プロローグ



 思えば生まれてこの方一度だって、吉日と呼べる日は無かった。たとえそれが、世間でめでたいと称される女の晴れ舞台であったとしても。

 馬車に揺られ、山水の景色をうんざりした表情で見つめて一体どれくらい経つだろうか。そろそろこの面白味のない流れてゆく景色も見飽きてきた。車体が揺れるたびに腰の骨も鈍く痛む。長時間同じ体勢のままじっとしている事は、日常生活で慣れてはいるものの、やはり心地のいいものではない。

 先程の吸い込んだ空気を重苦しい溜め息に変えて吐き出すと、正面に座る実の両親がご機嫌とりをするべく、「喉でも乾いたか?」「もうすぐで着くから」と優しい声をかけてくる。それもそうだ。ここで機嫌を損ねて「帰りたい」なんて呟いたりでもしてみたら目の前の二人は真っ青になって慌てふためくだろう。けれど、私はその両親の家にも戻りたくもないのだ。溜め息をついてから続く雑音を右から左に受け流すけれど、母は無視するこちらに構わず紅茶の匂いのさせる水筒を差し出してきた。

「お婿さんに会う前に体調を壊したらいけないわ。少しでいいから飲みなさい」

 目尻に笑い皺を滲ませながら優しげに口元を緩める母親の顔を一瞥して、私の視界は再び味気ない景色へと戻っていく。親の顔を見るくらいなら、外の景色を見ていた方が何倍もマシだからだ。

「要らない」

名前、最後くらいはお母さんに……」

「要らないったら!」

 母の言葉を遮り乱暴に水筒を押し返すと、苛立つ娘の態度に察してか、それ以上は構うのを諦めた。

 何を偉そうに。
今まで男に生まれていればとか、役立たずの落ちこぼれだと思っていた癖して、掌を返して優しく接してくるのはやめて欲しい。

 怒鳴り散らしたい気持ちを必死に抑えていると、馬車の進む速度が次第に緩くなる。すると、遂に体を揺らす振動は少しずつ無くなり完全に停止した。

 馭者が地面に足をつける音を聞く限り、目的の場所に着いたのだろうと、扉の方に目だけをジロリと動かした。扉が開くと同時に重い腰を上げると、出口の方に少しだけ車体が傾く。そのまま扉に手を添えて、足元を注意深く観察しながらゆっくりと馬車から降りる。
 
階段を一段づつ降りるたびに、銀色に波打つ己の長い髪がフワリと揺れた。その髪色に映える藍色の見事な装飾品と、丁寧な刺繍が施されているドレスに身を包む姿はまるで西洋で造られた人形のようだった。整った顔立ち。伏せ目がちにベールを持ち上げ、辺りを一瞬だけ覗く姿。その端麗な容姿を見た瞬間、門の前で出迎える黒服達の誰もが息を呑んだ。

「静かね、やっぱりこれが初めてではないみたい」

 噂に聞いた通り、ゾルディック家の使用人以外、花嫁の到着を歓迎する者は誰一人としていない。この光景が稀ではないというのは少なからず耳にはしていたけれど、まさか噂が本当だったとは。

 つまりは、以前にもゾルディック家に迎えられた女性は過去に何人もいるということだ。有名な暗殺一家の花嫁になれる絶好のチャンス。名誉も財力も欲しいままにできるし、同業の暗殺家業に生まれた女であるならば、これほどに恵まれた人生の席は用意されていない。ところが、どんなに優れた女性がその相手を訪ねてきても、ものの数日で彼女達の方から結婚の申し出を取り消してしまうらしい。ある者は怒り狂い、ある者は顔を真っ青にして早く家に帰してと泣き崩れる。一体どうしたものかと頭を悩ませるゾルディック家の当主と奥方二人の前に再び手を上げたのは、今にもこうして貢ぎ物の如くゾルディック家に差し出さんとする私の父と母だった。

 それは、他の暗殺業を営む娘達と比べて、殺しの仕事を倍は請け負っていたし、ゾルディック家の人間と渡り合えるそこそこの実力はあると自負しているけれど、そんな娘の望んでいない結婚に涙を流すどころか、お前がいてよかった。お陰で我が家の未来は安泰だと喜ぶなんて親として酷いと思う。家の存続の為に結婚を無理強いしておいて、ニコニコと満面笑みを顔に貼り付ける両親が憎たらしくて仕方がない。

