日韓合邦は「アネクセイション」


 一八三〇年代になると、アメリカでは、「コロナイゼーショニズム」(colonizationism)=植民地主義とか、「コロナイゼーショニスト」(colonizationist)=植民地主義者という言葉も用いられるようになりました。これなどはまったく批判的な意味合いを持っています。

 もともと悪い意味ではなかった「コロニア」という言葉が、大航海時代に白人が有色人種の国を征服していくにしたがって「コロナイズ」という言葉を生み、「掠奪」「侵略」というイメージを持つようになったのです。

 その「コロナイゼーション」という言葉は、日韓合邦については私の知る限り、イギリスの文献にはまったく現れません。すべて「アネクセイション」(annexation)と書かれています。

「アネクセイション」という言葉は、イギリスの哲学者フランシス・ベーコンが一六二六年より以前に書いたといわれる“Union England and Scotland”(イングランドとスコットランドのユニオンについて)のなかで、「二つの国(民族)の土地から、一つのコンパウンデッド・アネクセイション(複合した合併)をなす……」と、平等というニュアンスで使っています。

 一八七五年には、ジェームズ・ブライスという法学者・歴史学者が、“The Holy Roman Empire”(神聖ローマ帝国)のなかにこう書いています。
「フランスは、ピーモントをアネクセイション(合併)することによって、アルプス山脈を越えた」。ここにも「掠奪」という意味合いはまったくありません。

 動詞の「アネックス」(annex)は、subordination(従属関係)なしに、という意味を元来含んでいて、もともとどちらが上というニュアンスはなかったのです。

 一八四六年に出た『英国史』、元来はラテン語の本で、それ以前に出版されているのですが、そのなかには「ジュリアス・シーザーはブリテンをローマ帝国にアネックスした」という記述があります。この場合も、ローマの文明をブリテン島におよぼしたというニュアンスが強く、掠奪したという感じはない。


略奪、征服の意味はない


 さらに「アネクセイショニスト」(annexationist)という言葉は、アメリカにおけるテキサス併合論者の意味です。一八四五年に実現したアメリカの「テキサス併合(アネクセイション)」という言葉にも、「掠奪」や「征服」という意味はありません。

 このことをふまえて、『ブリタニカ百科事典(Ency-clopdia Britannica)』一九二二年の十二版を見てみましょう。日韓合邦の翌年、一九一一年の十一版にはまだ記載がなく、十二年後に発行された十二版の「KOREA」(コリア)の項目のなかに、初めて日韓合邦のことが出てくるのです。

 一七七一年にグレートブリテンのエディンバラで第一版が出たブリタニカは、イギリスのみで発行されていた時代には『ロンドン・タイムズ』と並び情報の公平さで世界的に評価され、世界中の知識人に読まれた信頼度の高い事典です。そこには、こう書かれています。

「一九一〇年八月二十二日、コリアは大日本帝国(Japanese Empire)の欠くべからざる部分(integral part)になった」

 ここで「欠くべからざる部分(インテグラル・パート)」という書き方をしていることからも、・植民地・とは見なしていないことがわかります。

 「国名はおよそ五百年前に使われていた朝鮮(Chosen)に戻った。(略)日本が外交権を持った一九〇六年以来、日本によって秩序ある体系的な進歩がはじまっていたが、これ(合邦)によってその進捗はさらに確かなものになった」。ただ、「コリアン・ナショナリズムの抑圧を批判する人もいる」ということも書かれ、以下、およそ次のような趣旨の記述が続きます。

「警察制度を整備して内治をすすめたことによって泥棒や強盗団が跋扈していた辺鄙な地方の治安もよくなった。朝鮮の平穏さは、併合(アネクセイション)以来、曇ることなく続いていたが、一九一九年三月に突如、騒乱が起こった(渡部注 三・一運動)。これはウィルソン米大統領の唱えた民族自決主義(セルフ・ディタミネーション)の影響であったが、ただちに鎮圧された。日本は慎重に改革を進めていたが、これを見て計画を急ぐことになった。注目すべきことに、軍人だけでなく民間人でも朝鮮総督に就任できることになり、総督は天皇のみに責任を負う立場から、首相に従うこととなった。