糸は粘着質01


 思えば、あれほど厄介な人に出会ったのは、この人生始まって以来、最初で最後かもしれない。

 じめついた雨の降る夕暮れ。哀惜にまみれた胸の内を代弁してくれるかのような酷い悪天候だった。この地に産まれてから片時も離れることのなかった祖母の亡骸を今日、親族総出で葬ったのだ。葬儀屋に任せればもう少し忙しさがマシだったのかもしれない。だが、そうしなかったのは人里離れた地にある葬儀場よりも、家で行う方がずっと近いし広かったからだ。一通りお通夜も無事に終わり、自分以外の親戚は特別、別れを惜しむ素振りもなく皆早々に身支度を済ませ帰って行く。

 決して彼らが冷たいわけではない。祖母は生前、気難しい訳ではないがあまり人と馴れ合う性分ではなかった。親戚の集まりにも一切顔を出さなかったし、寧ろ彼女の存在を知らない者の方が多い。最後に部屋を出る甥や姪との別れ際にまた会おうと手を振り合えば、その後の部屋はしんと冷たく静まり返る。外から響く雨音を聞いていると、より孤独を痛いように感じた。

身寄りがないわけではないが、もう成人した身。自立しないままどこかの親戚の世話になることもなく、わたしは祖母の家に一人残される形になる。すっかり暗くなった外を眺めながら、明日からどうやって生活を送っていこうかと考えてみる。食や金銭に関しては蓄えはあるから暫く働かなくてもやってはいけるものの、ずっとこのままというわけにはいかない。


「これから、どうしようかな」


部屋の外でしとしとと音を立てる雨を窓越しから眺めていると、先ほど挨拶を交わしていた小さな甥と姪が親に手を引かれて歩いているのが見える。まだ幼い分、辛鬱な空気に流されることのない軽快な足取りで親の後を追いかけていた。その中で帰る人達の流れに逆らい、傘もささずにこちらに歩いて向かってくる人影に気づいた。

 もう葬式も通夜も終えた筈なのに一体誰なのか。忘れ物を取りにきたのかと思ったが、今日の葬儀にあんな若い男性が参列していた記憶はないし、あんな顔見知りがいた覚えもない。もしかして、私の知らない親族が遅れてやってきたのかもしれない。

そう思った名前は玄関まで足を走らせ、その正体を視界に入れようと扉を開けた。その瞬間。もう扉の前まで立っていた真っ黒な目と目がかち合った。ノックをしようとする前に、先にドアを開けてしまったのだろう。雨を含んだ白いシャツから雫を滴らせる腕は宙ぶらりんのまま、こちらの顔をまじまじと見てくる。そして、雨に濡れた艶やかな黒髪は額に巻かれた包帯にピタリと張り付いていて、かなり水を含んでいた。


「夜分遅くに申し訳ない。除念師の方を探しに来たのですが」


暫く沈黙が続いた。固まったまま何も言葉を発さない私に耐え兼ねたのか、青年はこの気まずい空気を壊そうと愛想笑いを浮べている。

作り物の笑みだというのに、心臓を鷲掴みにされそうな気持ちになる。これがいわゆる一目惚れというやつなのだろうか。数秒の間を空けてようやく平静さを取り戻すと、彼に除念師の居所を答える為に口を開いた。


「除念師の祖母なら、先ほど葬儀を済ませましたよ」


葬儀というワードを聞くなり、相手は髪から雫を滴らせながら目を丸くさせている。そして、雨音にかき消されるくらいの弱々しい声で労いの言葉をかけてきた。


「それは、お悔やみ申し上げます」


 男は次に「尋ねる日時を間違えてしまったようで、申し訳ない」とまで謝ってくる。気を遣わせるつもりはなかったのだけれど、どうやら彼に見惚れて言葉を失っていたのを、身内が死んで心底落ち込んで心、此処にあらずと思われたみたいだった。

違う。いや。全く違うわけではないが、さっきのは別の意味でこころ此処にあらずだっただけで、だからそんなに気を遣わないで欲しい。


「ああ、すみませんボーッとしてしまって。とりあえずここで話すのも寒いでしょう。何か他に力になれることがあるかもしれませんし、上がってください。お茶ぐらいしかご用意できませんが」

「いや、タイミングも悪い上にこの通り雨に濡れてしまった。また日を改めます」


あははと好感の持てる笑みを作りながら張り付いた白い布を摘み上げ、遠慮されてしまう。また雨の中傘もささずに来た道を戻る気なのだろう。だが、この濡れた猫のような姿を見せられては、素直にはいそうですかと帰せるわけがなかった。ただでさえ身内が居なくなった事で心を病んでいるというのに、更に良心までも傷ませることまでしたくない。それに、今日の私は一人になることをいつも以上に恐れていた。


「そう遠慮せずに。濡れたまま帰して、もしお客様が風邪を召されたりなんかしたら大変ですよ。せめて雨が止む間だけでも休んでいってください」


 ここまで引き止められるとは思っていなかったのか、扉を更に開けて中に入れと促された相手はきょとんとした目をさせる。そして、また綺麗な口元を緩めて笑顔を作ってみせた。


「では、お言葉に甘えて」


綺麗な笑顔だ。けれど背を向けた途端に感じる、決して不快ではない筈の言葉になんとなく違和感を覚える。無機質で落ち着いた声音。背筋がぞくりと震える。先程の素敵な好青年とは打って変わった恐怖心を煽る言い方に時間差で全身の鳥肌が湧き立った。両腕を抱くようにして後ろを振り返ると、どうしたの?と言わんばかりに微笑みかけてくる。

よくよく見ても彼は初めに見せてくれた清々しい顔をしていて、不気味なオーラは毛ほども感じない。まさか、この優しそうな人が今の気味の悪いオーラを発していたなんて気のせいだろう。きっと先程の悪寒も雨の寒さにやられたに違いない。そう無理に疑心を抱く己を納得させた。


「どうぞ。足元に気をつけてください」


こうして、彼を迎え入れたことが後の人生を狂わせる引き金になるとも知らず、扉は無情に重い音を立ててパタリと閉じた。


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