今年4月、所属していた大手芸能事務所を離れ、自らが代表取締役を務める新会社をスタートさせたタレントの紗栄子さん。
9月3日放送の「直撃!シンソウ坂上」(フジテレビ系)では、紗栄子さんが行う意外すぎるビジネスなどに密着した。
新会社を立ち上げて新たなスタートを
宮崎で生まれた紗栄子さんは、芸能事務所に自ら履歴書を送り、14歳のときに芸能界デビューを果たす。15歳のときには「週刊ヤングジャンプ」(集英社)の誌上オーディションでグランプリに輝いた。
そんな彼女を一躍有名にしたのがレギュラーに抜擢された人気バラエティー番組「学校へ行こう!」(TBS系)。2005年にはドラマ「ドラゴン桜」(日本テレビ系)や月9ドラマ「のだめカンタービレ」(フジテレビ系)に出演するなど女優としても活躍した。
2007年、20歳のときには有名アスリートと結婚、そして妊娠も発表し、世間を驚かせた。
2012年に5年の結婚生活にピリオドを打ち、シングルマザーとなった紗栄子さん。2017年には2人の息子がイギリスの全寮制の学校に入学したことを機に、ロンドンへ拠点を移した。
そして今年8月、「Think FUTURE」という会社を立ち上げ、社長に就任。タレントである自身をマネジメントする芸能事業のほか、会社名の直訳“未来を考える”という言葉の通り、未来を考えるためのビジネスに着手している。
那須で牧場運営に着手
7月下旬、紗栄子さんは栃木県・那須のとある牧場にいた。
麦わら帽子、長靴姿の紗栄子さんは、那須で牧場の運営を始めていたのだ。
「私はこの牧場の管理と馬の管理、飲食の経営を任されています」と話す紗栄子さん。知人を介して、広さ東京ドーム11個分の牧場運営をしていた。
ここで19頭の馬の管理のほか、牧草の販売から飲食事業まで幅広い事業を手掛けていくという。
目指すのは「観光牧場」ビジネス。乗馬体験やレストランでの食事を軸にした本格的な牧場運営に乗り出した。現在、月のほとんどを那須で過ごし、“紗栄子プラン”の実現に向けて環境整備を急ピッチで進めている。
「お馬さんの外乗の乗り場の新しいスポットはどこにしようか、そこに併設したカフェを作ろうと思っているけど、カフェのことを考えると目の前が堆肥小屋はダメ…」と、自ら足を運んで牧場の様子を見て回る。
これまでバッグのデザインや化粧品のプロデュースなど、ファッション業界で成功してきた紗栄子さんだが、この牧場ではどんなビジネスを展開していくのか。
「お馬さんの背中にお客さんを乗せて散歩するのが一つの収入に。あとは『預託』といって、自馬を持っている方のお馬さんを預かって月額の収入をもらったり、牧草の販売もしているので、この収入が今の収益」
紗栄子さんはファッション誌の表紙を飾る人気のモデルでもあり、力仕事とは無縁の存在に思えるが、今、農耕作業用自動車に夢中だという。
「刈払機に乗るためには刈払機免許が必要だったり、ものによって免許も違う。私はトラクターとフォークリフトは乗りたい」
そんな夢を抱く紗栄子さんだが、社長とは言え、牧場運営は全くの素人。だが、「赤字からのスタートだけどポテンシャルは高い場所だと思っているからやれることをやっていく」と前を向く。
さらに、紗栄子さんは以前から働いていた従業員も新会社の正社員として採用。行き場を失っていたかもしれない馬も従業員も紗栄子さんの方針で牧場に残ることになったという。
最年長の社員、牧草部部長の73歳男性は「最初の印象は若い娘さん。果たして馬の管理とかできるのか…と思ったけど、話しているうちにただの芸能人じゃない、経営者だなと感じた」と話す。
勤続2年3ヵ月の馬部部長の29歳男性は「馬たちがどうなるか分からないところが一番あった。まだここで働きたいと言っていた子も多くて、それができることをうれしく思います」、勤続7年目の馬部主任の女性は「芸能人の人はこんなにフレンドリーなの?という感じでした。天性の人の心をつかむのがうまい、人の懐に入るのがうまい」と紗栄子社長を絶賛した。
いてもたってもいられなくなった
こうして始まった「Think FUTURE」のファーム事業だが、牧場運営にかかる費用は紗栄子さんの想像以上だったという。
「現状がどうなっているのか分からないまま、収支の計算も何もせずに引き受けて。ただ、しっかり回り出せば回収できるというか、自走していける数字ではある。ただ、請け負ったときにできると思っていたことができなかったり。すごくキレイに見えるんですけど、よくよく見ると屋根が壊れていたり、どう修繕するかとか設備投資の面で大変でした。屋根1つ取っても1000万円、芝の管理で3500万円と、私個人の力でどうすることもできなかったので、クラウドファウンディングという形で支援を募る準備をしているところです」
