対談

箭内道彦
( クリエイティブディレクター )
1964年福島県生まれ。タワーレコード「NO MUSIC, NO LIFE.」など数々の話題の広告キャンペーンを長く手掛ける。「月刊 風とロック」発行人・編集長、「猪苗代湖ズ」ギタリスト、東京藝術大学教授。
高橋も10年経ったんで〝天才宣言〟はしていいと思う(笑)

--お二人、仲いいですよね?

箭内:

仲いいってやっと言えるようになりましたね(笑)。

--探り合いが続いてたんですか?(笑)。

箭内:

プロデューサーってそういうことじゃないだろって若い頃は思ってたんで。若い頃っていうか、まあ10年前は。もっと距離を、それこそソーシャルディスタンスを保ってたんです(笑)。

高橋:

心のソーシャルディスタンスは結構ありましたよね(笑)。以前は。

箭内:

以前はね(笑)。初めて高橋に会った時は、ちょうどテレビの密着が僕に入っているタイミングで。だからその瞬間が残ってるんですよね。NHKのドキュメンタリーで『考える』って番組だったんですけど。そこで高橋と初対面した時の僕は、帽子を目深にかぶって、「魂のぶつかり合いとかそういうの俺嫌いだからさ」とか言って(笑)。

高橋:

ははは。箭内さんがそうやって10年前を振り返るっていうのも意外ですね。

箭内:

そうだね。まあだからあの頃は自信がなかったんだろうね、自分に。誰かの人生というか音楽というか活動を預かるというかね、そこに関わっていくことの重さから、逃げないってあの時に決めてはいたんだけど、やっぱり結構なプレッシャーみたいなものはあって、自分を奮い立たせる必要があったのかな。

高橋:

ミュージシャンをプロデュースするのは僕が初めてだったっていうのも意外ですよね。

箭内:

初めてだったし、それ以降も頼まれないしね(笑)。高橋がこんなに売れててもですよ。同じ感じでお願いします、なんて誰からも言われないですよ。言われなくていいんですけど。

高橋:

箭内さんが作っていた『月刊 風とロック』っていうフリーマガジンをよく読んでいて、そこには忌野清志郎さんとかサンボマスターとか銀杏BOYZとかTHE BACK HORNとかが載っているわけじゃないですか。だから音楽業界には相当深く関わってらっしゃる方だっていう認識は、僕に限らず世間の人はみんな持ってたと思いますけどね。なんせ、「NO MUSIC,NO LIFE.」の言い出しっぺの人ですから(笑)。

箭内:

結婚みたいなもんじゃない、誰かをプロデュースするってことは。そういうのもだいぶん照れずに言えるようになったんだけどさ。だから複数の相手とっていうのはないんですよね。それに正直、プロデュースって言ったって、僕もやったことないわけだから。高橋と会って最初にやったのって、渋谷La.mamaの銀杏BOYZのライブに一緒に行くっていう(笑)。「これなんだよ、これを観ないと始まらねえよ」とか言いながら。

高橋:

(笑)。銀杏BOYZすごい好きで、でもその時までライブを観たことがなかったからよく覚えていますね。箭内さんが「君はまだ終演後挨拶には来なくて大丈夫だから」って言ってました(笑)。

箭内:

仕事の相手を連れてきた、みたいに思われたくない場所じゃない。だからその頃はまだ高橋は仕事の相手っていう力みが自分の中にあったのかもしれない。

--箭内さんが福島で、高橋さんが秋田ということで、東北つながり、みたいな部分での共感は大きかったんですか?

箭内:

それはあったと思いますよ。やっぱり東北の人間って、もちろん全員じゃないんですけど、捻くれてたり閉じたりしてる部分ってあって、僕と高橋はそれが顕著なので(笑)。東京に出てきても、どこかでカーテン閉めてるというか窓閉めてるというか、マフラーに顔を埋めてるようなところがあって。だから最初に高橋の経歴が書いてある資料を見せてもらった時に、出身が秋田県って書いてあって、これだったら他の地方から出てきたアーティストとやるよりもちょっとはハードル低いかな自分にとってはって思ったんですよね。仲間としてやれるっていう感覚を持ちましたね。だから東北出身っていうのはポイントでした。それで最初の頃は、明朝体で打った歌詞をMVでガンガン流すっていうことをやったんですよ。それを見たTHE BACK HORNのボーカルの山田将司に、箭内さんのやってることはアーティストを殺してるっていうようなことを笑いながら言われたことがあって。やっぱ歌う人間にとって歌詞をあんだけ大きく出されることはすごく怖いんだって。カラオケボックスで出てくる歌詞とは意味合いが違うので。そう考えたら、いろいろとキツイことを高橋には求めて、でも潰れずにいてくれたんだなっていうことを感謝していますね。だって、みんなが似顔絵を描けるようなキャラクターになってないとダメなんじゃないのっていう、そんな乱暴な理由で眼鏡かけてた方がいいって言ったくらいですから。

