戦後の混乱期に起こった、前代未聞の事件。 長年封印されていた裁判記録が昨年、公開された。 そこに記されていたのは、当時「模範的」として評判だった、ある施設の恐るべき実態だった。 真実を暴くため、命がけの取材に挑んだ新聞記者たち…これは彼らが掴んだ世紀の大スクープの記録である。
毎日新聞 大阪本社宿直室に、ある男が駆け込んできた。 男は北川と名乗る路上生活者だった。 聞けば彼は、岡山県の倉敷で職探しをしたが見つからず、駅で野宿をしていたところ、武藤(仮名)という県の厚生課職員に“真冬に野宿するくらいなら”と、彼が勤務する施設への入居を勧められたという。 武藤の話では、十分な食事が用意され、施設で働けば賃金ももらえるということだった。 こうして入所したのが…近隣の岡田村にあった、路上生活者を収容する施設「岡田更生館」である。
戦後の混乱期、復員兵や引揚者などの中には、戦災によって居場所を失い、路上生活者になった者が多数いた。 そこで彼らを収容する施設が全国に設けられたのである。 国と県が費用を出し生活の面倒をみる一方、収容者は中で仕事をすることで収入を得て、やがて社会復帰を果たす、それが設立の目的だ。 その内の一つが、岡田更生館だった。
しかし、入所してみると…仕事などなく、食事もろくに支給されなかった。
彼がいたひと月で、50~60人は栄養失調で死んだという。
脱走を試みるものもいたが、捕まれば見せしめのためにリンチされるという。
収容者の中から館長が選抜し、待遇面でも優遇された者を「指導員」と呼び、彼らが他の収容者を監視、脱走者を見つけては暴力をふるっているという。
宿直の記者は、北川の話をメモにして伝えた。
大森実(27歳)は、当時、毎日新聞社会部の記者だった。 大森はこの話に疑念を抱いた。 なぜなら、当時 岡山は福祉の先進県と呼ばれていた。 中でも「岡田更生館」は、収容者が街頭で募金活動をするなど、社会貢献を積極的に行う模範施設として有名だった。 また、時折行われる警察の視察でも問題ないとされていた。
無類の現場好きだった大森は、カメラマンの向井とともに早速、取材を始めた。
大森は、まず岡山県庁へ向い、北川を誘った県の職員、武藤が実在するのか確かめることにした。
武藤は、実在していた。
普段は「岡田更生館」で事務仕事をしているらしいが、たまたまこの日、県庁にいたのだ。
顔を確認すると、すぐさま退散。
北川の話もあながちでたらめではないようだった。
さらに大森は…岡田更生館の評判を県庁でさりげなく探った。 しかし、悪い話は皆無。 北川の証言を裏付けるようなモノは一切出てこなかった。
次の手がかりを求め、各新聞社のバックナンバーを調査。 すると…過去に脱走者が施設内での暴力を訴えたという、小さな記事を見つけた。 しかしその後、警察の調査で否定されたという。 北川の話に信憑性を持たせる記事だった。 と、同時に…もし虐待や殺人が事実なら、警察と施設が繋がっているということになる。
周辺を探るだけではラチが明かないと感じた大森は、とんでもないことを思いつく。
それは…潜入取材。
しかし、上司はこれに反対。
「もう少し冷静に情報を集めろ」と、大森を諭した。
翌日2人は、確かな情報を得るために、路上生活者の扮装をして岡田更生館へと向かった。 正門前には、揃いの上着を着た屈強な若者、その手には…棍棒が。 さらに、夜になると…焚き火を焚いて、夜通し見張り。 しかし、それだけでは証拠にならない。
カメラマンの向井は、焚き火の灯りを頼りに施設の一部を撮影した。 写真を現像してみると…そこに写っていたのは、肋骨が浮き出るほど痩せ細った収容者の姿だった。 これまた北川の証言と符合した。
大森はここまでの成果を本社に報告。
本格的な取材をする許可が下りた。
そして、上司が人員を一人補強してくれた。
記者の小西健吉だった。
大森と小西は、浮浪者の格好をして周辺の住人に密かに接触、岡田更生館の評判を聞き出そうと試みた。
しかし、誰に聞いても、その名を出した途端、口を閉ざしてしまう。
1週間粘って聞き込みを続けていると…ある女性が話をしてくれた。
女性によると、岡田更生館に入れば殺されるという!
