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冬の国の物語1/4 (再掲載)

〈プロローグ〉

 其処は、冬に閉ざされた王国。
 雪と氷に囲まれた冬の王国。
 その王国ではあらゆる種類の宝石が採れた。
 だが、周囲に聳える険しい山脈は外部の人間を寄せ付けず。
 一年の内、たった二か月の間だけ暖かい日差しが降り注ぐ春にも、雪崩や豪雪のため王国に渡る安全なルートは無く。
 それでも、王国の宝石商は春になると命がけで宝石を国外へ持ち出し、法外な額の利益を得て国へと持ち帰った。
 こうして王国は栄え、富を貯めこんだ。


 其処は、まさしく、冬に守られた難攻不落の王国。







〈1章   こうして奴隷は姫に出会う〉



「ジェラーユ ヴァム シャースチヤ♪」

 少女はその単語に軽やかな節を付け、母と住まう離宮の温室の泥で手を汚しながら柔らかく微笑む。

「ジェラーユ ヴァム シャースチヤ♪ジェラーユ ヴァム シャースチヤ♪」

 少女は棘で指を刺さないよう細心の注意を払い、剪定鋏でパチンと青薔薇を一輪手折った。
 ジェラーユ ヴァム シャースチヤ。
 この極寒の地でしか咲かない青い冬薔薇を、王国の民はそう呼ぶ。
 少女は薔薇に唇を寄せ、恭しく口付けた。厳しい気候の中でも花を付けてくれた事に対して、感謝の意を込めて。

「王女殿下!」

 少女が薔薇摘みに夢中になっていた時、メイドが温室に駆け込んできた。

「妃殿下が……つい先ほど、ご逝去されましたっ」

 少女は腕に抱えていた薔薇の籠を、足元に取り落とす。
 青い花弁が散らばった。


 其処は、冬に閉ざされた王国。
 氷と雪に囲まれた、冷たい世界。



 
 奴隷監督官の手で冷たい地面に組み伏せられた大星淡は、歯軋りをした。泥で顔を汚し、髪の色まで染めて過酷な労働環境から逃走を図ったというのにこの体たらくだ。極寒の気候で両手は悴んで動かず、雪を掻き分けて鉱山を抜け出してきたので、今や周囲の監督官を蹴散らして逃げる体力も残ってはいない。
 大星が項垂れて諦念の想いで肩の力を抜いたとき、頭上から声が降り注いだ。

「待ってください。その奴隷は私が買います」

 吹きすさぶ雪の音にも負けない、凛とした芯のある声。
 大星淡は勢いよく顔を上げた。
 視線の先に居たのは、巨乳な体の護衛を一人連れ、質素なコートを纏って佇む地味な少女。首にぐるぐるとマフラーを巻いていて、ボブカットの髪が肩の辺りで揺れている。

「だが、この女は逃走を図った咎で……」

「あなた方が、奴隷を逃走させるという失態を黙っていれば問題はありませんよね。何か問題が起きたら私のところへ来てください」

 少女は懐から重たそうな袋を取り出し、監督官に手渡した。どうやら中身は金らしく、確認した監督官が恐縮しきった様子で下がっていく。
 少女がゆったりとした足取りで淡のもとまでやってくる。
 眼鏡をかけている護衛の兵士が、逃走した奴隷に近付くのは危険だと諌める言葉を無視し、分厚い手袋をした手を差し伸べてきた。

「あなた、大丈夫ですか」

「……アンタ、誰? 護衛が居るってことは、偉い人?」

 淡は少女の手を掴み、のろのろと身を起こす。
 少女は無言で応え、ふと、視線を大星淡の手に落とした。冷えすぎて色が変わり始めている彼女の手をひっくり返し、肉刺だらけの掌をまじまじと見つめてくる。
 淡はすぐに手を引っ込め、表情の乏しい少女の顔をじろりと睨み付けた。

「何、見てんの」

「いえ。何でも」

 少女はかぶりを振ると、冷え切って震えている淡の肩を優しく叩いてから、立ち上がる。そして護衛に命じた。

「彼女を、私の離宮まで連れて行ってください。私が帰るまでに、食事と着替えを」

「待ってよ、アンタ。身分が高い女は、若い女奴隷を寝室に連れ込んで享楽に耽っているって話を聞いた事があるんだけど、アンタも私を使って、そうするつもりなわけ?」

「無礼な口をっ……!」

「ごめんなさい。原村さん」

 少女が護衛を制止し、剣呑な雰囲気を放っている淡を静かに見下ろす。

「あなたの名前は?」

「……大星淡」

「では、大星さん。私の名前は宮永咲です。アナタは私に買われたんです。今は何も聞かず、離宮へ戻ったほうがいいですよ。それにアナタは凍傷を起こしかけています。手足の指を切断したくなければ、大人しく従ってください」

 咲は抑揚のない口調で言い放ち、絶句している淡に背を向けた。

「では、原村さん。私は予定通り鉱山へ向かってきます。」

「いや、今日は雪が舞っていますし、危ないですから私も」

「いいえ。見知った道なので、私なら一人でも大丈夫。あの女性のほうが一刻を争う状態ですから」

「だったら、監督官にでも命じて……」

「彼等はお金でしか動きませんし信用に足りません。私の手持ちのお金は、先ほど全て渡してしまいました。大星さんの護送は、信頼した原村さんにしか頼めません」

 少女と衛兵が小声で話しているのを、淡は不機嫌な顔で見上げていた。いつの間にか、奴隷監督官たちは金貨の袋を囲み、この後は飲みに行こうと予定を立てている。
 淡は雪の上に座り込んだまま、風が吹きすさぶ曇天を見上げて深く溜息を吐いた。再び、小柄な少女の姿を見つめる。



「……これもまた一つの手段、なのかな…」



 その呟きは、どこまでも白い雪の中へと消えていく。ほどなく、面倒臭そうな顔で引き返してきた護衛兵に連れられ、淡は雪を踏みしめて歩き出した。緑琥珀色の両眼に、鈍く鋭い光を灯しながら。




