4500以上の首があるとされる万葉集を、一覧データベース化しました
万葉集の一覧データベース
第1巻
【1】篭もよみ篭持ち堀串もよみ堀串持ちこの岡に菜摘ます子家聞かな告らさねそらみつ大和の国はおしなべて我れこそ居れしきなべて我れこそ座せ我れこそば告らめ家をも名をも
【2】大和には群山あれどとりよろふ天の香具山登り立ち国見をすれば国原は煙立ち立つ海原は鴎立ち立つうまし国ぞ蜻蛉島大和の国は
【3】やすみしし我が大君の朝には取り撫でたまひ夕にはい寄り立たししみ執らしの梓の弓の中弭の音すなり朝猟に今立たすらし夕猟に今立たすらしみ執らしの梓の弓の中弭の音すなり
【4】たまきはる宇智の大野に馬並めて朝踏ますらむその草深野
【5】霞立つ長き春日の暮れにけるわづきも知らずむらきもの心を痛みぬえこ鳥うら泣け居れば玉たすき懸けのよろしく遠つ神我が大君の行幸の山越す風のひとり居る我が衣手に朝夕に返らひぬれば大夫と思へる我れも草枕旅にしあれば思ひ遣るたづきを知らに網の浦の海人娘子らが焼く塩の思ひぞ焼くる我が下心
【6】山越しの風を時じみ寝る夜おちず家なる妹を懸けて偲ひつ
【7】秋の野のみ草刈り葺き宿れりし宇治の宮処の仮廬し思ほゆ
【8】熟田津に船乗りせむと月待てば潮もかなひぬ今は漕ぎ出でな
【9】莫囂円隣之大相七兄爪謁気我が背子がい立たせりけむ厳橿が本
【10】君が代も我が代も知るや岩代の岡の草根をいざ結びてな
【11】我が背子は仮廬作らす草なくは小松が下の草を刈らさね
【12】我が欲りし野島は見せつ底深き阿胡根の浦の玉ぞ拾はぬ[或頭云我が欲りし子島は見しを]
【13】香具山は畝傍を愛しと耳成と相争ひき神代よりかくにあるらし古もしかにあれこそうつせみも妻を争ふらしき
【14】香具山と耳成山と闘ひし時立ちて見に来し印南国原
【15】海神の豊旗雲に入日さし今夜の月夜さやけくありこそ
【16】冬こもり春さり来れば鳴かずありし鳥も来鳴きぬ咲かずありし花も咲けれど山を茂み入りても取らず草深み取りても見ず秋山の木の葉を見ては黄葉をば取りてぞ偲ふ青きをば置きてぞ嘆くそこし恨めし秋山吾は
【17】味酒三輪の山あをによし奈良の山の山の際にい隠るまで道の隈い積もるまでにつばらにも見つつ行かむをしばしばも見放けむ山を心なく雲の隠さふべしや
【18】三輪山をしかも隠すか雲だにも心あらなも隠さふべしや
【19】綜麻形の林のさきのさ野榛の衣に付くなす目につく吾が背
【20】あかねさす紫野行き標野行き野守は見ずや君が袖振る
【21】紫のにほへる妹を憎くあらば人妻故に我れ恋ひめやも
【22】川の上のゆつ岩群に草生さず常にもがもな常処女にて
【23】打ち麻を麻続の王海人なれや伊良虞の島の玉藻刈ります
【24】うつせみの命を惜しみ波に濡れ伊良虞の島の玉藻刈り食す
【25】み吉野の耳我の嶺に時なくぞ雪は降りける間無くぞ雨は降りけるその雪の時なきがごとその雨の間なきがごと隈もおちず思ひつつぞ来るその山道を
【26】み吉野の耳我の山に時じくぞ雪は降るといふ間なくぞ雨は降るといふその雪の時じきがごとその雨の間なきがごと隈もおちず思ひつつぞ来るその山道を
【27】淑き人のよしとよく見てよしと言ひし吉野よく見よ良き人よく見
【28】春過ぎて夏来るらし白栲の衣干したり天の香具山
【29】玉たすき畝傍の山の橿原のひじりの御代ゆ[或云宮ゆ]生れましし神のことごと栂の木のいや継ぎ継ぎに天の下知らしめししを[或云めしける]そらにみつ大和を置きてあをによし奈良山を越え[或云そらみつ大和を置きあをによし奈良山越えて]いかさまに思ほしめせか[或云思ほしけめか]天離る鄙にはあれど石走る近江の国の楽浪の大津の宮に天の下知らしめしけむ天皇の神の命の大宮はここと聞けども大殿はここと言へども春草の茂く生ひたる霞立つ春日の霧れる[或云霞立つ春日か霧れる夏草か茂くなりぬる]ももしきの大宮ところ見れば悲しも[或云見れば寂しも]
【30】楽浪の志賀の辛崎幸くあれど大宮人の舟待ちかねつ
【31】楽浪の志賀の[一云比良の]大わだ淀むとも昔の人にまたも逢はめやも[一云逢はむと思へや]
【32】古の人に我れあれや楽浪の古き都を見れば悲しき
【33】楽浪の国つ御神のうらさびて荒れたる都見れば悲しも
【34】白波の浜松が枝の手向け草幾代までにか年の経ぬらむ[一云年は経にけむ]
【35】これやこの大和にしては我が恋ふる紀路にありといふ名に負ふ背の山
【36】やすみしし我が大君のきこしめす天の下に国はしもさはにあれども山川の清き河内と御心を吉野の国の花散らふ秋津の野辺に宮柱太敷きませばももしきの大宮人は舟並めて朝川渡る舟競ひ夕川渡るこの川の絶ゆることなくこの山のいや高知らす水激る瀧の宮処は見れど飽かぬかも
【37】見れど飽かぬ吉野の川の常滑の絶ゆることなくまたかへり見む
【38】やすみしし我が大君神ながら神さびせすと吉野川たぎつ河内に高殿を高知りまして登り立ち国見をせせばたたなはる青垣山山神の奉る御調と春へは花かざし持ち秋立てば黄葉かざせり[一云黄葉かざし]行き沿ふ川の神も大御食に仕へ奉ると上つ瀬に鵜川を立ち下つ瀬に小網さし渡す山川も依りて仕ふる神の御代かも
【39】山川も依りて仕ふる神ながらたぎつ河内に舟出せすかも
【40】嗚呼見の浦に舟乗りすらむをとめらが玉裳の裾に潮満つらむか
【41】釧着く答志の崎に今日もかも大宮人の玉藻刈るらむ
【42】潮騒に伊良虞の島辺漕ぐ舟に妹乗るらむか荒き島廻を
【43】我が背子はいづく行くらむ沖つ藻の名張の山を今日か越ゆらむ
【44】我妹子をいざ見の山を高みかも大和の見えぬ国遠みかも
【45】やすみしし我が大君高照らす日の皇子神ながら神さびせすと太敷かす都を置きて隠口の初瀬の山は真木立つ荒き山道を岩が根禁樹押しなべ坂鳥の朝越えまして玉限る夕去り来ればみ雪降る安騎の大野に旗すすき小竹を押しなべ草枕旅宿りせすいにしへ思ひて
【46】安騎の野に宿る旅人うち靡き寐も寝らめやもいにしへ思ふに
【47】ま草刈る荒野にはあれど黄葉の過ぎにし君が形見とぞ来し
【48】東の野にかぎろひの立つ見えてかへり見すれば月かたぶきぬ
【49】日並の皇子の命の馬並めてみ狩り立たしし時は来向ふ
【50】やすみしし我が大君高照らす日の皇子荒栲の藤原が上に食す国を見したまはむとみあらかは高知らさむと神ながら思ほすなへに天地も寄りてあれこそ石走る近江の国の衣手の田上山の真木さく桧のつまでをもののふの八十宇治川に玉藻なす浮かべ流せれ其を取ると騒く御民も家忘れ身もたな知らず鴨じもの水に浮き居て我が作る日の御門に知らぬ国寄し巨勢道より我が国は常世にならむ図負へるくすしき亀も新代と泉の川に持ち越せる真木のつまでを百足らず筏に作り泝すらむいそはく見れば神ながらにあらし
【51】采女の袖吹きかへす明日香風都を遠みいたづらに吹く
【52】やすみしし我ご大君高照らす日の皇子荒栲の藤井が原に大御門始めたまひて埴安の堤の上にあり立たし見したまへば大和の青香具山は日の経の大御門に春山と茂みさび立てり畝傍のこの瑞山は日の緯の大御門に瑞山と山さびいます耳成の青菅山は背面の大御門によろしなへ神さび立てり名ぐはし吉野の山はかげともの大御門ゆ雲居にぞ遠くありける高知るや天の御蔭天知るや日の御蔭の水こそばとこしへにあらめ御井のま清水
【53】藤原の大宮仕へ生れ付くや娘子がともは羨しきろかも
【54】巨勢山のつらつら椿つらつらに見つつ偲はな巨勢の春野を
【55】あさもよし紀人羨しも真土山行き来と見らむ紀人羨しも
【56】川上のつらつら椿つらつらに見れども飽かず巨勢の春野は
【57】引間野ににほふ榛原入り乱れ衣にほはせ旅のしるしに
【58】いづくにか船泊てすらむ安礼の崎漕ぎ廻み行きし棚無し小舟
【59】流らふる妻吹く風の寒き夜に我が背の君はひとりか寝らむ
【60】宵に逢ひて朝面無み名張にか日長く妹が廬りせりけむ
【61】大丈夫のさつ矢手挟み立ち向ひ射る圓方は見るにさやけし
【62】在り嶺よし対馬の渡り海中に幣取り向けて早帰り来ね
【63】いざ子ども早く日本へ大伴の御津の浜松待ち恋ひぬらむ
【64】葦辺行く鴨の羽交ひに霜降りて寒き夕は大和し思ほゆ
【65】霰打つ安良礼松原住吉の弟日娘女と見れど飽かぬかも
【66】大伴の高師の浜の松が根を枕き寝れど家し偲はゆ
【67】旅にしてもの恋ほしきに鶴が音も聞こえずありせば恋ひて死なまし
【68】大伴の御津の浜なる忘れ貝家なる妹を忘れて思へや
【69】草枕旅行く君と知らませば岸の埴生ににほはさましを
【70】大和には鳴きてか来らむ呼子鳥象の中山呼びぞ越ゆなる
【71】大和恋ひ寐の寝らえぬに心なくこの洲崎廻に鶴鳴くべしや
【72】玉藻刈る沖へは漕がじ敷栲の枕のあたり忘れかねつも
【73】我妹子を早見浜風大和なる我を松椿吹かざるなゆめ
【74】み吉野の山のあらしの寒けくにはたや今夜も我が独り寝む
【75】宇治間山朝風寒し旅にして衣貸すべき妹もあらなくに
【76】ますらをの鞆の音すなり物部の大臣盾立つらしも
【77】吾が大君ものな思ほし皇神の継ぎて賜へる我なけなくに
【78】飛ぶ鳥の明日香の里を置きて去なば君があたりは見えずかもあらむ[一云君があたりを見ずてかもあらむ]
【79】大君の命畏み柔びにし家を置きこもりくの泊瀬の川に舟浮けて我が行く川の川隈の八十隈おちず万たびかへり見しつつ玉桙の道行き暮らしあをによし奈良の都の佐保川にい行き至りて我が寝たる衣の上ゆ朝月夜さやかに見れば栲の穂に夜の霜降り岩床と川の水凝り寒き夜を息むことなく通ひつつ作れる家に千代までに来ませ大君よ我れも通はむ
【80】あをによし奈良の家には万代に我れも通はむ忘ると思ふな
【81】山辺の御井を見がてり神風の伊勢娘子どもあひ見つるかも
【82】うらさぶる心さまねしひさかたの天のしぐれの流らふ見れば
【83】海の底沖つ白波龍田山いつか越えなむ妹があたり見む
【84】秋さらば今も見るごと妻恋ひに鹿鳴かむ山ぞ高野原の上
第2巻
【85】君が行き日長くなりぬ山尋ね迎へか行かむ待ちにか待たむ
【86】かくばかり恋ひつつあらずは高山の磐根しまきて死なましものを
【87】ありつつも君をば待たむうち靡く我が黒髪に霜の置くまでに
【88】秋の田の穂の上に霧らふ朝霞いつへの方に我が恋やまむ
【89】居明かして君をば待たむぬばたまの我が黒髪に霜は降るとも
【90】君が行き日長くなりぬ山たづの迎へを行かむ待つには待たじ
【91】妹が家も継ぎて見ましを大和なる大島の嶺に家もあらましを[一云妹があたり継ぎても見むに][一云家居らましを]
【92】秋山の木の下隠り行く水の我れこそ益さめ御思ひよりは
【93】玉櫛笥覆ふを安み明けていなば君が名はあれど吾が名し惜しも
【94】玉櫛笥みむろの山のさな葛さ寝ずはつひに有りかつましじ[玉くしげ三室戸山の]
【95】我れはもや安見児得たり皆人の得かてにすとふ安見児得たり
【96】み薦刈る信濃の真弓我が引かば貴人さびていなと言はむかも[禅師]
【97】み薦刈る信濃の真弓引かずして強ひさるわざを知ると言はなくに[郎女]
【98】梓弓引かばまにまに寄らめども後の心を知りかてぬかも[郎女]
【99】梓弓弦緒取りはけ引く人は後の心を知る人ぞ引く[禅師]
【100】東人の荷前の箱の荷の緒にも妹は心に乗りにけるかも[禅師]
【101】玉葛実ならぬ木にはちはやぶる神ぞつくといふならぬ木ごとに
【102】玉葛花のみ咲きてならずあるは誰が恋にあらめ我れ恋ひ思ふを
【103】我が里に大雪降れり大原の古りにし里に降らまくは後
【104】我が岡のおかみに言ひて降らしめし雪のくだけしそこに散りけむ
【105】我が背子を大和へ遣るとさ夜更けて暁露に我れ立ち濡れし
【106】ふたり行けど行き過ぎかたき秋山をいかにか君がひとり越ゆらむ
【107】あしひきの山のしづくに妹待つと我れ立ち濡れぬ山のしづくに
【108】我を待つと君が濡れけむあしひきの山のしづくにならましものを
【109】大船の津守が占に告らむとはまさしに知りて我がふたり寝し
【110】大名児を彼方野辺に刈る草の束の間も我れ忘れめや
【111】いにしへに恋ふる鳥かも弓絃葉の御井の上より鳴き渡り行く
【112】いにしへに恋ふらむ鳥は霍公鳥けだしや鳴きし我が念へるごと
【113】み吉野の玉松が枝ははしきかも君が御言を持ちて通はく
【114】秋の田の穂向きの寄れる片寄りに君に寄りなな言痛くありとも
【115】後れ居て恋ひつつあらずは追ひ及かむ道の隈廻に標結へ我が背
【116】人言を繁み言痛みおのが世にいまだ渡らぬ朝川渡る
【117】ますらをや片恋せむと嘆けども醜のますらをなほ恋ひにけり
【118】嘆きつつますらをのこの恋ふれこそ我が髪結ひの漬ちてぬれけれ
【119】吉野川行く瀬の早みしましくも淀むことなくありこせぬかも
【120】我妹子に恋ひつつあらずは秋萩の咲きて散りぬる花にあらましを
【121】夕さらば潮満ち来なむ住吉の浅香の浦に玉藻刈りてな
【122】大船の泊つる泊りのたゆたひに物思ひ痩せぬ人の子故に
【123】たけばぬれたかねば長き妹が髪このころ見ぬに掻き入れつらむか[三方沙弥]
【124】人皆は今は長しとたけと言へど君が見し髪乱れたりとも[娘子]
【125】橘の蔭踏む道の八衢に物をぞ思ふ妹に逢はずして[三方沙弥]
【126】風流士と我れは聞けるをやど貸さず我れを帰せりおその風流士
【127】風流士に我れはありけりやど貸さず帰しし我れぞ風流士にはある
【128】我が聞きし耳によく似る葦の末の足ひく我が背つとめ給ぶべし
【129】古りにし嫗にしてやかくばかり恋に沈まむ手童のごと[恋をだに忍びかねてむ手童のごと]
【130】丹生の川瀬は渡らずてゆくゆくと恋痛し我が背いで通ひ来ね
【131】石見の海角の浦廻を浦なしと人こそ見らめ潟なしと[一云礒なしと]人こそ見らめよしゑやし浦はなくともよしゑやし潟は[一云礒は]なくとも鯨魚取り海辺を指して柔田津の荒礒の上にか青なる玉藻沖つ藻朝羽振る風こそ寄せめ夕羽振る波こそ来寄れ波のむたか寄りかく寄り玉藻なす寄り寝し妹を[一云はしきよし妹が手本を]露霜の置きてし来ればこの道の八十隈ごとに万たびかへり見すれどいや遠に里は離りぬいや高に山も越え来ぬ夏草の思ひ萎へて偲ふらむ妹が門見む靡けこの山
【132】石見のや高角山の木の間より我が振る袖を妹見つらむか
【133】笹の葉はみ山もさやにさやげども我れは妹思ふ別れ来ぬれば
【134】石見なる高角山の木の間ゆも我が袖振るを妹見けむかも
【135】つのさはふ石見の海の言さへく唐の崎なる海石にぞ深海松生ふる荒礒にぞ玉藻は生ふる玉藻なす靡き寝し子を深海松の深めて思へどさ寝し夜は幾だもあらず延ふ蔦の別れし来れば肝向ふ心を痛み思ひつつかへり見すれど大船の渡の山の黄葉の散りの乱ひに妹が袖さやにも見えず妻ごもる屋上の[一云室上山]山の雲間より渡らふ月の惜しけども隠らひ来れば天伝ふ入日さしぬれ大夫と思へる我れも敷栲の衣の袖は通りて濡れぬ
【136】青駒が足掻きを速み雲居にぞ妹があたりを過ぎて来にける[一云あたりは隠り来にける]
【137】秋山に落つる黄葉しましくはな散り乱ひそ妹があたり見む[一云散りな乱ひそ]
【138】石見の海津の浦をなみ浦なしと人こそ見らめ潟なしと人こそ見らめよしゑやし浦はなくともよしゑやし潟はなくとも鯨魚取り海辺を指して柔田津の荒礒の上にか青なる玉藻沖つ藻明け来れば波こそ来寄れ夕されば風こそ来寄れ波のむたか寄りかく寄り玉藻なす靡き我が寝し敷栲の妹が手本を露霜の置きてし来ればこの道の八十隈ごとに万たびかへり見すれどいや遠に里離り来ぬいや高に山も越え来ぬはしきやし我が妻の子が夏草の思ひ萎えて嘆くらむ角の里見む靡けこの山
【139】石見の海打歌の山の木の間より我が振る袖を妹見つらむか
【140】な思ひと君は言へども逢はむ時いつと知りてか我が恋ひずあらむ
【141】磐白の浜松が枝を引き結びま幸くあらばまた帰り見む
【142】家にあれば笥に盛る飯を草枕旅にしあれば椎の葉に盛る
【143】磐代の岸の松が枝結びけむ人は帰りてまた見けむかも
【144】磐代の野中に立てる結び松心も解けずいにしへ思ほゆ[未詳]
【145】鳥翔成あり通ひつつ見らめども人こそ知らね松は知るらむ
【146】後見むと君が結べる磐代の小松がうれをまたも見むかも
【147】天の原振り放け見れば大君の御寿は長く天足らしたり
【148】青旗の木幡の上を通ふとは目には見れども直に逢はぬかも
【149】人はよし思ひやむとも玉葛影に見えつつ忘らえぬかも
【150】うつせみし神に堪へねば離れ居て朝嘆く君放り居て我が恋ふる君玉ならば手に巻き持ちて衣ならば脱く時もなく我が恋ふる君ぞ昨夜の夜夢に見えつる
【151】かからむとかねて知りせば大御船泊てし泊りに標結はましを[額田王]
【152】やすみしし我ご大君の大御船待ちか恋ふらむ志賀の唐崎[舎人吉年]
【153】鯨魚取り近江の海を沖放けて漕ぎ来る船辺付きて漕ぎ来る船沖つ櫂いたくな撥ねそ辺つ櫂いたくな撥ねそ若草の夫の思ふ鳥立つ
【154】楽浪の大山守は誰がためか山に標結ふ君もあらなくに
【155】やすみしし我ご大君の畏きや御陵仕ふる山科の鏡の山に夜はも夜のことごと昼はも日のことごと哭のみを泣きつつありてやももしきの大宮人は行き別れなむ
【156】みもろの神の神杉已具耳矣自得見監乍共寝ねぬ夜ぞ多き
【157】三輪山の山辺真麻木綿短か木綿かくのみからに長くと思ひき
【158】山吹の立ちよそひたる山清水汲みに行かめど道の知らなく
【159】やすみしし我が大君の夕されば見したまふらし明け来れば問ひたまふらし神岳の山の黄葉を今日もかも問ひたまはまし明日もかも見したまはましその山を振り放け見つつ夕さればあやに悲しみ明け来ればうらさび暮らし荒栲の衣の袖は干る時もなし
【160】燃ゆる火も取りて包みて袋には入ると言はずやも智男雲
【161】北山にたなびく雲の青雲の星離り行き月を離れて
【162】明日香の清御原の宮に天の下知らしめししやすみしし我が大君高照らす日の御子いかさまに思ほしめせか神風の伊勢の国は沖つ藻も靡みたる波に潮気のみ香れる国に味凝りあやにともしき高照らす日の御子
【163】神風の伊勢の国にもあらましを何しか来けむ君もあらなくに
【164】見まく欲り我がする君もあらなくに何しか来けむ馬疲るるに
【165】うつそみの人にある我れや明日よりは二上山を弟背と我が見む
【166】磯の上に生ふる馬酔木を手折らめど見すべき君が在りと言はなくに
【167】天地の初めの時ひさかたの天の河原に八百万千万神の神集ひ集ひいまして神分り分りし時に天照らす日女の命[一云さしのぼる日女の命]天をば知らしめすと葦原の瑞穂の国を天地の寄り合ひの極み知らしめす神の命と天雲の八重かき別きて[一云天雲の八重雲別きて]神下しいませまつりし高照らす日の御子は飛ぶ鳥の清御原の宮に神ながら太敷きましてすめろきの敷きます国と天の原岩戸を開き神上り上りいましぬ[一云神登りいましにしかば]我が大君皇子の命の天の下知らしめしせば春花の貴くあらむと望月の満しけむと天の下食す国四方の人の大船の思ひ頼みて天つ水仰ぎて待つにいかさまに思ほしめせかつれもなき真弓の岡に宮柱太敷きいましみあらかを高知りまして朝言に御言問はさぬ日月の数多くなりぬれそこ故に皇子の宮人ゆくへ知らずも[一云さす竹の皇子の宮人ゆくへ知らにす]
【168】ひさかたの天見るごとく仰ぎ見し皇子の御門の荒れまく惜しも
【169】あかねさす日は照らせれどぬばたまの夜渡る月の隠らく惜しも
【170】嶋の宮まがりの池の放ち鳥人目に恋ひて池に潜かず
【171】高照らす我が日の御子の万代に国知らさまし嶋の宮はも
【172】嶋の宮上の池なる放ち鳥荒びな行きそ君座さずとも
【173】高照らす我が日の御子のいましせば島の御門は荒れずあらましを
【174】外に見し真弓の岡も君座せば常つ御門と侍宿するかも
【175】夢にだに見ずありしものをおほほしく宮出もするかさ桧の隈廻を
【176】天地とともに終へむと思ひつつ仕へまつりし心違ひぬ
【177】朝日照る佐田の岡辺に群れ居つつ我が泣く涙やむ時もなし
【178】み立たしの島を見る時にはたづみ流るる涙止めぞかねつる
【179】橘の嶋の宮には飽かぬかも佐田の岡辺に侍宿しに行く
【180】み立たしの島をも家と棲む鳥も荒びな行きそ年かはるまで
【181】み立たしの島の荒礒を今見れば生ひざりし草生ひにけるかも
【182】鳥座立て飼ひし雁の子巣立ちなば真弓の岡に飛び帰り来ね
【183】我が御門千代とことばに栄えむと思ひてありし我れし悲しも
【184】東のたぎの御門に侍へど昨日も今日も召す言もなし
【185】水伝ふ礒の浦廻の岩つつじ茂く咲く道をまたも見むかも
【186】一日には千たび参りし東の大き御門を入りかてぬかも
【187】つれもなき佐田の岡辺に帰り居ば島の御階に誰れか住まはむ
【188】朝ぐもり日の入り行けばみ立たしの島に下り居て嘆きつるかも
【189】朝日照る嶋の御門におほほしく人音もせねばまうら悲しも
【190】真木柱太き心はありしかどこの我が心鎮めかねつも
【191】けころもを時かたまけて出でましし宇陀の大野は思ほえむかも
【192】朝日照る佐田の岡辺に泣く鳥の夜哭きかへらふこの年ころを
【193】畑子らが夜昼といはず行く道を我れはことごと宮道にぞする
【194】飛ぶ鳥の明日香の川の上つ瀬に生ふる玉藻は下つ瀬に流れ触らばふ玉藻なすか寄りかく寄り靡かひし嬬の命のたたなづく柔肌すらを剣太刀身に添へ寝ねばぬばたまの夜床も荒るらむ[一云荒れなむ]そこ故に慰めかねてけだしくも逢ふやと思ひて[一云君も逢ふやと]玉垂の越智の大野の朝露に玉藻はひづち夕霧に衣は濡れて草枕旅寝かもする逢はぬ君故
【195】敷栲の袖交へし君玉垂の越智野過ぎ行くまたも逢はめやも[一云越智野に過ぎぬ]
【196】飛ぶ鳥の明日香の川の上つ瀬に石橋渡し[一云石なみ]下つ瀬に打橋渡す石橋に[一云石なみに]生ひ靡ける玉藻もぞ絶ゆれば生ふる打橋に生ひををれる川藻もぞ枯るれば生ゆるなにしかも我が大君の立たせば玉藻のもころ臥やせば川藻のごとく靡かひし宜しき君が朝宮を忘れたまふや夕宮を背きたまふやうつそみと思ひし時に春へは花折りかざし秋立てば黄葉かざし敷栲の袖たづさはり鏡なす見れども飽かず望月のいやめづらしみ思ほしし君と時々出でまして遊びたまひし御食向ふ城上の宮を常宮と定めたまひてあぢさはふ目言も絶えぬしかれかも[一云そこをしも]あやに悲しみぬえ鳥の片恋づま[一云しつつ]朝鳥の[一云朝霧の]通はす君が夏草の思ひ萎えて夕星のか行きかく行き大船のたゆたふ見れば慰もる心もあらずそこ故に為むすべ知れや音のみも名のみも絶えず天地のいや遠長く偲ひ行かむ御名に懸かせる明日香川万代までにはしきやし我が大君の形見かここを
【197】明日香川しがらみ渡し塞かませば流るる水ものどにかあらまし[一云水の淀にかあらまし]
【198】明日香川明日だに[一云さへ]見むと思へやも[一云思へかも]我が大君の御名忘れせぬ[一云御名忘らえぬ]
【199】かけまくもゆゆしきかも[一云ゆゆしけれども]言はまくもあやに畏き明日香の真神の原にひさかたの天つ御門を畏くも定めたまひて神さぶと磐隠りますやすみしし我が大君のきこしめす背面の国の真木立つ不破山超えて高麗剣和射見が原の仮宮に天降りいまして天の下治めたまひ[一云掃ひたまひて]食す国を定めたまふと鶏が鳴く東の国の御いくさを召したまひてちはやぶる人を和せと奉ろはぬ国を治めと[一云掃へと]皇子ながら任したまへば大御身に大刀取り佩かし大御手に弓取り持たし御軍士を率ひたまひ整ふる鼓の音は雷の声と聞くまで吹き鳴せる小角の音も[一云笛の音は]敵見たる虎か吼ゆると諸人のおびゆるまでに[一云聞き惑ふまで]ささげたる幡の靡きは冬こもり春さり来れば野ごとにつきてある火の[一云冬こもり春野焼く火の]風の共靡くがごとく取り持てる弓弭の騒きみ雪降る冬の林に[一云木綿の林]つむじかもい巻き渡ると思ふまで聞きの畏く[一云諸人の見惑ふまでに]引き放つ矢の繁けく大雪の乱れて来れ[一云霰なすそちより来れば]まつろはず立ち向ひしも露霜の消なば消ぬべく行く鳥の争ふはしに[一云朝霜の消なば消とふにうつせみと争ふはしに]渡会の斎きの宮ゆ神風にい吹き惑はし天雲を日の目も見せず常闇に覆ひ賜ひて定めてし瑞穂の国を神ながら太敷きましてやすみしし我が大君の天の下申したまへば万代にしかしもあらむと[一云かくしもあらむと]木綿花の栄ゆる時に我が大君皇子の御門を[一云刺す竹の皇子の御門を]神宮に装ひまつりて使はしし御門の人も白栲の麻衣着て埴安の御門の原にあかねさす日のことごと獣じものい匍ひ伏しつつぬばたまの夕になれば大殿を振り放け見つつ鶉なすい匍ひ廻り侍へど侍ひえねば春鳥のさまよひぬれば嘆きもいまだ過ぎぬに思ひもいまだ尽きねば言さへく百済の原ゆ神葬り葬りいましてあさもよし城上の宮を常宮と高く奉りて神ながら鎮まりましぬしかれども我が大君の万代と思ほしめして作らしし香具山の宮万代に過ぎむと思へや天のごと振り放け見つつ玉たすき懸けて偲はむ畏かれども
【200】ひさかたの天知らしぬる君故に日月も知らず恋ひわたるかも
【201】埴安の池の堤の隠り沼のゆくへを知らに舎人は惑ふ
【202】哭沢の神社に三輪据ゑ祈れども我が大君は高日知らしぬ
【203】降る雪はあはにな降りそ吉隠の猪養の岡の塞なさまくに
【204】やすみしし我が大君高照らす日の御子ひさかたの天つ宮に神ながら神といませばそこをしもあやに畏み昼はも日のことごと夜はも夜のことごと伏し居嘆けど飽き足らぬかも
【205】大君は神にしませば天雲の五百重が下に隠りたまひぬ
【206】楽浪の志賀さざれ波しくしくに常にと君が思ほせりける
【207】天飛ぶや軽の道は我妹子が里にしあればねもころに見まく欲しけどやまず行かば人目を多み数多く行かば人知りぬべみさね葛後も逢はむと大船の思ひ頼みて玉かぎる岩垣淵の隠りのみ恋ひつつあるに渡る日の暮れぬるがごと照る月の雲隠るごと沖つ藻の靡きし妹は黄葉の過ぎて去にきと玉梓の使の言へば梓弓音に聞きて[一云音のみ聞きて]言はむすべ為むすべ知らに音のみを聞きてありえねば我が恋ふる千重の一重も慰もる心もありやと我妹子がやまず出で見し軽の市に我が立ち聞けば玉たすき畝傍の山に鳴く鳥の声も聞こえず玉桙の道行く人もひとりだに似てし行かねばすべをなみ妹が名呼びて袖ぞ振りつる[一云名のみを聞きてありえねば]
【208】秋山の黄葉を茂み惑ひぬる妹を求めむ山道知らずも[一云道知らずして]
【209】黄葉の散りゆくなへに玉梓の使を見れば逢ひし日思ほゆ
【210】うつせみと思ひし時に[一云うつそみと思ひし]取り持ちて我がふたり見し走出の堤に立てる槻の木のこちごちの枝の春の葉の茂きがごとく思へりし妹にはあれど頼めりし子らにはあれど世間を背きしえねばかぎるひの燃ゆる荒野に白栲の天領巾隠り鳥じもの朝立ちいまして入日なす隠りにしかば我妹子が形見に置けるみどり子の乞ひ泣くごとに取り与ふ物しなければ男じもの脇ばさみ持ち我妹子とふたり我が寝し枕付く妻屋のうちに昼はもうらさび暮らし夜はも息づき明かし嘆けども為むすべ知らに恋ふれども逢ふよしをなみ大鳥の羽がひの山に我が恋ふる妹はいますと人の言へば岩根さくみてなづみ来しよけくもぞなきうつせみと思ひし妹が玉かぎるほのかにだにも見えなく思へば
【211】去年見てし秋の月夜は照らせれど相見し妹はいや年離る
【212】衾道を引手の山に妹を置きて山道を行けば生けりともなし
【213】うつそみと思ひし時にたづさはり我がふたり見し出立の百枝槻の木こちごちに枝させるごと春の葉の茂きがごとく思へりし妹にはあれど頼めりし妹にはあれど世間を背きしえねばかぎるひの燃ゆる荒野に白栲の天領巾隠り鳥じもの朝立ちい行きて入日なす隠りにしかば我妹子が形見に置けるみどり子の乞ひ泣くごとに取り与ふ物しなければ男じもの脇ばさみ持ち我妹子と二人我が寝し枕付く妻屋のうちに昼はうらさび暮らし夜は息づき明かし嘆けども為むすべ知らに恋ふれども逢ふよしをなみ大鳥の羽がひの山に汝が恋ふる妹はいますと人の言へば岩根さくみてなづみ来しよけくもぞなきうつそみと思ひし妹が灰にてませば
【214】去年見てし秋の月夜は渡れども相見し妹はいや年離る
【215】衾道を引手の山に妹を置きて山道思ふに生けるともなし
【216】家に来て我が屋を見れば玉床の外に向きけり妹が木枕
【217】秋山のしたへる妹なよ竹のとをよる子らはいかさまに思ひ居れか栲縄の長き命を露こそば朝に置きて夕は消ゆといへ霧こそば夕に立ちて朝は失すといへ梓弓音聞く我れもおほに見しこと悔しきを敷栲の手枕まきて剣太刀身に添へ寝けむ若草のその嬬の子は寂しみか思ひて寝らむ悔しみか思ひ恋ふらむ時ならず過ぎにし子らが朝露のごと夕霧のごと
【218】楽浪の志賀津の子らが[一云志賀の津の子が]罷り道の川瀬の道を見れば寂しも
【219】そら数ふ大津の子が逢ひし日におほに見しかば今ぞ悔しき
【220】玉藻よし讃岐の国は国からか見れども飽かぬ神からかここだ貴き天地日月とともに足り行かむ神の御面と継ぎ来る那珂の港ゆ船浮けて我が漕ぎ来れば時つ風雲居に吹くに沖見ればとゐ波立ち辺見れば白波騒く鯨魚取り海を畏み行く船の梶引き折りてをちこちの島は多けど名ぐはし狭岑の島の荒磯面に廬りて見れば波の音の繁き浜辺を敷栲の枕になして荒床にころ臥す君が家知らば行きても告げむ妻知らば来も問はましを玉桙の道だに知らずおほほしく待ちか恋ふらむはしき妻らは
【221】妻もあらば摘みて食げまし沙弥の山野の上のうはぎ過ぎにけらずや
【222】沖つ波来寄る荒礒を敷栲の枕とまきて寝せる君かも
【223】鴨山の岩根しまける我れをかも知らにと妹が待ちつつあるらむ
【224】今日今日と我が待つ君は石川の峽に[一云谷に]交りてありといはずやも
【225】直の逢ひは逢ひかつましじ石川に雲立ち渡れ見つつ偲はむ
【226】荒波に寄り来る玉を枕に置き我れここにありと誰れか告げなむ
【227】天離る鄙の荒野に君を置きて思ひつつあれば生けるともなし
【228】妹が名は千代に流れむ姫島の小松がうれに蘿生すまでに
【229】難波潟潮干なありそね沈みにし妹が姿を見まく苦しも
【230】梓弓手に取り持ちてますらをのさつ矢手挟み立ち向ふ高円山に春野焼く野火と見るまで燃ゆる火を何かと問へば玉鉾の道来る人の泣く涙こさめに降れば白栲の衣ひづちて立ち留まり我れに語らくなにしかももとなとぶらふ聞けば哭のみし泣かゆ語れば心ぞ痛き天皇の神の御子のいでましの手火の光りぞここだ照りたる
【231】高円の野辺の秋萩いたづらに咲きか散るらむ見る人なしに
【232】御笠山野辺行く道はこきだくも繁く荒れたるか久にあらなくに
【233】高円の野辺の秋萩な散りそね君が形見に見つつ偲はむ
【234】御笠山野辺ゆ行く道こきだくも荒れにけるかも久にあらなくに
第3巻
【235】大君は神にしませば天雲の雷の上に廬りせるかも
【236】いなと言へど強ふる志斐のが強ひ語りこのころ聞かずて我れ恋ひにけり
【237】いなと言へど語れ語れと宣らせこそ志斐いは申せ強ひ語りと詔る
【238】大宮の内まで聞こゆ網引すと網子ととのふる海人の呼び声
【239】やすみしし我が大君高照らす我が日の御子の馬並めて御狩り立たせる若薦を狩路の小野に獣こそばい匍ひ拝め鶉こそい匍ひ廻れ獣じものい匍ひ拝み鶉なすい匍ひ廻り畏みと仕へまつりてひさかたの天見るごとくまそ鏡仰ぎて見れど春草のいやめづらしき我が大君かも
【240】ひさかたの天行く月を網に刺し我が大君は蓋にせり
【241】大君は神にしませば真木の立つ荒山中に海を成すかも
【242】滝の上の三船の山に居る雲の常にあらむと我が思はなくに
【243】大君は千年に座さむ白雲も三船の山に絶ゆる日あらめや
【244】み吉野の三船の山に立つ雲の常にあらむと我が思はなくに
【245】聞きしごとまこと尊くくすしくも神さびをるかこれの水島
【246】芦北の野坂の浦ゆ船出して水島に行かむ波立つなゆめ
【247】沖つ波辺波立つとも我が背子が御船の泊り波立ためやも
【248】隼人の薩摩の瀬戸を雲居なす遠くも我れは今日見つるかも
【249】御津の崎波を畏み隠江の舟公宣奴嶋尓
【250】玉藻刈る敏馬を過ぎて夏草の野島が崎に船近づきぬ
【251】淡路の野島が崎の浜風に妹が結びし紐吹き返す
【252】荒栲の藤江の浦に鱸釣る海人とか見らむ旅行く我れを
【253】稲日野も行き過ぎかてに思へれば心恋しき加古の島見ゆ[一云水門見ゆ]
【254】燈火の明石大門に入らむ日や漕ぎ別れなむ家のあたり見ず
【255】天離る鄙の長道ゆ恋ひ来れば明石の門より大和島見ゆ[一本云家のあたり見ゆ]
【256】笥飯の海の庭よくあらし刈薦の乱れて出づ見ゆ海人の釣船
【257】天降りつく天の香具山霞立つ春に至れば松風に池波立ちて桜花木の暗茂に沖辺には鴨妻呼ばひ辺つ辺にあぢ群騒きももしきの大宮人の退り出て遊ぶ船には楫棹もなくて寂しも漕ぐ人なしに
【258】人漕がずあらくもしるし潜きする鴛鴦とたかべと船の上に棲む
【259】いつの間も神さびけるか香具山の桙杉の本に苔生すまでに
【260】天降りつく神の香具山うち靡く春さり来れば桜花木の暗茂に松風に池波立ち辺つ辺にはあぢ群騒き沖辺には鴨妻呼ばひももしきの大宮人の退り出て漕ぎける船は棹楫もなくて寂しも漕がむと思へど
【261】やすみしし我が大君高照らす日の御子敷きいます大殿の上にひさかたの天伝ひ来る雪じもの行き通ひつついや常世まで
【262】矢釣山木立も見えず降りまがふ雪に騒ける朝楽しも
【263】馬ないたく打ちてな行きそ日ならべて見ても我が行く志賀にあらなくに
【264】もののふの八十宇治川の網代木にいさよふ波のゆくへ知らずも
【265】苦しくも降り来る雨か三輪の崎狭野の渡りに家もあらなくに
【266】近江の海夕波千鳥汝が鳴けば心もしのにいにしへ思ほゆ
【267】むささびは木末求むとあしひきの山のさつ男にあひにけるかも
【268】我が背子が古家の里の明日香には千鳥鳴くなり妻待ちかねて
【269】人見ずは我が袖もちて隠さむを焼けつつかあらむ着ずて来にけり
【270】旅にしてもの恋しきに山下の赤のそほ船沖を漕ぐ見ゆ
【271】桜田へ鶴鳴き渡る年魚市潟潮干にけらし鶴鳴き渡る
【272】四極山うち越え見れば笠縫の島漕ぎ隠る棚なし小舟
【273】磯の崎漕ぎ廻み行けば近江の海八十の港に鶴さはに鳴く[未詳]
【274】我が舟は比良の港に漕ぎ泊てむ沖へな離りさ夜更けにけり
【275】いづくにか我は宿らむ高島の勝野の原にこの日暮れなば
【276】妹も我れも一つなれかも三河なる二見の道ゆ別れかねつる
【277】早来ても見てましものを山背の高の槻群散りにけるかも
【278】志賀の海女は藻刈り塩焼き暇なみ櫛笥の小櫛取りも見なくに
【279】我妹子に猪名野は見せつ名次山角の松原いつか示さむ
【280】いざ子ども大和へ早く白菅の真野の榛原手折りて行かむ
【281】白菅の真野の榛原行くさ来さ君こそ見らめ真野の榛原
【282】つのさはふ磐余も過ぎず泊瀬山いつかも越えむ夜は更けにつつ
【283】住吉の得名津に立ちて見わたせば武庫の泊りゆ出づる船人
【284】焼津辺に我が行きしかば駿河なる阿倍の市道に逢ひし子らはも
【285】栲領巾の懸けまく欲しき妹が名をこの背の山に懸けばいかにあらむ[一云替へばいかにあらむ]
【286】よろしなへ我が背の君が負ひ来にしこの背の山を妹とは呼ばじ
【287】ここにして家やもいづく白雲のたなびく山を越えて来にけり
【288】我が命のま幸くあらばまたも見む志賀の大津に寄する白波
【289】天の原振り放け見れば白真弓張りて懸けたり夜道はよけむ
【290】倉橋の山を高みか夜隠りに出で来る月の光乏しき
【291】真木の葉のしなふ背の山偲はずて我が越え行けば木の葉知りけむ
【292】ひさかたの天の探女が岩船の泊てし高津はあせにけるかも
【293】潮干の御津の海女のくぐつ持ち玉藻刈るらむいざ行きて見む
【294】風をいたみ沖つ白波高からし海人の釣舟浜に帰りぬ
【295】住吉の岸の松原遠つ神我が大君の幸しところ
【296】廬原の清見の崎の三保の浦のゆたけき見つつ物思ひもなし
【297】昼見れど飽かぬ田子の浦大君の命畏み夜見つるかも
【298】真土山夕越え行きて廬前の角太川原にひとりかも寝む
【299】奥山の菅の葉しのぎ降る雪の消なば惜しけむ雨な降りそね
【300】佐保過ぎて奈良の手向けに置く幣は妹を目離れず相見しめとぞ
【301】岩が根のこごしき山を越えかねて音には泣くとも色に出でめやも
【302】子らが家道やや間遠きをぬばたまの夜渡る月に競ひあへむかも
【303】名ぐはしき印南の海の沖つ波千重に隠りぬ大和島根は
【304】大君の遠の朝廷とあり通ふ島門を見れば神代し思ほゆ
【305】かく故に見じと言ふものを楽浪の旧き都を見せつつもとな
【306】伊勢の海の沖つ白波花にもが包みて妹が家づとにせむ
【307】はだ薄久米の若子がいましける[一云けむ]三穂の石室は見れど飽かぬかも[一云荒れにけるかも]
【308】常磐なす石室は今もありけれど住みける人ぞ常なかりける
【309】石室戸に立てる松の木汝を見れば昔の人を相見るごとし
【310】東の市の植木の木垂るまで逢はず久しみうべ恋ひにけり
【311】梓弓引き豊国の鏡山見ず久ならば恋しけむかも
【312】昔こそ難波田舎と言はれけめ今は都引き都びにけり
【313】み吉野の滝の白波知らねども語りし継げばいにしへ思ほゆ
【314】さざれ波礒越道なる能登瀬川音のさやけさたぎつ瀬ごとに
【315】み吉野の吉野の宮は山からし貴くあらし川からしさやけくあらし天地と長く久しく万代に変はらずあらむ幸しの宮
【316】昔見し象の小川を今見ればいよよさやけくなりにけるかも
【317】天地の別れし時ゆ神さびて高く貴き駿河なる富士の高嶺を天の原振り放け見れば渡る日の影も隠らひ照る月の光も見えず白雲もい行きはばかり時じくぞ雪は降りける語り継ぎ言ひ継ぎ行かむ富士の高嶺は
【318】田子の浦ゆうち出でて見れば真白にぞ富士の高嶺に雪は降りける
【319】なまよみの甲斐の国うち寄する駿河の国とこちごちの国のみ中ゆ出で立てる富士の高嶺は天雲もい行きはばかり飛ぶ鳥も飛びも上らず燃ゆる火を雪もち消ち降る雪を火もち消ちつつ言ひも得ず名付けも知らずくすしくもいます神かもせの海と名付けてあるもその山のつつめる海ぞ富士川と人の渡るもその山の水のたぎちぞ日の本の大和の国の鎮めともいます神かも宝ともなれる山かも駿河なる富士の高嶺は見れど飽かぬかも
【320】富士の嶺に降り置く雪は六月の十五日に消ぬればその夜降りけり
【321】富士の嶺を高み畏み天雲もい行きはばかりたなびくものを
【322】すめろきの神の命の敷きませる国のことごと湯はしもさはにあれども島山の宣しき国とこごしかも伊予の高嶺の射狭庭の岡に立たして歌思ひ辞思はししみ湯の上の木群を見れば臣の木も生ひ継ぎにけり鳴く鳥の声も変らず遠き代に神さびゆかむ幸しところ
【323】ももしきの大宮人の熟田津に船乗りしけむ年の知らなく
【324】みもろの神なび山に五百枝さししじに生ひたる栂の木のいや継ぎ継ぎに玉葛絶ゆることなくありつつもやまず通はむ明日香の古き都は山高み川とほしろし春の日は山し見がほし秋の夜は川しさやけし朝雲に鶴は乱れ夕霧にかはづは騒く見るごとに音のみし泣かゆいにしへ思へば
【325】明日香河川淀さらず立つ霧の思ひ過ぐべき恋にあらなくに
【326】見わたせば明石の浦に燭す火の穂にぞ出でぬる妹に恋ふらく
【327】海神の沖に持ち行きて放つともうれむぞこれがよみがへりなむ
【328】あをによし奈良の都は咲く花のにほふがごとく今盛りなり
【329】やすみしし我が大君の敷きませる国の中には都し思ほゆ
【330】藤波の花は盛りになりにけり奈良の都を思ほすや君
【331】我が盛りまたをちめやもほとほとに奈良の都を見ずかなりなむ
【332】我が命も常にあらぬか昔見し象の小川を行きて見むため
【333】浅茅原つばらつばらにもの思へば古りにし里し思ほゆるかも
【334】忘れ草我が紐に付く香具山の古りにし里を忘れむがため
【335】我が行きは久にはあらじ夢のわだ瀬にはならずて淵にありこそ
【336】しらぬひ筑紫の綿は身に付けていまだは着ねど暖けく見ゆ
【337】憶良らは今は罷らむ子泣くらむそれその母も我を待つらむぞ
【338】験なきものを思はずは一杯の濁れる酒を飲むべくあるらし
【339】酒の名を聖と負ほせしいにしへの大き聖の言の宣しさ
【340】いにしへの七の賢しき人たちも欲りせしものは酒にしあるらし
【341】賢しみと物言ふよりは酒飲みて酔ひ泣きするしまさりたるらし
【342】言はむすべ為むすべ知らず極まりて貴きものは酒にしあるらし
【343】なかなかに人とあらずは酒壷になりにてしかも酒に染みなむ
【344】あな醜賢しらをすと酒飲まぬ人をよく見ば猿にかも似む
【345】価なき宝といふとも一杯の濁れる酒にあにまさめやも
【346】夜光る玉といふとも酒飲みて心を遣るにあにしかめやも
【347】世間の遊びの道に楽しきは酔ひ泣きするにあるべくあるらし
【348】この世にし楽しくあらば来む世には虫に鳥にも我れはなりなむ
【349】生ける者遂にも死ぬるものにあればこの世なる間は楽しくをあらな
【350】黙居りて賢しらするは酒飲みて酔ひ泣きするになほしかずけり
【351】世間を何に譬へむ朝開き漕ぎ去にし船の跡なきごとし
【352】葦辺には鶴がね鳴きて港風寒く吹くらむ津乎の崎はも
【353】み吉野の高城の山に白雲は行きはばかりてたなびけり見ゆ
【354】縄の浦に塩焼く煙夕されば行き過ぎかねて山にたなびく
【355】大汝少彦名のいましけむ志都の石屋は幾代経にけむ
【356】今日もかも明日香の川の夕さらずかはづ鳴く瀬のさやけくあるらむ[或本歌發句云明日香川今もかもとな]
【357】縄の浦ゆそがひに見ゆる沖つ島漕ぎ廻る舟は釣りしすらしも
【358】武庫の浦を漕ぎ廻る小舟粟島をそがひに見つつ羨しき小舟
【359】阿倍の島鵜の住む磯に寄する波間なくこのころ大和し思ほゆ
【360】潮干なば玉藻刈りつめ家の妹が浜づと乞はば何を示さむ
【361】秋風の寒き朝明を佐農の岡越ゆらむ君に衣貸さましを
【362】みさご居る磯廻に生ふるなのりその名は告らしてよ親は知るとも
【363】みさご居る荒磯に生ふるなのりそのよし名は告らせ親は知るとも
【364】ますらをの弓末振り起し射つる矢を後見む人は語り継ぐがね
【365】塩津山打ち越え行けば我が乗れる馬ぞつまづく家恋ふらしも
【366】越の海の角鹿の浜ゆ大船に真楫貫き下ろし鯨魚取り海道に出でて喘きつつ我が漕ぎ行けばますらをの手結が浦に海女娘子塩焼く煙草枕旅にしあればひとりして見る験なみ海神の手に巻かしたる玉たすき懸けて偲ひつ大和島根を
【367】越の海の手結が浦を旅にして見れば羨しみ大和偲ひつ
【368】大船に真楫しじ貫き大君の命畏み磯廻するかも
【369】物部の臣の壮士は大君の任けのまにまに聞くといふものぞ
【370】雨降らずとの曇る夜のぬるぬると恋ひつつ居りき君待ちがてり
【371】意宇の海の河原の千鳥汝が鳴けば我が佐保川の思ほゆらくに
【372】春日を春日の山の高座の御笠の山に朝さらず雲居たなびき貌鳥の間なくしば鳴く雲居なす心いさよひその鳥の片恋のみに昼はも日のことごと夜はも夜のことごと立ちて居て思ひぞ我がする逢はぬ子故に
【373】高座の御笠の山に鳴く鳥の止めば継がるる恋もするかも
【374】雨降らば着むと思へる笠の山人にな着せそ濡れは漬つとも
【375】吉野なる菜摘の川の川淀に鴨ぞ鳴くなる山蔭にして
【376】あきづ羽の袖振る妹を玉櫛笥奥に思ふを見たまへ我が君
【377】青山の嶺の白雲朝に日に常に見れどもめづらし我が君
【378】いにしへの古き堤は年深み池の渚に水草生ひにけり
【379】ひさかたの天の原より生れ来る神の命奥山の賢木の枝にしらか付け木綿取り付けて斎瓮を斎ひ掘り据ゑ竹玉を繁に貫き垂れ獣じもの膝折り伏してたわや女の襲取り懸けかくだにも我れは祈ひなむ君に逢はじかも
【380】木綿畳手に取り持ちてかくだにも我れは祈ひなむ君に逢はじかも
【381】家思ふと心進むな風まもり好くしていませ荒しその道
【382】鶏が鳴く東の国に高山はさはにあれども二神の貴き山の並み立ちの見が欲し山と神世より人の言ひ継ぎ国見する筑波の山を冬こもり時じき時と見ずて行かばまして恋しみ雪消する山道すらをなづみぞ我が来る
【383】筑波嶺を外のみ見つつありかねて雪消の道をなづみ来るかも
【384】我がやどに韓藍蒔き生ほし枯れぬれど懲りずてまたも蒔かむとぞ思ふ
【385】霰降り吉志美が岳をさがしみと草取りかなわ妹が手を取る
【386】この夕柘のさ枝の流れ来ば梁は打たずて取らずかもあらむ
【387】いにしへに梁打つ人のなかりせばここにもあらまし柘の枝はも
【388】海神はくすしきものか淡路島中に立て置きて白波を伊予に廻らし居待月明石の門ゆは夕されば潮を満たしめ明けされば潮を干しむ潮騒の波を畏み淡路島礒隠り居ていつしかもこの夜の明けむとさもらふに寐の寝かてねば滝の上の浅野の雉明けぬとし立ち騒くらしいざ子どもあへて漕ぎ出む庭も静けし
【389】島伝ひ敏馬の崎を漕ぎ廻れば大和恋しく鶴さはに鳴く
【390】軽の池の浦廻行き廻る鴨すらに玉藻の上にひとり寝なくに
【391】鳥総立て足柄山に船木伐り木に伐り行きつあたら船木を
【392】ぬばたまのその夜の梅をた忘れて折らず来にけり思ひしものを
【393】見えずとも誰れ恋ひざらめ山の端にいさよふ月を外に見てしか
【394】標結ひて我が定めてし住吉の浜の小松は後も我が松
【395】託馬野に生ふる紫草衣に染めいまだ着ずして色に出でにけり
【396】陸奥の真野の草原遠けども面影にして見ゆといふものを
【397】奥山の岩本菅を根深めて結びし心忘れかねつも
【398】妹が家に咲きたる梅のいつもいつもなりなむ時に事は定めむ
【399】妹が家に咲きたる花の梅の花実にしなりなばかもかくもせむ
【400】梅の花咲きて散りぬと人は言へど我が標結ひし枝にあらめやも
【401】山守のありける知らにその山に標結ひ立てて結ひの恥しつ
【402】山守はけだしありとも我妹子が結ひけむ標を人解かめやも
【403】朝に日に見まく欲りするその玉をいかにせばかも手ゆ離れずあらむ
【404】ちはやぶる神の社しなかりせば春日の野辺に粟蒔かましを
【405】春日野に粟蒔けりせば鹿待ちに継ぎて行かましを社し恨めし
【406】我が祭る神にはあらず大夫に憑きたる神ぞよく祭るべし
【407】春霞春日の里の植ゑ子水葱苗なりと言ひし枝はさしにけむ
【408】なでしこがその花にもが朝な朝な手に取り持ちて恋ひぬ日なけむ
【409】一日には千重波しきに思へどもなぞその玉の手に巻きかたき
【410】橘を宿に植ゑ生ほし立ちて居て後に悔ゆとも験あらめやも
【411】我妹子がやどの橘いと近く植ゑてし故にならずはやまじ
【412】いなだきにきすめる玉は二つなしかにもかくにも君がまにまに
【413】須磨の海女の塩焼き衣の藤衣間遠にしあればいまだ着なれず
【414】あしひきの岩根こごしみ菅の根を引かばかたみと標のみぞ結ふ
【415】家にあらば妹が手まかむ草枕旅に臥やせるこの旅人あはれ
【416】百伝ふ磐余の池に鳴く鴨を今日のみ見てや雲隠りなむ
【417】大君の和魂あへや豊国の鏡の山を宮と定むる
【418】豊国の鏡の山の岩戸立て隠りにけらし待てど来まさず
【419】岩戸破る手力もがも手弱き女にしあればすべの知らなく
【420】なゆ竹のとをよる御子さ丹つらふ我が大君はこもりくの初瀬の山に神さびに斎きいますと玉梓の人ぞ言ひつるおよづれか我が聞きつるたはことか我が聞きつるも天地に悔しきことの世間の悔しきことは天雲のそくへの極み天地の至れるまでに杖つきもつかずも行きて夕占問ひ石占もちて我が宿にみもろを立てて枕辺に斎瓮を据ゑ竹玉を間なく貫き垂れ木綿たすきかひなに懸けて天なるささらの小野の七節菅手に取り持ちてひさかたの天の川原に出で立ちてみそぎてましを高山の巌の上にいませつるかも
【421】およづれのたはこととかも高山の巌の上に君が臥やせる
【422】石上布留の山なる杉群の思ひ過ぐべき君にあらなくに
【423】つのさはふ磐余の道を朝さらず行きけむ人の思ひつつ通ひけまくは霍公鳥鳴く五月にはあやめぐさ花橘を玉に貫き[一云貫き交へ]かづらにせむと九月のしぐれの時は黄葉を折りかざさむと延ふ葛のいや遠長く[一云葛の根のいや遠長に]万代に絶えじと思ひて[一云大船の思ひたのみて]通ひけむ君をば明日ゆ[一云君を明日ゆは]外にかも見む
【424】こもりくの泊瀬娘子が手に巻ける玉は乱れてありと言はずやも
【425】川風の寒き泊瀬を嘆きつつ君が歩くに似る人も逢へや
【426】草枕旅の宿りに誰が嬬か国忘れたる家待たまくに
【427】百足らず八十隈坂に手向けせば過ぎにし人にけだし逢はむかも
【428】こもりくの初瀬の山の山の際にいさよふ雲は妹にかもあらむ
【429】山の際ゆ出雲の子らは霧なれや吉野の山の嶺にたなびく
【430】八雲さす出雲の子らが黒髪は吉野の川の沖になづさふ
【431】いにしへにありけむ人の倭文幡の帯解き交へて伏屋立て妻問ひしけむ勝鹿の真間の手児名が奥つ城をこことは聞けど真木の葉や茂くあるらむ松が根や遠く久しき言のみも名のみも我れは忘らゆましじ
【432】我れも見つ人にも告げむ勝鹿の真間の手児名が奥つ城ところ
【433】葛飾の真間の入江にうち靡く玉藻刈りけむ手児名し思ほゆ
【434】風早の美穂の浦廻の白つつじ見れども寂しなき人思へば[或云見れば悲しもなき人思ふに]
【435】みつみつし久米の若子がい触れけむ礒の草根の枯れまく惜しも
【436】人言の繁きこのころ玉ならば手に巻き持ちて恋ひずあらましを
【437】妹も我れも清みの川の川岸の妹が悔ゆべき心は持たじ
【438】愛しき人のまきてし敷栲の我が手枕をまく人あらめや
【439】帰るべく時はなりけり都にて誰が手本をか我が枕かむ
【440】都なる荒れたる家にひとり寝ば旅にまさりて苦しかるべし
【441】大君の命畏み大殯の時にはあらねど雲隠ります
【442】世間は空しきものとあらむとぞこの照る月は満ち欠けしける
【443】天雲の向伏す国のますらをと言はれし人は天皇の神の御門に外の重に立ち侍ひ内の重に仕へ奉りて玉葛いや遠長く祖の名も継ぎ行くものと母父に妻に子どもに語らひて立ちにし日よりたらちねの母の命は斎瓮を前に据ゑ置きて片手には木綿取り持ち片手には和栲奉り平けくま幸くいませと天地の神を祈ひ祷みいかにあらむ年月日にかつつじ花にほへる君がにほ鳥のなづさひ来むと立ちて居て待ちけむ人は大君の命畏みおしてる難波の国にあらたまの年経るまでに白栲の衣も干さず朝夕にありつる君はいかさまに思ひませかうつせみの惜しきこの世を露霜の置きて去にけむ時にあらずして
【444】昨日こそ君はありしか思はぬに浜松の上に雲にたなびく
【445】いつしかと待つらむ妹に玉梓の言だに告げず去にし君かも
【446】我妹子が見し鞆の浦のむろの木は常世にあれど見し人ぞなき
【447】鞆の浦の礒のむろの木見むごとに相見し妹は忘らえめやも
【448】礒の上に根延ふむろの木見し人をいづらと問はば語り告げむか
【449】妹と来し敏馬の崎を帰るさにひとりし見れば涙ぐましも
【450】行くさにはふたり我が見しこの崎をひとり過ぐれば心悲しも[一云見も放かず来ぬ]
【451】人もなき空しき家は草枕旅にまさりて苦しかりけり
【452】妹としてふたり作りし我が山斎は木高く茂くなりにけるかも
【453】我妹子が植ゑし梅の木見るごとに心咽せつつ涙し流る
【454】はしきやし栄えし君のいましせば昨日も今日も我を召さましを
【455】かくのみにありけるものを萩の花咲きてありやと問ひし君はも
【456】君に恋ひいたもすべなみ葦鶴の哭のみし泣かゆ朝夕にして
【457】遠長く仕へむものと思へりし君しまさねば心どもなし
【458】みどり子の匍ひたもとほり朝夕に哭のみぞ我が泣く君なしにして
【459】見れど飽かずいましし君が黄葉のうつりい行けば悲しくもあるか
【460】栲づのの新羅の国ゆ人言をよしと聞かして問ひ放くる親族兄弟なき国に渡り来まして大君の敷きます国にうち日さす都しみみに里家はさはにあれどもいかさまに思ひけめかもつれもなき佐保の山辺に泣く子なす慕ひ来まして敷栲の家をも作りあらたまの年の緒長く住まひつついまししものを生ける者死ぬといふことに免れぬものにしあれば頼めりし人のことごと草枕旅なる間に佐保川を朝川渡り春日野をそがひに見つつあしひきの山辺をさして夕闇と隠りましぬれ言はむすべ為むすべ知らにたもとほりただひとりして白栲の衣袖干さず嘆きつつ我が泣く涙有間山雲居たなびき雨に降りきや
【461】留めえぬ命にしあれば敷栲の家ゆは出でて雲隠りにき
【462】今よりは秋風寒く吹きなむをいかにかひとり長き夜を寝む
【463】長き夜をひとりや寝むと君が言へば過ぎにし人の思ほゆらくに
【464】秋さらば見つつ偲へと妹が植ゑしやどのなでしこ咲きにけるかも
【465】うつせみの世は常なしと知るものを秋風寒み偲ひつるかも
【466】我がやどに花ぞ咲きたるそを見れど心もゆかずはしきやし妹がありせば水鴨なすふたり並び居手折りても見せましものをうつせみの借れる身なれば露霜の消ぬるがごとくあしひきの山道をさして入日なす隠りにしかばそこ思ふに胸こそ痛き言ひもえず名づけも知らず跡もなき世間にあれば為むすべもなし
【467】時はしもいつもあらむを心痛くい行く我妹かみどり子を置きて
【468】出でて行く道知らませばあらかじめ妹を留めむ関も置かましを
【469】妹が見しやどに花咲き時は経ぬ我が泣く涙いまだ干なくに
【470】かくのみにありけるものを妹も我れも千年のごとく頼みたりけり
【471】家離りいます我妹を留めかね山隠しつれ心どもなし
【472】世間し常かくのみとかつ知れど痛き心は忍びかねつも
【473】佐保山にたなびく霞見るごとに妹を思ひ出泣かぬ日はなし
【474】昔こそ外にも見しか我妹子が奥つ城と思へばはしき佐保山
