅かばかり苦笑を零した。
 彼とて、こうまで個人の能力を頼りにした作戦を敢行せざるを得ない状況に色々と思うところはあるのだろう。

「万が一破壊に失敗した場合は、全員で限界まで攻撃を加え続けてアースラ到着まで持ち堪える――作戦とも言えないような作戦だが、各人の奮闘に期待する」

 信頼の込められたクロノからの言葉が全員へと向けられる。
 誰もが決意を込めた目を浮かべて頷く。全ては夜天の魔導書へ遠い過去に宿命づけられた破滅の輪廻を終わらせるために――。


 -Interlude-


 海上に開いた深淵の闇――その最中で蠢く塊を眺めながら全員が構える。
 自身の魔力残量を推し量っていたプレシアの目前で、夜天の書の主である少女――八神はやては何かに気付いたといった様子で振り返ってきた。

「――そうや……シャマル!」
「はい。クラールヴィント――出番よ」

 促されてプレシアやなのは、フェイトの目前にやってきたシャマルがその指先に装着しているデバイスを構える。
 包み込むような柔らかな光――プレシアたちに向けられた光は身体の傷だけでなく、消耗した魔力や傷ついた服さえも癒やしていく。

「これって……」
「湖の騎士シャマルとクラールヴィント。癒やしと補助が本領です」

 なのはの言葉に優しく応えるシャマルの言葉に嘘はない。
 事実、彼女が使用した癒やしの風は瞬く間にプレシアたちを回復させてくれていた。
 そうして準備が整い、改めて視線を会場へと向ける。
 暗い只中から闇色の光があふれ出てくるその様子は、まるで世界の終焉を告げるかのようだった。

「――あれが夜天の書を闇の書と呼ばせた元凶。ナハトヴァールの浸食暴走体――闇の書の闇……」

 はやての呟きに呼応するかのように光の中から現れたのは、どこまでも巨大な混成生物ともいうべきモノだ。
 六本の脚を備えながらも物と生物が混ざり合ったかのようなその姿――その中心では、女性の姿形をした存在が具現化した自身を祝福するかのような叫び声を上げている。

「まずは拘束だ――ケージングサークル!」
「――了解! チェーンバインド!!」

 具現化した闇の書の闇へ向けて先行したのはユーノとアルフの二人だ。
 それぞれ種別の異なる拘束魔法を放ち、その動きを止めようとする――が、膨大な魔力を纏った闇の書の闇はその拘束を容易く引き千切っていた。

「続くぞ! 囲え――鋼の楔!」

 次いで向かったのはザフィーラ――彼の周囲に発生した幾本もの光の楔が闇の書の闇本体へと突き刺さっていく。
 けれど、正しく対象の動きを縫い付けたその楔すらも引き千切り、闇の書の闇は幾本にも蠢く触手の先端から無作為に魔力砲を放ち始める。
 その攻撃が先程まで全員が立っていた足場を崩してしまうが、全員が即座に空へと逃れて確実に離脱して見せた。

「まずは先陣突破――なのはちゃん、ヴィータちゃん!」
「了解! いくぞ、なのは!!」
「うん、ヴィータちゃん!」

 シャマルのかけ声に合わせて飛び出したのはヴィータとなのはの二人だ。
 闇の書の闇が展開している多重障壁は、物理と魔法の混合四層――もっとも外側に展開されている物理障壁を砕くため、ヴィータが魔導の発動へと備える。
 そんな彼女に向けて殺到する無数の触手。それを前にして、ヴィータとともに前線へやってきたなのはが杖を構えて狙いを定めていく。

『アクセルシューター・バニシングシフト――』
「――シュート!!!」

 放たれた十六もの魔力弾がヴィータへと迫ろうとしていた触手を貫き、吹き飛ばしていく。
 正確無比ななのはの援護を受けたヴィータは闇の書の闇の直上へと潜り込み、その手に持つデバイスに備え付けられていたカートリッジを作動させる。

「業天爆砕――ギガントシュラーク!!」

 振り上げられたまま巨大化したその鉄槌を渾身の魔力を込めて振り下ろす。
 そんなヴィータの攻撃で一層目の障壁が砕けたことを確認し、シグナムとフェイトの二人が速度を上げて闇の書の闇へと向かっていった。

「いくぞ、テスタロッサ」
「了解です、シグナム」

 雷の大剣を横薙ぎにするフェイトだが、その一閃は魔法障壁に阻まれてしまう。
 それを承知した上で闇の書の闇から距離を取ったその場所で剣を構えて魔力を漲らせる。
 そんなフェイトを眺めていたシグナムが構えるのは剣の柄と鞘を連結させて弓として使用するように形を変えたデバイス――。

「――駈けろ、隼!!」
『シュツルムファルケン――』

 カートリッジロードと同時に放った矢は炎を纏って飛翔する。
 音速すらも超えたその一矢は闇の書の闇が纏う障壁を貫き、障壁内部の本体直上で大爆発を巻き起こしていた。

「貫け、雷神!!」
『――ジェットザンバー』

 そんなシグナムの一矢に合わせる形で剣を構えて振り下ろすフェイト――。
 切り裂かれる障壁――押し潰すように叩き下ろされた一刀は紛れもなく闇の書の闇が展開する結界の一つを切り裂いていた。
 だが、それにも関わらず伸ばされた触手から魔導砲を放つ闇の書の闇――その直上に渾身の魔力を込めた魔法陣を展開させる。
 自身の少ない魔力を振り絞りながら、ブレシアは空へと浮かびあがっていく闇の書の闇へ向けて巨大な雷撃を落とす。
 そうしてプレシアの放った雷による直撃を受けながら、それでも動きを止めずに失われた障壁を新たに展開しようとした闇の書の闇――。
 その出来損ないの障壁へ向けられたのは、ザフィーラが全力の魔力を込めて振るった拳――それは新たに浮かび上がろうとしていた障壁の全てを粉々に破壊してみせた。

「彼方より来たれ、宿り木の枝――」
『敵を討つ槍となりて撃ち貫け――』

 ユニゾンデバイスとして生まれ変わった夜天の書――その管制融合騎が主であるはやてと呼吸を合わせて詠唱を紡いでいく。

「――石化の槍……ミストルティン!」
『――石化の槍……ミストルティン!』

 上空で構えるはやての周囲に出現する幾つもの光弾――。
 その全てがはやての号令に従って地面へと向けて放たれる。
 幾重にも降り積もった光弾は正しく対象を貫くと同時にその一部を石化させていく。
 そうして、一時的にとはいえ動きを止めた闇の書の闇を見据えながら、クロノはその手にしたデバイスを構えて魔力を開放した。

「――凍てつけ!!」
『――エターナルコフィン!』

 放たれた冷気はそのまま直射砲となって闇の書の闇へと直撃する。
 同時に――その上空に展開していた四つの端末。そこから同じように放たれる強力な冷気が闇の書の闇を凍結させていく。
 その様子を見送りながら、プレシアたちは既にその更に上空で最後の一射を放つべく構えようとしている三人の少女たちへと視線を投げた。

「全力全開! スターライト――」
「雷光一閃! プラズマザンバー」
「ごめんな……。 響け、終焉の笛……ラグナロク――」

 なのは、フェイト、はやての三人がそれぞれに構えて魔力を漲らせていく。

「「「――ブレイカー!!!!」」」

 そうして、かけ声と共に放たれる三人同時砲撃――。
 種別の異なる三つの魔法は見事に重なり、勢いを増して降り注ぐ。
 それは圧倒的な破壊と速度を以て、闇の書の闇を構成する身体の全てを完膚無きまでに吹き飛ばしてみせるのだった。

 

 

Episode 74 -未来を照らす光-



 なのはとフェイト――そして、はやてたちの放った魔法が闇の書の闇本体を消し飛ばしていく。
 その桁の違う破壊力に晒され、瞬く間に身体を消失していく闇の書の闇――。
 巨大な身体は氷結していた部分も含め、悉く撃ち払われていく。その最中――未だ原型を残している人型をした箇所をシャマルが魔法で監視し続けていた。

「――見つけた」

 辛うじて耐えていた人型が崩れ去り、その中心部から一欠片の輝きが露わになる。
 映し出されたそれは闇の書の闇を構成する本体であるコアに違いない。
 そうして露出したコアを眺めながら呟くシャマルの声を耳に届け、メルルは小さく覚悟を決めるように息を吐いた。

「メルル先生……」

 心配そうな声を掛けてくるのは、すずかと共にリンディの魔力で編まれた足場に立つアリサだ。
 シャマルが映し出しているコアが完全に露出し、再び再生を開始する光景を横目にアリサへと視線を投げる。

「――滅多に機会のあることじゃないから、ちゃんと見てるんだよ」

 多くは告げず、ただ目を逸らさずに見ていて欲しいとだけ口にする。
 込めた想いをどれだけ汲み取ってくれたのかはわからなかったが、それでも彼女は真剣な表情を浮かべてはっきりと頷いてくれた。
 錬金術に惹かれ、真っ直ぐに憧れを抱き続けてきた少女――。
 これまで彼女が見せてくれたのは、目標と夢に向かって真っ直ぐに歩もうとする真摯な姿だ。
 かつての自身と同じ――だからこそ、自身が辿った道の全てを見た彼女にはしっかりと見ていて欲しいと思う。
 人を幸せにも不幸にもする大きな力。自身が師から学んだ錬金術は、困っている誰かを助けるためにあるのだということを――。

「――シャマル。全員に対象から離れるように伝えてくれる?」
「は、はい……!」

 告げると同時に念話で伝えてくれたのか、闇の書の闇付近を飛び回っていたシグナムたちが即座にその場を離れていく。
 ――全員の退避を確認し、自身の鞄から一つのアイテムを取り出す。
 小さな光の玉――光を失うことなく輝き続けるその結晶は、長年の研究の果てに完成させた一つ限りのモノだ。
 二度とは作れないだろうそれを使うことを惜しむ理由など存在するはずもなく、宙に浮かべると同時に鞄から取り出した杖を構える。

「秘められた力――解放するよ」

 構成する素材が持つ力を引き出し、アイテムが秘めている力を解放していく。
 かつて師である錬金術士から学んだ最も大切なこと――誰かを想う力はアイテムに宿り、それを引き出す力となる。
 輝きを増したアイテムは結晶となり、闇の書の闇の上空――結界が展開されている限界地点へと舞い上がり、炸裂して巨大な黒雲を発生させた。
 直後にうなりを上げて黒雲から墜ちてきたのは炎を纏った岩石――それは認識する暇もないほどの速度で地表へと落下し、激烈な衝撃波を巻き起こす。

「――かつて大陸を薙ぎ払った流星群の再現だよ。まあ、規模も威力も小さいけどね」

 次々に降り注ぐ流星が再生を始めていた闇の書の闇を薙ぎ払っていく。
 これは、シグナムたち全員が力を尽くして障壁を剥ぎ取ってくれたという結果を次に繋げるための一手に過ぎない。
 全ては長い時間を苦しんできたリインフォースや、一度は絶望を味わいながらも夜天の主としての責務を背負う事を決めたはやてを救うために――。
 ――それが叶える事が出来たなら、過去の後悔も無駄ではなかったのだと信じられる。
 そんな確信を胸に、メルルは依然として落下を続ける流星群を眺めて小さく笑みを零すのだった。


 -Interlude-


 再生を繰り返す闇の書の闇――それを幾度と無く降り注ぐ流星が薙ぎ払っていく。
 目前に展開された光景は災害と言い換えても間違いはなく、その光景を生み出した当の本人以外の誰もが息を呑んでいた。
 ――大なり小なり差はあれど、驚きを露わにしているということに違いはない。
 それは隣に立つ士郎も同じ――そして、それは長い年月を生きてきたエヴァも例外ではなかった。

「――効果はあと一分くらいは続くよ」

 いつもと同じ調子で告げるメルルの姿に思わず笑みを零してしまう。
 見れば、メルルが展開した流星は確かに闇の書の闇が再生させていく身体を消滅させ続けている。
 しかし、それでもなおシャマルが映し出しているコアは傷つくことなく再生を繰り返していた。
 恐らく、物理的な破壊力や単純な魔力砲では破壊することの出来ない代物なのだろう。
 それを承知した上でメルルから向けられた言葉と視線は、次は貴女の番だと何よりも明確に告げていた。

「開幕への狼煙にしては派手だが……精々繋げてみせるとしよう」

 はっきりとそう告げて、エヴァは立っていた足場の上で一歩前へと踏み出した。
 ――未だ魔力の回復しない身では空を飛ぶ事すらままならない。
 それでもこの結果を士郎へと繋げる程度の事はして見せようと決意を固めて精神を集中させる。
 術式の起動に問題がないことを確認したエヴァは、自身に向けられている全員の視線を受けながら唯一人――岸波白野へと視線を向けた。

「岸波白野――私に向けて砲撃を放て」

 告げた言葉に周囲の空気が張り詰めていく。
 だが、誰かが何かを口にするよりも早く頷いてみせた白野は、その手に持つ銃器の銃口を静かにエヴァへと向けてくれた。

「――遠慮はしないわよ?」
「当然だ。遠慮せずに全力で撃て」

 それが白野にとって死を上回るほどの苦痛を齎す行為であることはエヴァも承知している。
 それでもそれが必要な事なのだと――そんな意思を込めて告げたエヴァの要請に、白野は笑みさえ浮かべて応えてくれた。

「いくわよ!」

 皆が固唾を呑んで見守る中、白野が構えた銃器から強力な魔力砲が放たれた。
 一個人が扱うには巨大な純粋魔力――それは瞬きすら許さぬ速度でエヴァへと迫ってくる。
 その輝きを前にして、エヴァは静かに術式を起動させながら自身の右手を真っ直ぐに砲撃へと向けて構えた。

「――術式固定(スタグネット)

 展開した魔法陣で砲撃を受け止め、その全てを自身の手のひらへと収束させていく。
 単純な量だけで言えば、自身が扱う極大魔法にさえ匹敵するほどの魔力――その全てを受け止めて収束し、集めた魔力の全てを自身の肉体へと取り込む。

「――掌握(コンプレクシオー)

 取り込んだ魔力が全身を駆け巡っていく。その感覚に懐かしさを覚えるよりも早く、耐え難い苦痛が全身を支配していった。

 ――闇の魔法(マギア・エレベア)

 自身が遥か過去に開発したそれは、闇の眷属の膨大な魔力を前提とした技法だ。
 本来であれば自身が放つ攻撃魔法を取り込み、魂に同化させることで自身を強化する狂気の業――。
 ――故に、本来であれば相手が放つ攻撃魔法や純粋魔力砲、気弾の類を吸収できるものではない。
 それら全てを承知の上で、かつて費用対効果から開発を断念した"ソレ"を未完成のまま使用した代償は決して軽くはなかった。
 取り込みきれていない魔力は間違いなくエヴァ自身の身体を内側から傷つけ、下手をしなくとも魂にさえ過負荷を与えているだろう。
 麻帆良の地を離れてから半年余り――失われた自身の魔力を補うための手段として再開発に着手してきた"ソレ"は未だ完成には程遠い。
 それでも――例え未完成に過ぎなくとも、どれほど効率が悪かろうと、それは決して零ではない。
 自身のモノとして取り込めたのは白野が放った魔力の十分の一にも満たないが、一度だけならばそれで充分に事足りる――。

「――リク・ラク、ラ・ラック、ライラック。契約に従い、我に従え、氷の女王(ト・シュンボライオン、ディアーコネートー・モイ・ヘー、クリュスタリネー・バシレイア)!」

 一度限りの大魔法――感じる苦痛を微塵も表に出すことなく、ただ絶対の意思を込めて言霊を紡いでいく。

来れ、とこしえのやみ(エピゲネーテートー、タイオーニオンエレボス)――えいえんのひょうが(ハイオーニエ・クリュスタレ)!!」

 メルルが宣言した時間が過ぎ、流星が止むと同時に唱える。
 紡いだ魔法は、その僅かな間隙を縫って肉体の再生を開始しようとしていたコアを肉体ごと全て氷結させた。

「ほぼ絶対零度――150フィート四方に及ぶ広域完全凍結殲滅呪文だ。如何に異界の存在とはいえ、そう簡単に逃れることは出来んぞ」

 海上で完全に凍結した闇の書の闇を見下ろしながら小さく息を吐く。
 油断すれば口から血を吐きそうになる自身を叱咤し、どこまでも余裕を持って士郎へと振り返る。

「お膳立ては済ませてやったぞ、士郎。貴様が持つという手段――見せてもらおうか」
「――了解した」

 覚悟と決意を秘めた表情を浮かべたまま小さく頷く士郎――。
 その姿を眺めながら、エヴァはもう一踏ん張りだと自身に気合を入れ直すのだった。


 -Interlude out-


 デバイスに装填されていた魔力カートリッジの補充を済ませた士郎は視線を眼下へと向けた。
 なのはたちの総攻撃によって障壁の全てを剥ぎ取られた上にコアを晒し、再生を阻むように展開されたメルルの流星群――。
 そして、エヴァが放った魔法は闇の書の闇を全て凍結させ、その再生すらも完璧に抑えこんでいる。
 恐らくはもう一手を用意しているはずのエヴァに応えるように、士郎はカートリッジを数発ほど炸裂させてから自己に埋没していく。

「――I am the bone of my sword.(体は剣で出来ている)

 自身を表す言霊を口にしながら、続く言葉は口にはせずに脳裏へと浮かべていく。
 詠唱はあくまでも自己に働きかけるものに過ぎない。
 故に、今の自身に必要な言葉だけを言の葉に乗せて紡いでいく――。

「――Have withstood pain to create many weapons.(彼の者は常に折れず、剣を抱いて丘に立つ)
 
 長い時間を旅して、叶うはずのない望みを抱き続けてきた。
 それを叶えることが生涯なかったとしても――歩んできた道程は決して無為ではない。

「――Yet, those hands will never hold anything.(故に、生涯に意味はなくとも)

 歩き続けた果てに得たものが報われることのない結末だったとしても、無辜の人々を救う剣で在り続けたことは紛れのない事実なのだから――。

「――――So as I pray, unlimited blade works.(その体は、無限の剣で出来ていた)

 確信を以てその言葉を口にする――と同時に走るように広がっていく炎の境界が周囲を飲み込んでいく。
 一瞬の後に目前の視界に映し出されたのは、数えきれないほどの剣が突き刺さる一面の荒野――。

 ――固有結界。

 それは術者の心象世界を現実の世界へと具現化する大魔術であり、衛宮士郎が使える唯一の魔術に他ならない。
 それが剣であるのなら目にしただけで複製し、貯蔵する錬鉄の世界――。
 燃え盛る炎のように紅く染まった空の下――自身の背後に立つ皆の視線を背に士郎は一歩を踏み出した。
 距離にして数十メートルほど離れた場所には氷漬けになった闇の書の闇本体がある。
 それを真っ直ぐに見据えたまま、士郎は自身の目前に突き立つ一振りの剣へと手を伸ばしていく。

「セイバー……君の(つるぎ)――借り受ける」

 伸ばした手の先には黒く染まった聖剣――。
 闇色に染まってさえ変わることのないその尊さに目を細めながら柄を掴み、突き立つ地面から抜き放った。
 かつて、自身の命と引き換えに投影してみせた伝説の剣――黒く染まったそれを手に構えると同時に魔力を込めていく。

「――カートリッジロード」

 メルルが拵えてくれたデバイスに装填されている魔力カートリッジは全部で八発。残った全てのカートリッジを炸裂させ、発生した膨大な魔力を自身の魔術回路に乗せていく。
 得られた膨大な魔力は魔術回路そのものに過負荷を齎すが、それを無視して剣へと魔力を送る。
 ――黒く染まっていた刀身が黄金に輝いていく。
 持ち主の魔力を変換収束して放つこの聖剣こそは、彼の王が振るったとされる伝説の剣――。
 溢れる膨大な魔力を辛うじて留めながら、わずかばかり離れた場所に立つエヴァへと頷いてみせる。
 それだけで通じてくれたのか――エヴァは一度小さく呼吸を整えるような素振りを見せた後、笑みさえ浮かべてその手を闇の書の闇へと向けた。

「いいだろう――全ての命ある者に等しき死を(パーサイス ゾーサイス トン・イソン・タナトン)其は安らぎ也(ホス アタラクシア)

 唱えるエヴァに呼応するようにひび割れていく氷塊――。
 来るであろう一瞬の好機を逃す事のないように黄金の剣を構える。

「"おわるせかい(コズミケー・カタストロフェー)"――砕け散れ」

 告げると同時――文字通り粉々となった氷塊の奥には、未だコアが輝きを失わぬまま在り続けている。

約束された(エクス)――!!」

 それが再び再生を開始するまでの刹那にも満たない僅かな瞬間――。
 完全に無防備となったコアに向けて、士郎は構えた剣に渾身の魔力を込めて振り上げた。

「――勝利の剣(カリバー)!!!」

 真名を解放すると同時に振り上げて構えた剣を全力で振り下ろす。
 ――剣に込めた魔力は光の斬撃となって標的へと向かっていく。
 黄金の閃光は確かにコアを切り裂き、なお停止するなく固有結界そのものすらも切り裂き、その果てに広がる広域結界さえも両断していった。
 そうして――後に残ったのは僅かばかり宙を舞う氷の結晶と、何事もなかったかのように広がっている冬の海。
 自身の放った極光が間違いなく元凶である闇の書の闇を消滅させた事を確信し、士郎はその手に持つ剣が消えていくのを静かに見送るのだった。


 -Interlude-


 その光景を目の当たりにして、誰もが――当の本人たち以外の全員が息を呑んだ。
 ――メルルリンス・レーデ・アールズとエヴァンジェリン・A・K・マクダウェル。
 クロノが簡単に聞いた限りでは士郎の友人だという二人――コアを消滅させる際に士郎が展開した結界もそうだが、三人の持つ力は特異にして強力なモノに違いなかった。

『――対象の再生反応は確認できません』

 アースラから現場を観測してくれていたエイミィからの報告に胸をなで下ろす。
 士郎が放った光の斬撃はコアだけではなく、周辺に展開されていたあらゆる結界さえも切り裂いてしまったからだ。
 仮にこの状況でコアが再生を開始することがあれば、まずは急ぎ結界を展開しなければならなかっただろう。

「準警戒態勢に移行して監視を続けてくれ。大丈夫だとは思うが、もう少しだけ頼む」
『了解!』

 どこか弾んだ声で答えるエイミィとの通信を終えてデバイスを待機状態へと戻す。
 かつてクロノの父が作成を頼んだという氷結の杖――。
 リンディからプレシアへ。そしてプレシアからクロノへと渡ってきたこのデバイスを使って闇の書事件の解決に尽力できた。
 意識していないつもりだったが、それでも胸の内を満たす達成感に近しい感情を誤魔化すことは出来そうになかった。

「――どうやら、成功したようだな」

 告げて声を掛けてきたのはコアを直接破壊して見せた士郎だ。
 彼が見せた光の斬撃――恐らく、あれも以前に伝え聞いていた宝具の真名開放によるモノなのだろう。
 効果と規模が異なるとはいえ、時の庭園でも見た現象に類するものだと分かっていれば動揺する事もせずに素直な賞賛を送れる。

「エクスカリバー……あれが、君の奥の手か?」
「どちらかといえば切り札のようなものだろうな。あの剣の本来の持ち主から借り受けているだけで、自由にいつでも使える類のものではない」

 詳しくは語らなかったが、恐らくは発動に際して幾つかの条件があるのだろう。
 そこまで詳しく食い下がるには今という場は相応しくないと思い直し、クロノは周囲で各々事態の収束を感じ取っていた全員へと視線を向けた。

「ひとまず、これで状況終了だ。皆の協力に感謝する」

 宣言を受け止めた夜天の騎士たちはそれぞれ笑みを浮かべ、なのはやフェイト、一般人であるアリサやすずかも嬉しそうに笑っている。
 母であるリンディやユーノ、アルフ。そして、士郎と共に最終局面に手を尽くしてくれたメルル、エヴァ、白野――そんな三人の労を労うプレシアの姿を流し見て、クロノは小さく息を吐いた。

「――我が主!?」

 唐突な叫び声は背後から――僅かばかり高所に浮かんでいた八神はやてが融合状態の解けた状態で意識を失い、地面へと落下を始めていた。
 融合が解けて姿をみせたリインフォースが即座にはやての傍へと飛び、その身体を抱き抱える。
 そんな彼女たちの元に、士郎を初めとした関係者たちが集まっていく姿を眺めながら、クロノはすぐにアースラへ連絡を入れるのだった。


 -Interlude-


 次元航行船アースラ艦内の一室――特別に用意してもらった客室のベッドで寝息を立てている主を眺める。
 そんな彼女――リインフォースの目の前には、士郎やメルル、エヴァを除いた夜天の書に関わる者たちが集まっていた。

「私の――夜天の書の破損は深刻なようだ。ナハトは停止したが、遠からず私は……夜天の魔導書本体は新たにナハトヴァールを生成し、再び暴走を始めるだろう」

 過去から現在に至るまで、数多の主の手から手へ旅を続けてきて、その最中に歪められてきた基礎構造は手がつけられる状態ではない。
 なにより――もはや夜天の書本体ですら、改変されていない元の状態がどうであったのかを記録していないのだ。
 唯一の救いは、もはや夜天の書が主であるはやてを浸食する憂いがないということだろう。
 このまま夜天の書を放置してしまえばその限りではないだろうが、少なくとも現時点ではやてへの浸食は消え、リンカーコアも正常になっているのだから――。

「――はやてちゃんが無事だって言うのなら、もう大丈夫よね?」

 はやての状態を聞いたシャマルが、安心したといった様子で告げる。
 それに同意するように頷く騎士たちをその背後から眺めている白野だけが僅かに表情を曇らせている事に、正面に立っているリインフォースだけが気付いていた。

「――もはや心残りはない」
「我らは多くの協力を経て、我らが為すべきことを成し遂げることができた。悔いなど無い」
「ナハトが止まってるんなら、夜天の書の破壊は簡単だしな。あたしらも消滅するけど、はやてが無事ならそれでいい。元々、それくらいの事は覚悟の上だったんだしな」

 シグナムやザフィーラ、そしてヴィータもこれでいいと笑みを浮かべる。
 皆が護ろうと決意したのは、彼女たち皆を受け入れてくれた優しい日常そのもの――。
 そこに自分たちがいなくなろうとも、主であるはやてや士郎たちが変わらず未来に生きることができるのならと戦ってきた。
 その想いは誰よりもリインフォース自身が良く知っていたし、彼女たちの主として振る舞ってきた白野もそれは同じ筈だろう。

「――いや、それは違う。お前たちはここに残る……逝くのは、私だけだ」

 これから先の未来に禍根を残さないために消える必要があるのは夜天の書だけだ……と――。
 精一杯に笑みを浮かべて見せたリインフォースは、ただそれだけの真実を簡潔にはっきりと騎士たちへ伝えるのだった。


 -Interlude out-


 軋むような鈍痛を全身に感じながら、士郎はメルルやエヴァと共にアースラ艦内の通路を歩いていく。
 士郎たちが進む先には、はやてたちが集う一室――。
 その扉の目前に立った際、中から聞こえてきたリインフォースの言葉を耳にして、士郎は躊躇うことなく扉を開け放った。

「――そうして、全てを背負っていくつもりなのか?」

 開いた扉の向こうでは、ベッドで眠るはやての左右に立つリインフォースたちの姿がある。
 背を向ける形で立っていたシグナムたちの視線が向けられる中、士郎はただ真っ直ぐにリインフォースへと視線を向けていた。

「……士郎。身体は大丈夫なのですか?」

 開口一番に告げられたのは、士郎の身体を心配する優しげな言葉だった。
 少なからず士郎の事情を知り、士郎が保有する宝具に関しても大凡の理解を持っていた彼女だけに、士郎が無事ではない事などお見通しだったのだろう。

「こうして強がってみせることが出来る程度には無事だ。幸い、魔力はこれのお陰で不足なく補うことができたしな」

 首から掛けていた待機状態のデバイスを掲げてみせる。
 固有結界の展開と宝具の真名開放――その消費魔力は現在の衛宮士郎だけでどうにかできるものではない。
 仮にデバイスからの補助がなければ、正しく自滅を覚悟した上でなければ使用する事すら出来ないだろう。

「リインフォース。君が残れば、再び今回のような事態が起きるのか?」
「はい。下手をすれば、今回よりも状況が悪くなる可能性もあります。今度は我が主だけでなく、騎士たちすら浸食されるかもしれないのです」

