2017年、大阪港は開港150年を迎えます。
安政5(1858)年の日米修好通商条約をはじめとする安政の五カ国条約調印を機に、慶応3年12月7日(1868年1月1日)に大阪の開市が決まったものの、開市直後は幕末の混乱の最中で、貿易は殆ど行われませんでした。その後、運上所(税関)のある安治川上流の川口で居留地の整備が進められ、明治元(慶応4)年7月15日(1868年9月1日)に大阪港が開港したのです。
しかしながら河川港であった大阪港は水深が浅く、大型船舶の出入りに不便でした。そこで築港への機運が高まり、明治30(1897)年10月に天保山に港を新設する築港工事が着工します。この築港工事に際して生じたのが「大縄地事件」でした。
*
明治11(1878)年、芝川又右衛門が千歳新田50町歩を購入した際、千歳新田地先の大縄地も購入しました。大縄地とは、新田開発において開発(埋め立て)許可を受けた区域のことです。「大縄地事件」は、この大縄地に対する権利について、芝川が大阪市と争った事件でした。芝川の大縄地に関する書類は、本件が落着した際に大阪市に手渡されたため、社内に残された資料は限られていますが、それらをご紹介しながら、この事件について紐解いてみたいと思います。
▲千歳新田位置図(『千島土地株式会社設立100周年記念誌』p.37より)
▲千歳新田未開墾地(大縄地)地図 (千島土地株式会社所蔵資料 T02_092_002)
千歳新田地先の大縄地は、文政12(1829)年に、葭屋正七が地代金(上納金)を納めて、大坂代官・岸武太夫より開発を許可されたものでしたが、埋め立てされぬまま所有者が転々と変わり、明治維新を迎えます。
明治5(1872)年に地券証が発行された際、当時の所有者であった珠玖覚兵衛が大縄地の沿革を具申し、翌年、大阪府知事から大縄地としての地券証が交付されますが、地租改正条例を受けて明治9(1876)年に新旧地券の交換が行われた時には、満潮の際に海面に没する大縄地については、海面との分界がはっきりした時点で地券交付を申し出ることとして、新地券が発行されませんでした。
芝川又右衛門が橋本吉左衛門よりこの大縄地を購入した際、橋本名義を芝川名義に書き換えた地券証(旧地券証)は公布されましたが、現行の地券証がないことに不安を感じた又右衛門は、明治14(1881)年に「未開墾地所有権之義ニ付御願」を大阪府知事に提出し、他の海面との分界が明確になった際には、この願書が地券証と引き換えの確証となるよう指令して欲しい旨を申し入れ、建野郷三知事から承諾を得ていました。
▲永代田宅地売渡確証(同 T02_090_003)
芝川が橋本から千歳新田を購入した際のものと思われる。文中に「未開発場反別62町8反5畝19歩 但シ此地券証第47号1枚」とある。
▲地券証 写し(千島土地株式会社所蔵資料 T02_090_002)
千歳新田の地券証の内容を写したもの。上記資料に記載がある通り、「第47号地券之証」に大縄地のことが記載されている。
▲未開墾地所有権之義ニ付御願(一部)と大阪府知事からの指令(同 T03_001_002)
さて、この大縄地について芝川は開墾を計画し、明治28(1895)年、大阪府知事に「水面埋立願」を提出します。しかし、この出願に対し、府知事からは何の音沙汰もありませんでした。
▲水面埋立願、水面埋立設計書(同 T02_092_001)
ちょうどこの時、大阪市は築港の計画を進めており、明治29(1896)年5月には「大阪築港取調に関する報告書」が予算案とともに市会で可決されました。この予算案では、湾岸の土地を埋め立て、その売却費を総工費の一部に充てることになっていましたが、その中に、芝川が埋立を出願していた千歳新田地先の大縄地が、事前に何の相談もないまま含まれていたのです。
▲市の埋立計画に含まれた芝川、岡島の大縄地(同 T02_084_003)
明治30年に大阪市が内務省に築港工事設計書を提出した際、内務省から芝川、岡島の大縄地について問い合わせがあったことが、大縄地事件の発端となります。
芝川、岡島は、村山龍平の紹介で弁護士・高谷恒太郎(宗範)を代理人とし、本件に関する全権を委任しましたが、市側が代理人との交渉を拒んだため、事態はなかなか進展しませんでした。
そんな中、高谷が時の総理兼大蔵大臣の松方正義に呼ばれ、本件顛末の説明を求められます。高谷が、「芝川、岡島の両人は、大阪築港が必要な工事であることをよく理解しており、大阪市が両人の大縄地に関する権利を認めた上で交渉を進めるのであれば、妥協の余地がない訳ではない」旨を説明したところ、総理は大阪府知事(大阪市長を兼任しており、本件の交渉を担当)に対し、高谷と協議するよう通告しました。
