小波秀雄(こなみ・ひでお) 京都女子大学名誉教授
1951年生まれ。東北大学理学部大学院修了(理学博士)。専門は物理化学、情報学、統計学。著書に『人間と社会を理解するための統計学』など。
きわめてわかりにくく不可解だった国の対応
話を社会状況に転じる。今年の始めから日本でも流行が始まった未知の病原体に、人々はパニックに陥った。お決まりの生活必需品の買い占めと並行して、ドラッグストアの殺菌・消毒剤の棚は空っぽになり、中でも手指消毒に使えるエタノールは完全な供給不足に陥った。頼りのアルコール消毒剤が払底する中、スーパーやドラッグストアの店頭にはさまざまな「抗菌」や「除菌」をうたう製品が登場して、「ウイルス」とラベルにあるだけで売り切れてしまう。その中でひときわ大きく伸びてきたのが次亜塩素酸水である。
街中の飲食店に次亜塩素酸水のスプレーが出回りはじめた。ポリタンクの製品もあちこちで見られるようになり、個人的に私に検討を依頼してきた缶や噴霧装置の類が部屋の片隅を占領することになった。ネットにも多数の広告があふれかえる。製造元の数は驚くほど多く、ふだんはプロパンガスを扱っている地元の燃料店が製造したものもあった。どうしてこのように雨後の筍のような状況が現れたのだろうか。
実は、次亜塩素酸系の消毒剤を作るのは簡単なのである。いくつかやり方はあるが、水に食塩または塩酸を溶かして炭素棒などを電極にして電気分解すると、陽極側に次亜塩素酸のイオンが生成するので、液を外に取り出せばよい。溶かしたのが食塩なら次亜塩素酸ナトリウムの溶液が、塩酸なら次亜塩素酸の溶液である次亜塩素酸水が得られる。食塩水の電気分解であれば陰極側には強いアルカリ性の「アルカリ電解水」も同時に得られて、これも消毒に用いることができる。原価は安く、簡単な装置で作れるとあれば、紛れもなく大きな商機である。かくして、日本中に次亜塩素酸水があふれかえることになった。
業者が次亜塩素酸水を自治体や学校に寄付する行為も膨大な数に上った。善意の寄付として広報や新聞記事で紹介されれば、 広告としては安いものである。役所が配布しているとなれば、無条件に信用してしまう人は多い。疑似科学においてもしばしば見られることだが、脇の甘さから意図せずして宣伝に利用されることは、公的機関として十分に心すべきことである。
なお、誤解してはいけないのだが、一般的な衛生管理においては、次亜塩素酸水の用途はかなり広い。作業場で大量に作ってかけ流しで使えることは、食品工場や厨房、医療機関その他での使用に適しているし、使用後には無害な無機物にまで分解されて、環境汚染の可能性が低いことも大きな利点である。
一連の流れを見ていた私は、「次亜塩素酸水のミスト噴霧は危険だ」と題したブログ記事を4月公開した。 相前後して、自然科学研究機構の小泉周特任教授(脳神経科学)や米国国立衛生研究所(NIH)の峰宗太郎医師など、専門家を含む人々がブログに注意喚起の記事を掲載し、毎日新聞やバズフィード・ニュース、テレビ朝日などのメディアによる検証も行われた。 経産省や厚労省のニュースリリースは、不十分とはいえ、その動きを支えるものであったと言えよう。
しかし、業界の中には次亜塩素酸水の噴霧の正当性を主張する動きが依然としてあり、札幌にオフィスをもつ一般社団法人・次亜塩素酸水溶液普及促進会議という組織が6月29日に設立された。ウェブサイトによると、メーカーと販売会社130社が立ち上がって結成したということであるが、利害関係者の集団として公正な科学的議論は可能なのだろうか。現在この団体は、国の見解やメディアの報道に対しても異議を唱えるなどの活動を行っている。「(次亜塩素酸水が使えなくなったために)現実に児童や住民に感染の危険が迫り犠牲者が出ているのです。」などとも彼らは主張しているのだが、事実としてそのことを示すことはできるのだろうか。
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