 だからこそ夜天の書はここで消えなければならないのだと断言する。
 ナハトヴァールと共に切り離されているという騎士たちまで消える必要はなく、主であるはやてへの浸食が消えている今が好機なのだと――。

「……そうか。そういうことなら、夜天の書の破壊に関して口を出すのは控えよう」

 夜天の書が齎す呪いが蘇る可能性がある以上、それを許容することはできない。
 今回は上手くいったが、それが次回も確実に出来るかどうかは誰にも保証することは出来ないのだから……。

「――リインフォース、一つ聞かせてくれないか? 君は、はやてや騎士たちと共に生きたくはないのか?」

 夜天の書の消滅の是非ではなく、リインフォース自身の望みを問いかける。
 真っ直ぐに視線を向け、ただ自身の望みを告げろと――。
 それまで淡い笑みを浮かべていたリインフォースだったが、その笑みは直ぐに曇ってしまった。

「……私はもう、充分以上に我が主と共に過ごしてきました。これ以上は贅沢です」

 嘘ではなく、決して本心ではないその解答――。
 どこまでも素直になれない彼女の姿に、士郎は思わず溜息を零してしまった。

「それは建前だろう? 俺はお前の――夜天の書と共にはやての傍にいたリインフォース個人の意思を聞いているつもりだ」

 夜天の書とリインフォースは確かに繋がっており、極論すれば同一の存在に違いない。
 だが、それでも夜天の書とリインフォースは別の存在でもある筈だ。
 少なくとも、その屁理屈を実現するための手段は此所に……この場に集う士郎たちが有しているのだから――。

「……叶うのなら、皆で過ごす未来をこれからも見つめて生きたいと思います。士郎のお手製料理も、私だけが未だに食べていないのですから」

 リインフォースは泣き笑いのような表情を浮かべながら軽口を叩くように告げる。
 そんな彼女の言葉に小さな頷きを返して、士郎はその視線をそっと自身の両隣に立つメルルとエヴァ――そして、白野へと向けた。

「――身体を用意するのは少し難しいかもしれないけど、精神を繋ぎ止めるための器くらいなら用意できると思うよ」
「夜天の書の破壊に合わせた精神の抽出と封じ込めは可能だ。いつかの為に用意してきた手段だが、幸い実験も出来た事だしな」

 メルルとエヴァが確信を以て応えてくれる。
 そんな二人の言葉に小さな頷きを返した士郎は、そのまま白野へと視線を移した。

「……問題はあると思うけど、不可能じゃないと思うわ。少なくとも、夜天の書の消滅の瞬間に私と一緒に聖杯へ戻れば暫くの間は維持できると思う」

 聖杯の担い手である白野からの言葉に確信を得て、士郎は改めてリインフォースへと向き直る。
 一連のやり取りをどのように見ていたのか――リインフォースやシグナムたちが唖然とした様子を見せていた。

「……士郎?」
「聞いていた通りだ。夜天の書は破壊する――だが、君はここに残れる……ということだ」

 メルルが器となる依り代を準備している間に、エヴァの協力の下で白野と共に聖杯の内部へと精神を移す――。
 聞いた限り、現在の聖杯が有する容量では白野以外の人格を保持し続けることは難しいらしい。
 それでも、聖杯の機能を極限まで制限して二人の維持だけに処理を回せば不可能ではないのだという。

「夜天の書としてではなく、リインフォース個人として……残れるというのか?」

 確認するような声はどこか掠れている。
 まるで信じられないといった様子のリインフォースへ向けて、士郎たちは揃って頷いて見せた。

「――暫くは不自由をさせることになるだろう。それでも、全てを諦めて去るには些か早すぎるというものだ」

 少なくとも、彼女が彼女個人として独立して動けるようになるには、幾つもの壁を越えなければならない。
 なにより、はやてたちとの直接的な繋がりは完全に断ち切られてしまうという前提での話だ。
 それでも彼女が生きる事を望んでくれるというのなら、士郎たちが力を尽くすだけの価値は十分以上にある。
 静かに涙を零しながら肩を揺らすリインフォースは、それまで見た事が無いほどに綺麗な微笑みを浮かべていた。

 

 

Episode 75 -背負うべきモノ-

 アースラ艦内に存在する一室――クロノの目前に浮かぶディスプレイには、闇の書を巡る一連の事件に関する情報が溢れるほどに表示されている。
 過去から現在に至るまで――その中で特に"今回"の事例に関する全てのデータを整理しながら、クロノは小さく溜息を零していた。

「……過去から現在における闇の書事件の原因――根幹である防衛プログラム"ナハトヴァール"の完全消滅と闇の書本体の破壊。そして、主であると思われる女性の死亡……か」

 上層部に提出する予定の報告書を流し見ながらもう一度溜息を零す。
 闇の書の闇を消滅させてから二日――事態はクロノが予想もしていなかった展開へと進み、収束していった。

「――随分と疲れているようだな」

 ふいに開かれた背後の入り口から聞こえてきた声に合わせて振り返る。
 見れば、そこには飲み物が注がれた容器を二つ両手に持った士郎の姿があった。

「士郎か……いや、別に大したことじゃないさ。疲れているというよりも、安堵しているといったところだ」
「そうか。苦労をかけてすまないと思っているが、生憎と"当事者"である俺には君の仕事を手伝うことは出来そうにないしな」

 闇の書の事件に関して、衛宮士郎は重要参考人の一人として扱われている。
 闇の書の主であった女性――岸波白野と知己であった事や、夜天の主として覚醒を果たした八神はやての家族でもあるためだ。

「それこそ気にしなくていいさ。事件を担当した執務官として当然の事だし、個人的にはいい経験をさせてもらっていると思うことにしているぐらいだ」

 今回の闇の書の事件に関して、その主導となった人物は既に公式的には死亡している。
 闇の書の主であり、守護騎士と共に蒐集を行った岸波白野の死亡を以て本件は事実上の終結を迎えているのだ。
 もちろんそれが詭弁であり、闇の書と呼ばれていた魔導書――夜天の書の正式な主が彼女ではないことは周知の事実である。
 それでも蒐集を計画して騎士たちを伴い、一連の事件を主導したのは彼女に違いない。
 闇の書に関連した襲撃事件の責任を問うというのなら、それは正しく岸波白野へ向けられるべきものである。
 夜天の主でありながら事件の一切に関与していなかった管理外世界の少女である八神はやてが負うべき責は実質存在しないと言えるだろう。
 とはいえ、騎士たちは全員が闇の書から切り離された状態で残っている事を考えれば全てが解決しているとは到底言えない状況ではあるのだが――。

「……直接的な被害は魔導師や魔法生物たちの一時的な魔力減衰と襲撃による傷害だ。その傷害に関しても、あくまでも直接襲われた記録が残っているフェイトやプレシアたちのモノだけ――」

 襲撃を受けたと思われる魔導師たちの中で、夜天の騎士達に襲撃を受けたという証言をしているものは一人もいない。
 否――そもそも、襲撃を受けた記憶を有しているものが一人もいないというのが正しいだろう。
 完全な不意打ちで意識を失わされたのか或いは――そもそもの発端からして、闇の書を管理外世界へ逃して十年余りも行方を追えなかった管理局の責任もある。
 最終的に管理局ではなく管理外世界に住まう現地民の手によって食い止められたという事実もあり、本件に関しては責任の所在というものが宙に浮いている状態なのだ。
 故に、闇の書の主である岸波白野が表向き死亡した時点で本件の責を背負うべき者は実行者でもあった騎士たち以外にはいなくなったとして纏めるべきなのだろうが――。
 
「――それでも、起こしてしまった事に対してせめてもの誠意は示さなければな」

 そのために自分は此処にいるのだと――。
 自身とて傷を負いながら、それでも襲撃の理由に納得した上でクロノたちに真実を告げず、騎士たちの蒐集を容認した事実に変わりはないと士郎は言う。
 そんな彼の言葉に対してクロノは静かに頷きを返すことしか出来ず、再び報告書へと視線を投げながら先日の一幕を思い返していた。

「……ここからはオフレコだ。士郎――今から彼女と……岸波白野と二人で話をすることはできないか?」

 尋ねる言葉に士郎は僅かばかり表情を顰め、仕方がないといった様子で胸に下げていた宝石を手に取った。
 
「――白野」
『……聞こえていたわ。個人的に事情聴取かしら?』

 念話とは異なるが、それでも脳裏に直接響く声は紛れもなく闇の書の主として振る舞っていた女性――岸波白野のものだった。
 恐らくは宝石から届いていると思われる彼女の言葉に頷きを返すと、士郎は首飾りとして身につけていた宝石を外してクロノへと差し出してくる。

「俺はリンディたちのところに顔を出して今後の打ち合わせと予定の調整をしてくる。そちらの話が終わったら届けに来てくれ」

 それだけを残し、士郎は宝石を置いて部屋を後にした。
 そうして薄暗い室内に残されたのは、宝石を手に小さく溜息を零しているクロノと――。

『――それで? わざわざ二人で話がしたいという以上、士郎には聞かれたくない話だったりするのかしら?』

 尋ねてくる声には真意を問う真摯さだけがある。
 そんな彼女に応えるように、クロノは覚悟を決めて小さく頷いて見せた。

「余計な気を回して遠慮されるのが目に見えているからな。君と二人で話を進めた方が、都合の良い報告書を纏めるのに丁度良い」
『そう……。貴方、士郎と初めて会った頃よりも随分と"やり手"になったみたいね。いえ、そう努めようと努力しているところなのかしら?』

 言葉はぶっきらぼうだが、そこにはクロノ個人を心配するような気遣いが確かに感じられた。
 なんとなく――それが士郎に似ている気がしていたが、クロノはそれを口にはせずに、空中ディスプレイへと表示させた資料を並べていく。

「僕は僕に出来ることを最大限やっていこうと思っているだけだ。君だって、士郎やはやてたちが少しでも明るい未来に進んでもらいたいからそんな役を買って出たんじゃないのか?」

 岸波白野は一連の事件の首謀者及び実行者として正式に認定されている。
 そうまでして彼女が闇の書の主として振る舞ったのは、結局のところ士郎やはやてのためであった筈だ。
 もちろん彼女自身がそうするのだと決めて事に臨んだことは疑う余地もないが、それでもこうして再び身体を失っている彼女と接していれば思うところはある。

『それは想像に任せるわ。とりあえず、私に協力できることなら出来る限り力を貸すつもりだから安心してくれていい』

 自分の本心を語る事はしないが、それでも彼女から少なからず信頼されている事は感じ取れる。
 その信頼に応えるようにクロノはハッキリと頷きを返す。全てを有りの儘に受け止め、自分にしか出来ないことをやり遂げていこうと決意を固めながら――。

「……感謝する。ところで彼女は……リインフォースはまだ会話が出来る状態じゃないのか?」

 報告書作成のための準備を進めながら尋ねる。
 僅かばかり途絶えた声――それが再び聞こえてきたのは、尋ねてから十秒ほど過ぎた頃だった。

『まだ無理みたいね。元々、彼女の魂……精神をここに移しているのは緊急避難に近いし、こうして私が話せる状態を維持できているだけでも十分予想外のことだから……』
「――そうか。出来れば彼女の協力も欲しかったんだが……まあいい。それなら、手早く済ませてしまうとしよう」
『そうね』

 告げて、クロノは白野からの証言を元に本件の最終報告を纏めていく。
 ――闇の書事件。
 それがどうして起きてしまったのか……という事実を全て正確に報告として纏めるつもりはクロノにはなかった。
 最低限必要な情報は、闇の書が管理外世界へ転生していたということ――そして、その主となった少女は蝕まれていく自身の身体をそのままに蒐集を拒んでいたという事実だ。
 闇の書――夜天の書と呼ばれる魔導書に関する情報はユーノから全て提出されている。
 そこから分かったのは闇の書が致命的なバグを抱えており、主となったものに約束された破滅を齎すという事実に他ならない。

「そういえば、僕は彼女たち――メルルリンスとエヴァンジェリンに関してはよく知らないんだが……」

 ふと気になって尋ねたのは、士郎と共に闇の書の闇を破壊した二名の協力者についてだ。
 あの後――事件後に僅かばかりの会話を交わすことも出来なかったが、コアの直接破壊に関わった彼女たちに関して最低限の報告はしなければならないからだ。

『メルルリンスは錬金術士で、エヴァンジェリンは魔法使いよ。二人共、私と同じで元々この世界にいた存在じゃないわ』

 そうして白野が語った二人に関する真実を耳にして、クロノは再び頭を抱えた。
 並行世界――或いは異世界ともいうべき世界で過ごしていた錬金術士と、同じく別の世界で過ごしていたという魔法使い。
 その経歴や素性など、白野が知り得る限りの情報を伝え聞いたクロノは、彼女たちに関する報告こそがもっとも困難に感じられていた。

「――遙か昔から密かに伝えられてきた錬金学と魔力運用を備えた管理外世界の住人……ということで押し通すしかないな」
『それが賢明だと思うわ。仮にあの二人が目をつけられることになったら、士郎は間違いなくあの二人の味方をするでしょうしね』

 白野の言葉にクロノは深く同意するように頷いた。
 エヴァンジェリンの魔法に関してだけでも目を引くが、特に問題となるのはメルルリンスの錬金術だろう。
 闇の書の闇を打ち倒す際の映像記録から、あの災害級の流星群を生み出したのが彼女の錬金術である事は容易に想像できる。
 曰く――二つとない代物だったらしいが、如何に管理外世界の技術とはいえ、あれだけは間違いなく管理局内でも監視対象として検討されてしまう筈だ。

『まあ、出来る限りはやてたちとの関連性を強調した報告をしなければそれでいいんじゃないかしら?』

 悩むクロノの横に置かれている宝石から聞こえてくる白野の声はどこか軽い。
 彼女たちは最悪この世界から去ることも出来ると――その際に気がかりになるのは、家族として暮らしているはやてたちに関することに違いないと彼女は言う。
 素直にその助言に従うことにしたクロノは、出来る限り情報を制限しながらメルルたちに関する報告を加えていくのだった。


 -Interlude-


「――そういえば、今日はシグナムさんたちもいないんだね」

 ふと声を上げたのは、事件後に初めて八神家を訪ねてきた友人たちの一人――なのはだ。
 フェイトやアリサ、すずかも揃ったリビングで寛いでいた彼女の言葉を耳にして、茶菓子の用意をしていたはやては小さく頷きを返した。

「みんな今日は管理局で個人面接や。事情聴取も含まれてるってことやけど……」

 今回の件に関して、はやてはある意味で蚊帳の外へ置かれていることを自覚していた。
 夜天の主として、事件を起こした騎士たちの責任を負うべきだと思っても、それを周囲は了承してはくれなかった。
 特に――闇の書の主として振る舞っていた白野から、騎士たちは自分を主と認めて行動してくれたのだと言われては返す言葉もない。
 それがはやてを気遣っての言葉であることぐらいはわかっているが、それでもどこかモヤモヤとした気持ちがあることは否定出来ない事実だった。

「ヴィータたちの事情は考慮してくれるってクロノさんも言ってたし、きっと大丈夫よ」

 励ますような言葉はアリサから――早い段階でヴィータたちが蒐集を行っている事を知っていたという彼女の言葉に、はやては小さく頷いてみせる。

「それに、夜天の騎士たちに関してはリンディさんも協力してくれるって言ってたしね」

 フェイトの言葉には少しばかり励ますような響きが含まれている。
 かつて闇の書の暴走によって最愛の夫を失っているリンディは現在――騎士たちを擁護してくれる立場にいるのだという。
 そこにどのような想いがあるのかは想像する事しかできなかったが、少なくとも信頼できる人物であるということは間違いない。

「なにかわたしに出来ることがあればって思うけど……」
「はやてちゃんがここでこうして元気に過ごしてるっていうだけで、きっと士郎さんたちは頑張れるんだと思うよ」

 思わず零した弱音に対して、すずかが柔らかな笑みを浮かべながらそう告げる。
 その言葉に、はやては自身の葛藤を含めた全てを呑み込んだ。
 望まれている事や望まれていないこと――負うべき事や負わざるべき事……その全てを自分一人でどうにか出来ると思うほど自惚れてはいない。
 ――事に臨んだ誰もが、それぞれに決意と覚悟を以て戦ったことを知っている。
 そして、皆がそれぞれに背負ったものを引き受ける事が出来るほど自身の器が大きくないことも――。

「そういえば、メルル先生とエヴァもいないみたいだけど……」
「うん? ああ、あの二人ならフェイトちゃんのお母さんに会いに行くって出かけたよ」

 アリサの疑問に応えると、少しだけ驚いた様子を見せたのはフェイトだ。
 彼女の母であるプレシアがメルルやエヴァと知己である――というよりも、接点があったことに驚いているらしい。

「えっと……前に士郎くんがプレシアさんと一緒にいなくなった時に知り合ってたらしいよ」

 フォローするように告げるなのはの言葉に納得した様子をみせるフェイト――。
 そんな二人の様子を眺めながら、はやては出払っている家族の事を静かに想うのだった。


 -Interlude-


 開け放たれた窓から聞こえてくる葉擦れの音――。
 外界の季節を考えれば寒々しい筈のそれは、この場所――アトリエの存在する空間では心地よい。
 柔らかく吹く風が頬を撫でていくのを感じながら、プレシアは目前に用意した紅茶を三つのカップへと注いでいく。

「――ふむ」
「――うん、凄く美味しいよ。ありがとう、プレシア」

 満足した様子で頷くエヴァと、明るい笑みを浮かべて感謝の言葉を口にするメルル。
 アトリエの中にある一室に構えられたテーブル――。
 そこに備え付けられた席へと腰掛けたままカップを手に口元へ運んだ二人を眺めながら、プレシアは同じようにカップを手にして口元へと運んでいく。
 ――世界が違うとはいえ、ここが地球である事に変わりはない。
 かつて麻帆良の地で士郎から教わった幾つもの葉を使用した紅茶は、淹れたプレシア本人も満足できる程度には上手く淹れる事ができていた。

「それにしても、こうして改めて顔を合わせてみると少し違和感を感じてしまうわね」

 テーブルを挟んで向かい合う形で座るエヴァを眺めながら告げる。そんなプレシアの言葉に、彼女は僅かばかり納得したように小さく息を吐いた。

「いつぞやのお前ほどではない。それに、必要な時にはいつでも以前の姿に変われるしな」

 魔法薬を利用した変装魔法を使用すれば以前と同じ年格好になることも出来ると告げるエヴァ――。
 伸びた身長も女性らしくなった体付きもそれなりに気に入っているらしく、以前の姿のまま知り合った一般人と行動を共にする時以外には基本的にこちらの姿で過ごしているのだという。

「――それで、奴らの今後はどうなりそうなんだ?」

 尋ねるエヴァの声音に変化はない。世間話の一環として告げたような気楽さを含んだ言葉だが、彼女が気にしているという時点で相応の感心を抱いている事は間違いないだろう。

「詳しくは聞いていないけど、当人たちの事情や意思を考慮して局での監視と奉仕活動程度に落ち着くでしょうね」
「随分と温い処置だな。今回はともかくとして、以前の奴らが相応の騒ぎを起こしていた事ぐらい把握しているのだろう?」
「その辺りの事は私も聞いてはいないけれど、少なくとも彼女たちに関してはロストロギアに付随するシステムの一部だったという事で押し通すつもりなのでしょうね」

 遠い過去に造り出されたシステム――それでも今は間違いなく今を生きる一つの人格として存在している。
 その事実を認めたのが他ならぬリンディである以上、プレシアとしては彼女たちの処遇に関して口を出すつもりは毛頭なかった。

「なんにしても、シグナムたちがそこまで重たい罪に問われることはなさそうでよかったよ。はやてとシロウも少しは安心できるかな……」

 僅かばかり安堵したように告げるメルルから昨日聞かされたのは事件に関わる一連の出来事――。
 彼女たち全員がそれぞれに決意と覚悟を抱いて戦っていた事を知ったプレシアは、美味しそうに紅茶を口に含んでいたメルルへと視線を向けた。

「メルル――貴女が使ったアイテム……アレほどのモノが作れるとなれば、下手をしたら管理局に目をつけられるかもしれないわよ?」
「そうなったらそうなった時だよ。どんな物も技術も使い方次第で人のためになる――それを実践できただけでも満足だから」

 だから使用した事に後悔は一切していないと――迷いなく朗らかに告げるメルルの言葉には真実一切の陰りもなかった。
 彼女は彼女に出来る限りの手段を尽くし、大切な人たちを助け、同時に自身の錬金術に憧れを持つ少女に対して一つの道筋を示して見せた事に後悔はないと告げた。

「……決心したの?」
「――うん。だから、向こうから言ってきたら受けようと思ってるんだ。今更興味本位なだけでそんなことを言い出す筈もないと思うしね」

 静かな覚悟を感じさせる落ち着いた声音で告げるメルルの姿に迷いは一欠片も存在していない。
 彼女が保有している技術と知識――それは解釈次第で管理局からロストロギアとして認定されかねないものだ。
 それでも彼女は自身の願いを――大切な人たちの願いと未来のために力と技術を振るい、そこに後悔は抱いていないと断言する。
 プレシアはそんなメルルの迷いのない姿に小さな頷きだけを返し、残っていた紅茶を口に含んでゆっくりと飲み下した。

「さて――それじゃあ世間話も終わったところで……今日の本題に入ろっか」

 少しばかり真剣な表情を浮かべたまま告げるメルル――そんな彼女と隣り合うように座っているエヴァの表情も僅かばかり固い。
 二人の様子から今日の茶会に呼ばれた理由が相応の事であると悟ったプレシアは、居住まいを正して真っ直ぐに二人の視線を受け止める。

「――何か、私に関わることなのね?」

 確信半分疑念が半分といった調子で尋ねると、メルルは直ぐにはっきりと頷いた。
 同時に席を立つエヴァ――そんな彼女に続けて席を立ったメルルは、普段は見せない真剣な様子のままプレシアへと視線を向けてきている。

「ついてきて」

 静かな口調でそれだけを告げて歩き出すメルル――そんな彼女の背を追うために席を立ち、部屋を後にする。
 そうして向かったのは、普段は他に誰も入れないというメルルの自室だ。
 その部屋に備え付けられている巨大な鏡――メルルが手を触れると同時に波打ちを始めた鏡面の向こうには、本来映っているはずの光景とは異なる薄暗い部屋の内装が映し出されていた。
 そこが入り口となっているのだろう。メルルもエヴァも戸惑うことなく鏡に向かって歩き出し、鏡面を越えて中へと入っていく。
 二人に続く形で鏡面の向こうへと入ったプレシアは、然程広くもない室内を見渡してソレを目にしてしまった。

「彼女は……岸波白野…よね?」

 部屋の片隅に置かれていた小さなシングルベッド――そこに眠るようにして横たわっているのは、闇の書の主として振る舞っていた岸波白野だった。
 それ自体は驚くに値するようなことではない。事件後に限界を迎えようとしていた彼女は、夜天の魔導書の管制人格と共に士郎が保有しているという宝石へと精神を戻したからだ。
 空になった肉体を回収したのがメルルであることを考えれば、ここに岸波白野の肉体が存在している事は何一つ不思議な事ではない……ない筈なのだが――。

「そうだね。確かに、あそこで眠っているのは彼女が依り代にしていた身体で間違いないよ」

 告げて一歩を踏み出すメルルとは逆に、同席していたエヴァは真っ直ぐにプレシアの元へと歩み寄ってくる。
 傍に来た彼女が何かを取り出して静かに呟いた瞬間、プレシアとエヴァの身体は突如発生した結界のようなモノに包まれてしまった。

「これは……どういうつもり?」
「メルルが拵えた特殊な空間を展開する道具を使っただけだ。お前たち魔導師が展開していた結界と同じようなものさ」

 だから静かに立っていろと――告げるエヴァの言葉に従って静かに事の成り行きを見守るように視線をメルルへと向ける。
 静かに……だが確実に寝息を立てているその姿――。
 まるで、今も生きているのでは無いかと思える白野の傍に立ったメルルは、そっと手を伸ばして彼女の身体を揺さぶった。

「――ほら、そろそろ起きなさい。あまり長く眠っていても体調はよくならないわよ」 

 まるで小さな子供に告げるようなメルルの言葉に応えるように動き始めたのは、もう二度と動くはずのない抜け殻となった身体――。
 それがどうしていまも動いているのかという疑問が脳裏を埋め尽くす中――身体を起こした彼女は静かに欠伸を零して見せる。
 どこか幼い印象を抱く仕草を見せる彼女を眺めていたメルルは、小さな溜息と共に"彼女"の名を口にしてから会話を開始するのだった。


 -Interlude out-


「――とりあえず正式な判決が下されるのは年明けになると思うけど、当面の間は局の監視が届く範囲で保護観察……という形に落ち着くと思うわ」

 人気のない食堂の片隅――どこか疲れた様子で告げるのは、局の制服に身を包んだリンディだ。
 そんな彼女にお茶を用意しているエイミィを横目に、士郎は改めて確認するようにリンディへと視線を投げた。

「――それでは、彼女たちは暫く自宅へ戻ることが出来るということか?」
「ええ。もちろん、行動は逐一監視されているし、魔力も極限まで封印した上で……だけどね」

 魔力封印と常時監視――その程度で済んだのは、闇の書に関する様々な情報を前提とした騎士たちの状態も多分に影響しているのだろう。
 どれほど人と同じような存在であろうと、彼女たちがロストロギアであった闇の書が備えていたシステムの一部であるという事実――。
 今回の事件以前の彼女たちに選択の余地が殆ど存在していなかった事も含め、シグナムたちが自身の罪と真っ直ぐに向き合った上で更正の意思を見せているという事も大きな要因と言える。

「……それに貴方の申し出もあるしね。本当によかったの?」

 尋ねる声には心配が多分に含まれている。そんなリンディの言葉に、士郎はただ小さく頷いてみせた。

「事件の関係者として出来る限りのことはするつもりだ。幸い……といっていいのかどうかはわからないが、俺の戦闘能力に関しては局にも認められているようだからな」

 曰く、衛宮士郎は闇の書に関わる事件を解決した魔導師――そんな誇大広告のような肩書きで伝えられているのだという。
 それを利用しての提案はエイミィやクロノを通じて管理局の上層部へと伝わり、受け入れられる事となった。

「こちらも詳しい話は年明けになると聞いている。彼女たちの処遇も含め、暫くは厄介になるがよろしく頼む」
「ええ。士郎くんの事に関しては、私の友人のレティ・ロウランに話を通してあるし、当面は彼女の下で動けるようにしていくつもりよ」

 既に士郎たちの事情に関しては最低限伝えているらしく、先方からも色よい返事が返ってきているのだという。
 局員としても個人としても協力的なクロノやリンディの心遣いに感謝しながら、士郎はこれからを思って小さく溜息を零した。

「なにか心配事?」
「家の者に相談せずに決めているからな。これから家に戻ったら、まずはそれを説明しなければならないんだ」
「ああ……それは確かに大変そうね」

 どこか同情するような表情を浮かべていたリンディの言葉に小さく頷きだけを返す。
 すると彼女は何かを思い出したといったように表情を改め、それまでとは異なる明るい笑みを浮かべた。

「――そういえば、結局ドタバタして士郎くんに海鳴を案内してもらってなかったわね」

 事件の直前にリンディと交わした約束――。
 改めて口にされるまで士郎から告げるつもりはなかったが、元よりその約束を忘れてはいない。以前にはやてとの約束を忘れていた醜態を繰り返すつもりはないからだ。

「年内ならいつでも引き受けよう。君の都合のいい日で構わないぞ」
「ええ、こっちもまだ少しばたついているし、落ち着いたらまた連絡するわね」

 傍にいたエイミィが苦笑を浮かべている姿を視界に映しながらはっきりと首を縦に振る。
 そんな会話をリンディと交わし終えるのと、宝石を手にしたクロノが食堂へとやってきたのは殆ど同時だった。


 

 