【475】かけまくもあやに畏し言はまくもゆゆしきかも我が大君皇子の命万代に見したまはまし大日本久迩の都はうち靡く春さりぬれば山辺には花咲きををり川瀬には鮎子さ走りいや日異に栄ゆる時におよづれのたはこととかも白栲に舎人よそひて和束山御輿立たしてひさかたの天知らしぬれ臥いまろびひづち泣けども為むすべもなし
【476】我が大君天知らさむと思はねばおほにぞ見ける和束杣山
【477】あしひきの山さへ光り咲く花の散りぬるごとき我が大君かも
【478】かけまくもあやに畏し我が大君皇子の命のもののふの八十伴の男を召し集へ率ひたまひ朝狩に鹿猪踏み起し夕狩に鶉雉踏み立て大御馬の口抑へとめ御心を見し明らめし活道山木立の茂に咲く花もうつろひにけり世間はかくのみならしますらをの心振り起し剣太刀腰に取り佩き梓弓靫取り負ひて天地といや遠長に万代にかくしもがもと頼めりし皇子の御門の五月蝿なす騒く舎人は白栲に衣取り着て常なりし笑ひ振舞ひいや日異に変らふ見れば悲しきろかも
【479】はしきかも皇子の命のあり通ひ見しし活道の道は荒れにけり
【480】大伴の名に負ふ靫帯びて万代に頼みし心いづくか寄せむ
【481】白栲の袖さし交へて靡き寝し我が黒髪のま白髪になりなむ極み新世にともにあらむと玉の緒の絶えじい妹と結びてしことは果たさず思へりし心は遂げず白栲の手本を別れにきびにし家ゆも出でてみどり子の泣くをも置きて朝霧のおほになりつつ山背の相楽山の山の際に行き過ぎぬれば言はむすべ為むすべ知らに我妹子とさ寝し妻屋に朝には出で立ち偲ひ夕には入り居嘆かひ脇ばさむ子の泣くごとに男じもの負ひみ抱きみ朝鳥の哭のみ泣きつつ恋ふれども験をなみと言とはぬものにはあれど我妹子が入りにし山をよすかとぞ思ふ
【482】うつせみの世のことにあれば外に見し山をや今はよすかと思はむ
【483】朝鳥の哭のみし泣かむ我妹子に今またさらに逢ふよしをなみ
第4巻
【484】一日こそ人も待ちよき長き日をかくのみ待たば有りかつましじ
【485】神代より生れ継ぎ来れば人さはに国には満ちてあぢ群の通ひは行けど我が恋ふる君にしあらねば昼は日の暮るるまで夜は夜の明くる極み思ひつつ寐も寝かてにと明かしつらくも長きこの夜を
【486】山の端にあぢ群騒き行くなれど我れは寂しゑ君にしあらねば
【487】近江道の鳥篭の山なる不知哉川日のころごろは恋ひつつもあらむ
【488】君待つと我が恋ひ居れば我が宿の簾動かし秋の風吹く
【489】風をだに恋ふるは羨し風をだに来むとし待たば何か嘆かむ
【490】真野の浦の淀の継橋心ゆも思へや妹が夢にし見ゆる
【491】川上のいつ藻の花のいつもいつも来ませ我が背子時じけめやも
【492】衣手に取りとどこほり泣く子にもまされる我れを置きていかにせむ[舎人吉年]
【493】置きていなば妹恋ひむかも敷栲の黒髪敷きて長きこの夜を<[田部忌寸櫟子]>
【494】我妹子を相知らしめし人をこそ恋のまされば恨めしみ思へ
【495】朝日影にほへる山に照る月の飽かざる君を山越しに置きて
【496】み熊野の浦の浜木綿百重なす心は思へど直に逢はぬかも
【497】いにしへにありけむ人も我がごとか妹に恋ひつつ寐ねかてずけむ
【498】今のみのわざにはあらずいにしへの人ぞまさりて音にさへ泣きし
【499】百重にも来及かぬかもと思へかも君が使の見れど飽かずあらむ
【500】神風の伊勢の浜荻折り伏せて旅寝やすらむ荒き浜辺に
【501】娘子らが袖布留山の瑞垣の久しき時ゆ思ひき我れは
【502】夏野行く牡鹿の角の束の間も妹が心を忘れて思へや
【503】玉衣のさゐさゐしづみ家の妹に物言はず来にて思ひかねつも
【504】君が家に我が住坂の家道をも我れは忘れじ命死なずは
【505】今さらに何をか思はむうち靡き心は君に寄りにしものを
【506】我が背子は物な思ひそ事しあらば火にも水にも我れなけなくに
【507】敷栲の枕ゆくくる涙にぞ浮寝をしける恋の繁きに
【508】衣手の別かる今夜ゆ妹も我れもいたく恋ひむな逢ふよしをなみ
【509】臣の女の櫛笥に乗れる鏡なす御津の浜辺にさ丹つらふ紐解き放けず我妹子に恋ひつつ居れば明け暮れの朝霧隠り鳴く鶴の音のみし泣かゆ我が恋ふる千重の一重も慰もる心もありやと家のあたり我が立ち見れば青旗の葛城山にたなびける白雲隠る天さがる鄙の国辺に直向ふ淡路を過ぎ粟島をそがひに見つつ朝なぎに水手の声呼び夕なぎに楫の音しつつ波の上をい行きさぐくみ岩の間をい行き廻り稲日都麻浦廻を過ぎて鳥じものなづさひ行けば家の島荒磯の上にうち靡き繁に生ひたるなのりそがなどかも妹に告らず来にけむ
【510】白栲の袖解き交へて帰り来む月日を数みて行きて来ましを
【511】我が背子はいづく行くらむ沖つ藻の名張の山を今日か越ゆらむ
【512】秋の田の穂田の刈りばかか寄りあはばそこもか人の我を言成さむ
【513】大原のこのいち柴のいつしかと我が思ふ妹に今夜逢へるかも
【514】我が背子が着せる衣の針目おちず入りにけらしも我が心さへ
【515】ひとり寝て絶えにし紐をゆゆしみと為むすべ知らに音のみしぞ泣く
【516】我が持てる三相に搓れる糸もちて付けてましもの今ぞ悔しき
【517】神木にも手は触るといふをうつたへに人妻といへば触れぬものかも
【518】春日野の山辺の道をよそりなく通ひし君が見えぬころかも
【519】雨障み常する君はひさかたの昨夜の夜の雨に懲りにけむかも
【520】ひさかたの雨も降らぬか雨障み君にたぐひてこの日暮らさむ
【521】庭に立つ麻手刈り干し布曝す東女を忘れたまふな
【522】娘子らが玉櫛笥なる玉櫛の神さびけむも妹に逢はずあれば
【523】よく渡る人は年にもありといふをいつの間にぞも我が恋ひにける
【524】むし衾なごやが下に伏せれども妹とし寝ねば肌し寒しも
【525】佐保川の小石踏み渡りぬばたまの黒馬来る夜は年にもあらぬか
【526】千鳥鳴く佐保の川瀬のさざれ波やむ時もなし我が恋ふらくは
【527】来むと言ふも来ぬ時あるを来じと言ふを来むとは待たじ来じと言ふものを
【528】千鳥鳴く佐保の川門の瀬を広み打橋渡す汝が来と思へば
【529】佐保川の岸のつかさの柴な刈りそねありつつも春し来たらば立ち隠るがね
【530】赤駒の越ゆる馬柵の標結ひし妹が心は疑ひもなし
【531】梓弓爪引く夜音の遠音にも君が御幸を聞かくしよしも
【532】うちひさす宮に行く子をま悲しみ留むれば苦し遣ればすべなし
【533】難波潟潮干のなごり飽くまでに人の見る子を我れし羨しも
【534】遠妻のここにしあらねば玉桙の道をた遠み思ふそら安けなくに嘆くそら苦しきものをみ空行く雲にもがも高飛ぶ鳥にもがも明日行きて妹に言どひ我がために妹も事なく妹がため我れも事なく今も見るごとたぐひてもがも
【535】敷栲の手枕まかず間置きて年ぞ経にける逢はなく思へば
【536】意宇の海の潮干の潟の片思に思ひや行かむ道の長手を
【537】言清くいたもな言ひそ一日だに君いしなくはあへかたきかも
【538】人言を繁み言痛み逢はずありき心あるごとな思ひ我が背子
【539】我が背子し遂げむと言はば人言は繁くありとも出でて逢はましを
【540】我が背子にまたは逢はじかと思へばか今朝の別れのすべなかりつる
【541】この世には人言繁し来む世にも逢はむ我が背子今ならずとも
【542】常やまず通ひし君が使ひ来ず今は逢はじとたゆたひぬらし
【543】大君の行幸のまにまもののふの八十伴の男と出で行きし愛し夫は天飛ぶや軽の路より玉たすき畝傍を見つつあさもよし紀路に入り立ち真土山越ゆらむ君は黄葉の散り飛ぶ見つつにきびにし我れは思はず草枕旅をよろしと思ひつつ君はあらむとあそそにはかつは知れどもしかすがに黙もえあらねば我が背子が行きのまにまに追はむとは千たび思へど手弱女の我が身にしあれば道守の問はむ答へを言ひやらむすべを知らにと立ちてつまづく
【544】後れ居て恋ひつつあらずは紀の国の妹背の山にあらましものを
【545】我が背子が跡踏み求め追ひ行かば紀の関守い留めてむかも
【546】三香の原旅の宿りに玉桙の道の行き逢ひに天雲の外のみ見つつ言問はむよしのなければ心のみ咽せつつあるに天地の神言寄せて敷栲の衣手交へて己妻と頼める今夜秋の夜の百夜の長さありこせぬかも
【547】天雲の外に見しより我妹子に心も身さへ寄りにしものを
【548】今夜の早く明けなばすべをなみ秋の百夜を願ひつるかも
【549】天地の神も助けよ草枕旅行く君が家にいたるまで
【550】大船の思ひ頼みし君が去なば我れは恋ひむな直に逢ふまでに
【551】大和道の島の浦廻に寄する波間もなけむ我が恋ひまくは
【552】我が君はわけをば死ねと思へかも逢ふ夜逢はぬ夜二走るらむ
【553】天雲のそくへの極み遠けども心し行けば恋ふるものかも
【554】古人のたまへしめたる吉備の酒病めばすべなし貫簀賜らむ
【555】君がため醸みし待酒安の野にひとりや飲まむ友なしにして
【556】筑紫船いまだも来ねばあらかじめ荒ぶる君を見るが悲しさ
【557】大船を漕ぎの進みに岩に触れ覆らば覆れ妹によりては
【558】ちはやぶる神の社に我が懸けし幣は賜らむ妹に逢はなくに
【559】事もなく生き来しものを老いなみにかかる恋にも我れは逢へるかも
【560】恋ひ死なむ後は何せむ生ける日のためこそ妹を見まく欲りすれ
【561】思はぬを思ふと言はば大野なる御笠の杜の神し知らさむ
【562】暇なく人の眉根をいたづらに掻かしめつつも逢はぬ妹かも
【563】黒髪に白髪交り老ゆるまでかかる恋にはいまだ逢はなくに
【564】山菅の実ならぬことを我れに寄せ言はれし君は誰れとか寝らむ
【565】大伴の見つとは言はじあかねさし照れる月夜に直に逢へりとも
【566】草枕旅行く君を愛しみたぐひてぞ来し志賀の浜辺を
【567】周防なる磐国山を越えむ日は手向けよくせよ荒しその道
【568】み崎廻の荒磯に寄する五百重波立ちても居ても我が思へる君
【569】韓人の衣染むといふ紫の心に染みて思ほゆるかも
【570】大和へに君が発つ日の近づけば野に立つ鹿も響めてぞ鳴く
【571】月夜よし川の音清しいざここに行くも行かぬも遊びて行かむ
【572】まそ鏡見飽かぬ君に後れてや朝夕にさびつつ居らむ
【573】ぬばたまの黒髪変り白けても痛き恋には逢ふ時ありけり
【574】ここにありて筑紫やいづち白雲のたなびく山の方にしあるらし
【575】草香江の入江にあさる葦鶴のあなたづたづし友なしにして
【576】今よりは城の山道は寂しけむ我が通はむと思ひしものを
【577】我が衣人にな着せそ網引する難波壮士の手には触るとも
【578】天地とともに久しく住まはむと思ひてありし家の庭はも
【579】見まつりていまだ時だに変らねば年月のごと思ほゆる君
【580】あしひきの山に生ひたる菅の根のねもころ見まく欲しき君かも
【581】生きてあらば見まくも知らず何しかも死なむよ妹と夢に見えつる
【582】ますらをもかく恋ひけるをたわやめの恋ふる心にたぐひあらめやも
【583】月草のうつろひやすく思へかも我が思ふ人の言も告げ来ぬ
【584】春日山朝立つ雲の居ぬ日なく見まくの欲しき君にもあるかも
【585】出でていなむ時しはあらむをことさらに妻恋しつつ立ちていぬべしや
【586】相見ずは恋ひずあらましを妹を見てもとなかくのみ恋ひばいかにせむ
【587】我が形見見つつ偲はせあらたまの年の緒長く我れも偲はむ
【588】白鳥の飛羽山松の待ちつつぞ我が恋ひわたるこの月ごろを
【589】衣手を打廻の里にある我れを知らにぞ人は待てど来ずける
【590】あらたまの年の経ぬれば今しはとゆめよ我が背子我が名告らすな
【591】我が思ひを人に知るれか玉櫛笥開きあけつと夢にし見ゆる
【592】闇の夜に鳴くなる鶴の外のみに聞きつつかあらむ逢ふとはなしに
【593】君に恋ひいたもすべなみ奈良山の小松が下に立ち嘆くかも
【594】我がやどの夕蔭草の白露の消ぬがにもとな思ほゆるかも
【595】我が命の全けむ限り忘れめやいや日に異には思ひ増すとも
【596】八百日行く浜の真砂も我が恋にあにまさらじか沖つ島守
【597】うつせみの人目を繁み石橋の間近き君に恋ひわたるかも
【598】恋にもぞ人は死にする水無瀬川下ゆ我れ痩す月に日に異に
【599】朝霧のおほに相見し人故に命死ぬべく恋ひわたるかも
【600】伊勢の海の礒もとどろに寄する波畏き人に恋ひわたるかも
【601】心ゆも我は思はずき山川も隔たらなくにかく恋ひむとは
【602】夕されば物思ひまさる見し人の言とふ姿面影にして
【603】思ふにし死にするものにあらませば千たびぞ我れは死にかへらまし
【604】剣大刀身に取り添ふと夢に見つ何のさがぞも君に逢はむため
【605】天地の神の理なくはこそ我が思ふ君に逢はず死にせめ
【606】我れも思ふ人もな忘れおほなわに浦吹く風のやむ時もなし
【607】皆人を寝よとの鐘は打つなれど君をし思へば寐ねかてぬかも
【608】相思はぬ人を思ふは大寺の餓鬼の後方に額つくごとし
【609】心ゆも我は思はずきまたさらに我が故郷に帰り来むとは
【610】近くあれば見ねどもあるをいや遠く君がいまさば有りかつましじ
【611】今さらに妹に逢はめやと思へかもここだ我が胸いぶせくあるらむ
【612】なかなかに黙もあらましを何すとか相見そめけむ遂げざらまくに
【613】もの思ふと人に見えじとなまじひに常に思へりありぞかねつる
【614】相思はぬ人をやもとな白栲の袖漬つまでに音のみし泣くも
【615】我が背子は相思はずとも敷栲の君が枕は夢に見えこそ
【616】剣太刀名の惜しけくも我れはなし君に逢はずて年の経ぬれば
【617】葦辺より満ち来る潮のいや増しに思へか君が忘れかねつる
【618】さ夜中に友呼ぶ千鳥物思ふとわびをる時に鳴きつつもとな
【619】おしてる難波の菅のねもころに君が聞こして年深く長くし言へばまそ鏡磨ぎし心をゆるしてしその日の極み波の共靡く玉藻のかにかくに心は持たず大船の頼める時にちはやぶる神か離くらむうつせみの人か障ふらむ通はしし君も来まさず玉梓の使も見えずなりぬればいたもすべなみぬばたまの夜はすがらに赤らひく日も暮るるまで嘆けども験をなみ思へどもたづきを知らにたわや女と言はくもしるくたわらはの音のみ泣きつつた廻り君が使を待ちやかねてむ
【620】初めより長く言ひつつ頼めずはかかる思ひに逢はましものか
【621】間なく恋ふれにかあらむ草枕旅なる君が夢にし見ゆる
【622】草枕旅に久しくなりぬれば汝をこそ思へな恋ひそ我妹
【623】松の葉に月はゆつりぬ黄葉の過ぐれや君が逢はぬ夜ぞ多き
【624】道に逢ひて笑まししからに降る雪の消なば消ぬがに恋ふといふ我妹
【625】沖辺行き辺を行き今や妹がため我が漁れる藻臥束鮒
【626】君により言の繁きを故郷の明日香の川にみそぎしに行く[一尾云龍田越え御津の浜辺にみそぎしに行く]
【627】我がたもとまかむと思はむ大夫は変若水求め白髪生ひにけり
【628】白髪生ふることは思はず変若水はかにもかくにも求めて行かむ
【629】何すとか使の来つる君をこそかにもかくにも待ちかてにすれ
【630】初花の散るべきものを人言の繁きによりてよどむころかも
【631】うはへなきものかも人はしかばかり遠き家路を帰さく思へば
【632】目には見て手には取らえぬ月の内の楓のごとき妹をいかにせむ
【633】ここだくも思ひけめかも敷栲の枕片さる夢に見え来し
【634】家にして見れど飽かぬを草枕旅にも妻とあるが羨しさ
【635】草枕旅には妻は率たれども櫛笥のうちの玉をこそ思へ
【636】我が衣形見に奉る敷栲の枕を放けずまきてさ寝ませ
【637】我が背子が形見の衣妻どひに我が身は離けじ言とはずとも
【638】ただ一夜隔てしからにあらたまの月か経ぬると心惑ひぬ
【639】我が背子がかく恋ふれこそぬばたまの夢に見えつつ寐ねらえずけれ
【640】はしけやし間近き里を雲居にや恋ひつつ居らむ月も経なくに
【641】絶ゆと言はばわびしみせむと焼大刀のへつかふことは幸くや我が君
【642】我妹子に恋ひて乱ればくるべきに懸けて寄せむと我が恋ひそめし
【643】世の中の女にしあらば我が渡る痛背の川を渡りかねめや
【644】今は我はわびぞしにける息の緒に思ひし君をゆるさく思へば
【645】白栲の袖別るべき日を近み心にむせひ音のみし泣かゆ
【646】ますらをの思ひわびつつたびまねく嘆く嘆きを負はぬものかも
【647】心には忘るる日なく思へども人の言こそ繁き君にあれ
【648】相見ずて日長くなりぬこの頃はいかに幸くやいふかし我妹
【649】夏葛の絶えぬ使のよどめれば事しもあるごと思ひつるかも
【650】我妹子は常世の国に住みけらし昔見しより変若ましにけり
【651】ひさかたの天の露霜置きにけり家なる人も待ち恋ひぬらむ
【652】玉守に玉は授けてかつがつも枕と我れはいざふたり寝む
【653】心には忘れぬものをたまさかに見ぬ日さまねく月ぞ経にける
【654】相見ては月も経なくに恋ふと言はばをそろと我れを思ほさむかも
【655】思はぬを思ふと言はば天地の神も知らさむ邑礼左変
【656】我れのみぞ君には恋ふる我が背子が恋ふといふことは言のなぐさぞ
【657】思はじと言ひてしものをはねず色のうつろひやすき我が心かも
【658】思へども験もなしと知るものを何かここだく我が恋ひわたる
【659】あらかじめ人言繁しかくしあらばしゑや我が背子奥もいかにあらめ
【660】汝をと我を人ぞ離くなるいで我が君人の中言聞きこすなゆめ
【661】恋ひ恋ひて逢へる時だにうるはしき言尽してよ長くと思はば
【662】網児の山五百重隠せる佐堤の崎さで延へし子が夢にし見ゆる
【663】佐保渡り我家の上に鳴く鳥の声なつかしきはしき妻の子
【664】石上降るとも雨につつまめや妹に逢はむと言ひてしものを
【665】向ひ居て見れども飽かぬ我妹子に立ち別れ行かむたづき知らずも
【666】相見ぬは幾久さにもあらなくにここだく我れは恋ひつつもあるか
【667】恋ひ恋ひて逢ひたるものを月しあれば夜は隠るらむしましはあり待て
【668】朝に日に色づく山の白雲の思ひ過ぐべき君にあらなくに
【669】あしひきの山橘の色に出でよ語らひ継ぎて逢ふこともあらむ
【670】月読の光りに来ませあしひきの山きへなりて遠からなくに
【671】月読の光りは清く照らせれど惑へる心思ひあへなくに
【672】しつたまき数にもあらぬ命もて何かここだく我が恋ひわたる
【673】まそ鏡磨ぎし心をゆるしてば後に言ふとも験あらめやも
【674】真玉つくをちこち兼ねて言は言へど逢ひて後こそ悔にはありといへ
【675】をみなへし佐紀沢に生ふる花かつみかつても知らぬ恋もするかも
【676】海の底奥を深めて我が思へる君には逢はむ年は経ぬとも
【677】春日山朝居る雲のおほほしく知らぬ人にも恋ふるものかも
【678】直に逢ひて見てばのみこそたまきはる命に向ふ我が恋やまめ
【679】いなと言はば強ひめや我が背菅の根の思ひ乱れて恋ひつつもあらむ
【680】けだしくも人の中言聞かせかもここだく待てど君が来まさぬ
【681】なかなかに絶ゆとし言はばかくばかり息の緒にして我れ恋ひめやも
【682】思ふらむ人にあらなくにねもころに心尽して恋ふる我れかも
【683】言ふ言の畏き国ぞ紅の色にな出でそ思ひ死ぬとも
【684】今は我は死なむよ我が背生けりとも我れに依るべしと言ふといはなくに
【685】人言を繁みか君が二鞘の家を隔てて恋ひつつまさむ
【686】このころは千年や行きも過ぎぬると我れやしか思ふ見まく欲りかも
【687】うるはしと我が思ふ心速川の塞きに塞くともなほや崩えなむ
【688】青山を横ぎる雲のいちしろく我れと笑まして人に知らゆな
【689】海山も隔たらなくに何しかも目言をだにもここだ乏しき
【690】照る月を闇に見なして泣く涙衣濡らしつ干す人なしに
【691】ももしきの大宮人は多かれど心に乗りて思ほゆる妹
【692】うはへなき妹にもあるかもかくばかり人の心を尽さく思へば
【693】かくのみし恋ひやわたらむ秋津野にたなびく雲の過ぐとはなしに
【694】恋草を力車に七車積みて恋ふらく我が心から
【695】恋は今はあらじと我れは思へるをいづくの恋ぞつかみかかれる
【696】家人に恋過ぎめやもかはづ鳴く泉の里に年の経ぬれば
【697】我が聞きに懸けてな言ひそ刈り薦の乱れて思ふ君が直香ぞ
【698】春日野に朝居る雲のしくしくに我れは恋ひ増す月に日に異に
【699】一瀬には千たび障らひ行く水の後にも逢はむ今にあらずとも
【700】かくしてやなほや罷らむ近からぬ道の間をなづみ参ゐ来て
【701】はつはつに人を相見ていかにあらむいづれの日にかまた外に見む
【702】ぬばたまのその夜の月夜今日までに我れは忘れず間なくし思へば
【703】我が背子を相見しその日今日までに我が衣手は干る時もなし
【704】栲縄の長き命を欲りしくは絶えずて人を見まく欲りこそ
【705】はねかづら今する妹を夢に見て心のうちに恋ひわたるかも
【706】はねかづら今する妹はなかりしをいづれの妹ぞここだ恋ひたる
【707】思ひ遣るすべの知らねば片もひの底にぞ我れは恋ひ成りにける<[注土h之中]>
【708】またも逢はむよしもあらぬか白栲の我が衣手にいはひ留めむ
【709】夕闇は道たづたづし月待ちて行ませ我が背子その間にも見む
【710】み空行く月の光にただ一目相見し人の夢にし見ゆる
【711】鴨鳥の遊ぶこの池に木の葉落ちて浮きたる心我が思はなくに
【712】味酒を三輪の祝がいはふ杉手触れし罪か君に逢ひかたき
【713】垣ほなす人言聞きて我が背子が心たゆたひ逢はぬこのころ
【714】心には思ひわたれどよしをなみ外のみにして嘆きぞ我がする
【715】千鳥鳴く佐保の川門の清き瀬を馬うち渡しいつか通はむ
【716】夜昼といふ別き知らず我が恋ふる心はけだし夢に見えきや
【717】つれもなくあるらむ人を片思に我れは思へばわびしくもあるか
【718】思はぬに妹が笑ひを夢に見て心のうちに燃えつつぞ居る
【719】ますらをと思へる我れをかくばかりみつれにみつれ片思をせむ
【720】むらきもの心砕けてかくばかり我が恋ふらくを知らずかあるらむ
【721】あしひきの山にしをれば風流なみ我がするわざをとがめたまふな
【722】かくばかり恋ひつつあらずは石木にもならましものを物思はずして
【723】常世にと我が行かなくに小金門にもの悲しらに思へりし我が子の刀自をぬばたまの夜昼といはず思ふにし我が身は痩せぬ嘆くにし袖さへ濡れぬかくばかりもとなし恋ひば故郷にこの月ごろも有りかつましじ
【724】朝髪の思ひ乱れてかくばかり汝姉が恋ふれぞ夢に見えける
【725】にほ鳥の潜く池水心あらば君に我が恋ふる心示さね
【726】外に居て恋ひつつあらずは君が家の池に住むといふ鴨にあらましを
【727】忘れ草我が下紐に付けたれど醜の醜草言にしありけり
【728】人もなき国もあらぬか我妹子とたづさはり行きて副ひて居らむ
【729】玉ならば手にも巻かむをうつせみの世の人なれば手に巻きかたし
【730】逢はむ夜はいつもあらむを何すとかその宵逢ひて言の繁きも
【731】我が名はも千名の五百名に立ちぬとも君が名立たば惜しみこそ泣け
【732】今しはし名の惜しけくも我れはなし妹によりては千たび立つとも
【733】うつせみの世やも二行く何すとか妹に逢はずて我がひとり寝む
【734】我が思ひかくてあらずは玉にもがまことも妹が手に巻かれなむ
【735】春日山霞たなびき心ぐく照れる月夜にひとりかも寝む
【736】月夜には門に出で立ち夕占問ひ足占をぞせし行かまくを欲り
【737】かにかくに人は言ふとも若狭道の後瀬の山の後も逢はむ君
【738】世の中の苦しきものにありけらし恋にあへずて死ぬべき思へば
【739】後瀬山後も逢はむと思へこそ死ぬべきものを今日までも生けれ
【740】言のみを後も逢はむとねもころに我れを頼めて逢はざらむかも
【741】夢の逢ひは苦しかりけりおどろきて掻き探れども手にも触れねば
【742】一重のみ妹が結ばむ帯をすら三重結ぶべく我が身はなりぬ
【743】我が恋は千引の石を七ばかり首に懸けむも神のまにまに
【744】夕さらば屋戸開け設けて我れ待たむ夢に相見に来むといふ人を
【745】朝夕に見む時さへや我妹子が見れど見ぬごとなほ恋しけむ
【746】生ける世に我はいまだ見ず言絶えてかくおもしろく縫へる袋は
【747】我妹子が形見の衣下に着て直に逢ふまでは我れ脱かめやも
【748】恋ひ死なむそこも同じぞ何せむに人目人言言痛み我がせむ
【749】夢にだに見えばこそあらめかくばかり見えずしあるは恋ひて死ねとか
【750】思ひ絶えわびにしものを中々に何か苦しく相見そめけむ
【751】相見ては幾日も経ぬをここだくもくるひにくるひ思ほゆるかも
【752】かくばかり面影にのみ思ほえばいかにかもせむ人目繁くて
【753】相見てはしましも恋はなぎむかと思へどいよよ恋ひまさりけり
【754】夜のほどろ我が出でて来れば我妹子が思へりしくし面影に見ゆ
【755】夜のほどろ出でつつ来らくたび数多くなれば我が胸断ち焼くごとし
【756】外に居て恋ふれば苦し我妹子を継ぎて相見む事計りせよ
【757】遠くあらばわびてもあらむを里近くありと聞きつつ見ぬがすべなさ
【758】白雲のたなびく山の高々に我が思ふ妹を見むよしもがも
【759】いかならむ時にか妹を葎生の汚なきやどに入りいませてむ
【760】うち渡す武田の原に鳴く鶴の間なく時なし我が恋ふらくは
【761】早川の瀬に居る鳥のよしをなみ思ひてありし我が子はもあはれ
【762】神さぶといなにはあらずはたやはたかくして後に寂しけむかも
【763】玉の緒を沫緒に搓りて結べらばありて後にも逢はざらめやも
【764】百年に老舌出でてよよむとも我れはいとはじ恋ひは増すとも
【765】一重山へなれるものを月夜よみ門に出で立ち妹か待つらむ
【766】道遠み来じとは知れるものからにしかぞ待つらむ君が目を欲り
【767】都路を遠みか妹がこのころはうけひて寝れど夢に見え来ぬ
【768】今知らす久迩の都に妹に逢はず久しくなりぬ行きて早見な
【769】ひさかたの雨の降る日をただ独り山辺に居ればいぶせかりけり
【770】人目多み逢はなくのみぞ心さへ妹を忘れて我が思はなくに
【771】偽りも似つきてぞするうつしくもまこと我妹子我れに恋ひめや
【772】夢にだに見えむと我れはほどけども相し思はねばうべ見えずあらむ
【773】言とはぬ木すらあじさゐ諸弟らが練りのむらとにあざむかえけり
【774】百千たび恋ふと言ふとも諸弟らが練りのことばは我れは頼まじ
【775】鶉鳴く古りにし里ゆ思へども何ぞも妹に逢ふよしもなき
【776】言出しは誰が言にあるか小山田の苗代水の中淀にして
【777】我妹子がやどの籬を見に行かばけだし門より帰してむかも
【778】うつたへに籬の姿見まく欲り行かむと言へや君を見にこそ
【779】板葺の黒木の屋根は山近し明日の日取りて持ちて参ゐ来む
【780】黒木取り草も刈りつつ仕へめどいそしきわけとほめむともあらず[一云仕ふとも]
【781】ぬばたまの昨夜は帰しつ今夜さへ我れを帰すな道の長手を
【782】風高く辺には吹けども妹がため袖さへ濡れて刈れる玉藻ぞ
【783】をととしの先つ年より今年まで恋ふれどなぞも妹に逢ひかたき
【784】うつつにはさらにもえ言はず夢にだに妹が手本を卷き寝とし見ば
【785】我がやどの草の上白く置く露の身も惜しからず妹に逢はずあれば
【786】春の雨はいやしき降るに梅の花いまだ咲かなくいと若みかも
【787】夢のごと思ほゆるかもはしきやし君が使の数多く通へば
【788】うら若み花咲きかたき梅を植ゑて人の言繁み思ひぞ我がする
【789】心ぐく思ほゆるかも春霞たなびく時に言の通へば
【790】春風の音にし出なばありさりて今ならずとも君がまにまに
【791】奥山の岩蔭に生ふる菅の根のねもころ我れも相思はざれや
【792】春雨を待つとにしあらし我がやどの若木の梅もいまだふふめり
第5巻
【793】世間は空しきものと知る時しいよよますます悲しかりけり
【794】大君の遠の朝廷としらぬひ筑紫の国に泣く子なす慕ひ来まして息だにもいまだ休めず年月もいまだあらねば心ゆも思はぬ間にうち靡き臥やしぬれ言はむすべ為むすべ知らに岩木をも問ひ放け知らず家ならば形はあらむを恨めしき妹の命の我れをばもいかにせよとかにほ鳥のふたり並び居語らひし心背きて家離りいます
【795】家に行きていかにか我がせむ枕付く妻屋寂しく思ほゆべしも
【796】はしきよしかくのみからに慕ひ来し妹が心のすべもすべなさ
【797】悔しかもかく知らませばあをによし国内ことごと見せましものを
【798】妹が見し楝の花は散りぬべし我が泣く涙いまだ干なくに
【799】大野山霧立ちわたる我が嘆くおきその風に霧立ちわたる
【800】父母を見れば貴し妻子見ればめぐし愛し世間はかくぞことわりもち鳥のかからはしもよゆくへ知らねば穿沓を脱き棄るごとく踏み脱きて行くちふ人は石木よりなり出し人か汝が名告らさね天へ行かば汝がまにまに地ならば大君いますこの照らす日月の下は天雲の向伏す極みたにぐくのさ渡る極み聞こし食す国のまほらぞかにかくに欲しきまにまにしかにはあらじか
【801】ひさかたの天道は遠しなほなほに家に帰りて業を為まさに
【802】瓜食めば子ども思ほゆ栗食めばまして偲はゆいづくより来りしものぞまなかひにもとなかかりて安寐し寝さぬ
【803】銀も金も玉も何せむにまされる宝子にしかめやも
【804】世間のすべなきものは年月は流るるごとしとり続き追ひ来るものは百種に迫め寄り来る娘子らが娘子さびすと唐玉を手本に巻かし[白妙の袖振り交はし紅の赤裳裾引き]よち子らと手携はりて遊びけむ時の盛りを留みかね過ぐしやりつれ蜷の腸か黒き髪にいつの間か霜の降りけむ紅の[丹のほなす]面の上にいづくゆか皺が来りし[常なりし笑まひ眉引き咲く花の移ろひにけり世間はかくのみならし]ますらをの男さびすと剣太刀腰に取り佩きさつ弓を手握り持ちて赤駒に倭文鞍うち置き這ひ乗りて遊び歩きし世間や常にありける娘子らがさ寝す板戸を押し開きい辿り寄りて真玉手の玉手さし交へさ寝し夜のいくだもあらねば手束杖腰にたがねてか行けば人に厭はえかく行けば人に憎まえ老よし男はかくのみならしたまきはる命惜しけど為むすべもなし
【805】常磐なすかくしもがもと思へども世の事なれば留みかねつも
【806】龍の馬も今も得てしかあをによし奈良の都に行きて来むため
【807】うつつには逢ふよしもなしぬばたまの夜の夢にを継ぎて見えこそ
【808】龍の馬を我れは求めむあをによし奈良の都に来む人のたに
【809】直に逢はずあらくも多く敷栲の枕去らずて夢にし見えむ
【810】いかにあらむ日の時にかも声知らむ人の膝の上我が枕かむ
【811】言とはぬ木にはありともうるはしき君が手馴れの琴にしあるべし
【812】言とはぬ木にもありとも我が背子が手馴れの御琴地に置かめやも
【813】かけまくはあやに畏し足日女神の命韓国を向け平らげて御心を鎮めたまふとい取らして斎ひたまひし真玉なす二つの石を世の人に示したまひて万代に言ひ継ぐかねと海の底沖つ深江の海上の子負の原に御手づから置かしたまひて神ながら神さびいます奇し御魂今のをつづに貴きろかむ
【814】天地のともに久しく言ひ継げとこの奇し御魂敷かしけらしも
【815】正月立ち春の来らばかくしこそ梅を招きつつ楽しき終へめ[大貳紀卿]
【816】梅の花今咲けるごと散り過ぎず我が家の園にありこせぬかも[少貳小野大夫]
【817】梅の花咲きたる園の青柳は蘰にすべくなりにけらずや[少貳粟田大夫]
【818】春さればまづ咲くやどの梅の花独り見つつや春日暮らさむ[筑前守山上大夫]
【819】世の中は恋繁しゑやかくしあらば梅の花にもならましものを[豊後守大伴大夫]
【820】梅の花今盛りなり思ふどちかざしにしてな今盛りなり[筑後守葛井大夫]
【821】青柳梅との花を折りかざし飲みての後は散りぬともよし[笠沙弥]
【822】我が園に梅の花散るひさかたの天より雪の流れ来るかも[主人]
【823】梅の花散らくはいづくしかすがにこの城の山に雪は降りつつ[大監伴氏百代]
【824】梅の花散らまく惜しみ我が園の竹の林に鴬鳴くも[小監阿氏奥嶋]
【825】梅の花咲きたる園の青柳を蘰にしつつ遊び暮らさな[小監土氏百村]
【826】うち靡く春の柳と我がやどの梅の花とをいかにか分かむ[大典史氏大原]
【827】春されば木末隠りて鴬ぞ鳴きて去ぬなる梅が下枝に[小典山氏若麻呂]
【828】人ごとに折りかざしつつ遊べどもいやめづらしき梅の花かも[大判事<丹>氏麻呂]
【829】梅の花咲きて散りなば桜花継ぎて咲くべくなりにてあらずや[藥師張氏福子]
【830】万代に年は来経とも梅の花絶ゆることなく咲きわたるべし[筑前介佐氏子首]
【831】春なればうべも咲きたる梅の花君を思ふと夜寐も寝なくに[壹岐守板氏安麻呂]
【832】梅の花折りてかざせる諸人は今日の間は楽しくあるべし[神司荒氏稲布]
【833】年のはに春の来らばかくしこそ梅をかざして楽しく飲まめ[大令史野氏宿奈麻呂]
【834】梅の花今盛りなり百鳥の声の恋しき春来るらし[小令史田氏肥人]
【835】春さらば逢はむと思ひし梅の花今日の遊びに相見つるかも[藥師高氏義通]
【836】梅の花手折りかざして遊べども飽き足らぬ日は今日にしありけり[陰陽師礒氏法麻呂]
【837】春の野に鳴くや鴬なつけむと我が家の園に梅が花咲く[t師志氏大道]
【838】梅の花散り乱ひたる岡びには鴬鳴くも春かたまけて[大隅目榎氏鉢麻呂]
【839】春の野に霧立ちわたり降る雪と人の見るまで梅の花散る[筑前目田氏真上]
【840】春柳かづらに折りし梅の花誰れか浮かべし酒坏の上に[壹岐目村氏彼方]
【841】鴬の音聞くなへに梅の花我家の園に咲きて散る見ゆ[對馬目高氏老]
【842】我がやどの梅の下枝に遊びつつ鴬鳴くも散らまく惜しみ[薩摩目高氏海人]
【843】梅の花折りかざしつつ諸人の遊ぶを見れば都しぞ思ふ[土師氏御<道>]
【844】妹が家に雪かも降ると見るまでにここだもまがふ梅の花かも[小野氏國堅]
【845】鴬の待ちかてにせし梅が花散らずありこそ思ふ子がため[筑前拯門氏石足]
【846】霞立つ長き春日をかざせれどいやなつかしき梅の花かも[小野氏淡理]
【847】我が盛りいたくくたちぬ雲に飛ぶ薬食むともまた変若めやも
【848】雲に飛ぶ薬食むよは都見ばいやしき我が身また変若ぬべし
【849】残りたる雪に交れる梅の花早くな散りそ雪は消ぬとも
【850】雪の色を奪ひて咲ける梅の花今盛りなり見む人もがも
【851】我がやどに盛りに咲ける梅の花散るべくなりぬ見む人もがも
【852】梅の花夢に語らくみやびたる花と我れ思ふ酒に浮かべこそ[一云いたづらに我れを散らすな酒に浮べこそ]
【853】あさりする海人の子どもと人は言へど見るに知らえぬ貴人の子と
【854】玉島のこの川上に家はあれど君をやさしみあらはさずありき
【855】松浦川川の瀬光り鮎釣ると立たせる妹が裳の裾濡れぬ
【856】松浦なる玉島川に鮎釣ると立たせる子らが家道知らずも
【857】遠つ人松浦の川に若鮎釣る妹が手本を我れこそ卷かめ
【858】若鮎釣る松浦の川の川なみの並にし思はば我れ恋ひめやも
【859】春されば我家の里の川門には鮎子さ走る君待ちがてに
【860】松浦川七瀬の淀は淀むとも我れは淀まず君をし待たむ
【861】松浦川川の瀬早み紅の裳の裾濡れて鮎か釣るらむ
【862】人皆の見らむ松浦の玉島を見ずてや我れは恋ひつつ居らむ
【863】松浦川玉島の浦に若鮎釣る妹らを見らむ人の羨しさ
【864】後れ居て長恋せずは御園生の梅の花にもならましものを
【865】君を待つ松浦の浦の娘子らは常世の国の海人娘子かも
【866】はろはろに思ほゆるかも白雲の千重に隔てる筑紫の国は
【867】君が行き日長くなりぬ奈良道なる山斎の木立も神さびにけり
【868】松浦県佐用姫の子が領巾振りし山の名のみや聞きつつ居らむ
【869】足姫神の命の魚釣らすとみ立たしせりし石を誰れ見き[一云鮎釣ると]
【870】百日しも行かぬ松浦道今日行きて明日は来なむを何か障れる
【871】遠つ人松浦佐用姫夫恋ひに領巾振りしより負へる山の名
【872】山の名と言ひ継げとかも佐用姫がこの山の上に領巾を振りけむ
【873】万世に語り継げとしこの丘に領巾振りけらし松浦佐用姫
【874】海原の沖行く船を帰れとか領巾振らしけむ松浦佐用姫
【875】行く船を振り留みかねいかばかり恋しくありけむ松浦佐用姫
【876】天飛ぶや鳥にもがもや都まで送りまをして飛び帰るもの
【877】ひともねのうらぶれ居るに龍田山御馬近づかば忘らしなむか
【878】言ひつつも後こそ知らめとのしくも寂しけめやも君いまさずして
【879】万世にいましたまひて天の下奏したまはね朝廷去らずて
【880】天離る鄙に五年住まひつつ都のてぶり忘らえにけり
【881】かくのみや息づき居らむあらたまの来経行く年の限り知らずて
【882】我が主の御霊賜ひて春さらば奈良の都に召上げたまはね
【883】音に聞き目にはいまだ見ず佐用姫が領巾振りきとふ君松浦山
【884】国遠き道の長手をおほほしく今日や過ぎなむ言どひもなく
【885】朝露の消やすき我が身他国に過ぎかてぬかも親の目を欲り
【886】うちひさす宮へ上るとたらちしや母が手離れ常知らぬ国の奥処を百重山越えて過ぎ行きいつしかも都を見むと思ひつつ語らひ居れどおのが身し労はしければ玉桙の道の隈廻に草手折り柴取り敷きて床じものうち臥い伏して思ひつつ嘆き伏せらく国にあらば父とり見まし家にあらば母とり見まし世間はかくのみならし犬じもの道に伏してや命過ぎなむ[一云我が世過ぎなむ]
【887】たらちしの母が目見ずておほほしくいづち向きてか我が別るらむ
【888】常知らぬ道の長手をくれくれといかにか行かむ糧はなしに[一云干飯はなしに]
【889】家にありて母がとり見ば慰むる心はあらまし死なば死ぬとも[一云後は死ぬとも]
【890】出でて行きし日を数へつつ今日今日と我を待たすらむ父母らはも[一云母が悲しさ]
【891】一世にはふたたび見えぬ父母を置きてや長く我が別れなむ[一云相別れなむ]
【892】風交り雨降る夜の雨交り雪降る夜はすべもなく寒くしあれば堅塩をとりつづしろひ糟湯酒うちすすろひてしはぶかひ鼻びしびしにしかとあらぬひげ掻き撫でて我れをおきて人はあらじと誇ろへど寒くしあれば麻衾引き被り布肩衣ありのことごと着襲へども寒き夜すらを我れよりも貧しき人の父母は飢ゑ凍ゆらむ妻子どもは乞ふ乞ふ泣くらむこの時はいかにしつつか汝が世は渡る天地は広しといへど我がためは狭くやなりぬる日月は明しといへど我がためは照りやたまはぬ人皆か我のみやしかるわくらばに人とはあるを人並に我れも作るを綿もなき布肩衣の海松のごとわわけさがれるかかふのみ肩にうち掛け伏廬の曲廬の内に直土に藁解き敷きて父母は枕の方に妻子どもは足の方に囲み居て憂へさまよひかまどには火気吹き立てず甑には蜘蛛の巣かきて飯炊くことも忘れてぬえ鳥ののどよひ居るにいとのきて短き物を端切るといへるがごとくしもと取る里長が声は寝屋処まで来立ち呼ばひぬかくばかりすべなきものか世間の道
【893】世間を憂しとやさしと思へども飛び立ちかねつ鳥にしあらねば
【894】神代より言ひ伝て来らくそらみつ大和の国は皇神の厳しき国言霊の幸はふ国と語り継ぎ言ひ継がひけり今の世の人もことごと目の前に見たり知りたり人さはに満ちてはあれども高照らす日の朝廷神ながら愛での盛りに天の下奏したまひし家の子と選ひたまひて大御言[反云大みこと]戴き持ちてもろこしの遠き境に遣はされ罷りいませ海原の辺にも沖にも神づまり領きいますもろもろの大御神たち船舳に[反云ふなのへに]導きまをし天地の大御神たち大和の大国御魂ひさかたの天のみ空ゆ天翔り見わたしたまひ事終り帰らむ日にはまたさらに大御神たち船舳に御手うち掛けて墨縄を延へたるごとくあぢかをし値嘉の崎より大伴の御津の浜びに直泊てに御船は泊てむ障みなく幸くいまして早帰りませ
【895】大伴の御津の松原かき掃きて我れ立ち待たむ早帰りませ
【896】難波津に御船泊てぬと聞こえ来ば紐解き放けて立ち走りせむ
【897】たまきはるうちの限りは[謂瞻州人<壽>一百二十年也]平らけく安くもあらむを事もなく喪なくもあらむを世間の憂けく辛けくいとのきて痛き瘡には辛塩を注くちふがごとくますますも重き馬荷に表荷打つといふことのごと老いにてある我が身の上に病をと加へてあれば昼はも嘆かひ暮らし夜はも息づき明かし年長く病みしわたれば月重ね憂へさまよひことことは死ななと思へど五月蝿なす騒く子どもを打棄てては死には知らず見つつあれば心は燃えぬかにかくに思ひ煩ひ音のみし泣かゆ
【898】慰むる心はなしに雲隠り鳴き行く鳥の音のみし泣かゆ
【899】すべもなく苦しくあれば出で走り去ななと思へどこらに障りぬ
【900】富人の家の子どもの着る身なみ腐し捨つらむ絹綿らはも
【901】荒栲の布衣をだに着せかてにかくや嘆かむ為むすべをなみ
【902】水沫なすもろき命も栲縄の千尋にもがと願ひ暮らしつ
【903】しつたまき数にもあらぬ身にはあれど千年にもがと思ほゆるかも[去る神龜二年之を作る。但し類を以ての故に更に茲に載す]
【904】世間の貴び願ふ七種の宝も我れは何せむに我が中の生れ出でたる白玉の我が子古日は明星の明くる朝は敷栲の床の辺去らず立てれども居れどもともに戯れ夕星の夕になればいざ寝よと手を携はり父母もうへはなさがりさきくさの中にを寝むと愛しくしが語らへばいつしかも人と成り出でて悪しけくも吉けくも見むと大船の思ひ頼むに思はぬに邪しま風のにふふかに覆ひ来れば為むすべのたどきを知らに白栲のたすきを掛けまそ鏡手に取り持ちて天つ神仰ぎ祈ひ祷み国つ神伏して額つきかからずもかかりも神のまにまにと立ちあざり我れ祈ひ祷めどしましくも吉けくはなしにやくやくにかたちつくほり朝な朝な言ふことやみたまきはる命絶えぬれ立ち躍り足すり叫び伏し仰ぎ胸打ち嘆き手に持てる我が子飛ばしつ世間の道
【905】若ければ道行き知らじ賄はせむ黄泉の使負ひて通らせ
【906】布施置きて我れは祈ひ祷むあざむかず直に率行きて天道知らしめ
第6巻
【907】瀧の上の三船の山に瑞枝さし繁に生ひたる栂の木のいや継ぎ継ぎに万代にかくし知らさむみ吉野の秋津の宮は神からか貴くあるらむ国からか見が欲しからむ山川を清みさやけみうべし神代ゆ定めけらしも
【908】年のはにかくも見てしかみ吉野の清き河内のたぎつ白波
【909】山高み白木綿花におちたぎつ瀧の河内は見れど飽かぬかも
【910】神からか見が欲しからむみ吉野の滝の河内は見れど飽かぬかも
【911】み吉野の秋津の川の万代に絶ゆることなくまたかへり見む
【912】泊瀬女の造る木綿花み吉野の滝の水沫に咲きにけらずや
【913】味凝りあやにともしく鳴る神の音のみ聞きしみ吉野の真木立つ山ゆ見下ろせば川の瀬ごとに明け来れば朝霧立ち夕さればかはづ鳴くなへ紐解かぬ旅にしあれば我のみして清き川原を見らくし惜しも
【914】滝の上の三船の山は畏けど思ひ忘るる時も日もなし
【915】千鳥泣くみ吉野川の川音のやむ時なしに思ほゆる君
【916】あかねさす日並べなくに我が恋は吉野の川の霧に立ちつつ
【917】やすみしし我ご大君の常宮と仕へ奉れる雑賀野ゆそがひに見ゆる沖つ島清き渚に風吹けば白波騒き潮干れば玉藻刈りつつ神代よりしかぞ貴き玉津島山
【918】沖つ島荒礒の玉藻潮干満ちい隠りゆかば思ほえむかも
【919】若の浦に潮満ち来れば潟をなみ葦辺をさして鶴鳴き渡る
【920】あしひきのみ山もさやに落ちたぎつ吉野の川の川の瀬の清きを見れば上辺には千鳥しば鳴く下辺にはかはづ妻呼ぶももしきの大宮人もをちこちに繁にしあれば見るごとにあやに乏しみ玉葛絶ゆることなく万代にかくしもがもと天地の神をぞ祈る畏くあれども
【921】万代に見とも飽かめやみ吉野のたぎつ河内の大宮所
【922】皆人の命も我れもみ吉野の滝の常磐の常ならぬかも
【923】やすみしし我ご大君の高知らす吉野の宮はたたなづく青垣隠り川なみの清き河内ぞ春へは花咲きををり秋されば霧立ちわたるその山のいやしくしくにこの川の絶ゆることなくももしきの大宮人は常に通はむ
【924】み吉野の象山の際の木末にはここだも騒く鳥の声かも
【925】ぬばたまの夜の更けゆけば久木生ふる清き川原に千鳥しば鳴く
【926】やすみしし我ご大君はみ吉野の秋津の小野の野の上には跡見据ゑ置きてみ山には射目立て渡し朝狩に獣踏み起し夕狩に鳥踏み立て馬並めて御狩ぞ立たす春の茂野に
【927】あしひきの山にも野にも御狩人さつ矢手挾み騒きてあり見ゆ
【928】おしてる難波の国は葦垣の古りにし里と人皆の思ひやすみてつれもなくありし間に続麻なす長柄の宮に真木柱太高敷きて食す国を治めたまへば沖つ鳥味経の原にもののふの八十伴の男は廬りして都成したり旅にはあれども
【929】荒野らに里はあれども大君の敷きます時は都となりぬ
【930】海人娘女棚なし小舟漕ぎ出らし旅の宿りに楫の音聞こゆ
【931】鯨魚取り浜辺を清みうち靡き生ふる玉藻に朝なぎに千重波寄せ夕なぎに五百重波寄す辺つ波のいやしくしくに月に異に日に日に見とも今のみに飽き足らめやも白波のい咲き廻れる住吉の浜
【932】白波の千重に来寄する住吉の岸の埴生ににほひて行かな
【933】天地の遠きがごとく日月の長きがごとくおしてる難波の宮に我ご大君国知らすらし御食つ国日の御調と淡路の野島の海人の海の底沖つ海石に鰒玉さはに潜き出舟並めて仕へ奉るし貴し見れば
【934】朝なぎに楫の音聞こゆ御食つ国野島の海人の舟にしあるらし
【935】名寸隅の舟瀬ゆ見ゆる淡路島松帆の浦に朝なぎに玉藻刈りつつ夕なぎに藻塩焼きつつ海人娘女ありとは聞けど見に行かむよしのなければますらをの心はなしに手弱女の思ひたわみてたもとほり我れはぞ恋ふる舟楫をなみ
【936】玉藻刈る海人娘子ども見に行かむ舟楫もがも波高くとも
【937】行き廻り見とも飽かめや名寸隅の舟瀬の浜にしきる白波
【938】やすみしし我が大君の神ながら高知らせる印南野の大海の原の荒栲の藤井の浦に鮪釣ると海人舟騒き塩焼くと人ぞさはにある浦をよみうべも釣りはす浜をよみうべも塩焼くあり通ひ見さくもしるし清き白浜
【939】沖つ波辺波静けみ漁りすと藤江の浦に舟ぞ騒ける
【940】印南野の浅茅押しなべさ寝る夜の日長くしあれば家し偲はゆ
【941】明石潟潮干の道を明日よりは下笑ましけむ家近づけば
【942】あぢさはふ妹が目離れて敷栲の枕もまかず桜皮巻き作れる船に真楫貫き我が漕ぎ来れば淡路の野島も過ぎ印南嬬辛荷の島の島の際ゆ我家を見れば青山のそことも見えず白雲も千重になり来ぬ漕ぎ廻むる浦のことごと行き隠る島の崎々隈も置かず思ひぞ我が来る旅の日長み
【943】玉藻刈る唐荷の島に島廻する鵜にしもあれや家思はずあらむ
【944】島隠り我が漕ぎ来れば羨しかも大和へ上るま熊野の船
【945】風吹けば波か立たむとさもらひに都太の細江に浦隠り居り
【946】御食向ふ淡路の島に直向ふ敏馬の浦の沖辺には深海松採り浦廻にはなのりそ刈る深海松の見まく欲しけどなのりそのおのが名惜しみ間使も遣らずて我れは生けりともなし
【947】須磨の海女の塩焼き衣の慣れなばか一日も君を忘れて思はむ
【948】ま葛延ふ春日の山はうち靡く春さりゆくと山の上に霞たなびく高円に鴬鳴きぬもののふの八十伴の男は雁が音の来継ぐこの頃かく継ぎて常にありせば友並めて遊ばむものを馬並めて行かまし里を待ちかてに我がする春をかけまくもあやに畏し言はまくもゆゆしくあらむとあらかじめかねて知りせば千鳥鳴くその佐保川に岩に生ふる菅の根採りて偲ふ草祓へてましを行く水にみそぎてましを大君の命畏みももしきの大宮人の玉桙の道にも出でず恋ふるこの頃
【949】梅柳過ぐらく惜しみ佐保の内に遊びしことを宮もとどろに
【950】大君の境ひたまふと山守据ゑ守るといふ山に入らずはやまじ
【951】見わたせば近きものから岩隠りかがよふ玉を取らずはやまじ
【952】韓衣着奈良の里の嶋松に玉をし付けむよき人もがも
【953】さを鹿の鳴くなる山を越え行かむ日だにや君がはた逢はざらむ
【954】朝は海辺にあさりし夕されば大和へ越ゆる雁し羨しも
【955】さす竹の大宮人の家と住む佐保の山をば思ふやも君
【956】やすみしし我が大君の食す国は大和もここも同じとぞ思ふ
【957】いざ子ども香椎の潟に白栲の袖さへ濡れて朝菜摘みてむ
【958】時つ風吹くべくなりぬ香椎潟潮干の浦に玉藻刈りてな
【959】行き帰り常に我が見し香椎潟明日ゆ後には見むよしもなし
【960】隼人の瀬戸の巌も鮎走る吉野の瀧になほしかずけり
【961】湯の原に鳴く葦鶴は我がごとく妹に恋ふれや時わかず鳴く
【962】奥山の岩に苔生し畏くも問ひたまふかも思ひあへなくに
【963】大汝少彦名の神こそば名付けそめけめ名のみを名児山と負ひて我が恋の千重の一重も慰めなくに
【964】我が背子に恋ふれば苦し暇あらば拾ひて行かむ恋忘貝
【965】おほならばかもかもせむを畏みと振りたき袖を忍びてあるかも
【966】大和道は雲隠りたりしかれども我が振る袖をなめしと思ふな
【967】大和道の吉備の児島を過ぎて行かば筑紫の児島思ほえむかも
【968】ますらをと思へる我れや水茎の水城の上に涙拭はむ
【969】しましくも行きて見てしか神なびの淵はあせにて瀬にかなるらむ
【970】指進の栗栖の小野の萩の花散らむ時にし行きて手向けむ
【971】白雲の龍田の山の露霜に色づく時にうち越えて旅行く君は五百重山い行きさくみ敵守る筑紫に至り山のそき野のそき見よと伴の部を班ち遣はし山彦の答へむ極みたにぐくのさ渡る極み国形を見したまひて冬こもり春さりゆかば飛ぶ鳥の早く来まさね龍田道の岡辺の道に丹つつじのにほはむ時の桜花咲きなむ時に山たづの迎へ参ゐ出む君が来まさば
【972】千万の軍なりとも言挙げせず取りて来ぬべき男とぞ思ふ
【973】食す国の遠の朝廷に汝らがかく罷りなば平けく我れは遊ばむ手抱きて我れはいまさむ天皇我れうづの御手もちかき撫でぞねぎたまふうち撫でぞねぎたまふ帰り来む日相飲まむ酒ぞこの豊御酒は
【974】大夫の行くといふ道ぞおほろかに思ひて行くな大夫の伴
【975】かくしつつあらくをよみぞたまきはる短き命を長く欲りする
【976】難波潟潮干のなごりよく見てむ家なる妹が待ち問はむため
【977】直越のこの道にしておしてるや難波の海と名付けけらしも
【978】士やも空しくあるべき万代に語り継ぐべき名は立てずして
【979】我が背子が着る衣薄し佐保風はいたくな吹きそ家に至るまで
【980】雨隠り御笠の山を高みかも月の出で来ぬ夜はくたちつつ
【981】狩高の高円山を高みかも出で来る月の遅く照るらむ
【982】ぬばたまの夜霧の立ちておほほしく照れる月夜の見れば悲しさ
【983】山の端のささら愛壮士天の原門渡る光見らくしよしも
【984】雲隠り去方をなみと我が恋ふる月をや君が見まく欲りする
【985】天にます月読壮士賄はせむ今夜の長さ五百夜継ぎこそ
【986】はしきやし間近き里の君来むとおほのびにかも月の照りたる
【987】待ちかてに我がする月は妹が着る御笠の山に隠りてありけり
【988】春草は後はうつろふ巌なす常盤にいませ貴き我が君
【989】焼太刀のかど打ち放ち大夫の寿く豊御酒に我れ酔ひにけり
【990】茂岡に神さび立ちて栄えたる千代松の木の年の知らなく
【991】石走りたぎち流るる泊瀬川絶ゆることなくまたも来て見む
【992】故郷の飛鳥はあれどあをによし奈良の明日香を見らくしよしも
【993】月立ちてただ三日月の眉根掻き日長く恋ひし君に逢へるかも
【994】振り放けて三日月見れば一目見し人の眉引き思ほゆるかも
【995】かくしつつ遊び飲みこそ草木すら春は咲きつつ秋は散りゆく
【996】御民我れ生ける験あり天地の栄ゆる時にあへらく思へば
【997】住吉の粉浜のしじみ開けもみず隠りてのみや恋ひわたりなむ
【998】眉のごと雲居に見ゆる阿波の山懸けて漕ぐ舟泊り知らずも
【999】茅渟廻より雨ぞ降り来る四極の海人綱手干したり濡れもあへむかも
【1000】子らしあらばふたり聞かむを沖つ洲に鳴くなる鶴の暁の声
【1001】大夫は御狩に立たし娘子らは赤裳裾引く清き浜びを
【1002】馬の歩み抑へ留めよ住吉の岸の埴生ににほひて行かむ
【1003】海女娘子玉求むらし沖つ波畏き海に舟出せり見ゆ
【1004】思ほえず来ましし君を佐保川のかはづ聞かせず帰しつるかも
【1005】やすみしし我が大君の見したまふ吉野の宮は山高み雲ぞたなびく川早み瀬の音ぞ清き神さびて見れば貴くよろしなへ見ればさやけしこの山の尽きばのみこそこの川の絶えばのみこそももしきの大宮所やむ時もあらめ
【1006】神代より吉野の宮にあり通ひ高知らせるは山川をよみ
【1007】言問はぬ木すら妹と兄とありといふをただ独り子にあるが苦しさ
【1008】山の端にいさよふ月の出でむかと我が待つ君が夜はくたちつつ
【1009】橘は実さへ花さへその葉さへ枝に霜降れどいや常葉の木
【1010】奥山の真木の葉しのぎ降る雪の降りは増すとも地に落ちめやも
【1011】我が宿の梅咲きたりと告げ遣らば来と言ふに似たり散りぬともよし
【1012】春さればををりにををり鴬の鳴く我が山斎ぞやまず通はせ
【1013】あらかじめ君来まさむと知らませば門に宿にも玉敷かましを
【1014】一昨日も昨日も今日も見つれども明日さへ見まく欲しき君かも
【1015】玉敷きて待たましよりはたけそかに来る今夜し楽しく思ほゆ
【1016】海原の遠き渡りを風流士の遊ぶを見むとなづさひぞ来し
【1017】木綿畳手向けの山を今日越えていづれの野辺に廬りせむ我れ
【1018】白玉は人に知らえず知らずともよし知らずとも我れし知れらば知らずともよし
【1019】石上布留の命は手弱女の惑ひによりて馬じもの縄取り付け獣じもの弓矢囲みて大君の命畏み天離る鄙辺に罷る古衣真土の山ゆ帰り来ぬかも
