先日行われたドラフト会議で話題となったのが、オリックスの大量14選手指名でした。内訳は投手5、捕手2、内野手3、外野手4と数的にはバランスの取れた指名となりましたが、近年では稀に見る大量指名。その数字を見て「過去の大量指名は?」とふと疑問に思い、ドラフトに関する資料を調べてみました。

このドラフト会議ですが、元々はアメリカのフットボール界が1935年から採用していた制度を日本でも1965年から取り入れたもの。趣旨としては「戦力の均衡を計る」システムでありました。それからドラフト外なども併用されつつ、近年の逆指名枠、自由競争枠といった制度へと変遷を遂げています。

さて今回のオリックスのように10名以上の選手を大量に指名した例は、ドラフト会議の歴史上は初期に多く見受けられます。第1回ではサンケイ、東京、広島、阪急、大洋、西鉄、中日と実に7球団が10名以上の選手を指名しています。最多は広島の18選手指名でしたが、さすがに大量に指名した中にはダイヤの原石も存在し、93勝をあげた白石静生投手や、現役通算1522安打をマークした水谷実雄投手(指名時は投手としての指名)など、それなりの結果も伴っていたようです。

しかしこの当時は現在のように指名=入団とは言えず、最終的には指名権の失効や放棄といった形に終る事が多くありました。それから1972年の第8回ドラフト会議までに10選手以上の指名は延べ96球団中40球団にものぼり、「入団するか、しないかは二の次。まずは交渉権の獲得を」といった形での大量指名全盛の時期でした。

その後、第10回のドラフト会議からは指名選手は6人以内(第14・15・16回は4名以内。ドラフト外を除く)となり、第26回のドラフトまで続くこの人数枠のために、大量指名から確実に入団する選手を指名する傾向に変わりました。

この間はさすがに10名を超える選手の獲得はほとんど見受けることはなくなりましたが、一際目立つのが1981年第17回のドラフト会議にて西武ライオンズがドラフト6位までの6選手に加えて、ドラフト外で8選手の計14選手を指名(うち1名は入団せず)。しかも単に数で勝負ということはなく、入団全選手が1軍を経験し、しかも現在も現役を続ける伊東勤捕手、工藤公康投手(現読売)、秋山幸二外野手(現福岡ダイエー)など多数の西武黄金期を支える選手を輩出し、今年のオリックスがあやかりたくなるほどの大成功を収めました。
1991年第27回ドラフトからは10名以内の指名と改められ、93年第29回からはドラフト外のシステムが廃止され、2000年第36回からは1球団単位ではなく、12球団で最大96名以内の選手獲得が認められ、今年のオリックスのように15巡目(指名権獲得は14選手)までのドラフト指名が認められるようになりました。それでも10選手以上の指名を行った球団は先の第27回ドラフトでの福岡ダイエーまで遡らなければなりません。(10選手中現西武・三井浩二投手は入団拒否。若田部健一投手、田畑一也投手(現読売)、浜名千広内野手(現ヤクルト)など、比較的1軍戦力となる選手の獲得に成功した)

このように近年では10名以上の選手を獲得することすら珍しい中でのオリックスの14選手指名ですが、巷では「2軍の試合に困るほどの選手数しかいないから」と揶揄されています。事実、支配下選手数が50名台にまで落ち込んでいたからこそ14選手指名が可能となったわけですが、昨年に引き続いての「契約金0円」の選手枠ではプロという夢を追いかけてきた選手にチャンスを与え、また8巡目指名の辻竜太郎外野手や10巡目指名の後藤光尊内野手などは、実力は毎年のように評価されながら、「万年ドラフト候補」となりつつあった選手。そういった選手達に「きっかけ」を与えたことの意義は非常に大きく、そう毎年は行えない10名以上の指名という幸運に恵まれた選手の中から、近い将来必ず主力クラスに成長する選手が出てくるでしょう。プロにとって大切な「運」にも恵まれた14選手。人数だけでは終らない、ドラフト史に残る活躍を期待しています
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