31話 一方的に何か出来るほど世の中は甘くない
「ぎゃあああああああ!」
『我が言うのもなんだが、もう少し可愛らしい悲鳴を上げられぬものか?』
知千佳が喉が裂けるような大声で叫んでいた。
ホテルの二階。人形遣いチェルシーの尋問を終え、そのまま非常階段を下りているところだった。
「ああ、ゴキ――」
「言わないで! なんかその単語で脳内が埋め尽くされる気がしてくるから!」
夜霧の言葉を慌てて知千佳が遮った。
非常階段の側面にある壁。そこにはゴキブリを中心に、大量の虫がへばりついていた。
それらはぴくりとも動かずに壁面に留まり続けている。
「虫とか小動物も支配下に置いてるってことだから、俺たちを監視しにきたんだろうな」
昆虫がどこを見ているかなどわかったものではないが、夜霧はなんとなく視線を感じていた。
「なんとかなんないの!」
「そうだな。こいつらを全滅させるぐらいなら――」
「殺っちゃって! 今こそ高遠くんの力を正しいことに役立てる時!」
知千佳は食い気味に即答した。
「殺すのはいいけど、多分壁からぽろぽろと剥がれ落ちて、階段の上に転がることになると思うけど?」
何でも殺せはするが死体は残るし、それが邪魔になることもあるだろう。踏みつけて歩くぐらい構わないと夜霧は思っているが、知千佳はそうではないようだった。
「事態が悪化するビジョンしか見えない! それ却下で!」
「けど、このままだと、飛びかかってきたりしないかな? こいつらでも、人間を殺すぐらいは可能だと思うけど」
「いやいやいや、ジョージたちは気色悪いけど、さすがに人が殺せるとかってことはないんじゃないの!?」
「ジョージって、こいつらのこと? こんだけいれば殺せるんじゃないかな。例えば大量に口から入ってきたら窒息するだろうし、内部に侵入して内臓を食い荒らすとか」
「……橘裕樹……お前は完全に私を怒らせた!」
具体的に想像してしまったのか、知千佳はおかしなテンションになっていた。
「今の所は様子見って感じだからこのままここを出よう」
「もし飛びかかってきたら?」
「殺すけど……死体はそのままこっちに飛んでくるね」
「そうなったら私、わけわかんなくなるかもしれないけど後はよろしくね」
慎重に階段を下りていく。虫たちの触覚が夜霧たちの動きに追随しているようなので、やはり観察しているのだろう。今の所攻撃をしかけてくる様子はなかった。
「橘裕樹を殺そう」
夜霧がふと思い付いたように言った。
今の状況と、聞いた話をまとめて考えるとそういう結論になる。
「あー、そうね。今なら止めないけどね」
知千佳が苛ついた様子で言うのが意外だったが、虫を送り込んで来たことが余程腹立たしいのだろう。
「
人形遣いから支配者の能力についておおよそのことは聞いていた。
配下は加速度的に増えていくし、その全てをコントロールできるという。おまけに裕樹自身は奴隷の持つエネルギーをかすめ取ることも、そのスキルを借り受けることも出来るらしい。
夜霧たちに対してだけではなく、この世界の人間にとっても橘裕樹という少年は最悪の存在だ。このまま放っておけば世界の大部分が裕樹の支配下となってしまうだろう。
この世界の住人を積極的に守るつもりはないが、殺すなら早いほうがいい。後になればなるほどその影響力は増大していくからだ。
「橘くんは街の外で私がくるのを待ってるんでしょ? そっちに行くってこと?」
「俺の考えてる通りなら、そんなに手間はかからないと思う」
一階と二階の間にある踊り場に辿り着いたところで、変化が訪れた。
昆虫たちがざわめきはじめたのだ。
「なんかすごい嫌な予感がするんだけど!」
殺意。昆虫たちのそれが夜霧には見えた。
回避しようがないほどの黒く細い線が無数に突き刺さってくる。
それらは一つの意思に統一されているのか、一斉に飛びかかるタイミングを推し量っているようだった。
「殺す気満々で虎視眈々と狙ってるって感じか」
「やっぱりね! いや、もう、踏みつけるのは仕方が無いとしてさっさとやっちゃってくれないかな! これにたかられるとか死ねる自信があるんだけど!」
「ま、俺もたかられるのは嫌だけど」
力を使うことに迷いはなかった。
現時点での危険はさほどないが、これから先も付け狙われ続けるとすれば延々と周囲に気を配り続ける必要がある。殺意を感知できるとはいえそれはさすがに面倒だ。
それに、裕樹の支配が進めば自由に行動出来る範囲が狭まっていく。そうなれば今までのようにのんびりと元の世界に帰る方法を探すだとか、クラスメイトと合流するなどと言っていられなくなるだろう。
「死ね」
夜霧は力を放った。
だが、虫たちにはなんの変化も見られない。
「ここにきて、まさかの不発!?」
頼みの綱の夜霧が役に立たない。そう思ったのか知千佳はあからさまに動揺していた。
「不発の可能性はあるかもしれないけど、これまでのところ俺の力が通用しなかったことはないよ」
「だったら!」
「ちょうどよかったから、橘を殺した」
「はい?」
まさかここにいない裕樹の名前が出てくるとは思わなかったのだろう。知千佳は固まった。
夜霧は、殺意の大元である裕樹に対して力を放ったのだ。
たとえばどこかの誰かが夜霧に対して殺意を持ったとしよう。それだけでは夜霧の力はその誰かには届かない。
それはその誰かが、配下の者に指示を出しただけの場合も同様だ。配下の者がやってきて夜霧を殺そうとしたところで、夜霧の力が及ぶのは、やってきた実行犯のみということになる。