朝4時になると、死亡した収容者を裏山に運び、そこで遺体を焼いているというのだ!
さっそく2人で、裏山を確認しに行った。
そこで人骨を発見した!
女性の話では、1週間で5〜6人が死亡しているという。
人数の違いこそあれど、脱走者の話を裏付ける初めての証言だった。
そこで…大森はもう一度、上司に潜入取材をしたいと申し出た。
上司は、上層部にかけ合ったが…毎日新聞大阪本社は、記者に危険が及ぶ可能性があることを理由に潜入取材を認めなかった。 そこで、確実に救出される方法があれば、上を納得させることが出来るのではないかと、大森は考えた。 しかし…助け出してもらうには、警察の力が不可欠なことは言うまでもない。 警察と岡田更生館が、繋がっている危険性も否定できない。
そこで、検察のキーマンを頼ることにした。 岡山地検のトップ、川又検事正だ。 大森は岡山支局長の紹介状を持ち、検事正の公邸を訪問した。 大森はこれまで掴んだ証拠写真などを示し、岡田更生館に関する疑惑を報告。 川又検事正から、潜入取材の協力の約束を取り付けた。
大森が、本社に報告すると「潜入取材」の許可が出た。 あとは、いかに新聞記者だとバレずに、岡田更生館に収容されるかだ。 しかし…潜入を果たすには、警察に協力してもらい、路上生活者であるというお墨付きを貰う必要がある。 とはいえ施設を管轄する地区の警察は、更生館と癒着している可能性がある。 そこで川又検事正は、懇意にしているという倉敷署の警察署長を紹介してくれた。
こうして倉敷署署長公認のもと、岡田更生館行きが決定した。
翌日、大森と小西の2人は作戦通り潜入に成功。
彼らは3つの作業場のうち、「第三作業場」に入れられることになった。
そこには、およそ30名の路上生活者が収容されていたが…皆、栄養不足でやせ細り、目ばかりギョロつかせていた。
大森は他の場所も偵察しようと、用を足しに部屋を出た。 すると指導員と呼ばれる監視役が後をついてきたため、諦めて便所へ行くだけにした。 部屋に戻ると…無断でトイレに行ったことに、激怒した指導員に恫喝された。 大森は、脱走者をリンチし、棒で殴り殺したという恐るべき存在こそ彼らに違いないと感じた。 またも、脱走者・北川の証言と一致した。
作戦では、潜入2日目(2月17日)の正午、検察が突入し2人を救出。
と、同時に…向井カメラマンが施設内に飛び込んで、証拠写真を撮るという段取りだった。
前日のうちに上司らは現地入り。
しかし…収容者の栄養状態や施設内での暴力など、北川の証言が事実だと確認できなければ突入はできない。
携帯電話もない時代、無線さえ持ち込めない状況で、どうやって連絡を取るというのか?
大森は、ある作戦を立てていた。
その作戦に、大森が指名したのだ新野記者だった。
果たしてその、作戦とは?
