名前 | 日髙 大介 ひだか だいすけ |
出身地 | 宮崎県宮崎市生まれ 静岡県浜松市育ち |
生年月日 | 1977年10月28日 |
主な担当番組 | – 高校生クイズ – クイズ!ヘキサゴンⅡ – クイズプレゼンバラエティー Qさま!! – 超逆境クイズバトル!!99人の壁 |
Q:今まで自分が通した中でベストな企画は?
クイズ作家なので「企画書を書いて通す」という経験はありませんが・・・
クイズでは『ヘキサゴンⅡ』の「ヒントクイズ」、
クイズ以外ではドラマ『戦力外捜査官』で鴻上尚史さんと一緒にプロットを
考えて実現したのが思い出深いです。
Q:仕事を始めてから1番衝撃を受けた放送作家は?
1番は分かりませんが、「最初に」という意味では北本かつらさん。
「この人か!」「こんな人なのか!」と思いました(笑)
Q:仕事を始めてから1番衝撃を受けたディレクターは?
『アメリカ横断ウルトラクイズ』の演出を手掛けられた加藤就一さん。
お仕事はご一緒したことが無いのですが、この仕事を始めて業界を知って、
改めて「ウルトラクイズ」の凄さを実感しました。
深田 過去のクイズ問題やクイズ企画への考察に関しては、どこかで「クイズ作家座談会」をやって、「あなたが思う最高の1問は?」とか「あなたが思う最高のクイズ番組は?」みたいな特集をやりたいんですよ。例えば日髙さん、矢野さん、水野さんの3人で座談会をやらせていただくとか。この辺はその時にお聞きしてもいいですか?
日髙 分かりました。楽しみです。
深田 ちなみに日髙さんが「ヘキサゴン」に入られたのは何歳の時ですか?
日髙 28歳(2006年)の時ですね。僕にとっては、まさしく「ヘキサゴン」が人生の転機でした。実はその年の3月まで、「塾講師」と「家庭教師」と「クイズ作家」の3足のわらじで仕事をしていたんですけど、「クイズ1本に絞ろう」と決意した年だったんです。ただ、クイズ1本に絞ったと同時に、仕事が一気に無くなってしまって…。お金も、残高が数十円レベルまで無くなってしまい、駐輪場で50円玉を拾って、「これで明後日までは食いつなげる!」といった状態。もう28歳なのに(笑)それで日払い・週払いの派遣バイトを24時間レベルで死ぬほどやっていたんですね。ある日、テレアポのバイトをしている最中、PHSに電話がかかってきて。当時、数少ない知り合いのディレクターさんから、「ヘキサゴンっていう番組があるんだけどやってみる?」って言われて。即答で「やります!」って答えて。
深田 それは嬉しい瞬間ですね。
日髙 その時に「生き延びた~!」って思ったのを鮮明に覚えていますね。その電話で「明日までに300問作って」って言われたんですけど、普段からヘキサゴンの問題も自分なりに分析していて、「僕だったらこういう問題を作るな」ってシミュレーションしていたので、バイトが終わって家に帰って深夜1時から取り掛かりましたけど、4~5時間くらいで300問作れたんです。で、それを提出したら翌日に電話がかかってきて「あと200問作れる?」って言われて。それも翌日に提出したら「悪くないね」ってなって、番組に入れてもらえることになったんですよ。2日で500問は大変でしたが、おそらく「日髙はできるのか」という通過儀礼だったんだと思っています。僕が入れていただいたタイミングが里田まいさんの初登場回だったのを覚えていますね。
深田 たぶん、僕はまだ学生だったか、業界に入りたての頃でしたけど、まさに「ヘキサゴン」が毎週、視聴率20%近く獲りはじめる頃ですよね。
日髙 大学生の頃から「高校生クイズ」で問題を作らせていただいたりはしていましたけど、クイズを作って、ただ問題用紙やFAXで提出するだけじゃなく、ちゃんと定例会議にも出て、クイズ会議にも出て、収録にも行って、なんというか、しっかりとテレビ作りに関わる、という意識を持ったのが「ヘキサゴン」なんですよね。だから僕の中でテレビの仕事のデビューは「ヘキサゴン」だと思っているんですよ。あの番組でテレビ作りやクイズ作りについて、色々なことを学ばせてもらいましたね。
深田 28歳がデビューだとすると、少し遅めですよね。
日髙 坂本龍馬が脱藩したのが28歳なんですよ。爆笑問題の太田さんが自伝『カラス』の中でおっしゃっていたんですけど、「28歳までは大丈夫だと思っていた」って。爆笑問題さんが「GAHAHAキング」っていう番組で10週勝ち抜いたのが28歳なんですけど、僕も28歳という年齢を意識していたところはあって。「1年間やってみて、ダメだったら塾講師に戻ろう」と思っていたので「ヘキサゴン」はまさしく僕の人生を救ってくれた仕事でしたね。
深田 ちなみに、衝撃を受けたと書かれている北本かつらさんに出会ったのも「ヘキサゴン」ですよね?
日髙 そうですね。「ヘキサゴン」の会議で初めてお会いして「ジャンプ放送局の『竜王は生きていた』(ペンネーム)はこの人なんだ!」って感動しましたね。くしゃくしゃの紙に手書きで書いた宿題をADさんに渡して、「コピーしといてください!」ておっしゃっていたのを覚えています(笑)
深田 噂に聞く、かつらさんが20本ぐらいレギュラーやって、超人的なスケジュールで働かれていた頃ですよね(笑)