朝鮮日報

【寄稿】ポスト安倍の韓日関係、韓国が主導権を握ることができる

「安倍後」の日本には管理型内閣
後任者が長期的に新たな外交を模索
米中競争の国際構造の中でいかに利益を最大化するかが鍵

 安倍首相の辞任表明後、日本では次期首相を巡るレースが熱い。おおむね菅官房長官、岸田政調会長、石破元幹事長が有力候補に挙げられている。3人のうち誰が首相になっても、すぐに韓日関係改善を期待するのは難しい。最大の懸案である慰安婦問題、強制徴用に関して、3人いずれも自民党の立場と異なる意見を掲げたことはない。実際、首相交代の変数の一つとして韓日関係を予測するのは困難だ。だが日本の現代政治史を振り返ってみると、「安倍後」の日本と韓日関係を占う四つの糸口を見いだすことができる。

 第一に「管理型内閣」が登場する可能性が高い。1980年、大平正芳首相が急逝して鈴木善幸内閣が成立したが、これといった足跡もない継投型の内閣にすぎなかった。2000年に小渕恵三首相が在任中に入院して、そのまま死去したときも、森喜朗が自民党有力者間の協議を経て首相に推されたものの、わずか1年で退任した。現職首相の健康問題で急きょ成立する内閣は、大抵が管理型にとどまる。

 第二に、長期政権は政策転換の圧力をつくり出す。1964年から8年にわたり政権を握っていた佐藤栄作首相の後任は田中角栄首相だった。田中角栄は佐藤栄作の親米一辺倒路線に反旗を翻して首相になると、敵性国だった中国を電撃訪問し、世界を驚かせた。2001年に自民党主流派の長期政権に反旗を翻して政権をつかんだ小泉純一郎首相もまた、電撃訪朝を断行したことがある。長期政権は党内に新たな路線への渇望を育む。また政権勢力は、ひとたびポストをつかんだら前任者とは区別される自分の足跡を残そうとする。

 第三に、政策転換には国際的な背景がある。1970年代、田中内閣の親中路線の背景には、ベトナム戦争の後遺症による米国の脱アジア政策があった。82年に政権を取った中曽根康弘首相は軍事力強化路線を打ち出したが、これはソ連との冷戦に集中していた米レーガン政権の外交路線に応えるものだった。小泉首相が電撃訪朝など独自路線を実現できた背景には「テロとの戦い」がある。小泉首相は9・11同時多発テロの後、米国へ積極的に協力することにより、それ以外の外交分野では独自性を確保したのだ。

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