朴正熙が日本から受けた恩恵
原(敬)首相は、教育・産業・公務員制度について日本人と朝鮮人との差別を取り除く政策を進めていると声明し、こうして朝鮮に再び平穏が戻った。その後も不満分子はときどき騒いだが、みごとに押さえられていた」。
朝鮮人が暴動を起こすのは日本統治時代に限ったことではありません。独立後も済州島事件(一九四八)や光州事件(一九八〇)など、ずいぶん反乱が起こっている。日本時代よりむしろ多いくらいです。
それはともかく、この一九二二年版ブリタニカの記述にも、すべて「アネクセイション」という言葉が使われているのです。
それから四年後の一九二六年に発行された第十三版には「アネクセイション・オブ・コリア」という項目がたてられ、「日清・日露戦争は、朝鮮が日本の心臓に向けられた短刀となることを防ぐための戦いであった」と記し、「朝鮮の宮廷人たちの気まぐれで自殺的な外交をやめさせるためには日本が合併するより方法がなかったが、とどのつまり、伊藤博文の暗殺によってクライマックスを迎えた」と、日本に対して非常に同情的に書かれています。

日本との合邦後、朝鮮半島ではいかに経済が発展し、安定したかというようなことも縷々述べられています。「朝鮮を治めるのは日本の責任であると東京の政府は考え、朝鮮王家は、高い名誉と潤沢な経済支援を受けることになった」と記されているのは、朝鮮の李王家に対する日本の丁重な遇し方のことです。日本の皇族に準ずる待遇をし、李垠皇太子のもとには梨本宮家の方子女王が嫁いでいます。侵略によって征服された「植民地」の王家であれば、本国の王家と婚姻を結ぶなど、ありえない話です。朝鮮王でシナの皇族の娘を妻とした例はありません。
それまでの朝鮮半島は清国に支配されていました。朝鮮は明に建ててもらった国ですから、明が清に滅ぼされたとき、義理立てして抵抗したものだから、清に徹底的にやられてしまった。清の属国だった時代が記憶に残っている人の話を聞かないと、そのひどさはなかなかピンときません。私は、たまたま元北朝鮮の脱走兵だった人を一年ほど家に住まわせていたことがあります。旧制の平壌中学を出た教養のある人でしたが、彼の話によれば、清末の朝鮮がなぜあれほど汚かったかといえば、清潔にしておくと清の兵隊がやって来るからで、だから彼らさえ近寄れないほど汚くしたのだというのです。おいしい食べ物があるとすべて持っていかれるから料理も発達せず、口にするのはおこげくらいのもの。倭寇が怖くて昔から海にも出られないから海の魚の料理の発達もなかったのだそうです。
だから、日清・日露戦争のときも朝鮮の民衆は日本に協力的でした。合邦についても、ブリタニカにもフェアに記載されていたように、たしかに反対派もいたしテロリストもいたけれど、大方の民衆は大喜びだったわけです。
合邦のおかげで朝鮮人がいかに救われたかは、一九六三年から七九年まで五期にわたって韓国大統領をつとめた朴正熙の伝記を読めばわかります。
朴正熙は極貧の家で七人目の子供として生まれています。日韓合邦以前の貧しかった朝鮮はいまの北朝鮮のようなもので、多くの人が春窮で餓死していました。だから、七人目の子など育つわけがありませんでした。それが日韓合邦のために生き延びることができただけでなく、日本の教育政策によって学校にも行けた。小学校で成績優秀だったために、日本人の先生のすすめで学費が免除される師範学校に進み、さらに満洲・新京の陸軍軍官学校に進学して首席で卒業したため、とくに選ばれて日本の陸軍士官学校に入りました。日本と合邦していなければ考えられないコースをたどって、結果的には韓国大統領として「漢江の奇跡」と呼ばれる経済成長を故国にもたらしたのです。これは日韓合邦によって韓国が受けた恩恵のめざましい一例と言えるでしょう。この種の例は無数にあったのです。
「われわれは日本を見習うべし」
日韓合邦時代における朝鮮人の暴動や反乱は、満洲事変以来すっかりなくなりました。それは、かつての朝鮮の支配民族だった清の満洲人に対して、朝鮮人が平等になったからです。満洲人に限らず、漢族のシナ人も、それまでずっと朝鮮民族を見下していて、朝鮮人はいじめられっぱなしでした。ところが、日韓合邦によって「自分たちは日本人だ」と言えるようになった。創始改名運動が起こり、日本人名になると、数千年間つねに頭を押さえつけられていた満洲人やシナ人に対して大いばりできたのです。それからは、いっさい朝鮮人の反乱がなくなりました。「日韓同祖論」が流行り、朝鮮の中学は修学旅行で伊勢神宮に参拝するようにもなった。戦争のときは志願兵も多かったし、朝鮮人の特攻隊員も数多くいました。
明治政府には、「コロナイゼーションはやらない」という覚悟が強くあったと思います。台湾は日清戦争後の明治二十八年(一八九五)に日本に併合されましたが、その約十年後に、『ロンドン・タイムズ』は以下のような主旨のことを書いています。
「わずか十年の間に台湾の人口は数十万人ふえた。イギリス、フランス、オランダも台湾を植民地にしようと思えばできたが、あえてそうしなかったのは、彼の地が風土病と伝染病が蔓延する瘴癘の地だったからである。しかも、山奥の原住民はともかく、住民の大部分はシナから逃げてきた盗賊だ。台湾譲渡を決めた下関条約の全権大使、李鴻章は、「日本に大変なお荷物を押しつけてやった。いまにひどい目に会うから見ていろ」と内心ほくそえんでいた。ところが日本は大変な努力をして風土病を克服し、人口を飛躍的に伸ばした。西洋の植民地帝国は日本の成功を見習うべきである」
『ロンドン・タイムズ』が評価した日本統治は、朝鮮でも同じように行われていました。
台湾合併は五十年、日韓合邦は三十五年続きました。戦後、韓国に戻って初代大統領になった李承晩の反日運動がなければ、そして半島が南北に分かれないままだったら、そうしてあと十五年、台湾と同じく、五十年間日本との合併が続いていれば、日本も台湾に近い感情で韓国に対してつき合うことができていたのではないか……。これは空想にすぎませんが、そんな気がしています。
渡部昇一(わたなべ・しょういち)
上智大学名誉教授。英語学者。文明批評家。1930年、山形県鶴岡市生まれ。上智大学大学院修士課程修了後、独ミュンスター大学、英オクスフォード大学に留学。Dr.phil.,Dr.phil.h.c.(英語学)。第24回エッセイストクラブ賞、第1回正論大賞受賞。著書に『英文法史』などの専門書のほか、『知的生活の方法』『日本興国論』などの話題作やベストセラー多数。小社より、『読む年表 日本の歴史』好評発売中。
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