【1020,1021】大君の命畏みさし並ぶ国に出でますはしきやし我が背の君をかけまくもゆゆし畏し住吉の現人神船舳にうしはきたまひ着きたまはむ島の崎々寄りたまはむ磯の崎々荒き波風にあはせず障みなく病あらせず速けく帰したまはねもとの国辺に
【1022】父君に我れは愛子ぞ母刀自に我れは愛子ぞ参ゐ上る八十氏人の手向けする畏の坂に幣奉り我れはぞ追へる遠き土佐道を
【1023】大崎の神の小浜は狭けども百舟人も過ぐと言はなくに
【1024】長門なる沖つ借島奥まへて我が思ふ君は千年にもがも
【1025】奥まへて我れを思へる我が背子は千年五百年ありこせぬかも
【1026】ももしきの大宮人は今日もかも暇をなみと里に出でずあらむ
【1027】橘の本に道踏む八衢に物をぞ思ふ人に知らえず
【1028】ますらをの高円山に迫めたれば里に下り来るむざさびぞこれ
【1029】河口の野辺に廬りて夜の経れば妹が手本し思ほゆるかも
【1030】妹に恋ひ吾の松原見わたせば潮干の潟に鶴鳴き渡る
【1031】後れにし人を思はく思泥の崎木綿取り垂でて幸くとぞ思ふ
【1032】大君の行幸のまにま我妹子が手枕まかず月ぞ経にける
【1033】御食つ国志摩の海人ならしま熊野の小舟に乗りて沖へ漕ぐ見ゆ
【1034】いにしへゆ人の言ひ来る老人の変若つといふ水ぞ名に負ふ瀧の瀬
【1035】田跡川の瀧を清みかいにしへゆ宮仕へけむ多芸の野の上に
【1036】関なくは帰りにだにもうち行きて妹が手枕まきて寝ましを
【1037】今造る久迩の都は山川のさやけき見ればうべ知らすらし
【1038】故郷は遠くもあらず一重山越ゆるがからに思ひぞ我がせし
【1039】我が背子とふたりし居らば山高み里には月は照らずともよし
【1040】ひさかたの雨は降りしけ思ふ子がやどに今夜は明かして行かむ
【1041】我がやどの君松の木に降る雪の行きには行かじ待にし待たむ
【1042】一つ松幾代か経ぬる吹く風の音の清きは年深みかも
【1043】たまきはる命は知らず松が枝を結ぶ心は長くとぞ思ふ
【1044】紅に深く染みにし心かも奈良の都に年の経ぬべき
【1045】世間を常なきものと今ぞ知る奈良の都のうつろふ見れば
【1046】岩綱のまた変若ちかへりあをによし奈良の都をまたも見むかも
【1047】やすみしし我が大君の高敷かす大和の国はすめろきの神の御代より敷きませる国にしあれば生れまさむ御子の継ぎ継ぎ天の下知らしまさむと八百万千年を兼ねて定めけむ奈良の都はかぎろひの春にしなれば春日山御笠の野辺に桜花木の暗隠り貌鳥は間なくしば鳴く露霜の秋さり来れば生駒山飛火が岳に萩の枝をしがらみ散らしさを鹿は妻呼び響む山見れば山も見が欲し里見れば里も住みよしもののふの八十伴の男のうちはへて思へりしくは天地の寄り合ひの極み万代に栄えゆかむと思へりし大宮すらを頼めりし奈良の都を新代のことにしあれば大君の引きのまにまに春花のうつろひ変り群鳥の朝立ち行けばさす竹の大宮人の踏み平し通ひし道は馬も行かず人も行かねば荒れにけるかも
【1048】たち変り古き都となりぬれば道の芝草長く生ひにけり
【1049】なつきにし奈良の都の荒れゆけば出で立つごとに嘆きし増さる
【1050】現つ神我が大君の天の下八島の内に国はしもさはにあれども里はしもさはにあれども山なみのよろしき国と川なみのたち合ふ里と山背の鹿背山の際に宮柱太敷きまつり高知らす布当の宮は川近み瀬の音ぞ清き山近み鳥が音響む秋されば山もとどろにさを鹿は妻呼び響め春されば岡辺も繁に巌には花咲きををりあなあはれ布当の原いと貴大宮所うべしこそ吾が大君は君ながら聞かしたまひてさす竹の大宮ここと定めけらしも
【1051】三香の原布当の野辺を清みこそ大宮所[一云ここと標刺し]定めけらしも
【1052】山高く川の瀬清し百代まで神しみゆかむ大宮所
【1053】吾が大君神の命の高知らす布当の宮は百木盛り山は木高し落ちたぎつ瀬の音も清し鴬の来鳴く春へは巌には山下光り錦なす花咲きををりさを鹿の妻呼ぶ秋は天霧らふしぐれをいたみさ丹つらふ黄葉散りつつ八千年に生れ付かしつつ天の下知らしめさむと百代にも変るましじき大宮所
【1054】泉川行く瀬の水の絶えばこそ大宮所移ろひ行かめ
【1055】布当山山なみ見れば百代にも変るましじき大宮所
【1056】娘子らが続麻懸くといふ鹿背の山時しゆければ都となりぬ
【1057】鹿背の山木立を茂み朝さらず来鳴き響もす鴬の声
【1058】狛山に鳴く霍公鳥泉川渡りを遠みここに通はず[一云渡り遠みか通はずあるらむ]
【1059】三香の原久迩の都は山高み川の瀬清み住みよしと人は言へどもありよしと我れは思へど古りにし里にしあれば国見れど人も通はず里見れば家も荒れたりはしけやしかくありけるかみもろつく鹿背山の際に咲く花の色めづらしく百鳥の声なつかしくありが欲し住みよき里の荒るらく惜しも
【1060】三香の原久迩の都は荒れにけり大宮人のうつろひぬれば
【1061】咲く花の色は変らずももしきの大宮人ぞたち変りける
【1062】やすみしし我が大君のあり通ふ難波の宮は鯨魚取り海片付きて玉拾ふ浜辺を清み朝羽振る波の音騒き夕なぎに楫の音聞こゆ暁の寝覚に聞けば海石の潮干の共浦洲には千鳥妻呼び葦辺には鶴が音響む見る人の語りにすれば聞く人の見まく欲りする御食向ふ味経の宮は見れど飽かぬかも
【1063】あり通ふ難波の宮は海近み海人娘子らが乗れる舟見ゆ
【1064】潮干れば葦辺に騒く白鶴の妻呼ぶ声は宮もとどろに
【1065】八千桙の神の御代より百舟の泊つる泊りと八島国百舟人の定めてし敏馬の浦は朝風に浦波騒き夕波に玉藻は来寄る白真砂清き浜辺は行き帰り見れども飽かずうべしこそ見る人ごとに語り継ぎ偲ひけらしき百代経て偲はえゆかむ清き白浜
【1066】まそ鏡敏馬の浦は百舟の過ぎて行くべき浜ならなくに
【1067】浜清み浦うるはしみ神代より千舟の泊つる大和太の浜
第7巻
【1068】天の海に雲の波立ち月の舟星の林に漕ぎ隠る見ゆ
【1069】常はさね思はぬものをこの月の過ぎ隠らまく惜しき宵かも
【1070】大夫の弓末振り起し狩高の野辺さへ清く照る月夜かも
【1071】山の端にいさよふ月を出でむかと待ちつつ居るに夜ぞ更けにける
【1072】明日の宵照らむ月夜は片寄りに今夜に寄りて夜長くあらなむ
【1073】玉垂の小簾の間通しひとり居て見る験なき夕月夜かも
【1074】春日山おして照らせるこの月は妹が庭にもさやけくありけり
【1075】海原の道遠みかも月読の光少き夜は更けにつつ
【1076】ももしきの大宮人の罷り出て遊ぶ今夜の月のさやけさ
【1077】ぬばたまの夜渡る月を留めむに西の山辺に関もあらぬかも
【1078】この月のここに来たれば今とかも妹が出で立ち待ちつつあるらむ
【1079】まそ鏡照るべき月を白栲の雲か隠せる天つ霧かも
【1080】ひさかたの天照る月は神代にか出で反るらむ年は経につつ
【1081】ぬばたまの夜渡る月をおもしろみ我が居る袖に露ぞ置きにける
【1082】水底の玉さへさやに見つべくも照る月夜かも夜の更けゆけば
【1083】霜曇りすとにかあるらむ久方の夜渡る月の見えなく思へば
【1084】山の端にいさよふ月をいつとかも我は待ち居らむ夜は更けにつつ
【1085】妹があたり我が袖振らむ木の間より出で来る月に雲なたなびき
【1086】靫懸くる伴の男広き大伴に国栄えむと月は照るらし
【1087】穴師川川波立ちぬ巻向の弓月が岳に雲居立てるらし
【1088】あしひきの山川の瀬の鳴るなへに弓月が岳に雲立ちわたる
【1089】大海に島もあらなくに海原のたゆたふ波に立てる白雲
【1090】我妹子が赤裳の裾のひづちなむ今日の小雨に我れさへ濡れな
【1091】通るべく雨はな降りそ我妹子が形見の衣我れ下に着り
【1092】鳴る神の音のみ聞きし巻向の桧原の山を今日見つるかも
【1093】三諸のその山なみに子らが手を巻向山は継ぎしよろしも
【1094】我が衣色取り染めむ味酒三室の山は黄葉しにけり
【1095】三諸つく三輪山見れば隠口の泊瀬の桧原思ほゆるかも
【1096】いにしへのことは知らぬを我れ見ても久しくなりぬ天の香具山
【1097】我が背子をこち巨勢山と人は言へど君も来まさず山の名にあらし
【1098】紀道にこそ妹山ありといへ玉櫛笥二上山も妹こそありけれ
【1099】片岡のこの向つ峰に椎蒔かば今年の夏の蔭にならむか
【1100】巻向の穴師の川ゆ行く水の絶ゆることなくまたかへり見む
【1101】ぬばたまの夜さり来れば巻向の川音高しもあらしかも疾き
【1102】大君の御笠の山の帯にせる細谷川の音のさやけさ
【1103】今しくは見めやと思ひしみ吉野の大川淀を今日見つるかも
【1104】馬並めてみ吉野川を見まく欲りうち越え来てぞ瀧に遊びつる
【1105】音に聞き目にはいまだ見ぬ吉野川六田の淀を今日見つるかも
【1106】かはづ鳴く清き川原を今日見てはいつか越え来て見つつ偲はむ
【1107】泊瀬川白木綿花に落ちたぎつ瀬をさやけみと見に来し我れを
【1108】泊瀬川流るる水脈の瀬を早みゐで越す波の音の清けく
【1109】さ桧の隈桧隈川の瀬を早み君が手取らば言寄せむかも
【1110】ゆ種蒔くあらきの小田を求めむと足結ひ出で濡れぬこの川の瀬に
【1111】いにしへもかく聞きつつか偲ひけむこの布留川の清き瀬の音を
【1112】はねかづら今する妹をうら若みいざ率川の音のさやけさ
【1113】この小川霧ぞ結べるたぎちゆく走井の上に言挙げせねども
【1114】我が紐を妹が手もちて結八川またかへり見む万代までに
【1115】妹が紐結八河内をいにしへのみな人見きとここを誰れ知る
【1116】ぬばたまの我が黒髪に降りなづむ天の露霜取れば消につつ
【1117】島廻すと磯に見し花風吹きて波は寄すとも採らずはやまじ
【1118】いにしへにありけむ人も我がごとか三輪の桧原にかざし折りけむ
【1119】行く川の過ぎにし人の手折らねばうらぶれ立てり三輪の桧原は
【1120】み吉野の青根が岳の蘿むしろ誰れか織りけむ経緯なしに
【1121】妹らがり我が通ひ道の小竹すすき我れし通はば靡け小竹原
【1122】山の際に渡るあきさの行きて居むその川の瀬に波立つなゆめ
【1123】佐保川の清き川原に鳴く千鳥かはづと二つ忘れかねつも
【1124】佐保川に騒ける千鳥さ夜更けて汝が声聞けば寐ねかてなくに
【1125】清き瀬に千鳥妻呼び山の際に霞立つらむ神なびの里
【1126】年月もいまだ経なくに明日香川瀬々ゆ渡しし石橋もなし
【1127】落ちたぎつ走井水の清くあれば置きては我れは行きかてぬかも
【1128】馬酔木なす栄えし君が掘りし井の石井の水は飲めど飽かぬかも
【1129】琴取れば嘆き先立つけだしくも琴の下樋に妻や隠れる
【1130】神さぶる岩根こごしきみ吉野の水分山を見れば悲しも
【1131】皆人の恋ふるみ吉野今日見ればうべも恋ひけり山川清み
【1132】夢のわだ言にしありけりうつつにも見て来るものを思ひし思へば
【1133】すめろきの神の宮人ところづらいやとこしくに我れかへり見む
【1134】吉野川巌と栢と常磐なす我れは通はむ万代までに
【1135】宇治川は淀瀬なからし網代人舟呼ばふ声をちこち聞こゆ
【1136】宇治川に生ふる菅藻を川早み採らず来にけりつとにせましを
【1137】宇治人の譬への網代我れならば今は寄らまし木屑来ずとも
【1138】宇治川を舟渡せをと呼ばへども聞こえざるらし楫の音もせず
【1139】ちはや人宇治川波を清みかも旅行く人の立ちかてにする
【1140】しなが鳥猪名野を来れば有馬山夕霧立ちぬ宿りはなくて[一本云猪名の浦みを漕ぎ来れば]
【1141】武庫川の水脈を早みと赤駒の足掻くたぎちに濡れにけるかも
【1142】命をし幸くよけむと石走る垂水の水をむすびて飲みつ
【1143】さ夜更けて堀江漕ぐなる松浦舟楫の音高し水脈早みかも
【1144】悔しくも満ちぬる潮か住吉の岸の浦廻ゆ行かましものを
【1145】妹がため貝を拾ふと茅渟の海に濡れにし袖は干せど乾かず
【1146】めづらしき人を我家に住吉の岸の埴生を見むよしもがも
【1147】暇あらば拾ひに行かむ住吉の岸に寄るといふ恋忘れ貝
【1148】馬並めて今日我が見つる住吉の岸の埴生を万代に見む
【1149】住吉に行くといふ道に昨日見し恋忘れ貝言にしありけり
【1150】住吉の岸に家もが沖に辺に寄する白波見つつ偲はむ
【1151】大伴の御津の浜辺をうちさらし寄せ来る波のゆくへ知らずも
【1152】楫の音ぞほのかにすなる海人娘子沖つ藻刈りに舟出すらしも[一云夕されば楫の音すなり]
【1153】住吉の名児の浜辺に馬立てて玉拾ひしく常忘らえず
【1154】雨は降る仮廬は作るいつの間に吾児の潮干に玉は拾はむ
【1155】名児の海の朝明のなごり今日もかも磯の浦廻に乱れてあるらむ
【1156】住吉の遠里小野の真榛もち摺れる衣の盛り過ぎゆく
【1157】時つ風吹かまく知らず吾児の海の朝明の潮に玉藻刈りてな
【1158】住吉の沖つ白波風吹けば来寄する浜を見れば清しも
【1159】住吉の岸の松が根うちさらし寄せ来る波の音のさやけさ
【1160】難波潟潮干に立ちて見わたせば淡路の島に鶴渡る見ゆ
【1161】家離り旅にしあれば秋風の寒き夕に雁鳴き渡る
【1162】円方の港の洲鳥波立てや妻呼びたてて辺に近づくも
【1163】年魚市潟潮干にけらし知多の浦に朝漕ぐ舟も沖に寄る見ゆ
【1164】潮干ればともに潟に出で鳴く鶴の声遠ざかる磯廻すらしも
【1165】夕なぎにあさりする鶴潮満てば沖波高み己妻呼ばふ
【1166】いにしへにありけむ人の求めつつ衣に摺りけむ真野の榛原
【1167】あさりすと礒に我が見しなのりそをいづれの島の海人か刈りけむ
【1168】今日もかも沖つ玉藻は白波の八重をるが上に乱れてあるらむ
【1169】近江の海港は八十ちいづくにか君が舟泊て草結びけむ
【1170】楽浪の連庫山に雲居れば雨ぞ降るちふ帰り来我が背
【1171】大御船泊ててさもらふ高島の三尾の勝野の渚し思ほゆ
【1172】いづくにか舟乗りしけむ高島の香取の浦ゆ漕ぎ出来る舟
【1173】飛騨人の真木流すといふ丹生の川言は通へど舟ぞ通はぬ
【1174】霰降り鹿島の崎を波高み過ぎてや行かむ恋しきものを
【1175】足柄の箱根飛び越え行く鶴の羨しき見れば大和し思ほゆ
【1176】夏麻引く海上潟の沖つ洲に鳥はすだけど君は音もせず
【1177】若狭なる三方の海の浜清みい行き帰らひ見れど飽かぬかも
【1178】印南野は行き過ぎぬらし天伝ふ日笠の浦に波立てり見ゆ[一云飾磨江は漕ぎ過ぎぬらし]
【1179】家にして我れは恋ひむな印南野の浅茅が上に照りし月夜を
【1180】荒磯越す波を畏み淡路島見ずか過ぎなむここだ近きを
【1181】朝霞止まずたなびく龍田山舟出せむ日は我れ恋ひむかも
【1182】海人小舟帆かも張れると見るまでに鞆の浦廻に波立てり見ゆ
【1183】ま幸くてまたかへり見む大夫の手に巻き持てる鞆の浦廻を
【1184】鳥じもの海に浮き居て沖つ波騒くを聞けばあまた悲しも
【1185】朝なぎに真楫漕ぎ出て見つつ来し御津の松原波越しに見ゆ
【1186】あさりする海人娘子らが袖通り濡れにし衣干せど乾かず
【1187】網引する海人とか見らむ飽の浦の清き荒磯を見に来し我れを
【1188】山越えて遠津の浜の岩つつじ我が来るまでにふふみてあり待て
【1189】大海にあらしな吹きそしなが鳥猪名の港に舟泊つるまで
【1190】舟泊ててかし振り立てて廬りせむ名児江の浜辺過ぎかてぬかも
【1191】妹が門出入の川の瀬を早み我が馬つまづく家思ふらしも
【1192】白栲ににほふ真土の山川に我が馬なづむ家恋ふらしも
【1193】背の山に直に向へる妹の山事許せやも打橋渡す
【1194】紀の国の雑賀の浦に出で見れば海人の燈火波の間ゆ見ゆ
【1195】麻衣着ればなつかし紀の国の妹背の山に麻蒔く我妹
【1196】つともがと乞はば取らせむ貝拾ふ我れを濡らすな沖つ白波
【1197】手に取るがからに忘ると海人の言ひし恋忘れ貝言にしありけり
【1198】あさりすと礒に棲む鶴明けされば浜風寒み己妻呼ぶも
【1199】藻刈り舟沖漕ぎ来らし妹が島形見の浦に鶴翔る見ゆ
【1200】我が舟は沖ゆな離り迎へ舟方待ちがてり浦ゆ漕ぎ逢はむ
【1201】大海の水底響み立つ波の寄らむと思へる礒のさやけさ
【1202】荒礒ゆもまして思へや玉の浦離れ小島の夢にし見ゆる
【1203】礒の上に爪木折り焚き汝がためと我が潜き来し沖つ白玉
【1204】浜清み礒に我が居れば見む人は海人とか見らむ釣りもせなくに
【1205】沖つ楫やくやくしぶを見まく欲り我がする里の隠らく惜しも
【1206】沖つ波辺つ藻巻き持ち寄せ来とも君にまされる玉寄せめやも[一云沖つ波辺波しくしく寄せ来とも]
【1207】粟島に漕ぎ渡らむと思へども明石の門波いまだ騒けり
【1208】妹に恋ひ我が越え行けば背の山の妹に恋ひずてあるが羨しさ
【1209】人ならば母が愛子ぞあさもよし紀の川の辺の妹と背の山
【1210】我妹子に我が恋ひ行けば羨しくも並び居るかも妹と背の山
【1211】妹があたり今ぞ我が行く目のみだに我れに見えこそ言問はずとも
【1212】足代過ぎて糸鹿の山の桜花散らずもあらなむ帰り来るまで
【1213】名草山言にしありけり我が恋ふる千重の一重も慰めなくに
【1214】安太へ行く小為手の山の真木の葉も久しく見ねば蘿生しにけり
【1215】玉津島よく見ていませあをによし奈良なる人の待ち問はばいかに
【1216】潮満たばいかにせむとか海神の神が手渡る海人娘子ども
【1217】玉津島見てしよけくも我れはなし都に行きて恋ひまく思へば
【1218】黒牛の海紅にほふももしきの大宮人しあさりすらしも
【1219】若の浦に白波立ちて沖つ風寒き夕は大和し思ほゆ
【1220】妹がため玉を拾ふと紀伊の国の由良の岬にこの日暮らしつ
【1221】我が舟の楫はな引きそ大和より恋ひ来し心いまだ飽かなくに
【1222】玉津島見れども飽かずいかにして包み持ち行かむ見ぬ人のため
【1223】海の底沖漕ぐ舟を辺に寄せむ風も吹かぬか波立てずして
【1224】大葉山霞たなびきさ夜更けて我が舟泊てむ泊り知らずも
【1225】さ夜更けて夜中の方におほほしく呼びし舟人泊てにけむかも
【1226】三輪の崎荒磯も見えず波立ちぬいづくゆ行かむ避き道はなしに
【1227】礒に立ち沖辺を見れば藻刈り舟海人漕ぎ出らし鴨翔る見ゆ
【1228】風早の三穂の浦廻を漕ぐ舟の舟人騒く波立つらしも
【1229】我が舟は明石の水門に漕ぎ泊てむ沖へな離りさ夜更けにけり
【1230】ちはやぶる鐘の岬を過ぎぬとも我れは忘れじ志賀の皇神
【1231】天霧らひひかた吹くらし水茎の岡の港に波立ちわたる
【1232】大海の波は畏ししかれども神を斎ひて舟出せばいかに
【1233】娘子らが織る機の上を真櫛もち掻上げ栲島波の間ゆ見ゆ
【1234】潮早み磯廻に居れば潜きする海人とや見らむ旅行く我れを
【1235】波高しいかに楫取り水鳥の浮寝やすべきなほや漕ぐべき
【1236】夢のみに継ぎて見えつつ高島の礒越す波のしくしく思ほゆ
【1237】静けくも岸には波は寄せけるかこれの屋通し聞きつつ居れば
【1238】高島の安曇白波は騒けども我れは家思ふ廬り悲しみ
【1239】大海の礒もと揺り立つ波の寄せむと思へる浜の清けく
【1240】玉櫛笥みもろと山を行きしかばおもしろくしていにしへ思ほゆ
【1241】ぬばたまの黒髪山を朝越えて山下露に濡れにけるかも
【1242】あしひきの山行き暮らし宿借らば妹立ち待ちてやど貸さむかも
【1243】見わたせば近き里廻をた廻り今ぞ我が来る領巾振りし野に
【1244】娘子らが放りの髪を由布の山雲なたなびき家のあたり見む
【1245】志賀の海人の釣舟の綱堪へずして心に思ひて出でて来にけり
【1246】志賀の海人の塩焼く煙風をいたみ立ちは上らず山にたなびく
【1247】大汝少御神の作らしし妹背の山を見らくしよしも
【1248】我妹子と見つつ偲はむ沖つ藻の花咲きたらば我れに告げこそ
【1249】君がため浮沼の池の菱摘むと我が染めし袖濡れにけるかも
【1250】妹がため菅の実摘みに行きし我れ山道に惑ひこの日暮らしつ
【1251】佐保川に鳴くなる千鳥何しかも川原を偲ひいや川上る
【1252】人こそばおほにも言はめ我がここだ偲ふ川原を標結ふなゆめ
【1253】楽浪の志賀津の海人は我れなしに潜きはなせそ波立たずとも
【1254】大船に楫しもあらなむ君なしに潜きせめやも波立たずとも
【1255】月草に衣ぞ染むる君がため斑の衣摺らむと思ひて
【1256】春霞井の上ゆ直に道はあれど君に逢はむとた廻り来も
【1257】道の辺の草深百合の花笑みに笑みしがからに妻と言ふべしや
【1258】黙あらじと言のなぐさに言ふことを聞き知れらくは悪しくはありけり
【1259】佐伯山卯の花持ちし愛しきが手をし取りてば花は散るとも
【1260】時ならぬ斑の衣着欲しきか島の榛原時にあらねども
【1261】山守の里へ通ひし山道ぞ茂くなりける忘れけらしも
【1262】あしひきの山椿咲く八つ峰越え鹿待つ君が斎ひ妻かも
【1263】暁と夜烏鳴けどこの岡の木末の上はいまだ静けし
【1264】西の市にただ独り出でて目並べず買ひてし絹の商じこりかも
【1265】今年行く新防人が麻衣肩のまよひは誰れか取り見む
【1266】大船を荒海に漕ぎ出でや船たけ我が見し子らがまみはしるしも
【1267】ももしきの大宮人の踏みし跡ところ沖つ波来寄らずありせば失せずあらましを
【1268】子らが手を巻向山は常にあれど過ぎにし人に行きまかめやも
【1269】巻向の山辺響みて行く水の水沫のごとし世の人我れは
【1270】こもりくの泊瀬の山に照る月は満ち欠けしけり人の常なき
【1271】遠くありて雲居に見ゆる妹が家に早く至らむ歩め黒駒
【1272】大刀の後鞘に入野に葛引く我妹真袖もち着せてむとかも夏草刈るも
【1273】住吉の波豆麻の君が馬乗衣さひづらふ漢女を据ゑて縫へる衣ぞ
【1274】住吉の出見の浜の柴な刈りそね娘子らが赤裳の裾の濡れて行かむ見む
【1275】住吉の小田を刈らす子奴かもなき奴あれど妹がみためと私田刈る
【1276】池の辺の小槻の下の小竹な刈りそねそれをだに君が形見に見つつ偲はむ
【1277】天なる日売菅原の草な刈りそね蜷の腸か黒き髪にあくたし付くも
【1278】夏蔭の妻屋の下に衣裁つ我妹うら設けて我がため裁たばやや大に裁て
【1279】梓弓引津の辺なるなのりその花摘むまでに逢はずあらめやもなのりその花
【1280】うちひさす宮道を行くに我が裳は破れぬ玉の緒の思ひ乱れて家にあらましを
【1281】君がため手力疲れ織れる衣ぞ春さらばいかなる色に摺りてばよけむ
【1282】はしたての倉橋山に立てる白雲見まく欲り我がするなへに立てる白雲
【1283】はしたての倉橋川の石の橋はも男盛りに我が渡りてし石の橋はも
【1284】はしたての倉橋川の川の静菅我が刈りて笠にも編まぬ川の静菅
【1285】春日すら田に立ち疲る君は悲しも若草の妻なき君が田に立ち疲る
【1286】山背の久世の社の草な手折りそ我が時と立ち栄ゆとも草な手折りそ
【1287】青みづら依網の原に人も逢はぬかも石走る近江県の物語りせむ
【1288】港の葦の末葉を誰れか手折りし我が背子が振る手を見むと我れぞ手折りし
【1289】垣越しに犬呼び越して鳥猟する君青山の茂き山辺に馬休め君
【1290】海の底沖つ玉藻のなのりその花妹と我れとここにしありとなのりその花
【1291】この岡に草刈るわらはなしか刈りそねありつつも君が来まさば御馬草にせむ
【1292】江林に臥せる獣やも求むるによき白栲の袖巻き上げて獣待つ我が背
【1293】霰降り遠つ淡海の吾跡川楊刈れどもまたも生ふといふ吾跡川楊
【1294】朝月の日向の山に月立てり見ゆ遠妻を待ちたる人し見つつ偲はむ
【1295】春日なる御笠の山に月の舟出づ風流士の飲む酒杯に影に見えつつ
【1296】今作る斑の衣面影に我れに思ほゆいまだ着ねども
【1297】紅に衣染めまく欲しけども着てにほはばか人の知るべき
【1298】かにかくに人は言ふとも織り継がむ我が機物の白麻衣
【1299】あぢ群のとをよる海に舟浮けて白玉採ると人に知らゆな
【1300】をちこちの礒の中なる白玉を人に知らえず見むよしもがも
【1301】海神の手に巻き持てる玉故に礒の浦廻に潜きするかも
【1302】海神の持てる白玉見まく欲り千たびぞ告りし潜きする海人
【1303】潜きする海人は告れども海神の心し得ねば見ゆといはなくに
【1304】天雲のたなびく山の隠りたる我が下心木の葉知るらむ
【1305】見れど飽かぬ人国山の木の葉をし我が心からなつかしみ思ふ
【1306】この山の黄葉が下の花を我れはつはつに見てなほ恋ひにけり
【1307】この川ゆ舟は行くべくありといへど渡り瀬ごとに守る人のありて
【1308】大海をさもらふ港事しあらばいづへゆ君は我を率しのがむ
【1309】風吹きて海は荒るとも明日と言はば久しくあるべし君がまにまに
【1310】雲隠る小島の神の畏けば目こそ隔てれ心隔てや
【1311】橡の衣は人皆事なしと言ひし時より着欲しく思ほゆ
【1312】おほろかに我れし思はば下に着てなれにし衣を取りて着めやも
【1313】紅の深染めの衣下に着て上に取り着ば言なさむかも
【1314】橡の解き洗ひ衣のあやしくもことに着欲しきこの夕かも
【1315】橘の島にし居れば川遠みさらさず縫ひし我が下衣
【1316】河内女の手染めの糸を繰り返し片糸にあれど絶えむと思へや
【1317】海の底沈く白玉風吹きて海は荒るとも取らずはやまじ
【1318】底清み沈ける玉を見まく欲り千たびぞ告りし潜きする海人
【1319】大海の水底照らし沈く玉斎ひて採らむ風な吹きそね
【1320】水底に沈く白玉誰が故に心尽して我が思はなくに
【1321】世間は常かくのみか結びてし白玉の緒の絶ゆらく思へば
【1322】伊勢の海の海人の島津が鰒玉採りて後もか恋の繁けむ
【1323】海の底沖つ白玉よしをなみ常かくのみや恋ひわたりなむ
【1324】葦の根のねもころ思ひて結びてし玉の緒といはば人解かめやも
【1325】白玉を手には巻かずに箱のみに置けりし人ぞ玉嘆かする
【1326】照左豆が手に巻き古す玉もがもその緒は替へて我が玉にせむ
【1327】秋風は継ぎてな吹きそ海の底沖なる玉を手に巻くまでに
【1328】膝に伏す玉の小琴の事なくはいたくここだく我れ恋ひめやも
【1329】陸奥の安達太良真弓弦はけて引かばか人の我を言なさむ
【1330】南淵の細川山に立つ檀弓束巻くまで人に知らえじ
【1331】岩畳畏き山と知りつつも我れは恋ふるか並にあらなくに
【1332】岩が根のこごしき山に入りそめて山なつかしみ出でかてぬかも
【1333】佐保山をおほに見しかど今見れば山なつかしも風吹くなゆめ
【1334】奥山の岩に苔生し畏けど思ふ心をいかにかもせむ
【1335】思ひあまりいたもすべなみ玉たすき畝傍の山に我れ標結ひつ
【1336】冬こもり春の大野を焼く人は焼き足らねかも我が心焼く
【1337】葛城の高間の草野早知りて標刺さましを今ぞ悔しき
【1338】我がやどに生ふるつちはり心ゆも思はぬ人の衣に摺らゆな
【1339】月草に衣色どり摺らめどもうつろふ色と言ふが苦しさ
【1340】紫の糸をぞ我が搓るあしひきの山橘を貫かむと思ひて
【1341】真玉つく越智の菅原我れ刈らず人の刈らまく惜しき菅原
【1342】山高み夕日隠りぬ浅茅原後見むために標結はましを
【1343】言痛くはかもかもせむを岩代の野辺の下草我れし刈りてば[一云紅の現し心や妹に逢はずあらむ]
【1344】真鳥棲む雲梯の杜の菅の根を衣にかき付け着せむ子もがも
【1345】常ならぬ人国山の秋津野のかきつはたをし夢に見しかも
【1346】をみなへし佐紀沢の辺の真葛原いつかも繰りて我が衣に着む
【1347】君に似る草と見しより我が標めし野山の浅茅人な刈りそね
【1348】三島江の玉江の薦を標めしより己がとぞ思ふいまだ刈らねど
【1349】かくしてやなほや老いなむみ雪降る大荒木野の小竹にあらなくに
【1350】近江のや八橋の小竹を矢はがずてまことありえむや恋しきものを
【1351】月草に衣は摺らむ朝露に濡れての後はうつろひぬとも
【1352】我が心ゆたにたゆたに浮蓴辺にも沖にも寄りかつましじ
【1353】石上布留の早稲田を秀でずとも縄だに延へよ守りつつ居らむ
【1354】白菅の真野の榛原心ゆも思はぬ我れし衣に摺りつ
【1355】真木柱作る杣人いささめに仮廬のためと作りけめやも
【1356】向つ峰に立てる桃の木ならむやと人ぞささやく汝が心ゆめ
【1357】たらちねの母がそのなる桑すらに願へば衣に着るといふものを
【1358】はしきやし我家の毛桃本茂く花のみ咲きてならずあらめやも
【1359】向つ峰の若桂の木下枝取り花待つい間に嘆きつるかも
【1360】息の緒に思へる我れを山ぢさの花にか君がうつろひぬらむ
【1361】住吉の浅沢小野のかきつはた衣に摺り付け着む日知らずも
【1362】秋さらば移しもせむと我が蒔きし韓藍の花を誰れか摘みけむ
【1363】春日野に咲きたる萩は片枝はいまだふふめり言な絶えそね
【1364】見まく欲り恋ひつつ待ちし秋萩は花のみ咲きてならずかもあらむ
【1365】我妹子がやどの秋萩花よりは実になりてこそ恋ひまさりけれ
【1366】明日香川七瀬の淀に住む鳥も心あれこそ波立てざらめ
【1367】三国山木末に住まふむささびの鳥待つごとく我れ待ち痩せむ
【1368】岩倉の小野ゆ秋津に立ちわたる雲にしもあれや時をし待たむ
【1369】天雲に近く光りて鳴る神の見れば畏し見ねば悲しも
【1370】はなはだも降らぬ雨故にはたづみいたくな行きそ人の知るべく
【1371】ひさかたの雨には着ぬをあやしくも我が衣手は干る時なきか
【1372】み空行く月読壮士夕さらず目には見れども寄るよしもなし
【1373】春日山山高くあらし岩の上の菅の根見むに月待ちかたし
【1374】闇の夜は苦しきものをいつしかと我が待つ月も早も照らぬか
【1375】朝霜の消やすき命誰がために千年もがもと我が思はなくに
【1376】大和の宇陀の真埴のさ丹付かばそこもか人の我を言なさむ
【1377】木綿懸けて祭る三諸の神さびて斎むにはあらず人目多みこそ
【1378】木綿懸けて斎ふこの社越えぬべく思ほゆるかも恋の繁きに
【1379】絶えず行く明日香の川の淀めらば故しもあるごと人の見まくに
【1380】明日香川瀬々に玉藻は生ひたれどしがらみあれば靡きあはなくに
【1381】広瀬川袖漬くばかり浅きをや心深めて我が思へるらむ
【1382】泊瀬川流るる水沫の絶えばこそ我が思ふ心遂げじと思はめ
【1383】嘆きせば人知りぬべみ山川のたぎつ心を塞かへてあるかも
【1384】水隠りに息づきあまり早川の瀬には立つとも人に言はめやも
【1385】真鉋持ち弓削の川原の埋れ木のあらはるましじきことにあらなくに
【1386】大船に真楫しじ貫き漕ぎ出なば沖は深けむ潮は干ぬとも
【1387】伏越ゆ行かましものをまもらふにうち濡らさえぬ波数まずして
【1388】石そそき岸の浦廻に寄する波辺に来寄らばか言の繁けむ
【1389】礒の浦に来寄る白波返りつつ過ぎかてなくは誰れにたゆたへ
【1390】近江の海波畏みと風まもり年はや経なむ漕ぐとはなしに
【1391】朝なぎに来寄る白波見まく欲り我れはすれども風こそ寄せね
【1392】紫の名高の浦の真砂土袖のみ触れて寝ずかなりなむ
【1393】豊国の企救の浜辺の真砂土真直にしあらば何か嘆かむ
【1394】潮満てば入りぬる礒の草なれや見らく少く恋ふらくの多き
【1395】沖つ波寄する荒礒のなのりそは心のうちに障みとなれり
【1396】紫の名高の浦のなのりその礒に靡かむ時待つ我れを
【1397】荒礒越す波は畏ししかすがに海の玉藻の憎くはあらずて
【1398】楽浪の志賀津の浦の舟乗りに乗りにし心常忘らえず
【1399】百伝ふ八十の島廻を漕ぐ舟に乗りにし心忘れかねつも
【1400】島伝ふ足早の小舟風まもり年はや経なむ逢ふとはなしに
【1401】水霧らふ沖つ小島に風をいたみ舟寄せかねつ心は思へど
【1402】こと放けば沖ゆ放けなむ港より辺著かふ時に放くべきものか
【1403】御幣取り三輪の祝が斎ふ杉原薪伐りほとほとしくに手斧取らえぬ
【1404】鏡なす我が見し君を阿婆の野の花橘の玉に拾ひつ
【1405】秋津野を人の懸くれば朝撒きし君が思ほえて嘆きはやまず
【1406】秋津野に朝居る雲の失せゆけば昨日も今日もなき人思ほゆ
【1407】隠口の泊瀬の山に霞立ちたなびく雲は妹にかもあらむ
【1408】たはことかおよづれことかこもりくの泊瀬の山に廬りせりといふ
【1409】秋山の黄葉あはれとうらぶれて入りにし妹は待てど来まさず
【1410】世間はまこと二代はゆかざらし過ぎにし妹に逢はなく思へば
【1411】幸はひのいかなる人か黒髪の白くなるまで妹が声を聞く
【1412】我が背子をいづち行かめとさき竹のそがひに寝しく今し悔しも
【1413】庭つ鳥鶏の垂り尾の乱れ尾の長き心も思ほえぬかも
【1414】薦枕相枕きし子もあらばこそ夜の更くらくも我が惜しみせめ
【1415】玉梓の妹は玉かもあしひきの清き山辺に撒けば散りぬる
【1416】玉梓の妹は花かもあしひきのこの山蔭に撒けば失せぬる
【1417】名児の海を朝漕ぎ来れば海中に鹿子ぞ鳴くなるあはれその鹿子
第8巻
【1418】石走る垂水の上のさわらびの萌え出づる春になりにけるかも
【1419】神なびの石瀬の社の呼子鳥いたくな鳴きそ我が恋まさる
【1420】沫雪かはだれに降ると見るまでに流らへ散るは何の花ぞも
【1421】春山の咲きのををりに春菜摘む妹が白紐見らくしよしも
【1422】うち靡く春来るらし山の際の遠き木末の咲きゆく見れば
【1423】去年の春いこじて植ゑし我がやどの若木の梅は花咲きにけり
【1424】春の野にすみれ摘みにと来し我れぞ野をなつかしみ一夜寝にける
【1425】あしひきの山桜花日並べてかく咲きたらばいたく恋ひめやも
【1426】我が背子に見せむと思ひし梅の花それとも見えず雪の降れれば
【1427】明日よりは春菜摘まむと標めし野に昨日も今日も雪は降りつつ
【1428】おしてる難波を過ぎてうち靡く草香の山を夕暮れに我が越え来れば山も狭に咲ける馬酔木の悪しからぬ君をいつしか行きて早見む
【1429】娘子らがかざしのために風流士のかづらのためと敷きませる国のはたてに咲きにける桜の花のにほひはもあなに
【1430】去年の春逢へりし君に恋ひにてし桜の花は迎へけらしも
【1431】百済野の萩の古枝に春待つと居りし鴬鳴きにけむかも
【1432】我が背子が見らむ佐保道の青柳を手折りてだにも見むよしもがも
【1433】うち上る佐保の川原の青柳は今は春へとなりにけるかも
【1434】霜雪もいまだ過ぎねば思はぬに春日の里に梅の花見つ
【1435】かはづ鳴く神奈備川に影見えて今か咲くらむ山吹の花
【1436】含めりと言ひし梅が枝今朝降りし沫雪にあひて咲きぬらむかも
【1437】霞立つ春日の里の梅の花山のあらしに散りこすなゆめ
【1438】霞立つ春日の里の梅の花花に問はむと我が思はなくに
【1439】時は今は春になりぬとみ雪降る遠山の辺に霞たなびく
【1440】春雨のしくしく降るに高円の山の桜はいかにかあるらむ
【1441】うち霧らひ雪は降りつつしかすがに我家の苑に鴬鳴くも
【1442】難波辺に人の行ければ後れ居て春菜摘む子を見るが悲しさ
【1443】霞立つ野の上の方に行きしかば鴬鳴きつ春になるらし
【1444】山吹の咲きたる野辺のつほすみれこの春の雨に盛りなりけり
【1445】風交り雪は降るとも実にならぬ我家の梅を花に散らすな
【1446】春の野にあさる雉の妻恋ひにおのがあたりを人に知れつつ
【1447】世の常に聞けば苦しき呼子鳥声なつかしき時にはなりぬ
【1448】我がやどに蒔きしなでしこいつしかも花に咲きなむなそへつつ見む
【1449】茅花抜く浅茅が原のつほすみれ今盛りなり我が恋ふらくは
【1450】心ぐきものにぞありける春霞たなびく時に恋の繁きは
【1451】水鳥の鴨の羽色の春山のおほつかなくも思ほゆるかも
【1452】闇ならばうべも来まさじ梅の花咲ける月夜に出でまさじとや
【1453】玉たすき懸けぬ時なく息の緒に我が思ふ君はうつせみの世の人なれば大君の命畏み夕されば鶴が妻呼ぶ難波潟御津の崎より大船に真楫しじ貫き白波の高き荒海を島伝ひい別れ行かば留まれる我れは幣引き斎ひつつ君をば待たむ早帰りませ
【1454】波の上ゆ見ゆる小島の雲隠りあな息づかし相別れなば
【1455】たまきはる命に向ひ恋ひむゆは君が御船の楫柄にもが
【1456】この花の一節のうちに百種の言ぞ隠れるおほろかにすな
【1457】この花の一節のうちは百種の言待ちかねて折らえけらずや
【1458】やどにある桜の花は今もかも松風早み地に散るらむ
【1459】世間も常にしあらねばやどにある桜の花の散れるころかも
【1460】戯奴[變云わけ]がため我が手もすまに春の野に抜ける茅花ぞ食して肥えませ
【1461】昼は咲き夜は恋ひ寝る合歓木の花君のみ見めや戯奴さへに見よ
【1462】我が君に戯奴は恋ふらし賜りたる茅花を食めどいや痩せに痩す
【1463】我妹子が形見の合歓木は花のみに咲きてけだしく実にならじかも
【1464】春霞たなびく山のへなれれば妹に逢はずて月ぞ経にける
【1465】霍公鳥いたくな鳴きそ汝が声を五月の玉にあへ貫くまでに
【1466】神奈備の石瀬の社の霍公鳥毛無の岡にいつか来鳴かむ
【1467】霍公鳥なかる国にも行きてしかその鳴く声を聞けば苦しも
【1468】霍公鳥声聞く小野の秋風に萩咲きぬれや声の乏しき
【1469】あしひきの山霍公鳥汝が鳴けば家なる妹し常に偲はゆ
【1470】もののふの石瀬の社の霍公鳥今も鳴かぬか山の常蔭に
【1471】恋しけば形見にせむと我がやどに植ゑし藤波今咲きにけり
【1472】霍公鳥来鳴き響もす卯の花の伴にや来しと問はましものを
【1473】橘の花散る里の霍公鳥片恋しつつ鳴く日しぞ多き
【1474】今もかも大城の山に霍公鳥鳴き響むらむ我れなけれども
【1475】何しかもここだく恋ふる霍公鳥鳴く声聞けば恋こそまされ
【1476】ひとり居て物思ふ宵に霍公鳥こゆ鳴き渡る心しあるらし
【1477】卯の花もいまだ咲かねば霍公鳥佐保の山辺に来鳴き響もす
【1478】我が宿の花橘のいつしかも玉に貫くべくその実なりなむ
【1479】隠りのみ居ればいぶせみ慰むと出で立ち聞けば来鳴くひぐらし
【1480】我が宿に月おし照れり霍公鳥心あれ今夜来鳴き響もせ
【1481】我が宿の花橘に霍公鳥今こそ鳴かめ友に逢へる時
【1482】皆人の待ちし卯の花散りぬとも鳴く霍公鳥我れ忘れめや
【1483】我が背子が宿の橘花をよみ鳴く霍公鳥見にぞ我が来し
【1484】霍公鳥いたくな鳴きそひとり居て寐の寝らえぬに聞けば苦しも
【1485】夏まけて咲きたるはねずひさかたの雨うち降らば移ろひなむか
【1486】我が宿の花橘を霍公鳥来鳴かず地に散らしてむとか
【1487】霍公鳥思はずありき木の暗のかくなるまでに何か来鳴かぬ
【1488】いづくには鳴きもしにけむ霍公鳥我家の里に今日のみぞ鳴く
【1489】我が宿の花橘は散り過ぎて玉に貫くべく実になりにけり
【1490】霍公鳥待てど来鳴かず菖蒲草玉に貫く日をいまだ遠みか
【1491】卯の花の過ぎば惜しみか霍公鳥雨間も置かずこゆ鳴き渡る
【1492】君が家の花橘はなりにけり花のある時に逢はましものを
【1493】我が宿の花橘を霍公鳥来鳴き響めて本に散らしつ
【1494】夏山の木末の茂に霍公鳥鳴き響むなる声の遥けさ
【1495】あしひきの木の間立ち潜く霍公鳥かく聞きそめて後恋ひむかも
【1496】我が宿のなでしこの花盛りなり手折りて一目見せむ子もがも
【1497】筑波嶺に我が行けりせば霍公鳥山彦響め鳴かましやそれ
【1498】暇なみ来まさぬ君に霍公鳥我れかく恋ふと行きて告げこそ
【1499】言繁み君は来まさず霍公鳥汝れだに来鳴け朝戸開かむ
【1500】夏の野の茂みに咲ける姫百合の知らえぬ恋は苦しきものぞ
【1501】霍公鳥鳴く峰の上の卯の花の憂きことあれや君が来まさぬ
【1502】五月の花橘を君がため玉にこそ貫け散らまく惜しみ
【1503】我妹子が家の垣内のさ百合花ゆりと言へるはいなと言ふに似る
【1504】暇なみ五月をすらに我妹子が花橘を見ずか過ぎなむ
【1505】霍公鳥鳴きしすなはち君が家に行けと追ひしは至りけむかも
【1506】故郷の奈良思の岡の霍公鳥言告げ遣りしいかに告げきや
【1507】いかといかとある我が宿に百枝さし生ふる橘玉に貫く五月を近みあえぬがに花咲きにけり朝に日に出で見るごとに息の緒に我が思ふ妹にまそ鏡清き月夜にただ一目見するまでには散りこすなゆめと言ひつつここだくも我が守るものをうれたきや醜霍公鳥暁のうら悲しきに追へど追へどなほし来鳴きていたづらに地に散らせばすべをなみ攀ぢて手折りつ見ませ我妹子
【1508】望ぐたち清き月夜に我妹子に見せむと思ひしやどの橘
【1509】妹が見て後も鳴かなむ霍公鳥花橘を地に散らしつ
【1510】なでしこは咲きて散りぬと人は言へど我が標めし野の花にあらめやも
【1511】夕されば小倉の山に鳴く鹿は今夜は鳴かず寐ねにけらしも
【1512】経もなく緯も定めず娘子らが織る黄葉に霜な降りそね
【1513】今朝の朝明雁が音聞きつ春日山もみちにけらし我が心痛し
【1514】秋萩は咲くべくあらし我がやどの浅茅が花の散りゆく見れば
【1515】言繁き里に住まずは今朝鳴きし雁にたぐひて行かましものを[一云国にあらずは]
【1516】秋山にもみつ木の葉のうつりなばさらにや秋を見まく欲りせむ
【1517】味酒三輪のはふりの山照らす秋の黄葉の散らまく惜しも
【1518】天の川相向き立ちて我が恋ひし君来ますなり紐解き設けな[一云川に向ひて]
【1519】久方の天の川瀬に舟浮けて今夜か君が我がり来まさむ
【1520】彦星は織女と天地の別れし時ゆいなうしろ川に向き立ち思ふそら安けなくに嘆くそら安けなくに青波に望みは絶えぬ白雲に涙は尽きぬかくのみや息づき居らむかくのみや恋ひつつあらむさ丹塗りの小舟もがも玉巻きの真櫂もがも[一云小棹もがも]朝なぎにい掻き渡り夕潮に[一云夕にも]い漕ぎ渡り久方の天の川原に天飛ぶや領巾片敷き真玉手の玉手さし交へあまた夜も寐ねてしかも[一云寐もさ寝てしか]秋にあらずとも[一云秋待たずとも]
【1521】風雲は二つの岸に通へども我が遠妻の[一云愛し妻の]言ぞ通はぬ
【1522】たぶてにも投げ越しつべき天の川隔てればかもあまたすべなき
【1523】秋風の吹きにし日よりいつしかと我が待ち恋ひし君ぞ来ませる
【1524】天の川いと川波は立たねどもさもらひかたし近きこの瀬を
【1525】袖振らば見も交しつべく近けども渡るすべなし秋にしあらねば
【1526】玉かぎるほのかに見えて別れなばもとなや恋ひむ逢ふ時までは
【1527】彦星の妻迎へ舟漕ぎ出らし天の川原に霧の立てるは
【1528】霞立つ天の川原に君待つとい行き帰るに裳の裾濡れぬ
【1529】天の川浮津の波音騒くなり我が待つ君し舟出すらしも
【1530】をみなへし秋萩交る蘆城の野今日を始めて万世に見む
【1531】玉櫛笥蘆城の川を今日見ては万代までに忘らえめやも
【1532】草枕旅行く人も行き触ればにほひぬべくも咲ける萩かも
【1533】伊香山野辺に咲きたる萩見れば君が家なる尾花し思ほゆ
【1534】をみなへし秋萩折れれ玉桙の道行きづとと乞はむ子がため
【1535】我が背子をいつぞ今かと待つなへに面やは見えむ秋の風吹く
【1536】宵に逢ひて朝面なみ名張野の萩は散りにき黄葉早継げ
【1537】秋の野に咲きたる花を指折りかき数ふれば七種の花[其一]
【1538】萩の花尾花葛花なでしこの花をみなへしまた藤袴朝顔の花[其二]
【1539】秋の田の穂田を雁がね暗けくに夜のほどろにも鳴き渡るかも
【1540】今朝の朝明雁が音寒く聞きしなへ野辺の浅茅ぞ色づきにける
【1541】我が岡にさを鹿来鳴く初萩の花妻どひに来鳴くさを鹿
【1542】我が岡の秋萩の花風をいたみ散るべくなりぬ見む人もがも
【1543】秋の露は移しにありけり水鳥の青葉の山の色づく見れば
【1544】彦星の思ひますらむ心より見る我れ苦し夜の更けゆけば
【1545】織女の袖継ぐ宵の暁は川瀬の鶴は鳴かずともよし
【1546】妹がりと我が行く道の川しあればつくめ結ぶと夜ぞ更けにける
【1547】さを鹿の萩に貫き置ける露の白玉あふさわに誰れの人かも手に巻かむちふ
【1548】咲く花もをそろはいとはしおくてなる長き心になほしかずけり
【1549】射目立てて跡見の岡辺のなでしこの花ふさ手折り我れは持ちて行く奈良人のため
【1550】秋萩の散りの乱ひに呼びたてて鳴くなる鹿の声の遥けさ
【1551】時待ちて降れるしぐれの雨やみぬ明けむ朝か山のもみたむ
【1552】夕月夜心もしのに白露の置くこの庭にこほろぎ鳴くも
【1553】時雨の雨間なくし降れば御笠山木末あまねく色づきにけり
【1554】大君の御笠の山の黄葉は今日の時雨に散りか過ぎなむ
【1555】秋立ちて幾日もあらねばこの寝ぬる朝明の風は手本寒しも
【1556】秋田刈る仮廬もいまだ壊たねば雁が音寒し霜も置きぬがに
【1557】明日香川行き廻る岡の秋萩は今日降る雨に散りか過ぎなむ
【1558】鶉鳴く古りにし里の秋萩を思ふ人どち相見つるかも
【1559】秋萩は盛り過ぐるをいたづらにかざしに挿さず帰りなむとや
【1560】妹が目を始見の崎の秋萩はこの月ごろは散りこすなゆめ
【1561】吉隠の猪養の山に伏す鹿の妻呼ぶ声を聞くが羨しさ
【1562】誰れ聞きつこゆ鳴き渡る雁がねの妻呼ぶ声の羨しくもあるか
【1563】聞きつやと妹が問はせる雁が音はまことも遠く雲隠るなり
【1564】秋づけば尾花が上に置く露の消ぬべくも我は思ほゆるかも
【1565】我が宿の一群萩を思ふ子に見せずほとほと散らしつるかも
【1566】久方の雨間も置かず雲隠り鳴きぞ行くなる早稲田雁がね
【1567】雲隠り鳴くなる雁の行きて居む秋田の穂立繁くし思ほゆ
【1568】雨隠り心いぶせみ出で見れば春日の山は色づきにけり
【1569】雨晴れて清く照りたるこの月夜またさらにして雲なたなびき
【1570】ここにありて春日やいづち雨障み出でて行かねば恋ひつつぞ居る
【1571】春日野に時雨降る見ゆ明日よりは黄葉かざさむ高円の山
【1572】我が宿の尾花が上の白露を消たずて玉に貫くものにもが
【1573】秋の雨に濡れつつ居ればいやしけど我妹が宿し思ほゆるかも
【1574】雲の上に鳴くなる雁の遠けども君に逢はむとた廻り来つ
【1575】雲の上に鳴きつる雁の寒きなへ萩の下葉はもみちぬるかも
【1576】この岡に小鹿踏み起しうかねらひかもかもすらく君故にこそ
【1577】秋の野の尾花が末を押しなべて来しくもしるく逢へる君かも
【1578】今朝鳴きて行きし雁が音寒みかもこの野の浅茅色づきにける
【1579】朝戸開けて物思ふ時に白露の置ける秋萩見えつつもとな
【1580】さを鹿の来立ち鳴く野の秋萩は露霜負ひて散りにしものを
【1581】手折らずて散りなば惜しと我が思ひし秋の黄葉をかざしつるかも
【1582】めづらしき人に見せむと黄葉を手折りぞ我が来し雨の降らくに
【1583】黄葉を散らす時雨に濡れて来て君が黄葉をかざしつるかも
【1584】めづらしと我が思ふ君は秋山の初黄葉に似てこそありけれ
【1585】奈良山の嶺の黄葉取れば散る時雨の雨し間なく降るらし
【1586】黄葉を散らまく惜しみ手折り来て今夜かざしつ何か思はむ
【1587】あしひきの山の黄葉今夜もか浮かび行くらむ山川の瀬に
【1588】奈良山をにほはす黄葉手折り来て今夜かざしつ散らば散るとも
【1589】露霜にあへる黄葉を手折り来て妹とかざしつ後は散るとも
【1590】十月時雨にあへる黄葉の吹かば散りなむ風のまにまに
【1591】黄葉の過ぎまく惜しみ思ふどち遊ぶ今夜は明けずもあらぬか
【1592】しかとあらぬ五百代小田を刈り乱り田廬に居れば都し思ほゆ
【1593】隠口の泊瀬の山は色づきぬ時雨の雨は降りにけらしも
【1594】時雨の雨間なくな降りそ紅ににほへる山の散らまく惜しも
【1595】秋萩の枝もとををに置く露の消なば消ぬとも色に出でめやも
【1596】妹が家の門田を見むとうち出で来し心もしるく照る月夜かも
【1597】秋の野に咲ける秋萩秋風に靡ける上に秋の露置けり
【1598】さを鹿の朝立つ野辺の秋萩に玉と見るまで置ける白露
【1599】さを鹿の胸別けにかも秋萩の散り過ぎにける盛りかも去ぬる
【1600】妻恋ひに鹿鳴く山辺の秋萩は露霜寒み盛り過ぎゆく
【1601】めづらしき君が家なる花すすき穂に出づる秋の過ぐらく惜しも
【1602】山彦の相響むまで妻恋ひに鹿鳴く山辺に独りのみして
【1603】このころの朝明に聞けばあしひきの山呼び響めさを鹿鳴くも
【1604】秋されば春日の山の黄葉見る奈良の都の荒るらく惜しも
【1605】高円の野辺の秋萩このころの暁露に咲きにけむかも
【1606】君待つと我が恋ひをれば我が宿の簾動かし秋の風吹く
【1607】風をだに恋ふるは羨し風をだに来むとし待たば何か嘆かむ
【1608】秋萩の上に置きたる白露の消かもしなまし恋ひつつあらずは
【1609】宇陀の野の秋萩しのぎ鳴く鹿も妻に恋ふらく我れにはまさじ
【1610】高円の秋野の上のなでしこの花うら若み人のかざししなでしこの花
【1611】あしひきの山下響め鳴く鹿の言ともしかも我が心夫
【1612】神さぶといなにはあらず秋草の結びし紐を解くは悲しも
【1613】秋の野を朝行く鹿の跡もなく思ひし君に逢へる今夜か
【1614】九月のその初雁の使にも思ふ心は聞こえ来ぬかも
【1615】大の浦のその長浜に寄する波ゆたけく君を思ふこのころ[大浦者遠江國之海濱名也]
【1616】朝ごとに我が見る宿のなでしこの花にも君はありこせぬかも
【1617】秋萩に置きたる露の風吹きて落つる涙は留めかねつも
【1618】玉に貫き消たず賜らむ秋萩の末わくらばに置ける白露
【1619】玉桙の道は遠けどはしきやし妹を相見に出でてぞ我が来し
【1620】あらたまの月立つまでに来まさねば夢にし見つつ思ひぞ我がせし
【1621】我が宿の萩花咲けり見に来ませいま二日だみあらば散りなむ
【1622】我が宿の秋の萩咲く夕影に今も見てしか妹が姿を
【1623】我が宿にもみつ蝦手見るごとに妹を懸けつつ恋ひぬ日はなし
【1624】我が蒔ける早稲田の穂立作りたるかづらぞ見つつ偲はせ我が背
【1625】我妹子が業と作れる秋の田の早稲穂のかづら見れど飽かぬかも
【1626】秋風の寒きこのころ下に着む妹が形見とかつも偲はむ
【1627】我が宿の時じき藤のめづらしく今も見てしか妹が笑まひを
【1628】我が宿の萩の下葉は秋風もいまだ吹かねばかくぞもみてる
【1629】ねもころに物を思へば言はむすべ為むすべもなし妹と我れと手携さはりて朝には庭に出で立ち夕には床うち掃ひ白栲の袖さし交へてさ寝し夜や常にありけるあしひきの山鳥こそば峰向ひに妻問ひすといへうつせみの人なる我れや何すとか一日一夜も離り居て嘆き恋ふらむここ思へば胸こそ痛きそこ故に心なぐやと高円の山にも野にもうち行きて遊び歩けど花のみにほひてあれば見るごとにまして偲はゆいかにして忘れむものぞ恋といふものを
【1630】高円の野辺のかほ花面影に見えつつ妹は忘れかねつも
【1631】今造る久迩の都に秋の夜の長きにひとり寝るが苦しさ
【1632】あしひきの山辺に居りて秋風の日に異に吹けば妹をしぞ思ふ
【1633】手もすまに植ゑし萩にやかへりては見れども飽かず心尽さむ
【1634】衣手に水渋付くまで植ゑし田を引板我が延へまもれる苦し
【1635】佐保川の水を堰き上げて植ゑし田を[尼作]刈れる初飯はひとりなるべし[家持續]
【1636】大口の真神の原に降る雪はいたくな降りそ家もあらなくに
【1637】はだすすき尾花逆葺き黒木もち造れる室は万代までに
【1638】あをによし奈良の山なる黒木もち造れる室は座せど飽かぬかも
【1639】沫雪のほどろほどろに降りしけば奈良の都し思ほゆるかも
【1640】我が岡に盛りに咲ける梅の花残れる雪をまがへつるかも
【1641】沫雪に降らえて咲ける梅の花君がり遣らばよそへてむかも
【1642】たな霧らひ雪も降らぬか梅の花咲かぬが代にそへてだに見む
【1643】天霧らし雪も降らぬかいちしろくこのいつ柴に降らまくを見む
【1644】引き攀ぢて折らば散るべみ梅の花袖に扱入れつ染まば染むとも
【1645】我が宿の冬木の上に降る雪を梅の花かとうち見つるかも
【1646】ぬばたまの今夜の雪にいざ濡れな明けむ朝に消なば惜しけむ
【1647】梅の花枝にか散ると見るまでに風に乱れて雪ぞ降り来る
【1648】十二月には沫雪降ると知らねかも梅の花咲くふふめらずして
【1649】今日降りし雪に競ひて我が宿の冬木の梅は花咲きにけり
【1650】池の辺の松の末葉に降る雪は五百重降りしけ明日さへも見む
【1651】沫雪のこのころ継ぎてかく降らば梅の初花散りか過ぎなむ
【1652】梅の花折りも折らずも見つれども今夜の花になほしかずけり
【1653】今のごと心を常に思へらばまづ咲く花の地に落ちめやも
【1654】松蔭の浅茅の上の白雪を消たずて置かむことはかもなき
【1655】高山の菅の葉しのぎ降る雪の消ぬと言ふべくも恋の繁けく
【1656】酒杯に梅の花浮かべ思ふどち飲みての後は散りぬともよし
【1657】官にも許したまへり今夜のみ飲まむ酒かも散りこすなゆめ
【1658】我が背子とふたり見ませばいくばくかこの降る雪の嬉しくあらまし
【1659】真木の上に降り置ける雪のしくしくも思ほゆるかもさ夜問へ我が背
【1660】梅の花散らすあらしの音のみに聞きし我妹を見らくしよしも
【1661】久方の月夜を清み梅の花心開けて我が思へる君