Episode 76 -決断と決意の先へ-

 ――別れを告げて、再会を誓う一幕があった。
 夜天の魔導書と共に消滅することを覚悟していたリインフォース――。
 彼女を救うために、その精神を聖杯の欠片へと移す。それを可能とするのは、エヴァがはやてを救うためにと準備を進めてきた特殊な術式だ。
 肉体を得ても変わらず、聖杯と繋がった状態のままでいる白野の存在があってこその手段――。
 はやてや騎士たちに類が及ばないというのなら――という前提の元、リインフォースはその精神だけをこの世界に残すことを決心した。
 真の主であるはやてや守護騎士たちとの一時の別れを済ませた彼女はそうして――夜天の魔導書の管制人格として存在していた自身にも別れを告げる。
 そうして、既に限界を迎えようとしていた白野は仮初めの肉体から去り、リインフォースと共に聖杯内部へと戻っていった。
 ――岸波白野は闇の書の暴走を食い止めるために死亡した……と管理局の記録には記されるという。
 仮に肉体の崩壊が待っていなかったのなら、恐らく白野は守護騎士たちと共に事後の対応に回るつもりだったのだろう。
 ともあれ――闇の書に関わる"今回の事案"に関しての責は全て白野が引き受けた形となり、結果として彼女の死を以て闇の書事件は一応の決着を迎えた。
 ――そんな事情もあったからだろう。
 士郎は事後の処理に協力すると告げて、局員であるクロノ・ハラオウンと共に再びアースラへと向かっていった。
 そこには守護騎士たちの犯した罪の清算を手伝うという意味もあったのか――。
 或いは――彼は彼なりに自身の行動に対するケジメをつけようと考えていたのかもしれない。
 その本心を正確に推し量ることは出来なかったが、だからこそ彼女――メルルリンス・レーデ・アールズは自身にできることをしようと決め、その他一切の事後処理を最優先して行ってきた。
 事件の裏で様々な手段を尽くしてきたメルルが差し当たり早急に行わなければならない事柄――それは、死亡したとされる岸波白野の肉体を回収することに他ならない。
 抜け殻となった肉体が限界を迎え、その場で消滅したように見せかけてアトリエへ――。
 白野の肉体を回収することに成功したメルルはそのまま、皆と別れてから真っ直ぐに自身のアトリエへと向かった。
 戻ってきたアトリエの中――そこにあった動くはずがない岸波白野の肉体はしかし――メルルの目前で唐突に動き始める。
 ――白野の精神が士郎の宝石へと移った事は間違いない。
 ならば、どうして空になったはずの肉体が動き始めるのか――。
 そんなメルルの疑問は、動き始めた白野の肉体が閉じていたその目を開き、言葉を口にした瞬間に氷解した。

 ――お母さん……フェイト………。

 どこかぼんやりと呟かれたその言葉――それは確かに白野の声で紡がれたものでありながら、しかし決定的に声音が異なっていた。
 強い意思を感じさせる白野とはまるで異なる幼い印象を抱かせるその声音――。
 そして、その口から零れた聞き逃すことの出来ない単語がメルルに理解を促した。
 かつてプレシアから聞いた彼女の過去に関わる話――そして目覚めた"少女"から直接聞いた事柄に、メルルは現状に対する確信を深めていく。
 少女の存在――それはなんであれ、間違いなくプレシアに大きな衝撃を与える事になるだろう。
 それを他の誰よりも理解しているからか――自身の存在をフェイトやプレシアには告げないでくれと少女は告げた。
 泣き笑いの表情で告げる少女の言葉にメルルは静かに決意を固めていく。
 まずは知らせるべき人に知らせようと思い至り、メルルは少女に気づかれないようにプレシアをアトリエへと招いた。
 ――自身の心は定まっている。
 プレシアが少女の存在をどのように受け止めるのかはわからない。
 けれど、例えどのような結末に至ろうとも、少女の存在に責任を持つ事をメルルは覚悟していた。
 間接的といえ、少女がこの世界に存在しているのは、間違いなくメルルの錬金術が関わっての事――。
 ならば、少女の存在を誰よりも肯定して見せるのは、錬金術士として生きていく事を改めて決意したメルルにとっては当然の事だからだ。
 普通であれば不可能とさえされる事柄を可能とする自身の錬金術。その結果として生み出された全ての結果を受け止めるのは、錬金術士として最低限の心構えに他ならない。
 だからこそ――メルルは年齢が離れていても確かに友人だと言えるプレシアの事や、自身の死を望む少女の行く末を心配しながらも、あくまで秘密裏に二人を引き合わせることを決めたのだった。





 ・――・――・――・――・――・





 それはきっと、目を逸らすべきではない現実――。
 プレシア・テスタロッサにとって、それは避けて通れない残酷な真実だった。

「――おはよう、アリシア。今日は少し元気そうだね」
「うん。身体の感覚が殆ど無いっていうのにも少し慣れてきたし、メルルさんのお薬も効いてるのかも……」

 目前で交わされる会話――聞こえてくる声音はメルルと岸波白野のもので間違いない。
 けれど、二人の会話を耳にする度に過去の懐かしい思い出が脳裏を過るのはどうしてなのか――。

「それにほら……どうせ死んじゃうなら、痛みなんてないほうがきっと楽だと思うし」

 明るい声音で約束された終わりを語る少女の言葉にメルルは苦笑いを浮かべていた。
 対して、プレシアの隣に立つエヴァの表情は窺えず、彼女がアリシアと呼ばれた少女にどのような感情を抱いているのかはわからなかった。

「……目を覚ました時にも言ったと思うけど、手段がないわけじゃないんだよ?」
「……うん、ちゃんと覚えてるよ。だけど、私はこの世界にいちゃいけないと思うから――」

 その言葉に、プレシアは思わず息を呑んだ。
 白野の姿と声で語る少女の言葉――それが悲しげに揺れた事がはっきりと感じられた。

「――どうして?」
「だって、"アリシア・テスタロッサ"は確かにこの世界では死んでるんだもん。なら、このまま……紛い物の私は、誰にも知られないまま消えるほうがきっといいと思うから……」

 ――かつて、時の庭園で対峙した士郎の言葉を思い出す。
 仮にアリシアを蘇らせる事が出来たとして、彼女はそれを望むのかどうかと――。
 けれど――それでも、少女がどのような葛藤を抱いていようと、悲しげにそんな言葉を告げられて納得できるはずもない。
 それはプレシアに限ったものではなく――少女の側に立つメルルもまた、珍しく真剣そのものな重々しい雰囲気をその身に纏っていた。

「――プレシアやフェイトに会いたいとは思わないの?」

 容赦なく告げるメルルの声音はしかし、どこまでも優しい。
 少女へと向けられているその目には確かな悲しみと憤りのようなものが秘められている。
 そんなメルルからの問いかけに少女は身体を揺らし、数秒の沈黙を経てからゆっくりと口を開いた。

「……会えない……ううん、会いたくない。ようやくお母さんとフェイトが仲良く暮らせるようになったっていうのもあるけど……それだけじゃなくて――」

 少女は、そうした諸々の事情だけではなく、個人的な心情として会いたくないのだと告げる。
 ――姿形も異なり、その声も別人のものである事に間違いはない。
 けれど、その言葉から感じられる優しさと寂しさに彩られた声音は、間違いなくプレシアの記憶に残るアリシアのものだ。
 そんな少女からの――アリシアからの明確な意思表示。それは想像していたよりも、遥かに大きくプレシアの感情を揺さぶるのだった。

「――それに……フェイトとはちゃんとお別れも済ませてるしね。お母さんだって私の事はもう死んでるんだって受け入れてくれてると思うから……」

 だからもういいのだと――アリシアは寂しそうに笑いながらそう告げた。
 二人のその後の会話からわかったのは、アリシアの精神は闇の書の中で夢に囚われていたフェイトの夢として顕現した存在だということだった。
 かつてフェイトを生み出した際に彼女へと移植したアリシアの記憶が、人の心の闇を具現化させる闇の書の魔法によって明確な形を持った結果なのだろう。
 だが――そうだと仮定するのなら、目前で確かに存在しているアリシアは間違いなく、プレシアが"覚えている"アリシア・テスタロッサと同一の存在に違いない。

「そう……あなたがプレシアやフェイトと会いたくないっていうのなら、それを無理強いするつもりはないよ。だけど――」

 その言葉の先はメルルの口から語られることはなかった。
 それでも少女には通じたのか――岸波白野の姿をしたアリシアは、少しばかり苦笑いを浮かべたまま小さく頷いていた。

「まだ時間はあるからゆっくり考えてみて。本当に……ここで独り、ひっそりと消えていっても悔いはないのかどうか――」

 続けて告げられる言葉に、いよいよ少女は顔を俯かせてしまう。
 そんな少女に背を向けたメルルを眺めていたプレシアは、隣に立つエヴァに手を引かれるまま、静かにその部屋を後にした。

「――あの子は、アリシア……なの?」
「あれがお前の娘であるアリシア・テスタロッサ"本人"であるかどうか――と尋ねられれば、違うとしか答えられないな」

 鏡の外へと出てからどうにか口に出来たその言葉に、エヴァは小さく頭を振って応えてくれた。

「だけど――」
「――事実として、お前の娘は間違いなく遠い過去に死んでいる。それはお前自身が誰よりもよくわかっているのだろう?」

 エヴァの言葉に頷くまでもなく、それは事実としてプレシア自身が誰よりも痛感している。
 そもそも、プレシアの半生はアリシアを失ったことを否定するためのものであったのだから――。

「――ごめんね、プレシア。だけど、こうでもしないとあの子は本当に誰にも知られないまま消えるしかないと思ったから」

 背後から聞こえてきた声に振り返る。そこには、申し訳無さそうな表情を浮かべているメルルの姿があった。
 いつもの明るい笑顔とは事なり、表情を曇らせたままのメルル――。
 そんな彼女を真っ直ぐに見据えたプレシアは、彼女の気遣いに確かな感謝を込めながらゆっくりと頭を横に振った。

「……いいえ、知らせてくれて感謝してるわ」

 思うところがないのかと問われれば、ある……と答えるだろう。
 けれど、それでも目の前の現実から目を背けることはできないのだから――。

「それで――貴女はどうするつもりなの?」

 確信を突くように告げる。メルルは僅かな躊躇を見せながら、それでもはっきりと応えてくれた。

「……私はあの子を助けてあげたい。だけど、あの身体はもう限界……生命力を殆ど失っているあの身体は、数日も経たない内に間違いなく崩壊する」

 それはもう、メルルの道具を使用してさえ避けられない約束された未来――。
 仮初めの生命体でしかないあの肉体は既に生命力を枯渇させており、事実上死んでいるとも言える状態なのだ。
 プレシアがかつて使用した妙薬も非生命体には作用しないという。故に――あの身体は緩やかに、けれど確実な崩壊へと向かっていくしかない。

「方法はあるよ。その前に彼女の精神を別の依代……ううん、彼女の精神が宿っている依代を別の肉体に移すことが出来れば、彼女は助けられる――」

 救う手立ては確かに存在している。では何が問題となっているのか――。
 それこそが、メルルとエヴァがプレシアを彼女と引き合わせた本当の理由なのだと悟るのに時間は必要なかった。

「まだ生まれて数年も生きていない子が自分の死を望む――それを黙って受け入れてあげられるほど、私は人間が出来ていないんだよ……」

 アリシア・テスタロッサとしての記憶を持った少女――。
 例えフェイトやプレシアの事情を承知していようとも、その精神が幼いものであることに疑いの余地はない。
 それでも少女は夢の世界においてフェイトの姉であろうと振る舞い、幸福な夢を振り払おうとするフェイトの背を押して自身の消滅を受け入れた。
 偶然か必然か――その果てに少女はこうして生きている。
 それが少女にとってどれだけの葛藤を抱かせるものなのかは、当の本人でなければ想像することしか出来ない。
 だからこそ、メルルはその全てを承知した上で少女を救いたいのだと告げる。
 例えその先にどのような結末が待っていようと、こうして現実の世界に存在している確かな一人として少女を認めるのだと――。

「――いいわ。私も出来る限りの協力はする」

 決意と覚悟を込めて告げると、メルルとエヴァの二人はそれぞれ視線で問いかけてくる。
 ――本当にいいのか……と。
 確かな心配を含んだ二人の視線を真っ直ぐに受け止める。
 アリシアを失ってからの年月――そして、フェイトと母娘として過ごした半年余りを思い返しながら、プレシアは自身の想いを言の葉に乗せていく。

「……私が生き返らせようと願ったアリシアは確かにもう死んでいる。そして、そのアリシアを蘇らせるために私があの子を……フェイトを生み出した事は間違いのない事実だもの」

 それはかつての自身が確かに行ってきた事実――目を背けることも否定する事も出来ない真実だ。
 士郎やエヴァ、メルルに救われ、麻帆良での日常を経て背負うことを許容する事のできた自身の足跡――。
 そしてなにより――全てを承知した上で、それでも自身を母と呼んでくれる大切な娘がいてくれるからこそ、この現実から目を背ける事はできない。

「だからきっと、あの部屋にいる子は私の知っているアリシア・テスタロッサじゃないんでしょうね……。だけど、それでも……あの子も確かに私の娘であることに違いないと思うから――」

 どのような経緯から生まれようとも、かつての自身が望んだ結果とも言える少女であることに違いはない。
 例え少女がアリシア本人とは異なると理屈ではわかっていても、その存在を否定する事がプレシアに出来るはずもない。
 だからこそ、今をこうして生きているプレシアに出来ること――許されているのは、ただ彼女の存在を有りの儘に受け入れる事だけだった。

「――貴女があの子を生かすというのなら協力は惜しまない。私に出来る事なら何でもするから、遠慮なく言って頂戴」
「……ありがとう」

 感謝を口にするメルルの表情は真剣そのものだった。
 けれど、感謝を口にするというのなら、それはメルルではなくプレシアが口にするべきものだろう。
 なんであれ――少女を生かす術も、少女のその後もメルルの協力なくして成り立つものではないのだから――。

「――とはいえ、具体的にはどうするつもりなんだ? あの肉体は限界だ。だが、そもそもお前が用意できるあの肉体は生命体として不完全なのだろう?」

 メルルが創り出したという仮初めの肉体――岸波白野から齎された情報を元に用意したという肉体の雛形は、元々生命体としては欠陥があるのだという。
 その素体を岸波白野が問題なく使用する事ができていたのは、偏に彼女の特異な性質に依るものだ。
 その上、岸波白野が闇の書の主として振る舞うために埋め込んだという魔導炉――生命力を魔力へと変換する器官も相まり、あの肉体は早々に限界を迎える事となった。
 仮にあの肉体が生命体として問題のない完成度を有していたのなら、どれほどの反動を受けようとも魔導炉の過剰使用で肉体が崩壊するということはなくなるらしいが――。

「そうだね。だから、ちゃんとした身体を用意すれば問題ないと思うんだ」

 エヴァとプレシア二人の心配を他所に、メルルはあっさりとそう告げる。
 どこか覚悟を秘めたその表情とは裏腹に、その身に纏う気配はどこか不安げに揺れているように感じられた。


 -Interlude out-


 事後の処理を終え、食堂で合流したクロノも交えて今後の話を簡単に纏めていく。
 そうして大凡の打ち合わせを終えた士郎は、クロノから返却してもらった宝石を身につけたまま、一人で転送ポートへと向かっていた。

「――そうか。それなら、メルルやエヴァに関しては上手く誤魔化せるかもしれないな」
『ええ。それにしても……貴方がこれから局の魔導師として働くことを、あの二人はどう思うのかしらね?』

 どこか淡々とした口調で告げる白野の声を脳裏に届けながら、士郎はもう一度だけ小さく溜息を零した。

「期間は短くとも半年……長ければ一年程度になるだろう。その間、あの二人を置いていく事になるからな……」

 どれだけ想像を巡らせようと、彼女たちがどのような反応をするのかは想像もできない。
 これが必要なことであるとわかってはくれるかもしれないが、それとこれとは話が別だろうというのが士郎と白野の共通見解だった。

「まあいいさ……シグナムたちも家に戻る事が出来たというし、俺たちもそろそろいくとしよう」
『ええ』

 ややあって辿り着いた転送ポートから地球へと向かう。
 すっかり慣れてしまった独特な感覚を覚えた直後、目前には一度見たことのある室内風景が広がっていた。
 リンディたちの家に備え付けられている簡易転送ポート――。
 そこに向けて無事に転送が行われた事を確認した士郎は、すぐ近くでぼんやりと過ごしていたプレシアへと視線を固定する。

「あら……おかえりなさい、士郎。思っていたよりも早かったのね?」
「ああ、クロノやリンディが頑張ってくれてな。お陰で年明けまではゆっくりと過ごせそうだ」

 告げて僅かに空気が重たいことに気付いた士郎は少しばかり首を傾げた。
 原因は恐らく、どこか表情を曇らせているように見えるプレシアにあるのだろうが――。

「――どうかしたのか?」

 尋ねる士郎に少しばかり驚いた様子を見せたプレシアだったが、彼女は直ぐに何かを思い直したかのように小さく頷いた。

「……そうね。別に貴方たちにまで隠すようなことじゃないものね――」

 殊の外真剣な表情でプレシアが語ったのは、予想もしていなかった事実だった。
 ――アリシア・テスタロッサが生きている。
 否――正確に言えば、アリシアの記憶やフェイト、プレシアの願望などを元に夢の世界で結実した似て非なる存在なのだという。
 なのはたちから少しばかり聞いた話ではあったが、夜天の書に取り込まれた際にそれぞれが見ていた夢は限りなくリアルなものだったらしい。
 魔法によって構築された仮想現実とも言えるその夢の中で、フェイトが見ていたという夢に登場していた架空の存在――。
 それが現在、抜け殻となったはずの白野の肉体に残っているアリシアの意識に違いない――というのがメルルやエヴァ、プレシアの共通した認識だった。

『……そう。あの子もこっちに引っ張ってきちゃったわけか』

 心当たりでもあったのか――白野が零した声には、どこか納得したような響きが感じられた。

「……それで、君はどうするつもりなんだ」
「私には、あの子に対して何かを言えるような資格がないわ。だけど、もし……もしいつかあの子が自分から私やフェイトに会うと決心してくれたなら、その時は――」

 そうして僅かに表情を緩めて告げるプレシアだが、その決意と覚悟は目を見れば語るまでもなく察する事が出来た。
 かつて彼女がアリシアを蘇らせようとした事に端を発する今という現実――。
 プレシアは、その全てを認めて受け入れるだけだと――どのような出自であっても、既にこの世に存在する事を許されているアリシアを我が子として認めると断言した。

「全ては彼女次第というわけか……」
『だけど、あの身体はもう限界のはずよ。最大限楽観視しても、あと数日も保たないはずだけど……』

 白野の懸念――それは、元々あの身体を使っていた当人の言葉であると考えれば疑う余地もない。

「その問題に関しては、メルルが手を打ってくれるそうよ。ちゃんとした身体を用意すると言っていたけれど……」
『私の身体を用意するときにはどうやっても完成体は用意できないと言っていたと思うけど……あれからずっと研究でもしていたのかしらね?』

 疑問に満ちた二人の会話を耳にしながら、士郎は一年近く前の事を思い出していた。
 ――かつて自身の肉体の大本となったホムンクルス。
 どうやっても材料が調達できなかったから、出来損ないの人形しか造る事が出来なかったと彼女は言っていたのだが――。

「……まあ、俺たちがあれこれと考えてもどうしようもない。だが、アリシアの件については俺も出来る限りの協力をすると約束しよう」
「ええ、ありがとう。申し訳ないけど、頼りにさせてもらうとするわね」

 アリシアに関わる問題に関して出来る限りの事はするとだけ告げて、士郎はその場を後にする。
 そうして海鳴の街並みを歩き、八神の家に戻ってきた時には既に日も暮れ始めていた。
 久しく感じられる平穏な気配――周囲に広がっている平和な光景に安堵の息を零しながら家の中へと入っていく。

「――おかえりなさい、士郎」
「ん? あ……おかえり、士郎。思ってたより早かったんだ?」

 庭先で素振りをしていたシグナムと、その横でのんびりと寛いでいたヴィータ――。
 二人と挨拶を交わしながら庭へと足を踏み入れると、二人はそれぞれに手を止めてゆっくりと士郎の側へとやってきた。

「ただいま。シグナムたちは暫くこちらにいられるのか?」
「はい。まだ暫く面談が続く予定ですが、少なくとも年明けまでは四人とも家に戻っていて構わないそうです」
「もちろん魔力は封印されたままだけどさ。でも、こうして残れてるだけでも充分なんだ。後はほら……これまでの事を少しずつでも償っていければって――」

 憂いなく告げるシグナムとヴィータの姿にはある種の覚悟と決意が感じられた。
 今回の闇の書事件に関わらず、これまで数多繰り返してきた転生と破壊の連鎖に彼女たち守護騎士は逃れようもないほどに深く関わっている。
 それを気にするなと告げられるほど厚顔ではないし、当の本人たちが前向きに過去の在り方を受け止めている以上は騎士たちの家族としてそれを応援するだけ――。

「……申し訳ありません。士郎には色々と迷惑をお掛けしていますが――」
「自身が積み重ねてきたモノと真っ直ぐに向き合うつもりの君たちに、家族として――はやての兄として、せめて出来るだけの事はしていきたいと思っているだけだ」

 自身が望んでしている事だと告げ、そんなことは気にしないでくれと視線で告げる。
 それを真っ直ぐに受け止めた二人はそのまま――小さく首肯しながら士郎の言葉を静かに耳へ届けてくれた。

「――あ、もう帰ってる……おかえり~士郎」

 ふいに開かれた家の窓から聞こえてきたのは、僅かばかり頬を膨らませているはやての声だった。

「ああ、ただいまはやて。なのはやフェイトはもう帰ったのか?」
「うん、ちょっと前にな。ちょうど今からご飯の支度をしようと思ってたんやけど……」

 家の中から顔を覗かせるはやての傍にはシャマルとザフィーラの姿がある。
 どうやら、メルルとエヴァも既に帰宅して自室へと戻っているらしい。

「なら、俺も手伝おう。すぐに中に戻るから、準備を続けていてくれるか?」
「うん、了解や」

 返事だけを残して、はやてはシャマルやザフィーラと共に部屋の奥へと去っていく。
 それを見送りながら、こうしてようやく戻ってきた日々を実感する。
 もう二度と戻れなくとも――そう覚悟していた平穏で暖かな日々。それはきっと、以前と同じようでも全く同じではないのだろう。
 ――そんな、当たり前の時間の中にいる。
 それを強く実感しながら、士郎はいつの間にか自身の大切な居場所となった家へと入っていくのだった。
 

 

Episode 77 -未来への展望-

 窓の向こうから差し込む夕日――沈むことのない夕暮れに照らされる廊下を歩いていく。
 古びた廊下は人と人が行き来を出来る程度にはゆとりがあるが、さして広いという程でもない。
 まったく人気のない通路を歩きながら彼女――リインフォースは、自身が存在しているこの不可思議な空間にすっかり慣れてきた事を実感していた。

「……それにしても、時間の感覚だけはどうしようもないな」

 自身が感じる時間の流れ――正常な時間の経過と、この空間で過ぎていく時間には明確な差異がある。
 そんなことに気付いたところで何ができるというわけでもないが、この空間に不満があるとすれば精々その程度のことなのだ。
 ――夜天の魔導書の管制融合騎として生み出されて数百年。
 こういった手持ち無沙汰な状況に陥ったことがないというのも大きな要因なのかもしれないが――。

「せめてなにか時間を潰せるものがあればいいのだが……」

 独り言を零しながら、ふと――この空間の主であり、自身のもう一人のマスターである岸波白野の言葉を思い出した。
 曰く――ここは知識と記録の蓄積を旨とする聖杯の内部。このような形をしているが、しかるべき場所にはきちんと情報が整理されているのだという。

「どうしてこのような木造の建物をわざわざ構成しているのかはわからないが、確かにそう言っていたはず……」

 この空間においては既に数ヶ月前――現実には、まだ数日前に交わした白野との会話を思い出しながら歩を進めていく。
 木造の建物は所謂学校と呼ばれるものであり、白野自身はこの場所を旧校舎と呼んでいた。
 旧校舎があるのなら新校舎があるはずなのだが、この空間に存在しているのは旧校舎ただ一つ――。
 恐らくは白野にとって思い出深い光景……或いは場所なのだろうと納得しながら廊下を歩いていく。
 廊下の途上には様々な部屋が存在しており、それぞれ入り口に名称が書かれた札がある場所もあれば、なにもない場所もある。
 それらを一つ一つを眺めながら進んでいく。暫くして"図書室"と書かれた札を見つけ、僅かばかり歩調を早めた。
 図書室――書を収納していると推察されるその部屋の扉を開け放ち、室内を覗き込む。すると、そこには思いがけない先客がいた。

「――おはよう、リインフォース」
「おはようございます、マスター」

 本に囲まれた室内に備え付けられていた簡素な椅子に腰掛けていたのは、この空間の主である岸波白野本人だ。
 向けられた挨拶に対して戸惑うことなく返答すると、彼女は僅かばかり驚いたような表情を浮かべてから静かに苦笑を零した。

「白野でいいわよ。貴女はもう"闇の書"の管制人格じゃないんだしね」

 形式めいた言葉だが、それが白野なりの気遣いであることは間違いない。
 魔導書として直接彼女と繋がりがあったわけではないが、二人の間柄は確かに主従のものであった。
 それは形式だけではなく、白野自身の意思と決意を確かに信じられたが故のもの――。
 けれど、それはもう終わったのだと告げる白野に対して小さな感謝と僅かばかりの寂寥感を抱くのはある意味当然のことだろう。

「……了解しました。白野……と、これでよろしいでしょうか?」
「ええ。それで、わざわざこんなところを覗くなんて……流石に時間を持て余すようになったの?」

 どこか嬉しそうな問いかけに小さく頷いて答える。
 椅子から立ち上がり、静かに側へとやってきた白野の視線は真っ直ぐにリインフォースへと向けられたままだった。

「――うん、確かに大分安定してきたみたい。これならもうじきちゃんとした器に移れると思う」

 告げて白野が説明をしたのは、この空間におけるリインフォースの状態に関することだった。
 元々白野以外が存在しなかった聖杯の内部――そこに紛れ込んだ異物がリインフォースだ。
 その存在を維持し、意識を取り戻させるために用意した箱庭――。
 それこそがこの旧校舎と呼ばれる場所であり、白野が聖杯の能力を使用して作り上げた擬似空間なのだという。

「では、時間の感覚がズレているのは……」
「ええ。貴女の精神……というより、存在を安定させるための時間を早めるための措置よ」

 聞けば、この旧校舎の外では普通通りの時間が流れているらしい。
 ここが仮想空間であることは承知していたが、あらゆる願いを叶える聖杯の欠片――その優れた性能は感嘆に値するものだった。

「退屈していたとは思うけど、もう少しの間だから安心して。それと、これはメルルリンスからの提案なんだけど――」

 僅かばかり神妙な様子で告げる白野の言葉に耳を傾ける。
 彼女の口から告げられたのは、今後のこと――その後の未来を決定する三つの選択肢だった。


 -Interlude-


 久しぶりに家族全員――白野とリインフォース以外の全員が揃った夕食に嬉しさがこみ上げてくる。
 そうして、笑みを浮かべながら家族の顔を眺めていたはやてだったが、ふと――メルルの表情がいつもより僅かばかり緊張している事に気づいた。

「……なあ、メルル。どうかしたん?」
「え……うん、ちょっとね」

 少しだけ苦笑いを浮かべたメルルはそのまま、食後の片付けが終わるまで何かを考えているように見えた。
 リビングで寛いでいた全員がそれに気づいていたが、メルルの様子から深刻な気配が感じ取れなかったために誰も無理に聞き出そうとはしない。
 そうして――意を決したように小さく頷いたメルルは、ゆっくりと立ち上がって食後のデザートを準備していた士郎の側へと歩み寄っていく。

「――ねえ、シロウ。ちょっと相談があるんだけど、いいかな? 多分、プレシアからも話を聞いてると思うんだけど……」
「ああ、聞いている。それで、相談とはなんだ?」

 言葉を濁しているのか、または内々にしたい事柄なのか――。
 傍で聞いていたはやてたちには何の話なのかもわからなかったが、二人の間では意味が通じているらしい。

「えっと、単刀直入に言うと、素材を準備する手伝いをしてほしいんだけど……」
「ふむ……手伝うのは構わないが、それは俺にも出来ることなのか?」
「もちろんだよ。……そもそも、シロウ以外には頼めないというか……」

 はっきりと答えた後に何かを小声で呟いていたメルルの顔は心なしか朱色に染まっていた。
 それが照れていると察するのは比較的簡単だったが、メルルのそうした姿は、これまで短くない時間を共に過ごしてきた中では初めて見るものだった。

「他ならぬ君からの頼みだ。俺に出来ることなら力を尽くす。それで、俺は何を手伝えばいいんだ?」
「……ここじゃちょっと言い辛いから、私の部屋で説明するね。あと、白野からはやてたちに伝えてほしいことがあるの。首飾りはエヴァに預けてもらっていいかな?」

