糸は粘着質02
むせるような湿気を感じるのは、部屋の中でも同じだった。客人を家に招いた時よりも轟音が酷い。外の雨粒は地面で激しく弾かれ、木の幹は重苦しそうにうなだれている。台所でお湯を沸かしていた名前は、やはり来客を家に呼び止めて良かったと部屋の窓からその様子を眺めて思った。
「出直すつもりがお風呂まで頂いてすみません。葬儀でお忙しいのに」
ガラガラと木造でできた引き戸を少し開けて、名前のいる部屋に顔を覗かせる青年は、上目遣い気味に「いい風呂でした。ありがとうございます」とお礼を告げてくる。どこまでも丁寧な人だと、名前は微笑み返した。
「いいえ。丁度、片付けも済ませた所だったので。それに、なんだか今日は一人でいるのが心細くて」
きょとんとした目をさせる彼は私の言葉に疑問に思ったのか首を傾げている。
「一人?他に御家族の方は?」
「ああ、祖母と二人暮らしだったので、今は私1人なんです」
「そうですか」
「あ、ああの、大丈夫です!一人には慣れていますので!それより、貴方のかけられた念にいくつかお聞きしても?」
また、しんみりとした空気になりそうな予感がして、とっさに話題を変えながら居間にある椅子を勧める。素直に腰を下ろした彼に淹れたてのお茶を差し出すと、男は片手でそれを受け取り、ここを訪ねてくるまでの経緯を話し始めた。要約すると、彼は怨みを買った相手に強力な念をかけられたらしい。
生憎わたしは除念師ではない為に、彼の力になる事はできない。
湯上りの彼はすっかり濡れた猫の様な姿から知的なオーラを感じさせる雰囲気へと変貌を遂げた。その会話をうんうんと頷きながら、真剣に聞く振りをしつつ相手の容姿をまじまじと観察してしまう。
受け取ったカップに入る飲み物を飲む姿、行動の仕草一つ一つが綺麗で目が離せない。一眼でその存在感に圧倒させられるほどなのに、佇まいはひたすら静かだ。音や気配を感じない、目を閉じれば、彼はそこに存在しないかのようだった。それがなんとなく不気味で、恐いとも思ってしまう。
綺麗な顔だな。彼の伏せた睫毛や口元、指の先でさえ美しくて見惚れてしまう。身内の喪中に不純な感情を抱いている自分に嫌悪してしまう。
早く鎮まれ心。
話に集中する為に自分自身の両頬を軽く叩いていると、じんじんとそこが熱を持ち始める。その音に
「え?」
「すいません。ちょっと現実に引き戻す必要がありまして」
「はぁ……」
相手は、深く追求することなく話を再開させる。
元々祖母の除念道具以外は必要最低限の物しか置いていない。祖母以外に除念師はいるが、その強力な念を解くのは望み薄だろうと答えた。
彼はというと、顎に手を当てて考えに耽っていた。そして暫くの沈黙の後、あ、と短い言葉を吐くなり、ジッとこちらを見てはまた何も話さずに微動だにしなくなった。そんな見られると穴があきそうで落ち着かない。ただでさえ浮き足立った気持ちを抑えるのに必死なのに、緊張して飛び上がってしまいそうだ。
「そうか、一人か」
「あの……それがどうかされましたか?」
「ええ、良ければ折り入って頼みたいことがありまして、除念とは関係がないのですが」
「と、言いますと?」
「まず、幻影旅団の名は聞いた事はありますか?」
「ええ。ちらほらと耳には挟んでいる程度ですが。それと仕事の依頼に関係があるのですか」
「実は俺、その幻影旅団の一人なんですよね」
無垢に笑いかける口からとんでもないカミングアウトをもらい、サッと血が頭から抜けて行く。
幻影旅団?……あの?
