来年度から中学校で使われる教科書の採択期間が8月末で終了した。歴史と公民では、日本の歴史への愛情をはぐくむことなどを目的とした育鵬(いくほう)社版を使っている全国23市町村のうち半数以上の14市町村が、他社版に切り替える結果となった。背景には育鵬社版反対派による電話やファクスを使った組織的な不採択運動に加え、批判を恐れる首長や教育長らの「事なかれ主義」などが指摘されており、採択の中立性や公正性が脅かされる事態に陥っている。

■「大半の働きかけは反対派」

 「この数日、携帯電話が頻繁に鳴り響き、非通知の連絡もきた。自宅に封書なども届いた。責任ある判断をする上で、冷静な判断ができる環境を維持したい」

 全国最大の採択区である横浜市で8月4日に開かれた市教育委員会定例会。使用する教科書を決める採決を前に教育委員の一人が外部から激しい働きかけを受けている状況を訴え、無記名による投票を求めた。

 教科書採択に詳しい同市議会関係者は「今回の採択で育鵬社版の推進派は積極的に活動しておらず、少なくとも大半の働きかけは反対派によるものだったのではないか」と推測する。

 実際、採択前日までに横浜市教委に寄せられた採択関連の意見のうち、ほぼ全てが育鵬社版の不採択を求める内容だったという。

 文部科学省は今年3月、採択が外部からの働きかけに左右されることなく、静謐(せいひつ)な環境で行われるよう求める通知を全国に出した。

 だが横浜に限らず、各地の反対派がウェブサイトで育鵬社版に「戦争賛美」などと事実無根のレッテルを貼り、ひな型となる文面を掲載した上で、教委事務局に電話やファクスで不採択を求めるよう呼びかけた。教育委員の名前を並べ、個人宛てに手紙などを出すよう促すサイトもみられた。

 最後まで委員間で育鵬社版と他社版を推す声が拮抗(きっこう)していた名古屋市。藤沢忠将市議(自民)によると、協議で教育委員の一人が育鵬社版を指し、「反対意見が多い教科書を選ばなくてもいいのでは」との趣旨の発言をした。反対派の「大きな声」が判断に影響していることをうかがわせた。

■日教組が発言力

 教育委員会は教科書採択を含め教育行政の重要事項や基本方針を決める。教委事務局を統括する教育長と原則4人の委員(都道府県や政令市は増員可)で構成され、いずれも首長が議会の同意を得て任命する。ただ教育長以外は非常勤で、定例会は月1〜2回のみ。行政や教育の関係者は「委員は名誉職のようになっている」と口をそろえる。

 結果として教科書採択でも、依然として最大の教職員組合である日本教職員組合(日教組)が大きな発言力を持つ「現場」の意向を追認する傾向が強くなる。

 過去に関西で教育委員を務めた男性は、文科省の検定を通った教科書を「現場」が公然と非難する現状を憤り、「教育委員は政治家ではない。反対派の運動を見て怖くなることもあるだろうし、多くは批判される恐れのある判断は避ける」。

 東京都武蔵村山市で教育長を務めたのをはじめ、4自治体の教委を歴任した武蔵野大の持田浩志客員教授によると、教育委員候補を選ぶ首長も、他の委員をリードする教育長も、同様に無難な判断をしやすいと証言する。反対派による議会質疑や要望活動など、多くの煩雑な対応に追われることを避けるためだ。

 今回のような状況が起こった要因を「一言で言うと推進派の熱が冷めてしまった」と分析。第1次安倍政権の平成18年に成立した改正教育基本法で、教育の目標に「我(わ)が国と郷土を愛する態度を養う」の文言が加わり、それが後に学習指導要領に反映されたことで危機感が薄れたという。一部の政党やメディアを含む反対派が地道に不採択運動を続けたのとは対照的に、推進派は関心を向け続けられなかった−との指摘だ。

 反対派は教育委員の中立性、公正性を叫び、「教員が使いやすい教科書を選ぶべきだ」と訴える。一方、前出の元教育委員は「現実には反対派が中立性、公正性を阻害している。民意で選ばれた首長と議会を通して任命された教育委員よりも、現場の意向が過剰に重視されるゆがんだ形の採択になっている」と主張している。