2020世阿弥忌セミナーオンラインを拝聴した | 春よ来い早く来いのブログ
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コロナ禍の影響で、毎年8月8日の世阿弥の命日に奈良で開催される世阿弥忌セミナーは、1か月遅れでオンライン配信することとなりました。
zoomでのオンライン配信。しかし、自分的にやらかした。zoomの自分のサムネイルが、プロレスマスクを被ったままだった。消すの忘れてた。
参加者は100人弱といったとこかな。

発表者のテーマから、金春禅竹、観世元章、観世寿夫、現役能役者からの視点による世阿弥伝書。世阿弥と同時期、江戸明和の時代から観世太夫から先祖世阿弥の視点。昭和戦後から能役者として世阿弥に傾倒。令和の能役者から見た世阿弥。各時代の世阿弥伝書の需要が全体のテーマかな。

発表者は、金春禅竹の研究者の第一人者の高橋悠介氏。観世元章研究の第一人者の中尾薫氏。そして、能楽、音楽学と美学の研究者である玉村恭氏。
最後に現役能役者から能楽シテ方観世流から川口晃平氏。
全員40代かな。能楽学会も発表者が若返ったのだろうか。

オンライン配信を見ながらメモしてだけど、要約出来る自信は無いので、自分的に刺さった部分を書く事にする。



高橋悠介氏は世阿弥の娘婿であった金春禅竹が世阿弥伝書からの影響で禅竹自身の伝書を書き上げた関係を、定説と別説を比べて定説だと言う考え方。禅竹の仏教への傾倒の関係性を禅竹の伝書事に解説。世阿弥伝書の仏教の記述を禅竹が深く掘り下げた。高橋悠介氏の著書『禅竹能楽論の世界』に大体沿ったもの。
自分が刺さったのは、後半で六輪一露の像輪に田畑が描かれており、これは南宋絵画の「耕織図」(伝粱楷)から狩野派の山水図に描かれて足利義教の頃に記述されている事から、六輪一露と耕織図との関係性。
(高橋悠介氏の資料から参照)

発表後の質疑応答で、耕織図は室町将軍宅にも飾られていたとのこと。禅竹の六輪一露説への影響を示唆。
司会の横山太郎氏が高橋悠介氏に禅竹は仏教を学び世阿弥伝書を理解しようとしたのかと問うと、世阿弥から禅竹は仏教に入り掘り下げ、自らの伝書を膨らませていったのではとの答え。



次は観世元章研究の第一人者、中尾薫氏の発表。
観世元章と言えば、明和改正本を初めとする革命を起こした能役者のイメージがある。元章から見て先祖にあたる世阿弥の伝書をどう見ていたのだろうか。
中尾氏の発表から、元章があくまでも観世太夫であり、弟子の統率のための世阿弥伝書と言う考えが浮き彫りになってくる。禅竹みたいに深く掘り下げて膨らませることは、出来なかったと言う解釈。また考証癖が世阿弥を理解するための邪魔にもなっていたと示唆していた。



休憩後

玉村恭氏の発表。
結構、刺激的な発表であった。

観世寿夫は江戸時代を嫌っていた。江戸時代こそ能を駄目にしたと著書に書いてある。この考えに対して玉村氏は、観世寿夫は江戸時代の可能性、寿夫自身の可能性を、共に矮小化したと述べた。
矮小化と言う言葉は、パワーワードと言って良いだろう。世阿弥伝書に対する観世寿夫の解釈も矮小化したと示唆していた。稽古絶対主義の観世寿夫の世阿弥伝書解釈は矛盾しているのではとのこと。つまり、観世寿夫はナマの身体を否定したのに対し世阿弥はナマの身体を否定していなかったのではとした。
これに対しては、質疑応答で反論はあった。

世阿弥伝書に対して観世寿夫は逆に解釈した事に、寿夫自身の可能性を狭めてしまったと玉村氏は述べた。

まとめとして玉村氏は観世寿夫によるフィルターを通した世阿弥論とした。

『記紀』に対する注釈書が後の時代に様々な形で出てきたことと、世阿弥伝書を様々な時代の注釈書が出てきたとの重なる気がした。

また、質疑応答で横山太郎氏が寿夫が稽古絶対主義になった理由として、梅若一門な派手で演劇てなものに対する対抗と述べたが、世阿弥伝書を寿夫の都合良く解釈して、その理想像が宝生流の野口兼資ではなかったのだろうか。質問しようと悩んでたけど三宅晶子氏が質問してくれた。

これは確かではなくうろ覚えだけど野口兼資に傾倒した観世寿夫は最晩年に、そこから離れようとした記述があった気がするが、断定は避ける。その頃と、稽古絶対主義から開放された記述が時系列にリンクするならば、観世寿夫の世阿弥解釈の変化にも繋がっていくのだろう。

生の身体を否定した観世寿夫が、否定しなくなったのは何故か。観世寿夫の世阿弥解釈研究は、これから掘り下げてくれることを期待したい。


最後は、観世流能役者 川口晃平氏。

川口晃平氏による現役能役者からの視点で見る世阿弥伝書。

世阿弥は能システムを作った人。和歌など文字の文学を物真似と舞をベースに言葉と型の仕組みで黄金比を作り。常に現代劇としての永遠化を完成させた。
また、世阿弥と同時期には田楽の増阿弥、近江猿楽の犬王と言う天然の天才がおり、世阿弥はモーツァルトに対するサリエリみたいに嫉妬していたのではと言うのは面白い。天才一代限りで終わらせる訳にはいかないと、伝書を残して保存しようとしたのが世阿弥だと言う解釈。能システムそのものが世阿弥の自画像と言う解釈も興味深い。川口晃平氏の師匠である梅若実師の観世寿夫に対する考えも面白い。


各発表を拝聴すると、観世寿夫に対する聖域化が薄れて来た感がある。また世阿弥伝書の解釈は時代によって違うものだという事を感じられたのは収穫であった。

秋田県に居ると能楽関連の書物を図書館で借りる事は困難ではあるけど、発表で紹介された書物は読んでみたくなった。
徐々に、書物に触れていこう。