パリ・ナンテール大学政治学名誉教授
20世紀初頭、作家ノーマン・エンジェルはヨーロッパにおける大きな紛争の非合理性についての考察を展開し、その功績からノーベル平和賞を受賞した。彼によると、ヨーロッパの経済的、商業的相互依存関係の重要性は武力抗争への障壁となるはずだった。第一次世界大戦がそれを否定したものの、彼の考えはリベラル平和主義を拡散させ、ネオリベラリズムに論拠をもたらした。[日本語版編集部]
(仏語版2020年6月号より)
photo credit: Henri Meyer - Bibliothèque nationale de France
Cover of illustrated supplement of "Le Petit Journal"
ジャン・ルノワール監督の映画『大いなる幻影』(1938)は第一次世界大戦中のドイツの捕虜収容所での生活を通して残虐な紛争の愚かさを描いた。その題名は1914年以前に成功をおさめたノーマン・エンジェルの試論(1)から借りたものだった。奇しくも、紛争の理不尽さを証明しようとしたこの著作は、最も破壊的だった戦争にも評判を損なわれず、1933年に再版され、同年、著者にノーベル平和賞の栄冠をもたらした。それはアドルフ・ヒトラーが権力の座に就いた年でもあった。批評家たちはエンジェルの「純真」な考え方を皮肉った。この英国の作家は、「無益な(futile)」という英語ではフランス語の持つ軽さのない単語を用いて、戦争が戦勝国にとっても敗戦国にとっても無益だと書いていたが、二つの大戦前に戦争の非合理性を説くことはまさに無益な活動だった。1945年以降この本は忘れられた。今日では取るに足らない異説とみられるのかもしれない。嘲笑で片付けられる以上の価値があるのだが。
ヨーロッパ経済の相互依存はすべての国にとって破壊的な戦争を抑止している、とエンジェルは主張した。なぜなら戦争は経済間のシナジーを破壊し、敗者と同様に勝者の経済をも破綻に導くだろうからで、それは「明白な矛盾」だと彼は言下に道破した。この説はとても独創的だった。つまり、エンジェルの平和主義は合理的なのだ。彼はかつての平和主義のように「戦争は悪だ」とは言わず、「戦争は非合理的だ」と言っている。そしてそれに進んで論証を加え、国際的な均衡を保つ列強各国の駆け引きの外にいるスイス、ベルギー、オランダ、スウェーデンのような小国の優位性などを説明している。これらの国では軍隊は整備されておらず、そのうえ近隣の大国からの脅威を受けていないので、国民は大国の国民よりも裕福だと。また、プロシアが1866年にシュレースヴィヒ=ホルシュタインを、1871年にアルザス=ロレーヌを併合した結果をみるとわかるように、併合は戦勝国を豊かにしなかった。エンジェルの母国であり最大の植民地帝国の冠たる英国に関しては、統治下の諸国は支配されていたのではなく連合関係にあったわけだから、搾取されてはいなかった、と主張している。「英国の植民地は実際は宗主国と同盟関係にある独立国なのだ(2)」
つまり戦争は起こり得なくなったということだろうか? エンジェルはそれを強く示唆しつつもそこまでは述べていない。しかし、万が一戦争が起こったとしても、それは短期間で終わるだろう。大勢が彼に賛同した。まず賛意を示したのは利害関係のある経済界で、エンジェルは1912年1月17日、ロンドン・インスティチュート・オブ・バンキング&ファイナンスで講演を行っている。「今日、ノーマン・エンジェル氏がほとんど満場一致の賛同を得たのは当然に思える(3)」とフィナンシャル・タイムズの編集長はコメントしている。エンジェル説の成功は社会階級、政治政党、国境を越えるほど大きなものだった。ジャン・ジョレス[フランスの政治家、社会主義者]は国民議会の演壇で行った国際政治についての大々的な演説の中でそれを証言した。「このほど、大いなる幻影についてエンジェル氏の英語の本が出版され、英国で大きな反響を呼びました。私が海峡を越えて英国にいた数日間、市民集会ではこの本のことが話題に上がるたびに拍手喝采が沸き起こっていました。