高橋:

(笑)。

箭内:

ひどいですよね。東京にやってきたばかりの若者に、金髪のおっさんが「明日から眼鏡かけろ」って命令するって(笑)。もちろん自分なりの戦略はあったんですけど、とにかく覚えてもらうっていう。だから歌詞も大きく出すし、ジャケットは顔しか出さないし名前も前面に出すっていうことをやってたんですけど。そうすると、10年目で(眼鏡を)外すっていうのはいいかなって思って。みんなもう覚えてくれたっていう前提から再出発するというか。

高橋:

今外しましょうか?

箭内:

はははは。

--高橋さんは箭内さんに会って、どのような印象を抱かれたんですか?

高橋:

僕はその頃大人に対してひどい固定観念を持ってたんですよ。曲の中でも歌ってますけどね。大人なんて説教ばかりしてきて、それこそ自分の固定観念ばかりを押し付けてくる存在だって。でも箭内さんは軽々とそれを打ち砕いてくれたんですよ。それに僕は箭内さんの考えてくれることとかやり方っていうのしか知らない中でやってきましたから、MVに歌詞が出るのも当たり前だと思ってましたね。そこに疑問を持ったこともなかったです。

箭内:

結局僕は音楽の専門家ではないから。普通のプロデュースっていうやり方とは全然違ってるはずなんですよね。だから眼鏡かけようって提案したりもするし、レコーディングの現場に行っても、抽象的な事ばっか言ってましたよ。『こどものうた』の時なんかだと、「さらにヒリヒリさせてください」みたいな。「ギターがどうのこうのじゃなくて、絆創膏を剥がした時にまだ生傷が残っているようなそんな感じに」とか。『福笑い』の時も、まだデビュー前のアーティストの曲を東京メトロのCMソングに通すということをして、で、普通にレコードメーカーの方程式に当てはめたら、CMオンエアにタイミングを合わせてリリースしたりするんでしょうけど、「とにかくまだ発売しないでください」ってお願いしたんですよ(笑)。名曲に対する世の中の沸点がちゃんと高まったタイミングに出したかった。だからCMが流れ始めたのが2010年の4月からだったんですけど、発売したのは12月だっけ?

高橋:

いや、年が明けた2月ですよ。震災1ヶ月前だったんですよね。

箭内:

そっか。だから結果的にそこで発売されたこともあって、震災後にラジオで一番オンエアされた曲に『福笑い』はなっていったりするんですけどね。そうだ、CMのオンエアが4月1日になったばかりの0時台からだったんですよ。で、うちの会社で飲もうよって言って夜遅くに集まったんですよね。時間が近づいたら、テレビ見よっかなんて言ってテレビつけて。そしたら『福笑い』がかかってる東京メトロのCMが流れたんですよ。60秒CMが。でも高橋には一言も言ってなかったんですよ。CMに使われるっていうことも。だからその瞬間は最高でしたね。

--じゃあ高橋さんはそこで知ったんですか?

