糸井重里が毎日書くエッセイのようなもの

09月08日の「今日のダーリン」

・ハイジャック(航空機乗っ取り)事件について、
 どういう番組でだったか、鶴田浩二という俳優さんが、
 「あの犯人というのも、他人を信じてるんだ」
 という言い方をしていたことが記憶に残っている。
 乗っ取り犯が、まったくなにも信じていなかったら、
 そもそもハイジャックは成立しないというのだ。
 それは、たとえば、飛行機を操縦している機長は、
 最後まで乗員や乗客の安全に配慮するであろうこと。
 そのことを、犯人は信じているというのだった。
 犯人自身は「なにをするかわからない人間」として
 じぶんたちを表現しているけれど、
 彼ら自身は他人を信じているというわけだ。

 どういう文脈で言ったのかは憶えてないけれど、
 ぼくの知っていた「信じる」ということばに、
 また新たな意味が加わったような気がしたので、
 このことはずっと憶えている。

 信用を得るであるとか、信用を失うということが、
 どれほど重大なことなのか、よく語られる。
 しかし、特別な悪いこともせずに、
 平凡に暮らしていたら、「信用がまったくない」
 ということはなかなか経験しないと思う。
 コンビニだって、商品を手に持っている人は、
 これからレジに行って代金を払うと信じられている。
 どれだけ怪しげに見える姿でいたとしても、
 最低でもそのくらいの信じられ方はしている。

 いま、ぼくらが暮らしているこの社会で、
 「信じられてない」と痛感することがあるとしたら、
 どういうときなのだろうと、考えてみる。
 電車のなかで痴漢の疑いをかけられた場合というのは、
 ひとつの例なのかもしれない。
 そんなことをしたかしないかは、じぶんが知っている。
 してなければ、ただ「してない」で済むはずなのである。
 しかし、いかに事実「してない」としても、
 じぶんひとりでそれを言っていれば済む、わけではない。
 相手や周囲や取り調べの人が「信じてない」場合に、
 「してない」をどうやって証明すればいいのだろう? 
 「信じる信じられる」ということの重さは無限大だ。

今日も、「ほぼ日」に来てくれてありがとうございます。
そしてまた、外国の社会では、ぜんぜんちがってくるよね。