話し合いはなかなか進みませんでしたが、知事が大阪株式取引所理事長の磯野小右衛門に本件の調停を依頼した結果、芝川、岡島は、所有する大縄地の9/10を大阪市に無償で寄付し、残り1/10については相当対価の12万円以上40万円以下の範囲で市に譲渡することを決議します。しかしながら、知事は12万円の支出も難しいとして、11万円を支出することを市議会で決した上で、これを了承するよう交渉してきたのです。これに対し、芝川、岡島は範囲外の金額では容認できないとして、再び調停は決裂しました。
知事らは市会に報告した金額が実現できない不面目を招いて困難な立場に立たされ、遂にこれまでの交渉が誤っていたことを謝罪します。そして最終的に、大縄地全体を11万円で売却するということで本件は落着したのです。
▲大縄地譲渡に関する契約書(同 T02_101_011)
明治30年9月7日、大縄地の譲渡代金11万円の受け渡しが行われ、この際、芝川の大縄地に関する関係書類は大阪市に引き渡されました。
▲大縄地関連資料領収書(同 T03_001_001)
さて、大縄地の譲渡代金11万円のうち、芝川の所得は64,359円22銭1厘でした。しかしながら、芝川は、市が自らの権利を蔑ろにしたことに対して毅然とした態度を取ったものであり、当初から大縄地によって利益を得ることは考えていませんでした。大阪市が芝川の大縄権を認めたことで目的は達せられたことから、芝川は、受け取った代金から交渉に要した実費を差し引いた全額を大阪築港費として大阪市に寄付します。
▲寄附願(同 T03_001_006)
この芝川の私心のない鮮やかな振る舞いは、多くの人に感銘を与え、明治32年12月には賞勲局から金杯が下賜されました。
▲金杯下賜(同 T03_001_007)
▲芝川の寄付を報じた新聞記事
(上左:1897年9月14日東京朝日新聞、上右:1897年9月12日大阪毎日新聞、下:1897年9月12日大阪朝日新聞)
大縄地事件の経過は、新聞でも随時報じられた。
■参考資料
『千島土地株式会社五十年小史』千島土地㈱、1962
『千島土地株式会社設立100周年記念誌』千島土地㈱、2012
『明治大正大阪市史 第3巻 経済篇 中』大阪市役所編纂、日本評論社、1934
『大阪港史 第1巻』大阪市港湾局、1959
『大阪築港100年 ―海からのまちづくり― 上巻』大阪市港湾局、1997
『大株五十年史』大阪株式取引所編、1928
※掲載している文章、画像の無断転載を禁止いたします。文章や画像の使用を希望される場合は、必ず弊社までご連絡下さい。また、記事を引用される場合は、出典を明記(リンク等)していただきます様、お願い申し上げます。
安政5(1858)年の日米修好通商条約をはじめとする安政の五カ国条約調印を機に、慶応3年12月7日(1868年1月1日)に大阪の開市が決まったものの、開市直後は幕末の混乱の最中で、貿易は殆ど行われませんでした。その後、運上所(税関)のある安治川上流の川口で居留地の整備が進められ、明治元(慶応4)年7月15日(1868年9月1日)に大阪港が開港したのです。
しかしながら河川港であった大阪港は水深が浅く、大型船舶の出入りに不便でした。そこで築港への機運が高まり、明治30(1897)年10月に天保山に港を新設する築港工事が着工します。この築港工事に際して生じたのが「大縄地事件」でした。
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明治11(1878)年、芝川又右衛門が千歳新田50町歩を購入した際、千歳新田地先の大縄地も購入しました。大縄地とは、新田開発において開発(埋め立て)許可を受けた区域のことです。「大縄地事件」は、この大縄地に対する権利について、芝川が大阪市と争った事件でした。芝川の大縄地に関する書類は、本件が落着した際に大阪市に手渡されたため、社内に残された資料は限られていますが、それらをご紹介しながら、この事件について紐解いてみたいと思います。
▲千歳新田位置図(『千島土地株式会社設立100周年記念誌』p.37より)
▲千歳新田未開墾地(大縄地)地図 (千島土地株式会社所蔵資料 T02_092_002)
千歳新田地先の大縄地は、文政12(1829)年に、葭屋正七が地代金(上納金)を納めて、大坂代官・岸武太夫より開発を許可されたものでしたが、埋め立てされぬまま所有者が転々と変わり、明治維新を迎えます。