 矢継ぎ早に告げるメルルの言葉に頷いた士郎は、首から下げていた宝石を手にしてエヴァへと手渡す。
 暇つぶしのようにザフィーラの毛繕いをしていたエヴァは、少しばかり神妙な様子でそれを受け取っていた。

「――それじゃいこっか。後はよろしくね、エヴァ」
 
 告げると同時――士郎の手をとって歩き出すメルル。
 そんな彼女に引っ張られながら、デザートの準備が出来ているから好きに食べてくれと告げる士郎――。
 足早に部屋を後にしてしまった二人を見送ったはやては、微妙な空気の漂うリビングを見渡した。

「……なんや、珍しい様子やったね」
「うん、そうだな」

 既に机の上に用意してあったデザートを前にしながら同意の言葉をくれたのはヴィータだ。
 配膳の手伝いをしていたシャマルや、ソファに座って雑誌を読んでいたシグナムも同じように頷きを返してくれた。

「心配せずとも大したことではないさ。あの女にも、人並みに恥じらいというものがあったというだけだ」
「ようわからんけど、まあええか。そういえば、なんやわたしたちにも話があるとか言うてたような……」
「ああ。それは――」
『――そこからは、私が説明をするわ』

 エヴァの言葉を遮るように脳裏に響いたのは、忘れようにも忘れられない女性の声――岸波白野のものだった。

『――単刀直入に言うと、彼女の……リインフォースのことよ』
「リインフォースの……?」
『ええ。これはメルルリンスが、夜天の書を消滅させる前にシャマルやエヴァンジェリンと相談して決めたことなんだけど――』

 それは、リインフォースの今後の在り方についての話だった。
 メルルから白野を通じてリインフォースに提案したという三つの選択肢――それは正しくリインフォースの今後に直結するものだ。
 ひとつは、メルルが用意する特殊な魔導器に精神を移すというもの――。
 ふたつめは、はやてが継承した夜天の魔導書の知識や魔導――リンカーコアを活用し、リインフォースを新たにユニゾンデバイスとして稼働させるというものだった。
 夜天の書本体は消滅したとはいえ、リインフォースが夜天の書の一部であることは間違いない。
 ユニゾンデバイスはベルカ特有の技術であり、それを作り出せる可能性があるのは現時点で夜天の主であるはやてのみ――。
 特殊な方法ではあるが、元となるリンカーコアさえあれば短期間で完成させることが可能かもしれないのだ。
 もちろん懸念が全くないわけではない。ユニゾンデバイスの作成にはやてのリンカーコアを使用した場合、夜天の主であるが故に防衛システムが再生してしまう可能性も考えられるのだから――。

『それに関しては恐らく大丈夫だとは言っていたけれどね。それに、士郎の協力があればもっと確実に実現できるみたいよ。もちろん、士郎と貴女が了承した上での話になるけど』

 夜天の書と直接関わりのない魔導師のリンカーコアを元にするのであれば、僅かばかりの懸念もほぼ無くなる。
 その場合に問題となるのは、協力してくれる魔導師当人の了承と、それを夜天の主であるはやてが承知できるかどうかだ。

「……わたしは、士郎がいいって言ってくれるならそうしてあげたい。リインフォースのことやから、少しでも何かが出来るようになりたいと考えてると思うし」
『そうね。はっきりとは言わなかったけど、リインフォースとしては少しでもみんなの役に立てる形で生きていきたいみたい』

 直接的な繋がりこそ失ってしまったが、こうして心は通じ合っている――。
 それがどんな形であれ、リインフォースとは確かな絆で結ばれたままなのだと信じられた。

『最後の選択肢は、少し前の私と同じ……というと少し語弊があるんだけど、ひとりの人間として確かな身体に精神を移すこと――』

 白野が闇の書の主として振舞っている際に使用していた仮初の肉体は生命体としては欠陥を持ったものだった。
 それが問題にならなかったのは、白野が保有する特異な性質故のものであり、一個の生命体として誕生するには幾つもの課題が残っていた。

『少なくとも、私がこの話を聞いた時にはまだ現実的な手段じゃなかったみたい。だけど、時間をかければできるかもしれないとは聞いていたのよ』

 だからこそ、それも選択肢の一つとしてリインフォースには提案したのだという。
 リインフォース自身は、可能であれば皆を補佐していけるデバイスとして存在していたいと言っていたらしいが、リスクが低いのはこちらのほうだろう。

「じゃあ、さっきメルルが士郎に話そうとしてたのは、それに関係することやったんかな?」
『……まあ、無関係ではないでしょうね。なんとなく推察できたけど、確かに士郎の協力がないとどうにもできないことでしょうから』

 そう告げる白野の声音がどこか不機嫌そうに聞こえたのは気のせいだったのか――。
 結局その日――リビングを後にしたメルルと士郎が戻ってくることはなく、はやてはヴィータやエヴァと共に自室へと戻っていくのだった。


 -Interlude out-


 ――訪れたその場所は、外界とは裏腹に穏やかな陽気に包まれている。
 メルルが作り上げた特殊な空間――彼女のアトリエが存在しているその場所で、士郎はエヴァと肩を並べて野道を歩いていた。
 頬を撫でる風は暖かで心地よく、風に靡くエヴァの長髪を横目に歩を進めていく。

「――こうして肩を並べて歩いていると、以前よりもお前が近くにいるように感じられるな」
「背丈が以前よりも近しいからな。これからはそのまま過ごしていくのか?」

 単純な興味からの問いかけに、エヴァは静かに頷いてから答えてくれた。

「メルルの秘薬を使っての"成長"だ。もう遠い昔に諦めていたことだが……悪い気分ではないからな」

 変身や変装の類ではなく、純粋な成長――それは彼女が……エヴァが遠い昔に諦めた事柄の一つに違いない。
 真っ当とはいえない方法によってだが、結果として成長した姿となれたことはエヴァにとっても嬉しく感じられているのだろう。

「気に入っているのならそれでいいさ。君の生きてきた年月を思えば、以前よりも今のほうが似合っているとは思うしな」

 お世辞でもなんでもなく、あるがままの本心からそう告げる。
 すると彼女は僅かばかり意外そうな表情を浮かべてから、静かに納得した様子で頷きを返してくれた。

「――そういえば、その姿になってから状態はよくなったのか?」

 問いかけは静かに淡々と――以前から気にしていたことを、余分すら交えずに問いかける。

「少なくとも、以前よりは"らしくなった"ようだ。最も、これが吸血鬼としてのモノなのかどうかは判断が難しいところではあるがな」
「それは、メルルの薬の影響かもしれない……ということか?」
「それもあるし、それだけとも言えん。まあ、気にするほどではないさ。それに、以前よりは確かに魔力も戻っていることだしな」

 メルルの秘薬によって肉体年齢が十四、五歳となったエヴァは以前よりも確実に保有する魔力を回復させている。
 とはいえ、それはあくまでも以前の彼女と比してのもの――完調には程遠い現状に変わりはなく、未だ解決の糸口すら見えない状態に違いはない。

「まあ、私のほうはなるようにしかならんさ。それより――お前はあの娘を……アリシア・テスタロッサをどうするつもりなんだ?」

 足を止めてから向けられたエヴァの言葉には純粋な興味だけが込められていた。
 同じように足を止め、真っ直ぐにエヴァへと視線を向けたまま自身の想いを口にしていく。

「……メルルはアリシアを助けたいと言っていた。俺に出来るのは、精々それを手伝うことだけだろう」

 様々な要因が重なり、アリシア・テスタロッサという少女は今を生きている。
 そしてメルルは、それを自身の錬金術が齎した結果として受け止めていた。
 ――そんな彼女が、アリシアを助けたいと願っている。
 それが錬金術士としての責任感だけではないという事を知っているから――。

「――なるほど。つまり、お前は居場所を作ってやりたいと思っているということか」

 確信したというように告げるエヴァに思わず驚きを露わにする。
 その反応は予想通りだったのか――彼女はニヤリと笑みを浮かべて見せた。

「どうやら図星だったようだな。そこまで驚くことでもないだろう? お前たちと共に暮らして半年以上も過ぎたのだ。いい加減、お前たちの性格ぐらいは把握したさ」
「そうか……そうだったな。君たちとこうして共に過ごすようになって半年以上が過ぎたのだったな」

 それが長かったのか、或いは短かったのか――。
 士郎にとって、この半年余りの時間はとても短く感じられていた。
 メルルとの出会いから始まったこの新たな生が、軽く振り返って感慨に更けることが出来る程度には充実していたせいもあるのだろう。

「……ふむ。"お前らしく"ていいのではないか?」
「俺らしい……か。そうだな……そうかもしれないな。俺を半年も観察していた君がそう言うのなら、そう思う事にしよう」

 迷いが無かったと言えば嘘になるが、それは士郎がどれだけ悩んだところでどうにかなるような事でもないのだ。
 幾ら理屈を後付けしようとも、泣いている女の子を放っておく事が衛宮士郎には出来そうにないというだけなのだから――。
 
「そういえば、君は随分とアリシアのことを気に掛けているように見えるが、何か思うところでもあるのか?」
「――そうだな。ひょっとしたら、昔の自分を重ねているのかもしれないな」

 寂しそうな笑みを浮かべて、エヴァは取り繕うこともせずにそれだけを零した。
 かつては普通の少女として過ごし、望まぬまま吸血鬼となってしまったエヴァだ。
 紆余曲折の果てに元とは異なる存在として生きているアリシア・テスタロッサに在りし日の自分を重ねても不思議はない。

「まあ、だからといって私が特別に何かをするなど有り得ないがな。それでも、暫くは忙しくなるお前の手伝い程度はしてやれるだろう」
「……まだ何も話していなかったはずだが?」
「岸波白野から聞いた。お前がこれから暫くの間、管理局とやらで働く予定だとな。それも含めて"お前らしい"と言ったんだ」

 事情も状況も何もかもを知った上で、衛宮士郎が選んだ選択肢は"衛宮士郎らしい"と――。

「……メルルは恐らくアリサを弟子に迎えるつもりだろう。プレシアもこれから変わらず娘のために過ごしていくはずだ。お前と岸波白野が事件の後始末に回るというのなら、それくらいの手伝いはしてやるさ」

 堂々と告げるエヴァだが、その頬は僅かに紅潮している。
 照れているのだろうが、それでも口にした言葉を否定しようとはしない。
 麻帆良での彼女を知るだけに、彼女からこれだけの信頼を抱いてもらえているということは素直に嬉しく感じられた。

「――ありがとう」
「気にするな。私は私でやりたいようにやっているだけだからな」

 そうして互いに顔を見合わせて小さく笑みを浮かべる。
 迷いは消えた――なら、後はこの先に存在するアトリエで独り過ごしている少女に有りの儘を伝えるだけだ。

「さっさと行ってこい。あの娘に残されている時間はもう残り少ないはずだからな」
「――ああ。では、行ってくる」

 視線に感謝を込めて、それだけを告げて歩き出す。
 立ち止まったままのエヴァに見送られながら、士郎は独り歩みを再開するのだった。


 -Interlude-


 迷い無く歩を進め、遠ざかっていく男の背を眺め続ける。
 僅かばかりの時間が過ぎた頃――背後から近付いてきた気配に、エヴァは小さく溜息を零しながら振り向いた。

「――お前は同席しなくてもよかったのか?」

 振り返った先には苦笑いを零しているメルルの姿――。
 予想通りの反応を見せる彼女を視界に収めながら、エヴァはじっと返答を待ち続ける。

「私が一緒に行っても役に立てそうに無いしね。それに、私が言いたいことはもう全部あの子に伝えてるから」

 後はアリシア次第だから見守るだけだと告げるメルルからは、士郎に対する明確な信頼が感じられる。
 或いは――信頼しているというよりも、確信しているといったほうが的確なのかもしれない。

「……きっとね、時間が解決してくれる問題もあると思うんだ」

 ぽつりと――誰よりも時の無情さを噛み締めているはずのメルルは、誰に問いかけるでもなく呟いた。

「だから、せめてあの子にはその時間をあげたい。その先でどんな選択をするのかはわからないけど、ちゃんと見守ってあげようって思ったの」

 己の境遇を呪うも受け入れるも自由だとメルルは告げる。
 無責任に放り出すつもりは毛頭無いのだろうから、万が一の際には自身の手を汚す覚悟さえしているのだろう。
 ――そして、その覚悟とは裏腹に少女が幸福な未来を掴み取って欲しいと願っているのだ。
 元々そのような気質だったのか――それとも、八神家での生活がメルルを変えたのかはエヴァには分からない。
 けれど、彼女がアリシアを語る時の表情は、まるで――。

「……孫の成長を見守る老人のようだな」
「えっと……そこはほら、我が子の成長を見守る母親のようだって言うところでしょ?」

 半分本気で半分冗談の言葉に苦笑を交えた返答が戻ってくる。
 ふと――メルルは小さく咳払いをして、真っ直ぐにエヴァへと向き直った。

「でも、ちょうどよかった。実はね、エヴァにも少し相談したいことがあったんだよ」
「む……相談だと?」
「うん。あのね、シロウがこれから少しの間、管理局で働くっていう話は聞いたでしょ?」

 問いかけに小さく頷いて答える。
 その返答に笑みを深めたメルルは、自身の肩から提げていた鞄から一つの宝石を取り出した。
 
「――もう完成していたのか?」

 どこか神秘的な光を閉じ込めた宝石はメルルの手のひらに収まる程度の大きさだった。
 それは一度――エヴァが麻帆良の地を去る際に、メルルが使用した世界を渡るために必要だった道具とは異なる形をしている。
 それでも、差し出されたソレがそうであると確信できるのは、宝石から感じられる神秘的で不可思議な気配を確かに感じ取れるからだろう。

「まだ試運転もしていないけどね。ちょうどいいから、アリサを連れて試運転ついでに幾つかの世界を回ってこようかなって思ってるの」
「それはまた……随分と思い切ったものだな。特に聞いてはいなかったが、既にアリサを弟子にしていたのか?」

 聞けば昨日――八神家へ戻った際にまだ家にいたアリサから申し込まれたのだという。
 それを二つ返事で引き受けたというメルルだが、あっさり許可がもらえるとは思っていなかったはずのアリサの驚きは相当なものだったはずだ。

「色々な世界を……今まで私が渡ってきた世界を見て回るつもりなの。もちろん、貴女がいた麻帆良にも立ち寄るつもりだよ」
「奇特なことだ。それで、私に相談があるというのはなんなんだ?」
「少し先の話になるんだけど、もしよかったらエヴァも一度麻帆良に戻ってみる気は無いかな?」

 思いもしなかったその言葉に思わず眉根を寄せる。
 エヴァの気配が僅かばかり尖ったことに気付いているはずだが、メルルはそれも承知しているといった様子で続けた。

「もちろん、エヴァをあっちに帰そうと思ってるわけじゃないよ。今はほら、はやてたちのいるこの世界を拠点にしているけど、あっちにも同じような場所を作れればいいなって思ってるんだ」
「……アリシア・テスタロッサを向こうで育てるつもりなのか?」

 問いにメルルは笑みを浮かべながらゆっくりと頷いた。

「もちろん、そのためには幾つか問題を解決しないといけないんだけどね。まずは、このアトリエから麻帆良への移動が簡単にできるようにしないといけないだろうし」

 アリシア・テスタロッサが自分から会いに行くと決めるまで、プレシアやフェイトと遭遇しないようにするには悪くない手だろう。
 弟子として迎えたアリサの修行も兼ねて、世界を渡るためのアイテムの試運転をこなす。
 そうして様々な世界を回るついでに麻帆良へも顔を出し、学園側と交渉して麻帆良に生活拠点を用意するつもりなのだというが――。

「なるほどな。それで、私に向こうでの保護者を頼みたいと――そう言っているのか?」
「それもあるし、もう一度麻帆良学園に通ってみるっていうのはどうかなって思ったの。なんだかんだで、エヴァもこっちで学生生活を楽しんでいたでしょう?」

 そう言われてしまえば、その通りだと頷くことしか出来ない。
 確かにエヴァはここでの生活を楽しんでいたし、それを否定する事はできそうになかった。

「だから、折角こうして"年齢相応"の身なりになったんだし、それを楽しむために向こうで中学生に戻ってみないかって相談……なんだけど、どうかな?」

 メルルの用意した霊薬でエヴァの肉体は正しく"成長"している。
 それを喜んでいることをおおっぴらにしたつもりはなかったが、エヴァが成長した瞬間に立ち会っていたメルルであれば、エヴァのそうした感情に気付いていても不思議はないが……。

「……そうだな。それもまた悪くないかもしれん」

 気の赴くままに答えたその言葉に、どういうわけかメルルは驚きを露わにした。
 その反応はどういうことなのかとも思ったが、そもそも簡単に了承する筈がないと踏んでいたのかもしれない。

「そんなに意外だったのか?」
「それはそうでしょ。ここに来た時のエヴァなんて、小学校に入るのも凄く嫌がっていたじゃない。だから、今回もそれなりに説得が大変かなって気合い入れてきたんだけどな」

 指摘されるまでもなく、以前であれば間違いなく断っていただろう。
 果ての見えない繰り返される日常――その先に希望はなく、ただ同じようなことが繰り返されてきた。
 そんな状況でもそれなりに過ごせていた自覚はあるが、積極的に続けていたいと願うほどの思い入れがあったわけでもないのだから――。

「その件に関してはお前に任せてやる。あの爺の厄介になるのは癪だが、好きなようにすればいいさ」
「爺って、近右衛門のこと? まあ、エヴァの復学に関しては少し特別な手続きをしてもらうつもりだけど、今度はちゃんと"正式な手続き"をして麻帆良に滞在するつもりだよ」

 ――きちんと住居を購入し、麻帆良で過ごすために必要な立場を確保する。
 そうした"正式な手続き"を行うため、誰かの厄介になるようなことは殆ど無いと告げる。
 こちらの世界でも月村忍と共にそうしたことを色々と行っていた事を踏まえれば、メルルはそうした事柄に慣れているのだろう。

「私もエヴァも基本的には年を取らないでしょう? 今はこうして、今を生きている皆と過ごせているけど、それだっていつかは終わりがくる」

 楽しく心地よい居場所――それにもいつかは終わりの時がやってくる。
 それは当然の事で、しかし確かにエヴァやメルルにとっては当然ではないことでもあった。

「多分、シロウと白野も普通通りに……とはいかないと思う。だから、それならいっそ……こうして皆で生きていければいいなって思ったの」

 それとて永劫続くはずもなく、いつかは終わりを迎える時がくるだろう。
 だからこそ惰性で生きるのではなく、少しでも前に進みながら過ごしていきたいのだとメルルは断言した。

「欲張りな女だな。だがまあ、悪くはない。精々、飽きるまでは付き合ってやるとしよう」
「うん。だから、これからもよろしくね、エヴァ」

 嬉しそうに破顔し、弾む声で告げるメルル――。
 ――これもまた悪くない。
 嬉しそうに笑みを浮かべるメルルを眺めながら、もう何度も口にした言葉を脳裏に浮かべて――エヴァは静かに笑みを零すのだった。

 

 

Episode 78 -それぞれの道-


 ――横薙ぎに振るわれる刃を紙一重で避ける。
 同時に迫ってくる対の一手――それを左手の刀で受け流し、空いた右手に持つ刀を突き出そうとして――手を止めた。

「――そこまで」

 開け放たれた窓から差し込む朝日に照らされた道場に静かな声が響く。
 耳に届く高町士郎の声を耳にしながら彼女――高町美由希は、自身の首筋に突きつけられている剣先を確認し、静かに呼吸を整えて構えを解いた。

「――ありがとうございました」

 対峙していた相手――兄である高町恭也に向けて小さく一礼する。
 そんな美由希と同じように、恭也も構えを解いてから静かに一礼を返してくれた。

「――美由希も、随分と技が鋭くなってきたな」

 感心したように呟く恭也の言葉を耳にして小さなうめき声を零す。
 美由希本人も自身の技量が向上してきていることは実感しており、その理由も認識している。
 だからこそ、現時点における自身と恭也との力量の差をはっきりと感じてしまったわけなのだが――。

「……嬉しいけど、凄いのは恭ちゃんのほうでしょ? 最後の一手――全然気配を感じなかったんだけど……」

 それは技量の向上や身体能力の向上――そういった分かりやすい"モノ"とは根本的に異なる"モノ"だ。
 恭也や美由希が学んでいる流派にそうした技がないわけではないが、そうしたものとは異質な技術のようにも感じられる。

「ああ、あれは士郎に教えてもらったんだ」
「シロくんに?」

 この場で士郎といえば、衛宮士郎の事だろうと即断して返事を返す。
 それに小さな頷きだけで応えた恭也は、簡単に先程のやりとりを解説してくれた。
 戦いの中で、互いの攻撃と防御の意識が切り替わる刹那を突いての攻撃――。
 限りなく気配を殺して放たれる"ソレ"は、美由希に対してそうであったように、その一手でさえ充分な決定力を有している。
 ――だが、あの技の本質は決してそういったものではない。
 当の使い手である士郎曰く、本来は相手の隙を誘発するために使用している技術の一つでしかないのだとか――。

「だけど、いつの間にそんな……」
「昨年末に士郎が店に顔を出した時があっただろう? その後に時間を作ってもらったんだ」

 言われて思い当たったのは、一ヶ月ほど前――クリスマスを数日後に控えた日のことだ。
 店を辞めてから一度も顔を見せていなかった衛宮士郎は、同行していた女性――リンディ・ハラオウンと共に翠屋にやってきた。
 年若い彼女が士郎の……などと邪推してしまったが、彼女は士郎の友人の母親であるらしく、そういった関係ではないと聞かされたのは記憶に新しい。

「遅くに出かけていったと思ったら、そんなことをしていたのか。それで士郎くんに技を教えてもらった……と言うわけだ」

 どこか感心したような父の言葉にハッとして、視線と意識を恭也へと戻す。
 指摘を受けた恭也は少しだけ意外そうな表情を浮かべたまま、静かに首を横へ振っていた。
 
「そういうわけじゃないんだ。ただアイツと戦った時にそういう技を使っていたから、後で説明を聞いて特訓してきただけだよ」
「……士郎くんと戦ったのか?」
「ああ。残念ながら、完全敗北だったけどね」

 ――それは、恭也から申し出たことだったらしい。
 衛宮士郎が持つ力のすべてを尽くして戦ってほしいと――それがどれだけ無謀な申し出だったのかと、恭也はどこか悔しそうに語ってくれた。
 開始直後から全力で剣を振るい、隙を突いて更に攻撃を加えていく恭也――。
 士郎が手にしていた二刀に防がれながらも確かな手応えを感じた恭也は、決定的な隙を生み出したと同時に油断無く間を詰めて一撃を振るった。
 そうして――全力で打ち込んだ一撃は、士郎がどこからか取り出した巨大な剣によって容易く防がれてしまったらしい。
 返す刀で薙ぎ払うように振るわれたその大剣に恭也の二刀が粉々に打ち砕かれた直後、いつの間にか士郎の手に握られていた日本刀が喉元へと突きつけられて――。

「――それで終わりだ。油断はしていなかったつもりだったが、甘かった。まだまだ俺は未熟なんだと思い知らされたよ」

 話を聞く限りでは、どこか不可思議で謎の多い士郎の戦闘方法――けれど、その辺りの詳細を恭也が語る事はなかった。
 ただ、そもそも技量云々を語る以前の問題だったのだと――恭也は、まるで述懐するように自身が未熟だったとだけ告げる。
 ――あの夏の日から今日に至るまで、恭也が過酷な修行を自身に課してきたことは、高町家の誰もが知っている。
 そんな恭也の姿を誰よりも側で見てきたが故に、彼が修行不足の力量不足などと言われても納得など出来るはずがない。

「――世界は広いと身を以て知った。だけど、次に再戦する時には俺も今よりもっと強くなっているつもりだ」

 確かに、負けて彼我の差をはっきりと感じたからこそ見えてくる道筋もあるのだろう。
 ――恭也はきっと、これからも彼を目標に自身を高めていく筈だ。
 そしてそれはきっと、恭也が戦う理由にも大きなプラスとなるはずだから――。

「――みんな。朝ご飯の支度が出来たわよ」

 道場の入り口から顔を出したのは、母である高町桃子だ。
 その声にいち早く応えて道場を後にする父――その背を眺めながら歩き出そうとした美由希の背後で、僅かばかり気配が重たくなった。

「……この世界には、まだまだ俺たちが知らない"世界"がある。そういうものが存在していると突きつけられたら、お前はどう思う?」

 振り返ると、そこには先程までとは異なる真剣な表情を浮かべている恭也の姿――。
 そんな恭也の視線を真っ直ぐに受け止めた美由希は、つい先日から自身に剣の手ほどきを頼みに来ている少女を思い出していた。

「士郎は本当に、一切の手加減をせずに相手をしてくれた。俺にはそれが嬉しくてな……」

 自分たちがこれまで有していた常識の外にある力――。
 これまで自分たちが認識していた世界とは違う"世界"を垣間見たという恭也は、心の底から嬉しそうにそう告げた。

「――だから、いつかはもう一度……アイツと剣を交えたいと思っている」

 大切な人を守るため――今も変わらず剣を執る恭也にとって、それは"知らなかった"では済まされない事でもある。
 そうした世界を知り、自身を更に高める機会を得ることができた――というのは、確かに恭也にとって何よりの幸運だったのかもしれない。

「……そっか。私は直接シロくんが戦ってるところを見たことないからなんとも言えないけど、それでも恭ちゃんには負けたくないかな……」

 剣の道を歩むか否か――悩んでいた時期も確かにあった。
 けれど、こうして負けたまま差を付けられていくのは素直に悔しいと感じられる。
 ――たったそれだけの簡単な動機ではあったが、小さな目標が出来て嬉しくもあった。
 これから歩んでいくべき道筋がぼんやりと見えてきた気がして、美由希は心の底からの笑みを浮かべるのだった。


 -Interlude-


「――ただいま~」

 庭に備え付けられているスロープを登り、車椅子に乗ったまま声を上げる。
 そんな彼女――八神はやての声が届いたからか、或いは姿が見えたからか、リビングと繋がっている窓がすぐに開かれた。

「おかえり、はやて」
「おかえりなさい。早かったのですね」

 揃って出迎えてくれたのは、ヴィータとシグナムの二人だ。
 
「簡単な検査だけやったからね。シグナムはこれから?」
「はい。入れ替わりでシャマルとザフィーラが戻ってくると思います」

 年明けからバタバタと忙しい騎士たちだが、問題なく頑張ってくれている事に安堵の息を零す。
 色々と大変なことはわかっているが、それでも前向きに罪を償っていこうとしている皆が安心して帰ってこられる場所で在りたいと――。
 そんな事を考え、自身の立場を明確にしてから約一ヶ月――これまで過ごしてきた日々が確かに明日へと繋がっている事を実感し、はやては静かに笑みを浮かべた。

「ヴィータは今日お休みやったよね?」
「うん。だから、今日はずっと一緒にいられるよ」
「なら、後で一緒にお買い物いこか。今日はなのはちゃんたちも泊まりに来るし、美味しいご飯を作ってあげんとな」

 家族全員が揃うことも稀になってしまったが、はやてはそれを寂しいとは思わなかった。
 たとえ家族全員がそれぞれに動いていようと、皆との絆がなくなったわけではないのだから――。
 
「それにしても……士郎から連絡がこんようになってもう三週間や。シグナムたちは、何か聞いてない?」
「いえ、特別な事は何も……」
「元々一ヶ月は缶詰だって話なんだし、もうじき便りの一つも送ってくると思うけど……」

 そんな会話をしながら、はやては内心で溜息を零していた。
 とはいえ、誰も士郎の現状について知らないのは無理の無い事と分かってはいるのだ。
 ――士郎はいま、管理局の局員を養成する施設で過ごしている。
 臨時ではあるが、管理局の局員として通常では困難とされる事例の解決に尽力することを決めた士郎――。
 そんな彼に対して、最低限の準備期間として用意されたのが訓練校での超短期錬成コースだ。
 通常であれば数ヶ月以上は所属して局員としての知識や力を身につけていく場所だが、士郎の戦闘能力の高さは管理局内でも知れ渡っている。
 そのため、士郎は特例として局員に必要とされる知識や常識を学ぶための錬成期間を用意してもらったのだ。
 それが終わるまでは他に手を回せそうにないと聞いてはいたのだから、シグナムやヴィータたちが士郎の現状を把握していないのは当然のことだと納得するしかなかった。