 芯まで冷えた重たい身体を引きずって離宮に帰還した宮永咲は、宮殿の最奥に位置する私室へ辿り着くと、薄絹の手袋以外、全ての防寒具を脱ぎ捨てて天蓋付きの大きな寝台へと倒れ込む。
 だが、ふかふかのシーツに沈み込み、疲労に任せて夢の世界へと旅立とうとしていた時、間近で人の気配がした。寝台が軋んだ音を立てた直後、咲の身体は反転していた。仰向けにされて、上に誰かが覆い被さってくる。

「帰りが随分と遅かったねぇ、王女サマ。待ちくたびれちゃったよ」

 薄暗い部屋の中に響き渡る女性の声。一瞬、これは誰だと考えた咲だったが、すぐに答えに行き着いた。昼間、鉱山の近くで命を救った奴隷だ。名は大星淡。

「どうして、大星さんがここに……?」

「どうしても何も、離宮へ連れて行けってアンタが指示したんでしょ。アンタが王女だって聞いてびっくりしちゃったよ、私」

「そうじゃなくて。何故、私の寝室に居るのかと尋ねているんです」

「さぁね。離宮に連れて来られた途端、小うるさいメイドに風呂へ押し込まれて全身洗えって命令されて、汚れ一つ残っていたら外へ放り出すとか脅されたんだよ。必死に洗って出たら、今度は味のしないスープとパンを腹いっぱい食べさせられて、もう散々だよ」

 咲は片手を伸ばし、枕元の明かりのスイッチを入れる。淡い光によって室内が明るくなり、彼女は自分を組み伏せている相手の顔を初めてしっかりと見た。
 昼間、発見した時は薄汚れて顔立ちもよく分からなかったのだが、その奴隷はとても端整な面立ちをしていた。髪も染めていたらしく、黒い染め粉を綺麗に洗い落とされた彼女の地毛は輝くような金髪であった。睫毛が長い両の瞳も、髪と同じく黄金色だ。
 つまるところ、咲が買った奴隷は美少女。
 まさに、そういった形容詞が似合う、容姿端麗な女性だったというわけだ。

「で、私はわけが分からないまま、こうしてアンタの寝室に放り込まれたんだけど……何をご所望、王女サマ。私は奴隷らしく、ご奉仕すればいいのかな」

 淡が嘲笑を浮かべ、咲の服に手をかけてくる。
 瞬間、咲は両手を突き出して淡の肩を押していた。

「退いて」

「はぁ? ……へえ、なるほど。そういうのをお好みってワケね。この国の王族の女は好きモノが多いって聞いてたけど、理解したよ」

 何を勘違いしたのか、寝台から這い出そうとする咲を抱きすくめた淡が、強引な手つきで服の中に手を突っ込んできた。首筋に唇を押し当てられ、生温かい舌で舐められただけで、咲の全身に鳥肌が立つ。

「王女って豊満な美女を想像してたけどさ。でも、思っていたより華奢で細いんだね。まぁ、私は気にしないよ。どうせ金で買われた奴隷だし、こうして王女様に奉仕すりゃいいんだよね」

 耳元で次々と吐き出される言葉に咲は唇を噛み締め、絡みついてくる腕を渾身の力で振り払おうとしたが、抵抗は逆効果だったようで、目つきを剣呑とさせた淡が顔を傾けて唇に噛み付いてきた。冷たい唇が触れ合い、唇の表面とは温度差がある生温かい舌がぬるりと彼女の口内を抉じ開け――刹那、咲は片手を振り上げて淡の頬を張り飛ばしていた。
 パシン! と乾いた音が響き渡る。

「っ!」

「やめて」

 咲は低い声を絞り出し、叩かれた頬に触れて呆然としている淡を睨みつけた。

「いつ、私がアナタに、こんな娼婦紛いの行為をしろと言ったんです?見つけた時、アナタは凍傷になりかけてた。両手両足の指を切断したら、まだ若いアナタの将来は無くなってしまう。だから助けたんです」

 咲は毛布を手繰り寄せ、乱された服の上に巻き付ける。

「会ったばかりの女性と肌を重ねる事に、少し抵抗を持ったらどうなのですか。もっと自分の身を大切にしたほうがいいですよ」

 咲は震える手を毛布の下に隠し、疲労で朦朧とする意識を必死に手繰り寄せながら、襲われそうになったという状況で不覚にも泣きそうになっている顔を背けた。

「ですが、アナタの処遇について相談せず、帰りが遅くなってしまった私にも非があるのは確か。この寝台はアナタが使ってください。暖炉の火を絶やさないように、指先を温かくして寝るんですよ」

「……あ、の」

「私は隣の部屋に居ます。何かあったら、ノックをして入ってきてください」

 咲は、何かを言おうとする淡を遮り、毛布を身体に巻いたまま足早に隣の書斎へ移動した。後ろ手に扉を閉め、ふらふらと覚束ない足取りで、読書する時に用いているカウチに向かった。火を起こす元気もなく、咲はカウチに横たわる。小柄で華奢なので、寝転がっても幅が丁度良い。
 窓の外は今夜も吹雪。立てつけの悪い窓ががたがたと悲鳴を上げている。空気が冷えきった書斎で、咲は一枚の毛布を頭から被って猫のように丸くなった。疲弊した肉体と、先程の衝撃的な出来事のせいで一筋の涙が零れる。
 それからしばらく声を殺して泣いていたら、いつの間にか泣き疲れて眠っていた。






 静かに閉まった書斎の扉を見つめて、淡は頭を掻く。てっきり、『そういう目的』で買われたのだと思っていた。彼女は女だが、そこに感情が伴わなくても女を抱ける。実を言えばそのほうが都合良くもあった。王族から寵愛を受けると、快適な生活を得られるし動きやすくもなるからだ。

「……あーあ、失敗しちゃった」

 宮永咲と名乗った王女の発言は、どこまでも誠実で。
 淡が触れただけでも、怯えたように震えていた。頬を叩かれた辺りから表情の乏しい彼女の顔をつぶさに観察していたので、泣きそうになっていた事も知っている。