【1662】沫雪の消ぬべきものを今までに流らへぬるは妹に逢はむとぞ
【1663】沫雪の庭に降り敷き寒き夜を手枕まかずひとりかも寝む
第9巻
【1664】夕されば小倉の山に伏す鹿の今夜は鳴かず寐ねにけらしも
【1665】妹がため我れ玉拾ふ沖辺なる玉寄せ持ち来沖つ白波
【1666】朝霧に濡れにし衣干さずしてひとりか君が山道越ゆらむ
【1667】妹がため我れ玉求む沖辺なる白玉寄せ来沖つ白波
【1668】白崎は幸くあり待て大船に真梶しじ貫きまたかへり見む
【1669】南部の浦潮な満ちそね鹿島なる釣りする海人を見て帰り来む
【1670】朝開き漕ぎ出て我れは由良の崎釣りする海人を見て帰り来む
【1671】由良の崎潮干にけらし白神の礒の浦廻をあへて漕ぐなり
【1672】黒牛潟潮干の浦を紅の玉裳裾引き行くは誰が妻
【1673】風莫の浜の白波いたづらにここに寄せ来る見る人なしに[一云ここに寄せ来も]
【1674】我が背子が使来むかと出立のこの松原を今日か過ぎなむ
【1675】藤白の御坂を越ゆと白栲の我が衣手は濡れにけるかも
【1676】背の山に黄葉常敷く神岳の山の黄葉は今日か散るらむ
【1677】大和には聞こえも行くか大我野の竹葉刈り敷き廬りせりとは
【1678】紀の国の昔弓雄の鳴り矢もち鹿取り靡けし坂の上にぞある
【1679】紀の国にやまず通はむ妻の杜妻寄しこせね妻といひながら[一云妻賜はにも妻といひながら]
【1680】あさもよし紀へ行く君が真土山越ゆらむ今日ぞ雨な降りそね
【1681】後れ居て我が恋ひ居れば白雲のたなびく山を今日か越ゆらむ
【1682】とこしへに夏冬行けや裘扇放たぬ山に住む人
【1683】妹が手を取りて引き攀ぢふさ手折り我がかざすべく花咲けるかも
【1684】春山は散り過ぎぬとも三輪山はいまだふふめり君待ちかてに
【1685】川の瀬のたぎつを見れば玉藻かも散り乱れたる川の常かも
【1686】彦星のかざしの玉の妻恋ひに乱れにけらしこの川の瀬に
【1687】白鳥の鷺坂山の松蔭に宿りて行かな夜も更けゆくを
【1688】あぶり干す人もあれやも濡れ衣を家には遣らな旅のしるしに
【1689】あり衣辺につきて漕がさね杏人の浜を過ぐれば恋しくありなり
【1690】高島の阿渡川波は騒けども我れは家思ふ宿り悲しみ
【1691】旅なれば夜中をさして照る月の高島山に隠らく惜しも
【1692】我が恋ふる妹は逢はさず玉の浦に衣片敷き独りかも寝む
【1693】玉櫛笥明けまく惜しきあたら夜を衣手離れて独りかも寝む
【1694】栲領巾の鷺坂山の白つつじ我れににほはに妹に示さむ
【1695】妹が門入り泉川の常滑にみ雪残れりいまだ冬かも
【1696】衣手の名木の川辺を春雨に我れ立ち濡ると家思ふらむか
【1697】家人の使ひにあらし春雨の避くれど我れを濡らさく思へば
【1698】あぶり干す人もあれやも家人の春雨すらを間使ひにする
【1699】巨椋の入江響むなり射目人の伏見が田居に雁渡るらし
【1700】秋風に山吹の瀬の鳴るなへに天雲翔る雁に逢へるかも
【1701】さ夜中と夜は更けぬらし雁が音の聞こゆる空ゆ月渡る見ゆ
【1702】妹があたり繁き雁が音夕霧に来鳴きて過ぎぬすべなきまでに
【1703】雲隠り雁鳴く時は秋山の黄葉片待つ時は過ぐれど
【1704】ふさ手折り多武の山霧繁みかも細川の瀬に波の騒ける
【1705】冬こもり春へを恋ひて植ゑし木の実になる時を片待つ我れぞ
【1706】ぬばたまの夜霧は立ちぬ衣手の高屋の上にたなびくまでに
【1707】山背の久世の鷺坂神代より春は張りつつ秋は散りけり
【1708】春草を馬咋山ゆ越え来なる雁の使は宿り過ぐなり
【1709】御食向ふ南淵山の巌には降りしはだれか消え残りたる
【1710】我妹子が赤裳ひづちて植ゑし田を刈りて収めむ倉無の浜
【1711】百伝ふ八十の島廻を漕ぎ来れど粟の小島は見れど飽かぬかも
【1712】天の原雲なき宵にぬばたまの夜渡る月の入らまく惜しも
【1713】滝の上の三船の山ゆ秋津辺に来鳴き渡るは誰れ呼子鳥
【1714】落ちたぎち流るる水の岩に触れ淀める淀に月の影見ゆ
【1715】楽浪の比良山風の海吹けば釣りする海人の袖返る見ゆ
【1716】白波の浜松の木の手向けくさ幾代までにか年は経ぬらむ
【1717】三川の淵瀬もおちず小網さすに衣手濡れぬ干す子はなしに
【1718】率ひて漕ぎ行く舟は高島の安曇の港に泊てにけむかも
【1719】照る月を雲な隠しそ島蔭に我が舟泊てむ泊り知らずも
【1720】馬並めてうち群れ越え来今日見つる吉野の川をいつかへり見む
【1721】苦しくも暮れゆく日かも吉野川清き川原を見れど飽かなくに
【1722】吉野川川波高み滝の浦を見ずかなりなむ恋しけまくに
【1723】かわづ鳴く六田の川の川柳のねもころ見れど飽かぬ川かも
【1724】見まく欲り来しくもしるく吉野川音のさやけさ見るにともしく
【1725】いにしへの賢しき人の遊びけむ吉野の川原見れど飽かぬかも
【1726】難波潟潮干に出でて玉藻刈る海人娘子ども汝が名告らさね
【1727】あさりする人とを見ませ草枕旅行く人に我が名は告らじ
【1728】慰めて今夜は寝なむ明日よりは恋ひかも行かむこゆ別れなば
【1729】暁の夢に見えつつ梶島の礒越す波のしきてし思ほゆ
【1730】山科の石田の小野のははそ原見つつか君が山道越ゆらむ
【1731】山科の石田の杜に幣置かばけだし我妹に直に逢はむかも
【1732】大葉山霞たなびきさ夜更けて我が舟泊てむ泊り知らずも
【1733】思ひつつ来れど来かねて三尾の崎真長の浦をまたかへり見つ
【1734】高島の安曇の港を漕ぎ過ぎて塩津菅浦今か漕ぐらむ
【1735】我が畳三重の川原の礒の裏にかくしもがもと鳴くかはづかも
【1736】山高み白木綿花に落ちたぎつ夏身の川門見れど飽かぬかも
【1737】大滝を過ぎて夏身に近づきて清き川瀬を見るがさやけさ
【1738】しなが鳥安房に継ぎたる梓弓周淮の珠名は胸別けの広き我妹腰細のすがる娘子のその顔のきらきらしきに花のごと笑みて立てれば玉桙の道行く人はおのが行く道は行かずて呼ばなくに門に至りぬさし並ぶ隣の君はあらかじめ己妻離れて乞はなくに鍵さへ奉る人皆のかく惑へればたちしなひ寄りてぞ妹はたはれてありける
【1739】金門にし人の来立てば夜中にも身はたな知らず出でてぞ逢ひける
【1740】春の日の霞める時に住吉の岸に出で居て釣舟のとをらふ見ればいにしへのことぞ思ほゆる水江の浦島の子が鰹釣り鯛釣りほこり七日まで家にも来ずて海境を過ぎて漕ぎ行くに海神の神の娘子にたまさかにい漕ぎ向ひ相とぶらひ言成りしかばかき結び常世に至り海神の神の宮の内のへの妙なる殿にたづさはりふたり入り居て老いもせず死にもせずして長き世にありけるものを世間の愚か人の我妹子に告りて語らくしましくは家に帰りて父母に事も告らひ明日のごと我れは来なむと言ひければ妹が言へらく常世辺にまた帰り来て今のごと逢はむとならばこの櫛笥開くなゆめとそこらくに堅めし言を住吉に帰り来りて家見れど家も見かねて里見れど里も見かねてあやしみとそこに思はく家ゆ出でて三年の間に垣もなく家失せめやとこの箱を開きて見てばもとのごと家はあらむと玉櫛笥少し開くに白雲の箱より出でて常世辺にたなびきぬれば立ち走り叫び袖振りこいまろび足ずりしつつたちまちに心消失せぬ若くありし肌も皺みぬ黒くありし髪も白けぬゆなゆなは息さへ絶えて後つひに命死にける水江の浦島の子が家ところ見ゆ
【1741】常世辺に住むべきものを剣大刀汝が心からおそやこの君
【1742】しな照る片足羽川のさ丹塗りの大橋の上ゆ紅の赤裳裾引き山藍もち摺れる衣着てただ独りい渡らす子は若草の夫かあるらむ橿の実の独りか寝らむ問はまくの欲しき我妹が家の知らなく
【1743】大橋の頭に家あらばま悲しく独り行く子に宿貸さましを
【1744】埼玉の小埼の沼に鴨ぞ羽霧るおのが尾に降り置ける霜を掃ふとにあらし
【1745】三栗の那賀に向へる曝井の絶えず通はむそこに妻もが
【1746】遠妻し多賀にありせば知らずとも手綱の浜の尋ね来なまし
【1747】白雲の龍田の山の瀧の上の小椋の嶺に咲きををる桜の花は山高み風しやまねば春雨の継ぎてし降ればほつ枝は散り過ぎにけり下枝に残れる花はしましくは散りな乱ひそ草枕旅行く君が帰り来るまで
【1748】我が行きは七日は過ぎじ龍田彦ゆめこの花を風にな散らし
【1749】白雲の龍田の山を夕暮れにうち越え行けば瀧の上の桜の花は咲きたるは散り過ぎにけりふふめるは咲き継ぎぬべしこちごちの花の盛りにあらずとも君がみ行きは今にしあるべし
【1750】暇あらばなづさひ渡り向つ峰の桜の花も折らましものを
【1751】島山をい行き廻れる川沿ひの岡辺の道ゆ昨日こそ我が越え来しか一夜のみ寝たりしからに峰の上の桜の花は瀧の瀬ゆ散らひて流る君が見むその日までには山おろしの風な吹きそとうち越えて名に負へる杜に風祭せな
【1752】い行き逢ひの坂のふもとに咲きををる桜の花を見せむ子もがも
【1753】衣手常陸の国の二並ぶ筑波の山を見まく欲り君来ませりと暑けくに汗かき嘆げ木の根取りうそぶき登り峰の上を君に見すれば男神も許したまひ女神もちはひたまひて時となく雲居雨降る筑波嶺をさやに照らしていふかりし国のまほらをつばらかに示したまへば嬉しみと紐の緒解きて家のごと解けてぞ遊ぶうち靡く春見ましゆは夏草の茂くはあれど今日の楽しさ
【1754】今日の日にいかにかしかむ筑波嶺に昔の人の来けむその日も
【1755】鴬の卵の中に霍公鳥独り生れて己が父に似ては鳴かず己が母に似ては鳴かず卯の花の咲きたる野辺ゆ飛び翔り来鳴き響もし橘の花を居散らしひねもすに鳴けど聞きよし賄はせむ遠くな行きそ我が宿の花橘に住みわたれ鳥
【1756】かき霧らし雨の降る夜を霍公鳥鳴きて行くなりあはれその鳥
【1757】草枕旅の憂へを慰もることもありやと筑波嶺に登りて見れば尾花散る師付の田居に雁がねも寒く来鳴きぬ新治の鳥羽の淡海も秋風に白波立ちぬ筑波嶺のよけくを見れば長き日に思ひ積み来し憂へはやみぬ
【1758】筑波嶺の裾廻の田居に秋田刈る妹がり遣らむ黄葉手折らな
【1759】鷲の住む筑波の山の裳羽服津のその津の上に率ひて娘子壮士の行き集ひかがふかがひに人妻に我も交らむ我が妻に人も言問へこの山をうしはく神の昔より禁めぬわざぞ今日のみはめぐしもな見そ事もとがむな[の歌は、東の俗語に賀我比と曰ふ]
【1760】男神に雲立ち上りしぐれ降り濡れ通るとも我れ帰らめや
【1761】三諸の神奈備山にたち向ふ御垣の山に秋萩の妻をまかむと朝月夜明けまく惜しみあしひきの山彦響め呼びたて鳴くも
【1762】明日の宵逢はざらめやもあしひきの山彦響め呼びたて鳴くも
【1763】倉橋の山を高みか夜隠りに出で来る月の片待ちかたき
【1764】久方の天の川に上つ瀬に玉橋渡し下つ瀬に舟浮け据ゑ雨降りて風吹かずとも風吹きて雨降らずとも裳濡らさずやまず来ませと玉橋渡す
【1765】天の川霧立ちわたる今日今日と我が待つ君し舟出すらしも
【1766】我妹子は釧にあらなむ左手の我が奥の手に巻きて去なましを
【1767】豊国の香春は我家紐児にいつがり居れば香春は我家
【1768】石上布留の早稲田の穂には出でず心のうちに恋ふるこのころ
【1769】かくのみし恋ひしわたればたまきはる命も我れは惜しけくもなし
【1770】みもろの神の帯ばせる泊瀬川水脈し絶えずは我れ忘れめや
【1771】後れ居て我れはや恋ひむ春霞たなびく山を君が越え去なば
【1772】後れ居て我れはや恋ひむ印南野の秋萩見つつ去なむ子故に
【1773】神なびの神寄せ板にする杉の思ひも過ぎず恋の繁きに
【1774】たらちねの母の命の言にあらば年の緒長く頼め過ぎむや
【1775】泊瀬川夕渡り来て我妹子が家の金門に近づきにけり
【1776】絶等寸の山の峰の上の桜花咲かむ春へは君し偲はむ
【1777】君なくはなぞ身装はむ櫛笥なる黄楊の小櫛も取らむとも思はず
【1778】明日よりは我れは恋ひむな名欲山岩踏み平し君が越え去なば
【1779】命をしま幸くもがも名欲山岩踏み平しまたまたも来む
【1780】ことひ牛の三宅の潟にさし向ふ鹿島の崎にさ丹塗りの小舟を設け玉巻きの小楫繁貫き夕潮の満ちのとどみに御船子を率ひたてて呼びたてて御船出でなば浜も狭に後れ並み居てこいまろび恋ひかも居らむ足すりし音のみや泣かむ海上のその津を指して君が漕ぎ行かば
【1781】海つ道のなぎなむ時も渡らなむかく立つ波に船出すべしや
【1782】雪こそば春日消ゆらめ心さへ消え失せたれや言も通はぬ
【1783】松返りしひてあれやは三栗の中上り来ぬ麻呂といふ奴
【1784】海神のいづれの神を祈らばか行くさも来さも船の早けむ
【1785】人となることはかたきをわくらばになれる我が身は死にも生きも君がまにまと思ひつつありし間にうつせみの世の人なれば大君の命畏み天離る鄙治めにと朝鳥の朝立ちしつつ群鳥の群立ち行かば留まり居て我れは恋ひむな見ず久ならば
【1786】み越道の雪降る山を越えむ日は留まれる我れを懸けて偲はせ
【1787】うつせみの世の人なれば大君の命畏み敷島の大和の国の石上布留の里に紐解かず丸寝をすれば我が着たる衣はなれぬ見るごとに恋はまされど色に出でば人知りぬべみ冬の夜の明かしもえぬを寐も寝ずに我れはぞ恋ふる妹が直香に
【1788】布留山ゆ直に見わたす都にぞ寐も寝ず恋ふる遠くあらなくに
【1789】我妹子が結ひてし紐を解かめやも絶えば絶ゆとも直に逢ふまでに
【1790】秋萩を妻どふ鹿こそ独り子に子持てりといへ鹿子じもの我が独り子の草枕旅にし行けば竹玉を繁に貫き垂れ斎瓮に木綿取り垂でて斎ひつつ我が思ふ我子ま幸くありこそ
【1791】旅人の宿りせむ野に霜降らば我が子羽ぐくめ天の鶴群
【1792】白玉の人のその名をなかなかに言を下延へ逢はぬ日の数多く過ぐれば恋ふる日の重なりゆけば思ひ遣るたどきを知らに肝向ふ心砕けて玉たすき懸けぬ時なく口やまず我が恋ふる子を玉釧手に取り持ちてまそ鏡直目に見ねばしたひ山下行く水の上に出でず我が思ふ心安きそらかも
【1793】垣ほなす人の横言繁みかも逢はぬ日数多く月の経ぬらむ
【1794】たち変り月重なりて逢はねどもさね忘らえず面影にして
【1795】妹らがり今木の嶺に茂り立つ嬬松の木は古人見けむ
【1796】黄葉の過ぎにし子らと携はり遊びし礒を見れば悲しも
【1797】潮気立つ荒礒にはあれど行く水の過ぎにし妹が形見とぞ来し
【1798】いにしへに妹と我が見しぬばたまの黒牛潟を見れば寂しも
【1799】玉津島礒の浦廻の真砂にもにほひて行かな妹も触れけむ
【1800】小垣内の麻を引き干し妹なねが作り着せけむ白栲の紐をも解かず一重結ふ帯を三重結ひ苦しきに仕へ奉りて今だにも国に罷りて父母も妻をも見むと思ひつつ行きけむ君は鶏が鳴く東の国の畏きや神の御坂に和妙の衣寒らにぬばたまの髪は乱れて国問へど国をも告らず家問へど家をも言はずますらをの行きのまにまにここに臥やせる
【1801】古へのますら壮士の相競ひ妻問ひしけむ葦屋の菟原娘子の奥城を我が立ち見れば長き世の語りにしつつ後人の偲ひにせむと玉桙の道の辺近く岩構へ造れる塚を天雲のそくへの極みこの道を行く人ごとに行き寄りてい立ち嘆かひある人は哭にも泣きつつ語り継ぎ偲ひ継ぎくる娘子らが奥城処我れさへに見れば悲しも古へ思へば
【1802】古への信太壮士の妻問ひし菟原娘子の奥城ぞこれ
【1803】語り継ぐからにもここだ恋しきを直目に見けむ古へ壮士
【1804】父母が成しのまにまに箸向ふ弟の命は朝露の消やすき命神の共争ひかねて葦原の瑞穂の国に家なみかまた帰り来ぬ遠つ国黄泉の境に延ふ蔦のおのが向き向き天雲の別れし行けば闇夜なす思ひ惑はひ射ゆ鹿の心を痛み葦垣の思ひ乱れて春鳥の哭のみ泣きつつあぢさはふ夜昼知らずかぎろひの心燃えつつ嘆く別れを
【1805】別れてもまたも逢ふべく思ほえば心乱れて我れ恋ひめやも[一云心尽して]
【1806】あしひきの荒山中に送り置きて帰らふ見れば心苦しも
【1807】鶏が鳴く東の国に古へにありけることと今までに絶えず言ひける勝鹿の真間の手児名が麻衣に青衿着けひたさ麻を裳には織り着て髪だにも掻きは梳らず沓をだにはかず行けども錦綾の中に包める斎ひ子も妹にしかめや望月の足れる面わに花のごと笑みて立てれば夏虫の火に入るがごと港入りに舟漕ぐごとく行きかぐれ人の言ふ時いくばくも生けらじものを何すとか身をたな知りて波の音の騒く港の奥城に妹が臥やせる遠き代にありけることを昨日しも見けむがごとも思ほゆるかも
【1808】勝鹿の真間の井見れば立ち平し水汲ましけむ手児名し思ほゆ
【1809】葦屋の菟原娘子の八年子の片生ひの時ゆ小放りに髪たくまでに並び居る家にも見えず虚木綿の隠りて居れば見てしかといぶせむ時の垣ほなす人の問ふ時茅渟壮士菟原壮士の伏屋焚きすすし競ひ相よばひしける時は焼太刀の手かみ押しねり白真弓靫取り負ひて水に入り火にも入らむと立ち向ひ競ひし時に我妹子が母に語らくしつたまきいやしき我が故ますらをの争ふ見れば生けりとも逢ふべくあれやししくしろ黄泉に待たむと隠り沼の下延へ置きてうち嘆き妹が去ぬれば茅渟壮士その夜夢に見とり続き追ひ行きければ後れたる菟原壮士い天仰ぎ叫びおらび地を踏みきかみたけびてもころ男に負けてはあらじと懸け佩きの小太刀取り佩きところづら尋め行きければ親族どちい行き集ひ長き代に標にせむと遠き代に語り継がむと娘子墓中に造り置き壮士墓このもかのもに造り置ける故縁聞きて知らねども新喪のごとも哭泣きつるかも
【1810】芦屋の菟原娘子の奥城を行き来と見れば哭のみし泣かゆ
【1811】墓の上の木の枝靡けり聞きしごと茅渟壮士にし寄りにけらしも
第10巻
【1812】ひさかたの天の香具山この夕霞たなびく春立つらしも
【1813】巻向の桧原に立てる春霞おほにし思はばなづみ来めやも
【1814】いにしへの人の植ゑけむ杉が枝に霞たなびく春は来ぬらし
【1815】子らが手を巻向山に春されば木の葉しのぎて霞たなびく
【1816】玉かぎる夕さり来ればさつ人の弓月が岳に霞たなびく
【1817】今朝行きて明日には来なむと云子鹿丹朝妻山に霞たなびく
【1818】子らが名に懸けのよろしき朝妻の片山崖に霞たなびく
【1819】うち靡く春立ちぬらし我が門の柳の末に鴬鳴きつ
【1820】梅の花咲ける岡辺に家居れば乏しくもあらず鴬の声
【1821】春霞流るるなへに青柳の枝くひ持ちて鴬鳴くも
【1822】我が背子を莫越の山の呼子鳥君呼び返せ夜の更けぬとに
【1823】朝ゐでに来鳴く貌鳥汝れだにも君に恋ふれや時終へず鳴く
【1824】冬こもり春さり来ればあしひきの山にも野にも鴬鳴くも
【1825】紫草の根延ふ横野の春野には君を懸けつつ鴬鳴くも
【1826】春されば妻を求むと鴬の木末を伝ひ鳴きつつもとな
【1827】春日なる羽がひの山ゆ佐保の内へ鳴き行くなるは誰れ呼子鳥
【1828】答へぬにな呼び響めそ呼子鳥佐保の山辺を上り下りに
【1829】梓弓春山近く家居れば継ぎて聞くらむ鴬の声
【1830】うち靡く春さり来れば小竹の末に尾羽打ち触れて鴬鳴くも
【1831】朝霧にしののに濡れて呼子鳥三船の山ゆ鳴き渡る見ゆ
【1832】うち靡く春さり来ればしかすがに天雲霧らひ雪は降りつつ
【1833】梅の花降り覆ふ雪を包み持ち君に見せむと取れば消につつ
【1834】梅の花咲き散り過ぎぬしかすがに白雪庭に降りしきりつつ
【1835】今さらに雪降らめやもかぎろひの燃ゆる春へとなりにしものを
【1836】風交り雪は降りつつしかすがに霞たなびき春さりにけり
【1837】山の際に鴬鳴きてうち靡く春と思へど雪降りしきぬ
【1838】峰の上に降り置ける雪し風の共ここに散るらし春にはあれども
【1839】君がため山田の沢にゑぐ摘むと雪消の水に裳の裾濡れぬ
【1840】梅が枝に鳴きて移ろふ鴬の羽白妙に沫雪ぞ降る
【1841】山高み降り来る雪を梅の花散りかも来ると思ひつるかも[一云梅の花咲きかも散ると]
【1842】雪をおきて梅をな恋ひそあしひきの山片付きて家居せる君
【1843】昨日こそ年は果てしか春霞春日の山に早立ちにけり
【1844】冬過ぎて春来るらし朝日さす春日の山に霞たなびく
【1845】鴬の春になるらし春日山霞たなびく夜目に見れども
【1846】霜枯れの冬の柳は見る人のかづらにすべく萌えにけるかも
【1847】浅緑染め懸けたりと見るまでに春の柳は萌えにけるかも
【1848】山の際に雪は降りつつしかすがにこの川楊は萌えにけるかも
【1849】山の際の雪は消ずあるをみなぎらふ川の沿ひには萌えにけるかも
【1850】朝な朝な我が見る柳鴬の来居て鳴くべく森に早なれ
【1851】青柳の糸のくはしさ春風に乱れぬい間に見せむ子もがも
【1852】ももしきの大宮人のかづらけるしだり柳は見れど飽かぬかも
【1853】梅の花取り持ち見れば我が宿の柳の眉し思ほゆるかも
【1854】鴬の木伝ふ梅のうつろへば桜の花の時かたまけぬ
【1855】桜花時は過ぎねど見る人の恋ふる盛りと今し散るらむ
【1856】我がかざす柳の糸を吹き乱る風にか妹が梅の散るらむ
【1857】年のはに梅は咲けどもうつせみの世の人我れし春なかりけり
【1858】うつたへに鳥は食まねど縄延へて守らまく欲しき梅の花かも
【1859】馬並めて多賀の山辺を白栲ににほはしたるは梅の花かも
【1860】花咲きて実はならねども長き日に思ほゆるかも山吹の花
【1861】能登川の水底さへに照るまでに御笠の山は咲きにけるかも
【1862】雪見ればいまだ冬なりしかすがに春霞立ち梅は散りつつ
【1863】去年咲きし久木今咲くいたづらに地にか落ちむ見る人なしに
【1864】あしひきの山の際照らす桜花この春雨に散りゆかむかも
【1865】うち靡く春さり来らし山の際の遠き木末の咲きゆく見れば
【1866】雉鳴く高円の辺に桜花散りて流らふ見む人もがも
【1867】阿保山の桜の花は今日もかも散り乱ふらむ見る人なしに
【1868】かはづ鳴く吉野の川の滝の上の馬酔木の花ぞはしに置くなゆめ
【1869】春雨に争ひかねて我が宿の桜の花は咲きそめにけり
【1870】春雨はいたくな降りそ桜花いまだ見なくに散らまく惜しも
【1871】春されば散らまく惜しき梅の花しましは咲かずふふみてもがも
【1872】見わたせば春日の野辺に霞立ち咲きにほへるは桜花かも
【1873】いつしかもこの夜の明けむ鴬の木伝ひ散らす梅の花見む
【1874】春霞たなびく今日の夕月夜清く照るらむ高松の野に
【1875】春されば木の木の暗の夕月夜おほつかなしも山蔭にして[一云春されば木の暗多み夕月夜]
【1876】朝霞春日の暮は木の間より移ろふ月をいつとか待たむ
【1877】春の雨にありけるものを立ち隠り妹が家道にこの日暮らしつ
【1878】今行きて聞くものにもが明日香川春雨降りてたぎつ瀬の音を
【1879】春日野に煙立つ見ゆ娘子らし春野のうはぎ摘みて煮らしも
【1880】春日野の浅茅が上に思ふどち遊ぶ今日の日忘らえめやも
【1881】春霞立つ春日野を行き返り我れは相見むいや年のはに
【1882】春の野に心延べむと思ふどち来し今日の日は暮れずもあらぬか
【1883】ももしきの大宮人は暇あれや梅をかざしてここに集へる
【1884】冬過ぎて春し来れば年月は新たなれども人は古りゆく
【1885】物皆は新たしきよしただしくも人は古りにしよろしかるべし
【1886】住吉の里行きしかば春花のいやめづらしき君に逢へるかも
【1887】春日なる御笠の山に月も出でぬかも佐紀山に咲ける桜の花の見ゆべく
【1888】白雪の常敷く冬は過ぎにけらしも春霞たなびく野辺の鴬鳴くも
【1889】我が宿の毛桃の下に月夜さし下心よしうたてこのころ
【1890】春山の友鴬の泣き別れ帰ります間も思ほせ我れを
【1891】冬こもり春咲く花を手折り持ち千たびの限り恋ひわたるかも
【1892】春山の霧に惑へる鴬も我れにまさりて物思はめやも
【1893】出でて見る向ひの岡に本茂く咲きたる花のならずはやまじ
【1894】霞立つ春の長日を恋ひ暮らし夜も更けゆくに妹も逢はぬかも
【1895】春さればまづさきくさの幸くあらば後にも逢はむな恋ひそ我妹
【1896】春さればしだり柳のとををにも妹は心に乗りにけるかも
【1897】春さればもずの草ぐき見えずとも我れは見やらむ君があたりをば
【1898】貌鳥の間なくしば鳴く春の野の草根の繁き恋もするかも
【1899】春されば卯の花ぐたし我が越えし妹が垣間は荒れにけるかも
【1900】梅の花咲き散る園に我れ行かむ君が使を片待ちがてり
【1901】藤波の咲く春の野に延ふ葛の下よし恋ひば久しくもあらむ
【1902】春の野に霞たなびき咲く花のかくなるまでに逢はぬ君かも
【1903】我が背子に我が恋ふらくは奥山の馬酔木の花の今盛りなり
【1904】梅の花しだり柳に折り交へ花に供へば君に逢はむかも
【1905】をみなへし佐紀野に生ふる白つつじ知らぬこともち言はえし我が背
【1906】梅の花我れは散らさじあをによし奈良なる人も来つつ見るがね
【1907】かくしあらば何か植ゑけむ山吹のやむ時もなく恋ふらく思へば
【1908】春されば水草の上に置く霜の消につつも我れは恋ひわたるかも
【1909】春霞山にたなびきおほほしく妹を相見て後恋ひむかも
【1910】春霞立ちにし日より今日までに我が恋やまず本の繁けば[一云片思にして]
【1911】さ丹つらふ妹を思ふと霞立つ春日もくれに恋ひわたるかも
【1912】たまきはる我が山の上に立つ霞立つとも居とも君がまにまに
【1913】見わたせば春日の野辺に立つ霞見まくの欲しき君が姿か
【1914】恋ひつつも今日は暮らしつ霞立つ明日の春日をいかに暮らさむ
【1915】我が背子に恋ひてすべなみ春雨の降るわき知らず出でて来しかも
【1916】今さらに君はい行かじ春雨の心を人の知らずあらなくに
【1917】春雨に衣はいたく通らめや七日し降らば七日来じとや
【1918】梅の花散らす春雨いたく降る旅にや君が廬りせるらむ
【1919】国栖らが春菜摘むらむ司馬の野のしばしば君を思ふこのころ
【1920】春草の繁き我が恋大海の辺に行く波の千重に積もりぬ
【1921】おほほしく君を相見て菅の根の長き春日を恋ひわたるかも
【1922】梅の花咲きて散りなば我妹子を来むか来じかと我が松の木ぞ
【1923】白真弓今春山に行く雲の行きや別れむ恋しきものを
【1924】大夫の伏し居嘆きて作りたるしだり柳のかづらせ我妹
【1925】朝戸出の君が姿をよく見ずて長き春日を恋ひや暮らさむ
【1926】春山の馬酔木の花の悪しからぬ君にはしゑや寄そるともよし
【1927】石上布留の神杉神びにし我れやさらさら恋にあひにける
【1928】さのかたは実にならずとも花のみに咲きて見えこそ恋のなぐさに
【1929】さのかたは実になりにしを今さらに春雨降りて花咲かめやも
【1930】梓弓引津の辺なるなのりその花咲くまでに逢はぬ君かも
【1931】川の上のいつ藻の花のいつもいつも来ませ我が背子時じけめやも
【1932】春雨のやまず降る降る我が恋ふる人の目すらを相見せなくに
【1933】我妹子に恋ひつつ居れば春雨のそれも知るごとやまず降りつつ
【1934】相思はぬ妹をやもとな菅の根の長き春日を思ひ暮らさむ
【1935】春さればまづ鳴く鳥の鴬の言先立ちし君をし待たむ
【1936】相思はずあるらむ子ゆゑ玉の緒の長き春日を思ひ暮らさく
【1937】大夫の出で立ち向ふ故郷の神なび山に明けくれば柘のさ枝に夕されば小松が末に里人の聞き恋ふるまで山彦の相響むまで霍公鳥妻恋ひすらしさ夜中に鳴く
【1938】旅にして妻恋すらし霍公鳥神なび山にさ夜更けて鳴く
【1939】霍公鳥汝が初声は我れにもが五月の玉に交へて貫かむ
【1940】朝霞たなびく野辺にあしひきの山霍公鳥いつか来鳴かむ
【1941】朝霧の八重山越えて呼子鳥鳴きや汝が来る宿もあらなくに
【1942】霍公鳥鳴く声聞くや卯の花の咲き散る岡に葛引く娘女
【1943】月夜よみ鳴く霍公鳥見まく欲り我れ草取れり見む人もがも
【1944】藤波の散らまく惜しみ霍公鳥今城の岡を鳴きて越ゆなり
【1945】朝霧の八重山越えて霍公鳥卯の花辺から鳴きて越え来ぬ
【1946】木高くはかつて木植ゑじ霍公鳥来鳴き響めて恋まさらしむ
【1947】逢ひかたき君に逢へる夜霍公鳥他時ゆは今こそ鳴かめ
【1948】木の暗の夕闇なるに[一云なれば]霍公鳥いづくを家と鳴き渡るらむ
【1949】霍公鳥今朝の朝明に鳴きつるは君聞きけむか朝寐か寝けむ
【1950】霍公鳥花橘の枝に居て鳴き響もせば花は散りつつ
【1951】うれたきや醜霍公鳥今こそば声の嗄るがに来鳴き響めめ
【1952】今夜のおほつかなきに霍公鳥鳴くなる声の音の遥けさ
【1953】五月山卯の花月夜霍公鳥聞けども飽かずまた鳴かぬかも
【1954】霍公鳥来居も鳴かぬか我がやどの花橘の地に落ちむ見む
【1955】霍公鳥いとふ時なしあやめぐさかづらにせむ日こゆ鳴き渡れ
【1956】大和には鳴きてか来らむ霍公鳥汝が鳴くごとになき人思ほゆ
【1957】卯の花の散らまく惜しみ霍公鳥野に出で山に入り来鳴き響もす
【1958】橘の林を植ゑむ霍公鳥常に冬まで棲みわたるがね
【1959】雨晴れの雲にたぐひて霍公鳥春日をさしてこゆ鳴き渡る
【1960】物思ふと寐ねぬ朝明に霍公鳥鳴きてさ渡るすべなきまでに
【1961】我が衣を君に着せよと霍公鳥我れをうながす袖に来居つつ
【1962】本つ人霍公鳥をやめづらしく今か汝が来る恋ひつつ居れば
【1963】かくばかり雨の降らくに霍公鳥卯の花山になほか鳴くらむ
【1964】黙もあらむ時も鳴かなむひぐらしの物思ふ時に鳴きつつもとな
【1965】思ふ子が衣摺らむににほひこそ島の榛原秋立たずとも
【1966】風に散る花橘を袖に受けて君がみ跡と偲ひつるかも
【1967】かぐはしき花橘を玉に貫き贈らむ妹はみつれてもあるか
【1968】霍公鳥来鳴き響もす橘の花散る庭を見む人や誰れ
【1969】我が宿の花橘は散りにけり悔しき時に逢へる君かも
【1970】見わたせば向ひの野辺のなでしこの散らまく惜しも雨な降りそね
【1971】雨間明けて国見もせむを故郷の花橘は散りにけむかも
【1972】野辺見ればなでしこの花咲きにけり我が待つ秋は近づくらしも
【1973】我妹子に楝の花は散り過ぎず今咲けるごとありこせぬかも
【1974】春日野の藤は散りにて何をかもみ狩の人の折りてかざさむ
【1975】時ならず玉をぞ貫ける卯の花の五月を待たば久しくあるべみ
【1976】卯の花の咲き散る岡ゆ霍公鳥鳴きてさ渡る君は聞きつや
【1977】聞きつやと君が問はせる霍公鳥しののに濡れてこゆ鳴き渡る
【1978】橘の花散る里に通ひなば山霍公鳥響もさむかも
【1979】春さればすがるなす野の霍公鳥ほとほと妹に逢はず来にけり
【1980】五月山花橘に霍公鳥隠らふ時に逢へる君かも
【1981】霍公鳥来鳴く五月の短夜もひとりし寝れば明かしかねつも
【1982】ひぐらしは時と鳴けども片恋にたわや女我れは時わかず泣く
【1983】人言は夏野の草の繁くとも妹と我れとし携はり寝ば
【1984】このころの恋の繁けく夏草の刈り掃へども生ひしくごとし
【1985】ま葛延ふ夏野の繁くかく恋ひばまこと我が命常ならめやも
【1986】我れのみやかく恋すらむかきつはた丹つらふ妹はいかにかあるらむ
【1987】片縒りに糸をぞ我が縒る我が背子が花橘を貫かむと思ひて
【1988】鴬の通ふ垣根の卯の花の憂きことあれや君が来まさぬ
【1989】卯の花の咲くとはなしにある人に恋ひやわたらむ片思にして
【1990】我れこそば憎くもあらめ我がやどの花橘を見には来じとや
【1991】霍公鳥来鳴き響もす岡辺なる藤波見には君は来じとや
【1992】隠りのみ恋ふれば苦しなでしこの花に咲き出よ朝な朝な見む
【1993】外のみに見つつ恋ひなむ紅の末摘花の色に出でずとも
【1994】夏草の露別け衣着けなくに我が衣手の干る時もなき
【1995】六月の地さへ裂けて照る日にも我が袖干めや君に逢はずして
【1996】天の川水さへに照る舟泊てて舟なる人は妹と見えきや
【1997】久方の天の川原にぬえ鳥のうら歎げましつすべなきまでに
【1998】我が恋を嬬は知れるを行く舟の過ぎて来べしや言も告げなむ
【1999】赤らひく色ぐはし子をしば見れば人妻ゆゑに我れ恋ひぬべし
【2000】天の川安の渡りに舟浮けて秋立つ待つと妹に告げこそ
【2001】大空ゆ通ふ我れすら汝がゆゑに天の川道をなづみてぞ来し
【2002】八千桙の神の御代よりともし妻人知りにけり継ぎてし思へば
【2003】我が恋ふる丹のほの面わこよひもか天の川原に石枕まく
【2004】己夫にともしき子らは泊てむ津の荒礒巻きて寝む君待ちかてに
【2005】天地と別れし時ゆ己が妻しかぞ年にある秋待つ我れは
【2006】彦星は嘆かす妻に言だにも告げにぞ来つる見れば苦しみ
【2007】ひさかたの天つしるしと水無し川隔てて置きし神代し恨めし
【2008】ぬばたまの夜霧に隠り遠くとも妹が伝へは早く告げこそ
【2009】汝が恋ふる妹の命は飽き足らに袖振る見えつ雲隠るまで
【2010】夕星も通ふ天道をいつまでか仰ぎて待たむ月人壮士
【2011】天の川い向ひ立ちて恋しらに言だに告げむ妻と言ふまでは
【2012】白玉の五百つ集ひを解きもみず我は干しかてぬ逢はむ日待つに
【2013】天の川水蔭草の秋風に靡かふ見れば時は来にけり
【2014】我が待ちし秋萩咲きぬ今だにもにほひに行かな彼方人に
【2015】我が背子にうら恋ひ居れば天の川夜舟漕ぐなる楫の音聞こゆ
【2016】ま日長く恋ふる心ゆ秋風に妹が音聞こゆ紐解き行かな
【2017】恋ひしくは日長きものを今だにもともしむべしや逢ふべき夜だに
【2018】天の川去年の渡りで移ろへば川瀬を踏むに夜ぞ更けにける
【2019】いにしへゆあげてし服も顧みず天の川津に年ぞ経にける
【2020】天の川夜船を漕ぎて明けぬとも逢はむと思ふ夜袖交へずあらむ
【2021】遠妻と手枕交へて寝たる夜は鶏がねな鳴き明けば明けぬとも
【2022】相見らく飽き足らねどもいなのめの明けさりにけり舟出せむ妻
【2023】さ寝そめていくだもあらねば白栲の帯乞ふべしや恋も過ぎねば
【2024】万代にたづさはり居て相見とも思ひ過ぐべき恋にあらなくに
【2025】万代に照るべき月も雲隠り苦しきものぞ逢はむと思へど
【2026】白雲の五百重に隠り遠くとも宵さらず見む妹があたりは
【2027】我がためと織女のそのやどに織る白栲は織りてけむかも
【2028】君に逢はず久しき時ゆ織る服の白栲衣垢付くまでに
【2029】天の川楫の音聞こゆ彦星と織女と今夜逢ふらしも
【2030】秋されば川霧立てる天の川川に向き居て恋ふる夜ぞ多き
【2031】よしゑやし直ならずともぬえ鳥のうら嘆げ居りと告げむ子もがも
【2032】一年に七日の夜のみ逢ふ人の恋も過ぎねば夜は更けゆくも[一云尽きねばさ夜ぞ明けにける]
【2033】天の川安の川原定而神競者磨待無
【2034】織女の五百機立てて織る布の秋さり衣誰れか取り見む
【2035】年にありて今か巻くらむぬばたまの夜霧隠れる遠妻の手を
【2036】我が待ちし秋は来りぬ妹と我れと何事あれぞ紐解かずあらむ
【2037】年の恋今夜尽して明日よりは常のごとくや我が恋ひ居らむ
【2038】逢はなくは日長きものを天の川隔ててまたや我が恋ひ居らむ
【2039】恋しけく日長きものを逢ふべくある宵だに君が来まさずあるらむ
【2040】彦星と織女と今夜逢ふ天の川門に波立つなゆめ
【2041】秋風の吹きただよはす白雲は織女の天つ領巾かも
【2042】しばしばも相見ぬ君を天の川舟出早せよ夜の更けぬ間に
【2043】秋風の清き夕に天の川舟漕ぎ渡る月人壮士
【2044】天の川霧立ちわたり彦星の楫の音聞こゆ夜の更けゆけば
【2045】君が舟今漕ぎ来らし天の川霧立ちわたるこの川の瀬に
【2046】秋風に川波立ちぬしましくは八十の舟津にみ舟留めよ
【2047】天の川川の音清し彦星の秋漕ぐ舟の波のさわきか
【2048】天の川川門に立ちて我が恋ひし君来ますなり紐解き待たむ[一云天の川川に向き立ち]
【2049】天の川川門に居りて年月を恋ひ来し君に今夜逢へるかも
【2050】明日よりは我が玉床をうち掃ひ君と寐ねずてひとりかも寝む
【2051】天の原行きて射てむと白真弓引きて隠れる月人壮士
【2052】この夕降りくる雨は彦星の早漕ぐ舟の櫂の散りかも
【2053】天の川八十瀬霧らへり彦星の時待つ舟は今し漕ぐらし
【2054】風吹きて川波立ちぬ引き船に渡りも来ませ夜の更けぬ間に
【2055】天の川遠き渡りはなけれども君が舟出は年にこそ待て
【2056】天の川打橋渡せ妹が家道やまず通はむ時待たずとも
【2057】月重ね我が思ふ妹に逢へる夜は今し七夜を継ぎこせぬかも
【2058】年に装ふ我が舟漕がむ天の川風は吹くとも波立つなゆめ
【2059】天の川波は立つとも我が舟はいざ漕ぎ出でむ夜の更けぬ間に
【2060】ただ今夜逢ひたる子らに言どひもいまだせずしてさ夜ぞ明けにける
【2061】天の川白波高し我が恋ふる君が舟出は今しすらしも
【2062】機物のまね木持ち行きて天の川打橋渡す君が来むため
【2063】天の川霧立ち上る織女の雲の衣のかへる袖かも
【2064】いにしへゆ織りてし服をこの夕衣に縫ひて君待つ我れを
【2065】足玉も手玉もゆらに織る服を君が御衣に縫ひもあへむかも
【2066】月日えり逢ひてしあれば別れまく惜しくある君は明日さへもがも
【2067】天の川渡り瀬深み舟浮けて漕ぎ来る君が楫の音聞こゆ
【2068】天の原降り放け見れば天の川霧立ちわたる君は来ぬらし
【2069】天の川瀬ごとに幣をたてまつる心は君を幸く来ませと
【2070】久方の天の川津に舟浮けて君待つ夜らは明けずもあらぬか
【2071】天の川なづさひ渡る君が手もいまだまかねば夜の更けぬらく
【2072】渡り守舟渡せをと呼ぶ声の至らねばかも楫の音のせぬ
【2073】ま日長く川に向き立ちありし袖今夜巻かむと思はくがよさ
【2074】天の川渡り瀬ごとに思ひつつ来しくもしるし逢へらく思へば
【2075】人さへや見継がずあらむ彦星の妻呼ぶ舟の近づき行くを[一云見つつあるらむ]
【2076】天の川瀬を早みかもぬばたまの夜は更けにつつ逢はぬ彦星
【2077】渡り守舟早渡せ一年にふたたび通ふ君にあらなくに
【2078】玉葛絶えぬものからさ寝らくは年の渡りにただ一夜のみ
【2079】恋ふる日は日長きものを今夜だにともしむべしや逢ふべきものを
【2080】織女の今夜逢ひなば常のごと明日を隔てて年は長けむ
【2081】天の川棚橋渡せ織女のい渡らさむに棚橋渡せ
【2082】天の川川門八十ありいづくにか君がみ舟を我が待ち居らむ
【2083】秋風の吹きにし日より天の川瀬に出で立ちて待つと告げこそ
【2084】天の川去年の渡り瀬荒れにけり君が来まさむ道の知らなく
【2085】天の川瀬々に白波高けども直渡り来ぬ待たば苦しみ
【2086】彦星の妻呼ぶ舟の引き綱の絶えむと君を我が思はなくに
【2087】渡り守舟出し出でむ今夜のみ相見て後は逢はじものかも
【2088】我が隠せる楫棹なくて渡り守舟貸さめやもしましはあり待て
【2089】天地の初めの時ゆ天の川い向ひ居りて一年にふたたび逢はぬ妻恋ひに物思ふ人天の川安の川原のあり通ふ出の渡りにそほ舟の艫にも舳にも舟装ひま楫しじ貫き旗すすき本葉もそよに秋風の吹きくる宵に天の川白波しのぎ落ちたぎつ早瀬渡りて若草の妻を巻かむと大船の思ひ頼みて漕ぎ来らむその夫の子があらたまの年の緒長く思ひ来し恋尽すらむ七月の七日の宵は我れも悲しも
【2090】高麗錦紐解きかはし天人の妻問ふ宵ぞ我れも偲はむ
【2091】彦星の川瀬を渡るさ小舟のえ行きて泊てむ川津し思ほゆ
【2092】天地と別れし時ゆ久方の天つしるしと定めてし天の川原にあらたまの月重なりて妹に逢ふ時さもらふと立ち待つに我が衣手に秋風の吹きかへらへば立ちて居てたどきを知らにむらきもの心いさよひ解き衣の思ひ乱れていつしかと我が待つ今夜この川の流れの長くありこせぬかも
【2093】妹に逢ふ時片待つとひさかたの天の川原に月ぞ経にける
【2094】さを鹿の心相思ふ秋萩のしぐれの降るに散らくし惜しも
【2095】夕されば野辺の秋萩うら若み露にぞ枯るる秋待ちかてに
【2096】真葛原靡く秋風吹くごとに阿太の大野の萩の花散る
【2097】雁がねの来鳴かむ日まで見つつあらむこの萩原に雨な降りそね
【2098】奥山に棲むといふ鹿の夕さらず妻どふ萩の散らまく惜しも
【2099】白露の置かまく惜しみ秋萩を折りのみ折りて置きや枯らさむ
【2100】秋田刈る仮廬の宿りにほふまで咲ける秋萩見れど飽かぬかも
【2101】我が衣摺れるにはあらず高松の野辺行きしかば萩の摺れるぞ
【2102】この夕秋風吹きぬ白露に争ふ萩の明日咲かむ見む
【2103】秋風は涼しくなりぬ馬並めていざ野に行かな萩の花見に
【2104】朝顔は朝露負ひて咲くといへど夕影にこそ咲きまさりけれ
【2105】春されば霞隠りて見えずありし秋萩咲きぬ折りてかざさむ
【2106】沙額田の野辺の秋萩時なれば今盛りなり折りてかざさむ
【2107】ことさらに衣は摺らじをみなへし佐紀野の萩ににほひて居らむ
【2108】秋風は疾く疾く吹き来萩の花散らまく惜しみ競ひ立たむ見む
【2109】我が宿の萩の末長し秋風の吹きなむ時に咲かむと思ひて
【2110】人皆は萩を秋と言ふよし我れは尾花が末を秋とは言はむ
【2111】玉梓の君が使の手折り来るこの秋萩は見れど飽かぬかも
【2112】我がやどに咲ける秋萩常ならば我が待つ人に見せましものを
【2113】手寸十名相植ゑしなしるく出で見れば宿の初萩咲きにけるかも
【2114】我が宿に植ゑ生ほしたる秋萩を誰れか標刺す我れに知らえず
【2115】手に取れば袖さへにほふをみなへしこの白露に散らまく惜しも
【2116】白露に争ひかねて咲ける萩散らば惜しけむ雨な降りそね
【2117】娘女らに行相の早稲を刈る時になりにけらしも萩の花咲く
【2118】朝霧のたなびく小野の萩の花今か散るらむいまだ飽かなくに
【2119】恋しくは形見にせよと我が背子が植ゑし秋萩花咲きにけり
【2120】秋萩に恋尽さじと思へどもしゑやあたらしまたも逢はめやも
【2121】秋風は日に異に吹きぬ高円の野辺の秋萩散らまく惜しも
【2122】大夫の心はなしに秋萩の恋のみにやもなづみてありなむ
【2123】我が待ちし秋は来たりぬしかれども萩の花ぞもいまだ咲かずける
【2124】見まく欲り我が待ち恋ひし秋萩は枝もしみみに花咲きにけり
【2125】春日野の萩し散りなば朝東風の風にたぐひてここに散り来ね
【2126】秋萩は雁に逢はじと言へればか[一云言へれかも]声を聞きては花に散りぬる
【2127】秋さらば妹に見せむと植ゑし萩露霜負ひて散りにけるかも
【2128】秋風に大和へ越ゆる雁がねはいや遠ざかる雲隠りつつ
【2129】明け暮れの朝霧隠り鳴きて行く雁は我が恋妹に告げこそ
【2130】我が宿に鳴きし雁がね雲の上に今夜鳴くなり国へかも行く
【2131】さを鹿の妻どふ時に月をよみ雁が音聞こゆ今し来らしも
【2132】天雲の外に雁が音聞きしよりはだれ霜降り寒しこの夜は[一云いやますますに恋こそまされ]
【2133】秋の田の我が刈りばかの過ぎぬれば雁が音聞こゆ冬かたまけて
【2134】葦辺なる荻の葉さやぎ秋風の吹き来るなへに雁鳴き渡る[一云秋風に雁が音聞こゆ今し来らしも]
【2135】おしてる難波堀江の葦辺には雁寝たるかも霜の降らくに
【2136】秋風に山飛び越ゆる雁がねの声遠ざかる雲隠るらし
【2137】朝に行く雁の鳴く音は我がごとく物思へれかも声の悲しき
【2138】鶴がねの今朝鳴くなへに雁がねはいづくさしてか雲隠るらむ
【2139】ぬばたまの夜渡る雁はおほほしく幾夜を経てかおのが名を告る
【2140】あらたまの年の経ゆけばあどもふと夜渡る我れを問ふ人や誰れ
【2141】このころの秋の朝明に霧隠り妻呼ぶ鹿の声のさやけさ
【2142】さを鹿の妻ととのふと鳴く声の至らむ極み靡け萩原
【2143】君に恋ひうらぶれ居れば敷の野の秋萩しのぎさを鹿鳴くも
【2144】雁は来ぬ萩は散りぬとさを鹿の鳴くなる声もうらぶれにけり
【2145】秋萩の恋も尽きねばさを鹿の声い継ぎい継ぎ恋こそまされ
【2146】山近く家や居るべきさを鹿の声を聞きつつ寐ねかてぬかも
【2147】山の辺にい行くさつ男は多かれど山にも野にもさを鹿鳴くも
【2148】あしひきの山より来せばさを鹿の妻呼ぶ声を聞かましものを
【2149】山辺にはさつ男のねらひ畏けどを鹿鳴くなり妻が目を欲り
【2150】秋萩の散りゆく見ればおほほしみ妻恋すらしさを鹿鳴くも
【2151】山遠き都にしあればさを鹿の妻呼ぶ声は乏しくもあるか
【2152】秋萩の散り過ぎゆかばさを鹿はわび鳴きせむな見ずはともしみ
【2153】秋萩の咲きたる野辺はさを鹿ぞ露を別けつつ妻どひしける
【2154】なぞ鹿のわび鳴きすなるけだしくも秋野の萩や繁く散るらむ
【2155】秋萩の咲たる野辺にさを鹿は散らまく惜しみ鳴き行くものを
【2156】あしひきの山の常蔭に鳴く鹿の声聞かすやも山田守らす子
【2157】夕影に来鳴くひぐらしここだくも日ごとに聞けど飽かぬ声かも
【2158】秋風の寒く吹くなへ我が宿の浅茅が本にこほろぎ鳴くも
【2159】蔭草の生ひたる宿の夕影に鳴くこほろぎは聞けど飽かぬかも
【2160】庭草に村雨降りてこほろぎの鳴く声聞けば秋づきにけり
【2161】み吉野の岩もとさらず鳴くかはづうべも鳴きけり川をさやけみ
【2162】神なびの山下響み行く水にかはづ鳴くなり秋と言はむとや
【2163】草枕旅に物思ひ我が聞けば夕かたまけて鳴くかはづかも
【2164】瀬を早み落ちたぎちたる白波にかはづ鳴くなり朝夕ごとに
【2165】上つ瀬にかはづ妻呼ぶ夕されば衣手寒み妻まかむとか
【2166】妹が手を取石の池の波の間ゆ鳥が音異に鳴く秋過ぎぬらし
【2167】秋の野の尾花が末に鳴くもずの声聞きけむか片聞け我妹
【2168】秋萩に置ける白露朝な朝な玉としぞ見る置ける白露
【2169】夕立ちの雨降るごとに[一云うち降れば]春日野の尾花が上の白露思ほゆ
【2170】秋萩の枝もとををに露霜置き寒くも時はなりにけるかも
【2171】白露と秋萩とには恋ひ乱れ別くことかたき我が心かも
【2172】我が宿の尾花押しなべ置く露に手触れ我妹子散らまくも見む
【2173】白露を取らば消ぬべしいざ子ども露に競ひて萩の遊びせむ
【2174】秋田刈る仮廬を作り我が居れば衣手寒く露ぞ置きにける
【2175】このころの秋風寒し萩の花散らす白露置きにけらしも
【2176】秋田刈る苫手動くなり白露し置く穂田なしと告げに来ぬらし[一云告げに来らしも]
【2177】春は萌え夏は緑に紅のまだらに見ゆる秋の山かも
【2178】妻ごもる矢野の神山露霜ににほひそめたり散らまく惜しも
【2179】朝露ににほひそめたる秋山にしぐれな降りそありわたるがね
【2180】九月のしぐれの雨に濡れ通り春日の山は色づきにけり
【2181】雁が音の寒き朝明の露ならし春日の山をもみたすものは
【2182】このころの暁露に我がやどの萩の下葉は色づきにけり
【2183】雁がねは今は来鳴きぬ我が待ちし黄葉早継げ待たば苦しも
【2184】秋山をゆめ人懸くな忘れにしその黄葉の思ほゆらくに
【2185】大坂を我が越え来れば二上に黄葉流るしぐれ降りつつ
【2186】秋されば置く白露に我が門の浅茅が末葉色づきにけり
【2187】妹が袖巻来の山の朝露ににほふ黄葉の散らまく惜しも
【2188】黄葉のにほひは繁ししかれども妻梨の木を手折りかざさむ
【2189】露霜の寒き夕の秋風にもみちにけらし妻梨の木は
【2190】我が門の浅茅色づく吉隠の浪柴の野の黄葉散るらし
【2191】雁が音を聞きつるなへに高松の野の上の草ぞ色づきにける
【2192】我が背子が白栲衣行き触ればにほひぬべくももみつ山かも
【2193】秋風の日に異に吹けば水茎の岡の木の葉も色づきにけり
【2194】雁がねの来鳴きしなへに韓衣龍田の山はもみちそめたり
【2195】雁がねの声聞くなへに明日よりは春日の山はもみちそめなむ
【2196】しぐれの雨間なくし降れば真木の葉も争ひかねて色づきにけり
【2197】いちしろくしぐれの雨は降らなくに大城の山は色づきにけり[謂大城山者在筑前<國>御笠郡之大野山頂号曰大城者也]
【2198】風吹けば黄葉散りつつすくなくも吾の松原清くあらなくに
【2199】物思ふと隠らひ居りて今日見れば春日の山は色づきにけり
【2200】九月の白露負ひてあしひきの山のもみたむ見まくしもよし
【2201】妹がりと馬に鞍置きて生駒山うち越え来れば黄葉散りつつ
【2202】黄葉する時になるらし月人の桂の枝の色づく見れば
【2203】里ゆ異に霜は置くらし高松の野山づかさの色づく見れば
【2204】秋風の日に異に吹けば露を重み萩の下葉は色づきにけり
【2205】秋萩の下葉もみちぬあらたまの月の経ぬれば風をいたみかも
【2206】まそ鏡南淵山は今日もかも白露置きて黄葉散るらむ
【2207】我がやどの浅茅色づく吉隠の夏身の上にしぐれ降るらし
【2208】雁がねの寒く鳴きしゆ水茎の岡の葛葉は色づきにけり
【2209】秋萩の下葉の黄葉花に継ぎ時過ぎゆかば後恋ひむかも
【2210】明日香川黄葉流る葛城の山の木の葉は今し散るらし
【2211】妹が紐解くと結びて龍田山今こそもみちそめてありけれ
【2212】雁がねの寒く鳴きしゆ春日なる御笠の山は色づきにけり
【2213】このころの暁露に我が宿の秋の萩原色づきにけり
【2214】夕されば雁の越え行く龍田山しぐれに競ひ色づきにけり
【2215】さ夜更けてしぐれな降りそ秋萩の本葉の黄葉散らまく惜しも
【2216】故郷の初黄葉を手折り持ち今日ぞ我が来し見ぬ人のため
【2217】君が家の黄葉は早く散りにけりしぐれの雨に濡れにけらしも
【2218】一年にふたたび行かぬ秋山を心に飽かず過ぐしつるかも
【2219】あしひきの山田作る子秀でずとも縄だに延へよ守ると知るがね
【2220】さを鹿の妻呼ぶ山の岡辺なる早稲田は刈らじ霜は降るとも
【2221】我が門に守る田を見れば佐保の内の秋萩すすき思ほゆるかも
【2222】夕さらずかはづ鳴くなる三輪川の清き瀬の音を聞かくしよしも
【2223】天の海に月の舟浮け桂楫懸けて漕ぐ見ゆ月人壮士
【2224】この夜らはさ夜更けぬらし雁が音の聞こゆる空ゆ月立ち渡る
【2225】我が背子がかざしの萩に置く露をさやかに見よと月は照るらし
【2226】心なき秋の月夜の物思ふと寐の寝らえぬに照りつつもとな
【2227】思はぬにしぐれの雨は降りたれど天雲晴れて月夜さやけし
【2228】萩の花咲きのををりを見よとかも月夜の清き恋まさらくに
【2229】白露を玉になしたる九月の有明の月夜見れど飽かぬかも
【2230】恋ひつつも稲葉かき別け家居れば乏しくもあらず秋の夕風
【2231】萩の花咲きたる野辺にひぐらしの鳴くなるなへに秋の風吹く
【2232】秋山の木の葉もいまだもみたねば今朝吹く風は霜も置きぬべく
【2233】高松のこの峰も狭に笠立てて満ち盛りたる秋の香のよさ
【2234】一日には千重しくしくに我が恋ふる妹があたりにしぐれ降れ見む
【2235】秋田刈る旅の廬りにしぐれ降り我が袖濡れぬ干す人なしに
【2236】玉たすき懸けぬ時なし我が恋はしぐれし降らば濡れつつも行かむ
【2237】黄葉を散らすしぐれの降るなへに夜さへぞ寒きひとりし寝れば
【2238】天飛ぶや雁の翼の覆ひ羽のいづく漏りてか霜の降りけむ
【2239】秋山のしたひが下に鳴く鳥の声だに聞かば何か嘆かむ
【2240】誰ぞかれと我れをな問ひそ九月の露に濡れつつ君待つ我れを
【2241】秋の夜の霧立ちわたりおほほしく夢にぞ見つる妹が姿を
【2242】秋の野の尾花が末の生ひ靡き心は妹に寄りにけるかも
【2243】秋山に霜降り覆ひ木の葉散り年は行くとも我れ忘れめや
【2244】住吉の岸を田に墾り蒔きし稲かくて刈るまで逢はぬ君かも
【2245】太刀の後玉纒田居にいつまでか妹を相見ず家恋ひ居らむ
【2246】秋の田の穂の上に置ける白露の消ぬべくも我は思ほゆるかも
【2247】秋の田の穂向きの寄れる片寄りに我れは物思ふつれなきものを
【2248】秋田刈る仮廬を作り廬りしてあるらむ君を見むよしもがも
【2249】鶴が音の聞こゆる田居に廬りして我れ旅なりと妹に告げこそ
【2250】春霞たなびく田居に廬つきて秋田刈るまで思はしむらく
【2251】橘を守部の里の門田早稲刈る時過ぎぬ来じとすらしも
【2252】秋萩の咲き散る野辺の夕露に濡れつつ来ませ夜は更けぬとも
【2253】色づかふ秋の露霜な降りそね妹が手本をまかぬ今夜は
【2254】秋萩の上に置きたる白露の消かもしなまし恋ひつつあらずは
【2255】我が宿の秋萩の上に置く露のいちしろくしも我れ恋ひめやも
【2256】秋の穂をしのに押しなべ置く露の消かもしなまし恋ひつつあらずは
【2257】露霜に衣手濡れて今だにも妹がり行かな夜は更けぬとも
【2258】秋萩の枝もとををに置く露の消かもしなまし恋ひつつあらずは
【2259】秋萩の上に白露置くごとに見つつぞ偲ふ君が姿を
【2260】我妹子は衣にあらなむ秋風の寒きこのころ下に着ましを
【2261】泊瀬風かく吹く宵はいつまでか衣片敷き我がひとり寝む
【2262】秋萩を散らす長雨の降るころはひとり起き居て恋ふる夜ぞ多き
【2263】九月のしぐれの雨の山霧のいぶせき我が胸誰を見ばやまむ[一云十月しぐれの雨降り]
【2264】こほろぎの待ち喜ぶる秋の夜を寝る験なし枕と我れは
【2265】朝霞鹿火屋が下に鳴くかはづ声だに聞かば我れ恋ひめやも
【2266】出でて去なば天飛ぶ雁の泣きぬべみ今日今日と言ふに年ぞ経にける
【2267】さを鹿の朝伏す小野の草若み隠らひかねて人に知らゆな
【2268】さを鹿の小野の草伏いちしろく我がとはなくに人の知れらく