「とはいえ、今の士郎には"彼女"が側についています。そこまで心配せずとも、時間が出来れば連絡をくれると思いますよ」
「……せやな。じゃあ、折角やからこのままお出かけしよか?」

 シグナムからの言葉に同意を示し、隣に立つヴィータへと呼びかける。
 嬉しそうに頷きを返してくれたヴィータが車椅子のハンドルを手にした事を確認して、はやてはもう一度シグナムへと視線を向けた。

「お気をつけて」
「うん。いってきます」

 簡単に挨拶を交わした事を確認したヴィータの手に引かれて車椅子が動き始める。
 そうして背後から押されて動く車椅子が家の敷地を出た直後――背後に立つヴィータが小さな吐息を零した。

「……なんか、こうやってはやてと出かけるのって凄く久しぶりな気がする」
「年明けからみんなでバタバタしてたしな~。とりあえず、ようやく落ち着けるようになった事を喜ぶとしよか」
「うん!」

 元気のよい返事を耳に届けながら、今は遠い場所で頑張っているであろう人たちを想う。
 家族全員が再び揃う日を夢想しながら、はやては今日も変わらず平穏に過ごせている日々に感謝するのだった。


 -Interlude-


 ――目覚めて最初に見えたのは、雲一つ浮かんでいない真っ青な空だった。
 照りつける日光は確かな熱を届けており、外の世界が真冬であることなど全く想像させてもくれない。
 気がつけば、すっかりこの場所にも慣れてきたな……等と思考しながら彼女――アリサ・バニングスは、野原の上に広げられたシートの上でゆっくりと身体を起こした。

「――えっと……私、どうして横になってるんだっけ?」

 自身の置かれている状況を掴めず、独り言を呟くように零す。
 その声が耳に届いたのか――アリサが横になっていたすぐ近くに背を向けて座り込んでいた人影がゆっくりと振り返った。

「――よかった……目が覚めたのね」

 心配そうな声音で告げながら、すぐ傍まで寄ってきたのは月村忍――すずかの姉であり、なのはの兄である恭也の恋人だ。
 そんな彼女から向けられている心配そうな視線を受けて、アリサはようやく自身の現状を思い出すに至った。

「そっか……受け身に失敗して気を失っちゃったんだ」

 年が明けてからこれまで、毎日のように行っている実戦訓練の最中に意識を失った事を思い出す。
 覚えている限りでは相当な勢いで吹き飛ばされたはずだが、不思議と痛みの類は全く感じられなかった。

「それにしても、本当に大丈夫? アリサちゃん、結構な勢いで地面を転がっていたから……」
「あ……はい、それはなんとか大丈夫だったみたいです」

 繰り返し安否を尋ねてくれた忍に向き直り、笑みを浮かべてはっきりと答える。
 事実――あれほどの衝撃を受けて殆ど怪我らしい怪我をしていないのだから、この訓練は相応に安全への配慮が為されたものだったのだろう。

「そのペンダント……メルルが安全対策に用意したって言っていたけど、本当に効果があったみたいね」

 感心半分、驚き半分と言った様子で忍が見ているのは、アリサが身につけている青い宝石が特徴のペンダントだ。
 特殊なフィールドを所持者の体表に展開するモノだとは聞かされていたが、こうしてしっかりと自身の身を守ってくれているのだから、その効果は確かだと断言できる。

「段々と訓練内容が厳しくなってきたから、そろそろこういうのが必要だろうって……」
「そう……そういえば、アリサちゃんは正式にメルルの弟子になったのよね」

 問いかけを否定する要素は特に無く、忍の問いかけに対して素直に頷いて応える。
 ――メルルの弟子となって一ヶ月余りが過ぎた。
 教わり、実践を始めた調合に関してはそれなりに上手く出来てきている実感のあったアリサだが、"実戦経験"となると首を横に振らざるを得ない。
 これから先の事を考えると、自身の身を守れる程度の腕前にはなっていなければ危ないと――。
 そう告げられて始めた実戦訓練が日増しに厳しくなってきているのは、アリサを心配してくれているメルルの優しさなのだろう。

「将来を決めたようなものですから、ちゃんとお父さんたちにも話はしました。錬金術士――なんて言う訳にもいかないので、アクセサリーとかを作る職人になりたいって伝えてますけど……」

 もっとも――それが全くの嘘というわけでもない。
 実際にメルルの指南を受けてアリサが作った初のアイテム――シンプルな装飾の指輪を両親にプレゼントしたところ、相当に驚かれてしまった程だ。
 年齢を考えれば早すぎるのではないか……とも言われたが、それを見て少なからず応援してくれるようになったのは間違いない。
 幾度かの話し合いの末――最終的には認めてくれた両親だが、分野が分野だけに色々と心配もしてくれているのだろう。
 それを有り難く思いながら、これから先も家族に対して真実を語ることはないのだと――そんな事を強く実感した事は、今も昨日のことのように思い返せる。

「――偉いのね」

 感心したような言葉に苦笑いを零そうとして――満面の笑みを浮かべてみせた。
 なんであれ、アリサがこの道を選んだのは"そうしたいと思った"からだ。
 自身が望み、それを叶える事の出来る状況が奇跡的に揃っていたからこその進路――。
 そうした様々な懸念が自身の表情を曇らせようとしている事を自覚した上で、アリサは満面の笑みを浮かべて答えた。

「まだまだ……これからです。ようやくスタートラインに立つ準備が整っただけですから」

 目指す地点は遥か遠く、けれどはっきりと指し示されている。
 ――後は、其処へと続く道を真っ直ぐに進んでいくだけだ。
 それがどれだけ大変なことでも、自身でこの道を進むと決めた以上は、どんな時でも笑みを浮かべて自分らしく歩んでいきたい。
 惑いの無い決意を新たにしながら立ち上がろうとして――ふいに聞こえてきた轟音と共に、小さな人影が凄まじい勢いで吹き飛ばされてくるのが見えた。

「――すずかっ!?」

 図らずも、同じように驚きに満ちたアリサと忍の声が重なる。
 それが耳に届いたのか、或いは元よりそうするつもりだったのか――。
 凄まじい勢いで吹き飛ばされてきたすずかは、空中で両の手を左右へと振って見せる。
 同時に、まるで何かに引っかかったかのように減速した勢いはそのまま――空中で器用に身を捻ってみせたすずかは、体勢を整えながら両の脚で地面に着地して見せた。

「――ふぅ……危なかった~」

 砂煙の向こうからは、どこか場違いなまでに落ち着いたすずかの声が聞こえてくる。
 ――勢いを減じたとは言え、その衝撃は凄まじいの一言だった。
 すずかが着地した場所から数メートルほど続いていく二つの溝は、間違いなくすずかの脚が地面を抉った証拠だ。
 それほどの勢いですずかを吹き飛ばした相手が凄いのか、それほどの勢いで吹き飛ばされながら平然と体勢を整えて見せたすずかが凄いのか――。
 同じような事を考えていたのだろう。アリサと忍は、二人揃って顔を見合わせてから小さな苦笑いを零すしか出来なかった。

「――うん。咄嗟の手段としては悪くないかな」

 背後から突然聞こえてきた声に振り返る。そこには、巨大な模造刀を手にしたメルルが立っていた。
 露骨に刃が潰されているため、どうあっても人を斬りつけることの出来る形状をしていないが、その頑強さと重量は折り紙付きだ。
 事実――意識を失う前にアリサが吹き飛ばされたのは、メルルが振るった大剣の威力を受け流すことが出来なかったからなのだから――。

「起きてたんだね、アリサ。戻ってこないから、受け身を失敗して気を失っているのかなって思ってたんだけど……」
「う……その通りです。さっき目を覚ましたばかりですから……」

 素直に答えると、メルルは軽くアリサの全身を眺めていく。
 どこにも怪我をしている様子がないとわかったからか――僅かばかり安堵したように息を吐いていた。

「ありがとう、忍。アリサの面倒を見てくれてたんだね」
「大したことはしていないわよ。それより、すずかが凄い勢いで吹き飛ばされてきたのは……」
「ああ、あれはすずがが自分で飛んでいったんだよ」

 それは一体どういうことなのか――。
 その疑問に対する答えをメルルが口にするよりも早く、既に臨戦態勢を解いていたすずかがゆっくりとやってきて事情を語り始めた。

「えっと……メルルさんの攻撃手が凄く複雑になってきて、あと三手もしない内に詰みそうになったの。だから、メルルさんが牽制で振るった剣の勢いを利用してここまで飛んで逃げてきたんだ」

 やってくるなり事情の説明をしてくれたすずかだが、その説明の突拍子の無さに再び忍と顔を見合わせる。
 驚きを隠せないアリサたちを余所に、すずかの正面に立ったメルルは笑みを浮かべたまま静かに頷いていた。

「いい状況判断だったと思うよ。思い切りも良かったし、その後のケアがもう少しスムーズに出来ていたら完璧だったね。あれだと、着地直後の隙を狙われちゃうから気をつけないと……」
「はい。今日は無理を聞いてもらって、すみませんでした」
「ううん、そんなことないよ。私も久しぶりにしっかりとした運動ができて嬉しかったから――」

 そう告げて笑いあう二人を眺めながら、アリサは僅かばかり思案していた。
 悔しさよりも、あのメルルにそうまで言わせるすずかの能力の高さはどういうことなのかと――。

「ずっとエヴァに師事してきただけあって、反射も状況判断も及第点――後はそっちの問題だけだよ」
「――はい」

 気負い無く、けれどはっきりとした意思を感じさせながら答えるすずか――。
 その姿は普段の彼女とは事なり、どこか真剣で重たい気配を身に纏っているようにも思えた。

「善は急げっていうし、丁度良いからここで済ませちゃうといいんじゃないかな? 忍――私たちは先にアトリエに戻ってお茶でもしましょう」
「……そうね。じゃあすずか――頑張りなさい」
「うん。ありがとう、お姉ちゃん」

 そんなやりとりを残してこの場を後にしていくメルルと忍――。
 二人の背を見送りながら、アリサは改めてすずかと向かい合うように立った。

「話があるっていうのは、私に……?」
「うん。これからの事と、もう一つ――アリサちゃんに伝えておきたいことがあるんだ」

 柔らかな微笑を浮かべながら、その目に浮かべているのは決意の光――。
 こうまで改まっての話となれば、すずかにとって余程のことなのだろうと推測するには十分過ぎる。
 それをしっかりと受け止めるつもりだと告げるように視線を交わしあう。
 そうして――意を決したように話を始めたすずかの言葉を耳に届けながら、アリサは自分たちの歯車がしっかりと噛み合い始めたことを実感するのだった。


 -Interlude-


「――それじゃあ、暫くはユーノ君のお手伝いをするんだ?」

 土曜日休みを利用して遊びにいっていたフェイトの家からの帰り道――。
 一緒に八神家へ泊まりに行く事になっているフェイトと共に夕暮れの中を歩きながら、なのはは静かに問いかけた。

「今回の事件で無限書庫の有用性が認められたみたいなんだ。それで、今後の本格的な運用に向けて作業を進めていくから手伝ってくれないかって頼まれて……」

 闇の書改め、夜天の書に関わる一連の事件が解決してから既に一ヶ月余り――。
 事件を解決する際に大きな力となったのが、遙かな過去からあらゆる知識と情報を集め続けてきた無限書庫の存在だ。
 事件以前に書庫を有用に運用する事を提案したクロノや、整理されずに混沌としていた書庫を書庫として使用できるように整備を進めてきたユーノと士郎――。
 その手伝いとして無限書庫に出入りをしていたフェイトは、これから無限書庫を運用していくために結成されたチームのメンバーとして正式に組み込まれることが決定しているらしい。

「普段はこっちに滞在しながら出来る仕事を回してもらえるみたいだから、ちゃんと学校も続けられるみたい」

 聞けば、フェイトの他にも管理局の局員が正式に配置されているとのこと――。
 週に一、二回は現場に赴かなければならないらしいが、基本的には事務仕事が多いのだという。
 ようやく一緒に過ごすことができるようになった友人が、これからも変わらず側にいてくれる――その事実に、なのはは安堵の息を零すのだった。

「そういえば、春からはやてちゃんも聖祥に転入してくるって言ってたよね?」

 ふいに思い出したのは、事件後から色々と忙しそうにしていた八神はやてのことだった。

「うん、そう言ってた。もう少しリハビリをして、ちゃんと歩けるようになったらって……」

 はやては夜天の書の正式な持ち主であり、今回の事件において夜天の主としての覚醒を果たしている。
 その魔導は夜天の書の管制融合騎であったリインフォースから受け継がれており、動かなかった脚や崩れがちだった体調も良くなってきていた。
 ――現時点において、夜天の騎士たちは全員が消滅する事なく残っている。
 そのため、彼女は正式に騎士たちの主として名乗りを上げて、その立場を管理局に認知される事となった。
 事件に関しての責を問われることのなかったはやてだが、事件の実行犯として扱われている騎士たちの主と名乗っている事は事実だ。
 なんであれ、自身に仕えてくれている立場の騎士たちに対して、主としての責務を果たそうと頑張っているのはそうした事情とも無縁ではないのだろう。

「はやてちゃん、凄く頑張ってるもんね。私も負けないように頑張らないと……」

 一つの事件を乗り越えて、大きく変わったこともあれば変わらなかったこともある。
 だからこそ――それら全てを踏まえた上で、これからをどのように過ごしていくのかを決めていかなければならない。

「――なのはは、どうするつもりなの?」

 尋ねてくるフェイトの声音はどこか慎重で、自身の感情を隠そうとしているかのように淡々としている。
 これからの事――これから先に歩んでいく道を真剣に問いかけてきたフェイトに対して、なのはは決意を込めた視線を向けた。

「……うん、色々と考えたんだけどね。局の魔導師として正式に働かせてもらおうって思ってるんだ」

 言葉は静かに淡々と――自身が決めた道を決意と共に口にする。

「そうなんだ」

 その言葉を予想していたのか――フェイトは、なのはの言葉に納得した様子で頷きを返してくれた。

「クロノ君や士郎君にも相談して決めたんだ。士郎君には少し心配されたけどね」

 もっとも――士郎が心配していたのは、なのはの周囲に対するものだ。
 局の魔導師を目指す――それはつまり、自身が身につけた魔導を最大限活かせる道ということに他ならない。
 ――魔法という"力"と真っ直ぐに向き合って生きていきたい。
 楽な道では決してないだろう。それでも、なのは自身が選んだ道ならば応援すると――士郎は優しい笑みを浮かべてそう言ってくれたのだ。

「だから、フェイトちゃん――これからもよろしくね」
「――うん。こちらこそ、よろしくお願いします」

 告げて差し出した手が、同じように差し出されていたフェイトの手にそっと握り返された。
 ――フェイトと肩を並べたまま、手を繋いで夕暮れの道を歩いていく。
 同じ目線で同じ地平を見据え、共に肩を並べて歩んでいけるだろう人と顔を見合わせながら笑みを浮かべる。
 そうして歩んでいく先にはきっと自身が望む未来が待っていると信じながら、彼女――高町なのはは、夕日に染まった道を友人と肩を並べて歩いていくのだった。
 

 

Episode Ex04 -とある物語-

 ――夢を見ていた。
 
 暗がりの中で、彼の辿る道筋をずっと眺める。
 
 ――永く果ての見えない夢を見ていた。
 
 身を犯す呪いや捧げられた理想――残してきた結末が、どれもひどく重いものだったからだろう。
 どれだけの眠りを経ても、どのような夢を眺めようとも目覚めは一向に訪れなかった。
 眠りの中――垣間見る夢はどこまでも悲しみに満ちていて、それだけが彼女の心を締め付けている。
 何かができるはずもなく、何かをする資格すら持ち合わせていない。それでも――今はもう遠い彼が辿った孤独な道行きにせめて、心からの言葉を届けたかった。
 誰からも忘れさられては疎んじられ、災厄の元凶とまで言われながら、それでも彼は歩みを変えることもせずに多くの人々を救い続けていった。
 決して弱みを見せることはなく、ただ、助けた人たちの小さな感謝に笑顔を返して痛みは胸に抱えるだけ――。
 その苦悩と理念に誰一人気付く者がいなかったとしても、それを見ていた自身はその痛みも悲しみも知っている。
 彼の道は結局、ただの一度も報われることなく途絶えてしまう。これまで助けてきた無辜の人々からの怨嗟の声を受け、その果てに命を燃やし尽くして倒れたからだ。

 ――だからせめて、声を届けたかった。

 貴方は立派だったのだ、と――貴方は誰にも為し得なかったことを成し遂げたのだと伝えたかった。
 多くの人が貴方に救われ、言葉にはできずに忘れてしまったけれど、それでも確かに――救われた誰もが貴方へ確かな感謝を抱いていたのだと告げたかったのだ。
 かつて彼の剣で在ろうと誓い、それを果たすことさえ出来ずに敵となってしまったからこそ、今の彼に会いたかった。
 ――けれど、王の責務がそれを拒絶する。
 誰一人高潔な王を求めてなどいなくとも、かつての誓いをなかったことにはできないのだから――。
 それでも、例えこの先、永劫に眠り続ける事になったとしても――せめて、この声を彼の耳に届けたかった。
 
「――それは難しい。そもそも君たちの時間は、絶望的なまでにズレている」

 耳に届くのは聞き慣れた魔術師の声――。
 その声が、その願いはあまりにも無理があると告げる。
 
「彼は既に理の外――手の出ない場所にいる。そこに君が行くのはまあ、あまりお勧めの出来ることではないが不可能じゃないようだ。幸いなことに状況は整っているし、お節介もいる。なにより、ここは彼と繋がっているからね」

 だから決して不可能ではない、と――魔術師は続けて問いかけてくる。
 だからこそ、この決断に王の責務は関係なく、単純にそれを望むかどうかだけなのだと――。
 
「ああ、勘違いはしないようにね。別に王の責任を捨てろって話じゃないんだ。そもそも君は骨の髄まで王さまだ。そんな君から誇りをとったら何も残らないからね。だから、君はそのままでいいんだ」

 ならばどういうことなのかと問いかける。
 それを受けて、稀代の魔術師は不敵な笑みを浮かべて続けた。
 
「これは正当な褒美の話だ。小娘一人が小さな望みを叶えるために生きる権利――それぐらいの働きはしていると思うんだが……どうかな?」

 返答を返すことに意味などない。これは単純に、眠り続けている少女が望むか望まないかだけの話――。
 どう答えたところで、そもそも彼女はそれを叶える力など持ち合わせていないのだ。ならば、それは星に願いをかける事と何の違いがあるだろうか――。
 
「――けど、それが本当にいい事なのかはまた別の話だ。アルトリア――時代も人も、ましてや世界すら違っている。あの頃のままなのは君だけだ」

 長い年月の隔たりは彼と彼女の立ち位置を大きく離している。
 何であれ――かつてと同じように、などということは断じて望めないだろう。
 
「夢は夢のままのほうが美しい。君はこのまま、死んだように眠っている方が楽でいい。それでも――君は望むのかい?」

 応えるまでもないと――口にするまでもないほどに、その望みに変化などあり得なかった。
 例えその道行きの先に約束された安寧がなくとも、そこに彼がいるのならそれだけでいいのだから――。
 ――報われることなどなくとも、望みは変わらない。
 そも叶うはずがない願い――それを心に抱くことに迷いなどあるはずがない。
 そうして――少女は星の夢を胸に抱えて、永い時間を眠りについたまま静かに過ごしていった。





・――・――・――・――・――・――・





 目を覚ました彼女――アルトリアが初めて目にしたのは、全てを焼き尽くす赤色だった。
 
「――いつの世も、このような争いが満ちている…ということでしょうか」

 呟いた声の幼さに驚き、アルトリアは自身の身体を眺める。目に映ったのは、記憶しているよりも随分と小柄な自分自身だった。
 元々体躯に恵まれていたわけではないが、今の彼女の姿は百人見れば百人が幼い少女だと答えるだろう。
 
「……ともあれ、今はまだ悩むべき時ではないようですね」

 いつの間にか手にしていた黄金の剣を構えて身体に魔力を漲らせる。
 周囲には、どこか醜悪な有象無象。その中心に立つローブ姿の男――見るからに周囲の悪魔とも言うべき存在と敵対している――に視線を投げた。
 
「――魔術師(メイガス)。貴方が誰かは知りませんが、この村を護ろうというのなら助力しましょう」
「……いいのか?」
「かまいません。私も事情を知りたい。まずは身近な脅威を排除したいと思う」

 戸惑うように眺めてくるローブの男は、アルトリアが持つ剣を見て微かに驚いた様子を見せた。
 
「――わかった。長引かせるわけにはいかないからさっさと決めちまおう」
「心得ました」

 互いに背中合わせになって敵を睨みつける。時間にして僅かに数秒の沈黙――だが、それは殺気に押されてのことではない。
 
「貴様らの事情は知らぬ。だが、貴様らがこの身――この血を食らい尽くそうというのなら――」

 地に突き立てるのは、失ったはずの黄金の剣――。
 それはかつてアルトリアと共に戦場を駆け抜けた星の輝き――人々の幻想によって創られた最強の聖剣である。
 
「――全力を尽くしてかかってくるがいい。私はその全てに全力で応じることを誓おう」

 抜き放ち、振り上げる黄金の剣――身体の一部とも言える愛剣を手にアルトリアは疾駆する。
 それが合図となり、ローブの男も同じく敵の集団に身を投じて荒れ狂う暴風の如く敵を駆逐していく。
 ――己が聖剣に魔力を込め、その形状を大きな光の剣へと変貌させて振り上げる。
 語るべき言葉など存在する筈もない。これは最初からただの生存戦争なのだから――。
 ただそれだけのシンプルな争いは、光の束を振り上げ、斬り下ろし、薙ぎ払うアルトリアと、圧倒的な魔力を以って君臨するローブの男によってあっさりと終着へと向かった。
 
「――すげえな」
「貴方ほどではありません、魔術師。先程の魔術の威力は見事でした」

 互いに褒め称える。そうしてアルトリアはローブの男の異常に気がついた。

「貴方は――いえ、それは私が口にしても詮無いことですね。魔術師、目的があるのなら急ぎなさい。その身はもう長くはないのでしょう?」
「ああ、そうだな。けど、一つだけ聞かせてくれないか? アンタの持つその剣――それはもしかして」
「――約束された勝利の剣(エクスカリバー)。湖の精霊より授かりし聖剣です。もっとも、私の死の際に湖に戻したはず――ああ、やはり期間限定でしたか」

 掲げられた黄金の剣が消失していく。それはまるで、元より存在していなかったかのように跡形もなく消え去っていった。

「――そっちにも事情があるみたいだな」
「そのようです」

 寂しそうに笑うアルトリアを眺めた後、ローブの男は窺いしれぬ表情を歪めてから彼方へと視線を向けた。

「まだ残ってたみたいだな。俺は行く。もう会う事もないだろうが、せめて名前を教えてくれないか?」
「アルトリア。アルトリア・ペンドラゴンです。ここが如何なる時代かは定かではないが、かつてはアーサーと呼ばれた身です」

 その言葉に、ローブの男は確信が持てたと言う様子で頷いていた。どうやら推察はしていたらしい。

「蘇るってのは唯の空想上の話だと思ってたけどな。俺はナギ。ナギ・スプリングフィールドだ。じゃあな、王さま」
「ご武運を。私も直ぐに後を追います」

 告げるとローブの男――ナギはその場から消失した。転移とはまた異なる移動手段のようにも見えたが、ともあれこれで当面の脅威は排除出来たはずだ。
 
「生存者がいるかどうかを探さなくては……」

 ――炎に包まれた村を掛け回る。
 だが、どこを見てもあるのは石となった元人間たちばかりだ。下手人は間違いなく先程の有象無象だろう。
 それでも諦めることなく捜索を続けて救い出すことができたのはたった一人――以降の捜索は断念し、火の手が回っていない丘へと移動する。
 開けた場所に出たアルトリアは助けた少女を連れたまま、その丘の上で三人の人影を発見した。

「アレは先程の――それと……少年? 近くに倒れている女性もまだ生きているようですが……」

 連れていた少女が焼けていく村を呆然と眺める中、ゆっくりと近づいていく。
 少年はナギの前に立ち塞がり、身体を震わせたまま背後の女性を守るように小さな杖を突き出していた。

「――お前……そうか。お前が……ネギか……」

 立ち止まり、遠くで語り合う彼らの会話に耳を傾ける。
 危害を加えるつもりなどないのだろうが、万が一の時には――。

「……お姉ちゃんを守っているつもりか?」

 ナギはゆっくりと少年へと近づいていく。
 それが恐ろしかったのか、少年は目を閉じ、俯いたまま身体を震わせているようだった。

「大きくなったな…」

 ナギは少年の頭に手を乗せてゆっくりと撫でていく。まるで、愛しい存在を祝福するように――。
 その優しさに満ちた声を聞いて、アルトリアは警戒を解いた。アレは間違いなく親愛の篭った呟きであると確信したが故に――。

「お、そうだ。お前に……この杖をやろう。俺の形見だ」

 差し出されたのは彼が使用していた杖だ。少年はそれを受け取りながら、茫然と何かを呟いていた。

「ハハハ、重すぎたか」

 杖を受け取り身体をよろめかせた少年を見て嬉しそうに呟く。
 けれど、その目は既に少年から虚空へと向けられていたように見える。

「……もう時間がない。ネカネは大丈夫だ。石化は止めておいた。後はゆっくり治してもらえ」

 恐らくは何かしらの刻限がやってきたのだろう。
 彼はまるでそこに存在しているのが間違っているかのように虚空へと上がっていく。

「悪ぃな。お前には何もしてやれなくて。こんなこと言えた義理じゃねえが……元気に育て。幸せにな!」

 その姿を追って少年が駆け出していく。
 まるで、信じられない者を見たように驚いた表情を浮かべながら――。

「――お父さん……? お父さんっ! お父さ……あうっ!!」

 叫びながら走っていたからか、少年は足元のくぼみに足を取られて転倒してしまう。
 そうして――アルトリアがほんの一瞬少年へ視線を注視した瞬間、先程までは確かにそこにいたはずのナギは何処かへとその姿を消していた。

「お父…さん……っ、お父さあーーーーーん!!!」

 虚空に向けて叫び続ける少年――先程の会話から察するに、あの少年はナギと名乗った魔術師の息子なのだろう。
 見ればまだ、先程助けた少女と同じく年端もいかぬ子供だ。そんな子供が故郷の村を焼かれ、父親ともあのような形で別れることになれば――。

「……こんな光景を、一体いつまで見ればいいのでしょうか――」

 空を仰ぎながら声を上げて泣く少年――。
 それまで呆然と焼け落ちていく村を眺めていた少女は、少年の姿を視界に入れたまま嗚咽を零すまいと肩を震わせる。 
 ――かつてアルトリアが生きた時代には、こうした光景は日常茶飯時だった。
 いつの世も世界は争いで満ちている。だが、今も昔もそれは決して他人事ではない。
 アルトリアにとってどんなに事情が掴めないことであろうとも、今ここで生きていることだけは間違いないのだから。
 ――ふと、アイツを頼むという声が頭の奥に響いた気がした。
 それはきっと空耳ではなく、あの短き間だけを共闘した自身を信頼しての言霊――。

「――良いでしょう。貴方の頼み、確かに受け取りました」

 自身にも目的はある――それでも、目の前の光景から目を逸らして生きていけるほどアルトリアは器用ではなかった。

「――思う存分泣きなさい、ネギ。貴方の父は、立派に戦って貴方を守ったのですから」

 そっと少年の後ろから近づき、その身体を優しく抱き締める。
 一瞬驚いた様子で顔だけを振り返らせたネギだったが、すぐにまた嗚咽を零し始めた。
 胸に抱いた少年は泣き続ける――それこそ一時間、二時間では足りない。
 正確な時間など誰にも分かりはしないだろう。アルトリアは彼が泣き止むまで、ずっと彼を抱き締めているのだった。


 -Interlude-


 ――日々は巡る。
 どんな残酷な時間も、優しい時間も――その全ては等しく過去となっていく。
 ウェールズの片隅に存在していた、とある村が焼け落ちてからもうすぐ六年――。
 あの忌まわしい日を生き延びたネカネ・スプリングフィールドは、今日も鍛錬に勤しむ弟たちを眺めながら、自身で用意した紅茶を口にしていた。