高橋:

そうです。だからそれ自体がドッキリだと思ったんですよ。

箭内:

俺らがわざわざ作ったやつを流してると。

高橋:

そうそう。その場でしか流れてないやつだと思ったから全員を疑って帰ったんですよ。で、箭内さんも意地悪だから(笑)、「ドッキリかもしんないよ」とか言ってるんですよ。でも家帰ってドキドキしてしばらく眠れなくて、自分ちのテレビで見て本当だってわかったんですけど。ドッキリじゃないというか、壮大なドッキリだったというか、妙な感じになりましたね(笑)。

箭内:

そんなことばっかりやってましたね、ほんとに。シングル2曲目の『ほんとのきもち』の時は、ドラマのテーマソングになるって決まってたんですよ。みんなすごく気合入ってて。そりゃそうですよね。ドラマタイアップの場合って、ドラマの方のプロデューサーとのやり取りを経てどんな大物でもドラマにとってどんな曲がいいんだろうって台本を読み込んだりしてやるものなので。高橋はそういうとこ、すごく真っ直ぐで真面目な男だし、相手のことを真剣に考える男なので、すごくドラマに合った曲が出来上がってきたんですよ。「あ、これはダメだな」って思って(笑)。

高橋:

はっきり覚えてますよ。1ヶ月悩んで書いたんですよ。事務所の人たちにも箭内さんにも送って、いいねってなったんですよ。箭内さんからは「おつかれさま」って返ってきたんです。そしたら、「みんなが気に入るやつができたから、その1ヶ月ぐらいの思いを経た上で、サラーっともう1曲書いてみて」って。「ただし、〝君が好き〟って言葉をどっかで入れて」って言われたんです。で、僕は重い荷物を下ろしたような気分だったから、じゃあ息抜きのつもりで書いてみようって思って。ちょうど『福笑い』の時みたいに箭内さんに無茶振りをいただいてバーっと書くっていうような感じで作ったんですよ。そしたら、(タイアップが)そっちになったんですよ。

箭内:

いい曲なんですよそれが(笑)。あとね、他にも言いたいことがいっぱいあるんです。小出しには言ってたんですけど。大サビって後につけるわけですよ。AメロBメロ、サビって最初作って。自分が把握している曲の後に大サビがついてこうなったって聴くんですよね。『福笑い』も『ほんとのきもち』もそういうふうに大サビがついてすごく良くなったんですよ。で、『福笑い』の大サビの歌詞なんですけど。その頃僕は、ありのままじゃダメなんだっていうことをあちこちで言ってたんです。自分を作って人に見せるっていうことは大事なことなんだっていうふうに自分の著書にも書いたり。インタビューでも言ったりして。だけど、そこに対する反論が『福笑い』の大サビになってるんですよ。〈その姿形ありのままじゃダメだ!と誰かが言う〉って、その誰かって俺なんですよ(笑)。あんな大事な曲の大サビに、僕に対してボールを投げ返してくる、あの恨みは消えないですね、一生(笑)。聴くたびにいっつも高橋に叱られてるような気がしていて。いまだにそうです。箭内さんのことじゃないですよって笑いながら言うんですけど、絶対俺のことなんですよ。

--どうなんですか?

高橋:

箭内さんのことじゃないです(笑)。

箭内:

わはははは! 途中までは気持ちよく聴いてるんだけど、大サビが来ると、ちょっと固くなりますね(笑)。

高橋:

『発明品』っていう曲書いた時も〈スポンサー〉って言葉が入ってて、なんかおっしゃってましたよね。

箭内:

そうそう。そういうやり取りも含めて面白いですよね。あと、今日初めて言うことで、過去のことじゃないんだけど、僕はアートでもそうだしなんでもそうだと思うんですけど、一人の人の人生や生き方やモノの見方とその職業が直結したら楽だし強いものしかできないと思ってて。高橋は基本そうなってると思うんですよ。見てたらすごいいい奴でしょ? で、いい奴の歌を歌うじゃないですか。だけど、なんかそことはまったく別なところに強烈なものを……なんて言うのかな、いい奴である高橋じゃない部分から生み出す才能があるんですよ。あの才能はなんなのかわからないんだけど。世の中へのカウンターとしてじゃなくて、社会を切り捨てていくというか、拓いていく才能があるんですよね。それは高橋がいい奴だからみんなに笑顔でいてほしい、みんなと一緒に前に進みたいっていう気持ちとはまったく乖離したところに秘められた才能が--三つ目の眼みたいに普段は絆創膏貼って隠されてあるというか。それも次の10年のすごい楽しみなところですね。自分でなんでこんなもの書いてるんだろうって思うくらいの。ある種の多重人格かもしれないけど。それがね、高橋という人間とはまた別な能力としてあるんですよね。って最近思った。ファンの人たちの間でもあるじゃないですか、こっちの高橋くんが好きっていうような。でも私はこっちが好き、みたいな。そこでファン同士がいろんな議論をしていたり、そのことをそれぞれが掘り下げていたり。とってもいいなと思うんだけど、両方あるんですよね。どっちに行ったじゃなくて。シングルってどっちか選ばなきゃいけないから、いつも大変だと思いますけど。アルバムはどっちも入るから、常にニューアルバムが楽しみですよね。

--当然ながら高橋さん本人としてもどっちも自分だという意識なんでしょうけど、対ファンというところで考えると、それをある程度意識的にコントロールしないといけない、というふうに覚悟したタイミングというのはあったんですか?