「自分の身を大切にしろって、初めて言われたよ」

 淡は、湯に浸かり食事を取った事により、体温を取り戻しつつある指を握ったり閉じたりした。躊躇しながらベッドから降りて、書斎の扉を控えめにノックする。返事は無い。

「ここ、開けていい……?」

 またしても返答はなく、淡は逡巡の後にドアノブに手をかけた。静かに押し開けると、ひんやりした空気が頬を撫でる。明かりの点いていない書斎は、暖炉の火で暖められている寝室とは気温が違った。

「……そのー……さっきは、ごめんね」

 謝り慣れていない淡であるが、先刻の遣り取りは一方的に自分が悪かったのだと自覚している。小声で謝罪を口にしながら、寝室から漏れ出す明かりを頼りに室内を見回していた彼女は、ふと窓際のカウチで視線を止めた。
 よもやと思い、そちらに足を向けてみたら、探し人はそこに居た。薄い毛布一枚に包まり小さくなって、寝息を立てている。身を屈めて覗き込めば、頬には涙の痕が残っていた。

「何で、王女のくせにベッドを奴隷に譲って、自分は書斎のカウチで寝ているの?」

 淡は、今まで抱いた事がない罪悪感に身を焼かれながら舌打ちをする。そして溜息混じりに身を屈め、毛布ごと咲を抱き上げた。想像していたよりも、ずっと軽かった。
 王族なのだから豪勢な食事をして肥えていると思っていたのに、手袋を嵌めたままの手首を見ても枝のように細く、華奢と言うか――むしろ痩せすぎている気がする。
 寝室のベッドまで運んで寝かせるが、咲は起きる気配がない。寝顔を観察してみると目の下には隈が出来ており、眉間にも皺が寄っていた。
 淡は書斎の扉を閉めると、足元に丸まっている布団を咲に掛けて、その隣へと滑り込む。枕元の明かりを消し、三人は眠れそうな広いベッドの中で、言われた通りに手足を温めながら彼女に背を向けて眠る体勢に入ったら、微かな寝言が耳に届いた。

「……ご……さ」

「?」

「ごめ……ん……な、さ」

 淡は目を瞬き、肩越しに王女を見つめる。暖炉の火だけが光源の室内で、彼女の頬に涙が伝っているのが視認できた。

「もうね……そういうのは、やめて欲しいんだけど」

 淡は王女に買われた奴隷。おまけに出会ったばかりで、彼女にぐうの音も出ないほど叱られた。その流れで、この面倒な流れは本当にやめて欲しい。
 淡は無視をして眠ろうとした。寝言もそれきり聞こえなくなったので、そのまま寝てしまえば良かったのに、眠る前にどうしても気になってもう一度だけ彼女のほうを見た。
 咲は、声も出さずに泣いていた。閉じられた瞼の間から涙を流し、眠っている。

「……ああもうっ」

  淡は悪態を吐いてから、身体の向きを変える。眠る王女を腕に抱き込み、今度こそ目を閉じた。
 相手は王族だ。放っておけばいいのに。
 頭では分かっていても、淡は泣いている王女を抱擁し続けた。
 あんな風に、自分の身を大事にしろと叱られたのは初めてだったから。
 奴隷という身分の人間を、対等の立場として見ている王族に出会った経験は一度も無かったから。
 何て、変わり者の王女。

『……忘れることなかれ、大星淡よ』

 不意に脳裏を過ぎった誰かの言葉に、淡は苦虫を噛み潰したような顔をして、冷え切った指先に王女の温もりを感じながら目を閉じていた。





 まだ、夜が明けきらぬ時間帯。
 咲は目をぱちりと開けた。久しぶりに熟睡し、疲れも取れている。

「ん……あたたかい?」

 いつになく、ベッドの中がぬくぬくしている。寝返りを打った咲は、すぐに寝床が温かい理由を知った。
 口を半開きにし、涎を垂らして眠っている大星淡の顔が目の前にある。殴って起こす、もしくは悲鳴を上げなかったのが奇跡に近い。
 咲は昨夜の記憶を辿り、溜息を吐きながら起き上がった。書斎で眠りに落ちたのだが、いつの間にか寝室に移動している。彼女が移動させてくれたのかもしれない。
 ベッドに腰かけた咲は、泣き腫らした顔を手の甲で擦り、幸せそうな寝息を立てている淡を見下ろした。そして、シーツの上に投げ出されている彼女の手をおもむろに取り、肉刺だらけの手の平を眺める。全体的に指が長くて綺麗な手の形をしていた。彼女は手の甲もじっくりと観察してから、布団の中にしまってやった。
 咲は淡が寒くないように肩まで布団を掛けてやると、書斎に続く扉とちょうど真向いにある扉に向かう。寝癖で鳥の巣になっている髪を手で撫でつけながら、扉を開けて化粧室へ入った。




 どれだけ遅い時間に就寝しても、必ず早朝に起きて温室に向かうのが宮永咲の日課。剪定鋏と籠を携え、白い息を吐き出しながら青い冬薔薇の咲き誇る温室を見て回る。温度調整がされている温室では、薔薇は年中枯れる事がない。
 一年の数か月間だけ太陽が射す『春』の時期でさえも、この温室は一定以下の気温に保たれていた。
 普通、温室で花や作物を育てる場合、気温は一定以上の温度に保たれる。だが、ここで育てられているのは零下の気候でしか咲かない冬薔薇。国花であり、ジェラーユ ヴァム シャースチヤと称され国民に愛されている花。
 もしも気温を上げたら、花は一斉に枯れてしまうだろう。また、費用的な問題もあった。この寒い気候で温室ほどの広い空間を一定以上の温度に保ち続けるには、莫大な費用が必要だ。一方で、一定以下の気温に保つならば、普段の冷たい外気との調節の関係でそれほど費用はかからない。

「ジェラーユ ヴァム シャースチヤ……♪」

 咲は鼻歌を口ずさみながら、咲き誇る薔薇のアーチの中を進み、やがて温室の奥に設置されている小さな花壇へと至った。花壇の前でしゃがみこみ、絹の手袋を外して冷たい土に手を差しこむ。