「――これで!!」
「甘いですよ、ネギ」

 振り上げた剣を勢いよく振り下ろし、あっさりと弾かれる。
 日に日に激しさを増していく鍛錬は今日もまた一段厳しさを増したようだ。
 
「うぅ、やっぱりアルトリア姉さんは凄いです。僕とアーニャの二人掛かりで手も足も出ないなんて……」
「さすがはアルトリアね……。その遠慮の無さ――大人げないったらないわ……」

 ぶつぶつと文句を口にするアンナ・ユーリエウナ・ココロウァ――通称アーニャを一睨み。
 まるで食べられる寸前の獲物のように震えるアーニャを置いて、アルトリアはネギへと向き直った。

「さて、アーニャを囮としてネギが決める……その発想は悪くありません。ですが、囮のアーニャは防御を疎かにし、攻撃手であるネギには思い切りが足りなかった」

 訓練を開始して一時間――ネギとアーニャは息を荒らげ、立っている事さえ辛そうに見える。
 そんな二人と対するアルトリアは汗一つない涼しげな表情を浮かべており、傍に見ていたネカネにもその実力差がはっきりと見て取れた。

「とはいえ、これまでの中で一番良い動きだったことも事実です。己の力量を知り、慢心せずに進んでいけるのなら、明日の試験は恐れるに足らないでしょう」
「え、えっとそれじゃ――」
「ええ、私が保証しましょう。二人なら、きっと無事に学校を卒業できると」

 にこりと笑いながら告げるアルトリアを眺め、ネギとアーニャは本当に嬉しそうにはしゃいでいた。

「ですが、油断して落ちたら――わかっていますね?」

 ぎろり、と――まるで竜に睨まれたかのように二人はぴたりと動きを止め、先程までの浮かれた姿を消してこの場を立ち去っていった。
 おそらくはこれから、二人で再び鍛錬に励むのだろう。魔法の勉強もあるのだから、あの二人に浮かれている時間はない……というのがアルトリアの言だが――。

「――飴と鞭にしては厳しい気がするわね」
「ネカネはあの二人に甘い。ならば、私が厳しくすることでバランスは取れているはずです」

 立ち去った二人を見送ったアルトリアは、傍から眺めていたネカネの元へとやってきてから席に腰を下ろした。
 特に意識をしているわけではないはずなのに、その様はいつ見ても気品があるように思える。

「アルトリアは、あの二人を強く育てたいのね」
「……ええ。確かに子供は子供らしく無邪気に育つのが一番いい。ですが、あの二人はそれを望んでいませんし、なにより周囲がそれを許してはくれないでしょう」

 そう――きっと許されない。そして、本人たちも強くなる事に余念はない筈だ。
 五年前のあの日――故郷の村を襲った悪魔によって村人の殆どが石化されてしまい、今はこのメルディアナ魔法学校の地下に安置されている。
 村の住人で助かったのはネギとネカネ、そしてアルトリアに救われたというアーニャの三人だけだ。
 アーニャの母親は石となったまま安置されており、アーニャは今もよく会いにいっているようだ。
 一度でいいから故郷に戻りたいと懇願したアーニャはアルトリアと共に事後の村へ赴いており、以降の処置についても理解している。
 けれど、ネギはそもそも村人たちの石像がこの魔法学校に安置されている事さえ知らされていない。
 あの事件については色々とキナ臭い噂がついて回っている事もあり、当時の現場にいたネギには大きくなるまで知らせるべきではないと判断されていたからだ。
 
「――ですが、父親の背を追い掛け続ける以上、遅かれ早かれ彼は知ってしまうでしょう。ならば、私に出来る事は彼らを一人前に育て上げることだけです」

 だからこそ、これまで厳しく鍛えてきたのだとアルトリアは語る。
 この数年余りをアルトリアに鍛えられたネギとアーニャの二人は単純に強いというだけではなく、年齢不相応の精神的強さを得ているように思える。
 ――技術や戦いの術は、後で幾らでも身につけることができる。
 ならば、精神を鍛えて何にも惑わされず、己の道を見失うことなく進んでいける心の強さが必要なのだとアルトリアは力説していたが――。

「――でも、あのアーサー王に言われたら流石に納得してしまうわね」
「ネカネ……その事はもう忘れてくれて構わないと言ったでしょう。今の私はアルトリア・スプリングフィールド――貴方たちの家族なのですから」

 苦笑しながら告げるアルトリアに同意するように頷きを返す。
 あの事件の後――意識を取り戻したネカネはアルトリアに詰め寄った。
 それを咎めるでもなく、ただ眩しそうに眺めていたアルトリア――。
 そんな彼女から聞かされたのは、イギリスの地に住まう者なら誰もが一度は耳にしたお伽噺そのものだった。
 伝説に名を刻むアーサ―王が女性であった事には驚いたが、言い伝えの通り蘇るなど考えもしていなかったことだ。
 もっとも――当の本人も驚いていたことを考えれば、ネカネの反応は至極当然のモノだと言える。
 ともあれ、そんな彼女が現代で生きていくためにはあまりにも現代知識と常識がなかった。
 それも踏まえた上で、祖父であるメルディアナ魔法学校の学園長と相談したネカネは、彼女を自身の妹として迎える事に賛成した。
 以来六年間――すっかり打ち解けた彼女は、ネギたちを鍛えながらも自身の研鑽に励んでいた。現代の魔法社会について学び、今の自身にできることを確認して――。

「そうだったわね。ところで、アルトリアは明日の試験どうするの?」
「もちろん手出しはしませんし、協力もしません。私はただの観客として過ごすつもりです」

 学園側に協力しないというのはいつも通りだ。彼女はどうしてかあまり表立って動こうとはしない。
 何かを警戒しているのだろうが、そういう話をしようとすると彼女はいつも酷く申し訳なさそうな表情を浮かべてから、すみません……と一言零すだけだ。
 ――そうなれば、いたたまれないのはネカネたちのほうだ。
 結局、彼女が現代に蘇ってまで求めたものがなんであるのかは、当の本人にしかわからないのだから――。

「二人とも、無事に合格できるといいのだけど……」
「あの二人なら大丈夫です。これまで共に研鑽を積んできた私が保証しましょう」

 凛とした声を響かせて、一切の不安を感じさせない真っ直ぐな瞳を空へと向ける。
 遥か遠くを見つめるその眼差し。見据えるその先に、かつて王としてこの地を駆け抜けたアルトリアは何を見ているのだろうか――。
 ネカネは自身の妹となった見目麗しい騎士王の横顔を静かに見守りながら、二人の少年少女が無事に試験を突破出来ることを祈るのだった。


 -Interlude out-


「――こうして顔を合わせるのは久しぶりじゃな、アルトリア」
「そうですね。老も変わらずお元気そうで何よりです」

 陽の光に照らされた校長室――。
 先日卒業試験を終えたこの学舎にある一室で、アルトリアが現在対面しているのはこの魔法学校の校長であり、ネギやネカネの祖父に当たる人物だ。
 
「ともあれ、まずはそちらにかけてくれるかの」
「失礼します」

 勧められるままに対面式のソファに腰掛ける。
 そうして既に用意されていた紅茶の注がれたカップを手にし、口をつけてから一息ついた。

「――ふむ。彼のアーサー王が女性であったと聞かされた時には驚いたもんじゃが……そうしていると、確かに威厳あるもんじゃて」
「確かにあの時はネカネたちにもひどく驚かれましたが……幸い、皆の好意に甘えてこのような立場に収まることが出来ました。この件に関しては協力いただいた貴方にも感謝しています」

 初めて彼女たちに事情を説明した時には鳩が豆鉄砲を食らったというに相応しい状態を見る事となった。
 声を大にして伝え広めるつもりなど毛頭なかったが、アルトリアとしては自身に深く関わる人間には事情を説明しておきたかったのだ。
 ――ネギの祖父である校長と姉であるネカネ、そしてネギの幼馴染であるアーニャ。
 ネギの友人であるタカミチ・T・高畑と、遠く日本で色々と協力してくれた麻帆良の近衛近右衛門――。
 ネギを含めたこの六名にだけは、アルトリアがかつてアーサ―王として生きていたことを話している。もちろん、誰にも教えていない事も当然あるのだが――。

「……ふむ。とりあえずメガロメセンブリアへの渡航手続きはしておいたが……やはり目的は教えてはもらえんのかの?」

 少しだけ探るような気配を見せながら言葉を口にする校長に対し、アルトリアはゆっくりと首を横に振った。
 
「申し訳ありません。ですが、今の私はスプリングフィールド――ネギやネカネの家族です。ネギの往く道を見守っていきたいという想いに嘘はありません」
「……いや、失礼した。今更疑う心算はないのじゃが、彼の王が何を望んで再び蘇られたのか……と、極私的な興味だったんじゃよ」

 悪びれもせずに告げる校長に対してアルトリアは笑みを零した。
 老獪さを感じさせる振舞いは、かつて傍にいた魔術師を思い出すには充分過ぎる。
 
「……そうですね。かつての私は国と民のために生きていましたが、今の私は王となる前の少女が見ている夢のようなもの――少なくとも、私は今の自分をそのように思っています」

 決して具体的ではないが、それはあくまでも私的な目的なのだと悟らせるには充分過ぎる言葉を口にする。
 どこまで察したのかはわからなかったが、彼は良く伸びた自身のあご髭を触りながら、ゆったりとした動作で頷いていた。

「――では、私はこれで。この後は卒業証書の授与だったはず――私は証書を受け取ったネギたちを待ちますので」
「そうか。ところで、ネギについてじゃが……」
「――先程も言った通り、私は彼が往く道を見守る心算です。決して手を出さないわけではありませんが、極力ネギの成長を邪魔するようなことは控えるつもりです」

 校長の言葉を遮り、嘘偽らざる想いを口にする。
 ――ネギ・スプリングフィールド。
 英雄と謳われるナギ・スプリングフィールドの息子である彼は、間違いなく次代の英雄として期待される立場にある。
 彼は望むと望まざるに関わらず、その重荷を――期待を背負って生きていかなければならない。
 ――今はまだいい。
 多くの人間が彼を庇護し、その往く道を手助けすることができる間は――。
 だが、いずれ彼は多くの困難に直面するだろう。そうなった時、彼が自らの足で立って進んでいくことができるようにしてやりたい、と。
 ――それは、かつて自身の子には決してできなかったことだ。
 近すぎず、遠すぎない場所から見守っていきたい。今はまだ空を飛べぬ雛鳥が、いずれは大空を自由に飛べるように――。
 
「――余計な世話じゃったな。引き止めて悪かったの」
「いえ。その気遣いには心から感謝します。では、これで――」

 校長室を後にしたアルトリアは廊下で待っていたネカネと合流し、ネギとアーニャの到着を待った。
 程なく、ネギとアーニャが二人肩を並べたまま回廊を歩いてくる姿が目に映る。
 予想していた通りに卒業試験をクリアして見せたネギとアーニャ――。
 今日という日に揃って魔法学校を卒業する事が出来て嬉しいのか、二人とも満面の笑みを浮かべていた。
 無事に卒業する事ができて嬉しそうな笑みを浮かべるネギとアーニャを先頭に通路を四人連れ立って歩いていく。

「――ネギは卒業証書には何て書いてあった? 私は占い師って書いてあるんだけど、なんか修行の地が浮かびあがってこないのよね」
「僕のは今浮かびあがるとこ……あ、出てきた……え…と、日本で――先生をやること」

 日本――その地名を耳にしたアルトリアは懐かしさと過去の記憶から苦笑を零す。
 現代に蘇ってさえ縁の切れない彼の地に向かう事になったネギを横目に、アルトリアはネカネと顔を見合わせてから頷きあった。

「――アーニャの件もあるし、校長に会いに行ってくるわね」

 言うが早いか、ネカネはアーニャを連れて廊下を歩き去っていく。
 その後ろ姿を眺めていたアルトリアとネギは、同時に笑みを浮かべて向き合った。

「ともあれ、卒業証書にそう書いてあったのなら、それは決まった事です。ネギ――貴方が立派な魔法使いになるというのなら、これもまた良い経験と思って頑張りなさい」
「はい。でも、ネカネお姉ちゃんとアーニャの事も心配だから、僕いってきますね」
「ええ。私は少し考えたい事があるのでここで待ちます。ネカネとアーニャの二人を安心させてあげなさい」

 力強く頷いて走っていくネギの背を見送り、アルトリアは小さな溜息を零した。

「――士郎」

 探し人――衛宮士郎は間違いなくこの世界にいるはずだという確信がアルトリアにはあった。
 アルトリア・ペンドラゴンという存在が現世に蘇ったのなら、望み続けた願いが叶わない道理はない。
 そう考えたアルトリアはイギリスで過ごしてきたこの数年間、あの手この手を尽くして衛宮士郎に関する情報を調べ上げた。
 その結果としてわかったことは、日本には冬木という街がそもそも存在していないという現実だった。
 ――手がかりどころか、足がかりすら存在していないとなっては士郎がどこにいるのかは調べようもない。
 それでも希望を捨てるのは早計だと信じ、この魔法学校の校長の伝手を頼って魔法使いたちが多く住まうメガロメセンブリアという都市へと向かう予定だ。
 
「いつか……必ず貴方に会えるはずです。それだけが、私の信じる運命なのですから――」

 この世界で生きている――その事実が、アルトリアに再会の運命を信じさせてくれる。
 どれだけの回り道をしようとも、いつか必ず再会できる。だからこそ、今の自身を認めてくれるこの世界を生きていきたい。
 王として生きた生前もその死後も――決して望まなかった少女としての人生。かつての過ちも後悔も、その全てを受け入れて――アルトリアは前へと歩みを進めていく決意を改めて固めるのだった。

 
  

 

Episode 79 -選択した未来へ-


 深い微睡みの中で、ふいに懐かしい夢を見た。
 それは彼女――アリシア・テスタロッサが、ある一つの決断をする直前の光景に違いない。

 ――はじめまして。

 柔らかな笑みを浮かべてそう告げてきたのは、もう何度も夢に見た人物だった。
 アリシアが岸波白野の肉体に精神を移していた際に見ていた記録めいたモノ――。
 聖杯の欠片である宝石とリンクしている白野と同じ立ち位置にいたからか、あるいは別の理由があったのかもしれない。
 それは当の本人であるアリシアにもわからないことだが、いずれにしてもアリシアは彼を――衛宮士郎のことを良く知っていた。
 彼が大切な人と離別し、報われることのない旅路を歩き始めた場所から始まるお伽噺のような記憶――恐らくそれは、聖杯の欠片に記録されていた事実なのだろう。
 意識を取り戻すまで、その記録を何度も繰り返し見ていたアリシアにとって衛宮士郎という人物は、一人の例外を除けば誰よりもよく知っている他人だった。

 ――今日は、君に話があるんだ。

 彼がどうして自身を訪ねてきたのか――何となく予感めいたものがあったのかもしれない。
 そんな前置きを告げてから彼が口にしたのは、これから先を共に過ごさないか――という単刀直入なものだった。
 説明も何もなく、ただ家族としてこれから一緒に暮らしていかないかとだけ告げられた。
 ――お互いにお互いの事情はよく知っている。
 それを承知した上で、けれど彼はそれ以上を口にしようとはしなかった。
 真っ直ぐな問いかけに明確な答えを返すことも出来ず、向かい合ったまま視線を逸らすことさえ出来ない。
 戸惑いながらも選択を迷っていたアリシアの反応をどう捉えたのか――彼は小さな苦笑を零してから、静かに事情を語り始める。
 とはいえ、その内容に関しては特筆するべき事など何もない。
 アリシアの現状や、彼本人の現状など――様々な要因を踏まえた上で、これからをどのように過ごしていこうと思っているのかを彼は訥々と語った。
 ――正直に告白するのなら、その時に交わした会話の何が決め手になったのかはアリシア本人にもよくわかっていない。
 それでも……近づいてくる死を受け入れる覚悟していたアリシアが、どんな形であってもこれからを生きていこうと思えたのは、きっと――。





・――・――・――・――・――・――・





「――ええい、いい加減に起きんか!」

 唐突に全身を襲う寒気と耳を突く大きな声――それらが強制的に意識を覚醒させていく。
 全身を覆っていた布団の暖かな感触は既に無く、柔らかなベッドの心地よい感触を背にしたまま彼女――アリシア・テスタロッサは目を開いた。

「……寒い」

 開口一番に零れたのは、そんな率直な感想だった。
 今が冬の只中である事を実感させる冷たい空気が全身を撫でていく。
 ここがログハウス調の住居で、窓の多い二階だということを考慮してもおかしい。
 疑問を脳裏に浮かべたまま、あまりの寒さに身震いをしながら周囲を見渡してみれば、室内の窓が全て開け放たれていた。

「ようやく目を覚ましたか……」

 どこか疲れたような、或いは呆れたような声が耳に届く。
 アリシアが横になっているベッドの直ぐ側には、剥ぎ取ったであろう布団を手にしている見慣れた女性が立っていた。

「……おはよう~。エヴァは相変わらず朝が早いね……」
「お前がのんびりしすぎているだけだ。いいから、さっさと起きろ」

 仕方がない奴だ……などと口にしながら布団を置き、腕を組んで見せたのは同じ屋根の下で暮らしている女性――エヴァンジェリン・A・K・マクダウェルだ。
 制服に身を包んでいる彼女を見れば、既に身支度が済んでいることは明白――その余裕すら感じられる佇まいに、アリシアは自身の置かれている状況を正しく認識した。

「えっと……いま何時?」
「――もうすぐ八時になるところです」

 ふと聞こえてきた声に反応して視線を向ける。
 一階から二階へと続く階段から顔を覗かせていたのは、同じく同居している絡繰茶々丸だった。

「おはようございます、アリシア」
「おはよう、茶々丸」

 丁寧に挨拶する茶々丸に返答しながら腰を上げる。
 告げられた時間が本当なら、残された時間はもう僅か――出来る限り急いで身支度を整えていく。

「まったく……外で待っているから、さっさと用意しろ」
「朝食におにぎりを用意しておきますので安心してください。あと、忘れ物をしないように」

 それだけ言い残して、二人は一階へと降りていった。
 それを横目に眺めながら洗面を済ませ、簡単に身支度をしてから真新しい服に身を包む。
 持っていく物は昨晩の内に何度も確認して鞄に入れている。その鞄を手に一階へ降りようとして――大切な物を忘れていたことに気づいた。
 ――自身が横になっていたベッドへと近づいていく。
 枕元に置かれている紅い宝石が特徴的なペンダントを確認したアリシアは、それを手にしてから丁寧な仕草で身に付けた。

「すぐに気づけてよかった……」
『――ちゃんと目が覚めたようで何よりね。このまま置いていかれる可能性もあるかなと思っていたけど……』

 今度こそ、本当に呆れたような声が脳裏に直接響き渡る。
 聞き慣れたその声に、心の底から申し訳なく感じながら階段を下っていく。

『うう~ごめんね、はくのん。でも、ちゃんと思い出したんだからいいでしょ?』
『……まあ、思い出さなかったら家を出た直後に声をかけるつもりだったけどね。それと、いつも言っているけど――はくのんはやめなさい』

 ぶっきらぼうな返答に苦笑を零しながら一階へ降りる。
 首に下げているペンダントについている宝石――そこに宿っているとも言える存在、岸波白野の言葉に小さく頷きを返す。
 色々な人形の飾られているその客間に備え付けられているテーブルの上には、おにぎりを乗せた皿が置かれていた。
 三角に握り固められたそれを手にとって口に運ぶ。シンプルに塩だけで味付けをしてあるおにぎりを直ぐに食べ終えたアリシアは、急いで皿を片付けてから家を後にした。

「ようやく出てきたか……」
「まだ焦らずともぎりぎりで間に合う時間です、マスター」

 家の前で待っていてくれたエヴァと茶々丸の視線を背に受けながら戸締まりを済ませる。
 振り返ると、茶々丸は律儀にも待っていてくれたが、エヴァは既に背を向けて歩き始めていた。

「――こうしてみると、エヴァの制服姿は凄く似合ってるよね」
「はい。以前もよく似合っていましたが、今のほうがよくお似合いです」

 追いついたエヴァの横に並び、視線を向けて素直な感想を口にする。
 同意はすぐ横から――エヴァの従者でもあるという茶々丸の言葉に、エヴァは僅かばかり小さな溜息を零した。

「これでまた、あのお気楽な連中と一緒に過ごすことになるわけか……」
「もう……そんなこと言ってもダメだよ~。昨日の夜、エヴァが鏡の前で何度も制服の着心地を確認してたの知ってるんだからね」

 何処から見ても楽しみにしていたようにしか見えなかったエヴァの姿は、アリシアだけではなく茶々丸も目撃している。
 その指摘を否定するつもりはないのか、或いは面倒なだけなのか――。
 エヴァはもう一度深く溜息を零しながら、それでも僅かばかりその顔に笑みを浮かべていた。
 ――そうしていつも通りの通学コースを三人揃って通過し、通い始めて既に半年が過ぎた学舎へと到着する。
 そのまま校舎の中へと歩いて行こうとして――ふいにエヴァが足を止めて振り返った。

「……そういえば、まずは学園長室に顔を出せと言われていたな」
「じゃあ、ここで一旦お別れだね。急いだほうがいいと思うけど……」
「ああ、わかっているさ」

 簡単にそれだけを告げて、エヴァは学園長室がある棟の中へと歩いていった。
 どことなく元気が無いような気がしたが、そんなエヴァの背を見送ってから茶々丸と肩を並べて歩みを再開する。

「これからはようやくエヴァも一緒に学校に通えるね」
「はい。なので、これからは基本的にマスターの傍にいることになると思いますが――」

 校舎の中に入ると同時――どこか気遣いの込められたその言葉に笑みを浮かべて応える。
 大丈夫だと――はっきりとした意思を込めた視線は確かに届いたらしく、茶々丸は淡い笑みを浮かべてから小さく頷いてくれた。

「――アリシアは、もう学園での生活には慣れましたか?」

 尋ねられたその言葉にアリシアは即答せず、僅かばかり思案する。
 この麻帆良学園で過ごし始めて約半年――その足跡を思い返して、思わず苦笑した。
 ここに来る以前にも色々なことがあったが、目まぐるしく過ぎていく麻帆良での日々は心地よく、いつの間にかここでの生活が当たり前になっていた事を今更ながらに自覚したからだ。

「うん、ちゃんと楽しんでるよ。クラスの皆もよくしてくれるし、面白い人も沢山いるしね」

 そうですか――と、静かに納得する茶々丸と肩を並べたまま歩を進める。
 廊下の窓から覗く青空を眺めながら、今は遠い場所にいる人を思い浮かべた。
 一緒に生きていこうと――ただ真摯にそれだけを伝えてくれた人は今、"あちら"で為すべき事を為しているはずだ。
 そんな彼がこちらに来ることが出来るのは、恐らく春を迎えた頃になるだろう。
 いつかやってくるその再会を楽しみにしながら、今日もまたいつものように日常を過ごしていく――。
 ――鳴り響くのは始業を予告するチャイム。
 それを耳にしながら、それでもアリシアは慌てることなく、マイペースなままで教室へと向かうのだった。


 -Interlude-


 人気のない廊下に足音を僅かばかり響かせながら進んでいく。
 うんざりするほどに見飽きた光景だと……そう思っていたはずだというのに――。

「――ふむ、まあこれはこれで悪くないということか」

 独り言を零しながら彼女――エヴァンジェリン・A・K・マクダウェルは、以前からは考えられない自身の心持ちを受け入れた。
 この学園から離れ、異世界へと渡ったあの日から一年と半年――。
 こちらで過ごし始めて既に半年が過ぎたが、この世界では"エヴァが立ち去ったあの日"から、まだ一年足らずしか過ぎていない。
 世界を渡るためのアイテムを用意したメルル曰く、時空間が云々――その辺りの説明を聞き流していたエヴァだが、問題があったとすれば一つだけだ。
 ――なんのことはない。
 麻帆良を後にして、一年近くを八神家で過ごして戻ってみれば、麻帆良では半年も過ぎていなかったというだけのこと――。
 とはいえ、それも長く生きてきているエヴァにしてみれば許容できる程度の些事に過ぎない。
 当面はここで過ごしていく予定のエヴァにとって、それ自体は然したる問題では無いのだから気にする必要もないだろう。
 そもそも、その辺りの問題をどうにかすることが出来るのは、現状ではメルルしかいないのだから――。

「――入るぞ」

 目的の部屋に辿り着いたエヴァは、開口一番それだけを告げて扉を開け放った。
 中からの了承が聞こえるよりも早く開けたが、中で待つ人物は特に慌てた様子を見せることなくエヴァへと視線を向けてくる。

「早かったのぅ」
「貴様が呼んだのだろう? わざわざ足を運んでやったんだ。碌でもない用事なら縊り殺すぞ」

 暢気な気配を隠そうともせずに出迎えたのは、この学園の長である近衛近右衛門だ。
 見た目はぼんやりとした様子の老人だが、彼の事をそれなりに知っているエヴァからしてみれば老獪な狸にしか見えなかった。

「今日から学生生活に戻るお主には、一応忠告をしておこうと思っての」
「ふん、要らぬ世話だ。心配せずとも、降りかかる火の粉はこちらで勝手に対処させてもらうさ」

 はっきりとそう告げると、目の前に座る男は大きな溜息を零した。
 その理由くらいは推察していたエヴァだったが、いざという時に躊躇するつもりはないというのは本心だ。
 もっとも――だからこそ、こうしてわざわざ直接釘を刺しておこうと思い立ったのだろうが……。

「まあ、お主はそう言うと思っておったがの。なので、こちら側の者にはしっかりと忠告はしておいた。当面は大丈夫じゃろうて」
「賢明な判断だな」
「うむ。ところで、話は逸れるが――衛宮君たちは元気にしとるかの? それなりに連絡は取り合っておるんじゃろう?」

 個人的な興味を覗かせる近右衛門の言葉に表情を顰める。
 確かに――言われるまでもなく、麻帆良に来てから現在に至るまで連絡は取り合っている。
 ただ、当初はその都度時間差が生じており、向こうとこちらで経過していく時間に隔たりがあった。
 そこに規則性がなかった理由などもメルルが口にしていたが、そうした専門的な話に耳を傾けていたのは彼女の弟子のアリサや、思慮深い士郎ぐらいだろう。
 ともあれ――エヴァがアリシアや白野と共にこちらにやってきてから半年の間に、向こうでは一ヶ月程度しか時間が過ぎていない。
 現在はおおよその日付を同期した状態でそれなりに安定しているため、向こうとは定期的に連絡を取り合っているのだが――。

「さてな。まあ、変わらず過ごしているだろう。心配せずとも、春にはこちらにやってくるそうだぞ?」
「ほほ、それはまた楽しみじゃな」

 笑みを浮かべて応える近右衛門を眺めながら、エヴァはもう一度小さな溜息を零してみせた。

「――いいから、さっさと本題に入れ。用が無いというのなら、私はもう行くぞ」
「そうじゃな……そろそろこちらに来ると思うのじゃが――おお、丁度やってきたみたいじゃな」

 告げて、部屋の入り口に備え付けられている扉へと視線を向ける。
 そんな近右衛門の視線を追って同じように入り口付近へと意識を向けてみれば、扉の向こうからは二人分の気配が感じられた。
 一人はこちらに戻ってから何かと気を回してくる男――タカミチ・T・高畑で間違いない。
 だが、もう一人……そんな彼と共に不可思議な気配を持つ者がいることに気付いたエヴァは、僅かばかり視線を細めて扉を見据えた。

「――失礼します」

 ノックの後に告げて扉を開け放ったのは、予測していた通りタカミチだった。
 そして、そのすぐ隣――背丈の高いタカミチとは対照的に小柄な人影が目に入る。

「あれ、エヴァじゃないか……どうかしたのかい?」
「爺に呼ばれただけだ。それよりも――」

 意外そうに告げるタカミチの言葉に簡潔な返答をして視線を向ける。
 どこか清楚な服装に身を包み、金の髪を揺らして立つ少女――向けられる翡翠の瞳に宿る光が、どこか彼に似ている気がした。

「――お初にお目に掛かります、エヴァンジェリン。私はアルトリア・スプリングフィールドといいます」

 スプリングフィールドと――そう口にした女を思わず注視する。
 それは予想通りの反応だったのか――アルトリアと名乗った女は、僅かばかり苦笑いを浮かべていた。

「……貴女と縁のあるナギと血の繋がりはありませんが、今はこの名を名乗らせてもらっています」
「少し事情があってね。ほら、この間ここに赴任した彼の……ネギ君の義姉なんだよ」