ハンター試験でちらっと話は聞いた事があったけれど自分には縁のない遠い雲の上の存在だと聞き流していた。
まんまと笑顔にしてやられた。やっぱりあの悪寒は気のせいじゃなかったのだ。こんな事になるなら最初から素性も知らぬ人間を家に上げるべきではなかった。
そんな頭の中で葛藤する様子を2つの眼で伺ってくる。まるで視線だけで心中を読まれている心地に、全身が凍り付いたように動かなくなった。この状況はまずい。いくら一対一と言えど相手は幻影旅団のリーダー。下手に相手を刺激すればどこかしら身体の一部が飛んでしまうのではないか。悲劇なヒロインの気持ちから一気に頭がフル回転し、気持ちは防衛体制に入る。人とは死と隣り合わせな窮地に直面すると、こうも冷静になれるのか。取り敢えずここは事を穏便に済ませ、これから頼まれる事はやんわり断らせてもらおう。
距離を置こうと立ち上がろうとすると、身体が机に引き戻されてしまう。いつの間に手を掴まれていたのか、机を挟んだ向こう側からがしりと私の手に添える両手が逃げようとする名前の身体を引き留めていた。
いつから掴まれていたのかわからなかった。更にビクつく反応を面白そうに眺める相手は顔を寄せ、一気に距離を詰めてきた。
「そんなに固くならなくても危害を加えるつもりはありません。先程も言った通り、俺はただ頼みたい事があるだけです」
言い方はとても柔らかいのに、どこか逃げられないような圧を感じる。緊張で乾いた舌と震える唇を懸命に動かして、今にも消え入りそうな声を捻り出す。
「その幻影旅団の方がこの私に、どういったお願いを」
「あなたは中々面白い念能力を使うらしい。情報屋からのデータが正しいと見込んで率直に言わせてもらう。その能力で拠点にいくつか大事にしている戦利品を任せたい」
「戦利品を、任せる?」
「生憎、俺はかけられた念のおかげで拠点に戻る事が出来ない身体にされている。だから、かわりに大事な物をお願いしたい」
つまり置いてきたあなたの持ち物を守れと?
そんなの元から在籍しているあなたの仲間に頼めばいいのではないか。何故私にわざわざ頼む必要があるのだろう。のっぴきならない事情があるにせよ、下手に面倒事は首を突っ込みたくはない。遠慮なくその頼みから辞退させて貰おう。
「えっと、協力したいのは山々ですが、私の力が旅団の方にお役立てる程のものではありませんし、それに場合によっては多少なりとも自身にリスクが伴います。なのであまり能力は使わないようにしているんです。ですので……」
「他を当たって下さい。か?
俺がそんな言葉で納得するとでも」
また、家に招く間際に聞いたあの凍りつく声に悪寒が蘇る。表情は爽やかで、今ここでくれる笑顔なんてとても優しい。なのに、やはり声だけが冷たく重く、そして心を支配されるかのようにズッシリとのし掛かってくる。手を握られたまま、恐怖を直に叩き付けられ反射的に押し黙る。ああ、この人には敵わない。直感的にそう感じさせられた。この人はイエスという言葉しか答えを受け付けようとしないんだと、この短い時間ではっきりとわかってしまった。
「対象物を護り持ち出されないよう管理できる能力。目立ちはしないが物を守る点においては群を抜いて優れている。脅迫じゃない、これは正式な仕事の依頼だ」
「でも」
「受け入れてくれなくても構わない。でももしそうなるなら」
そうなるなら……
答えを待っていると、吸い込まれそうな黒い目がすうっ、と眇められる。
「除念が終わる頃、気付いたら君の能力が消えていたり、なんてことがあってもおかしくないけど」
まただ。
またこの違和感。
思わず頷いてしまいそうになるこの空気。依頼だよ。って眩しいくらいに笑顔で言うけどよくもいけしゃあしゃあと。これは仕事の依頼という名目で提示してきた紛れもない脅迫だ。
「そんなに俺の事が恐いですか?」
「いえ、あの、そうじゃなくて」
嘘だ。あたっている。