 門に手を添えていた時にその鬼達が何かを傍で言っていたけれど、もうその声を聞くことすらも億劫だった。知らないフリをして中へと案内する使用人の後をついていくこと数分後。歩いている最中に、両親には最後に何か言ってあげたのか。と今だけは絶対に聴きたくない質問をされた。やめてくれ。あんな薄情者達にかける言葉なんてないし、あれはもう人ではない。鬼だ。自分はここに住まう蛇の生贄にされたも同然なのだ。敢えて言い残した台詞ならば「この人でなし」くらいだろう。

 屋敷に案内され、指示されるまま椅子に深く腰かけると、今度は暫くここで待つよう使用人にお願いされた。本来ならばこのまま挙式をあげる筈が、相手の急な仕事によって延期になってしまったらしい。こちらとしては嫌な行事が先延ばしになったというだけで、痛くも痒くもないのだが、挙式よりも、当たり前のように仕事を優先されたことに少し腹立たしさを覚えた。

 使用人に加えて更に部屋に入ってきたのは、一人の御婦人だった。

 ごめんなさいねえ。と間延びした声を上げながら赤いドレスを引きずってこちらに歩み寄ってくる彼女が、恐らくこの家の奥方様なのだろう。
名は確かキキョウさんだったと思う。

「私も嫁いできた身だけれど、あなたはそんなに気負いしなくていいのよ」

 確かにそう聞こえた。
食器の音をさせながら話すものだから、少し聞き取りづらい。なんとなくだが、騒がしいし、忙しない人であることは初対面でありながらも察しはついた。

 しかしこのままでは早口な彼女の話を聞き逃してしまいかねない。仕方なく今まで耳に詰めていたものを取り外すと、その一部始終をたまたま見ていていたキキョウさんはまあ、と溢しながら口に手を当てて驚いていた。

「ごめんなさい。緊張すると落ち着かなくて……これをつけていないと周りの音に敏感になってしまうんです」

 決して嫌味のつもりで付けていたのでは無い。その意味を込めて掌に広げて見せたのはプラスチック製の黒い塊だった。一般的に耳栓と呼ばれるもので、普通に街で見かけるような簡易な耳栓よりも少し上質な造りになっている。長時間付けていても取れにくい為、日常生活で動き回っても問題ない。

「あらまあ、そんなに緊張させていたなんて」

 キキョウさんは使用人を押し除けてこちらに持ってこようとしていたティーカップやポットが乗るワゴンから手を離した。そして何をするかと思えば、椅子に座るこちらを正面に足を少し屈めて左肩を優しく叩いてみせた。

「私がいるのだから、もっと肩を楽になさい」

 無意識に強張っていたらしい。張り詰めていた空気をゆっくりと吐き出せば、不思議と肩の力が抜けていく。鼻から上の表情は読み取れない人だけれど、唯一の顔の中で認識できる口元だけは綺麗な笑みを作っていた。

「イルミちゃんの大事なお嫁さんだもの。これからはゾルディックの家族として、仲良くしましょうね」

なんて優しい声色だろう。この門をくぐってからというもの、殺伐とした空気をひしひしと感じていたのに、この人はよそ者の人間をこんなにも気遣ってくれる。もしかしたら案外上手くやっていけるかもしれない。

 つい、ええ。と返事を返そうになった。
するとその優しい態度とは対照的に、品定めをするセリフが聞こえてくる。ああ、まただ。

嫌な悪夢を思い出すように、途端に安堵する気持ちは一変に絶望の海へと突き落とされる。

『親に売られた可哀想な子』
『私の可愛い息子がこんな小娘と一緒になるなんて』

 返そうと思っていた返事が喉の奥で詰まって出てこない。息さえ詰まる。

 本人は決して口に出してなどいない。
表情はほとんど見えないけれど、実の娘のように接しては、懸命に緊張をほぐそうとしてくれているのは誰が見てもわかる。自分の両親だってそうだ。一度だって男に生まれてこなかった事を口に出して責めたりはしなかった。けれど聞きたくない文言は次から次へと頭の中に流れ込んでくる。

 固まったままでは不審がられるだろう。必死に表情を作り、一度だけ小さく頷いてみせた。きっと、その場しのぎの笑顔は酷く歪だったに違いない。やはり、生まれてこの方一度だって、吉日と呼べる日は無かった。こうやって生まれつき人の目を見ると心を読んでしまう能力があるせいで、上手く生きていこうとしても、何もかもが滅茶苦茶になる。お陰でこの耳を塞ぐプラスチックが手放せない。

全く面倒な力だ。


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