高橋:

わからなくなった時期はありましたね。この10年で言うと、ありがたいことにテレビでたくさん流れるかもしれないとか、子供たちが見るかもしれないから、誰でもわかる言葉であんまり具体的な言葉じゃない方がいいっていうリクエストを立て続けにいただく時期があったんですよ。で、その時期は何がいいことなのかって一瞬わからなくなることもあったんですけど、でも僕は出会いに恵まれているなって常に思うのは、そういう時に箭内さんと会うといいんですよね、やっぱ。直接的にそこでアドバイスをいただくっていうことではないんですけど、箭内さんとお話ししてるだけでとか、箭内さんがやられていることをどこかで見たりすると、そうだよなってなってくるっていうか。あと箭内さんと一緒にいる人たち--THE BACK HORNの松さんもそうだし、『風とロックCARAVAN日本』に参加させてもらった時とか、『風とロック芋煮会』に参加させてもらった時とか、そういう場所を用意してもらっていることで、自分が本当にいいと思っているものを失わずに済むというか。だから、これからの10年で自分が爽やかおじさんになっていく、みたいな、変に不安に思っている部分はないんですけど。むしろ、なれるもんならなってみたいって感じですね(笑)。

箭内:

爽やかおじさんも別に嘘じゃないからね。こんな爽やかな人いないですよ。

高橋:

なんでなれないのかわからないけど、普通にみんなから愛される爽やかおじさんになることはできないっていうのはわかってるんです。

箭内:

なってるって。

高橋:

いやいやいや。なってるとしたら、また裏切っちゃうんですよいつか。

箭内:

(笑)。

高橋:

どうせ。「爽やかおじさんみたいなことやってよ~」って思ってる人たちがいるとしたら、「どうした?」って心配されたり、「え、なんか怒ってんの?」とか、「優さん最近悩んでんじゃない?」みたいな。意外と本人は楽しんでるんですよ、どれも。多重人格になってるのかなんなのか、自分でもコントロールできてないんでわからないんですけど。書いちゃって、顔をしかめる時があるんですよ自分で。「何この曲」って。自分で書いて。「どうしよう」みたいな(笑)。

--それって天才っていうことなんじゃないですか?

箭内:

天才です。その部分は天才なんですよほんとに。秀才っぽく見えるんですけど天才なんですよ。俺はね、高橋も10年経ったんで〝天才宣言〟はしていいと思う(笑)。

高橋:

いやいやいやいや(笑)。すごくありがたいんですけど、そんな天才なんて言ってもらえることないですからね。ただ1コ自分がやってきたことを正当化させていただけるのであれば、作るもの全部が意図にまみれてたらつまんないと思うんですよね。どこかでハプニングだったりアクシデントだったり――例えば手先が何ミリかずれることによって思いもよらないものが生まれることの方が、作品というのは面白くなったりするものなんじゃないかなって思ったりするから、どこか筆任せじゃないですけど、たまに熱を帯びる時があるんですよ。うわーってなって書いちゃう時が。でもこれって自分にだけ備わったものでは決してないと思ってて。絶対みんなあると思うんですよ。僕の場合、そうやってできたものが人にお見せしづらいものになっちゃうというか(笑)。たまにラジオなんかでも火がついちゃうとそうなる時があるんですよ。あとでめっちゃ後悔するんだけど(笑)。

箭内:

でも、ただの爽やかおじさんなんて誰も思ってないと思うよ。やっぱ危うい爽やかおじさんだから、なんて言うの、心惹かれるというか放っておけないというか、そこを見たくないけどでも見たいって両方なんだよね、たぶんね。

高橋:

嫌ですね、この対談のタイトルが大きい字で「危うい爽やかおじさん」ってなったら(笑)。

箭内:

それにしようよ(笑)。かなり言い得てると思うけどな。

高橋:

それはつらいなー(笑)。でも言葉が強いんだよなー、箭内さんに言われると。

箭内:

最初の頃に、この男信用できるなって思ったのは、たしか原宿を歩いている時だったんだけど、「どうなりたいの?」みたいに訊いたことがあったんですよ。そしたら高橋はこう言ったんですよ。「今こうやって歩いていても誰も僕のことを見ませんけど、みんなが自分を知ってるようになりたいです」ってその時は言ったんですよね。今もそう思ってるかはわからないけど。それは、秋田から出てきて言えることじゃないというか、ものすごく正直な心の中をちゃんと外に向かって言える人なんだなっていうのは面白かったですね。感動させたいとかいい曲作りたいとか、それを経て有名になるんだけど、若者でいきなり「有名になりたい」って言う人っていなくなってるんですよ、今。大学で教えていてもそうなんですけど。告白をしなくなったっていうのと一緒で、なれなかった時の自分がかっこ悪いし、つらいから、そこに挑まないし言わないんですよ。でも高橋はあの時言ったことを有言実行でだいぶ形にしてるなっていうふうに思いますね。

高橋:

今でも全然普通に原宿歩けますけどね(笑)。誰も気づかないですよ。

箭内:

あ、そうなんだ(笑)。あと、あ、そうだ! あっちゃこっちゃ行ってすいませんなんですけど、2011年の2月に『福笑い』がリリースされて、東日本大震災があって、その年の9月に『LIVE福島 風とロックSUPER野馬追』っていう、福島県を西から東へ6日間移動していったロックフェスがあって、あそこでの高橋の成長っていうのは、すごく今に活きてるんじゃないかなって思うんですよね。自分が実行委員長をやった場で成長させたって話じゃないんだけど。初日のトップバッターが高橋で、すべての曲の中の1曲目が『福笑い』だったんですよね。で、6日間全部に出演したのは高橋優と怒髪天だけで。あの頃の高橋は、『福笑い』が話題になって売れてはいたけど、他の風とロックの仲間たちからすると、「なんか箭内さん、高橋優くんのこと贔屓してんじゃないの?」みたいな、そんなふうに思っていた人たちもいたかもしれない。でもそんな中で6日間高橋がやり切ってくれたことはとても大きかったし、3日目に猪苗代ってところでやったんですけど、その日のラインナップはすごかったんですよ。怒髪天にBRAHMANと猪苗代湖ズとサンボマスター、で、高橋優っていう。その時に、やっぱバンドってすごいじゃないですか。BRAHMANもサンボマスターも怒髪天も。その中にメジャーデビューして1年ちょっとのアーティストがソロでバックバンドと共にいるっていうのは、ものすごくアウェーというか、怖かったんじゃないかなって思ったし。僕はその当時のバンドメンバーに初めて説教したんですよ、猪苗代でのライブが終わった時。やっぱり高橋のバックでやってるってことで遠慮してるんじゃないかと思って。遠慮した人がステージに立ってたら、これだけ大怪我して傷ついてる福島県の人たちに何も届かないんじゃないかと思って、「自分が助けに来たんだって思ってください」っていう話を一人一人にして、次の日の郡山の3万人近く入ったステージではものすごくいい演奏をしたんですよね。そういうことがあの6日間の中で日々あったんですよ。

高橋:

やってほしいなって思ったことを本当にやってくれる人って、世の中に少ない気がしていて。今このコロナ禍においては、これをやってってみんなが何かを望んでるその何かもわからないから、どうしたらいいか本当にもどかしいんですけど、でもあの2011年9月のタイミングって、まだ原発がどうのこうのってすごく混沌としていたんですけど、フェスを箭内さんが、しかも福島でやったんですよね。僕はなんの迷いもなく6日間出演させてもらえるんだったらって行ったけど、一方で賛否両論あったと思うんですよ、フェスをやること自体。でもあの現場に行ったことのある人はみんな知ってるけど、あんなに音楽があって良かった、音楽が奏でられる世界に生きていて良かったって心から思える人たちの顔を見れた場所はないですよ。ほんとに福島の方々は大変な日常を送っているんだなって思ったし、その裏返しでめちゃくちゃ楽しそうだったし。アンコールとかの拍手ひとつとっても何ひとつ嘘がない。みんなこぞって音楽を求めてるし、奏でる側も--これあんまり言って欲しくないかもだけど--泣いてるミュージシャンいっぱいいましたもん。泣きながら演奏してるミュージシャンとか。雨のせいにして泣いてたって言わなそうだけど(笑)。ああいう表情で演奏する人たちを見れることもないから、これは絶対目に焼き付けておかないといけない、自分の人生の中でも……なんだろうな、音楽が素晴らしいと思える空間にいさせてもらえることって一生の宝物だと思っていて。あの6日間が終わったあたりから、なんとなく箭内さんとも打ち解けが始まった気がします(笑)。