【2269】今夜の暁ぐたち鳴く鶴の思ひは過ぎず恋こそまされ
【2270】道の辺の尾花が下の思ひ草今さらさらに何をか思はむ
【2271】草深みこほろぎさはに鳴くやどの萩見に君はいつか来まさむ
【2272】秋づけば水草の花のあえぬがに思へど知らじ直に逢はざれば
【2273】何すとか君をいとはむ秋萩のその初花の嬉しきものを
【2274】臥いまろび恋ひは死ぬともいちしろく色には出でじ朝顔の花
【2275】言に出でて云はばゆゆしみ朝顔の穂には咲き出ぬ恋もするかも
【2276】雁がねの初声聞きて咲き出たる宿の秋萩見に来我が背子
【2277】さを鹿の入野のすすき初尾花いづれの時か妹が手まかむ
【2278】恋ふる日の日長くしあればみ園生の韓藍の花の色に出でにけり
【2279】我が里に今咲く花のをみなへし堪へぬ心になほ恋ひにけり
【2280】萩の花咲けるを見れば君に逢はずまことも久になりにけるかも
【2281】朝露に咲きすさびたる月草の日くたつなへに消ぬべく思ほゆ
【2282】長き夜を君に恋ひつつ生けらずは咲きて散りにし花ならましを
【2283】我妹子に逢坂山のはだすすき穂には咲き出ず恋ひわたるかも
【2284】いささめに今も見が欲し秋萩のしなひにあるらむ妹が姿を
【2285】秋萩の花野のすすき穂には出でず我が恋ひわたる隠り妻はも
【2286】我が宿に咲きし秋萩散り過ぎて実になるまでに君に逢はぬかも
【2287】我が宿の萩咲きにけり散らぬ間に早来て見べし奈良の里人
【2288】石橋の間々に生ひたるかほ花の花にしありけりありつつ見れば
【2289】藤原の古りにし里の秋萩は咲きて散りにき君待ちかねて
【2290】秋萩を散り過ぎぬべみ手折り持ち見れども寂し君にしあらねば
【2291】朝咲き夕は消ぬる月草の消ぬべき恋も我れはするかも
【2292】秋津野の尾花刈り添へ秋萩の花を葺かさね君が仮廬に
【2293】咲けりとも知らずしあらば黙もあらむこの秋萩を見せつつもとな
【2294】秋されば雁飛び越ゆる龍田山立ちても居ても君をしぞ思ふ
【2295】我が宿の葛葉日に異に色づきぬ来まさぬ君は何心ぞも
【2296】あしひきの山さな葛もみつまで妹に逢はずや我が恋ひ居らむ
【2297】黄葉の過ぎかてぬ子を人妻と見つつやあらむ恋しきものを
【2298】君に恋ひ萎えうらぶれ我が居れば秋風吹きて月かたぶきぬ
【2299】秋の夜の月かも君は雲隠りしましく見ねばここだ恋しき
【2300】九月の有明の月夜ありつつも君が来まさば我れ恋ひめやも
【2301】よしゑやし恋ひじとすれど秋風の寒く吹く夜は君をしぞ思ふ
【2302】ある人のあな心なと思ふらむ秋の長夜を寝覚め臥すのみ
【2303】秋の夜を長しと言へど積もりにし恋を尽せば短くありけり
【2304】秋つ葉ににほへる衣我れは着じ君に奉らば夜も着るがね
【2305】旅にすら紐解くものを言繁みまろ寝ぞ我がする長きこの夜を
【2306】しぐれ降る暁月夜紐解かず恋ふらむ君と居らましものを
【2307】黄葉に置く白露の色端にも出でじと思へば言の繁けく
【2308】雨降ればたぎつ山川岩に触れ君が砕かむ心は持たじ
【2309】祝らが斎ふ社の黄葉も標縄越えて散るといふものを
【2310】こほろぎの我が床の辺に鳴きつつもとな起き居つつ君に恋ふるに寐ねかてなくに
【2311】はだすすき穂には咲き出ぬ恋をぞ我がする玉かぎるただ一目のみ見し人ゆゑに
【2312】我が袖に霰た走る巻き隠し消たずてあらむ妹が見むため
【2313】あしひきの山かも高き巻向の崖の小松にみ雪降りくる
【2314】巻向の桧原もいまだ雲居ねば小松が末ゆ沫雪流る
【2315】あしひきの山道も知らず白橿の枝もとををに雪の降れれば[或云枝もたわたわ]
【2316】奈良山の嶺なほ霧らふうべしこそ籬が下の雪は消ずけれ
【2317】こと降らば袖さへ濡れて通るべく降りなむ雪の空に消につつ
【2318】夜を寒み朝戸を開き出で見れば庭もはだらにみ雪降りたり[一云庭もほどろに雪ぞ降りたる]
【2319】夕されば衣手寒し高松の山の木ごとに雪ぞ降りたる
【2320】我が袖に降りつる雪も流れ行きて妹が手本にい行き触れぬか
【2321】沫雪は今日はな降りそ白栲の袖まき干さむ人もあらなくに
【2322】はなはだも降らぬ雪ゆゑこちたくも天つみ空は雲らひにつつ
【2323】我が背子を今か今かと出で見れば沫雪降れり庭もほどろに
【2324】あしひきの山に白きは我が宿に昨日の夕降りし雪かも
【2325】誰が園の梅の花ぞもひさかたの清き月夜にここだ散りくる
【2326】梅の花まづ咲く枝を手折りてばつとと名付けてよそへてむかも
【2327】誰が園の梅にかありけむここだくも咲きてあるかも見が欲しまでに
【2328】来て見べき人もあらなくに我家なる梅の初花散りぬともよし
【2329】雪寒み咲きには咲かぬ梅の花よしこのころはかくてもあるがね
【2330】妹がためほつ枝の梅を手折るとは下枝の露に濡れにけるかも
【2331】八田の野の浅茅色づく有乳山嶺の沫雪寒く降るらし
【2332】さ夜更けば出で来む月を高山の嶺の白雲隠すらむかも
【2333】降る雪の空に消ぬべく恋ふれども逢ふよしなしに月ぞ経にける
【2334】沫雪は千重に降りしけ恋ひしくの日長き我れは見つつ偲はむ
【2335】咲き出照る梅の下枝に置く露の消ぬべく妹に恋ふるこのころ
【2336】はなはだも夜更けてな行き道の辺の斎笹の上に霜の降る夜を
【2337】笹の葉にはだれ降り覆ひ消なばかも忘れむと言へばまして思ほゆ
【2338】霰降りいたく風吹き寒き夜や旗野に今夜我が独り寝む
【2339】吉隠の野木に降り覆ふ白雪のいちしろくしも恋ひむ我れかも
【2340】一目見し人に恋ふらく天霧らし降りくる雪の消ぬべく思ほゆ
【2341】思ひ出づる時はすべなみ豊国の由布山雪の消ぬべく思ほゆ
【2342】夢のごと君を相見て天霧らし降りくる雪の消ぬべく思ほゆ
【2343】我が背子が言うるはしみ出でて行かば裳引きしるけむ雪な降りそね
【2344】梅の花それとも見えず降る雪のいちしろけむな間使遣らば[一云降る雪に間使遣らばそれと知らなむ]
【2345】天霧らひ降りくる雪の消なめども君に逢はむとながらへわたる
【2346】うかねらふ跡見山雪のいちしろく恋ひば妹が名人知らむかも
【2347】海人小舟泊瀬の山に降る雪の日長く恋ひし君が音ぞする
【2348】和射見の嶺行き過ぎて降る雪のいとひもなしと申せその子に
【2349】我が宿に咲きたる梅を月夜よみ宵々見せむ君をこそ待て
【2350】あしひきの山のあらしは吹かねども君なき宵はかねて寒しも
第11巻
【2351】新室の壁草刈りにいましたまはね草のごと寄り合ふ娘子は君がまにまに
【2352】新室を踏み鎮む子が手玉鳴らすも玉のごと照らせる君を内にと申せ
【2353】泊瀬の斎槻が下に我が隠せる妻あかねさし照れる月夜に人見てむかも[一云人見つらむか]
【2354】ますらをの思ひ乱れて隠せるその妻天地に通り照るともあらはれめやも[一云ますらをの思ひたけびて]
【2355】愛しと我が思ふ妹は早も死なぬか生けりとも我れに寄るべしと人の言はなくに
【2356】高麗錦紐の片方ぞ床に落ちにける明日の夜し来なむと言はば取り置きて待たむ
【2357】朝戸出の君が足結を濡らす露原早く起き出でつつ我れも裳裾濡らさな
【2358】何せむに命をもとな長く欲りせむ生けりとも我が思ふ妹にやすく逢はなくに
【2359】息の緒に我れは思へど人目多みこそ吹く風にあらばしばしば逢ふべきものを
【2360】人の親処女児据ゑて守山辺から朝な朝な通ひし君が来ねば悲しも
【2361】天なる一つ棚橋いかにか行かむ若草の妻がりと言はば足飾りせむ
【2362】山背の久背の若子が欲しと言ふ我れあふさわに我れを欲しと言ふ山背の久世
【2363】岡の崎廻みたる道を人な通ひそありつつも君が来まさむ避き道にせむ
【2364】玉垂の小簾のすけきに入り通ひ来ねたらちねの母が問はさば風と申さむ
【2365】うちひさす宮道に逢ひし人妻ゆゑに玉の緒の思ひ乱れて寝る夜しぞ多き
【2366】まそ鏡見しかと思ふ妹も逢はぬかも玉の緒の絶えたる恋の繁きこのころ
【2367】海原の道に乗りてや我が恋ひ居らむ大船のゆたにあるらむ人の子ゆゑに
【2368】たらちねの母が手離れかくばかりすべなきことはいまだせなくに
【2369】人の寝る味寐は寝ずてはしきやし君が目すらを欲りし嘆かむ[或本歌云君を思ふに明けにけるかも]
【2370】恋ひしなば恋ひも死ねとや玉桙の道行く人の言も告げなく
【2371】心には千重に思へど人に言はぬ我が恋妻を見むよしもがも
【2372】かくばかり恋ひむものぞと知らませば遠くも見べくあらましものを
【2373】いつはしも恋ひぬ時とはあらねども夕かたまけて恋ひはすべなし
【2374】かくのみし恋ひやわたらむたまきはる命も知らず年は経につつ
【2375】我れゆ後生まれむ人は我がごとく恋する道にあひこすなゆめ
【2376】ますらをの現し心も我れはなし夜昼といはず恋ひしわたれば
【2377】何せむに命継ぎけむ我妹子に恋ひぬ前にも死なましものを
【2378】よしゑやし来まさぬ君を何せむにいとはず我れは恋ひつつ居らむ
【2379】見わたせば近き渡りをた廻り今か来ますと恋ひつつぞ居る
【2380】はしきやし誰が障ふれかも玉桙の道見忘れて君が来まさぬ
【2381】君が目を見まく欲りしてこの二夜千年のごとも我は恋ふるかも
【2382】うち日さす宮道を人は満ち行けど我が思ふ君はただひとりのみ
【2383】世の中は常かくのみと思へどもはたた忘れずなほ恋ひにけり
【2384】我が背子は幸くいますと帰り来と我れに告げ来む人も来ぬかも
【2385】あらたまの五年経れど我が恋の跡なき恋のやまなくあやし
【2386】巌すら行き通るべきますらをも恋といふことは後悔いにけり
【2387】日並べば人知りぬべし今日の日は千年のごともありこせぬかも
【2388】立ちて居てたづきも知らず思へども妹に告げねば間使も来ず
【2389】ぬばたまのこの夜な明けそ赤らひく朝行く君を待たば苦しも
【2390】恋するに死するものにあらませば我が身は千たび死にかへらまし
【2391】玉かぎる昨日の夕見しものを今日の朝に恋ふべきものか
【2392】なかなかに見ずあらましを相見てゆ恋ほしき心まして思ほゆ
【2393】玉桙の道行かずあらばねもころのかかる恋には逢はざらましを
【2394】朝影に我が身はなりぬ玉かきるほのかに見えて去にし子ゆゑに
【2395】行き行きて逢はぬ妹ゆゑひさかたの天露霜に濡れにけるかも
【2396】たまさかに我が見し人をいかならむよしをもちてかまた一目見む
【2397】しましくも見ぬば恋ほしき我妹子を日に日に来れば言の繁けく
【2398】たまきはる世までと定め頼みたる君によりてし言の繁けく
【2399】赤らひく肌も触れずて寐ぬれども心を異には我が思はなくに
【2400】いで何かここだはなはだ利心の失するまで思ふ恋ゆゑにこそ
【2401】恋ひ死なば恋ひも死ねとか我妹子が我家の門を過ぎて行くらむ
【2402】妹があたり遠くも見ればあやしくも我れは恋ふるか逢ふよしなしに
【2403】玉くせの清き川原にみそぎして斎ふ命は妹がためこそ
【2404】思ひ寄り見ては寄りにしものにあれば一日の間も忘れて思へや
【2405】垣ほなす人は言へども高麗錦紐解き開けし君ならなくに
【2406】高麗錦紐解き開けて夕だに知らずある命恋ひつつかあらむ
【2407】百積の船隠り入る八占さし母は問ふともその名は告らじ
【2408】眉根掻き鼻ひ紐解け待つらむかいつかも見むと思へる我れを
【2409】君に恋ひうらぶれ居れば悔しくも我が下紐の結ふ手いたづらに
【2410】あらたまの年は果つれど敷栲の袖交へし子を忘れて思へや
【2411】白栲の袖をはつはつ見しからにかかる恋をも我れはするかも
【2412】我妹子に恋ひすべながり夢に見むと我れは思へど寐ねらえなくに
【2413】故もなく我が下紐を解けしめて人にな知らせ直に逢ふまでに
【2414】恋ふること慰めかねて出でて行けば山を川をも知らず来にけり
【2415】娘子らを袖振る山の瑞垣の久しき時ゆ思ひけり我れは
【2416】ちはやぶる神の持たせる命をば誰がためにかも長く欲りせむ
【2417】石上布留の神杉神さぶる恋をも我れはさらにするかも
【2418】いかならむ名負ふ神に手向けせば我が思ふ妹を夢にだに見む
【2419】天地といふ名の絶えてあらばこそ汝と我れと逢ふことやまめ
【2420】月見れば国は同じぞ山へなり愛し妹はへなりたるかも
【2421】来る道は岩踏む山はなくもがも我が待つ君が馬つまづくに
【2422】岩根踏みへなれる山はあらねども逢はぬ日まねみ恋ひわたるかも
【2423】道の後深津島山しましくも君が目見ねば苦しかりけり
【2424】紐鏡能登香の山も誰がゆゑか君来ませるに紐解かず寝む
【2425】山科の木幡の山を馬はあれど徒歩より我が来し汝を思ひかねて
【2426】遠山に霞たなびきいや遠に妹が目見ねば我れ恋ひにけり
【2427】宇治川の瀬々のしき波しくしくに妹は心に乗りにけるかも
【2428】ちはや人宇治の渡りの瀬を早み逢はずこそあれ後も我が妻
【2429】はしきやし逢はぬ子ゆゑにいたづらに宇治川の瀬に裳裾濡らしつ
【2430】宇治川の水泡さかまき行く水の事かへらずぞ思ひ染めてし
【2431】鴨川の後瀬静けく後も逢はむ妹には我れは今ならずとも
【2432】言に出でて言はばゆゆしみ山川のたぎつ心を塞かへたりけり
【2433】水の上に数書くごとき我が命妹に逢はむとうけひつるかも
【2434】荒礒越し外行く波の外心我れは思はじ恋ひて死ぬとも
【2435】近江の海沖つ白波知らずとも妹がりといはば七日越え来む
【2436】大船の香取の海にいかり下ろしいかなる人か物思はずあらむ
【2437】沖つ裳を隠さふ波の五百重波千重しくしくに恋ひわたるかも
【2438】人言はしましぞ我妹綱手引く海ゆまさりて深くしぞ思ふ
【2439】近江の海沖つ島山奥まけて我が思ふ妹が言の繁けく
【2440】近江の海沖漕ぐ舟のいかり下ろし隠りて君が言待つ我れぞ
【2441】隠り沼の下ゆ恋ふればすべをなみ妹が名告りつ忌むべきものを
【2442】大地は取り尽すとも世の中の尽しえぬものは恋にしありけり
【2443】隠りどの沢泉なる岩が根も通してぞ思ふ我が恋ふらくは
【2444】白真弓石辺の山の常磐なる命なれやも恋ひつつ居らむ
【2445】近江の海沈く白玉知らずして恋ひせしよりは今こそまされ
【2446】白玉を巻きてぞ持てる今よりは我が玉にせむ知れる時だに
【2447】白玉を手に巻きしより忘れじと思ひけらくは何か終らむ
【2448】白玉の間開けつつ貫ける緒もくくり寄すれば後もあふものを
【2449】香具山に雲居たなびきおほほしく相見し子らを後恋ひむかも
【2450】雲間よりさ渡る月のおほほしく相見し子らを見むよしもがも
【2451】天雲の寄り合ひ遠み逢はずとも異し手枕我れまかめやも
【2452】雲だにもしるくし立たば慰めて見つつも居らむ直に逢ふまでに
【2453】春柳葛城山に立つ雲の立ちても居ても妹をしぞ思ふ
【2454】春日山雲居隠りて遠けども家は思はず君をしぞ思ふ
【2455】我がゆゑに言はれし妹は高山の嶺の朝霧過ぎにけむかも
【2456】ぬばたまの黒髪山の山菅に小雨降りしきしくしく思ほゆ
【2457】大野らに小雨降りしく木の下に時と寄り来ね我が思ふ人
【2458】朝霜の消なば消ぬべく思ひつついかにこの夜を明かしてむかも
【2459】我が背子が浜行く風のいや早に言を早みかいや逢はずあらむ
【2460】遠き妹が振り放け見つつ偲ふらむこの月の面に雲なたなびき
【2461】山の端を追ふ三日月のはつはつに妹をぞ見つる恋ほしきまでに
【2462】我妹子し我れを思はばまそ鏡照り出づる月の影に見え来ね
【2463】久方の天照る月の隠りなば何になそへて妹を偲はむ
【2464】三日月のさやにも見えず雲隠り見まくぞ欲しきうたてこのころ
【2465】我が背子に我が恋ひ居れば我が宿の草さへ思ひうらぶれにけり
【2466】浅茅原小野に標結ふ空言をいかなりと言ひて君をし待たむ
【2467】道の辺の草深百合の後もと言ふ妹が命を我れ知らめやも
【2468】港葦に交じれる草のしり草の人皆知りぬ我が下思ひは
【2469】山ぢさの白露重みうらぶれて心も深く我が恋やまず
【2470】港にさ根延ふ小菅ぬすまはず君に恋ひつつありかてぬかも
【2471】山背の泉の小菅なみなみに妹が心を我が思はなくに
【2472】見わたしの三室の山の巌菅ねもころ我れは片思ぞする[一云みもろの山の岩小菅]
【2473】菅の根のねもころ君が結びてし我が紐の緒を解く人もなし
【2474】山菅の乱れ恋のみせしめつつ逢はぬ妹かも年は経につつ
【2475】我が宿の軒にしだ草生ひたれど恋忘れ草見れどいまだ生ひず
【2476】打つ田には稗はしあまたありといへど選えし我れぞ夜をひとり寝る
【2477】あしひきの名負ふ山菅押し伏せて君し結ばば逢はずあらめやも
【2478】秋柏潤和川辺の小竹の芽の人には忍び君に堪へなくに
【2479】さね葛後も逢はむと夢のみにうけひわたりて年は経につつ
【2480】道の辺のいちしの花のいちしろく人皆知りぬ我が恋妻は[或本歌曰いちしろく人知りにけり継ぎてし思へば]
【2481】大野らにたどきも知らず標結ひてありかつましじ我が恋ふらくは
【2482】水底に生ふる玉藻のうち靡き心は寄りて恋ふるこのころ
【2483】敷栲の衣手離れて玉藻なす靡きか寝らむ我を待ちかてに
【2484】君来ずは形見にせむと我がふたり植ゑし松の木君を待ち出でむ
【2485】袖振らば見ゆべき限り我れはあれどその松が枝に隠らひにけり
【2486】茅渟の海の浜辺の小松根深めて我れ恋ひわたる人の子ゆゑに
【2487】奈良山の小松が末のうれむぞは我が思ふ妹に逢はずやみなむ
【2488】礒の上に立てるむろの木ねもころに何しか深め思ひそめけむ
【2489】橘の本に我を立て下枝取りならむや君と問ひし子らはも
【2490】天雲に翼打ちつけて飛ぶ鶴のたづたづしかも君しまさねば
【2491】妹に恋ひ寐ねぬ朝明にをし鳥のこゆかく渡る妹が使か
【2492】思ひにしあまりにしかばにほ鳥のなづさひ来しを人見けむかも
【2493】高山の嶺行くししの友を多み袖振らず来ぬ忘ると思ふな
【2494】大船に真楫しじ貫き漕ぐほともここだ恋ふるを年にあらばいかに
【2495】たらつねの母が養ふ蚕の繭隠り隠れる妹を見むよしもがも
【2496】肥人の額髪結へる染木綿の染みにし心我れ忘れめや[一云忘らえめやも]
【2497】隼人の名に負ふ夜声のいちしろく我が名は告りつ妻と頼ませ
【2498】剣大刀諸刃の利きに足踏みて死なば死なむよ君によりては
【2499】我妹子に恋ひしわたれば剣大刀名の惜しけくも思ひかねつも
【2500】朝月の日向黄楊櫛古りぬれど何しか君が見れど飽かざらむ
【2501】里遠み恋ひうらぶれぬまそ鏡床の辺去らず夢に見えこそ
【2502】まそ鏡手に取り持ちて朝な朝な見れども君は飽くこともなし
【2503】夕されば床の辺去らぬ黄楊枕何しか汝れが主待ちかたき
【2504】解き衣の恋ひ乱れつつ浮き真砂生きても我れはありわたるかも
【2505】梓弓引きてゆるさずあらませばかかる恋にはあはざらましを
【2506】言霊の八十の街に夕占問ふ占まさに告る妹は相寄らむ
【2507】玉桙の道行き占に占なへば妹に逢はむと我れに告りつも
【2508】すめろぎの神の御門を畏みとさもらふ時に逢へる君かも
【2509】まそ鏡見とも言はめや玉かぎる岩垣淵の隠りたる妻
【2510】赤駒が足掻速けば雲居にも隠り行かむぞ袖まけ我妹
【2511】こもりくの豊泊瀬道は常滑のかしこき道ぞ恋ふらくはゆめ
【2512】味酒のみもろの山に立つ月の見が欲し君が馬の音ぞする
【2513】鳴る神の少し響みてさし曇り雨も降らぬか君を留めむ
【2514】鳴る神の少し響みて降らずとも我は留まらむ妹し留めば
【2515】敷栲の枕響みて夜も寝ず思ふ人には後も逢ふものを
【2516】敷栲の枕は人に言とへやその枕には苔生しにたり
【2517】たらちねの母に障らばいたづらに汝も我れも事なるべしや
【2518】我妹子が我れを送ると白栲の袖漬つまでに泣きし思ほゆ
【2519】奥山の真木の板戸を押し開きしゑや出で来ね後は何せむ
【2520】刈り薦の一重を敷きてさ寝れども君とし寝れば寒けくもなし
【2521】かきつはた丹つらふ君をいささめに思ひ出でつつ嘆きつるかも
【2522】恨めしと思ふさなはにありしかば外のみぞ見し心は思へど
【2523】さ丹つらふ色には出でず少なくも心のうちに我が思はなくに
【2524】我が背子に直に逢はばこそ名は立ため言の通ひに何かそこゆゑ
【2525】ねもころに片思ひすれかこのころの我が心どの生けるともなき
【2526】待つらむに至らば妹が嬉しみと笑まむ姿を行きて早見む
【2527】誰れぞこの我が宿来呼ぶたらちねの母に嘖はえ物思ふ我れを
【2528】さ寝ぬ夜は千夜もありとも我が背子が思ひ悔ゆべき心は持たじ
【2529】家人は道もしみみに通へども我が待つ妹が使来ぬかも
【2530】あらたまの寸戸が竹垣網目ゆも妹し見えなば我れ恋ひめやも
【2531】我が背子がその名告らじとたまきはる命は捨てつ忘れたまふな
【2532】おほならば誰が見むとかもぬばたまの我が黒髪を靡けて居らむ
【2533】面忘れいかなる人のするものぞ我れはしかねつ継ぎてし思へば
【2534】相思はぬ人のゆゑにかあらたまの年の緒長く我が恋ひ居らむ
【2535】おほろかの心は思はじ我がゆゑに人に言痛く言はれしものを
【2536】息の緒に妹をし思へば年月の行くらむ別も思ほえぬかも
【2537】たらちねの母に知らえず我が持てる心はよしゑ君がまにまに
【2538】ひとり寝と薦朽ちめやも綾席緒になるまでに君をし待たむ
【2539】相見ては千年やいぬるいなをかも我れやしか思ふ君待ちかてに
【2540】振分けの髪を短み青草を髪にたくらむ妹をしぞ思ふ
【2541】た廻り行箕の里に妹を置きて心空にあり地は踏めども
【2542】若草の新手枕をまきそめて夜をや隔てむ憎くあらなくに
【2543】我が恋ふることも語らひ慰めむ君が使を待ちやかねてむ
【2544】うつつには逢ふよしもなし夢にだに間なく見え君恋ひに死ぬべし
【2545】誰ぞかれと問はば答へむすべをなみ君が使を帰しやりつも
【2546】思はぬに至らば妹が嬉しみと笑まむ眉引き思ほゆるかも
【2547】かくばかり恋ひむものぞと思はねば妹が手本をまかぬ夜もありき
【2548】かくだにも我れは恋ひなむ玉梓の君が使を待ちやかねてむ
【2549】妹に恋ひ我が泣く涙敷栲の木枕通り袖さへ濡れぬ[或本歌曰枕通りてまけば寒しも]
【2550】立ちて思ひ居てもぞ思ふ紅の赤裳裾引き去にし姿を
【2551】思ひにしあまりにしかばすべをなみ出でてぞ行きしその門を見に
【2552】心には千重しくしくに思へども使を遣らむすべの知らなく
【2553】夢のみに見てすらここだ恋ふる我はうつつに見てばましていかにあらむ
【2554】相見ては面隠さゆるものからに継ぎて見まくの欲しき君かも
【2555】朝戸を早くな開けそあぢさはふ目が欲る君が今夜来ませる
【2556】玉垂の小簾の垂簾を行きかちに寐は寝さずとも君は通はせ
【2557】たらちねの母に申さば君も我れも逢ふとはなしに年ぞ経ぬべき
【2558】愛しと思へりけらしな忘れと結びし紐の解くらく思へば
【2559】昨日見て今日こそ隔て我妹子がここだく継ぎて見まくし欲しも
【2560】人もなき古りにし里にある人をめぐくや君が恋に死なする
【2561】人言の繁き間守りて逢ふともやなほ我が上に言の繁けむ
【2562】里人の言寄せ妻を荒垣の外にや我が見む憎くあらなくに
【2563】人目守る君がまにまに我れさへに早く起きつつ裳の裾濡れぬ
【2564】ぬばたまの妹が黒髪今夜もか我がなき床に靡けて寝らむ
【2565】花ぐはし葦垣越しにただ一目相見し子ゆゑ千たび嘆きつ
【2566】色に出でて恋ひば人見て知りぬべし心のうちの隠り妻はも
【2567】相見ては恋慰むと人は言へど見て後にぞも恋まさりける
【2568】おほろかに我れし思はばかくばかり難き御門を罷り出めやも
【2569】思ふらむその人なれやぬばたまの夜ごとに君が夢にし見ゆる[或本歌曰夜昼と言はずあが恋ひわたる]
【2570】かくのみし恋ひば死ぬべみたらちねの母にも告げずやまず通はせ
【2571】大夫は友の騒きに慰もる心もあらむ我れぞ苦しき
【2572】偽りも似つきてぞするいつよりか見ぬ人恋ふに人の死せし
【2573】心さへ奉れる君に何をかも言はず言ひしと我がぬすまはむ
【2574】面忘れだにもえすやと手握りて打てども懲りず恋といふ奴
【2575】めづらしき君を見むとこそ左手の弓取る方の眉根掻きつれ
【2576】人間守り葦垣越しに我妹子を相見しからに言ぞさだ多き
【2577】今だにも目な乏しめそ相見ずて恋ひむ年月久しけまくに
【2578】朝寝髪我れは梳らじうるはしき君が手枕触れてしものを
【2579】早行きていつしか君を相見むと思ひし心今ぞなぎぬる
【2580】面形の忘るとあらばあづきなく男じものや恋ひつつ居らむ
【2581】言に言へば耳にたやすし少なくも心のうちに我が思はなくに
【2582】あづきなく何のたはこと今さらに童言する老人にして
【2583】相見ては幾久さにもあらなくに年月のごと思ほゆるかも
【2584】ますらをと思へる我れをかくばかり恋せしむるは悪しくはありけり
【2585】かくしつつ我が待つ験あらぬかも世の人皆の常にあらなくに
【2586】人言を繁みと君に玉梓の使も遣らず忘ると思ふな
【2587】大原の古りにし里に妹を置きて我れ寐ねかねつ夢に見えこそ
【2588】夕されば君来まさむと待ちし夜のなごりぞ今も寐ねかてにする
【2589】相思はず君はあるらしぬばたまの夢にも見えずうけひて寝れど
【2590】岩根踏み夜道は行かじと思へれど妹によりては忍びかねつも
【2591】人言の繁き間守ると逢はずあらばつひにや子らが面忘れなむ
【2592】恋死なむ後は何せむ我が命生ける日にこそ見まく欲りすれ
【2593】敷栲の枕響みて寐ねらえず物思ふ今夜早も明けぬかも
【2594】行かぬ我れを来むとか夜も門閉さずあはれ我妹子待ちつつあるらむ
【2595】夢にだに何かも見えぬ見ゆれども我れかも惑ふ恋の繁きに
【2596】慰もる心はなしにかくのみし恋ひやわたらむ月に日に異に[或本歌曰沖つ波しきてのみやも恋ひわたりなむ]
【2597】いかにして忘れむものぞ我妹子に恋はまされど忘らえなくに
【2598】遠くあれど君にぞ恋ふる玉桙の里人皆に我れ恋ひめやも
【2599】験なき恋をもするか夕されば人の手まきて寝らむ子ゆゑに
【2600】百代しも千代しも生きてあらめやも我が思ふ妹を置きて嘆かむ
【2601】うつつにも夢にも我れは思はずき古りたる君にここに逢はむとは
【2602】黒髪の白髪までと結びてし心ひとつを今解かめやも
【2603】心をし君に奉ると思へればよしこのころは恋ひつつをあらむ
【2604】思ひ出でて音には泣くともいちしろく人の知るべく嘆かすなゆめ
【2605】玉桙の道行きぶりに思はぬに妹を相見て恋ふるころかも
【2606】人目多み常かくのみしさもらはばいづれの時か我が恋ひずあらむ
【2607】敷栲の衣手離れて我を待つとあるらむ子らは面影に見ゆ
【2608】妹が袖別れし日より白栲の衣片敷き恋ひつつぞ寝る
【2609】白栲の袖はまゆひぬ我妹子が家のあたりをやまず振りしに
【2610】ぬばたまの我が黒髪を引きぬらし乱れてさらに恋ひわたるかも
【2611】今さらに君が手枕まき寝めや我が紐の緒の解けつつもとな
【2612】白栲の袖触れてし夜我が背子に我が恋ふらくはやむ時もなし
【2613】夕占にも占にも告れる今夜だに来まさぬ君をいつとか待たむ
【2614】眉根掻き下いふかしみ思へるにいにしへ人を相見つるかも
【2614S1】眉根掻き誰をか見むと思ひつつ日長く恋ひし妹に逢へるかも
【2614S2】眉根掻き下いふかしみ思へりし妹が姿を今日見つるかも
【2615】敷栲の枕をまきて妹と我れと寝る夜はなくて年ぞ経にける
【2616】奥山の真木の板戸を音早み妹があたりの霜の上に寝ぬ
【2617】あしひきの山桜戸を開け置きて我が待つ君を誰れか留むる
【2618】月夜よみ妹に逢はむと直道から我れは来つれど夜ぞ更けにける
【2619】朝影に我が身はなりぬ韓衣裾のあはずて久しくなれば
【2620】解き衣の思ひ乱れて恋ふれどもなぞ汝がゆゑと問ふ人もなき
【2621】摺り衣着りと夢に見つうつつにはいづれの人の言か繁けむ
【2622】志賀の海人の塩焼き衣なれぬれど恋といふものは忘れかねつも
【2623】紅の八しほの衣朝な朝な馴れはすれどもいやめづらしも
【2624】紅の深染めの衣色深く染みにしかばか忘れかねつる
【2625】逢はなくに夕占を問ふと幣に置くに我が衣手はまたぞ継ぐべき
【2626】古衣打棄つる人は秋風の立ちくる時に物思ふものぞ
【2627】はねかづら今する妹がうら若み笑みみ怒りみ付けし紐解く
【2628】いにしへの倭文機帯を結び垂れ誰れといふ人も君にはまさじ
【2629】逢はずとも我れは恨みじこの枕我れと思ひてまきてさ寝ませ
【2630】結へる紐解かむ日遠み敷栲の我が木枕は苔生しにけり
【2631】ぬばたまの黒髪敷きて長き夜を手枕の上に妹待つらむか
【2632】まそ鏡直にし妹を相見ずは我が恋やまじ年は経ぬとも
【2633】まそ鏡手に取り持ちて朝な朝な見む時さへや恋の繁けむ
【2634】里遠み恋わびにけりまそ鏡面影去らず夢に見えこそ
【2635】剣大刀身に佩き添ふる大夫や恋といふものを忍びかねてむ
【2636】剣大刀諸刃の上に行き触れて死にかもしなむ恋ひつつあらずは
【2637】うち鼻ひ鼻をぞひつる剣大刀身に添ふ妹し思ひけらしも
【2638】梓弓末のはら野に鳥狩する君が弓弦の絶えむと思へや
【2639】葛城の襲津彦真弓新木にも頼めや君が我が名告りけむ
【2640】梓弓引きみ緩へみ来ずは来ず来ば来そをなぞ来ずは来ばそを
【2641】時守の打ち鳴す鼓数みみれば時にはなりぬ逢はなくもあやし
【2642】燈火の影にかがよふうつせみの妹が笑まひし面影に見ゆ
【2643】玉桙の道行き疲れ稲席しきても君を見むよしもがも
【2644】小治田の板田の橋の壊れなば桁より行かむな恋ひそ我妹
【2645】宮材引く泉の杣に立つ民のやむ時もなく恋ひわたるかも
【2646】住吉の津守網引のうけの緒の浮かれか行かむ恋ひつつあらずは
【2647】手作りを空ゆ引き越し遠みこそ目言離るらめ絶ゆと隔てや
【2648】かにかくに物は思はじ飛騨人の打つ墨縄のただ一道に
【2649】あしひきの山田守る翁が置く鹿火の下焦れのみ我が恋ひ居らむ
【2650】そき板もち葺ける板目のあはざらばいかにせむとか我が寝そめけむ
【2651】難波人葦火焚く屋の煤してあれどおのが妻こそ常めづらしき
【2652】妹が髪上げ竹葉野の放れ駒荒びにけらし逢はなく思へば
【2653】馬の音のとどともすれば松蔭に出でてぞ見つるけだし君かと
【2654】君に恋ひ寐ねぬ朝明に誰が乗れる馬の足の音ぞ我れに聞かする
【2655】紅の裾引く道を中に置きて我れは通はむ君か来まさむ[一云裾漬く川を又曰待ちにか待たむ]
【2656】天飛ぶや軽の社の斎ひ槻幾代まであらむ隠り妻ぞも
【2657】神なびにひもろき立てて斎へども人の心はまもりあへぬもの
【2658】天雲の八重雲隠り鳴る神の音のみにやも聞きわたりなむ
【2659】争へば神も憎ますよしゑやしよそふる君が憎くあらなくに
【2660】夜並べて君を来ませとちはやぶる神の社を祷まぬ日はなし
【2661】霊ぢはふ神も我れをば打棄てこそしゑや命の惜しけくもなし
【2662】我妹子にまたも逢はむとちはやぶる神の社を祷まぬ日はなし
【2663】ちはやぶる神の斎垣も越えぬべし今は我が名の惜しけくもなし
【2664】夕月夜暁闇の朝影に我が身はなりぬ汝を思ひかねに
【2665】月しあれば明くらむ別も知らずして寝て我が来しを人見けむかも
【2666】妹が目の見まく欲しけく夕闇の木の葉隠れる月待つごとし
【2667】真袖持ち床うち掃ひ君待つと居りし間に月かたぶきぬ
【2668】二上に隠らふ月の惜しけども妹が手本を離るるこのころ
【2669】我が背子が振り放け見つつ嘆くらむ清き月夜に雲なたなびき
【2670】まそ鏡清き月夜のゆつりなば思ひはやまず恋こそまさめ
【2671】今夜の有明月夜ありつつも君をおきては待つ人もなし
【2672】この山の嶺に近しと我が見つる月の空なる恋もするかも
【2673】ぬばたまの夜渡る月のゆつりなばさらにや妹に我が恋ひ居らむ
【2674】朽網山夕居る雲の薄れゆかば我れは恋ひむな君が目を欲り
【2675】君が着る御笠の山に居る雲の立てば継がるる恋もするかも
【2676】ひさかたの天飛ぶ雲にありてしか君をば相見むおつる日なしに
【2677】佐保の内ゆあらしの風の吹きぬれば帰りは知らに嘆く夜ぞ多き
【2678】はしきやし吹かぬ風ゆゑ玉櫛笥開けてさ寝にし我れぞ悔しき
【2679】窓越しに月おし照りてあしひきのあらし吹く夜は君をしぞ思ふ
【2680】川千鳥棲む沢の上に立つ霧のいちしろけむな相言ひそめてば
【2681】我が背子が使を待つと笠も着ず出でつつぞ見し雨の降らくに
【2682】韓衣君にうち着せ見まく欲り恋ひぞ暮らしし雨の降る日を
【2683】彼方の埴生の小屋に小雨降り床さへ濡れぬ身に添へ我妹
【2684】笠なしと人には言ひて雨障み留まりし君が姿し思ほゆ
【2685】妹が門行き過ぎかねつひさかたの雨も降らぬかそをよしにせむ
【2686】夕占問ふ我が袖に置く白露を君に見せむと取れば消につつ
【2687】桜麻の麻生の下草露しあれば明かしてい行け母は知るとも
【2688】待ちかねて内には入らじ白栲の我が衣手に露は置きぬとも
【2689】朝露の消やすき我が身老いぬともまたをちかへり君をし待たむ
【2690】白栲の我が衣手に露は置き妹は逢はさずたゆたひにして
【2691】かにかくに物は思はじ朝露の我が身ひとつは君がまにまに
【2692】夕凝りの霜置きにけり朝戸出にいたくし踏みて人に知らゆな
【2693】かくばかり恋ひつつあらずは朝に日に妹が踏むらむ地にあらましを
【2694】あしひきの山鳥の尾の一峰越え一目見し子に恋ふべきものか
【2695】我妹子に逢ふよしをなみ駿河なる富士の高嶺の燃えつつかあらむ
【2696】荒熊のすむといふ山の師歯迫山責めて問ふとも汝が名は告らじ
【2697】妹が名も我が名も立たば惜しみこそ富士の高嶺の燃えつつわたれ
【2698】行きて見て来れば恋ほしき朝香潟山越しに置きて寐ねかてぬかも
【2699】阿太人の梁打ち渡す瀬を早み心は思へど直に逢はぬかも
【2700】玉かぎる岩垣淵の隠りには伏して死ぬとも汝が名は告らじ
【2701】明日香川明日も渡らむ石橋の遠き心は思ほえぬかも
【2702】明日香川水行きまさりいや日異に恋のまさらばありかつましじ
【2703】ま薦刈る大野川原の水隠りに恋ひ来し妹が紐解く我れは
【2704】あしひきの山下響み行く水の時ともなくも恋ひわたるかも
【2705】はしきやし逢はぬ君ゆゑいたづらにこの川の瀬に玉裳濡らしつ
【2706】泊瀬川早み早瀬をむすび上げて飽かずや妹と問ひし君はも
【2707】青山の岩垣沼の水隠りに恋ひやわたらむ逢ふよしをなみ
【2708】しなが鳥猪名山響に行く水の名のみ寄そりし隠り妻はも[一云名のみ寄そりて恋ひつつやあらむ]
【2709】我妹子に我が恋ふらくは水ならばしがらみ越して行くべく思ほゆ[或本歌發句云相思はぬ人を思はく]
【2710】犬上の鳥籠の山なる不知哉川いさとを聞こせ我が名告らすな
【2711】奥山の木の葉隠りて行く水の音聞きしより常忘らえず
【2712】言急くは中は淀ませ水無川絶ゆといふことをありこすなゆめ
【2713】明日香川行く瀬を早み早けむと待つらむ妹をこの日暮らしつ
【2714】もののふの八十宇治川の早き瀬に立ちえぬ恋も我れはするかも[一云立ちても君は忘れかねつも]
【2715】神なびの打廻の崎の岩淵の隠りてのみや我が恋ひ居らむ
【2716】高山ゆ出で来る水の岩に触れ砕けてぞ思ふ妹に逢はぬ夜は
【2717】朝東風にゐで越す波の外目にも逢はぬものゆゑ瀧もとどろに
【2718】高山の岩もとたぎち行く水の音には立てじ恋ひて死ぬとも
【2719】隠り沼の下に恋ふれば飽き足らず人に語りつ忌むべきものを
【2720】水鳥の鴨の棲む池の下樋なみいぶせき君を今日見つるかも
【2721】玉藻刈るゐでのしがらみ薄みかも恋の淀める我が心かも
【2722】我妹子が笠のかりての和射見野に我れは入りぬと妹に告げこそ
【2723】あまたあらぬ名をしも惜しみ埋れ木の下ゆぞ恋ふるゆくへ知らずて
【2724】秋風の千江の浦廻の木屑なす心は寄りぬ後は知らねど
【2725】白真砂御津の埴生の色に出でて言はなくのみぞ我が恋ふらくは
【2726】風吹かぬ浦に波立ちなき名をも我れは負へるか逢ふとはなしに[一云女と思ひて]
【2727】酢蛾島の夏身の浦に寄する波間も置きて我が思はなくに
【2728】近江の海沖つ島山奥まへて我が思ふ妹が言の繁けく
【2729】霰降り遠つ大浦に寄する波よしも寄すとも憎くあらなくに
【2730】紀の海の名高の浦に寄する波音高きかも逢はぬ子ゆゑに
【2731】牛窓の波の潮騒島響み寄そりし君は逢はずかもあらむ
【2732】沖つ波辺波の来寄る佐太の浦のこのさだ過ぎて後恋ひむかも
【2733】白波の来寄する島の荒礒にもあらましものを恋ひつつあらずは
【2734】潮満てば水泡に浮かぶ真砂にも我はなりてしか恋ひは死なずて
【2735】住吉の岸の浦廻にしく波のしくしく妹を見むよしもがも
【2736】風をいたみいたぶる波の間なく我が思ふ君は相思ふらむか
【2737】大伴の御津の白波間なく我が恋ふらくを人の知らなく
【2738】大船のたゆたふ海にいかり下ろしいかにせばかも我が恋やまむ
【2739】みさご居る沖つ荒礒に寄する波ゆくへも知らず我が恋ふらくは
【2740】大船の艫にも舳にも寄する波寄すとも我れは君がまにまに
【2741】大海に立つらむ波は間あらむ君に恋ふらくやむ時もなし
【2742】志賀の海人の煙焼き立て焼く塩の辛き恋をも我れはするかも
【2743】なかなかに君に恋ひずは比良の浦の海人ならましを玉藻刈りつつ
【2744】鱸取る海人の燈火外にだに見ぬ人ゆゑに恋ふるこのころ
【2745】港入りの葦別け小舟障り多み我が思ふ君に逢はぬころかも
【2746】庭清み沖へ漕ぎ出る海人舟の楫取る間なき恋もするかも
【2747】あぢかまの塩津をさして漕ぐ船の名は告りてしを逢はざらめやも
【2748】大船に葦荷刈り積みしみみにも妹は心に乗りにけるかも
【2749】駅路に引き舟渡し直乗りに妹は心に乗りにけるかも
【2750】我妹子に逢はず久しもうましもの安倍橘の苔生すまでに
【2751】あぢの住む渚沙の入江の荒礒松我を待つ子らはただ独りのみ
【2752】我妹子を聞き都賀野辺のしなひ合歓木我れは忍びず間なくし思へば
【2753】波の間ゆ見ゆる小島の浜久木久しくなりぬ君に逢はずして
【2754】朝柏潤八川辺の小竹の芽の偲ひて寝れば夢に見えけり
【2755】浅茅原刈り標さして空言も寄そりし君が言をし待たむ
【2756】月草の借れる命にある人をいかに知りてか後も逢はむと言ふ
【2757】大君の御笠に縫へる有間菅ありつつ見れど事なき我妹
【2758】菅の根のねもころ妹に恋ふるにし大夫心思ほえぬかも
【2759】我が宿の穂蓼古幹摘み生し実になるまでに君をし待たむ
【2760】あしひきの山沢ゑぐを摘みに行かむ日だにも逢はせ母は責むとも
【2761】奥山の岩本菅の根深くも思ほゆるかも我が思ひ妻は
【2762】葦垣の中の和草にこやかに我れと笑まして人に知らゆな
【2763】紅の浅葉の野らに刈る草の束の間も我を忘らすな
【2764】妹がため命残せり刈り薦の思ひ乱れて死ぬべきものを
【2765】我妹子に恋つつあらずは刈り薦の思ひ乱れて死ぬべきものを
【2766】三島江の入江の薦を刈りにこそ我れをば君は思ひたりけれ
【2767】あしひきの山橘の色に出でて我は恋なむを人目難みすな
【2768】葦鶴の騒く入江の白菅の知らせむためと言痛かるかも
【2769】我が背子に我が恋ふらくは夏草の刈り除くれども生ひしくごとし
【2770】道の辺のいつ柴原のいつもいつも人の許さむ言をし待たむ
【2771】我妹子が袖を頼みて真野の浦の小菅の笠を着ずて来にけり
【2772】真野の池の小菅を笠に縫はずして人の遠名を立つべきものか
【2773】さす竹の世隠りてあれ我が背子が我がりし来ずは我れ恋めやも
【2774】神奈備の浅小竹原のうるはしみ我が思ふ君が声のしるけく
【2775】山高み谷辺に延へる玉葛絶ゆる時なく見むよしもがも
【2776】道の辺の草を冬野に踏み枯らし我れ立ち待つと妹に告げこそ
【2777】畳薦へだて編む数通はさば道の芝草生ひずあらましを
【2778】水底に生ふる玉藻の生ひ出でずよしこのころはかくて通はむ
【2779】海原の沖つ縄海苔うち靡き心もしのに思ほゆるかも
【2780】紫の名高の浦の靡き藻の心は妹に寄りにしものを
【2781】海の底奥を深めて生ふる藻のもとも今こそ恋はすべなき
【2782】さ寝がには誰れとも寝めど沖つ藻の靡きし君が言待つ我れを
【2783】我妹子が何とも我れを思はねばふふめる花の穂に咲きぬべし
【2784】隠りには恋ひて死ぬともみ園生の韓藍の花の色に出でめやも
【2785】咲く花は過ぐる時あれど我が恋ふる心のうちはやむ時もなし
【2786】山吹のにほへる妹がはねず色の赤裳の姿夢に見えつつ
【2787】天地の寄り合ひの極み玉の緒の絶えじと思ふ妹があたり見つ
【2788】息の緒に思へば苦し玉の緒の絶えて乱れな知らば知るとも
【2789】玉の緒の絶えたる恋の乱れなば死なまくのみぞまたも逢はずして
【2790】玉の緒のくくり寄せつつ末つひに行きは別れず同じ緒にあらむ
【2791】片糸もち貫きたる玉の緒を弱み乱れやしなむ人の知るべく
【2792】玉の緒の現し心や年月の行きかはるまで妹に逢はずあらむ
【2793】玉の緒の間も置かず見まく欲り我が思ふ妹は家遠くありて
【2794】隠り津の沢たつみなる岩根ゆも通してぞ思ふ君に逢はまくは
【2795】紀の国の飽等の浜の忘れ貝我れは忘れじ年は経ぬとも
【2796】水くくる玉に交じれる磯貝の片恋ひのみに年は経につつ
【2797】住吉の浜に寄るといふうつせ貝実なき言もち我れ恋ひめやも
【2798】伊勢の海人の朝な夕なに潜くといふ鰒の貝の片思にして
【2799】人言を繁みと君を鶉鳴く人の古家に語らひて遣りつ
【2800】暁と鶏は鳴くなりよしゑやしひとり寝る夜は明けば明けぬとも
【2801】大海の荒礒の洲鳥朝な朝な見まく欲しきを見えぬ君かも
【2802】思へども思ひもかねつあしひきの山鳥の尾の長きこの夜を
【2803】里中に鳴くなる鶏の呼び立てていたくは泣かぬ隠り妻はも[一云里響め鳴くなる鶏の]
【2804】高山にたかべさ渡り高々に我が待つ君を待ち出でむかも
【2805】伊勢の海ゆ鳴き来る鶴の音どろも君が聞こさば我れ恋ひめやも
【2806】我妹子に恋ふれにかあらむ沖に棲む鴨の浮寝の安けくもなし
【2807】明けぬべく千鳥しば鳴く白栲の君が手枕いまだ飽かなくに
【2808】眉根掻き鼻ひ紐解け待てりやもいつかも見むと恋ひ来し我れを
【2809】今日なれば鼻ひ鼻ひし眉かゆみ思ひしことは君にしありけり
【2810】音のみを聞きてや恋ひむまそ鏡直目に逢ひて恋ひまくもいたく
【2811】この言を聞かむとならしまそ鏡照れる月夜も闇のみに見つ
【2812】我妹子に恋ひてすべなみ白栲の袖返ししは夢に見えきや
【2813】我が背子が袖返す夜の夢ならしまことも君に逢ひたるごとし
【2814】我が恋は慰めかねつま日長く夢に見えずて年の経ぬれば
【2815】ま日長く夢にも見えず絶えぬとも我が片恋はやむ時もあらじ
【2816】うらぶれて物な思ひそ天雲のたゆたふ心我が思はなくに
【2817】うらぶれて物は思はじ水無瀬川ありても水は行くといふものを
【2818】かきつはた佐紀沼の菅を笠に縫ひ着む日を待つに年ぞ経にける
【2819】おしてる難波菅笠置き古し後は誰が着む笠ならなくに
【2820】かくだにも妹を待ちなむさ夜更けて出で来し月のかたぶくまでに
【2821】木の間より移ろふ月の影を惜しみ立ち廻るにさ夜更けにけり
【2822】栲領布の白浜波の寄りもあへず荒ぶる妹に恋ひつつぞ居る[一云恋ふるころかも]
【2823】かへらまに君こそ我れに栲領巾の白浜波の寄る時もなき
【2824】思ふ人来むと知りせば八重葎覆へる庭に玉敷かましを
【2825】玉敷ける家も何せむ八重葎覆へる小屋も妹と居りせば
【2826】かくしつつあり慰めて玉の緒の絶えて別ればすべなかるべし
【2827】紅の花にしあらば衣手に染め付け持ちて行くべく思ほゆ
【2828】紅の深染めの衣を下に着ば人の見らくににほひ出でむかも
【2829】衣しも多くあらなむ取り替へて着ればや君が面忘れたる
【2830】梓弓弓束巻き替へ中見さしさらに引くとも君がまにまに
【2831】みさご居る洲に居る舟の夕潮を待つらむよりは我れこそまされ
【2832】山川に筌を伏せて守りもあへず年の八年を我がぬすまひし
【2833】葦鴨のすだく池水溢るともまけ溝の辺に我れ越えめやも
【2834】大和の室生の毛桃本繁く言ひてしものをならずはやまじ
【2835】ま葛延ふ小野の浅茅を心ゆも人引かめやも我がなけなくに
【2836】三島菅いまだ苗なり時待たば着ずやなりなむ三島菅笠
【2837】み吉野の水隈が菅を編まなくに刈りのみ刈りて乱りてむとや
【2838】川上に洗ふ若菜の流れ来て妹があたりの瀬にこそ寄らめ
【2839】かくしてやなほやまもらむ大荒木の浮田の社の標にあらなくに
【2840】いくばくも降らぬ雨ゆゑ我が背子が御名のここだく瀧もとどろに
第12巻
【2841】我が背子が朝明の姿よく見ずて今日の間を恋ひ暮らすかも
【2842】我が心ともしみ思ふ新夜の一夜もおちず夢に見えこそ
【2843】愛しと我が思ふ妹を人皆の行くごと見めや手にまかずして
【2844】このころの寐の寝らえぬは敷栲の手枕まきて寝まく欲りこそ
【2845】忘るやと物語りして心遣り過ぐせど過ぎずなほ恋ひにけり
【2846】夜も寝ず安くもあらず白栲の衣は脱かじ直に逢ふまでに
【2847】後も逢はむ我にな恋ひそと妹は言へど恋ふる間に年は経につつ
【2848】直に会はずあるはうべなり夢にだに何しか人の言の繁けむ[或本歌曰うつつにはうべも逢はなく夢にさへ]
【2849】ぬばたまのその夢にだに見え継ぐや袖干る日なく我れは恋ふるを
【2850】うつつには直には逢はず夢にだに逢ふと見えこそ我が恋ふらくに
【2851】人の見る上は結びて人の見ぬ下紐開けて恋ふる日ぞ多き
【2852】人言の繁き時には我妹子し衣にありせば下に着ましを
【2853】真玉つくをちをし兼ねて思へこそ一重の衣ひとり着て寝れ
【2854】白栲の我が紐の緒の絶えぬ間に恋結びせむ逢はむ日までに
【2855】新治の今作る道さやかにも聞きてけるかも妹が上のことを
【2856】山背の石田の社に心おそく手向けしたれや妹に逢ひかたき
【2857】菅の根のねもころごろに照る日にも干めや我が袖妹に逢はずして
【2858】妹に恋ひ寐ねぬ朝明に吹く風は妹にし触れば我れさへに触れ
【2859】明日香川高川避かし越ゑ来しをまこと今夜は明けずも行かぬか
【2860】八釣川水底絶えず行く水の継ぎてぞ恋ふるこの年ころを[或本歌曰水脈も絶えせず]
【2861】礒の上に生ふる小松の名を惜しみ人に知らえず恋ひわたるかも
【2862】山川の水陰に生ふる山菅のやまずも妹は思ほゆるかも
【2863】浅葉野に立ち神さぶる菅の根のねもころ誰がゆゑ我が恋ひなくに[或本歌曰誰が葉野に立ちしなひたる]
【2864】我が背子を今か今かと待ち居るに夜の更けゆけば嘆きつるかも
【2865】玉釧まき寝る妹もあらばこそ夜の長けくも嬉しくあるべき
【2866】人妻に言ふは誰が言さ衣のこの紐解けと言ふは誰が言
【2867】かくばかり恋ひむものぞと知らませばその夜はゆたにあらましものを
【2868】恋ひつつも後も逢はむと思へこそおのが命を長く欲りすれ
【2869】今は我は死なむよ我妹逢はずして思ひわたれば安けくもなし
【2870】我が背子が来むと語りし夜は過ぎぬしゑやさらさらしこり来めやも
【2871】人言の讒しを聞きて玉桙の道にも逢はじと言へりし我妹
【2872】逢はなくも憂しと思へばいや増しに人言繁く聞こえ来るかも
【2873】里人も語り継ぐがねよしゑやし恋ひても死なむ誰が名ならめや
【2874】確かなる使をなみと心をぞ使に遣りし夢に見えきや
【2875】天地に少し至らぬ大夫と思ひし我れや雄心もなき
【2876】里近く家や居るべきこの我が目の人目をしつつ恋の繁けく
【2877】いつはなも恋ひずありとはあらねどもうたてこのころ恋し繁しも
【2878】ぬばたまの寐ねてし宵の物思ひに裂けにし胸はやむ時もなし
【2879】み空行く名の惜しけくも我れはなし逢はぬ日まねく年の経ぬれば
【2880】うつつにも今も見てしか夢のみに手本まき寝と見るは苦しも[或本歌發<句>曰我妹子を]
【2881】立ちて居てすべのたどきも今はなし妹に逢はずて月の経ぬれば[或本歌曰君が目見ずて月の経ぬれば]
【2882】逢はずして恋ひわたるとも忘れめやいや日に異には思ひ増すとも
【2883】外目にも君が姿を見てばこそ我が恋やまめ命死なずは[一云命に向ふ我が恋やまめ]
【2884】恋ひつつも今日はあらめど玉櫛笥明けなむ明日をいかに暮らさむ
【2885】さ夜更けて妹を思ひ出で敷栲の枕もそよに嘆きつるかも
【2886】人言はまこと言痛くなりぬともそこに障らむ我れにあらなくに
【2887】立ちて居てたどきも知らず我が心天つ空なり地は踏めども
【2888】世の中の人のことばと思ほすなまことぞ恋ひし逢はぬ日を多み
【2889】いで如何に我がここだ恋ふる我妹子が逢はじと言へることもあらなくに
【2890】ぬばたまの夜を長みかも我が背子が夢に夢にし見えかへるらむ
【2891】あらたまの年の緒長くかく恋ひばまこと我が命全くあらめやも
【2892】思ひ遣るすべのたどきも我れはなし逢はずてまねく月の経ぬれば
【2893】朝去にて夕は来ます君ゆゑにゆゆしくも我は嘆きつるかも
【2894】聞きしより物を思へば我が胸は破れて砕けて利心もなし
【2895】人言を繁み言痛み我妹子に去にし月よりいまだ逢はぬかも
【2896】うたがたも言ひつつもあるか我れならば地には落ちず空に消なまし
【2897】いかならむ日の時にかも我妹子が裳引きの姿朝に日に見む
【2898】ひとり居て恋ふるは苦し玉たすき懸けず忘れむ事計りもが
【2899】なかなかに黙もあらましをあづきなく相見そめても我れは恋ふるか
【2900】我妹子が笑まひ眉引き面影にかかりてもとな思ほゆるかも
【2901】あかねさす日の暮れゆけばすべをなみ千たび嘆きて恋ひつつぞ居る
【2902】我が恋は夜昼わかず百重なす心し思へばいたもすべなし
【2903】いとのきて薄き眉根をいたづらに掻かしめつつも逢はぬ人かも
【2904】恋ひ恋ひて後も逢はむと慰もる心しなくは生きてあらめやも
【2905】いくばくも生けらじ命を恋ひつつぞ我れは息づく人に知らえず
【2906】他国によばひに行きて大刀が緒もいまだ解かねばさ夜ぞ明けにける
【2907】ますらをの聡き心も今はなし恋の奴に我れは死ぬべし
【2908】常かくし恋ふれば苦ししましくも心休めむ事計りせよ
【2909】おほろかに我れし思はば人妻にありといふ妹に恋ひつつあらめや
【2910】心には千重に百重に思へれど人目を多み妹に逢はぬかも
【2911】人目多み目こそ忍ぶれすくなくも心のうちに我が思はなくに
【2912】人の見て言とがめせぬ夢に我れ今夜至らむ宿閉すなゆめ
【2913】いつまでに生かむ命ぞおほかたは恋ひつつあらずは死なましものを
【2914】愛しと思ふ我妹を夢に見て起きて探るになきが寂しさ
【2915】妹と言はばなめし畏ししかすがに懸けまく欲しき言にあるかも
【2916】玉かつま逢はむと言ふは誰れなるか逢へる時さへ面隠しする
【2917】うつつにか妹が来ませる夢にかも我れか惑へる恋の繁きに
【2918】おほかたは何かも恋ひむ言挙げせず妹に寄り寝む年は近きを
【2919】ふたりして結びし紐をひとりして我れは解きみじ直に逢ふまでは
【2920】終へむ命ここは思はずただしくも妹に逢はざることをしぞ思ふ
【2921】たわや女は同じ心にしましくもやむ時もなく見てむとぞ思ふ
【2922】夕さらば君に逢はむと思へこそ日の暮るらくも嬉しくありけれ
【2923】ただ今日も君には逢はめど人言を繁み逢はずて恋ひわたるかも
【2924】世の中に恋繁けむと思はねば君が手本をまかぬ夜もありき
【2925】みどり子のためこそ乳母は求むと言へ乳飲めや君が乳母求むらむ
【2926】悔しくも老いにけるかも我が背子が求むる乳母に行かましものを
【2927】うらぶれて離れにし袖をまたまかば過ぎにし恋い乱れ来むかも
【2928】おのがじし人死にすらし妹に恋ひ日に異に痩せぬ人に知らえず
【2929】宵々に我が立ち待つにけだしくも君来まさずは苦しかるべし
【2930】生ける世に恋といふものを相見ねば恋のうちにも我れぞ苦しき
【2931】思ひつつ居れば苦しもぬばたまの夜に至らば我れこそ行かめ
【2932】心には燃えて思へどうつせみの人目を繁み妹に逢はぬかも
【2933】相思はず君はまさめど片恋に我れはぞ恋ふる君が姿に