「今回も駄目なのかぁ」

 咲は芽を出さずに死を迎えた花の種を拾い集め、小さな手に乗せた。

「やはり、この気候では駄目なんですね……吹きすさぶ雪の中、青薔薇ではなく暖色の花を咲かせるのは難しい」

 悴んだ両手に吐息を吹きかけ、彼女は嘆く。
 今日も、外は吹雪。春はまだ遠い。


 其処は、冬に閉ざされた王国。
 氷と雪に囲まれた、冷たい世界。


  





〈2章 こうして奴隷は姫の想い知る〉








「ジェラーユ ヴァム シャースチヤの新作、読みまして?」

「ええ、もちろんです。今回の話も素晴らしくて、最後まで一気に読んでしまいましたわ」

 北の王国の首都に聳える荘厳な王宮では、毎晩のように夜会が開かれている。
 そこかしこで、貴族の女性達が扇を片手に、上流階級内で人気の作家
『ジェラーユ ヴァム シャースチヤ』の話をしていた。
冬に閉ざされたこの王国では目にする事がない春めいた風景描写と、そこで出会う女同士の一途で美しい恋愛模様が裕福なマダム達の人気を博している作家だ。
作家の素性は謎だが、ペンネームは国花の薔薇の名から取っているらしい。
 つい先日も新作が出版されたばかりで、貴族達は我先にと群がりそれぞれに感想を言い合って、毎夜のように批評をしていた。
 宮永咲は、無表情のまま彼女達の脇をすり抜けた。

 国王には、正妃と側室の間に二人の息子と十人の王女がいた。咲は十番目の末の王女。彼女は美しくて華やかな姉達に比べたら地味で、影の薄さと同じくらい王からの興味も薄かった。

 そのせいか咲は王宮の夜会に呼ばれる機会が少なく、離宮に閉じこもって、半ば世捨て人のような暮らしをしていると思われていた。
 今宵もまた、夜会に出席したと言う事実さえあれば咎められないと判断し、咲は早々に夜会を後にした。広間の外に控えていた二人の護衛と合流して、玄関ホールを横切って王宮を出る。

「いいのですか。久々に王宮に呼ばれたと言うのに」

「お父様に挨拶は済ませてるから支障はないはずです」

 咲は馬車に乗り込みながら、巨乳の護衛隊長、原村和の質問に淡々と答えた。

「早く離宮へ帰るのが得策だじょ!!」

「咲さん。馬車の中が寒かったら言ってくださいよ」

 原村ともう一人、護衛として王宮まで付いてきた片岡優希が、暗い空気を払拭するようにわざと明るい口調で声をかけてくる。
 咲も薄らと笑みを浮かべ、優希の気遣いに、ありがとうございますとお礼を言った。



 離宮は、王宮から馬車で三十分程度かかる。馬車で雪道を進んでいる間、咲は窓越しに外で舞っている雪の花弁を眺めていた。
 馬車が離宮に到着すると、扉の外から和が声をかけてくる。

『扉を開けますよ、咲さん』

「はい、原村さんありがとうございます」

 咲は和の手を借りて馬車から降り、踵の高い靴で雪を踏みしめながら玄関へと向かった。玄関の扉の横には衛兵が二人立っており、咲に頭を下げてくる。

「池田さん、福路さん。お仕事ご苦労様です」

「咲もだし。やけに帰りが早かったけど、挨拶は出来たし?」

 顔を上げた衛兵の一人、池田華菜が不思議そうに視線を投げかけてくる。
 咲が無言で頷いて目を伏せると、華菜の隣に立っていた福路美穂子が近づいてきて、彼女の頭を優しくポンポンと撫でてきた。慰めるような手つきに、咲は固く強張っていた頬を綻ばせる。心なしか肩の力を抜いた咲が、衛兵達に付き添われて玄関ホールの扉を開けた瞬間、

「ちょっと! 勝手に動き回らないで、って何度言ったら分かるのよ!」

「散歩してるだけじゃんか!!離宮の中では好きにしていいって王女サマに言われたんだよ!」

「咲がそう言ったとしても、私はこの離宮のメイド頭よ! あなたみたいな女がふらふらしていると、執事連中が見惚れて仕事を放り出すから困るって言っているの!」

「私ってそんな可愛いかな~まぁ絶世の美女であることは確かだけど」

 玄関ホールから上階に続く大階段の横に、メイド頭である竹井久の叱責を、頭の後ろで腕を組んで飄々と受け流している大星淡が居た。
 と、咲の帰宅に気付いた淡が、未だ続いている久の罵声から逃れるように、早足で彼女のもとへと近付いてきた。

「お帰り、姫様。お早いお帰りだね」

「ただいまです、大星さんはまた、久さんと諍いを?」

「咲、この自由人を何とかしてちょうだい! あちこちふらふら歩き回って、執事を誑かしているのよ!最近ではメイドまで…はぁ」

「それは言いがかりだもんね。私は何もしてないし。向こうから寄って来るだけで」

 腰に手を当てて目を吊り上げている久を横目に、淡は薄ら笑いを浮かべている。反省している様子は見られない。
 咲は深く息を吐き出した。軽く背伸びをして、拳でコツンと淡の額を叩く。

「あまり久さんを困らせないでくださいね。好きにしていいとは言いましたが、メイドさん達や執事さん達の仕事の邪魔をしろとまで言っていませんよ」

「……むぅ、ごめんなさい」

 淡が不満げに口を突き出し、ぎこちなく謝罪の言葉を口にした。
 咲は握っていた拳を開き、聞き分けのよい淡の頭を一度だけ撫でる。彼女が瞳をぱちぱちさせている間に手を引き、久や衛兵に夕食の支度をするよう指示をして身を翻した。
 自室へ向かい始める咲の後を、淡もついてくる。

