始まり


 尻餅をついたと同時に、ガシャンと何かが割れる音が通路に響いた。

 打ち付けたところを撫でさすりながら目を開けると、驚いた声を上げ、同じ格好で床に倒れている男が一人。相手の視線の先にはガラスの破片が無惨に散らばっていて、彼は大袈裟に見開いた目を絶望の色に染め、床に両手をついて嘆き始めた。

「ああっ、なんてことでしょう!特注で届いたばかりの照明が……」

 照明が壊れてしまったショックが余程大きいのか。ぶつかった私には目もくれず、割れたガラス部分から流れ出る液体を手で堰き止めようとしている。だがその努力も虚しく、青く光る美しい物体は通路に敷かれた絨毯に吸い込まれ、次第に光を失っていった。

しばしの沈黙。この静寂が堪らなく恐ろしくて、謝ろうとするも自分の口がなかなか開かない。今にも大きな音を立てて割れそうな怒りに体を震わせる相手は顔を上げたその瞬間、きっとこちらを睨みつけてきた。

「監督生さんっ……!通路を走るなんて、貴方って人は!」
「ご、ごめんなさい!まさかこんな時間に人が居るなんて思いもしなくて……!」

声を荒げ怒りを露わにする人物はオクタヴィネルの寮長であり、モストロ・ラウンジの支配人でもあるアズール=アーシェングロットその本人。かつて彼の闇落ち事件で痛いほど身に染みた印象深い名前だ。

「本当にごめんなさい、アズールさん」
「謝って済むなら、僕はこんなに怒っていませんよ」

 凄まじい剣幕に萎縮してしまった私を哀れんでか冷静さを取り戻し、アズールは咳払いを一つして液体に濡れてしまった白手を片手ずつ取り始めた。魔法を使用し元に戻せばまだ事態は丸く収まったものの、魔法の使えない自分には破損させた物を弁償する事すら叶わなかった。

自分のせいで壊してしまったのにその責任すら取れないなんて、己の無力が恨めしい。すると彼の後ろから遅れてやってくる大きな影が私とアズールの二人の前で止まった。

「あれえ、小エビちゃんじゃん。こんなとこで何してんの?」
「フロイドさん……」
「ああ、フロイド。照明を運んでいる途中、監督生さんと角でぶつかってしまい、こんな有様に」
「私は移動教室に置き忘れたテスト対策用紙を取りに行ってたんです。夜中の学校はあまりに人気がなくて。それでつい早足になってしまい……照明を持って歩いていたアズールさんに気付かず、そのまま通路の角でぶつかってしまいました。悪気は決してありません」
「えー、まじで?この照明、やっと作ってもらったのに」

 間延びした返事をしながら、フロイドは片手に持っていた照明器具に視線を落とす。黒色の脚はアンティーク調の装飾が施されていて、その上に透明なガラスの中に青く光り輝いている。見れば見るほど普通の照明にはない光り方だ。アズールの持っていた物はすでに壊れていたせいで、分からなかったが、あんな高価そうなものを破損させたのだと今になって名前の顔は青ざめていく。

「一つくらいどうってことないでしょう。残りの照明はまだジェイドとフロイドの元に二つもあります。まあ確かに、この照明はかなりの金額のものでしたが」

 アズールはかなり、という単語をやけに強調した言い方で濡れた白手を片手に立ち上がる。無意識なのかわざとなのか、その一言で余計に罪悪感を植え付けられる。

「いくら売り上げの経費で落としたとはいえ、困りましたね。この照明は希少な生き物の発光物質、もとい、ルシフェリンを魔法で生成、酸化を半永久的に連鎖させる事によって光を生み出す至高の逸品です。調合に寸分の狂いも許されないうえ、これをまた作り直してもらうとなると……」

 何を換算しているのか、こちらにわかりやすいように一本ずつ折り曲げたり伸ばしたりをして損害費用を計算している。その振る舞いが心なしか脅されているような気がして恐ろしい。次に来るであろう「どう落とし前つけてくれるんだ」という元の世界のセリフを遠回しに言われている。
名前はビクビクとアズールの次の言葉に身構えた。

「本来であればこの損失を、一文とまけることなく請求したい所ですが、なにせ僕はとても慈悲深い。特別に咎めないでいて差し上げましょう。以前、貴方に多大なる迷惑をかけてしまった身でもありますしね」
「え?」
「どうかされましたか?何かご不満でも?」
「い、いえ。てっきり弁償代を稼げと言われるのかと……」
「私は借りを作らない主義なんです。ああ、そういえばスカラビアの件でお返ししましたね。では、これは私からの貸しとしておきましょう。何か困ったことがあれば監督生さんを頼らせてください」

 人当たりの良い笑みを見せ、周りに散らばったガラスや破片を綺麗に魔法で片付けるアズールは膝立ちになる名前の横を通り過ぎていく。

「では、僕達はこれで。おやすみなさい監督生さん」
「ばいばーい」

 アズールに続いてフロイドも手を振りながら横を通り過ぎる。罪悪感を感じさせるものの言い方だったが、お咎めがなかったことに安堵のため息が溢れる。良かった。残りの学園生活を借金返済の為に生きていくのはあまりにも気が重い。

 後から遅れて立ち上がる名前は手に持っていた紙切れを両手に抱きしめ直し、グリムを連れて寮に帰りはじめる。外廊下から差し込む月明かりは、彼女の破損させた照明の色とよく似ていた。