明治5(1872)年に地券証が発行された際、当時の所有者であった珠玖覚兵衛が大縄地の沿革を具申し、翌年、大阪府知事から大縄地としての地券証が交付されますが、地租改正条例を受けて明治9(1876)年に新旧地券の交換が行われた時には、満潮の際に海面に没する大縄地については、海面との分界がはっきりした時点で地券交付を申し出ることとして、新地券が発行されませんでした。
芝川又右衛門が橋本吉左衛門よりこの大縄地を購入した際、橋本名義を芝川名義に書き換えた地券証(旧地券証)は公布されましたが、現行の地券証がないことに不安を感じた又右衛門は、明治14(1881)年に「未開墾地所有権之義ニ付御願」を大阪府知事に提出し、他の海面との分界が明確になった際には、この願書が地券証と引き換えの確証となるよう指令して欲しい旨を申し入れ、建野郷三知事から承諾を得ていました。
▲永代田宅地売渡確証(同 T02_090_003)
芝川が橋本から千歳新田を購入した際のものと思われる。文中に「未開発場反別62町8反5畝19歩 但シ此地券証第47号1枚」とある。
▲地券証 写し(千島土地株式会社所蔵資料 T02_090_002)
千歳新田の地券証の内容を写したもの。上記資料に記載がある通り、「第47号地券之証」に大縄地のことが記載されている。
▲未開墾地所有権之義ニ付御願(一部)と大阪府知事からの指令(同 T03_001_002)
さて、この大縄地について芝川は開墾を計画し、明治28(1895)年、大阪府知事に「水面埋立願」を提出します。しかし、この出願に対し、府知事からは何の音沙汰もありませんでした。
▲水面埋立願、水面埋立設計書(同 T02_092_001)
ちょうどこの時、大阪市は築港の計画を進めており、明治29(1896)年5月には「大阪築港取調に関する報告書」が予算案とともに市会で可決されました。この予算案では、湾岸の土地を埋め立て、その売却費を総工費の一部に充てることになっていましたが、その中に、芝川が埋立を出願していた千歳新田地先の大縄地が、事前に何の相談もないまま含まれていたのです。
▲市の埋立計画に含まれた芝川、岡島の大縄地(同 T02_084_003)
明治30年に大阪市が内務省に築港工事設計書を提出した際、内務省から芝川、岡島の大縄地について問い合わせがあったことが、大縄地事件の発端となります。
芝川、岡島は、村山龍平の紹介で弁護士・高谷恒太郎(宗範)を代理人とし、本件に関する全権を委任しましたが、市側が代理人との交渉を拒んだため、事態はなかなか進展しませんでした。
そんな中、高谷が時の総理兼大蔵大臣の松方正義に呼ばれ、本件顛末の説明を求められます。高谷が、「芝川、岡島の両人は、大阪築港が必要な工事であることをよく理解しており、大阪市が両人の大縄地に関する権利を認めた上で交渉を進めるのであれば、妥協の余地がない訳ではない」旨を説明したところ、総理は大阪府知事(大阪市長を兼任しており、本件の交渉を担当)に対し、高谷と協議するよう通告しました。
話し合いはなかなか進みませんでしたが、知事が大阪株式取引所理事長の磯野小右衛門に本件の調停を依頼した結果、芝川、岡島は、所有する大縄地の9/10を大阪市に無償で寄付し、残り1/10については相当対価の12万円以上40万円以下の範囲で市に譲渡することを決議します。しかしながら、知事は12万円の支出も難しいとして、11万円を支出することを市議会で決した上で、これを了承するよう交渉してきたのです。これに対し、芝川、岡島は範囲外の金額では容認できないとして、再び調停は決裂しました。
知事らは市会に報告した金額が実現できない不面目を招いて困難な立場に立たされ、遂にこれまでの交渉が誤っていたことを謝罪します。そして最終的に、大縄地全体を11万円で売却するということで本件は落着したのです。
▲大縄地譲渡に関する契約書(同 T02_101_011)
明治30年9月7日、大縄地の譲渡代金11万円の受け渡しが行われ、この際、芝川の大縄地に関する関係書類は大阪市に引き渡されました。
▲大縄地関連資料領収書(同 T03_001_001)
さて、大縄地の譲渡代金11万円のうち、芝川の所得は64,359円22銭1厘でした。しかしながら、芝川は、市が自らの権利を蔑ろにしたことに対して毅然とした態度を取ったものであり、当初から大縄地によって利益を得ることは考えていませんでした。大阪市が芝川の大縄権を認めたことで目的は達せられたことから、芝川は、受け取った代金から交渉に要した実費を差し引いた全額を大阪築港費として大阪市に寄付します。
