いまは遠く
◇【聖王】◇
オルトラ・シュトラミウス。
彼はかつてネーア聖国を治めていた王である。
今、彼は悪夢を見ていた。
夢は時おり過去の鮮烈な体験を呼び起こす。
あれはまだオルトラが、足腰に十分な余力のあった頃……
△
ネーア聖国。
バクオス帝国。
二国の国境をまたぐ遺跡群。
ある時、その遺跡群から金眼の魔物が溢れ出した。
両国は共同で対処にあたることを決定。
バクオスの皇帝はこの時、自ら軍を率いて現れた。
負けじとオルトラも自ら軍を率い、遺跡群へ向かった。
ネーア聖国の軍が遅れて現地へ辿り着いた時だった。
オルトラは我が目を疑った。
果たして伝承に聞く邪神がこの世に降臨したのだろうか。
最初はそう錯覚したほどであった。
その少年の赤い瞳は爛々と輝いていた。
白い髪は魔物の血を浴びてまだらになっていた。
特筆すべきは明らかに戦いを楽しんでいるその表情である。
魔物が次第に少年を避け始めた。
凶暴で有名なあの金眼の魔物が、である。
しかも少年は、逃げ惑う魔物を悪しざまに罵った。
『なぜだ!? 凶悪の代名詞たる金眼の魔物がなぜ凶悪の名に恥じる行動をとる!? なぜ向かってこない!? 凶悪な魔物としての誇りはないのか!?』
血に塗れて魔物を罵倒する少年。
声は絶望を帯びていた。
悲痛な叫びのようにも聞こえた。
少年は”敵”を求めていたのである。
オルトラはのちにそれを知った。
と、少年がこちらに気づいた。
今でも思い出す。
赤き瞳が自分を捉えたあの瞬間を。
王に強さの頂点を期待する目。
少年は一国の王たるオルトラへと歩み寄ってきた。
が、誰も止めない。
否――止められなかった。
戦意を灯す赤い瞳で少年がオルトラを凝視する。
が、一瞬でその瞳から熱が引いていくのがわかった。
『雑魚、ではないか』
あてが外れた表情で少年は声を震わせた。
心からの落胆。
少年が顔を上げる。
彼は馬上のオルトラに手を伸ばしてきた。
『差し出せ』
気味の悪いほど真剣な顔つきで少年は言った。
『貴様の国で最も強きモノを、このわたしに寄越せ』
▽
ガバッ!
「――ぁっ、はぁ、はぁ……ッ!」
オルトラはベッドから跳ね起きた。
ひっそりと静まり返った室内。
帝国領の南方にある湖畔の屋敷。
元聖王オルトラは現在、ここで静かに暮らしていた。
バクオスに降伏したのちはここが彼の”居城”である。
北へゆけば故ネーア聖国。
かつての王城は黒竜騎士団が管理している。
皇帝はネーアの領土の大半を彼らに与えた。
(黒竜騎士団……)
あの少年の夢をいまだに見る。
(今やあの少年が黒竜騎士団の団長、か……あぁ、なんと恐ろしい……)
オルトラはガウンの胸もとを緩めた。
ひどく寝汗をかいていた。
悪夢にうなされたせいだろう。
(あぁ……)
打ちひしがれるオルトラ。
顔を両手で覆う。
頭の中には、聖騎士団長の顔が浮かんでいた。
(セラス……)
黒竜騎士団が王都へ到達する前に彼女は城を離れた。
今も逃亡中と聞く。
(おまえを逃がしたことを悔やんではいない……悔やんでは、いないが――)
心配は尽きない。
今は無事なのだろうか?
(いや……)
オルトラはくぐもった呻きを漏らした。
胸奥から迸るは、後悔の念。
(わしは選択を誤ったのかもしれぬ。あぁ、こんなことになるのなら……っ!)
クワッとオルトラは目を見開いた。
「無理矢理にでも、抱いておけばよかった……ッ!」
しかし娘がセラスに男を近寄らせなかった。
父であり王であるオルトラでさえも例外ではなかった。
セラスが団長を務める聖騎士団は男子禁制。
あれも元を辿れば娘の発案によるものだった。
オルトラがセラスと顔を合わせられるのは公の場のみ。
王たる自分でさえ会える時間と場所が制限されていた。
我が子ながらオルトラは娘が苦手だった。
いや、恐れていたと言ってもいい。
ゆえにセラスのことでは、不干渉にならざるをえなかった。
(あぁ)
思い出すたび、胸が甘く切なく締めつけられる。
あの悩ましくも麗しい線を描く肢体。
薄桃色の滑らかな唇。
いつも布地を困らせていた豊かな胸。
耳を甘く撫でる清らかな声。
かぐわしい微かなメスの香り。
凛々しくも、包容力のある人となり。
極めつけはあの完璧な美貌……。
セラス・アシュレインのすべてが、老い枯れ果てていた王を、再び精力溢れるオスへと仕立て直してくれたのだ。
(あぁ、嫌だ……)
アレが誰かのものになるのが怖い。
オルトラは心からそれを恐れていた。
(王であるわしにアレが仕えている……剣を捧げている。ゆえにアレはわしの所有物……王であった時代はそれが落としどころと自らを戒めた。この熱き想いと渦巻く情欲は内に秘め、セラスを想像の世界で味わうだけでよしとすべき……己に、そう言い聞かせてきた……)
メソメソと嗚咽するオルトラ。
(嘘を見抜くセラスの前では、常に細心の注意を払ってよき王を演じ続けてきた……だが実のところ、わしはただの臆病者だったのだ……)
セラスは今、どこか遠くへ消え去った。
逃亡を手引きしたのは娘のカトレアである。
手引きの動きには気づいていた。
気づきながらも、見逃した。
(あの時はセラスがバクオスの連中の手に渡るくらいならばと、そう思った。そう……今後セラス・アシュレインという存在は、死にゆく老人の甘美な郷愁に留めておこうと……)
オルトラはシーツを強く握り込んだ。
思いの丈を示すように。
(しかし――)
「やはり、だめだ」
許されぬ。
許してはならぬ。
(いずれアレが誰かに捕まり、他の男に穢されてしまうかと思うと――胸騒ぎがおさまらぬ……っ!)
けれど自分の手元へはもう戻ってくるまい。
所有もできまい。
(あぁ! このままアレを誰かに奪われてしまうのならっ! いつまでもこのような苦悩が、続くのならば……っ!)
力なくこうべを垂れる。
「セラスよ……」
元聖王は両手を組み合わせた。
まるで、祈るように。
「これがわしの、最後の願いだ……頼む……」
オルトラは枯れた喉から、力強く、しわがれた声を絞り出した。
「どうかこの世から、死んで消えてくれぇぇ……ッ!」