人にひどいことをさせてしまった話

 そういえば私は、ひとにひどいことを頼んだことがある。もちろん私はいまさら善人を気取ってもしかたのない卑劣な男であることは認めざるを得ない。だからそのようなことはそのときがはじめてというわけではなかったし、ほかにも色々な人々にひどい頼み事ばかりをお願いしてきたものである。

 だが、あのときにはことは少しほかとは趣を異にしていた。私はあのとき、「お金は私が負担するから、弁護士事務所に行って被害者として法的手続きを取ってほしい」と頼みこんだのだった。私は、相手を利用したのだと思う。しかもそれは極めて汚い打算によって巧妙に計画された復讐だったのだ。

 私はもともとこういう人間であるから、当然のようにいろいろなところで、さまざまな罵詈雑言を浴びせられて来たしそうなってもしかたのないことをしてきた。だから私は誹謗中傷を受けたとしても弁護士に訴えるぞ、などという資格がなかった。だが、私はある人と親しくなった。そしてそのことである人も誹謗中傷を受けるようになった。そしてそのある人は、実はどこをどう洗っても誹謗中傷を受ける言われがないことが立証できることが確実だった。その人が被害者として法的手続きを取った場合、まったく無実の人間が、言われもない名誉棄損を受けているという事があまりにも簡単に明らかになるだろう。私は”これはあなたを守るためなんだ”と言った。しかし本当は、相手を自分の復讐のために利用したのだった。

 法的手続きには時間がかかったが、やはり弁護士は味方してくれたそうである。これは確実に勝てる裁判です、成功すれば賠償金の何割かを成功報酬として頂きますという話になったそうである。

 私ははじめから相手に目星をつけていた。だからその目星が当たっていることを確認して、復讐したかった。

 その後、色々な手続きがあったそうだ。進め方について、口論になったり、私は冷静さを失っていった。”これはあなたを守るためなんだ”という言葉のメッキは、手続きが進めば進むほど剥げ落ちていった。そうしていろいろなことがあった。ようやく、相手の正体が分かったのだった。それは私がはじめから想定していた因縁の相手などでは、まったくなかった。聞いたこともない、まったく見知らぬ人物だった。

 するとふと、全身の力がすっかり抜けてしまった。因縁の相手との宿命の対決を予期して着々と進んできたかに見えたのに、でてきたのは拍子抜けするほど、何の因縁もない全くの赤の他人だった。そんな人間を相手にするために、私たちは口論したり、たくさんの苦労を相手に頼んだり、大きな額のお金を使ってしまった。ばからしくなった。すべてがどうでもよくなった。そしてあの日を境に、すべては変わっていってしまったように思う。それはそうだ。私は自分がどれほど信用ならない男なのか、いかに自分の目的のために他人を騙して操ろうとする人間なのか、きっとすっかり分かって愛想をつかされたろうと思った。

 それからすべてが崩壊していった。あれよあれよという間に時間が過ぎ、社会はマスクとウィルスに覆われて、人と人との絆の時代が終わりをつげ、ソーシャルディスタンスの新しい時代がやってきてしまった。私は、これらすべてのことを悔やんでいる。何もかも、こうなるまえに気が付くべきであった。いまとなってはもう、取り返しがつかなくなってしまった。