▲寄附願(同 T03_001_006)
この芝川の私心のない鮮やかな振る舞いは、多くの人に感銘を与え、明治32年12月には賞勲局から金杯が下賜されました。
▲金杯下賜(同 T03_001_007)
▲芝川の寄付を報じた新聞記事
(上左:1897年9月14日東京朝日新聞、上右:1897年9月12日大阪毎日新聞、下:1897年9月12日大阪朝日新聞)
大縄地事件の経過は、新聞でも随時報じられた。
■参考資料
『千島土地株式会社五十年小史』千島土地㈱、1962
『千島土地株式会社設立100周年記念誌』千島土地㈱、2012
『明治大正大阪市史 第3巻 経済篇 中』大阪市役所編纂、日本評論社、1934
『大阪港史 第1巻』大阪市港湾局、1959
『大阪築港100年 ―海からのまちづくり― 上巻』大阪市港湾局、1997
『大株五十年史』大阪株式取引所編、1928
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周囲を木津川、尻無川、大阪湾に囲まれた大阪市大正区。
左は1909(明治42)年*1)、中央は1963(昭和38)年*2)、そして右は現在の区の様子ですが、それぞれはっきりわかるほどに地形が異なります。
中でも内陸部にひと際多くの水面が見られる中央の地図で、木津川から尻無川にかけて陸を横断しているのが、今回お話する「大正運河」です。
当地の地主であった千島土地株式会社は運河開削の前期・後期工事を通じて主導的な役割を果たしましたが、地形を変えてしまうようなこれらの大工事は一体どのような経緯で、何のために実施されたのでしょうか。
*
大正区における運河開削がいつ頃から計画されていたのかは明確には分かっていませんが、1920(大正9)年の「運河予測図説明書」*3)には、「元来本水路ノ掘鑿は既に十数年以前ヨリ計画セラレ」との一文が見られ、明治末より何らかの計画があったのかも知れません。
また、1914(大正3)年に大阪市に提出された市電用地寄付に関する「請書」*4)に「千島運河」の名称で運河の開削を前提とした条件が盛り込まれているのが見られる他、同年の資料「新設計運河収支計算書」*5)からも、この時期にはかなり具体的な運河開削計画があったことが窺えます。
しかしながら、その計画が具体的な実現に向けて動き始めたのは、大正区への木材業者の移転が決まってからのことでした。
そもそも江戸時代、水運の便の良い長堀川周辺には多数の木材業者が集積していました。
摂津名所図会「長堀材木浜」より
明治期、大阪市の都市計画によってこれら木材業者の市中心部から移転計画が持ち上がります。その移転先となったのが、周囲を水に囲まれた大正区でした。*6)
1919(大正8)年、千島土地株式会社は、所有する大正区千島町の土地64,396坪について大阪木材市場株式会社と賃貸借契約を締結。大正区の所有土地について、かねてより堀や運河を開削し、その浚渫土で盛土をして宅地造成を行うことが得策であると考えていた千島土地は、この契約の際、契約土地に対し水路開削、貯木場開設、橋梁架設、地上盛土、道路新設などの諸工事の実施を約定しました。
この約定を受けて1919(大正8)年7月10日に水路掘削工事(前期)が起工。
市電路線から千島大橋までを大阪木材市場㈱が、千島大橋から木津川までを千島土地が開削しました。
前期工事は数度の工期延長の後、1920(大正9)年11月30日に竣工しますが、それに先立つ同年8月、これらの水路を延長し、尻無川まで到達させる後期工事計画が千島土地の臨時株主総会において満場一致で可決されます。
この後期工事は水路が通る小林町の土地を所有する岩田土地株式会社と共に実施されますが、延長とはいえ、前期工事の2倍以上の長さを掘削するという壮大なものでした。
しかしながら、当時の大地主たちの間には、大正区を横断して木津川、尻無川を結ぶ水路の完成は、「航通」の利便性を飛躍的に向上させ、ひいては地域の開発、活性化に繋がっていくとの考えがあったのでしょう。
後期工事は2年弱の工期を経て1923(大正12)年6月1日に竣工し、ここに「大正運河」が完成しました。
大正運河位置図(千島土地株式会社所蔵資料 T01_014)
「大正運河」は当初から名称が決まっていた訳ではなく、当社所蔵資料中にその名称が登場するのは1920(大正9)年になってから、つまり後期工事計画が具体的に進み始めてからのこと。それまでは「掘割水路」や「木津川、尻無川間運河」などと記されていました。また、当時の資料を見ていると、「大正運河」は当初、延長部分のみを指していたように受け取れる記述も見られます。