【2934】あぢさはふ目は飽かざらねたづさはり言とはなくも苦しくありけり
【2935】あらたまの年の緒長くいつまでか我が恋ひ居らむ命知らずて
【2936】今は我は死なむよ我が背恋すれば一夜一日も安けくもなし
【2937】白栲の袖折り返し恋ふればか妹が姿の夢にし見ゆる
【2938】人言を繁み言痛み我が背子を目には見れども逢ふよしもなし
【2939】恋と言へば薄きことなりしかれども我れは忘れじ恋ひは死ぬとも
【2940】なかなかに死なば安けむ出づる日の入る別知らぬ我れし苦しも
【2941】思ひ遣るたどきも我れは今はなし妹に逢はずて年の経ぬれば
【2942】我が背子に恋ふとにしあらしみどり子の夜泣きをしつつ寐ねかてなくは
【2943】我が命の長く欲しけく偽りをよくする人を捕ふばかりを
【2944】人言を繁みと妹に逢はずして心のうちに恋ふるこのころ
【2945】玉梓の君が使を待ちし夜のなごりぞ今も寐ねぬ夜の多き
【2946】玉桙の道に行き逢ひて外目にも見ればよき子をいつとか待たむ
【2947】思ひにしあまりにしかばすべをなみ我れは言ひてき忌むべきものを
【2947S1】門に出でて我が臥い伏すを人見けむかも[一云すべをなみ出でてぞ行きし家のあたり見に]
【2947S2】にほ鳥のなづさひ来しを人見けむかも
【2948】明日の日はその門行かむ出でて見よ恋ひたる姿あまたしるけむ
【2949】うたて異に心いぶせし事計りよくせ我が背子逢へる時だに
【2950】我妹子が夜戸出の姿見てしより心空なり地は踏めども
【2951】海石榴市の八十の街に立ち平し結びし紐を解かまく惜しも
【2952】我が命の衰へぬれば白栲の袖のなれにし君をしぞ思ふ
【2953】君に恋ひ我が泣く涙白栲の袖さへ漬ちてせむすべもなし
【2954】今よりは逢はじとすれや白栲の我が衣手の干る時もなき
【2955】夢かと心惑ひぬ月まねく離れにし君が言の通へば
【2956】あらたまの年月かねてぬばたまの夢に見えけり君が姿は
【2957】今よりは恋ふとも妹に逢はめやも床の辺去らず夢に見えこそ
【2958】人の見て言とがめせぬ夢にだにやまず見えこそ我が恋やまむ
【2959】うつつには言も絶えたり夢にだに継ぎて見えこそ直に逢ふまでに
【2960】うつせみの現し心も我れはなし妹を相見ずて年の経ぬれば
【2961】うつせみの常のことばと思へども継ぎてし聞けば心惑ひぬ
【2962】白栲の袖離れて寝るぬばたまの今夜は早も明けば明けなむ
【2963】白栲の手本ゆたけく人の寝る味寐は寝ずや恋ひわたりなむ
【2964】かくのみにありける君を衣にあらば下にも着むと我が思へりける
【2965】橡の袷の衣裏にせば我れ強ひめやも君が来まさぬ
【2966】紅の薄染め衣浅らかに相見し人に恋ふるころかも
【2967】年の経ば見つつ偲へと妹が言ひし衣の縫目見れば悲しも
【2968】橡の一重の衣うらもなくあるらむ子ゆゑ恋ひわたるかも
【2969】解き衣の思ひ乱れて恋ふれども何のゆゑぞと問ふ人もなし
【2970】桃染めの浅らの衣浅らかに思ひて妹に逢はむものかも
【2971】大君の塩焼く海人の藤衣なれはすれどもいやめづらしも
【2972】赤絹の純裏の衣長く欲り我が思ふ君が見えぬころかも
【2973】真玉つくをちこち兼ねて結びつる我が下紐の解くる日あらめや
【2974】紫の帯の結びも解きもみずもとなや妹に恋ひわたりなむ
【2975】高麗錦紐の結びも解き放けず斎ひて待てど験なきかも
【2976】紫の我が下紐の色に出でず恋ひかも痩せむ逢ふよしをなみ
【2977】何ゆゑか思はずあらむ紐の緒の心に入りて恋しきものを
【2978】まそ鏡見ませ我が背子我が形見待てらむ時に逢はざらめやも
【2979】まそ鏡直目に君を見てばこそ命に向ふ我が恋やまめ
【2980】まそ鏡見飽かぬ妹に逢はずして月の経ゆけば生けりともなし
【2981】祝部らが斎くみもろのまそ鏡懸けて偲ひつ逢ふ人ごとに
【2982】針はあれど妹しなければ付けめやと我れを悩まし絶ゆる紐の緒
【2983】高麗剣我が心から外のみに見つつや君を恋ひわたりなむ
【2984】剣大刀名の惜しけくも我れはなしこのころの間の恋の繁きに
【2985】梓弓末はし知らずしかれどもまさかは君に寄りにしものを
【2986】梓弓引きみ緩へみ思ひみてすでに心は寄りにしものを
【2987】梓弓引きて緩へぬ大夫や恋といふものを忍びかねてむ
【2988】梓弓末の中ごろ淀めりし君には逢ひぬ嘆きはやめむ
【2989】今さらに何をか思はむ梓弓引きみ緩へみ寄りにしものを
【2990】娘子らが績み麻のたたり打ち麻懸けうむ時なしに恋ひわたるかも
【2991】たらちねの母が飼ふ蚕の繭隠りいぶせくもあるか妹に逢はずして
【2992】玉たすき懸けねば苦し懸けたれば継ぎて見まくの欲しき君かも
【2993】紫のまだらのかづら花やかに今日見し人に後恋ひむかも
【2994】玉葛懸けぬ時なく恋ふれども何しか妹に逢ふ時もなき
【2995】逢ふよしの出でくるまでは畳薦隔て編む数夢にし見えむ
【2996】しらかつく木綿は花もの言こそばいつのまえだも常忘らえね
【2997】石上布留の高橋高々に妹が待つらむ夜ぞ更けにける
【2998】港入りの葦別け小舟障り多み今来む我れを淀むと思ふな
【2999】水を多み上田に種蒔き稗を多み選らえし業ぞ我がひとり寝る
【3000】魂合へば相寝るものを小山田の鹿猪田守るごと母し守らすも[一云母が守らしし]
【3001】春日野に照れる夕日の外のみに君を相見て今ぞ悔しき
【3002】あしひきの山より出づる月待つと人には言ひて妹待つ我れを
【3003】夕月夜暁闇のおほほしく見し人ゆゑに恋ひわたるかも
【3004】久方の天つみ空に照る月の失せなむ日こそ我が恋止まめ
【3005】十五日に出でにし月の高々に君をいませて何をか思はむ
【3006】月夜よみ門に出で立ち足占して行く時さへや妹に逢はずあらむ
【3007】ぬばたまの夜渡る月のさやけくはよく見てましを君が姿を
【3008】あしひきの山を木高み夕月をいつかと君を待つが苦しさ
【3009】橡の衣解き洗ひ真土山本つ人にはなほしかずけり
【3010】佐保川の川波立たず静けくも君にたぐひて明日さへもがも
【3011】我妹子に衣春日の宜寸川よしもあらぬか妹が目を見む
【3012】との曇り雨布留川のさざれ波間なくも君は思ほゆるかも
【3013】我妹子や我を忘らすな石上袖布留川の絶えむと思へや
【3014】三輪山の山下響み行く水の水脈し絶えずは後も我が妻
【3015】神のごと聞こゆる瀧の白波の面知る君が見えぬこのころ
【3016】山川の瀧にまされる恋すとぞ人知りにける間なくし思へば
【3017】あしひきの山川水の音に出でず人の子ゆゑに恋ひわたるかも
【3018】高湍なる能登瀬の川の後も逢はむ妹には我れは今にあらずとも
【3019】洗ひ衣取替川の川淀の淀まむ心思ひかねつも
【3020】斑鳩の因可の池のよろしくも君を言はねば思ひぞ我がする
【3021】隠り沼の下ゆは恋ひむいちしろく人の知るべく嘆きせめやも
【3022】ゆくへなみ隠れる小沼の下思に我れぞ物思ふこのころの間
【3023】隠り沼の下ゆ恋ひあまり白波のいちしろく出でぬ人の知るべく
【3024】妹が目を見まく堀江のさざれ波しきて恋ひつつありと告げこそ
【3025】石走る垂水の水のはしきやし君に恋ふらく我が心から
【3026】君は来ず我れは故なみ立つ波のしくしくわびしかくて来じとや
【3027】近江の海辺は人知る沖つ波君をおきては知る人もなし
【3028】大海の底を深めて結びてし妹が心はうたがひもなし
【3029】佐太の浦に寄する白波間なく思ふを何か妹に逢ひかたき
【3030】思ひ出でてすべなき時は天雲の奥処も知らず恋ひつつぞ居る
【3031】天雲のたゆたひやすき心あらば我れをな頼めそ待たば苦しも
【3032】君があたり見つつも居らむ生駒山雲なたなびき雨は降るとも
【3033】なかなかに何か知りけむ我が山に燃ゆる煙の外に見ましを
【3034】我妹子に恋ひすべながり胸を熱み朝戸開くれば見ゆる霧かも
【3035】暁の朝霧隠りかへらばに何しか恋の色に出でにける
【3036】思ひ出づる時はすべなみ佐保山に立つ雨霧の消ぬべく思ほゆ
【3037】殺目山行き返り道の朝霞ほのかにだにや妹に逢はざらむ
【3038】かく恋ひむものと知りせば夕置きて朝は消ぬる露ならましを
【3039】夕置きて朝は消ぬる白露の消ぬべき恋も我れはするかも
【3040】後つひに妹は逢はむと朝露の命は生けり恋は繁けど
【3041】朝な朝な草の上白く置く露の消なばともにと言ひし君はも
【3042】朝日さす春日の小野に置く露の消ぬべき我が身惜しけくもなし
【3043】露霜の消やすき我が身老いぬともまたをちかへり君をし待たむ
【3044】君待つと庭のみ居ればうち靡く我が黒髪に霜ぞ置きにける
【3045】朝霜の消ぬべくのみや時なしに思ひわたらむ息の緒にして
【3046】楽浪の波越すあざに降る小雨間も置きて我が思はなくに
【3047】神さびて巌に生ふる松が根の君が心は忘れかねつも
【3048】み狩りする雁羽の小野の櫟柴のなれはまさらず恋こそまされ
【3049】桜麻の麻生の下草早く生ひば妹が下紐解かずあらましを
【3050】春日野に浅茅標結ひ絶えめやと我が思ふ人はいや遠長に
【3051】あしひきの山菅の根のねもころに我れはぞ恋ふる君が姿を
【3052】かきつはた佐紀沢に生ふる菅の根の絶ゆとや君が見えぬこのころ
【3053】あしひきの山菅の根のねもころにやまず思はば妹に逢はむかも
【3054】相思はずあるものをかも菅の根のねもころごろに我が思へるらむ
【3055】山菅のやまずて君を思へかも我が心どのこの頃はなき
【3056】妹が門行き過ぎかねて草結ぶ風吹き解くなまたかへり見む[一云直に逢ふまでに]
【3057】浅茅原茅生に足踏み心ぐみ我が思ふ子らが家のあたり見つ[一云妹が家のあたり見つ]
【3058】うちひさす宮にはあれど月草のうつろふ心我が思はなくに
【3059】百に千に人は言ふとも月草のうつろふ心我れ持ためやも
【3060】忘れ草我が紐に付く時となく思ひわたれば生けりともなし
【3061】暁の目覚まし草とこれをだに見つついまして我れと偲はせ
【3062】忘れ草垣もしみみに植ゑたれど醜の醜草なほ恋ひにけり
【3063】浅茅原小野に標結ふ空言も逢はむと聞こせ恋のなぐさに
【3064】人皆の笠に縫ふといふ有間菅ありて後にも逢はむとぞ思ふ
【3065】み吉野の秋津の小野に刈る草の思ひ乱れて寝る夜しぞ多き
【3066】妹待つと御笠の山の山菅の止まずや恋ひむ命死なずは
【3067】谷狭み嶺辺に延へる玉葛延へてしあらば年に来ずとも[一云岩つなの延へてしあらば]
【3068】水茎の岡の葛葉を吹きかへし面知る子らが見えぬころかも
【3069】赤駒のい行きはばかる真葛原何の伝て言直にしよけむ
【3070】木綿畳田上山のさな葛ありさりてしも今ならずとも
【3071】丹波道の大江の山のさな葛絶えむの心我が思はなくに
【3072】大崎の荒礒の渡り延ふ葛のゆくへもなくや恋ひわたりなむ
【3073】木綿包み[一云畳]白月山のさな葛後もかならず逢はむとぞ思ふ[或本歌曰絶えむと妹を我が思はなくに]
【3074】はねず色のうつろひやすき心あれば年をぞ来経る言は絶えずて
【3075】かくしてぞ人は死ぬといふ藤波のただ一目のみ見し人ゆゑに
【3076】住吉の敷津の浦のなのりその名は告りてしを逢はなくも怪し
【3077】みさご居る荒礒に生ふるなのりそのよし名は告らじ親は知るとも
【3078】波の共靡く玉藻の片思に我が思ふ人の言の繁けく
【3079】わたつみの沖つ玉藻の靡き寝む早来ませ君待たば苦しも
【3080】わたつみの沖に生ひたる縄海苔の名はかつて告らじ恋ひは死ぬとも
【3081】玉の緒を片緒に縒りて緒を弱み乱るる時に恋ひずあらめやも
【3082】君に逢はず久しくなりぬ玉の緒の長き命の惜しけくもなし
【3083】恋ふることまされる今は玉の緒の絶えて乱れて死ぬべく思ほゆ
【3084】海人娘子潜き採るといふ忘れ貝世にも忘れじ妹が姿は
【3085】朝影に我が身はなりぬ玉かぎるほのかに見えて去にし子ゆゑに
【3086】なかなかに人とあらずは桑子にもならましものを玉の緒ばかり
【3087】ま菅よし宗我の川原に鳴く千鳥間なし我が背子我が恋ふらくは
【3088】恋衣着奈良の山に鳴く鳥の間なく時なし我が恋ふらくは
【3089】遠つ人狩道の池に住む鳥の立ちても居ても君をしぞ思ふ
【3090】葦辺行く鴨の羽音の音のみに聞きつつもとな恋ひわたるかも
【3091】鴨すらもおのが妻どちあさりして後るる間に恋ふといふものを
【3092】白真弓斐太の細江の菅鳥の妹に恋ふれか寐を寝かねつる
【3093】小竹の上に来居て鳴く鳥目を安み人妻ゆゑに我れ恋ひにけり
【3094】物思ふと寐ねず起きたる朝明にはわびて鳴くなり庭つ鳥さへ
【3095】朝烏早くな鳴きそ我が背子が朝明の姿見れば悲しも
【3096】馬柵越しに麦食む駒の罵らゆれど猶し恋しく思ひかねつも
【3097】さ桧隈桧隈川に馬留め馬に水飼へ我れ外に見む
【3098】おのれゆゑ罵らえて居れば青馬の面高夫駄に乗りて来べしや
【3099】紫草を草と別く別く伏す鹿の野は異にして心は同じ
【3100】思はぬを思ふと言はば真鳥住む雲梯の杜の神し知らさむ
【3101】紫は灰さすものぞ海石榴市の八十の街に逢へる子や誰れ
【3102】たらちねの母が呼ぶ名を申さめど道行く人を誰れと知りてか
【3103】逢はなくはしかもありなむ玉梓の使をだにも待ちやかねてむ
【3104】逢はむとは千度思へどあり通ふ人目を多み恋つつぞ居る
【3105】人目多み直に逢はずてけだしくも我が恋ひ死なば誰が名ならむも
【3106】相見まく欲しきがためは君よりも我れぞまさりていふかしみする
【3107】うつせみの人目を繁み逢はずして年の経ぬれば生けりともなし
【3108】うつせみの人目繁くはぬばたまの夜の夢にを継ぎて見えこそ
【3109】ねもころに思ふ我妹を人言の繁きによりて淀むころかも
【3110】人言の繁くしあらば君も我れも絶えむと言ひて逢ひしものかも
【3111】すべもなき片恋をすとこの頃に我が死ぬべきは夢に見えきや
【3112】夢に見て衣を取り着装ふ間に妹が使ぞ先立ちにける
【3113】ありありて後も逢はむと言のみを堅く言ひつつ逢ふとはなしに
【3114】きはまりて我れも逢はむと思へども人の言こそ繁き君にあれ
【3115】息の緒に我が息づきし妹すらを人妻なりと聞けば悲しも
【3116】我がゆゑにいたくなわびそ後つひに逢はじと言ひしこともあらなくに
【3117】門立てて戸も閉したるをいづくゆか妹が入り来て夢に見えつる
【3118】門立てて戸は閉したれど盗人の穿れる穴より入りて見えけむ
【3119】明日よりは恋ひつつ行かむ今夜だに早く宵より紐解け我妹
【3120】今さらに寝めや我が背子新夜の一夜もおちず夢に見えこそ
【3121】我が背子が使を待つと笠も着ず出でつつぞ見し雨の降らくに
【3122】心なき雨にもあるか人目守り乏しき妹に今日だに逢はむを
【3123】ただひとり寝れど寝かねて白栲の袖を笠に着濡れつつぞ来し
【3124】雨も降り夜も更けにけり今さらに君去なめやも紐解き設けな
【3125】ひさかたの雨の降る日を我が門に蓑笠着ずて来る人や誰れ
【3126】巻向の穴師の山に雲居つつ雨は降れども濡れつつぞ来し
【3127】度会の大川の辺の若久木我が久ならば妹恋ひむかも
【3128】我妹子を夢に見え来と大和道の渡り瀬ごとに手向けぞ我がする
【3129】桜花咲きかも散ると見るまでに誰れかもここに見えて散り行く
【3130】豊国の企救の浜松ねもころに何しか妹に相言ひそめけむ
【3131】月変へて君をば見むと思へかも日も変へずして恋の繁けむ
【3132】な行きそと帰りも来やとかへり見に行けど帰らず道の長手を
【3133】旅にして妹を思ひ出でいちしろく人の知るべく嘆きせむかも
【3134】里離り遠くあらなくに草枕旅とし思へばなほ恋ひにけり
【3135】近くあれば名のみも聞きて慰めつ今夜ゆ恋のいやまさりなむ
【3136】旅にありて恋ふれば苦しいつしかも都に行きて君が目を見む
【3137】遠くあれば姿は見えず常のごと妹が笑まひは面影にして
【3138】年も経ず帰り来なむと朝影に待つらむ妹し面影に見ゆ
【3139】玉桙の道に出で立ち別れ来し日より思ふに忘る時なし
【3140】はしきやししかある恋にもありしかも君に後れて恋しき思へば
【3141】草枕旅の悲しくあるなへに妹を相見て後恋ひむかも
【3142】国遠み直には逢はず夢にだに我れに見えこそ逢はむ日までに
【3143】かく恋ひむものと知りせば我妹子に言問はましを今し悔しも
【3144】旅の夜の久しくなればさ丹つらふ紐解き放けず恋ふるこのころ
【3145】我妹子し我を偲ふらし草枕旅のまろ寝に下紐解けぬ
【3146】草枕旅の衣の紐解けて思ほゆるかもこの年ころは
【3147】草枕旅の紐解く家の妹し我を待ちかねて嘆かふらしも
【3148】玉釧まき寝し妹を月も経ず置きてや越えむこの山の崎
【3149】梓弓末は知らねど愛しみ君にたぐひて山道越え来ぬ
【3150】霞立つ春の長日を奥処なく知らぬ山道を恋ひつつか来む
【3151】外のみに君を相見て木綿畳手向けの山を明日か越え去なむ
【3152】玉かつま安倍島山の夕露に旅寝えせめや長きこの夜を
【3153】み雪降る越の大山行き過ぎていづれの日にか我が里を見む
【3154】いで我が駒早く行きこそ真土山待つらむ妹を行きて早見む
【3155】悪木山木末ことごと明日よりは靡きてありこそ妹があたり見む
【3156】鈴鹿川八十瀬渡りて誰がゆゑか夜越えに越えむ妻もあらなくに
【3157】我妹子にまたも近江の安の川安寐も寝ずに恋ひわたるかも
【3158】旅にありてものをぞ思ふ白波の辺にも沖にも寄るとはなしに
【3159】港廻に満ち来る潮のいや増しに恋はまされど忘らえぬかも
【3160】沖つ波辺波の来寄る佐太の浦のこのさだ過ぎて後恋ひむかも
【3161】在千潟あり慰めて行かめども家なる妹いいふかしみせむ
【3162】みをつくし心尽して思へかもここにももとな夢にし見ゆる
【3163】我妹子に触るとはなしに荒礒廻に我が衣手は濡れにけるかも
【3164】室の浦の瀬戸の崎なる鳴島の磯越す波に濡れにけるかも
【3165】霍公鳥飛幡の浦にしく波のしくしく君を見むよしもがも
【3166】我妹子を外のみや見む越の海の子難の海の島ならなくに
【3167】波の間ゆ雲居に見ゆる粟島の逢はぬものゆゑ我に寄そる子ら
【3168】衣手の真若の浦の真砂地間なく時なし我が恋ふらくは
【3169】能登の海に釣する海人の漁り火の光りにいませ月待ちがてり
【3170】志賀の海人の釣りし燭せる漁り火のほのかに妹を見むよしもがも
【3171】難波潟漕ぎ出る舟のはろはろに別れ来ぬれど忘れかねつも
【3172】浦廻漕ぐ熊野舟つきめづらしく懸けて思はぬ月も日もなし
【3173】松浦舟騒く堀江の水脈早み楫取る間なく思ほゆるかも
【3174】漁りする海人の楫音ゆくらかに妹は心に乗りにけるかも
【3175】和歌の浦に袖さへ濡れて忘れ貝拾へど妹は忘らえなくに
【3176】草枕旅にし居れば刈り薦の乱れて妹に恋ひぬ日はなし
【3177】志賀の海人の礒に刈り干すなのりその名は告りてしを何か逢ひかたき
【3178】国遠み思ひなわびそ風の共雲の行くごと言は通はむ
【3179】留まりにし人を思ふに秋津野に居る白雲のやむ時もなし
【3180】うらもなく去にし君ゆゑ朝な朝なもとなぞ恋ふる逢ふとはなけど
【3181】白栲の君が下紐我れさへに今日結びてな逢はむ日のため
【3182】白栲の袖の別れは惜しけども思ひ乱れて許しつるかも
【3183】都辺に君は去にしを誰が解けか我が紐の緒の結ふ手たゆきも
【3184】草枕旅行く君を人目多み袖振らずしてあまた悔しも
【3185】まそ鏡手に取り持ちて見れど飽かぬ君に後れて生けりともなし
【3186】曇り夜のたどきも知らぬ山越えています君をばいつとか待たむ
【3187】たたなづく青垣山の隔なりなばしばしば君を言問はじかも
【3188】朝霞たなびく山を越えて去なば我れは恋ひむな逢はむ日までに
【3189】あしひきの山は百重に隠すとも妹は忘れじ直に逢ふまでに[一云隠せども君を思はくやむ時もなし]
【3190】雲居なる海山越えてい行きなば我れは恋ひむな後は逢ひぬとも
【3191】よしゑやし恋ひじとすれど木綿間山越えにし君が思ほゆらくに
【3192】草蔭の荒藺の崎の笠島を見つつか君が山道越ゆらむ[一云み坂越ゆらむ]
【3193】玉かつま島熊山の夕暮れにひとりか君が山道越ゆらむ[一云夕霧に長恋しつつ寐ねかてぬかも]
【3194】息の緒に我が思ふ君は鶏が鳴く東の坂を今日か越ゆらむ
【3195】磐城山直越え来ませ礒崎の許奴美の浜に我れ立ち待たむ
【3196】春日野の浅茅が原に遅れ居て時ぞともなし我が恋ふらくは
【3197】住吉の岸に向へる淡路島あはれと君を言はぬ日はなし
【3198】明日よりはいなむの川の出でて去なば留まれる我れは恋ひつつやあらむ
【3199】海の底沖は畏し礒廻より漕ぎ廻みいませ月は経ぬとも
【3200】飼飯の浦に寄する白波しくしくに妹が姿は思ほゆるかも
【3201】時つ風吹飯の浜に出で居つつ贖ふ命は妹がためこそ
【3202】熟田津に舟乗りせむと聞きしなへ何ぞも君が見え来ずあるらむ
【3203】みさご居る洲に居る舟の漕ぎ出なばうら恋しけむ後は逢ひぬとも
【3204】玉葛幸くいまさね山菅の思ひ乱れて恋ひつつ待たむ
【3205】後れ居て恋ひつつあらずは田子の浦の海人ならましを玉藻刈る刈る
【3206】筑紫道の荒礒の玉藻刈るとかも君が久しく待てど来まさぬ
【3207】あらたまの年の緒長く照る月の飽かざる君や明日別れなむ
【3208】久にあらむ君を思ふにひさかたの清き月夜も闇の夜に見ゆ
【3209】春日なる御笠の山に居る雲を出で見るごとに君をしぞ思ふ
【3210】あしひきの片山雉立ち行かむ君に後れてうつしけめやも
【3211】玉の緒の現し心や八十楫懸け漕ぎ出む船に後れて居らむ
【3212】八十楫懸け島隠りなば我妹子が留まれと振らむ袖見えじかも
【3213】十月しぐれの雨に濡れつつか君が行くらむ宿か借るらむ
【3214】十月雨間も置かず降りにせばいづれの里の宿か借らまし
【3215】白栲の袖の別れを難みして荒津の浜に宿りするかも
【3216】草枕旅行く君を荒津まで送りぞ来ぬる飽き足らねこそ
【3217】荒津の海我れ幣奉り斎ひてむ早帰りませ面変りせず
【3218】朝な朝な筑紫の方を出で見つつ音のみぞ我が泣くいたもすべなみ
【3219】豊国の企救の長浜行き暮らし日の暮れゆけば妹をしぞ思ふ
【3220】豊国の企救の高浜高々に君待つ夜らはさ夜更けにけり
第13巻
【3221】冬こもり春さり来れば朝には白露置き夕には霞たなびく汗瑞能振木末が下に鴬鳴くも
【3222】みもろは人の守る山本辺は馬酔木花咲き末辺は椿花咲くうらぐはし山ぞ泣く子守る山
【3223】かむとけの日香空の九月のしぐれの降れば雁がねもいまだ来鳴かぬ神なびの清き御田屋の垣つ田の池の堤の百足らず斎槻の枝に瑞枝さす秋の黄葉まき持てる小鈴もゆらに手弱女に我れはあれども引き攀ぢて枝もとををにふさ手折り我は持ちて行く君がかざしに
【3224】ひとりのみ見れば恋しみ神なびの山の黄葉手折り来り君
【3225】天雲の影さへ見ゆるこもりくの泊瀬の川は浦なみか舟の寄り来ぬ礒なみか海人の釣せぬよしゑやし浦はなくともよしゑやし礒はなくとも沖つ波競ひ漕入り来海人の釣舟
【3226】さざれ波浮きて流るる泊瀬川寄るべき礒のなきが寂しさ
【3227】葦原の瑞穂の国に手向けすと天降りましけむ五百万千万神の神代より言ひ継ぎ来る神なびのみもろの山は春されば春霞立つ秋行けば紅にほふ神なびのみもろの神の帯ばせる明日香の川の水脈早み生しためかたき石枕苔生すまでに新夜の幸く通はむ事計り夢に見せこそ剣太刀斎ひ祭れる神にしませば
【3228】神なびの三諸の山に斎ふ杉思ひ過ぎめや苔生すまでに
【3229】斎串立てみわ据ゑ奉る祝部がうずの玉かげ見ればともしも
【3230】みてぐらを奈良より出でて水蓼穂積に至り鳥網張る坂手を過ぎ石走る神なび山に朝宮に仕へ奉りて吉野へと入ります見ればいにしへ思ほゆ
【3231】月は日は変らひぬとも久に経る三諸の山の離宮ところ
【3232】斧取りて丹生の桧山の木伐り来て筏に作り真楫貫き礒漕ぎ廻つつ島伝ひ見れども飽かずみ吉野の瀧もとどろに落つる白波
【3233】み吉野の瀧もとどろに落つる白波留まりにし妹に見せまく欲しき白波
【3234】やすみしし我ご大君高照らす日の御子のきこしをす御食つ国神風の伊勢の国は国見ればしも山見れば高く貴し川見ればさやけく清し水門なす海もゆたけし見わたす島も名高しここをしもまぐはしみかもかけまくもあやに畏き山辺の五十師の原にうちひさす大宮仕へ朝日なすまぐはしも夕日なすうらぐはしも春山のしなひ栄えて秋山の色なつかしきももしきの大宮人は天地日月とともに万代にもが
【3235】山辺の五十師の御井はおのづから成れる錦を張れる山かも
【3236】そらみつ大和の国あをによし奈良山越えて山背の管木の原ちはやぶる宇治の渡り瀧つ屋の阿後尼の原を千年に欠くることなく万代にあり通はむと山科の石田の杜のすめ神に幣取り向けて我れは越え行く逢坂山を
【3237】あをによし奈良山過ぎてもののふの宇治川渡り娘子らに逢坂山に手向け草幣取り置きて我妹子に近江の海の沖つ波来寄る浜辺をくれくれとひとりぞ我が来る妹が目を欲り
【3238】逢坂をうち出でて見れば近江の海白木綿花に波立ちわたる
【3239】近江の海泊り八十あり八十島の島の崎々あり立てる花橘をほつ枝にもち引き懸け中つ枝に斑鳩懸け下枝に比米を懸け汝が母を取らくを知らに汝が父を取らくを知らにいそばひ居るよ斑鳩と比米と
【3240】大君の命畏み見れど飽かぬ奈良山越えて真木積む泉の川の早き瀬を棹さし渡りちはやぶる宇治の渡りのたきつ瀬を見つつ渡りて近江道の逢坂山に手向けして我が越え行けば楽浪の志賀の唐崎幸くあらばまたかへり見む道の隈八十隈ごとに嘆きつつ我が過ぎ行けばいや遠に里離り来ぬいや高に山も越え来ぬ剣太刀鞘ゆ抜き出でて伊香胡山いかにか我がせむゆくへ知らずて
【3241】天地を嘆き祈ひ祷み幸くあらばまたかへり見む志賀の唐崎
【3242】ももきね美濃の国の高北のくくりの宮に日向ひに行靡闕矣ありと聞きて我が行く道の奥十山美濃の山靡けと人は踏めどもかく寄れと人は突けども心なき山の奥十山美濃の山
【3243】娘子らが麻笥に垂れたる続麻なす長門の浦に朝なぎに満ち来る潮の夕なぎに寄せ来る波のその潮のいやますますにその波のいやしくしくに我妹子に恋ひつつ来れば阿胡の海の荒礒の上に浜菜摘む海人娘子らがうながせる領布も照るがに手に巻ける玉もゆららに白栲の袖振る見えつ相思ふらしも
【3244】阿胡の海の荒礒の上のさざれ波我が恋ふらくはやむ時もなし
【3245】天橋も長くもがも高山も高くもがも月夜見の持てるをち水い取り来て君に奉りてをち得てしかも
【3246】天なるや月日のごとく我が思へる君が日に異に老ゆらく惜しも
【3247】沼名川の底なる玉求めて得し玉かも拾ひて得し玉かもあたらしき君が老ゆらく惜しも
【3248】磯城島の大和の国に人さはに満ちてあれども藤波の思ひまつはり若草の思ひつきにし君が目に恋ひや明かさむ長きこの夜を
【3249】磯城島の大和の国に人ふたりありとし思はば何か嘆かむ
【3250】蜻蛉島大和の国は神からと言挙げせぬ国しかれども我れは言挙げす天地の神もはなはだ我が思ふ心知らずや行く影の月も経ゆけば玉かぎる日も重なりて思へかも胸の苦しき恋ふれかも心の痛き末つひに君に逢はずは我が命の生けらむ極み恋ひつつも我れは渡らむまそ鏡直目に君を相見てばこそ我が恋やまめ
【3251】大船の思ひ頼める君ゆゑに尽す心は惜しけくもなし
【3252】ひさかたの都を置きて草枕旅行く君をいつとか待たむ
【3253】葦原の瑞穂の国は神ながら言挙げせぬ国しかれども言挙げぞ我がする言幸くま幸くませと障みなく幸くいまさば荒礒波ありても見むと百重波千重波しきに言挙げす我れは<[言挙げす我れは]>
【3254】磯城島の大和の国は言霊の助くる国ぞま幸くありこそ
【3255】古ゆ言ひ継ぎけらく恋すれば苦しきものと玉の緒の継ぎては言へど娘子らが心を知らにそを知らむよしのなければ夏麻引く命かたまけ刈り薦の心もしのに人知れずもとなぞ恋ふる息の緒にして
【3256】しくしくに思はず人はあるらめどしましくも我は忘らえぬかも
【3257】直に来ずこゆ巨勢道から岩せ踏みなづみぞ我が来し恋ひてすべなみ
【3258】あらたまの年は来ゆきて玉梓の使の来ねば霞立つ長き春日を天地に思ひ足らはしたらちねの母が飼ふ蚕の繭隠り息づきわたり我が恋ふる心のうちを人に言ふものにしあらねば松が根の待つこと遠み天伝ふ日の暮れぬれば白栲の我が衣手も通りて濡れぬ
【3259】かくのみし相思はずあらば天雲の外にぞ君はあるべくありける
【3260】小治田の年魚道の水を間なくぞ人は汲むといふ時じくぞ人は飲むといふ汲む人の間なきがごと飲む人の時じきがごと我妹子に我が恋ふらくはやむ時もなし
【3261】思ひ遣るすべのたづきも今はなし君に逢はずて年の経ぬれば
【3262】瑞垣の久しき時ゆ恋すれば我が帯緩ふ朝宵ごとに
【3263】こもりくの泊瀬の川の上つ瀬に斎杭を打ち下つ瀬に真杭を打ち斎杭には鏡を懸け真杭には真玉を懸け真玉なす我が思ふ妹も鏡なす我が思ふ妹もありといはばこそ国にも家にも行かめ誰がゆゑか行かむ
【3264】年渡るまでにも人はありといふをいつの間にぞも我が恋ひにける
【3265】世の中を憂しと思ひて家出せし我れや何にか還りてならむ
【3266】春されば花咲ををり秋づけば丹のほにもみつ味酒を神奈備山の帯にせる明日香の川の早き瀬に生ふる玉藻のうち靡き心は寄りて朝露の消なば消ぬべく恋ひしくもしるくも逢へる隠り妻かも
【3267】明日香川瀬々の玉藻のうち靡き心は妹に寄りにけるかも
【3268】みもろの神奈備山ゆとの曇り雨は降り来ぬ天霧らひ風さへ吹きぬ大口の真神の原ゆ思ひつつ帰りにし人家に至りきや
【3269】帰りにし人を思ふとぬばたまのその夜は我れも寐も寝かねてき
【3270】さし焼かむ小屋の醜屋にかき棄てむ破れ薦を敷きて打ち折らむ醜の醜手をさし交へて寝らむ君ゆゑあかねさす昼はしみらにぬばたまの夜はすがらにこの床のひしと鳴るまで嘆きつるかも
【3271】我が心焼くも我れなりはしきやし君に恋ふるも我が心から
【3272】うちはへて思ひし小野は遠からぬその里人の標結ふと聞きてし日より立てらくのたづきも知らず居らくの奥処も知らずにきびにし我が家すらを草枕旅寝のごとく思ふそら苦しきものを嘆くそら過ぐしえぬものを天雲のゆくらゆくらに葦垣の思ひ乱れて乱れ麻のをけをなみと我が恋ふる千重の一重も人知れずもとなや恋ひむ息の緒にして
【3273】二つなき恋をしすれば常の帯を三重結ぶべく我が身はなりぬ
【3274】為むすべのたづきを知らに岩が根のこごしき道を岩床の根延へる門を朝には出で居て嘆き夕には入り居て偲ひ白栲の我が衣手を折り返しひとりし寝ればぬばたまの黒髪敷きて人の寝る味寐は寝ずて大船のゆくらゆくらに思ひつつ我が寝る夜らを数みもあへむかも
【3275】ひとり寝る夜を数へむと思へども恋の繁きに心どもなし
【3276】百足らず山田の道を波雲の愛し妻と語らはず別れし来れば早川の行きも知らず衣手の帰りも知らず馬じもの立ちてつまづき為むすべのたづきを知らにもののふの八十の心を天地に思ひ足らはし魂合はば君来ますやと我が嘆く八尺の嘆き玉桙の道来る人の立ち留まりいかにと問はば答へ遣るたづきを知らにさ丹つらふ君が名言はば色に出でて人知りぬべみあしひきの山より出づる月待つと人には言ひて君待つ我れを
【3277】寐も寝ずに我が思ふ君はいづくへに今夜誰れとか待てど来まさぬ
【3278】赤駒を馬屋に立て黒駒を馬屋に立ててそを飼ひ我が行くがごと思ひ妻心に乗りて高山の嶺のたをりに射目立てて鹿猪待つがごと床敷きて我が待つ君を犬な吠えそね
【3279】葦垣の末かき分けて君越ゆと人にな告げそ事はたな知れ
【3280】我が背子は待てど来まさず天の原振り放け見ればぬばたまの夜も更けにけりさ夜更けてあらしの吹けば立ち待てる我が衣手に降る雪は凍りわたりぬ今さらに君来まさめやさな葛後も逢はむと慰むる心を持ちてま袖もち床うち掃ひうつつには君には逢はず夢にだに逢ふと見えこそ天の足り夜を
【3281】我が背子は待てど来まさず雁が音も響みて寒しぬばたまの夜も更けにけりさ夜更くとあらしの吹けば立ち待つに我が衣手に置く霜も氷にさえわたり降る雪も凍りわたりぬ今さらに君来まさめやさな葛後も逢はむと大船の思ひ頼めどうつつには君には逢はず夢にだに逢ふと見えこそ天の足り夜に
【3282】衣手にあらしの吹きて寒き夜を君来まさずはひとりかも寝む
【3283】今さらに恋ふとも君に逢はめやも寝る夜をおちず夢に見えこそ
【3284】菅の根のねもころごろに我が思へる妹によりては言の忌みもなくありこそと斎瓮を斎ひ掘り据ゑ竹玉を間なく貫き垂れ天地の神をぞ我が祷むいたもすべなみ
【3285】たらちねの母にも言はずつつめりし心はよしゑ君がまにまに
【3286】玉たすき懸けぬ時なく我が思へる君によりてはしつ幣を手に取り持ちて竹玉を繁に貫き垂れ天地の神をぞ我が祷むいたもすべなみ
【3287】天地の神を祈りて我が恋ふる君いかならず逢はずあらめやも
【3288】大船の思ひ頼みてさな葛いや遠長く我が思へる君によりては言の故もなくありこそと木綿たすき肩に取り懸け斎瓮を斎ひ掘り据ゑ天地の神にぞ我が祷むいたもすべなみ
【3289】み佩かしを剣の池の蓮葉に溜まれる水のゆくへなみ我がする時に逢ふべしと逢ひたる君をな寐ねそと母聞こせども我が心清隅の池の池の底我れは忘れじ直に逢ふまでに
【3290】いにしへの神の時より逢ひけらし今の心も常忘らえず
【3291】み吉野の真木立つ山に青く生ふる山菅の根のねもころに我が思ふ君は大君の任けのまにまに[或本云大君の命かしこみ]鄙離る国治めにと[或本云天離る鄙治めにと]群鳥の朝立ち去なば後れたる我れか恋ひむな旅ならば君か偲はむ言はむすべ為むすべ知らに[或書有あしひきの山の木末に句也]延ふ蔦の行きの[或本無歸之句也]別れのあまた惜しきものかも
【3292】うつせみの命を長くありこそと留まれる我れは斎ひて待たむ
【3293】み吉野の御金が岳に間なくぞ雨は降るといふ時じくぞ雪は降るといふその雨の間なきがごとその雪の時じきがごと間もおちず我れはぞ恋ふる妹が直香に
【3294】み雪降る吉野の岳に居る雲の外に見し子に恋ひわたるかも
【3295】うちひさつ三宅の原ゆ直土に足踏み貫き夏草を腰になづみいかなるや人の子ゆゑぞ通はすも我子うべなうべな母は知らじうべなうべな父は知らじ蜷の腸か黒き髪に真木綿もちあざさ結ひ垂れ大和の黄楊の小櫛を押へ刺すうらぐはし子それぞ我が妻
【3296】父母に知らせぬ子ゆゑ三宅道の夏野の草をなづみ来るかも
【3297】玉たすき懸けぬ時なく我が思ふ妹にし逢はねばあかねさす昼はしみらにぬばたまの夜はすがらに寐も寝ずに妹に恋ふるに生けるすべなし
【3298】よしゑやし死なむよ我妹生けりともかくのみこそ我が恋ひわたりなめ
【3299】見わたしに妹らは立たしこの方に我れは立ちて思ふそら安けなくに嘆くそら安けなくにさ丹塗りの小舟もがも玉巻きの小楫もがも漕ぎ渡りつつも語らふ妻を
【3300】おしてる難波の崎に引き泝る赤のそほ舟そほ舟に網取り懸け引こづらひありなみすれど言ひづらひありなみすれどありなみえずぞ言はえにし我が身
【3301】神風の伊勢の海の朝なぎに来寄る深海松夕なぎに来寄る俣海松深海松の深めし我れを俣海松のまた行き帰り妻と言はじとかも思ほせる君
【3302】紀の国の牟婁の江の辺に千年に障ることなく万代にかくしもあらむと大船の思ひ頼みて出立の清き渚に朝なぎに来寄る深海松夕なぎに来寄る縄海苔深海松の深めし子らを縄海苔の引けば絶ゆとや里人の行きの集ひに泣く子なす行き取り探り梓弓弓腹振り起ししのぎ羽を二つ手挟み放ちけむ人し悔しも恋ふらく思へば
【3303】里人の我れに告ぐらく汝が恋ふるうつくし夫は黄葉の散り乱ひたる神なびのこの山辺から[或本云その山辺]ぬばたまの黒馬に乗りて川の瀬を七瀬渡りてうらぶれて夫は逢ひきと人ぞ告げつる
【3304】聞かずして黙もあらましを何しかも君が直香を人の告げつる
【3305】物思はず道行く行くも青山を振り放け見ればつつじ花にほえ娘子桜花栄え娘子汝れをぞも我れに寄すといふ我れをもぞ汝れに寄すといふ荒山も人し寄すれば寄そるとぞいふ汝が心ゆめ
【3306】いかにして恋やむものぞ天地の神を祈れど我れは思ひ増す
【3307】しかれこそ年の八年を切り髪のよち子を過ぎ橘のほつ枝を過ぎてこの川の下にも長く汝が心待て
【3308】天地の神をも我れは祈りてき恋といふものはかつてやまずけり
【3309】物思はず道行く行くも青山を振り放け見ればつつじ花にほえ娘子桜花栄え娘子汝れをぞも我れに寄すといふ我れをぞも汝れに寄すといふ汝はいかに思ふや思へこそ年の八年を切り髪のよち子を過ぎ橘のほつ枝をすぐりこの川の下にも長く汝が心待て
【3310】隠口の泊瀬の国にさよばひに我が来ればたな曇り雪は降り来さ曇り雨は降り来野つ鳥雉は響む家つ鳥鶏も鳴くさ夜は明けこの夜は明けぬ入りてかつ寝むこの戸開かせ
【3311】隠口の泊瀬小国に妻しあれば石は踏めどもなほし来にけり
【3312】隠口の泊瀬小国によばひせす我が天皇よ奥床に母は寐ねたり外床に父は寐ねたり起き立たば母知りぬべし出でて行かば父知りぬべしぬばたまの夜は明けゆきぬここだくも思ふごとならぬ隠り妻かも
【3313】川の瀬の石踏み渡りぬばたまの黒馬来る夜は常にあらぬかも
【3314】つぎねふ山背道を人夫の馬より行くに己夫し徒歩より行けば見るごとに音のみし泣かゆそこ思ふに心し痛したらちねの母が形見と我が持てるまそみ鏡に蜻蛉領巾負ひ並め持ちて馬買へ我が背
【3315】泉川渡り瀬深み我が背子が旅行き衣ひづちなむかも
【3316】まそ鏡持てれど我れは験なし君が徒歩よりなづみ行く見れば
【3317】馬買はば妹徒歩ならむよしゑやし石は踏むとも我はふたり行かむ
【3318】紀の国の浜に寄るといふ鰒玉拾はむと言ひて妹の山背の山越えて行きし君いつ来まさむと玉桙の道に出で立ち夕占を我が問ひしかば夕占の我れに告らく我妹子や汝が待つ君は沖つ波来寄る白玉辺つ波の寄する白玉求むとぞ君が来まさぬ拾ふとぞ君は来まさぬ久ならばいま七日ばかり早くあらばいま二日ばかりあらむとぞ君は聞こししな恋ひそ我妹
【3319】杖つきもつかずも我れは行かめども君が来まさむ道の知らなく
【3320】直に行かずこゆ巨勢道から石瀬踏み求めぞ我が来し恋ひてすべなみ
【3321】さ夜更けて今は明けぬと戸を開けて紀へ行く君をいつとか待たむ
【3322】門に居る我が背は宇智に至るともいたくし恋ひば今帰り来む
【3323】しなたつ筑摩さのかた息長の越智の小菅編まなくにい刈り持ち来敷かなくにい刈り持ち来て置きて我れを偲はす息長の越智の小菅
【3324】かけまくもあやに畏し藤原の都しみみに人はしも満ちてあれども君はしも多くいませど行き向ふ年の緒長く仕へ来し君の御門を天のごと仰ぎて見つつ畏けど思ひ頼みていつしかも日足らしまして望月の満しけむと我が思へる皇子の命は春されば植槻が上の遠つ人松の下道ゆ登らして国見遊ばし九月のしぐれの秋は大殿の砌しみみに露負ひて靡ける萩を玉たすき懸けて偲はしみ雪降る冬の朝は刺し柳根張り梓を大御手に取らし賜ひて遊ばしし我が大君を霞立つ春の日暮らしまそ鏡見れど飽かねば万代にかくしもがもと大船の頼める時に泣く我れ目かも迷へる大殿を振り放け見れば白栲に飾りまつりてうちひさす宮の舎人も[一云は]栲のほの麻衣着れば夢かもうつつかもと曇り夜の迷へる間にあさもよし城上の道ゆつのさはふ磐余を見つつ神葬り葬りまつれば行く道のたづきを知らに思へども験をなみ嘆けども奥処をなみ大御袖行き触れし松を言問はぬ木にはありともあらたまの立つ月ごとに天の原振り放け見つつ玉たすき懸けて偲はな畏くあれども
【3325】つのさはふ磐余の山に白栲にかかれる雲は大君にかも
【3326】礒城島の大和の国にいかさまに思ほしめせかつれもなき城上の宮に大殿を仕へまつりて殿隠り隠りいませば朝には召して使ひ夕には召して使ひ使はしし舎人の子らは行く鳥の群がりて待ちあり待てど召したまはねば剣大刀磨ぎし心を天雲に思ひはぶらし臥いまろびひづち哭けども飽き足らぬかも
【3327】百小竹の三野の王西の馬屋に立てて飼ふ駒東の馬屋に立てて飼ふ駒草こそば取りて飼ふと言へ水こそば汲みて飼ふと言へ何しかも葦毛の馬のいなき立てつる
【3328】衣手葦毛の馬のいなく声心あれかも常ゆ異に鳴く
【3329】白雲のたなびく国の青雲の向伏す国の天雲の下なる人は我のみかも君に恋ふらむ我のみかも君に恋ふれば天地に言を満てて恋ふれかも胸の病みたる思へかも心の痛き我が恋ぞ日に異にまさるいつはしも恋ひぬ時とはあらねどもこの九月を我が背子が偲ひにせよと千代にも偲ひわたれと万代に語り継がへと始めてしこの九月の過ぎまくをいたもすべなみあらたまの月の変れば為むすべのたどきを知らに岩が根のこごしき道の岩床の根延へる門に朝には出で居て嘆き夕には入り居恋ひつつぬばたまの黒髪敷きて人の寝る味寐は寝ずに大船のゆくらゆくらに思ひつつ我が寝る夜らは数みもあへぬかも
【3330】隠口の泊瀬の川の上つ瀬に鵜を八つ潜け下つ瀬に鵜を八つ潜け上つ瀬の鮎を食はしめ下つ瀬の鮎を食はしめくはし妹に鮎を惜しみくはし妹に鮎を惜しみ投ぐるさの遠ざかり居て思ふそら安けなくに嘆くそら安けなくに衣こそばそれ破れぬれば継ぎつつもまたも合ふといへ玉こそば緒の絶えぬればくくりつつまたも合ふといへまたも逢はぬものは妻にしありけり
【3331】隠口の泊瀬の山青旗の忍坂の山は走出のよろしき山の出立のくはしき山ぞあたらしき山の荒れまく惜しも
【3332】高山と海とこそば山ながらかくもうつしく海ながらしかまことならめ人は花ものぞうつせみ世人
【3333】大君の命畏み蜻蛉島大和を過ぎて大伴の御津の浜辺ゆ大船に真楫しじ貫き朝なぎに水手の声しつつ夕なぎに楫の音しつつ行きし君いつ来まさむと占置きて斎ひわたるにたはことか人の言ひつる我が心筑紫の山の黄葉の散りて過ぎぬと君が直香を
【3334】たはことか人の言ひつる玉の緒の長くと君は言ひてしものを
【3335】玉桙の道行く人はあしひきの山行き野行きにはたづみ川行き渡り鯨魚取り海道に出でて畏きや神の渡りは吹く風ものどには吹かず立つ波もおほには立たずとゐ波の塞ふる道を誰が心いたはしとかも直渡りけむ直渡りけむ
【3336】鳥が音の聞こゆる海に高山を隔てになして沖つ藻を枕になしひむし羽の衣だに着ずに鯨魚取り海の浜辺にうらもなく臥やせる人は母父に愛子にかあらむ若草の妻かありけむ思ほしき言伝てむやと家問へば家をも告らず名を問へど名だにも告らず泣く子なす言だにとはず思へども悲しきものは世間にぞある世間にぞある
【3337】母父も妻も子どもも高々に来むと待ちけむ人の悲しさ
【3338】あしひきの山道は行かむ風吹けば波の塞ふる海道は行かじ
【3339】玉桙の道に出で立ちあしひきの野行き山行きにはたづみ川行き渡り鯨魚取り海道に出でて吹く風もおほには吹かず立つ波ものどには立たぬ畏きや神の渡りのしき波の寄する浜辺に高山を隔てに置きて浦ぶちを枕に巻きてうらもなくこやせる君は母父が愛子にもあらむ若草の妻もあらむと家問へど家道も言はず名を問へど名だにも告らず誰が言をいたはしとかもとゐ波の畏き海を直渡りけむ
【3340】母父も妻も子どもも高々に来むと待つらむ人の悲しさ
【3341】家人の待つらむものをつれもなき荒礒を巻きて寝せる君かも
【3342】浦ぶちにこやせる君を今日今日と来むと待つらむ妻し悲しも
【3343】浦波の来寄する浜につれもなくこやせる君が家道知らずも
【3344】この月は君来まさむと大船の思ひ頼みていつしかと我が待ち居れば黄葉の過ぎてい行くと玉梓の使の言へば蛍なすほのかに聞きて大地をほのほと踏みて立ちて居てゆくへも知らず朝霧の思ひ迷ひて杖足らず八尺の嘆き嘆けども験をなみといづくにか君がまさむと天雲の行きのまにまに射ゆ鹿猪の行きも死なむと思へども道の知らねばひとり居て君に恋ふるに哭のみし泣かゆ
【3345】葦辺行く雁の翼を見るごとに君が帯ばしし投矢し思ほゆ
【3346】見欲しきは雲居に見ゆるうるはしき鳥羽の松原童どもいざわ出で見むこと放けば国に放けなむこと放けば家に放けなむ天地の神し恨めし草枕この旅の日に妻放くべしや
【3347】草枕この旅の日に妻離り家道思ふに生けるすべなし
【第14巻
【3348】夏麻引く海上潟の沖つ洲に船は留めむさ夜更けにけり
【3349】葛飾の真間の浦廻を漕ぐ船の船人騒く波立つらしも
【3350】筑波嶺の新桑繭の衣はあれど君が御衣しあやに着欲しも
【3351】筑波嶺に雪かも降らるいなをかも愛しき子ろが布乾さるかも
【3352】信濃なる須我の荒野に霍公鳥鳴く声聞けば時過ぎにけり
【3353】あらたまの伎倍の林に汝を立てて行きかつましじ寐を先立たね
【3354】伎倍人のまだら衾に綿さはだ入りなましもの妹が小床に
【3355】天の原富士の柴山この暗の時ゆつりなば逢はずかもあらむ
【3356】富士の嶺のいや遠長き山道をも妹がりとへばけによばず来ぬ
【3357】霞居る富士の山びに我が来なばいづち向きてか妹が嘆かむ
【3358】さ寝らくは玉の緒ばかり恋ふらくは富士の高嶺の鳴沢のごと
【3358S1】ま愛しみ寝らくはしけらくさ鳴らくは伊豆の高嶺の鳴沢なすよ
【3358S2】逢へらくは玉の緒しけや恋ふらくは富士の高嶺に降る雪なすも
【3359】駿河の海おし辺に生ふる浜つづら汝を頼み母に違ひぬ[一云親に違ひぬ]
【3360】伊豆の海に立つ白波のありつつも継ぎなむものを乱れしめめや
【3361】足柄のをてもこのもにさすわなのかなるましづみ子ろ我れ紐解く
【3362】相模嶺の小峰見そくし忘れ来る妹が名呼びて我を音し泣くな
【3363】我が背子を大和へ遣りて待つしだす足柄山の杉の木の間か
【3364】足柄の箱根の山に粟蒔きて実とはなれるを粟無くもあやし
【3365】鎌倉の見越しの崎の岩崩えの君が悔ゆべき心は持たじ
【3366】ま愛しみさ寝に我は行く鎌倉の水無瀬川に潮満つなむか
【3367】百づ島足柄小舟歩き多み目こそ離るらめ心は思へど
【3368】あしがりの土肥の河内に出づる湯のよにもたよらに子ろが言はなくに
【3369】あしがりの麻万の小菅の菅枕あぜかまかさむ子ろせ手枕
【3370】あしがりの箱根の嶺ろのにこ草の花つ妻なれや紐解かず寝む
【3371】足柄のみ坂畏み曇り夜の我が下ばへをこち出つるかも
【3372】相模道の余綾の浜の真砂なす子らは愛しく思はるるかも
【3373】多摩川にさらす手作りさらさらになにぞこの子のここだ愛しき
【3374】武蔵野に占部肩焼きまさでにも告らぬ君が名占に出にけり
【3375】武蔵野のをぐきが雉立ち別れ去にし宵より背ろに逢はなふよ
【3376】恋しけば袖も振らむを武蔵野のうけらが花の色に出なゆめ
【3377】武蔵野の草葉もろ向きかもかくも君がまにまに我は寄りにしを
【3378】入間道の於保屋が原のいはゐつら引かばぬるぬる我にな絶えそね
【3379】我が背子をあどかも言はむ武蔵野のうけらが花の時なきものを
【3380】埼玉の津に居る船の風をいたみ綱は絶ゆとも言な絶えそね
【3381】夏麻引く宇奈比をさして飛ぶ鳥の至らむとぞよ我が下延へし
【3382】馬来田の嶺ろの笹葉の露霜の濡れて我来なば汝は恋ふばぞも
【3383】馬来田の嶺ろに隠り居かくだにも国の遠かば汝が目欲りせむ
【3384】葛飾の真間の手児名をまことかも我れに寄すとふ真間の手児名を
【3385】葛飾の真間の手児名がありしかば真間のおすひに波もとどろに
【3386】にほ鳥の葛飾早稲をにへすともその愛しきを外に立てめやも
【3387】足の音せず行かむ駒もが葛飾の真間の継橋やまず通はむ
【3388】筑波嶺の嶺ろに霞居過ぎかてに息づく君を率寝て遣らさね
【3389】妹が門いや遠そきぬ筑波山隠れぬほとに袖は振りてな
【3390】筑波嶺にかか鳴く鷲の音のみをか泣きわたりなむ逢ふとはなしに
【3391】筑波嶺にそがひに見ゆる葦穂山悪しかるとがもさね見えなくに
【3392】筑波嶺の岩もとどろに落つる水よにもたゆらに我が思はなくに
【3393】筑波嶺のをてもこのもに守部据ゑ母い守れども魂ぞ会ひにける
【3394】さ衣の小筑波嶺ろの山の崎忘ら来ばこそ汝を懸けなはめ
【3395】小筑波の嶺ろに月立し間夜はさはだなりぬをまた寝てむかも
【3396】小筑波の茂き木の間よ立つ鳥の目ゆか汝を見むさ寝ざらなくに
【3397】常陸なる浪逆の海の玉藻こそ引けば絶えすれあどか絶えせむ
【3398】人皆の言は絶ゆとも埴科の石井の手児が言な絶えそね
【3399】信濃道は今の墾り道刈りばねに足踏ましなむ沓はけ我が背
【3400】信濃なる千曲の川のさざれ石も君し踏みてば玉と拾はむ
【3401】なかまなに浮き居る船の漕ぎ出なば逢ふことかたし今日にしあらずは
【3402】日の暮れに碓氷の山を越ゆる日は背なのが袖もさやに振らしつ
【3403】我が恋はまさかも愛し草枕多胡の入野の奥も愛しも
【3404】上つ毛野安蘇のま麻むらかき抱き寝れど飽かぬをあどか我がせむ
【3405】上つ毛野乎度の多杼里が川路にも子らは逢はなもひとりのみして
【3406】上つ毛野佐野の茎立ち折りはやし我れは待たむゑ来とし来ずとも
【3407】上つ毛野まぐはしまとに朝日さしまきらはしもなありつつ見れば
【3408】新田山嶺にはつかなな我に寄そりはしなる子らしあやに愛しも
【3409】伊香保ろに天雲い継ぎかぬまづく人とおたはふいざ寝しめとら
【3410】伊香保ろの沿ひの榛原ねもころに奥をなかねそまさかしよかば
【3411】多胡の嶺に寄せ綱延へて寄すれどもあにくやしづしその顔よきに
【3412】上つ毛野久路保の嶺ろの葛葉がた愛しけ子らにいや離り来も
【3413】利根川の川瀬も知らず直渡り波にあふのす逢へる君かも
【3414】伊香保ろのやさかのゐでに立つ虹の現はろまでもさ寝をさ寝てば
【3415】上つ毛野伊香保の沼に植ゑ小水葱かく恋ひむとや種求めけむ
【3416】上つ毛野可保夜が沼のいはゐつら引かばぬれつつ我をな絶えそね
【3417】上つ毛野伊奈良の沼の大藺草外に見しよは今こそまされ[柿本朝臣人麻呂歌集出也]
【3418】上つ毛野佐野田の苗のむら苗に事は定めつ今はいかにせも
【3419】伊香保せよ奈可中次下思ひどろくまこそしつと忘れせなふも
【3420】上つ毛野佐野の舟橋取り離し親は放くれど我は離るがへ
【3421】伊香保嶺に雷な鳴りそね我が上には故はなけども子らによりてぞ
【3422】伊香保風吹く日吹かぬ日ありと言へど我が恋のみし時なかりけり
【3423】上つ毛野伊香保の嶺ろに降ろ雪の行き過ぎかてぬ妹が家のあたり
【3424】下つ毛野みかもの山のこ楢のすまぐはし子ろは誰が笥か持たむ
【3425】下つ毛野阿蘇の川原よ石踏まず空ゆと来ぬよ汝が心告れ
【3426】会津嶺の国をさ遠み逢はなはば偲ひにせもと紐結ばさね
【3427】筑紫なるにほふ子ゆゑに陸奥の可刀利娘子の結ひし紐解く
【3428】安達太良の嶺に伏す鹿猪のありつつも我れは至らむ寝処な去りそね
【3429】遠江引佐細江のみをつくし我れを頼めてあさましものを
【3430】志太の浦を朝漕ぐ船はよしなしに漕ぐらめかもよよしこさるらめ
【3431】足柄の安伎奈の山に引こ船の後引かしもよここばこがたに
【3432】足柄のわを可鶏山のかづの木の我をかづさねも門さかずとも
【3433】薪伐る鎌倉山の木垂る木を松と汝が言はば恋ひつつやあらむ
【3434】上つ毛野阿蘇山つづら野を広み延ひにしものをあぜか絶えせむ
【3435】伊香保ろの沿ひの榛原我が衣に着きよらしもよひたへと思へば
【3436】しらとほふ小新田山の守る山のうら枯れせなな常葉にもがも
【3437】陸奥の安達太良真弓はじき置きて反らしめきなば弦はかめかも
【3438】都武賀野に鈴が音聞こゆ可牟思太の殿のなかちし鳥猟すらしも
【3439】鈴が音の早馬駅家の堤井の水を給へな妹が直手よ
【3440】この川に朝菜洗ふ子汝れも我れもよちをぞ持てるいで子給りに[一云ましも我れも]
【3441】ま遠くの雲居に見ゆる妹が家にいつか至らむ歩め我が駒
【3442】東道の手児の呼坂越えがねて山にか寝むも宿りはなしに
【3443】うらもなく我が行く道に青柳の張りて立てれば物思ひ出つも
【3444】伎波都久の岡のくくみら我れ摘めど籠にも満たなふ背なと摘まさね
【3445】港の葦が中なる玉小菅刈り来我が背子床の隔しに
【3446】妹なろが使ふ川津のささら荻葦と人言語りよらしも
【3447】草蔭の安努な行かむと墾りし道安努は行かずて荒草立ちぬ
【3448】花散らふこの向つ峰の乎那の峰のひじにつくまで君が代もがも
【3449】白栲の衣の袖を麻久良我よ海人漕ぎ来見ゆ波立つなゆめ
【3450】乎久佐男と乎具佐受家男と潮舟の並べて見れば乎具佐勝ちめり
【3451】左奈都良の岡に粟蒔き愛しきが駒は食ぐとも我はそとも追じ
【3452】おもしろき野をばな焼きそ古草に新草交り生ひは生ふるがに
【3453】風の音の遠き我妹が着せし衣手本のくだりまよひ来にけり
【3454】庭に立つ麻手小衾今夜だに夫寄しこせね麻手小衾
【3455】恋しけば来ませ我が背子垣つ柳末摘み枯らし我れ立ち待たむ
【3456】うつせみの八十言のへは繁くとも争ひかねて我を言なすな
【3457】うちひさす宮の我が背は大和女の膝まくごとに我を忘らすな
