38.空気はただ吸うものです
「ユランっ!今からお昼なの?」
「うん、ちょっと手伝いで時間とっちゃって……ここ大丈夫?」
「私はいいけれど……」
立ち上がろうとしたヴィオレットを制しながら、片手で持ったトレーを置いても良いかと空きの多い席を見る。一人で座るにも、三人で座るにも広い。さらに人が増えたとて窮屈に感じる事はないだろう。
仮にヴィオレットだけだったなら、なんの迷いもなく頷いていた。 ユランとお昼を共にするのはいつもの事といって良いくらい馴染んだものだから。
でも今、この席にいるのはヴィオレットだけではない。
チラリと視線を向けた先には、固い表情のクローディアと苦笑いを浮かべたミラニアで。歯切れの悪いヴィオレットに、何を言いたいのか皆まで言わずとも伝わったらしい。
二人に視線をやって、閉ざした口を開く時には人好きする笑みが貼り付いていた。
「お二人とも、相席してもよろしいですか?」
「あ、うん……俺は構わないよ」
「……問題ない」
「ありがとうございます」
声が弾んで聞こえたのは、事実機嫌が良かったからだろうか。ヴィオレットには少々わざとらしく聞こえたのだが、自分といる時のユランは大体こんな感じだった気もしたので気にするのを止めた。
当たり前の様にヴィオレットの隣を陣取って、体格にあったユランの昼食と並べば、ヴィオレットの食事量がより少なく見えてしまう。
「ヴィオちゃん、またサンドイッチだけ?ちゃんと食べなきゃ体力持たないよー」
「ユランとは性別も体格も違うからそう見えるだけよ。野菜はちゃんととってるし、栄養面では問題ないわ」
「それ、マリンさんがいるから何とかなってるだけだよね」
「…………」
「はい図星ー」
仕方ないなぁと最後にはヴィオレットの意思を尊重してしまうのだから、結局ユランはヴィオレットに甘い。
目の前で繰り広げられる気安いやり取りは、普段かヴィオレットにもユランにも複雑な感情を抱いているクローディア達には衝撃だが、ヴィオレットはそんな事気が付いていないしユランは分かった上で興味がない。
元々注目を集めていた一帯だが、ユランが投入された事でさらに好奇の視線が集中している。そちらも気付いているのはユランとミラニアだけだが。
食堂一体が息を殺してしまうような、薄く異様な緊張感が流れる。常人ならばわざわざ近付こうと思わないだろう。
「ユラン、席取れたなら呼べ、って……何この面子」
そこに飛び込む、幸運な鈍感さを持った人間もいたらしい。
怪訝な表情をして現れたのは、先日ヴィオレットも対面を果たしたユランの友人であるギアだった。漂う雰囲気のそうだが、一見すると関係性が分かりづらい顔触れに状況がよく分からないといった様子で。
しかし、状況を問いたいのはむしろこちらの方である。
「えっと、ギア……それは何?」
「何って、俺の昼飯だけど」
「そういう事を聞いているのではなくて」
答えは一つと言わんばかりだが、言いたい事も聞きたい事もそこではない。
ここにいるという事は何かしら腹を満たしに来たのだとは思うが、今ギアが持っているトレーと、そこに乗っている物がヴィオレットの常識から外れている。
片手に一つずつ、つまり両手で二つ。一つのトレーの上にはお皿ではなくラッピングされたパンが山あって、それが二つ。
え、それ全部食べるの?というのが本音だった。
「またそんなに買って……食べきれなくても知らないぞ」
「こんくらい余裕」
「お前の胃袋ではなくて、時間の事を言ってるんだ」
「大丈夫だろー、少しくらい遅れたって」
「大丈夫じゃないから遅れない様にしろっつってんだよ」
カタンと、視覚から予想したよりも小さな音を立ててギアが席についた。乗っているのがパンばかりだからか、見た目よりもずっと軽いらしい。
腹を満たすのに重さはあまり関係ないので、どのみち規格外の重量である事に変わりはないが。
「……って、あれ?ヴィオちゃん、ギアの名前知ってたの?」
「えぇ。この間ユランへの伝言を頼んだ時に」
「言ってなかったか?」
「聞いてない」
ヴィオレットの見えない所で、ユランの足がギアの脛を小突く。威力は大した事がないから痛みはなかったけれど、ユランのご機嫌を損ねた事は分かった。
