31.一人ではない
朝になると、メアリージュンはいつも通りの明るさを取り戻していた。食堂に向かう所を後ろから声をかけられて、そのまま並んで廊下を歩くのは最早恒例になりつつある。
気まずい想いは変わらないが、毎日の事に毎回律儀に反応していたら精神の磨耗が酷い。段々と相槌を上手く打てる様になっている気がするのは防衛本能故だろうか。
囲む食事は相変わらず味以外の感想を抱けないが、それは幼少期から変わらない事だ。一人の食事も、家族団欒の食卓も、ヴィオレットにとってはむしろ人が増えた分居心地が悪くなっただけ。
柔らかな雰囲気を纏う三人に羨ましいと思う価値観は、とうの昔に死んでいる。
話す三人を視界の端に捉えながら、一人朝食を堪能する。昔から変わらずヴィオレットの味覚に合わせたそれは、この大きな屋敷で一人過ごす孤独を、ほんの僅かな間ではあったが確かに癒してくれていた。美味しいものは心を豊かにしてくれるというが、正にその通り。
「そうだお姉様、今日一緒にお茶でもしませんか?」
「え……」
「色々と教えていただきたい事もありますし、私のお部屋で、どうですか?」
先日の事を、彼女なりに受け止め考えたのだろう。夢見がちであるのも事実だが、同じだけ素直である事を、ヴィオレットはよく知っている。正しさに偏った所はあるものの、考え方が固くなな訳ではない。
ヴィオレットの言葉に何かを感じ、話したいと思った変化は素晴らしいと思う。結果がどうなるにしろ、今までの自分とは違う意見を検討出来る様になる事は、メアリージュンに良い影響を与えるだろう。
ただそれは、メアリージュン側に立った場合の話しであって、ヴィオレットからすれば他所でやれと言いたくなるだけだった。
「ごめんなさい、今日は先約があって……」
嘘ではない。今日はすでに約束があり、先約を優先すべきであるというヴィオレットの方針に則って、何も後ろめたい事はない。
それでも断りたいという願望のせいで抱いてしまう罪悪感は、仮病を使って学校を休みたがる子供のそれに似ている様に思う。仮に先約がなかったとして、何かしらの理由を付けて断っていた可能性が否定できないからだろう。
とはいえ幸いにも今日の予定はすでに昨日の時点で埋まっている。心持ちがどうであれ、咎められる謂れはどこにもない……はずなのだ、本来ならば。
「妹の為に予定を変更する事も出来ないのか」
その口調は呆れからか、蔑んでいる様な響きを含んでいる。眉間のシワが深くなっている気がするのは、目に見えたままが答えだ。
「お前のそれは、家族よりも優先すべき事なのか?」
「それは……」
言い淀んでしまったのは父の言葉が的を得ていたからではない。その逆、どの口が言っているんだと反論しそうな自分を諫める為だ。
家族なんて言葉を、この人から聞く事になろうとは思わなかった。かつて妻を捨て、娘すら放置した人間の言葉をは思えない。これが心を入れ換えたからならば、わずかでも優しい気持ちを抱けたのだろうか。
実際は、彼にとっての家族にヴィオレットが含まれていない事の証明でしかなかったけれど。
父の世界にある最優先事項は、きっとメアリージュンであり妻であるエレファ。本来真っ先に喜ぶべき長女の存在は、メアリージュンに何でも譲り合わせる都合の良いお姉様でしかないのだろう。
指先から体温が徐々に奪われ、ゆっくりと心が死んでいく感覚は、何も初めてではない。
例えば、朝が来ておはようを言う相手がいない時。
例えば、広い食堂で一人ご飯を食べる時。
例えば、母が自分に愛していると囁く時。
心臓の奥が温度を無くしていく、そのまま血液が流れるのを止めてしまうのではと思えるほど、指から足から頭から、体温が下がっていく。
昔から、何度となく経験してきた。マリンが来てからは少なくなってはいたけれど、それでも毎日の様に感じていた感覚。
さっきまであったはずの味覚が一瞬で吹き飛んで、後味の楽しみはもう分からなくなっていた。
「もうっ、お父様、そんな風に言わないで。お約束があるなら仕方がないもの……急にお誘いをしてごめんなさい、お姉様」
「……ごめんなさい、メアリージュン」
「お姉様が謝る事なんてありません!あ、でも、また今度お誘いしてもいいですか?」
「えぇ……待っているわ」
「はいっ!!」
その笑顔は、何の憂いもなく煌めいている。彼女はヴィオレットの事も、そして父の事も、文字通り何一つ気にしていないのだろう。
ヴィオレットが先約を優先した事は、当然の事だと思っている。そんなヴィオレットに責める様な言葉をかけた父も、自分を思いやって強い口調になってしまっただけだくらいに捉えて。
美しいお花畑で育ち、草原を荒野だと思っている様な、砂糖とシロップにまみれた思考回路。それはきっと博愛で、平等の中では優しく美しいのかもしれない。
