35.今、この時間が
同じ言葉なのにこんなにも違うのは、声や口調だけの話ではないだろう。
塞がれた視界は真っ暗で、ヴィオレットの両手をすっぽり覆う片手は男の子のそれ。何度も何度も暗闇の中で瞬いて、結んだ唇が緩むまで、ユランはずっとそのまま待っていてくれた。
優しい優しい、大きな男の子になった。誰かを包みこんでしまえる体格と懐を持った子に成長した。
それが嬉しくて、少し寂しい。泣きべそをかきながらヴィオレットの後ろをついて回った男の子は、いつまでも幼いままではない。
(弟の成長を間近で感じられるなんて、思ってもいなかった)
これが血の繋がりも、戸籍上も間違いなく姉妹であるはずのメアリージュンだったなら、寂しくもならなかったし嬉しいとも思わなかっただろう。ほんの少し安心して、それで終わり。
だから一生、縁のないものだと思っていたのに。こうして経験すれば、なんと嬉しい事か。
ほらまた、ユランは欲しい言葉をくれる。
返したいと願ったはずなのに、ヴィオレットが一返す前に二つ三つと与えられる。追い付けない事が何とも不甲斐ないけれど、結局自分達の関係はいつまでも変わらないらしい。成長するユランはもう可愛いだけではないけれど、それでも大事な弟分。
「……ありが、とう」
「気分は良くなった?」
「えぇ、心配かけてごめんなさい」
「良かった……でも一応、どこかで休憩しよっか」
暗闇が少しずつ和らいで、光りに目が眩んだのはほんの一瞬だった。
きっと潤んでいる瞳には何も触れず、当たり前の様な関係性が続行される。涙が流れるのは何とか我慢したけれど、鼻の奥がツンとして、目の奥が熱くなる感覚は幻ではない。それでも触れずにいてくれるのは、ヴィオレットの望みを感じ取ってくれているからなのだろう。
「この先にオススメのお店があるんだー。絶対ヴィオちゃんが気に入るやつ!」
「それって、ユランが食べられる物はあるの?」
「軽食もあるから大丈夫」
「なら、そこに行きましょうか」
「うん!」
何の違和感も不自然さもないまま、ヴィオレットの手を取ったユランが歩き出す。
いつもは隣にいる事が多いけれど、今は先導するためにヴィオレットから見えるのは茶色い髪から覗く耳。歩調は弾んでいるはずなのに引きずられている感じはない。時折顔だけ振り返って、ふにゃりと一層表情が甘くなる。
楽しそうに、嬉しそうに、こつこつと地面を叩く靴音まで踊る様に。
今だけは、世界に祝福されている様な気がした。
× × × ×
「っ……!」
「ふふっ、美味しい?」
「っ、……っ!」
何度も必死に頷くと、ユランは耐えきれないといわんばかりに噴き出した。
口の中に物をいれたまま話すなんてはしたない真似は出来ないが、カジュアルな雰囲気の店内で目を輝かし美味しさを訴えるくらいは許されると思う。
ヴィオレットの前には、丸く膨らんだパンケーキ。ふっくらとしたボリュームが何段重ねかと問いたくなるが、これで一枚なのだとか。クリームに包まれていたが、切り口は確かに一つの塊だった。その柔らかさから時間と共に形が少しずつ歪んではいたけれど、そんな事気にならないくらい、今ヴィオレットの口の中は幸せだ。
「気に入ってもらえて良かった。ヴィオちゃんあんまりパンケーキとか食べないから、少し不安だったけど」
「すっごく、美味しいわ」
「うん、見てれば分かるよ。連れてきて正解だった」
そういうユランの前には、レタスとハムが挟まったシンプルなサンドイッチがある。
ユランの言う通り、この店には一応軽食も備わっていたがやはりメインはスイーツの方らしい。甘味に対して軽食の比率が極端に低かった。
ヴィオレットを気遣って頼みはしたが、恐らく特別何か食したい訳ではないのだろう。四つ並んだ内、まだ一つしか減っていないのがその証拠だ。