完成した運河は一般の船も無料で利用することができました。*7)こうした運河とそれに伴う貯木場の完成で、大正から昭和初期の大正区は日本有数の木材街として繁栄し、それが大正区発展の大きな礎となったと言います。
*1)千島土地株式会社所蔵資料 W02-002 より
*2)「わたしたちのまち大正区」、大阪市大正区役所、2007 より
*3)千島土地株式会社所蔵資料 T01-001-004
*4)「摂北岩田家のあゆみ 史料編」、竹下喜久男・井出努編、岩田土地株式会社、1999(非売品)
*5)千島土地株式会社所蔵資料T01-004-001
*6)「大正区」が発足したのは1932(昭和7)年であることから、当時この地は正確には「西区」でした。
*7)1921(大正10)年8月5日の工事着工後に千島土地、岩田土地間で交わされた契約には運河(幅25間)の中央部15間は、無償で一般通船の用に供する旨が記されています。
■参考資料
「岩田土地株式会社誌」、岩田信平、岩田土地株式会社、1989(非売品)
「摂北岩田家のあゆみ 本文編・史料編」、竹下喜久男・井出努編、岩田土地株式会社、1999(非売品)
「大正区30年のあゆみ」、大正区制30周年記念事業委員会、1963
「千島土地株式会社五十年小史」、千島土地株式会社、1962(非売品)
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大阪市住吉区街区図(「住吉区史」より)
高級住宅地として知られる大阪住吉区の帝塚山。
この地が区画整理され、住宅地として開発されたのは、明治末から大正時代にかけてでした。
1875(明治8)年の住吉大社周辺地図(「大阪古地図集成」第十九図より)
街道沿いにいくつかの集落があるのがわかります。
1886(明治19)年の住吉村(「大阪古地図集成」第二十二図より)
住吉大社(▼)周辺に村落があったに過ぎず、現在の帝塚山周辺にはまだ住宅がありません。
元来、帝塚山周辺の土地は、耕地に適さない上、凹凸が激しく、地区も雑然として道路も整備されていなかったといいます。
ところが、人口増加による食糧不足を背景に農業の近代化を目的とする農地改良が急務となり、大阪でも相次いで耕地整理組合が設立されます。
住吉村でも、1912(明治45)年に村長・太田儀兵衛が組合長となり、住吉村住民による耕地整理組合を設立。1913(大正2)年より、字 大原、奥大原、野の内、清水、大帝塚の4万坪を超える土地の耕地整理に着手しました。
「東成郡住吉第一耕地整理組合地区及之ニ隣接スル土地現形之図」
(千島土地株式会社所蔵資料 Y02_008_005)
耕地整理の対象となった南海電車支線(現・阪堺電鉄上町線)と南海電車支線(現・南海電鉄高野線)の間の土地は、その殆どが田地か畑地であったことが窺えます。
耕地整理組合が組織される前年の1911(明治44)年、帝塚山界隈で最大の地主であったという山田市郎兵衛を中心に、山本藤助、久保田権四郎、田附政治郎、そして芝川又右衛門ら17名の当地地主により「東成土地建物株式会社」が設立され、1914(大正3)年に耕地整理が完了した後、帝塚山を住宅地として分譲していきます。
「東成土地建物株式会社経営地之図」(千島土地株式会社所蔵資料 Y02_001_004)
前出の耕地整理された土地がそのまま東成土地建物㈱の経営地となっている様子がよくわかります。
当地の宅地分譲においては、耕地整理の際、当初より地区内全ての道路に町名を付したことから、最初から宅地造成を目的に耕地整理を行ったのではないかといった指摘もあったようですが、大阪の都市人口が膨張し続けていた当時、大阪中心部からのアクセスが便利な上、環境も良好な当地には、大阪の名士が相次いで邸宅や別荘を構え、「帝塚山」は瞬く間に高級住宅地へと変貌していきました。
■参考資料
「住吉村誌」、(財)住吉村常盤会、1976再版
「住吉区史」、(財)大阪都市協会編集、住吉区制七十周年記念事業実行委員会、1996
「大阪建設史夜話」、玉置豊次郎、(財)大阪都市協会、1980
「移りゆく住よし」、石田実・石田和美、1988
「小さな歩み ―芝川又四郎回顧談―」、芝川又四郎、1969(非売品)
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