「ねぇねぇ、お姫様」

「前から言おうと思っていたんですが、その呼び方はやめてください。名前でいいですから」

「じゃあ、咲。帰りがやけに早いけど、夜会は楽しかったの?」

「まあ」

 咲は必要最低限の返答で済ませ、静まり返った廊下を歩き続ける。
 淡ものらりくらりと後を追ってきた。

「私も何か仕事したほうがいいのかな」

「大星さんがそうしたいのなら」

「私は咲に買われた奴隷だから、意思を問われても困るんだよね。咲が離宮に居る間は傍仕えの仕事ができるけど、居ない間は咲に指示してもらわないと。大体さ、ほぼ一日中離宮を空けて咲はどこへ行っているワケ?」

「……」
 
 咲は沈黙した。答える義務はない。奴隷だった淡を買った日の翌朝、何か仕事をしたいかと本人に問うたところ、淡は『咲の傍仕え』がしたいと即答した。つまり、メイドのように咲の身の回りの世話をすると。
 咲の離宮には最低限の使用人しか居ない。公式の場に赴く時には、久や他のメイドに手伝ってもらって着飾ったりもするが、それ以外の日常の些事、たとえば着替えや湯浴みと言った身の回りの全てを、咲は一人で行なっていた。
 理由は二つ。いちいちメイドの手を借りる事が煩わしいという点と、母が存命だった頃から、自分の事は自分でできるようにしておきなさいと言う教育方針だったからだ。
 そもそも咲は、他の王族に比べたら住まいとしている離宮に居る時間が極端に少なかった。昼間はほとんど出かけており、夜は書斎に籠もって出てこない。その内身体を壊しそうで心配だと久に小言をもらう回数も多かったが、咲は今の生活スタイルを変えるつもりはなかった。

 だから、淡が傍仕えをしたいと申し出たときも、一瞬どうしたものかと考えたのだが、最終的には好きなようにさせると決めた。
 金で買った野蛮極まりない奴隷。しかも、口が悪くて生意気な淡を咲の傍にする事を、久や他の使用人は嫌がっていたけれど、本人がそれを望んでいるのだから仕事を与えるまでだと、咲は滔々と皆を説き伏せた。
 そして、淡が傍仕えとなって既に一週間が経過していた。

「ちぇっ。また黙秘だよ。奴隷には言えないような事なんだ。一日中離宮を空けて夜遅くに帰ってくるくらいだし、どうせ、愛人のところへでも行っているんでしょ?」

「察しがいいですね。その通りです」

「え? 嘘、マジで?」

 淡の冷やかしを、咲は間髪を容れずに肯定して、自室の前で足を止める。扉の前で部屋の警護をしている衛兵にも一声かけ、彼女は部屋に入った。

「咲、本当に愛人が居るの?」

「ええ。数えきれないほど居ます」

 今夜の予定を頭の中で練りながら、咲は防寒具を脱いでいく。後ろ手に扉を閉めた淡が近付いてきて、侍従のように彼女の手から質素なコートを受け取った。

「それ嘘でしょ。咲、そんな風には見えないもん」

「そんな風、とは?」

「そこかしこで愛人を囲っているようには見えないよ。そもそも咲から、女の色気とかも感じられないし」

「腹立たしいですが、色気がないという点については言い返せません」

 探りを入れてくる淡を咲は軽くあしらい、手袋をしたまま書斎へと足を踏み入れた。
 室内は暖かかった。誰かが気を利かせてくれたのか、暖炉には火が入れられている。

「部屋、暖めておいたよ。何をしているのか知らないけど、ここ数日、咲は帰ってくるとすぐ書斎に籠もって朝まで出てこないから」

「ありがとうございます」

 咲は書斎の執務机に向かい、椅子に腰かけて紙と羽ペンの用意をする。
 戸口に凭れてそれを眺めていた淡が、声をかけてきた。

「咲。夕食は?」

「後で頂きます」

「風呂の準備も出来てるんだけど。外出して冷えてるだろうし、せめて湯に浸かって温まったら?」

「後で入ります」

 咲は生返事をしながら、ペン先をインクに浸して紙に向かった。淡が呆れたように肩を竦めているが、咲の意識はもうペン先に集中していた。
 書きたい物語を思いついたのだ。忘れる前に書いておかなければ。
 ペン先を紙に置くと、黒いインクが滲む。咲は手を滑らせ、無心で文字を綴り始めた。

『春の木漏れ日が差しこむ、西向きの部屋。王女は昼寝から目を覚ます。太陽の日差しは寝起きの彼女の身を優しく包み、頬を撫でる春風が寝起きの顔を擽った。心地よい目覚めに頬を緩めた王女の背後から、彼女を呼ぶ愛しい人の声がする。王女はカウチから身を起こし、歩み寄ってくる恋人に微笑みかけ、口を開く。おはようございますと挨拶をしたら、恋人は笑って彼女に一つ、甘いキスをくれた』

 区切りのいいところで、咲はペンを置き、日頃の寝不足と疲労から重たくなった瞼を手の甲で擦る。

「それ、小説?」

 不意に背後から声がして、肩に厚手の上着がかけられた。
 咲ははっと顔を上げ、気配なく現れ、横から覗き込んでくる淡を見やる。

「……、奴隷なのに文字が読めるんですね。どこかで習ったんですか?」

「まぁね。というか、超意外。恋愛小説?」

「趣味で書いているだけです」

 咲はさり気なく紙を裏返し、ペンを置いた。肘を突いて眉間を押していたら、肩に手が置かれる。

「少し、休んだほうが良くない?」

「ええ……あ、そういえば、夕食がまだでしたか。私が食べないと大星さんも食べられませんでしたね。すみません。久さんに言って、部屋に運んでもらいましょう」

 咲が立とうとすると、淡に肩を押されて再び座らされた。

「咲、自分が姫様で私が傍仕えだってコト忘れてない? 私が行ってくるから、ここで休んでて」

 淡がじっとしているように念を押して、書斎を出て行く。何だかんだ言いつつも、淡は自分の立場と仕事を弁え、何かと彼女の負担を減らそうとしてくれた。部屋を暖めておいてくれ、風呂の支度をしてくれる。タイミングを見計らって、休憩をするように進言もしてくれる。傍仕えは要らないと思っていたが、さり気ない気遣いで負担が少しでも減るのは嬉しいものだ。
 咲は背もたれに身を預け、彼女が仕出かした初日の狼藉については、今の仕事ぶりに免じて水に流そうと決めた。
 しばらくぼんやりと天井を見上げていたら、淡がお盆を手に戻ってきた。