夕食の時間になった。 米などほとんど入っていない黒い汁が、雑炊として支給された。 収容者は皆、わずかな量の差も見逃さぬと言った、獣のような目をしていた。 臭いが酷く、とても食べられるような代物ではなかった。 食事に関しても、北川の話と違わなかった。
その時、新聞の視察が入った。
現れたのは、毎日新聞の新野記者、『模範施設の取材』と称してやって来たのだ。
その時、大森は自分のおでこを触って見せた。
これこそが、施設への疑惑が確かなものであることを伝える合図だった。
午後8時の就寝時間後は、室内に監視役がいなくなった。 大森は、近くに寝ている坂本という男に話しかけてみた。 すると、坂本は逃げようとすれば殺されるから、逃げてはダメだと忠告してきた。 1年前、坂本もまた、武藤に誘われここに来たという。 耐えきれず、脱走を試みたが、山中で指導員に捕まってしまい、肋骨が折れるほど殴られたが、かろうじて命はとりとめたという。
大森は、何としても記事にして彼らを助けると心に誓った。
しかし、それには虐待を裏付ける確実な証拠が必要だった。
すると坂本が…「『医務室』にだけは行きたくない…生きる屍がいるんだ」と言った。
栄養失調や暴力で瀕死となった収容者が入れられるのが「医務室」だという。
大森は、便所に行くふりをして覗いてみると…死体が3つ寝かされいると思った。 だが、その時…手が動いた! かろうじて生きていた。
そして救出の日。
事前の計画では、正午に川又検事正ら検察が、2人の記者を救出にくる手はずとなっていた。
しかし大森は、まだ取材に満足していなかった。
そこで、脱走者が捕まったらどういう目に遭うのか、確かめるために脱走を試みることにした。
そして、岡田更生館に潜入した2人の記者は、脱走を決行した。 2人は、呆気なく捕えられた。 連れて行かれたのは、事務所。 そこには…あの県の厚生課の職員・武藤がいた。 武藤は「こいつらを柔道場で痛い目にあわせてやれ」と指導員たちに指示した。
脱走を図った者に対し、暴力を振るっているのは間違いない。
確信した大森は…自分たちは新聞記者だということを明かした。
だが武藤は動じず、本当に新聞記者なら証拠を見せろと言った。
しかし、路上生活者に変装していた彼らは、身分を証明するものなど何一つ持っていなかった。
このままでは、殺されると感じた大森は、証拠を見せると言って、上司に電話をかけた。
その電話で上司に助けを求めた。
電話から5分も経たないうちに…検察が岡田更生館に突入。
大森は直ちにカメラマンの向井を連れ…医務室にいる瀕死の収容者の写真を撮らせた。 一方 小西は、潜入中、収容者から聞き出した会計帳簿を探し出し、入手。 旅館に移動した大森は、原稿を殴り書きし、それを連絡係が読んで本社に伝えた。
翌日、毎日新聞の社会面に岡田更生館を取り上げた記事が掲載された。
しかし、その内容は…脱走者の北川や近隣住民の話ばかり。
潜入取材で得た情報については一切触れず、写真も掲載されていなかった。
大森や小西は、到底納得が出来なかった。
そんな中…朝刊が出た日の午前中、記事に激昂した岡山県知事が、すぐさま記者会見を開きこう訴えた。
『根拠もなく、単に脱走者の訴えを頼りに書かれただけの記事は一方的、信憑性がない』
『県立の施設で非人道的な行為があるとは思えない。新聞を売らんがための捏造ではないか』
県のトップが記事を批判した上で、さらに、更生館を全面的に擁護する発言を行ったのだ。
翌日、他紙はこぞって知事の談話を掲載。
その結果…『捏造』とレッテルを貼られた毎日新聞の信頼は、完全に地に落ちた…かに思われた。
だが実際は…上司にはある策略があったのだ。
そう、あえて特ダネを伏せた記事を世に出したのだ。
この上司の判断について、元毎日新聞記者の鳥越俊太郎氏は…
「本人が掴んだのは間違いなく特ダネなんだけれども、それは世の中にあんまり知られてないんで、特ダネといって出しても他の新聞社やメディアも含めて、気が付かないということがあるんですよね。ある程度話題になっているところで、えっそうだったのかというような話を出した時の方が特ダネ感はあるワケなんです。」
上司の目論見通り、他紙が掲載した知事の談話は、世間の注目を集めることになり、毎日新聞のスクープのインパクトを強める、追い風になった。
そしてついに、大々的な見出しとともに、大森らの体験と入手した帳簿を元に、真実を暴いた記事が掲載された!
彼らが訴えたのは、岡田更生館の目に余る待遇の酷さだった。
栄養失調などで、多くの収容者が命の危機に瀕しているという施設の実態を、向井カメラマンの写真を掲げ克明に綴った。
この記事を受け、ついに国家地方警察(現:警察庁)が動き出す。
そして強制捜査に入ろうという、まさにその日…今度は、岡田更生館が会見を開いた。
警察や新聞各社も集まる中、会場では収容者がこざっぱりした服を着て正座していた。
果たして岡田更生館の狙いとは?