荒野で育った人間──マリンからすれば、吐き気がするほど気色の悪いものでしかない。
不快が表情に出ない様、必死で両手を握りしめた。手のひらがすでに痛みを越えて感覚を失っているが、今わずかでも力を抜けば殴りかかってしまいそうで。
斜め前に座る、大切な主人の後ろ姿に視線を向ける。今すぐその背を抱き締めて、この部屋から連れ出したい。こんな奴等を、ヴィオレットの視界の端ににすら入れたくない。
でもそれをすれば、この愚か者達は愚かなままマリンをヴィオレットから遠ざけるだろう。専属を外されるだけならまだしも、屋敷から追い出されれば彼女は本当に一人になってしまう。そして、この愚者どもに心を貪り食われてしまう。
それだけは許せないと、必死に想いをヴィオレットへの配慮へと変換する。
しっかりと伸びた姿勢は、いつもと何ら変わりない。誰よりも美しく、誰より素晴らしい、いつも通りのヴィオレット。
だからこそ、 心が苦しい。
ヴィオレットにとって、このくらいなんて事ないのだと思い知らされる。辛いだろう、悲しいだろう、それでも慣れてしまっているのだろう。
マリンが思っている通り、ヴィオレットは慣れている。最早彼らの中で自分がどんな存在であっても、事実以上の感想はない。赤の他人だと言われても、だろうな、なんて、むしろ納得してしまう。
黙々と食事を続けて、空になったお皿を前に汚れてもいない口許を形式として拭うと、適当な理由を付けて席を立った。
「ヴィオレット」
「……はい」
「お前はもう一人ではないのだ。今までの自由を改め、少しは妹への配慮をしなさい」
「……、……心に、刻んでおきます」
ゆっくりと頭を下げて、マリンを引き連れ食堂を出る。
スカートを手繰り上げて走り出したい気持ちと、今すぐ足を止めてしまいたい気持ちがせめぎ合い、結局いつもより鈍い足取りのまま部屋についた。
「ヴィオレット、様」
泣きそうな声が耳に響いた。自分のではない、マリンのものだ。泣きそうに震えて曇った声、いつもの淡々とした口調はどうしたのだと振り向けば、声と同じ様に泣きそうな表情がそこにあった。
「ヴィオ、レッ……様」
「マリン」
「ヴィオ……、さ……っ」
「ありがとう、マリン……大丈夫よ」
泣くまいと唇を食い縛る度、言葉が出なくなっていく。
悲しいのか辛いのか、はたまた泣きたくなるほど腹が立っているのか。きっとその全てが、血液に乗ってマリンの心臓の中を循環している。
いつも冷静で、感情が表に出る事なんてほとんどない。そんな従者が自分の為に傷付いているを見て、ヴィオレットは笑った。笑顔といえるのか怪しいけれど、きっと全然笑えてなんかないけれど。
それでも真っ黒になった心の中で、飲み込まれずに残ったわずかな白い感情が、マリンへの愛情を笑顔への活力に変えてくれる。
大丈夫だと、マリンにも……自分にも言い聞かせながら、ヴィオレットは自分よりも高い位置にあるその髪を撫でた。
一人ではないと、父は言った。
頭の中が、沸騰した様だった。一瞬にして、心が黒く染まっていった。
死んでしまえと、高らかに叫んでしまいたくなった。
かつての過ちを繰り返してしまいそうになるほど、あの瞬間ヴィオレットの頭を占めたのは煮え繰り返る憤怒の感情だった。
それほどに、あの言葉が許せなかった。
一人ではないと、その言葉を、どれほど望んでいただろう。その言葉に、何度心を持ち直した事だろう。
マリンが、ユランが、何度も何度もそう言って慰めてくれた。
ずっとずっと、一人ぼっちだった。孤独に独りきりだった。
この広い家で、何度も何度も、空を切る手を伸ばしてきた。誰も握り返してはくれないのに、そんな事言われずとも分かっていたのに。
誰かと呼んでは、叫ぶ名前すら持っていない事に涙した。いつからか泣く事も忘れ、呼ぶ事すら諦めた。
側にいると言ってくれたのは、マリンだった。一緒にいると言ってくれたのは、ユランだった。一人にはしないと、言ってくれたのは、二人だった。
独りに絶望しきったヴィオレットを救った、大切な大切な言葉だった。
お前なんかが、都合良く使っていい言葉なんかじゃないと、皿を投げ付けてやりたかった。
あの時側に投げられる手頃な物が無くて良かったと心から思う。口汚く罵る前にかつての自分を思い出せて本当に助かったと、妙に冴えきった頭の片隅で思った。
マリンを慰める内に頭に上った熱が分散されていく。冷えていた指先に熱が戻って、結局はプラマイゼロだったなんて嘯いて。
怒ったって無意味だと知っている。感情を割いたって、何も変わりはしないのだから。
投げ出す事は許されず、だからといって受け入れては貰えない。
全身に絡み付くのは、そこから逃げられない様にする拘束であり、これ以上近付くなという鎖なのだから。