「あのメイド頭、私にはほんと風当たりが強いよ。食事を持って行くだけなのに、絶対に粗相だけはするなって耳が痛くなるほど言ってくるんだけど」

 淡が文句を言いながら、書斎の机に夕食のお盆を置いた。夕食のメニューは野菜のスープと、焼きたてのパン。以上。
 咲が黙々と夕食を食べ始めると、傍らに控えた淡が顰め面で見下ろしてくる。

「大星さん。視線が気になるんですが、何ですか」

「ここに来た時から言いたかったんだけど、もう少しマシな食事は出ないの。何度も聞くけど咲ってお姫様なんだよね? 王族の食事って、七面鳥の丸焼きとか豪華なデザートとか、そう言うのを想像してたんだけど」

「お腹に入れば、何でも同じです」

「それはそうだけど……」

 どこか不満そうな淡に、咲はパンの欠片を差し出した。

「これを食べてみてください」

「はぁ。どうも」

「美味しいですか?」

「……ただの、パン」

「でも、お腹は膨れます」

 咲は前に向き直り、もぐもぐとパンを食べ続ける。

「大星さん。奴隷だった時は、どんな食事をしていましたか」

「……固いパン」

「今、アナタが食べたパンは?」

「柔らかい、焼きたての、パン……」

 咲はパンを咀嚼して飲みこみ、口を尖らせている淡へと頷きかける。

「国民の何人が焼きたてのパンにありつけると思いますか。この気候と貧富の差のせいで、半数以上はかつての大星さんと同じく冷えて固くなったパンを食べています。だから私たちは、感謝しなくちゃいけないんです」

 淡が緑琥珀色の瞳を瞬き、表情を消して咲の顔をじっと見下ろしてきた。
 咲はその視線に気付かないふりをして、口調を少しだけ明るくする。

「まぁ、パン以外にスープしか出てこないという点については、別の理由があるんですけれど」

「理由って?」

「一人で厨房を取り仕切っていた腕の良いコックが、今は遠くに行っているんです。現在、離宮に居る使用人たちは料理が不得意でして。因みに、あの人の料理は絶品ですよ。いつか、大星さんにも食べさせてあげたいですね」

「新しいコックさんを雇えばいいじゃん」

「いいえ。あの人が帰ってくるまで、コックの座は空けておくつもりです」

 咲はパンを食べ終えると、スープには口を付けずに両手を合わせた。

「ご馳走様です」

「スープ、手つかずなんだけど。パンも、小さいの一個しか食べてないよね?」

「お腹がいっぱいなんです。もし良かったら、スープは大星さんが食べてください。私は手を付けていませんから」

「咲、昨日もそう言って、パンしか食べていなかったよね。食が細すぎるよ」

 咲は苦笑しながら聞き流し、席を立とうとして――淡がタイミングよく椅子を引いてくれた事に気付き、ぱっと顔を上げる。

「……それ、どこで習ったんです?」

「それって?」

「椅子を引く動作です。上流階級の人間は、他の女性のエスコートをする時にそうするんです。手慣れているように見えましたけど……」

 咲の指摘に淡が一瞬きょとんとして、椅子の背もたれに置かれた自分の手元に目を落とした。彼女はしばし動きを止めていたが、やがて、にへらと笑う。

「ふぅん。気を利かせたつもりだったんだけど、上流階級の仲間入りしたみたいで照れちゃうね」

 咲は小首を傾げて淡を見つめ、ふいと視線を逸らした。
 淡の発言に対して特にコメントはせず、書斎の扉へ向かう。

「湯浴みをしてきます。大星さんも夕食を食べたら、自分の部屋に戻っていいですよ」

「咲。私、今日もここで寝たいんだけど」

「大星さん……久さんにあれほど叱られているのに、まだ懲りていないんですか」

 咲は呆れ返って首を横に振ったが、咎めはしなかった。もともと彼女は、必要な時以外は使用人に命令をする事が嫌いだし、特に淡に関しては放任主義だった。
 あの夜以来、淡は、勝手にベッドに潜り込んでくる点を除けば、咲に対して主従関係を守っている。たまに、お喋りすぎて鬱陶しいと思う時はあるけれど。

「だって寒いんだもん。一人で寝ていると、深夜に寒くて目が覚めちゃうんだよ」

「だからといって王女のベッドに潜り込むなんて、普通だったら不敬罪で衛兵に斬り捨てられていますよ」

「大丈夫だよ。不届きな真似はしないし? 私が如何にバイではあっても女性の好みは、もうちょいこう、ムッチムチのぷるんぷるんの豊満な女性なんだから!」

「大星さんのその発言、立派な不敬罪です。斬り殺されちゃいますよ。」

 咲が睨み付けると、淡は慌てたように両手を横に振って誤魔化し始めた。彼女とこうした無意味なやり取りをしていると、不思議と平和だなと感じる。
 初日の夜、咲が見目麗しい奴隷を買ったと知った久が、何を勘違いしたのか寝室に黄瀬を放り込んできた。そういう目的で買ったのだと思われていたらしい。
 翌朝、久に事情を説明して納得してもらい、咲の私室の近くに淡の部屋を用意してもらった。浴室や洗面所に加えてベッドもあり、奴隷としての生活に比べたら破格の待遇であるにも拘わらず、大星淡はそこでは寝ずに、毎晩どさくさに紛れて咲のベッドに潜り込んでくるのであった。

 咲も基本的には淡を放置しているので、仕事がなくなった彼女にもう寝ていいですよと指示を与えたら書斎に籠もり、机やカウチで力尽きて寝てしまう夜が非常に多い。その間、どうやら淡は部屋に帰らずにリビングで寛いでいるらしく(ふてぶてしい態度にも程があるが)、咲が寝たのを見計らって書斎にやってくると、寝室のベッドへと運ぶ。