姿を現したのは…これまで徹底して表舞台に立たなかった館長だった。
館長は収容者にこう言った。
「もし本当に私が悪事を働いたと思う人があれば、今ここで、県や国のお役人の前で手を挙げて下さい。」
収容者たちが恐怖で洗脳されていると感じた大森は、彼らに語りかけた。
「皆さん、私の顔を覚えているでしょう、浮浪者としてここに入っていた者です。新聞記者です。皆さんを救うために、潜入しました。最後のチャンスです、怖がってはならない。虐待された人は手を挙げて下さい。」
すると、あの坂本が手を挙げ、「この人の言うことは本当です」と証言した。
指導員たちは全員、その場で逮捕された。
岡田更生館では、76名もの死者を出していたことが判明。
栄養失調や病気だけでなく暴行を受け亡くなった者も多かった。
しかし、これだけではない。
その後、持ち出した会計帳簿などから、犠牲者が出ることになった原因である館長や厚生課の職員の不正も明らかとなる。
彼らは国からの補助金や収容者に払うべき給料を着服、私的に流用していたのだ。
収容する人数が多ければ多いほど、補助金も増額される。
そして…逃亡を図った者に激しい暴力を加えたのは、施設の実態をバラされることを恐れたためと考えられた。
それを防ぐために指導員への手当てを厚くすることで、徹底した監視の目を光らせていたのだ。
事件の翌年、岡山地裁は館長に、業務上横領などの罪で懲役1年、執行猶予3年。
厚生課の武藤にも同じ罪で、懲役1年、執行猶予2年の判決を下した。
また指導員の中にも罪に問われた者はいたが、殺人を犯した決定的な証拠がなかったために、下された判決はみな一様に軽かった。
しかし、命をかけて正義を貫いた記者たちがいたからこそ、模範施設の名の元で行われていた恐るべき犯罪は、白日のもとにさらされたのである。
大森らが書いた記事は、館長たちの悪行を暴くだけに留まらず、その後、国会でも取り上げられ、さらに大きな社会問題をあぶり出す、きっかけとなった。
議題となったのは、施設を運営する国や県からの補助金が、少なすぎるのではないかと言う点。
その額、一人につき一日わずか33円。
仮に、館長や厚生課の職員が着服をしなかったとしても…収容者の健康を保つことが困難な額だった。
それを知りながら、国や県は何ら対策を講じなかった。
その後、景気が徐々に上向きになったことも影響し…岡田更生館は『岡山県𠮷備寮』と名称を変更。
健全な更生施設として運営され、事件から6年後に役割を終えた。
遺体が焼かれたとされる山林には、のちに地元の有志によって慰霊碑が建てられた。
そして事件後も、新聞記者として第一線で活躍した大森。
彼の仕事ぶりに、大きく影響を受けた人物がいる。
元毎日新聞記者の鳥越俊太郎氏だ。
「僕は最初から新聞社受けるなら毎日(新聞社)と思っていた。それはなぜかというと、すべて大森実さんが企画して行った『泥と炎のインドシナ』という連載ものなんですよ。」
ベトナム戦争真っ只中の1965年。
日本の新聞記者はイギリスやアメリカなどの海外支局に留まり、現地の新聞が報じたニュースを集め、国内へと伝えていた。
しかし、大森は徹底的に現場にこだわった。
ともに岡田更生館に潜入した小西ら数名の記者を、ベトナムの農村地帯に派遣。
戦火の最中、虐げられる民衆の立場から、ありのままの戦争を報じた。
常に現場から事実を報じるその姿勢に、鳥越氏は強く感銘を受けたという。
そして大森自身も、西側のジャーナリストとしては初めて、米軍が空爆を行っている、北ベトナムの首都ハノイに潜入。
危険を顧みず、戦争の実態を伝えた。
鳥越俊太郎氏はこう話す。
「大森さんが実践をしていたことは、現場に行きなさい。そして現場で現場の人たちに話を聞いて、そしてそこで何が起きているかということをちゃんとレポートしなさい。真実というのは現場に宿るし、何かを発しているその人に宿るわけで、その人のことを誰かが言っている、第三者には宿らない、真実は。ベトナム戦争のことをロンドンやワシントンで論じても、それはロンドンやワシントンのベトナム戦争論であって、ベトナム戦争ではないですよ。」
ジャーナリズムに人生を捧げた大森は、今から10年前に他界、88歳だった。
生前、彼はこう言っていた。
『記者は消防士と同じ。火事になったら現場に飛び込まなければいけない』
▽あなたは見破れるか?まさかのトリックにスタジオ騒然!▽新薬開発の動物実験の為飼われていたチンパンジーと彼らを救った女性の種別を超えた20年越しの絆。
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