【3458】汝背の子や等里の岡道しなかだ折れ我を音し泣くよ息づくまでに
【3459】稲つけばかかる我が手を今夜もか殿の若子が取りて嘆かむ
【3460】誰れぞこの屋の戸押そぶる新嘗に我が背を遣りて斎ふこの戸を
【3461】あぜと言へかさ寝に逢はなくにま日暮れて宵なは来なに明けぬしだ来る
【3462】あしひきの山沢人の人さはにまなと言ふ子があやに愛しさ
【3463】ま遠くの野にも逢はなむ心なく里のみ中に逢へる背なかも
【3464】人言の繁きによりてまを薦の同じ枕は我はまかじやも
【3465】高麗錦紐解き放けて寝るが上にあどせろとかもあやに愛しき
【3466】ま愛しみ寝れば言に出さ寝なへば心の緒ろに乗りて愛しも
【3467】奥山の真木の板戸をとどとして我が開かむに入り来て寝さね
【3468】山鳥の峰ろのはつをに鏡懸け唱ふべみこそ汝に寄そりけめ
【3469】夕占にも今夜と告らろ我が背なはあぜぞも今夜寄しろ来まさぬ
【3470】相見ては千年やいぬるいなをかも我れやしか思ふ君待ちがてに[柿本朝臣人麻呂歌集出也]
【3471】しまらくは寝つつもあらむを夢のみにもとな見えつつ我を音し泣くる
【3472】人妻とあぜかそを言はむしからばか隣の衣を借りて着なはも
【3473】左努山に打つや斧音の遠かども寝もとか子ろが面に見えつる
【3474】植ゑ竹の本さへ響み出でて去なばいづし向きてか妹が嘆かむ
【3475】恋ひつつも居らむとすれど遊布麻山隠れし君を思ひかねつも
【3476】うべ子なは我ぬに恋ふなも立と月のぬがなへ行けば恋しかるなも
【3477】東路の手児の呼坂越えて去なば我れは恋ひむな後は逢ひぬとも
【3478】遠しとふ故奈の白嶺に逢ほしだも逢はのへしだも汝にこそ寄され
【3479】安可見山草根刈り除け逢はすがへ争ふ妹しあやに愛しも
【3480】大君の命畏み愛し妹が手枕離れ夜立ち来のかも
【3481】あり衣のさゑさゑしづみ家の妹に物言はず来にて思ひ苦しも
【3482】韓衣裾のうち交へ逢はねども異しき心を我が思はなくに
【3483】昼解けば解けなへ紐の我が背なに相寄るとかも夜解けやすけ
【3484】麻苧らを麻笥にふすさに績まずとも明日着せさめやいざせ小床に
【3485】剣大刀身に添ふ妹を取り見がね音をぞ泣きつる手児にあらなくに
【3486】愛し妹を弓束並べ巻きもころ男のこととし言はばいや勝たましに
【3487】梓弓末に玉巻きかくすすぞ寝なななりにし奥をかぬかぬ
【3488】生ふしもとこの本山のましばにも告らぬ妹が名かたに出でむかも
【3489】梓弓欲良の山辺の茂かくに妹ろを立ててさ寝処払ふも
【3490】梓弓末は寄り寝むまさかこそ人目を多み汝をはしに置けれ[柿本朝臣人麻呂歌集出也]
【3491】柳こそ伐れば生えすれ世の人の恋に死なむをいかにせよとぞ
【3492】小山田の池の堤にさす柳成りも成らずも汝と二人はも
【3493】遅速も汝をこそ待ため向つ峰の椎の小やで枝の逢ひは違はじ
【3494】子持山若かへるでのもみつまで寝もと我は思ふ汝はあどか思ふ
【3495】巌ろの沿ひの若松限りとや君が来まさぬうらもとなくも
【3496】橘の古婆の放髪が思ふなむ心うつくしいで我れは行かな
【3497】川上の根白高萱あやにあやにさ寝さ寝てこそ言に出にしか
【3498】海原の根柔ら小菅あまたあれば君は忘らす我れ忘るれや
【3499】岡に寄せ我が刈る萱のさね萱のまことなごやは寝ろとへなかも
【3500】紫草は根をかも終ふる人の子のうら愛しけを寝を終へなくに
【3501】安波峰ろの峰ろ田に生はるたはみづら引かばぬるぬる我を言な絶え
【3502】我が目妻人は放くれど朝顔のとしさへこごと我は離るがへ
【3503】安齊可潟潮干のゆたに思へらばうけらが花の色に出めやも
【3504】春へ咲く藤の末葉のうら安にさ寝る夜ぞなき子ろをし思へば
【3505】うちひさつ宮能瀬川のかほ花の恋ひてか寝らむ昨夜も今夜も
【3506】新室のこどきに至ればはだすすき穂に出し君が見えぬこのころ
【3507】谷狭み峰に延ひたる玉葛絶えむの心我が思はなくに
【3508】芝付の御宇良崎なるねつこ草相見ずあらば我れ恋ひめやも
【3509】栲衾白山風の寝なへども子ろがおそきのあろこそえしも
【3510】み空行く雲にもがもな今日行きて妹に言どひ明日帰り来む
【3511】青嶺ろにたなびく雲のいさよひに物をぞ思ふ年のこのころ
【3512】一嶺ろに言はるものから青嶺ろにいさよふ雲の寄そり妻はも
【3513】夕さればみ山を去らぬ布雲のあぜか絶えむと言ひし子ろはも
【3514】高き嶺に雲のつくのす我れさへに君につきなな高嶺と思ひて
【3515】我が面の忘れむしだは国はふり嶺に立つ雲を見つつ偲はせ
【3516】対馬の嶺は下雲あらなふ可牟の嶺にたなびく雲を見つつ偲はも
【3517】白雲の絶えにし妹をあぜせろと心に乗りてここば愛しけ
【3518】岩の上にいかかる雲のかのまづく人ぞおたはふいざ寝しめとら
【3519】汝が母に嘖られ我は行く青雲の出で来我妹子相見て行かむ
【3520】面形の忘れむしだは大野ろにたなびく雲を見つつ偲はむ
【3521】烏とふ大をそ鳥のまさでにも来まさぬ君をころくとぞ鳴く
【3522】昨夜こそば子ろとさ寝しか雲の上ゆ鳴き行く鶴の間遠く思ほゆ
【3523】坂越えて安倍の田の面に居る鶴のともしき君は明日さへもがも
【3524】まを薦の節の間近くて逢はなへば沖つま鴨の嘆きぞ我がする
【3525】水久君野に鴨の這ほのす子ろが上に言緒ろ延へていまだ寝なふも
【3526】沼二つ通は鳥が巣我が心二行くなもとなよ思はりそね
【3527】沖に住も小鴨のもころ八尺鳥息づく妹を置きて来のかも
【3528】水鳥の立たむ装ひに妹のらに物言はず来にて思ひかねつも
【3529】等夜の野に兎ねらはりをさをさも寝なへ子ゆゑに母に嘖はえ
【3530】さを鹿の伏すや草むら見えずとも子ろが金門よ行かくしえしも
【3531】妹をこそ相見に来しか眉引きの横山辺ろの獣なす思へる
【3532】春の野に草食む駒の口やまず我を偲ふらむ家の子ろはも
【3533】人の子の愛しけしだは浜洲鳥足悩む駒の惜しけくもなし
【3534】赤駒が門出をしつつ出でかてにせしを見立てし家の子らはも
【3535】己が命をおほにな思ひそ庭に立ち笑ますがからに駒に逢ふものを
【3536】赤駒を打ちてさ緒引き心引きいかなる背なか我がり来むと言ふ
【3537】くへ越しに麦食む小馬のはつはつに相見し子らしあやに愛しも
【3538】広橋を馬越しがねて心のみ妹がり遣りて我はここにして
【3539】あずの上に駒を繋ぎて危ほかど人妻子ろを息に我がする
【3540】左和多里の手児にい行き逢ひ赤駒が足掻きを速み言問はず来ぬ
【3541】あずへから駒の行ごのす危はとも人妻子ろをまゆかせらふも
【3542】さざれ石に駒を馳させて心痛み我が思ふ妹が家のあたりかも
【3543】むろがやの都留の堤の成りぬがに子ろは言へどもいまだ寝なくに
【3544】あすか川下濁れるを知らずして背ななと二人さ寝て悔しも
【3545】あすか川堰くと知りせばあまた夜も率寝て来ましを堰くと知りせば
【3546】青柳の張らろ川門に汝を待つと清水は汲まず立ち処平すも
【3547】あぢの棲む須沙の入江の隠り沼のあな息づかし見ず久にして
【3548】鳴る瀬ろにこつの寄すなすいとのきて愛しけ背ろに人さへ寄すも
【3549】多由比潟潮満ちわたるいづゆかも愛しき背ろが我がり通はむ
【3550】おしていなと稲は搗かねど波の穂のいたぶらしもよ昨夜ひとり寝て
【3551】阿遅可麻の潟にさく波平瀬にも紐解くものか愛しけを置きて
【3552】まつが浦にさわゑうら立ちま人言思ほすなもろ我が思ほのすも
【3553】あじかまの可家の港に入る潮のこてたずくもが入りて寝まくも
【3554】妹が寝る床のあたりに岩ぐくる水にもがもよ入りて寝まくも
【3555】麻久良我の許我の渡りの韓楫の音高しもな寝なへ子ゆゑに
【3556】潮船の置かれば愛しさ寝つれば人言繁し汝をどかもしむ
【3557】悩ましけ人妻かもよ漕ぐ舟の忘れはせなないや思ひ増すに
【3558】逢はずして行かば惜しけむ麻久良我の許我漕ぐ船に君も逢はぬかも
【3559】大船を舳ゆも艫ゆも堅めてし許曽の里人あらはさめかも
【3560】ま金ふく丹生のま朱の色に出て言はなくのみぞ我が恋ふらくは
【3561】金門田を荒垣ま斎み日が照れば雨を待とのす君をと待とも
【3562】荒礒やに生ふる玉藻のうち靡きひとりや寝らむ我を待ちかねて
【3563】比多潟の礒のわかめの立ち乱え我をか待つなも昨夜も今夜も
【3564】古須気ろの浦吹く風のあどすすか愛しけ子ろを思ひ過ごさむ
【3565】かの子ろと寝ずやなりなむはだすすき宇良野の山に月片寄るも
【3566】我妹子に我が恋ひ死なばそわへかも神に負ほせむ心知らずて
【3567】置きて行かば妹はま愛し持ちて行く梓の弓の弓束にもがも
【3568】後れ居て恋ひば苦しも朝猟の君が弓にもならましものを
【3569】防人に立ちし朝開の金戸出にたばなれ惜しみ泣きし子らはも
【3570】葦の葉に夕霧立ちて鴨が音の寒き夕し汝をば偲はむ
【3571】己妻を人の里に置きおほほしく見つつぞ来ぬるこの道の間
【3572】あど思へか阿自久麻山の弓絃葉のふふまる時に風吹かずかも
【3573】あしひきの山かづらかげましばにも得がたきかげを置きや枯らさむ
【3574】小里なる花橘を引き攀ぢて折らむとすれどうら若みこそ
【3575】美夜自呂のすかへに立てるかほが花な咲き出でそねこめて偲はむ
【3576】苗代の小水葱が花を衣に摺りなるるまにまにあぜか愛しけ
【3577】愛し妹をいづち行かめと山菅のそがひに寝しく今し悔しも
第15巻
【3578】武庫の浦の入江の洲鳥羽ぐくもる君を離れて恋に死ぬべし
【3579】大船に妹乗るものにあらませば羽ぐくみ持ちて行かましものを
【3580】君が行く海辺の宿に霧立たば我が立ち嘆く息と知りませ
【3581】秋さらば相見むものを何しかも霧に立つべく嘆きしまさむ
【3582】大船を荒海に出だしいます君障むことなく早帰りませ
【3583】ま幸くて妹が斎はば沖つ波千重に立つとも障りあらめやも
【3584】別れなばうら悲しけむ我が衣下にを着ませ直に逢ふまでに
【3585】我妹子が下にも着よと贈りたる衣の紐を我れ解かめやも
【3586】我がゆゑに思ひな痩せそ秋風の吹かむその月逢はむものゆゑ
【3587】栲衾新羅へいます君が目を今日か明日かと斎ひて待たむ
【3588】はろはろに思ほゆるかもしかれども異しき心を我が思はなくに
【3589】夕さればひぐらし来鳴く生駒山越えてぞ我が来る妹が目を欲り
【3590】妹に逢はずあらばすべなみ岩根踏む生駒の山を越えてぞ我が来る
【3591】妹とありし時はあれども別れては衣手寒きものにぞありける
【3592】海原に浮寝せむ夜は沖つ風いたくな吹きそ妹もあらなくに
【3593】大伴の御津に船乗り漕ぎ出てはいづれの島に廬りせむ我れ
【3594】潮待つとありける船を知らずして悔しく妹を別れ来にけり
【3595】朝開き漕ぎ出て来れば武庫の浦の潮干の潟に鶴が声すも
【3596】我妹子が形見に見むを印南都麻白波高み外にかも見む
【3597】わたつみの沖つ白波立ち来らし海人娘子ども島隠る見ゆ
【3598】ぬばたまの夜は明けぬらし玉の浦にあさりする鶴鳴き渡るなり
【3599】月読の光りを清み神島の礒廻の浦ゆ船出す我れは
【3600】離れ礒に立てるむろの木うたがたも久しき時を過ぎにけるかも
【3601】しましくもひとりありうるものにあれや島のむろの木離れてあるらむ
【3602】あをによし奈良の都にたなびける天の白雲見れど飽かぬかも
【3603】青楊の枝伐り下ろしゆ種蒔きゆゆしき君に恋ひわたるかも
【3604】妹が袖別れて久になりぬれど一日も妹を忘れて思へや
【3605】わたつみの海に出でたる飾磨川絶えむ日にこそ我が恋やまめ
【3606】玉藻刈る処女を過ぎて夏草の野島が崎に廬りす我れは
【3607】白栲の藤江の浦に漁りする海人とや見らむ旅行く我れを
【3608】天離る鄙の長道を恋ひ来れば明石の門より家のあたり見ゆ
【3609】武庫の海の庭よくあらし漁りする海人の釣舟波の上ゆ見ゆ
【3610】安胡の浦に舟乗りすらむ娘子らが赤裳の裾に潮満つらむか
【3611】大船に真楫しじ貫き海原を漕ぎ出て渡る月人壮士
【3612】あをによし奈良の都に行く人もがも草枕旅行く船の泊り告げむに[旋頭歌也]
【3613】海原を八十島隠り来ぬれども奈良の都は忘れかねつも
【3614】帰るさに妹に見せむにわたつみの沖つ白玉拾ひて行かな
【3615】我がゆゑに妹嘆くらし風早の浦の沖辺に霧たなびけり
【3616】沖つ風いたく吹きせば我妹子が嘆きの霧に飽かましものを
【3617】石走る瀧もとどろに鳴く蝉の声をし聞けば都し思ほゆ
【3618】山川の清き川瀬に遊べども奈良の都は忘れかねつも
【3619】礒の間ゆたぎつ山川絶えずあらばまたも相見む秋かたまけて
【3620】恋繁み慰めかねてひぐらしの鳴く島蔭に廬りするかも
【3621】我が命を長門の島の小松原幾代を経てか神さびわたる
【3622】月読みの光りを清み夕なぎに水手の声呼び浦廻漕ぐかも
【3623】山の端に月傾けば漁りする海人の燈火沖になづさふ
【3624】我れのみや夜船は漕ぐと思へれば沖辺の方に楫の音すなり
【3625】夕されば葦辺に騒き明け来れば沖になづさふ鴨すらも妻とたぐひて我が尾には霜な降りそと白栲の羽さし交へてうち掃ひさ寝とふものを行く水の帰らぬごとく吹く風の見えぬがごとく跡もなき世の人にして別れにし妹が着せてしなれ衣袖片敷きてひとりかも寝む
【3626】鶴が鳴き葦辺をさして飛び渡るあなたづたづしひとりさ寝れば
【3627】朝されば妹が手にまく鏡なす御津の浜びに大船に真楫しじ貫き韓国に渡り行かむと直向ふ敏馬をさして潮待ちて水脈引き行けば沖辺には白波高み浦廻より漕ぎて渡れば我妹子に淡路の島は夕されば雲居隠りぬさ夜更けてゆくへを知らに我が心明石の浦に船泊めて浮寝をしつつわたつみの沖辺を見れば漁りする海人の娘子は小舟乗りつららに浮けり暁の潮満ち来れば葦辺には鶴鳴き渡る朝なぎに船出をせむと船人も水手も声呼びにほ鳥のなづさひ行けば家島は雲居に見えぬ我が思へる心なぐやと早く来て見むと思ひて大船を漕ぎ我が行けば沖つ波高く立ち来ぬ外のみに見つつ過ぎ行き玉の浦に船を留めて浜びより浦礒を見つつ泣く子なす音のみし泣かゆわたつみの手巻の玉を家づとに妹に遣らむと拾ひ取り袖には入れて帰し遣る使なければ持てれども験をなみとまた置きつるかも
【3628】玉の浦の沖つ白玉拾へれどまたぞ置きつる見る人をなみ
【3629】秋さらば我が船泊てむ忘れ貝寄せ来て置けれ沖つ白波
【3630】真楫貫き船し行かずは見れど飽かぬ麻里布の浦に宿りせましを
【3631】いつしかも見むと思ひし粟島を外にや恋ひむ行くよしをなみ
【3632】大船にかし振り立てて浜清き麻里布の浦に宿りかせまし
【3633】粟島の逢はじと思ふ妹にあれや安寐も寝ずて我が恋ひわたる
【3634】筑紫道の可太の大島しましくも見ねば恋しき妹を置きて来ぬ
【3635】妹が家路近くありせば見れど飽かぬ麻里布の浦を見せましものを
【3636】家人は帰り早来と伊波比島斎ひ待つらむ旅行く我れを
【3637】草枕旅行く人を伊波比島幾代経るまで斎ひ来にけむ
【3638】これやこの名に負ふ鳴門のうづ潮に玉藻刈るとふ海人娘子ども
【3639】波の上に浮き寝せし宵あど思へか心悲しく夢に見えつる
【3640】都辺に行かむ船もが刈り薦の乱れて思ふ言告げやらむ
【3641】暁の家恋しきに浦廻より楫の音するは海人娘子かも
【3642】沖辺より潮満ち来らし可良の浦にあさりする鶴鳴きて騒きぬ
【3643】沖辺より船人上る呼び寄せていざ告げ遣らむ旅の宿りを
【3644】大君の命畏み大船の行きのまにまに宿りするかも
【3645】我妹子は早も来ぬかと待つらむを沖にや住まむ家つかずして
【3646】浦廻より漕ぎ来し船を風早み沖つみ浦に宿りするかも
【3647】我妹子がいかに思へかぬばたまの一夜もおちず夢にし見ゆる
【3648】海原の沖辺に灯し漁る火は明かして灯せ大和島見む
【3649】鴨じもの浮寝をすれば蜷の腸か黒き髪に露ぞ置きにける
【3650】ひさかたの天照る月は見つれども我が思ふ妹に逢はぬころかも
【3651】ぬばたまの夜渡る月は早も出でぬかも海原の八十島の上ゆ妹があたり見む[旋頭歌也]
【3652】志賀の海人の一日もおちず焼く塩のからき恋をも我れはするかも
【3653】志賀の浦に漁りする海人家人の待ち恋ふらむに明かし釣る魚
【3654】可之布江に鶴鳴き渡る志賀の浦に沖つ白波立ちし来らしも
【3655】今よりは秋づきぬらしあしひきの山松蔭にひぐらし鳴きぬ
【3656】秋萩ににほへる我が裳濡れぬとも君が御船の綱し取りてば
【3657】年にありて一夜妹に逢ふ彦星も我れにまさりて思ふらめやも
【3658】夕月夜影立ち寄り合ひ天の川漕ぐ船人を見るが羨しさ
【3659】秋風は日に異に吹きぬ我妹子はいつとか我れを斎ひ待つらむ
【3660】神さぶる荒津の崎に寄する波間なくや妹に恋ひわたりなむ
【3661】風の共寄せ来る波に漁りする海人娘子らが裳の裾濡れぬ
【3662】天の原振り放け見れば夜ぞ更けにけるよしゑやしひとり寝る夜は明けば明けぬとも
【3663】わたつみの沖つ縄海苔来る時と妹が待つらむ月は経につつ
【3664】志賀の浦に漁りする海人明け来れば浦廻漕ぐらし楫の音聞こゆ
【3665】妹を思ひ寐の寝らえぬに暁の朝霧隠り雁がねぞ鳴く
【3666】夕されば秋風寒し我妹子が解き洗ひ衣行きて早着む
【3667】我が旅は久しくあらしこの我が着る妹が衣の垢つく見れば
【3668】大君の遠の朝廷と思へれど日長くしあれば恋ひにけるかも
【3669】旅にあれど夜は火灯し居る我れを闇にや妹が恋ひつつあるらむ
【3670】韓亭能許の浦波立たぬ日はあれども家に恋ひぬ日はなし
【3671】ぬばたまの夜渡る月にあらませば家なる妹に逢ひて来ましを
【3672】ひさかたの月は照りたり暇なく海人の漁りは灯し合へり見ゆ
【3673】風吹けば沖つ白波畏みと能許の亭にあまた夜ぞ寝る
【3674】草枕旅を苦しみ恋ひ居れば可也の山辺にさを鹿鳴くも
【3675】沖つ波高く立つ日にあへりきと都の人は聞きてけむかも
【3676】天飛ぶや雁を使に得てしかも奈良の都に言告げ遣らむ
【3677】秋の野をにほはす萩は咲けれども見る験なし旅にしあれば
【3678】妹を思ひ寐の寝らえぬに秋の野にさを鹿鳴きつ妻思ひかねて
【3679】大船に真楫しじ貫き時待つと我れは思へど月ぞ経にける
【3680】夜を長み寐の寝らえぬにあしひきの山彦響めさを鹿鳴くも
【3681】帰り来て見むと思ひし我が宿の秋萩すすき散りにけむかも
【3682】天地の神を祈ひつつ我れ待たむ早来ませ君待たば苦しも
【3683】君を思ひ我が恋ひまくはあらたまの立つ月ごとに避くる日もあらじ
【3684】秋の夜を長みにかあらむなぞここば寐の寝らえぬもひとり寝ればか
【3685】足日女御船泊てけむ松浦の海妹が待つべき月は経につつ
【3686】旅なれば思ひ絶えてもありつれど家にある妹し思ひ悲しも
【3687】あしひきの山飛び越ゆる鴈がねは都に行かば妹に逢ひて来ね
【3688】天皇の遠の朝廷と韓国に渡る我が背は家人の斎ひ待たねか正身かも過ちしけむ秋去らば帰りまさむとたらちねの母に申して時も過ぎ月も経ぬれば今日か来む明日かも来むと家人は待ち恋ふらむに遠の国いまだも着かず大和をも遠く離りて岩が根の荒き島根に宿りする君
【3689】岩田野に宿りする君家人のいづらと我れを問はばいかに言はむ
【3690】世間は常かくのみと別れぬる君にやもとな我が恋ひ行かむ
【3691】天地とともにもがもと思ひつつありけむものをはしけやし家を離れて波の上ゆなづさひ来にてあらたまの月日も来経ぬ雁がねも継ぎて来鳴けばたらちねの母も妻らも朝露に裳の裾ひづち夕霧に衣手濡れて幸くしもあるらむごとく出で見つつ待つらむものを世間の人の嘆きは相思はぬ君にあれやも秋萩の散らへる野辺の初尾花仮廬に葺きて雲離れ遠き国辺の露霜の寒き山辺に宿りせるらむ
【3692】はしけやし妻も子どもも高々に待つらむ君や島隠れぬる
【3693】黄葉の散りなむ山に宿りぬる君を待つらむ人し悲しも
【3694】わたつみの畏き道を安けくもなく悩み来て今だにも喪なく行かむと壱岐の海人のほつての占部を肩焼きて行かむとするに夢のごと道の空路に別れする君
【3695】昔より言ひけることの韓国のからくもここに別れするかも
【3696】新羅へか家にか帰る壱岐の島行かむたどきも思ひかねつも
【3697】百船の泊つる対馬の浅茅山しぐれの雨にもみたひにけり
【3698】天離る鄙にも月は照れれども妹ぞ遠くは別れ来にける
【3699】秋去れば置く露霜にあへずして都の山は色づきぬらむ
【3700】あしひきの山下光る黄葉の散りの乱ひは今日にもあるかも
【3701】竹敷の黄葉を見れば我妹子が待たむと言ひし時ぞ来にける
【3702】竹敷の浦廻の黄葉我れ行きて帰り来るまで散りこすなゆめ
【3703】竹敷の宇敝可多山は紅の八しほの色になりにけるかも
【3704】黄葉の散らふ山辺ゆ漕ぐ船のにほひにめでて出でて来にけり
【3705】竹敷の玉藻靡かし漕ぎ出なむ君がみ船をいつとか待たむ
【3706】玉敷ける清き渚を潮満てば飽かず我れ行く帰るさに見む
【3707】秋山の黄葉をかざし我が居れば浦潮満ち来いまだ飽かなくに
【3708】物思ふと人には見えじ下紐の下ゆ恋ふるに月ぞ経にける
【3709】家づとに貝を拾ふと沖辺より寄せ来る波に衣手濡れぬ
【3710】潮干なばまたも我れ来むいざ行かむ沖つ潮騒高く立ち来ぬ
【3711】我が袖は手本通りて濡れぬとも恋忘れ貝取らずは行かじ
【3712】ぬばたまの妹が干すべくあらなくに我が衣手を濡れていかにせむ
【3713】黄葉は今はうつろふ我妹子が待たむと言ひし時の経ゆけば
【3714】秋されば恋しみ妹を夢にだに久しく見むを明けにけるかも
【3715】ひとりのみ着寝る衣の紐解かば誰れかも結はむ家遠くして
【3716】天雲のたゆたひ来れば九月の黄葉の山もうつろひにけり
【3717】旅にても喪なく早来と我妹子が結びし紐はなれにけるかも
【3718】家島は名にこそありけれ海原を我が恋ひ来つる妹もあらなくに
【3719】草枕旅に久しくあらめやと妹に言ひしを年の経ぬらく
【3720】我妹子を行きて早見む淡路島雲居に見えぬ家つくらしも
【3721】ぬばたまの夜明かしも船は漕ぎ行かな御津の浜松待ち恋ひぬらむ
【3722】大伴の御津の泊りに船泊てて龍田の山をいつか越え行かむ
【3723】あしひきの山道越えむとする君を心に持ちて安けくもなし
【3724】君が行く道の長手を繰り畳ね焼き滅ぼさむ天の火もがも
【3725】我が背子しけだし罷らば白栲の袖を振らさね見つつ偲はむ
【3726】このころは恋ひつつもあらむ玉櫛笥明けてをちよりすべなかるべし
【3727】塵泥の数にもあらぬ我れゆゑに思ひわぶらむ妹がかなしさ
【3728】あをによし奈良の大道は行きよけどこの山道は行き悪しかりけり
【3729】愛しと我が思ふ妹を思ひつつ行けばかもとな行き悪しかるらむ
【3730】畏みと告らずありしをみ越道の手向けに立ちて妹が名告りつ
【3731】思ふゑに逢ふものならばしましくも妹が目離れて我れ居らめやも
【3732】あかねさす昼は物思ひぬばたまの夜はすがらに音のみし泣かゆ
【3733】我妹子が形見の衣なかりせば何物もてか命継がまし
【3734】遠き山関も越え来ぬ今さらに逢ふべきよしのなきが寂しさ[一云さびしさ]
【3735】思はずもまことあり得むやさ寝る夜の夢にも妹が見えざらなくに
【3736】遠くあれば一日一夜も思はずてあるらむものと思ほしめすな
【3737】人よりは妹ぞも悪しき恋もなくあらましものを思はしめつつ
【3738】思ひつつ寝ればかもとなぬばたまの一夜もおちず夢にし見ゆる
【3739】かくばかり恋ひむとかねて知らませば妹をば見ずぞあるべくありける
【3740】天地の神なきものにあらばこそ我が思ふ妹に逢はず死にせめ
【3741】命をし全くしあらばあり衣のありて後にも逢はざらめやも[一云ありての後も]
【3742】逢はむ日をその日と知らず常闇にいづれの日まで我れ恋ひ居らむ
【3743】旅といへば言にぞやすきすくなくも妹に恋ひつつすべなけなくに
【3744】我妹子に恋ふるに我れはたまきはる短き命も惜しけくもなし
【3745】命あらば逢ふこともあらむ我がゆゑにはだな思ひそ命だに経ば
【3746】人の植うる田は植ゑまさず今さらに国別れして我れはいかにせむ
【3747】我が宿の松の葉見つつ我れ待たむ早帰りませ恋ひ死なぬとに
【3748】他国は住み悪しとぞ言ふ速けく早帰りませ恋ひ死なぬとに
【3749】他国に君をいませていつまでか我が恋ひ居らむ時の知らなく
【3750】天地の底ひのうらに我がごとく君に恋ふらむ人はさねあらじ
【3751】白栲の我が下衣失はず持てれ我が背子直に逢ふまでに
【3752】春の日のうら悲しきに後れ居て君に恋ひつつうつしけめやも
【3753】逢はむ日の形見にせよとたわや女の思ひ乱れて縫へる衣ぞ
【3754】過所なしに関飛び越ゆる霍公鳥多我子尓毛止まず通はむ
【3755】愛しと我が思ふ妹を山川を中にへなりて安けくもなし
【3756】向ひ居て一日もおちず見しかども厭はぬ妹を月わたるまで
【3757】我が身こそ関山越えてここにあらめ心は妹に寄りにしものを
【3758】さす竹の大宮人は今もかも人なぶりのみ好みたるらむ[一云今さへや]
【3759】たちかへり泣けども我れは験なみ思ひわぶれて寝る夜しぞ多き
【3760】さ寝る夜は多くあれども物思はず安く寝る夜はさねなきものを
【3761】世の中の常のことわりかくさまになり来にけらしすゑし種から
【3762】我妹子に逢坂山を越えて来て泣きつつ居れど逢ふよしもなし
【3763】旅と言へば言にぞやすきすべもなく苦しき旅も言にまさめやも
【3764】山川を中にへなりて遠くとも心を近く思ほせ我妹
【3765】まそ鏡懸けて偲へとまつり出す形見のものを人に示すな
【3766】愛しと思ひし思はば下紐に結ひつけ持ちてやまず偲はせ
【3767】魂は朝夕にたまふれど我が胸痛し恋の繁きに
【3768】このころは君を思ふとすべもなき恋のみしつつ音のみしぞ泣く
【3769】ぬばたまの夜見し君を明くる朝逢はずまにして今ぞ悔しき
【3770】味真野に宿れる君が帰り来む時の迎へをいつとか待たむ
【3771】宮人の安寐も寝ずて今日今日と待つらむものを見えぬ君かも
【3772】帰りける人来れりと言ひしかばほとほと死にき君かと思ひて
【3773】君が共行かましものを同じこと後れて居れどよきこともなし
【3774】我が背子が帰り来まさむ時のため命残さむ忘れたまふな
【3775】あらたまの年の緒長く逢はざれど異しき心を我が思はなくに
【3776】今日もかも都なりせば見まく欲り西の御馬屋の外に立てらまし
【3777】昨日今日君に逢はずてするすべのたどきを知らに音のみしぞ泣く
【3778】白栲の我が衣手を取り持ちて斎へ我が背子直に逢ふまでに
【3779】我が宿の花橘はいたづらに散りか過ぐらむ見る人なしに
【3780】恋ひ死なば恋ひも死ねとや霍公鳥物思ふ時に来鳴き響むる
【3781】旅にして物思ふ時に霍公鳥もとなな鳴きそ我が恋まさる
【3782】雨隠り物思ふ時に霍公鳥我が住む里に来鳴き響もす
【3783】旅にして妹に恋ふれば霍公鳥我が住む里にこよ鳴き渡る
【3784】心なき鳥にぞありける霍公鳥物思ふ時に鳴くべきものか
【3785】霍公鳥間しまし置け汝が鳴けば我が思ふ心いたもすべなし
第16巻
【3786】春さらばかざしにせむと我が思ひし桜の花は散りにけるかも[其一]
【3787】妹が名に懸けたる桜花咲かば常にや恋ひむいや年のはに[其二]
【3788】耳成の池し恨めし我妹子が来つつ潜かば水は涸れなむ[一]
【3789】あしひきの山縵の子今日行くと我れに告げせば帰り来ましを[二]
【3790】あしひきの玉縵の子今日のごといづれの隈を見つつ来にけむ[三]
【3791】みどり子の若子髪にはたらちし母に抱かえひむつきの稚児が髪には木綿肩衣純裏に縫ひ着頚つきの童髪には結ひはたの袖つけ衣着し我れを丹よれる子らがよちには蜷の腸か黒し髪をま櫛持ちここにかき垂れ取り束ね上げても巻きみ解き乱り童になしみさ丹つかふ色になつける紫の大綾の衣住吉の遠里小野のま榛持ちにほほし衣に高麗錦紐に縫ひつけ刺部重部なみ重ね着て打麻やし麻続の子らあり衣の財の子らが打ちし栲延へて織る布日さらしの麻手作りを信巾裳成者之寸丹取為支屋所経稲置娘子が妻どふと我れにおこせし彼方の二綾下沓飛ぶ鳥明日香壮士が長雨禁へ縫ひし黒沓さし履きて庭にたたずみ退けな立ち禁娘子がほの聞きて我れにおこせし水縹の絹の帯を引き帯なす韓帯に取らしわたつみの殿の甍に飛び翔けるすがるのごとき腰細に取り装ほひまそ鏡取り並め懸けておのがなりかへらひ見つつ春さりて野辺を廻ればおもしろみ我れを思へかさ野つ鳥来鳴き翔らふ秋さりて山辺を行けばなつかしと我れを思へか天雲も行きたなびくかへり立ち道を来ればうちひさす宮女さす竹の舎人壮士も忍ぶらひかへらひ見つつ誰が子ぞとや思はえてあるかくのごと所為故為いにしへささきし我れやはしきやし今日やも子らにいさとや思はえてあるかくのごと所為故為いにしへの賢しき人も後の世の鑑にせむと老人を送りし車持ち帰りけり持ち帰りけり
【3792】死なばこそ相見ずあらめ生きてあらば白髪子らに生ひずあらめやも
【3793】白髪し子らに生ひなばかくのごと若けむ子らに罵らえかねめや
【3794】はしきやし翁の歌におほほしき九の子らや感けて居らむ[一]
【3795】恥を忍び恥を黙して事もなく物言はぬさきに我れは寄りなむ[二]
【3796】否も諾も欲しきまにまに許すべき顔見ゆるかも我れも寄りなむ[三]
【3797】死にも生きも同じ心と結びてし友や違はむ我れも寄りなむ[四]
【3798】何すと違ひは居らむ否も諾も友のなみなみ我れも寄りなむ[五]
【3799】あにもあらじおのが身のから人の子の言も尽さじ我れも寄りなむ[六]
【3800】はだすすき穂にはな出でそ思ひたる心は知らゆ我れも寄りなむ[七]
【3801】住吉の岸野の榛ににほふれどにほはぬ我れやにほひて居らむ[八]
【3802】春の野の下草靡き我れも寄りにほひ寄りなむ友のまにまに[九]
【3803】隠りのみ恋ふれば苦し山の端ゆ出でくる月の顕さばいかに
【3804】かくのみにありけるものを猪名川の沖を深めて我が思へりける
【3805】ぬばたまの黒髪濡れて沫雪の降るにや来ますここだ恋ふれば
【3806】事しあらば小泊瀬山の石城にも隠らばともにな思ひそ我が背
【3807】安積山影さへ見ゆる山の井の浅き心を我が思はなくに
【3808】住吉の小集楽に出でてうつつにもおの妻すらを鏡と見つも
【3809】商返しめすとの御法あらばこそ我が下衣返し給はめ
【3810】味飯を水に醸みなし我が待ちしかひはかつてなし直にしあらねば
【3811】さ丹つらふ君がみ言と玉梓の使も来ねば思ひ病む我が身ひとつぞちはやぶる神にもな負ほせ占部据ゑ亀もな焼きそ恋ひしくに痛き我が身ぞいちしろく身にしみ通りむらきもの心砕けて死なむ命にはかになりぬ今さらに君か我を呼ぶたらちねの母のみ言か百足らず八十の衢に夕占にも占にもぞ問ふ死ぬべき我がゆゑ
【3812】占部をも八十の衢も占問へど君を相見むたどき知らずも
【3813】我が命は惜しくもあらずさ丹つらふ君によりてぞ長く欲りせし
【3814】白玉は緒絶えしにきと聞きしゆゑにその緒また貫き我が玉にせむ
【3815】白玉の緒絶えはまことしかれどもその緒また貫き人持ち去にけり
【3816】家にありし櫃にかぎさし蔵めてし恋の奴のつかみかかりて
【3817】かるうすは田ぶせの本に我が背子はにふぶに笑みて立ちませり見ゆ[田廬者多夫世<反>]
【3818】朝霞鹿火屋が下の鳴くかはづ偲ひつつありと告げむ子もがも
【3819】夕立の雨うち降れば春日野の尾花が末の白露思ほゆ
【3820】夕づく日さすや川辺に作る屋の形をよろしみうべ寄そりけり
【3821】うましものいづく飽かじをさかとらが角のふくれにしぐひ合ひにけむ
【3822】橘の寺の長屋に我が率寝し童女放髪は髪上げつらむか
【3823】橘の照れる長屋に我が率ねし童女放髪に髪上げつらむか
【3824】さし鍋に湯沸かせ子ども櫟津の桧橋より来む狐に浴むさむ
【3825】食薦敷き青菜煮て来む梁にむかばき懸けて休むこの君
【3826】蓮葉はかくこそあるもの意吉麻呂が家なるものは芋の葉にあらし
【3827】一二の目のみにはあらず五六三四さへありけり双六のさえ
【3828】香塗れる塔にな寄りそ川隈の屎鮒食めるいたき女奴
【3829】醤酢に蒜搗きかてて鯛願ふ我れにな見えそ水葱の羹
【3830】玉掃刈り来鎌麻呂むろの木と棗が本とかき掃かむため
【3831】池神の力士舞かも白鷺の桙啄ひ持ちて飛び渡るらむ
【3832】からたちと茨刈り除け倉建てむ屎遠くまれ櫛造る刀自
【3833】虎に乗り古屋を越えて青淵に蛟龍捕り来む剣太刀もが
【3834】梨棗黍に粟つぎ延ふ葛の後も逢はむと葵花咲く
【3835】勝間田の池は我れ知る蓮なししか言ふ君が鬚なきごとし
【3836】奈良山の児手柏の両面にかにもかくにも侫人の伴
【3837】ひさかたの雨も降らぬか蓮葉に溜まれる水の玉に似たる見む
【3838】我妹子が額に生ふる双六のこと負の牛の鞍の上の瘡
【3839】我が背子が犢鼻にするつぶれ石の吉野の山に氷魚ぞ下がれる[懸有反云佐<我>礼流]
【3840】寺々の女餓鬼申さく大神の男餓鬼賜りてその子産まはむ
【3841】仏造るま朱足らずは水溜まる池田の朝臣が鼻の上を掘れ
【3842】童ども草はな刈りそ八穂蓼を穂積の朝臣が腋草を刈れ
【3843】いづくにぞま朱掘る岡薦畳平群の朝臣が鼻の上を掘れ
【3844】ぬばたまの斐太の大黒見るごとに巨勢の小黒し思ほゆるかも
【3845】駒造る土師の志婢麻呂白くあればうべ欲しからむその黒色を
【3846】法師らが鬚の剃り杭馬繋いたくな引きそ法師は泣かむ
【3847】壇越やしかもな言ひそ里長が課役徴らば汝も泣かむ
【3848】あらき田の鹿猪田の稲を倉に上げてあなひねひねし我が恋ふらくは
【3849】生き死にの二つの海を厭はしみ潮干の山を偲ひつるかも
【3850】世間の繁き仮廬に住み住みて至らむ国のたづき知らずも
【3851】心をし無何有の郷に置きてあらば藐孤射の山を見まく近けむ
【3852】鯨魚取り海や死にする山や死にする死ぬれこそ海は潮干て山は枯れすれ
【3853】石麻呂に我れ物申す夏痩せによしといふものぞ鰻捕り食せ[賣世反也]
【3854】痩す痩すも生けらばあらむをはたやはた鰻を捕ると川に流るな
【3855】さう莢に延ひおほとれる屎葛絶ゆることなく宮仕へせむ
【3856】波羅門の作れる小田を食む烏瞼腫れて幡桙に居り
【3857】飯食めどうまくもあらず行き行けど安くもあらずあかねさす君が心し忘れかねつも
【3858】このころの我が恋力記し集め功に申さば五位の冠
【3859】このころの我が恋力賜らずはみさとづかさに出でて訴へむ
【3860】大君の遣はさなくにさかしらに行きし荒雄ら沖に袖振る
【3861】荒雄らを来むか来じかと飯盛りて門に出で立ち待てど来まさず
【3862】志賀の山いたくな伐りそ荒雄らがよすかの山と見つつ偲はむ
【3863】荒雄らが行きにし日より志賀の海人の大浦田沼は寂しくもあるか
【3864】官こそさしても遣らめさかしらに行きし荒雄ら波に袖振る
【3865】荒雄らは妻子の業をば思はずろ年の八年を待てど来まさず
【3866】沖つ鳥鴨とふ船の帰り来ば也良の崎守早く告げこそ
【3867】沖つ鳥鴨とふ船は也良の崎廻みて漕ぎ来と聞こえ来ぬかも
【3868】沖行くや赤ら小舟につと遣らばけだし人見て開き見むかも
【3869】大船に小舟引き添へ潜くとも志賀の荒雄に潜き逢はめやも
【3870】紫の粉潟の海に潜く鳥玉潜き出ば我が玉にせむ
【3871】角島の瀬戸のわかめは人の共荒かりしかど我れとは和海藻
【3872】我が門の榎の実もり食む百千鳥千鳥は来れど君ぞ来まさぬ
【3873】我が門に千鳥しば鳴く起きよ起きよ我が一夜夫人に知らゆな
【3874】射ゆ鹿を認ぐ川辺のにこ草の身の若かへにさ寝し子らはも
【3875】琴酒を押垂小野ゆ出づる水ぬるくは出でず寒水の心もけやに思ほゆる音の少なき道に逢はぬかも少なきよ道に逢はさば色げせる菅笠小笠我がうなげる玉の七つ緒取り替へも申さむものを少なき道に逢はぬかも
【3876】豊国の企救の池なる菱の末を摘むとや妹がみ袖濡れけむ
【3877】紅に染めてし衣雨降りてにほひはすともうつろはめやも
【3878】はしたての熊来のやらに新羅斧落し入れわしかけてかけてな泣かしそね浮き出づるやと見むわし
【3879】はしたての熊来酒屋にまぬらる奴わしさすひ立て率て来なましをまぬらる奴わし
【3880】鹿島嶺の机の島のしただみをい拾ひ持ち来て石もちつつき破り早川に洗ひ濯ぎ辛塩にこごと揉み高坏に盛り机に立てて母にあへつや目豆児の刀自父にあへつや身女児の刀自
【3881】大野道は茂道茂路茂くとも君し通はば道は広けむ
【3882】渋谿の二上山に鷲ぞ子産むといふ翳にも君のみために鷲ぞ子産むといふ
【3883】弥彦おのれ神さび青雲のたなびく日すら小雨そほ降る[一云あなに神さび]
【3884】弥彦神の麓に今日らもか鹿の伏すらむ皮衣着て角つきながら
【3885】いとこ汝背の君居り居りて物にい行くとは韓国の虎といふ神を生け捕りに八つ捕り持ち来その皮を畳に刺し八重畳平群の山に四月と五月との間に薬猟仕ふる時にあしひきのこの片山に二つ立つ櫟が本に梓弓八つ手挟みひめ鏑八つ手挟み獣待つと我が居る時にさを鹿の来立ち嘆かくたちまちに我れは死ぬべし大君に我れは仕へむ我が角はみ笠のはやし我が耳はみ墨の坩我が目らはますみの鏡我が爪はみ弓の弓弭我が毛らはみ筆はやし我が皮はみ箱の皮に我が肉はみ膾はやし我が肝もみ膾はやし我がみげはみ塩のはやし老いたる奴我が身一つに七重花咲く八重花咲くと申しはやさね申しはやさね
【3886】おしてるや難波の小江に廬作り隠りて居る葦蟹を大君召すと何せむに我を召すらめや明けく我が知ることを歌人と我を召すらめや笛吹きと我を召すらめや琴弾きと我を召すらめやかもかくも命受けむと今日今日と飛鳥に至り置くとも置勿に至りつかねども都久野に至り東の中の御門ゆ参入り来て命受くれば馬にこそふもだしかくもの牛にこそ鼻縄はくれあしひきのこの片山のもむ楡を五百枝剥き垂り天照るや日の異に干しさひづるや韓臼に搗き庭に立つ手臼に搗きおしてるや難波の小江の初垂りをからく垂り来て陶人の作れる瓶を今日行きて明日取り持ち来我が目らに塩塗りたまひきたひはやすもきたひはやすも
【3887】天にあるやささらの小野に茅草刈り草刈りばかに鶉を立つも
【3888】沖つ国うしはく君の塗り屋形丹塗りの屋形神の門渡る
【3889】人魂のさ青なる君がただひとり逢へりし雨夜の葉非左し思ほゆ
第17巻
【3890】我が背子を安我松原よ見わたせば海人娘子ども玉藻刈る見ゆ
【3891】荒津の海潮干潮満ち時はあれどいづれの時か我が恋ひざらむ
【3892】礒ごとに海人の釣舟泊てにけり我が船泊てむ礒の知らなく
【3893】昨日こそ船出はせしか鯨魚取り比治奇の灘を今日見つるかも
【3894】淡路島門渡る船の楫間にも我れは忘れず家をしぞ思ふ
【3895】たまはやす武庫の渡りに天伝ふ日の暮れ行けば家をしぞ思ふ
【3896】家にてもたゆたふ命波の上に思ひし居れば奥か知らずも[一云浮きてし居れば]
【3897】大海の奥かも知らず行く我れをいつ来まさむと問ひし子らはも
【3898】大船の上にし居れば天雲のたどきも知らず歌ひこそ我が背
【3899】海人娘子漁り焚く火のおぼほしく角の松原思ほゆるかも
【3900】織女し舟乗りすらしまそ鏡清き月夜に雲立ちわたる
【3901】み冬継ぎ春は来たれど梅の花君にしあらねば招く人もなし
【3902】梅の花み山としみにありともやかくのみ君は見れど飽かにせむ
【3903】春雨に萌えし柳か梅の花ともに後れぬ常の物かも
【3904】梅の花いつは折らじといとはねど咲きの盛りは惜しきものなり
【3905】遊ぶ内の楽しき庭に梅柳折りかざしてば思ひなみかも
【3906】御園生の百木の梅の散る花し天に飛び上がり雪と降りけむ
【3907】山背の久迩の都は春されば花咲きををり秋されば黄葉にほひ帯ばせる泉の川の上つ瀬に打橋渡し淀瀬には浮橋渡しあり通ひ仕へまつらむ万代までに
【3908】たたなめて泉の川の水脈絶えず仕へまつらむ大宮ところ
【3909】橘は常花にもが霍公鳥住むと来鳴かば聞かぬ日なけむ
【3910】玉に貫く楝を家に植ゑたらば山霍公鳥離れず来むかも
【3911】あしひきの山辺に居れば霍公鳥木の間立ち潜き鳴かぬ日はなし
【3912】霍公鳥何の心ぞ橘の玉貫く月し来鳴き響むる
【3913】霍公鳥楝の枝に行きて居ば花は散らむな玉と見るまで
【3914】霍公鳥今し来鳴かば万代に語り継ぐべく思ほゆるかも
【3915】あしひきの山谷越えて野づかさに今は鳴くらむ鴬の声
【3916】橘のにほへる香かも霍公鳥鳴く夜の雨にうつろひぬらむ
【3917】霍公鳥夜声なつかし網ささば花は過ぐとも離れずか鳴かむ
【3918】橘のにほへる園に霍公鳥鳴くと人告ぐ網ささましを
【3919】あをによし奈良の都は古りぬれどもと霍公鳥鳴かずあらなくに
【3920】鶉鳴く古しと人は思へれど花橘のにほふこの宿
【3921】かきつばた衣に摺り付け大夫の着襲ひ猟する月は来にけり
【3922】降る雪の白髪までに大君に仕へまつれば貴くもあるか
【3923】天の下すでに覆ひて降る雪の光りを見れば貴くもあるか
【3924】山の狭そことも見えず一昨日も昨日も今日も雪の降れれば
【3925】新しき年の初めに豊の年しるすとならし雪の降れるは
【3926】大宮の内にも外にも光るまで降れる白雪見れど飽かぬかも
【3927】草枕旅行く君を幸くあれと斎瓮据ゑつ我が床の辺に
【3928】今のごと恋しく君が思ほえばいかにかもせむするすべのなさ
【3929】旅に去にし君しも継ぎて夢に見ゆ我が片恋の繁ければかも
【3930】道の中国つみ神は旅行きもし知らぬ君を恵みたまはな
【3931】君により我が名はすでに龍田山絶えたる恋の繁きころかも
【3932】須磨人の海辺常去らず焼く塩の辛き恋をも我れはするかも
【3933】ありさりて後も逢はむと思へこそ露の命も継ぎつつ渡れ
【3934】なかなかに死なば安けむ君が目を見ず久ならばすべなかるべし
【3935】隠り沼の下ゆ恋ひあまり白波のいちしろく出でぬ人の知るべく
【3936】草枕旅にしばしばかくのみや君を遣りつつ我が恋ひ居らむ
【3937】草枕旅去にし君が帰り来む月日を知らむすべの知らなく
【3938】かくのみや我が恋ひ居らむぬばたまの夜の紐だに解き放けずして
【3939】里近く君がなりなば恋ひめやともとな思ひし我れぞ悔しき
【3940】万代に心は解けて我が背子が捻みし手見つつ忍びかねつも
【3941】鴬の鳴くくら谷にうちはめて焼けは死ぬとも君をし待たむ
【3942】松の花花数にしも我が背子が思へらなくにもとな咲きつつ
【3943】秋の田の穂向き見がてり我が背子がふさ手折り来るをみなへしかも
【3944】をみなへし咲きたる野辺を行き廻り君を思ひ出た廻り来ぬ
【3945】秋の夜は暁寒し白栲の妹が衣手着むよしもがも
【3946】霍公鳥鳴きて過ぎにし岡びから秋風吹きぬよしもあらなくに
【3947】今朝の朝明秋風寒し遠つ人雁が来鳴かむ時近みかも
【3948】天離る鄙に月経ぬしかれども結ひてし紐を解きも開けなくに
【3949】天離る鄙にある我れをうたがたも紐解き放けて思ほすらめや
【3950】家にして結ひてし紐を解き放けず思ふ心を誰れか知らむも
【3951】ひぐらしの鳴きぬる時はをみなへし咲きたる野辺を行きつつ見べし
【3952】妹が家に伊久里の杜の藤の花今来む春も常かくし見む
【3953】雁がねは使ひに来むと騒くらむ秋風寒みその川の上に
【3954】馬並めていざ打ち行かな渋谿の清き礒廻に寄する波見に
【3955】ぬばたまの夜は更けぬらし玉櫛笥二上山に月かたぶきぬ
【3956】奈呉の海人の釣する舟は今こそば舟棚打ちてあへて漕ぎ出め
【3957】天離る鄙治めにと大君の任けのまにまに出でて来し我れを送るとあをによし奈良山過ぎて泉川清き河原に馬留め別れし時にま幸くて我れ帰り来む平らけく斎ひて待てと語らひて来し日の極み玉桙の道をた遠み山川の隔りてあれば恋しけく日長きものを見まく欲り思ふ間に玉梓の使の来れば嬉しみと我が待ち問ふにおよづれのたはこととかもはしきよし汝弟の命なにしかも時しはあらむをはだすすき穂に出づる秋の萩の花にほへる宿を[言斯人為性好愛花草花樹而多<植>於寝院之庭故謂之花薫庭也]朝庭に出で立ち平し夕庭に踏み平げず佐保の内の里を行き過ぎあしひきの山の木末に白雲に立ちたなびくと我れに告げつる[佐保山火葬故謂之佐保の内の里を行き過ぎ]
【3958】ま幸くと言ひてしものを白雲に立ちたなびくと聞けば悲しも
【3959】かからむとかねて知りせば越の海の荒礒の波も見せましものを
【3960】庭に降る雪は千重敷くしかのみに思ひて君を我が待たなくに
【3961】白波の寄する礒廻を漕ぐ舟の楫取る間なく思ほえし君
【3962】大君の任けのまにまに大夫の心振り起しあしひきの山坂越えて天離る鄙に下り来息だにもいまだ休めず年月もいくらもあらぬにうつせみの世の人なればうち靡き床に臥い伏し痛けくし日に異に増さるたらちねの母の命の大船のゆくらゆくらに下恋にいつかも来むと待たすらむ心寂しくはしきよし妻の命も明けくれば門に寄り立ち衣手を折り返しつつ夕されば床打ち払ひぬばたまの黒髪敷きていつしかと嘆かすらむぞ妹も兄も若き子どもはをちこちに騒き泣くらむ玉桙の道をた遠み間使も遺るよしもなし思ほしき言伝て遣らず恋ふるにし心は燃えぬたまきはる命惜しけど為むすべのたどきを知らにかくしてや荒し男すらに嘆き伏せらむ
【3963】世間は数なきものか春花の散りのまがひに死ぬべき思へば
【3964】山川のそきへを遠みはしきよし妹を相見ずかくや嘆かむ
【3965】春の花今は盛りににほふらむ折りてかざさむ手力もがも
【3966】鴬の鳴き散らすらむ春の花いつしか君と手折りかざさむ
【3967】山峽に咲ける桜をただ一目君に見せてば何をか思はむ
【3968】鴬の来鳴く山吹うたがたも君が手触れず花散らめやも
【3969】大君の任けのまにまにしなざかる越を治めに出でて来しますら我れすら世間の常しなければうち靡き床に臥い伏し痛けくの日に異に増せば悲しけくここに思ひ出いらなけくそこに思ひ出嘆くそら安けなくに思ふそら苦しきものをあしひきの山きへなりて玉桙の道の遠けば間使も遣るよしもなみ思ほしき言も通はずたまきはる命惜しけどせむすべのたどきを知らに隠り居て思ひ嘆かひ慰むる心はなしに春花の咲ける盛りに思ふどち手折りかざさず春の野の茂み飛び潜く鴬の声だに聞かず娘子らが春菜摘ますと紅の赤裳の裾の春雨ににほひひづちて通ふらむ時の盛りをいたづらに過ぐし遣りつれ偲はせる君が心をうるはしみこの夜すがらに寐も寝ずに今日もしめらに恋ひつつぞ居る
【3970】あしひきの山桜花一目だに君とし見てば我れ恋ひめやも
【3971】山吹の茂み飛び潜く鴬の声を聞くらむ君は羨しも
【3972】出で立たむ力をなみと隠り居て君に恋ふるに心どもなし
【3973】大君の命畏みあしひきの山野さはらず天離る鄙も治むる大夫やなにか物思ふあをによし奈良道来通ふ玉梓の使絶えめや隠り恋ひ息づきわたり下思に嘆かふ我が背いにしへゆ言ひ継ぎくらし世間は数なきものぞ慰むることもあらむと里人の我れに告ぐらく山びには桜花散り貌鳥の間なくしば鳴く春の野にすみれを摘むと白栲の袖折り返し紅の赤裳裾引き娘子らは思ひ乱れて君待つとうら恋すなり心ぐしいざ見に行かなことはたなゆひ
【3974】山吹は日に日に咲きぬうるはしと我が思ふ君はしくしく思ほゆ
【3975】我が背子に恋ひすべながり葦垣の外に嘆かふ我れし悲しも
【3976】咲けりとも知らずしあらば黙もあらむこの山吹を見せつつもとな
【3977】葦垣の外にも君が寄り立たし恋ひけれこそば夢に見えけれ
【3978】妹も我れも心は同じたぐへれどいやなつかしく相見れば常初花に心ぐしめぐしもなしにはしけやし我が奥妻大君の命畏みあしひきの山越え野行き天離る鄙治めにと別れ来しその日の極みあらたまの年行き返り春花のうつろふまでに相見ねばいたもすべなみ敷栲の袖返しつつ寝る夜おちず夢には見れどうつつにし直にあらねば恋しけく千重に積もりぬ近くあらば帰りにだにもうち行きて妹が手枕さし交へて寝ても来ましを玉桙の道はし遠く関さへにへなりてあれこそよしゑやしよしはあらむぞ霍公鳥来鳴かむ月にいつしかも早くなりなむ卯の花のにほへる山をよそのみも振り放け見つつ近江道にい行き乗り立ちあをによし奈良の我家にぬえ鳥のうら泣けしつつ下恋に思ひうらぶれ門に立ち夕占問ひつつ我を待つと寝すらむ妹を逢ひてはや見む
【3979】あらたまの年返るまで相見ねば心もしのに思ほゆるかも
【3980】ぬばたまの夢にはもとな相見れど直にあらねば恋ひやまずけり
【3981】あしひきの山きへなりて遠けども心し行けば夢に見えけり
【3982】春花のうつろふまでに相見ねば月日数みつつ妹待つらむぞ
【3983】あしひきの山も近きを霍公鳥月立つまでに何か来鳴かぬ
【3984】玉に貫く花橘をともしみしこの我が里に来鳴かずあるらし
【3985】射水川い行き廻れる玉櫛笥二上山は春花の咲ける盛りに秋の葉のにほへる時に出で立ちて振り放け見れば神からやそこば貴き山からや見が欲しからむ統め神の裾廻の山の渋谿の崎の荒礒に朝なぎに寄する白波夕なぎに満ち来る潮のいや増しに絶ゆることなくいにしへゆ今のをつつにかくしこそ見る人ごとに懸けて偲はめ
【3986】渋谿の崎の荒礒に寄する波いやしくしくにいにしへ思ほゆ
【3987】玉櫛笥二上山に鳴く鳥の声の恋しき時は来にけり
【3988】ぬばたまの月に向ひて霍公鳥鳴く音遥けし里遠みかも
【3989】奈呉の海の沖つ白波しくしくに思ほえむかも立ち別れなば
【3990】我が背子は玉にもがもな手に巻きて見つつ行かむを置きて行かば惜し
【3991】もののふの八十伴の男の思ふどち心遣らむと馬並めてうちくちぶりの白波の荒礒に寄する渋谿の崎た廻り松田江の長浜過ぎて宇奈比川清き瀬ごとに鵜川立ちか行きかく行き見つれどもそこも飽かにと布勢の海に舟浮け据ゑて沖辺漕ぎ辺に漕ぎ見れば渚にはあぢ群騒き島廻には木末花咲きここばくも見のさやけきか玉櫛笥二上山に延ふ蔦の行きは別れずあり通ひいや年のはに思ふどちかくし遊ばむ今も見るごと
【3992】布勢の海の沖つ白波あり通ひいや年のはに見つつ偲はむ
【3993】藤波は咲きて散りにき卯の花は今ぞ盛りとあしひきの山にも野にも霍公鳥鳴きし響めばうち靡く心もしのにそこをしもうら恋しみと思ふどち馬打ち群れて携はり出で立ち見れば射水川港の渚鳥朝なぎに潟にあさりし潮満てば夫呼び交す羨しきに見つつ過ぎ行き渋谿の荒礒の崎に沖つ波寄せ来る玉藻片縒りに蘰に作り妹がため手に巻き持ちてうらぐはし布勢の水海に海人船にま楫掻い貫き白栲の袖振り返しあどもひて我が漕ぎ行けば乎布の崎花散りまがひ渚には葦鴨騒きさざれ波立ちても居ても漕ぎ廻り見れども飽かず秋さらば黄葉の時に春さらば花の盛りにかもかくも君がまにまとかくしこそ見も明らめめ絶ゆる日あらめや
【3994】白波の寄せ来る玉藻世の間も継ぎて見に来む清き浜びを
【3995】玉桙の道に出で立ち別れなば見ぬ日さまねみ恋しけむかも[一云見ぬ日久しみ恋しけむかも]
【3996】我が背子が国へましなば霍公鳥鳴かむ五月は寂しけむかも
【3997】我れなしとなわび我が背子霍公鳥鳴かむ五月は玉を貫かさね
【3998】我が宿の花橘を花ごめに玉にぞ我が貫く待たば苦しみ
【3999】都辺に立つ日近づく飽くまでに相見て行かな恋ふる日多けむ
【4000】天離る鄙に名懸かす越の中国内ことごと山はしもしじにあれども川はしも多に行けども統め神の領きいます新川のその立山に常夏に雪降り敷きて帯ばせる片貝川の清き瀬に朝夕ごとに立つ霧の思ひ過ぎめやあり通ひいや年のはによそのみも振り放け見つつ万代の語らひぐさといまだ見ぬ人にも告げむ音のみも名のみも聞きて羨しぶるがね
【4001】立山に降り置ける雪を常夏に見れども飽かず神からならし
【4002】片貝の川の瀬清く行く水の絶ゆることなくあり通ひ見む
【4003】朝日さしそがひに見ゆる神ながら御名に帯ばせる白雲の千重を押し別け天そそり高き立山冬夏と別くこともなく白栲に雪は降り置きて古ゆあり来にければこごしかも岩の神さびたまきはる幾代経にけむ立ちて居て見れども異し峰高み谷を深みと落ちたぎつ清き河内に朝さらず霧立ちわたり夕されば雲居たなびき雲居なす心もしのに立つ霧の思ひ過ぐさず行く水の音もさやけく万代に言ひ継ぎゆかむ川し絶えずは
【4004】立山に降り置ける雪の常夏に消ずてわたるは神ながらとぞ
【4005】落ちたぎつ片貝川の絶えぬごと今見る人もやまず通はむ
【4006】かき数ふ二上山に神さびて立てる栂の木本も枝も同じときはにはしきよし我が背の君を朝去らず逢ひて言どひ夕されば手携はりて射水川清き河内に出で立ちて我が立ち見れば東風の風いたくし吹けば港には白波高み妻呼ぶと渚鳥は騒く葦刈ると海人の小舟は入江漕ぐ楫の音高しそこをしもあやに羨しみ偲ひつつ遊ぶ盛りを天皇の食す国なれば御言持ち立ち別れなば後れたる君はあれども玉桙の道行く我れは白雲のたなびく山を岩根踏み越えへなりなば恋しけく日の長けむぞそこ思へば心し痛し霍公鳥声にあへ貫く玉にもが手に巻き持ちて朝夕に見つつ行かむを置きて行かば惜し