 アルトリアとの間に立ったタカミチが口にした説明を聞いて僅かばかり納得する。
 つい先日――この学園に、ナギ・スプリングフィールドの実子であるネギ・スプリングフィールドがやってきた。
 偶然か必然か――かつてエヴァが所属し、今はアリシアが通うクラスで副担任……仮採用の教師という扱いとなっている少年だ。
 その素性から、恐らくは呪いが解けていないままだったのなら機会を窺って接触を図ったのだろうが――。

「なるほど――それで、今日は弟の様子でも見に来たのか?」
「いえ、それも確かに一応の目的ではあるのですが……」

 アルトリアへと直接尋ねてみれば、彼女はどこか困ったように溜息を零した。

「私が面倒を見ている少女がいるのですが、彼女の件に関してそちらの近右衛門に話があったのです」

 じろりと近右衛門を見据えるアルトリアの視線の先――相変わらず惚けた様子の男へと視線を向ける。

「本題というのは、ちょうどその事なんじゃよ」
「……どういうことだ?」
「お主が復学するまでの時間稼ぎをしておる間、この麻帆良で小さな店をやっておったじゃろう?」

 どこか慎重な様子で尋ねられた言葉に首肯で応える。
 この麻帆良に戻ってきて半年余り――すぐに復学しなかったのは、それなりに理由があってのことだ。
 ――エヴァは現在、誰の目から見ても十代中頃から後半といった容姿をしている。
 以前の姿が以前の姿だっただけに、僅か半年で成長したとするには無理があったのだ。
 もっとも――半年が一年と延びたからといって大丈夫かと言われれば首を捻るのだが、少なくとも相応の説得力は生まれる。
 とはいえ、この後の学園生活を円滑に行うため……というのはあくまでもおまけに過ぎない。
 ――実際、主な理由はこの学園都市でメルルが作った小さな店の面倒を見るためだ。
 こうした生活に不慣れなアリシアの事もあり、最低でも半年は様子を見ようと決めて過ごしてきたのだが――。

「――"アトリエ"の事か? それならば、今も一応は営業中だぞ。私もこうして出張るようになったから店頭販売は時間限定になるが、依頼ならばいつでも受け付けている」

 すっかり抵抗なく口に出来るようになった営業文句――それを耳にして、近右衛門とタカミチは苦笑いを浮かべる。
 だが、残る一人――アルトリアは、どこか納得した様子で小さく頷いていた。

「依頼があれば、なんでも用意してくれる何でも屋……じゃったかの?」
「ああ。もちろん、表向きには常識の範囲で可能なモノだけ……だがな」

 近右衛門が口にしたように、店は事実として何でも屋というスタイルを取っている。
 表向きはアクセサリーや小物の販売――オーダーメイドを基本とした上で一応は店頭販売も行っているが、実際はそれだけではない。
 極一部にしか知られていない事柄だが、通常であれば困難な出来事――そうした様々な懸案を抱えた者からの依頼を受け、可能な範囲でそれを解決していく"錬金術士の店"なのだ。
 つまり――アトリエとは、錬金術士であるメルルが、自身の弟子であるアリサの修行を積ませる場所として構えた店に違いない。
 依頼を叶えるために必要なアイテムなどの制作は"向こう"にいるアリサがメルルの指導の下で行っており、それを受け取って依頼者に渡すまでがエヴァの仕事だ。
 もっとも、これまでその類の大きな依頼は数える程度しかなかったのだが、こちらと向こうの世界で発生している時間差もあり、相応に忙しかったことだけは確かである。

「手が足りていないのは重々承知しておるつもりじゃよ。そこで、折り入って頼みがあるのじゃが――」

 今度こそ本題だと――改めた様子をそのままに、近右衛門は真剣な様子で続ける。
 それを耳にしながらエヴァは、今日の内にでも"向こう"へと連絡をしておかなければいけないな……と、もう一度小さな溜息を零すのだった。


 -Interlude out-


 放課後――アリシアは、用事があるというエヴァや、そんな彼女と行動を共にする茶々丸と別れて一人校舎を後にした。
 いつものように部活へと向かうクラスメイトたちと別れ、通い慣れた道を歩いていく。
 真冬の冷たい風に耐えながら、ふと――視線の先で一人の女性を見送っている小さな人影が目に入った。
 スーツに身を包んだ少年――この女子校エリアにおいては教師以外の男性は殆どおらず、しかもそれが少年となれば見間違える筈も無い。

「――ネギ先生?」
「えっ……ああ、アリシアさん。今からお帰りですか?」

 簡単な挨拶を交わしながらの言葉に頷きを返す。
 少し前に教室で別れたばかりの担任――ネギ・スプリングフィールドは、つい数日前にイギリスのウェールズからやってきた少年だ。
 仮採用のような扱いでやってきた先生ではあるが、聞けば年齢は数えで十歳らしく、その年齢で既に大学相当の学校を卒業しているのだとか――。

「今の人は?」
「あの人は僕の義姉です。今日は用事があって麻帆良を訪ねてきたみたいで、折角だからと顔を見せに来てくれたみたいです」

 どこか嬉しそうに語るネギの姿は、いつもよりも僅かばかり大人びている。
 普段よりも気を引き締めているネギの姿は、彼の義姉が少しばかり厳しい人なのかもしれないとアリシアに悟らせるには充分な材料だった。

「ネギ先生にはお姉さんが二人いるってアスナから聞いてたけど……やっぱり遠い外国で働く弟のことが心配だったのかな?」

 この学園に来て最初に仲良くなった人物――神楽坂明日菜と昨日交わした会話を思い出しながら尋ねてみる。
 ちなみに、彼女――明日菜がネギの情報に詳しい事にはちゃんとした理由がある。
 ネギは現在、紆余曲折の末に明日菜とルームメイトの近衛木乃香が暮らしている学生寮の一室に泊まり込んでいるからだ。
 ――予定では、ネギが学生寮に泊まるのは一日、二日の話だったのだという。
 当初は一悶着あったと聞いてはいたが、その後がどうなったのかまでは確認していない。
 とはいえ、それが今も変わらず同居しているとなれば、当人たちが今の形で落ち着かせようとしているのは疑う余地も無いのだが――。

「どうでしょうか……そういえば、アスナさんとこのかさんから聞きましたけど、アリシアさんにもお兄さんがいるんですよね?」

 微かな好奇心――それを出来る限り押し隠し、世間話のひとつとして尋ねてくる。
 この麻帆良で暮らし始めた当初――クラスメイトたちから幾度となく尋ねられた事柄でもあるため、アリシアは特に慌てることもなく肯定の意を示した。
 もちろん周囲が認識しているモノと実際の関係は少しばかり異なるが、彼との関係は大体そのような感じである。

「――義兄だけどね。少し厳しいけど、いい人だよ。料理も凄く上手だし、色々なことに詳しいから頼りがいもあるしね」

 これまでの関わりから抱いていた想い――ほんの僅かばかりだけ本心からの言葉を零す。
 アリシアが彼――衛宮士郎に抱いている感情は複雑といえば複雑なものだ。
 何より――アリシア・テスタロッサにとって衛宮士郎という人物は、切っても切れない関係にある。
 それを他者に説明するのは些か困難なため、人に話をする時には血の繋がっていない兄妹ということで通してきたのだが――。

「――特別な人なんですね」

 ぽつりと――どこか納得した様子で零したネギの言葉が耳に届く。
 どこか共感しているようにも見えるそれは、彼もまた義姉に対して似たような感情を抱いているのかもしれないと悟らせるには十分だった。

「まあ、そうなんだけどね。春頃にはこっちに来るみたいだから、その頃には会えるかもしれないよ?」
「楽しみにしています。それでは、僕はここで――気をつけて帰ってくださいね」

 それだけを告げて去っていくネギの背を見送る。
 幼いながらに頑張っているその背はまだ頼りなく小さな印象しか抱かせてはくれなかったが、それでも――。

『――義兄……ね。まあ、そうとしか答えられないわよね』

 ふいに、仕方が無いといったような呟きが脳裏に響く。
 誰よりも事情を知る白野からの言葉に、アリシアは僅かばかり苦笑いを浮かべた。

『そういえば、今更なんだけど……白野はこっちに来てよかったの?』

 帰路への歩みを再開しながら、これまでずっと疑問に思っていた事を尋ねる。
 そんなアリシアの問いに、白野はいつもと同じぶっきらぼうな口調であっさりと応えてくれた。

『ええ、もちろん。士郎からあなたのことを任されてるし、色々と教えていかなきゃいけないこともあるでしょう?』
『うん……それはそうなんだけど……』
『――だから、そんなことは気にしなくていい。心配しなくても、ここでの生活も楽しんでいるわよ』

 最後には、滅多に聞くことの出来ない優しい声音で――。
 本心からそう告げてくれている事がはっきりと伝わってきて、それがアリシアにとっては何よりも嬉しく感じられていた。

『春には士郎たちもこっちへ来るらしいわよ。それまでに、もう一回り成長した姿を見せてやりなさい』
「――うん、頑張る」

 念話ではなく、声に出してはっきりと宣言する。
 決意を込めた言葉は誰の耳に届くこともなく、ただアリシア本人の耳にだけ響く。
 直に訪れる再会の時を楽しみにしながら、アリシアは歩調を早めたまま家へと向かった。
 しばらくして遠目に見えてきたログハウスの前には小さな人影――。
 小柄な少女らしき人物は、アリシアが帰宅しようとしている家の隣に建つ小さな店を見上げながら、何かを待っているかのように見える。

『――お客かしらね』
『うん、そうかも……』

 アリシアの住まうログハウスの横に建つ店を直接訪れてくる人物となると、相当に限られた素性の者だけになる。
 その中で、少なくともアリシアが把握している限りの人物との類似は見られない。
 エヴァ個人への客か、或いは"アトリエ"を訪ねてきた依頼者か――いずれにしても、その応対はしなければならないだろう。

『何事も経験よ。貴女の目標を叶えるためにも、頑張るといい』

 いつものように背を押してくれる声に内心で感謝を告げてから歩を進める。
 ――目覚めて、現状を知り、一度は消えることを望んだ。
 そんなアリシアが自身を受け入れ、こうして日常を生きていく事が出来ているのは、多くの人の助けがあったからに他ならない。
 今はまだ自身の全てを肯定的には捉えらずとも、いつかは答えを出せる自身で在りたい――。
 自身が選んだ未来へ歩んでいく――そんな決意を改めて思い返しながら、アリシアは家を見上げる少女の側へと歩み寄っていく。

「――こんにちは。何か御用ですか?」

 ありったけの笑みを浮かべたまま、少女の背へと声を掛ける。
 振り返った少女が口にする言葉を耳にしながら、アリシアは今日も変わらず自身に与えられた日常を過ごしていくのだった。


 

 

Episode Ex05 -聖夜の誓い-

 永い旅の果てに出会えた小さな主――。
 誰よりも大切な人と交わしたのは、小さくも大切な約束だった。

 ――ありがとう。

 約束を果たすことを誓った直後に呟かれた感謝の言葉――。
 それがどれだけの救いになったのかなど、改めて言葉にするまでもない。
 ――望まぬ輪廻と破壊を繰り返し、護るべき主の破滅を見続けてきた。
 その果てに辿り着いた現在という奇跡に、彼女はただ感謝することしかできなかった。
 だからこそ、これからの自身の全てを捧げてでも彼女たちの役に立ちたいと願っていたのだから――。





 ・――・――・――・――・





 ――夢を見る。
 
 瓦礫に埋め尽くされた景色の中、ただ歩き続ける少年――。
 親を失い、友人を失い、その果てに自身すら失ってしまった少年の夢。
 ――それが彼の本当の始まり。
 そこから始まるあらゆる出会いと別れを垣間見て、彼女は今日も静かに目を覚ました。

「――また、この夢か」

 そんな呟きを口にしながら、彼女――リインフォースはすぐ隣に感じる暖かな感触へと目を向けた。
 まだ日が昇っていないのだろう。室内は薄暗く、静かな気配に包まれている。
 微かに耳へと届く音――穏やかな寝息をたてる八神はやての寝顔を一頻り眺めて、彼女はそっとベッドを後にした。

「――もう起きていたのか?」

 部屋を後にしてリビングへ入ると同時に掛けられた声に視線を向ける。
 聞き間違えるはずの無いその声の先には、エプロンを身につけてキッチンに佇む衛宮士郎の姿があった。

「おはようございます、士郎」
「ああ。おはよう、リインフォース。今日はまた随分と早起きだな」

 リビングの中へ歩を進めながら時計に目を向ける。
 少しばかり年季物の壁掛け時計の針が指し示している時刻を見れば、午前五時――。
 いつもの起床時間よりも一時間ばかり早いことに驚きながら、リインフォースは目の前に立つ男へと苦笑を向けた。

「どうにも、まだ生身の感覚に慣れていなくて……」
「ふむ。やはり、普段とは異なる感覚なのか?」

 尋ねるように告げられた士郎の言葉に首肯で応える。
 メルルが用意した生身の肉体――完成体ではなく、あくまでも魂宿らぬ人形ではあるが、生身である事に違いは無い。
 実体化している時と似て非なるその感覚は、今を確かに生きているという強い実感をリインフォースに与えてくれていた。

「――む、珍しい奴がいるな」

 ふいに聞こえてきた声に目を向ける。
 リビングから庭へ通じる窓の側――そこに、意外そうな表情を浮かべているエヴァンジェリン・A・K・マクダウェルが立っていた。

「おはようございます、エヴァ」
「ああ、おはよう」

 外を散策でもしていたのか、着込んでいたコートを片付けていく。
 そうして挨拶もそこそこに、エヴァはリビングのソファではなくテーブルの側にある椅子へと腰掛けた。

「おかえり、エヴァ。今日はどうする?」
「ん……緑茶がいい」
「了解だ」

 そんな簡単なやり取りを交わす二人を横目に所在なく立ち続ける。
 静かで穏やかな時間――普段からすれば珍しく見えるが、二人にとっては普通のものなのかもしれない。

「君はどうする?」

 次いで向けられた士郎の言葉を受けて我に返る。
 微かな戸惑いを残しながら、自身に向けられた質問に答えようと思考を働かせていく。

「……では、私もエヴァと同じもので」
「了解」

 応じると同時に手際よく準備を進めていく士郎を横目に席へと向かう。
 ちょうどエヴァとはテーブルを挟んで対面の席に腰掛けると、興味深そうな視線が目前から向けられていることに気づいた。

「……あの、なにか……?」
「うん? ああ、いや……少し感心していただけだ。岸波白野の身体もそうだったが、貴様の身体も分類上は"人形"だからな」

 その言葉を受け、彼女がこの世界へ来る以前――これまでを生きていた世界で"人形遣い"であったことを思い出す。
 そんな彼女から見れば、メルルの用意した義体とも言うべき肉体は優れた出来栄えに映るのかもしれない。

「興味がある……と?」
「まあな。悪い癖だと自覚はしているが、これも性分なのだろうさ」

 気にするなと――そう目で告げてくるエヴァに従って小さく頷いてみせる。
 意思を表すことの出来ない状態で共に在り続けた同居人――。
 そんな彼女たちの普段や過去を知っていることを、彼女たちは自然と受け入れてくれている。
 だからこそ、特にエヴァやメルルの二人は殊更に"自然体"で接してくれるのだろう。
 これまで……魔導書として共に過ごしてきた自身に対して、"いつも通り"に接しようと――。

「――興味があるのなら、メルルに頼んでみたらどうだ?」

 緑茶の注がれた湯呑み茶碗を三つほどテーブルの上に置きながら、士郎は淡々とそう告げる。
 まるで気のないその言葉を耳にして、エヴァは小さな溜息を零しながら湯呑みへと手を伸ばした。

「無駄なことをしても仕方がないだろう? あの女が、必要でもないのにそんなことをするはずがないだろうに」

 どこか呆れたように呟いてから湯呑みを手に口元へ。
 室内の温度がそれなりに冷めているからか、彼女が手にした湯呑み茶碗からは相応の湯気が溢れていた。


 -Interlude-


 暗転する世界――覆る常識と非常識の狭間で、悪酔いにも似た感覚に身を委ねる。
 そうして彼女――アリシア・テスタロッサは、虚構の世界から現実の世界へと帰還した。

「……うぅ、どうしてもこの感覚にだけは慣れないよ~」
「そう? 私はもうすっかり慣れちゃったわよ」

 気分が悪いことを隠そうともせずに告げた言葉に溜息が返ってくる。
 見れば、隣に立つ少女――アリサ・バニングスは、確かに平気そうな表情を浮かべていた。

「アリサはちょっと"使いすぎ"だよ。そんなに頻繁に使ってると、すぐ大人になっちゃうんだからね」
「多少の早送りは仕方ないって覚悟しているもの。それに、アリシアだって"その身体"になってからは毎日使ってるじゃない」

 呆れたように告げるアリサの言葉に対する反論の余地は無い。
 事実として、アリシアがメルルの用意した"元の身体"で活動するようになってからは、毎日のようにアリサと共に"コレ"を利用しているのだから――。

「そうだけど……」
「まあ、アリシアの事情はわかってるつもりだから、焦ってるっていうのはわかるけどね」

 大凡全ての事情を承知しているアリサは、そう告げてから苦笑を浮かべた。
 ――メルルが用意した"アリシア・テスタロッサ"の肉体は、正しく子供のモノだった。
 それも当然だろう。恐らくアリシアの肉体を用意する際に参考となったデータは、"アリシア・テスタロッサ"が存命していた当時のものに違いない。
 けれど、それも最初だけ――現在ではメルルが用意した秘薬によって肉体年齢を操作し、それなりに成長した姿となっている。
 もっとも――十四歳程度の年齢になっているはずだというのに、アリシアの背丈はアリサたちよりも僅かばかり高い程度でしかない。
 アリシア自身の年齢が幼いことを考慮すれば当然とも言える背格好ではあるのだが、それでも成長したからにはそれに見合う自身で在りたいと思うのは当然の事だ。
 こうして日々を勉強と研鑽に費やしているのは、一日でも早く自身を成長させたいと願うが故なのだから――。

「エヴァが言うには、あの空間は主に精神に作用するモノらしいから肉体的な影響はそれほどでもないらしいわよ」
「見た目は子供で中身は大人になるって事でしょ? アリサはそれでもいいんだ?」
「覚悟はしてるっていったでしょ。大体、周りを見たってメルル先生もエヴァも、士郎さんだって見た目と中身は全然噛み合ってないもの」

 それには同意すると――そんな意思を表すように小さな頷きを返す。
 あの三人の見た目と中身が大きく乖離していることはアリシアも理解している。
 三人だけでは無い。少し視界を広げてみれば、他にもリインフォースやリンディ、そして――。

「――アリシアのお母さんだって実際はそれなりの年齢だって聞いてるし、そんなことを気にしてたらいつまで経ってもあの人たちに追いつけないもの」

 ――アリサの言葉は確かな真実だ。
 "アリシア・テスタロッサ"の母であるプレシアもまた、実際の年齢とは乖離した容姿をしている。
 それはアリシアが記憶しているプレシアの姿と殆ど変わりなく、そんなプレシアとフェイトの姿を脳裏に描く度に何とも言えない感情が胸を締め付けていく。

「……お互い頑張らないとね」

 どこか気遣うような言葉に首肯で応え、二人並んで部屋を後にする。
 すっかり見慣れてしまったアトリエの中――アリサが用意してくれていた冷たい珈琲を口にしながらホッと一息をついた。

「そういえば、"外"は今日クリスマスイブなんだよね? アリサは家の人と一緒に過ごすの?」

 身近な人たちの予定を思い出しながら尋ねる。
 早くからアトリエを訪れていたアリサだが、彼女は今日も変わらず過ごすつもりなのだろうか――。

「――私? 今日はすずかと一緒にパーティーに出て、その後は家族でのんびり過ごす予定よ」
「そっか……」

 友人や家族と過ごすつもりだと――。
 そんな当然の事を当然のように告げるアリサの姿を見て、安堵の息を零す。
 肉体を得てから今日までの数日――アリサが長くアトリエに滞在してくれていたのは、アリシアの様子を見るという側面もあったはずだ。
 メルルや士郎がいない時――独りになる時には、必ず彼女が側に居てくれたことを知っている。
 だからこそ、せめてこんな日くらいは気を遣わずに過ごして欲しいと思っていたから――。

「――アリシアも、今日はここでクリスマスパーティーをするんでしょ?」
「……うん、その予定だよ」

 アトリエ内で行う予定のクリスマスパーティーは、アリシアの他に八神の家で暮らす全員が参加する予定となっている。
 事情を知らせている者ばかりが揃ってのパーティーであるため、アリシアも気兼ねなく参加できるだろうとはメルルの言だ。

「折角なんだし、しっかり楽しめるといいわね」

 優しい声音で告げるアリサの言葉に、アリシアは小さな頷きだけを返すのだった。


 -Interlude out-


 星の瞬く夜空を見上げながら、リインフォースは白く染まった自身の吐息を眺めていた。
 不変の季節を約束された空間――そこにこのような景色が広がっているのは、もちろんこの空間を作り上げたメルルの手によるものだ。
 星空を照らす流星群はどこまでも幻想的で、優しく降り注ぐ雪と相まって特殊な情景を作り上げている。
 これまでの長き生の中で、こんな風に空を眺めたことは一度もなかった事を思い返しながら、静かに星を眺め続けた。
 
「――こんなところにいたのか」

 唐突に聞こえてきた背後からの言葉に視線を下ろす。
 声の主――アトリエの入り口から外へと出てきた士郎は、そのまま肩を並べるように側へと歩み寄ってきた。

「少し空を眺めていました。これまで、あまりそうしたことをしたことがなかったので……」

 今もアトリエの中から聞こえてくる明るい喧騒を背にしたまま、再び夜空へと視線を向ける。
 隣に立つ男が同じように空を見上げる気配を感じながら、どこまでも幻想的な光景を眺め続けた。

「……年が明けたら、管理局で本格的な任務に従事するのでしたか?」
「ああ。ただ、その前に基本的な知識を身に付けるための訓練期間を設けてくれるらしい」

 既に確定している未来を語る士郎の言葉には静かな決意が感じられる。
 そんな彼の言葉を耳にしながら、リインフォースはつい先日に主である少女と交わした約束を脳裏に浮かべた。

「我が主も、そして騎士たちも……それぞれに出来ることをしていくと言っていました」

 つい先日に幕を下ろした一つの事件――。
 その後処理として、当事者であった者たちは全員がそれぞれに出来ることをしようと動き始める予定だ。
 夜天の騎士たちのみならず、主である少女――八神はやてもまた、自身に出来る範囲で責任を果たそうと決意している。
 それは事件に深く関わったメルルやエヴァ、闇の書の主として振る舞ってくれた白野も変わらない。

「――私もずっと考えていました。今の私に、いったい何が出来るのか……どのように生きていけばいいのかと――」

 夜天の書の管制人格として在ったかつての自身――。
 何もかもと切り離され、こうしてただの"リインフォース"として存在することが許された。
 ――管制機としての力も、夜天の主たちとの直接的な絆も既に失われている。
 残っているのは、これまでを生きてきた自身が負ってきた責と自覚――。
 そして、夜天の主から賜った"リインフォース"という名前と、今の自身が存在するために尽力してくれた者たちとの新たな絆だけだ。

「こんな私でも――いえ、こんな私だからこそ出来ることがある。そしてそれはきっと、我が主のためになると信じています」

 決意と確信を胸に視線を下ろし、肩を並べて立つ男へと向き直る。
 その視線は既に自身へと真っ直ぐに向けられており、向かい合う形で真っ直ぐに視線を交わす。

「――士郎」

 決意を込めてその名を口にする。
 自身の希望と主の願い。そして、自身に残された僅かな力の全てを叶えるために――。

「――私は貴方を護りたい。貴方の側で、貴方と共に過ごし、貴方が往く道を支えていきたい」

 彼の始まりと、其処から現在に至るまでの道程――彼がこれまでに抱いてきた想いと決意、覚悟と願いを識っている。
 理解できている――などと思い上がるつもりは毛頭ない。
 なんであれ、それは彼だけのモノだ。それを誰よりも理解しているなどと自惚れるつもりはなくとも、それでも――。
 
「それは、君自身の願いなのか?」

 敢えて問いかけてくれる士郎の優しさに笑みを浮かべ、はっきりと静かに頷いてみせる。
 孤独な道程を歩み続け、報われることなく生きてきた人――。
 その果てに出会い、新たな生を精一杯に生きてきた彼だからこそ、その支えになりたいと願った。
 それは夜天の主である少女の願いでもあり、彼と共に過ごしてきた騎士たちの願いでもある。
 仮初めの肉体を与えられている自身が、そのために必要な事だとして得た彼との繋がり――。
 魔導の根源を共有する自身にしか出来ないこと……なにより、それを望む自身の想いを果たすために――。

「私の……ただのリインフォースとして――」

 役目ではなく、ただの一個人としての願い――。
 それは自身の内から沸き上がる想いに依るもので、同時に自身の主が望んでくれたものでもある。
 かつての自身と、これからの自身――その全てを背負って、これからを生きていきたい。
 夜天の魔導書としての力を失い、騎士や主との繋がりを失おうとも、意思と願いで結ばれた絆は残っているから――。

「――今回の事件を通じて、改めて痛感したことがある」

 静かに語り始めた士郎の言葉を耳に届ける。
 真剣な表情の奥で、自身に向けられている優しい眼差しをしっかりと受け止めながら――。

「俺はまだまだ未熟者だと――だから、そんな俺を君が手伝ってくれるというのなら、それを断る理由など何処にもない」

 そっと伸ばされた手に自身の手を重ねる。
 そうして――繋がれた手をそのままに、彼と視線を交わし合う。

「――これから、よろしく頼む」
「こちらこそ、どうかよろしくお願いします」

 胸に広がる暖かな気持ち――それを自覚しながら、改めて決意を込めた返答を口にする。
 きっとこれからも、色々な出来事が待っているのだろう。
 悲しみも喜びも、出会いも別れも――その全てが、いまを生きているという証明に違いない。
 ――存在し得なかったはずの未来を生きていく。
 それは自身だけではなく、あの少女――アリシア・テスタロッサも同じだろう。
 複雑な想いを抱いたまま、それでもこれからを生きていく事を決意した小さな少女――。
 そんな彼女の姿に勇気をもらった事実を胸に、これからを――未来を語っていこう。
 流星と雪に彩られた幻想的な聖夜――リインフォースは、これからを共に生きていくことを士郎に誓うのだった。

 

 

Last Episode -桜吹雪が舞う頃に-



 思い返すのは、彼女と交わした最後の会話――。

 ――だから、先輩も……どうか……。

 その続きを口にすることなく、彼女は静かに息を引き取った。
 浮かぶ笑みは優しく柔らかで、きっと彼女は満足して逝けたのだろう。
 多くの罪を犯しながら、それでも精一杯に生き抜いた女性――間桐桜が、その際に何を口にしようとしたのかはわからない。
 購いの花に埋め尽くされた衛宮邸の庭で眠りについた彼女はどこまでも遠く、直接触れあってさえ遠い存在に感じられたのはその為なのだろうか――。

 ――ああ、俺も頑張るよ。これから先に何があっても、桜に負けないように頑張るから。

 拙い約束を守るため、精一杯に生き抜いた桜を想像し、そんな彼女に負けないようにと誓いを立てた。
 そうでなければ、自分はいつまでも彼女に追いつくことが出来ないと思えたからだ。
 人生を賭して自身を待ち続けてくれた彼女に応えるには、それくらいのことしか出来ないのだという確信すら抱いて――。
 そうして、故郷を後にしてから百年余り――歩き続けた果てに待っていたのは、約束された終幕とかつてない自己満足だけだった。
 それでも、かつて誓った想いを貫き通すことができたことが誇らしく、なによりも嬉しかった。
 一つの終わりは一つの始まり。奇跡と必然の果てに第二の生を得て、紆余曲折の末に今という現在を過ごせている。
 決して平穏なものではなかったが、それでもかつてとは比べるまでも無く穏やかな日常――。
 だからこそ、別れの日から百年以上も過ぎた今になってあの日の言葉の続きが何だったのかと気になっているのかもしれない。





・――・――・――・――・――・――・





『――なら、お勤めは今月でお終いなんやね』

 通信映像の向こうに見えるのは、家のリビングで満面の笑みを浮かべるはやての姿だ。
 聖祥の制服に身を包んだ彼女は、嬉しそうな様子を隠そうともせずに弾んだ声で尋ねてくる。
 そんな彼女の言葉に頷きを返してから、彼――衛宮士郎は、僅かばかり気になっていた事を尋ねてみることにした。