そして、英国の保守主義者や組合活動家たちと会談した際には、彼らはこぞって私に『この本は真実を語っている』と断言しました。ではみなさん、この本は何を語っているのでしょうか? 今日、商業取引がますます国際化する中で、一人に降りかかる災難は皆に降りかかるというほどに全ての市民の利害が入り組んでいる、と言っているのです (4)」。「極左や左派の様々なグループ」がこの説を称賛した、と官報には記録されている。『大いなる幻影』の反響の大きさは、フランス語、ドイツ語、ロシア語、イタリア語、スペイン語、ポーランド語、そして日本語と、間をおかず翻訳された言語の数からも推し量ることができる。
大小の国家による国際競争で混迷していたこの20世紀初頭、『大いなる幻影』の主張には多くの読者を魅了するものがあった。大英帝国の絶頂期にあった英国においてさえもそうだった。英国はボーア戦争で直近の領土拡大を成し遂げたばかりで、そこで白人住民(彼ら自身も植民地支配者だった)を攻撃したことに対し、ヨーロッパ全体に反感が沸き起こっていた。大英帝国の勢力は、東方国境地帯の警備に苦労するなど衰退の兆しを見せていた。英国の経済的支配は、今や世界一の工業国となった米国によってすでに脅かされていた。そして、ヴィルヘルム2世の即位以来、世界政策(Weltpolitik)による勢力圏拡大の野望を示していたドイツはいっそう深刻な脅威だった。アルフレート・フォン・ティルピッツ海軍元帥が開始したドイツ艦隊建設計画は英国の制海権に対する挑戦に違いなく、その脅威は急迫していた。覇権の頂点に立つと同時にその衰退を目前にした、自信と懐疑を併せ持つ国にとって、軍事攻撃によって得るものはなく、従って何の意味もないと繰り返すことは、他の何よりも安堵をもたらしてくれた。
現状維持に対する危機を前にした英国は、わずか数年のうちに保守的で平和主義的な大国に変身した。フランスとの英仏協商の効力範囲についてためらったり、帝政ロシアの脅威に対する反感を克服するのに苦心しつつも、慎重にヨーロッパ大陸で同盟を結ぶことまでした。しかし自国が安堵するだけでは十分ではなく、潜在敵国にとっても戦争は利益にならないことを納得させる必要もあった。『大いなる幻影』は誰よりもまずドイツ人に対して訴えかけていた。戦争をしても勝てないだろうというのではなく、仮に勝利したところで何も得るものはないことをわからせようとしたのだ。
外務大臣エドワード・グレイ子爵の政策は、1914年の参戦前夜まではっきりとしていなかった。ドイツ政府は最後まで英国の不介入を信じることができたため、その英国がベルギーの中立性侵害を口実に宣戦布告を行った時、テオバルト・フォン・ベートマン・ホルヴェーク宰相は「あんな紙っぺら一枚のために!」[訳注1]と苦々しい驚愕を味わうことになった。グレイ子爵の煮え切らなさは、恐らくは彼自身の迷いよりも国内の意見対立からきたものだったが、ドイツはそれを英国の弱みの現れと取ったのではないだろうか(5)? ドイツ外交は『大いなる幻影』の成功から判断し、英国の世論が大陸での参戦に反対していると踏んでいたのだろう。
著作『大いなる幻影』は第一次世界大戦とともに忘れ去られてしまったようで、その題名が再び人の口に上ることはほとんどなかった。だが、大戦での大量殺戮は平和主義に新たな活気を与えていた。平和主義者たちは道徳的立場に立ち「もう二度と!」とか「最後の戦争だ!」などと叫んだ。戦争に対する合理主義的な弾劾を無視し続けることなどできただろうか? 実際、多くの人々がエンジェルのあとに続いていた。彼の主張は英国において「リベラル平和主義」とでも呼ぶべき政治的な方向性を育て、1914年の参戦や1916年の徴兵制への反対を唱えるよう、ビジネス界や学界のエリート層を導いていた。そしてその後、パリ講和会議でジョン・メイナード・ケインズが唱えた賠償反対案、1919年には彼の告発文書「平和の経済的帰結」に反映されることになる(6)。