【4007】我が背子は玉にもがもな霍公鳥声にあへ貫き手に巻きて行かむ
【4008】あをによし奈良を来離れ天離る鄙にはあれど我が背子を見つつし居れば思ひ遣ることもありしを大君の命畏み食す国の事取り持ちて若草の足結ひ手作り群鳥の朝立ち去なば後れたる我れや悲しき旅に行く君かも恋ひむ思ふそら安くあらねば嘆かくを留めもかねて見わたせば卯の花山の霍公鳥音のみし泣かゆ朝霧の乱るる心言に出でて言はばゆゆしみ砺波山手向けの神に幣奉り我が祈ひ祷まくはしけやし君が直香をま幸くもありた廻り月立たば時もかはさずなでしこが花の盛りに相見しめとぞ
【4009】玉桙の道の神たち賄はせむ我が思ふ君をなつかしみせよ
【4010】うら恋し我が背の君はなでしこが花にもがもな朝な朝な見む
【4011】大君の遠の朝廷ぞみ雪降る越と名に追へる天離る鄙にしあれば山高み川とほしろし野を広み草こそ茂き鮎走る夏の盛りと島つ鳥鵜養が伴は行く川の清き瀬ごとに篝さしなづさひ上る露霜の秋に至れば野も多に鳥すだけりと大夫の友誘ひて鷹はしもあまたあれども矢形尾の我が大黒に[大黒者蒼鷹之名也]白塗の鈴取り付けて朝猟に五百つ鳥立て夕猟に千鳥踏み立て追ふ毎に許すことなく手放れもをちもかやすきこれをおきてまたはありがたしさ慣らへる鷹はなけむと心には思ひほこりて笑まひつつ渡る間に狂れたる醜つ翁の言だにも我れには告げずとの曇り雨の降る日を鳥猟すと名のみを告りて三島野をそがひに見つつ二上の山飛び越えて雲隠り翔り去にきと帰り来てしはぶれ告ぐれ招くよしのそこになければ言ふすべのたどきを知らに心には火さへ燃えつつ思ひ恋ひ息づきあまりけだしくも逢ふことありやとあしひきのをてもこのもに鳥網張り守部を据ゑてちはやぶる神の社に照る鏡倭文に取り添へ祈ひ祷みて我が待つ時に娘子らが夢に告ぐらく汝が恋ふるその秀つ鷹は松田江の浜行き暮らしつなし捕る氷見の江過ぎて多古の島飛びた廻り葦鴨のすだく古江に一昨日も昨日もありつ近くあらばいま二日だみ遠くあらば七日のをちは過ぎめやも来なむ我が背子ねもころにな恋ひそよとぞいまに告げつる
【4012】矢形尾の鷹を手に据ゑ三島野に猟らぬ日まねく月ぞ経にける
【4013】二上のをてもこのもに網さして我が待つ鷹を夢に告げつも
【4014】松反りしひにてあれかもさ山田の翁がその日に求めあはずけむ
【4015】心には緩ふことなく須加の山すかなくのみや恋ひわたりなむ
【4016】婦負の野のすすき押しなべ降る雪に宿借る今日し悲しく思ほゆ
【4017】あゆの風[越俗語東風謂之あゆの風是也]いたく吹くらし奈呉の海人の釣する小船漕ぎ隠る見ゆ
【4018】港風寒く吹くらし奈呉の江に妻呼び交し鶴多に鳴く[一云鶴騒くなり]
【4019】天離る鄙ともしるくここだくも繁き恋かもなぐる日もなく
【4020】越の海の信濃[濱名也]の浜を行き暮らし長き春日も忘れて思へや
【4021】雄神川紅にほふ娘子らし葦付[水松之類]取ると瀬に立たすらし
【4022】鵜坂川渡る瀬多みこの我が馬の足掻きの水に衣濡れにけり
【4023】婦負川の早き瀬ごとに篝さし八十伴の男は鵜川立ちけり
【4024】立山の雪し消らしも延槻の川の渡り瀬鐙漬かすも
【4025】志雄路から直越え来れば羽咋の海朝なぎしたり船楫もがも
【4026】鳥総立て船木伐るといふ能登の島山今日見れば木立繁しも幾代神びぞ
【4027】香島より熊来をさして漕ぐ船の楫取る間なく都し思ほゆ
【4028】妹に逢はず久しくなりぬ饒石川清き瀬ごとに水占延へてな
【4029】珠洲の海に朝開きして漕ぎ来れば長浜の浦に月照りにけり
【4030】鴬は今は鳴かむと片待てば霞たなびき月は経につつ
【4031】中臣の太祝詞言言ひ祓へ贖ふ命も誰がために汝れ
第18巻
【4032】奈呉の海に舟しまし貸せ沖に出でて波立ち来やと見て帰り来む
【4033】波立てば奈呉の浦廻に寄る貝の間なき恋にぞ年は経にける
【4034】奈呉の海に潮の早干ばあさりしに出でむと鶴は今ぞ鳴くなる
【4035】霍公鳥いとふ時なしあやめぐさかづらにせむ日こゆ鳴き渡れ
【4036】いかにある布勢の浦ぞもここだくに君が見せむと我れを留むる
【4037】乎布の崎漕ぎた廻りひねもすに見とも飽くべき浦にあらなくに[一云君が問はすも]
【4038】玉櫛笥いつしか明けむ布勢の海の浦を行きつつ玉も拾はむ
【4039】音のみに聞きて目に見ぬ布勢の浦を見ずは上らじ年は経ぬとも
【4040】布勢の浦を行きてし見てばももしきの大宮人に語り継ぎてむ
【4041】梅の花咲き散る園に我れ行かむ君が使を片待ちがてら
【4042】藤波の咲き行く見れば霍公鳥鳴くべき時に近づきにけり
【4043】明日の日の布勢の浦廻の藤波にけだし来鳴かず散らしてむかも[一頭云霍公鳥]
【4044】浜辺より我が打ち行かば海辺より迎へも来ぬか海人の釣舟
【4045】沖辺より満ち来る潮のいや増しに我が思ふ君が御船かもかれ
【4046】神さぶる垂姫の崎漕ぎ廻り見れども飽かずいかに我れせむ
【4047】垂姫の浦を漕ぎつつ今日の日は楽しく遊べ言ひ継ぎにせむ
【4048】垂姫の浦を漕ぐ舟梶間にも奈良の我家を忘れて思へや
【4049】おろかにぞ我れは思ひし乎布の浦の荒礒の廻り見れど飽かずけり
【4050】めづらしき君が来まさば鳴けと言ひし山霍公鳥何か来鳴かぬ
【4051】多古の崎木の暗茂に霍公鳥来鳴き響めばはだ恋ひめやも
【4052】霍公鳥今鳴かずして明日越えむ山に鳴くとも験あらめやも
【4053】木の暗になりぬるものを霍公鳥何か来鳴かぬ君に逢へる時
【4054】霍公鳥こよ鳴き渡れ燈火を月夜になそへその影も見む
【4055】可敝流廻の道行かむ日は五幡の坂に袖振れ我れをし思はば
【4056】堀江には玉敷かましを大君を御船漕がむとかねて知りせば
【4057】玉敷かず君が悔いて言ふ堀江には玉敷き満てて継ぎて通はむ[或云玉扱き敷きて]
【4058】橘のとをの橘八つ代にも我れは忘れじこの橘を
【4059】橘の下照る庭に殿建てて酒みづきいます我が大君かも
【4060】月待ちて家には行かむ我が插せる赤ら橘影に見えつつ
【4061】堀江より水脈引きしつつ御船さすしづ男の伴は川の瀬申せ
【4062】夏の夜は道たづたづし船に乗り川の瀬ごとに棹さし上れ
【4063】常世物この橘のいや照りにわご大君は今も見るごと
【4064】大君は常磐にまさむ橘の殿の橘ひた照りにして
【4065】朝開き入江漕ぐなる楫の音のつばらつばらに我家し思ほゆ
【4066】卯の花の咲く月立ちぬ霍公鳥来鳴き響めよ含みたりとも
【4067】二上の山に隠れる霍公鳥今も鳴かぬか君に聞かせむ
【4068】居り明かしも今夜は飲まむ霍公鳥明けむ朝は鳴き渡らむぞ[二日應立夏節故謂之明旦将喧也]
【4069】明日よりは継ぎて聞こえむ霍公鳥一夜のからに恋ひわたるかも
【4070】一本のなでしこ植ゑしその心誰れに見せむと思ひ始めけむ
【4071】しなざかる越の君らとかくしこそ柳かづらき楽しく遊ばめ
【4072】ぬばたまの夜渡る月を幾夜経と数みつつ妹は我れ待つらむぞ
【4073】月見れば同じ国なり山こそば君があたりを隔てたりけれ
【4074】桜花今ぞ盛りと人は言へど我れは寂しも君としあらねば
【4075】相思はずあるらむ君をあやしくも嘆きわたるか人の問ふまで
【4076】あしひきの山はなくもが月見れば同じき里を心隔てつ
【4077】我が背子が古き垣内の桜花いまだ含めり一目見に来ね
【4078】恋ふといふはえも名付けたり言ふすべのたづきもなきは我が身なりけり
【4079】三島野に霞たなびきしかすがに昨日も今日も雪は降りつつ
【4080】常人の恋ふといふよりはあまりにて我れは死ぬべくなりにたらずや
【4081】片思ひを馬にふつまに負ほせ持て越辺に遣らば人かたはむかも
【4082】天離る鄙の奴に天人しかく恋すらば生ける験あり
【4083】常の恋いまだやまぬに都より馬に恋来ば担ひあへむかも
【4084】暁に名告り鳴くなる霍公鳥いやめづらしく思ほゆるかも
【4085】焼太刀を砺波の関に明日よりは守部遣り添へ君を留めむ
【4086】油火の光りに見ゆる吾がかづらさ百合の花の笑まはしきかも
【4087】灯火の光りに見ゆるさ百合花ゆりも逢はむと思ひそめてき
【4088】さ百合花ゆりも逢はむと思へこそ今のまさかもうるはしみすれ
【4089】高御座天の日継とすめろきの神の命の聞こしをす国のまほらに山をしもさはに多みと百鳥の来居て鳴く声春されば聞きのかなしもいづれをか別きて偲はむ卯の花の咲く月立てばめづらしく鳴く霍公鳥あやめぐさ玉貫くまでに昼暮らし夜わたし聞けど聞くごとに心つごきてうち嘆きあはれの鳥と言はぬ時なし
【4090】ゆくへなくありわたるとも霍公鳥鳴きし渡らばかくや偲はむ
【4091】卯の花のともにし鳴けば霍公鳥いやめづらしも名告り鳴くなへ
【4092】霍公鳥いとねたけくは橘の花散る時に来鳴き響むる
【4093】阿尾の浦に寄する白波いや増しに立ちしき寄せ来東風をいたみかも
【4094】葦原の瑞穂の国を天下り知らしめしけるすめろきの神の命の御代重ね天の日継と知らし来る君の御代御代敷きませる四方の国には山川を広み厚みと奉る御調宝は数へえず尽くしもかねつしかれども我が大君の諸人を誘ひたまひよきことを始めたまひて金かもたしけくあらむと思ほして下悩ますに鶏が鳴く東の国の陸奥の小田なる山に黄金ありと申したまへれ御心を明らめたまひ天地の神相うづなひすめろきの御霊助けて遠き代にかかりしことを我が御代に顕はしてあれば食す国は栄えむものと神ながら思ほしめしてもののふの八十伴の緒をまつろへの向けのまにまに老人も女童もしが願ふ心足らひに撫でたまひ治めたまへばここをしもあやに貴み嬉しけくいよよ思ひて大伴の遠つ神祖のその名をば大久米主と負ひ持ちて仕へし官海行かば水漬く屍山行かば草生す屍大君の辺にこそ死なめかへり見はせじと言立て大夫の清きその名をいにしへよ今のをつづに流さへる祖の子どもぞ大伴と佐伯の氏は人の祖の立つる言立て人の子は祖の名絶たず大君にまつろふものと言ひ継げる言の官ぞ梓弓手に取り持ちて剣大刀腰に取り佩き朝守り夕の守りに大君の御門の守り我れをおきて人はあらじといや立て思ひし増さる大君の御言のさきの[一云を]聞けば貴み[一云貴くしあれば]
【4095】大夫の心思ほゆ大君の御言の幸を[一云の]聞けば貴み[一云貴くしあれば]
【4096】大伴の遠つ神祖の奥城はしるく標立て人の知るべく
【4097】天皇の御代栄えむと東なる陸奥山に黄金花咲く
【4098】高御座天の日継と天の下知らしめしける天皇の神の命の畏くも始めたまひて貴くも定めたまへるみ吉野のこの大宮にあり通ひ見したまふらしもののふの八十伴の男もおのが負へるおのが名負ひて大君の任けのまにまにこの川の絶ゆることなくこの山のいや継ぎ継ぎにかくしこそ仕へまつらめいや遠長に
【4099】いにしへを思ほすらしも我ご大君吉野の宮をあり通ひ見す
【4100】もののふの八十氏人も吉野川絶ゆることなく仕へつつ見む
【4101】珠洲の海人の沖つ御神にい渡りて潜き取るといふ鰒玉五百箇もがもはしきよし妻の命の衣手の別れし時よぬばたまの夜床片さり朝寝髪掻きも梳らず出でて来し月日数みつつ嘆くらむ心なぐさに霍公鳥来鳴く五月のあやめぐさ花橘に貫き交へかづらにせよと包みて遣らむ
【4102】白玉を包みて遣らばあやめぐさ花橘にあへも貫くがね
【4103】沖つ島い行き渡りて潜くちふ鰒玉もが包みて遣らむ
【4104】我妹子が心なぐさに遣らむため沖つ島なる白玉もがも
【4105】白玉の五百つ集ひを手にむすびおこせむ海人はむがしくもあるか[一云我家牟伎波母]
【4106】大汝少彦名の神代より言ひ継ぎけらく父母を見れば貴く妻子見ればかなしくめぐしうつせみの世のことわりとかくさまに言ひけるものを世の人の立つる言立てちさの花咲ける盛りにはしきよしその妻の子と朝夕に笑みみ笑まずもうち嘆き語りけまくはとこしへにかくしもあらめや天地の神言寄せて春花の盛りもあらむと待たしけむ時の盛りぞ離れ居て嘆かす妹がいつしかも使の来むと待たすらむ心寂しく南風吹き雪消溢りて射水川流る水沫の寄る辺なみ左夫流その子に紐の緒のいつがり合ひてにほ鳥のふたり並び居奈呉の海の奥を深めてさどはせる君が心のすべもすべなさ[言佐夫流者遊行女婦之字也]
【4107】あをによし奈良にある妹が高々に待つらむ心しかにはあらじか
【4108】里人の見る目恥づかし左夫流子にさどはす君が宮出後姿
【4109】紅はうつろふものぞ橡のなれにし衣になほしかめやも
【4110】左夫流子が斎きし殿に鈴懸けぬ駅馬下れり里もとどろに
【4111】かけまくもあやに畏し天皇の神の大御代に田道間守常世に渡り八桙持ち参ゐ出来し時時じくのかくの木の実を畏くも残したまへれ国も狭に生ひ立ち栄え春されば孫枝萌いつつ霍公鳥鳴く五月には初花を枝に手折りて娘子らにつとにも遣りみ白栲の袖にも扱入れかぐはしみ置きて枯らしみあゆる実は玉に貫きつつ手に巻きて見れども飽かず秋づけばしぐれの雨降りあしひきの山の木末は紅ににほひ散れども橘のなれるその実はひた照りにいや見が欲しくみ雪降る冬に至れば霜置けどもその葉も枯れず常磐なすいやさかはえにしかれこそ神の御代よりよろしなへこの橘を時じくのかくの木の実と名付けけらしも
【4112】橘は花にも実にも見つれどもいや時じくになほし見が欲し
【4113】大君の遠の朝廷と任きたまふ官のまにまみ雪降る越に下り来あらたまの年の五年敷栲の手枕まかず紐解かず丸寝をすればいぶせみと心なぐさになでしこを宿に蒔き生ほし夏の野のさ百合引き植ゑて咲く花を出で見るごとになでしこがその花妻にさ百合花ゆりも逢はむと慰むる心しなくは天離る鄙に一日もあるべくもあれや
【4114】なでしこが花見るごとに娘子らが笑まひのにほひ思ほゆるかも
【4115】さ百合花ゆりも逢はむと下延ふる心しなくは今日も経めやも
【4116】大君の任きのまにまに取り持ちて仕ふる国の年の内の事かたね持ち玉桙の道に出で立ち岩根踏み山越え野行き都辺に参ゐし我が背をあらたまの年行き返り月重ね見ぬ日さまねみ恋ふるそら安くしあらねば霍公鳥来鳴く五月のあやめぐさ蓬かづらき酒みづき遊びなぐれど射水川雪消溢りて行く水のいや増しにのみ鶴が鳴く奈呉江の菅のねもころに思ひ結ぼれ嘆きつつ我が待つ君が事終り帰り罷りて夏の野のさ百合の花の花笑みににふぶに笑みて逢はしたる今日を始めて鏡なすかくし常見む面変りせず
【4117】去年の秋相見しまにま今日見れば面やめづらし都方人
【4118】かくしても相見るものを少なくも年月経れば恋ひしけれやも
【4119】いにしへよ偲ひにければ霍公鳥鳴く声聞きて恋しきものを
【4120】見まく欲り思ひしなへにかづらかけかぐはし君を相見つるかも
【4121】朝参の君が姿を見ず久に鄙にし住めば我れ恋ひにけり[一云はしきよし妹が姿を]
【4122】天皇の敷きます国の天の下四方の道には馬の爪い尽くす極み舟舳のい果つるまでにいにしへよ今のをつづに万調奉るつかさと作りたるその生業を雨降らず日の重なれば植ゑし田も蒔きし畑も朝ごとにしぼみ枯れゆくそを見れば心を痛みみどり子の乳乞ふがごとく天つ水仰ぎてぞ待つあしひきの山のたをりにこの見ゆる天の白雲海神の沖つ宮辺に立ちわたりとの曇りあひて雨も賜はね
【4123】この見ゆる雲ほびこりてとの曇り雨も降らぬか心足らひに
【4124】我が欲りし雨は降り来ぬかくしあらば言挙げせずとも年は栄えむ
【4125】天照らす神の御代より安の川中に隔てて向ひ立ち袖振り交し息の緒に嘆かす子ら渡り守舟も設けず橋だにも渡してあらばその上ゆもい行き渡らし携はりうながけり居て思ほしき言も語らひ慰むる心はあらむを何しかも秋にしあらねば言どひの乏しき子らうつせみの世の人我れもここをしもあやにくすしみ行きかはる年のはごとに天の原振り放け見つつ言ひ継ぎにすれ
【4126】天の川橋渡せらばその上ゆもい渡らさむを秋にあらずとも
【4127】安の川こ向ひ立ちて年の恋日長き子らが妻どひの夜ぞ
【4128】草枕旅の翁と思ほして針ぞ賜へる縫はむ物もが
【4129】針袋取り上げ前に置き返さへばおのともおのや裏も継ぎたり
【4130】針袋帯び続けながら里ごとに照らさひ歩けど人もとがめず
【4131】鶏が鳴く東をさしてふさへしに行かむと思へどよしもさねなし
【4132】縦さにもかにも横さも奴とぞ我れはありける主の殿戸に
【4133】針袋これは賜りぬすり袋今は得てしか翁さびせむ
【4134】雪の上に照れる月夜に梅の花折りて送らむはしき子もがも
【4135】我が背子が琴取るなへに常人の言ふ嘆きしもいやしき増すも
【4136】あしひきの山の木末のほよ取りてかざしつらくは千年寿くとぞ
【4137】正月立つ春の初めにかくしつつ相し笑みてば時じけめやも
【4138】薮波の里に宿借り春雨に隠りつつむと妹に告げつや
第19巻
【4139】春の園紅にほふ桃の花下照る道に出で立つ娘子
【4140】吾が園の李の花か庭に散るはだれのいまだ残りたるかも
【4141】春まけてもの悲しきにさ夜更けて羽振き鳴く鴫誰が田にか住む
【4142】春の日に張れる柳を取り持ちて見れば都の大道し思ほゆ
【4143】もののふの八十娘子らが汲み乱ふ寺井の上の堅香子の花
【4144】燕来る時になりぬと雁がねは国偲ひつつ雲隠り鳴く
【4145】春まけてかく帰るとも秋風にもみたむ山を越え来ざらめや[一云春されば帰るこの雁]
【4146】夜ぐたちに寝覚めて居れば川瀬尋め心もしのに鳴く千鳥かも
【4147】夜くたちて鳴く川千鳥うべしこそ昔の人も偲ひ来にけれ
【4148】杉の野にさ躍る雉いちしろく音にしも泣かむ隠り妻かも
【4149】あしひきの八つ峰の雉鳴き響む朝明の霞見れば悲しも
【4150】朝床に聞けば遥けし射水川朝漕ぎしつつ唄ふ舟人
【4151】今日のためと思ひて標しあしひきの峰の上の桜かく咲きにけり
【4152】奥山の八つ峰の椿つばらかに今日は暮らさね大夫の伴
【4153】漢人も筏浮かべて遊ぶといふ今日ぞ我が背子花かづらせな
【4154】あしひきの山坂越えて行きかはる年の緒長くしなざかる越にし住めば大君の敷きます国は都をもここも同じと心には思ふものから語り放け見放くる人目乏しみと思ひし繁しそこゆゑに心なぐやと秋づけば萩咲きにほふ石瀬野に馬だき行きてをちこちに鳥踏み立て白塗りの小鈴もゆらにあはせ遣り振り放け見つついきどほる心のうちを思ひ延べ嬉しびながら枕付く妻屋のうちに鳥座結ひ据えてぞ我が飼ふ真白斑の鷹
【4155】矢形尾の真白の鷹を宿に据ゑ掻き撫で見つつ飼はくしよしも
【4156】あらたまの年行きかはり春されば花のみにほふあしひきの山下響み落ち激ち流る辟田の川の瀬に鮎子さ走る島つ鳥鵜養伴なへ篝さしなづさひ行けば我妹子が形見がてらと紅の八しほに染めておこせたる衣の裾も通りて濡れぬ
【4157】紅の衣にほはし辟田川絶ゆることなく我れかへり見む
【4158】年のはに鮎し走らば辟田川鵜八つ潜けて川瀬尋ねむ
【4159】礒の上のつままを見れば根を延へて年深からし神さびにけり
【4160】天地の遠き初めよ世間は常なきものと語り継ぎ流らへ来たれ天の原振り放け見れば照る月も満ち欠けしけりあしひきの山の木末も春されば花咲きにほひ秋づけば露霜負ひて風交りもみち散りけりうつせみもかくのみならし紅の色もうつろひぬばたまの黒髪変り朝の笑み夕変らひ吹く風の見えぬがごとく行く水の止まらぬごとく常もなくうつろふ見ればにはたづみ流るる涙留めかねつも
【4161】言とはぬ木すら春咲き秋づけばもみち散らくは常をなみこそ[一云常なけむとぞ]
【4162】うつせみの常なき見れば世の中に心つけずて思ふ日ぞ多き[一云嘆く日ぞ多き]
【4163】妹が袖我れ枕かむ川の瀬に霧立ちわたれさ夜更けぬとに
【4164】ちちの実の父の命ははそ葉の母の命おほろかに心尽して思ふらむその子なれやも大夫や空しくあるべき梓弓末振り起し投矢持ち千尋射わたし剣大刀腰に取り佩きあしひきの八つ峰踏み越えさしまくる心障らず後の世の語り継ぐべく名を立つべしも
【4165】大夫は名をし立つべし後の世に聞き継ぐ人も語り継ぐがね
【4166】時ごとにいやめづらしく八千種に草木花咲き鳴く鳥の声も変らふ耳に聞き目に見るごとにうち嘆き萎えうらぶれ偲ひつつ争ふはしに木の暗の四月し立てば夜隠りに鳴く霍公鳥いにしへゆ語り継ぎつる鴬の現し真子かもあやめぐさ花橘を娘子らが玉貫くまでにあかねさす昼はしめらにあしひきの八つ峰飛び越えぬばたまの夜はすがらに暁の月に向ひて行き帰り鳴き響むれどなにか飽き足らむ
【4167】時ごとにいやめづらしく咲く花を折りも折らずも見らくしよしも
【4168】毎年に来鳴くものゆゑ霍公鳥聞けば偲はく逢はぬ日を多み[毎年謂之等之乃波]
【4169】霍公鳥来鳴く五月に咲きにほふ花橘のかぐはしき親の御言朝夕に聞かぬ日まねく天離る鄙にし居ればあしひきの山のたをりに立つ雲をよそのみ見つつ嘆くそら安けなくに思ふそら苦しきものを奈呉の海人の潜き取るといふ白玉の見が欲し御面直向ひ見む時までは松柏の栄えいまさね貴き我が君[御面謂之美於毛和]
【4170】白玉の見が欲し君を見ず久に鄙にし居れば生けるともなし
【4171】常人も起きつつ聞くぞ霍公鳥この暁に来鳴く初声
【4172】霍公鳥来鳴き響めば草取らむ花橘を宿には植ゑずて
【4173】妹を見ず越の国辺に年経れば我が心どのなぐる日もなし
【4174】春のうちの楽しき終は梅の花手折り招きつつ遊ぶにあるべし
【4175】霍公鳥今来鳴きそむあやめぐさかづらくまでに離るる日あらめや[毛能波三箇辞闕之]
【4176】我が門ゆ鳴き過ぎ渡る霍公鳥いやなつかしく聞けど飽き足らず[毛能波C尓乎六箇辞闕之]
【4177】我が背子と手携はりて明けくれば出で立ち向ひ夕されば振り放け見つつ思ひ延べ見なぎし山に八つ峰には霞たなびき谷辺には椿花咲きうら悲し春し過ぐれば霍公鳥いやしき鳴きぬ独りのみ聞けば寂しも君と我れと隔てて恋ふる砺波山飛び越え行きて明け立たば松のさ枝に夕さらば月に向ひてあやめぐさ玉貫くまでに鳴き響め安寐寝しめず君を悩ませ
【4178】我れのみし聞けば寂しも霍公鳥丹生の山辺にい行き鳴かにも
【4179】霍公鳥夜鳴きをしつつ我が背子を安寐な寝しめゆめ心あれ
【4180】春過ぎて夏来向へばあしひきの山呼び響めさ夜中に鳴く霍公鳥初声を聞けばなつかしあやめぐさ花橘を貫き交へかづらくまでに里響め鳴き渡れどもなほし偲はゆ
【4181】さ夜更けて暁月に影見えて鳴く霍公鳥聞けばなつかし
【4182】霍公鳥聞けども飽かず網捕りに捕りてなつけな離れず鳴くがね
【4183】霍公鳥飼ひ通せらば今年経て来向ふ夏はまづ鳴きなむを
【4184】山吹の花取り持ちてつれもなく離れにし妹を偲ひつるかも
【4185】うつせみは恋を繁みと春まけて思ひ繁けば引き攀ぢて折りも折らずも見るごとに心なぎむと茂山の谷辺に生ふる山吹を宿に引き植ゑて朝露ににほへる花を見るごとに思ひはやまず恋し繁しも
【4186】山吹を宿に植ゑては見るごとに思ひはやまず恋こそまされ
【4187】思ふどちますらをのこの木の暗の繁き思ひを見明らめ心遣らむと布勢の海に小舟つら並めま櫂掛けい漕ぎ廻れば乎布の浦に霞たなびき垂姫に藤波咲て浜清く白波騒きしくしくに恋はまされど今日のみに飽き足らめやもかくしこそいや年のはに春花の茂き盛りに秋の葉のもみたむ時にあり通ひ見つつ偲はめこの布勢の海を
【4188】藤波の花の盛りにかくしこそ浦漕ぎ廻つつ年に偲はめ
【4189】天離る鄙としあればそこここも同じ心ぞ家離り年の経ゆけばうつせみは物思ひ繁しそこゆゑに心なぐさに霍公鳥鳴く初声を橘の玉にあへ貫きかづらきて遊ばむはしも大夫を伴なへ立てて叔羅川なづさひ上り平瀬には小網さし渡し早き瀬に鵜を潜けつつ月に日にしかし遊ばね愛しき我が背子
【4190】叔羅川瀬を尋ねつつ我が背子は鵜川立たさね心なぐさに
【4191】鵜川立ち取らさむ鮎のしがはたは我れにかき向け思ひし思はば
【4192】桃の花紅色ににほひたる面輪のうちに青柳の細き眉根を笑み曲がり朝影見つつ娘子らが手に取り持てるまそ鏡二上山に木の暗の茂き谷辺を呼び響め朝飛び渡り夕月夜かそけき野辺にはろはろに鳴く霍公鳥立ち潜くと羽触れに散らす藤波の花なつかしみ引き攀ぢて袖に扱入れつ染まば染むとも
【4193】霍公鳥鳴く羽触れにも散りにけり盛り過ぐらし藤波の花[一云散りぬべみ袖に扱入れつ藤波の花]
【4194】霍公鳥鳴き渡りぬと告ぐれども我れ聞き継がず花は過ぎつつ
【4195】我がここだ偲はく知らに霍公鳥いづへの山を鳴きか越ゆらむ
【4196】月立ちし日より招きつつうち偲ひ待てど来鳴かぬ霍公鳥かも
【4197】妹に似る草と見しより我が標し野辺の山吹誰れか手折りし
【4198】つれもなく離れにしものと人は言へど逢はぬ日まねみ思ひぞ我がする
【4199】藤波の影なす海の底清み沈く石をも玉とぞ我が見る
【4200】多胡の浦の底さへにほふ藤波をかざして行かむ見ぬ人のため
【4201】いささかに思ひて来しを多胡の浦に咲ける藤見て一夜経ぬべし
【4202】藤波を仮廬に作り浦廻する人とは知らに海人とか見らむ
【4203】家に行きて何を語らむあしひきの山霍公鳥一声も鳴け
【4204】我が背子が捧げて持てるほほがしはあたかも似るか青き蓋
【4205】皇祖の遠御代御代はい重き折り酒飲みきといふぞこのほほがしは
【4206】渋谿をさして我が行くこの浜に月夜飽きてむ馬しまし止め
【4207】ここにしてそがひに見ゆる我が背子が垣内の谷に明けされば榛のさ枝に夕されば藤の繁みにはろはろに鳴く霍公鳥我が宿の植木橘花に散る時をまだしみ来鳴かなくそこは恨みずしかれども谷片付きて家居れる君が聞きつつ告げなくも憂し
【4208】我がここだ待てど来鳴かぬ霍公鳥ひとり聞きつつ告げぬ君かも
【4209】谷近く家は居れども木高くて里はあれども霍公鳥いまだ来鳴かず鳴く声を聞かまく欲りと朝には門に出で立ち夕には谷を見渡し恋ふれども一声だにもいまだ聞こえず
【4210】藤波の茂りは過ぎぬあしひきの山霍公鳥などか来鳴かぬ
【4211】古にありけるわざのくすばしき事と言ひ継ぐ智渟壮士菟原壮士のうつせみの名を争ふとたまきはる命も捨てて争ひに妻問ひしける処女らが聞けば悲しさ春花のにほえ栄えて秋の葉のにほひに照れる惜しき身の盛りすら大夫の言いたはしみ父母に申し別れて家離り海辺に出で立ち朝夕に満ち来る潮の八重波に靡く玉藻の節の間も惜しき命を露霜の過ぎましにけれ奥城をここと定めて後の世の聞き継ぐ人もいや遠に偲ひにせよと黄楊小櫛しか刺しけらし生ひて靡けり
【4212】娘子らが後の標と黄楊小櫛生ひ変り生ひて靡きけらしも
【4213】東風をいたみ奈呉の浦廻に寄する波いや千重しきに恋ひわたるかも
【4214】天地の初めの時ゆうつそみの八十伴の男は大君にまつろふものと定まれる官にしあれば大君の命畏み鄙離る国を治むとあしひきの山川へだて風雲に言は通へど直に逢はず日の重なれば思ひ恋ひ息づき居るに玉桙の道来る人の伝て言に我れに語らくはしきよし君はこのころうらさびて嘆かひいます世間の憂けく辛けく咲く花も時にうつろふうつせみも常なくありけりたらちねの御母の命何しかも時しはあらむをまそ鏡見れども飽かず玉の緒の惜しき盛りに立つ霧の失せぬるごとく置く露の消ぬるがごとく玉藻なす靡き臥い伏し行く水の留めかねつとたはことか人の言ひつるおよづれか人の告げつる梓弓爪引く夜音の遠音にも聞けば悲しみにはたづみ流るる涙留めかねつも
【4215】遠音にも君が嘆くと聞きつれば哭のみし泣かゆ相思ふ我れは
【4216】世間の常なきことは知るらむを心尽くすな大夫にして
【4217】卯の花を腐す長雨の始水に寄る木屑なす寄らむ子もがも
【4218】鮪突くと海人の灯せる漁り火の秀にか出ださむ我が下思ひを
【4219】我が宿の萩咲きにけり秋風の吹かむを待たばいと遠みかも
【4220】海神の神の命のみ櫛笥に貯ひ置きて斎くとふ玉にまさりて思へりし我が子にはあれどうつせみの世の理と大夫の引きのまにまにしなざかる越道をさして延ふ蔦の別れにしより沖つ波とをむ眉引き大船のゆくらゆくらに面影にもとな見えつつかく恋ひば老いづく我が身けだし堪へむかも
【4221】かくばかり恋しくしあらばまそ鏡見ぬ日時なくあらましものを
【4222】このしぐれいたくな降りそ我妹子に見せむがために黄葉取りてむ
【4223】あをによし奈良人見むと我が背子が標けむ黄葉地に落ちめやも
【4224】朝霧のたなびく田居に鳴く雁を留め得むかも我が宿の萩
【4225】あしひきの山の黄葉にしづくあひて散らむ山道を君が越えまく
【4226】この雪の消残る時にいざ行かな山橘の実の照るも見む
【4227】大殿のこの廻りの雪な踏みそねしばしばも降らぬ雪ぞ山のみに降りし雪ぞゆめ寄るな人やな踏みそね雪は
【4228】ありつつも見したまはむぞ大殿のこの廻りの雪な踏みそね
【4229】新しき年の初めはいや年に雪踏み平し常かくにもが
【4230】降る雪を腰になづみて参ゐて来し験もあるか年の初めに
【4231】なでしこは秋咲くものを君が家の雪の巌に咲けりけるかも
【4232】雪の嶋巌に植ゑたるなでしこは千代に咲かぬか君がかざしに
【4233】うち羽振き鶏は鳴くともかくばかり降り敷く雪に君いまさめやも
【4234】鳴く鶏はいやしき鳴けど降る雪の千重に積めこそ我が立ちかてね
【4235】天雲をほろに踏みあだし鳴る神も今日にまさりて畏けめやも
【4236】天地の神はなかれや愛しき我が妻離る光る神鳴りはた娘子携はりともにあらむと思ひしに心違ひぬ言はむすべ為むすべ知らに木綿たすき肩に取り懸け倭文幣を手に取り持ちてな放けそと我れは祈れど枕きて寝し妹が手本は雲にたなびく
【4237】うつつにと思ひてしかも夢のみに手本巻き寝と見ればすべなし
【4238】君が行きもし久にあらば梅柳誰れとともにか我がかづらかむ
【4239】二上の峰の上の茂に隠りにしその霍公鳥待てど来鳴かず
【4240】大船に真楫しじ貫きこの我子を唐国へ遣る斎へ神たち
【4241】春日野に斎く三諸の梅の花栄えてあり待て帰りくるまで
【4242】天雲の行き帰りなむものゆゑに思ひぞ我がする別れ悲しみ
【4243】住吉に斎く祝が神言と行くとも来とも船は早けむ
【4244】あらたまの年の緒長く我が思へる子らに恋ふべき月近づきぬ
【4245】そらみつ大和の国あをによし奈良の都ゆおしてる難波に下り住吉の御津に船乗り直渡り日の入る国に任けらゆる我が背の君をかけまくのゆゆし畏き住吉の我が大御神船の舳に領きいまし船艫にみ立たしましてさし寄らむ礒の崎々漕ぎ泊てむ泊り泊りに荒き風波にあはせず平けく率て帰りませもとの朝廷に
【4246】沖つ波辺波な越しそ君が船漕ぎ帰り来て津に泊つるまで
【4247】天雲のそきへの極み我が思へる君に別れむ日近くなりぬ
【4248】あらたまの年の緒長く相見てしその心引き忘らえめやも
【4249】石瀬野に秋萩しのぎ馬並めて初鷹猟だにせずや別れむ
【4250】しなざかる越に五年住み住みて立ち別れまく惜しき宵かも
【4251】玉桙の道に出で立ち行く我れは君が事跡を負ひてし行かむ
【4252】君が家に植ゑたる萩の初花を折りてかざさな旅別るどち
【4253】立ちて居て待てど待ちかね出でて来し君にここに逢ひかざしつる萩
【4254】蜻蛉島大和の国を天雲に磐舟浮べ艫に舳に真櫂しじ貫きい漕ぎつつ国見しせして天降りまし払ひ平げ千代重ねいや継ぎ継ぎに知らし来る天の日継と神ながら我が大君の天の下治めたまへばもののふの八十伴の男を撫でたまひ整へたまひ食す国も四方の人をもあぶさはず恵みたまへばいにしへゆなかりし瑞度まねく申したまひぬ手抱きて事なき御代と天地日月とともに万代に記し継がむぞやすみしし我が大君秋の花しが色々に見したまひ明らめたまひ酒みづき栄ゆる今日のあやに貴さ
【4255】秋の花種にあれど色ごとに見し明らむる今日の貴さ
【4256】いにしへに君が三代経て仕へけり我が大主は七代申さね
【4257】手束弓手に取り持ちて朝狩りに君は立たしぬ棚倉の野に
【4258】明日香川川門を清み後れ居て恋ふれば都いや遠そきぬ
【4259】十月時雨の常か我が背子が宿の黄葉散りぬべく見ゆ
【4260】大君は神にしませば赤駒の腹這ふ田居を都と成しつ
【4261】大君は神にしませば水鳥のすだく水沼を都と成しつ[作者<未>詳]
【4262】唐国に行き足らはして帰り来むますら健男に御酒奉る
【4263】櫛も見じ屋内も掃かじ草枕旅行く君を斎ふと思ひて
【4264】そらみつ大和の国は水の上は地行くごとく船の上は床に居るごと大神の斎へる国ぞ四つの船船の舳並べ平けく早渡り来て返り言奏さむ日に相飲まむ酒ぞこの豊御酒は
【4265】四つの船早帰り来としらか付け我が裳の裾に斎ひて待たむ
【4266】あしひきの八つ峰の上の栂の木のいや継ぎ継ぎに松が根の絶ゆることなくあをによし奈良の都に万代に国知らさむとやすみしし我が大君の神ながら思ほしめして豊の宴見す今日の日はもののふの八十伴の男の島山に赤る橘うずに刺し紐解き放けて千年寿き寿き響もしゑらゑらに仕へまつるを見るが貴さ
【4267】天皇の御代万代にかくしこそ見し明きらめめ立つ年の端に
【4268】この里は継ぎて霜や置く夏の野に我が見し草はもみちたりけり
【4269】よそのみに見ればありしを今日見ては年に忘れず思ほえむかも
【4270】葎延ふ賎しき宿も大君の座さむと知らば玉敷かましを
【4271】松蔭の清き浜辺に玉敷かば君来まさむか清き浜辺に
【4272】天地に足らはし照りて我が大君敷きませばかも楽しき小里
【4273】天地と相栄えむと大宮を仕へまつれば貴く嬉しき
【4274】天にはも五百つ綱延ふ万代に国知らさむと五百つ綱延ふ[似古歌而未詳]
【4275】天地と久しきまでに万代に仕へまつらむ黒酒白酒を
【4276】島山に照れる橘うずに刺し仕へまつるは卿大夫たち
【4277】袖垂れていざ我が園に鴬の木伝ひ散らす梅の花見に
【4278】あしひきの山下ひかげかづらける上にやさらに梅をしのはむ
【4279】能登川の後には逢はむしましくも別るといへば悲しくもあるか
【4280】立ち別れ君がいまさば磯城島の人は我れじく斎ひて待たむ
【4281】白雪の降り敷く山を越え行かむ君をぞもとな息の緒に思ふ,息の緒にする
【4282】言繁み相問はなくに梅の花雪にしをれてうつろはむかも
【4283】梅の花咲けるが中にふふめるは恋か隠れる雪を待つとか
【4284】新しき年の初めに思ふどちい群れて居れば嬉しくもあるか
【4285】大宮の内にも外にもめづらしく降れる大雪な踏みそね惜し
【4286】御園生の竹の林に鴬はしば鳴きにしを雪は降りつつ
【4287】鴬の鳴きし垣内ににほへりし梅この雪にうつろふらむか
【4288】川洲にも雪は降れれし宮の内に千鳥鳴くらし居む所なみ
【4289】青柳の上枝攀ぢ取りかづらくは君が宿にし千年寿くとぞ
【4290】春の野に霞たなびきうら悲しこの夕影に鴬鳴くも
【4291】我が宿のい笹群竹吹く風の音のかそけきこの夕かも
【4292】うらうらに照れる春日にひばり上がり心悲しも独し思へば
第20巻
【4293】あしひきの山行きしかば山人の我れに得しめし山づとぞこれ
【4294】あしひきの山に行きけむ山人の心も知らず山人や誰れ
【4295】高円の尾花吹き越す秋風に紐解き開けな直ならずとも
【4296】天雲に雁ぞ鳴くなる高円の萩の下葉はもみちあへむかも
【4297】をみなへし秋萩しのぎさを鹿の露別け鳴かむ高圓の野ぞ
【4298】霜の上に霰た走りいやましに我れは参ゐ来む年の緒長く[古今未詳]
【4299】年月は新た新たに相見れど我が思ふ君は飽き足らぬかも[古今未詳]
【4300】霞立つ春の初めを今日のごと見むと思へば楽しとぞ思ふ
【4301】印南野の赤ら柏は時はあれど君を我が思ふ時はさねなし
【4302】山吹は撫でつつ生ほさむありつつも君来ましつつかざしたりけり
【4303】我が背子が宿の山吹咲きてあらばやまず通はむいや年の端に
【4304】山吹の花の盛りにかくのごと君を見まくは千年にもがも
【4305】木の暗の茂き峰の上を霍公鳥鳴きて越ゆなり今し来らしも
【4306】初秋風涼しき夕解かむとぞ紐は結びし妹に逢はむため
【4307】秋と言へば心ぞ痛きうたて異に花になそへて見まく欲りかも
【4308】初尾花花に見むとし天の川へなりにけらし年の緒長く
【4309】秋風に靡く川辺のにこ草のにこよかにしも思ほゆるかも
【4310】秋されば霧立ちわたる天の川石並置かば継ぎて見むかも
【4311】秋風に今か今かと紐解きてうら待ち居るに月かたぶきぬ
【4312】秋草に置く白露の飽かずのみ相見るものを月をし待たむ
【4313】青波に袖さへ濡れて漕ぐ舟のかし振るほとにさ夜更けなむか
【4314】八千種に草木を植ゑて時ごとに咲かむ花をし見つつ偲はな
【4315】宮人の袖付け衣秋萩ににほひよろしき高圓の宮
【4316】高圓の宮の裾廻の野づかさに今咲けるらむをみなへしはも
【4317】秋野には今こそ行かめもののふの男女の花にほひ見に
【4318】秋の野に露負へる萩を手折らずてあたら盛りを過ぐしてむとか
【4319】高圓の秋野の上の朝霧に妻呼ぶ壮鹿出で立つらむか
【4320】大夫の呼び立てしかばさを鹿の胸別け行かむ秋野萩原
【4321】畏きや命被り明日ゆりや草がむた寝む妹なしにして
【4322】我が妻はいたく恋ひらし飲む水に影さへ見えてよに忘られず
【4323】時々の花は咲けども何すれぞ母とふ花の咲き出来ずけむ
【4324】遠江志留波の礒と尓閇の浦と合ひてしあらば言も通はむ
【4325】父母も花にもがもや草枕旅は行くとも捧ごて行かむ
【4326】父母が殿の後方のももよ草百代いでませ我が来るまで
【4327】我が妻も絵に描き取らむ暇もが旅行く我れは見つつ偲はむ
【4328】大君の命畏み磯に触り海原渡る父母を置きて
【4329】八十国は難波に集ひ船かざり我がせむ日ろを見も人もがも
【4330】難波津に装ひ装ひて今日の日や出でて罷らむ見る母なしに
【4331】大君の遠の朝廷としらぬひ筑紫の国は敵守るおさへの城ぞと聞こし食す四方の国には人さはに満ちてはあれど鶏が鳴く東男は出で向ひかへり見せずて勇みたる猛き軍士とねぎたまひ任けのまにまにたらちねの母が目離れて若草の妻をも巻かずあらたまの月日数みつつ葦が散る難波の御津に大船にま櫂しじ貫き朝なぎに水手ととのへ夕潮に楫引き折り率ひて漕ぎ行く君は波の間をい行きさぐくみま幸くも早く至りて大君の命のまにま大夫の心を持ちてあり廻り事し終らばつつまはず帰り来ませと斎瓮を床辺に据ゑて白栲の袖折り返しぬばたまの黒髪敷きて長き日を待ちかも恋ひむ愛しき妻らは
【4332】大夫の靫取り負ひて出でて行けば別れを惜しみ嘆きけむ妻
【4333】鶏が鳴く東壮士の妻別れ悲しくありけむ年の緒長み
【4334】海原を遠く渡りて年経とも子らが結べる紐解くなゆめ
【4335】今替る新防人が船出する海原の上に波なさきそね
【4336】防人の堀江漕ぎ出る伊豆手船楫取る間なく恋は繁けむ
【4337】水鳥の立ちの急ぎに父母に物言はず来にて今ぞ悔しき
【4338】畳薦牟良自が礒の離磯の母を離れて行くが悲しさ
【4339】国廻るあとりかまけり行き廻り帰り来までに斎ひて待たね
【4340】父母え斎ひて待たね筑紫なる水漬く白玉取りて来までに
【4341】橘の美袁利の里に父を置きて道の長道は行きかてのかも
【4342】真木柱ほめて造れる殿のごといませ母刀自面変はりせず
【4343】我ろ旅は旅と思ほど家にして子持ち痩すらむ我が妻愛しも
【4344】忘らむて野行き山行き我れ来れど我が父母は忘れせのかも
【4345】我妹子と二人我が見しうち寄する駿河の嶺らは恋しくめあるか
【4346】父母が頭掻き撫で幸くあれて言ひし言葉ぜ忘れかねつる
【4347】家にして恋ひつつあらずは汝が佩ける大刀になりても斎ひてしかも
【4348】たらちねの母を別れてまこと我れ旅の仮廬に安く寝むかも
【4349】百隈の道は来にしをまたさらに八十島過ぎて別れか行かむ
【4350】庭中の阿須波の神に小柴さし我れは斎はむ帰り来までに
【4351】旅衣八重着重ねて寐のれどもなほ肌寒し妹にしあらねば
【4352】道の辺の茨のうれに延ほ豆のからまる君をはかれか行かむ
【4353】家風は日に日に吹けど我妹子が家言持ちて来る人もなし
【4354】たちこもの立ちの騒きに相見てし妹が心は忘れせぬかも
【4355】よそにのみ見てや渡らも難波潟雲居に見ゆる島ならなくに
【4356】我が母の袖もち撫でて我がからに泣きし心を忘らえのかも
【4357】葦垣の隈処に立ちて我妹子が袖もしほほに泣きしぞ思はゆ
【4358】大君の命畏み出で来れば我の取り付きて言ひし子なはも
【4359】筑紫辺に舳向かる船のいつしかも仕へまつりて国に舳向かも
【4360】皇祖の遠き御代にも押し照る難波の国に天の下知らしめしきと今の緒に絶えず言ひつつかけまくもあやに畏し神ながら我ご大君のうち靡く春の初めは八千種に花咲きにほひ山見れば見の羨しく川見れば見のさやけくものごとに栄ゆる時と見したまひ明らめたまひ敷きませる難波の宮は聞こし食す四方の国より奉る御調の船は堀江より水脈引きしつつ朝なぎに楫引き上り夕潮に棹さし下りあぢ群の騒き競ひて浜に出でて海原見れば白波の八重をるが上に海人小船はららに浮きて大御食に仕へまつるとをちこちに漁り釣りけりそきだくもおぎろなきかもこきばくもゆたけきかもここ見ればうべし神代ゆ始めけらしも
【4361】桜花今盛りなり難波の海押し照る宮に聞こしめすなへ
【4362】海原のゆたけき見つつ葦が散る難波に年は経ぬべく思ほゆ
【4363】難波津に御船下ろ据ゑ八十楫貫き今は漕ぎぬと妹に告げこそ
【4364】防人に立たむ騒きに家の妹がなるべきことを言はず来ぬかも
【4365】押し照るや難波の津ゆり船装ひ我れは漕ぎぬと妹に告ぎこそ
【4366】常陸指し行かむ雁もが我が恋を記して付けて妹に知らせむ
【4367】我が面の忘れもしだは筑波嶺を振り放け見つつ妹は偲はね
【4368】久慈川は幸くあり待て潮船にま楫しじ貫き我は帰り来む
【4369】筑波嶺のさ百合の花の夜床にも愛しけ妹ぞ昼も愛しけ
【4370】霰降り鹿島の神を祈りつつ皇御軍に我れは来にしを
【4371】橘の下吹く風のかぐはしき筑波の山を恋ひずあらめかも
【4372】足柄のみ坂給はり返り見ず我れは越え行く荒し夫も立しやはばかる不破の関越えて我は行く馬の爪筑紫の崎に留まり居て我れは斎はむ諸々は幸くと申す帰り来までに
【4373】今日よりは返り見なくて大君の醜の御楯と出で立つ我れは
【4374】天地の神を祈りて猟矢貫き筑紫の島を指して行く我れは
【4375】松の木の並みたる見れば家人の我れを見送ると立たりしもころ
【4376】旅行きに行くと知らずて母父に言申さずて今ぞ悔しけ
【4377】母刀自も玉にもがもや戴きてみづらの中に合へ巻かまくも
【4378】月日やは過ぐは行けども母父が玉の姿は忘れせなふも
【4379】白波の寄そる浜辺に別れなばいともすべなみ八度袖振る
【4380】難波津を漕ぎ出て見れば神さぶる生駒高嶺に雲ぞたなびく
【4381】国々の防人集ひ船乗りて別るを見ればいともすべなし
【4382】ふたほがみ悪しけ人なりあたゆまひ我がする時に防人にさす
【4383】津の国の海の渚に船装ひ立し出も時に母が目もがも
【4384】暁のかはたれ時に島蔭を漕ぎ去し船のたづき知らずも
【4385】行こ先に波なとゑらひ後方には子をと妻をと置きてとも来ぬ
【4386】我が門の五本柳いつもいつも母が恋すす業りましつしも
【4387】千葉の野の児手柏のほほまれどあやに愛しみ置きて誰が来ぬ
【4388】旅とへど真旅になりぬ家の妹が着せし衣に垢付きにかり
【4389】潮舟の舳越そ白波にはしくも負ふせたまほか思はへなくに
【4390】群玉の枢にくぎさし堅めとし妹が心は動くなめかも
【4391】国々の社の神に幣奉り贖乞ひすなむ妹が愛しさ
【4392】天地のいづれの神を祈らばか愛し母にまた言とはむ
【4393】大君の命にされば父母を斎瓮と置きて参ゐ出来にしを
【4394】大君の命畏み弓の共さ寝かわたらむ長けこの夜を
【4395】龍田山見つつ越え来し桜花散りか過ぎなむ我が帰るとに
【4396】堀江より朝潮満ちに寄る木屑貝にありせばつとにせましを
【4397】見わたせば向つ峰の上の花にほひ照りて立てるは愛しき誰が妻
【4398】大君の命畏み妻別れ悲しくはあれど大夫の心振り起し取り装ひ門出をすればたらちねの母掻き撫で若草の妻は取り付き平らけく我れは斎はむま幸くて早帰り来と真袖もち涙を拭ひむせひつつ言問ひすれば群鳥の出で立ちかてにとどこほりかへり見しつついや遠に国を来離れいや高に山を越え過ぎ葦が散る難波に来居て夕潮に船を浮けすゑ朝なぎに舳向け漕がむとさもらふと我が居る時に春霞島廻に立ちて鶴が音の悲しく鳴けばはろはろに家を思ひ出負ひ征矢のそよと鳴るまで嘆きつるかも
【4399】海原に霞たなびき鶴が音の悲しき宵は国辺し思ほゆ
【4400】家思ふと寐を寝ず居れば鶴が鳴く葦辺も見えず春の霞に
【4401】唐衣裾に取り付き泣く子らを置きてぞ来のや母なしにして
【4402】ちはやぶる神の御坂に幣奉り斎ふ命は母父がため
【4403】大君の命畏み青雲のとのびく山を越よて来ぬかむ
【4404】難波道を行きて来までと我妹子が付けし紐が緒絶えにけるかも
【4405】我が妹子が偲ひにせよと付けし紐糸になるとも我は解かじとよ
【4406】我が家ろに行かも人もが草枕旅は苦しと告げ遣らまくも
【4407】ひな曇り碓氷の坂を越えしだに妹が恋しく忘らえぬかも
【4408】大君の任けのまにまに島守に我が立ち来ればははそ葉の母の命はみ裳の裾摘み上げ掻き撫でちちの実の父の命は栲づのの白髭の上ゆ涙垂り嘆きのたばく鹿子じものただ独りして朝戸出の愛しき我が子あらたまの年の緒長く相見ずは恋しくあるべし今日だにも言問ひせむと惜しみつつ悲しびませば若草の妻も子どももをちこちにさはに囲み居春鳥の声のさまよひ白栲の袖泣き濡らしたづさはり別れかてにと引き留め慕ひしものを大君の命畏み玉桙の道に出で立ち岡の崎い廻むるごとに万たびかへり見しつつはろはろに別れし来れば思ふそら安くもあらず恋ふるそら苦しきものをうつせみの世の人なればたまきはる命も知らず海原の畏き道を島伝ひい漕ぎ渡りてあり廻り我が来るまでに平けく親はいまさねつつみなく妻は待たせと住吉の我が統め神に幣奉り祈り申して難波津に船を浮け据ゑ八十楫貫き水手ととのへて朝開き我は漕ぎ出ぬと家に告げこそ
【4409】家人の斎へにかあらむ平けく船出はしぬと親に申さね
【4410】み空行く雲も使と人は言へど家づと遣らむたづき知らずも
【4411】家づとに貝ぞ拾へる浜波はいやしくしくに高く寄すれど
【4412】島蔭に我が船泊てて告げ遣らむ使を無みや恋ひつつ行かむ
【4413】枕太刀腰に取り佩きま愛しき背ろが罷き来む月の知らなく
【4414】大君の命畏み愛しけ真子が手離り島伝ひ行く
【4415】白玉を手に取り持して見るのすも家なる妹をまた見てももや
【4416】草枕旅行く背なが丸寝せば家なる我れは紐解かず寝む
【4417】赤駒を山野にはがし捕りかにて多摩の横山徒歩ゆか遣らむ
【4418】我が門の片山椿まこと汝れ我が手触れなな土に落ちもかも
【4419】家ろには葦火焚けども住みよけを筑紫に至りて恋しけ思はも
【4420】草枕旅の丸寝の紐絶えば我が手と付けろこれの針持し
【4421】我が行きの息づくしかば足柄の峰延ほ雲を見とと偲はね
【4422】我が背なを筑紫へ遣りて愛しみ帯は解かななあやにかも寝も
【4423】足柄の御坂に立して袖振らば家なる妹はさやに見もかも
【4424】色深く背なが衣は染めましをみ坂給らばまさやかに見む
【4425】防人に行くは誰が背と問ふ人を見るが羨しさ物思ひもせず
【4426】天地の神に幣置き斎ひつついませ我が背な我れをし思はば
【4427】家の妹ろ我を偲ふらし真結ひに結ひし紐の解くらく思へば
【4428】我が背なを筑紫は遣りて愛しみえひは解かななあやにかも寝む
【4429】馬屋なる縄立つ駒の後るがへ妹が言ひしを置きて悲しも
【4430】荒し男のいをさ手挟み向ひ立ちかなるましづみ出でてと我が来る
【4431】笹が葉のさやぐ霜夜に七重着る衣に増せる子ろが肌はも
【4432】障へなへぬ命にあれば愛し妹が手枕離れあやに悲しも
【4433】朝な朝な上がるひばりになりてしか都に行きて早帰り来む
【4434】ひばり上がる春へとさやになりぬれば都も見えず霞たなびく
【4435】ふふめりし花の初めに来し我れや散りなむ後に都へ行かむ
【4436】闇の夜の行く先知らず行く我れをいつ来まさむと問ひし子らはも
【4437】霍公鳥なほも鳴かなむ本つ人かけつつもとな我を音し泣くも
【4438】霍公鳥ここに近くを来鳴きてよ過ぎなむ後に験あらめやも
【4439】松が枝の土に着くまで降る雪を見ずてや妹が隠り居るらむ
【4440】足柄の八重山越えていましなば誰れをか君と見つつ偲はむ
【4441】立ちしなふ君が姿を忘れずは世の限りにや恋ひわたりなむ
【4442】我が背子が宿のなでしこ日並べて雨は降れども色も変らず
【4443】ひさかたの雨は降りしくなでしこがいや初花に恋しき我が背
【4444】我が背子が宿なる萩の花咲かむ秋の夕は我れを偲はせ
【4445】鴬の声は過ぎぬと思へどもしみにし心なほ恋ひにけり
【4446】我が宿に咲けるなでしこ賄はせむゆめ花散るないやをちに咲け
【4447】賄しつつ君が生ほせるなでしこが花のみ問はむ君ならなくに
【4448】あぢさゐの八重咲くごとく八つ代にをいませ我が背子見つつ偲はむ
【4449】なでしこが花取り持ちてうつらうつら見まくの欲しき君にもあるかも
【4450】我が背子が宿のなでしこ散らめやもいや初花に咲きは増すとも
【4451】うるはしみ我が思ふ君はなでしこが花になそへて見れど飽かぬかも
【4452】娘子らが玉裳裾引くこの庭に秋風吹きて花は散りつつ
【4453】秋風の吹き扱き敷ける花の庭清き月夜に見れど飽かぬかも
【4454】高山の巌に生ふる菅の根のねもころごろに降り置く白雪
【4455】あかねさす昼は田賜びてぬばたまの夜のいとまに摘める芹これ
【4456】大夫と思へるものを太刀佩きて可尓波の田居に芹ぞ摘みける
【4457】住吉の浜松が根の下延へて我が見る小野の草な刈りそね
【4458】にほ鳥の息長川は絶えぬとも君に語らむ言尽きめやも[古新未詳]
【4459】葦刈りに堀江漕ぐなる楫の音は大宮人の皆聞くまでに
【4460】堀江漕ぐ伊豆手の舟の楫つくめ音しば立ちぬ水脈早みかも
【4461】堀江より水脈さかのぼる楫の音の間なくぞ奈良は恋しかりける
【4462】舟競ふ堀江の川の水際に来居つつ鳴くは都鳥かも
【4463】霍公鳥まづ鳴く朝明いかにせば我が門過ぎじ語り継ぐまで
【4464】霍公鳥懸けつつ君が松蔭に紐解き放くる月近づきぬ
【4465】久方の天の門開き高千穂の岳に天降りし皇祖の神の御代よりはじ弓を手握り持たし真鹿子矢を手挟み添へて大久米のますらたけをを先に立て靫取り負ほせ山川を岩根さくみて踏み通り国求ぎしつつちはやぶる神を言向けまつろはぬ人をも和し掃き清め仕へまつりて蜻蛉島大和の国の橿原の畝傍の宮に宮柱太知り立てて天の下知らしめしける天皇の天の日継と継ぎてくる君の御代御代隠さはぬ明き心をすめらへに極め尽して仕へくる祖の官と言立てて授けたまへる子孫のいや継ぎ継ぎに見る人の語り継ぎてて聞く人の鏡にせむを惜しき清きその名ぞおぼろかに心思ひて空言も祖の名絶つな大伴の氏と名に負へる大夫の伴
【4466】磯城島の大和の国に明らけき名に負ふ伴の男心つとめよ
【4467】剣太刀いよよ磨ぐべし古ゆさやけく負ひて来にしその名ぞ
【4468】うつせみは数なき身なり山川のさやけき見つつ道を尋ねな
【4469】渡る日の影に競ひて尋ねてな清きその道またもあはむため
【4470】水泡なす仮れる身ぞとは知れれどもなほし願ひつ千年の命を
【4471】消残りの雪にあへ照るあしひきの山橘をつとに摘み来な
【4472】大君の命畏み於保の浦をそがひに見つつ都へ上る
【4473】うちひさす都の人に告げまくは見し日のごとくありと告げこそ
【4474】群鳥の朝立ち去にし君が上はさやかに聞きつ思ひしごとく[一云思ひしものを]
【4475】初雪は千重に降りしけ恋ひしくの多かる我れは見つつ偲はむ
【4476】奥山のしきみが花の名のごとやしくしく君に恋ひわたりなむ
【4477】夕霧に千鳥の鳴きし佐保路をば荒しやしてむ見るよしをなみ
【4478】佐保川に凍りわたれる薄ら氷の薄き心を我が思はなくに
【4479】朝夕に音のみし泣けば焼き太刀の利心も我れは思ひかねつも
【4480】畏きや天の御門を懸けつれば音のみし泣かゆ朝夕にして[作者未詳]
【4481】あしひきの八つ峰の椿つらつらに見とも飽かめや植ゑてける君
【4482】堀江越え遠き里まで送り来る君が心は忘らゆましじ
【4483】移り行く時見るごとに心痛く昔の人し思ほゆるかも
【4484】咲く花は移ろふ時ありあしひきの山菅の根し長くはありけり
【4485】時の花いやめづらしもかくしこそ見し明らめめ秋立つごとに
【4486】天地を照らす日月の極みなくあるべきものを何をか思はむ
【4487】いざ子どもたはわざなせそ天地の堅めし国ぞ大和島根は
【4488】み雪降る冬は今日のみ鴬の鳴かむ春へは明日にしあるらし
【4489】うち靡く春を近みかぬばたまの今夜の月夜霞みたるらむ
【4490】あらたまの年行き返り春立たばまづ我が宿に鴬は鳴け
【4491】大き海の水底深く思ひつつ裳引き平しし菅原の里
【4492】月数めばいまだ冬なりしかすがに霞たなびく春立ちぬとか
【4493】初春の初子の今日の玉箒手に取るからに揺らく玉の緒
【4494】水鳥の鴨の羽の色の青馬を今日見る人は限りなしといふ
【4495】うち靡く春ともしるく鴬は植木の木間を鳴き渡らなむ
【4496】恨めしく君はもあるか宿の梅の散り過ぐるまで見しめずありける