「――はやて。先日にクロノから相談を受けたが……局の仕事に関わっていくつもりなのか?」

 努めて感情を表に出さないように尋ねると、それでも何かを感じ取ったのか――。
 はやては僅かばかり表情を曇らせ、それでも迷うことなくはっきりと頷いて見せた。

『士郎は……その、やっぱり反対?』
「賛成か反対かと言えば――いや……はやてが色々な事を考えた上で、その結論を出していることはわかっているつもりだ。ただ、それでも心配になるのは仕方がないと思ってくれ」

 諸手を挙げて歓迎するわけではないが、この選択をはやてが選ぶだろうという予測は早い内からしていたことだった。
 闇の書事件における騎士たちの行動や、その後の立ち位置――それらを考えれば、騎士たちの主であるはやてが局で働くと言い出すことは容易に推測できる。
 だからこそ、心配はしているが反対はしないという意思だけは伝えておこうと思ったのだが――。

「……心配は尽きないが、はやてたちの想いを大切にしてやりたいというのも嘘では無いからな」
『……うん、ありがとう』
「いいさ。少なくとも、周りにはシグナムたちもいる。局で本格的に働くようになれば難しくなるかもしれないが、当面の面倒を見るのはクロノになるのだろうしな」

 フェイトを除けば、なのはもはやても管理外世界の人間だ。
 そんな彼女たちが、如何に優れた魔導の才能を持ち、局の仕事に対して前向きになっているとはいっても順序というものはある。
 クロノが言うには、もしも彼女たちが局の仕事に本格的に関わるようになるのなら、きちんとした錬成の後、暫くはクロノの元で動くことになるだろうと言っていた。
 もっとも、それで絶対に安心だということは決して無いのだが――。

『そういえば、"向こう"から手紙が届いてたよ。データにしてそっちに送っとくな』
「ああ、ありがとう。それではまた――ヴィータたちにもよろしく言っておいてくれ」

 了解――と、軽快な返答を口にするはやてとの通信を終える。
 それを待っていたのか――士郎が使っていた通信室の扉が静かに開かれた。

「――ご家族との通信だったのね。はやてちゃん……だったかしら?」

 開口一番に気軽い様子で尋ねてきたのは、レティ・ロウラン――リンディの古くからの友人で、現時点における士郎の上司でもある。

「ええ、まあ――それで、またなにかあったのですか?」
「報告を聞く限りでは特にないわね。帰還作業も予定通りに進んでいるし、今なら個人的にお話ができるかと思ってね」

 身に纏っていた気配を緩めながら室内へと入ってきた彼女は、そのまま士郎の側へとやってくる。
 彼女の口から零れる言葉に幾分か篭もる暖かみは、これが本当に個人的な話なのだと悟るには十分過ぎて――。
 ならば――と、いつもそうしているように対面の席に腰掛けるレティを眺めながら、士郎はひとつ小さな溜息を零した。

「――ねえ、本当にこのまま局に残るつもりは無いの?」

 先に問いかけてきたのはレティだった。
 回りくどい言い回しも何もない問いかけに、士郎ははっきりと頷いて見せる。
 表向きは局の任務に従事するようになって一ヶ月余り――実際は三ヶ月ほどになるが、その間に何度も問いかけられてきた質問だ。

「確かに、思っていたよりも肌に合っていたというのは大きな発見だったとは思う」
「なら――」
「それでも、今の状況で局に残るという選択肢は俺には無い。君やリンディには申し訳ないが、どうにか諦めてもらえると助かる」

 次元の海に存在する数多の世界――。
 それらを行き来し、それぞれの世界が各次元世界へ悪影響を及ぼす可能性を取り除いていく。
 数多の世界を管理する巨大な組織といえば聞こえは悪いが、その主義や思想そのものについて論議するつもりはない。
 ただ、士郎にとってそれは意義ある行為ではなく、優先すべき事柄ではないというだけだ。
 そもそも士郎が管理局に所属してこれまでを戦ってきたのは、闇の書改め夜天の書に関わった者としての責任を果たすためだ。
 魔導師としては半人前以下の自身に真っ当な適正があるはずもなく、局の中でも特に危険な任務にばかり従事してきたのは単に荒事に慣れているからに他ならない。

「そう……」

 言葉通りに消沈した様子を一瞬だけ見せるレティだが、すぐに笑みを浮かべてみせる。
 どこか苦笑気味な笑顔を浮かべて納得の姿勢を示す彼女は、視線をそのままに口を開いた。

「残念だけど、仕方ないわね。リンディもクロノくんも、貴方は任期を終えたら局を去るだろうって言っていたしね」
「便利に使ってくれたお陰で予想よりも早く任期を終えることができた。その点に関しては、君に感謝しなくてはいけないな」
「無茶を頼んだのはこちらの都合よ。だから、感謝するのはこちらのほう」

 互いに顔を見合わせたまま笑みを浮かべる。
 闇の書事件から三ヶ月余り――ほぼ全てを最前線で過ごしてきた士郎は、当初よりも随分と早く任期を終える事となった。
 ほんの数日間の訓練期間を経てから今日まで、それこそ地球に戻る余裕も連絡を満足にすることも出来ないほどに戦い続けてきた結果だろう。
 はやてたちには一ヶ月ほどの訓練期間の後に現場へ回されると伝えていたが、それはあくまでもはやてたちに必要以上の心配を掛けないための措置に過ぎない。
 結果として短い任期となったのは、それだけ局が自身を有用に運用してくれた証でもある。
 人事に恵まれたと言えばそれまでなのだろうが、それでも想像していたよりは存外に居心地がよかったと思えるのは事実だった。

「ところで、局を辞めた後はどうするつもりなの?」

 好奇心を覗かせながらの言葉には幾分かの心配が含まれていた。
 そこに他意は無いことを理解しているからこそ、士郎は憚ることなく本音を口にする。

「……好きなように生きてみようと思っているんだ」

 存外本気で告げたその言葉に、レティは一瞬だけ驚いたような表情を浮かべてから優しい笑みを零していた。


 -Interlude-


 久しぶりに戻ってきた本局内の一室で彼女――リインフォースは、机を挟んで三人の男女と向かい合っていた。

「――そう。やっぱり、彼は局に残ってはくれないのね」

 苦笑を零しながら告げるのはリンディ・ハラオウンだ。
 執務室に構えられた机に備え付けられている椅子に腰掛けたまま呟いた彼女に同意するように頷く。
 衛宮士郎は管理局を去る――それは彼の性質や過去、そしてこれからの展望を知るリインフォースにとっては、至極当然の帰結に思えていた。

「地球に戻ってからは、また元通りの職場に勤めるのか?」

 問いかけは、リンディの隣に立つクロノ・ハラオウンからのものだった。
 リンディを挟んでクロノとは反対側に立つエイミィ・リミエッタも同意するように小さく頷いている。

「いや、そのつもりはないようだ。暫くはメルルの用事に付き合うと言っていた」

 端的に答えたその言葉に彼は納得の表情を浮かべた。
 "この世界"において、衛宮士郎を良く知る人物の筆頭とも言えるクロノだからこそ、リインフォースの言葉は正しく伝わったはずだ。

「リインフォースはどうするつもりなの?」
「もちろん着いていくつもりだ。それだけが、今の私に出来る唯一の事だから」

 エイミィからの問いかけに即答する。
 夜天の魔導書の管制人格であったかつての自身――。
 力を失い、けれど新たに得た力と契約から未完成のユニゾンデバイスとして新生した今の自分――。
 例えその自分が、かつてとは異なる存在と成り果てていようとも、変わらぬモノも確かに存在しているのだ。
 それは主である少女を想う心であり、そんな少女と共に歩む騎士たちや、彼女たちの中心に立つ男への想いに他ならない。

「彼を見守って欲しいという主の願いもある。それに……目を離すと、何処でどんな無茶をするのか気が気ではないからな」
「なるほど……確かに、そうかもしれないわね」

 苦笑しながら同意を示すリンディの視線を受け、僅かばかり気を引き締めていく。
 かつての自身が犯してきた罪――それが本意では無かったとしても、抗うことの出来なかった結果故だとしても、その罪は背負っていかなければならない。
 ――闇の書に関わる事で大切な人間を失った人がいる。
 その事実を改めて胸に刻みながら、これからを生きていく――。
 闇の書の暴走によって大切な存在を失った過去を持つリンディたちを眺めながら、リインフォースは改めてそんな決意を抱くのだった。


 -Interlude out-


 地球へ戻ってから一夜が明け、士郎は久しぶりとなる海鳴の街中を歩いていた。
 見上げる空は既に明るく、登り始めた太陽を横目に眺めたまま、潮の香りを辿るように進んでいく。
 そうして辿り着いた埠頭の先に見知った後ろ姿を認めて、士郎は僅かばかり笑みを零した。

「――珍しいな」

 小さな背に向けた言葉に彼女――高町なのはがゆっくりと振り返る。
 その顔に柔らかな笑みを浮かべた彼女は、そのまま士郎が隣へやってくる姿を静かに見守っていた。

「なんとなく……なんだけどね。ここに来たら、士郎くんに会えると思ったの」

 視線を真っ直ぐに士郎へと向けたまま、彼女は自信なさげにそう告げた。
 帰還した事は昨日の内に伝えてあり、士郎の事情を知る彼女を含めた知人全員には既に今後の予定を伝えている。
 全く会えなくなるわけではないが、それでも一つの区切りとなるだろう今日という日――。
 その日の始まりに、この世界で最も馴染み深い場所へとやってきたのは決して偶然ではなかった。

「そうだな。俺も、ここに来れば君と会えると思っていた」
「そっか……じゃあ、似たもの同士だね」

 違いない、と視線を交わしたまま互いに笑みを浮かべる。
 青年期を迎えようとする少年と幼い少女が顔を見合わせて笑いあう姿は、傍から見れば滑稽なものなのかもしれない。
 けれど、今更彼女を子供扱いできるほど士郎は彼女を知らないわけではないし、年上だからと遠慮するほどなのはも士郎を知らないわけではない。

「……ユーノから聞いたが、今後は本格的に魔導師としての道を目指すそうだな」
「うん。色々と考えたんだけど、やっぱり望んで……努力して手に入れた魔法だから。それをちゃんと受け入れて、私にしか出来ないことをやっていきたいんだ」

 年齢を考えれば早すぎるとも言える決断――けれど、彼女のそれが夢想とは遠い現実的な決意である事に疑いはない。
 恐らくは周囲から心配の声を向けられ、或いは反対もされたのかもしれない。
 それでも、こうして宣言してみせる程に彼女は自身の道を定めており、それを否定することは彼女以外の誰にも出来ないのだろう。

「はやてちゃんも、これからは少しずつ魔法に関わっていきたいって言ってた」
「……ああ、そうみたいだな」

 複雑な手続きを終え、与えられた義務と権利を返上した士郎が晴れて自由の身となったのはつい先日のことだ。
 局で過ごす際に使用していたデバイスは返却し、今後の生活に関しても現地滞在員による監視を条件に認められた。
 晴れて自由の身となった士郎と入れ違いになる形ではやてが局に関わり始めたのは偶然か必然か――。

「やっぱり心配?」
「しないほうがどうかしている。だが、はやての気持ちと決意も理解できるし、シグナムたちのこともあるからな」

 夜天の主としての責任を果たしていこうとしているはやての決意と覚悟は本物だ。
 それを誰よりも理解しているからこそ、個人的な心配とは裏腹に彼女を応援することしかできない。

「ジレンマ……なんだろうな。そんな感情を抱けるようになったのだと、改めて思い知らされたよ」

 相反する感情を認めた時、自身が今を生きているのだと強く実感する。
 かつて強い決意と想いを抱いて歩んでいた時には感じられなかったそれは、自身が新たな道を進み始めたことを否応なく自覚させてくれた。

「士郎くんは優しいから……だから、そんな風に思うのは不思議じゃないと思う」
「……優しいか?」
「うん、優しいよ。少なくとも、私が知っている士郎くんは出会った時からずっと優しかった」

 確信の込められた言葉に苦笑を零す。
 少なくとも――士郎は自身を優しいなどと思った事はないし、どちらかといえば冷酷な人間だと自覚している。
 なんであれ、士郎は幸福よりも意思を尊重する。ともすると、その先に不幸な結末が待っていると想像してさえ――。

「ずっと見守るだけが優しさじゃないと思うんだ。進んでいく道筋を整えてくれるのだって、ちゃんとした優しさだと思うから」

 先程よりもはっきりと告げられた言葉には確かな実感が込められていた。
 僅かな間だけ真っ直ぐに視線を交わし、やがて視線を逸らしたなのはが踵を返して歩いて行く。
 その背を眺めていると、ふいに足を止めた彼女はゆっくりと振り返った。

「今はまだ、隣に立てないけど……いつかちゃんと肩を並べられるようになりたい。だから――」

 まるで独り言のように呟かれる言葉に耳を傾ける。
 返事を求めているわけでもなく、同意を求めているわけでもない。
 ただ自身の胸の内にある決意を吐き出すように紡がれる言葉を、士郎は真っ直ぐに受け止める。

「――今までありがとう、士郎くん」

 万感を込めて紡がれた言葉を残して少女はその場を去っていく。
 そこには、かつてここで泣き叫んでいた少女の面影は無く、自身の夢と目標に向けて真っ直ぐに歩んでいこうとする力強さだけがあった。

「……ありがとう、なのは」

 過去から現在、そして未来へ――。
 自身の無力を嘆いていた少女は魔法という力と出会い、決意と覚悟を以て己の道を定める。
 強く気高く変わっていこうとしている少女の姿に、士郎は自身の耳にだけ響く小さくも確かな感謝の言葉を零すのだった。


 -Interlude-


 朝焼けの公園から出てくる人影を認めて、彼女――フェイト・テスタロッサはゆっくりと歩み寄っていく。
 しっかりとした足取りでやってきた少女――高町なのはの表情は晴れ晴れとしていて、そんな彼女の姿を視界に捉えたまま近づいていく。

「――もういいの?」

 尋ねる言葉はひとつだけ――その一言に、なのはは柔らかな笑みを浮かべて頷いた。

「うん……伝えたいことはちゃんと伝えてきたから。フェイトちゃんこそ、本当によかったの?」

 問い返されるその言葉に惑いなく頷いた。
 フェイトにとって、衛宮士郎という人は友人であり、目標であり、恩人でもある。
 彼に対して伝えたいことは幾らでもあるし、感謝の言葉など幾ら重ねても足りないだろう。
 けれど、それは口に出して伝えるのではなく、自身が歩んでいくこれからで応えていきたいと思うから――。

「いいんだ。もうこれっきり会えなくなるわけじゃないし、改めて宣言するのはちょっと照れくさいから……」
「そっか……」

 強がりにも似た言葉に静かな同意が返ってくる。
 自身の運命を変えてくれた少女……なのはの心の支柱として在り続けてくれた少年に確かな感謝と誓いを――。
 歩み始めたばかりの道――その途上には、きっとこれまでと同じような……いや、それ以上の困難が待ち受けているのだろう。
 それでも、いつかの自分に手を差し伸べてくれた士郎やなのはのように、誰かのためになれる自分で在りたいと思う。
 理想は遠く、目指す頂はまだ見えないけれど、其処へと至る道筋を見失うことはない。
 ――いつの日か、今の自分を思い返した時に胸を張って誇れるように。
 そんな決意を胸に抱いたまま、フェイトはこれからを共に進んでいく友と肩を並べて歩き出すのだった。


 -Interlude-


 春の陽気に包まれたアトリエの側――庭に拵えた椅子に腰掛けたまま視線を投げる。
 彼女――メルルリンス・レーデ・アールズの視界に映るのは、綺麗に咲き誇る桜色の花びらだった。

「――アリシアは元気に過ごしてるよ」

 言葉は簡潔に。桜の木の下で同じように椅子へと腰掛けているプレシアに告げる。
 彼女はその言葉に小さな笑みを零しながら、メルルを見据えたままで僅かに頭を下げていた。

「……いつもありがとう。まあ、私が礼を言うのは筋違いなんでしょうけどね」

 淡い笑みを刻みながら、どこか噛み締めるような言葉を口にする。
 そんなプレシアの言葉に返答を口にすることはせず、ただ"あちらの世界"で日常を送るアリシアを想う。
 決して小さくも軽くもない葛藤を抱きながら、それでも前を向いて生きているアリシア――プレシアもまた、様々な葛藤を抱いて日々を過ごしている筈だ。
 恐らくは、共に暮らしているもう一人の娘には悟らせないようにしているのだろう。
 だからこそ、そんな彼女が此処で僅かでも本音を出せているといい……と、素直にそう思えた。

「これからは士郎も一緒に向こうで?」
「うん、そのつもり。一応私とシロウはこまめにこっちへ戻るつもりだけど、向こうにいる時間のほうが長くなるかな?」

 多くの絆と関わりを得たこの世界――けれど、その積み重ねこそがアリシアやリインフォースを縛る鎖となる。
 アリシアにしてもリインフォースにしても、本来であれば既にこの世を去っていた存在だ。
 彼女たちが今を生きているという現実には、多分に自身の錬金術が関わっていることをメルルは自覚していた。
 ――彼女たちが自身の在り方や歩む道を見つけられるようになるまで見守ってあげたい。
 だからこその結論であり、それによって少なからず寂しさを感じる人間が増えてしまうのは仕方がないことなのだろう。
 向こうではエヴァと白野もアリシアと共に過ごしており、つい先日から新たに同居を始めた少女とも上手く過ごせているらしい。
 今日からはそこに自分たちも加わることが決まっており、通っている学園が春休みに入ったというアリシアからは花見の準備をして待っていると連絡が届いている。

「向こうは向こうで色々と大変そうだものね。私で力になれることがあれば、いつでも声をかけてちょうだい」

 笑みを深めて告げられた言葉には首肯を――。
 そうして幾許かの時間を過ごした後、プレシアは唐突に立ち上がってからメルルへと視線を固定した。

「さて――いつまでもお客様を待たせるのも失礼だし、私はこれで失礼するわね」

 僅かに場の空気が変わった事を感じながら、メルルは真っ直ぐにプレシアへと視線を返した。

「気を遣わせちゃってごめんね」
「士郎にもよろしく伝えておいてちょうだい。じゃあ、また――」

 気軽い調子で告げて去っていくプレシアの背中を眺める。
 そうして、その姿が見えなくなったと同時――アトリエの中にやって来ていた"彼女"が扉を開いて外へ出てきた。

「――やっぱり気づかれてたか」

 耳に届いた声は明るく、まるで小さな悪戯が失敗したことを楽しんでさえいるように思える。
 振り返って見れば、彼女――遠坂凛は柔らかな笑みを浮かべたまま、先程までプレシアが腰掛けていた椅子へ腰を下ろした。

「隠すつもりもなかったんでしょ? それで、今日はまた随分と突然だけど……なにかあったの?」
「別に大した用事じゃないわ。ただ、貴女が用意した"ゲート"を見に来ただけよ」

 その返答は予想していた通りのものだった。
 異なる世界と世界を繋げる扉――限定された場と場を繋ぐだけのものだが、それは確かに世界の壁を貫くものだ。
 凛は何も語らなかったが、並行世界の運用を行うという魔法使いである彼女が、世界と世界を繋ぐ術を持つ自身をそれとなく監視している事は知っている。
 黙して語らず――けれど、何かがあれば手を出せるように。
 それを凛なりの心遣いだと受け取っていたメルルは、だからこそ彼女がここへやってくることを確信していた。

「そう……それで、感想は?」
「流石は……ってところかしらね。でもまだ完璧ってわけじゃないかな?」

 現時点ではまだ問題があると――そう告げられ、メルルは先日まで抱えていた問題点を思い返して苦笑する。

「もう少し研究と実践を重ねてみないと難しいみたい。まあ時間は沢山あるし、気長にやっていくつもりだよ」
「それがいいわね。これからは向こうで過ごすつもりなんでしょ?」
「うん」

 アリシアと共に過ごしていくこれからを想って即答する。
 とはいえ、こちらで過ごすはやてたちのこともあるため、常に――というわけではない。
 アリシアとはやて……そのどちらもが大切な人であり、どちらも軽んずることはできないのだから――。
 
「アイツも一緒に?」
「そうだけど……どうかしたの?」
「いい傾向だなって思っただけよ。ずっと変わらなかったアイツが、少しでも前に進んでくれて一安心してるだけ」

 囁くような言葉からは、隠しきれない好意が溢れている。
 それを隠すつもりがないのは、こうして話している相手が当の本人では無くメルルだからなのだろうが――。

「素直に心配だって本人に言えばいいのに」
「柄じゃないし、今更よ。だから、貴女がアイツの側にいてくれてよかったと思ってる」

 軽やかな言葉が風に乗って届けられる。
 篭められた想いや願い――それが心地よく感じられるのは、凛から向けられている感情が純粋な感謝だからだろう。

「それは私が勝手なだけだよ。シロウのためじゃなくて、私がそうしたいからそうしてるだけ……ただの我儘だよ」
「いいじゃない。少なくとも、アイツはそれを嫌がっていないと思うわよ」
「そうかな……そうだと嬉しいんだけど」

 誰のどんな事情を知ろうとも変わることの無い想い――。
 それはきっと、どこまでも独善的で利己的な感情に違いなく、そんなモノを抱いている自身を浅ましくも思う。
 けれど、そうだと頭で理解してさえ抑えられない想いを"抱けている"ということが嬉しく感じられるのも事実だった。

「初々しいわね。千年近く生きているとは思えないくらい」
「褒め言葉として受け取っておくね」
「そうしてちょうだい。じゃ、そろそろ私も行くわね」

 冗談めかした会話を終えて立ち上がった凛は、満足したといったように頷いた。
 色々と忙しいらしい彼女にとっては、ここでの時間は息抜きになっているのかもしれない。
 ――彼女の過去を知り、彼女の今を知っている。
 今も昔も変わらず友人で在り続けて、これから先も友人で在り続けたい。
 だからこそ、彼女との再会と別れはいつだって軽やかで唐突に――。

「そういえば、シロウには会っていかないの?」
「今はまだいいわ。それに、きっと近いうちに会いに行くことになると思うから」

 どこか確信の篭った言葉を笑みと共に口にしてから、彼女は今度こそメルルに対して背を向けた。

「じゃあね」
「うん」

 告げると同時に吹き荒れる一陣の風――。
 思わず目を閉じたその一瞬の内に、凛は桜吹雪と共に姿を消していた。


 -Interlude out-


 アトリエの存在する空間へと足を踏み入れる。
 途端に鼻を擽る桜の香り――辺りには、どこまでも咲き誇る桜の木々が立ち並んでいた。

「――それにしても、本当によかったのですか?」

 問いかけはすぐ隣から――。
 風に揺れる銀の髪を片手で押さえながら、リインフォースは心配そうに尋ねてきた。
 
「はやてのことが心配か?」
「はい。会えなくなるわけではないとわかっていても、離れて暮らすことを寂しがっていましたから」

 家を完全に出て行くわけではないが、これからは麻帆良と海鳴を往復する日々が始まる。
 こちらでは日常を送ることが難しいアリシアと、今後も管理局と関わっていくことになるはやての二人――どちらも大切だからだ。
 だが、それがこれまで以上に顔を合わせる時間が減ることに繋がるのは当然で、それを寂しく感じるのは自身も同じだった。

「だが、はやてが決めた道に俺という"保護者"はいつか邪魔になる時が来る。独り立ちする準備だと思えば丁度良い機会だろう?」
「それは"どちらも"……ということですか?」

 間髪を入れずに問い返された言葉には確信があった。
 自身の深い部分も察せられているという事実は驚きに値するが、相手がリインフォースであると考えれば然程不思議な事では無かったと思い至る。

「……君には隠し事が出来ないな」
「これでも、貴方と契約関係にある身です。主はやてと同じ位には貴方を大切に想っているつもりですから」

 かつて闇の書の管制人格として存在していた彼女は、蒐集に際して衛宮士郎の記憶と想い、その過去を知っている。
 そして今――こうして共に歩いている彼女は確かにメルルが用意した"身体"を使ってはいるが、その実体は試験運用中のユニゾンデバイスに他ならない。
 士郎が保有するリンカーコアを核としているためか、夜天の書の管制融合騎であった頃とは比べるまでも無く落ち込んだ魔力と失われた魔法――。
 それでも、彼女は確かに彼女として現世に残ることが出来ており、はやてや騎士たちもそれを喜んでいる。
 そのような事情から、現時点でリインフォースと直接的な繋がりを持つのは士郎だけだ。
 故に、はやてはリインフォースに士郎の側へいることを望み、それを了承したリインフォースはこうして士郎と共に過ごしている。
 とはいえ、そうしたやり取りがあったからこそ、はやての成長を確かに実感すると同時に自身がこれまで置き去りにしてきた問題とも向き合わなければならなくなったのだが――。
 
「……きっと、俺は変わっていくことが怖かったんだろうな。明日へと進みながら、過去を想い続けて――大切な誓いが色褪せてしまうことに怯えていた」

 真摯に自身を想ってくれているリインフォースに、これまで口にした事の無い想いを零していく。
 死の丘に辿り着くまで自分自身でさえ自覚していなかったことではあるが、一度死を迎えて新たな生を得たからこそ気付くことができたのだろう。

「こうして今を生きている……それを受け入れて、変わっていくべきなんだろう。頭ではわかっているつもりだが、こればかりは自分でもどうしようもなくてな」

 過去を想い出として、未来へと進んでいく。
 それは人が人として生きていく上では当然のことで、変化していく日々を過ごしていくからこそ生きていると実感できる。
 かつて、それに最後の最後まで抗い続けたのは、変化の果てに訪れるであろう忘却を何よりも忌避していたからに他ならない。

「焦る必要はないと思います。少なくとも、私たちはいつも貴方と共にいますから」

 かつてとは違うだろう……と、リインフォースは柔らかな笑みを浮かべて応えた。
 その言葉と実感が何よりも嬉しく感じられて、二人並んで立ち止まってから木々を見上げる。
 風に乗って舞い散る桜の花びらを眺めていると、リインフォースは僅かに息を吐いてから静かに歩き始めた。

「……私は先にメルルの元へ行っていますね」

 それだけを言い残して、リインフォースは一人で先へと歩き去っていった。
 そんな彼女の心配りに内心で感謝を告げながら、一人静かに桜の木を眺め続ける。
 あの日――再会と別れの日に交わした会話を、今もはっきりと覚えていた。
 伝えあった想いと、最後まで語り合うことのできなかった会話――その先に続いたであろう言葉に、今はこんなにも簡単に思い至ることができる。

「――ああ、そうだな」

 死を迎えようとしていた衛宮士郎を救ってくれた人たちがいた。
 彼女たちの誰が欠けても今の自分は存在していないのだと自覚する度に、今という瞬間を愛しく感じられるようになっていく。

 ――だから、先輩も……どうか……幸せになってください。
  
 脳裏に木霊するのは、あの日には耳にすることが出来なかった桜の言葉――。
 それが理解出来たことが何よりも嬉しくて、抗いようのない寂しさを齎してくれた。
 同時に、今更になって辿り着けた答えを脳裏に思い浮かべて苦笑する。
 頭では理解出来ていようと、それが実践できるかどうかは別問題だ。それでも、最愛の人が自身に望んでくれていた願いを理解できたことが嬉しくて仕方が無い。
 ――振り返って見れば、これまで決して短くない時間を生きてきた。
 出会いと別れを繰り返し、大切に想える者たちと共に歩める今という時間がどれだけ貴重であるのかは語るまでも無い。

「……ようやく、あの日のお前に追いつけた」

 見上げた先には風に吹かれて舞う桜吹雪――。
 いつか見た光景と同じようで、けれど違う景色を眺めながら、過去と現在を想う。
 生きていくということが変わっていくことだというのなら、いつかは自身の過去も風化していくのだろう。
 ――それでも、胸に抱き続けたこの光景を忘れずに生きていきたい。
 桜の花が舞い散る中、そんな決意を胸に抱いたままゆっくりと歩を進めていく。
 今は遠い最愛の人への感謝と、今を共に生きる大切な人たちへの想い――かつてと同じ景色の下で、かつてとは異なる誓いを胸にこれからの未来を歩んでいこう。
 



 
 

 
後書き
長々と時間を掛けてしまいましたが、どうにか一区切り出来たかと思います。
どうにか完結まで描くことが出来て嬉しく思います。
色々な反省点も見えてきたので、これからもまったりマイペースで頑張っていきたいと思います。
続編や次回作については落ち着いてから投稿できればと思っています。
読んで下さった方には心からの感謝を。それではまた。