箭内:

ははは。そうね(笑)。

高橋:

あの6日間ずーっと一緒にいて、ちょっとずついろんな話をできるようになって、ご飯とか行こうかとか始まった気がするんです。

--その時間のかかり方ってすごくリアリティーありますね。

箭内:

東北時間ですよ(笑)。

--福島での6日間での経験というのは、高橋さんの音楽活動に与える影響という点で相当大きかったですか?

高橋:

そうですね。自分のツアーでもそうですし、なんだったらMVの撮影でも、あの時のいいアクシデントみたいな状態をどこかでまた見れないかなってずっと思ってるんですよね、自分の中では。でも平和だったりすると、歌詞で何を歌ってるかまで注目するほど心が疲れてたり寂しかったりしないじゃないですか、多くの人は。でも、今何を歌ってくれるのか、それを歌ってくれたから今日がんばれたとか、そうやって音楽が必要とされる場所に自分がまた行けたらいいなって、どの現場でも思ってるんですよ。だから今回コロナのことがあって、それがまた状況が良くなって自分が最初にステージに立ってお客さんの顔を見た時にどういう気持ちになるかとか、想像がつかないですよね。もう常にあの時のことっていうのは僕の中で生き続けていますよ。あれこそ「ライブ」だったっていうか。

--新曲『one stroke』聴かせていただきました。10周年という区切り、ここからまた始まるんだっていう意欲に満ち溢れた曲ですね。

高橋:

10周年という区切りは、作った時にはあまり意識してなかったんですけどね。でもマインドとしてはそういう気持ちになってたんでしょうね。こっからだなっていうね。

--実はMVのラフミックスを見させていただきまして。

箭内:

ラフラフですよ、あれ!

高橋:

俺もまだ見てないな。どうでした?

--飛んでました。

箭内:

そう(笑)。でもあれね、誰でもあんな簡単に飛べるわけじゃないみたいで、飛ばし屋に聞くと、見事な飛びっぷりだったって言ってた(笑)。高橋はきっと鍛えてるっていうのもあるし、弱音を吐かないから、ああいうとこで。

高橋:

あはははは。

箭内:

あのMVに関しては、やっぱりツアーが途中で中止になったっていうことが大きかったし、あとはやっぱりコロナでね、家の中に閉じ込められてる時間が長い中で、そして高橋にとっても新しい第二章が始まったってことで、「自由」ってことを考えてったら、あ、飛べばいいんだ!っていうふうに思ったんですよね(笑)。今こちらは大変ですけどね。合成の作業が。みんな寝ないでやってます。あとね、MVの中には「虹」だったり、「靴紐」だったり、「誰がために鐘は鳴る」のMVのロケ地だったり、高橋優が歩んだ10年も埋め込まれてる。

高橋:

アイデアをいただいた時に僕的には、やったーって感じでした。飛びたいって思ってたわけじゃないんですけど、そういうのが欲しいな、そういうのが欲しい人たちがいそうだなって、パズルのピースがはまった感じがしました。

--箭内さんが曲から感じられた印象はどのようなものだったんですか?

箭内:

さっきの二面性の話じゃないんですけど、真っ直ぐな今の高橋のそのままがちゃんと歌になっている曲ですよね。

--ツアーではすでに披露されていましたよね?

高橋:

曲の原型は去年の10月くらいにはあって、アレンジャーの蔦谷好位置さんと11月くらいにはオケを作っておいて、12月からツアーが始まったので、そこで歌おうってなって、歌詞はツアーの中で変動していきましたね。本当に仮の仮みたいな歌詞があったんですけど、そこは最終的にガラッと変わりましたね。

--10周年という区切りを迎えたことでの心情的な変化はあったりしますか?