ついでに、一緒にベッドに入ってくるというわけ。
 一旦外に出てしまえば、深夜は衛兵に咎められて王族の私室に入室は許されない。それが分かっているから、淡は早い時間帯に湯浴みを終えて寝支度までし、傍仕えとして咲の帰宅を迎え、世話をしてくるのだ。
 何も考えていなさそうに見えて、なかなかに策士である。

「お陰で、私が大星さんと妙な関係にあるのではと、皆さんに勘繰られているのですが」

「いいじゃない。それにほら私可愛いからさ?」

「意味が分かりませんし、少しイラっとしちゃったんですけど」

 書斎を出て寝室を突っ切り、備え付けの浴室へ足を踏み入れた咲は、ふと足を止めて振り返る。頭の後ろで腕を組み、当然のような顔で浴室内までついてくる淡を見つめた。

「中には入ってこないでください」

「気にしなくていいよ。王族の女性って、使用人に裸を見せる事に慣れているものでしょ。奴隷にも、こういう世話を普通にやらせるって聞いてるし」

「中に入らず、外で待っていてください」

 咲は淡々と言い放ち、淡の目の前で扉を閉めた。


 

「ほんと、変な王女ー」

 締め出された扉の前で淡はぽつりと呟き、チラと視線を書斎に向けた。頭の後ろで組んでいた腕を身体の横に下ろし、半開きになっている扉から、書斎に入った。
 普段、許可なく入室を禁じられている書斎。咲が外出中は彼女が所持する鍵で施錠されていて入れない。
 淡は書斎を見渡し、執務机へと向かう。脇に積まれている紙を手に取り目を通した。
咲が執筆していた小説だ。温暖な国で繰り広げられる恋愛模様が描かれている。
 淡は一枚だけ流し読みをして、そっと紙を伏せた。それから、壁際に置かれた本棚にびっしりと隙間なく陳列されている本を眺める。
 重要そうな帳簿や何かの取引の記録らしき書物もあるが、大部分は異国の本や資料だった。諸外国の貿易についての評論文。温暖な地域で育つ植物の図鑑。外国で使われている貨幣通貨の専門書。ありとあらゆる種類の書籍があったが、大半は自国ではなく、外国から取り寄せたものらしかった。
 その中でも目を惹いたのは、宝石や鉱物の図鑑だった。背表紙がかなり擦り切れている。
 淡はその本を取り、ぱらぱらと頁を捲った。付箋が張られ、どの宝石がどれだけの価値で取引をされるか事細かに書かれている。
 一通り目を通した淡は本を元の位置に戻し、更に探索を続けようとして――。

「大星さんの興味をそそるようなものが、ありましたか」

「!」

 室内に響き渡る声に、淡は弾かれたように振り返った。
 気配なく現れた咲が、相変わらず絹の手袋は外さずに、バスタオルで髪を拭きながら戸口に立っている。

「は、早いね……ちゃんと温まってきたの?」

「ええ、ご心配なく。ここにある本は、ほとんど全てが外国から取り寄せた資料です。春の時期、外国へ行商に出かける宝石商に知り合いが居て、ついでに買ってきてもらいます」

「あ、そのー……勝手に見て、ごめんなさい」

「いえ、構いません」

 咲が静かに近付いてきて、淡が本棚に戻したばかりの鉱物の資料を手に取った。

「これを見てください。書かれている数字は、王国で取れる宝石が外国で取引される際の相場です。法外すぎる価格ですよ。それなのに、この国が賃金として支払う人件費はあまりにも少ない」

「そう、なんだ……」

「ええ。興味がありますか」

「……いや、私は」

 咲は目を泳がせる淡の手に鉱物の資料を押し付けて、本棚に目を走らせ始める。

「この地図を見てみましょう。これは、王族だけが所有を許される王国の詳細地図です。雪融けの時期に国外へ出るための山脈ルートも描かれています。この道の他にも、山脈の麓に住む地元民だけが知るルートがあるんですよ」

 咲が本棚の下の段から大判の地図を持ち出し、書斎の机へと持っていく。
 淡は引き寄せられるようにして彼女の後を追い、開かれる地図を覗き込んだ。

「赤い線で描かれているのが道です。地元民しか知りませんが、実はこのルートのほうが、行商人が使うルートよりも比較的安全です。冬場でも装備さえあれば山脈を越えられます。王族は、ここを使って冬場の食糧調達を行なっています」

「……」

「ただ、危険な箇所もあるようです。主にはここと、ここです。渓谷があって……」

「咲」

 淡は固い声で制止し、地図をなぞる咲の手を止めさせた。

「そんなヤバそうな事を、どうして奴隷の私に教えるの?」

 すると咲が顔を上げ、黒い瞳でじっと見つめてくる。心の底まで見透かされそうな真っ直ぐな視線に、淡は思わず顔を背けた。

「大星さんには興味があるのではないかと思っただけです」

「私は咲に買われた奴隷だよ。地図を見せられても、よく分かんないし」

「そうですか」


 咲はあっさりとそう答え、地図をパタンと閉じた。
 だが、それをしまおうとはせずに執務机の上に置く。


「私が離宮に居ない間は暇でしょう。好きな時に書斎に入り、どの本も好きに見て頂いて構いません。私の傍仕えとして、知識を深めて頂けるなら大いに結構です」

「……そんな好き勝手にさせていいの。この地図奪って、逃げるかもよ?」

「お好きにどうぞ」

 咲は顔色一つ変えずに頷いて背伸びをし、彼女の意図を探ろうと疑りの眼差しを向ける淡の頭を、手袋越しによしよしと撫でてきた。

「口や態度は悪いですが、大星さん…いえ淡ちゃんはいい子です。さり気ない気遣いも気に入っています。でも私は、アナタを拘束するつもりでここに連れてきたわけではありません。淡ちゃんが自由になりたいと言うのなら、いつでも自由にさせてあげます」