それにこちらの念能力については粗方把握しているみたいだけど、一体どこからそんな情報を入手してきたんだ。少なからずある程度の事は裏で出回ってるのだろう。断れば何をされるか予想もつかない分危険だ。どんどん自分の立場の危うさを自覚してきた。
適当に理由をつけて断るつもりだったのに…。
今まで真面目に生きてきたのにこんな形で犯罪の手に加担するような日が訪れるなんて、おばあちゃん……ごめんなさい。と、言わんばかりに見える筈のない空を仰ぐように天井を見上げた。
「期限は、機嫌がいつまでかを教えてもらえますか?」
「話が早くて助かる。期限は俺が除念を済ませて帰ってくるまで、無期限としておきます」
「無期限か。なるほど……ん、無期限……?」
睫毛を跳ね上げる私に構わず、相手は話を続ける。
「報酬は貴方が好きな額を惜しみなく付与するっもりです。人間関係の心配もいりません。貴方が仕事をする上で関わる人間は限られていますし、話す機会も物を持ってくる時くらいのごくごく短時間なものです。まあ、気の荒い性格がメンバー内の中に何人か目立ちますが、仲間には危害を加えない筈ですから。何も心配はいりません。多分」
多分。と最後に付け足された事で不安はさらに深くなっていく。しかも、もう承諾したみたいに言うのはやめてほしい。
「せめて身の安全を保障するくらい言ってくださらないとお受けできません!そもそも、まだお受けするとはお返事していないのに勝手に話を進められるのは困ります!」
命を保障されていない。
語尾を強めて反論する私に目を丸くした彼は、くすりと小さく笑った後に悪かった。と申し訳なさそうに言った。
「てっきり、さっきの返事の仕方だと、OKと捉えて問題ないと思いました」
「さっきからイエスか、はい以外の選択肢を求めてないですよね!? えっと……」
「団長です」
「団長さん!」
「いや。どこか会話の中に働き手を探しているような節が見受けられたので、あくまでこちらから提案をしたまでですよ。そうか。断られたのなら仕方ない。では、あなたの能力は除念のあとに頂戴するとして、この仕事の依頼は他をあたるとしましょう」
あっさりと立ち上がる。
諦めると見せかけて、逃げられないように私の弱みを的確についてくる。
奪われたくはない。この能力を取られてしまえば私はーー
「ちょ、ちょっと待ってください!」
団員達にいびられる危険手当もつけてもらう。
そこら辺は割り増しにしてもらうからね…
言葉の所々に気にかかる点がいくつか見受けられるけれど、この賢そうな男を丸め込んで断れる自信は、こちらの情報を掴まれているのもあってか既に皆無。ここは自分の身の為にも素直に受け入れ、期限が終われば行方をくらましてお金だけとんずらするのが一番賢い。
依頼を完遂すればリッチなセレブ生活が約束されている。それだけの大金を借金させてまで請求するつもりだ。高級マンションでも買ってワイン片手に都会の街を高見で見物してやる。だから今は大人しく言う事を聞いておこう。
「その依頼、お受けします」
「え?」
「あなたの依頼を承ります。しかし、条件が二つ」
「と、言うと?」
「やはり私の命の保証。そして報酬はしっかりとお願いします」
「それは貴方の力量次第です。俺の依頼を従順に真っ当してくださるなら、自然とその保証は付いてきます」
「……」
「そう恐い顔をしないでください。少し意地悪な言い方をしました。お詫びにこれを」
「これは?」
「持っていれば命を奪われる心配はないでしょう。身の危険が及べば、俺のメンバー達に見せてください。貴方の身を守るお守りみたいなものですよ」
掴んでいた私の手にころんと乗せた。
「交渉成立。これで安心して旅ができます。貴方のおかげだ」
目的の返事が聞けたとばかりに、掴まれていた手はあっさり離れていった。目の前にはまだ湯気の立ちのぼるお茶を啜る男が鎮座している。取り敢えず、首一枚は繋がったみたいだと胸を撫で下ろす。なんだか相手の口車に乗せられている気がする。厄介な事に巻き込まれてしまったと名前は肩を落とし、こぼれ落ちそうな溜め息を押し殺していた。