だが、
なので裕樹の殺意は配下を通して夜霧にまで届く。そして夜霧はそれを逆に辿ることができた。
「橘が虫を操って俺を殺そうとしたから、返り討ちにしたんだけど」
「相手がどこにいるのかわかんなくても通用すんの、その力!?」
「向こうの手が届くってことは、こっちの手も届くってことだよ。一方的に何か出来るほど世の中は甘くない」
「なんか世の中って高遠くんにだけ、激甘な気がするんだけど!?」
「そうかな、日本では結構厳しかった気がするんだけど、世の中」
「それは今どうでもいいとして、こいつら急にアクティブになってるんですが!」
壁に張り付いている虫たちが乱雑に動き始めていた。もう殺意は感じないので、それらの行動は夜霧たちを狙ってのものではないのだろう。
「橘が死んで、支配から解き放たれたってことかな」
懸念事項の一つがこれで解消された。橘が死んでもそのまま命令を実行しようとする可能性を夜霧は考えていたが、どうやら能力者の死亡で命令は無効になるようだ。
「いやいやいや、それまずいって!」
上ずった声で知千佳が叫ぶ。
虫がそこらを飛び回り始めていた。支配されていようとなかろうと、その存在自体が知千佳にとっては気持ち悪いのだろう。
「走ろう」
「殺さないの!?」
「まあ、不愉快ってぐらいで生き物を殺すのはよくないんじゃないかな?」
「この場面でそんな正論は言ってもらいたくなかった!?」
夜霧たちは階段を駆け下りる。出口はすぐそこだった。
*****
非常口から出るとそこはホテルの裏側だった。建物の合間なので少々薄暗いが、日暮れまでにはまだ時間はある。
知千佳がすぐさま扉をしめた。
どうにか虫に襲撃されるのは免れた。もっとも、虫もわざわざ人を襲うことはないはずなので、慌てて逃げ出す必要はそれほどなかったのかもしれない。
「あ、もう逃げる必要ってないんじゃないの?」
冷静になってきたのか知千佳がそんなことを言い出した。
「橘が死んだから? けど、人間の部下が仇討ちにくるって可能性はあるかもね」
何にしろ逃げた方がいいだろうと夜霧は判断した。
もしかしたら、支配とは関係なく裕樹を慕っていたものがいるかもしれない。少なくともこのホテルを使い続けるのは色々と面倒そうだった。
「じゃ、やっぱり逃げる?」
「もう王都に向かったほうがいいかな」
その方が後腐れがない。二人はそう決断した。
さっそく駅に向かおうと、夜霧たちは大通りに出た。
そこにはまだ装甲車が通り過ぎた爪痕が色濃く残っている。
潰れた馬車がそこかしこでひっくり返っており、そこには誰かが取り残されているのだろう。救助活動が行われているようだった。
「てか、なんだったんだろうね。大きなトラックみたいなのが、通行人とか馬車とかをはね飛ばしてたんだけど」
『うむ。あまり関わらん方がよいだろうな。さっさと逃げ出したほうがよかろう』
すぐにその場を離れようとした二人だが、そこに突然声が聞こえてきた。
『あー、聞こえてるかー? 街のやつらー。俺はマサユキ。賢者レインの従者で、不死機団の団長だ。早速だが人捜しをしてるんで協力してもらいてぇ』
少しひび割れて聞こえるその声は、公共放送のようだった。
『捜してるのは高遠夜霧って男と、壇ノ浦知千佳って女だ。どっちも十七歳ぐらいのガキで黒髪黒目の日本人。中央の広場に連れてきてくれ。生死は問わねぇ。つっても、誰がこんな命令聞くかってもんだよな? そこでだ、不死機団の団員を街に放った。こいつらは一定間隔で無差別に人を襲う。つまり被害を抑えたいならさっさとこの二人を見つけて連れてこいやってことだな』
「って、なにむちゃくちゃなこと言ってんの!? こいつ!」
「確かに頭がおかしいとしか思えないな」
信じがたい内容の放送に知千佳が憤った。
『で、これだけだと街から逃げれば済むって話になっちまうからそれは封じさせてもらった。賢者の結界をいじくって何者も通さないようにしたってわけだ。いじくりついでに、結界の中で死ぬとアンデッド化するように仕込んでおいた。不死機団は随時団員を募集中でよー。老若男女は問わず歓迎するぜぇ?』
「うまい手……ってこともないけど、いずれこの街はアンデッドだらけになるから目的を達成できるってことか。でも、それには一つ問題があるような」
この街に夜霧たちが確実にいるならそれは有効な手法だろう。しかし、なんの確証もなしにこんなことをするなら、それは狂気の沙汰でしかない。
『つーわけで頑張れや、お前ら』
ぷつん、と音がして唐突に放送が途切れた。
「えーと、どうすれば?」
途方にくれた様子で知千佳が夜霧を見つめる。
「逃げるしかないんじゃない?」
少なくとも大通りで衆目に姿をさらしている場合ではないだろう。
とりあえず建物の間に身を隠そうとしたところで、壊れた馬車が突如として宙を舞った。
あまりに唐突なできごとに二人が呆然としていると、落ちてきた馬車が派手な音を立ててぐしゃりと潰れる。
馬車のあった場所には歪な人影があった。
頭部が潰れた、どう見ても死んでいるとしか思えない人間が、不自然な姿勢で立っている。
下敷きになっていたそれが、馬車をはね飛ばしたのだろう。
そんなことが各所で立て続けに起こり、あたりは大騒ぎになっていた。
「異世界ファンタジー的ななにかだと思ってたら、ゾンビパニック化したんだけど!」
要救助者だったはずの者たちが、救助者たちに襲いかかりはじめていた。