ヴィオレットには見せない感付かせないを徹底している辺りはさすがだと思うが、その豹変ぶりにいちいち気を揉んでいてはユランの親友などやってはいられない。何より気にする様な相手にはユランも素を見せはしないだろう。
でもこういった時は気にしてくれても構わないと、都合の良い事を考えはする。
「俺だけヴィオレットの姫さんの名前を知ってるのも不公平だろ」
「まずその呼び方何とかならない」
「じゃあ姫さん?」
「そっちじゃない」
マイペースなギアに、振り回されている様に見えるユランは少々珍しい。尻尾を振る忠犬の様な素振りはよく見ている、というかヴィオレットに対する彼は常にそんな感じだから。
でも今は気心の知れた友人相手で、口調も普段より随分と崩れている気がする。実は普段がヴィオレット仕様で特別なだけで、彼女以下の人間には大抵少々雑だったりするのだが。それを気取らせるという点ではギアにもそれなりに心を開いているという事ではあるのだろう。
「じゃあなんて呼びゃいいんよ。お前みたくヴィオちゃんとか?」
「何でそう極端なのかな……っ」
「俺がヴィオレット様とか呼ぶ様に見えんのか」
「それが普通なんだけど」
「俺はそんな普通知らん」
あっけらかんとした物言いに、話しながらもバリバリとラッピングを開けて積まれた食料の山を消費していく姿は、この学園では異質というか特異というか。
しかも今集っているのは学園のツートップ。王族という点はギアも同じとはいえ、上級生である事も加味すればもう少し緊張とかがあってもいいのではないだろうか。
「つーか、本人はどうなんよ?ヴィオレットの姫さんは、なんて呼んだらいい」
「……まずその姫さんって何?」
ユランもギアも当たり前の様に言っているが、呼ばれる側からすると疑問しかない。姫と呼ばれる理由に心当たりはないし、まずヴィオレットは公爵家の令嬢だ。
「そこは気にせんで。ユランと話す時に呼び方に困ったから使ってただけなんで」
「そう、なの……?」
「……うん、まぁ」
肯定にしては歯切れが悪いけれど、突っ込んだと所で何も話してはくれないだろう。もしそうなら初めから話してくれているし、嘘だったならそれこそ気付かせる様な真似はしないはず。
という事は、ギアの説明は大体あっているけれど少し違って、でもその違いを言葉にするのも難しい。ヴィオレットはそう判断した。
「呼び方と言われても……大抵がヴィオレットと呼ぶし、愛称もユランしか使っていないわね」
ヴィオレット、ヴィオレット様、大体の人がその二択で、少数派であるミラニアでもヴィオレット嬢と呼ぶ。あの両親が愛称など使うはずもなく、唯一呼びそうなメアリージュンも『お姉様』だ。
結局、ヴィオレットが知る限り愛称を使っているのはユランただ一人である。
「好きに呼んでくれて構わないわ。ヴィオレットでも、ヴィオでも、姫さんは誤解を招きそうだから遠慮したいけれど」
女性を姫と呼ぶ、その相手が実際に王家の姫でないなら、下衆の勘繰りを生みかねない。男性が愛しい女性をプリンセスとして扱うのと同列に並べられでもした……お互いにユランを通じてしか認識してないというのに、余計な誤解は種の内に摘み取るに限る。
「んー……なら、ヴィオさんにしとくか。姫さんと近くて呼びやすいし、敬称つけてっから文句もないだろ?」
「そこじゃない所には文句あるけどな……」
「心狭いぞ」
「うるさい」
こそこそと身を寄せあって内緒話をする二人に何となく微笑ましい気持ちになったりするのだが、話している内容はヴィオレットには届かない。ユランが意図してそうしているのだから当然だが。
一頻り不満をぶつけては見たが、ギアに効果があるなんてユランも初めから期待していない。納得はいかなかったが、仕方がないのだと無理矢理飲み込んで、今はそれよりもヴィオレットを優先すべきだと思考回路を切り替えた。
さっきまでギアに向けていた険しい表情はどこへ行ったのか、ヴィオレットに見えるのはいつもと変わらぬ忠犬ユランの笑顔だけ。
嬉しくて、楽しくて、柔らかく微笑みながらも収まりきらない幸せがオーラとなってユランの周りを漂っている。小さくて白い花が飛んでいる様に見えるのは気のせいだろうか。
そんな幸福一色のユランを知ってか知らずか、ギアはどこまでもマイペースに我が道を進んで。
「──そういえば、そっちのお二人はヴィオさんの知り合いなん?」