32.それは優しさだった
涙で潤む瞳のまま、必死に笑顔を浮かべて見送ってくれたマリンに手を振って、家を出たのは普段よりも十分ほど早い時間だった。
万が一にもメアリージュンと鉢合わせたくないが為の措置だったが、予想よりも早く着きすぎた。教室にはまだ誰もいなかった。元々余裕を持って登校している為、更なる十分前行動は過剰だったらしい。
とはいえ、ヴィオレットにとっては誰もいないこの状況はむしろ願ったり叶ったり。
普段から自宅よりも気持ちの軽い教室が、今は自分以外誰もいないのだ。例え数分の夢であっても、ヴィオレットには充分楽園足りうる。
「はぁ……」
漏れたため息は完全に無意識だった。自覚している以上に心が疲れている証拠だ。
昨日はあんなにも楽しくて、マリン曰く機嫌も良かったはずなのに、二十四時間も立たない内に墜落してしまうとは。女心は秋の空の様に移り変わりが激しいとどこかで誰かが言っていたけれど、ここまで天から地へ叩きつけられる事も珍しい。
静まり返った教室は考え事に丁度良いけれど、落ち込んでいる精神の復活には不向きだ。これ以上ないと思っていたはずなのに、底辺がどんどん更新されていく。
(マリンは大丈夫かしら……)
あの家はヴィオレットに決して優しくないけれど、マリンにとっても居心地の良い場所ではないだろう。母が臥せっていた頃ならいざ知らず、父が戻ってきてからは、自分に近い分辛い想いも共有できてしまう。
幼い頃に自分が考えなしに引き込んでしまった、幼い少女。今では大人の仲間入りをしているけれど、それでもあの家に一人で居るのは重苦しい物がある。
大切なマリン、笑顔は少ないけれど、それでもいつだって明確な愛と幸をくれる人。家族なんて何一つしらないけれど、姉とはこんな人なのではないか、こんな人が家族だったらと。
そんな彼女が、自分のせいで傷付く事が恐ろしい。
「あれ……ヴィオレット様?」
「っ……ごきげんよう」
「ごきげんよう。お早いですね」
「えぇ、早く家を出すぎてしまって」
入ってきたクラスメイトに、反射的に表情を作り直す。わずかでも憂いの表情を見せればどんな風に伝わっていくか、何度噂の餌食になっても予想が出来ない。ある時はとんでもない曲解、ある時は一周回って真実に近く、火のないところでさえ煙が立つ。
クラスメイトを疑う訳ではないが、信用も信頼もしていない他人に綻びが露呈する自体は避けた方が得策だ。
他愛もない世間話をしている内に、一人二人と教室の人口が増えていく。わずか数分の楽園はいとも簡単に終わりを向かえた。元々分かっていた事なので落胆したりはしないが、このまま教室で授業開始を待つには精神が落ち込み過ぎている。
「ごめんなさい、私図書室に用があるの」
「あ、お引き留めして申し訳ありません」
「気になさらないで。では、失礼します」
友人は少なく、人から遠巻きにされると同時に引き寄せてしまう矛盾は、ヴィオレット本人の性格とヴァーハン家家名の吸引力が混ざった結果だ。
令嬢として社交会場でならばいくらでも取り繕えるのだが、学園やプライベートではどうも上手くいかない。ドレスが戦闘服となり、気持ちを切り替える手助けをしてくれているおかげだろうか。それでも出来るだけ壁の華に徹するのだから、ヴィオレット個人の性格としては苦手なのだろう。
教室に向かう人に逆らって、出来るだけ人気の無い場所を探す。候補はいくらでもあるが教室から離れすぎると戻るのに大変だ。だが朝は教室から出る者も少ない為、廊下も中庭もいつもより人気がない。
「綺麗……」
いつ、どんな心で見ても、咲き誇る花は美しい。むしろ荒んでいる時だからこそ美しく見えるのか。
色とりどりの花びらも、鼻孔をくすぐる甘い香りも、素直に綺麗だと思うし目には優しい光景だと思う。ただ心を癒すにはまだ足りない。
光景に癒されるのはそこに付随した思い出が優しいから。叩きのめされた今を越える過去は、ヴィオレットにはない。
一番大切な所に土足で踏み込まれた時、人はどうやって乗り越えるのだろうか。
「……止めよう」
考えるだけ、きっと自分は追い詰められる。忘れる事が簡単とは思わないが、覚えていた所でこの感情を父が理解する日は来ない。
あの人の言葉は優しさに満ちていた。メアリージュンへの、愛と優しさだけで構成されたそれがヴィオレットにとって毒であるのは当然で。
期待なんて欠片も抱いていないのに、こんなにも動揺する自分が恨めしい。平気である事と、我慢できる事は、こんなにも別物なのか。
風が吹いて、髪が揺れる。舞い上がる花びらと一緒にこの気持ちも吹き飛んでしまえばいい。
視界の邪魔をする灰色から逃れる為に顔を背けると、初めてそこに人影があった事に気が付いた。
「あ……」
腰まで歪みなく伸びた濃い紫色。白い肌に色を添える、ほんのりピンクがかった頬。花を愛でる為に屈んだ姿すら気品を感じさせる……いや、彼女自身が美しい花の如く。薄い紫色の瞳が細められ、和らいだ雰囲気が、女神を思わせる神々しさを湛えている。
ヴィオレットが大輪の薔薇なら、彼女は真っ白な百合の花。
清楚、可憐、上品。令嬢の理想を全て詰め込んだ様なその人の事は、ヴィオレットもよく知っていた。
ロゼット・メーガン姫。隣国の王族であり、ヴィオレットとはクラスは違えど同級生に当たる。
誰もが口を揃える、彼女は素晴らしいのだと。
完璧な人、無欠な令嬢、あらゆる肯定の言葉が彼女を彩っているが、それが彼女の存在をより希薄にさせた。沢山のベールに包まれ、崇められ称えられ、神格化した姿は教会にあるステンドグラスを連想させる。
(珍しい……)
いつも遠目で見かける彼女は、沢山の人に囲まれている。社交界で見かける姿も同じ、ロゼット嬢の隣、後ろにも前にも誰かがいた。
ヴィオレットの知る彼女は、いつも人だかりの真ん中で淑やかに笑っていたのだが。
ぼんやりと眺めている間に、時間は過ぎて鐘がなる。次の鐘がなるまでに教室に戻らなければ授業が始まってしまう合図。
恐らく彼女にも聞こえているはずなのに、ロゼットは立ち上がる様子もなく花に触れたままだった。
「…………」
ここで声をかけるべきか、本来なら迷う必要はないけれど、ヴィオレットから話しかけるというのはそれなりにハードルが高い。
ヴィオレットの性格やコミュニケーション能力だけの問題ではなく、学園の人間はヴィオレットに対して何かしらの緊張感を持っている。それは家柄であり、本人の発するオーラであり、現在は取り巻く家庭事情もあって、クラスメイトは慣れてくれたが他はどうかというと微妙な所だ。
そしてロゼットの事は知っているけれど、交流どころか直接顔を合わせた事もない。遠くで見かける程度の存在に、分かりきった事をわざわざ報告確認出来るほど、今のヴィオレットに余裕はない。
(まぁ……いいか)
友人でもない自分がわざわざ気まずい思いをさせる可能性を孕んだまま声をかける必要はない。
何より今、ヴィオレットは笑顔の仮面を貼り付けていられる自信がない。
花壇の前に屈むロゼットから視線を外して、消し去れない憂鬱を奥底にしまいこみ、教室へと戻った。