高橋:

ずっと同じペースで活動できてたらまた違うことを言うんでしょうけどね。今回のコロナでのステイホームがあったからかもしれないんですけど、自分の今の生活リズムがインディーズの頃に似てるんですよね。2008年に上京して、当時所属していた事務所に入ったばっかりで、でもデビューまで3年くらいかかってるんで、その3年間というのは、たまにライブのお話をいただいたら出るけど、でも知名度もないからお客さんのあまりいないところで歌うみたいな感じで、あとは基本家にいて曲作り、という感じで。友達もいなかったから外に出る機会もないし。今は友達いるけどあんまり外出れないじゃないですか。だからなのかマインドもその頃にすごく近いというか。なんか体をいっぱい動かしてると気持ちが動かなくて済むんですけど、体を動かさなくなると気持ちがものすごく動き出しちゃって、テレビとか見ててもすごい疲れちゃう。で、テレビで知ってる人ががんばってる姿を見たりすると、「あ、俺何やってんだろ……」って葛藤する時間が多くて。10年目っていうよりは、世の中のフェーズが変わってきてる感じに順応できなくて、またぼやき始めてる自分がいるなって思っています。

--それって、アーティスト高橋優の状況としてはすごくポジティブなのでは?と思うんですけど。そのぼやきからたくさん曲ができそうな予感もひしひしとあるし。

高橋:

曲はたくさんできていますね。でも果たしてそれがどう受け取られるかがわかんない曲がボロボロできてきてて。

箭内:

よく広告の世界でも使われる言葉で、「期待に応えるけど、予想は裏切る」っていうのがあって。そういう時じゃないですかね。たしかにびっくりするような曲ができてるよね。でもそれも、ちゃんと「そっかそっか」って思える曲ですね。

高橋:

いやーだから、10年なんてあんまり思ってないなって今思っちゃった。少しずつ環境が変わりながら歌わせてもらっているっていう実感がないわけじゃないんですけど、たださっきの箭内さんの原宿の話でも、今でも思ってますよ、僕。有名人になって、わーって顔指されるって。それが芸能人だよなって。冷静に考えたら、街中で指差されたら歩けなくなるから困るんですけど(笑)、でもそこへの憧れは今も変わってないですね。

箭内:

変わってないって言うとさ、まだデビュー前だったんだけど、渋谷のパルコで1ヶ月間『風とロックBAR』っていうのをやったんですよ。閉店したBARを居抜きで貸してもらって、毎日日替わりでゲストに来てもらったんだけど、高橋が出る日に大遅刻してきたんですよ。

高橋:

ありましたね。

箭内:

その時に、「どうしたんだ?」って訊いたら、「来る途中におばあさんが道に倒れてて助けてたらこんな時間になりました」って言ったんですよ。なんていうか、そういうとこあるんですよね高橋ってね。

高橋:

僕すげえそういう機会に遭遇しがちなんですよ。なんでか。それについて悩んだこともありましたもん。

--たぶん僕が遅刻して「おばあさんを助けてました」って言っても箭内さん信じてくれませんよ(笑)。高橋さんだから信じられるっていうのが絶対にあると思いますよ。

箭内:

というのもあるし(笑)、たぶんみんなも同じくらいそういう場面に遭遇してるんだと思うんですよね。かと言って見て見ぬふりをしてるわけじゃなくて、見えてないんじゃないかと。高橋はちゃんといろんなものを見てて、だけどそこに感情移入しすぎるんじゃなくて、客観性がありながら見てるから、そういう人たちをちゃんと見つけるんだと思うんだよ。

--やっぱり天才ですね(笑)。それにしても、10年というのが信じられないくらい、もっと長くやっているイメージがありました。

高橋:

それ、ミュージシャンの先輩たちからも結構言われるんですよ。なんでなのかな?

箭内:

それはやっぱり高橋が存在した10年というタームが他の10年と比べても圧倒的に濃い10年だったからだと思うよ。

--そして11年以降のスタートが今という。

高橋:

そうですよね。これからいろいろ変動しそうな予感がしますね。楽しみです。