27.お楽しみ
帰宅した後、メアリージュンとは何度か顔を合わせたが、話し掛けられる事はなかった。いつもならばヴィオレットの内心など全く知らずに愛らしい笑顔で近付いてきていたのだが、流石にあんな事があったその日にまで能天気に笑っていられる程子供ではなかったらしい。
正直あれだけ言いながら欠片も心に届かない可能性を危惧していたから、少しでも考えてくれている様で安心はした。同時に斜め上に解釈されていそうで不安にもなったが。
夕飯を終え、お風呂も済まして、後はもう寝るだけの状態で部屋に戻る。メアリージュンが話し掛けてこないだけで随分と心持ちは軽かったが、やはり自室が一番気が楽だ。突然誰かしらが訪ねてくる危険性はあるが、場合によってはマリンが助けてくれる分肩の力が抜ける。
ゆったりとしたソファに腰を下ろすとテーブルの上に湯気の立つカップが置かれて、ありがとうを言うための視線がかち合った。
「ヴィオレット様、何か良い事でもありましたか?」
「え……?」
珍しく柔らかな表情をしたマリンの口から飛び出した、自分では全く自覚のない事。不意を突かれてきょとんとしたヴィオレットに、マリンは気付いていなかったのかとばかりに微笑んだ。
「何だが今日は機嫌が宜しい様でしたので。帰宅した時も、いつもより表情が柔らかかった様にお見受けしました」
「そう、だったかしら……」
自分では全く自覚していなかったが、マリンがそう言うならそうなのかもしれない。他人だからこそ気付ける事というのは確かに存在する。
だからといって、理由までもがすぐに思い浮かぶ訳ではない。
今日の出来事を思い返せば……むしろ疲労困憊であっても可笑しくない濃度の一日だった。いつもならユランと話すくらいの出来事しかないというのに、今日に関しては新たな知人まで出来た。自宅以上の安息の地、学園でメアリージュンと話した事だって、ご機嫌になる要素ではない。
湯気の温もりを唇に感じながら、記憶のページをめくっていく。授業が終わり、ユランの教室を訪ねた事。そこでユランの友人と話せたのは嬉しかったが、ご機嫌と呼ぶにはまだ足りない。
思い当たる出来事があったのは、その後だ。
「……確かに、良い事だったのかもしれないわ」
美しい王子様と飲んだ紅茶の味は、もう思い出せない。美味しかったとは思うが、それ以上に強烈な記憶が脳にこびりついている。
しかしあれは良い事ではあったけれどご機嫌になるかと言われれば少し違う気がした。どちらかというと安心に近い物ではないだろうか。
であれば、一体原因はなんだろう。それ以外にあった、記憶に残る出来事といえば……。
「……ユランと、約束をしたからかしら」
「ユラン様?」
「えぇ、明日の放課後一緒に出掛ける事になったの。寄り道なんてした事がなかったから、浮かれてしまったのね」
厳密に言えば寄り道はした事がある。かつてヴィオレットを取り巻いていた令嬢達と共に、学生には不釣り合いなお店でお茶をした事や、その店に外商を呼びつけた事、VIPルームを利用した事だって。
しかしそれは、ヴィオレットにとって友人とのお出掛けではなかった。一見ヴィオレットが取り巻きを引き連れていた様に見えていただろうけれど、実際はヴィオレットの見栄で、彼女達が離れていかない為の接待だ。
家族への当て付けも込めて色々お金を使ったが、そのどれもに嬉しさも楽しみも見出だした事はない。
ヴィオレットにとってあれは、娯楽ではなく義務 であり、一種の強迫観念だった。
そんなものと、ユランとの寄り道を同列にする訳にはいかない。
どこに行くのか、何をするのか、何一つ決まっていないが、そんな事は大した問題ではないだろう。同行者が変わっただけで、今までの経験は全て同じ名前の別物に思えてくる。
目的はお詫びだが、当日を逃した時点でそんなものはただの名分だ。
「でもまさか、そんなに楽しみにしていたなんて……ふふっ、マリンに言われるまで気付かなかったわ」
楽しみ……そう、自分は楽しみにしている。指摘されるまで全く気付いていなかったが、それはあまりにこの感情が当たり前だったから。
締め付けられる環境で育ったせいか、いつだって空気が薄く感じていた。必死に呼吸をしても、胸を押し潰されている様な息苦しさが消えなくて、マリンの側でさえヴァーハン家の敷地内というだけで体が強張っていたくらい。
ユランの側にいると、そういった鎖がただの柵に思えてくる。拘束されていると思っていたそれはただの囲いで、無くなりはしないけれど押さえ付けるほどの強制力もない。行く手を阻む程度の効力しかないのだと。
家に帰れ柵は鎖に戻ってしまうが、それでもほんの僅かな自由が目に見えるだけで心は救われる。
「だから明日は帰りが少し遅いかと思うけれど、心配しないで」
「かしこまりました……ヴィオレット様」
「ん……?」
「……楽しんで、いらしてくださいね」
「えぇ、ありがとう」
笑顔に紛れた、言葉に出来ない感情。無理矢理にでも当てはめるなら、安堵が一番近いのだと思う。
感情にすれば複雑だけど、言葉にすれば簡単で。
楽しんで来てほしい、そこ含まれた切実さと真剣さはきっと……ヴィオレットにも、分かりはしないだろう。