芸能の仕事をセーブして新会社をスタートさせた紗栄子さん。なぜ、観光牧場ビジネスに乗り出したのか。
「牧場や馬が好きで、そんな中通っていた牧場の一つが那須の牧場。新型コロナウイルスのこともあって、もともと経営されていたところの母体が変わってしまうというお話を聞き、そうなると雇用の問題やお馬さんの行く末がどうなるか分からない、最悪は殺処分になってしまうという話を聞いていてもたってもいられなくなったのが事実です」
新会社がスタートした8月1日には、新事業の成功を祈願するために那須にあるお寺へ。
この日を迎えた気持ちを紗栄子さんは「遠隔では分からないこともあり、毎日見てみないと分からないので、最初は毎日、東京での仕事とバランスを取りながらやれることをやりたい」と笑顔を見せた。
10代の“副業”経験が土台に
牧場の運営という新しい事業を始める一方で、紗栄子さんの新会社にはもう1つの事業があった。
それはジュエリーの商品開発。
取材の日に訪れたのは東京にある宝石・貴金属製品の輸出入や製造を手掛ける会社。
今月、紗栄子さんは新たなショッピングサイトを立ち上げ、自身が開発した商品を販売するという事業を開始するという。
「リアル店舗がなくてもEC(ネット販売)で販売すれば全国に店舗があるようなもの。でもリアル店舗がないと試せないのでモノによっては売り方を考えます」と経営者の顔を見せる紗栄子さん。
さらに業界トップクラスの繊維商社でも打ち合わせ。オーガニックコットンを使った商品開発やブランド展開に関する企画会議に参加し、しっかりと自分の考えや意見を伝えていく。
タレントとしての顔とは全く違うビジネスパーソンの顔。こうした土台は10代のころに行っていた“副業”の経験が大きく影響していると紗栄子さんは番組MCの坂上忍に語った。
「14歳で芸能活動を始めて、最初に頂けるお金は少なくて、東京で一人で生きて行くのが大変で。最初はメイクさんもいないし、洋服も自分で準備して、同じ服は2回着るなと言われたけど『買えないな…』って。ただ、私も14歳のときに啖呵切って親が作ってくれた道を外れて、芸能の仕事を選んだということもあって、『帰りたい』とか『食べていけない』とか言えないと思って、できることを考えようと思った」
芸能人になるために親の反対を押し切り宮崎から上京。しかし、収入は少なくて食べていけない。そこで始めたのが“副業”だった。
自分がモデルの仕事で着ていた服が売れたと聞いた紗栄子さんは、ここにビジネスチャンスがあると感じたという。
「自分が着る衣装をパターンから製造まで全部やってくれる会社があるんですけど、そこに『こういう形で作りたいです』と打ち合わせをして、まるっと作ってもらって、家の電話番号を載せて通信販売したんです。それが私の最初のビジネスで17歳でした。これで稼げて、芸能活動を続けられたという感じです」
バッシングを受け悩んだ日々も
10代から始めていたビジネスの経験を生かし、社長として精力的に活動する紗栄子さん。離婚後には2人の息子を育てるシングルマザーとなったが、以来何かを発信するたびにバッシングを受けるようになった。
これまで自身のブログやSNSでさまざまな発信を行い、彼女のInstagramのフォロワーは150万人を超えている。
しかしその反面、ことあるごとに心ないバッシングを浴びた。中でも激しい非難の声が上がったのが2012年の離婚のとき。
離婚成立前には、紗栄子さんが「月1000万円の養育費を要求した」と一部の報道があり、激しい批判にさらされた。その後、元夫が「根も葉もない話」とこの報道を否定したが、紗栄子さんへのバッシングはおさまらなかった。
この騒動について紗栄子さんは「“慰謝料”とかそういうワードが先走って、生活はすごく大変でした。(子どもを)養っていかなきゃいけないし、守っていかなきゃいけないから、私自身が稼がなきゃいけないって。そのときにできることが、芸能の仕事にひも付いていたもので、それでしか自分の収入を生めなかった。でも、表に出れば出るほど、いわれのないことを言われたり…」と当時を振り返る。
「前の旦那さんからも、子どもたちに対するサポートの形はちゃんと頂いていて。ただ、私の個人的な意地というか、離婚を選んだのは自分で、子どもたちを精神的にも金銭的にもしっかり育て上げたいという気持ちで働いていました。(サポートには)手を付けずにしっかり育てたいという個人的な意地があった」
こう語る紗栄子さんの表情や視線に“強さ”を感じた坂上。「そういう“強さ”がないと、やっぱり生きていけないよね」とこぼした。
それからも紗栄子さんへのバッシングはエスカレートしていき、ブログに上げた何気ない朝食の写真などでも炎上するように。