「咲は……」

 淡は掠れた声で言葉を口にしかけたが、先を続けられずに黙る。その代わりに頭を撫でている細い手首を取り、躊躇いがちに握った。

「……ほんとに、変わった王女さまだね。奴隷にそんな事言うなんてさ」

 淡の呟きに、咲は小首を傾げながら手を引く。彼女に背を向け、寝間着に羽織っている厚手の上着の前をかき合わせる仕草をした。

「確かに、私は変わっているのかもしれません」

 咲が自嘲気味に言って、ゆっくりと扉に向かって歩き始めた。痩せた背中が余計に小さく見える気がして、淡も彼女の後を子犬のようについていく。

「私は咲に買われた奴隷。家が貧乏すぎて親も死んじゃったし。帰る場所もないから、ここで咲の為に働きたいの。だめ?」

「淡ちゃんの好きにしていいですよ。……私は、今から少し外に出てきます。どうぞ先に寝ていてください」

「こんな時間に何処へ行くの」

「温室です。花の様子を見に」

「私も行く」

 咲は足取りを鈍らせたが、淡を止めなかった。彼女はいつもそうだった。
 淡を拘束しない。命令しない。強要もしない。ただ、淡のやりたいようにやらせた。
 この七日間、王女の傍仕えとして勤め、彼女の人柄を知りつつある淡は、宮永咲は無意味に権威を振りかざす事に興味がないのだろうと推測していた。それだけでも十分変わっている。普通の人間は、手元にある権力をひけらかし、行使したくなるものなのに。
 咲は首にマフラーを巻いてから冷えた廊下に出て、衛兵に夜の挨拶をし、人気のない離宮の中を足音も立てず進んでいく。初めて会った時も思ったけれど、咲は比較的存在感が薄い。表情も乏しく、何を考えているか分からない。
 そのくせ、全てを見透かすような眼差しで見つめてきて、淡を驚かせる言動をする。
 宮永咲という女性は、本当に不可解だ。
 離宮の外れにある温室へと続く渡り廊下に差し掛かった時、咲がふと立ち止まって空を見上げた。廊下は外に面しているので、極寒の外気が直接肌を攻撃してくる。欠けた月が浮かぶ空にもちらほらと雪が舞っていた。

「……また、雪」

「?」

 咲は前に向き直り、歩行を再開した。その背中はやっぱり、今にも消えてしまいそうなくらい小さく見えた。
 ガラス張りの温室に到着して中に入っても、外とほぼ同じ気温だった。手が悴むほど寒い。淡が身震いすると、咲が立ち止まって振り返った。自分の首に巻いていたマフラーを淡の首に巻いてくれる。

「要らない。咲が風邪引くし」

「淡ちゃんのほうが薄着でしょう。私は慣れていますから」

 咲は無表情でそう言い、青い薔薇が咲き誇っている温室を見回り始める。
 淡は彼女の温もりが残るマフラーに顔を埋めた。とても暖かい。

「……絶対、変だよ。奴隷にマフラー貸すなんて」

 淡はぶつぶつ文句を言いつつも、王女を追いかける。彼女はアーチ型の薔薇の垣根を見て回りながら、何かを口ずさんでいるようだった。耳を澄ませると、それは旋律だった。

「……ジェラーユ ヴァム シャースチヤ♪」

「…ジェラーユ ?何て言ってるの?」

 淡は見事なまでに咲き誇る青い薔薇を見回し、尋ねた。
 咲が歩きながら、淡を見上げてくる。あの全てを見透かす両の瞳に射貫かれた。

「ジェラーユ ヴァム シャースチヤは、この青い薔薇の名前ですよ。雪にも負けず、大地に根を張って咲き誇る冬薔薇。この極寒の地で生きられるのは、この薔薇だけです。そしてこれは、この王国の……」

 何故か台詞を中断した咲は、彼女の説明に耳を傾けている淡の頭をもう一度撫でてきた。

「淡ちゃん、寒そうですね。髪が凍ってパリパリしています。そろそろ帰りましょうか」

「咲はもう、気が済んだの?」

「ええ。どうせ明日の朝も見に来ますから」

「じゃあ、私も頑張って起きるよ」

「私は早起きですから、淡ちゃんは寝ていていいですよ」




 咲が無表情で淡の肩を叩き、歩き出す。花の名を旋律に乗せ、鼻歌を歌いながら。
 ジェラーユ ヴァム シャース。
 淡は白い息を吐き出し、青い薔薇の中を歩く咲の姿を見つめ続けた。
 とても軽やかな旋律なのに。楽しげな曲調なのに。
 どうしてだろう。
 どうしてこのひとは、こんなにも哀しそうに、その旋律を紡ぐのだろう。
 この時の淡にはまだ、その理由が分からなかった。



 
 其処は、冬に閉ざされた王国。
 氷と雪に囲まれた、冷たい世界。
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プロフィール

さおがみ

Author:さおがみ
saosinこと、さおがみと申します。
基本的に百合ssを常に読みつつ。
あとは咲ssだけはちょびっと書いている感じで。

ゲームはほぼスマホゲーを囓ってます笑
モバイルレジェンドとクラッシュオブクランだけはちょいとばかし自信があり(*´Д`*)
大乱闘も多少は出来ます、FPSは荒野で開始60秒以内によく殺されます笑

漫画アニメは基本的に見ません読みません、書き手なので別にアンチとかではないんですけど、暇な時は基本的に書くか寝るか読むしかしません。
漫画は単純に高いのであまり買いません笑
無料で読むのも不敬なので決して読みたくない訳じゃないんですよ!

好きな作家さんは伊坂幸太郎とか…森見登美彦とか…
有頂天家族がアニメ化したときにはホントに喜んだものです…
好きなアーティストはRADWIMPSとか…saosinとか…
日本のアーティストの中だったら断然ラッドですね、大学卒業の時の動画でサークルメンバーとララバイを熱唱してる動画があります笑

ドラムをずっとここ最近練習してて…分かる人には分かると思うのですが…
やっとおかず抜きにではありますが、X JAPANの紅が叩けるようになってきました笑

はじめて一年で凄くない?!笑

あと知りたいことがあれば何でも聞いてください。
ルメさん咲さん今後ともよろしくお願いします。