「私の事より、ユランも食べなさい。折角のサンドイッチが固くなってしまうわよ」
パン屋さんではないのだから、それほど時間に強い訳でもないだろう。簡単に食べられる事が売りならば、提供されて放置されるシチュエーションは想定外なはずだ。
「ヴィオちゃんが美味しそうに食べてるの見てたいから、もうちょっと」
「見なくていい」
むすくれた表情のヴィオレットに、ごめんごめんと軽い調子の謝罪が飛ぶ。本気で怒っている訳ではないけれど、食事シーンをわざわざ見られたい癖はない。
手に持ったフォークとナイフを動かさず、ジッとユランを見詰めれば、ようやく降参したらしい。拗ねた様に唇を尖らせて、不満げではあったけれど、サンドイッチを掴み二口で一つを消化した。
普段の穏やかな表情とは打って変わった、上品さよりも豪快さのある側面。社交界ではマナーを遵守するこれどこういった所は普通の男の子と変わらない。口元を親指で拭う仕草はどこか荒っぽくも見える。
それだけの事なのに、ヴィオレットにはまるで知らない人の様だった。
「……ヴィオちゃん?」
「ぁ……ごめんなさい、珍しくて、つい」
「珍しいかな……昼食一緒に食べたりしてるよ?」
「学園では軽食でもマナーを気にしてるから、今みたいにしてるのは珍しいわ」
マナーも学ぶ学園内では休み時間であろうと周囲の目を気にしている。もし今の様な食事風景を目撃されたら、無作法の咎めを受けかねない。
基本的にユランとヴィオレットが食事を共にするのは学園か、若しくは社交界の場。飾らずにいられる場は、思いの外少ない。
「確かに……実は結構気を張ってるんだよね、完全に無意識だけど」
貴族の子息令嬢として、その一挙手一投足に気を付けるのは本能に近い。刷り込まれた教育の元、作法は常に頭の片隅で準備運動をしている。
とはいえ、一分一秒気を抜かず、二十四時間三百六十五日完璧でいられる人間は存在しない。そんな芸当人間を止めた後でも身には着かない事だろう。
だから皆、無意識の内に使い分ける。そして気を抜いて良い場所、抜くべき場所を見つけるのだ。
今回訪れた店もその一つ。こういった普通の、形式張っていないお店では下手に格式を重要視する方が無作法になるだろう。
郷に入っては郷に従う、物事は適材適所、落とし所を見誤りさえしなければそれでいい。
「小さい頃からそうだし、今さら苦ではないけど……楽できる所は力を抜かないと」
「たまに雑な考え方するわよね」
「そう?でもそういうヴィオちゃんだって、いつもと違うよ」
「え……?」
そう言うとユランの大きな手がゆっくりと近付き、唇の端を滑る。視界の端に写ったのは、大きな手とその指先に絡んだ灰色の髪だった。
「髪、食べてる」
「……っ、!」
突然の事にポカンとしていたが、一拍置いて状況を理解した。唇にくっついた髪をユランが取ってくれたらしい。
理解すれば、顔に熱が上るのは簡単だ。いくら学園よりもマナーが緩くなっているとはいえ、髪を食べたまま気付かない……それ以前に、髪の事を全く念頭にいれず食べていた事。いつもなら長い髪は汚れる事も頭にいれて気にし、失敗しない様に勤めるというのに。
自覚ずうる以上に、ヴィオレットも気が抜けているらしい。
「ヴィオちゃんがこんなミスするの珍しいよね……ふふ、可愛い」
「た、偶々よ……っ」
からかう様な声色が鼓膜をくすぐって、にこにこと楽しげに笑む顔が腹立たしい。
きっと頬の赤みが増しているだろうけれど、これ以上突っ込まれる前に目の前のパンケーキに集中する事にした。
「美味しい?」
「……美味しいわ」
本当は慌てて飲み込んだから味なんて分からなかったけれど、それでも確かに満たされていた。