普通の生活を送ることもままならなくなったといい、「外に出るのが怖かったですし、子どもも小さかったり、お腹にいたりして、親子でしか動けない時間はすごく怖かった。家族や信じてくれた人が傷つくのが一番ツラかった」と明かす。
紗栄子さん自身もこうしたバッシングに悩み、苦しんだときもあったと語る。それでも2人の子どもを育てながら芸能活動を続けてきたが、その後、大物実業家との交際、破局が報じられるとネット上のバッシングはさらにエスカレートする。
それから息子たちのイギリス留学を機に、家族3人でロンドンに移住。これについても容赦ない誹謗中傷を受けたという。
そして、紗栄子さんはロンドンへの移住を選んだ理由をこう明かした。
「当時は、自分たちで選択して(ロンドンへ)行ったと思われたかもしれないですけど、日本で子どもたちが個人としてやっていくのは難しくて。普通に生きているだけなのに、出れば出るほど外を歩きにくくなって。ちゃんと人としての生活が送れる場所という意味で流れるようにロンドンへ行った感じです。いつ、ひねくれてもおかしくないことがいっぱい起きて、東京で生きているときは普通に歩けることも少なくて。海外に行ってやっと本当に親子3人で手をつないで歩けるようになった。いろいろ言われる私のことで心を痛めている家族の姿を見るのが自分もツラかった」
那須へ移住…ファッション誌「卒業号」は牧場で
ロンドンへ移り住み、初めて落ち着いて家族と過ごす時間を得られたという紗栄子さん。そして、この夏にした大きな決断が那須への移住。
「大田原市民になりました」と笑顔を見せる紗栄子さん。坂上が「子どもも一緒に那須にいるの?」と聞くと、「厩舎の掃除をしています。新型コロナウイルスの影響で2月からは日本に戻ってきていて。オンラインで授業をしていますが、9ヵ月くらい日本にいます」と明かす。
12歳と10歳の息子2人は、今後ロンドンにある学校の寮に戻る予定だというが、那須に移住した母・紗栄子さんをどう思っているのだろうか。
「彼らはもう慣れているんでしょうね。場所が変わることや新たな出会いがあることに対して、すごくポジティブに捉えてくれていて、私の新しいチャレンジに対しては、『また何かやるんだね』くらいの感じで」
こうして移住した那須で、紗栄子さんはどうしてもやりたいことがあったという。それは、女性ファッション誌「sweet」の卒業号の撮影。紗栄子さんは表紙モデルを8年半で24回も務めてきた。
なぜ、最後の撮影を那須の牧場で行ったのか。その理由を紗栄子さんは「私の次のステージを誰よりも応援してくれるみんなに見て欲しかった。私の思いが詰まっている場所なので、応援してくれている人に感じてもらえるんじゃないかなと思った」と話す
長年、一緒に仕事をしてきた渡辺佳代子編集長は「長い付き合いだから次は『どんなの撮る?』という話もしますけど、2号続けて売れなかったら起用できなくなる」と厳しい言葉も。隣で紗栄子さんも「顔が可愛くなかったら使わないって(編集長は)よく言う」と笑い、売れた部数をよくチェックするという紗栄子さんは「数字がすごく好き。通知表も頑張った結果として出てくるので。自分が携わったものでどれだけ売れたとかデータや数字は安心する」と明かした。
支援活動を始めたきっかけ
こうして新たな人生の一歩を踏み出した紗栄子さんだが、仕事以外にずっと続けていることがある。それは10年前から行っている被災地などへの支援活動。
そのきっかけは、2010年に地元・宮崎県を襲った口蹄疫で多くの畜産農家が被害を受けたことに対し、「何かできることはないか」とブログで寄付を募り、自身も300万円を寄付したこと。
その後も2011年の東日本大震災では募金活動、2016年の熊本地震でも炊き出しを行うなど、この10年間被災地への支援活動を続けてきた。
今年7月には、新型コロナウイルスの流行を受け、マスクとTシャツをチャリティー販売。売り上げで医療用マスクや防護服を医療従事者に寄付し、その収支をインスタライブで報告した。
約1億3000万円を売り上げ、チャリティーにかかった必要経費を除いた売り上げの60%を医療現場に寄付したと報告。
こうした活動をするたびに「偽善者」「売名行為」と誹謗中傷も受けてきたが、めげずに支援活動に取り組んできた紗栄子さん。
今、SNSでの誹謗中傷が大きな社会問題になっているが、激しいバッシングにどう向き合ってきたのか。
「私もそうなる原因を自分で作っていたりもするんでしょうけど、アプローチの仕方が間違っていたとか思いながらいろいろ学ばせてもらって、発信ということに向き合ってきました。大事な人たちがいたから踏みとどまれたということが正直なところで、もし私が自分で自分の命を落すようなことを選択してしまったら、残された人の方がツラいと思ったので、踏みとどまれたというのはあると思います」
(「直撃!シンソウ坂上」毎週木曜 夜9:00~9:54)