ドイツにおけるナチズムの台頭は平和主義にとどめの一撃を加えたか? 戦争は無益だとヒトラーを説得しようとするエンジェルなにがしの奇抜なアイデアなど苦笑ものだろう。一方その頃、エンジェルは労働党の議員を一期務め、爵位を授けられ、ノーベル平和賞を受賞した。彼のこの空前の成功は1914年以前と同じ理由によるものだっただろうか? 明らかに彼の本はヒトラーの行う数々の演説が世界に漂わせていた脅迫感を払いのけるのに役立っていた。それ以来、エンジェルの著作『大いなる幻影』は英国政府が1938年のミュンヘン協定締結まで採っていた宥和政策に影響を与えることになる。要求を呑んでやりさえすればヒトラーが理性的になるのではないかという、希望的観測の悲劇的な例だ。幻影、それは平和のことだった。
エンジェルは典拠を示すことにあまり注意を払わない作家で、引用には知識人の著作よりも報道出版物をよく利用していた。論理的考察にほとんど興味を持っていなかったのも明らかだ。彼の主張する単純な実証主義的思考によれば、事実は自ずと語られるはずなのだ。彼は知り合いだったジョン・ホブソンが1902年に出版した帝国主義についての著作に全く言及していない。ホブソンは平和主義的ではあるが資本主義が持つ潜在的な攻撃性についても意識した学者だった。レーニンはホブソンの本に着想を得て、急進的かつはるかに現実主義的な実際の戦争賛成派の主張、つまり「独占的資本主義の最高の段階」である帝国主義というテーゼに反対を唱えたのだ。その後起こった植民地紛争と革命運動という世界の新たな紛争は、もはやエンジェルの説に少しの余地も残さなかった。それでもその主張は控えめながらも生き残り、元来の説得力の一部を偲ばせている。実際それは、シャルル・ド・モンテスキュー以来ヨーロッパ思想を伝播させていた「穏和な商業(doux commerce)」の自由主義から派生していた。モンテスキューは『法の精神』の中で「商業は破壊的な偏見を癒す。そして、習俗が穏やかなところではどこでも商業が存在しているというのがほとんど一般的な原則である。また商業が存在するところではどこでも、穏やかな習俗が存在するというのもそうである」(第20編第1章)[訳注2]と書いている。この見解は次世紀の自由主義の思想家たちにより受け継がれた。
二つの大戦を経て「穏和な商業」の考え方は歴史のくずかごに入れられてしまったようだ。アルバート・O・ハーシュマンは、この説には「思想史における一つのエピソード」しか見いだせないとして、「我々がまじめに捉えるべきものとは思えない」と書いている(7)。しかし、葬り去るには早すぎた。『雇用・利子および貨幣の一般理論』(1936)の中でケインズ自身、リベラル平和主義を諦めていない。というのも彼は、完全雇用への復帰は外への拡張を図る保護主義国家の攻撃的な帝国主義を排除するだろう、と仮定していたのだ。より最近の1970~80年代、ネオリベラリズムの勝利は、自由民主主義の成功と結びついた平和的な商業の礼賛と混同された。「トゥキディデスからアダム・スミスに至る哲学者らが明らかにしたように、商業の習俗は戦争のそれと矛盾している(8)」と米大統領ウィリアム・クリントンが言うなど、広く政治指導者たちはこの考え方を信奉した。政治思想的ライバルである中国をなだめようとした米国は、この信念に導かれ中国を世界貿易機関(WTO)に加盟させた。しかしそれはあやふやな根拠に基づく信念だった。最初に戦争を人災(この場合アテナイの帝国主義)とみたのはそのギリシアの歴史家トゥキディデスだったし、アダム・スミスにとっては、政治は「人間の愚かさ」の域を出ていない。
つまり、「歴史の終焉」や「幸せなグローバル化」のような標語が「穏和な商業」を蘇らせたわけだ。確かに、これらの標語には戦争はもうはっきりとした姿を見せなくなっている。国境の消滅、生活水準の向上、国家権力の制限など、市場のグローバル化の恩恵にかき消され、まるでもう問題がなくなったかのようだ。我々はもはやそのような状況にあるとは言い切れない気がするのだが。
(ル・モンド・ディプロマティーク 仏語版2020年6月号より)
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